福音のヒント 年間第 32 主日 (2015/11/8 マルコ 12 章 38-44 節) 教会暦と聖書の流れ マルコ福音書では 11 章のはじめでイエスはエルサレムの町に入り、神殿の境内でさまざ まな人と出会いました。商売をしている人、祭司長・民の長老・律法学者、ファリサイ派 やヘロデ派、サドカイ派という人々です。彼らは当時の社会の中で富や権威を持っている 人々でしたが、彼らとイエスとの対立は深まるばかりでした。唯一イエスが評価したのが、 最後に出会った一人の貧しい「やもめ」の姿です。イエスはこの後、13 章で神殿を出て行 き、その東にあるオリーブ山から神殿を眺めながら、弟子たちに向けて神殿の崩壊を予告 し、「決して滅びない」(13 章 31 節)ものへの信頼を説いていくことになります。 福音のヒント (1) イエスの時代のエルサレムの神 殿には多くの富が集まっていました。そこ には祭司やサドカイ派など神殿と結びつい た裕福な人々がいました。サドカイ派の中 にも律法学者はいましたが、律法学者の多 くはファリサイ派に属していました(マル コ2章16節参照)。ファリサイ派は律法とそ れを何世代もの学者が細かく解釈していっ た「口伝(くでん)律法」を大切にし、厳密に 守ろうとした派です。中でも律法に精通し ていた律法学者は、律法によって民衆を指導していたので、人々の尊敬を集めていました。 (2) イエスの律法学者やファリサイ派の人々に対する数々の批判は、マタイ23章1-36 節やルカ11章39-52節にも伝えられています。マルコのこの箇所で、イエスは何を批判し ているのでしょうか。それは結局のところ、彼らの行動のすべてが「人に見せるため」(マ タイ23章5節参照)だということでしょう。彼らは祈りまでも人に見せびらかし、自分が人 より優位に立つための手段にしてしまっているというのです。 福音書の中でこのような律法学者への批判が語られるとき、それは教会の指導者への警 告でもあります。いや、特別な指導者だけでなく、この律法学者の姿は、わたしたち皆の 生き方への警告だとも言えるでしょう。自分は人からどう評価されているか、少しでも人 から評価されるためにはどうしたらいいか? わたしたちもそのような思いから完全に自 由だとは言えないでしょう。しかし、そこにとどまっている限り本当の意味での神とのつ ながり、人とのつながりを生きることにはならないのです。 この批判の中には「やもめの家を食い物にする」(40節)という言葉が出てきます。これ は41節以下のやもめの話との関連でマルコが別の伝承から挿入した言葉でしょうか。やも めにとって夫の遺産の相続問題は死活問題だったでしょう。このような遺産相続などのも めごとの裁定も律法学者の役割でした。やもめの弱い立場に付け込んで当時の律法学者た ちは自分の利益を上げていたということなのでしょう。 (3) この律法学者と正反対の立場にいたのが「やもめ=寡婦(かふ)」でした。聖書の中 で、寡婦は、寄留の他国人や孤児(=みなしご)と並んで、いつも社会的弱者の代表です。 「寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者 であったからである。寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。もし、あなたが彼を苦し め、彼がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く」(出エジプト記22 章20-22節参照)。 寄留者とは、周囲に自分を守ってくれる同胞のいない人々です。孤児は自分を守ってく れる親がいない子どもであり、寡婦は古代の男性中心の社会の中で自分を守ってくれる夫 を失った人でした。彼らの後ろ盾は神しかいないのです。そしてだからこそ、この人々を 大切にすることを律法は要求していたのです。 (4) 当時の神殿の境内には、神殿の建物から一番遠いところに「女性の庭」と呼ばれ る部分があって、女性はそれより奥には入れませんでした。この女性の庭にあった賽銭箱(さ いせんばこ)は、13個のラッパ型をした雄牛の角(つの)が並んでいたものだったそうです。今回 のイラストはその想像図ですが、正確な形はよく分かりません。レプトン銅貨はユダヤの 最も小額の貨幣で、その価値は1デナリオンの128分の1でした。1デナリオンは1日の日当 と言われていて、その128分の1ですから、今でいえば、せいぜい50円玉1枚ぐらいの価値 でしょうか。なお、クァドランスはローマの青銅貨で、1デナリオンの64分の1(1レプトン の倍)にあたります。イエスが賽銭を入れる様子を見ていたというのは、不思議な感じがし ますし、なぜ、このやもめの献金が彼女の生活費の全部だと分かったかというのも不思議 です。しかし、もちろん、この箇所ではそういうことは問題ではなく、神の前での人間の 真実のあり方が問われているのです。 (5) 彼女が賽銭箱に入れたものは「生活費のすべて」(44節)と言われていますが、「生 活費」と訳されたギリシア語の「ビオスbios」には「人生」「生活」の意味もあります。 「生活のすべてを神に差し出した」と受け取ることもできるでしょう。 全財産を差し出してしまえば、残るものは何もありません。このやもめの献金はやはり 無謀でしょうか? この日のミサの第一朗読で読まれる列王記上17章の物語も似ています。 干ばつの中で預言者エリヤからパン一切れを差し出すように求められたサレプタのやもめ は、最後の一握りの小麦粉でパンを作り、それを差し出します。すると「主が地の面(おもて) に雨を降らせる日まで/壺(つぼ)の粉は尽きることなく/瓶(かめ)の油はなくならない」(列王 記上17章14節)という神の言葉が実現した、というのです。すべてを差し出したところに神 の救いの力が働くという体験がわたしたちの中にもあるでしょうか。いや、そもそもイエ スの受難・死・復活の道こそが、まさにそういう道だったとも言えます。 神殿で出会った商人や金持ち、社会的・宗教的指導者たちの姿にイエスは心を動かされ ませんでした。彼らの生き方とイエスの生き方はあまりにもかけ離れていました。イエス が最後に出会ったのがこの貧しい女性です。そしてイエスはこの人の姿以外に、神殿に真 実なものは何もなかった、と言うかのように、神殿を後にしていきます(マルコ13章1節)。
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