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意志あるところに神様の道あり
ヨハネ5章 1~9 節
今朝の聖書の個所で、イエス様は、三十八年もの間病気だった人に声をかけておられますが、この時
のイエス様のことばは、すこし変わっていました。イエス様は病気の人に「よくなりたいか。」と聞かれ
たのです。病気の人でよくなりたくない人はないはずです。病気の人に「よくなりたいか。
」とわざわざ
聞くのは、とり方によっては人を馬鹿にしているように聞こえます。もちろん、イエス様はそんな気持
ちでこう言ったのではなく、そこには、きっと深い意味があったことでしょう。なぜイエス様は、この
人に「よくなりたいか」と言われたのか、そのことから考えてみたいと思います。
神様は、人間を、他の動物とは違って、知性や、感情、そして意志を持ったものにお造りになりまし
た。動物の場合は、ほとんどが本能に従って行動しますが、人間は、その知性によってものごとを判断
し、また、その意志の願うところによって行動します。神様は、人間を「神のかたち」に造って、人間
に選択の自由をお与えになりました。神様は造り主で、私たちは造られた者、神様は主権者で私たちは
神様に服従すべき者です。ですから、神様は無理やりにでも、私たちを服従させることがお出来になり
ます。しかし、神様は、決して、私たちを奴隷やロボットのようには扱われません。恐怖心や機械的に
従わせたり、
「神様を愛しています」と言わせるように仕向けることは神様の御心ではありません。神様
は、いつも、私たちの自由を最大限尊重され、多くのことを私たちの判断にお任せになられます。また、
神様は私たちに、祈ること、願うことを励ましていてくださり、私たちの願いや求めに従って働いてく
ださるのです。神様が私たちに何かをなさろうとする時、神様は、私たちの意志を必要としておられる
のです。
私たちは誰も「何かをしたい」と願って行動し、
「何かをしよう」と決心して実行します。私たちのす
ること、なすことの根本には「意志」があるのです。自分で意識していようがいまいが、私たちは意志
の力を働かせて生きています。すべての行動は意志から始まるのです。それで、イエス様は、この病気
の人に、
「よくなりたいか。
」と尋ねたのです。この人のうちに「よくなりたい。」という願いがなければ、
何も始まらないのです。同じ症状の病気を持った人でも「早くよくなりたい。」と強く願う人はどんどん
良くなり、
「この病気は直らないからしょうがない。」とあきらめてしまっていると、どんなに医者が手
を尽くしても、少しも良くならないということを聞いたことがあります。神様が私たちに与えてくださ
った意志の力というものは、私たちが思う以上に大きなものがあります。
「よくなりたいのか。
」とのことばに、この人は「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私
を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」と答えました。
このころ、ベテスダの池の水が動く時、真っ先に水の中に入った人は、その病気が直るという言い伝え
があって、大勢の病人がこの池のまわりにたむろしていました。しかし、からだの自由がきかない彼は、
いつも他の人に先を越されてしまいました。医者や薬でなおらないなら、奇跡の力でなおしてもらおう
としたのですが、彼には、彼と一緒に水が動くのを待ち、水が動いた時に彼を抱きかかえて水の中に入
れてくれる人がいなかったのです。彼は、人々の愛からも、奇跡からも見放されたように感じていたこ
とでしょう。なんとも残念な気持ち、また、あきらめの気持ちといったものが響いてくるような返事で
すね。またあきらめと同時に人の世の冷たさ、利己的な思いに強い怒りさえ持っていたことでしょう。
三十八年という長い年月が、この病人から、
「よくなりたい」という積極的な思いや祈り、また希望を
取り去ってしまったとしても不思議ではありません。悪い環境でも、病気でも、長年、その中にいて、
それと仲良くなってしまうと、それはそれで、結構居心地のよいものになってしまうのかもしれません。
心身医療の世界では「病床利得」と言って、病気である方がメリットが大きいので意識的にあるいは無
意識にその状態に居続けるということがあるということです。
「神様よ、変えられるものを変える勇気を、変えられないものを受け入れる平安を、そして、変えら
れるものと、変えられないものとを区別する知恵を、私にお与えください。
」という神学者ラインホール
ドニーバーの祈りがあります。とても素晴らしい祈りですが、
「変えることのできないものを受け入れる」
というのは、決して、最初から物事をあきらめて、何の努力もしないということではありません。変え
られないもの、変えてはいけないものを受け入れるためには、まず変えることのできるもの、変えなけ
ればならないものを変えることにチャレンジしなくてはならないのです。たいていの場合、自分の意見
や態度は変えようとしないで、他の人の意見や態度を変えようとするので、人間関係の問題が起こるの
です。他の人を、あるがままで受け入れ、その人がその人であることを尊重できたら、人間関係はどん
なに良くなることでしょうか。しかし、他の人を受け入れることができるためには、自分を変えていく
必要があります。自分は一向に変わろうとしない。周りが変わることだけを求めるというのは丁度、自
分の中には何も問題が無くて、問題の所在は他人や外にあると言い続けているようなものです。この 38
年間病の中にいた人もそんな状態だったかもしれません。私たちは自分を養い、成長させることによっ
て、かつては受け入れることができなかった人をも受け入れることができるようになるのです。ニーバ
ーが祈った「平安」は、このように変えることのできるものを変えた後に、変えることのできないもの
を受け入れることのできる平安であり、けっしてあきらめではありません。
あきらめは人生の敵であり、信仰の敵です。祈っても、神様がお与えにならないからと言って、あき
らめてはなりません。何か困難があって、一度、二度祈っても、状況が変わらないからといって、すぐ
に「これは神様のみこころで、それを黙って受け入れなければならない。
」と考えてしまうのは、すこし
早すぎるように思います。神様は、病気や苦しみ、困難や課題の中から、
「主よ、いやしてください。
」
「主
よ、救ってください。
」
「主よ、助けてください。」
「主よ、答えてください。
」と、ねばり強く祈り続ける
ことを喜んでくださるのです。旧約の歴代誌に出てくるヤベツは逆境の中に生まれましたが、それに甘
んじることなく、苦しみの中から神様に祈りました。ヤベツという名前そのものが「悲しみ」という、
最悪な境遇の中を通らされながら「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が
私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。」(歴代
誌第一 4:10)と祈ったのです。そして続けて聖書は「そこで神様は彼の願ったことをかなえられた。
」と
言っています。神様のお与えになった病気や苦しみ、困難や課題に屈服してしまうのでなく、それに逆
らい、それと戦うことが、神様の求められる信仰だと、ヤベツの祈りは教えています。
よくキリスト者が「みこころのままに」と祈り、口にします。
「みこころのままに」という祈りは、私
たちが簡単にあきらめたり、意志を放棄することではなく、私たちの意志と神様の意志とがひとつとな
るために苦闘することです。フォーサイスという人は『祈りの精神様』という本の中で、
「祈りは神様と
の格闘である。それは神様の愛される反抗である。
」と言っています。最終的には、病気や苦しみ、困難
を、自分に与えられたものとして受け入れなければならないことがあったとしても、あきらめずに祈り
続けた後に、それらを受け入れる時はじめて、私たちは自分に与えられた病気や苦しみ、困難の意味を
深く知り、それが人生の宝となるのを見るのです。フォーサイスは「神様の平安は終わりに臨むのであ
って、はじめに臨むのではない。
」と言っていますが、私たちは、それぞれの課題に取り組んだ後に与え
られるほんとうの平安に生きたいものです。
「私のこの問題は、何年も引きずっています。もう、どうにもなりません。」「クリスチャンになって
何十年と経つのに、いまだに私の信仰はちっとも成長しません。
」などなど、誰にでも、長い年月にわた
って未解決のままの問題や課題があるものです。未解決の問題を長年そのままにしておきますと、いつ
しかそれに「慣れて」しまい、問題を問題として感じなくなってしまうこともあるのです。イエス様が、
ベテスダの病人に「よくなりたいか。」と語りかけられたのは、彼を失望から、あきらめから救い出し、
彼に「よくなりたい。
」という思いを与えるためでした。イエス様は、同じように、私たちにも「よくな
りたいか。
」と語りかけておられます。とっくの昔にあきらめてしまっていたこと、投げ出してしまって
いたこと、あるいは、心の奥深くにしまってあったものを、もう一度イエス様の前に引き出してみまし
ょう。イエス様が「よくなりたいのか。
」と言われる時、それには「わたしはおまえによくなって欲しい
のだ。」というイエス様の願いが込められているのです。イエス様が私たちに「よくなりたいか。」と語
られる時、
「よくなりたいのです。
」とお答えしようではありませんか。問題の解決は「よくなりたい。」
という願い、私たちの意志から始まるのです。
イエス様の「よくなりたいか。
」という言葉は、ベテスダの池の病人の心に、かすかではあっても、
「よ
くなりたい。」という思いを掘り起こしたようです。そこでイエス様は、彼に、「起きて、床を取り上げ
て歩きなさい。
」と命じました。
「起きて、床を取り上げて歩きなさい。
」ということばも、まったく乱暴
なことばですね。三十八年間、歩くことはもちろん、立ち上がることもできなかった人に、
「起きて、床
を取り上げて歩きなさい。
」と言うのですから。普通はそんなことは言いません。しかし、イエス様は、
こう命じると同時に、この人の病気を直し、この人に立ち上がる力をお与えになっていたのです。
イエス様のことばには力があって、語られたとおりのことが実現するのです。イザヤ 55:10-11 に「雨
や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種
を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、
わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功さ
せる。
」とある通りです。主が、私たちに何かをしなさいと命じられる時、主は、私たちにそれをする力
をかならず与えてくださいます。主は、私たちのすべてをご存知のお方で、私たちに出来ないことを命
じることは決してありません。ペテロ第一 4:10 に「それぞれが賜物を受けているのですから、神様のさ
まざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。
」とありますが、聖書は
「どの人にも賜物が与えられている。
」という事実にもとづいて、
「賜物を用いなさい。
」という命令を与
えています。自分では出来ないと思っていても、実は、神様は必要な賜物をちゃんと与えていてくださ
るのです。そして、この神様からの賜物は、何をしないでいては、発見することはできません。主がせ
よと言われることを実行していく時だけ、その賜物を発見することができます。私たちが主のおことば
に忠実であればあるだけ、より大きな賜物を発見することができ、また与えられた賜物を成長させるこ
とができるのです。
ある人は、意志の力さえあれば何でもできると言います。強く願えばそのことが実現すると言います
が、人間の意志の力は全能ではありません。ものごとを実現させるのは、人間の意志の力ではなく、神
様の意志、みこころであり、神様の力です。私たちの意志が、神様のみこころを選び、神様の力に頼る
時、ものごとが実現するのです。信仰は、意志を捨てることではなく、神様のみこころを追求して、神
様のみこころに自分の意志をあわせていくことです。意志を働かせるとは、神様のみこころを頭で理解
する、感情で受け入れるということにとどまらず、神様のみこころにからだで従っていくことです。自
分には苦手に思えることでも、無理だと思うことでも、主が助けてくださると信じてやってみることで
す。それがほんとうの意味で意志を働かせること、信仰を働かせるということです。そして、そうする
時、私たちは、今まで出来なかったことができたという喜びで満たされるのです。三十八年間病気だっ
た人は「よくなりたいか。
」ということばに心で応答しただけでなく、
「起きて、歩け。
」ということばに
からだで応答しました。そして、彼は、イエス様のいやしの力が自分のうちに働いていたことを見出し
ました。私たちも、あきらめや疑い、躓きやためらいを取り除いて、神様のみこころに、はっきりした
意志をもって従っていきましょう。そして、神様の大きな力が働くのを体験させていただきましょう。