奉献生活の恵みを祈る

奉献生活の恵みを祈る
第677号(4月号)
カトリック那覇教区報 MINAMINO KOMYO
(1)2015年4月1日(毎月1日発行)
アレルヤ!主のご復活祭のお慶びを申し上げます。
復活の主がわたしたちの歩む道を
照らし、導き、喜びと平和で満たしてくださるように、
復活の秘儀・ミサ聖祭をささげて
お祈り申し上げます。
那覇教区長 ベラルド 押川 壽夫 司教
るし。
◇復活の主と共に
イ
「 エスはもはや過去
福 音 書 は 、 イ エ ス に 出 会 っ た 十字架は
人 々 が 喜 ん で 主 に 従 う 姿 を 描 い に属するかたではなく、今、生き
て い ま す 。 み こ と ば に 素 直 に 耳 ており、未来をも照らします。イ
を 傾 け た 人 々 は 神 を 讃 え て 集 ま エスは神の永遠の『今日』です 」
(教皇フランシスコ)
り、これが教会として今に生き
て い ま す 。 復 活 の 秘 儀 は 、 わ た ◇あらたな歩み
したちの信仰の核心です。復活 今年は終戦から数えて七十周
の主は信じる者に苦しみを越え 年。戦後七十年にあたり日本カ
て、心に深い喜びと希望を呼び トリック司教団は臨時司教会議
に お い て メ ッ セ ー ジ「 平 和 を 実 現
覚ませます。
する人は幸い~今こそ武力によ
弱さや人間関係のもろさから
来 る さ ま ざ ま な 重 荷 を 背 負 っ て らない平和を」を発表しました。
いるわたしたちは、主の招きを わたしたちも昨年暮れより那
受けています。日々おのが十字 覇教区平和委員会の設立ととも
架を背負ってわたしに従いなさ に平和学習と行動をあらたに展
い、重荷を負っているもの、休 開しています。地上戦により焦
ませてあげようと、主は招いて 土と化した沖縄は平和発信基地
として世界に平和を訴え続けて
います。
います。それにもかかわらず、
信仰生活に喜びが見いだせな
い 時 、 し ば ら く イ エ ス の も と に 県民の民意がまったく無視され、
近づき、イエスの姿を仰ぎ見て 構造的差別で踏みにじられて基
イエスが共にいるのを感じるま 地を押しつけられているばかり
でゆっくり止まり、また、イエ か、南国の自然を破壊して今な
お新たに基地建設が進められて
スと共に歩みましょう。
います。今回の司教団メッセー
わたしたちは誇りをもって聖
堂 に 十 字 架 を 掲 げ ま す 。 十 字 架 ジを各教会でも勉強会で活用し、
は 信 仰 の 深め、平和のために働く決意を
証 し 。 十 あらたにいたしましょう。
字 架 は 復 また、今年秋に開かれるシノ
活 の い の ド ス( 世 界 代 表 司 教 会 議 ) の テ ー
ち を 告 マは家庭に焦点が当てられて、
げ 、 苦 し 「教会と現代世界における家庭の
み と 死 に 召命と使命」です。現代社会は
勝 利 し た 国と人種、宗教、結婚観など家
希 望 の し 庭をとりまく複雑な問題をかか
キリストの復活 エル・グレコ作
え て い ま す 。 神 の 民 、「 家 庭 と し
ての教区」も同じです。
教会は神の民として、司教、
司祭、助祭、修道者、信徒も同
じ洗礼によるキリスト信者で、
父なる神をいただいた家族です。
今年はまた、教皇によって教
会 全 体 に「 奉 献 生 活 特 別 年 」 と し
て宣言され、特に私たち神の民
の中での修道者に光が当てられ
ています。今年の教区目標も教
皇 の 意 向 に あ わ せ て 、「 奉 献 生 活
の恵みを祈ろう」を掲げて特別
に祈っています。
◇さあ、はじめよう!
神 の 民・ 教 会 は 、 信 仰 の 喜 び が
生きる励ましになっているかと、
いつも問われています。教会は
信仰に根ざした心の平和と喜び
を育む共同体になっているかと、
いずれも私たち一人ひとりに問
われているのです。
貧しい人々とともに貧しい教
会の姿を示している教皇フラン
シスコは、イエスに心を開き、
他者へも心を開く生き方が神の
民のしるしであり、教会の存在
のしるしだと述べています。 他
「
の人への奉仕に徹底して心を開
くことが、私たちの存在のしる
しです。このことだけが、私た
ち が 誇 れ る 称 号 な の で す (」教 皇
フランシスコ)。
四 月・ 新 年 度 の 始 め に あ た り 、
復活の主とともに、また、始め
ましょう。
第 677 号 2015 年 4 月 1 日
南 の 光 明
(2)
第 677 号
南 の 光 明
(3) 2015 年 4 月 1 日 人生の中で私たちは常に習慣
や文化から来るシンボルやルー
ルなどを使って人々と接してい
ま す 。人 間 の 歴 史 を 見 て み る と 、
すべての民族はそれぞれ、自分
たち独自の習慣を持って生きて
います。けれども、世界の民族
には、似たような文化がありま
す。
カトリック信者として私たち
は聖書を通して、イエス様が人
間の中で生まれて生活したこと
をよく知っています。旧約の歴
史でも神様がユダヤ民族を選ん
で人間と約束を交わしていまし
た。ですから、神様の言葉(聖
書)は、私たちの文化に色々な
価値をもたらします。その一つ
は父の愛、すなわち、日本的に
親 父 : 聖 書 か ら
み た 父 親 像
首里教会主任司祭
親しみを込めて呼ぶ
な ら、 親 父 の 愛 と い
うことです。
私は沖縄に来てか
ら親父という言葉の
意味を注意して勉強
し ま し た。 日 本 人 は
人生の中でとても恐
れるものが四つある
で し ょ う。 そ れ は 地
震、 雷、 火 事、 親 父
で す。 三 つ は 天 災 の
こ と で、 そ れ ら を 恐
れることはよく理解
できますが、どうして父親を恐
れるのか、理解できませんでし
た。たぶん父親が厳しいからそ
う言われるのだと思います。
けれども、なぜ、また何のた
めに父親は厳しく子供たちに接
するのでしょうか。この質問の
答えも父親の目的も私たちはよ
く分かります。子供が人間とし
て立派に育つよう父親は厳しく
しつけているのだと思います。
私は正しい親父が誰でも家族
のため、また子供のためにたく
さんの犠牲を払って、生活の中
でいっしょうけんめいに働いて
ヨアキム・ホアイ神父
おられると確信しています。
旧約聖書では、神様のイメー
ジが厳しくて人々から離れる神
でした。例えば、誰も神様を見
たことがありませんでした。神
様がモーセに現れた時、直接に
会ったわけではなく、柴の中の
火の中で出会いました。神様は
ユダヤ人の旅路に色々な苦難を
送りました。エジプトの国で奴
隷として働かされ、その後荒れ
野で四十年間放浪の旅をし、ユ
ダヤ人は病気や飢餓や敵などに
会いました 出
( エジプト記
- 。) 時 々 、 神 様 は 厳 し く
子供たちを罰するお父さんでし
たが、選ばれた民は苦難と敵に
あった時、いつも神様が父親の
愛を持って自分達を守っている
ことも知っていました。神様は
よく預言者たちを送って選ばれ
た民を導きました。最後に、神
様は人間を罪から救うために自
分の独り子を贈物として与えた
のです。
私は新約聖書の放蕩息子のた
と え( ル カ ・
- )を通し
てイエス様が神様の愛を私たち
に教えたと信じています。イエ
ス様は私たちに神様が慈しみと
救いの神であるということを思
い出させます。お父さんのよう
に、神様はいつも私たちの罪を
許し、悪い行いを直します。
放蕩息子は遠い国でお金全部
を 無 駄 遣 い し ま し た。 あ と で、
彼は家に帰りました。お父さん
はその息子の罪を許し、息子を
3
11
15
11
32
守って育ててくれました。お父
さ ん は 弟 を 育 て た だ け で な く、
二人の息子に同じ愛を与えまし
た 。 更 に 、こ の た と え を 通 し て 、
イエス様は私たちに、互いに愛
し合いなさいと教えていると思
います。これはイエス様の一つ
の掟です。息子たちは互いに全
然話をしませんでした。お兄さ
んは弟と一度も話しませんでし
た。弟もお兄さんと全然話しま
せんでした。ですから、二人が
互いに愛することはありません
でした。それでは、どうやって
私たちはこのイエス様の掟を実
現しますか。日々の生活の中で
人々に出会う時神様の愛を分か
ち合うことができますか。
これについて、私は沖縄のあ
る一つの言葉が、とてもきれい
で素晴らしい意味を持っている
と思います。それは「イチャリ
バ チョーデー」という言葉で
す。日本語に訳すると「互いに
出会い、互いに分ち合う時、私
たちは兄弟姉妹になっている」
という意味です。本当に人生の
中で出会うことと分ち合うこと
は と て も 大 切 で す。 家 族 で も、
教会共同体でも分ち合うことが
なければ、私たちは何にもでき
ません。私たちがイエス様の掟
を守らないならば、その時お父
さ ん は 厳 し い 人 で あ り ま す し、
恐い父であるに違いありませ
ん。神である父がいつも私たち
を愛と一致と喜びのうちに守っ
て下さいますように。
2015年度那覇教区司祭の人事( )内は前任地など
主任司祭
◇コザ教会主任司祭:谷大二司教(前さいたま教区司教)
=さいたま教区。(*)
3月29日
(日)
に着任。
◇読谷教会主任司祭 : フィリピン宣教会の人事の関係上来る7月まで暫定式にMSP会員の共同責任のもとに置く。
◇石垣教会主任司祭 : フィリピン宣教会の人事異動にともない、来る7月以降に新人事をおこなう予定。
日本語修学司祭
◇Fr. Jose Sonny Cantillano (ホセ神父)新任(3月下旬着任予定)真栄原教会協力司祭(司教館居住)
教区外転出司祭
◇Fr. Jamilcar Cruz (Rommel・ロメル神父) MSP.:宣教会本部へ転勤・帰国
◇Fr. Luis Santos(Mariel・マリエル神父) OFMConv.(コザ教会主任司祭)フィリピン管区本部へ転勤・帰国
南 の 光 明
第 677 号 2015 年 4 月 1 日
(4)
アド リミナ(Ad Limina)
アド リミナとは、5年おきに各国の司教団がローマを訪問、ロー
マ教皇に謁見し、各国・各教区の状況を報告するもの。去る3月19
日~27日まで、日本の16教区の司教がローマを訪問した。教皇様に
謁見すると共に、司教たちは関係する教皇庁各省庁も訪問された。聖
パウロ大聖堂でのミサや聖パウロの殉教地・トレヴォンタネ(3つ泉:
聖パウロが首をはねられて、3度飛び跳ねた場所から泉が湧き出た)
巡礼所なども訪問された。また、ローマにいる間に誕生日(3月25日)
を迎えた押川司教のためにささやかなパーティーも開かれた。
教皇様と握手する押川司教
カトリック石垣教会創立 60 周年 カトリック海星小学校創立 50 周年記念特集
現代に生きる殉教者石垣永将兄弟の恵み
④
殉教者石垣永将研究会 玉 城 功 一
(4) トマス西神父の来島で、三男宮良頭永弘が
渡名喜島へ流刑・焚刑、永将一族流罪
永将の弟、六男の宮良与人永定も新川の海岸で焚刑
にされ、この事件はこの第三段階で終結しました。そ
1626 年1月にマニラで司祭に叙階された前述のト の焚刑の場所に建てられた 「 本宮良御嶽 ( オンナー )」
マス西六左衛門神父(トマス・デ・サン・ハシント西)(石垣中学校東道路下へ二号線角)には、そこで焚刑
が、1629 年4月末、日本本土へ密航の途次、5年前 にされた二人の 「 霊石 」( 大は永将、小は永定 ) があ
に石垣島に行ったはずの恩師ルエダ神父の消息を追跡 ります。
調査するために石垣島に渡り、永将の後を継いで宮良 「 八重山キリシタン事件 」 は、父嘉善姓4世石垣頭
頭職にあった永将の弟三男永弘に会い、兄永将の殉教 永正の側室から生まれた次男本宮良頭永将、三男宮良
やルエダ神父が粟国島への流刑・殉教などを伝えたこ 頭 永 弘、 六 男 宮 良 与 人 永 定 の 男 子 兄 弟 が 1624 ~
とで、永弘がキリシタンの嫌疑をかけられ、1631 年 1638 年の 15 年間にわたるキリシタン弾圧で永将の
頃永弘は渡名喜島に流罪になり、嘉善姓一門のうち永 兄弟三人が焚刑にされ、殉教するという想像を絶する
将系のー族はことごとく波照間、与那国、宮古島に流 悲惨な事件であるが、これは単なるキリシタン弾圧と
罪にされています。1633 年には永将一族の家屋敷・ いう面からだけでなく、江戸幕府が最南端の八重山ま
家財が全て没収され、大川村にあった王府の政庁 「 蔵 で幕藩体制・鎖国体制を完結させるという日本史の激
元 」(1543 年に竹富島から大川に移転 ) が、永将屋敷 動期の流れのなかで起きた日本歴史上の重大事件が八
に移転しています。永弘は 1635 年頃渡名喜島で焚刑 重山でもありました。
にされ、永弘後任の宮良頭には三陽姓長光が就任して (6) キリシタン事件の波紋と事件後の八重山の動き
います。トマス西神父が石垣島から 1629 年5月 29 永将の弟三男永弘が渡名喜島に流罪にされ、永将の
日付の手紙や 1630 年1月3日付の長崎からマニラの 一族が流罪にされた翌年、1632( 寛永 9) 年に八重山
上長宛の手紙がこの事件の第二段階の永弘の殉教をめ に王府の常駐在番制が設置され、外国船の来航やキリ
ぐる国内史料の不整合や不明を明かす貴重な史料に シタンヘの監視・取り締まりがますます厳しくなって
います。1636 年には薩摩藩の命令で琉球にもキリス
なっています。
(5) キリシタン宗門改めで六男永定がキリシタンと ト教宗門改めが開始、1637 年に宮古・八重山に人頭
税実施、1638 年には宗門改めで永将の弟六男永定の
判明
本宮良御嶽 ( オンナー ) で焚刑『薩藩旧記雑録』( 後 殉教、1641 年に八重山に大和在番 ( ~ 1648 年まで )
編巻 94) に、寛永十五 (1638) 年四月十五日付で金武 が設置、1644 年には王府は、沖縄本島や離島各地の
按司・三司官宛の薩摩の覚えがあり、それによると宗 海上交通の要所に火番盛 ( 遠見番所 ) を設置し、近海
門改め ( 踏み絵 ) の結果、琉球にはキリシタンは 「 一 を通過する船舶を烽火をあげて王府に通報する日岡烽
人 」 を除いて誰もいなかった。その 「 本ミやらの与人 火の制度が実施され、特に異国船に対する厳しい監視
」 を早々火炎りにすることとあり、また『八重山島年 体制がとられました。波照間島のコート盛 ( 祖平盛=
来記』に 「 弟宮良与人 」 も死罪にされたとあり、その シィビィラムリィ )、新城島のタカニク、黒島のプズ
「 一人 」 は永将の弟六男の宮良与人 (「 崎原与人 」 の記 マリ、竹富島の小城盛(クスクムリィ)などが現存す
録もある ) 永定と言われています。
る火番盛です。
は、一七八八名の乗船者(小三
戦後七十年の節目の今年、二
月二十五日、那覇教区平和委員 か ら 中 二 ま で の 学 童 八 四 三 名、
会主催の学習会が那覇市波之上 引 率 と 一 般、 赤 ち ゃ ん を 含 む
にある対馬丸記念館で行われま 八二七名)を乗せて、他の学童
した。対馬丸で兄弟二人を失っ 疎開船二隻と合わせて三隻が那
た記念館理事の外間女史が語り 覇港を出港しました。
部を務めて下さり、司教、司祭、
ところで、実は対馬丸が七千
トンの軍
用貨物船
だったと
聞いて私
たちは驚
き ま し
た。 生 存
者が船内
を詳しく
描いた絵
は、 天 井
の低い横
板の荷棚
が数段横
長 に 並
び、 そ の
上に乗船
者が荷物
と一緒に
大勢詰め
込まれて
座ってい
ました。
当時の
救命用具が実物大で展示されて
おり、赤ちゃんから大人まで同
じサイズしかなかったと聞いて
また驚きました。
そして出港から一夜明けた八
月二十二日の夜十時過ぎ、対馬
丸は米潜水艦の魚雷に撃沈させ
那覇教区 平和委員会
昭和十九年の学童たち
開南教会 瑞慶村美登里
助祭、修道者信徒らが約五十人
参加しました。
昭和十九年にサイパンが玉砕
し、 戦 局 は ま す ま す 悪 化 し て、
老、幼、婦女子に県外疎開の指
示 が 出 さ れ ま し た。 同 年 八 月
二十一日に学童疎開船対馬丸
られました。真っ暗で、はてな
い夜中の海に放り出された犠牲
者 は 一 四 八 二 名 に 達 し、 学 童
七八〇名、引率と一般六五五名
でした。この事件が発生した直
後に「決して話してはいけない」
と厳重な緘口令が敷かれ、今で
も対馬丸に関する確かなデータ
は残念ながらありません。犠牲
者数の多さに比べ残された遺品
や遺影はとても少なく、荒波に
漂ったランドセルや赤い筆箱や
洋服の遺品が無言ですべてを物
語るように展示されています。
館内には「みんなおかえりな
さい」と昭和十九年当時の教室
の模型や犠牲者の故郷の景色を
背景に名前と決して忘れてはな
らない大切な年齢が刻字されて
います。同じく悪石島の島影を
背景に、そこに流れ着いた生存
者 の 苦 悩 も つ づ ら れ て い ま す。
実物大黒板には大きく美しい文
字 で「 標 準 語 励 行・ 一 億 一 心・
ことばも一つ。正しい日本語を
使いませう」と書かれていまし
た。
終戦から時を経て沖縄県内に
は、各県の遺族会によって多く
の 慰 霊 碑 が 建 立 さ れ ま し た が、
地上、海上にわたって最も多く
の民間人が戦争に巻き込まれて
破 壊 し つ く さ れ た 沖 縄 に ま だ、
対馬丸犠牲者の慰霊碑はありま
せんでした。それを知った愛知
県の「すずしろ子ども会」の河
合会長が一円募金を始め、愛知
県民の大きな協力によって昭和
二十九年子供の日に対馬丸犠牲
者の慰霊碑「小桜の塔」が波の
上の高台に建立されました。そ
れから五十年後に遺族の長年の
悲願であった対馬丸記念館が
二〇〇四年八月二十二日に建立
されました。
こうして今私たちはこの記念
館に身を置いて語り部や共に集
まった信者たちの貴重な体験談
を聞いて改めて、多くのことに
気づかされました。学童の集団
疎 開 者 も 高 齢 と な り ま し た が、
疎開当時のことは決して忘れる
ことなく「ヤーサン、ヒーサン、
シカラーサン(ひもじい、さむ
い さ び し い )」 と い う 表 現 は 育
ちざかりの子ども時代に戻った
かのように活々していました。
ところで、戦争を知らない私
たち世代が「対馬丸」のことを
知ること、それはどんな意味が
あるのでしょうか。私は館内で
もらったパンフレットの見開き
の美しい散文のことばに感動
し、 最 近 亡 く な ら れ た フ リ ー
ジャーナリストの後藤健二さん
の残したツイッターのことばを
思い出しました。ここに二つの
文を紹介させていただきます。
今、「 対 馬 丸 」 を 語 る こ と、
そ れ は 何 で し ょ う。 戦 争 の こ
と? それとも平和? 今、も
世界では報復の連鎖が子どもた
ちから新たな夢と希望を奪って
います。この報復の連鎖を断ち
切る努力を一人一人がするこ
と。これこそが、対馬丸の子ど
■ 日 時 4 月 19 日 午後2時
■ 場 所 安 里 教 会
ドキュメンタリーフィルム鑑賞・話し合い
フィルムのタイトル「検証・沖縄戦への道」
連絡先・谷 大二司教 ☎ 090-3339-6474
もたちから指示された私たちへ
の「課題」ではないでしょうか(財
団 法 人・ 対 馬 丸 記 念 会 の 言 葉 よ
り)。
目を閉じて、じっと我慢。怒っ
た ら、 怒 鳴 っ た ら、 終 わ り。 そ
れ は 祈 り に 近 い。 憎 む は 人 の 業
に あ ら ず、 裁 き は 神 の 領 域。 そ
う( 僕 ) に 教 え て く れ た の は ア
ラ ブ の 兄 弟 た ち だ っ た( フ リ ー
ジャーナリスト後藤健二さんの
ツイッターより)。
一 人 で も 多 く の 人 が「 対 馬 丸
記念館」を訪れてくださいます
ように。
4月例会
那覇教区平和委員会
第 677 号
南 の 光 明
(5) 2015 年 4 月 1 日 永野園子さんを偲ぶ
園 子 先 生 の ご 主 人、 善 治 先
生 は 大 学 生 の 指 導 の 傍 ら、 私
の日本語の勉強も担当してい
ましたので園子さんと係わる
チャンスも多くありました。
首 里 教 会 も「 赤 い 羽 根 運 動 」
に 参 加 し て い た あ る 日 の 午 後、
私 も 献 金 箱 を 持 ち、 首 里 の 町
教会に琉球大学生の
た め の 寮 が あ り、 ご
ラサール神父 主 人 の 善 治 先 生 と 共
に指導者として勤め
て お ら れ ま し た。 ご 夫 妻 の 世
話 に な り、 い ろ い ろ な 面 で 指
導 を 受 け、 今 で も 大 恩 人 と し
て慕っている卒業生がたくさ
んいます。
去る二月二十七日の夜九時
ご ろ、 永 野 園 子 さ ん が 恩 納 村
にある施設で亡くなられたと
い う 連 絡 が、 園 子 さ ん の 友 人
か ら あ り ま し た。 そ こ で、 そ
の方と一緒に車で恩納村へ出
か け ま し た。 施 設 に 着 い た ら、
園子さんは穏やかなきれいな
お顔でした。
私が五十六年前に首里で宣
教 師 と し て 出 発 し た と き、 祝
福して助けてくれたのは園子
さ ん で し た。 神 様 の 不 思 議 な
み 摂 理 に よ っ て、 園 子 さ ん を
永遠の命への見送りの祈りを
さ さ げ る こ と で き た の は、 私
にとって少しだけでも恩返し
ができたなーと感謝しました。
私は一九五八年九月十六日
午前二時に沖縄に到着しまし
た。 そ し て、 日 本 語 の 勉 強 の
ために首里教会にあったかや
ぶきの家に住むことになりま
し た。 あ の こ ろ は 琉 大 が 近 く
に あ り 学 生 た ち も 多 か っ た し、
クララ先生のウチナーグチで
の勉強グループがあったので
ウ ト ゥ ス イ( お 年 寄 り ) の 信
者 も た く さ ん い ま し た。 ま た、
に 出 か け て い き ま し た。 日 本
語 が う ま く 使 え な か っ た の で、
園 子 さ ん に「 オ ネ ガ イ シ マ ス 」
という日本語をおそわりまし
た。 ま た、 私 は ア メ リ カ 人 ら
しく献金箱を積極的に差し出
し ま し た ら、 園 子 さ ん に 優 し
く 諌 め ら れ ま し た。 な ぜ な ら
ば、 日 本 人 は 強 引 に す る と か
えって嫌がるのだというこ
と で し た。 こ う い う ふ う に
いろんな場面で日本の文化
や沖縄の心を丁寧に教えて
くれました。
次に善治さんとの思い出
をお話ししたいと思いま
す。 私 は 日 本 語 の 勉 強 を マ
スターしないうちに琉大の
カトリック研究会の学生指
導 司 祭 に 任 命 さ れ ま し た。
最初の仕事は学生たちと合
宿 に 参 加 す る こ と で し た。
そこで善治さんは学生のた
めに講話を準備するように
言 わ れ ま し た が、 私 は 日 本
語が上手に話せないので大変
戸 惑 い ま し た。 し か し、 善 治
さんはわたしが英語で書いた
内 容 を 日 本 語 訳 に 直 し た 上、
私が日本語読みが出来るよう
にさらにローマ字に直してく
れ ま し た。 そ の 作 業 は と て も
大 変 で し た。 講 話 の 準 備 が な
かなか進まないので、私は「も
う今日は終わりにしましょう」
と い う と、 善 治 さ ん は「 あ な
たの責任は講話を英語で準備
す る こ と で す。 わ た し の 責 任
はそれを日本語訳に直すこと
で す。 そ れ が 終 わ ら な い 限 り
私 は 帰 り ま せ ん!」 と 強 く 言
わ れ ま し た。 そ の 日 深 夜 ま で
か か り ま し た。 そ の 時 の 関 わ
りのおかげで心強い友人がで
きたと感じました。
園 子 さ ん の お 蔭 で、 早 く か
ら社会参加の指導をいただき
ま し た。 そ の 後、 い ろ い ろ と
日本語の指導もしてください
ま し た。 特 に 記 憶 に 残 っ て い
るのは一九六八年の三月ごろ
の話です。
慶応義塾大学の修士課程の
通信講座を薦められました。
入学に当たり不安もありま
し た が、 園 子 さ ん の 励 ま し に
よ り 東 京 へ 出 向 き、 大 学 で の
手続きや面接が上手くいきま
し た。 約 一 年 間 勉 強 に い そ し
む こ と が で き ま し た が、 残 念
ながら一九六九年の二月に沖
縄カプチン会地区長に任命さ
れ、 通 信 講 座 を 辞 め ざ る を え
ま せ ん で し た。 こ の 経 験 か ら
園子さんに対して深い信頼を
抱きました。
最後に善治さんの人柄につ
いて一緒に味わいたいと思い
ま す。 ご 自 分 の こ と に 触 れ る
といつも仏教の話にたとえら
れ ま し た。 自 分 の 生 き 方 を 菩
薩のような精神で生きていけ
たら一番の理想だと仰ってお
り ま し た( 菩 薩 と は 悟 り に 至
る 資 格 を も ち な が ら、 他 者 を
救うためにそれを遅らせてい
る 仏 )。 仏 教 の 話 を 引 用 し な が
ら、 福 音 書 に ふ れ ま し た。「 彼
は 盛 え、 私 は 姿 を け さ ね ば な
ら な い 」( ヨ ハ ネ 三・ ) と 洗
礼 者 ヨ ハ ネ が、 キ リ ス ト の 到
来 を 喜 び 迎 え た 言 葉 で す。 古
い 自 分 が 衰 え れ ば 衰 え る ほ ど、
主はあなたのうちで活発にな
ら れ ま す。 貪 欲、 苛 立 ち、 不
安 が 一 つ 一 つ 消 え、 主 の ご 性
質が一つ一つ輝きを増してい
き ま す。 こ う し て 毎 日、 自 分
が 衰 え る 分、 主 が 盛 ん に な り、
人 生 は 完 成 す る の で す。 年 と
ることも恐れてはなりません。
振 り 返 れ ば、 ご 夫 妻 に は 数
え切れないほどの沢山の思い
出 が あ り、 私 に と っ て お 二 人
は 恩 人 で あ り、 心 の 友 で あ り、
お二人から受けた恩恵は私の
人 生 の 土 台 と な っ て い ま す。
その教えを残りの人生の道し
るべにしたいと思います。
30
(6)
南 の 光 明
第 677 号 2015 年 4 月 1 日
娘の悦子さん一家がアメリカから訪れた
第 677 号
南 の 光 明
(7) 2015 年 4 月 1 日 カトリック文化センター
リニューアルオープン
三月二十二日、カトリック文
化センターがリニューアルオー
プンした。その記念企画として
宮古の大野神父による講話「聖
フランシスコと聖クララの理
想」も行われた。大野神父は約
五年前に同名の翻訳本を出版し
ている。直接に生前の著者ラザ
ロ・イリアルテ神父を知る大野
神父の講話は、さらに本の内容
について親しみを持って読み深
める機会となった。大野神父は
受洗前の幼い頃からアシジの聖
フランシスコに魅せられていた
と話し、その穏やかでユーモア
を交えた語り口で、聖フランシ
スコと聖クララの霊性の原点に
ついて分かりやすく解説した。
、ロザリオの祈りが 出かけて練成会に出席できな
食 (BBQ)
また聴衆からの質問にも答え
ながら聖フランシスコの理想は、 ありました。十字架の道行きで か っ た 押 川 司 教 様 か ら 託 さ れ
自然や環境、平和についての問 は、子どもたちの等身大に作ら た、教皇フランシスコの肖像の
題を考える現代にもつながる指 れた十字架を担いで、道行を体 ワッペンと終了証をいただいて
散会となりました。(新田選)
針となることを述べ、多くの人 験しました。
二日目は、朝からたっぷり侍
が心を合わせた祈りには、大き
なパワーがあるはずだと締めく 者 の 働 き に つ い て 学 び ま し た。
教
会
学
校
の
ピ
ク
ニ
ッ
ク
首里教会
く っ た。 講 話 に 先 立 ち、 ピ ア ノ 教区女性の会のお母様方に作っ
とフルートの伴奏による歌の会 ていただいた朝食&昼食をいた 三月十五日、当教会では一年
も催され、
「椰子の実」や「えん だき、ハードスケジュールも乗 間教会学校に頑張って参加した
どうの花」などを会衆全員で歌 り 越 え る こ と が で き ま し た! 子 ど も た ち へ の ご 褒 美 と し て、
い、館内の雰囲気を盛り上げた。 実技が終わったあとは、感謝ミ ピクニックを行ないました。
主日のミサの後、父母の車に となりました。
この日は県内各地から七十名 サ に 与 り ま し た。 ブ イ 神 父 様・
を 越 え る 方 々 が 集 ま り、 カ ト ヨアキム神父様・フランシス神 分 乗 し て、 教 会 ビ ー チ に 集 合。 ま た 来 年 も 楽 し い ピ ク ニ ッ ク
リック文化センターに寄せられ 父様・マイケル神父様・新垣助 父母がバーベキューを用意して が で き る よ う、 教 会 学 校 の 活 動
る期待の大きさが伺われた。館 祭様が共同司式してくださいま いる間、子どもたちは先生たち に も 積 極 的 に 参 加 し て い き ま
長のラサール神父はカトリック し た。 ミ サ の 後 は、 ロ ー マ に の 指 導 で ゲ ー ム を 楽 し み ま し しょう。
(シスターマータ)
た。 た っ ぷ り 遊 ん だ 後
文化センターを情報の発信地と
は お 待 ち か ね の バ ー ベ 主任司祭と園長先生の
して多くの人々に活用してもら
キ ュ ー。 肉 に 焼 き そ ば
える場としたいと、リニューア
送
別
会
に お に ぎ り、 た く さ ん
ルオープンを迎えた意気込みを
コザ教会
いただいて子どもたち
力強く語った。(名富綾乃)
三 月 八 日、 ミ サ の 後、 主 任 司
も 大 満 足。 暑 い く ら い 祭マリエル神父とコザ聖母幼稚園
の 陽 気 に 恵 ま れ、 食 事 園長シスター田口ミドリの送別会
第三回侍者奉仕者練成会
の 後 は 波 打 ち 際 で 水 に を行いました。
戯れる子どもたちもち
マリエル神父は主任司祭を約一
らほら。
年、シスター田口は園長を約十年
父 母 や 祖 父 母 の 参 加 勤められました。送別会は主役の
も あ り、 先 生 た ち は み 二人を皆で囲み、ファミリー会の
ん な で 楽 し め る ゲ ー ム 方が準備したご馳走を頂きなが
も 用 意 し て く だ さ り、
ら
、
思い出話に花を咲かせました。
童心に返ってゲームに
マ リ エ ル 神 父 は 挨 拶 の 中 で、
興 じ ま し た。 最 後 は 参 こ の 一 年 は あ っ と い う 間 に 過 ぎ
加 賞 の お 菓 子 を も ら た。とても楽しい時間であった。
い、 ヨ ア キ ム 神 父 様 の 「 残 念 で は あ る が フ ィ リ ピ ン
祝 福 を い た だ い て 散 会 に 帰 ら な い と い け な い。 せ っ か
教区典礼委員会(委員長・ブイ
神 父 )で は、 去 る 三 月 二 十 七・
二十八日の両日、首里教会を会
場に、侍者奉仕者練成会を開催
しました。遠くは石垣教会から
の四人の参加者を含め、小学生
から高校生、大人の参加者もあ
り、六十名余りが練成会に集い
ま し た。 一 日 目 は、 オ リ エ ン
テーション、侍者の働きについ
ての講話、十字架の道行き、夕
第 677 号 2015 年 4 月 1 日
南 の 光 明
(8)
素晴らしい 1 年を神に感謝します
コザ小教区の信徒の皆さんは私が沖縄から
フィリピンへ帰るときが間近に迫っていると
のニュースを従順の心をもって聞いてくださ
いました。当然ある人は、「どうしてそんな
に急に?」とか、「まだ一年しか経っていな
いじゃないですか?」とか、驚いて尋ねてお
さえ聞いてきました。
私の答えは、「正にそれはフィリピンにいる私の長上の要請による
ものである」ということでした。個人的にはもう少し長く小教区で
働いていたいと思いましたが、私は長上の命に従わなければなりま
せん。なぜなら私はコンヴェンツァール修道会に所属しており、キ
リストの模範に倣って、清貧、貞潔、従順の誓願のもと、キリスト
に従って歩むことを決意した者だからです。そこで大きな受難に遭
うことを知っておられたにもかかわらず、主イエスがエルサレムに
お入りになられたことを私たちは思い起こすべきです。主はゲッセ
マニの園で、信仰のうちに、「私の望みではなく、父よ、あなたのみ
旨がおこなわれますように」と祈られました。私はキリスト者として、
またフランシスカン宣教師の一人として主の足跡に従いましょう。
私は神の意思が行なわれるために、用意されたチャレンジを受け入
れなければなりません。人はその自然な望みのままに、人間的な計
算で、心地良さだけを求めてはなりません。神の超自然的な導きに
自分自身を委ねるべきです。それが私たち以上に私たちのことを知っ
ておられる方への信仰の招きなのです。そして、従順の犠牲の見返
りとして私たちは、人生の中で神の豊かな祝福をいただくことがで
きることでしょう。私を信頼し、勇気づけてくださった押川司教様
に深く感謝いたします。また、暖かい心で私と信仰の旅を共にして
くださったコザ教会信徒の皆様に感謝申し上げます。距離は離れて
しまいますが、お互いに祈りのうちに交わりを深めて参りましょう。
く 覚 え た 日 本 語 も 忘 れ て し ま い そ う で ま い り た い と 挨 拶 さ れ ま し た。 シ
だ 」 と 笑 い を さ そ い ま し た。 ま た、 ス タ ー に も 聖 歌 を 歌 っ て い た だ き ま
得 意 の オ ル ガ ン や ギ タ ー 演 奏 の リ ク し た が、 も う、 こ の き れ い な 歌 声 を
エ ス ト に は、 楽 器 は フ ィ リ ピ ン に 聴 く こ と が 出 来 な い と 思 う と、 切 な
送ってしまったということでタガロ
い
気
持ちになりました。
グ語の歌を披露してもらいました。
最 後 は、 当 教 会 名 物「 コ ザ 聖 家 族
シ ス タ ー 田 口 は、 コ ザ 聖 母 幼 稚 園 音 頭 」 を、 三 線 の リ ズ ム に 合 わ せ て
の 園 長 を 十 年 勤 め て い る こ と か ら、 全 員 で 歌 い 踊 り、 マ リ エ ル 神 父 と シ
思 い 出 も 多 く 涙 が 込 み 上 げ て く る 場 ス タ ー 田 口 の 前 途 を 祝 し、 笑 顔 で 送
面もありました。
り出すことが出来たと思います。
振 り 返 れ ば、 沖 縄 の 人 た ち の あ た
(與那嶺浩民)
たかい心と自然に
◆名護教会
癒された十年であ
テレジア 永野 園子 様
二〇一五年二月二十七日帰天 享年八十六歳
り、 今 回 も イ エ ス
◆コザ教会
様が呼んでいると
パウロ 名城 正之 様
こ ろ( 大 阪 )に 喜 ん
二〇一五年三月二十四日帰天 享年七十一歳
られました。またある人は、「私たちの聖家
マリエル・サントス 族小教区が好きになれませんでしたか?」と
O.F.M.Conv.
訃 報