『ドストエフスキー』の試し読み(PDF)

まえがき
本書は、足かけ七年にわたって﹃文學界﹄と﹃群像﹄に断続的に不定期連載した七本のドス
トエフスキー論を掲載順に再録したものである。本にするにあたって極力、手を加えないよう
にした。そもそも全体の構成に関して明確なプランを立てて書き始めたものではなかったから
である。
連載の一回分を書くたびに見えるようになるもの、逆に見えなくなるものがそれぞれあり、
その新しい足場に建て増しするように次回分を書き継いだ。このため、何が出て来るのか、全
体がどうなるのかは書いてみなければ私自身にもわからなかった。半年以上、いや場合によっ
ては一年半の間をあけて一回一回こういう書き方で増築を重ねたので、各回の接続は、ぎくし
ゃくしたものになっている。議論も齟齬、不意の中断、反覆、紆余曲折を孕みつつ右往左往し
ながら進んでいる。本にするに際してこういう不整合を取り除きたいと思ったのだが、右のよ
うな経緯で成立した文章だから、本腰を入れて手を加えると全体をほとんどまるまる新しく書
き下ろすのに等しい作業になる。また、一度書いたものを事後からの視線で整理してしまうと
褄合わせにしかならない。思い迷ったものの、最終的には、︵第五章での注の加筆
と第六章Ⅷ での加筆を例外として︶雑誌掲載時の状態にできるだけ手を加えないことに決めた。
手の込んだ
7 まえがき
結果、各章は単独でも独立の読みものとしても読めるようになっているはずである。むろん、
こういう方針には、読者にとって全体が見通しにくくなるといううらみがある。多少とも見通
しをよくするために、不明晰さを補う骨子を﹁まえがき﹂という形で予め提示しておきたい。
本書の骨子は単純だ。論点は次の二つに尽きる。
A
ドストエフスキーの、いわゆる地下室的主人公たちは、ことさらに他者に対して天
の邪鬼に反対し不同意を突きつけているように見える。しかし、彼らは、ほんとうは他
者の言葉に強く引かれそれに自分の声を合わせたいのだ。ただ、それに声を合わせよう
ズレには激しい斥力を持つ異和が生じる。それは反論や不同意が産み出す反撥と似て全
としてどうしても合わせることができないとき、協和と同意の合致点からのその微小な
び起こすのである。本書は、そのような異和を、反論と不同意から生じる反撥と区別し
く非なるものだ。のみならず、そのような反撥よりもはるかに強烈な不協和、憤激を呼
て﹁ラズノグラーシエ﹂と呼び、この強い斥力こそがドストエフスキーの世界の主な動
力になっていると考えている。
B
最初の妻マリヤの死という出来事はドストエフスキーの創作に甚大な影響を与えて
いる。ドストエフスキーは、二十八歳で銃殺刑の一歩手前で自分自身の死と向き合った
参照︶
。この経験が、﹃地下室の手記﹄第二部以降のいわゆる五大長編、すなわち﹃罪と
ときに直覚したものを四十二歳になって他者の死において受け取り直したのだ ︵第三章
罰﹄、﹃白痴﹄、﹃悪霊﹄、﹃未成年﹄、﹃カラマーゾフの兄弟﹄を建築してゆくための足場に
なっている。本書は、マリヤの死を、ドストエフスキーの創作史に﹁後期﹂を画する決
定的な出来事だったと考えている。
論点Aは連載開始当初からあった。他方、論点Bは連載を重ねることで次第に輪郭を取り始
めたものである。書き始めた当初は、ドストエフスキーの長編全体を論じる計画などなく、夢
の中でいわゆる﹁黄金時代﹂の太陽が没していく光景が等しく描かれている﹃悪霊﹄
、
﹃作家の
日記﹄、﹃未成年﹄の三作を連続体ととらえて駆け抜けてみようという﹁最小限﹂の腹づもりが
あったにすぎない。ドストエフスキーの長編小説群と、彼の論説文の集積である﹃作家の日
記﹄とのあいだにジャンル上の断層があるのは言うまでもないが、二つの長編小説が、それら
の論説的な時評文をいわば培養液としてその中に浮かぶようにして増殖している以上、
﹃作家
の日記﹄的なものを切り離してただ作品のみを論じると見失われるものがある、ドストエフス
キー作品に関して瞠目すべき読解を提示した小林秀雄とバフチンが、今後の課題として﹃作家
│
﹃作家の
の日記﹄を論じようとしていたのは偶然ではない、ふたりはそれをついにやり遂げることなく
﹃未成年﹄連続体にいきなり斬り込んで行ったのだが、最小限とはそう安易に思っ
亡くなったが、私はそれをやってみたい、そう思ったのである。それで﹃悪霊﹄
│
日記﹄
た者が愚かであって、先達が残した問いは私には過大なものだった。走り出してまもなくすべ
ての門は閉じ、私は身動きできなくなった。本書の第一章にその混迷はあらわになっている。
る ︶小 説 を 手 が か り に 暗 中 模 索 し た 結 果、 浮 か び 上 が っ て 来 た も の で あ る。 課 題 は さ し あ た
﹃作家の日記﹄という時評文集の中央に咲いている﹃おとな
論点Bは、その後の約一年半、
しい女﹄という中編 ︵講談社文芸文庫﹃やさしい女・白夜﹄に﹁やさしい女﹂として訳出されてい
8
9 まえがき
り、自分のドストエフスキー論の基底に﹁おとなしい女﹂︵必ずしも一人ではないし、﹁女﹂であ
るとも限らない︶の遺体をいかに横たえるかということだったが、これは想像以上に厄介な仕
事だった。そのためには﹃おとなしい女﹄の全編を自分のために自分自身の言葉で訳してみる
という遠回りも敢えてせざるをえなかったのである。第三章が不均衡に長くなっているのはも
っぱらこの困難のためだ。続く第四章以降の三章は寝かせた遺体を今度はいかに起き上がらせ
るかに腐心した。不可能とはっきり言った方がいいこんな仕事に成功などもとより望んではい
ないが、屍体を起き上がらせるというばかばかしいことを愚直に本気で試みてみなければ決し
0
Ⅰ
│
くら
ラズノグラーシエ
ったのである。
二葉亭四迷とバフチン
し
なず
魯庵が﹃罪と罰﹄の落雷に打たれたのとちょうど同じ頃、二葉亭は﹃浮雲﹄第三編を書き泥ん
でいた。彼がまもなく小説を中絶し十数年にわたって小説の筆を断つことは、富士の裾野で﹃罪
と罰﹄読了後の感動とともに二葉亭を憶い出している魯庵には知る由もなかった。この時点では
まだ、﹃浮雲﹄第二編までしか読み得ず、しかも、魯庵はこの第二編を最も脂が乗り、緊張し、
活き活きとしているものとして読んでいたのである。ここで興味深いのは、第二編ではドストエ
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11 序章 ラズノグラーシエ─二葉亭四迷とバフチン
て見えて来ないものがドストエフスキーにはあるのだ。
序章
こうや
与えられた﹂。﹃罪と罰﹄の英訳を読んだ内田魯庵のこの感想は有名だ。しかし、魯庵がこの感動
﹁あたかも曠野に落雷に会うて眼眩めき耳聾いたる如き、今までにかつて覚えない甚深の感動を
と同時に二葉亭四迷とステプニャークのことを憶い出していたということは忘れられている。
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我々も﹃罪と罰﹄を読んで強烈な感動は覚えるが、魯庵の感動は我々のそれと似て非なるものだ
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フスキーとゴンチャロフを、第三編ではドストエフスキーのみを文章の手本にしたと二葉亭自身
が回想していることだ ︵﹁作家苦心談﹂︶
。どうして、
﹃浮雲﹄の筆を進めれば進めるほどドストエ
フスキーの脈が太くなっていったのか、何故に、その脈が太くなればなるほど二葉亭の筆が行き
泥み、ついに停止してしまったのか。疑問は尽きない。だが、ここから、魯庵が﹃罪と罰﹄を読
む以前から﹃浮雲﹄第二編の生動と緊張のうちにこのドストエフスキー脈を予め直覚していたら
しいことは窺い知れる。そうでなければ、
﹃罪と罰﹄読後の感動と同時に二葉亭を憶い出しはし
ない。魯庵はこの時点ではまだ二葉亭と会ってもいないのである。もちろん、人づてに聞いては
いた。二葉亭は哲学者である、と。ただ、魯庵はこの小説家が﹁哲学者﹂と評されるのに﹁奇異
な感じ﹂を抱いていたのである。しかし、今、
﹃罪と罰﹄を読み、かつて覚えない甚深の感動を
与えられてそのことが腑に落ちた。同時に二葉亭を憶い出したとはそういうことだったのだ。だ
が、なぜ﹁哲学者﹂で腑に落ちたのか。﹁こういう厳粛な敬伲な感動はただ芸術だけでは決して
与えられるものでない﹂。魯庵を感動させたのは、﹁芸術﹂の域を超えるものだったのだ。それは
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あざむい
き
と言つても文学といふ事が私の解釈は少し違ふ
ので、どうも元来文学といふものがよく分らない。で、自分一個の考へで文学を定めて見る。
いつたい
しようと思ふのです。どうも私は文学では
│
す。けれども其れには或事実があるので、今は一切解釈抜きにして、其事実だけ申して弁解に
種々言つてゐたのは、実は自分から好い加減に解釈して、つまり自分から 欺 て居つたので
いろ 〳〵
嫌ひだと言ひ、遊戯分子があるからと言ふ様な
まづ弁解すべきは私の文学嫌ひといふ事でい、
つ たい
い
事が、実は少し違つてるので⋮⋮。これは元来私にも何と言つて可いか分らぬので、今まで
会の席上、二葉亭はこう述べている。
の感動はいったい何によって与えられるものなのか。一九〇八年、上野の精養軒で催された送別
ただろう。芸術だけでは与えられないとは、才能だけでは足りないということだが、ならば、そ
を文壇に問いたかったのか。﹁ただ芸術だけでは決して与えられるものでない﹂感動の内実だっ
っきりと自覚されていた、そう想像してみたいのである。では、彼らは﹃罪と罰﹄翻訳により何
接木だったと思えてならないからである。魯庵と二葉亭には共同作業の秘めていたこの意味がは
い。魯庵の﹃罪と罰﹄邦訳は、中絶した﹃浮雲﹄の断面、そのドストエフスキー脈への、いわば
が英訳本からの重訳にともなう不備を補うという、たんにそれだけの関係だったとは思いたくな
に筆を折って官報局に勤務していた二葉亭がこれに協力する。これを、ロシア語に堪能な二葉亭
﹃罪と罰﹄読了後すぐに二葉亭を訪ねた魯庵が、まもなく﹃罪と罰﹄の邦訳に取りかかる。すで
動の実質だった。二葉亭とステプニャークを想起したのはそこにおいてだったのである。
震撼されているということは注目に値する。これが、芸術だけでは与えられないと彼が評した感
ロリストを連想したのだが、魯庵が﹃罪と罰﹄に﹁哲学者風﹂のみならず﹁革命党風﹂を読んで
権派の活動をアレゴリカルに描いた政治小説﹃虚無党実伝記 鬼啾啾﹄︵宮崎夢柳著︶が出てい
る。こうした空気において魯庵も﹃アンダーグラウンド・ロシア﹄を読んでいた、それでこのテ
ド・ロシア﹄︵英語版︶を刊行している。日本では早くもその翌年にこの本を種に過激な自由民
ャークは八三年、皇帝暗殺に至るまでのナロードニキ運動を肯定的に叙した﹃アンダーグラウン
ドニキである。八一年にアレクサンドル二世が﹁人民の意志﹂派の爆裂弾に倒れると、ステプニ
チによるトレーポフ将軍狙撃事件に続いて同年八月に憲兵司令官メゼンツォフを暗殺したナロー
い浮かべたもうひとりの意外な人物、ステプニャークは、一八七八年一月のヴェーラ・ザスーリ
﹁哲学﹂だった、と断定するのは、むろん正しくない。﹃罪と罰﹄読後、魯庵が二葉亭と並べて憶
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13 序章 ラズノグラーシエ─二葉亭四迷とバフチン
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それは皆様の文学の意味とは必ず違ひませう。で、全く私一個の解釈してゐる文学について言
いけない
か
は た し まなこ
しに
ふのですが、その文学は私には何うも詰らない、価値が乏しい。で、筆を採つて紙に臨んでゐ
は た し まなこ
しに み
と言つても是れが又所謂外交や国際問題とは違つて、是亦私一個の
身になつて、一生懸命に夢中になる事が出来ない。これに就いては久しい間苦しんだものです
み
る時には、何だか身体に伱があつて不可。遊びがあつて不可。どうも恁う決闘眼になつて、死
│
が⋮⋮。で、国際問題
解釈による国際問題ですが、これならば私も決闘眼になつて、死身になつて、一生懸命に没頭
して了へさうである。其処ならば何うも満足して死なれさうである。然るに文学では何うして
いけ ない
も然ういふ気になれない。これは自分の死場処でないと言ふ様な気がする。自分のミツシヨン
﹁送別会席上の答辞﹂
でないと思ふ。何しろ何うしても筆を執つてゐる時には妙に伱があつて不可。唯この事実で
す。これが何故かは私に分らない。私にも神秘的である。
文学はもとより閑文字であり遊びだ、死身になって決闘眼で一生懸命に夢中になろうと文筆を
執るのがそもそも間違っているのだ、と言えばそれまでだ。今でもそれが大方の意見かもしれな
い。だが、まさしくそう思って文学など端から軽視し外交を志していた青年がたまたまロシア文
学にふれて小説に関する見方を根本的に改めたところから書いたのが﹃浮雲﹄だった。では、彼
はロシアの小説に何を見てしまったのか。
二葉亭は晩年に﹁露国文学の日本文学に及ぼしたる影響﹂という論文を書こうとしたらしい。
書きさしてやめた短い草稿が遺っている。読めば、これが断片に終わった理由が仄見える。露国
文学が﹁私一個﹂にどういう影響を及ぼしたかという切実な問いを棚に上げて、露国文学の日本
文学に及ぼしたる影響を一般に論じることに噓を感じたのである。棚に上げずに語れば﹁これは
元来私にも何と言つて可いか分らぬ﹂﹁私にも神秘的である﹂と言わざるを得なくなる、
﹁これに
就いては久しい間苦しんだものです﹂と言うほかなくなる、それで書きやめたのである。そこを
読めば、次の文章は、表面的には他 ︵とりわけ同時代の自然主義文学の作家たち︶を斬る言葉が、
その裏面において﹁私一個﹂に容赦なく斬り込んでいて痛ましい。
目今の日本の作家は、或は人生問題に接触して、その根本意義を解さうと努めては居るけれ
ども、人生の或る一部を以て、全般に亘らうとして居る風がある、未だ遊び半分に著作に従事
して居る傾きがある。ツルゲネフ時代の作家に比しては、不真面目である。
所が露西亜の作家はさうでなかつた。真面目に人生問題の全般に亘つて考究した。であるか
ら日本文学者のやうに、文学一点張りで他方面の事は関せず焉で居たのではない。又実際当時
の露国政府は、何をいふにも頑迷で暴虐であつたのだから、甚しい圧迫を国民に加へた、政治
家は政治問題として研究して居たのに、文学者はそれを人生問題として研究した。作の上にも
シ ベ
リ ア
自ら血ある涙あるものとなつて現はれ、ツルゲネフの小品一編はよく奴隷解放に力あつたとい
はれて居る位である。
しんめんもく
えた人もあらう、詩一章歌一首の為めに西比利亜へ追放さ
小説一編の為めに断頭台の露とす消
ゝみい
れた者もあつた。かゝる状態に進行つたのも、国論が国粋保存主義とヘーゲル哲学の影響を受
けて勃発した西欧主義との権勢争奪からでもあらうが、作家が真面目に人生問題の研究に従つ
ふ
いづ
た為めである、日本でも吉田松陰などの文を読むと切実に人生に接れて、自ら奮起せざるを得
た
ないやうに、露西亜でも恰度作家と同じ感情に打たれて覚えず切歯するのであらう、何れも命
がけであつたから、真剣であつたのだから。中にも過激な人達は爆裂弾を抱いて起つた、国民
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15 序章 ラズノグラーシエ─二葉亭四迷とバフチン
を自覚させやうと筆を鋒にした、筆と爆裂弾とは一歩の相違があるばかりであつた。
政治家が政治問題として研究する問題をも﹁人生問題﹂として研究すること、それが露国文学
によって初めて知った小説のありようだった。だが、二葉亭はロシア文学の社会性などというふ
やけたことを考えているのではない。文学を軽視し外交を志した政治青年が、たまたまロシア語
たやす
学習の教材として使われていた露国文学にふれて小説がこのような器であるのならと思って小説
想像することは難しいのだ。しかし、彼にくっきりとその器の姿が見えていたことは疑いない。
を書くようになったと理解するのは容易いが、彼の目に小説がどのような器と映っていたのかを
それに照らせば、自作の小説が出来損ないとしか見えないほどにくっきりと見えていたのであ
る。
政治問題をも﹁人生問題﹂として研究するとは、文学に政治性を導入するというようなことで
はない。﹃浮雲﹄発表の六年前に過激なナロードニキたちがアレクサンドル二世を暗殺しようと
爆裂弾を抱いて起ったように、命がけで真剣に筆を執ることだった。むろん、筆は爆裂弾にはな
りえない。そこには一歩の相違があり、この相違こそが文学の大事なのではある。だが、その相
違は一歩であって、千歩ではない。その差が千歩も万歩もあると思い、小説が閑文字だと思って
いた眼に、ロシアの小説が﹁爆裂弾とは一歩の相違があるばかり﹂のものとして投げ込まれたの
である。どれほど驚くべきものだったか。この驚きに見舞われることなしには﹃浮雲﹄は書かれ
なかったのである。では、この小説が﹁爆裂弾とは一歩の相違があるばかり﹂のものとなってく
れなかったのはなぜなのか。二葉亭が久しい間苦しんだのはそのことだった。才能のことなど彼
は意に介していない。才能と言わず﹁ミツシヨン﹂と言った。自分のミッションが文学にないの
なら、二葉亭には才能などあってもなくても同じことだっただろう。彼が﹃平凡﹄執筆後、再び
小説の筆を折り、日露外交に寄与すべくペテルブルクに発つのも、翌年、病のため帰国途上、客
死するのも周知のとおりであるが、では彼は、本来、文学外に求めるべきものを文学に求めて失
意したのか、宿命を履き違えて文学に関わってしまった男のこれは悲劇なのか。いや、彼は、小
説が、若年に見た驚くべき器であることを疑ったことは一度もなかった。小説が、ミッションを
容れ得る器であるという認識に何の変わりもない、ただ、自分のミッションはそこにはなかっ
た、と言っているだけなのだ。これは、裏を返せば、誰かのミッションであれかしということに
なる。二葉亭はその誰かがあの驚くべき器を文壇にもたらすことを願っていただろう。しかし、
早くも、二葉亭の死の翌年﹁文学﹂は膝を屈する。大逆事件に接して、文学は筆を﹁爆裂弾とは
一歩の相違があるばかり﹂のものとなしえなかった。唯一、膝を折らなかった啄木もやがて没す
し
る。 思 え ば、 こ の 思 想 問 題 に つ い て 黙 し て い て な お﹁ 文 学 者 ﹂ で あ る こ と を 恥 じ、
﹁江戸戯作
者﹂のなした程度まで芸術の品位を引き下げるに如くはないと思案した荷風は誠実だった。以
来、日本の近代文学は、二葉亭の頭ひとつ分、低くなった天地に急速に繁茂して行ったが、芸術
の品位が江戸戯作者のなした程度まで引き下げられているという自覚は大方なかったのである。
その近代文学も終わった、と今日、言われる。だが、その起源において始まりそこねていたもの
が確かにある。二葉亭が近代文学の端緒において目撃した小説とは一体、どのような器だったの
か。
﹃浮雲﹄を書き進め
二葉亭と言えばツルゲーネフだ。右に引用した文にも出ていた。しかし、
ていく上で彼が手本にしたのは、ドストエフスキーだったのである。二葉亭のツルゲーネフ翻訳
が、同時代の作家 ︵たとえば国木田独歩︶に﹃浮雲﹄以上に影響を与え、その新しい散文体を下
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17 序章 ラズノグラーシエ─二葉亭四迷とバフチン
敷きにすることで近代小説が書かれるようになったとは今では定説になっているが、それは、日
本の近代文学が成立の地平として選んだのがツルゲーネフ翻訳の方であって、中絶した﹃浮雲﹄
のドストエフスキー的断面ではなかったということでしかない。たしかに、この断面に接木する
ことは容易なことではない。漱石の絶筆﹃明暗﹄の続編を書くのと同じ要領で﹃浮雲﹄の続編を
書いてしまったら滑稽なことになるだろう。﹃明暗﹄絶筆の断面と﹃浮雲﹄中絶の断面では、位
相が異なる。
﹃浮雲﹄の断面に続編を書き継ぐ上で問われるのは、才能や技術ではなくミッショ
ンなのだ。ドストエフスキーは、自分は芸術家というより詩人なのだと弁じたことがある。だか
ら手に余るテーマを取り上げては作を駄目にしてしまうのだ、と。この﹁詩人﹂という言葉は微
妙だ。我々の想像するようなものではない。ここで問題になる詩想は﹁爆裂弾とは一歩の相違が
あるばかり﹂という性質の、いわば﹁ミツシヨン﹂に近い。ツルゲーネフの芸術的技巧は卓越し
たもので、その文章は精巧に彫琢されている。ドストエフスキーには彼ほどの技倆がない。ドス
トエフスキー自身そのことを承知している。だから、言ったのだ。私は芸術家ではない、詩人な
のだ、と。ツルゲーネフにはない詩想が自分にはある、という意味だ。それを踏まえて振り返れ
ば、日本の近代文学は二葉亭の紹介を通じツルゲーネフ流の﹁芸術﹂は学んでも、ドストエフス
キー流の﹁詩想﹂はついに我が物としそこねたのかもしれない。むろん、二葉亭自身も例外では
ない。彼は小説の﹁文章﹂としてはツルゲーネフやゴンチャロフを尊重していたが、﹁想﹂では
ドストエフスキーを、なかでも﹃罪と罰﹄を愛読していた ︵﹁予の愛読書﹂︶
。ゴンチャロフの文体
に倣って近代小説の散文を編むことは、容易なことでないにしても二葉亭にとって不可能なこと
ではなかった。だが、ドストエフスキーの詩想は模倣を許さない。それに応じうるのは二葉亭自
身のミッション以外にはありえない。彼は﹃浮雲﹄を書き進めながら、そのことを痛感させられ
みは
ていったのではないか。それは、ドストエフスキーの詩想に彼が誰よりも目を瞠っていたという
ことにほかならない。では、ドストエフスキーのどのような詩想が二葉亭の目を撃っていたの
か。これは、
﹃浮雲﹄の作者の目に小説がどのような器と映っていたのかを想像することと別の
ことでなく、到底、私に答えられる問いではない。それを承知で、この問いを記すところから始
めるのは、今、ドストエフスキーについて書こうとして、避けて通れる問題でないと思うからで
ある。
ドストエフスキーが没したのは一八八一年、
﹃浮雲﹄が出たのはその六年後である。二葉亭が
没したのはトルストイの死ぬ前年の一九〇九年、二葉亭が訳してみたいと言っていたメレジュコ
フスキーの﹃トルストイとドストエフスキー﹄が出たのはその八年前、シェストフの﹃悲劇の哲
学﹄は六年前、ウォルィンスキーの﹃偉大なる憤怒の書﹄は五年前である。マサリクの﹃ロシア
とヨーロッパ﹄は四年後、マリィの﹃ドストエフスキー﹄は七年後、ベルジャーエフの﹃ドスト
エフスキーの世界観﹄は十四年後である。これら一連のドストエフスキー論が唱えた諸説は、今
│
これが彼らに共通した認
日、完全に古びてしまっている。しかし、今、読み返すと、意外にも新鮮な印象を受ける。この
瑞々しさはどこから来るのか。ドストエフスキーは小説家ではない
識だ。彼らはそこからそれぞれの方向にドストエフスキーを論じた。周知のように、こうしたス
タンスはその後、批判され、今では顧みられなくなっている。芸術家ドストエフスキーをないが
げたものでしかない、と。逆に、作品の芸術性を文体論的、詩学的に分析したグロスマン、バフ
しろにし、彼の作品をダシにして、哲学か宗教か政治か知らないが、手前勝手な思想をでっちあ
チン、シクロフスキーらのドストエフスキー論が注目を浴びるようになった。だが、彼らが芸術
性の問題に限定してドストエフスキーを論じたのには、ソ連体制下ではこの﹁反動作家﹂のイデ
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19 序章 ラズノグラーシエ─二葉亭四迷とバフチン
オロギー的側面を肯定的に論じる余地がなかったという背景があったのである。
ドストエフスキーは小説家ではない、いわんや哲学者、思想家、宗教家などではさらにない、
では、いったい何なのか。シェストフ、マリィ、ベルジャーエフらの、説として、また読解とし
てすでに古びてしまったドストエフスキー論が今読んでも新鮮なのは、彼らがこの驚きに衝き動
かされるままに、小説家という枠に収まりきれないドストエフスキーなるものに素手で取り組ん
でいるからだ。同じ驚きが現在にも届いているからだ。彼らの論じ方に難がないとは言わない。
その部分が批判されて来たのでもある。しかし、逆にこの驚きを失って、小説家ドストエフスキ
ゆえん
ーの作品分析に終始する論考はその解析が精緻を極めていればいるほどつまらない。思うに、ド
にさえ、これは小説家ではないと口走らせるような驚きをもたらしてやまない点にこそ、ドスト
ストエフスキーはれっきとした小説家であると知り、彼が小説家である所以も重々知っている者
エフスキーという小説家の特異な衝撃力がある。二〇世紀の初頭、メレジュコフスキー、シェス
トフ、ウォルィンスキー、マサリク、マリィ、ベルジャーエフらは、等しくその力に衝き動かさ
れてそれぞれのドストエフスキー論を書いた。一九世紀末葉に、二葉亭と魯庵がドストエフスキ
ーに動かされたのもまた同じその力にだったことは言うまでもない。
﹁あたかも曠野に落雷に会
うて眼眩めき耳聾いたる如き、今までにかつて覚えない甚深の感動を与えられた。こういう厳粛
な敬伲な感動はただ芸術だけでは決して与えられるものでないから、作者の包蔵する信念が直ち
に私の肺腑の琴線を衝いたのであると信じて作者の偉大なる力を深く感得した﹂
。
文芸学の理論にこだわらぬ眼で読めば、バフチンも例外ではない。彼もまた同じ﹁偉大なる
力﹂を深く感得し、これを把握しようとしたのである。バフチンは、たんにドストエフスキーの
小説の芸術的構造を解明してみたかったのではない。彼もまた詩想をとらえようと追ったのであ
る。芸術という枠を政治思想へ、宗教思想へと超え出てやまない﹁信念﹂が強く吹き込まれた小
│
二つもしくはいくつかの意識が対話的に出会う一点で
けられる ︹演奏される︺
、生きた
説 は こ う い う 形 の 器 に な り う る の か、 と 目 を 瞠 っ て い た の で あ る。 ど う い う 形 か。﹁ イ デ ー と
は、
0
0
出来事である﹂︵﹃ドストエフスキーの詩学の諸問題﹄︶
。バフチンは、ドストエフスキーのイデーの
0
あり方の特異性をそう定義し、その小説の独自性をイデーの、この特異な提示の仕方に見出して
キヤラクター
いる。しかし、それならば、二葉亭がすでに一八九七年に見ていたことである。﹁ドストエフス
キヤラクター
キーの方は 人 物 と 人 物 との関係の上に或アイデヤが著く出てゐるけれども、ツルゲーネフの
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係に宿される。と、そう二葉亭は見ている。バフチンは二葉亭と別のものを見ていたのではな
綻してしまうだろう。ここでは作者の詩想は個々の人物には託されない。それは人物と人物の関
ロフという人物に配される。しかし、ドストエフスキーの詩想が作中人物に配されれば小説は破
ーネフにおいてイデーは作中人物に配される。たとえば、﹁ニヒリズム﹂というイデーがバザー
方は爾ぢやなくツて、個々の 人 物 の上にのみ或アイデヤが見らるゝ﹂︵﹁作家苦心談﹂︶
。ツルゲ
キヤラクター
0
い。彼のドストエフスキー論 ︵初版︶が出たのは一九二九年、二葉亭の没後二十年である。二葉
亭の洞察とバフチンの洞察は、今日、我々が思うほど相互に隔たったものではない。二葉亭はド
ストエフスキー作品の形式的特異性を的確に見抜いていたし、他方、バフチンはドストエフスキ
ーの詩想から眼を離したことは一度もなかったのである。そもそも、ドストエフスキーの小説の
特異な構造に目を瞠ることは、その詩想に震撼されることと別のことではない。二葉亭/バフチ
ンによれば、ドストエフスキーにおいては詩想が、特定の作中人物 ︵たとえばイワン︶の言葉と
してではなく、それと他の或る作中人物 ︵たとえばアリョーシャ︶の言葉との対話的関係におい
て生じる出来事として描かれるのである。ならば、比喩抜きで根底から問い直そう。対話的関係
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21 序章 ラズノグラーシエ─二葉亭四迷とバフチン
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とは何のことか。そこにイデーが
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けられるとはどういうことなのか。
私はバカだと思う、そう思うばかりでなく、そう人に言いもする、そういう謙虚な人も、人か
ら﹁おまえはバカだ﹂と言われるとカチンと来る。どうしてだ。私はバカだと言いながら、実は
本気でそう思っておらず、ただ人前ではへりくだってそう言ってみただけだからか。そういう場
合もあるだろう。だが、では、私はバカだと本気でそう考えていれば、他人から﹁おまえはバカ
だ﹂と言われても、カチンと来ないものなのか。そんなことはない。言葉が同じなら他人の口か
ら発せられても全く同じニュアンスで響くという人はいないだろう。自分で私はバカだと言うの
と、他人が﹁おまえはバカだ﹂と言うのと、指している事柄、言わんとしている意味は全く同じ
なのにニュアンスは反対になってしまうはずだ。では、どうしてそういうことになるのか。言っ
た言葉の内容のためではない。言い方のためでもない。意味 ︵内容︶も言い方 ︵形式︶も全く同
じであってさえ、その言葉を発するのが自分の口なのか他人の口なのかによって全く別の価値を
持ってしまう。考えてみると、これはフシギなことではないか。誰かこのフシギを解いてくれて
なま
いるのだろうか。言語学は、むしろ、それを切り捨てることで学として成立してはいないか。些
りなりを振り撒きながら人々
末なことにこだわるようだが、生の言葉が、文学において、いや、すでに日常生活において、魅
惑なり眩惑なり、あるいは困惑なり迷惑なり、あるいは笑いなり
の間を往来する理由を考えつめてゆくとこのフシギに行き当たる。バフチンの﹃ドストエフスキ
ーの詩学の諸問題﹄を読み返しながら、しきりにそんなことを考えた。この本の最もうつくしい
箇所は、やはり﹃カラマーゾフの兄弟﹄の次の対話を鮮やかに照らし出しているところだとあら
ためて思ったのである。父を殺したのがミーチャ ︵ドミートリィ︶であるかのようにイワンが主
│
張し、アリョーシャがそれに﹁ありえない﹂と応えた直後の二人の会話である。
│
│
│
│
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静かに染み透るように
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23 序章 ラズノグラーシエ─二葉亭四迷とバフチン
イワンは突然足やを止めた。
か
そ れ が 誰 か は 兄 さ ん が 自 分 で 知 っ て い る で し ょ う。
︶アリョーシャが言った。
proniknovenno
ば
│
じゃ誰が殺ったと言うんだい、キミの考えでは。
彼はどこかしら冷ややかに見える
ようにそう尋ねた。その問いには、どこか高慢な音色すら響いていた。
︵
│
│
誰のことなのさ。あの気の触れた白痴野郎、あの癲癇病みのことか、スメルジャコフの。
アリョーシャは不意に、全身が震えているのを感じた。
言葉が力なくもれた。息が切れ
│
それが誰かは兄さんが自分で知っているでしょう。
そうだった。
│
│
じゃ誰だい、誰なんだよ。
イワンはもはやほとんど強暴なまでに声を荒らげた。抑
制が突然、断ち切られたのである。
│
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│
イワンは啞然
僕にわかるのはたったひとつのことだけです。
アリョーシャは依然としてほとんど
兄さんは父さんを殺していない、あなたじゃないんです。
囁くように続けた。
│
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︽あなたじゃない︾だと。あなたじゃないとは一体どういうことだ。
として言った。
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│
│
父さんを殺したのはあなたじゃないんです、あなたじゃ。
して繰り返した。
│
三十秒ばかり沈黙が続いた。
│
アリョーシャは、断固と
そりゃそうさ、俺じゃないってことは自分でもわかってるさ、何をたわけたことを言っ
てるんだい。
蒼白い歪んだ笑みを浮かべてイワンが言った。彼は、食い入るようにアリョ
ーシャを見つめた。二人は街灯のところで再び立ち止まっていたのである。
│
│
イワンは
ちがいます、イワン兄さん、あなたは、殺ったのは自分だと、自分自身に何度も言いま
した。
│
俺がいつ言った⋮⋮俺はモスクワにいたんだぞ⋮⋮俺がいつ言ったんだ。
すっかり我を失ってしどろもどろになった。
│ この恐ろしいふた月の間に独りでいるときに、兄さんは自分に何度もそう言ったんです
│ アリョーシャは依然として静かにはっきりと続けた。だが、彼は、まるで自分の外部
よ。
│
兄さんは、自分で自分を弾劾し、殺ったのは自分以外の誰でもないと白状しました。
から、さながら自分の意志ではないかのように、何か抗いがたい命に服してこう言ったのであ
る。
でも、殺ったのはあなたじゃない、兄さんは間違ってます、殺ったのはあなたじゃない。いい
﹃カラマーゾフの兄弟﹄第四巻第十一部第五章﹁あなたじゃない﹂
ですか、よく聴いてください。あなたじゃないんですよ。僕は兄さんにこのことを言うために
神から遣わされたんです。
ここのところをバフチンはこう読む。
︶とこの言葉の芸術上の
この抜粋は、対話における心に染み透る言葉 ︵ proniknovennoe slovo
役割の、もっとも典型的な一例である。きわめて重要なのは、次の点である。すなわち、心の
奥に秘めた自分自身の言葉が他人の口から発せられると、その言葉が抵抗と、アリョーシャに
対する憎悪とをイワンに呼び起こすのだが、それは、その言葉が本当にイワンの急所を衝いた
からであり、その言葉がまさしくイワンの問いの答えに他ならないからなのである。こうなる
│
この︽深遠
と、イワンは、自分の内面の問題に対する他者の口出しを全面的に受け容れられなくなる。ア
遅かれ早かれ、﹃殺ったのは俺だ﹄という定言的で断固たる答えを自分自身
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底的に愚弄し始めた。いや、殺ったのは俺だ。結果として、イワンは悪魔に対してそう言うほか
なくなっていたのである。そこへ、悪魔と同じ言葉を今、思いがけずアリョーシャが繰り返す。
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イワンに激しい抵抗が生じるのは、心の奥に秘めた彼自身の言葉 ︵﹁俺じゃない﹂︶がアリョーシ
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25 序章 ラズノグラーシエ─二葉亭四迷とバフチン
リョーシャは、そのことをよくわかっているのだが、それでも彼は、イワンが
│
なる良心︾が
に対して突きつけずにはいないことを予見している。ドストエフスキーの構想によれば、イワ
︶として役立たねばな
ンは自分自身に対してそれ以外の答えを与えることはできないのだ。そして、まさしくそのと
きにこそ、アリョーシャの言葉は、他ならぬ他者の言葉 ︵ slovo
らないのである。
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親父を殺したのは俺じゃない。イワンは、モスクワでひとりでいる間、ずっとそう自分自身を
しきりに説得して来た。だが、自分の内部ではその言葉をどうやっても支えることができなかっ
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た。殺ったのはおまえじゃない。この言葉は、やがて悪魔として彼の外部に分裂し敵対し彼を徹
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ャの口から発せられた瞬間である。他方、アリョーシャは、他者としてその言葉 ︵﹁あなたじゃな
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藤と反撥の果てに受け
い﹂︶をイワンに対して差し出し彼の同意を求めていたのだ。イワンは自分の内部では﹁俺じゃ
ない﹂という言葉を支えられないが、アリョーシャの言葉を、すべての
容れ、それに同意することができれば、このアリョーシャの言葉がイワンの動揺を外部から根底
において支えることになるだろう。殺ったのは自分じゃないとイワンが確信する道はそれしかな
けて﹁あなたじゃない﹂と言ったのである。言葉
い。それをアリョーシャは知っている。だから、兄の強い反撥が予期されるにもかかわらず、イ
ワンがいつか同意してくれるであろうことに
けによって貫き通されてもいる ︵ proniknutyj
。﹁あなたじゃない﹂という同じ言
︶
震えさせてるんですかね。お家にお帰りなさいな、殺ったのはあなたじゃないですよ。
何も恐れる必要はないと申し上げているでしょう。わたしはあなたに罪があるなどと証
言しやしませんよ。証拠がないですからね。おや、手が慄えてますね。どうして指をそんなに
│
して、アリョーシャの、心に染み透る言葉を相殺してしまう。
﹂と言った後にスメルジャコフが
ty
興味深いことに、アリョーシャが﹁あなたじゃない ︵ ne ︶
またさらにアリョーシャと正反対のアクセントでイワンに﹁あなたじゃない ︵ ne vy
︶
﹂と繰り返
︵洞察し見抜くこと︶という言葉をほとんどテクニカル・タームのように使ってい
proniknovenie
るドストエフスキーにならって﹁心に染み透る言葉 ︵ proniknovennoe slovo
︶
﹂と呼んだのである。
て貫き通されている言葉、それがイワンを貫き通すのである。このような言葉をバフチンは、
葉ながら、イワン自身によってでもなく彼の分身 ︵悪魔︶によってでもなくアリョーシャによっ
リョーシャの
ンの心の底を見抜いてそこに夕陽のように射し込んでいる ︵ pronikajushchij
︶だけではなく、ア
面は悪魔のそれと同じだが、そのアクセントは正反対だっただろう。アリョーシャの言葉はイワ
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俺じゃないことはわかってる⋮⋮
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何もかも言えよ、このヘビ野郎。すっかり言っちまうんだ。
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│
﹃カラマーゾフの兄弟﹄第四巻第十一部第八章﹁三度目の最後の面談﹂
口を通じてイワン自身に語られることになる﹁おまえじゃない ︵ ne ︶
﹂という囁きがある。そ
ty
の内部の言葉がある。つぎに、イワンがそれを自分で支えそこなった結果、彼の分身 ︵悪魔︶の
あなたじゃない。章のタイトルにもしたこの言葉をドストエフスキーが或る構想をもって複数
の作中人物に繰り返させているのは疑いない。整理すれば、まず、﹁俺じゃない﹂というイワン
地悪い笑みを浮かべた。
そういうことでしたら申し上げますが、殺ったのはあなたですよ。
怒りを込めて彼
はイワンに囁いた。イワンは椅子に崩れ、何事かを判断しようとしているようだった。彼は意
│
スメルジャコフはいささかも動じなかった。ただ、物狂おしい憎しみをこめてイワンを食い
入るように見つめているばかりだった。
わかぁってるぅ?
スメルジャコフはまた言葉を引き取って言った。
イワンは跳び上がってスメルジャコフの肩をつかんだ。
イワンは身震いした。アリョーシャのことを思い出した。
彼はつぶやいた。
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こに、アリョーシャによる﹁あなたじゃない ︵ ne ︶
﹂という心に染み透る言葉が重なる。そし
ty
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バフチンは、複数の声が一つの同じ言葉に重なり合う様をドストエフスキーの作品において見
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27 序章 ラズノグラーシエ─二葉亭四迷とバフチン
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て、最後に、スメルジャコフによる﹁あなたじゃない ︵ ne vy
︶
﹂がそこに重なってくる。複数の
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口から発せられた声が同じ一つの言葉に様々なアクセント、様々なイントネーションで重なり合
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っているのである。
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事に読みといている。﹃カラマーゾフの兄弟﹄のここに限らない。他の箇所においても、また他
の作品 ︵とりわけ﹃分身﹄、﹃白痴﹄、﹃悪霊﹄︶においても同様にして、自分自身の言葉が他者によ
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っ て 語 ら れ る こ と の 意 味 を 非 常 に 鮮 や か に 分 析 し て い る ︵ 第 五 章 第 四 節﹁ ド ス ト エ フ ス キ ー の 対
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﹃ドストエフスキーの詩学の諸問題﹄
ドストエフスキーに関しては、これまで詩学的問題以外にも様々な問題 ︵分身の問題、自意識の
よく見てくれと言っているのであって、こちらの方はいっこうに容易いことではないのである。
チンはポリフォニーが比喩だということを忘れないでくれと注意することで、
﹁諸問題﹂の方を
を言うのも、熱から冷めて聞いた風な別の事を言うのも、どちらも容易いことだ。しかし、バフ
ころで何が克服されるわけでもない。ポリフォニーという重宝な術語に踊らされて聞いた風な事
ない、比喩にすぎないと断っていたのであれば、それを学術的概念と受け止めて批判してみたと
のが、今日では見識となっているむきさえある。だが、バフチン自身がポリフォニーは概念では
フォニー論など、学術的にも実践的にもいい加減なもので、とうに克服されていると斜に構える
的に異なる独創性のように言うのはバフチンの修辞的な誇張にすぎない、等々。バフチンのポリ
それはラシーヌやシラーにも見られる、要は、程度の問題であって質の問題ではない、それを質
うなど、レトリックとしてはともかく、実際にはありえないことだ、逆に、ありうるとすれば、
者の言うことを聞かないどころか、彼に反旗を翻す能力を持つような、自由な人間﹂として振舞
じめ欧米の研究者たちがその点を批判して来た。作中人物が﹁自らを創った者と肩を並べ、創造
フォニーは、概念としては厳密な文芸学の吟味に耐え得ない。たとえば、ルネ・ウェレックをは
ポリフォニーだとか対位法という隠喩そのものに何の価値があるわけでもない。じっさい、ポリ
フローベールとちがってドストエフスキーの小説にはポリフォニー構造がある、などと言って
みたところで、それで何が分かったわけでもない。聞いた風なことが言えるというにすぎない。
ないでいただきたい。
つからなかったからである。我々のこの術語が隠喩から生まれたということをくれぐれも忘れ
がこの隠喩を︽ポリフォニー小説︾という術語として利用するのは、よりふさわしい指標が見
て何かを語るには、音楽と小説では素材が余りにも異なりすぎている。にもかかわらず、我々
ているにすぎないのだ。だが、イメージを喚起するためのアナロジー、単なる隠喩の域を超え
ときに新しい諸問題が生じたが、ポリフォニーや対位法というイメージは、その諸問題を示し
ときに新しい問題が生じたように、小説の構造が通常のモノローグ的統一性の限界を突破した
我々はドストエフスキーの小説をポリフォニーに喩えているが、これもイメージを喚起する
ためのアナロジーにすぎず、それ以上の意味はない。音楽において単声法の限界が突破された
い。バフチン自身が注意を促していたのである。
った、イメージを強く喚起する術語によって構成されたバフチンの理論に私は何の関心も持てな
広さが遺憾なく示される。こういう読みがもしなければ、ポリフォニー、カーニバル、対話とい
ストエフスキー論の真骨頂であり、ここから、ドストエフスキーを読むバフチンの読みの深さと
読む上でこれらの術語は実は大変な曲者なのだ。繰り返すが、右に引用した読解はバフチンのド
ニーやカーニバルという術語でバフチンを理解したがるのか。バフチンのドストエフスキー論を
ンを読まないのか。普通に読んで最も動かされ最も目を瞠った箇所においてではなく、ポリフォ
の諸問題﹄を通読しさえすれば見おとすことはないはずだ。では、どうしてここにおいてバフチ
話﹂︶
。この分析はきわめてあらわだから、注意深い読者ならずとも、﹃ドストエフスキーの詩学
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29 序章 ラズノグラーシエ─二葉亭四迷とバフチン
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問題、精神分析の問題、笑いの問題、社会的イデオロギーの問題、キリストの問題、自由の問題、他者
の問題、信仰の問題、等々︶が論じられてきたが、バフチンはドストエフスキーから出て来てひし
めいている一切の問題を、或る一点において押さえようとしたのだ。その定点をポリフォニーと
かりそめに名づけたが、ラベルはどうでもいい、彼の指の下にどれだけの﹁諸問題﹂がどのよう
にひしめいているか、彼はそれを見て欲しいのだ。私のドストエフスキー論を読んでくれるのは
ありがたいが、君はそこからどうして﹁バフチン﹂などを読み取ろうとするのか、ドストエフス
キーを読むことに進んでゆこうとはしないのか、そうバフチンは苦笑いしているだろう。なら
ば、バフチンを読んではならぬだろう。彼はドストエフスキー作品の総体にひとつの切り目を入
れただけだ。切り目自体に意味はない。ただ、そこから内部を覗いてみることができるだけだ。
そこに見えるもの、それはもはやバフチンではない。ドストエフスキーだ。それを追えるところ
まで追ってみること、それはドストエフスキーを読むことにほかならない。ポリフォニーという
術語にこだわってはならない。比喩として聞き流せばいい。むしろ、バフチンのドストエフスキ
ー論の醍醐味に忠実に、自分の心の奥底に秘めた言葉が他人の口から発せられたときに生じる斥
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力の、ドストエフスキー作品における位置と意味を考えるべきなのだ。そうするほうが、むし
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ろ、ポリフォニーという比喩でバフチンが示したかった﹁諸問題﹂に焦点を合わせられるだろ
う。もしそうでないなら、こんな比喩には何の意味もなかったのだと見限る覚悟を決めて、進め
バフチンを理解する伴が対話にあるとは誰もが言う。では、対話とは何か。立場、見解を異に
るところまで進んでみよう。
する者が、互いの差異を認めつつ言葉を闘わせ不断に互いの蒙を啓いてゆくことだ、とこれまた
誰もが答える。しかし、少し注意して読めば、誰でも気づくはずなのだが、対話と言うときバフ
チンが最も重要視していた契機は同意であって論争ではない。
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│
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対話的関係を単純に一面的に見解の対立、闘争、論争、不一致に帰して理解してはならな
い。同意 ︵ soglasie
︶は 対 話 的 関 係 の 最 も 重 要 な 形 式 の 一 つ な の で あ る。 同 意 は そ の 外 観 の 多
様性とニュアンスにおいて非常に豊かである。
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だが、同意のどこが論争よりも豊かで多様なのか。
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﹁一九六一年のノート﹂
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いるのである。これは二つの言表におけるはっきりした対話的出来事であって、木霊ではな
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﹁いい天気だ﹂という言葉に対して﹁いい天気だ﹂と答えること、バフチンはこの単純な会話に
︵同前︶
い。同意はありえなかったかもしれないのだから ︵﹁いや、そんなにいい天気じゃない﹂等々︶
。
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/ ソ グ ラ ー シ エ ︶と は、 声
お い て 同 意 の 秘 密 を 探 ろ う と し て い る。 た し か に、 同 意 ︵ soglasie
︶あることである。自分自身の言葉が他者の声で語られること、同じ一つの
so︶が共に ︵
golos
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31 序章 ラズノグラーシエ─二葉亭四迷とバフチン
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、この実際に
︵﹁いい天気だ﹂
﹁いい天気だ﹂︶
すべての関係において合致する二つの言表
同じ声でなく別々の声に属する二つの言表は、同意という対話的関係によって結びつけられて
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言 葉 に 複 数 の 声 が 重 な り 合 う こ と で あ る。 だ が、 そ れ に し て も、
﹁いい天気だ﹂という言葉に
︵
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﹁いい天気だ﹂と応じることのどこに豊かな多様性とニュアンスがあるというのか。ノートには
その解がない。だが、
﹃ドストエフスキーの詩学の諸問題﹄︵第二版︶において、バフチンはこの
問題を原理的に考えようとしている ︵第五章第一節︶
。彼によれば、純粋な言語学は言葉の生きた
側面を捨象しているが、ドストエフスキーの言葉を分析するに当たって重要なのは、その捨象さ
れた側面の方で、これを取り扱うには言語学とは異なった角度から言葉を研究する必要がある
︵
﹁メタ言語学﹂と彼はそれを名づけている︶
。では、多分にソシュールを念頭において言われている
純粋な言語学が捨象する言葉の生きた側面とは何か。対話的関係だとバフチンは言う。むろん、
比喩である。では、対話的関係とは何のことか。彼は﹁人生は素晴らしい﹂と﹁人生は素晴らし
が対話的関係はないと言う。他方、﹁人生は素晴らしい﹂と﹁人生は素晴らしい﹂という二つの
くない﹂という二つの判断を取り上げて、ここには一方が他方の否定だという論理的関係はある
これは二つのまったく同一な判断、したがっ
全く同一の判断を取り上げて、ここには対話的関係がありうると言う。なぜか。
│
﹃人生は素晴らしい﹄﹃人生は素晴らしい﹄
て、本質的には、二度にわたって書かれた ︵あるいは発音された︶単一の判断である。だが、
この﹁二﹂という数は、実体化した言葉に関わっているだけであって、判断そのものには関わ
っていない。たしかに、ここで二つの判断の論理的同一性を云々することもできる。しかし、
もしもこの判断が二つの別々の主体の二つの言表の中に表現されるならば、それら二つの言表
の間には対話的関係 ︵賛成・承認︶が生じることになる。
一見するとあまりにも当たり前で奇妙なロジックに見える。それはバフチンがあまりにも原理
的なことを考えようとしているからである。
﹁人生は素晴らしい﹂と﹁人生は素晴らしくない﹂
方が肯定、他方が否定という差異︶があるからではない。言表の内容や形式が全く同一でも対話的
との対置がもし対話的関係にあるとすれば、それはその言表の内容や形式に差異 ︵この場合、一
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ら発せられているかである。意味内容上も形式上も全く同一であっても、それが二つの異なった
容を持っているか、いかに異なる形式を取っているかではなく、その言表がどの主体、どの口か
関係を構成しうる。バフチンの言う対話において重要なのは、二つの言表がいかに異なる意味内
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口から発せられるならば、その二つの言表には対話的関係が生じる。逆に、二つの言表に、意味
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のである。全く同じ言葉でも、自分がそれを発するのと他人がそれを発するのとでは、価値 ︵ニ
の変哲もない、単純にしてしかも同一の言葉の繰り返し ︵同意︶において対話を考えようとする
﹁いい天気だ﹂と﹁いい天気だ﹂︵あるいは﹁人生は素晴らしい﹂と﹁人生は素晴らしい﹂︶という何
葉の反復 ︵賛成、同意、承認︶に際して純粋にあらわれると言ってもいい。だから、バフチンは
係は生じない。対話的関係は対立する差異ある言葉 ︵異論、反佀、拒絶︶よりも、むしろ同じ言
﹁主体﹂が閾で隔てられていないなら、たとえ対話の体裁を取っていようと、そこには対話的関
しきい
内容上、形式上に差異があって、相互に対立したり補足し合ったりしていても、それを発する
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ュアンス、アクセント、響き︶が全く別のもの、場合によっては正反対のものになるのはなぜなの
か、と。
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バフチンは、自明な言語現象を原理的に問い直しているわけだが、注意しよう、彼は対話の一
般理論を工夫しているわけではない。ただドストエフスキーの言葉を分析しようとしているだけ
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に、同意 ︵一人の言葉が他者の声で語られること︶の意味に対する洞察が垣間見えるということな
である。バフチンが言いたいのは、ドストエフスキーの、言葉に対する或る感受性のうちにすで
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33 序章 ラズノグラーシエ─二葉亭四迷とバフチン
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︶が成立するというわけではない。バフチンの関心に照らせば、彼が対話の要石とみな
soglasie
のである。ドストエフスキーにおいては、同じ言葉が別の人間によって反復されさえすれば同意
︵
している同意の諸問題は、同じ言葉が複数の口から繰り返し発せられるということを突き抜けた
ところに見出される。より重要な諸問題はその先に伏せているのだ。
﹂と言った後にスメルジャコ
ty
たとえば、アリョーシャが﹁殺ったのはあなたじゃない ︵ ne ︶
フも﹁殺ったのはあなたじゃない ︵ ne vy
︶
﹂と言ってイワンを不意打ちした。どちらも同じ一つ
に起っている出来事と、スメルジャコフとイワンの間に起っている出来事とは、質的に異なる。
の言葉 ︵イワンの﹁俺じゃない﹂という言葉︶を反復している。だが、アリョーシャとイワンの間
アリョーシャの言葉とスメルジャコフの言葉は意味も姿も同じだが、にもかかわらず、という
よりだからこそ別のものである。その差異こそが人物と人物を隔てる閾となって各人物の個体性
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トエフスキーの小説においては各人物 ︵キャラクター︶にではなく、人物と人物との関係に﹁或
︵ lichnost
︶の 明 暗 を 浮 き 彫 り に し て い る の で あ っ て、 逆 で は な い。 各 人 物 の 性 格 ︵ kharakter/
︶が鮮やかに描き分けられているから、彼らの差異が浮き彫りになるのではない。ドス
character
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宿るのである。
たく同じ言葉を語った瞬間にもっとも純粋に露呈する。ドストエフスキーのイデーはその差異に
アイデヤ﹂が宿ると二葉亭が洞察していたのはそのことだ。人物と人物との差異は、両者がまっ
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アリョーシャとイワンの対話における出来事は、たんにイワン自身の言葉をアリョーシャが発
しているから生じているのではない。一つの言葉が、他者によって厳密に反復されているかどう
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かという点にのみかかっているのではない。いいかえれば、言葉が﹁心に染み透る﹂かどうか
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は、心の奥深く秘めていた自分の言葉を他者が発しているかどうかという点にのみかかっている
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の奥底に斜光のように射し込んでいる ︵ pronikajushchij
︶だけではなく、その言葉自身も、それ
コフの言葉がそうならないのはなぜか。心に染み透る言葉 ︵ proniknovennoe slovo
︶は、相手の心
のではない。では、同じ言葉の反復ながら、アリョーシャの言葉は心に染み透るが、スメルジャ
0
けによって貫き通されて ︵ proniknutyi
︶いなければならないからである。アリョー
0
シャの﹁あなたじゃない﹂は、イワンがその声に同意する ︵その言葉に彼の声を重ね合わせる︶こ
を言う者の
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けて言われた言葉である。イワンがそれに同意することでのみ彼が彼自身の言葉 ︵﹁俺じ
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けがある。その結果、イワ
けている声かどうか、そこに区別がある。アリョーシャが
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という言葉を、バフチンは危機と等価の言葉として使っている。
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けるとき、あたかも閾の上にいるかのように感じる﹂という一文はド
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ス ト エ フ ス キ ー の 心 臓 を 瞬 発 的 に と ら え て い る。 こ こ に 限 ら ず、 閾 を 意 味 す る ロ シ ア 語
機に似ている。人は金を
に、閾がドストエフスキーに特徴的な時空間の一つであることを指摘したバフチンの﹁ 金は危
れ が 同 意 ︵ soglasie
/ ソ グ ラ ー シ エ ︶に ほ か な ら な い。 同 意 の 閾 は そ こ に お か れ て い る。 ち な み
ンがさらにそのアリョーシャの言葉に彼の声を重ねるという出来事が賜物のように生ずれば、そ
イワンの内なる言葉 ︵﹁俺じゃない﹂︶に彼の声を重ねる。そこには
と決定的に異なる。イワンの同意に
われている。その点において、同じ言葉ながら、アリョーシャの言葉は、スメルジャコフのそれ
とを期待していない。全く正反対に﹁殺ったのはあなただ﹂というイントネーションでそれは言
うではない。彼は﹁殺ったのはあなたじゃない﹂という自分の言葉にイワンが同意してくれるこ
ゃない﹂︶を支えることができるようになる、そういう言葉である。スメルジャコフの言葉はそ
とに
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35 序章 ラズノグラーシエ─二葉亭四迷とバフチン
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