な ら へいあん 奈良・平安時代の交通制度 律令国家は、地方への政令の伝達や政府への報告を速やかに行う ため、都と諸国の国府を結ぶ七道駅路(東山道・北陸道・東海道・ 山陰道・山陽道・南海道・西海道)を中心とする交通制度の整備を 進めました。越後・佐渡国と都との往来には、日本海側を北上する 北陸道が用いられました。 駅路には、駅使(公の使者)らに馬や食料を提供するため、30里 (約16㎞)ごとに「駅」を設け、駅馬を置きました。駅使は各駅で 駅馬を乗り継ぐことによって、都と地方の間をスムーズに移動する ことができました。 時に足を乗せる鐙が出土し、三嶋駅との関連が推測されます。 柏崎市 箕輪遺跡 木簡 「駅家村」の文字が見える。 長さ約26㎝、幅約3.5㎝ 柏崎市 箕輪遺跡 壺鐙 くら 鞍に下げ、スリッパのように 足を入れて使用する。高さ約22㎝ 越後国・佐渡国の駅推定地 飛鳥∼平安時代のマツリ りつ りょう てき さい し −律 令 的祭祀− 飛鳥時代から平安時代にかけては、神や 霊を祀 る、罪 穢 を祓 う、吉 凶 を占うなど、 様々な目的でマツリが行われました。これ らのマツリは法典に細かな規則が定められ ていることから律 令 的 祭 祀 と呼ばれ、木 製祭祀具を使用するのが特徴的です。 越後・佐渡両国では、奈良時代に入って から国や郡の役所を中心に律令的祭祀が導 上越市 延命寺遺跡 木製祭祀具 舟形(上 2 点)・馬形(左中 5 点)・人形(左下 4 点)・斎串(右中・下16点) 左下の人形 長さ23.5㎝ 越後国・佐渡国の成立 柏崎市箕輪遺跡では、「駅家村」と書かれた木簡や、馬への騎乗 入されます。上越市延命寺遺跡では、律令 的祭祀に使われた舟形・馬形・人形・斎串 など多様な木製祭祀具が出土しています。 8 奈良時代のもの作り 飛鳥時代の終わりから奈良時代の初め( 7 世紀末∼ 8 世紀 前半)には、様々なもの作りの技術が越後・佐渡に伝わり、 人々の暮らしも変化しました。 す え き 須恵器作り 古墳時代中期( 5 世紀)、登り窯を用いて灰色 で硬い焼き物(須恵器)を作る技術が朝鮮半島から日本に伝 わりました。一方、須恵器の伝来以前から作られていた、登 り窯を用いずに赤く焼き上げる焼き物は、土師器と呼びます。 須恵器は、小型品はロクロ、中・大型品はロクロと叩き締 めによって形を作ります。甕や大型の壺の胴部に見える格子 状の模様は粘土紐を叩き締めた時に付いた工具の痕です。須 恵器を焼く窯は、丘陵の斜面に溝を掘り、アーチ状の粘土の 屋根をかけたもので、1,200℃くらいの高温で焼かれました。 須恵器窯の復元図 イラスト/間栄子 須恵器窯は丘陵の傾斜を利用して造られた。 県内では、飛鳥時代の終わり頃( 7 世紀末)から平安時代 の中頃( 9 世紀)にかけて、丘陵斜面を利用して多くの須恵 器窯が作られました。上越市滝寺古窯跡群や佐渡市小泊須恵 器窯跡群(県史跡)は、越後・佐渡を代表する大規模な須恵 器窯跡群です。須恵器は窯場の近隣の集落や役所を中心に流 通しましたが、小泊窯の製品は島外にも広く流通しました。 須恵器作りは、古くからある土師器作りにも変化をもたら しました。8 世紀前半から中頃になると、須恵器の技法で作っ た土師器を須恵器窯の近くで焼くようになり、須恵器と土師 須恵器作りの復元図 9 器を一体的に作る体制が出来上がりました。 甕を作る様子。叩き締めながら形を整えていく。 (出典/『「聖籠町史」考古資料を 読むための手引き』を改変) 県指定 上越市 滝寺古窯跡群 2 号窯 上越市 滝寺古窯跡群 2 号窯出土須恵器 窯の内部からは、焼き損じや、焼く時の台として使った 破片が大量に出土した。 左奥の甕 高さ62.5㎝ 鉄作り 奈良時代( 8 世紀)になると、県内でも海浜や川原 にある砂鉄を材料とし、木炭を燃料にした鉄作りが始まりま した。鉄を作る炉や炭窯は丘陵の斜面に造られ、須恵器窯の 近くに営まれることがよくあります。焼き物作りと鉄作りは ともに火(薪)と粘土を扱う作業であり、製鉄用炭窯と須恵 器の窯は形が似ていることから、互いに関係する仕事であっ た可能性があります。 竪 型炉による鉄作りの復元図 せいれん ろ 製錬炉には砂鉄と木炭を詰め、 フイゴで炉に送風しながら加熱する。 (提供/新潟市歴史博物館) 本格的な塩作りが始まります。古代の塩は濃縮した 海水を、バケツ型の土器(製塩土器)で煮詰めて作 りました。 新潟市 大藪遺跡 製塩土器 塩作りには、土器表面に粘土を輪積みした痕が残る 粗雑な土器を使用した。 左側の製塩土器 高さ約27㎝(提供/新潟市文化財センター) コラム 1 いわふねのき 新潟市 大藪遺跡 製塩土器遺構 濃縮した海水を製塩土器に入れて煮詰めていた跡。 (提供/新潟市文化財センター) 磐舟柵に関連する工房か − せい ぶ 村上市 西部遺跡 − 村上市西部遺跡は2004∼2008年にかけて発 掘調査が行われ、平安時代前半(10世紀前半 ほっ たて ばしら たて もの 頃)の大型の掘 立 柱 建 物 が 2 棟並んで見つ かりました。 か じ ろ 建物内部には鍛冶炉があり、周辺から鍛冶 うるし よう き によって生じる金クソや、漆を入れた容器な どが出土しました。鉄と漆の両方を使う製品 あぶみ (おそらくは鐙 など の馬具や弓矢などの 武器)の製作や修理 を行う大規模な工房 と考えられ、近隣に いわ 存在したとされる磐 越後国・佐渡国の成立 塩作り 奈良時代の初め( 8 世紀前半)、県内でも ふねのき 舟柵との関係が推測 されます。 村上市 西部遺跡 大型の掘立柱建物( 2 棟) 鍛冶の復元図 2 棟の建物の平面積は、左が約200㎡、右が約150㎡。 10 聖籠町 山三賀Ⅱ遺跡の集落の復元図 奈良時代の村 飛鳥時代から奈良時代初め( 7 世紀∼ 8 世 紀初め)には、数十軒の建物からなる大きな 村が出現します。奈良時代から平安時代の初 めに営まれた聖籠町山三賀Ⅱ遺跡は、その典 型的な例です。 村は、水田からやや離れた段丘や砂丘上な ど、水害の危険の少ない場所につくられるこ とが多く、 2 ∼ 4 軒程度の家がいくつか集 まって村をつくっていました。 当時の建物は、地面を掘りくぼめ、上に屋 根をかけた竪穴建物と、地面に穴を掘って柱 を立て、これに梁や桁を渡して屋根をかけた 掘立 柱 建物がありました。竪穴建物の一角 にはカマドが設けられています。掘立柱建物 の倉庫(米倉)は特定の建物に属さず、共同 で管理していたと考えられます。 聖籠町 山三賀Ⅱ遺跡 建物群 遺跡から出土した土器を見ると、ご 飯やおかずを盛る杯や鉢、貯蔵用の壺 などは主に須恵器、煮炊用の鍋・釜・ 甕などは土師器が用いられました。胴 長の甕はカマドに据えて木製の甑を置 き、お米を蒸しました。なお、当時は 箸を使用せず、ご飯は手で食べていた と考えられています。 古墳∼平安時代のお米の調理法 (出典/『柏崎市史 上巻』を一部改変) 聖籠町 山三賀Ⅱ遺跡 須恵器・土師器 奥左から/甕(長甕)・甕(小甕)・鍋 中央/壺 手前左から/杯と杯蓋・杯・鉢 手前右の鉢 高さ10.4㎝ 11
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