1300年記念企画展 配布資料1_3 - 新潟県

な
ら
へいあん
奈良・平安時代の交通制度
律令国家は、地方への政令の伝達や政府への報告を速やかに行う
ため、都と諸国の国府を結ぶ七道駅路(東山道・北陸道・東海道・
山陰道・山陽道・南海道・西海道)を中心とする交通制度の整備を
進めました。越後・佐渡国と都との往来には、日本海側を北上する
北陸道が用いられました。
駅路には、駅使(公の使者)らに馬や食料を提供するため、30里
(約16㎞)ごとに「駅」を設け、駅馬を置きました。駅使は各駅で
駅馬を乗り継ぐことによって、都と地方の間をスムーズに移動する
ことができました。
時に足を乗せる鐙が出土し、三嶋駅との関連が推測されます。
柏崎市 箕輪遺跡 木簡
「駅家村」の文字が見える。
長さ約26㎝、幅約3.5㎝
柏崎市 箕輪遺跡 壺鐙
くら
鞍に下げ、スリッパのように
足を入れて使用する。高さ約22㎝
越後国・佐渡国の駅推定地
飛鳥∼平安時代のマツリ
りつ りょう てき さい し
−律 令 的祭祀−
飛鳥時代から平安時代にかけては、神や
霊を祀 る、罪 穢 を祓 う、吉 凶 を占うなど、
様々な目的でマツリが行われました。これ
らのマツリは法典に細かな規則が定められ
ていることから律 令 的 祭 祀 と呼ばれ、木
製祭祀具を使用するのが特徴的です。
越後・佐渡両国では、奈良時代に入って
から国や郡の役所を中心に律令的祭祀が導
上越市 延命寺遺跡 木製祭祀具
舟形(上 2 点)・馬形(左中 5 点)・人形(左下 4 点)・斎串(右中・下16点)
左下の人形 長さ23.5㎝
越後国・佐渡国の成立
柏崎市箕輪遺跡では、「駅家村」と書かれた木簡や、馬への騎乗
入されます。上越市延命寺遺跡では、律令
的祭祀に使われた舟形・馬形・人形・斎串
など多様な木製祭祀具が出土しています。
8
奈良時代のもの作り
飛鳥時代の終わりから奈良時代の初め( 7 世紀末∼ 8 世紀
前半)には、様々なもの作りの技術が越後・佐渡に伝わり、
人々の暮らしも変化しました。
す
え
き
須恵器作り 古墳時代中期( 5 世紀)、登り窯を用いて灰色
で硬い焼き物(須恵器)を作る技術が朝鮮半島から日本に伝
わりました。一方、須恵器の伝来以前から作られていた、登
り窯を用いずに赤く焼き上げる焼き物は、土師器と呼びます。
須恵器は、小型品はロクロ、中・大型品はロクロと叩き締
めによって形を作ります。甕や大型の壺の胴部に見える格子
状の模様は粘土紐を叩き締めた時に付いた工具の痕です。須
恵器を焼く窯は、丘陵の斜面に溝を掘り、アーチ状の粘土の
屋根をかけたもので、1,200℃くらいの高温で焼かれました。
須恵器窯の復元図 イラスト/間栄子
須恵器窯は丘陵の傾斜を利用して造られた。
県内では、飛鳥時代の終わり頃( 7 世紀末)から平安時代
の中頃( 9 世紀)にかけて、丘陵斜面を利用して多くの須恵
器窯が作られました。上越市滝寺古窯跡群や佐渡市小泊須恵
器窯跡群(県史跡)は、越後・佐渡を代表する大規模な須恵
器窯跡群です。須恵器は窯場の近隣の集落や役所を中心に流
通しましたが、小泊窯の製品は島外にも広く流通しました。
須恵器作りは、古くからある土師器作りにも変化をもたら
しました。8 世紀前半から中頃になると、須恵器の技法で作っ
た土師器を須恵器窯の近くで焼くようになり、須恵器と土師
須恵器作りの復元図
9
器を一体的に作る体制が出来上がりました。
甕を作る様子。叩き締めながら形を整えていく。
(出典/『「聖籠町史」考古資料を
読むための手引き』を改変)
県指定
上越市 滝寺古窯跡群 2 号窯
上越市 滝寺古窯跡群 2 号窯出土須恵器
窯の内部からは、焼き損じや、焼く時の台として使った
破片が大量に出土した。
左奥の甕 高さ62.5㎝
鉄作り 奈良時代( 8 世紀)になると、県内でも海浜や川原
にある砂鉄を材料とし、木炭を燃料にした鉄作りが始まりま
した。鉄を作る炉や炭窯は丘陵の斜面に造られ、須恵器窯の
近くに営まれることがよくあります。焼き物作りと鉄作りは
ともに火(薪)と粘土を扱う作業であり、製鉄用炭窯と須恵
器の窯は形が似ていることから、互いに関係する仕事であっ
た可能性があります。
竪
型炉による鉄作りの復元図
せいれん ろ
製錬炉には砂鉄と木炭を詰め、
フイゴで炉に送風しながら加熱する。
(提供/新潟市歴史博物館)
本格的な塩作りが始まります。古代の塩は濃縮した
海水を、バケツ型の土器(製塩土器)で煮詰めて作
りました。
新潟市 大藪遺跡 製塩土器
塩作りには、土器表面に粘土を輪積みした痕が残る
粗雑な土器を使用した。
左側の製塩土器 高さ約27㎝(提供/新潟市文化財センター)
コラム
1
いわふねのき
新潟市 大藪遺跡 製塩土器遺構
濃縮した海水を製塩土器に入れて煮詰めていた跡。
(提供/新潟市文化財センター)
磐舟柵に関連する工房か −
せい ぶ
村上市 西部遺跡
−
村上市西部遺跡は2004∼2008年にかけて発
掘調査が行われ、平安時代前半(10世紀前半
ほっ たて ばしら たて もの
頃)の大型の掘 立 柱 建 物 が 2 棟並んで見つ
かりました。
か
じ
ろ
建物内部には鍛冶炉があり、周辺から鍛冶
うるし
よう き
によって生じる金クソや、漆を入れた容器な
どが出土しました。鉄と漆の両方を使う製品
あぶみ
(おそらくは鐙 など
の馬具や弓矢などの
武器)の製作や修理
を行う大規模な工房
と考えられ、近隣に
いわ
存在したとされる磐
越後国・佐渡国の成立
塩作り 奈良時代の初め( 8 世紀前半)、県内でも
ふねのき
舟柵との関係が推測
されます。
村上市 西部遺跡 大型の掘立柱建物( 2 棟)
鍛冶の復元図
2 棟の建物の平面積は、左が約200㎡、右が約150㎡。
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聖籠町
山三賀Ⅱ遺跡の集落の復元図
奈良時代の村
飛鳥時代から奈良時代初め( 7 世紀∼ 8 世
紀初め)には、数十軒の建物からなる大きな
村が出現します。奈良時代から平安時代の初
めに営まれた聖籠町山三賀Ⅱ遺跡は、その典
型的な例です。
村は、水田からやや離れた段丘や砂丘上な
ど、水害の危険の少ない場所につくられるこ
とが多く、 2 ∼ 4 軒程度の家がいくつか集
まって村をつくっていました。 当時の建物は、地面を掘りくぼめ、上に屋
根をかけた竪穴建物と、地面に穴を掘って柱
を立て、これに梁や桁を渡して屋根をかけた
掘立 柱 建物がありました。竪穴建物の一角
にはカマドが設けられています。掘立柱建物
の倉庫(米倉)は特定の建物に属さず、共同
で管理していたと考えられます。
聖籠町 山三賀Ⅱ遺跡 建物群
遺跡から出土した土器を見ると、ご
飯やおかずを盛る杯や鉢、貯蔵用の壺
などは主に須恵器、煮炊用の鍋・釜・
甕などは土師器が用いられました。胴
長の甕はカマドに据えて木製の甑を置
き、お米を蒸しました。なお、当時は
箸を使用せず、ご飯は手で食べていた
と考えられています。
古墳∼平安時代のお米の調理法
(出典/『柏崎市史 上巻』を一部改変)
聖籠町 山三賀Ⅱ遺跡 須恵器・土師器
奥左から/甕(長甕)・甕(小甕)・鍋
中央/壺
手前左から/杯と杯蓋・杯・鉢
手前右の鉢 高さ10.4㎝
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