播磨の名族・赤松氏のふるさと ~総集編・上郡町の歴史と赤松氏~ (平成 27 年 3 月 〈 目 次 上郡町教育委員会) 〉 1.佐用荘赤松村…・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1頁 2.赤松円心と苔縄城・法雲寺・・・・・・・・・・・・・2頁 3.赤松円心、白旗城を構える・・・・・・・・・・・・・3頁 4.赤松則祐と宝林寺・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4頁 5.赤松貞範と栖雲寺・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5頁 6.赤松義則と白旗八幡神社・・・・・・・・・・・・・・・6頁 7.赤松春日部家と竹万、西方寺・・・・・・・・・・・7頁 8.赤松満祐と白旗降下・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8頁 9.嘉吉の乱と赤松氏の再興・・・・・・・・・・・・・・・9頁 10.赤松政則と赤松・宝林寺・・・・・・・・・・・・・・・10 頁 11.赤松義村と白旗城・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・11 頁 12.白旗城伝説の誕生・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・12 頁 さ よ の しょうあかまつ むら 1.佐用 荘 赤松村(図1) 中世播磨の名族・赤松氏一族は、「佐用荘赤松村」(現在の上郡町北部・赤松地区)が 発祥の地といわれています。 赤松の地は鎌倉時代、佐用荘と呼ばれる荘園(公家・寺社等の領地)の一部でした。 佐用荘は、佐用郡を中心に、宍粟郡・赤穂郡の一部を含む広大な荘園(図1)で、建長 2 年(1250)の史料にその一部として「赤松村」と記されています(史料 1-1)。 か ん と う ご り ょ う 佐用荘は、元々は平家領であったのがその滅亡後、鎌倉幕府領(「関東 御領 」)とな ぼ う も ん ったといわれています。坊門家、九条家などの幕府と親しい公家領を経て、鎌倉時代の ろ く は ら た ん だ い 末には、幕府が京に置いた六派羅 探題 が管理していました。赤松氏は、佐用荘現地に勢 力を張る六波羅配下の武士団の出身といわれています。 た か た ち く ま や ま わみょうしょう 平安時代の上郡町域は、「高田」「筑磨(竹万)」「野磨(山)」の3つの郷が『和名抄』 (10 世紀半ばの成立)に記されているのみ(史料 1-2)で、「赤松」などの町域北部の 地名が見られないことから、赤松の地は赤松氏の祖先の人々によって拓かれ、佐用荘に 組み込まれたのかもしれません。 す え ふ さ 赤松氏の祖先は、平安時代の公家・源季房 (村上源氏)と伝えられていますが、その 由来について、以下のように考えられます。赤松氏の祖先で、鎌倉幕府によって佐用荘 の り か げ の地頭に任じられたと伝えられる宇野則景(史料 1-3)は、その名字から、当時佐用郡の う の 東部(千種川流域)にあった「宇乃(野)荘」の出身とみられます。「宇乃荘」の領主 こ が は、村上源氏の公家・久我家(史料 1-4)であることから、宇野氏が領主の久我家と縁続 きであると称したのが始まりではないかと考えられます。 赤松氏は宇野氏一族の末流にありながら、円心の代に山陽道に近い佐用荘南端の地の 利を活かして京周辺で活動し、一門全体を統率する力を蓄えていったとおもわれます。 旧佐用荘の「赤松村」遠望(南方の駒山城跡から) -1- こけ なわ ほう う ん じ 2.赤松円心と苔縄城・法雲寺(図2・5) 元弘三年(1333)、赤松円心は鎌倉幕府打倒の兵を挙げ、佐用庄苔縄の山に城を構え た い へ い き たと、『太平記』に記されています(史料 2-1)。苔縄集落の裏山がその苔縄城跡と伝え られていますが、山頂の愛宕社の祠のまわりに小さな平坦地があるばかりで、南方の山 陽道方面(上郡・竹万など)への眺望は良いものの、堀切などの城らしい地形はみつか っていません。 だ い と う み や も り よ し 大塔宮護良親王の令旨にも倒幕の軍勢の集結地として記された「赤松城」(史料 2-2) とは、この苔縄城のこととおもわれますが、いったいどこにあったのでしょうか? 苔縄城跡の麓には、円心の挙兵から4年後の建武四年(1337)、赤松円心によって建 立された法雲寺があります。当時の法雲寺境内は、南脇の高台にある旧赤松小学校跡地 を中心としていたとみられ、周囲から寺院の瓦片が多く採集されています。小学校の造 成などで主な遺構は削られてしまったとおもわれますが、旧校舎北側の高台の一画に、 り し ょ う と う 貞和元年(1345)、法雲寺境内に建てられた播磨国利生塔 の基壇跡とみられる盛土がの こされています(図5)。 と の や し き せ ん げ ん 江戸時代の法雲寺は、現在の位置に縮小されたため、旧境内地は、「殿屋敶」や「千軒 や 家城跡」と呼ばれる(史料 2-3・4)など、城館跡と考えられていたようです。 赤松円心の挙兵当時、「城を構える」ということは、敵の侵入を防ぐ柵や塀、矢倉な どの防御施設を設けるといった意味で、江戸時代の立派な城郭とは随分イメージが異な か さ ぎ ま や さ ん ります。円心の挙兵前後に築かれた笠置 城(京都府相楽郡笠置町)や摩耶 山 城(神戸市 灘区)などの城(史料 2-5・6)は、既にあった寺社などに臨時の防御施設を設けたものと みられています。苔縄城も、旧法雲寺の建立境以前から同地にあった赤松氏ゆかりの寺 社などの屋敶地に急造された可能性があります。 愛宕山頂の苔縄城跡は、軍勢の集結地の目印や、南方への物見台として利用されてい たとおもわれます。 法雲寺遠望 法雲寺・利生塔跡推定地の盛土 (南方から) (南西から) -2- しらはた じょう 3.赤松円心、白旗 城 を構える(図2~4) 足利尊氏と共に建武政権に反旗を翻した赤松円心は、建武三年(1336)、新田義貞率 いる軍勢を迎え討つため、白旗城を構えたと『太平記』に記されています(史料 3-1)。 白旗城の由来として、戦国期の伝承とみられる「赤松家系図」(『続群書類従』)(史 か ん の ん じ 料 3-2)に、「白幡寺」を城としたと記されており、観音寺城(滋賀県近江八幡市安土町) りょうぜん や霊山城(福島県伊達市)などの当時の山城と同様、山岳寺院を改修して城とした可能 性があります(史料 3-3)。築城の際に白旗が現れたため、八幡・春日の両社を勧請した とも記されており、「白旗」の地名は、山岳寺院「白幡寺」にまつわる何らかの伝承が 基となっているのかもしれません。 あ ん よ う じ 白旗城で合戦が始まった同年三月にも、備前国・安養寺(岡山県和気町)の衆徒から、 き と う ず い そ う 祈祷 によって白旗三流が虚空に現れた瑞相 があったと、赤松円心の推挙状をそえて足利 尊氏への恩償を申し立てた書状の写しが同寺にのこされています(史料 3-4)。築城当初 から「白旗」が特別な意味をもっていたことがうかがわれます。 『太平記』によると、白旗城には播磨と美作の名立たる弓の射手たち約 800 人が立て 籠もっていたので、新田勢は矢を受けて死傷者を増やすばかりだったと記されています す ふ (史料 3-5)。合戦に参加した武士の、赤松勢・島津忠兼と新田勢・周布兼宗双方の軍忠 状の写しにも、大手の木戸口や尾根上の戦いで矢傷を負ったことが記されており(史料 3-6・7)、当時の城攻めが、城内に至る尾根上に設けられた木戸や矢倉での、弓矢による 攻防戦であったことがわかります。 約 50 日間の攻防の末、九州から足利尊氏の軍勢が東上してきたため新田勢は撤退し、 白旗城での合戦は赤松勢の勝利に終わりました。白旗城はその後約 180 年にわたって、 守護大名赤松氏の本城のひとつとして、赤松氏盛衰の歴史の節目ごとに登場します。 白旗城跡遠望(西方・赤松から) -3- そく ゆう ほうりんじ 4.赤松則祐と宝林寺(図2・6・7) の り す け 赤松円心が亡くなった翌年の観応二年(1351)、長兄・範資 が亡くなり、円心の三男 則祐が惣領家・播磨守護職を継ぐことになりました。則祐は円心の生前から、自領とみ に ゅ う た の しょう られる備前国新田荘 (岡山県和気町)に宝林寺を建立していましたが、惣領を継いだ後 の文和四年(1355)に同寺を赤松村に移し、惣領家の氏寺としました。則祐は播磨国守 こ し べ の しょう 護として、山陰の山名氏に備え越部荘 (兵庫県たつの市)に城山城と守護館を構える一 方、赤松五社八幡神社を創建し(史料 4-1)、貞治 4 年(1365)赤松にも守護館を造営す る(史料 4-2)など、赤松の地を一族全体の中心地として整備していきます。赤松の守護 館とは、円心の館跡と伝えられる赤松居館跡ではないかとおもわれます(図7)。 せ っ そ ん ゆ う ば い 宝林寺は、法雲寺と同様、臨済宗の高僧・雪 村友 梅 を開山に招き、両寺とも後に五山 じ っ せ つ に次ぐ格の高い十刹に列しています。特に宝林寺は赤松惣領家の氏寺として、代々の住 持を雪村友梅の法系の僧に限り、手厚く保護されていました。 則祐の死後も跡を継いだ長男・義則によって寺院の造営が進められています。史料か ら、永徳三年(1383)前後に宝林寺で塔の建立が進んでいたことがわかります(史料 4-3)。 ち ん ご こ っ か ま ん だ ら 塔は鎮護国家の役割をもつ密教など旧仏教の寺院では、仏像や経典、曼荼羅 などを安置 し、重要任務である法会などの祭祀の場として利用されています。鎌倉新仏教の禅宗で と う ば り し ょ う と う はあまり重要とされないはずの五重塔などの木造塔婆 が、法雲寺の利生塔 とともに赤松 惣領家の菩提寺に2基も建っていたことから、播磨国守護として管国を統治する赤松惣 領家にとって、両寺は密教寺院同様の役割を期待されていたことがうかがわれます。 宝林寺は赤松氏の衰退とともに一旦衰え、江戸時代には真言宗に改め再興されていま こ う の は ら す(史料 4-4)。旧境内の大部分は、寺の南側・河野原集落内にあったといわれています。 と う の た に その裏の谷筋は小字名を「塔之谷 」といい、谷の中腹の平坦地では中世の瓦片が採集さ れていることから、この地に宝林寺の塔が建っていたと考えられます(図6)。 宝林寺と河野原の集落遠望(南東から) -4- さだ のり せい う じ 5.赤松貞範と栖雲寺(図2・8) さ だ の り 赤松円心の次男・赤松貞範 は、『太平記』で勇猛果敢な戦いぶりや、情け深く敵と交 わり味方に引き入れるなど、魅力的な人物として描かれ(史料 5-1~3)、白旗城の籠城 戦にも加わった一族の重鎮でした(史料 5-4)。貞範はこれらの軍功により、足利尊氏か か す か べ ら、現在の丹波市春日町にあった丹波国春日部庄を与えられ、一家を興して「春日部家」 と称します。その子孫は代々足利将軍家に仕え、播磨守護職の赤松惣領家と同格の存在 となります。 の り す け そ く ゆ う 貞範は、父・円心、兄・範資 の死後、惣領となった弟・則 祐 を助けて美作で山名勢と 戦い、いっとき美作守護職を務めます。山名氏が幕府に降り美作守護を山名氏に譲ると、 びゃくごう ほうきょういんとう る り 晩年は出家し、深く仏教に帰依しました。丹波市・白毫 寺の宝篋印塔 や佐用町・瑠璃 寺 ぼんしょう の梵鐘に貞範の法名「世貞」の名が刻まれています(史料 5-5・6)。貞範は、応安七年(1374) に亡くなったとされています。 貞範は死後「栖雲寺殿」と呼ばれていることから、同寺は、貞範の建立と伝えられる 禅宗寺院です。赤松の白旗城登山口の辺りにあったといわれ(図8)、大正七年(1918)、 と く み ん 現在の岡山県美作市中尾にあった豊国村で出土した梵鐘の銘に「播州栖雲寺住持得珉 」 「永和戊午」(四年・1378)と刻まれ、その存在が確認されています(史料 5-7)。 現地は永享十二年(1440)に赤松春日部家領となった豊国荘内にある(史料 5-8)こと から、栖雲寺から荘内の春日部家ゆかりの寺に移されたものとおもわれます。後に何ら かの事情によって埋められていたのかもしれません。 せ っ そ ん ゆ う ば い え ん ね 住持の得珉は法雲寺・宝林寺の開山雪 村友 梅 (一山派)とは異なる法系・燄 慧 派の禅 僧といわれています。後の梵鐘の移転とあわせ、宝林寺と雪村友梅の法系を重視する惣 領家とは一線を画した寺院運営が、保護者である春日部家(史料 5-9)によって行われて いたことがうかがわれます。 戦国時代、春日部家の没落とともに栖雲寺も廃れたものとおもわれますが、赤松にあ る松雲寺は、江戸時代に真言宗ながら(史料 5-10)、栖雲寺の名跡を継いで開かれた寺 と伝えられています。 白旗城麓の栖雲寺・白旗八幡社跡(西から) -5- 赤松の松雲寺(南から) よしのり 6.赤松義則と白旗八幡神社(図2・8) 赤松則祐没後、赤松家の惣領となった義則は、足利3代将軍義満をたすけ、室町幕府 の強化に尽力しました。明徳の乱(1391)で山名氏から美作守護職を奪還し(史料 6-1)、 たびたび侍所の所司を務めるなど、幕府の重臣として赤松氏も最盛期を迎えます。 義満が大内氏を倒した応永の乱(1399)の際、赤松(白旗城)へ旗が降るというふし ま ん さ い ぎでめでたい出来事があったと、正長二年(1429)の、将軍家護持僧・満済 の日記に記 されています(史料 6-2)。建武三年(1336)、白旗城合戦の際に同じことがあり、白旗 城の名の由来となったとも記されており、神仏があらわしたとされる出来事を介した足 利・赤松両家の絆を印象づける風説といえるでしょう。 現在、白旗城の麓(赤松字白旗)に跡地の石碑がのこる白旗八幡神社(図8)は、白 旗城を築いたとき、白旗が降った出来事を受けて勧請されたと伝えられています(史料 の り す け 6-3)。赤松円心から長男範資に「白旗鎮守八幡」の「神主職」が受け継がれているのが ち ん ぞ う 史料にみえます(史料 6-4)。また永享七年(1435)、書写山円教寺ゆかりの僧・鎮増が 「白幡ノ城ノ麓ワラヒ尾ノ八幡」へ参詣した際、一切経(仏教典の集大成)を見て驚い ている(史料 6-5)ことなどから、室町期には同社は山麓に営まれ、神仏習合によって経 蔵などの堂塔が建ち並ぶ社寺の一体化したかたちをしていたとおもわれます。応永の乱 ことほ の鎮圧で幕府が最盛期を迎え、それを寿 ぐかのような白旗降下の風聞をきっかけに、赤 松義則によって籠城することが無くなった山上の白旗城内から山麓へ社が移されたのか もしれません。 白旗八幡社は、江戸時代以降も赤松村によって祀られ続け、享保 7 年(1722)には草 葺の祠を板葺に建て替えています(史料 6-6)。広島藩が作成した「白旗古城図」には「赤 松村」に隣接して「八幡屋敶」、天明年間(1781~89)の「赤松村絵図」に「八幡宮」、 文化 14 年(1817)の「赤松村明細帳」にも「白簱八幡宮」と表記されています(史料 6-7 ~9)。明治 32 年(1899)に赤松五社八幡社に合祀され(史料 6-10)、跡地に石碑が建 てられています。 「白旗八幡社跡地」石碑と五輪塔群 -6- か す か べ ち く ま さ い ほ う じ 7.赤松春日部家と竹万、西方寺(図1・9) さ だ の り 赤松円心の次男・赤松貞範は、赤松惣領家と別に家を興し「春日部家」と称します。 の り す け 貞範は父・円心の死後、兄・範資 と佐用荘赤松村の一部を分割相続し、竹万庄も領して いるのが、範資の相続状況を示す観応元年(1350)の史料(史料 7-1)と、春日部家の伝 領状況を示す応永十六年(1409)の史料(史料 7-2)を比較してわかります。範資が「赤 松上村」を相続しているのに対し、春日部家は「赤松郷内屋敶」や「同包沢西山」を領 し、明示されていなものの「赤松下村」を相続していると考えられます。「赤松上村」 か じ ほうきょういんとう については、赤松地区南端・鍛冶にある明徳元年(1390)銘の宝篋印塔 (兵庫県指定文 化財)に「赤松上村」と銘があること(史料 7-3)から、「上村」は旧赤松村のほぼ全体 が含まれるとみられ、「赤松下村」はさらに南方に想定されます。 春日部家領の竹万荘については、現在地名がのこる千種川と安室川の合流域に加え、 安室川上流域の栗原村も同荘に含まれることが、応永二七年(1420)の史料(史料 7-4) からわかり、安室川流域の広範囲に荘園が営まれていたとみられます。その一画に江戸 時代には「下村」と呼ばれていた大字「船坂」があり、その北側山麓には、赤松貞範の み つ さ だ 孫・満貞建立と伝えられる西方寺(史料 7-5)の跡がのこります。この辺りは鍛冶から峠 を越えた南方にあり、貞範が円心から相続したとおもわれる「赤松下村」ではないかと 考えられます。 西方寺跡といわれる平坦地は谷の開口部に南面し、東西約 300m・南北 350mの範囲に 及びます。永仁六年(1298)の銘を刻む石造宝塔(兵庫県指定文化財)などの石塔群(史 料 7-6)や建物跡などが谷の奥側にのこり、明治三二年(1899)まで同地にあった西方寺 (史料 7-7)の跡とみられます。谷の南側の平坦地は、惣領家の館とされる赤松居館跡に 匹敵する広さで、春日部家の「赤松郷内屋敶」跡の可能性があります(図9)。 西方寺跡遠望(南西から) -7- み つ す け 8.赤松満祐と白旗降下(図2・3・4) よ し の り 応永三四年(1427)、幕府の重臣でもあった赤松義則 が亡くなると、息子の満祐は、 よ し も ち か す か べ も ち さ だ 将軍足利義持 から播磨国守護職の相続を認められず、その代官職が春日部 家の赤松持 貞 に与えられようとしたため、京の自邸を焼き払い播磨に下国し、徹底抗戦の構えをとり ました。 と う じ ひゃくごう も ん じ ょ 相生市にあった荘園・矢野荘についての史料である『東寺 百合文書 』には、赤松満祐 やまのさと が白旗城に籠城するため、兵糧米を矢野荘から徴発、山里の倉からも城内へ兵糧を搬入 き の や ま し、たつの市にあった城山城の修繕も行っていることが記されています(史料 8-1・2)。 ゆ る 結局、対立の原因となった赤松持貞の切腹によって事態の収拾が図られ、満祐は赦 さ れて播磨・備前・美作三ヶ国守護職を相続しました。 翌正長元年(1428)、近江に起こった土一揆が畿内から播磨へ波及し、翌二年正月に は赤松満祐がその鎮圧のため下国しています。 土一揆の鎮圧後間もない同年七月、播磨国赤松(白旗城)へ白旗が降りてきたとのう ま で の こ う じ と き ふ さ ま ん さ い わさが京に伝わり、公家の万里小路 時房 や将軍家護持僧の満済 が日記に書き留めていま す(史料 8-3・4)。足利尊氏や義満の代、白旗城合戦や大内合戦(応永の乱)でも同様の ことがあったとされ、先例にならい朝廷から現地の寺社(白旗八幡神社か)への使者を 送るべきか取沙汰されていることなどから、単なる風説に止まらない、政治的な儀礼活 動の一環ではないかとおもわれます。 先年来の騒乱により、幕府・守護赤松氏による播磨支配の動揺がみえる中で、白旗の 降下という神仏の加護のしらせを持ち出し、足利将軍家と赤松家の権威と絆の修復を図 るべく、赤松氏の周辺から発せられたメッセージの可能性があります。 か き つ 幕府内での地位の安定を望む赤松惣領家の思いと裏腹に、嘉 吉 の乱へと情勢は流れて いきます。 白旗城跡にかかる白旗のような霧(西から) -8- か き つ 9.嘉吉の乱と赤松氏の再興(図2~5) あ し か が よ し の り 室町幕府の第6代将軍となった足利 義教 は、その権力の絶対化を図り、斯波・畠山・ 山名・京極・一色家など有力守護の家督相続に介入、関東公方足利持氏を滅ぼすなど、 か す か べ さ だ む ら 諸大名家の力を次々に削いでいきます。将軍義教は春日部 家の赤松貞 村 を重用し、次は あ か ま つ み つ す け 赤松氏の番と取りざたされる嘉吉元年(1441)六月、赤松 満祐 が京の自邸で義教を謀殺 し、嘉吉の乱がおこります。 播磨に帰った満祐は、山名勢を中心とする幕府の軍勢によって四方から攻められまし た。春日部家などの赤松一族の将軍家直臣は幕府方につき、九月には城山城が攻め落と されて、赤松惣領家は滅亡しました。 播磨・備前・美作は山陰の山名氏の支配下となりますが、生き残った赤松一族と旧臣 たちによる旧領回復運動が始められます。 お お こ う ち み つ ま さ 嘉吉の乱で幕府方についた満祐のいとこ大河内 満政 は、山名氏からの播磨奪還を目指 し文安元年(1444)に挙兵しますが敗れ、摂津で討ち取られました。 の り ひ さ 享徳三年(1454)には、満祐のおい赤松則 尚 が播磨で挙兵、矢野荘などに年貢を白旗 城へ納めるよう命じています(史料 9-1)。赤松一族で西播磨守護代を務める家柄の赤松 下野も、呼応して山里(上郡町山野里)に入っています(史料 9-2)。しかし則尚は、翌 か く い 年山名勢に敗れ鹿久居 島(岡山県備前市)で自害、法雲寺(図5)において首実検が行 われています(史料 9-3)。 完全に滅び去ったかにみえた赤松惣領家ですが、満祐のおい時勝の一子(のちの赤松 ま さ の り の り む ね 政則 )が生き残ります。浦上則宗 ら赤松家旧臣たちに守り立てられ、南朝の残党に御所 し ん じ から奪われた神璽を、長禄の変(1457・58)で旧臣たちが吉野から取り返した功により、 幕府から加賀半国守護として再興を許されました。 も ち と よ 赤松政則は、山名持豊 (宗全)と対立する管領・細川勝元の支援を受けます。応仁元 年(1467)、両勢力が衝突して応仁の乱が勃発すると、赤松勢は播磨に侵攻します。強 圧的な山名氏の支配への反発から、播磨国内の幅広い支持を得た赤松勢は山名氏を追い 出し、赤松氏は播磨国守護職を回復しました。 山里宿跡遠望(東から) 法雲寺のビャクシン(兵庫県天然記念物) -9- ま さ の り 10.赤松政則と赤松・宝林寺(図2・6・7) 応仁の乱で播磨国の守護職を回復した赤松惣領家ですが、当主政則の権力は必ずしも ま ゆ み 盤石とはいえませんでした。文明十五年(1483)に真弓峠(朝来市)で山名勢に大敗し の り む ね あ り た た赤松政則は、浦上則宗 ら有力被官たちから廃嫡されかけ、一族の有馬・在田 ・広岡氏 の り は る も反旗を翻すなど、多難な日々を過ごします。東播の別所則治 に支援された政則は、侵 入した山名勢を徐々に押し返し、長享二年(1488)にはついに山名氏を播磨国から撤退 させ、やがて播備作三ヶ国の支配を回復します。有力被官らの支持なしには権力を維持 できない政則は、自作の刀剣を恩賞として被官に贈るなど人心の掌握につとめる一方、 よ し た ね ま さ も と 明応二年(1493)、将軍足利義稙を細川政元が追放した政変では政元と結び、政元の姉・ と う しょういん 洞松院を妻に迎えるなど、幕府の実力者と結びつくことで権力基盤の強化を図りました。 旧領回復後の政則は、湯治と称して美作に度々下向しますが、延徳二年(1490)六月 に赤松の旧宅に立ち寄り、七月には山を削って造成した犬馬場で、犬追物を行っていま す(史料 10-1~4)。旧宅とは、赤松円心の屋敶跡と伝えられ、土師器皿などの中世遺物 も出土している赤松居館跡とおもわれます(図7)。 政則の一連の行動は、山名氏を追い払った直後の美作支配の強化を図り、赤松氏発祥 の地で一族全体の拠点でもあった赤松での行事を通して惣領家の復活を印象づけるねら いがあったとみられます。 し ょ う こ く じ う ん た く け ん 政則は惣領家の氏寺・宝林寺にも足を運び、明応元年(1492)には京・相国寺の雲沢軒 そ く ゆ う から赤松則 祐 の木像などを移すなど、山名氏が支配していた時代には衰えていた宝林寺 の復興につとめています(史料 10-5~7)。 嘉吉の乱以前の、赤松氏による播備作統治の中心地である赤松・宝林寺の再興に着手 した政則ですが、明応五年(1496)、42 歳で亡くなりました。宝林寺で一周忌の法要が 行われています(史料 10-8)。 赤松居館跡(南東から・北西に宝林寺) -10- 赤松則祐坐像(宝林寺蔵) よ し む ら 11.赤松義村と白旗城(図2~6) ま さ の り 明応五年(1496)、赤松政則の死後惣領家を継いだのは、養子の赤松義村でした。赤 の り す け の り む ね 松円心の長男・範資の子孫「七条家」の出身です。幼少のため最有力の被官・浦上則宗が 実権を握りますが、他の有力被官たちとの対立から、間もなく播磨国内は「東西取合合 戦」と呼ばれる内戦状態に陥ります。義村の治世は始まりから多難でした。 と う その後和議が成立(史料 11-1)し、文亀二年(1502)に則宗が没すると、政則の妻・洞 しょういん お じ お 松院尼が義村を後見し、置塩(姫路市夢前町)を拠点とするようになったとみられます。 お お こ う ち か つ の り 永正四年(1507)には、対立していた赤松播磨守(大河内 勝 範 )を白旗城に攻めて翌年 いかるがのしょう には敗死させ(史料 11-2・3)、永正一四年(1517)には 鵤 荘 などの荘園に宝林寺山門修 復のための税を賦課する(史料 11-4)など、自身の権力基盤の強化を図っていきます。 む ら む ね 義村は浦上則宗の跡を継いだ浦上村宗 と対立し、村宗方の美作・岩屋城(岡山県津山 市)を攻めるため、永正一七年(1520)白旗城に入ります(史料 11-5)が、これが同時 代の史料にみえる白旗城の最後の記述となります(図3)。赤松の寺社についても、大 永元年(1521)の史料に宝林寺がみえる(史料 11-6)のを最後に歴史から姿を消します。 ま さ む ら は る ま さ 義村は村宗に暗殺され、義村の跡を継いだ政 村 (晴 政 )は、享禄四年(1531)に村宗 を攻め滅ぼしました。政村の代以降、赤松惣領家は置塩城を居城とし、赤松の地を拠点 とした形跡はのこっていません。戦国期の赤穂郡は出雲の尼子氏や備前浦上氏、龍野赤 さ か い め 松氏などの諸勢力の侵攻する境目 の地となり、赤松氏ゆかりの寺社も一旦は廃れていっ たとおもわれます。 江戸時代、宝林寺は河野原村の真言宗寺院として再興されます。赤松三尊像(兵庫県 指定文化財)が寺宝として伝えられています(図6)。法雲寺は赤松氏末裔の久留米藩 の援助を受け修理されるなど幾度も再興され、現在は相国寺の末寺となっています。境 内のビャクシンは円心お手植えと伝えられ、兵庫県の天然記念物に指定されています(図 5)。両寺とも、赤松氏ゆかりの寺院として、多くの人々が訪れます。 赤松五社八幡社は赤松村の鎮守として祀られ、明治 32 年(1899)に白旗八幡社を合祀 するなど、現在まで受け継がれています。 白旗城跡遠望(西方・苔縄の山上から) -11- 河野原の宝林寺(南東から) しらはた じょう 12.白旗 城 伝説の誕生(図3・4・10) 戦国時代が終わると、豊臣政権下、赤松一族の大名は播磨から他国へ移され、さらに 関ヶ原の戦いなどを経て、江戸時代には久留米藩主・有馬家のみとなりました。その一 方、諸藩に仕官したり、地元・播磨に帰農した赤松ゆかりの武士の子孫たちによって、 各地で赤松氏の伝説は語り伝えられていきます。中でも赤松の白旗城は、赤松氏ゆかり の城として、その起源にまでさかのぼる伝説が語られるようになりました。 ち し は り ま かがみ みなもとの す え ふ さ 江戸時代中頃、宝暦 12 年(1762)成立の『地志播磨鑑』には、赤松氏の祖・ 源 季房が ふ る お う ち 天永 2 年(1111)、播磨・加古郡古大内村に下向した際、赤松の山嶺に形が白旗に似た雲 が現れたとの報せを聞いて移り住み、白旗城を居城としたと記されています(史料 12-1)。 平安時代の公家、村上源氏の三河守季房は、太平記でも「従三位季房」と官位を誇張 して語られる(史料 12-2)など、赤松一族にとって遠祖と伝えられていましたが、おそ そ ん ぴ ぶんみゃく らく室町幕府内での赤松惣領家の権威を高めるため、公式の系図集『尊卑 分脈 』(史料 12-3)で同じく村上源氏の本家とされる久我家の大納言定房を祖とするよう改められま した。戦国期、赤松一族が播磨を中心に割拠するようになると、当時の系図や軍記など で再び源季房が赤松氏の祖として語られるようになり、季房が播磨・赤松に移り住んだ き し ゅ り ゅ う り た ん との貴種流離譚 も付け加えられるなど、地元の武士たちの願いに合わせた始祖伝説が形 成されています(史料 12-4・5)。江戸時代には、赤松円心時代の出来事といわれていた 白旗城築城と白旗出現の故事が組み合わされ、『地志播磨鑑』のような伝承が語られる ようになったとおもわれます(史料 12-6・7)。 『地志播磨鑑』の記事で注目されるのが、源季房の下向地として加古郡の古大内村(加 お お と し 古川市野口町)が挙げられている点です。現地の大歳 神社には「古大内城跡」の石碑が と も ひ ら のこり、源季房(さらにさかのぼる祖先の具 平 親王)が移り住んだと伝えられ、その西 ぐ へ い づ か 方約 1.5km の地(現市役所東)には、具平塚と伝わる古墳がのこされています。『地志 播磨鑑』の編者・平野庸脩が近くの平津村(加古川市米田町)の出身で、播磨各地の伝 承が関連づけられ、赤松氏伝説が広域化していった過程がうかがわれます。 中世とともに滅び去ったかにみえる赤松氏ですが、その物語は播磨を中心とする各地 の伝承の中に、今なお息づいています。 「古大内城跡」石碑 白旗城の本丸跡伝承地 -12-
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