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玄 突 訳 ﹃摂 大 乗論 釈 ﹄ に つい て (袴
谷)
玄 癸訳 ﹃
摂 大乗 論 釈 ﹄に つ いて
憲
チ ベ ット 訳 と の 比 較 に よ る 一考 察
谷
昭
(4)
の 文 が ﹃成 唯 識 論 ﹄ の訳 者 玄
に と つ て重要 な も の であ つた こ と は
さ て、 問 頴ぼ こ の相 違 を どう 考 え る か にあ る。 か か る 問 題 に つ い
想 像 に難 く な い。
て は、 翻 訳 年 代 の古 い漢 訳 を 重視 す る か、 サ ンス クリ ット の逐 語 的
翻 訳 とし て のチ ベ ット訳 を 重 視 す る か で解 釈 も 違 つ て こよ う し、 ま
た 双方 を と も に 重 視 し て サ ン スク リ ット原 本 が異 つ て いた のだ と結
雑 にす る 必 要 は あ る ま い と思 う。 多 少 は思 想 史 的 な 観 点 に 立 つ こと
袴
従 来、無 性は、玄莫訳 ﹃摂大乗論釈﹄を通し て、そ の思想史的位
う 理 由 で、Hu.
特 有 の文 は ﹃成 唯 識 論 ﹄ の訳 者 玄 突 に よ つて 加 筆 さ
論 す るこ と も で き よ う。 し か し、 先 の よう な 例 に お い ては 問 題 を 複
置づけがなされ てきた。しかし、玄斐訳 (略号 ・Hu.
を)
チベ ット訳
(略号 ・Tu.
と)
比較してみるとき、この従来 の見解には改 め て考
れ たも のだ と 考 え た い。 これ は単 な る仮 定 に す ぎ な いが、 以 下 の考
Hu.
全体に 一般 化しうる とすれば、宇井博士がHu.に つい て護 法
従来の図式通り、﹃成唯識論﹄=護法 の思想と考えて、右 の仮定を
(5)
に はな る が、 筆 者 は 単 純 に、 そ れ が後 世 的 な 煩 項 な 注 釈 で あ る と い
えなおさねばなら ぬ問題 が残されて いると思う。紙 面 の関係で細 か
T両
u者 における最もは つきりした相違 は、転識得智 を 解
(1)
察 は こ の仮 定 を 裏 づ け てく れ る よ う に思 う。
Hu.
な資料 は割愛 せざるをえな いが、問題点だけ は指摘 しておかねば な
らぬであ ろう。
釈する箇所 に現 われる。すなわち、識 纏 (vijnana-s
をk
転andの
h先a駆)思想 と指摘 された箇 所は、Tu.に欠け ているか、ある いは異
じる ことによ つて、大 円鏡智 (adarsa-j
平n
等a
性n
智a()s、amata
つた形で現 われて いるはずであろう。事実そ の通り であ つた。しか
(2)
便宜的にではあるが、次 の三点 にま とめうると思う。
る。
宇井博 士が、Hu.に ついて護法 の先駆思想と指摘 された箇 所は、
jnana
妙)
観、
察智 (pratyaveks成
a所
-作
j智
n(
ak
nr
at
)y
、anusも
t、
hT
au
-.の方 が思想 史的にかなり素朴な形をと ど め て い る の で あ
na-jna
のm
四a
智)
を得 るという本文に対 し、Hu.は四智 を八識 と明
確 に関係づけて説明して いるのに、Tu.
にはかかる説 明が全くみ ら
れず、 ただ四智それぞれを注釈 している に す ぎ な い。その注 釈 も
(6)
(1)の点 で宇井博 士は、Hu.﹁但就倶転不相離性、許 是 唯識﹂ の文
(3) 三性、特 に依他起性 の有を主張する こと。
以下この三点 に ついてHu., 両
T者
uの比較 を試 みたい。
(
2) 陳那 の三分説 を継 承していること。
Hu.
に比し て簡単 であるが、なんといつても、相違 の重要性 は、Hu- (
1) 唯識無境 を不 離識 の意味に解する こと。
の文 ﹁由 転阿頼耶識等八事識纏、得⋮四種妙智﹂、﹁転阿頼耶識故、得
大円鏡智﹂、﹁転染 汚末 那故、
得平等性智﹂、﹁転意識故、得妙観察智﹂、
﹁転 五識故、 得成所作智 ﹂に対応する文もしく は意味 が、Tu.には
(3)
全 く 示 さ れ て いな い点 にあ る であ ろう。 そ し て、 こ こ に 示 し たHu
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為三相、如是 三相 一
所取能取及自証分名
(7)
を指摘し、﹁
唯識 のみなり の言 は不離識 の意味 の唯識とな る ので あ
識義分非 一非異、
依 他所縁が三界に属さ
いな い。また博 士は、二智所縁 の真如所縁
如余処辮、於 一識 上
sna-tshogs
(8)
る﹂ と 述 べ て い ら れる が、Tu.
に は こ れ にあ た る 文 が 全 く 示 さ れ て
ぬことを示す 国亭 の文 ﹁由彼不為愛所執故、非所治故、非迷乱故、
rnam-pa
ni
な いか の如 く に 見 え ても、 実 は こ れは 識 を 離 れ たも の でな い点 で、
ふ中 に 摂 せ ら れ な い か ら三 界 唯 識 と いう た のみ で は これ を 含 め て居
の三 分 説 を 継 承 し た こ と は否 定 でき な いに し ても、 そ の意 味 内 容 は
で はな い。ran-gis
て い い だ ろう。 た だ し、 ﹁自 証 分 ﹂ に あ た る語 がTu.中 に な いわ け
傍 点 を 附 し た 国亭 に 相 当 す る 文 はTu.中 に示 さ れ て いな い と い つ
ses-pa
rans
(13 )
ses-bya
必ず し も 明説 す る こ とを 要 し なく て既 に 含 ま れ て居 る の であ る とな
決 し てHu.に 示 さ れ る よ う な も の と はな らな い であ ろう。 と い う
man-por
有多相現故、名種種
(9)
す のは、 こ れ即 ち唯 識 は唯 不 離 識 の意 味 に解 す る も の であ つ て、 ⋮
Hu.
に示 さ れ る ﹁自証 分 ﹂ のよ う に固 定 的 な 概 念 では な い。 こ の方
非 三界 摂、 亦 不 離識 故 不 待 説 ﹂ に注 目 し、 ﹁(二 智 所縁 は) 三 界 と い
明に護 法 の説 の先駆をなすもの であ る。
﹂と指摘 された が、 こ の指
摘 のために最も 重要 となる ﹁亦 不離識故不待説﹂はTu.中 に求 め
面 で は か つて上 田義 文博 士 が ﹁
陳 那 の自 証 の思 想 は智 が自 証 と いう
し て の智 又 は識 が 識 の自 体 そ のも ので あ り、 こ の ほか に さ ら に第 三
の も、ran-gis と
rは
ig
﹁
自 ら知 る﹂と いう こと であ つて、 決 し て
rそ
が
ig
れ にあ た ろ う。 こ の点、 無 性 が 陳 那
ることができず、 ただ前半 と対応す る文が示さ れ て いる にす ぎ な
性 質 をも つて いる こと を 言 う ので、 境 (所量) を 智 る も の (量) と
分 と し て の自 証 分 が あ る と いう の で は な い﹂ と指 摘 さ れ た が、 こ の
(10)
い。 こ のよう に(1
の)
点 に つい て、Hu.
は 必 要 以 上 に ﹁不 離 識 ﹂ を 強
で ﹁不 離 識﹂ が い か に強 調 さ れ て いる か を 考 え る と き、 こ のHu.
に、Hu にみ ら れ る よ う な ﹁自証 分 ﹂ が、 訳 者 玄 奨 に特 有 な も の と
(11)
調 す る が、Tu.に よ る か ぎ り そ の指 摘 はあ たら な い。 ﹃成 唯 識 論 ﹄
の場合 も 玄装 の加 筆 とみ な しう る の では な いか。
す れ ば、Hu.の傍 点 の文 は 玄 奨 に よ る加 筆 と考 え る のが至 当 で はあ
こ と がTu. に よ る無 性 の場 合 に も あ ては ま る よう に思 わ れ る。 逆
(14)
(2) の場 合 に つ い て は玄 奨 に よ る加 筆 の可 能性 が さら に強 ま る よう
に思う。 無 性 が 陳 那 の三 分 説 を 継 承 し た と し て、 宇 井 博 士 が引 用 す
(12)
る文は次 の箇所 であ る。それを、Tu.と比較対照して示 そう。
谷)
gcig-tu
ses hjug
rnam-pa Hs
u.
n
のみ
aに
-よ
tつ
s
てh
なo
さg
れて
sき
-た
s無u
性 のs
思n
想史
a的
n位置づけ について、
go/
再考 の余地があることだけは指摘 しえたと思う。(註記割愛)
資i
料d
を参g
照z
しu
てn
いたb
だa
けれd
ば幸
いである。
rnam-par ses-pa gcig-n
an
hdsin-pahi dnos-por tha以
-上
dは
a、
dH
-u
p.
a,
sすTべuて.
を比較検討してみた結果 では な いが、
(15)
為答此問故、説悟入及 dehi-phyir sna-tshog
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まいk
か。
yi rnam-pa-nidla hiug ces-bya-ba s(3)
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sい てt
/少 な い余 白 で は 論 じ き れな い。 す で に配 布 し た
はe
残り
種種性、
謂、唯 一識所取能取性
差別故、
又、於 一識似三相現、 go
於 一時間、分為 二種、 dus
玄 婁 訳 ﹃摂 大 乗 論 釈 ﹄ に つ い て (袴
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