1 <「校長室便り」57> 夢あるいは欲望 年が明けてほぼ半月、正月気分

<「校長室便り」57>
夢あるいは欲望
年が明けてほぼ半月、正月気分はすっかりなくなった。週 末
16日(土)、17日(日)には大学入試センター試験があり、
高校3年生諸君は今かなり緊張した時を過ごしていることだろ
う。が、始業式の挨拶でも話したように、このような経験を持
てることは、自分の人生を振り返った時、非常に貴重なものだ
ったと思うことだろう。3年生諸君には、今まで自分がやって
きたこと、今自分がやっていること、更には自分自身を信じて、
最大限の努力をしてほしい。
また、17日は県内私立高校の入試解禁日で、本校もこの日に前期試験を実施する。出
願は8日(金)で締め切ったが、今年度は昨年比+83名だった。倍率は4.19倍。本
校としてはこの少子化の中で志願者が増加するのはうれしいことだ。それは本校の評価自
体だと言っていいからだ。が、受験生の皆さんや保護者の方々には気のもめることだろう
と思う。体調に留意して自分のもてる力を発揮していただきたいと思います。
冒頭、始業式のことに触れたが、始業式では主として次のようなことを話した。
正月には様々な行事があるが、人間の生活は基本的に繰り返しなので、そこに新たな息
を吹き込み、自身の気持ちを新たにするところに行事の意味もあろう。若い中高生諸君は
年頭にあたり夢や目標を持ってこの1年努力してほしい。夢や目標があるからこそ努力も
できるのだ。
生徒諸君にとっては夢を持てということは恐らく、小学校の頃から、特に正月などには
言われて来たことだろう。その意味ではありふれている。しかし、私は改めてこの言葉の
意味を感じていたのである。
今、夢と欲望という言葉を並べてみると、
「夢」は肯定的色合いに満ちているが、
「欲望」
にはどうも否定的ニュアンスがつきまとう。確かに肯定できない欲望もあろう。では、欲
望の代わりに「強く望むこと」と言ったらどうだろう。「望む」には否定的ニュアンスは
ない感じがする。
すると、夢とはあることを強く望むことと言ってもいいのではなかろうか。さきほど、
私は改めて夢を持つことの意味を感じたと述べたが、それは強く望むことなのだ。強く望
まなければ夢は実現しない。
だが、強く望むことをはばむものがあるように思える。生徒諸君と先生方が話していて、
生徒諸君が「ムリ、ムリ」というような言い方をするのを聞くときがある。これは自分に
はとてもできないとい うことだが、彼あるい は彼女にそう思わせる ものは何なのだろう
か?
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私は生徒といつも接しているわけではないので、彼らの言葉
遣いや行動について先生方のようには詳しくないのだが、「ム
リ、ムリ」は、よく使われる表現のような気がする。
何回か前の「校長室便り」に書いたが、政府また民間の調査
でも、日本の青少年は外国と言っていいだろうが、中国や韓国、
ま た ア メリ カ や フラ ンス 等 の 青少 年 に 比べ て自 分 に 自信 を 持
っていないということが統計的に示されている。
これが何に起因するかはわからない。一つには、現代日本はかなりの格差社会であり、
たとえば年収が低いと結婚を望むことができないし、恋愛さえ自分にはする資格がないと
思ってしまう若者もいるようだ。
昨年12月、1泊の国内旅行に出かけた帰りの電車の中で読む本がなくなってしまった
ので、駅のコンビニで何か読むものをと探していたら、牛窪恵『結婚しない若者たち』と
いう本が目についた。買って読んでみると、多くの統計やインタビューに基づき現代若者
の意識をおもしろく描き出している。この中で恋愛も経済的条件に制約されていることを
知った。
恋愛が経済的条件に制約されるだけでなく、全てのことは政治、歴史、社会条件等によ
って制約される。最近台湾の現代小説を読んでいるのだが、李昂(Li Ang.1952~)とい
う女流作家の作品で「童養媳」
(トンヤンシー)との言葉を知った。
「息子の嫁用に幼いと
きに買われて結婚までは下女として働かされる女児」だそうだ。このような女児にとって、
恋愛はおろか、
「結婚」さえも我々がこの言葉から想像するものとは隔絶していたはずだ。
少し古いが、茨木のり子という詩人の「もっと強く」という詩には、「わたしたちはも
っと強く願っていいのだ/幾種類ものジャムが/いつも食卓にあるようにと」とある。今
からすればずいぶんつつましい願いではないか。
しかし、給食もなく、学校にお弁当を持って行けない子は60年前の日本にも多くいた
のである。現在の世界を見れば、内戦やそれに伴う国外への避難で住む家はおろか命の保
障さえない者も多い。
ちょっと話が逸れてしまった。現実の日本、そして自分達の目の前の生徒に戻って、ど
うしたらこの生徒達、あるいは子ども達を積極的に強く願うようにできるのか。外的規制
はそれほど大きいのだろうか。彼らがあまりに自己規制してしまっているのだろうか。
しかし、あまりに早く自身を見限ってはならぬ。政治的・社会的条件はすぐには変えら
れぬが、外からの枠は案外行動することによってはずれていく。傷つくことを恐れてはな
らぬ。傷は癒えるものだし、そのことによって更に強くなれる。
若いときから「萎縮することが生活なのだ」と思ってはならぬ。「もっともっと貪婪に
なってもいいのではないか」。夢とは欲望であり、貪婪であることだろう。
(2016.1.14)
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