異世界チート魔術師(マジシャン) 内田健 タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト http://pdfnovels.net/ 注意事項 このPDFファイルは﹁小説家になろう﹂で掲載中の小説を﹁タ テ書き小説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。 この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また は﹁小説家になろう﹂および﹁タテ書き小説ネット﹂を運営するヒ ナプロジェクトに無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範 囲を超える形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致し ます。小説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。 マジシャン ︻小説タイトル︼ 異世界チート魔術師 ︻Nコード︼ N7500BD ︻作者名︼ 内田健 ︻あらすじ︼ 異世界にワープした普通の高校生西村 太一。 現代ではどこにでもいる、ちょっと運動が得意なだけの彼は、異世 界ではとんでもない規格外な存在だった。 地球に戻りたいが、まずは生きていかなくてはならない。 巻き込まれた友人と共に、チートな太一が異世界を駆ける! 1 二巻発売 2013/06/28 一巻発売 2013/12/28 2014/09/28 三巻発売 2 プロローグ1︵前書き︶ 一応完結までのプロットは出来てます。。。 3 プロローグ1 パンダ模様のボールが抜けるような青空に舞う。 退屈な授業のために教室に閉じ込められていた少年少女が、息を 吹き替えしたようにグラウンドを走る。 数学が終わって体育の授業。晴れた爽やかな天気に外を駆け回る。 高校生になってもそれは楽しいに違いないのだ。 ﹁太一!﹂ 一五メートル離れたところからボールがこちらに飛んでくる。 サッカー部もかくやという見事なトラップでボールを受けた西村 太一の立ち位置は、ペナルティエリアの内側。これも巡り合わせ か、マークが外れている。パスを出してきたのは現役のサッカー部 だったはずだ。 この好機を見抜いてパスを出してきたのだろう。流石は本職、セ ンスと運動神経が優れるだけの太一とはやはり違う。 トラップしたボールが地面につく前に、そんな思考を振り払う。 今は負けているのだ、折角のチャンスなのだから決めなきゃ損損、 というやつだ。 助走してカッコ良くゴールネットを揺らしてやろうと意気込む太 一の目に飛び込んできたのは⋮⋮中学からの悪友の顔だった。その 瞬間、全てのしがらみが太一から消え失せる。 ﹁ボールを貴史の顔面にシュウウウウウッッッ!!﹂ ﹁ちょ⋮⋮ぶへっ!?﹂ 真っ当な使い方しろよと言いたくなるようなコントロールのシュ ートが、避けようとした貴史の動きを先読みしたかたちで飛ぶ。才 4 能の無駄遣い甚だしい。 見事な顔面ブロックと、グラウンドを転がるボール。足を振り抜 いた太一と、イケメンと呼んでいい顔面を真っ赤にして後ろに倒れ る貴史。 ﹁超・エキサイティング!!﹂ ﹁じゃかあしいわああ!!﹂ バト○ドームゴッコで絶好のチャンスを潰した太一のチームは、 案の定負けたのだった。 ﹁太一テメエ! やってくれんじゃねえか!﹂ ﹁いやあごめん貴史! お前の顔見たら当てなきゃイケないという 天啓が⋮⋮﹂ ﹁ほう⋮⋮覚悟は出来てるって事だな?﹂ 恒例のじゃれ合い。 高校入学早々に、学年名物になっているのを、二人は知らない。 そして、その名物にはもう一人。 ﹁⋮⋮相変わらずのバカ二人﹂ 若干ハスキーで耳心地の良い声が二人に届く。 呆れを隠そうともしないその音色を、太一と貴史は当然知ってい る。 5 カナデ ﹁お、奏か。やっつけてきたのか?﹂ ﹁んなわけないでしょ。授業なんだから﹂ ﹁そりゃそうか。お前チートだもんな﹂ ﹁チートゆーな!﹂ 持っていたラケットを振り上げる奏に、素早く後退りする太一と 貴史。 吾妻 奏。 小さい頃からテニスに打ち込み、ジュニアでは全国区の実力者で ある。 相当に鍛え上げているはずなのだが、彼女を見る限りそんな印象 は一切受けない。背は女子にしては高めで、出るとこは出て引っ込 むところは引っ込んでいるモデル体型。十人中九人は﹁可愛い﹂と 口を揃えるだろう整った顔立ち。背中まで伸びる黒髪は今はポニー テールにされてそよ風になびいている。姿勢の良さも相まって、立 っているだけで絵になる少女だ。 そしてイケメン小野寺 貴史。 背は一八〇を超え、細マッチョの美少年。既に学年ではもてラン キングトップ三に入っているのは、本人だけが知らないことだ。風 の噂では、既に二人に告白されているという恐ろしい男。しかもど ちらも結構可愛い女の子だったのに、即座に断りを入れたという全 国のモテない男子の敵である。 実は中学時代から奏が好きで、遊びなれていそうな見た目に反し て実は告白する勇気が出せないヘタレ野郎な事実は、太一だけが知 っている。 そして西村 太一。美男美女に囲まれるモテない男子代表。特別 イケてる顔面は持ち合わせておらず、背も奏と同じくらいの一六八 センチ。 成績は中の下、運動神経とセンスはいいが、苦労や努力が割と嫌 いな性格が災いし、何をやっても器用貧乏。部活に明け暮れる青少 6 年を敵に回している宝の持ち腐れが服を着て歩く存在。 一見呑気な顔をしているが、彼にも悩みのひとつはある。彼と仲 が良い貴史と奏が悩みの種だ。経済格差に匹敵するルックス格差を 日々痛感するお年頃。 一部の腐女子からは、貴史総責め、太一総受け、等という背筋も 凍る妄想の対象になっている事は知らない。知らぬが仏ということ わざを説いた昔の偉い人には拍手を送るべきだろう。 これは日常の一コマ。いつもと変わらない日々。 罵り合いすら楽しい。高校に上がって友達も増え、楽しさも倍増 したのだ。貴史と奏の文句の言い合いを眺め、太一は自分が笑って いる事に気付いた。 少し考えて、この時間が好きなんだという結論に至る。 何も、変わらないと思っていた。 だが日々世の中は変わっていく。 頭では分かっていても、実感するには、太一はまだ若かった。 ﹃⋮⋮⋮ッ! ⋮⋮⋮⋮ッッ!!﹄ ﹁ん?﹂ ふと何かが聞こえた気がして立ち止まる。 振り返った太一が見たのは、人がいなくなって寂しげなグラウン ド。 ﹁気のせいか?﹂ その呟きに応える者はいない。 太一は踵を返し、遠くで呼んでいる友人の元に小走りで駆けてい った。 7 これが日常の終わりを告げるチャイムだと、当の太一には知るよ しも無かった。 8 プロローグ1︵後書き︶ 書いちゃった。。。 ついに書いちゃった。。。 本当にすみません。。。 かなで です。 2012/04/16追記 奏の読み方は ご指摘頂きましたので念のため⋮ 9 プロローグ2︵前書き︶ むしゃくしゃしてやりました。 後悔と反省がちょっとあります。。。 10 プロローグ2 夕焼け色に染まる駅前通りに一人。 いつも一緒に帰っている友人二人とは、今は離れて歩いている。 商店街を散策中意図的にはぐれたのだ。二人にはメールで﹃一七 時に駅前で落ち合おう﹄と連絡してある。 さて。浮いた時間をどう使おうか。太一は読んでいたマンガ雑誌 を置いてコンビニを出た。買い物客や、帰宅途中のサラリーマン、 学生で賑やかだ。 喧騒に揺られて目的も無くふらふらとさまよう。そういえば、ト イレットペーパーのストックが少なくなっていたはず。仕事が忙し くて帰宅が遅い両親に期待するのも酷だし、今頃彼氏とよろしくや っている姉はそんな事に頓着していないだろう。 必然的に家事は太一の仕事だ。面倒くさがりな彼にとっては多分 に不本意だが、やらないと明日はくパンツも無いのだから仕方が無 い。手伝いを頼もうにも、前述の通り忙しすぎる両親には頼みにく いし、姉とはあまり仲が良くない。⋮⋮というより、お互い変に遠 慮しあっている、といったところか。何でそうなったのか、太一に も姉にも説明は出来ないのだが。 どうせ暇なのだ。そう一人ごちて、太一は近くにあるドラッグス トアに足を向けた。 何でこんなところを一人で歩いているのか。もちろん、目的も無 く親友達と離れた訳ではない。 中学時代からのヘタレ街道に終止符を打とうとした某イケメンが、 一目ぼれした腐れ縁に自分の気持ちを告げる決意をした、と、柄に もない真剣な顔で相談してきたのは今日の昼の事。 流石にあんな顔をされて茶化す気にもなれなかった太一は、そう か、と一言で納得してこのように段取りを決めた。 放課後やると決めた太一に﹁今日かよ!? 心の準備が⋮⋮﹂と 11 ごねるヘタレ貴史を一発殴って黙らせ、強制的に二人きりにしたの だ。 あのヘタレ貴史のことだから、大事なところで噛むんだろうなあ、 と思いながらも、思わず頬が緩む。 これで晴れて美男美女カップルの誕生だ。 貴史は言う必要も無いことだがイケメンである。しかも頭も悪く ないし、空手をやっているから喧嘩も負けなし。背も高くて細マッ チョで気前良く気配り上手。太一が欲しいなあ、と思う長所をすべ て持っている男なのだ。 完璧超人とも言うべき彼に、ヘタレなところがあるというのは最 早愛嬌程度でしかない。 ﹁但しイケメンに限る﹂を地で行く男。 そして奏。 彼女も学年ではトップレベルの美少女。⋮⋮いや、高校一年生だ がヘタしたら美女と言ってもいいかもしれない。 街を歩いていて雑誌モデルにスカウトされた回数は片手の指じゃ 足りない。性格もサッパリしていてノリもよく、おまけに相手を思 いやる事も出来ると言う事なし。 貴史と同じく完璧超人と言っていいだろう。ただまあ、大好きな テニスの話題になると相手を放り出してヒートアップしてしまうの だが、これも愛嬌で済むレベル。 二人が並んで歩いていると男女問わず振り返ったりするのを、太 一は幾度と無く目にしている。 そして、自分は引き立て役なんだろうなあ⋮⋮と遠い目をした回 数も、もう数えるのが億劫だ。 さて一七時には手を繋いで現れるだろうか。見せ付けられるとこ ろも覚悟しなければならない。 もちろんそれを望んでいるし、見せ付けてくれる貴史と奏を冷や かしてからかう言葉も用意済み。 ⋮⋮そして、モテない男であるという事実を突きつけられる覚悟 12 をしていないのに、今更気付くのだった。 商店街を歩く美男美女。 お互いにアイドル並の容姿を誇っているためにとても目立ってい る。道行く女子高生やサラリーマンが、思わず振り返ったり、二度 見してしまう程度には。 渦中の二人は無言である。仲睦まじい姿でなくても絵になるのだ から、美形は得だ。 ﹁⋮⋮なあ、奏﹂ ﹁ん?﹂ 丁度人通りが無くなり、喧騒から若干離れたところで、貴史は奏 に向き合った。 普段との様子の違いを何となく察していた奏も、特に何か問うこ となく貴史に合わせる。 ﹁俺にも、チャンスはあるか?﹂ 告白の言葉は、変化球で貴史から紡がれた。 彼の顔はとてもサッパリしていて、返事を待つと言う緊張には侵 されていない。 それよりも、言いたい事をついに言えた、という充足感さえ感じ られた。 貴史の言葉の意味をじっくり咀嚼した奏は、やがてゆっくりと首 を左右に振った。そのリアクションは分かっていたのか、貴史は特 に落胆する様子は無い。 13 ﹁やっぱり、あいつの方がいいか﹂ 問いかける、というよりは確認する口調。 貴史の言葉に、奏はやや間を空けて頷いた。その頬が若干紅く見 えるのは、夕焼けが当たっているから、だけではなさそうだ。 ﹁ったく。ちょっとはオブラートに包めよ﹂ ﹁⋮⋮ごめん﹂ あっけらかんと笑う貴史に、申し訳無さそうに顔を歪める奏。貴 史はその笑みを苦笑に変え、彼女の額を指で突いた。何も知らない 第三者から見れば、恋人同士のいちゃつき合いにしか見えない。 ﹁そんな顔すんなよ。分かってた事だ。分かってても、伝えておか なきゃ気が済まなかっただけなんだからさ﹂ 分かるだろ? と言いたげな貴史に、奏は今度こそ笑って頷いた。 ﹁ったく。何もかも分かったような振りしやがって。一番の朴念仁 は絶対アイツだよな﹂ ﹁そうね﹂ 返事は短いが、大いに賛成のようで強く頷く奏。 貴史は、奏が自分のほうを見ていないことに気付いていた。奏が 見ているのは太一だと気付いたのは、中学二年の時。どうして彼女 に恋心が生まれたのか、好きな人の事だからこそ、貴史はその理由 さえも分かっていた。 貴史と奏の事を分かっているような顔をしている太一が、実は一 番分かっていないというのは、二人の共通認識である。 14 かれこれ二年近く想いを間近で寄せられて、一向に気付かないの だから、不名誉な評価も受けて当然だろう。 ﹁奏もめんどくせえヤツに惚れちまったな﹂ ﹁全くよ。前途多難だわ﹂ 自分が想いを寄せる相手が物凄いニブチンだと酷評する奏。何度 思わせぶりな態度をとっても言葉を使っても、一向に気付く気配が 無いのだ。自分から告白するのは負けた気がして口惜しい、という 妙なプライドを持つ奏は、太一に告白させようと日々努力をしてい るのだが、当の太一はまるで察しない。 いっそ強引にキスでもしてやらないと気付かないかしら⋮⋮等と 言う彼女の顔は怒りに染まっている。あの朴念仁の朴念仁ぶりが脳 裏に蘇ってはらわたが煮えくり返っているのだろう。 それでも太一の事を話す奏がとても楽しそうなのは、彼女の気持 ちがホンモノだという証明に他ならない。 その様子を見て再度納得したのか、貴史は吹っ切れた面持ちで前 を向いた。 ﹁行くか。そろそろ五時だ﹂ ﹁そうね。今頃アホ面して駅前で突っ立ってるわね﹂ ⋮⋮本当に好きなのか? と勘ぐってしまう口ぶりだが、それす らも愛情表現だと分かっている貴史は、﹁だから好きになったんだ よなあ﹂と、隣の恋する乙女の顔をした美少女の事をほほえましく 思うのだった。 15 遠くから人目を引く二人のシルエットがこちらに近づいてくる。 ﹁⋮⋮んん?﹂ 思った以上に二人の間が空いていて、太一はいぶかしんだ。 上手く行かなかったのだろうか。 何故。 貴史と奏ならお似合いだと思ったのだが。 上手く行かない理由の見当もつかない。答えが出ないまま、二人 が太一の元にやって来た。 ﹁お待たせ。待った?﹂ ﹁いや。今来たとこだ﹂ そのやり取りが相当ベタだという事に、言い合ってから気付いた 太一と奏が苦笑しあう。 ちらりと貴史を見るが、あまり落ち込んでいるようにも見えない。 今は平静を装っているのか。その程度の演技なら見抜ける位には 付き合いがあるし、事実見抜いたこともある太一は、貴史の振る舞 いがこれ以上なく自然な事に再び疑問を覚える。 しかし、貴史が太一の目を欺けるほどに演技の腕を上げた可能性 も無くは無い。そうだとするなら彼は今傷心中のはずなのだ。下手 に突っついて傷口を広げるのは躊躇われた。 ﹁さて。帰るか﹂ ﹁そうだな﹂ 口火を切ったのは貴史。それに何も異論は無く、太一も頷いた。 改札に向かって歩き出そうとして⋮⋮後ろから来た急ぎ足の中年 の男が、奏を突き飛ばした。 16 ﹁きゃ!﹂ ﹁おっと﹂ 突き飛ばされた先にいた太一は、ふらついた奏を抱きとめる。 ﹁大丈夫か?﹂ ﹁あ、うん⋮⋮ありがと﹂ 顔を紅くして俯く奏。こんな表情をされたら思わずハートが打ち 抜かれるだろー! と突っ込む貴史が必死にポーカーフェースを貫 く横で、素でポーカーフェースを貫く太一を憎らしくも思う。 惚れた女が、自分にはこんな顔を向けてくれないのだ。 いくら相手が親友とはいえ、多少なり思うところがあるのは人間 として仕方の無い事だろう。 これだけなら、恋路を応援する少年が少し嫉妬した、だけで済ん だ。 好きな男子に助けられた少女が、嬉し恥ずかしのハプニングに気 が動転した、だけで済んだ。 親友が突き飛ばされて、姿が見えなくなった乱暴な犯人に苛立ち を覚えた、だけで済んだ。 17 太一と奏の足元が、異様な輝きに包まれなければ。 ﹁なっ!﹂ 声を上げたのは誰か。 驚きの表情で太一と奏を見る貴史。 周囲の雑踏を歩いていた人々も、人外の出来事に足を止め、目を 丸くしている。 ﹁何これっ!?﹂ 自分の常識外の出来事に襲われた奏は、太一の制服を強く掴む。 それが、彼女の運命を大きく変えると気付かずに。 足元の輝きは、綺麗な円をかたどって輝いている。 幾何学模様の解読不能な文字列が、高速で回転し、宙にすら舞っ ている。 ﹁太一! 奏! 離れろッ!!﹂ 突如歪む世界。親友の顔が、二人には酷くいびつに見えた。 終始驚きで声すら上げられないまま、太一の視界はそこで暗転し た。 18 プロローグ2︵後書き︶ 次回は呼び出した人を少し描写します。 19 プロローグ3︵前書き︶ プロローグラストです。 20 プロローグ3 大神殿のど真ん中、鏡面まで磨き抜かれた床に燦然と輝く魔法陣。 三晩の間寝ずに複雑を極める詠唱を続けなければならない、正に 知識と努力の結晶。魔術に少しでも造詣があれば、この魔法陣がど れ程に高度か見れば分かるだろう。 ﹁⋮⋮﹂ 長かった準備期間も、ようやく終わりを迎えた。 神々しささえ覚える銀色の光を瞬かせ、魔法陣は起動の時を今か 今かと待ちわびている。 ﹁ついに完成したのですな、殿下﹂ ﹁テスラン⋮⋮ええ﹂ 普段灯りを使うことの無い大神殿の祈りの間。 真っ昼間でも薄暗いのがこの場所の常なのだが、今は魔法陣の光 によって晴天の下にいるかのような明るさだ。 ”殿下”と呼ばれたのは女の子。腰まで伸びるプラチナブロンド が、魔法陣からあふれでる魔力の余波でうっすらと揺れている。絶 世の美人と呼んでいいかんばせと相まって、幻想的な空気を纏って いる。三日三晩不眠不休だったせいで隠しきれない疲労が滲んでい るが、そんなのは些細だ。 薄いローブは、正式な魔法の儀が執り行われる時の由緒正しき正 装。女として成熟してきた彼女の身体のラインを意図せず鮮明に浮 かび上がらせ、えもいわれぬ妖艶さだ。男ならば劣情を抱いたとし て誰にも責められない程度には。 ただ、その雰囲気に対して彼女の顔立ちは幼さもはらんでいる。 21 少女と呼ぶには些か大人で、女性と呼ぶには若干若い。そんな今し かない絶妙な美しさを持つ彼女こそ、この高等な魔法陣をたった一 人で紡いだ高位の魔術師である。 そんな彼女を、最愛の娘を慈しむような瞳で労うテスラン。少し 白髪の混じった黒髪はまだまだ豊かで、精悍な顔つきには鎧とツヴ ァイハンダーが良く似合うロマンスグレーだ。 ﹁テスラン。人払いは⋮⋮﹂ ﹁無論済んでおります。ここには殿下と拙者のみです﹂ ﹁分かりました。では、始めましょう﹂ 少女はテスランから魔法陣に向き直る。やや間をおいて、両手を 魔法陣にかざした。 ﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮ッ!﹂ 先ほどの穏やかな語り口からは想像出来ないほどの早口で呪文が 紡がれる。 その様子を後ろから眺めるテスランはごくりと喉をならした。 魔法陣が輝きを強くする。 テスランは剣の腕には覚えがあるが、魔法は騎士としては並のレ ベル。うら若き乙女ながら、既に歴史上の賢者と肩を並べる程の腕 を持った大魔術師に掛け値無い尊敬を抱いている。 戯れに宮廷魔術師の長に聞いた話では、本来宮廷魔術師を十人揃 え、七日七晩かけてようやく魔法陣を紡げるか否かだと言うのだ。 それをたった一人で、それも半分にも満たない時間で術を起動させ てしまうのだから、彼女の規格外さが分かろうというもの。 歴史に名を残す事が確実と言われる少女に仕える事が出来て、テ スランは言葉にできない感慨に包まれていた。 だからそれは、腕の立つ彼をして、油断としか言いようがなかっ 22 た。 ﹁ヒャハハァ!?﹂ 響く奇声。 テスランが想わず背負った剣の柄を握ると同時に、柱の向こうか ら人影が躍り出たのだ。 馬鹿な、人払いは完璧のはず! 侵入者を許した上にその無駄な思考。 それが、事態を悪化させた。 具体的には、取り返しがつかないほどに。 三日三晩の努力の結晶を、一瞬で無為にする事態に。 侵入者は手に杖を持って、恐ろしい速さで魔術師の少女に向かっ ている。人間の出せる速さではない。恐らくは、魔術での身体強化。 彼女にそれを止める術はない。そもそも他のことに気を向けて操 れる魔術ではないのだ。 ﹁させん!﹂ 驚愕に固まった身体に喝を入れ、テスランが侵入者に向かう。 テスランの剣が侵入者を切り捨てるのと、彼の者が手にした杖の 先が魔法陣に触れるのは、ほぼ同時だった。 少女の目の前で行われた凶事。 最悪の結末は防げたものの、それが救いにすらならない事態が、 彼女とテスランを襲う。 およそ常識では考えられない程に精緻な魔法陣。予想外の出来事 に術式を寸断させなかった少女の精神力は見事と誉めて良いだろう。 だが、魔法陣は、へそを曲げてしまった。 今までは幻想的な銀の瞬きで見る者を圧倒していた魔法陣。 その輝きが、一瞬にして濁った鈍色に変わった。 23 ﹁⋮⋮ッ! お願いっ! 待って!!﹂ 悲痛な懇願も届かず、魔法陣は光を失い、その役目を終えた。 ﹁嘘⋮⋮そんな⋮⋮そんなのって⋮⋮﹂ 目の端にじわりと滲んだ涙を咎められる者はいないだろう。 儀式の邪魔をする︱︱︱ その浅ましい目的を達した侵入者は、人の神経を逆撫でするよう な笑みを浮かべ、既にこの世を去っていた。 24 プロローグ3︵後書き︶ 次から本編になります。 25 異世界に来ました1︵前書き︶ さて、ここから本編! 勢いとは恐ろしい⋮ 26 異世界に来ました1 太一が最初に感じたのは、ほほを撫でる優しい風。ここ最近は縁 遠かった、自然のかおりを含んだものだ。 特に何か変な事にはなっていないらしい。突如襲ってきた不可思 議な現象も、どうやら無事に終わったようだ。 恐らくあれはドッキリだったんだろうなあ。流石はテレビ、変な とこに金かけやがる。 太一が現象に対する考察はそんなところだ。一五才の知識と人生 経験ではその程度が限界だ。最も、長く生きていれば分かるような ものでも無いのだが。 ⋮⋮そんなことを考えられる程度には冷静になってきた思考。そ して、掛けられた重さと温もりに気付く。 それを確かめるべく目を開けると。 目をぎゅっと強く閉じ、制服を握り締めた奏が、太一に寄りかか っていた。 何だか良い香りがする。奏って柔らかいんだなー⋮⋮等と不謹慎 な思考に駈られる彼を責めないで欲しい。太一も健全な男子高校生。 思春期真っ只中なのだから。 ﹁⋮⋮奏?﹂ 太一の声にぴくりと肩を揺らし、恐る恐る目を開ける奏。 これまでに無い至近距離で視線が交わる。 不安げだった奏の表情が、少しずつ驚愕に染まり。 ﹁何どさくさに紛れて抱きついてるのよっ!﹂ ﹁理不尽ッ!?﹂ 27 突き飛ばされた。 視界が空転したおかげ?で、赤く染まった奏の頬に気付かなかっ たのは、幸か不幸か。いつもならそれに突っ込むイケメンは、側に はいない。 その違和感に気付いたのは、お互い以外が視界に飛び込んできた からだ。 ﹁⋮⋮﹂ なんだこれは。 そんな一言すら出てこない光景に、言葉を失う太一と奏。 晴れた青空は親しみなれた空そのもの。そこにぽっかりと浮かぶ 白い雲もまた然り。 違和感の正体は、三六〇度の大パノラマで広がる光景。 見渡す限り、地平線まで伸びる大草原。 日本に住んでいて、地平線など拝む機会があるだろうか。いや無 い。 むしろ、地球上を探したところでこれと同じ光景に出会える地域 は一握りだろう。もちろん、太一と奏にはこんな景色に見覚えはな い。 これが旅行なら、想定を上回る壮大さに感動で言葉を奪われるだ ろう。だが今二人が言葉を失っているのは、予想の斜め上を行く展 開に思考がストップしてしまっているからだ。 ﹁なあ奏﹂ ﹁何﹂ ﹁俺の顔殴ってくれ。どうやら立ったまま寝てるらしい﹂ ﹁それなら私の頭を先に叩いて。今すぐ起きたいから﹂ 普段の何気ないやり取りも、阻むものの一切無い開けた土地に、 28 吸われて消える。 辺りを一度見渡して気付いてしまっている。ここには、太一と奏 しかいないことに。それを認めたら終わりな気がして、二人は再び 黙り込んだ。 呆然としたまま顔を落とせば、地面に生える草は見慣れないもの ばかり。近所の空き地に生える雑草とは毛色が全く違う。土の色は 変わらない。が、掘り起こした土の中から顔を見せたのは、凡そ見 たこともない虫だった。 太一の脳裏に、考えたくない仮定が生まれる。頭から振り払おう にも、こびりついて離れない。 今の太一は挙動不審そのものだ。いつもならそんな太一にぐだぐ だと突っ込みを入れる奏も、気付いていて黙っている。太一の尋常 じゃない表情を見てしまったからだろう。 どれだけ、そうしていただろうか。電波など届くはずの無い携帯 の時間は、一八時を回っている。約一時間、こうしていたらしい。 ﹁太一﹂ ﹁ん?﹂ 掛けられた声に思った以上に平静に答えられた自分を心の中で褒 める太一。 ﹁座ろう? あそこに良さげな石があるよ﹂ 奏が指す指先を追っていくと、なるほど椅子にするにはちょうど 良い石がいくつか。地べたに座っているより余程いいだろう。 側に転がっている学生鞄を拾って、二人並んで歩く。 平素の太一と奏からすれば考えられない程に近い距離感だが、い きなり見知らぬ土地に放り出された不安がそうさせるのだ。またそ れを茶化す余裕などあるはずがない。 29 こんな所でも、一人ではない、というのはかなり頼もしい。二人 でいれるからこそ、ここまで落ち着いていられるのだ。 向き合う形で腰を下ろした太一と奏。少しして、奏が太一の横に 座り直した。他にも石はいくつかあるのだから、それは不安の現れ と言える。そして、そんな事にすら気付けない二人の心理もまた。 ﹁これ、何だと思う?﹂ 太一が切り出した問いに、奏は首を左右に振った。 ﹁分からない。分かりたくもない⋮⋮﹂ ﹁そりゃそうだ﹂ 努めて出した明るい声が虚しく散る。 ﹁太一は?﹂ ﹁え?﹂ ﹁太一は、どうなの?﹂ ﹁⋮⋮﹂ 色々はしょった問い掛けだが、その意図が分からない訳じゃない。 一度小さく吸って吐く。多分だけど、と前置きし、太一は視線を 地面に向けた。 ﹁ここは、地球じゃない﹂ ﹁⋮⋮﹂ 奏からの返事はない。 それは目を逸らしていた現実。認めてしまえば、もう戻れないよ うな気がして。 30 しかし、無知な子供の振りで現実逃避は出来ないくらいには、太 一も奏も大人に近かった。 ﹁⋮⋮どうしよう?﹂ ﹁人、探してみるか﹂ ﹁見渡す限り草しかないわよ? 宛が外れたら?﹂ ﹁そこまで責任取れねえよ。ここで待ってて人が一切通らなかった ら?﹂ ﹁⋮⋮それも責任取れないわね﹂ 留まるのも躊躇われ、動くのも躊躇われる。視界に映る景色はど こまで行っても同じ。地図なんてあるはずもないし、運良く持って いたとして。今どちらを向いているのか、どちらに歩けばいいのか、 方角すら分からない。 八方手詰まりである。 何も出来ないという現実を突きつけられ、途方に暮れる太一と奏。 こういう時にかけられるのが追い討ち。所謂泣きっ面に蜂である。 がさりと草が揺れる音。そして何だが不穏な気配。振り返った二 人が見たのは⋮⋮鋭く長い牙を生やした、人の倍は背の高い馬だっ た。 31 異世界に来ました1︵後書き︶ 太一君のチートはもう少し先です。 後奏ちゃんもそこそこチートです︵笑︶ 32 異世界に来ました2︵前書き︶ 魔物と魔法初登場! 33 異世界に来ました2 ざり、と前足が地面を掻く。踏ん張る場所を作っているかのよう な動作。 濃い紫の毛並みはつやつやと太陽の光を反射している。 彼我の距離は凡そ一〇メートル。まだ多少距離はある。 逃げるしかない︱︱︱ 頭でそう分かっていても、身体が一切言う事をきかない。 ﹁何だ、ありゃ⋮⋮﹂ ﹁私に聞くな﹂ ﹁もしかして、結構ヤバげ?﹂ ﹁いや⋮⋮もしかしないでしょ、コレは﹂ 相手からの明らかな害意というものに、太一も奏も今まで触れる ことなく生きてきた。 今向けられているのは、殺気。捕食者が獲物を狙う目。とでも言 えばいいのだろうか。 例えるなら、小型のバス程もある巨大な生き物が、鋭い牙を剥い て剣呑な空気を向けてきている。 そう考えれば、その恐ろしさは少しは伝わるだろう。 ぶるるる︱︱︱そんな粗い鼻息が、二人の耳朶を強烈に叩く。 こんな巨大な生き物が、ここまで近づくのに一切気付かないとは。 この見晴らしのいい草原で、一体どれだけ注意散漫だったのだろう か。 地球で似たような場所を探すとすれば、アフリカのサバンナが筆 頭だ。あそこに生息するライオンやハイエナ、ジャッカルなどの肉 34 食動物の名前は、動物に別段詳しくなくても聞いた事くらいはある だろう。そして、それがどれほど危険なのかも、体験はしていなく とも知識としては知っていた。 まして、ここは地球じゃない。そういう仮定を否定できなかった はずではないのか。 このような危機が発生する可能性を、考えてしかるべきではなか ったのか。 太一は、全く周りが見えていなかったことに舌打ちする。 どう考えてもこれはまずい。 生き延びるビジョンが一切見えてこない。 姿は馬。太一が知る限り、馬は人間とは比べ物にならないほどの 長距離を、世界最速の人間の倍に達する速さで走る事が出来る。彼 らと張り合うなら最低でも原付バイク。この状況で逃げ切るならオ フロードバイクや四駆のSUVが欲しい。どう考えても、徒歩で競 っていい相手ではない。 太一と奏が知る馬よりも明らかに巨大だが、それでも彼らよりは 確実に速いだろう。いや、この状況では自分達の常識に囚われるべ きではない。 ちらりと横の奏を見る。 最悪、彼女だけでも逃がそうか︱︱︱ 出た結論は、自分が囮になるという事。 奏を見知らぬ世界に放り出すことになる。 もしかしたら、ここで死んでしまったほうが楽なのかもしれない。 それでも、この親友を死んでも生かす、という気持ちに変わりは 無い。 生きてさえいれば、きっと何か救いはあるはずだ。奏は強い。見 る限り、今まで出会ってきた女友達の誰よりも。きっと彼女なら、 こんな訳の分からない世界でも生き延びてくれるだろう。そして、 彼女だけでも、地球に戻れればいい。 そのためにも、まずは時間を稼がなければ。一呑みで終わり、な 35 んてことは無いだろう。太一を捕食している間を使えば、奏は逃げ られるはずだ。願わくば、ゆっくり喰ってくれれば。 そこまで考えて、今更ながら身震いした。 踊り食いした事はあるが、される立場になるとは考えていなかっ た。どのような苦痛が待っているのか、想像すら出来ない。 そのまま、にらみ合うこと数瞬。 太一と奏は動けない。 紫の馬は動かない。 そんなこう着状態の中、太一にははっきりと見えた。馬が両足を ぐっと畳み、身体中に力を込めるその瞬間を。 ダウッ! 地面を蹴っただけとは思えないほどの音と共に、馬が一気にトッ プスピードとなって迫ってきた。 速い。ただの馬とは思えない。 ﹁くそっ!﹂ 太一の行動は、考えてのものじゃなかった。 ﹁うらあああああっ!!﹂ 横で硬直している奏に抱きつき、全ての力を足に込めて思いっき り跳んだ。 奏の色々やわらかいところが太一に密着し、太一の左手は彼女の お尻を思いっきり掴んでいるのだが、この際それを痴漢と責めるの は筋違いだ。当の太一も、そんな感触を楽しむ気持ちは一切無い。 間一髪で飛びのいた場所を馬が高速で駆け抜ける。その余波を受 けて、太一と奏は三メートル程転がった。 36 下が地面で助かった。これがアスファルトだったら⋮⋮いや、考 えるのは止めた。 二〇メートル程走っていって止まった馬が、ゆっくりとこちらに 向き直ったからだ。 ﹁た⋮⋮太一⋮⋮﹂ 驚きに染まった顔で太一を見上げる奏。震えてはいないようだ。 突然の出来事に驚いた、というのが正しいか。 ﹁第一回は凌いだか⋮⋮さぁて、次はどうするかなぁ?﹂ 余裕ぶってみたものの。 打開策などあろうはずがない。ショットガンでもあれば少しは違 ったかもしれないが、あんなもの触った事も無いし、ましてや射撃 の知識も腕も無い。せいぜいエアーガンでサバイバルゴッコが関の 山だ。例え都合よくショットガンを持っていたとして、銃火器の実 射経験など持っていない太一に、まともに扱える自信は無い。 馬がゆっくりと近付いて来る。 あれだけ隙だらけな歩き方なのに、太一も奏も動く事が出来ない。 あの馬がどれ程の速度で走れるかを、たった今身をもって知った ばかりなのだ。 こちらが背を向けて走り出した瞬間に、あの馬も一気にスピード を上げるだろう。自殺行為に等しいとしか思えず、逃げたいのに逃 げれない。 もちろん、ここでただ馬と睨みあっていても事態の好転などあり えない。 ただ死の瞬間を先延ばしにしているだけだ。 先ほどと同じ程度まで近づいてきた馬が、そこで歩みを止めた。 じっと二人を見据える目は、先ほどのように殺気に染まっているば 37 かりではない。 太一と奏には想像もつかない事だが、馬が抱いているのは嗜虐心。 弱いものを虐げて愉悦に浸る、あまり趣味の良いとはいえない感情 だ。 そんな事とは露ほども思い至らない太一たちにとっては、ただ恐 怖を上塗りされる地獄の時間が続く。 ややあって。 太一は、己の考えを奏に伝えた。 ﹁俺が囮になる。奏はその隙に逃げろ﹂ ﹁え? ダメよ。何言ってんの、死んじゃうじゃない﹂ ﹁分かってるんなことは。でもこのままじゃ二人とも死んじまうだ ろ﹂ ﹁それは⋮⋮でもダメよ。囮なら私がやる。太一が逃げて﹂ ﹁それこそダメだっての。お前、ちょっとは男に華持たせろよ﹂ ﹁嫌﹂ ﹁いやって子供じゃねえんだから。じゃあどうすんだよ﹂ ﹁嫌よ!﹂ 思いのほか強い否定の言葉に、太一は思わず目を見開いて、馬か ら視線を外した。 奏が、顔を真っ赤にして怒りに顔を染めていた。 怒りを視線と表情で訴えるものの⋮⋮打開策を口に出来るわけで もない。 ただ精一杯、自分の気持ちを太一に伝える。奏に出来るのはそれ だけだ。 ﹁⋮⋮もう、それしかないんだよ﹂ 分かっている。そんな事は。 38 どちらかが囮になることで、二人とも死ぬしかない状況から、ど ちらかは生き残る可能性が出てくるのだから。 お互いに譲れない視線が交錯する中。 ドン、と地面を強く叩く音が、二人の意識をかき乱した。 思わぬ放置プレイを喰らっていた馬が、自分に意識を向けさせる ため、大地を叩いたのだ。 どうやらイライラしているらしく、鼻息が荒くなっている。 決断するなら、ここしかない。 ﹁じゃあな、奏﹂ ﹁あっ﹂ 未だへたり込んでいる親友の頭をぽふぽふと撫でてから、太一は 馬に向かって駆け出した。 ﹁こらあ悪趣味な馬野郎! これでも⋮⋮喰らえっ!!﹂ 走る途中で見つけた石を素早く拾い上げ、その助走でもって思い 切り投げつけた。 全力で放った石。元来の運動神経とそのセンスのよさで、野球未 経験者にしては見事と言うしかない速度とコントロールで石が飛ぶ。 ガツ、と鈍い音を立てて、石が馬の首元に当たった。 ストライク。 この状況で、我ながら見事だ、と褒めずにはいられない成果だ。 しかし。当然というかなんというか、一切効いた様子は無い。 ちょっとは効いてくれてもいいじゃないか、とごちる。それでも、 馬の意識を太一一人に出来たのは狙う最低限の成果。それを達成で きただけでもよしとするべきなのだろう。 馬の鋭い目が一直線に太一を睨む。もう五メートルと離れていな い。今更ながらに、凄まじいプレッシャーを感じる。 39 この期に及んで膝が笑っている。 何だかんだ怖いのは嫌だし、死ぬのはもっと嫌だ。 それは偽りの無い本音である。 しかし同時に後悔も無い。 こうする事で、奏が助かるかもしれない。 その可能性に至った瞬間、ずっと考えていたのだ。 後はこいつが、太一をゆっくり味わえばいいだけの話。これ以上 は太一の及ぶところでなく、運の要素もかかってくる。 もう犀は投げられた。 後は野となれ山となれ、の心構えで、太一はやけっぱちになって 叫ぶ。 ﹁オラどうしたクソ馬! とっとと来いよ! その図体は飾りか! ?﹂ 人間の言葉を理解するとは思わない。 しかし、言葉のニュアンスからバカにされている事位は理解する 知能を持っているのだろう。 腹立たしげにいなないた馬の眼光が一際鋭くなった。 命を賭けて挑んだ﹃生﹄への執着。 それが自分のものではなく、大切な親友を想っての行動が幸いし たのか。 天は、太一と奏を見捨てはしなかった。 ゴバッ!! 轟音と共に襲った強烈な突風に、馬がたたらを踏んだ。 太一は抗う事すら出来ずに地面を転がる。 勢力の強い台風の突風が、巨大なトラックを横倒しになぎ払う事 故を引き起こすのを太一も知っている。今それに等しい風が馬を襲 40 ったのだ。 そんな強力な風にちっぽけな人間では抵抗など出来るはずも無く、 ごろごろと数メートル転がって太一は止まった。 ﹁え⋮⋮?﹂ その風が吹いてきたほうを見る。遥か数十メートル離れたところ に、三人の人影。そして、そこから一人が猛烈な速さでこちらに迫 ってきていた。 ﹁ごらあ! 見つけたぞ馬野郎!!﹂ 腹の底に響く怒声と共に迫ってきたのは、身長二メートルはある かという大柄な男。 全身を覆う筋肉の鎧と、禿げ上がった頭がこれでもかという位の 威圧感を放っている。 一〇秒もかからずに馬の元に辿り着いた大男が、両手で上段に構 える巨大な剣を一気に振り下ろす。馬が一歩飛びのくと同時、地面 が土を巻き上げて吹き飛んだ。 ﹁急に逃げ出したと思ったら、今度は旅人を襲ってるだあ!? ど んだけ節操ねぇんだてめえは!!﹂ その場に立ったまま、少し離れた場所に立つ馬に向けて剣を振り 上げる。その距離では切っ先を精一杯伸ばしても三メートル程届か ない。斬撃そのものは目で捉えるのも難しいほどに速く力強いが、 無駄ではないか⋮⋮。 と思ったが、そうでも無かったらしい。剣閃をなぞるように放た れたのは、風圧。馬の右胴が切り裂かれ、血飛沫が舞う。 太一の常識を遥かに超越した場所で行われるありえないやり取り。 41 驚きすぎてマヌケ面になってしまっているが、本人は気付かない。 大男が再び馬に飛び掛ったところで、ハッとする。大男が太一を ちらりと見て、そして視線を更に右に向けた。その視線を追えば、 同じく呆然とへたり込んでいる奏の姿。 剣を振るだけでカマイタチのような現象を引き起こせる大男と、 小型のバスのような巨大な馬の化け物。 あんなのの闘いに巻き込まれたらひとたまりも無い。思いもよら ぬ闖入者に命を救われた太一は、自分の命と引き換えに助けようと した奏の元に近寄る。 ﹁奏っ!﹂ ﹁太一!﹂ 素早く奏に駆け寄り、その手を引いて立ち上がらせる。そして、 二人で大男と化け物馬を見た。 人間離れしたパワーとスピードで、人外の戦いを繰り広げている。 見る限り、大男が若干押しているようにも見える。パワーそのもの は馬のほうが強いのだろうが、その巨大な身体が災いしている。大 男からすれば、でたらめに剣を振っても射程圏内なら当たるような 状況だ。事実、致命傷こそ無いものの、馬の身体あちこちから出血 しているのが見て取れる。 ﹁誰なの?﹂ ﹁知らねえよ。でもラッキーだ。離れるぞ、巻き込まれたらヤバい﹂ 返事の代わりに頷いて、太一と奏は走り出す。 その先にはいつの間にいたのか、弓に矢を携えた青年が立ってい た。あの大男に比べればひょろい印象を受ける。しかしそれは柔和 な顔立ちと温厚そうな表情がそうさせているのだろう。鍛えられた 腕を見れば、彼がここに酔狂でいるのではないと教えている。 42 ﹁良かった、間に合ったね。もう大丈夫だよ﹂ ﹁あん⋮⋮貴方は?﹂ 思わず警戒してぶしつけな言葉を使おうとしてしまったが、何と かギリギリで訂正する太一。それを見て、青年は気を悪くした様子 も無く、むしろ安堵したように頬を緩めた。 彼にこちらを害す気はなさそうだ。でなければ、矢の先は馬では なく太一たちを狙っているはずだ。 何より彼は、あの大男と共にいた三人組のうちの一人なのだから。 そんな考えは蜂蜜にガムシロップをミックスして砂糖を振りかけ るが如く甘いものだが、今の太一と奏にはそれを知る由は無い。 ﹁僕はあそこの筋肉だるまの仲間さ。信じて、というのも酷だろう けど、君たちをどうにかするつもりはないよ﹂ ﹁誰が筋肉だるまだこの優男! 聞こえてねぇとでも思ってんのか !?﹂ 青年の思いもよらぬ毒舌と、これだけ距離が開いていて、尚普通 の会話を聞き止める大男の聴覚に、太一も奏も驚いた。 愉快げに青年は笑って、弓を引き絞った。 ﹁聞こえるように言ったんだよ。 右八!﹂ ﹁後で覚えてろ! 任せた!﹂ 詰りながら会話とは器用だな、と思う太一たちの気持ちなど露知 らず。青年は少しだけ狙いを定めなおし、矢を放った。 ひう、と空気を裂く音と共に、鏃が銀糸となって空中に線を描く。 矢が放たれてから数えて丁度八秒。矢が、馬の右後ろ足を貫いた。 馬のいななきが、聞いた事も無い悲鳴となった。 43 途端に遅くなる馬の動き。隙有りとばかりに大男が剣を何度もた たきつける。刃が何度も当たっているのだが、あの毛皮は思った以 上に防御力が高いらしく、打撃攻撃になってしまっている。 ﹁やっぱり堅いな黒曜馬は。ミスリルの矢を使って正解だったね﹂ ﹁こくようば?﹂ ああ、と青年が頷いた。 ﹁あの化け馬の名前だよ。この近辺では最も凶暴な魔物なんだ。馬 のクセに肉食だしね﹂ あの矢高かったから後で回収しないと︱︱︱とごちる青年。どう やら彼にとって⋮⋮いや、この世界の人々にとっては、それは常識 らしい。 しかし。 太一と奏にとっては、聞き流してはならない単語が聞こえたのは 気のせいではない。気のせいだと思いたいというのが本音ではある のだが。 彼は確かに﹁魔物﹂と言った。 ゲームや漫画の世界でなら聞きなれた単語。空想の世界に存在す る、主人公や物語の世界の人々を虐げる存在。そして時折、人と心 を交わして仲良くもなったりする存在。 総じて人間を遥かに上回る身体能力を持ち、高位になれば様々な 術を駆使して主人公を苦しめる典型的な障害となる存在だ。 ﹁でも、もう終わりだよ。ほら﹂ 青年の言葉で我に返る。彼の視線は、馬の化け物ではなく︱︱︱ 黒いローブをまとい、杖を掲げている少女へ向いていた。 44 彼女はそこでなにやら口を小さく動かし続けている。 そして、太一と奏は、自分たちがビックリ箱の中に放り込まれた のだと、今更ながらに思い知った。 少女が杖を天に突き上げると、その先に生まれたのは火の玉。少 女の身体ほどもある大きな火の玉はやがて五つに分裂し、そのオレ ンジ色の輝きを鮮やかに瞬かせている。 ﹁何⋮⋮あれ⋮⋮﹂ 奏がやっとの思いで声を振り絞る。 それに対し、青年が不思議そうな顔をした。 ﹁え? 何って魔術だよ。⋮⋮ああそうか。彼女ほどの魔術師には 早々出会えるものでもないからね﹂ いや、そういう事ではない。 二の句が告げずに唖然とする。 魔物に魔術。 自分達が置かれている状況があまりといえばあまりな事に、もう 言葉も無い。 ファンタジーな世界にいるという事実を受け入れきれていない太 一と奏のリアクションを、初めて見た強力な魔術に驚いているのだ と勘違いした青年が、解説をしてくれた。 ﹁彼女はこの地域では五本の指に入る実力派の魔術師だよ。あ、そ うそう。彼女に向かって小さいとかそういう言葉は厳禁だよ。あれ でも二五歳だからね﹂ どうみても小学生にしか見えない。が、もう驚かない。 これまでに突きつけられた事実が想定外過ぎて、見た目と年齢が 45 合致しない、という程度は些細にしか思えなかったからだ。 ﹁⋮⋮聞こえてる﹂ ﹁聞こえるように言ったからね﹂ 可憐な声と共にキッと少女⋮⋮もとい女性が青年を睨むが、彼は 肩を竦めてニコニコと受け流すばかりだ。 ﹁黒曜馬の後は⋮⋮貴方を焼く。こんがり﹂ ﹁僕を焼いても美味しくないよ。それにホラ。彼らを巻き込んじゃ うよ?﹂ ﹁⋮⋮ずるい﹂ ﹁いいから仕事してね﹂ もう一度青年を睨むと、少女は視線を黒曜馬に戻した。その視線 は驚くほど冷徹で、太一と奏はごくりと唾を飲んだ。 ﹃フレイムランス!!﹄ 反響する声と共に、五つの火の玉が槍へと姿を変えた。少女の声 を聞いて、大男が思いっきり後ろに跳ぶ。 炎の槍は先ほどの矢に近い速さで飛び⋮⋮ミスリルの矢で機動力 を大幅に削られ、大男の攻撃で体力も奪われていた黒曜馬には避け る術も無かった。 炎の槍は五本とも見事に化け馬の胴に突き刺さり、そして轟音と 共に爆発した。 熱をともなった突風が、周囲の草を焼きながら太一と奏を襲った。 あまりの威力に唖然とする二人。爆発の余波だけで並の人間なら火 傷で死んでしまう。が、そうはならなかった。 青年がどこからか取り出した布で彼らを素早く包むと、その中で 46 は驚くほどに熱を感じない。周囲の草を焼くほどの熱なのに、何故 なのか。 少し考えて、これは魔法の道具ではないかと思い至る。RPGゲ ームでも、炎のダメージ軽減や、最高級品では炎のダメージを吸収 などの効果がある装備品があった。魔法や魔物がいるこの世界なら ば、そんな道具があっても特に不思議ではない。 布をはためかせていた風が収束し、青年が布を取り払った。そこ には、消し炭となった化け馬の遺骸と、それを中心に焦げた大地。 太一と奏、後ろの青年を中心にそこだけ残った草から、どれほど の威力だったのかは推して知るべしだ。 炎を防ぐ布に包まれていたのは太一と奏の二人だけだったから、 青年はあの熱風をまともに受けたはずだ。それなのに汗ひとつ掻か ずに平然としている青年が、ニコニコと笑みを湛えているのが、と ても印象的だった。 47 異世界に来ました2︵後書き︶ 太一君と奏ちゃんを助けた冒険者パーティは、この世界ではもう少 しで一流と呼ばれるような凄腕です。 ここまで辿り着ける冒険者は一握り。 しかし、太一君と奏ちゃんはそれを軽く超えていく予定です。 チートとは恐ろしい。。。 ○黒曜馬 体長4m。体高3メートル半。体重2トン。 全力疾走での最高時速は140km/h。その突進は岩をも砕く。 非常に高い身体能力を持つが、物理攻撃しか手段が無い。 48 異世界に来ました3︵前書き︶ 今回は魔物襲撃その後です。 49 異世界に来ました3 とても、居心地が、悪い。 あの魔物を倒してから、街に戻るという命の恩人たちに案内され ている。どうやらここから最も近い街までは徒歩でいくと、歩き続 けて二日間かかるとの事。街道に出て辻馬車を拾うのだという。 街道に出る途中で日が暮れてしまい、岩陰でキャンプを張ってい る、というのが、あれからの簡単ないきさつだ。 太一の前には、その辺から拾い集めた小枝の山を火種とした焚き 火が揺らめいている。 渡された暖かい飲み物がありがたい。知らないものだが、強いて いうなら近いのはコーヒーか。︵クーフェという飲み物らしい︶ 香りも味もコーヒーとは少しだけ違う。少しだけの違いならば無 視するのも簡単である。むしろ慣れ親しんだ味に近いものにありつ けたというのは僥倖というほか無いだろう。この分なら食生活もそ こまで悲観しなくて済むかも知れない。 同じものを渡された奏も、一口飲んで驚いた顔をしていた。 あれから彼らと自己紹介をしあった。 禿の大男はバラダー。 弓使いの毒舌優男はラケルタ。 自称二五歳の見た目小学生魔術師はメヒリャ。 彼らはおよそ一ヶ月前にこれから向かう街を拠点としだしたらし い。長旅の感覚を戻しながら簡単な依頼をこなし、今日のこの依頼 を活動再開の合図にするのだという。 自己紹介とは、相手の事を一方的に聞くだけでは済まない。 もちろん太一と奏も自己紹介を行った。 名前、年齢を告げたところで⋮⋮さてどうしようかと詰まってし まった。 異世界から来ました、と言って信用して貰えるかは甚だ疑問であ 50 る。可哀想なものを見る目で見られるならまだマシ。最悪﹁頭のお かしい奴ら﹂という評価を下され、この草原に放り出されてしまう かもしれない。それは困る。正に死活問題だ。特に、あんな魔物に 襲われた身としては。 そんなに頭の良くない太一でさえその考えに至ったのだから、頭 の回転が速い奏も似たような事を考えているだろう。結果として答 えあぐね、それが沈黙という形になってしまった。 だがそこでも幸運に恵まれる。 簡単な身の上でさえ明かすのを躊躇う太一と奏を見て、深い事情 があるのだろうと察した三人は、それ以上特に聞いてはこなかった。 明らかに不審な態度だったと自覚している太一と奏にとっては、疑 問が残るもののありがたい対応だった。 実は、そういった人に言えない事情を抱えて生きる人間は、この 世界では現代日本と比べて遥かに多い。親に売られて奴隷になった、 親友だと思っていた人物に騙されて商売女に落とされた、そういう 話は酒場で聞けば事欠かない。 誰しも人においそれと話すには抵抗を覚える過去くらい持ってい るものなのだ。この世界ではそう考えるのが一般的。話せる過去な ら話す。話したくない過去に対しては口を噤む。相手の態度を見て 聞き手側も弁える。そういった不文律があったので、三人の対応は 特別な事ではない。 ここで腕利きの彼らの保護下にいるという事も含めて、いくつも の幸運に恵まれた。これを手放す手は無い。 まだまだ、諦めてはいけないのだという思し召しなのか。 ようやっと、一息つける。 魔物からの襲撃を運良く脱して、当面の危機は去ったと考えてい た。 その考えは、甘かった。 表面上は穏やかに、いたって普通に会話する事が出来る。助けて くれた冒険者たちとのコミュニケーションの時も、特に普段と変わ 51 った様子は無い。 しかし目は笑っていない。完全に据わっている。主に、太一と話 すときだけ。 過去に一回だけ見たことがある。これはすこぶるご機嫌斜めな奏 だ。 こうなってしまったら、彼女が何に怒っているのかを正確に理解 して、謝り倒さなければ許してくれない。 表面上は至って平静に、しかし内側から滲む怒りを浴び続けるの だ。かつて親友のイケメンはこの状態を﹁針のむしろ﹂と称した。 言いえて妙である。 あれは中学二年。奏の家で中間テスト対策をしていたときの事だ。 当時の太一とイケメンはまだガキ。橋桁の下に捨てられているエ ロ本を仲間内で読み漁っては﹁お前見すぎだろ変態!﹂﹁お前こそ このページ超見てたじゃねーか!﹂とからかいあう位には、﹃異性﹄ に興味があった。 太一のコミュニティでは一番仲が良かった、しかも可愛い異性で ある奏のチラリズムについ目が行ってしまうのは、思春期真っ盛り ならば仕方の無いことだろう。 中学三年に進級した直後﹁見るならもう少しコッソリ見なさいよ﹂ と、煩悩がバレていた事を告げられて、しばらく奏の顔を見れなく なったのはいい思い出だ。 多少のスケベ心は男子なら持ってて当然。むしろ持ってない方が 信用ならない、と真顔で宣う理解者奏。そんな彼女を、しかもエロ 方面で怒らせたことが、太一にはある。 思い出してはいけない黒歴史として記憶の引き出しに厳重に保管 しているその事件。何故あんな凶行に走ったのか、当時の自分の心 境が今でも理解不能だ。 奏がトイレに立った隙にタンスを漁り、下着を手に持って広げて 笑っていた。 太一も貴史も、当時はそれが楽しかった。犯行に至った動機は思 52 い出したくないので割愛するが。 この話を思い出しては、中学時代の汚点に頭を抱えて呻かざるを 得ない。 止めるタイミングをのがして悪ノリするバカな男子二人に、戻っ て来た奏は今まで見たこともない極上の笑顔を向けてきた。器用に 目だけが笑っていない表情で。 底冷えするような抑揚の無い声で﹁ね、それ、楽しい?﹂と聞か れた時は、本気で死を覚悟した。 ビクビク怯えながら下着をタンスに戻そうとする太一の腕を、奏 が優しく触れて止める。﹁そのまま入れたらダメ。貸して?﹂と諭 されて、涙目になってしまったのは、今でなら太一も笑える、かも、 しれない。 今太一が予測している奏のお怒り度は、当時のそれを超えている。 あの時は自分でも頭を抱えたくなるほど馬鹿なことをした自覚が あり、奏が怒るのも無理は無いと思える。 だが、今は、奏が何故怒っているのか、皆目見当が付かない。 謝るにも、自分のどの行いに対して謝罪すればいいのかサッパリ な太一は、結局奏をちらりと見ては、手元のカップに視線を戻す、 を繰り返していた。 もう既にクーフェを飲み干していて、空になったカップが目に映 る。 随分長い間うだうだとしていたらしい。自分でもこの膠着具合が 嫌になり、頭をガシガシと掻く。 本人が苦悩している中、その苦悩も当然だろうと見ていたのは、 バラダーら冒険者達だ。 太一よりも人生経験が長い彼らは、太一と奏がどのような関係な のかは、詳しい話を聞かなくても雰囲気で何となく分かる。 お互いに気の置けない仲なのだろう、という当たりをつけていて、 事実それは当たっていた。 奏が何で怒っているのかも、おおよその見当はついている。そし 53 てそれに至った時、太一の苦悩も当然の罰だと思ったラケルタは、 あえて手を貸さずに悩ませたのだ。 そろそろ懲りただろうと考えたメヒリャが、二人に目配せをして 小さく頷いた。そんな三人の様子に自分の世界に入り込んでいる太 一はもちろん、表面上は彼よりも落ち着いて見える奏も内心は冷静 でなく、気付く様子は無い。 ﹁カナデ嬢ちゃん。ちっと酌してくんねぇか﹂ 沈黙に支配されていたキャンプに、焚き火が爆ぜる以外の音が久 々に響いた。 ﹁あ、はい。いいですよ﹂ 奏は今まで静かに纏っていた怒りを即座に引っ込め、笑顔とは言 わないがやわらかい表情でバラダーから酒の入った壺を受け取った。 見事な感情の制御である。 ﹁大変な目に遭ったなあ﹂というバラダーの言葉を皮切りに雑談 を始める二人。 自分に向く怒りが引っ込んでホッとした様子でバラダーと奏を眺 める太一に、ラケルタとメヒリャが近づいた。 ﹁タイチ君。貴方の故郷のお話、聞かせてもらえませんか?﹂ 太一のカップにクーフェのおかわりを注ぎながら、ラケルタが言 う。 先ほど話せなかったために沈黙になった話の続きだ。さてどう答 えよう。奏の怒りという当面の脅威から開放されたと思ったら、ま た一難だ。助けられた手前無碍にも出来ず、何を話そうか黙考する 太一。 54 ﹁心配しなくて、いい⋮⋮。言いたくない事を⋮⋮無理に聞きたい、 訳じゃない﹂ 太一の思考を中断させるように、メヒリャが言う。 その申し出はありがたかった。答えられる範囲でなら、答える事 は太一としてもやぶさかではない。 これは言ってもいい、これは言うと不味い。その線引きをさせて 貰えるなら、話題としては十分に成り立つだろう。 ﹁そうですね。見たところ、貴方達はとても頭が良いようですが、 故郷では何か学ぶ機会があったのですか?﹂ ラケルタの問いは皮切りとしては無難なところ。 しかし、三人にとってはとても気になっていた事の一つだった。 彼らから見て、太一も奏も、かなり知識と教養がある。 もちろんそれは、幼い頃から続く義務教育の賜物だが、わずか六 歳の頃から教育を受けていたとは知らないバラダー達には、太一と 奏の聡明さの理由はシンプルに聞いてみたい事柄だった。 この世界では、現代日本と違い、教育を受けるのは簡単な事では ない。 識字率でさえ、十パーセントに満たないのだ。現にバラダーは文 字を読めないし、ラケルタも読むことは出来るが書くとなると簡単 な事しか出来ない。事務的な作業は魔術師として読み書きに日ごろ 慣れ親しんでいるメヒリャに投げっぱなしなのが実情である。 教育は、相当な金が必要である。貴族や商人として成功したもの だけが、自分であったりその家族に教育を受けさせる事が出来る。 そういえば、その困難さは少しは伝わるだろう。相当に潤沢な資金 が必要なのだ。日本で例えるなら、毎月数十万もの学費が掛かって しまう程に。 55 だから、太一が言った﹁学生だったんだ﹂の言葉には驚きを禁じ えなかった。 学生と言えば、学ぶ事を専門とする者を指す。それは異世界も現 代日本も変わらない。 最も、教育の質が全く違うのだが。 この世界の学者が日本の中学校に行って授業を一週間でも受けれ ば、カリキュラムのレベルの高さと、周囲で授業を受ける生徒達の 若さ、そして彼らの学力がそう変わらない事に首を吊ってしまいか ねない。 この世界の高名な学者でさえ、高校生の平均的な成績の少年少女 と同じレベル。 この差はつまり、太一と奏が⋮⋮もとい、現代日本で義務教育で 受ける授業がいかに質が高いかを示すのだが、当たり前になってし まうと有り難味も感じない。自分たちがいかに恵まれていたかを客 観的に計る物差しが目に見えて現れるのは、もう少し先のことであ る。 授業で受けていた教科を掻い摘んで説明する。普通一つのものに 特化して学ぶのが常識のこの世界において、国語数学理科社会と、 複数の学問に一度に手をつける現代日本の教育に更に驚くラケルタ とメヒリャ。 そして、いつ話の核心に迫ろうかと考えていたメヒリャが、ふと 思い出したかのように言った。 ﹁それだけ、様々な事を学んできたのに⋮⋮大事な友人の怒りの理 由は、分からない?﹂ 痛いところを突かれてうっと唸る太一。 そうだ。 このままでいいはずが無い。 時間が経てば忘れてくれるほど、奏は甘くは無いのだ。 56 謝らなければずっと許してはもらえない。その辺はかなり厳しい のだ。 逆に時間を置いてもきちんと謝れば許してくれるのが、彼女のい いところでもあるのだが。 ﹁情けないけど、分からないな⋮⋮。奏のヤツ、何であんなに怒っ てるんだか⋮⋮﹂ 途方にくれた様子で嘆く太一を見て、ラケルタは思わず苦笑した。 そして、前途多難な道を選んでいる奏に、少しだけ同情した。 これが分からないというなら、そもそも根本の要因である、奏自 身が抱いている感情には毛の先ほども気付いていないだろう。どち らかと言うと第三者が見ていて分かりやすい表現をしている節があ るのだが。 あれだけ怒っていながらも、無視しきれないところが、端的にそ れを現している。今日あったばかりの三人には既に知られているの に、だ。 ﹁タイチ君は、女の子とお付き合いした事は?﹂ ラケルタの視界の端で、ぴくりと黒い尻尾が揺れる。どうやらそ こだけは聞こえたらしい。 ﹁残念ながら、彼女いない歴イコール年齢だよ﹂ その表現はよく分からなかったが、女性と親しい関係になった事 が無いというのは分かった。 ﹁そっか。じゃあ、これから女心を理解していけばいいね﹂ ﹁っつっても、どうしたらいいんだよ∼⋮⋮﹂ 57 情けない声である。 ﹁大丈夫⋮⋮今回の問題は、初級編⋮⋮。ゆっくり考えれば、分か るはず﹂ ﹁焦らなくても大丈夫。彼女の立場に立って考えてみればいいんだ よ﹂ ﹁奏の立場?﹂ ﹁そう。貴方の言った事のどれか⋮⋮貴方の取った行動どれかが⋮ ⋮カナデにとっては、許せなかった⋮⋮﹂ ﹁自分が言われたらどう思うか。これは、相手が女の子でなくても 通じる事だと思うよ、僕は﹂ ﹁⋮⋮﹂ 方向性を示して貰い、無限ループに陥っていた先ほどまでとは大 分違う有意義な思考が出来た。 考える。 何がまずかったのだろうか。 抱きついた事? 飛びついてどさくさ紛れに尻を触った事? いや、どちらも不可抗力だ。怒られても、それが本気でない事位 は分かる。 自分が言われたらどう思うか。 ﹁︱︱︱︱﹂ あった。 太一がもし奏に言われたら、謝るまでは絶対に許さないであろう 一言と行動。 それを、太一は彼女に向けて取っていた。 58 ﹁分かったみたいだね﹂ ﹁⋮⋮俺が囮になるから逃げろって言ったんだ。多分、それだ﹂ ﹁それは⋮⋮言われたほうは、怒る﹂ 呆れを隠そうともしないメヒリャの評価に、身を縮こまらせる。 ﹁そういう事かあ。まあ、僕らが助けるって分かってないんだから、 仕方ない一面もあるにはあるけど⋮⋮﹂ そう言葉を濁すラケルタの様子から、あまり褒められた言動では なかったと改めて自覚する。 奏を助けるための最善の策だった。その手段を取った事そのもの は間違っていなかったと自負している。 しかし問題なのは、それを言われた方の気持ちを考えていなかっ たことだ。 ﹁そりゃ、怒るわなあ⋮⋮﹂ しみじみと呟いて天を仰ぐ。夜空には星が瞬いていて、太一に﹁ 勇気出して謝っちゃえ﹂と励ましていた。 太一のほうは問題は無いだろう。ラケルタとメヒリャは顔を合わ せて頷いた。 さて、後は奏と話しているバラダーだが。 問題は無いだろう。彼は頭は良くないが、人の気持ちを汲むこと にかけてはパーティの中でも一番なのだから。 ﹁なるほどな。そんな事があったわけだ﹂ 59 ﹁そうなんですよ。信じられないでしょう!?﹂ 一方こちらは奏とバラダー。 バラダー達が助けに入る前、太一が囮になって自分を逃がそうと した時のあらすじが話題となっていた。 あのバカ ﹁そら、嬢ちゃんも怒るのも無理はねぇな﹂ ﹁ですよねー! 太一が謝るまでは絶対に許しません!﹂ 思わずヒートアップする奏。 随分と鬱憤が溜まっていたのだと苦笑するバラダーだが、ふと笑 みを浮かべて問いかけた。 ﹁なあ嬢ちゃん。オッサンの独り言、聞いてやってくれや﹂ ﹁へ?﹂ 素っ頓狂な返事をしてしまう奏。会話をしていたのに独り言とは どういう事か。 不思議そうな顔をする奏に構わず、バラダーは言葉を続けた。 ﹁ま、男ってなあ難儀な生き物でなあ﹂ ﹁分かります﹂ ﹁女の子の前じゃあな、カッコつけたがる生き物なのさ﹂ ﹁⋮⋮﹂ 何を指しているのかは言うまでも無い。 太一の事だ。 バラダーは、彼の事を言っているのだ。 ﹁目の前にいる女の子の事をな、たとえ微塵も知らなかったとして 60 も、見栄を張っちまうのさ。こりゃあ理屈じゃねえ。﹃つい﹄なん だよ。後から思い返して何であんなことしたのか、自分でも分から ねぇ事だって多々ある﹂ 経験談なのだろう、バラダーは苦笑いを浮かべている。 ﹁だからな、平気そうな顔をしておいて、内面じゃ歯ぁ食いしばっ てる事だってよくある話さ。女にゃあ理解が難しいかもしんねぇが な﹂ 確かに理解に苦しむ。奏は特に自分の身の丈にあった振る舞いを 心がけているから、余計にだ。 ﹁でもな。それでも俺は思うのさ。男はそれでいいんだ、ってな﹂ バラダーはふと視線を奏に向けた。 ﹁なあ嬢ちゃん。タイチのボーズがよ。あの化け馬を目の前にして、 嬢ちゃんを囮にして逃げちまうような腰抜けだったらどうだ?﹂ ﹁⋮⋮﹂ それは、とても、嫌だ。 間髪いれずに浮かんだ感想はそれだ。 ﹁確かに、万事ボーズの思い通りに行ったとして、生き残った嬢ち ゃんの気持ちを一切考えていねぇのは間違いねぇ。んな事まで考え る余裕なんぞ無かっただろうしなぁ﹂ そうだろう。 こんな知りもしない世界で、たった一人放り出されるのがどれだ 61 け心細いか。太一はそこを一切分かっていないのだ。 ﹁でもよ﹂ それでも、目の前のバラダーは笑っていた。 ﹁あのボーズ、嬢ちゃんが危なくなったらまた庇ってくれるぜ。大 した力もねぇクセに肝だけは据わってるときた。肝心なときに頼り にならねぇ腰抜けより、男らしくていいじゃねぇか﹂ そうだ。 自分が死ぬと分かっていながら、太一は庇ってくれたのだ。 それを今更ながらにやっと理解して、奏の心に何かがストンと落 ちた。 ﹁あれで、良かった⋮⋮?﹂ ﹁俺ァ、いいと思うぜ。口だけ立派なバカよりも百倍な﹂ そう言って豪快に笑い、ぐいっと壺ごと酒を飲むバラダー。 確かにそうかもしれない。 バラダーの話を聞いて、自分が抱えていた行き場の無い怒りが、 すっかりなくなっていたことに、奏は気づいた。 62 異世界に来ました3︵後書き︶ 青臭い理想論と思いますが、物語なのでアリという事にします︵笑 次は街に行きます。 ついに、太一と奏が抱えるチート能力の一端が明らかになります。 63 異世界といえば冒険者ですよね︵前書き︶ チートの一端が! とか言いながら、この話では出せませんでした。 。。 もうちょっとお待ちください。 64 異世界といえば冒険者ですよね ﹁奏。昨日は勝手に突っ走ってごめん﹂ ﹁もうあんな無茶は控えてね﹂ そんなやり取りと共に、異世界でのはじめての朝を迎えた太一と 奏。 無茶はしないで、とは言わず、控えて、と言うに留まったのは、 この世界がどういうところかを奏なりに理解しているから。 バラダーたちの話を聞いていて、この世界では現代日本よりも命 を落とす機会が圧倒的に多いようだ。時と場合によっては、無茶を しなければならないこともあるだろう。それを考えたら、するな、 と禁止するのは無責任だと奏は思っている。 自分達がどれだけぬるい世界から放り込まれたのかを理解する事 にもなってしまったのだから。 さて、さしあたり当面の生活をどうするか。 それを考えざるを得ないのが、太一と奏の現状だ。一介の高校生 が、生活の為に働く事を考えなければならない。それは凡そ平均的 な学生生活を送っていた二人にとっては眉唾ものである。 この世界にはどのような仕事があるのか分からないが、少なくて も現代日本のように正社員とか派遣とかアルバイトとか、そういっ たものは存在しないだろう。 ﹁金のあてが見つかるまで多少なら面倒みてやれるぜ?﹂と豪快 に笑うバラダー。ラケルタが補足してくれたが、彼らは冒険者とし て身を立てて長く、今手持ちの財産だけでも、贅沢をしなければ三 人が働かずに一生を過ごす事が出来るだけの貯えがあるらしい。そ の気になったら多少といわず、十年でも余裕で面倒を見れると言わ れて目を丸くしてしまった。 日本でならおよそ六億の資産を持っているという事だ。現に辻馬 65 車の代金も、ご馳走になった食事や飲み物も、全て彼らの財布から 出ているもの。 謙虚が美徳とされる日本人の二人にとって、ただでさえ世話にな りっぱなしで肩身が狭いのに、その上養ってまでもらっては立つ瀬 が無いというものだ。 結果、彼らからどういった金稼ぎの手段があるかを聞くことにし た。 商人、職人、学者。土木等の肉体労働に店舗での雇われ販売員。 料理人や百姓。彼らから聞いた仕事はその位である。 そしてそのどれもがハードルが高い事を、付け加えて教わった。 商人や職人は、それぞれの道で成功している者を師匠として幼少 から教わるものだと言うし、学者は当人の才覚も勿論だが、己やそ の親族が持つコネが物を言うらしい。肉体労働や雇われ販売員も、 小さい街では人手は十分足りていて、現にこれから向かう街に一ヶ 月は住んでいる彼らも、仕事を募集している店を見たことがないと いう。後料理人は商人や職人と同じく弟子入りが必須だと言うし、 百姓は土地を持っていなければ話にならない。 懇切丁寧に説明を受け、二人揃って項垂れてしまったのは仕方が 無い事だと思う。 ラケルタも希望を砕いた事を謝ってはいたが、それでも事実はき ちんと正確に伝えるべきだと考えたらしい。 ﹁なるなら、バラダーさんたちと同じ冒険者かなぁ﹂ 太一はぽつりと呟く。ラケルタとメヒリャは﹁やっぱりその結論 に行くか﹂という表情をしていた。あまりオススメしていないのが 顔に書いてある。 ともあれ、可能性としては一番高い。敷居そのものはそこまで高 くは無いというのだから。 だが、命の危険は常に付きまとうと釘を刺されたことでもある。 66 それは言われずとも分かる。冒険者となればいずれバラダーたち のように魔物と闘わなければならない事も出てくるだろう。 まっとうに稼ぐ仕事ではない。 それでも、手段としてはそれが一番妥当に思えるのだ。 ﹁冒険者って、ギルドで登録すれば誰でもなれるんですよね?﹂ 驚きなのは、太一だけでなく奏も乗り気だという事だ。 太一に﹁無茶を控えろ﹂と言った少女が、進んで危険と隣り合わ せである職業を選ぼうとしている。 最早とめても聞かないだろうな、と考えたバラダーは、ラケルタ とメヒリャが何か言おうとした口を視線で塞いだ。 奏としても、その手段しかない、というのは余り気が進まない。 しかしそれ以上にバラダー達に世話になりっぱなしというのに我 慢がならないのだ。自分の事くらいは自分でなんとかしたい。出来 るか出来ないか、やる前から諦めたくは無い。そういう価値観を持 つのが吾妻 奏という少女だ。 ゴトゴトと地面の凹凸を敏感に拾う辻馬車に揺られる事六時間。 そろそろ太一と奏のお尻が痛くなってきたところで、馬車はようや くその動きを止めた。 左右見渡しても草原ばかりの景色に飽き飽きしていた太一は、ぐ っと伸びをして﹁ぶあー﹂とオッサンのような声を出す。 バラダー達に促されて馬車を降りると、目の前には高さ三メート ル程の石壁に囲まれた街があった。異世界に放り出されて約二十時 間。ようやく、人が生活する場所へ辿り着く事が出来た。保護して くれたのがバラダー達だったのは本当に運がいい。 ﹁ここから冒険者ギルドまではこの大通りを真っ直ぐ行けばすぐに 分かるぞ﹂ ﹁お、マジすか。分かりやすくてラッキー﹂ 67 実は方向感覚にちょっとばかり自信が無い太一。見慣れた土地な ら問題ないが、初めて行く土地では迷子になりやすい。旅をする事 も多い冒険者としては致命的と言える欠点だが、今は奏も黙殺して いる。 ﹁本当に、冒険者、なるの⋮⋮?﹂ メヒリャの言葉は確認。その裏には﹁最後通告﹂も含まれる。危 険が付きまとう職業だと、十分に忠告した。彼女は、そう言ってい るのだ。 太一と奏は顔を見合わせて、同じタイミングで頷いた。 ﹁ふう。そこまで言うなら仕方ありませんね﹂ ラケルタは首を左右にゆっくり振ると、太一に向かって小さな皮 袋を投げてきた。 受け取ると、じゃらりと音がした。 訳が分からずに視線で説明を求めると、ラケルタは笑っていた。 ﹁ギルドに登録するには登録料が必要です。それに、宿代に食事代。 素寒貧の状態ではなにもできませんよ?﹂ ﹁﹁あ﹂﹂ それもその通りである。お金を一銭も持たずに行こうとしていた。 ﹁施しが嫌なら⋮⋮貸しにしておく。がんばって、稼いで﹂ もらえない、と辞退しようとした奏の機先を、メヒリャが制する。 68 ﹁困ったらギルドに俺達の名前をだしな。これでも結構顔がきくか らな俺達は﹂ バラダーは豪快に笑って、太一の肩をばしばしと叩いた。 ﹁がんばんなボーズ。そこの嬢ちゃんをちゃんと守ってやれよ﹂ ﹁僕達はこの街にいます。困ったらいつでも言ってきて下さいね﹂ ﹁次に会うとき、楽しみにしてる⋮⋮﹂ 三人は一言ずつ太一と奏に声をかけ、それ以上は振り返らずに街 の中に入っていった。 その背中は雑踏に紛れていき、じきに見えなくなった。 ﹁⋮⋮行くか、奏﹂ ﹁⋮⋮うん﹂ 少ししんみりとした空気を振り払うように太一が言い、奏が答え る。 二人は並んで歩く。これから、生きていく為に。 二人の間の距離は、日本で望んだ奏と貴史の距離であった事に、 太一は気付いていなかった。 ◇◇◇◇◇ ﹁ここか﹂ 69 目の前に建つ木造の立派な建物。 どうやらこれが冒険者ギルドらしい。メヒリャが教えてくれた冒 険者ギルドの特徴そのものである。 中に入ると、正に冒険者ギルド、といった光景が広がっていた。 少し薄汚れて見えるのは、明かりが足りていないからだろう。雰 囲気が暗いからかもしれない。 入り口から向かって左側には掲示板があり、何十枚もの紙が乱雑 に貼り付けられている。あれが依頼を書き込んだ紙なのだろうか。 視線を正面に向けるとカウンターがあり、そこにはいくつか椅子が 並べられている。カウンターを挟んだ奥には数人の同じ格好をした 男女。年齢もそれぞれに見える。 この時間帯は冒険者が少ないらしく、太一と奏はよく目立ってい た。主に、姿的な意味で。 二人が着ている制服は、そんじょそこらの服飾店では作るのが不 可能といえるほどに仕立てが良い。日本では取り立てるところの無 い制服だが、その辺でも文明の差が垣間見える。二人がそれに気付 かなかったのは幸か、それとも不幸か。 今まで感じた事の無い空気の中で身動きが取れなくなってしまっ た奏。その横では太一がお構い無しにずんずんと進んでいく。この 辺、彼はいい意味で図太かった。 ﹁初めて見る顔ですね。何か御用ですか?﹂ 応対してくれたのは、二十代半ばと思われる女性だ。落ち着いた 物腰が特徴で、美人と言っていい顔立ちをしている。普段から奏を 見慣れているため、太一は特に感慨を起こす事は無かったが。 ﹁えっと。冒険者になりたいんですけど﹂ ﹁ああ、ギルドは初めてですね﹂ ﹁あーはい﹂ 70 間延びした太一の返答を気にする様子も無く、受付の女性は太一 たちに椅子を勧めて来た。 ﹁登録されるのはお二人でよろしいですか?﹂ ﹁そうです﹂ 太一と違いハキハキと奏が答える。 ﹁分かりました。それでは、こちらにお名前、年齢、種族、それと メインとなる武器の記入をお願いします﹂ 種族? そんな疑問が浮かぶが、その前に差し出された紙を見て硬直する 二人。 そういえば、この世界の文字を知らない。 そもそも何故、バラダーたちと普通に話が出来ていたのだろうか。 ここは異世界だ。使う言語も言葉も違って当然のはずなのだが。 太一は思わず奏を見る。奏は目で﹁こっちに振らないで﹂と訴え ていた。 この際浮かんだ疑問を横においておくとして⋮⋮さあ、何と書け ばよいのだろうか。日本語で通じるのだろうか。いや、そんな都合 のいい事は無いだろう。 結果的に固まってしまった二人の様子を見て、受付のお姉さんは ﹁ああ﹂と何か得心が言った様子で頷いた。 ﹁よろしければ、代筆も承っておりますが﹂ 一枚十ゴールドになります。と付け加えるお姉さん。どうやら文 字が書けなくとも冒険者にはなれるようだ。こんなところでもお金 71 が取れるらしい。商売上手だなーと思ったのは本音だが、ここは素 直にお願いする事にした。 太一と奏は揃って紙を差し出し、お願いします、と言った。 ﹁分かりました。では二十ゴールド頂きます﹂ ラケルタからもらった皮袋から、小銅貨を二枚出して手渡す。簡 単に通貨の事も説明を受けていたのが功を奏した。この世界で生き ていくなら、あまり不審なマネは控えたかったからだ。 この世界では鉄貨、小銅貨、銅貨、小銀貨、銀貨、小金貨、金貨 と様々な貨幣がある。鉄貨が一枚一ゴールド。十枚で小銅貨に、小 銅貨が十枚で銅貨に、といった具合にレベルアップしていく。宿代 が一泊三千ゴールド、つまり小銀貨三枚である事を考えると、どう やら物価は日本と大きな違いは無いらしい。 因みに金貨の上には白銀貨もあるといい、それは金貨百枚分との 事。計算してみたら、一枚で一億ゴールド。大商人が大口の取引を 行うとき位しか、日の目を見る事は無い貨幣との事だ。太一と奏に は関係の無さそうな話なので聞き流したが。 ﹁それでは、男性の方からお名前をお願いします﹂ ﹁ええと⋮⋮タイチ・ニシムラです﹂ 普通に西村 太一と名乗ろうとして、言い直した。この世界では 英国式の名前表記だからだ。バラダーたちの名前がそうだったよう に。 ﹁おいくつですか?﹂ ﹁十五です﹂ ﹁お若いですね⋮⋮種族は⋮⋮すみません、ヒューマンですよね﹂ ﹁はい﹂ 72 英語で助かった、と言うべきか。 というか、この世界には人間以外に何がいるのだろうか。とても 素朴な疑問だが、常識のようで聞くには躊躇われた。 ﹁最後に、武器は何を使われますか?﹂ ﹁武器?﹂ ﹁はい。冒険者として腕を上げていけば、いずれ戦闘を行う事も出 てきます。冒険者の方々個々で得物は違いまして、得物によって向 き不向きが発生する依頼も無くはありません。適材適所の仕事を斡 旋する為に、ギルドとしても把握しておく必要があるのです﹂ なるほど。懇切丁寧に説明してくれたおかげで良く分かった。問 題の根本的な解決には至っていないが。 ﹁すみません。戦いとか出来ないんですが、武器扱えないとなれな いものなんですか?﹂ 太一の言葉に目を丸くするお姉さん。 これはまずったか。しかし、使えないものは使えないのだ。命が かかっている事に、見栄を張る気にもなれない。 一瞬だけ動きを止めた受付のお姉さんだが、ハッとしたように笑 顔を浮かべた。 ﹁い、いえ。登録は出来ますのでご安心ください。ただ冒険者とし て仕事をする以上、戦えないとたくさん稼ぐ事は出来ませんが、よ ろしいですか?﹂ それは是非も無い。﹁たくさん﹂稼げないだけで、﹁全く﹂稼げ ない訳でない事が分かっただけでも十分だ。むしろ安全な仕事が有 73 るという事だろう。願っても無い事だ。 ﹁承知しました。では何か武器を扱えるようになったら、またこち らに来てください。その時に追記しますので﹂ ﹁分かりました﹂ 続いて奏の代筆も滞りなく進み、手続きそのものは終了した。 ﹁それでは、次に冒険者ギルドの説明をさせて頂きます﹂ ﹁分かりました﹂ ﹁冒険者ギルドは、その名の通り、冒険者の方向けの依頼を、適切 な冒険者に斡旋する場所です。冒険者の方の殆どはギルドに登録し ていて、ギルドを通して依頼を受けています。それには、依頼人と のトラブルなどを未然に防ぐ等様々な理由がありますが⋮⋮一番は、 冒険者の管理です﹂ 受ける依頼に制限が無いと、身の丈に合わない依頼を引き受けて 命を落とす、といった事が横行するらしい。ギルドとしても、冒険 者という人材はとても貴重だという。彼らを無駄死にさせないため にも、出来るであろう依頼を優先的に回し、徐々に腕を上げていっ てもらうのが目的だ。 また、依頼の不備等は依頼人とのトラブルとなりやすいのだが、 ギルドを通して受けた依頼の場合、ギルドがその責任を負ってくれ るのだという。冒険者への補償もその範囲。伊達に冒険者の保護を 謳ってはいない。 冒険者に適切かつしっかりした依頼を斡旋するための尺度、それ が、冒険者ランクだという。 ﹁冒険者の方々にはランクが割り当てられます。上から順にS、A、 Bと続き、冒険者になりたての方はFとなります。ランクが高いほ 74 どギルドからのサポートも厚くなりますのでがんばってくださいね﹂ 因みにSランクは、世界でも十人しかいない狭き門。枠そのもの が十だというから驚きだ。 そういえば、バラダー達のランクはなんなのだろうか。疑問に思 った太一が問うと、お姉さんはまたも驚いていた。 ﹁バラダーさん達を知ってるんですか?﹂ ﹁ええ。魔物に襲われてるところを助けて貰ったんですよ﹂ ﹁そうですか。バラダーさんたちは冒険者ランクB。向こう一年以 内にAになれるといわれています。このギルドでも最もランクの高 い冒険者パーティですよ﹂ 運が良かったですね、と笑うお姉さん。 本当にその通りだと思う。そんな腕利きだったとは。いや、あれ だけの人外な戦いが出来るならそれも納得が出来る。 ﹁⋮⋮こほん、説明を続けますね。冒険者ランクは、タイチさんと カナデさんはFからになります。Fランクで受けられる依頼は、主 に街中での雑用です。戦闘はありませんが、中には力仕事もありま すので、一般の方ではこなすのが難しい仕事も確かに存在します﹂ 最低ランクといえども冒険者。腕っ節も並ではないわけだ。太一 と奏は一般人だが。 ﹁ランクを上げるには、依頼をこなして条件を達成する事です。F ランクですと、同ランクの依頼を失敗無しで十回連続で成功する事 です。また、ランクアップには試験を受けていただき、それに合格 すれば晴れてEランクとなります﹂ ﹁試験?﹂ 75 奏が首を傾げる。 ﹁はい。Eランクからは魔物と戦う依頼も出てきますので、ギルド の方で一定の戦闘力が認められなければ、Eランクに上がる事が出 来ません﹂ 奏は太一を見る。問題は無い。生きていくのが目的であって、わ ざわざ危険を犯すつもりはない。 ﹁依頼を失敗した場合ですが、ペナルティとして報酬の倍額をお支 払い頂きます﹂ ﹁うぇ、結構キツいな⋮⋮﹂ ﹁申し訳ありませんが、それも、冒険者の個々にあった依頼を受け ていただくための措置ですので﹂ ルールならば仕方が無い。依頼失敗してもお咎め無しでは真剣に やらない者も出てくるだろうから。 ﹁そのほかにも色々あるのですが⋮⋮詳しい事はこちらの冊子に書 いてあります。今お話した事も全て記載してありますので、後で目 を通していてくださいね﹂ 渡されるパンフレットのような小冊子。 最初からこれを渡せば終わっていたのではないか。 そう、太一と奏が感じるのも、無理は無い事だった。 76 異世界といえば冒険者ですよね︵後書き︶ 次回も冒険者登録編です。 77 奏の邪気が凄い事に︵前書き︶ ﹁邪気ってゆーな! 子供の頃の黒歴史がっ!﹂ ﹁お前も⋮⋮あったのか⋮⋮﹂ ﹁太一⋮⋮あんたも⋮⋮﹂ ﹁はは⋮⋮奏⋮⋮目が、虚ろだぜ⋮⋮﹂ ﹁あんたも、死んだ魚の目、してるわよ⋮⋮﹂ ﹁﹁はは⋮⋮はぁ﹂﹂ 78 奏の邪気が凄い事に これで登録は終わったか。 そう思った太一と奏は席を立とうとするが、それをお姉さんの言 葉が遮る。 ﹁それでは、続いて魔力の測定を行いますね﹂ ﹁﹁はい?﹂﹂ 仲良くとぼけた声を上げた太一と奏に、くすくすと小さい笑いを こぼすお姉さん。 ﹁冒険者たるもの、魔術を多少なりとも使えないとダメなんですよ。 魔力をお持ちでない方は、残念ながら冒険者になることはできませ ん﹂ ﹁な、なんだってー!?﹂ それは魂の叫びだった。若干ネタも混じっている。まさかこれを 本気で言うときが来るとは、太一も思っていなかったが。 普段ならこのようなバカな行いを諌める奏も、目を見開いて言葉 を失っている。 ﹁ああ、大丈夫ですよ。大抵の人は多少なりとも持っています。種 族がヒューマンなら、魔力を持っていないほうが逆に珍しいですね﹂ 私も少しは持っていますよ。そういって笑う受付のお姉さん。こ の世界の人間という種族は、皆魔力を持っているのか。 だがそれは不安を解消する一手足りえなかった。 人間が魔力を持つのは普通。だがそれは、あくまでも﹁この世界 79 の﹂人間に言える﹁普通﹂だ。 太一と奏は地球出身。魔術など空想の世界にしか登場しない異能 力であり、現実では科学が文明を発達させている世界だ。 いくら姿形が同じとはいえ、魔力なんてものがあるとは思えない。 なくても冒険者になれるなら問題ないが、今お姉さんは﹁魔力が 無いと冒険者にはなれない﹂と明言した。 つまり、自立への最も近い手段が、初っ端からへし折られようと しているのだ。 ﹁魔力の測定は別室で行いますので、付いて来てください﹂ お姉さんはすっくと立ち上がり、颯爽と歩いていく。歩くたびに 揺れる金髪を眺めながら、太一と奏は落胆を隠せない表情でお互い を見合った。 ﹁行くしか、ないよな?﹂ ﹁そうね。こんな展開は予想してなかった﹂ はあ、と仲良く幸せを手放して、重い腰を上げる二人。 お姉さんはカウンター脇にある扉の前で、太一たちを見て待って いた。 これで夢が絶たれてしまうのかもしれない。そうなったら、情け ないがバラダー達にお願いして堅気の仕事を探す手伝いをしてもら おう。何かあったら頼ってくれと言ってくれた。その日のうちに泣 き付くのも若干⋮⋮いやかなり情けないが。 お姉さんに促されて扉の中へ入る。そこはパッと見二十畳程の部 屋。周囲に窓は無く、板張りのギルド内においては少し異質な、白 塗りののっぺりとした壁に囲まれていた。室内の真ん中に、台座に 据えられた水晶玉が置いてある。いや、それしか置いていない。 80 ﹁方法は至って簡単です。その水晶に、左右どちらの手でも構わな いので触れてください﹂ ﹁それだけですか?﹂ ﹁はい。ではどうぞ﹂ 水晶を半分回り込んでこちらを向くお姉さん。丁度水晶の台座を 挟んで向き合う形だ。 ﹁じゃあ、私から行くわね﹂ ﹁あいよ﹂ ここまで来たのに残念だという気持ちが拭えない。いっそスッパ リ諦められる結果が出てくれたほうが、むしろ未練が残らなくて済 むだろう。とっととダメ出しして欲しい。 半ばやけっぱちにそう考えて足を進める奏。水晶の前に立ち、淡 い輝きを放つそれを見て一瞬だけ躊躇ってから、右手で水晶に触れ た。 水晶は、淡く光るだけだ。これはダメか、そう思って手を離そう とすると、 ﹁ま、待ってください!﹂ 何だかやたら焦ったお姉さんの声が奏の鼓膜を揺らす。 直後。 水晶が輝きを強くした。なにやら色も変わっている。 赤。 緑。 青。 黄。 四つ順番に色を変えて、最後にそれを全て混ぜ込んだような何と 81 も形容しがたい色となり、部屋を照らす。白塗りの壁に全ての色が 反射して、幻想的な光景が浮かんでいた。 ﹁お、おお⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮っ﹂ 思わぬ反応にマヌケな声を漏らす太一と、息を呑む奏。 訳が分からずお姉さんを見つめると、彼女の顔は今までに見たこ ともないような驚愕に染まっていた。 ﹁か、カナデさん⋮⋮貴女、何者ですか⋮⋮?﹂ ﹁え?﹂ 思わず﹁人間です﹂と真顔でのたまってやろうかと魔が差す奏。 しかし、お姉さんの様子から茶化すような雰囲気ではないと感じ取 り、そのまま黙る。 むしろ奏の方が聞きたいくらいなのだ。 ﹁これは⋮⋮っ。これは、全ての属性に適正が有るという事です。 信じられない⋮⋮そんな人が、本当に、いるなんて⋮⋮﹂ 結構、いやかなり珍しい出来事のようだ。全力で驚いている様子 から、何か常識ではありえない事になっているらしい。 当事者の奏からすれば何も分からないので、首を傾げるしかない のだが。 お姉さんに促され、水晶から手を放す奏。水晶が放つ幻想的な輝 きが収束してゆき、部屋に入った当初の状態に戻った。 ﹁あの⋮⋮﹂ 82 固まっているお姉さんに、奏はおずおずと声をかけた。今のはど ういう事なのか、説明して欲しかった。 ﹁あっ! す、すみません!﹂ ﹁い、いえ⋮⋮。それで、どういう事なんでしょうか?﹂ ﹁お二人は魔術についてはあまりご存知ではないのですね⋮⋮。い いですか。全ての生きとし生ける者は、大抵一つの属性だけに適正 があるものなんです。それは、世界最高峰の魔術師である宮廷魔術 師といえど、例外では有りません﹂ 宮廷魔術師。 また凄まじい単語が出てきたものだ。これではまるっきりゲーム やライトノベルの世界である。 ﹁稀に、一人で二つの属性に適正があるデュアル・マジシャンも存 在しますが⋮⋮そうですね、二万人に一人といった割合ですね﹂ 因みに三つの属性に適正があるとデルタ・マジシャンと呼ばれ、 二〇万人に一人しかいないという。そして、奏が引き起こした現象 は。 ﹁信じられませんが、カナデさんはフォース・マジシャン⋮⋮。二 〇〇万人に一人いるかどうかという素質の持ち主です。フォース・ マジシャンともなれば殆どの人が重要な役職に登用され、普通に生 活していたらまずお目にかかることは出来ません﹂ ﹁へ⋮⋮?﹂ 思わずまじまじと奏を見る太一。 奏も奏で、自分の事なのに他人事のような顔をして呆けている。 いつもシャンとしている彼女にしては珍しいレアな表情だ。 83 ﹁な、何でそんな平然としていられるんですか⋮⋮? とんでもな い事なんですよ!?﹂ ﹁い、いやああの⋮⋮。突然の出来事過ぎて理解が⋮⋮﹂ いきなり﹁貴女は世界でも屈指の人材です!﹂と言われても、ま ず疑ってしまうのは仕方が無いのではなかろうか。 魔術がある、と言えば正気を疑われる世界からやってきて、まさ か自分がそんな資質の持ち主だとは。想像の埒外だったとて責めら れるものではない。 ﹁奏すげーな⋮⋮﹂ ﹁そんな他人事みたいな⋮⋮﹂ ﹁他人事だし﹂ ﹁あんたって最悪だわ﹂ 緊張感のカケラも無い会話である。 お姉さんもしばらく呆然としていたが、やがてハッとしたように 我に返り、慌てて扉へ向かう。 ﹁あ、あれ、どこ行くんですか?﹂ ﹁ちょ、ちょっとそこで待っていて下さいッ! いいですか、どこ にも行かないで下さいねッ!﹂ といわれても、むしろ勝手に動く事など出来ない。 先ほどまでは魔力が無いと冒険者になれない、と落ち込んでいた のにどういう事なのか。 どうやらとんでもない事を起こしたらしいのだが、それがどれだ け凄い事なのか理解に苦しむ。 実は受付のお姉さんの言葉どおり、普通は一人につき一つの属性 84 しか適正は現れない。太一と奏の脳裏に強く焼きついている大魔術 を放ったメヒリャも、扱えるのは火属性だけ。身体能力を強化する 魔術を使っていたバラダーも、あの時は魔術を使わなかったラケル タも、それぞれ扱える属性は一つのみだ。 彼らがこの場にいたら腰を抜かしかねない程の事が起きているの だが、太一と奏は無知なので驚くに驚けない。何となく凄いらしい、 程度で、そもそもどれだけ凄い事なのかが、説明されてもサッパリ なのだ。 二人でただ突っ立っている事数分。扉が開いてお姉さんが戻って きた。その横には髭を生やした小さいオッサンがいる。 ﹁ああ、まだいましたね! 良かった⋮⋮﹂ お姉さんは胸をなでおろしている。そのリアクションを見て、徐 々に出来事の凄まじさが分かってきた気がする。 それも、次には吹っ飛んでしまうのだが。 ﹁将来有望な二人とはお前らか若造ども﹂ ﹁いきなり何だよオッサン﹂ 脊髄反射で出た言葉に、お姉さんは顔を青くし、小さいオッサン は憤怒した。 ﹁れ、礼を知らないガキどもだな! ワシはまだピチピチの三八歳 だ!﹂ ﹁﹁オッサンじゃん﹂﹂ ﹁かは⋮⋮ッ!﹂ ダブル口撃がヒットした。 小さいオッサンがもんどりうって倒れていく。その様はスローモ 85 ーションで太一たちの目に映り、何だかアニメを見ているかのよう な錯覚を覚える。 太一に言われるならまだしも、奏にも言われた事がショックだっ たのだが、そんな事は太一たちにとっては些細である。 ﹁た、タイチさん! この方はギルドマスターです!﹂ それならそうと早く言って欲しい。 前知識が無いままでは、どう見てもただの小さいオッサンにしか 見えなかったからだ。 ﹁あー、そうだったんですか。すいませんマスター﹂ ﹁いきなり失礼しましたマスター﹂ とりあえず謝罪する二人。若干棒読みだったのだが、オッサン⋮ ⋮もといギルドマスターは気を取り直したのか﹁orz﹂の状態から 立ち直った。少し縋るような目が鬱陶しい。 ﹁こ、こんなでも一番偉い人ですから、ホントの事でもオッサンと かは控えて頂けると⋮⋮﹂ ﹁何気にお前も酷いぞ!?﹂ 何故こんなコントをやらなければならないのか。 先ほどまでのシリアスな空気が台無しである。 ﹁で、そのギルドマスターが何の用なんです?﹂ このままでは話が進まないので、強引に軌道に乗せる奏。見事な 方向転換である。 86 ﹁うむ。そこの娘っ子が四つの属性を発現させたと聞いたのでな。 我々冒険者ギルドでは守りきれん可能性があるのだ﹂ ﹁え⋮⋮﹂ 突然投下された爆弾に固まる奏。 それを見て、一瞬だけ気の毒そうな顔をしたギルドマスターは続 きを紡いだ。 ﹁お前さんの属性の適正。一度でも露見すれば引く手数多だ。仕事 には困らない、と良く捉える事も出来るが、その力を力ずくでも手 に入れたい、と思う輩が存在するのも確か。後者に事が及べば、先 方は手段など選ばんからの﹂ ﹁⋮⋮﹂ 確かに、二〇〇万人に一人の逸材ともなれば、その可能性はあり うるだろう。 高額な報酬と引き換えにプロチームでその力を正当に発揮するプ ロ野球のようには行かないようだ。 地球の常識が通用しない世界にいるのだから当然といえば当然。 その話も理解できないわけではない。 だが、奏にとっては降って沸いた話である。 自分で努力して手に入れた正当な評価ならまだしも、出所不明の 力が原因でそんな厄介事に巻き込まれたら目も当てられない。 ﹁ど、どうしたらいいんでしょうか⋮⋮。冒険者はやらない方が⋮ ⋮﹂ 急激な不安と悪寒に苛まれ、両腕を抱え込んで項垂れてしまう奏。 彼女は女。手段を選ばないような相手に捕まってしまい、どんな事 に陥るのか最悪の想像をしてしまうのは無理からぬ事だろう。 87 ﹁いや、出来れば冒険者はやって欲しい。その力はとても魅力的だ﹂ それはとても無責任に聞こえた。太一は奏の肩に手を置く。縋る ような視線を受けて、太一はギルドマスターに顔を向けた。 ﹁⋮⋮おいオッサン。保護は出来ません。でもその力だけは使って 下さいってか? 義務を果たすから権利って発生するんだぜ?﹂ 先ほどの忠告もどこへやら。 オッサン呼ばわりでギルドマスターに詰め寄る太一。 冒険者ギルドの存在理由の一つに冒険者の保護がある。それを果 たせないのなら存在価値など無いに等しい。 太一の怒りも最もである。 ﹁分かっておる。無償で差し出せなど言うつもりは無い。こちらは お願いする立場だからの﹂ ﹁どうすんだよ? こっちは冒険者は生きる手段の一つだからな﹂ 要は、見合う物を提示しろ、という事だ。 出されたものが見合わないと考えられたら、冒険者になどならな ければいい。登録だけして、依頼を一切受けず、むしろ冒険者ギル ドに近寄らなければいい。そして魔法を一切使わなくて済む仕事に 就いて、ゆっくりでも金を稼げばいい。人間の本気に努力が噛みあ えば何とでもなるのは、歴史上の人物達が証明している。 ﹁うむ。後ろ盾があれば良いだろう。下手な組織などでは歯向かう 気も起こせない、強力な後ろ盾がな﹂ ﹁⋮⋮本当に後ろ盾になってくれるのか? 俺達って劇薬だろ?﹂ 88 上手く生かせれば大病をも歯牙にかけない強力な薬に。 ひとつ使い方を誤れば自分をも滅ぼしかねない猛毒に。 それが今の太一と奏の立ち位置だ。 ﹁心配要らぬ。冒険者ギルドが貸しを作ればいい話だ。幾らでも何 とでもできるさ。ワシを誰だと思っている﹂ ギルドマスター。冒険者を束ねる組織の長。彼が持つ権力は凄ま じいのだ。見た目では分からないが、彼が浮かべた笑みは太一の背 筋をぞくりとさせる程の頼もしさをもっていた。 89 奏の邪気が凄い事に︵後書き︶ ﹁奏⋮⋮イチ□ーよりすげーんじゃね?﹂ ﹁伏せれてないから﹂ 90 太一の邪気はもっと凄い事に⋮⋮?︵前書き︶ 連続更新! このペースは、あまり守れないと思います。。。 今回は時間的な運が良かったです。 基本、不定期な更新になると思います。 91 太一の邪気はもっと凄い事に⋮⋮? ﹁後ろ盾のほうは任せておけ。その者につけば大抵の問題が解決す る人物を紹介しよう﹂ ﹁⋮⋮そんな都合よく行くのか?﹂ 人生は常に準備不足の連続である。手持ちのカードで切り抜ける 癖をつけておくべきだ。 何を媒体にこの言葉を知ったかは覚えていない。誰かが言ったの か、何かの本に書いてあったのか、洋画で出たセリフか、はたまた 漫画の一コマか。 だが太一の中で﹁なるほど﹂と感銘を覚えさせるに足りた。好き な言葉の一つである。 この言葉を考えのメインに持ってくるのなら、﹁話が上手く行き 過ぎている﹂だ。 異世界で運良く腕利きの冒険者に助けられ。 運良く奏の魔術の才能が発覚し。 運良く後ろ盾に最適な人物が存在する。 まるで台本どおりに物事が進んでいるかのような順調ぶり。誰か が、運命をいじっているんではないかと益体の無い事を考えてしま うのも当然と言える。 だが、ギルドマスターは笑みを浮かべるのみだ。 ﹁肩書き上、ワシの言葉は数多の冒険者に影響を及ぼすのでな﹂ ﹁マジかよ⋮⋮﹂ 適当な事はいえない、と。 上手く行き過ぎて不安になってくる。こんな事もあるのかと、太 一はこめかみを揉み解した。 92 くだん ﹁さて。件については任せておけ。もう一つの用件もさっさと済ま せてしまおうか﹂ ﹁もう一つ?﹂ 太一が疑問符を浮かべると、ギルドマスターは呆れた顔を隠そう ともしない。 ﹁登録に来たのだろう? お前さんは魔力を測定したのかね?﹂ ﹁あ﹂ 奏の事で頭が一杯で、すっかり抜け落ちていた。このまま言われ なければ、そのまま立ち去っていた。お姉さんも奏もどうやら忘れ ていた様子。仲間がいてホッとした太一だった。 ﹁お前さんは普通である事を祈っているよ﹂ ﹁ああ。それについては激しく同意﹂ 奏はこれから色々と面倒くさい事になるだろう。もちろん出来る 限り力になるし、こんな世界に放り込まれた以上は一蓮托生だと思 っている。だが、どうにか守るにも奏だけで精一杯だ。その上自分 までそんな訳の分からない事になってしまったら。 これを、﹁ありえない﹂と断言する要素が一切無いのが悲しい。 何せ目の前で﹁ありえない﹂はずの出来事が起きてしまったのだか ら。 まあ唯一の救いは、自分にも魔力がある可能性が出てきたという 事か。最も、これで太一に魔力の適正が無かったら、冒険者は辞退 するつもりでいる。奏だけにやらせるつもりは毛頭無い。 どうかババを引きませんように︱︱︱ そんな事を最後に願って、太一は思い切って水晶に触れた。 93 相変わらず穏やかな光を湛える水晶。この場にいる全員がそれに 注目する中、数瞬の沈黙が落ちる。 ややあって、水晶が輝きを強くする。 だが、太一も奏も。お姉さんもギルドマスターも一言も声を出さ なかった。 いや出せなかった。 水晶が放っているのは、無色透明の光だから。 表現がおかしいとは太一も思う。普通光といえば、黄色だったり オレンジだったり白だったりするだろう。人によって千差万別だろ うから、ある人が白と言ったものを別の人は黄色と言うかもしれな い。だが、所詮はその程度の差。そして両方に共通するのは、二つ とも光に色を感じている、という事だ。 だから、おかしい。 無色透明の、光なんて。 ﹁えー⋮⋮っと。これはどういう事?﹂ やっとの思いで声を出す太一。 何を問いかければいいか少し考えて、出てきたのは何の変哲も無 い質問だった。 最も、それしか言える事が無かったのだが。 ﹁何故だ⋮⋮何故色が出ん⋮⋮﹂ それに答えたのはギルドマスター。二〇〇万人に一人の確率でし か存在し得ない奏の時よりも、更に驚いているように太一には見え た。 どうやらこれもまたおかしな事をしでかしてしまったらしい。し かもそのリアクションから予測するに、奏の時よりも更にとんでも ない事を。 94 とはいえ、どうしようもない。 自分の制御下に無いところで起きてしまったのだから。 ﹁⋮⋮色って出るのが普通なんですか?﹂ やっと再起動が済んだらしい奏が、ギルドマスターとお姉さんに 問う。お姉さんは再び機能停止していたが、辛うじて動けるらしい ギルドマスターが頷いた。予想外の事には弱いらしいお姉さんと違 い、流石はギルドマスター。動揺していてもやるべき事は分かって いるようだ。 ﹁うむ。この水晶はな、手を触れた者が魔力を持っているかどうか。 それと、どの属性に適正があるかを判定するものだ﹂ あまり近くは無い過去、とある高名な魔術師が、この水晶を作成 したらしい。 対象者の魔力の有無。そして、どの属性に適正があるか。 機能はそういう事らしい。 そしてその中で最も大切なのは属性の判定。魔力を持つ者はすべ からく何かしらの属性に適正があるという。 赤なら火。 緑なら風。 黄色なら土。 青なら水。 それぞれの輝きが発現して、その者は魔力を持つ、つまり魔術を 使える可能性がある、という判定が下される。 属性への適正が無い=魔力を持たない、という方程式が成り立つ のが基本だと、ギルドマスターは言った。 先ほどの四つは四大属性といい、全ての属性の基本だと言う。 中には雷や毒、冷気等の属性を操る者も確かにいるが、それらの 95 属性も大元を紐解けば四大属性のいずれかから派生・或いは改良し て生まれた事が判明するらしい。 魔力があるのに、属性への適正が無いという事は。 ﹁⋮⋮えっと、ちょっと待って。俺はこれを、どう解釈したらいい んだ?﹂ どういう事かは分からないが、どうやら引きたくも無いババが回 ってきたらしい。 ﹁うむ⋮⋮。実はな⋮⋮﹂ この重々しい雰囲気は非常に嫌な感じだ。どのような言葉が返っ てくるのか。太一は無意識に喉を鳴らした。 ﹁これは⋮⋮﹂ ﹁こ、これは?﹂ ギルドマスターは真顔で太一を見据えた。 ﹁分からぬ﹂ 思わずコケてしまったのは許して欲しい。 ﹁あれだけ引っ張ってそれかよっ!?﹂ とんだ肩透かしだ。 見れば奏もお姉さんも呆れている。 太一からの文句と、奏とお姉さんの冷たい視線を受けて⋮⋮しか しギルドマスターは、顔色一つ変えずに真面目なままだった。そこ 96 にただならぬ空気を感じ、太一は追撃の矛を引っ込める。 ﹁すまぬ。本当に分からぬのだ。ワシとて伊達にギルドマスターを やっているわけではないが⋮⋮こんな事は初めてだ。どういう、事 なんだ⋮⋮﹂ 搾り出すような声を出し、水晶を見据えるギルドマスター。 その言葉からは出会い頭の軽い調子は一切窺えず、太一も二の句 が継げなくなってしまう。 これは、どうやら尋常ではない。 奏も奏で大概だが、彼女のときのギルドマスターの対応は全く淀 みが無かった。まるでこうするのが最善、という着地点をあらかじ め理解していたかのような様子で、筋道立てて太一と奏に道を示し てきた。 冒険者を登録しに来ただけの者に対する措置としては破格だが、 二〇〇万人に一人の逸材ともなれば、普通の対応で済ませていいは ずが無い。まして相手は右も左も知らないようなヒヨッコ。それだ けで本当にいいのか、もっと手を打てないかとギルドマスター自身 は考えていた位だ。冒険者として是非ギルドに身を置いて欲しい、 という思いもある。純粋にこれから未来を紡いでいく若者が、下衆 の飯の糧になるのはあまりにも不憫だ、という年長者の老婆心もあ った。 一方、太一に対してはどうしたらいいのかがさっぱり分からない。 複数属性への適正や、膨大な魔力の持ち主である、というのなら、 奏と同じような対応を取ればまあ、当面は大丈夫だと言える。ギル ドマスターが頼ろうとしている先は、下手をすればその辺の貴族よ りも権限を持っているからだ。当人は権力に興味が無さそうだが、 それもこちらが折れて貸しを作れば動いてはくれるだろうと考えて いる。利害一致を持ちかければよいのだから。 しかし太一の場合は想定を遥かに超えてしまっている。 97 水晶のこんな反応は見たことも無いし、彼が生きてきた中で他の ギルドマスターから聞いた話でも、これに該当するような人物はい なかったと記憶している。 普通なら、魔術は使えないと考えるべきなのだろう。 しかしそれでは、魔力はある、という事実を覆せない。 色を一切含まない、純粋で透明な水晶の輝き。 ﹁バカな⋮⋮まさか⋮⋮﹂ 思い当たる節が、無いわけではない。 しかしそれでは、彼らが背負う運命は余りにも過酷過ぎる。 奏でさえ既にキャパシティオーバーなのだ。その上太一までその 枠に入っているとあっては、十五歳で背負える荷物とは到底思えな い。ギルドマスターがそうだったとして、背負っていけるか断言す る自信が無い位だ。 だが、一度浮かんでしまった仮説を覆せる要素を持ち合わせてい ないことに、ギルドマスターは舌打ちを隠そうともしなかった。 先ほどから一連の彼の様子を見て、胸中穏やかではないのは太一 と奏である。 ただならぬ気配を、彼から感じる。 それも、思いつく限り、碌なことではない、という予想が立てら れる位には。 ﹁タイチ、と言ったな﹂ ﹁あ、ああ⋮⋮﹂ 彼から発せられるプレッシャーに、太一はこめかみから汗が流れ るのを感じる。 普通なら冒険者になりたての弱輩者を相手にするときは気を使う 彼だが、今はそこに気が回らないほど、困惑していた。 98 ﹁お前さんは、下手をすればカナデよりも拙いかもしれん﹂ ﹁えーっと⋮⋮そういうのはいらねーかなって思うんだ、俺﹂ ﹁茶化すな。ワシとて確信がある訳ではない。だが、ワシが持つ知 識では、すまんがこの仮説以外に思い当たらなかったのだ﹂ 軽い調子を即座に諌められ、太一は首を竦めた。 最早逃れる事は敵わないだろう。覚悟を決めて、太一は頷きを返 した。 ﹁お前さんは、ユニーク・マジシャンの可能性がある﹂ ﹁な、なんですって!?﹂ 間髪いれずに声を返したのはお姉さんだ。 ﹁ユニーク・マジシャン?﹂ 一方言葉の意味が分からずに疑問符を浮かべたのは奏。二人に温 度差があるのは仕方が無いことだろうとは思う。 奏の記憶と解釈が正しければ、ユニーク、UNIQUE⋮⋮唯一、 とか特有の、とか、そういった意味のある英単語だったように思う。 異世界にきて英語の事を考えるとは思わなかったが、これは、あま りよろしくないかもしれない。 ギルドマスターは頷いて、答えた。 ﹁そうだ。火、水、風、土。その全てに当てはまらない属性。この 世界では、﹃固有魔法﹄と呼ばれている。それに適する者が存在す る確率は、フォースマジシャンよりも圧倒的に少ない﹂ ﹁え”っ﹂ 99 濁点つきの汚い言葉で答える太一。 規格外だったのは、奏だけではなかった。 そちらに気を取られた事で、太一と奏は疑問に思わなかった。 余りにも自然で、疑問に思う暇すらなかったのだ。バラダー達を 含め、今までずっと彼らは﹁魔術﹂と形容していた。それが初めて ﹁魔法﹂と呼ばれたことに。そしてその言葉の違いに、大きな意味 があった事に。 ﹁すまぬな、タイチ。ワシも今すぐに、お前さんをどうするのが最 善なのかが浮かばん。当面は、カナデと共に行動すると良かろう。 彼の者は魔術には明るい。ワシのようなにわか知識ではなく、きち んとした理論でもってお前さんたちに応えてくれるだろうて﹂ 見れば彼の横で、受付のお姉さんも神妙な顔をしている。 どうやら現時点では、彼らに出来る事はそれだけらしい。 それ以前に懇切丁寧な謝罪をされているのだ、彼らに何ぞ文句が あるはずもない。むしろ親身な対応をしてくれたほうだろう。 ﹁ワシは書簡を書いてくる。お前さんたちに紹介する者の名はレミ ーアという女だ。ちいとばかり偏屈だが、まあ、魔術に関してはそ こらの学者よりも詳しい。本人も超がつく一流の魔術師だしな﹂ 偏屈、という言葉が引っかかるが、どうやら優秀な人物のようだ。 その言葉を聴いた瞬間に、受付のお姉さんが少し眉をひそめたの を見逃したのは、太一と奏にとって幸か不幸か。 ﹁冒険者の登録は問題ない。二人とも魔力があるのを確認した。後 はマリエから手続きを受けるとよかろう﹂ 受付のお姉さんはマリエと言うらしい。そういえば、今まで名前 100 も知らなかった。手続きだけだと思っていたから、二人とも名前を 聞くつもりが無かったのだ。 ﹁手続きが終わる頃には書簡も出来上がるだろう。では、ワシはこ れで失礼する﹂ 最後にとてもギルドマスターらしい姿を見せて、小さいオッサン は退室した。 彼らの後姿を見つめながら、二人は自分の身に降りかかった夢み たいな出来事を、未だどう受け取っていいのか分からずにいた。 101 太一の邪気はもっと凄い事に⋮⋮?︵後書き︶ 次回、女性キャラが二人登場します。 ヒロインと、なるかな⋮⋮? そして、奏の対抗馬となるかな⋮⋮? 太一君の規格外さは、次回以降で。異世界基準ではかなり規格外な 奏ちゃんとの間にある、超えられない壁も明らかになります。 あ、マリエさんはMOBです。 太一、奏と今後仲良くなっていきますが。 戦闘シーン⋮⋮もとい、太一君の無双が書けるのは、いつかなぁ。。 。 102 美少女と偏屈魔術師さんの登場︵前書き︶ 悪ノリした結果がこれだよ! 103 美少女と偏屈魔術師さんの登場 魔力を測定する部屋からカウンターに戻った太一と奏の登録手続 きは終了間際まで進んでいた。 というのも、魔力を測定した後はギルドカードを受け取り、それ についての説明を受ければ終わりだと、マリエが告げたからだ。 ギルドの奥の方で机に座り、なにやら数枚の書類を捌いているマ リエを遠目に見ながら、太一と奏は空いた時間をボーっとしていた。 呆然、というのが適切な表し方かもしれない。 魔力を測定してみて、驚くべき状況に置かれていると知った。 これが一般的な魔術の才能だったなら。魔物が跋扈する世界だ、 自分達の身を自分達で守ると言う当たり前の事が可能になって、素 直に喜んでいただろう。不幸中の幸いとして。 得た力が強いのも、困る事は無い。それだけ生き残る可能性が高 まるだけだ。 今回のケースでは、得た力が強すぎて外部からの干渉が来る事が 考えられる。それが問題だ。 生き残るための力。身を守るための力が祟って、己の身が危うく なる。これでは本末転倒ではないか。 何故この世界に来たのか。何故自分たちはここにいるのか。 理由。 意図。 そのどれもが不明だ。 ﹁⋮⋮なあ奏﹂ ﹁⋮⋮ん?﹂ ﹁ホントなら授業受けてたはずだよな俺ら﹂ ﹁そうね。太一は授業というより昼寝ね﹂ ﹁四月だからな。気持ちいいんだよ﹂ 104 ﹁暑くても寒くても寝てるじゃない。テスト前に先生しなきゃなん ないのこっちなのよ。四月の陽気が気持ちいいのは同感だけど﹂ ﹁まーそー言うなって。⋮⋮今頃﹃不動のヅラ﹄が貴史に俺達の行 方聞いてるかな﹂ 不動のヅラ。それは毎年一年生を担当する数学教師についている 渾名である。明らかにヅラだと分かるのに、どんな事が起きても一 切ずれる事無く、剥き出しの頭皮を守る鉄壁の盾。この渾名は命名 されて既に六年経過している、生徒達のみに伝わる密かな伝統。 かつて数多の先輩達がかの盾を破ろうとさまざまな作戦を立てて は突貫し、そして夢半ばにして散っていった。あらゆる攻撃を弾き 返す不可侵の城壁。 脈々と受け継がれた伝統は、太一たちの代になっても健在。入学 後、二年の先輩達が一年のグループに突入、早速﹃不動のヅラ﹄の 伝統を受け継いだ。初めて受ける数学は噴出しそうになる自分との 孤独な戦い。一部の気にしない生徒を除き、皆地獄の苦痛を味わう。 太一も貴史も、奏も例外ではなかった。 華の高校生になってから最初に訪れる試練である。 不動のヅラの名誉の為に言っておくが、出来と飲み込みが悪い生 徒がいるととても親身になり、出来るようになるまでは根気良く幾 らでも生徒の為に身を粉にする。他の教師が敬遠するような素行の 悪い生徒相手にも自分から果敢にコミュニケーションを取りに行く 教師の鑑のような男である。学校内で生徒から掛け値無い信頼を置 かれている数少ない教師の一人。少し大きな事件を起こしてしまっ た不良生徒が泣きついたのは、親でも警察でもなく不動のヅラだっ たというのは有名な話だ。 不動のヅラ、という渾名も生徒たちが寄せる信頼の照れ隠しだっ たりする。 ﹁あーそうかも。説明なんて、できっこないだろうけど﹂ 105 この世界に飛ばされたとき、足元から吹き上がる光を、太一も奏 も覚えている。そしてその外側で、驚愕と心配そうな顔をした親友 の顔も。 ﹁そうだよなあ。貴史、心配してるよな﹂ ﹁きっとね。不動のヅラも、内心では心配する先生よね﹂ それ以上は、二人とも何も言わなかった。 親。兄弟。貴史以外の友だち。教師。⋮⋮二人に関わりのある人 たち。 自分たちを心配する人が想像以上に多い事に今更気付き、何も言 えなくなってしまった。 言えば。続きを口にすれば。出てくるのは恐らく﹁帰りたい﹂の 一言。それは、日本に戻る為にこの世界で何とか生きていこうとす る二人の心を、あっさりと挫いてしまう事が分かったから。 これは、忘れたほうがいい。少なくとも、今は。 後ろ向きになりかかる思考をしていたら、結構時間が経っていた ようだ。 マリエがこちらに向かって歩いてきていた。その手にはシルバー のプレートが二枚。 ﹁お待たせしましたタイチさん。カナデさん。こちらがギルドカー ドです﹂ 太一に一枚。奏に一枚。それぞれ手渡して、彼女は二人を見る。 ﹁それでは、ギルドカードの説明をしますね﹂ マリエは特に何も言わずに、自らの職務を全うしようとする。 106 実は二人が先ほどまでの鬱々とした表情を隠そうとしているのを、 彼女は見抜いていた。会話までは聞こえなかったため、恐らくは先 ほどの魔力測定の結果についての事だと勘違いはしているが。 魔術について二人が殆ど何も知らないのは彼女も知っている。い きなりあんな事を言われて不安になっているのだろうとあたりをつ けた彼女。これでも冒険者ギルドの受付。様々な人物と出会い、言 葉を交わした経験から、多少のポーカーフェイスは彼女の前では意 味を成さない。触れられたくないだろうと思って黙殺したのだ。 ﹁このギルドカードには、持ち主のお名前、クラス、冒険者ランク 等の情報が刻まれています。そちらを持ってみてください﹂ 促されるままカードを手に取る。レリーフが彫られていて美しい が、クレジットカードよりも一回り大きいただの銀のプレートだっ た。それに、薄っすらと文字が浮かび上がる。その文字は日本で知 りえた文字とはまるで違い、全く読めなかった。この時に文字を読 めない、という事実も知ったのだが、パンフレットを受け取ってい る事は忘れている太一と奏。後で見ようとして二人して途方に暮れ るのだが、色々ありすぎて今はすっかり頭から吹っ飛んでしまって いる。 ﹁そちらの文字は、お二人の魔力の紋様に反応し文字が出るように なっています。他の方がそれを持っても、文字が浮かび上がる事は ありません。詐称防止対策です﹂ 試しに交換してみてください、と言われ、太一と奏でカードを入 れ替える。なるほど確かに文字は浮かばなかった。銀色のプレート のままだ。 ﹁こちら、紛失しますと三〇万ゴールドお支払い頂かないと再発行 107 できませんので、厳重に管理なさってください﹂ ﹁たかっ!?﹂ ﹁三〇万!?﹂ 二人はこの世界の貨幣価値をおよそ日本円と同じ程度と捉えてい るが、決して遠くは無い。 この世界での一般的な四人家族の一ヶ月の平均収入はおよそ二〇 万ゴールド強。紛失した時のペナルティはとても厳しいと言えるだ ろう。 ﹁こうしないとダメなんですよ∼﹂ はあ、とため息をつくマリエ。 このルールを作るまでは、ギルドカードをなくしても平気な顔を して再発行を依頼してくる冒険者が多数いた。 わざわざ値が張る貴金属である銀に、意匠を施したギルドカード を採用しているのは、冒険者にはくをつけるため。粗野で乱暴者が 多いという先入観を持たれやすい冒険者を良く見せようと言うギル ド側の苦慮によるものだ。更に個人を判定する魔術もかけられてい るこのカードは、結構なコストをかけて作られていると言う。 ギルド側も最初は冒険者への期待値を込めて再発行含め無料にし ていた。しかし再発行にかかるコストがバカにならず、ギルド全体 の財政を逼迫させたため、このようなペナルティを設けたらしい。 ルール施行当時、冒険者側からの反発はもちろんあったが、ギルド 側が強硬な姿勢をとったため、徐々にそれも沈静化し、カードを無 くす冒険者の数が減ったという。 ﹁なので、いかなる理由があろうとも、再発行には費用が掛かりま す。故意、過失、不可抗力いずれも一切考慮しませんのでご注意く ださいね﹂ 108 こうまではっきりきっぱり宣言されてしまったら、聞いていない、 というのは通用しない。マリエも有無を言わさない姿勢を見せてい る。 最も、物を無くせばペナルティがあるのは不思議な事ではない。 自分のものではなく貸与されていると思えばいいのだ。 法律が発達した日本からやってきた二人はすんなり受け入れる事 が出来た。 因みに冒険者として依頼をこなし始めると、あっという間に三〇 万程度稼いでしまうのだが、それはもう少しだけ先の話である。 ﹁また、Fランクでは依頼を一ヶ月に三度受けなければ、ギルドカ ードの効果は失効します。再度有効化するには手続き料として一〇 万ゴールド必要ですので、定期的に依頼を受けるようにしてくださ い﹂ このルールも、ギルドカードを持つ事で発生する恩恵を狙った、 空登録する輩を防ぐ目的だ。 ギルドカードの恩恵を一ヶ月間受け、失効したら売却。それを実 行した愚か者もいるが、これは身分証明書である。売却すれば足が 出て一〇〇パーセント捕まるため、貴金属的な価値を狙った転売も 不可能。捕まれば厳罰なのは言うまでも無い。 因みに、EランクやDランクになれば、依頼完遂までに要する期 間が長くなる事も十分考えられる。討伐での遠征、長期護衛の依頼 などがそれだ。 その場合一ヶ月に三回依頼を受けるのはどんなにがんばっても難 しいのではないか。 そう尋ねた奏に、マリエは安心してください、と笑った。Eラン ク以上になれば、受ける依頼の数は三ヶ月に一度で良いという。長 期になる事が少しでも見込まれる場合も考慮されるらしい。依頼を 109 受けているうちに三ヶ月が経過して、戻ってきたら失効してました、 という事態はさすがに無いようだ。またCランクになれば半年に一 回、Bランクになれば一年に一回、Aランク以上ともなれば永久に 有効だという。 また事情で依頼を受けれない事もあるだろう。依頼遂行中に怪我 をしたり、また病気に罹ってしまったり等が考えられる。その時も ギルドに事情を話して活動の一時停止を申し出れば、冒険者として の活動を凍結できるという。 ギルドカード失効については、色々と考えられている。理不尽に 失効しないと分かって、一安心できた。 ﹁さて。説明は以上になりますが⋮⋮何かありますか?﹂ 特には無い。二人は念のため確認しあって質問は無い事を彼女に 告げた。 分からない事があれば都度聞けばいい。何度聞いたって問題は無 いだろう。 ﹁分かりました。⋮⋮大変ですね。私は気持ちを分かってあげる事 は出来ませんが⋮⋮愚痴くらいなら聞けますから﹂ 同情は同情だが、下手に分かったような事を言わない彼女に好感 を覚える。 全くです、と奏は答え、苦笑いを浮かべた。 ﹁どうやら済んだようだな﹂ ギルドマスターが筒を手に持ってやってきた。どうやら、例の物 らしい。 太一はそれを受け取る。丁度卒業証書を入れる筒と同じくらいの 110 大きさに思えた。これが今後の運命を左右する書筒である。学生カ バンに入れて、厳重にすぐさま背負った。どこかに置き忘れたとな ったら目も当てられない。是が非にでも届ける必要がある。 ﹁さて。あまりここに長居してもお前さんたちに得るものは少ない だろう。早く行くと良い﹂ ﹁えっと⋮⋮そのレミーアさん、でしたか? どこにいらっしゃる んですか?﹂ レミーアという女性に頼ればいいのは分かる。しかしまず人相が 分からない。どこに住んでいるのかも分からなければ、そもそも遠 いのか近いのかも分からない。 この街にいるなら歩いていけるだろう。しかし別の街にいるのな ら、馬車などを考えなければならない。せめて地図くらいは欲しい ところだ。 ﹁心配要らん。ギルドの外に馬車を待たせてある。急な用立てでち ぃとばかりみすぼらしいが、まあ目をつぶれ﹂ ﹁それに乗るだけでいいんですか?﹂ ﹁うむ﹂ わざわざ馬車で行く。これは結構遠いのではなかろうか。そう思 ったのだが、違った。 ﹁いや。馬車に乗って一時間もすれば着く。ワシは、ヤツを偏屈だ と言ったな?﹂ つい先ほどの事で忘れるはずも無く、太一も奏も頷いた。 ﹁ヤツはこの街から一時間ほど離れた森の中にログハウスを建てて、 111 そこで暮らしておる。人里では暮らしたくないが、かといって山奥 まで離れて暮らす気も無いらしい。偏屈じゃろう?﹂ ﹁はは⋮⋮﹂ 乾いた笑いは誰のものか いや、誰でもいい。皆の心境を見事に表した物だったから。 ﹁じゃあ、行きます﹂ ﹁うむ。定期的に依頼は受けに来るようにな。歩いても一日でこの 街に来れるからな﹂ ﹁歩いて一日は御免こうむりたいなあ⋮⋮﹂ 割と本気でそんな事を呟いて、太一と奏はギルドを出る。ギルド マスターの言うとおり、外には馬車があった。馬車? と思いたく なるようなものだったが。具体的には荷台を馬が引くもの。その荷 台が、農家のおじさんが引いている二輪車のようなもの。みすぼら しい、と言われていなければ、苦笑だけでは済まなかっただろう。 辻馬車とは比べるべくも無い。 あの短時間でこれを貸し切れるだけ、あのギルドマスターは仕事 が速いと思う。 ﹁お前達が客か。とっとと乗りな。すぐ出発するぞ﹂ ﹁あ、はい﹂ まず太一がひょい、と持ち前の運動神経で荷台に飛び乗り、奏の 手を引いてサポートする。彼女がスカートなので、先に乗せると色 々と拙いのだ。主に奏のご機嫌的な意味で。 ﹁乗り心地はわりぃから、覚悟しとけや。まー一時間の辛抱だ﹂ ﹁分かりました﹂ 112 言葉遣いが粗い中年の男だが、仕事はきちんとするらしい。予め 忠告もする辺り、客商売なのは分かっている様子だ。 ⋮⋮⋮⋮。 率直に言えば、すこぶる尻が痛い。 のんびりかっぽかっぽと歩く、馬の蹄の音に浸る余裕などありは しない。 ほんの少しの凹凸で馬車の荷台が跳ね、堅い板が尻を苛める。太 一は尻を摩っており、奏も摩りたいのだろうがそこは女の子、顔を 顰めるだけで耐えていた。 ﹁乗り心地わりぃって言ったろ。さ、間違いなく届けた。こんなと こに用なんてお前達一体⋮⋮﹂ そこまで言って、続きの言葉を出そうと開かれた口が、閉じられ る。 ﹁いや。止めとくわ。あんまし首は突っ込みたくねぇ﹂ ﹁それがいいと思います﹂ 奏は笑みを浮かべてそう言った。自分たちの境遇を考えたら、間 違いなくその方がいいだろう。 ﹁よし。じゃあ俺ァ行くからな。もし入用なら俺んとこの馬を借り にきな﹂ さりげない宣伝をして、馬車︵?︶はかっぽかっぽと、のんびり 来た道を戻ってゆく。 少しの間見送って、太一と奏は踵を返した。 木で出来たログハウスが目の前にある。 113 そして周囲は森だ。 ギルドマスターが言っていた住処の特徴と酷似している。 驚いたのは、そこそこの大きさがあるという事だ。てっきり小屋 か何かだと思っていたから、想像以上に立派な造りのログハウスは 予想外だった。 周囲の窓はカーテンで遮られており、中を窺う事は出来ない。ま あレミーアは女性だと聞いているから、家の中を窓から覗くなど変 質者のする事だ。まして彼女に救いを求める立場。うかつな事は出 来ない。 ﹁偏屈って言ってたけど⋮⋮大丈夫かな?﹂ ﹁さあ⋮⋮﹂ 気休めなど言う気が起きない程度には、太一も不安がある。 とはいえ時刻も夕方に差し掛かって来た。森はそこまで深くはな いようで、空も十分に見えるし、そこから太陽の光も注いでいる。 その光が、周囲をオレンジに染め始めているのだ。 ﹁よし。行こう﹂ ﹁うん﹂ ここで突っ立っていても始まらない。 最早手段など選んでいられないのだから。尻込みしている暇は無 い。 せっかくのギルドマスターのお膳立て。更に心の底から心配して くれた、立場上取引相手であるマリエ。 踏みとどまっていたら彼らに申し訳が立たないというものだ。 太一は一度鋭く息を吐いて、扉をノックした。 ﹁すいませーん! レミーアさんの家であってますかー!﹂ 114 ⋮⋮⋮。 シーン、という擬音がふさわしい静寂が辺りを包む。一切のリア クションが無く、扉の奥から物音も聞こえない。 太一はもう一度ノックした。 ﹁すいませーん!! レミーアさんに用があるんですー!!!﹂ 先ほどよりももっと大きな声で。日本でやったら変な目で見られ るくらいには声を張り上げた。 またも静寂。だが二度目のそれは、長くは続かなかった。 どたどたと大きな音がして⋮⋮。 ﹁何ようるさいわね! 近所迷惑でしょうが!!﹂ バン、と猛烈な勢いで扉が開かれる。蝶番が吹っ飛びそうだ。 因みに。 それは外開きな訳で。 太一は扉のそばで扉をノックしていた訳で。 ﹁ぶごっ!﹂ 鈍い音と無様な悲鳴。太一は思わず痛みに鼻っ柱を押さえて蹲る。 ﹁あ、あら?﹂ 不意打ちの強襲を実行した本人は、あまりの勢いに目を丸くして いる奏と、ドア一枚挟んだところでしゃがんでいる太一を見て一瞬 硬直。徐々に状況を理解してきたのか、頬を一筋の汗がつつ、と流 れた。 115 ﹁ぐおお、いってー⋮⋮﹂ 真っ赤になった鼻を押さえながら、太一が立ち上がる。鼻血が出 ていないのは不幸中の幸いか。 こんな森の中で近所迷惑もクソもないだろう。涙が滲んだ目でそ の犯人にそう文句をつけてやろうとして、驚いた。 腰まで伸びる見事な金髪。綺麗な蒼い瞳。顔のパーツも全てが美 しく、それを黄金比でもって並べたかのような顔立ち。美少女、と いう言葉が裸足で逃げ出す、お人形のような美貌を湛えた少女が立 っていた。耳は尖っているが、不思議と彼女にはよく似合った。 テレビをつければ美しさ自慢の女性タレントを何人も目に出来る 日本と比べても、彼女はそれを軽く上回っているように見える。 可愛い女の子を見て太一が言葉を失うのはまあ、思春期の少年と して良くある事だろう。 奏までも、彼女の美貌に当てられて声を失っているのが、目の前 の少女の美しさに声を失っていた。 マジマジと四つの目を向けられ、少女は少し照れたように軽く頬 を染めた。純粋な驚きの視線に少し押されながらも、太一たちを見 てジトっとした目を向けた。 ﹁な、何よ。用が無いなら帰りなさいよ。こっちは忙しいの﹂ 言われてハッとする。いやそれは拙い。 わざわざここまで来て放り出されるわけには行かない。 ﹁いやいや! 用があるんだって!﹂ ﹁何よその用って。とっとと言ったら?﹂ 迷惑そうな顔を隠そうともしない。何が原因かはわからないが、 116 とても不機嫌そうな目の前の少女。 これは遠まわしな事をしたら逆効果だな、と思いつつ、とはいえ 社交辞令は省いていい工程ではない。 ﹁貴女が、レミーアさん?﹂ 気を取り直した奏た問いかける。言外に﹁レミーア﹂という人物 に用があるという意味を含ませて。 レミーアの名を聞いた瞬間。本当にほんの一瞬だが、少女が眉を ひそめた。 それは太一と奏は気づかないほどの短い時間。だから、目の前の 少女が急に微笑を浮かべたその理由を、理解できなかった。 ﹁そうよ。あたしがレミーアだけど、何の用なの?﹂ ﹁レミーアさん!? 良かった! やっと会えた⋮⋮!﹂ 奏が安堵のため息をついた。彼女だけではない、太一も安堵した 顔を見せている。警戒心などまるでない。本当にただ純粋に、彼ら は﹃レミーア﹄に会えた事を喜んでいる。 それが少女の心にちくりと何かを残すのだが、それを完全に無視 して、彼女は﹃レミーア﹄を名乗ったまま二人を見つめている。 やがて太一が背負っていたカバンを下ろす。何と出来の良いカバ ンだろうか。﹃レミーア﹄が知る限り、これほどの一品は見たこと がない。これを市場に流したらどれだけの価値が着くか予想も出来 ない。 そんな関係ない事を考えていると、太一はカバンから筒を取り出 した。 ﹁レミーアさん。これ、ギルドマスターから預かったんです。俺達 を保護して欲しいんです﹂ 117 ﹁⋮⋮!﹂ 保護とは穏やかではない。 彼らは一体何をやらかしたのだろうか。 しかしギルドマスターからの書簡を預かっている時点で、無碍に 出来る相手ではない。そもそもそれが本当なら、 太一から書簡を受け取り、どうしようかと考える。 逡巡した結果、とりあえず中身を見てみよう、という事で落ち着 いた彼女は、書簡を読むべくフタを手で掴む。 ﹁ミューラ。客か?﹂ そのタイミングで現れた、もう一人の声。目の前の美少女よりは 幾分落ち着いた声色で、 ミューラと呼ばれた金髪碧眼の少女が振り返る。そして、目を丸 くした。 ﹁何だ。客人なら中に入れてやればよかろう﹂ 奥から現れる事で、その姿が太一と奏にもはっきりと見えるよう になった事で、二人して動きを止めた。 これは全くの想定外である。 まさか、ブラジャーとパンツのみの半裸状態で、客人の前に姿を 見せるとは思わなかったから。 ﹁私がレミーアだ。この金髪はミューラ。でだ。おぬし等は何ぞ用 か?﹂ ﹁あー、うー⋮⋮﹂ 言葉に詰まってしまう太一。大人向けのビデオを見てそういう物 118 を知ってはいる。しかし、女性とはそこまで縁のある人生ではなか ったのだ。女性の下着姿など、見るのは完全に初めてだ。思わずテ ンパってしまうのも無理の無い話だろう。 少しくすんだ金色の髪は肩にかからない程度の長さ。ミューラと 呼ばれた少女に匹敵する人間場慣れした美貌。ミューラと違い大人 の色気満載の顔立ち。 そして何より、彼女を大人の色気満載たらしめているのは、胸元 の二つのメロンである。下着からあふれんばかりのそれは、男子に とっては他から意識を奪う究極兵器と言ってもいい。太一の視線が そこに釘付けになっているのは、重ねて言うがお年頃故に仕方の無 いことだ。本人にとっては不可抗力極まりないだろう。 そして、そんな太一を見てご機嫌を右肩下がりで悪くしているの は、彼と共に異世界に渡った、中学時代からの友人。 ﹁太一⋮⋮﹂ ﹁は、はひっ!﹂ 背後からのどす黒いオーラに背筋が伸びてしまうのは習慣だった りする。 ﹁いつまで見てんのこの変態ッ!﹂ ﹁不可抗力だぁぁっ!!﹂ 後頭部に放たれた見事な回し蹴りが、太一を吹き飛ばす。 急激な後頭部への一撃にバランスを崩した太一はつんのめる。思 わず手を伸ばして、それは温かくやわらかい何かを掴んだ。 むにゅう。 擬音にするならそれである。 ﹁⋮⋮発情するのは結構だが少年。早過ぎると嫌われるぞ?﹂ 119 これは事故だ! 不幸な事故だったんだ! そう叫ぼうとして、 レミーアが意地の悪い笑みを浮かべている事に気付く。 ああ⋮⋮この女⋮⋮わざと、か⋮⋮。 そして、びくりと身体が震える。恐る恐る振り返ると⋮⋮奏の背 後に、虎が見えた。 これは拙い。下手をすると黒曜馬よりも怖い。 ﹁ねぇ。一発殴らせてよ☆﹂ 嫌とは言わせない雰囲気で歩み寄ってくる奏。セクハラしてしま ったのは紛れも無い事実である。これは、殴られるしかないのかな あ⋮⋮。そう考えて、虚ろな目で振り上げられる拳を眺め⋮⋮そし て見たのは、横合いから迫ってきた肌色の何かだった。 ﹁誰が無乳だーーーーっ!!!﹂ ﹁んな事言ってねぇーーーーーー!!?﹂ 異世界の夕焼けに向かって、太一は鳥になったのだった。 ﹁あの⋮⋮私はどうしたら⋮⋮? 準備を終えた拳は行き場をなくし、振りかぶったまま動きを止め るしかない奏だった。 120 美少女と偏屈魔術師さんの登場︵後書き︶ ちょっと駆け足になりました。 うう、雑ですみません。。 5月2日追記 最後のギャグパートについては賛否両論頂きました。否定意見が多 かったですね。 今作品は練習を兼ねています。 どのように描いて、結果どのような意見を頂いたかの記録としたい ので、あえて修正はしません。 それでもよろしければ、今後もご意見頂けると嬉しいです。 またご意見下さった皆様ありがとうございますm︵︳︳︶m 121 弟子入り︵前書き︶ 230000PV、23000ユニーク⋮⋮だと⋮⋮? ありがとうございます! 日間ランキング一位になるなんて予想外すぎて少し怖いです︵笑 作者が楽しむための自己満足小説ですが、読んでくださる皆さんも 一緒に楽しんでくだされば幸いです! 122 弟子入り 椅子に座って、奏は対面に座る二人の美女を見つめていた。 一人はミューラという少女。美しい容姿に似合う尖った耳が、エ ルフという妖精族である事を示している。 今は頬を膨らませ、ぷいっとそっぽを向いている。 何を考えていたのか、彼女は自分を﹃レミーア﹄だと騙った。 恐らく今は何を聞いても無視されるだけだろうな、と考えた奏は、 彼女についてはひとまず置いておく事にした。 そしてもう一人。 この場所に来た最大の目的。 腕を組んで目を閉じているのが、大魔術師・レミーア=サンタク ル。 肩に届くか届かないかと言うところで無造作に切られた髪。そし て非常に整った顔立ち。どことなくレミーアはミューラと似ている。 耳も尖っているし、姉妹なのだろうか。そう考えればミューラも将 来が非常に有望な少女だが、まあ、それも今は些細な事だ。 レミーアの前には、ギルドマスターからの書簡が置かれている。 それを明らかに斜め読みと思われる速度で一度だけ目を通した後、 彼女はそのまま腕を組んで目を閉じてしまったのだ。 かれこれ二十分にはなるだろうか。 追い出されないところをみると、彼女はじっくりと何かを考えて いるようだ。 テーブルに置かれている紅茶は既に冷えてしまっているが、それ はそれで構わない。 ここで焦っても仕方が無いのだ。奏は彼女の次の行動をじっと待 っている。 太一はどうしたか? テーブルの横の床で、顔面が凹んだ状態で燃え尽きている。 123 制裁を加えたのが奏でないのが残念だが、いい気味なので放置プ レイを決め込んだ。あれは実に腹立たしかった。因みに制裁を加え た張本人であるミューラ。奏が﹁太一はスルーでおk﹂という内容 を言ったとき、サムズアップを向けてきた。いずれ彼女とは仲良く なれると思うのは奏だけだろうか。 ギルドマスターの小さいオッサンが言うには、彼女は魔術に関し ては世界最高峰の頭脳の持ち主だと言う。魔術の理論は、世界でも 最も難解といわれる学問で、つまり彼女は世界で最も頭がいい存在 の一人。 彼女が一体何を考えているのか。何度かそんな予想をしてみたが、 すぐに諦める、を繰り返している。凡人である奏に、天才であるレ ミーアの考えが分かろうはずが無い、というのがその理由だ。 待つのが特に苦手ではない奏は、しばしぼーっと視線を宙にさま よわせている。これだけ近いのだから、彼女が動けばすぐに気付く だろう程度には、意識を飛ばさずに。 紅茶を飲みながらそっぽを向くという、レミーアよりは遥かに動 きの多いミューラが、ふと視線をレミーアに向けて固まっている。 ん? 何だ? そう思ってあえて合わせていなかった焦点をミューラに向ける。 彼女は、驚いていた。 はて。 何にだろうか。 ミューラの視線を追っていくと、当然レミーアが視界に映る。た だ腕を組んで目を閉じているだけの彼女にそんな驚くところなんか ⋮⋮。 ﹁zzz⋮⋮﹂ 危うく椅子から滑り落ちるところだった。 124 寝ている。自由すぎる。 よく耳を澄ませば、寝息が聞こえて来た。規則正しく胸も上下し ている。目を閉じたまま⋮⋮カクンと、舟をこいだ。 ﹁おっ⋮⋮? おお⋮⋮それでだな、カナデ﹂ 誤魔化すか。 あれだけ堂々と居眠りかましておいて誤魔化すか。 こちとら二十分以上待っていたのに。 やたらと威厳たっぷりの表情を浮かべるレミーアだが、垂れた涎 が全てを台無しにしている。下着姿から既に普通の服に変わってい るが、着替えたばかりの服に涎が垂れて濡らしているのが滑稽であ る。 そのあまりの開き直りっぷりに、怒る気も失せてしまった奏。思 わず視線をミューラに向けると、彼女は肩を竦めて長いため息をつ いた。どうやら、常習犯のようだ。 居眠りしていた事をなかったことにするらしいレミーアに合わせ て、奏も居住いを正す。 ﹁お前がフォースマジシャンであるというのは書簡で分かった。ギ ルドでは、フォースマジシャンについてどんな説明を受けた?﹂ 耳心地の良いアルトボイス。少し堅い口調も、凛とした雰囲気を 纏っている。 ﹁えっと、四つの属性に適正があって、二〇〇万人に一人の逸材だ と﹂ ﹁他には?﹂ ﹁いえ、それだけです﹂ ﹁なんだあやつめ。その程度の説明しかせんかったのか。全く無知 125 にも程があるだろう﹂ フォースマジシャンという言葉を聞いてミューラが目を丸くした が、口を挟む気はないようだ。 ﹁では、そもそも属性への適正が何故生まれるか、それについては 説明を受けたか?﹂ ﹁⋮⋮いえ﹂ 今度こそ、レミーアは盛大なため息をついた。 ﹁⋮⋮次会ったら文句の一つも言ってやるとするか。この程度は一 般常識だろうが﹂ 一般常識らしい。そうなの? という疑問を視線に乗せてミュー ラを見ると、彼女は﹁ううん﹂と言うかのように首を左右に振った。 一般常識ではないのだろう。或いは大分マニアックな言葉が飛び出 すのか。 彼女を偏屈と呼んだギルドマスターの胸中が少しだけ分かった気 がする。 ﹁カナデ、お前は魔術については知らなんだな?﹂ その通りなので頷く。 嘲りなどは含まれず、純粋に確認するかのような口調なので、認 めやすかったのは確かだ。 ﹁良かろう。説明してやるから、そこで伸びてる少年を起こすとい い。同じ事を二度言うのは面倒だ﹂ 126 ごもっとも。 奏は一瞬どう起こそうかと考えて、紅茶を飲む為に用意してある レモンを手に取った。 そして太一の半開きの口目掛けて、一〇〇パーセントの生搾りレ モン果汁を垂らした⋮⋮もとい、注ぎ込んだ。 ミューラが﹁⋮⋮えぐっ﹂と呟いたのは、聞き流す事にする。 ﹁おがっ!?﹂ あまりの酸っぱさに目を白黒させて飛び上がる太一。 先ほどから扱いが散々だが仕方ない。わざとではないとはいえ、 これもセクハラをした罰である。 奏もこのリアクションで気が済んだため、これ以上は何かを言う 気は無い。 ﹁ここは?﹂ ﹁レミーアさんの家。今から魔術について教えてくれるらしいから、 席について﹂ ﹁あ、ああ。分かった﹂ 困惑気味な太一だが、少し周囲を見渡して状況は何となく察して はいるのだろう。奏に追従して席に着いた。 ﹁さて。あのチビオヤジの手紙は読んだ。お前達を保護しろ、との 事で⋮⋮まあ、私はそれを受け入れようと思う﹂ チビオヤジ。 正に太一と奏がギルドマスターに覚えた第一印象と同じである。 しかし見た目に反し、あのギルドマスターは人望はあるのだと思 う。でなければ、ただの手紙の一通で﹁人を二人保護しろ﹂なんて 127 不躾な願いを聞き入れさせるのは難しいだろう。 ﹁念のために確認しておく。お前達が魔術に対して無知なのが原因 で、自分の置かれた状況をよく理解できていない。そこに相違は無 いな?﹂ ﹁はい﹂ ﹁そうですね﹂ この人には世話になるため、一応礼儀を尽くす太一と、元から年 長者に礼儀を欠かさない奏。根本は違うが、二人は同じ答えを返し た。 ﹁では。魔術について説明をしよう。要点だけかいつまんで説明す る。聞き逃していいところは一つも無いから心しろ﹂ 頷く。 ﹁四大属性とユニーク属性。この二つは冒険者ギルドで聞いて言葉 は知っていると思う。まずは四大属性だが⋮⋮さてここでクイズだ。 そもそも何故、適正が分かれるのだと思うか?﹂ クイズ、という時点で、正解不正解を問うているのではないと分 かる。 思うまま答えてみる事にした。 ﹁遺伝ですか?﹂ ﹁何かの要素が絡んでるとか﹂ 前者が太一で、後者が奏。どちらも至極ありえそうなところを選 んで答える。 128 ﹁うむ。どちらも当たりだ。正確には半々、と言ったところだ﹂ レミーアは一度紅茶を口に含んだ。 ﹁何故属性が、人によって適正が分かれるか。これはだな、この世 界に存在する精霊が絡んでおる﹂ 精霊。 魔術があって魔物がいるなら、精霊がいてもおかしくない。某最 後の幻想でも、召喚術師なるジョブが存在していたりする。幻獣界 なるものが実在しても不思議ではない。この世界では。 ﹁属性は勝手に決まるのではない。精霊が決めるのだ。四つのうち いずれかの精霊が、気に入った者にその属性への適正を与える。精 霊に気に入られなければ、適正は持たず、即ち魔力も持たない。遺 伝が関係するというのは、例えば親が火の精霊に気に入られたとす る。そして気に入った人間に子供が出来たから、子供にも適正を与 えよう。精霊がそう判断しているのではないか、という学説が今は 主流だな﹂ この世界の人口が約五億人。その中で精霊に気に入られる人の数 は総勢三億人。約六割が何かしらの属性を持つらしい。 三億人の中で、生涯で初級魔術が使えるようになる者は一億人ま で絞られる。初級魔術を使えるようになれば、魔術師と呼んで差し 支えは無いとレミーアは言う。 ﹁複数の属性を持つには、複数の精霊に気に入られる必要がある。 精霊は気紛れでな。一つ適正を得たなら他の力はいらないだろう、 と判断してしまう。一つ既に持っていても、それでも与えたい、と 129 精霊に思われた者でなければ、複数の適正を持つという珍事は発生 しない﹂ その理屈からすれば、奏は相当精霊に気に入られた、という事に なる。 ﹁察しの通り、フォースマジシャンともなれば猛烈に精霊に気に入 られた者だけが得る力なのだ。カナデが何者なのかはとても興味を そそられるところだが⋮⋮話が逸れるからな。それはまた今度にし よう﹂ レミーアは笑った。 ﹁続いて、ユニークマジシャンについてだ。ユニークマジシャンは、 四大属性全てに当てはまらないもの。これは良いな?﹂ 視線を受けて確認されたので、太一は肯定の意を込めて視線を投 げ返す。 レミーアは頷いて続けた。 ﹁これはとても厄介でな。まずどの時代にも存在はするが、その絶 対数が圧倒的に少ない。フォースマジシャンもとても珍しいが、ユ ニークマジシャンとは比べるべくも無い。何故だか想像はつくか?﹂ それが分かれば苦労は無い。 しかしレミーアも答えを期待している様子ではなく、少しだけ間 を置いて続けた。 ﹁フォースマジシャンは、一人で四つの属性を扱える稀有な存在。 しかし、無碍な言い方をすれば﹃それだけ﹄でしかないのもまた事 130 実だ﹂ ﹁それだけ、ですか?﹂ 自分の危機を細部まで想像してしまい、恐怖に駆られた原因であ るフォースマジシャン。それをバッサリと斬り捨てたレミーアに、 奏は思わず問いかけた。 ﹁そうだ。フォースマジシャンが扱えるのは四大属性。魔術師を四 人集めれば、フォースマジシャンの代替は出来るのだ。フォースマ ジシャンがいる事によって得る実利といえば、オールマイティな対 応力と人件費位のものだよ、実際はな﹂ それを珍しい珍しいと、一部の識者気取りの愚か者が囃し立てる から、とんでもなく買い被られる結果になった、とレミーアは苦笑 した。 どのような状況にも対応が出来るし、どのような魔物が相手でも 弱点を突いて攻撃が出来る。 確かに得がたい価値ではある。 だが神格化するほどのものではない。レミーアはそう言っている のだ。 ﹁一方のユニークマジシャンだが、先に言ったとおり、四大属性は 扱えない。その代わり、彼らにしか操れない属性を持つ。その数も 圧倒的に少なくてな。私が知る限り、今この時代に生きるユニーク マジシャンの数は、五人だ﹂ ﹁ごっ⋮⋮﹂ ﹁一人もいなかった時代もあるから、この時代は恵まれているのだ ろうな。そして太一、お前で恐らく六人になるだろう﹂ ﹁⋮⋮﹂ 131 実際に数字で示されると途方も無い。 ﹁具体的には光、闇、時空。後は精霊魔術もユニークマジシャンに 数えられるな﹂ 光属性。闇属性。時空属性。聞くだけでむず痒さを覚えるような 単語である。 それはさておき。 精霊魔術。また分からない言葉が出てきた。 思わず口を挟んだ奏に、レミーアは﹁現代魔術、古代魔術、精霊 魔術がある﹂と分類を示してくれた。 ﹁四大属性を基にした魔術が現代魔術で、光、闇、時空属性は古代 魔術だ。大仰な名前に似合った凄まじい効力を持つ属性だよ。因み に、この三つに関しては精霊は関係ない。そもそもその属性の精霊 が存在しないからな。何故精霊がいないのにこの属性を持つ者が現 れるのか⋮⋮かつて数多の魔術学者がこの命題に挑み、その半生を それに捧げても尚、解明には至っておらぬ。文献は星の数ほどある のだがな⋮⋮。すまぬが、これについて詳しい説明をする事は出来 ん。ただ存在する、という事実しか述べられん﹂ ﹁そうですか⋮⋮﹂ ﹁精霊魔術だが、これも同様だな。術そのものは四大属性の魔術と 変わらん。だが、魔術を行使する際の仕組みがまるで異なるのだ。 一般的に現代魔術は、適切な呪文を唱える事で、身近にいる精霊か ら力を借りて事象改変を行う。一方精霊魔術は、特定の精霊と契約 を行い、その精霊から力を借りて行う。ここで重要なのは契約の有 無だ。契約という強固な絆が、精霊から借りられる力を増幅させる。 同じ魔術を使用しても、現代魔術師と精霊魔術師ではその効果に理 不尽なほどの差が生まれる。まあ精霊から属性を与えられるに留ま らず、契約が可能になるほど気に入られるのだから、当然といえば 132 当然の結果だな﹂ ユニークマジシャンについての説明は以上だ、とレミーアは言っ た。 と、いうことはだ。 つまり。 奏は太一を見やった。 彼はこれ以上なくうんざりとした顔をしていた。 面倒な事を嫌う彼にとっては、払えない火の粉が降りかかって来 たに等しい。 魔術を生業とするものにとっては、求めたところで手に入らない ものである。さぞ不遜極まりない態度に見えるだろう。 太一の様子を見て苦笑したレミーアが続ける。 ﹁これについては、タイチ、お前がどの属性なのかを今すぐに判断 するのは不可能だ。ユニークマジシャンが持っている属性は調べて 分かるものではなく、ある時を境に急に使えるようになるものだか らな﹂ ﹁うええ⋮⋮。いらねぇ、そんなの⋮⋮。ずっと出てこなくていい よ、いやマジで﹂ ﹁それは無理だな。そういった力を持つなら、遅かれ早かれ、必ず 発現する。それは明日かもしれんし、一年後かもしれん。しかし五 年はかからずに発現するだろう﹂ ﹁五年、ですか。随分はっきりしていますね﹂ ﹁ユニークマジシャンがその力を自覚するのは、一五歳から二〇歳 の間だ。お前達の歳はその位だろう?﹂ ﹁ええ。今年十六になります﹂ ﹁うむ。ではいずれ発現するだろう。覚悟しておくのだな。断言し てもいいが、逃げられはしない﹂ 133 最後通告を突きつけられ、太一はがっくりとうな垂れた。 ﹁まあ、お前達には明日から魔術の修行を始めてもらうから、どの 道無駄な足掻きだぞ﹂ ﹁へ?﹂ ﹁聞いてませんよ、そんな事?﹂ 太一にも奏にも寝耳に水である。 だがレミーアは﹁何を今更﹂という表情だ。 ﹁お前達、タダで私の庇護下に入るつもりか?﹂ その一言はとても痛かった。 反論出来る要素が見当たらない。 ﹁私が何故ここまで魔術に詳しくなったかといえば、ずっとそれを 研究してきたからだ。私にとっては目の前にユニークマジシャンと フォースマジシャンという、滅多に出会えない研究対象がいるのだ。 私の研究に協力してくれるのなら、対価として私はお前達を責任持 って保護しよう﹂ それとも、他に何か支払えるものはあるか? と聞かれ、答えが 出なかった時点でそれは確定事項となった。 ﹁まあ、とって喰う事は無いから安心するといい。それにだ。どの ような経緯でこうなったかはまた別の機会に聞くとして、魔術は使 えるようになっておいて困る事は無い。お前達、冒険者なのだろう ?﹂ それもまた正論だった。 134 魔物が存在する世界だし、文明を見る限り、日本よりも治安がい いとは思えない。 自分の身を守れるならそれに越したことは無いのだ。備えはいく らあっても困らない。 ﹁太一。諦めるしかないわね﹂ ﹁くそー。仕方ないのか。もう打つ手は無いのか!﹂ ﹁往生際が悪いわよ﹂ ぺし、と頭を叩かれる。 太一とて理解はしている。ただごねてみただけだ。 面倒くさい、というのは今も変わっていないのが、彼らしいと言 えば彼らしい。 ﹁まあ具体的に何をしていくかは、明日になったら話そう。私の指 導を受けたい輩はごまんといるのだ。感謝されてもいいくらいだな﹂ ﹁そうですか。運がいいと、思うべきなんでしょうね。これからよ ろしくお願いします。レミーアさん﹂ ﹁うむ﹂ ﹁ほら。太一も頭下げなさいよ﹂ ﹁分かってるよ。⋮⋮お手柔らかにお願いします﹂ ﹁ははは。任せておけ。さて、飯にするか。そろそろいい時間だし な﹂ 見れば窓の外は真っ暗だ。随分長い事話し込んでいたらしい。 ところで、ずっと疑問に思っていたことを、太一はぶつけてみる 事にした。 彼女の性格と気質から、相当ずけずけと物を言って平気だと踏ん だので、真正面から間合いに踏み込んでみる。 135 ﹁レミーアさんて、何で偏屈なんて呼ばせてるんですか?﹂ 話を聞く限り、相当に聡明な人物だ。要点だけかいつまんで話が 出来た時点で、それは確定している。要点をかいつまめる、という 事は、話す事柄について細部まで知り、その上で重要なところも理 解している、という事だからだ。 前評判どおり、否、前評判以上かもしれない。そしてとても出来 た人格を持っている。 太一の問いは素直な疑問。 それに対し、彼女は愉快そうに笑った。 ﹁その方が面倒事が少なくて済むからな﹂ この人は善人。善人だが、やっぱり偏屈かもしれない。太一と奏 はそう思った。 136 弟子入り︵後書き︶ 次回から魔術修行です! 名だけでなく実のチートを発揮し始めます。 ハムスターの群れに二頭トラがいる⋮⋮! 感想、ありがとうございます! きちんと読んではいますが、返信は作者の都合で週末になるのを許 してください。。。 137 チートとは?︵前書き︶ 太一の事さ! だんだんとぶっ飛んできました。 138 チートとは? 目が覚めた。 太一は自分が信じられなかった。 幼少より、安眠を阻害するという悪魔の如き所業を働く仇︵目覚 まし時計︶との戦いを繰り広げてきた太一。 彼の者を正義︵眠気︶の名の下に叩き伏せ、数多の屍を築いた実 績がある。その後最後のボス︵遅刻︶との生き残りを賭けた死闘が 待っていると分かっていながらも、魔王の元へ赴く勇者のように、 立ちふさがる敵を排除してきたのだ。 太一からすれば、睡眠は人生の栄養剤。無くてはならないもの。 布団は彼にとって最大の鎧であり、最も心安らぐ場所。 だから信じられなかった。 こんな、太陽が昇り始めるのと同時に、目が覚めるなんて。 むくりと上半身を起こし、頭をバリバリと掻く。 ぐっすりと眠る事が出来て、久々に穏やかな気分だ。さて何故目 が覚めたのか。異世界に来て、最初のベッドに恵まれたのに。 少し自分と向き合い、すぐ答えが出る。 ﹁ガキかよ俺は⋮⋮いやガキか﹂ 即座に自分で解決し、そして苦笑する。 今日から、レミーアを師として魔術の練習が始まるのだ。 それが楽しみで仕方が無い。遠足を待ちきれない小学生のようだ と自嘲する。 今でも面倒ごとはまっぴらごめん。近づかずに済むならそうする し、寄って来るなら離れたい。 それでも尚、自分が﹁魔術を使える﹂かもしれないという期待感 は、太一を焦がした。 139 少年の時分、RPGゲームで操るキャラクターが、氷や炎、雷の 呪文を使って並み居るモンスターを切って捨てるその姿を見て、自 分も使えたらなー等と思った口だ。 はたまた小学校の頃はやった格闘アニメの光線技を見て、﹁俺も 出せるかも!﹂と友人達と集まって修行したのも覚えている。 男は誰しも、修行をするのである。新たな強さを求めて。 もちろん高校生になった今では、そんな事はありえない、という のは頭で分かっている。修行なんてすれば後ろ指を指されて笑われ てしまう事も。 ただこの歳になって、かつて夢見た超人的能力が、自らの身に可 能性となって湧き上がってくれば、わくわくしてしまうのも仕方が 無いだろう。 そんな事を考えているうちに、普段なら二度寝という黄金郷へい ざなう眠気がすっかり影を潜めてしまい、太一はベッドから降りて 一つ伸びをした。する事が無くてとても暇である。とりあえず顔で も洗うとしようか。 レミーアの家では、シャワーとトイレは外にある小さな小屋。顔 を洗ったり、飲み水を汲むための井戸は外である。部屋のテーブル に置かれているタオルを引っつかんで、太一は部屋を出た。 扉を開けたところで、奏とばったり出会った。 ﹁﹁あ﹂﹂ 二人の声が重なる。奏以外に人の気配が無い。まだレミーアもミ ューラも寝ているのだろう。 ﹁太一が⋮⋮こんな時間に? 槍でも降るんじゃ?﹂ ﹁失敬な。いや⋮⋮まあ。魔術の修行ってのが頭にこびりついてさ ⋮⋮起きちまったんだよ、不覚にも﹂ ﹁子供か。⋮⋮って、バカに出来たらどんなにいいか﹂ 140 どうやら奏も似たり寄ったりの境遇らしい。 お互いに若干嫌そうな顔を向け合い、これまた同じ事を考えたら しく、井戸に向かって並んで歩き出す。 ﹁魔術かあ。使えるのかな﹂ ﹁さあ。教わってみてからの話じゃない?﹂ ﹁いやそうなんだけどさ。生まれつきのセンスが大事だ、とか言わ れたら、落ち込むしかないわけで﹂ ﹁それはそれで、悲しいものがあるわね﹂ 勝手口から表に出る。 大分明るくなってきていた。朝のひんやりとした空気がとても気 持ちいい。 これなら早起きもたまにはいいかもしれない、などと考える太一。 次に実行するのはいつか、と問いかければ、きっと曖昧に﹁⋮⋮い つか﹂と返って来る事だろう。それとも視線をあさっての方向に向 けて誤魔化すだろうか。 井戸の桶を引き上げて、よく冷えた水で三回顔を洗う。奏の為に もう一度水を汲んで、太一は視線を周囲に巡らせた。 程よく茂る木々。昨日は精神状態が良くなかった為周りを気にす る余裕も無かったが、今改めてみて思う。いいところに住んでいる な、と。こんなところに住むのなら、偏屈も悪くは無いかもしれな い、とレミーアに対して些か失礼な考えを巡らせる。 ﹁お待たせ﹂ サッパリした顔を向けてくる奏。 彼女はすっぴんでもあまり気にしない。よく彼女の女友達に﹁ち ょっと位化粧しなよ!﹂と諌められているくらいだ。最も、化粧な 141 どせずとも素のままで十分いけるため、奏の友人達はそれを羨んで いたのも事実だが。 ﹁さて。やる事が無くなっちまったぞ﹂ ﹁どうしようか﹂ これが自分の家なら、コーヒーでも淹れてのんびりしているとこ ろなのだが、如何せんここは他人の家である。昨日の今日で人の家 で勝手できるほど、図太い神経を持っているわけでもなかった。 ﹁あのさ、太一﹂ ﹁何だよ、改まって﹂ 振り返れば、奏が真面目な顔をしていた。 どうも、普段どおりのノリとは違うらしいと考えて、太一も向き 直る。 ﹁折角だから、腰を据えて話しよう。今後、どうするかについて﹂ ﹁ん。それだったら外のがいいな。音立てて起こすのも悪いし﹂ 奏が家の壁に寄りかかる。太一は井戸の縁に腰掛けて、奏の言葉 を待った。 ﹁えっとね⋮⋮﹂ 話をしながら思った。 これは、二人きりで話す機会があって良かった、と。 怒涛の時間を異世界で過ごし、冷静に考えられる状態にいなかっ たのだから。 思わず話し込んでしまい、起き出して来たミューラと鉢合わせる 142 頃には、すっかり日が高く昇っていたのだった。 ﹁さて。それでは、魔術の修行を始めるとしよう﹂ 朝食を摂ってクーフェにて食後の一服も済んだ。因みに朝食のメ ニューはパンとスクランブルエッグと野菜スープ。慣れ親しんだ食 事にありつき、太一も奏も思わずがっついてしまった。 十分にまったりとして英気を養い。 太一と奏はレミーアに連れられて家の前の広場に来ていた。家の 裏手は井戸やトイレ、シャワー室があり、更にそこで洗濯物を干し たりするのだろう、結構なスペースがある。 レミーアはくるぶしまで丈がある裾が擦り切れたローブを羽織り、 手には身長ほどある杖を持っていた。物凄く魔術師っぽい。見た目 から入るタイプなのだろうか。 ﹁さて。いきなり呪文を教えても良いのだが、ここは焦らずじっく り、基礎の基礎からみっちり叩き込んでやる﹂ ﹁うぇ⋮⋮﹂ いきなりの面倒くさそうな宣言を受け、太一が呻いた。 もっと簡単に魔術を唱え。 華麗に。 どかーんとか。 ぴしゃーんとか。 そういったのを手っ取り早くやりたかった太一としては芳しくな 143 い流れである。 ﹁上手い話はないですよね﹂ ﹁それは当然だ。まあ焦るな。お前達の資質にもよるが最短で一ヶ 月。最長でも三ヶ月で頑丈な土台を仕込んでやる。この恩恵をいず れ、身を持って体験する事になるぞ﹂ ﹁隠れて勉強して、テストでいきなり高得点取るみたいですね﹂ ﹁間違ってはおらん。冒険者として必須のスキルである以上、遅か れ早かれ気付くのさ。自分と周囲の冒険者との力関係にな。その時 に、おのずと分かるであろう。私の教えを受けた者が、常識の枠で 収まるはずがないからな﹂ もちろん、太一の思考など手に取るように分かる奏が、すかさず 楔を打ち込み。 彼女の意図を察するくらいには機微に優れるレミーアがそれに乗 っかり。 結果的に太一のもくろみは口に出す前に霧散した。 ﹁で、まずは何をするんですか?﹂ ﹁それだがな。ほれ﹂ 太一の問いに、レミーアは懐から何やら木の板を取り出して二人 に投げた。運動神経にはセンスがある太一と、硬式テニスで時には 時速一三〇キロを超えるボールを打っている奏は、不意打ちにも関 わらず危なげなく受け取った。 ﹁これは?﹂ ﹁お前さんたちの魔力値と魔力強度を測るものだ。ああ、素材自体 はただの木だ。私がそれに、魔力を測る魔術を掛けたのだ﹂ ﹁魔力値?﹂ 144 ﹁ギルドでは測らなかったですよ?﹂ ギルドでは、属性の適正しか調べなかった。 ﹁当然だ。国のトップ機関位だろうな、この技術を持っているのは。 まあ優れた魔術師なら相手の魔力を大体測る事は出来るが、正確に 数値として目視できるような技術は持っておらん。このように専用 の魔術を使わなければな﹂ 常識を説くような口調。至極当たり前のことのようである。 ﹁⋮⋮国のトップ機関にしかないような魔術が、何故ここに?﹂ それは浮かんでしかるべきの疑問だった。 奏の問いかけに、レミーアは顔色一つ変えずに答えた。 ﹁ん? それは私が開発した魔術だからな。国にしかないのは、私 が国にしかこの技術を売っていないからだ。冒険者ギルドではこの 魔術に対する対価を用意できなんだ﹂ つまり、この世界の最先端技術の一つ。それが、太一と奏の手の 中にある。 レミーアは実は凄いのではないか。ギルドマスターが言った﹃超 一流﹄の片鱗を垣間見た。 ﹁まあ、そんな事はどうでもいい。まずは魔力値と魔力強度につい て簡単に説明しよう﹂ 最先端の魔術を、どうでもいいと切って捨てた。 145 ﹁魔力値とは、その名の通り、属性の適正を持つ者の魔力容量。魔 力強度は魔力の強さだ。分かりやすく言えば魔術をどれだけたくさ ん使えるか、どれだけ強い魔術を使えるかの目安だな﹂ ﹁MPとかみたいだ﹂ 説明を聞いた太一がそうこぼし、奏もそれに頷いた。太一の例え はとても分かりやすかった。主に、奏に対してのみ。 ﹁﹃えむぴー﹄が何かは分からぬが、要はコップに入れられる水の 量と、コップに注ぐ水の勢いの強さと思えばよい﹂ ﹁強い魔術を使うとたくさん減って、簡単な魔術なら少ししか減ら ないんですね。後はその人の強さそのものですか﹂ ﹁うむ。話が早くて教えるのがラクだ﹂ 奏はこれを、彼女がやった数少ないテレビゲームから例えた。 あれは確か、暗黒騎士が聖騎士になり、地底を経て最終的に月ま で行く物語だったはずだ。あのゲームでは、初級の火を起こす魔法 は大してMPを消費せず、逆に隕石を呼び寄せる最強の魔法はどん なにキャラクターを強くしても一〇発しか行使できなかった。 そしてレベルが低い時に使用する火を起こす魔法と、ラストダン ジョンに乗り込めるまでに強くなったキャラクターが使用する火を 起こす魔法では、当然ながら威力は違う。 因みにだが、これを理解するのに、この世界の者は結構苦労する。 幼少期から勉学に触れてきた現代人には分からない苦労だろうが。 ﹁その容量を知っておけば、どの程度までなら余裕があるのか、ど こまでいくと危険なのかが分かりやすいだろう。普通それは感覚で 覚えるのだが、感覚でやり始めるとモノにするまで数年掛かる事も 珍しくない﹂ 146 数年掛かる事を一瞬までショートカットしてしまうのだから、こ の木の板に込められた魔術の価値は計り知れない。 ﹁もっと説明がいるかと思ったが、具体的なイメージで解釈出来て いるなら御託はいらんな。早速測ってみるとしよう﹂ レミーアは杖を翳した。そこにほのかな光が灯る。目の前で魔術 を行使され、太一と奏は等しく感動した。あの時のメヒリャほどの 迫力は当然無いが、レミーアが起こすのは彼女オリジナルの魔術。 また違った驚きがあった。 ﹃その者の力を示し給え﹄ 詠唱はとてもシンプル。 レミーアの杖の光が少し強くなり、それに呼応するように、太一 と奏が持った板が輝き始めた。 目の前で起きた奇跡に、驚きを禁じえない。しばらく呆然と様子 を眺めていると、板になにやら文字が浮かび始めた。 ﹁レミーアさん! 文字が浮かんできましたよ!﹂ ﹁うはは、すっげー!﹂ 子供のようにはしゃぐ二人に、レミーアは苦笑した。 昨日魔術の説明をしたときもそうだが、これだけの理解力を持つ ほどに聡明なのに、魔術に触れた事が無いかのように驚いてみせる。 そのギャップは、レミーアには新鮮だった。 ﹁いずれお前達も使えるようになるさ。さあ、こっちへそれを寄越 せ﹂ 147 太一と奏はレミーアにその板を手渡した。 そこに浮かんだ文字を見て⋮⋮レミーアの顔が、途端に凄まじい 真剣さを帯びた。 今までとの明確な差に戸惑う太一と奏。 昨日セクハラを受けた時でさえ、笑って受け流すほどの器量を持 つ女性が、ここまで余裕の無さそうな顔をするのは意外だった。 場に下りた沈黙に耐え切れなくなった太一が、おずおずと呟いた。 ﹁もしかして⋮⋮魔力持ってない、とか?﹂ ﹁うそぉ⋮⋮でも、魔力を持ってないと、ギルドの水晶って光らな いんじゃ?﹂ ﹁でも、持ってるだけでちょびっとしか無いとかじゃね?﹂ ﹁ああそっか。どれ位持ってるかまでは、教えてもらえなかったも んね﹂ 不安を払うように会話したのに、あまり歓迎できない可能性が見 えてしまって尻すぼみになる二人。 ややあって、我に返ったようにハッとするレミーア。 ﹁おお、すまんすまん。久々に使ったからきちんと発動するか確認 してたんだ。大丈夫だ、実用に耐えうる魔力を持っているぞ。ちゃ んと魔術は使えるようになるから安心するといい﹂ ホッとした様子の太一と奏。 二人をもう一度見やって、レミーアは再び視線を手元に落とした。 ︵想定外、だな。まさか、これほどとは⋮⋮︶ フォースマジシャンとユニークマジシャン。 その素質から考えて、並ではないと腹を括ってかかっていたレミ 148 ーア。 フォースマジシャンである奏の魔力値は三七〇〇〇、魔力強度は 五〇〇〇。これは一流と呼べる魔術師が持つ魔力である。宮廷魔術 師部隊で最強クラスの力を持つ者と同じ土俵に立てるだけの力を持 っている。 普通、魔術師のエリートである宮廷魔術師になるために必要な魔 力値の最低ラインは一〇〇〇〇、魔力強度は二〇〇〇である。並の エリート 宮廷魔術師二人分から三人分の力を、奏は一人で持っていることに オールマイティ なる。更に、その宮廷魔術師を持ってして、デュアルマジシャンは そこまで多くは無い。魔力量とフォースマジシャンの万能さを持っ てすれば、彼女の実力は魔力値で単純に測る事が出来ない領域まで 行ける事は容易に考えられた。 奏だけでもレミーアを驚かせるには十分なのに、太一のそれは輪 を掛けて凄まじい。 いや、凄まじいという言葉で表すのすら生ぬるい。 ︵魔力値一二〇〇〇〇⋮⋮魔力強度四〇〇〇〇⋮⋮? 桁が違うで はないか⋮⋮︶ 今レミーアは、自身の測定魔術に欠陥があったのではないかと仮 説を立てている。 しかし同時にその仮説がとても頼りない事にも気付いてしまって いた。 レミーアが記憶する限り、この魔術を使用して計測した結果は、 他人を納得させるだけの効果が実証済みである。 いくつかテストをして確認したから間違いは無い。 その根拠として。 魔力値一五〇〇〇同士の、同じ属性を持つ魔術師二人に同じ魔術 を行使してもらい、魔力消費量がほぼ同等であること。 魔力強度二〇〇〇と四〇〇〇の、これまた同じ属性を持つ魔術師 149 二人に同じ魔術を使ってもらい、その威力に約倍程の差があった事。 これらのテスト結果から、この測定魔術は正確な測定が出来ると お墨付きだ。 因みに世界最高の魔術師の一人としてその筋ではとても名が通っ ていて、自身も火、水、風のデルタマジシャンであるレミーアの魔 力値は四三〇〇〇、魔力強度は六〇〇〇。彼女の七倍近い魔力強度 でもって放たれる魔術がどれほどのものなのか、想像も出来ない。 宮廷魔術師を比較対象とすればその差は更に顕著だ。魔力消費量 が一〇〇の魔法を同時に使い続けたとして、並の宮廷魔術師の二〇 倍の威力を持つ魔術を一二〇〇回放ち続ける事が出来る計算だ。 魔術の知識量は世界でも有数だと自他共に認めるレミーアでも、 魔力値の常識はどんなに多くても五桁、魔力強度は四桁。六桁の魔 力値を持つ者が存在するなど、見たことが無いし、聞いた事も無い。 魔力強度が五桁など、驚きを通り越して薄ら寒さを覚える。 ︵これは、説明せねばならんな。誤魔化して良いものでもないだろ う︶ 魔術が使える、という可能性を潰されずに済んで、素直に喜んで いる目の前の少年少女に、レミーアは背筋を伸ばして声を掛けた。 150 チートとは?︵後書き︶ 感想&ご指摘下さった皆様、ありがとうございました。 感想については土日で返信する予定です。 また指摘を受けて設定の見直しも行いました。徐々に反映してゆき ます。土日で全部反映⋮⋮出来たらいいなあ。。 ∼舞台裏∼ ミューラ﹁出番少なくない?﹂ 作者﹁あ、もうちょい後だから﹂ ミューラ﹁あれ? 設定で私の事メインヒロインにしてなかった?﹂ 作者﹁うんしてたね。メインヒロイン︵笑︶ではないけど﹂ ミューラ﹁笑うな! ヒロインなのに二話連続でセリフ無いの?﹂ 作者﹁次ももしかしたらセリフ無いかな?﹂ ミューラ﹁ちょっと!?﹂ ミューラさんはヒロインです。 2012年4月22日改稿しました。 今回の修正について活動報告にスレッドを立てました。何かあれば そちらにお願いいたしますm︵︳︳︶m 151 只今修行中︵前書き︶ 黄金週間に書き溜めする予定です。 152 只今修行中 魔力量も魔力強度もありえない。 それがレミーアから告げられた非常識その二である。 しかし太一も奏もそれほど驚かなった。もう驚くのすら疲れた、 というのが正直な気持ちである。 いちいち驚いてその度に固まっていたら先に進まない。思うとこ ろはあるものの、一応の結論を出した二人は、予定通り修行を開始 した。 その判断は賢明だと、レミーアが同意してくれたのも後押しに一 役買っている。 ﹁魔術を扱うには、魔力を扱えなければな。まずは自分の魔力を具 現化させてみるのだ。それが出来たら次の段階へ進もう﹂ 言われたのはそれだけ。 二人揃って手のひらをじっと見つめている。魔術を扱うためには 誰しも通る道とのことだ。 ﹁うぐぐ⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁ぐぬぬ⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮っ﹂ ﹁ぐむーっ⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮っああ! うるさいもうっ!﹂ ﹁っおわ!?﹂ 横で唸る太一に、奏が声を荒げた。 集中はしてたらしく、突如声を上げた︵ように太一は感じる︶奏 153 に驚く太一。 ﹁なんだよ! ビックリするだろ!﹂ 太一としては当然の抗議だった。しかし。 ﹁横でブツブツ言われたら集中出来ないでしょ?﹂ ﹁え。声出してた?﹂ ﹁うん。バッチリ﹂ ﹁マジか。直ったと思ったのに﹂ ﹁あの時もそうよね。入試試験の追い込み。方程式とにらめっこ﹂ ﹁あああ思い出させるなよ!﹂ 今年の頭。入試直前にも関わらず、余裕ぶっこいてまともに勉強 してなかった太一が、実力テストで現実︵赤点︶に直面し、奏に泣 きついて家庭教師してもらったのだ。 家だと誘惑が多いということで近所の図書館で勉強したのだが、 その際に事件は起きた。考え事すると唸る癖がある太一。数学の方 程式という強敵を前に、例によって唸りはじめた。集中しているた めあえて見逃していた奏だったが、結局他の受験生から﹁うるさい﹂ とお叱りを頂戴し、肩身の狭い思いをしたのだ。 実は勉強という名のデートという見た目に、大いにやっかみも含 まれたお叱りだったが、太一も奏もそれには気付いていない。 ﹁いやー煮詰まるとどうもなあ﹂ ﹁気持ちは分かるわ⋮⋮﹂ 集中と一緒に緊張も途切れ、溜め息をつく二人。もうかれこれ数 時間はこれに費やしているのだから、仕方ないといえばそうだろう。 154 ﹃クスクス⋮⋮﹄ ﹁ん?﹂ ﹁どうしたの?﹂ ﹁いや⋮⋮誰か笑ったか?﹂ ﹁へ? ちょっと⋮⋮変なこと言わないでよ﹂ 幽霊とかお化けとか、そういう心霊の類は苦手な奏がぶるりと震 える。太一もしばらく気にはしたものの、それっきり声は聞こえな くなり、その事は頭から無くなった。 結局進展が無いまま一日が過ぎ二日が過ぎ⋮⋮そろそろ集中力が 持たなくなって来た頃。 何時ものように裏庭で魔力操作の修行を進めていると、ミューラ がこちらに近付いてきた。 ﹁どう? 何か掴めた?﹂ ﹁いんやさっぱりだ﹂ ﹁魔力なんて縁がなかったからねー。手探りよ﹂ ﹁いきなり出来るわけ無いじゃない。最初の難関なんだから﹂ ﹁それはそうなんたけど⋮⋮﹂ 苦笑する太一に奏が首を左右に振る。 ふと、ミューラが人差し指を上に向けた。 ﹃火よ﹄ その指先が仄かに輝き、やがて小さな火が灯った。ライターで着 けた火に近い。 ﹁うわー⋮⋮﹂ ﹁何でもないように使われるとへこむわね⋮⋮﹂ 155 息をするように魔術を使われ項垂れる二人。 ﹁魔術はイメージよ。明確なイメージに追随する。それが魔術であ り、その大元の魔力も然り﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁だから自分の魔力をどうしたいのかイメージして⋮⋮って、何よ ?﹂ 訝しげな顔をするミューラ。太一と奏が呆けた顔をしていたから だ。 ﹁い、いや。やり方なんかあったのか⋮⋮﹂ ﹁え。何も言われなかった?﹂ ﹁うん⋮⋮魔力を具現化させろ、としか⋮⋮﹂ ﹁またあの人は⋮⋮﹂ 盛大な溜め息をつくミューラ。 ﹁また?﹂ ﹁肝心なところを端折る癖があるの、あの人﹂ ﹁そういうこと﹂ ﹁俺はミューラが教えてくれたことも驚いたけどな﹂ ﹁は? 何でよ?﹂ ﹁最初会ったときあんなに邪険にされたからな。嫌われてるのかと 思ったぜ﹂ ﹁っ⋮⋮﹂ ﹁それはセクハラ働いたからじゃないの?﹂ ﹁奏⋮⋮今日はやたらと抉ってくるな⋮⋮﹂ ﹁気のせいよ﹂ 156 ふとミューラが踵を返し、ずかずかと歩き去っていく。 ﹁お、おいミューラ!﹂ ﹁どうしたの!?﹂ 肩を怒らせるその後ろ姿に戸惑う二人。 すると。 ﹁勘違いしないでよね! あんた達がじれったいから、ちょっと気 が向いただけなんだから! いつでも教えたりはしないわよ!﹂ 言うだけ言って再び向こうを向いて歩き去るミューラ。呆然と見 送る太一と奏。実はこれこそレミーアの狙いだと、ミューラは一切 気付かないのだった。 ◇◇◇◇◇ ﹁魔術はイメージ⋮⋮指先に集まれ﹂ 先ほどのミューラの言葉を受けて、素直に実践してみる太一。 しかし、変化はない。 ﹁やっぱ簡単じゃないか﹂ 恐らくミューラのアドバイスはコツのようなものだろう。とはい 157 え、簡単に出来はしない。 それは奏を見ていてよく分かる。 彼女はテニスにおいて全国区の実力者。テニスという分野におい ては学生でも屈指のレベルである彼女だが、サーブが苦手だという。 苦手だからこそそれを克服しようと理論やコツを幾つも学んだそう だが、だから出来るかといえばそうでもない。 今は大分改善したようだが、それも気が遠くなるような反復練習 を重ねた結果らしい。 ﹁イメージ⋮⋮指先に、力を⋮⋮﹂ 奏も太一と同じようにしているが、いまいち掴めていないようだ。 ﹁イメージは結構はっきりやってると思うんだけどな⋮⋮﹂ ﹁上手く行かないものね﹂ この世界の人間でないことがネックなのだろうか。魔力なんても のと縁がなかった世界にいただけに。ぼんやりとそんなことを考え た太一だが、それは外れてはいない。 幼い頃から、魔術そのものが珍しくない常識の中で育った者と、 そもそも魔術が無い世界で育った者。 どうやらゲームやマンガのようにはいかないらしい。精神的な疲 れが大きい。今日は止めようか。そう思ったところで、 ﹃がんばって﹄ 再び、声が、聞こえた。 ﹁え?﹂ 158 幻聴か? 否、確かに聞こえた。 幼い、女の子とも男の子ともとれる声。 ﹃まりょくもってる﹄ ﹃いっぱいある﹄ ﹃もうすこしでできる﹄ ﹃まりょくはかたまり﹄ ﹃ふわふわ。ぽかぽか﹄ ﹃からだのまんなかにある﹄ 幻聴では、ない。 舌っ足らずな子供の声。 一人や二人ではない。 最低でも、四人。 皆子供の声だが、確かに違う。 太一は勢い良く振り返り、そして周囲を見渡した。 誰もいない。 では、この声は、どこから? ﹃クスクス﹄ ﹃きこえてる﹄ ﹃よかった﹄ ﹃はやくあいたい﹄ ﹃がんばって⋮⋮﹄ それを最後に声は聞こえなくなった。ふと横に顔を向ける。奏が 微妙な顔をしていた。 ﹁また何か聞こえたの?﹂ 159 ﹁あ。四人くらいいた⋮⋮﹂ ﹁止めてよ、ほんとに⋮⋮﹂ とはいえ、太一としてもどうしようもない。聞こえてしまうのだ から。 それよりも、だ。 ﹁魔力は塊。ふわふわで、ぽかぽか﹂ ﹁何、急に﹂ ﹁身体の真ん中⋮⋮っ!﹂ ﹁ちょっと、どうしたの?﹂ ﹁指先⋮⋮来い﹂ ふわりと。暖かい風が瞬間吹き、太一の人差し指が淡い光に包ま れた。 ﹁ちょっ⋮⋮!﹂ ﹁で、出来たの!?﹂ 太一は、光輝く自分の指先に、暫し見とれた。そして、何か聞き たげな隣の親友に、原因を教える。 ﹁声が教えてくれたんだ。魔力は塊で、ふわふわしててぽかぽかし てるって。で、身体の真ん中にあるんだって﹂ ﹁うっそお⋮⋮﹂ ﹁俺も信じらんねえ⋮⋮でも、その通りにしたら、ほら﹂ と、目の前に証拠を見せられては、それ以上何も言えることはな かった。 半信半疑のまま、奏も太一の言葉に従ってみる。 160 すると。 ﹁ええー⋮⋮出来たんだけど﹂ あまりに呆気なく出来てしまい、今までの苦労は何だったのかと うんざりしてしまう奏。 ﹁ま、まあ出来たんだからいいじゃん﹂ ﹁そうだけどさあ﹂ 納得してなさそうな奏だが、これは一度出来てしまえば、何度で も出来ると思わせる類の技術だと何となく分かる。 ﹁よし。じゃあレミーアさんに報告しようぜ﹂ ﹁何も気にしないのね、太一って﹂ 呆れている奏。 ﹁気にならない訳じゃ無いけど。悩んで解決するような事じゃ無さ そうだし﹂ ﹁そのアバウトさ羨ましい﹂ ﹁⋮⋮誉めてんのか?﹂ ﹁誉めてるわよ。三割くらい﹂ ﹁ビミョー。超ビミョー﹂ 軽口を叩き合いながら、家の中へ戻る二人だった。 ﹁早いな⋮⋮もう出来たのか﹂ 報告と共に、魔力を操れている事を確認したレミーアは、割と本 161 気で驚いていた。 ﹁ちょっとしか教えてないのに⋮⋮信じられない﹂ アドバイスを贈ったミューラも目を丸くしている。 本来、魔力を操れるようになるまでが一番時間がかかるところな のだ。普通に修行して、高いセンスと適性を持っていても早くて一 ヶ月。普通は三ヶ月、長い者は一年かかることもあるのだ。一週間 どころか三日以内で出来るようになるとはレミーアもミューラも思 っていなかった。ミューラによるアドバイスがあったとしても、だ。 レミーアとしては、圧倒的な資質を持つ二人がどの程度で魔力を 操れるか知りたかったため、あえて詳しいやり方を省いた。途中ミ ューラがちょこちょこアドバイスをすることも計算に入れたが、そ れでも最短で三週間はかかると見込んでいたのだが。 ﹁ふむ。一先ずおめでとう﹂ とはいえ出来たのなら次に進むべきだろう。一度操れるようにな ったら、後は修練次第で上達するのみで、使わないからといって忘 れてしまうような技術ではない。足踏みしているのは時間の浪費だ。 その前に、聞いてみたい事がレミーアにはあった。 ﹁次は魔術の練習だが、その前に一つ質問をしたい﹂ ﹁?﹂ ﹁何ですか?﹂ ﹁うむ。魔力の操作は、どれ程才に恵まれたとしても、三日やそこ らで出来るものではない。何が理由か、教えてくれるか?﹂ ﹁ええと。声が聞こえたんすよ﹂ ﹁声?﹂ ﹁はい。舌っ足らずな子供の声で、魔力は塊とか、身体の真ん中に 162 あるとか﹂ ﹁⋮⋮﹂ 信じられない。それが素直な感想だ。もしそうなら。 ﹁何か分かりますか?﹂ ﹁うむ⋮⋮いや、すぐに答えを出すことは出来そうにない。悪いが、 少し調べさせてくれ﹂ ﹁はあ⋮⋮?﹂ 妙に歯切れの悪いレミーアだが、特に異論があるわけでもなく、 太一は了承した。 ﹁ちょうどよい。昼食を食べてから魔術の練習を始めようか﹂ 時計を見るといい時間だった。早速料理を始めるレミーア。ずぼ らな割に料理が趣味だったりするので世の中分からない。 心霊が苦手な奏が﹁声の正体はもしかして幽霊?﹂とおっかなび っくり尋ね、ミューラが﹁可能性として有り得る﹂とさも当然のよ うに答えた。聞かなきゃ良かった、とかなりびびっていたのは余談 である。 163 太一は自分の力を思い知った。奏は火の魔術を覚えた。︵前書き︶ 今までで一番のボリュームになりました。 分けようと思ったけど、キリが悪いのであえてつなげました。 164 太一は自分の力を思い知った。奏は火の魔術を覚えた。 昼食はパスタだった。 カリカリのベーコンとほのかに効いたガーリックの香ばしい香り が鼻をくすぐって食欲を刺激する。アクセントの唐辛子がピリリと 引き立てる至高の一品。オリーブオイルもいいものを使っているの だろう、その辺のファミレスで食べるより余程旨かった。 まごうことなきペペロンチーノ。 この世界は地球と食文化が似通い過ぎている。文化や常識はまる で違うが、こと食べ物に関しては今のところ全く違和感を感じない。 名前もペペロンティニと物凄く似ている。 フォークでパスタをくるくる巻くところすら一緒なのだから、も う似ているとかそういう言葉すらぬるい。 食事は人を幸せにする。人間の三大欲求は伊達ではない。 旨い飯で英気を養った太一と奏は、意気揚々と午後の修行を開始 する。 ﹁さて。ここからはそれぞれ別に修行を開始しよう﹂ 開口一番、レミーアの言葉はそれだった。 意図を理解出来ない二人に揃って疑問符が浮かぶ。 ﹁カナデは四大属性それぞれの基本魔術で良いのだが、タイチはそ うはいかんからな﹂ ﹁ああ、なるほど﹂ 太一はユニークマジシャン。発現するまで魔術は使えない。先日 受けた説明を思い出し、納得する奏。納得いかなそうに、奏を羨ま しげに見詰める太一はスルーする。 165 ﹁カナデはミューラから詠唱を教わってやってみるとよい。四属性 の基本魔術全て使えたら私が見てやろう。さてタイチだが、引き続 き魔力操作だ﹂ ﹁ええー⋮⋮もう出来てるのに⋮⋮﹂ うんざりとした顔を隠そうともしない。 ﹁無論理由がある。ユニークマジシャンの魔術は効果が凄まじい代 わりに魔力も物凄く消費する。試しに使っただけで昏倒したくはな かろう?﹂ ﹁うえ⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮﹂ 予想外の言葉に絶句する太一と奏。 ﹁だから、魔力の使い方をきちんと覚えておくのだ。魔術師として 腕が互角なら、最後にものを言うのは魔力の運用力だ。一流と呼ば れる者であっても欠かせない事なのだぞ﹂ ﹁レミーアさんもですか?﹂ レミーアは頷いた。 ﹁無論だ。魔力をもっと上手く使えていれば⋮⋮と後悔したことは 数えきれぬ。むしろ二つの事を並行しなけれはならんカナデの方が 大変、という考え方も出来る﹂ 奏に向けられるざまーみろ、という太一のやっかみの視線。ウザ い。 166 ﹁忘れてはいないと思うが、冒険者として依頼もこなさねばならん のだからな。欠伸などしとる暇は無いぞタイチ﹂ ばーか、と目で告げる奏。 仲のいい事だ。 ﹁時間が惜しい。カナデは向こうでミューラから教わるといい。何 からやるかはミューラに言ってあるからな﹂ ﹁はい﹂ ﹁さ、行くわよ﹂ ﹁ええ。よろしく﹂ 連れ立って歩く美少女二人。眺めているだけで眼福だ。 ﹁さてタイチ。お前には、魔力操作をやらせる理由をもう少し説明 しよう﹂ 太一は女心を除けばそこまで鈍感ではない。だから、レミーアの 言葉に真剣味が強まったのを察し、聞く体勢を整える。 ﹁お前の魔力量が一二〇〇〇〇、魔力強度四〇〇〇〇というのは覚 えているな?﹂ ﹁覚えてますよ。夢だったらいいのに﹂ ﹁同感だ﹂ ﹁え?﹂ 太一はただ呟いただけだ。それに本心から同意したレミーアの意 図が分からず、首を傾げた。 ﹁タイチの異常具合を結論から述べるとだな、一人で国相手に喧嘩 167 を売れる。そして無傷で勝てる﹂ ﹁⋮⋮。⋮⋮は?﹂ ﹁恐らくそれだけやっても、まだ魔力を使い切る事は無いだろう。 明確にすると非常識さを思い知らされるな﹂ ﹁ち、ちょい待ち! それ、マジ?﹂ ﹁嘘を言ってどうする﹂ ﹁ですよねー⋮⋮﹂ 自分が戦略核ミサイルと同格と言われているのだ。しかも使い捨 てではないときた。 ﹁さて。少し想像力を働かせろ。そんな馬鹿みたいな力をきちんと 扱えず、暴発したらどうなるか。その近くに私達がいたら﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁言っておく。私が今使える最も強固な結界で防ごうとしても、そ の結界ごと目に見える範囲全てを粉微塵に吹き飛ばすのがタイチ、 お前の持つ力だ﹂ ﹁粉微塵⋮⋮﹂ ﹁死体すら残らんぞ。関係無い命を無慈悲に巻き込んでな。悔やみ きれんだろう?﹂ 悔やみきれないどころの話ではない。恐怖しか感じない。黒曜馬 に襲われた時以上の脅威を感じる。 ﹁恐ろしさを自覚したか。脅して済まなかったな﹂ 済まなかったで許されるか。文句を言おうにも言葉にならない。 ﹁そうならないために、魔力操作を覚えてもらう。安心しろ、誰が 教えると思っている﹂ 168 ﹁安心⋮⋮? 今の話を聞いて安心だって? 正気かあんた﹂ ﹁正気だとも。お前が使いたい時に使いたいだけ使えるようにして やる。間違えるな、私の教えを受ける以上、出来る出来ないではな い。決定事項だ﹂ ﹁その根拠は?﹂ ﹁根拠? そんなもの、私が世界で最も魔力運用に長けているから に決まっている﹂ ﹁え?﹂ ﹁魔力運用能力の未熟さに何度も後悔したからな。世界一と自負で きるまでに訓練を繰り返した。魔力量が多かろうが、魔力強度が強 かろうが、扱うのは魔力。何も問題ない﹂ 太一は呆然とレミーアを見る。 ﹁今私がお前と入れ替わっても、問題無く操れる自信がある。どう だ、少しは信用出来たか﹂ ﹁そこまで言われたら教わるしか無いじゃないか⋮⋮﹂ 自信満々に豊満な胸を張るレミーアに、思わず毒気を抜かれてし まう太一。普通なら自意識過剰ともとれる態度だが、余りにも堂々 と﹁自分は世界一﹂と告げる姿が似合っており、今までの空気が全 て吹っ飛んでしまった。 ﹁まあ、あれだけ脅してなんだが、勿論いい事もある。むしろ恩恵 の方が多い﹂ ﹁これで無かったら凹むわ﹂ ﹁タイチは世界最強になれる可能性が大いにある。どういうことか 分かるか?﹂ ﹁いや?﹂ 169 レミーアは勿体ぶるように言う。 ﹁国相手にたった一人で戦争して勝てるような存在に、どれ程敵が いると思う。力を扱えるようになれば安全を享受出来るのは自分だ けじゃない。自分の周りも守ることになる﹂ ﹁そうかも﹂ ﹁国を相手に優位に立った取引すら出来るようになる。そうなれば 何もかも思い通りだぞ。地位も名誉も、金も女もだ。いわゆる権力 ってやつだな。どうだ、男として心が踊らんか? 少年﹂ レミーアが黒い笑みを浮かべている。 太一も似たような顔をしている。 含み笑いでにやつく姿はさぞかし不気味だろう。 ﹁分かった。よろしく頼むよレミーアさん﹂ ﹁うむ、任されよう﹂ ﹁でも﹂ ﹁ん? 何か気にかかるか?﹂ ﹁いや。権力とかめんどくさそうだな、って。ぶっちゃけいらない かも﹂ ﹁権力に溺れる愚物に聞かせてやりたいわ⋮⋮。その気になれば幾 らでも手に入るのだぞ?﹂ ﹁俺は小市民だからな。端っこでちっちゃくしてるのが合ってるよ﹂ ﹁⋮⋮世界最強になれる男の台詞じゃないな﹂ ﹁重要なのは﹃何を﹄扱うかじゃない。﹃誰が﹄扱うかだ。俺はそ んな器じゃないよ﹂ ﹁それはその通りだが、若造の分際で分かったような事を言うじゃ ないか﹂ ﹁だろ? 口先だけは自信があるんだ﹂ ﹁くくっ。そのようだな。ああ、今後もその話し方でいいぞ。堅い 170 のは苦手でな﹂ ﹁それは助かる。俺も実は敬語苦手なんだ﹂ ひとしきり笑いあい、太一とレミーアは修行を始めた。 その様子を遠巻きに眺めていた奏とミューラだが、二人が修行を 始めたのでどちらともなく向き合った。 二人の声までは聞こえなかったものの、暗い顔をしたかと思えば 不気味に含み笑いしてみたり、どんな会話していたのか気になった のだ。 ﹁なに話してるんだろう﹂ ﹁さあ。ろくでも無いのは確かね﹂ ﹁言えてる﹂ 怪しい顔だったのは間違いない。 ﹁さて。こっちも始めましょう。レミーアさんが言うとおり。あま り時間も無さそうだし﹂ ﹁そうね。よろしく、ミューラ﹂ 奏の言葉に、ふん、とそっぽを向くミューラ。それが照れ隠しな んだろうな、と何となく分かった奏は、苦笑するばかりだ。 ﹁さて、と。まずは全ての属性の基本魔術ね。ったく、全ての属性 とか、冗談みたいだわ⋮⋮﹂ こればっかりはいまいち実感は沸かないが、この世界の常識から するとやはりズレているのだろう。 ﹁一つずつ説明するわ。まず火は午前中に見せた﹃火よ﹄ね。水属 171 性は﹃水よ﹄で、風属性は﹃風よ﹄。土属性は﹃土よ﹄の四つ。安 直だから想像は出来てたと思うけど﹂ 確かに想像通りだったので頷く。 ﹁で、言ったと思うけど魔術はイメージよ。火を起こすなら、どう やって火が燃えるのかをイメージしながら唱えるの。﹃火よ﹄って 言葉にするのはイメージを精霊に伝える発動キーのようなものね。 これを﹃詠唱﹄と言うわ。慣れてくれば、詠唱を省いてイメージだ けで発動させる事も出来るけど⋮⋮まずは詠唱しながらの掴みやす いと思うわ﹂ ミューラは説明しながら、ぽつりと﹃火よ﹄と呟いた。指先に小 さな火が灯る。オレンジ色の火が、ゆらゆらと輝いている。 ﹁じゃ、まずはやってみて。出来ても出来なくてもどっちでもいい から﹂ 言われたとおりに、イメージしてみる。姿はライターの火。風が 吹けば消えてしまうような、小さな火。 ﹃火よ﹄ 指先をじっと見つめて唱えてみる。が、火は灯らなかった。 何故だろう。イメージは結構明確だったはずなのに。 ﹁カナデ。魔力が指先に来てない。魔術にあてがう魔力を準備しな きゃ﹂ ﹁あ、そうか﹂ 172 午前中の感覚を思い出す。身体の中心から、魔力を指に。ふわり と輝く人差し指の先。その魔力を元に、火が灯るイメージを重ねる。 ﹃火よ﹄ 魔力の準備もOK。火が灯るイメージも完璧。なのに魔術は成功 しなかった。 何がいけないのだろうか。首を傾げる奏。 ﹁火が灯るイメージそのものは簡単だから問題ないはず。その火が ﹃何故﹄燃えるのかをイメージしてみて﹂ 火が燃えるイメージ。 そう言われてぱっと思いついたのは、﹃燃焼﹄という概念だ。発 熱と発光を伴う酸化反応。授業で習った事だ。 燃焼が起こるためには、三つの条件が揃う必要がある。 燃える物質がある。 酸素の供給が行われる。 物質の温度が発火点以上。 酸素は問題ない。地球人である奏が呼吸できている時点で、酸素 はあると断定して問題ないはずだ。 物質の発火点は⋮⋮対象の物質の温度が上がるイメージで合って いると思う。 では、何を﹃燃やす﹄のか。 足元の木の枝を見る。火をつければ燃える。これを媒体にするか ? そう考えて、止めた。ミューラは指先から直接火を出した。 だが媒体無しで何かが燃えるイメージは出来そうに無い。何かし らが燃えているイメージでなければ。 うんうんと悩む奏を見て、やはりここだったか、と思うミューラ。 最初につまずくのは大抵﹃イメージ﹄の部分だ。どうしてその現 173 象が起こるのか、そのイメージを明確に出来なければ魔術は発動し ない。ミューラも魔術の練習を始めて、最初に苦労したのはここだ ったから、奏が悩むのもよく分かる。 ひとまず悩むだけ悩むといいだろう。それで何かつかめればよし。 ヒントを求めてきたら、何が分からないのかを聞いて答えてあげれ ばよし。ミューラに魔術の手ほどきをしたレミーアも、思う存分悩 む時間をくれたのを思い出し、懐かしさに浸るミューラだった。 ︵燃えるのは⋮⋮木。紙。油。髪の毛も燃える。人体発火⋮⋮は怖 いからなし! えっと、他には︶ 雑念も浮かびつつ、燃えるもの、といざ考えると出てこないもの である。日本にいたころ、身近には燃えるものばかりだったはずな のだが。 ふと、気付く。ミューラが出した火を見て、何を思い浮かべたか。 ︵ライター⋮⋮。あれは、液体燃料が気化したものに火をつけるも の。気化? 気体? ⋮⋮そっか︶ 魔力をライターから出る気体燃料に見立てる。指先はライターだ。 ﹁よし﹂ 何かを掴んだ様子の奏を見て、ミューラが彼女を注視する。もし 失敗したら抑えてやるのもミューラの役目だ。彼女とて魔術の腕に は覚えがある。基礎魔術の暴発程度は抑えてやれる。だからこその 役割分担だ。 ﹃火よ﹄ 174 奏の指先から、オレンジの小さな火が生まれた。魔術が、成功し た。 ﹁あはっ! 出来た出来た! 火が出たよミューラ!﹂ ﹁ええ⋮⋮掴むの早いわね。驚いたわ﹂ ﹁うん! 出来ちゃった! 魔術出来ちゃった!﹂ はしゃぐ奏。感動もひとしおだ。 まさかこの短時間で発動させるとはこれっぽちも思っていなかっ たミューラは素直に驚いている。 ﹁ライターに見立ててみたんだ!﹂ ﹁ライター?﹂ ミューラには聞いた事の無い言葉だった。 興奮している奏は、地球にしか存在しない科学技術の産物を不用 意に口にしている事に気付いていない。 ﹁うんそう。液体燃料が気化した時のガスが燃えるイメージで⋮⋮ ん? ガス?﹂ ガス。その言葉を音に出して、思い出した。そういえば理科室に あるではないか。ガスを使って実験を行うバーナーという器具が。 ガス漏れしないようにゴム管をきっちり繋げよー、と、実験授業 のたびに教師に口酸っぱく言われたのを思い出す。ガス漏れという 危険な事故はガスという気体がガス管から漏れることで起こる。 あの炎は、最初に見たときに衝撃だった。あんなに真っ直ぐ、力 強く燃える火は見たこと無かったからだ。 燃える気体。対象がガスだったなら、発火点も相当低い。ライタ ーと同じく常温でも火がつく。 175 ﹁やってみよっと。イメージはガスバーナーで⋮⋮﹂ 再び聞いた事の無い言葉を呟く奏。その指先に魔力が集まり、そ して。 ﹃火よ﹄ ボ、という独特の音がして、奏の人差し指の上で、天に向かって 真っ直ぐ伸びる、暗く青い炎が生じた。 これもできた! と大喜びの奏。 対するミューラは、驚きを外に表さないように必死に抑え付けて いた。早速アレンジして見せた応用力も驚くべきものだが、気にす る点はそこではない。 ︵早い⋮⋮こんなにすぐ使えるようになるなんて⋮⋮。ううん、そ うじゃないわ。あれは、本当に火? ⋮⋮一体何をイメージしたと いうの? あんな安定感、私には出来ない。それに、青? 青い火 なんて、聞いた事無い。魔道書にも載ってないのに⋮⋮︶ ミューラは、魔力そのものを燃やすイメージを浮かべる事で火を 灯した。この世界では常識と呼べる火の魔術の使い方であり、それ が火属性の魔術師の全てである。魔力を木や紙など、燃えやすいも のに例えてイメージするのだ。オレンジ色の火が、ゆらゆらと燃え るもの。それが、ミューラの基礎火属性魔術だ。 一方、奏がイメージしたのは気化したガスを酸素と共に絶え間な く供給する事。同じ燃焼でも、その質や原理が全く異なる。 それを再現しようとして最も簡単にイメージ出来たのは、ガスと 酸素の流入量を使い手が調節する事で、望む状態の燃焼を生み出せ るガスバーナー。 176 青い炎が綺麗な形で上に伸びるのは、ガスが燃焼する前に十分な 酸素量が供給される事で、完全燃焼が起きているからだ。その分高 温となり、暗く青い炎になる。これは化学が発展した現代の地球で は、子供の頃に習う基礎的な化学知識。机上の理論だけでなく、ガ スバーナーを使って実際にそれを肌で感じ取る。 奏はそれを、魔力をガスに見立て、周囲の酸素を十分に供給する イメージを持たせる事で実現した。 日本の学生なら、当たり前に持つ知識である。 だがこの世界では、それは当たり前ではない。 物が何故燃えるのか。原理を知らずとも魔術によって火が起こせ るためだ。燃えるものに火をつければ燃える。火は火傷するほどに 熱い。水を掛ければ消える。その程度の知識しか持っていない。そ してそれでも、生活するうえで十分なのだ。 だから、ミューラの火と奏の火に、明確に温度差がある事も分か らない。 ﹁⋮⋮ラ? ミューラ!﹂ ﹁っ! な、なに?﹂ 少し強く呼ばれて我に返る。 声の主を見れば、訝しげな顔をしている奏。 どうやら不自然に思考の渦に巻き込まれていたようだ。 ﹁どうしたの? 急に黙り込んで﹂ ﹁え、えっと、うん。あまりに上達が早いからびっくりしたのよ。 まさか教えて当日に使えるばかりか、応用まで出来るとは思わなか ったから﹂ ﹁え? そんなに時間かかるもの?﹂ ﹁普通はね。火をつけるだけとはいえ、﹃何故﹄火がつくかのイメ ージを固めるまでが大変なのよ?﹂ 177 ﹁そうだったんだ。私は知ってたから早かったんだね﹂ 知っていた。 いや、知っていて当然というニュアンスを含んでいた。 つまり、あの青い火を、確固たる理屈を元にイメージし、生み出 したという事。もう一度やれと言ったところで。苦も無く再現する だろう。 底が知れない。 あの太一という少年の規格外さに隠れがちだが、彼女のポテンシ ャルも大概である。 脅威と興味。 ミューラの心に芽生えたのはそれだ。 まだ水と風と土が残っている。後の三つでは、一体何を見せてく れるのだろうか。興味が尽きない。彼女の正体ももちろん気になる が、今は魔術に対する知識欲が上回った。 認めよう。彼女の底は自分では計れない。たった一度成功しただ けの、しかも基礎魔術でこれなのだから。質がまるで違うのだ。 人に教える事は、自分が教わる事だとも言うが、奏に教えている この状況は幸運なのではないか。強かになった方が得策ではないか。 そう結論付けたミューラは、冷静を装って魔術の講義を続ける事 にした。 ◇◇◇◇◇ 178 ﹁盛り上がってんな﹂ 離れたところできゃいきゃいと楽しそうに修行する奏とミューラ。 それを視界の端に収め、太一はそう呟いた。 ﹁今のところは順調そうだな。良い傾向だ﹂ レミーアの言うとおり、何か問題があるようには見えない。 とてもいい事だ。 一方太一はといえば。 ﹁なーレミーアさん。俺もやっぱ、魔術使いたい﹂ ﹁だから無理だと言っているだろう。聞き分けの無いやつだな﹂ ﹁だってさあ﹂ 先ほどから太一が取り組んでいるのは、魔力を右手に宿す事。 ただそれだけ。 指先に纏うのを、右手全体に範囲を広げる事。 最も、一度やり方を教えただけで出力の調整もざっくりと出来て いるため、レミーアが内心で舌を巻いていることには気付いていな い。 教えてもらっている立場でワガママを言うのは態度としてはあま り良くないが、出来がいいためあまり強く窘められないのがレミー アの本音だ。 ﹁魔力を操る大切さは分かっているのだろう?﹂ ﹁そりゃあ、もちろん。未熟だったから、他人まで巻き込みました、 ってのはゴメンだ﹂ ﹁ならば続けるのだ。次は右手と同時に左手にも魔力を宿すんだ﹂ ﹁うえ﹂ 179 ﹁みっともない声を出すな。全身に宿せるまでは同じ事を続けるの だぞ﹂ ﹁マジかよ⋮⋮﹂ 右手に宿す魔力は、お世辞にも安定しているとはいいがたい。見 た目はとても穏やか。右手が淡く明滅しているだけだ。なのに、と ても重労働だ。体力が凄まじい勢いで奪われる感じがする。 そんなに長時間維持してはいない。せいぜい、数分といったとこ ろ。なのに、その時間中全力に近い速さで走り続けたかのような倦 怠感が太一を襲っていた。 ﹁結構きついだろう? 雑念を抱えていると余計に疲れるぞ?﹂ ﹁ああ、それは⋮⋮言われてたとはいえ、マジできつい⋮⋮﹂ 予め知ってなかったら相当やばいなー、と間延びして言う太一。 太一が取り組んでいるのは、魔力を操作して身体に宿し、それを 力に変換するというもの。魔力そのもので身体能力を向上させる、 と説明を受けている。 効果はバラダーも使っていた身体強化の魔術と似ているが、実際 は魔術ではない。 どうやらこの手段は、身体強化の魔術と比べても非効率的らしい。 なので、使い手は世界に殆どいないという。術式に則って効果を得 る身体強化は、発動時に消費する魔力だけで身体能力の向上が得ら れる。一方魔力そのもので身体能力を強化する場合、強化している 間はずっと魔力を垂れ流し続けるというのだ。 使い手が少ないはずである。そんな非効率な事、もし太一が魔術 を使えたとしたら、絶対に使わない。詠唱を封じられたときの奥の 手として用意しておくくらいだ。 そしてなにより。折角魔術がある世界にいるのに、魔術よりも原 始的な手段の修行をしている。それが太一には納得が行かない。 180 ﹁まあ、納得はいかんだろうな。だがユニークマジシャンの宿命で もある。それにだ﹂ まだ説明をしていない事があったのだろうか。右手に意識を集中 させているため、耳を傾けるのも結構大変である。 ﹁これは、ユニークマジシャンとして属性が判明するまではタイチ の主な戦闘手段となる﹂ ﹁これが、戦闘手段、だって? 維持するだけで、こんなに辛いの に、戦えるようになるの、か?﹂ ﹁それはタイチの魔力運用が未熟なだけだ。もっと上達すれば、ほ れ﹂ レミーアが右手を見せる。均一な光に包まれている。光ったり消 えたりする太一の右手と比べて、なんと安定している事か。技量の 差を痛感する太一。 ﹁結構強く纏わせているが、きちんと運用すればそこまで負担では ない。⋮⋮どれ、これでどんな恩恵が得られるか、ちょっとやる気 になるデモンストレーションを見せてやろう﹂ 最初からやってくれよ! といいたい気持ちは山々だが、大声は 出したくない太一。結果として黙って頷くだけになった。 ﹁これからこの木を右手でへし折る﹂ 世間話でもするようにぽんぽんと左手で叩く木は。 そんなに太くは無いが、とても素手で折れるような代物ではない。 最低でも斧。出来ればチェーンソーを用いて伐採するのが現実的と 181 思わせるような木だ。 ﹁折っちまって、いいのかよ﹂ ﹁薪がいるのでな。そろそろ足りなくなってきたところだ﹂ ﹁そいつはおあつらえ向き﹂ ﹁そういう事だ。まあ、見ていろ﹂ 特に格闘技の構えを取るでもなく、レミーアは無造作に右手を振 りかぶった。 殴ったら手が痛いだろう。皮が破れて血が出るかもしれない。そ んな不安をよそに、当のレミーアは涼しい顔だ。 ﹁ほれ﹂ 軌道は右フック。徒手空拳としては不恰好と評してしまっていい くらいの動作。空手をやっている貴史の技のキレ、綺麗さとは比べ るべくも無い。 だが、不恰好なのは、見た目だけだった。 バギャア!! と凄まじい音がして、レミーアの右手が振り抜か れた。 見たまま表すとこうなるのだが、その表現がとても変な事に、太 一は自分で思って気付いた。 振り抜かれた? そんな阿呆な。 あの立ち位置で、右フックの軌道で腕を振り切るには、木をぶち 抜くしか実現手段は無い。 そう思ってレミーアの前にある木を見ると。 木の皮の内側が外気に晒されており、豆腐をスプーンで掬ったか のように抉られていた。 182 ﹁な⋮⋮っ﹂ そんな意味不明な出来事を引き起こした張本人はといえば、﹁お や?﹂と首を傾げていた。 ﹁浅かったか。倒れんな﹂ 本人はぷらぷらと右手を振っている。見る限り、そこに傷などは 無い。 顔も痛みを感じているようには見えず、至って平静だ。 普通倒れるどころか、傷すら付きませんが。 そんな事を考える太一をよそに、くすんだ金髪を揺らしながら、 再び腕を振りかぶるレミーア。 ﹁よっ﹂ ドガン! 空気が振動し、真っ直ぐ放たれた突きが、再び木を貫 いた。レミーアの方に傾き始める木。当然だ。あんな抉り方をした ら、自分のほうに倒れてくるに決まっている。 倒れる方向を計算しながら切れ込みを入れるのが伐採の仕方のは ずだ。あんな何も考えずに力任せに⋮⋮。 傾く木はゆっくりだ。徐々に重力と遠心力で加速していくだろう。 だが、その前にレミーアは腕を引き戻していた。 倒れてくる木を右手だけで支え、傾くのを受け止める。まるでク ッションにでも倒れたかのように、木がぴたりと止まった。 ﹁どうだ?﹂ ﹁⋮⋮﹂ この間、レミーアは一歩も動いていない。動かしたのは口と右手 183 のみ。踏み込みもせず、腰をひねりもせず、重心すら落としていな い。 それでこの威力。 建築現場の重機並ではないか。それも、華奢といっていい女性が、 片腕のみで。 絶句する太一に、レミーアはにやりと笑った。 ﹁これは右手だけ強化したからこの威力になった。全身に纏わせて 強化しようとすれば、流石にここまでのパワーは出せんよ。まあそ の分、素早くもなれば全身が頑丈にもなるし、バランスよく強化出 来るのだがな﹂ 右手だけで十分脅威なのに。全身に纏わせると凄まじい事になる らしい。もちろん威力は落ちるとの事だが、現実を考えればそちら の方がよほど厄介だ。 ﹁それに、私でもこれを一〇分以上維持するのは難しい。魔力の消 費が並ではないからな。魔術の方が効率が良い﹂ だったら身体強化魔術を教えて欲しい。そんな届かない願いを浮 かべる太一。 ﹁それでもタイチ、お前ならこれを扱う意味は十二分にある。よし、 一端魔力を解いて良いぞ。少し休んだら両手でやってみよう﹂ まだ続くきつい修行に辟易しながらも、少しでも休めるとあって、 太一は右手から魔力を霧散させた。 途端にどっと疲れが押し寄せ、思わずその場にへたり込む。 ﹁あああきついい!!﹂ 184 ﹁ははは。最初にしては上出来だ。お前さんよりも魔力運用力に優 れていても、並の魔術師では数十秒と持たん﹂ 倦怠感と戦いながら、今のレミーアの言葉を吟味してみる。 普通は数十秒と持たない。 だが、太一は? 右手に魔力を纏わせてから、数分間経っていないか? あれ? と思った太一は顔を上げる。今太一が何を考えていたの かを分かっていたように、レミーアが頷いた。 ﹁そうだ。タイチが魔力で身体能力を強化する理由がそれだ。お前 の魔力量が尋常ではないからだな﹂ ﹁一二〇〇〇〇﹂ ﹁うむ﹂ レミーアは説明を始めた。非常に燃費が悪いという欠点に目をつ ぶれるほど、太一の魔力量が多い事。 人並みに魔力を運用できるようになれば、一日合計で一時間以上、 並外れた運動力での動作が可能になるという。しかもその威力は魔 力強度に依存するため、レミーアが見せたデモンストレーション以 上の攻撃力という水準で全身を強化出来る、というのが彼女の見解 だ。 ﹁うわー。スーパーマンだ﹂ ﹁超人、か。言い得て妙だな﹂ 更に、その中で一点のみを強化すれば、攻撃力だけを格段に跳ね 上げる事も出来るし、頑丈さだけより高める事も出来るし、素早さ を更にあげる事も可能だという。 この世界で最初にして唯一見た魔物である黒曜馬を引き合いに出 185 してみる。太一からすれば脅威の基準は件の肉食馬なのだが、返っ てきた答えは﹁問題外だ。雑魚だ雑魚﹂だった。 ﹁黒曜馬に襲われたんだったな。この近辺ではあやつが最も脅威と なる魔物だが⋮⋮お前にとっては敵ですらならなくなるぞ。憂さ晴 らしにおちょくる相手としてならちょうどいいな。どうだ、少しは やる気が出ただろう?﹂ ﹁口惜しいけど、確かに。やって無駄じゃないって分かっちまった からなぁ﹂ ﹁くくく。素直でいいぞ。いざ属性が覚醒したときにも、効率のい い運用が出来るようになっている事を忘れるな。私の基準で﹃効率 がいい﹄だからな、世界でもトップクラスの魔力運用能力を与えて やる﹂ ﹁くそー、聞けば聞くほどやらない理由がねぇ!﹂ 分かっていて乗るしかない口車。目の前にそれを見せられるとと ても厄介だと、一つ学んだ太一だった。 ﹁さて。そろそろ続きを始めよう。期待しているぞ、タイチ﹂ ﹁よーし! やってやろうじゃねぇか!﹂ ここまでされては流石の面倒くさがりやも燃えるというもの。 二度と愚痴らないと決めてレミーアに与えられる課題をこなし始 める太一。 一時間後、やっぱり愚痴くらいならいいかもしれない、と、先ほ どの勇ましい決意をあっけなく撤回する現代っ子だった。 186 太一は自分の力を思い知った。奏は火の魔術を覚えた。︵後書き︶ 太一君だけではなく、奏ちゃんも桁違いの一部を発揮しました。 化学とファンタジー魔術の融合! 鉄板ですが大好きです︵笑 187 太一と奏の正体︵前書き︶ ついに第一章も後一話です。 異世界出身である事がバレます。 188 太一と奏の正体 今日の修行はかなり実があるものだったらしい。自分たちでも多 少の手応えがあったが、レミーアの総評がそれを確信に変えてくれ たのだ。 曰く﹁予想以上に上達が早い﹂ということ。太一は右手だけの状 態から始め、両腕に魔力を宿せるようになり、安定感も上がってき た。奏は四属性の基本魔術全てが成功し、火属性と水属性で応用ま で出来た。 もともとセンスがいい太一は、奏からすれば当然の結果。 スポーツ、とりわけ球技で遺憾なく発揮されるその才能だが、奏 が見る限りそれは多方面でも生かせるものだ。 試験もその気になれば平均点以上は楽に狙えるのだが、太一が勉 強が嫌いで面倒臭がるため、眠ってしまうことが多いだけである。 自分が怠けた癖に赤点を取れば一丁前に落ち込むのだから、その度 にやれば出来るのだから、と進言しているのだが。 恐らく今回の修行もそのセンスが発揮されたのだろう。やれば出 来る子が優秀な講師の元でやることをこなしたのなら、その成果は 推して知るべし。 一方奏の成果にも、太一は驚くことはない。彼女は優等生だ。但 し、特に優等生であろうとしている訳ではない。 目的地に至るまでに﹃出来ることは全てやる﹄事を信条としてい る奏。彼女の優等生ぶりはその結果だ。本人は結果が良くても悪く ても気にはしない。今日もそれを実行しただけだ。普段と何も変わ らない。 基礎魔術四つを成功させ、応用を行った。火の魔術では青い火を 出し、水の魔法では生み出した水球を冷やして氷にしたという。ミ ューラはとても驚いていたが、奏からやり方を聞いて納得した。青 い火はガスバーナーを、氷は水の原子運動を遅らせたのだと。太一 189 は言われて﹁ああ﹂と思い出す程度だが、奏は最初から覚えていて もなんら不思議ではない少女だからだ。 出足は上々と言っていいだろう。 キッチンで料理をするレミーアの後姿を眺める。フライパンでは ハムステーキが食欲をそそる音を立てて焼けている。 この世界には加工食品というものはあまり無い。今焼かれている ハムステーキも、スーパーなどで売っている﹁後は焼くだけ﹂状態 のものではなく、生肉から仕込まれている。昨日の昼頃やってきた レミーア懇意の商人から仕入れたものだろう。 食事はブラックペッパーの香りが効いたハムステーキと、チーズ とハムが乗った色合い豊かな緑野菜のサラダ、そして汁物に滑らか な舌触りのクラムチャウダー。炭水化物はパンだった。この世界に は米は一般的にはあまり出回っていないようで、とある国に行かな いと食べられないという。 もちろんパンも香ばしく焼けていてとても美味しいのだが、食べ れないとなると米が恋しくなってしまう日本人二人。この世界の米 を味わう! と、冒険者として目標を密かに立てたのは奏であった。 とはいえ、現状の食事に不満があるかといえばそういうわけでは ない。ファミレスで食べるよりはよほど美味しい。流石に料理専門 店と比べてしまうとレミーアが可哀想だが、それでも家庭の手料理 としては十分過ぎるほど美味である。 結局今日の夕食も、ミューラが若干呆れるくらいにがっついてし まった太一。奏も控えめではあったが、いつもより空腹だったのか 食べる量が多かった。作り手としては文句なしの食べっぷりに、上 機嫌のレミーアだった。 ﹁あー、食った食った﹂ おなかをさすりながら背もたれに身体を預ける太一。もう食べら れない、と顔に書いてある充足ぶりだ。少しだらしのない姿勢も、 190 少しは大目に見てもらいたいところだ。 その横で奏がコーヒーを上品に飲んでいる。別にいいとこのお嬢 様ではない。姿勢とスタイルがいいせいか、妙にそういう仕草が似 合うだけだ。 ﹁ふふ。気持ちのいい食べっぷりだな﹂ ﹁すみません、あまり遠慮もせず﹂ 自分も結構な量を食べた自覚があるのか縮こまる奏。 レミーアがいやいや、と手を左右に振った。 ﹁私もミューラもあまり食べるほうではないからな。作る側として は、そうやって食べてくれるほうが嬉しいものさ﹂ ﹁そう? 明日もがっつり食っちゃうよ?﹂ ﹁ああ。たくさん食べてくれ﹂ ﹁何の宣言よ?﹂ ﹁いいじゃねぇか、喜んでくれてるんだし﹂ ﹁そうだけど。私達は居候なんだから。お金だって払ってないのよ ?﹂ ﹁構わんさ。金には一切困っておらんからな﹂ ﹁そうなんですか?﹂ 居候二日目に使用した魔力値測定魔術。あれを国に売ったときの 収入が凄まじい事になっているらしい。 具体的には、贅沢をしながら一生を働かずとも、一〇人ほどは軽 く養える程度に。それ以外にも趣味で行っている魔術開発の依頼を 受けたりしてそこでも安くない報酬を得ているため、太一一人が少 し多く食べたくらいでは全くもって揺るがないと言う。 流石は超一流の魔術師といったところだろうか。 191 ﹁さて。片付けてゆっくりしよう。修行は明日からもまだまだ続く からな﹂ ﹁そうですね﹂ ﹁はいよ﹂ 太一と奏が席を立つ。 と、レミーアが一切動かないミューラに気付いた。 普段からあまり会話に口を挟まない彼女だが、家事などは積極的 に手伝う姿勢を持っているのを太一も奏も知っている。そんな彼女 だから、こういうときは率先して席を立つのだが、今は一切動かな かった。 ﹁ミューラ?﹂ 反応をしない、というリアクションが気になったレミーアが声を 掛ける。 太一も奏も彼女を見ていた。 どうやら無視しているわけではないらしい。ミューラがやがて顔 を上げ、そして、太一と奏をじっと見据えた。 そして、その瑞々しい唇が、小さく動いた。 ﹁ねえ、タイチ、カナデ。貴方達、どこから来たの?﹂ それは二人の急所を突く言葉だった。 ライター。ガスバーナー。原子の減速。 ミューラとの修行中、奏が口にした言葉の数々。目を丸くして奏 を見る太一。しまった、と口元を押さえる奏。 時が来るまで自分たちが異世界人であることは黙っていよう、と 考えていた。 不用意に日本で知った単語を口にしない。それが、二人が決めた 192 事だ。いつ話すかは分からない。もちろんいつまでも隠し通せると は思わないし、明かすのは明日かもしれないし、一週間後かもしれ ないし、一ヵ月後かもしれない。 二人が危惧したのは、﹁こいつらはおかしい﹂と判断される事。 ここで再び放り出されては、今度こそ生きていけない。言うタイミ ングを計っていた事だった。 太一がそのミスを犯すかもしれない、という事は、本人がやや警 戒していた事だった。だが、奏がそれをやってしまうとは。彼女に しては珍しい、本当に珍しいミスである。 取り繕えるか? 誤魔化せるか? そう考えていた太一と奏だが、レミーアの﹁この世界には存在し ない言葉だな﹂という一言が、ゲームセットを知らせるサイレンと なった。 ﹁この世界に存在しない、ですか?﹂ ﹁ああ。どういう事か、聞かせてもらうとしよう。ひとまず、ぱぱ っと片付けてしまおうか﹂ 食器を流し台で洗いはじめるレミーアとミューラ。 ダイニングに残された太一と奏。 ﹁ゴメン﹂ 奏が口にした一言目はそれだった。 太一としては彼女を責める気は微塵も無い。やってしまうのは自 分だと思っていたからだ。 むしろ、自分が謝るだろうと思っていただけに、謝られるのは完 全に想定外。そんな思いを抱えながら、頭を小さく下げる奏の顔を 上げさせた。 193 ﹁謝らなくていいよ。どの道バレるか、バレなくても明かすつもり だったんだ﹂ ﹁でも、追い出されるかも﹂ ﹁それは仕方ない。もう誤魔化しも効かないだろうし、素直に話す しかない﹂ 太一の言う事は最もだった。 この世界には無い、ときっぱり断言されてしまったため、いくら 誤魔化そうとしてもそれは裏目に出るだけだ。 ﹁それに。案外、先延ばしにしていたのは無駄だったかもしれない ぞ?﹂ ﹁え? どうして?﹂ どうやら、冷静なのは見た目だけで、内心では相当気が動転して いるらしい。 普通なら奏の方が洞察力に優れるはずなのだが、彼女は気付いて いない。今まで言われて気付く側だった太一としては、立場が逆転 していてちょっぴり面白い、と不謹慎な思考をしていた。 やがて洗い物が終わったレミーアとミューラが並んで座り、対面 に太一と奏が座った。四人の前にはそれぞれクーフェが置かれてい る。初日に魔術について講義を受けたのと同じ配置である。 ﹁さてと。タイチとカナデ。お前達は﹃迷い人﹄だな﹂ ﹁迷い人?﹂ ﹁なんです、それ?﹂ ﹁レミーアさん、それ、あたしも知りません﹂ 迷い人、という単語に、三人が揃って疑問符を浮かべた。 194 ﹁うむ。多くて数十年に一度⋮⋮少なければ一〇〇年単位で起きな い事もあるそうなのだが、別の次元にある世界から、この世界にや ってくる者がいる。文献では、そういう者を﹃迷い人﹄と呼んでい るのを思い出してな﹂ 一体どれだけの文献を読んでいるんだこの人は。 この世界の人間でない事に驚いてない? そんな事が起こるなんて。 それぞれ上から太一、奏、ミューラの感想である。 ﹁何らかの切欠で次元に穴が空いて、落っこちてやってくる。或い はこちらの魔術師が、次元を超える魔術を行使し、異世界の人間を 召喚する。この世界にやってくる手段としてはこの二つだな。タイ チ、カナデ、お前達がこの世界に来るとき、穴に落ちてきたのか?﹂ ﹁いや? 確か、足元がいきなり光って、気付いたらここにいたな﹂ ﹁ええ。妙な円の中に私達がいて、それが強く光って目の前が真っ 白になって⋮⋮気付いたら、草原にいました﹂ ﹁ふむ。お前達は召喚されたな﹂ ﹁召喚⋮⋮? 誰かが俺達を呼んだって事か?﹂ ﹁そうだ﹂ ﹁何のために?﹂ ﹁それは召喚魔術を使った者に聞くしかないな﹂ ごもっともである。 ︵気付いたら、草原に⋮⋮? 召喚魔術、確か⋮⋮。これは、予想 以上に厄介事かも知れんな。いや、こいつらはむしろ幸運なほうか ⋮⋮︶ 195 自身の庇護下に入っている時点で、この世界に存在する脅威の半 分以上から遠ざけられていると言っていいだろう。着いた場所が魔 物の巣だった場合、今頃消化されているはずだから。 レミーアはその思考を、ひとまずは振り切った。現時点で大事な のはそれではない。 ﹁召喚魔術を使ったのは、まあ端的に言えば時空魔術師だ。細かい 説明は省くが、時間と空間を操る属性。それが時空属性だ。それを 十二分に操れる優れた術者は、次元の壁に穴を開く事も出来るから な﹂ ﹁じゃあその時空魔術師とやらが、俺達をこの世界に呼び出した、 って事か﹂ ﹁ン? ああ、まあな﹂ 太一の表情に若干の棘が入っている事に気付いた。生返事をして いる間にそれは消えてしまったが。 ﹁私達、異端ではないんですね?﹂ 奏の言葉が、心情を全て表していると言っていいだろう。 二人が何をもって﹃異世界人﹄であることを黙っていたのか、レ ミーアもミューラもそれで察する事が出来た。 つまり、自分たちがこの世界にとって﹃異分子﹄だという自覚が あるという事だ。 ﹁何だ、それで追い出されるとでも思っていたのか。心配要らんさ。 迷い人の珍しさはユニークマジシャンと変わらんからな。私が読ん だ文献には、この世界で生きた迷い人の生活も簡単に記されておっ たよ。この世界の人間と、協調して生活を営んでいた、とあったな﹂ ﹁そうですか﹂ 196 ホッとした様子の奏。彼女は苦労性なのだろう。太一のようにも う少し楽天家でもよいのではないか。それは性格だから、無理な相 談なのだろうが。 いやこの場合、太一が気にしなさすぎ、という事も出来るか。 ﹁一応確認しておこう。エリステイン王国。この言葉に聞き覚えは ?﹂ ﹁いや無い﹂ ﹁シカトリス皇国は?﹂ ﹁知らないです﹂ ﹁ガルゲン帝国﹂ 二人揃って首を横に振る。 ﹁お前達が住んでいた国は?﹂ ﹁日本﹂ ﹁ニホン⋮⋮ミューラ、聞いた事は?﹂ ﹁あたしは聞いた事無いです﹂ ﹁私も無いな。この世界には存在しない国、と見ていいだろう。更 に、この世界に生きていれば子供でも知っている三大国家を知らな い。召喚魔法陣らしきものも見たと言うし、迷い人で確定してしま っても良い位に要素が揃っている﹂ レミーアはクーフェを一口飲んだ。 それに倣ってクーフェで喉を潤した奏が口を開いた。 ﹁でも、召喚されたのに迷い人って変ですね﹂ ﹁そうだな。どういう理由かは知らぬが、召喚された者も、次元の 穴に落ちた者も一くくりで迷い人とするそうだ。異世界から来た者 197 の総称のようなものだから、あまり気にする必要もなさそうだがな﹂ ﹁そうですね﹂ 重要なのは語源ではなく、自分たちが異世界人であるという事だ。 もし気になったら、また後ほど調べてみればよい。 ﹁俺が不思議なのは、何で言葉が通じるか、って事だな。俺達の世 界の言葉と、この世界の言葉が一緒とは思えない。なのに、俺達コ ミュニケーションで困った事は無いんだ﹂ 異世界から来たと言うのに、会話が出来る。 それはずっと疑問に思っていたことだ。 日本と同じ言葉を使っているのかと思ったが、文字を見ると読む ことが出来なかった。まるで違う言葉を使っているはずなのだ。 なのに、何故。 とりあえずコミュニケーションは取れるためそこまで問題視はし なかったが、どうしても気になっていた事でもあった。 太一の疑問に対して、レミーアは﹁恐らくだが﹂と前置きして答 えた。 ﹁召喚対象に、翻訳の効果をもたらす術式がオプションで組み込ま れた召喚魔術だったのだろう。召喚対象とすぐにコミュニケーショ ンが取れるようにな。相手を混乱させないための配慮だとは思うが ⋮⋮﹂ 召喚された時点で配慮も何も無いな、とレミーアが呟く。太一は 大いに同意した。 ﹁ところで、過去この世界に来た迷い人は、元いた世界に戻れたん ですか?﹂ 198 奏の言葉に、太一もレミーアを見る。ミューラからも視線を向け られ、しかしレミーアは静かに首を横に振った。 ﹁私が見た文献に記された迷い人は、皆この世界で残りの人生を終 えたと記されてあった﹂ ﹁それって何? 帰れない、って事か?﹂ ﹁私が知る限り存在するのは、次元の向こう側にいる人間をこちら から呼び寄せる魔術だけだ﹂ ﹁召喚があるのにその逆は無いんですか?﹂ ﹁確かにな。召喚があるなら送還があってもおかしくは無い。だが、 私には心当たりは無い。召喚する必要はあっても、送還する必要は 無いのだろう﹂ ﹁そんな勝手な﹂ ﹁マジかよ⋮⋮﹂ 嘆きも最もだ。 こちらの都合を一切無視して呼び出して、帰る時のことは知りま せん、では無責任にも程がある。 二人が言葉を失い、室内に沈黙が腰を下ろす。 今までの覇気が無くなってしまった太一と奏にフォローが必要だ と感じたレミーアが続きを紡いだ。 ﹁これは慰めだから聞かなくても良いが、お前達は運が良い方だぞ﹂ 太一が顔を上げ、奏がぴくりと動いた。 ﹁この世界に、どれだけ迷い人がやって来ているのか、正確な記録 は残っておらん。文献で、そういった事例がありうる、という事し か私達には知る手立てが無い。何故なら、召喚魔術は最高深度の秘 199 匿技術故に、実施したとしても記録を残さぬからだ。また次元の穴 からこちらの世界に落ちてきた人間が、この世界で生活できるよう になる確率が限りなく低いからだな。数十年から数百年に一度、と いうのも推測でしかない。文献にも、それを証明できるものは何一 つ無かったしな﹂ ﹁そうなんですか?﹂ ミューラが続きを促す。彼女もこの件については詳しくない。二 人が心配だという気持ちと共に、自分の知識欲もあった。 ﹁うむ。タイチとカナデの事例が、召喚魔術が安全ではないと証明 しているし、次元の穴からやってきた者が、安全な場所に辿り着け る可能性は限りなくゼロに近い。タイチ。冒険者三人組が助けてく れなかったらどうなっていた?﹂ ﹁いや⋮⋮うん。死んでた、間違いなく﹂ ﹁そういう事だ。現れた場所が草原や荒野のど真ん中なら、魔物に 襲われてアウト。襲われなくても、彷徨っているうちに飢えと水分 不足を解消できずにアウト。出会った人間が野党のようなならず者 でも碌な目には遭わぬ。この世界で迷い人が生き残るには、奇跡と 言っても良い偶然が揃わねばならん。そういう知識と技術、戦闘能 力を持っていなければ生きられん世界だ、ここは﹂ 仮に街に辿り着いても、自分の身を立てる手段が限りなく少ない 事もラケルタとメヒリャから聞いている。 この世界は本当に厳しい。 バラダー達に拾われた。偶然の産物とはいえ、魔力の適正があっ た。レミーアに保護してもらった。冒険者として生きてゆくため、 最高の師二人から魔術を教わっている。 これだけの都合がいい偶然が重なり、今椅子に座ってクーフェで 一息がつけている。 200 これを奇跡と呼ばずに何と呼べばいいのか。 一度、自分たちは運がいいと気付いたはずではなかったか。 どんな理由と原因があれ、この世界に来た時点でそもそも理不尽 だったはずではなかったか。 ﹁そうだなあ⋮⋮死ぬよりはマシか﹂ ﹁太一﹂ ﹁死んでたら、悩む事も落ち込む事も出来ないしな。贅沢してるじ ゃん、俺ら﹂ ﹁また分かったような事言って⋮⋮。うん、でも、そうだね﹂ 生きていれば、何とかなるかもしれない。 諦めてしまっては試合は終了してしまう。 ベストセラーとなったスポーツマンガでも言われていたことでは ないか。 ﹁立ち直ってくれて何よりだ。元の世界に戻る事について手助けは 出来んが、この世界で生きていけるようにはしてやる。この世界の 常識も、知っておく必要がありそうだな﹂ よろしくお願いします、と奏が頭を下げた。 ﹁心配要らん。これでも八三年生きているからな。大抵の事は教え てやれるだろう﹂ ﹁え?﹂ ﹁え?﹂ ﹁ん?﹂ 上から太一、奏、レミーアである。 知っていたらしいミューラは﹁ああ、言ってなかったか﹂という 201 顔をしていた。 ﹁いや待った。レミーアさん、どう見ても二十代⋮⋮﹂ ﹁そうか、この世界の常識を知らなんだな。私はハーフエルフだか らな。エルフのミューラと比べて見た目はまるきり人間だが、寿命 は三〇〇年程あるのだよ﹂ ミューラは耳が尖っていて類稀な美貌を持っている、という点で、 エルフではないかと当たりはつけていた。特に確認はしていないが、 ファンタジーな作品に登場するエルフと特徴がまるで一緒だったか らだ。 だがレミーアの場合、凄まじい美貌ではあるが、耳が尖っていな かった。人間の成人女性だとばかり思っていたのだ。 因みにエルフの寿命は、個体差があるもののかなり長く、五〇〇 年から一〇〇〇年程らしい。 ﹁ハーフエルフは、両親のどちらかの特徴が出る。エルフと同じく 耳が尖る可能性もあるし、人間と見分けがつかない可能性もある。 私は後者だった、という訳だ﹂ ﹁はあ⋮⋮﹂ ﹁寿命が三〇〇年とか、ファンタジーだわ⋮⋮いや、今更か﹂ 既に魔術を使っている時点で、自分たちもそれに染まっていると 気付いてしまった。 ﹁この世界についても合わせて教えてゆくとしよう。明日からは忙 しくなるな﹂ 魔術の修行にこの世界の常識。 既に日本での常識に染まってしまっているため、新たな常識を詰 202 め込むのは結構大変だろう。 だが、生きていく上で必要な知識であるのは間違いないため、や らない訳には行かない。 勉強そのものを苦にしない奏のケロッとした表情と、うんざりし た太一の顔が、内心で何を考えているのかを露にしていた。 203 出発!︵前書き︶ 第一章最終話です。 204 出発! ﹃カマイタチ!﹄ 空気を裂く音が鋭く響き、縦一文字の深い傷を岩に刻んだ。 ﹁うはは! すげぇすげぇ!﹂ その様子を少し離れたところから見ていた太一が歓声を上げた。 面白くないのは奏である。 ﹁嫌味か! 渾身のカマイタチだったのにフツーに弾いてんじゃな いわよ!﹂ そう文句を言う奏の視線の先には、右腕を払った体勢の太一。そ の右手は、淡い銀色の光に包まれている。 ﹁いやいや! あんなの直撃したら無事じゃ済まねぇだろ!?﹂ ﹁普通にやったらダメージなんて通らないから、強く撃つしかない じゃない﹂ ﹁結構必死に防いでるんだぜ?﹂ ﹁そうじゃなきゃ、こっちの自信が持たないわよ﹂ 奏は言いながら、両足に風を纏わせる。次の太一の動きについて いくためだ。 更に右手に火の玉を、左手には硬度を上げた石の塊を作り出す。 もちろん、太一を攻撃する為に。一度に二つの魔術を同時に操る、 デュアルスペルという技術。世界最高峰の魔術師であるレミーアと、 彼女に師事しているミューラは出来る技術だが、普通はとてもでは 205 ないが目に出来るものではない。 この辺の魔物相手なら、例え黒曜馬が敵だとしても不要なスキル だが、相手が太一となるとそうも行かないのだ。 ﹁行くぞ奏﹂ ﹁いつでもどうぞ﹂ 彼我の距離はおよそ三〇メートル。純粋な魔術師の奏としては、 太一となるべく距離を取りたいが故に保ってきた間合い。 その理由は、太一の圧倒的なスペックによる近接戦闘に、奏の反 応速度ではついていけないからだ。 太一が腰をゆっくりと落とし、足に力を込めるのが目に映る。瞬 間、太一の姿がブレた。 ﹁ッ!﹂ 奏はそれに一瞬遅れて地面を蹴り、同時に火の玉を地面に叩きつ け、更に石の塊を圧縮した空気を破裂させた衝撃で撃ち出した。 硬質な石を弾丸とした空気砲と、火の玉が生み出す爆発。普通な ら過剰ディフェンスである。しかしそれだけやっても太一に対して は一切の安心をもてない。奏はすぐさま次の詠唱を始める。五つの 火の玉が宙に生み出される。高速で後退する奏にぴたりと追随しな がら。 たった二歩。太一は目の前にいたのだ。 三〇メートルの距離を、体感で二秒未満で詰める。 それが魔力強化を行った太一の速度。それでも全力ではないのだ から、最早笑うしかない。 一度間合いに入られたら、奏には障壁を連続で紡ぐ事に終始せざ るを得ない。近づかれたら負けなのだ。近づかれないために、圧倒 的な防御力とスピード、攻撃力を誇る太一に対する防御策だ。 206 石を受け止めて投げ捨てつつ爆炎の中から現れた太一が目を丸く し、足を止める。 あれは、この世界で初めて見た魔術の一つ。 メヒリャが黒曜馬を一瞬で消し炭にした高い攻撃力を持つ魔術だ。 ﹁ゲッ!﹂ ﹃フレイムランス!﹄ 思わず呻く太一に、奏は無慈悲に五つの炎の槍を放った。 火の粉を撒き散らしながら、高速で飛ぶ炎の槍。太一は動作をす る間もなくそれに包まれる。 先ほどの火の玉が起こした爆発を、数倍にした規模のパワーが炸 裂し、空気が震えた。 業火が周囲を焼き払い、凄まじいエネルギーだった事を主張して いる。はっきり言えば、メヒリャのフレイムランスを上回る威力で ある。 ﹁マジ間一髪。ヤバかったー﹂ 炎と煙が沈静化していく。元々延焼を目的にしていないため、炎 はすぐ鎮火するのだ。 二十メートルに渡って焼け野原となった大地の中心に、太一が無 傷で立っていた。彼を中心として一メートルの範囲が、一切炎の影 響を受けていない。 あの強力な魔術を、魔力を大きく纏う事で防いだのだ。強引。力 ずく。そんな表現がぴったりくる防御手段である。 ﹁何で効いてないのよ⋮⋮﹂ 驚くよりも呆れた顔で、奏がげんなりしている。 207 魔力強度と魔力値にものを言わせた力任せの防御結界。太一に魔 力を発揮させる機会を与えてしまうと、奏の攻撃は殆ど通らないの だ。 それは頭では分かっている。分かっているが、今のは奏にとって は最高クラスの威力を持った攻撃魔術である。 効かないのは仕方が無い、と割り切るのは心情的に無理だった。 ﹁⋮⋮凄い。あの威力の魔術もそうだし、それを当たり前のように 防ぐなんて﹂ ﹁全くだ。自分の弟子ながら、呆れるほどに強くなったな﹂ 模擬戦闘の様子を遠巻きに見ていたレミーアとミューラも呆れて いる。 太一と奏の身柄をレミーアが引き取ってから丁度三週間が経過し た。 そろそろ冒険者として、依頼を受けなければならないため、今日 の模擬戦は最終テストのようなものだ。 太一と奏の上達は凄まじい。日に日に上達する二人を見ていて、 分かっていた事ではあったのだ。 しかしそれを実際に見せ付けられると、改めて非常識だと感じさ せられる。 ﹁界○拳!﹂ ﹁それはダメ!﹂ ﹁男のロマンだろ!?﹂ ﹁ロマンでもなんでもダメ!!﹂ たった三週間で、奏はミューラよりも強くなった。 模擬戦をして試したわけではないし、まだまだ魔術に対する知識 等ではミューラのほうが上だが、単純な戦闘能力では奏には敵わな 208 いとミューラ自身が思っている。 ミューラの戦闘力はひとかどのものだとレミーアも認めている。 そもそもの資質がミューラと比べてオーバースペックの上、全ての 属性を駆使し、更に現代の知識もミックスするのだから、もう相手 が悪いとしか言いようがない。 ではレミーアと比べてはどうか。相手が奏なら、まだまだレミー アの敵ではない。楽勝ではないが、負けるとも思わない。世界屈指 の魔術師は伊達ではない。 但し比較対象が太一の場合、レミーアは戦うまでもなく﹁敵わな い﹂と認める事になる。 太一の戦闘だが、技術は無いに等しい。武器は扱えないため無手。 格闘術を会得しているわけでもない。何がレミーアを上回るかと言 えば、圧倒的なスペックである。スピード、パワー、ディフェンス。 自らが持つ全てを駆使して当たっても、それを打ち破る事は出来な いだろうとレミーアは思っている。 ついに太一に間合いへの侵入を許した奏が、腕を取られて降参の 意思を示した。 奏が太一に勝ったのは二度だけ。模擬戦を始めて最初の方だけ。 いずれも魔力操作が未熟だった太一が魔力を切らせて戦闘続行が不 可能になったのだ。それ以降、奏は太一に勝てていない。 太一と模擬戦した場合、奏のような感じで敗北するだろうとみて いる。奏よりはいい線行くだろうが、所詮そこ止まり。それほどに 太一の戦闘能力は凄まじかった。 ﹁そこまでだな﹂ レミーアが終了の合図を出す。 そもそも勝ち方に力の差が現れている。 太一に余裕が無ければ、奏に打撃を加えているはずなのだ。近づ いて腕を取るという決着をつけれる時点で、両者の力の差が少なか 209 らずある証明といえる。 それでも模擬戦をやるのは、太一にとっては、遠距離からひたす ら強力な攻撃を繰り出す相手に対する訓練。 奏にとっては、近い間合いを得意とする相手に対する対処方法の 訓練である。 そして恐ろしいのは、戦闘における太一と奏の常識が、狭いコミ ュニティの中にしか無いという事。この中で一番劣るミューラでさ え、その辺の野盗相手なら一〇人を一度に相手しても苦労せず無力 化出来るだけの力を持っているのだ。 つまり、バラダー達と同じレベルの戦闘力を持っている、という 事。流石に彼ら三人を同時に相手にすれば勝ち目は無いだろうが、 一対一なら互角の勝負が出来るだろう。 つまり、太一と奏は、実力という一点のみではあるが、この世界 で一流と呼べる冒険者を超えてしまったのだ。 その事はきちんと自覚しなければならないだろう。 そもそもミューラの実力すら、身につけられる者は圧倒的に少な いのだから。 ﹁よし。戻るとしようか﹂ ﹁あー、やっぱ勝てなかったぁ﹂ ﹁⋮⋮やる度に奏の攻撃がカゲキになるんですけど﹂ ﹁あたしでもそうなるわよ。怪物相手にしてるのと一緒なんだから﹂ ﹁ひでぇ﹂ 自分がどれだけ非常識か、イマイチ分かっていない様子の太一。 それを見てミューラがため息をついた。 草原からレミーアの家に戻る。 ダイニングの椅子に座って一息つくと、レミーアが皮袋をテーブ ルの真ん中に置いた。じゃらりと鳴ったことから、中が硬貨である 事が分かる。 210 ﹁これは?﹂ 首を傾げる奏。 ﹁お前達の修行は今日でいったん終わりだ。明日からは街で冒険者 として依頼をこなしてもらう。登録してから三週間経ったからな﹂ なるほど、と奏が頷いた。 ﹁この金は、街での生活費だ。まずはFランクの依頼を受ける事に なるが、その収入だけで安定させるにも先立つものは必要だからな。 必要になったら使えばよい﹂ ﹁でもただで受け取るのは悪いよ。それに俺達、金なら多少持って るんだ﹂ バラダー達から受け取った餞別である。 それを滞在費用としてに支払う事も提案したがすげなく断られ、 一切手付かずで残っている。 レミーアは頷いた。 ﹁それも知っている。何、気になるなら借しにしておくからしっか り稼いで返しに来い。冒険者として生きるなら、その程度は全く問 題ないレベルまでは仕込んだからな﹂ バラダー達と同じく、配慮してもらったのだ。 ここは受け取っておくのが礼儀というものだろう。 感謝の意を示し、奏が皮袋を手に取った。 ﹁さて。出発前に、一つだけ忠告をしておこう﹂ 211 今までのざっくばらんな雰囲気から真面目な顔に変わったレミー アを見て、奏が居住まいを正す。太一は普段と変わらないが。 ﹁お前達の実力だがな。はっきり言えば、この近辺で敵になるもの はおらん。他人から見れば、恐怖すらもたれる強さを持っている事 を自覚しておくのだ﹂ ﹁へ?﹂ ﹁そうなんですか?﹂ 日々必死になっていたために、自分たちがどれだけ強くなったの か、その物差しが無かったのだ。 ﹁そうだな⋮⋮例えばカナデ。お前で言えば、全力を一〇〇としよ う。五〇程度の力を出すだけで、黒曜馬を一撃で倒す事が出来る﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁タイチ。お前は、三〇以上出すな﹂ ﹁え? 俺だけ命令?﹂ ﹁当たり前だ。カナデと戦ってるとき、一〇〇のうちどの程度出し た? 正直に答えろ﹂ ﹁えっと⋮⋮四〇くらいかな﹂ ﹁そういう事だ。お前の場合オーバースペック過ぎる。まあ相性も あるだろうが、カナデを相手に半分以下の力で勝てるようなやつが 遠慮なく実力を発揮したら、怖がられて誰にも近寄られなくなる﹂ ﹁うえ﹂ ﹁店にも入れなくなってしまう。そうしたら街にいられなくなるぞ﹂ ﹁それは困る﹂ ﹁だろう? だから三週間ずっと魔力操作に費やしたのだ。今なら 自分の力を一〇刻みで出すなど余裕のはずだ﹂ ﹁一〇刻みどころか五刻みでもやれるよ﹂ 212 ﹁うむ。普段は一〇とか二〇で良い。それだけでも騎士団団長レベ ルの戦闘力を発揮する事が出来る﹂ ﹁うわー、確かにオーバースペック﹂ 騎士団団長。それは、一流冒険者と互角、ともすれば上回るほど の戦闘力を持つという。 確かに魔力を完全に操れるようになってから、太一は一〇〇の力 を出した事は無い。 一度八〇の力を出した状態で地面を殴ったら、幅四〇メートル、 深さ二〇メートルの大穴を空けてしまってから、流石に自重するよ うにはしていた。ここまで自分がありえない存在だとは、流石に思 っていなかった。 因みに、その時ぴょん、位のつもりでジャンプしたら、穴から抜 け出すどころか更に一〇メートル高く跳べてしまった事も、自重す る原因として一役買っている。穴を埋めに来た奏に叱られたのは当 然の報いである。 ﹁まあ、一度自分と同ランクの冒険者がどれ程のものか見てみると いい。それを基準にして考えれば良いだろう﹂ ﹁分かりました﹂ ﹁気をつける。流石に好き好んで嫌われるほど変態じゃないつもり だから﹂ ﹁うむ。冒険者としてそのまま街に腰を下ろしても良いが、しばら くしたら一度戻って来い。街でどういう生活をしたかも聞きたいし な﹂ 太一と奏は顔を見合わせた。 ﹁いや、冒険者やってるうちは街にいるけど、あくまで拠点はここ がいいかなって思うんだ﹂ 213 ﹁そうですね。私達のこの世界での実家ってここ以外思いつかなく て。レミーアさんとミューラさえ良ければ、またここに住みたいん ですが﹂ ﹁そうか。まあお前達の好きにすると良い。戻ってきたいと言うな ら私に否やは無い﹂ ﹁ここはレミーアさんの家だから戻ってきたらいいわ。あたしも、 まあ、戻ってくるなら、か、歓迎するわよ?﹂ レミーアとミューラに戻ってきていいと許可ももらったので、一 安心だ。 ミューラは何故そこで詰まるのだろう。照れ隠しなのだろうか。 こういう場面での彼女はいつもこんな感じである。 その後、いつも通り夕食を食べ、シャワーを浴び、この世界の常 識について一通り復習して就寝した。 翌朝も朝食まではいつもどおり。 旅立ちの準備からは、非日常が訪れた。魔術の修行が今日から無 いのだ。 ﹁じゃあ、行って来るよ﹂ ﹁うむ。お前達の脅威になるものはこの辺には無いが⋮⋮まあ、気 を付けろ。何が起こるか分からん世界でもあるからな﹂ ﹁そうだなあ。注意して悪い事にはならないしな﹂ ﹁そうよ。タイチなんか注意散漫なんだから。その辺の石でけっつ まずくんじゃないかしら?﹂ ﹁幾らなんでもそれはねぇよ﹂ ﹁わかんないわよ? あ、そうそう。これ﹂ ミューラが手渡してきたのはバスケットだった。 ﹁お弁当。街に着くまでに飛ばしてもお昼は絶対回っちゃうだろう 214 しね﹂ ﹁ミューラが作ったの?﹂ ﹁つーか料理出来たのか﹂ ﹁出来るわよ? レミーアさん程じゃあないけど、レミーアさんの 代わりに作るのは問題無いわ﹂ そうなのか、と納得し、サンキューと礼を言う太一。 ふん、とそっぽを向くミューラ。 実は女性陣の中で唯一料理が出来ない奏が別の意味でそっぽを向 いた。 そんな三人を見てほほえましそうな顔をしているレミーア。 少し名残惜しいのはあったが、今生の別れではないため、出発す る太一と奏。 ミューラの予感通り、太一が足元の石にけっつまずいたのを追記 しておく。 馬車で行っても一時間。 歩いても数時間の道のりである。 魔力強化をすればあっという間に着くのだが、これだけ心に余裕 を持ってこの世界を歩くのは初めてのため、満場一致で道中急がな いと決めたのだ。そのうち飽きたら、ササッと行こう、とは言って いるが。 特に何が起きるでもなく、歩き始めて二時間が経った。 相変わらず目に入るのは見渡す限りの大草原。空も良く晴れてい て気持ちがいい。 ﹁ね、太一。あれ﹂ ﹁ん? ああ、黒曜馬﹂ 遠くに見える、巨大な黒い馬。それが、徐々にこちらに近づいて きている。 215 ﹁相変わらず、旅人とか食ってんだよな﹂ ﹁まあ、そういう生き物だし﹂ 初対面の時とはまるで別人の落ち着き具合である。 あの時は、確かに殺されかけたよなあ、等と、懐かしむ余裕すら あった。 やがて完全に間合いに入ってきた肉食馬の巨躯が、一〇メートル ほどの距離まで近づいてきた。 ﹁最後に戦ったのいつだっけ?﹂ ﹁えーっと、一〇日前かな﹂ ﹁そん位か。圧勝だったよな﹂ ﹁太一突進受け止めてたよね﹂ ﹁奏こそ高水圧の弾丸で掃射とか割と酷かったぞ? 蜂の巣にして たじゃないか﹂ ﹁やり方が良くなかったのは認める⋮⋮。あれはえぐかった⋮⋮﹂ 二人が慌てた様子を見せない事に、黒曜馬が怪訝そうな目をして いる。今まで出会った人間の獲物は、全てが恐怖に染まった顔をし ていたのに。 ミューラに教わったのだが、黒曜馬は中々高い知能を持つのだそ うだ。また感受性も豊かで、獲物の感情の機微を敏感に受け取れる のだという。 問題は、今の太一と奏は、彼にとって獲物にはならない事である。 むしろ、太一と奏の獲物だ。 だが、魔力を一切放っていないため、黒曜馬には彼らの恐ろしさ は分からない。 ﹁駆除するか﹂ 216 ﹁ほっといても他の人とか動物とか襲うだけだしね﹂ ﹁やる?﹂ ﹁うん﹂ ﹁任せた﹂ ﹁任された﹂ 太一が腕を組んで一歩下がる。 向き合う黒曜馬と奏。 ここに来て、彼らがいつもの獲物とおかしいことにようやく気付 く肉食馬。 だが、気付いたときには、既に遅かった。 奏が左手を馬に向ける。 ﹃ショック﹄ ドパァン! と盛大な炸裂音が響き、黒曜馬の巨体が一〇数メー トル上に飛んだ。 空気を圧縮し、指定した座標で開放する魔術。ターゲットの足元 で炸裂させたのだ。あの馬程度の質量なら吹き飛ばす程度は何も問 題ない。 高い位置から叩き付けられ、馬が悶え苦しむ。 ﹁さよなら﹂ ガン、と響いたのは、衝撃波の音だった。 黒曜馬の上空に小さな雷雲を発生させ、落雷させたのだ。 普通大規模な雷雲が必要となる雷魔術。レミーアはこれをサンダ ーと呼び、並の魔術師では一生かかっても実現できるか否かの風属 性上位魔術だと言っていた。 奏は水属性と風属性を混ぜ合わせる事でより手軽に落雷を発生さ 217 せられるようにしたのだ。 大きさの違う氷の粒を使い、雲の中で静電気を発生させるなどの 細かい手順があるのだが、奏にとっては興味本位で調べて原理を知 っていたため、問題なく起こせるだけだったりする。 重ねて言うが、普通は宮廷魔術師でも簡単には扱えないものであ る。 見ているほうは耳を塞ぐだけだが、数億ボルトの直撃雷を受けた ほうはたまったものではない。 ブスブスと上がる煙。元々黒いためよく分からないが、丸焦げだ ろう。あれだけじたばたと暴れまわっていたのに、ぴくりとも動か ない。 ﹁あー、﹃サンダー﹄か。相変わらずすげぇ威力﹂ ﹁一撃で仕留めたほうが、長引かせるよりいいでしょ﹂ ﹁まあな﹂ 一度は殺されかけた相手。 だが、今は彼らよりも圧倒的な優位な位置に立っている。 もう彼らに対して恨みはない。 むしろそんな思いに駆られていたずらに痛めつけるような真似は、 二人とも一切するつもりは無かった。 因みに、生き物の命を奪う事にも、もう抵抗は無い。 最初は魔物相手とはいえ、そういう抵抗も確かにあった。 だが、それによって死ぬ人がいる事を考えると、無闇な慈悲は更 なる被害を生み出す。 割り切りが必要だと、心構えもレミーアとミューラから教わって いた。 実力は確かに彼女達よりも上回ったかもしれないが、それでも頭 は上がろうはずが無い。 218 ﹁しっかし、上級魔術をこうもあっさり使うんだな﹂ ﹁その私にあっさり勝つ太一は何なのよ﹂ ﹁ごもっともだ﹂ 太一はばりばりと頭を掻いた。 ﹁まさか日本にいた時はこんな事になるとは思わなかったな﹂ ﹁私もね。全くの予想外よ﹂ 二人はこの世界でも有数の実力者だと言う。 未だ実感は無い。 冒険者として過ごせば、嫌でも思い知るだろうとレミーアからは 言われている。 太一はため息をついた。 ﹁普通だと思ってたら異世界ではチートでした﹂ ﹁チートってのを否定できないのがとても嫌ね﹂ 弱けりゃ弱いで苦労があり、強くなったらなったで苦労がある。 というか度を過ぎて強くなりすぎである。 この先何が起きるのか。まだ見ぬ冒険者稼業を思い浮かべ、左右 に首を振る二人だった。 219 出発!︵後書き︶ これにて第一章終わりです。 ありがとうございます。 実は⋮⋮この規模の物語を、ひとまずの区切りまで書いたのは初め ての経験です︵笑 今後もこの経験を生かして、太一君と奏ちゃんの異世界冒険譚を書 いていきたいと思います。 現在第二章のシナリオの見直し&執筆を進めています。 作者都合ですみませんが、多少のメドがつくまでは次の更新をお待 ちください。 ∼お知らせ∼ 今後、奏ちゃんの魔術は、化学&科学との融合となります。 優等生な奏ちゃんらしい感じにしたいのですが、残念ながら作者は 授業中寝てる口だったのでそこまで詳しくありません。 知っている事象を思い出して、ネットで調べてから使っていく方針 ですが、アイディアがかなり不足する事が予測されます。 活動報告にスレッドを設けます。 注意事項も該当スレッドに記載しますので、そちらをお読みいただ き、もし宜しければ﹁こんな現象があるよ﹂と知恵を貸していただ けると嬉しいです。 220 幕間∼レミーア∼︵前書き︶ 二章開始まで時間が空いてるので。 幕間ということでレミーアさんの一人称で描いてみました。 221 幕間∼レミーア∼ ろうそくの光は、集中力を増加させる。明かりを取る魔術はいく つか知っているが、研究や調査をする時は使わないようにしている。 その方がより没頭出来ると気付いてからの、私のルールでもあっ た。 ﹁ふう﹂ 羽ペンを机に置いて、背凭れに身体を預けた。しばらくぼんやり と天井を眺めてから、机に広げた本に目を向けた。 書庫の奥の奥、一体いつ買ったのかも解らない程に放置された本。 それに目が留まったのは全くの偶然だった。 無造作に投げ置かれていたところを見るに、入手してから見向き もしなかったのだ。ミューラが日頃﹁整理は大事です﹂と言う理由 が少しだけ分かった。本の上に積もっていた埃を払った時に出たオ ヤジ臭いくしゃみは、心の引き出しの奥にしまっておくこととする。 ﹁まさか、こんなところに繋がる切欠があるとはな﹂ 解らないものだ。 何のつもりでこの本を入手したのか、自分の事だと言うのに今で も不明だ。 だのに、数年⋮⋮いや、数十年も経ってから、こんな形で役立つ とは。 筆を走らせていた羊皮紙を取る。他人には理解が出来ないだろう 走り書き。だが、私にとっては宝だ。四桁に及ぼうかというページ 数を誇る文献にひたすら目を走らせ、重要だと思う事柄を、直感に 全てを委ねて抜粋した結果が、この羊皮紙。 222 一つ一つの単語だけ見れば、ただの文字の羅列。断言してもいい が、その辺の宮廷魔術師程度では理解が及ばない。 私とて、記憶が新鮮な今だから、この単語の集まりを見て理解が 出来るのだから。 ﹁さて、早いところ纏めんとな。そう猶予はなさそうだ﹂ 他人とは違う頭を持つ自信は大いにあるが、詰め込んだ情報量が 多すぎた。 いささか過信し過ぎただろうか。 いや。今はそんな余裕はない。 ﹁確か白紙の羊皮紙は⋮⋮と。ここか﹂ 新たに四枚の羊皮紙を用意する。その際いくつかの本が机から落 ちたのだが、無視だ。タイチに言わせれば﹃華麗にスルー﹄との事 らしい。意味は無視と同じ。語感がとても良く私は気に入っている。 そんな余談はどうでもよい。始めるとしようか。 ﹁アルティア歴四〇〇〇⋮⋮はて、今は何年だったかな? ん、大 事なのはそこではないか﹂ 走り書きから、記憶の断片を繋げ、明確かつ秩序をもって言葉に していく。形が出来てくれば、思考も鮮明になり、考えも纏まって いく。 この文献から得たのは精霊に関するもの。そしてタイチに繋がる ものだ。あのときタイチが聞いた声の主は恐らく精霊だ。 この世界には上級から下級まで数えきれぬほどの精霊が存在する。 だが、精霊の意思を声という明確な形で受け取るなど、普通ではな い。 223 そこから考えれば、タイチが持つユニークマジシャンの特性は精 霊魔術師。私はそう当たりをつけて調査をしていた。 ﹁⋮⋮だというのに、全く物騒な事だ﹂ その仮説が覆される可能性を発見したのは、先述の埋もれていた 文献を読んだからだ。 知的好奇心を大いに刺激されるのと同時に、底知れぬ恐怖も抱い た。 国が滅ぶというのは、本当だ。タイチを脅すのに使った言葉も本 当だ。今のタイチでも、一〇〇パーセントの力で王城に殴り込めば、 そこを破壊し尽くすのに三分とかからないだろう。国の中枢を小細 工なしの正面突破で壊滅できる。力をわざと暴発させれば、城程度 は消し飛ばせる。だからこそ﹁国と戦争して勝てる﹂のだ。 それだけでも桁違いだというのに。 私が気付いた可能性が本当なら。 王都丸ごと、一撃で焦土に出来る。となれば、王城とは規模がま るで違う。 ふと顔をあげて窓の外を見る。 星の光が、差し込んでいる。 ﹁神よ⋮⋮貴方はこの世界を、どうなさるおつもりか﹂ 神など信仰していないが、ついそんな言葉が口をついた。 私がタイチと関わりがあるのは幸運だろう。あやつはまだ少年だ。 私の影響力が及ぶ限りは、手綱を握ってやるつもりだ。 今頃は明日の依頼のために寝ているだろう弟子たちを思い浮かべ、 私は尚も筆を走らせる。 今宵も眠れないだろう。 224 幕間∼レミーア∼︵後書き︶ 予定に無かった話。プロットも無い帰宅時間での携帯一発書きです ︵笑︶ おかしなところがあっても、生暖かい目で見てやって下さい。 因みに、アルティア歴はこの世界の年号です。 この位の規模ならもう一人行けるかも? 誰にしようかな。 225 幕間∼ミューラ∼︵前書き︶ 幕間二つ目。 メインヒロインなのに出番少なかったミューラちゃん救済です。 226 幕間∼ミューラ∼ 昼下がり。日が差し込む窓際で読書をするのが、あたしの日課。 修行に明け暮れる日々に潤いを与える安らぎ。 今日のお伴は、独りで戦う魔術師少女と、王子という身分を隠し て旅を続ける剣士様との甘く切ないラブストーリー。 ⋮⋮今笑ったの誰よ? 髪の毛チリチリにするわよ? コホン。 こういう話は大好きだ。 現実にありえないシチュエーションだからこそ、読む価値がある と思っている。 現実が悪いとは言わない。あたしだって、生きているのは現実だ から。でも、たまにはこういう清涼剤もいい。 これを読んだら、午後からまた修行だ。今日は火の魔術の特訓だ。 炎を長時間燃やす事が出来れば、継続的ダメージを見込めるし、バ リケードにも使える。森と共に生きるエルフは、火属性とは相性が 良くない。ならなんであたしの属性は火なのか。今もってその理由 は解明されていないのだけど。 でも、そんな事は言い訳でしかない。与えられたものがあるだけ、 感謝すべき。 至福の読書タイム。そばに用意しておいたドーナッツをくわえた。 太陽の高さを確認。もう半刻位は読書を堪能出来る。 ここ最近は修行していても、レミーアさんに見てもらう回数は目 に見えて減った。どうやら自分である程度こなす段階まで来たのだ ろう。自分の成長を客観的に見れて嬉しい反面、ちょっぴり寂しさ もある。 もう! そこはもっとぐいっと行きなさいよぐいっと! 女は行 動力よ!? ⋮⋮師であるレミーアさんは書斎にこもって出てこない。恐らく 227 今日は夕食まで出てこないと思う。 見られていないときこそ、その人の性根が露になると、いつぞや か読んだ小説に書いてあった。全くもってその通り。あたしも自分 を律しないといつまでも読書しちゃうし。 さて。もう少しだけ、読んだら修行の準備をしよう。 そう思ってもう一口ドーナッツを食べようと思ったところで、玄 関に人の気配。 はて。 この場所を知っている人間はかなり少ないはずだけど。 間をおかずに、やや乱暴に玄関のドアが叩かれる。ノックという には少し下品だ。 ﹁ここがレミーア氏の家で間違いないか!﹂ 再びノック? の音。 レミーアさんの書斎はこの程度の騒音では中に音を通さない。仕 方ない、あたしが相手するしかないか。ドア壊されても困るしね。 ﹁レミーア氏! 貴殿が家から出掛けぬというのは知っている! 応対してくれたまえ!﹂ ﹁はいはい。今出ますよ﹂ やる気のない声が出たのは不可抗力。折角の読書タイムだったの だから。 ドアを開ける。 立っていたのは長身の優男。身なりから察するに、恐らくは貴族。 後ろに控える従者らしき初老の男性が、あたしの予測に説得力を持 たせた。 ﹁随分待たせるのだな。偏屈と呼ばれるだけはある﹂ 228 ⋮⋮殴っていいかしら? ﹁まあ、良いだろう。わたしはガルレア家が三男、コセイ・ガルレ アだ﹂ ﹁はあ﹂ ﹁聞こえなかったのか? ガルレア家の者だと言っている﹂ ﹁それが何か?﹂ ﹁⋮⋮ガルレア家の人間を玄関先で立たせたままとは。貴様がレミ ーア氏でなけれは罰を与えているところだ﹂ ⋮⋮やっぱ貴族か。居丈高な態度から大方予想はついてきたけど。 まあ、このお坊ちゃんが何を目的に来たのかは大体分かる。 ﹁貴様が開発した魔術、わたしがもらい受けてやろう。光栄に思う のだな﹂ 礼儀を知らないのはあんただ。⋮⋮とは教えてあげない。こんな やつに出す親切心は持っていない。あたしの予測、大当たり。そこ だけは褒めたげる。 ﹁さあ、早く差し出すのだ。本来わたしとこうして直接会話するだ けでも代金を払うべき名誉なのだぞ﹂ どうしよう。困った。 レミーアさんは呼べない。あの人はこういう輩が大嫌い。問答無 用で吹き飛ばしてしまうだろう。上手いことお引き取り願う方法、 何か無いかな。 ﹁む⋮⋮よく見たら貴様エルフか。まだ年端もゆかぬガキだが⋮⋮ 229 許容範囲か。わたしの元へ来るといい。貴様は妾として置いてやる。 これ以上無い名誉だろう﹂ 顔は、まあ、六五点。中身、一点。 決めた。こいつ、ボコす! 一名様、お帰りです! ﹁ふふ。エルフを見ただけで年齢が分かるなんて、優秀な慧眼なの ね﹂ ﹁⋮⋮何?﹂ ﹁あたしが開発した魔術は、その辺のボンクラに扱えるものではな いわ。解っているのかしら﹂ ﹁何だと!?﹂ あーあー。こんな安い挑発に乗っちゃうのか。扱い易くていいけ ど。 ﹁まあ、折角遠路はるばる来たのだし、教えてあげない事もない﹂ ﹁⋮⋮先程の無礼は魔術に免じて不問としてやる。さっさと言いた まえ﹂ ﹁ただで教えてもらえると思っているの?﹂ ﹁何? ⋮⋮貴様、何を言っているのか分かっているのか?﹂ 無論です。 ﹁ええ。簡単よ。あたしに勝てたら教えてあげるわ。悪い条件じゃ ないでしょ?﹂ どんなに適当にあしらっても、負ける気がしない。こいつの魔力 はショボい。まだEランク冒険者の方がデキる。 230 ﹁今から﹃ファイアボール﹄を撃つから、何とかしてみなさい。そ れができたら、あたしと戦う資格があると認めてあげる﹂ ﹁き、きさ⋮⋮﹂ コセイの口が止まる。あたしが本気で撃つと分かったのかな。 ﹁がんばんなさい? 死んでも知らないわよ?﹂ ﹁後悔させてやるぞ!﹂ フラグいただきましたー。 ﹃ファイアボール﹄ 発射。避けない⋮⋮否、避けられない。軌道を変える。掠める。 ファイアボールは空の彼方に飛んでいった。 びびり方が余りに憐れだから、描写は控えてあげよう。まあヒン トをあげると、尻餅と水溜まり。 因みにレミーアさん相手だったら、今の一瞬でコセイは四回死ん でいる。あたしが相手だったことに感謝して欲しいくらい。 ﹁はい、不合格。お引き取り頂ける?﹂ ﹁⋮⋮っ、き、きさ⋮⋮こ、ころ⋮⋮﹂ 殺すつもりだったとでも? まさかあ。そんな事思ってないわ。ほんの少ししか。 ﹁はいはい。早く帰ってね。それとも﹂ 腰の剣を抜いて、コセイの鼻先をちょん、とつつく。 231 ﹁それでもやるっていうなら、相手になるわ。魔法剣士のあたしに 勝てる根拠があるのなら止めないけど?﹂ ﹁ひっ! ひいいい!﹂ 剣メイン、魔術メインと普通は分かれるのだけど、あたしは両方 メイン。あたしみたいなのは結構珍しいらしい。両方やれた方がい いに決まってるよね。 情けない声を出してコセイが去っていく。彼の後ろに控えていた 従者さんが恭しく礼をした。 分かってて止めないとか、手を焼いてるのね⋮⋮。 ちょっとだけウサが晴れたあたしは、戻って読書を再開する。 その後、気持ち良さからつい寝てしまい、修行をすっぽかしたの は忘れさせてほしい。 全く、みんなあいつのせいだわ。 232 幕間∼ミューラ∼︵後書き︶ 太一、奏と出会う前の話。 この出来事があったので、面倒は全て避けようとミューラがレミー アを騙ったのでした。 そんなお話。 因みにミューラは前衛後衛どちらも出来るオールマイティー。 器用貧乏は禁句です。 1000000PVありがとうございます!! 恐ろしい数字になって、かなりビビってます⋮⋮ もっと頑張らねば! 233 いきなりランクアップ︵前書き︶ ようやっと二章のシナリオ見直しに目処が経ちました! 本編の更新開始です。 234 いきなりランクアップ エリステイン魔法王国。 西大陸北部にある、世界一魔術が発達した国家である。世界三大 国家のひとつとして数えられ、世界でも最も有名な国の一つ。 人口は二〇〇〇万人。世界最大の人口を抱えるガルゲン帝国の一 億六〇〇〇万人には遠く及ばず、もう一つのシカトリス皇国の二〇 〇〇万人と同じ程度である。 それでも三大国家と呼ばれる理由は、前述の通り魔術が世界一栄 えているからだ。 魔術によって生活が豊かになった国であり、国民の約八割が基礎 魔術を扱えると言われている。 ガルゲン帝国で初級魔術を扱える者が凡そ四千万人である。世界 中で基礎魔術以上を扱える者の総数が凡そ一億人と言われている事 を考えれば、エリステインの割合がどれだけ高いかが分かるだろう。 世界人口五億人の内二〇パーセントの割合である魔術師人口。そ の内の一〇パーセント以上を、人口二〇〇〇万人の国が占めている。 異常な数値だ。 だからこそ、三大国家として名を馳せているのだが。 勘違いしないで欲しいのが、この国では魔術を扱えなければいけ ない、という訳では無い。魔術が使えなくても村八分にされたり等 は起こらない。ただ先祖に魔術を使えるものがエリステイン魔法王 国に集中しているだけだ。 魔術師人口比率の理由を紐解くと、およそ三〇〇〇年前、エリス テイン魔法王国の成り立ちまで遡る。 現代魔術の始祖と呼ばれる大賢者レスピラルが生まれ、没した土 地。 歴史の教科書、魔術の教科書、様々な文献に数多く登場するその 者は、類稀なる才能を存分に生かし、現代魔術の礎を築いた。 235 彼とその弟子の血が脈々と受け継がれ、世界的にも類を見ない程 に魔術師が育つ環境が実現したのだ。 彼の者の偉業を讃え、その家名﹁エリステイン﹂を冠して旗を揚 げたのが、エリステイン魔法王国である。 現代魔術はもとより古代魔術にも様々な知識を持ち、首都ウェネ ーフィクスは学術都市としても名高い。 世界一魔術に精通するエルフと、魔術学分野では肩を並べるとい われている。 国土の東端、海に面した場所に悠然と居を構える首都ウェネーフ ィクスからは直線距離で大体三〇〇キロ。そこに位置するのが、辺 境の街アズパイア。 どちらかと言えば首都よりも、西大陸東部に存在するシカトリス、 ガルゲン両国との国境が近く、隣国からやってきた冒険者や商人が 中継地点、或いはエリステインでの拠点として頻繁にこの街を訪れ る。 その為面積は小さいながら比較的栄えた街であり、非常に活気に 満ちている。 街の東、西、南側は大草原があり、北側は少し行くと鬱蒼と茂る 広大な森がある。街から少し離れたところには川もあり、雨もよく 降るため農産も活発だ。森があるため、狩猟なども盛んに行われて いる。 辺境としては恵まれた土地と交易によって豊かな街。それが、太 一と奏が拠点とするアズパイアである。 レミーアとミューラに教わった、自分たちが住む国の基礎的な知 識。 この世界で生きていく上ではとても重要な常識的なものだ。 とはいえ、目の前のやるべき事をこなす上ではそこまで必要とす る知識でない事も往々にしてある。 ﹁じゃあこれ、確かに届けましたよ﹂ 236 ﹁はいはい、ありがとう﹂ 人のよさそうな中年の女性に笑顔で見送られ、太一は踵を返す。 ﹁よし。後残り二件、と﹂ 手に持った皮袋を掲げて呟く。 ただいま冒険者の依頼を鋭意遂行中である。 Fランクとして冒険者稼業を再開してから一週間が経過していた。 一ヶ月で三件の依頼を受ける必要がある︵成否は問わない︶Fラ ンク冒険者としては、残り一週間はかなりぎりぎりだそうで、久方 ぶりにギルドに顔を出した太一と奏を見てマリエが心底安堵した顔 をしていた。 お使いがメインと聞いていたからそんなに大変ではないだろうと 思っていた太一と奏。しかしいざ受けてみると、普通は一日で終わ るような依頼は本当に少なかった。 今太一が行っている配達にしても、決して狭くは無い街を歩き続 けて数十件の配達を行わなければならず、また都度荷物をギルドに 回収しに行かなければいけない、かなりの重労働である。 他に受けたものとして、老朽化した家の取り壊しや重い荷物の運 搬等、なるほど腕っ節自慢の冒険者が受けるに値するような依頼が ごろごろとしていた。中には子供の世話や一日二回×五日間の犬の 散歩など、何でも屋かと勘違いするような依頼もあるにはあったが。 ただそんな依頼は当然多くはなく、大体は一般人では厳しい。冒 険者、それも一人では遂行が難しいものばかり。普通は一つ依頼を 受けたら最低でも一日休みを挟むものだと言う。 例えば先述の老朽化した家の取り壊し等は、四人がかりで二日掛 かるような大仕事。重い物の運搬では、一つ数十キロはある重たい 酒樽を倉庫から倉庫へ移し変えるという重労働だ。 但し、それはあくまでも﹃普通﹄の冒険者に言えることだ。 237 太一も奏も、とてもではないが﹃普通﹄とはいえない。 奏が受けた酒樽の運搬は、普通は二人以上で最低でも二日間はか かるものだ。 一人で受けると聞いて、大男が来るのかと思えばやってきたのは 可愛らしい少女。ギルドに依頼を出した酒屋の主人は大きな不安と 疑問を覚えた。あんな細腕で運べるのか。とても鍛えたようには思 えない身体つきなのだから、当然の不安である。 しかし実際仕事が始まれば、酒樽を軽々と二つ肩に掛けて普通に 歩き出した奏に、目を丸くしたのだ。もちろん身体強化魔術を施し た故の結果であるが、魔術が本業ではない酒屋の主人にはそれは分 からない。 重たくて時間が掛かったと言うよりは、往復で時間をとられて結 局終わったのは夕方の手前辺り。とはいえ、二日以上かかるだろう と思っていた作業が当初の半分以下の作業時間で終了し、酒屋の主 人は大層喜んだ。 一方太一が受けたのは家の取り壊し。 ハンマーを用意して依頼主が待っていれば、訪れたのは細身の少 年。 奏の時と同じく、依頼主はギルドを疑った。バカにしているのか、 と。四人がかりで二日はかかると、ギルド自身が言っていたはずな のだ。 だがハンマーを小枝のように軽々と持ち上げ、振り回して家をど んどんと打ち崩していく太一を見て、依頼主は安堵する事になった。 魔力強化は一〇〇の内一〇しか行っていないが、それでも凄まじ い膂力とスピードを発揮できるのだ。 結局ものの三時間で瓦礫の山に変えてしまった太一。半日も掛か らずに済んでしまった取り壊しに、こちらも依頼主は大満足だ。太 一としても、もう一件受けれる、とホクホク顔である。 こういった力仕事を受けては見込み時間を大幅に短縮して依頼を 達成してくる太一と奏に、マリエは相当に驚いた。 238 何かの冗談かと思ったが、依頼状の﹁完遂﹂の項目にきちんとし るしがつけてあり、依頼主の確認のサインも間違いない。中には追 加報酬を支払う、と追記された依頼状もあり、それが彼らの仕事が 完璧である証となった。 これでも相当に遠慮している二人であったが、それでも、一般的 な常識からは逸脱しているのだ。 そして本人達も気付かない凄まじさは、仕事を始めてから殆ど休 息をとらないことだ。この程度の依頼では休む必要性を感じないた め毎日依頼をこなしているだけなのだが、異常なほどのハイスピー ドだという。一度は休んでください、とマリエが進言する程。 一般的なFランク冒険者は、手に余る力仕事は引継ぎを行うとい う。引き継いだ場合依頼は未達となり、失敗に計上される。だが太 一と奏は、このレベルなら失敗するほうが難しい。 そして、今受けている依頼はちょうど十個目である。 奏も今は十個目の依頼をこなしている事だろう。 これが無事済めば、晴れてEランク冒険者となる。Eランク冒険 者に上がるためには戦闘力を測る試験があるのだが、それをクリア できないとは思えない。それは太一だけでなく奏も同様に考えてい る。むしろ今日の依頼を受けた時点で、もうEランク冒険者になっ たような気分でいた。 ふと周囲を見渡せば、街が若干オレンジ色に染まって来ている。 もう夕方に差し掛かって来ているのだ。 ﹁日が暮れるまでには終わらせたいな﹂ やる事そのものは大したこと無いが、移動距離と荷物の数が多い ため一日では捌けないのが常識の配達依頼。 だが施す魔力強化が五なら一日中動いても平気な太一。圧倒的な ペースを保ったまま一日中動き続け、平然としていられる。もうこ の時点で並の冒険者では真似るのも大変なのだが、本人は手加減に 239 手加減を重ねているためそこには至っていなかったりする。 開始時点と全く同じ調子で街を練り歩く。道行く者が太一の小走 りが速い事に二度見してしまう。魔力強化を使っているからこの速 さなのだろうと分かるのだが、人によっては午前中も同じような速 さで歩く太一を目撃しているのだ。まさか日が暮れる直前になって も、朝と同じ魔力強化を維持できるなどとてもではないが信じられ ない。 結局残り二件を十五分もしないで終わらせた太一は、見込み所要 時間二日間の依頼を丸一日で片付けてしまった。 因みに、迷わなかったのは都度道を人に聞いていたからだ。それ も念入りに念入りに。奏に耳だこになるほど忠告されたので、しぶ しぶそれに従ったのである。 実際依頼を終えて、それが正解だったと太一は実感していた。方 向音痴が発揮されていれば、ここまで早く終わらせる事は出来なか っただろう。街中を何度も行き来した事で、街の地理が頭に入って きたのも収穫だった。慣れれば迷わない自信がある。慣れないから 迷うのだ。それでも、筋金入りの方向音痴は道を覚えるのにも苦労 するのだが。 両開きの扉を開けて冒険者ギルドに入る。 見ると、カウンターに腰掛けている奏の姿。どうやら彼女も依頼 を片付けて戻ってきたようだ。カウンターを挟んでマリエと何やら 話し込んでいる。 太一はその背中に向かって声を掛けた。 ﹁終わったか、奏﹂ ﹁うん。太一は?﹂ 振り返りながら答える奏。疲労の色は見られない。特に困難は無 かったのだろう。 240 ﹁お帰りなさいタイチさん。終わりましたか?﹂ ﹁終わりましたよ。はいこれリスト﹂ 配達が完了したら、荷物の受け取り主がサインを書くのだ。それ によって、誰が受け取って誰が受け取っていないかが一目で分かる。 太一が手渡したリストには、全員の名前が記載されていた。 ﹁⋮⋮はい。確かに完了してますね。お疲れ様でした﹂ マリエが少々呆れているのは何故だろうか。 その疑問には、本人が答えてくれた。 ﹁ふう。まさか一週間で、ランクアップの条件を満たしてしまうと は思いませんでした。普通は三件こなすのでもかなりギリギリなん ですよ?﹂ ﹁そうなんですか﹂ ﹁いやー苦労しなかったっすけど﹂ それは圧倒的な性能バカだから言える事である。 何かがあると感じてはいるマリエだが、それを直に見たわけでは ないため判断がつかない。彼らがどんな技術を持っているのか。 ﹁ギルドとしては驚かされてばっかりですよ。貴方達みたいな大型 新人が入ってくるのは、いつぶりでしょうか﹂ ﹁大型新人?﹂ ﹁そうですよ。仕事速い上に不備がありませんから、依頼主からの 評価も高いです。Fランクの依頼とはいえ、そう容易いものではあ りませんからね﹂ ﹁はあ﹂ 241 気の無い返事をしたのは太一だった。楽々こなしたため実感が沸 きにくい。 ここにEランクに中々上がれない者がいなくて良かったと心底思 うマリエ。 それならいっそ、サクサクと上のランクに行ったほうがいいので はないかと思うのは、ギルド全体の総意であったりする。 ﹁では、タイチさんもカナデさんもFランクの依頼を一〇回連続で 成功されましたので、Eランクに上がる戦闘テストが受けられます。 いかがなさいますか?﹂ ふと、最初彼らは﹁戦えない﹂﹁Fランクでも十分﹂というよう な事を言っていなかったか、とマリエは思う。 戦う力が無い事を正直に話す姿からは、自分たちに何が出来るか を計ろうとする必死さが伝わってきたものだ。 しかし今はどこに行けば手に入るのかと思うほどの余裕に包まれ ている。この三週間で彼らに一体何があったのだろうか。 ﹁あ、受けますよ﹂ ﹁そうですね。Eランクに上がっちゃったほうがいいと思うので﹂ テストをクリアする事を疑っていない口調。 果たしてフロックか、それともホンモノか。 仕事振りを見る限り、フロックと思えない。だが、確証までは持 てない。この目で見るまでは。 マリエは頷いて、紙を一枚取り出した。 ﹁分かりました。それでは、こちらの紙にサインをお願いします。 テストの申し込み用紙になりますので﹂ 242 あの時は代筆をお願いした太一と奏だが、今は自分の名前位なら 書けるようになっていた。 因みに奏は簡単な文章ならどうにか読めるようにもなっている。 流石は奏と言った所である。 ﹁はい。確かに。それでは、試験はいつ受けますか?﹂ ﹁今からでも出来るんすか?﹂ ﹁可能ですよ。まあ普通は一晩休んで翌日受けますが﹂ ﹁そっすか。受けれるんなら受けちゃいます﹂ 予想通りの答えに苦笑するマリエ。 テストなど何ともない、と言わんばかりである。 ﹁では、ついて来てください。訓練場で行いますので﹂ マリエは立ち上がる。それに続いて、太一と奏も席を立った。 訓練場はギルドの裏手に設置されている。幅二〇メートル、長さ 三〇メートルほどの、街中にあると考えればそこそこに広いスペー スだ。 刃を引いた剣、槍などの武器や、的にすると思われる藁人形や丸 太などが壁際に無造作に置かれている。 ファンタジーな戦場を思い浮かべ、わくわくしてしまう太一。 ここでどんなテストを行うのだろうか。魔物を倒せとでも言って くるのだろうか。 一緒についてきたマリエの次の行動を待っていると、彼女は壁か ら一振りの片手剣を持った。構えているわけではない。だか妙に様 になっている。どう見ても素人ではない。 ﹁それでは合格基準を発表します。私と模擬戦闘を行って頂き、一 本取れたら合格となります﹂ 243 ﹁え?﹂ ﹁そうなん?﹂ 疑問符を浮かべる太一と奏。 その理由は一点。マリエに戦闘が出来るのか、という事。 彼らの疑問を正確に予測したのか、マリエは微笑み、答えた。 ﹁問題ないですよ。ギルド職員はその職務上必要になる事もありま すので、皆戦闘技術を持っています。因みに私の実力は、冒険者の 基準で言うとDランクといった所でしょうか。ギルド職員が討伐を する事もありますからね﹂ 私も魔物の討伐に行った事がありますよ、とマリエは続けた。 切っ先がゆっくりと掲げられ、半身になって構えを取る。 これだけ見ても分かる。彼女は剣を扱える。 だが。 ﹁じゃあ、俺から。あ、マリエさん﹂ ﹁なんでしょう?﹂ ﹁俺一人で二人とも合格じゃダメっすか? 俺と奏同じくらいの実 力なんですけど﹂ ﹁うーん⋮⋮規定ですから。タイチさんが終わったら、奏さんにも 受けていただかないと﹂ ﹁そっすか。余裕だと思うんすけどね、ホラ﹂ まばたきした瞬間に、太一が視界から消え、ついでに手から剣の 重みも消えていた。 ﹁え?﹂ 244 手を見る。 剣が無い。 太一がマリエの斜め後ろで、剣の刃を掴んで立っていた。 間違いなく、今までマリエが持っていた剣だ。 ﹁あれ? タイチ、さん?﹂ ﹁はいどうぞ﹂ 手の中で剣をくるりと回し、柄の方をマリエに向ける太一。 ﹁あ。どうもありがとうございます﹂ 今のお礼は条件反射。 何が起きたのか、頭では理解が追いつかず目をぱちくりさせるマ リエ。 剣を奪われた。文句なしで太一の勝ち。それは分かる。 ただ、どうやって? 一瞬で埋まるほど距離は近くは無い。 マリエ自身も多少剣の腕に覚えはあるし、反射神経だって動体視 力だって悪くは無いと思っている。 まばたきした瞬間に背後と剣を取られるなんて、思ってもいなか った。 ﹁じゃあ、俺は合格っすか?﹂ ﹁え、あ、はい。そうですね。完敗です。ちょっとびっくりしてま すけど﹂ 実際一本は取られていないが、武器をあっさり奪われ、当たり前 のように背後を取られてしまった時点で力の差ははっきりしている。 普通、Eランクに上がる為に試験を受けに来る者が、マリエから 245 一本奪うなど九割九分無理な話である。 通常の試験では﹁一本を取る﹂のが合格ラインではない。ギルド 職員と打ち合って、実力が一定ラインに達しているかを見るだけだ。 闇雲に剣を振り回すだけでは、下級モンスターにすら通用しない。 ゴブリンにでも遭遇してしまえば、一巻の終わりである。 太一と奏に一本を課したのは、彼らがどれ程の実力を持っている か、ギルドマスターが知りたがったから。 Fランクの依頼をこなす二人を見る限り、EやDで収まるような 器ではないと判断されたからだ。 しかし、Fランクに戦闘を行う依頼は無いため、大体の予測でし かないというのもまた事実。 ﹁じゃあ、次は私ですね﹂ 奏が右手人差し指をマリエに向ける。 つい、とその指が動き、直後足元でガキン! と何かが固まった ような音。そして、マリエは一歩も動けなくなった。 足がすねの上辺りまで氷の塊に埋まっており、地面にがっちりと 根を張っていた。 ﹁⋮⋮! ﹃フリーズ﹄!?﹂ ﹁そうです。失礼しますね﹂ 破壊は出来ない。何と強固な魔術だろうか。 ﹃フリーズ﹄の効果を確認もせず、奏が再び魔術を使用した。ス レンダーな身体がふわりと光る。身体強化魔術だ。 太一よりは遅いスピード。マリエの動体視力でも何とか追える。 それでも相当に速いのだが。 一歩も動けないため、背後に回り込もうとする奏をとめる術は、 マリエには無い。 246 そして、そっと延髄に手が当てられた。 ﹁これでどうでしょう?﹂ ﹁⋮⋮参りました﹂ マリエは剣を投げて両手を上げた。 何もさせてもらえなかった。まさか、これ程とは。 試験に対して一切気負っていなかったのはフロックではなかった。 太一が﹁奏と実力は同じ﹂と言っていたのも本当だった。 Dランクまでの冒険者達の中で、一体何人がマリエ相手に一瞬で 勝利を奪えるだろうか。 実力を測るつもりだったのに、すごすぎて何が何だか分からない。 それが、マリエの偽らざる本音だった。 247 いきなりランクアップ︵後書き︶ 読んでいただいてありがとうございます。 248 三者面談︵前書き︶ ギルドマスターの名前を決めました。 最初から決めとけよって? すみません、最初はここまで物語に絡んでくる予定じゃなかったん です。。 このオッサン、書いてるうちにお気に入りになってきましたw 249 三者面談 随分とご大層な部屋。太一が抱いた素直な感想はそれだ。 現在二人がいるのは、ギルドマスターの執務室。ギルドマスター ともなれば、その方面での権力は相当な物である。中々格の高い相 手が訪ねて来たり、また招いたりもするため、威厳を保つ装いは必 要となるのだ。そこに、本人がそれを好むか否かはあまり考慮され ない。 アズパイアの冒険者ギルド、ギルドマスターといえば、この世界 での恩人の一人。 二人の前に座る小さいオッサン⋮⋮もとい、ドワーフのジェラー ド・ボガートである。 ﹁失礼な事を考えなかったか?﹂ やけに鋭いジェラードに、太一は首を左右に振った。心外だ、と いう気持ちを表情に乗せて。 ジェラードがどう思っているかは分からないが、太一にとっては じゃれ合い程度の感覚である。 ﹁まあ良い。お前達と会うのは久しぶりだな﹂ ﹁そうですね。一ヶ月ぶりくらいでしょうか﹂ ﹁もうそんなになるか﹂ 紙がぱらりとめくられる音が部屋に響いた。 Eランク昇格試験から一夜明けて。ついに討伐や採取の依頼を受 ける事が出来るようになった。 自分たちの生活費の他に、バラダー、レミーアに返す金を稼ぐ。 それにはFランクの依頼だとそこそこの時間を要する。いつまでも 250 借金に心を縛られるのも本意ではないので、とっとと片付けてしま おう、と一致したのが、昨日の夕食のとき。Fランクの依頼達成で 得られる報酬の額を一とすれば、Eランクの依頼だと一気に一〇ま で跳ね上がるのだ。これを利用しない手は無い。 いつもより気合が入っているのは奏。日本では多重債務がどうの と騒がれていたため、とかく﹃借金﹄という言葉に抵抗がある。 Eランク最初の依頼。まずはどんなものなのか感覚を掴むために も、一件受けてみることにした。難しい文章はまだ読めないが、単 語から前後の文章を予測して何とかどんな依頼なのか把握できる奏。 一方太一も、奏から簡単に教わったりしながら、少しずつだが分 かる単語が増えてきている。 さてどうしようか、と依頼書が貼られている掲示板で悩んでいる と、ギルド職員が太一と奏を見付けて呼びつけたのだ。 人のよさそうな中年の男性職員が穏やかな表情を浮かべ、﹁お待 ちしてましたよ﹂と言った。 誰かと約束していた記憶は無い。太一が奏を見て、彼女が首を横 に振った。 首をひねる二人を見て、男性職員は用件を伝えていない事に気付 く。 彼が言うには、ギルドマスターが太一と奏との面会を希望してい るとの事だった。 少しざわつくギルド内。 当然のリアクションである。 ギルドマスターが特定の冒険者に面会を申し込むのというのは、 滅多にあるような事ではない。その逆はそれほど珍しいものではな いが。 つまり男性職員の一言は、太一と奏が何かしらの理由でギルドマ スターに注目されている、とイコールだ。 ただでさえ冒険者として活動を開始してから、たったの一週間で Eランクに上がった今話題の冒険者二人組である。 251 FランクからEランクまでの所要時間が一週間。冒険者ギルドが 今のランク制度を採用してから、歴代でも上から数えたほうが速い ほどの優秀ぶりだ。 太一の事は少し横に置いておき、奏もまた注目される要因である。 若い女の冒険者は珍しくない。奏の美人さが珍しいのだ。彼女自身、 時折向けられる劣情がこもった視線には気付いている。最もそれは この世界に来てから始まったことではないため、問題なくスルーし ているのだが。 太一も奏もあまり目立ちたくは無い。 その割には今まで目立つような行動を取っていた。矛盾している のは、認識がまだ足りなかったからである。 これだけ手加減しているのだから大丈夫だろう、と思っていた二 人だが、実際は飛び抜けて非常識だった。 レミーアが気にしていたのは正にここだ。 いくら太一と奏がずば抜けていても、二人では及ばない事だって 当然あるのだ。他の冒険者から避けられる事態は何としても回避す べきだ。 そこで運が良かったのは、Dランク冒険者と同格だというマリエ と模擬戦闘をする機会が与えられた事だった。 まさかあそこまで呆気なく勝敗が決まるとは。予想外もいいとこ ろである。 Dランク冒険者と言えば、一般的には一人前と呼べる者達だ。 マリエに勝つという事は、一人前冒険者を上回ったといえる。無 論冒険者として求められるのは戦闘力のみではないため、全てが上 回ったとは思っていない。それでも、これは二人にとっては重大な 懸案事項だった。 まして今はEランク冒険者。マリエに劣っていて当然といわれる ランクだ。相当に気を使わなければならないだろう。 昨日夕食後遅くまでその事についても話し合い、出た結果がまず は目立たない事、だっただけに、出鼻をくじかれた形である。 252 そして目の前のジェラードだが、彼は太一と奏が特殊な事情を抱 えている事を知っている。 これで目立ってしまえば、どこからユニーク・マジシャンとフォ ース・マジシャンの情報が漏れるか分からない。 細心の注意を払うべきなのだ。 最初に言い出したのは本人だったはずだ。 わざわざ注目させてまで呼び出すとは、一体どういう事なのだろ うか。 ﹁ふむ。まずはランクアップおめでとう﹂ ﹁ありがとうございます﹂ 奏が頭を下げた。 ﹁このスピードにも驚いたが、マリエを物ともしない戦闘力にも驚 かされたぞ﹂ ジェラードは、手に持っていた紙をテーブルに投げた。 ﹁それは俺達もだよ﹂ 紙に書かれているのはマリエの字。代筆のときに書かれていたも のと特徴が似ていた。 依頼書を見れば、様々な字があった。やはり人によってクセがあ るらしい。 ﹁レミーアに預けてみれば化けてきおって。どの程度腕を上げた?﹂ ﹁んー。黒曜馬と遊べるくらいかな?﹂ ﹁そうですね。あれ位なら脅威ではないです﹂ 253 ジェラードには隠す必要が無いため正直に答える。 太一と奏の回答を聞いて、呆れたようにため息をついた。 ﹁ワシすらも飛び越えおったか﹂ ﹁へ? オッサ⋮⋮ギルドマスターは結構強かったんだな﹂ ﹁なんじゃその意味の無い言い直しは。⋮⋮まあいい。ワシは黒曜 馬を一人で倒す事は問題ない。が、それでも真剣に戦う。あんなヤ ツと遊べると言える時点で、ワシよりも強い﹂ 断定だった。 聞けば、ジェラードは元Aランクの冒険者だという。 Bランクの冒険者パーティで、やっと勝てる目算が立てられるの が黒曜馬という魔物らしい。 因みにバラダー達が終始押し気味に戦えたのは、太一と奏に意識 が向いている黒曜馬に対して奇襲が成功したからだ。正面切って挑 んだ場合、あそこまで余裕の戦闘にはならない。だからこそ、バラ ダー達も一度取り逃がした。 あの出会いは太一らにとって運が良かったが、バラダー達にとっ ても運が良かったのだ。 Bランク冒険者は黒曜馬と一対一の戦闘はやるべきではない。そ れが、ジェラードが簡単に話した黒曜馬の立ち位置だ。 ﹁凄く厄介なやつなんですね﹂ とはいえ、この街に来るときに一撃で仕留めてしまった奏も、ど こか他人事のようだ。 ﹁流石はユニーク・マジシャンにフォース・マジシャンと言ったと ころか。笑うしかないのう﹂ ﹁それだ﹂ 254 ジェラードの言葉に、太一が食いついた。 ﹁俺だって普通じゃないって事は気付いてる。目立たないようにし ようって決めたばっかなんだ。わざわざあんな目立つ真似してまで、 何で俺達を呼び出した?﹂ ギルドマスターからの呼び出しは、前述の通りとても意味を持つ。 一体どんな用なのか。それはとても気になっていた。 ﹁うむ。それはワシも同意見だ。よほどの事態で無い限り露見すべ き事ではないと思っておる。Eランクとなった今、他の冒険者の目 に触れる事も増えてくるじゃろう。その前に、直接話をしておきた かった。強引な形になったのはすまなんだ。ワシも、お前達がここ まで早くEランクになるとは思っておらんかったのでな﹂ いくら膂力やスタミナに多少優れていても、マリエならそのハン ディを技術で埋められる。そう思っていた。 身体能力と戦闘能力は必ずしもイコールではない。そういった常 識を持っていたが故に。 しかし実際フタを開けてみれば、マリエからの報告書には﹁手も 足も出させてもらえなかった。一方的に負けた﹂と書いてあるでは ないか。これが接戦だった、等の報告だったら、ここまで強引な手 段は取らなかった。﹁ギルド期待の新人﹂で幾らでも誤魔化せるか らだ。 才能を持つ者は稀にだが現れるし、﹁ああ、そんなヤツが出てき たのか﹂で周囲が納得する程度には珍しくは無い。このギルドでも、 過去Eランク昇格時にギルド職員と互角の勝負を演じた﹁期待の新 人﹂は何度か出てきたのだから。 太一も奏も、依頼の時よりも強く魔力を行使した。それがマリエ 255 を圧倒する結果に繋がり、ジェラードのほうは慌てて太一と奏を呼 び出した、というわけだ。 ﹁でしたら、もう少し穏便に﹂ ﹁うむ。そう思ったのだがな。拙速なくらいで丁度いいと判断した のだ。お前達の話を聞いてみて、ワシは自分の判断が間違っていな かったと思っておる﹂ ジェラードは目を細めて太一を見た。 あの時は、眼光だけで太一を竦ませたジェラード。だが一ヶ月経 ち、その眼力は一切通用しなくなっていた。 ﹁あのレミーアから教わった以上、手加減の仕方も聞いておるだろ う。お前達は、一般人のつもりで戦って欲しい﹂ ﹁一般人、ですか﹂ ﹁うん。何か遠くなった言葉だよな、それ﹂ ジェラードの言わんとする事を理解し、遠い目をする太一。 一ヶ月前は、自分たちがその一般人側だったのだ。 ﹁仕方あるまい。お前達が下手に力を出すとだな、なまじ力を持っ ている冒険者達からすれば恐怖の対象でしかない。ワシとマリエは ともかく、何も知らん輩からすれば余計にだ﹂ 例えば、魔力を一切操れなかったとして。襲われないから黒曜馬 の真横にいろ、と言われたら全力で拒否する。 普通の冒険者達にとって、太一と奏は黒曜馬である。喧嘩は売ら ないから、と言われていても、近寄りたいとは思われないだろう。 ﹁まあうん、分かるよ。レミーアさんには、一〇〇のうち三〇以上 256 出すな、って言われてる。普段は一〇とかでも十分だって﹂ ﹁マリエと戦った時はいくつ出したのだ?﹂ ﹁二〇。騎士団団長レベルだってさ﹂ ﹁なるほどのう。マリエでは手も足も出んはずだ﹂ 二割の力を出しただけでそれである。大体ジェラードの全盛期と 互角程度だ。 ﹁このギルドを拠点にする冒険者のランクの割合は、大体Eが四割、 Dが三割だ。Cが一割、後はFランクの奴らだな﹂ なるほど具体的にその数字を聞くと、よほど抑えなければ異端と 認定されてしまう。今までの手加減ではダメなのだ。 ﹁バラダーさん達はどうなんですか?﹂ ﹁あいつらか。あいつらはこのギルド唯一のBランク冒険者で最強 パーティ。昨日まではな﹂ ジェラードが何を言いたいのか分かった。彼の視線はずっと太一 と奏を見据えている。 今日からは、最強の座には太一と奏が座る事になる。 本人が望む望まないは関係ない。事実。決定事項だ。 どうやって手加減しようか。二人の脳内をそれ一つが占領する。 凄まじい強さを持つバラダー達をあっという間に飛び越えてしま った事をようやく実感できた。彼らの戦闘能力は多くの冒険者達が あこがれるものだろう。それをぽっと出の子供である自分達が超え てしまった後にどうなるか。 想像もつかないが、少なくてもいい事では無い。 そんな時、ふっとジェラードの周りの空気が緩んだ。 257 ﹁口うるさいオッサンの説教だと思ってくれて構わん。お前達はま だ若い。それほどの力があるのなら、生きていく事そのものに苦労 はせんはずだ。自分を抑える事に疲れたらまあ、ワシに一言言え。 発散の場所くらいは与えてやる﹂ ジェラードという男は、悪い人間ではない。 この忠告も、太一と奏を心配しての事だろう。過分な力だけ持っ たガキだという認識はある。ひとたび使い方を違えればどのような 事が起きるかも、再三に渡ってレミーアから忠告を受けている。 ﹁助かるよマスター。マリエさんには﹃ちょっとデキるからって調 子に乗るなよ?﹄って叱られたって言っておく﹂ ﹁ふむ、なるほどな。悪くない線だ﹂ その一言を聞いた冒険者がいれば、いい具合に勘違いしてくれる だろう。ある程度は、太一と奏をナメて見てもらったほうが現時点 ではありがたいのだ。願わくば、ナメすぎていらぬちょっかいを太 一と奏に出してしまう阿呆が出ない事を。 太一と奏は別に聖人君子ではない。とても心配である。ちょっか いを出した冒険者の方が。そんな事を考えながら、しかし荒っぽい 者が多いのもまた冒険者。その時は、仕方が無い。不届き者がフル ボッコにされないことを祈るのみだ。 因みに太一と奏が本当の意味で調子に乗ったらどうなってしまう のか。思い浮かべて背筋が震えたのは秘密である。 ﹁私達、これから討伐の依頼を受けてみます。何か手頃な相手って いませんか?﹂ ﹁ん? おるぞ。そうだな⋮⋮ゴブリンなんかはどうだ﹂ ﹁うわあテンプレktkr﹂ ﹁何がキタコレよ﹂ 258 ﹁テンプレとはなんじゃ?﹂ ﹁お約束、とか定番、って意味です﹂ ﹁なるほどのう。確かに﹂ 奏の解説に納得したジェラードだが、認識には齟齬がある。 太一たちは、ファンタジーのお約束、という受け取り方。 ジェラードは、冒険者として幾度も相手をする定番、という意味。 別の世界同士の常識故の違いだろう。だが会話そのものは妨げら れていない為、その認識の違いには気付かない。 ﹁ゴブリンは群れている上に粗末だが武器も使う。野獣よりは頭も 良いでな、ひよっこには厳しい相手だ。こやつらに返り討ちにあっ て命を落とす冒険者も珍しくない。まあ、こやつらに勝てるように なったらEランク冒険者としては一人前だな﹂ 見た目は人型。背は一メートルを少し超えたくらい。紫の肌をし ていて、ぎょろりと動く三白眼が特徴だという。体毛は無く、オス メス共に丸裸で何かを纏う習慣は無い。繁殖力が旺盛で、人族のメ スなら同族他種族相手を選ばない。時折人間やエルフなどの女をさ らって繁殖する事もあるという。生まれた子供は一年足らずであっ という間に大人になる。 どこから沸くのだと思うほど、倒しても倒しても現れるという事 だ。 ﹁試しにやってみるといい。実際の冒険者が相手にする魔物がどう いうものなのか、良い経験になるだろう﹂ 普通は、Eランクになったばかりの冒険者が相手に出来る魔物で はない。 だがそこは太一と奏。ジェラードは採取の依頼を適当にでっち上 259 げて、秘密裏にゴブリンの討伐に行かせるつもりである。 その旨を太一たちも了承し、話は決まった。 ﹁お前達、チームを組んではどうだ?﹂ チーム。 バラダー達と同じものだろうか。 ﹁どの道単独行動することは少ないだろう? 常に一緒に依頼を受 けるなら、チームを組んでしまったほうが何かと便利だぞ﹂ それはその通りだ。しかし、どうすればチームを組めるのかは分 からない。冒険者になった時はチームを組む気は無かったし、マリ エからも説明はされなかった。 ﹁まあ、詳しい事はマリエから聞いてくれ。ワシも次の予定が詰ま っているのでな。そろそろお開きとしよう。職員にゴブリン退治の 依頼書を渡すように言っておく﹂ ギルドマスターが暇なはずが無い。 わざわざ時間を作ったという事だろう。 この世界に来て、随分と人の厚意に触れた。本当に、運が良かっ たのだと思う。 ﹁分かりました。では、失礼します﹂ 立ち上がり、一礼する奏。﹁サンキュー﹂と相当ラフに挨拶して 奏にわき腹を小突かれる太一。 彼らが去り静寂を取り戻した執務室で、ジェラードは自身の立派 な椅子に腰掛けた。年季の入った椅子がぎしりと音を立てる。 260 ﹁不思議な奴らだ。全く持って面白い。これだから、冒険者はやめ られんな﹂ あれほどの実力だ。全てを見下しても問題ない。だが、奏の方は とても謙虚だし、太一の方もざっくばらんではあるが、年長者に対 しての礼儀が失しているわけでもない。 あれくらいの若者冒険者は血気に逸っているのが通常だが、彼ら にはそういったところは見られない。 ジェラードの興味は尽きなかった。 ◇◇◇◇◇ 丁度昼前。ギルドは大分閑散としていた。午前中に依頼を受けた 冒険者達は殆どが出かけてしまったのだろう。数人がいるだけだ。 彼らはテーブルに座って食事をしている。ここでも簡単に食事を摂 れるのだ。 棚で書類を見ながら仕事をしていたマリエを呼び寄せる。 ﹁あら、タイチさん、カナデさん。聞きましたよ、ギルドマスター に呼ばれたんですって?﹂ 難儀ですねえ、と苦笑いのような笑みを浮かべるマリエ。面倒事 があった、という方向に持っていくようだ。彼女も相当頭の回転が 速い。 折角お膳立てしてくれたのなら、乗らない手は無かった。 261 ﹁そうなんです。ちょっと出来るからって調子に乗るな、って延々 とお説教されましたよ﹂ 奏も苦笑いを浮かべる。無論演技だ。 ﹁なるほどですねぇ。まあ、確かにEランクになるのは驚くほど速 かったですからね。ギルドマスターもちょっと忠告したかったんで しょう﹂ あらかじめ打ち合わせをしていたのではないか、と思うほどに自 然な会話。 ギルドマスターに呼ばれた、という一言で集まった注目も、今は 完全に散っている。恐らくは、久々に﹁期待の新人﹂が現れた、と いう線で落ち着くだろうと思う。人数は多く無いが、それでも何人 かがいる場所で布石を打つ事が出来た。 ﹁それでですね。私達チームを組みたいんです﹂ ﹁ああ、なるほど。Eランクになりましたもんね﹂ チームを組むには簡単な手続きで完了する。 チームを組んでいると、チームメンバーの平均ランクが、そのチ ームそのもののランクとして扱われる。 ザ○リクやフェ○ックスの尾といった都合のいい物は無い現実の 世界。自分と同じランクの依頼を、複数人で受けれればそれだけ死 の危険が減る。 更に、チームメンバー全員の依頼達成回数に計上される。デメリ ットは複数で受けても変わらない報酬額だが、生きていなければ金 も何も無いため、それに目を瞑ってでも、チームを組む意義はある。 但し、実際にそれが生きるのはEランク以降、討伐などが出来る 262 ようになってからだ。具体的にはチームランクの一つ上の依頼を受 ける権利が発生する。それを達成できれば、その分早くランクアッ プも狙えるのだ。 ﹁チーム名は何にします?﹂ ﹁必要ですか?﹂ ﹁無くてもいいですが、便宜上です。つけてる人のほうが多いです よ?﹂ そういう事らしい。チーム名など考えていなかった。 何にしようかと考え込む奏の横で、太一がのんきに言った。 ﹁じゃあ﹃ああああ﹄で﹂ ﹁何その勇者﹂ いわゆるドラゴンを探求するゲームの伝説的勇者である。ふざけ た名前の勇者は勝手に他人の家に上がりこんでは箪笥を物色し、壺 やたるを衆人環視の中漁り、城の財宝を当然のように持って行き、 理不尽な強さを持つパーティメンバーと共にモンスターを蹂躙する 主人公。毒のある言い方をすると人でなしそのものだが、魔王を倒 す世界の救世主のため、誰もが彼らの行為を笑顔の裏で涙を呑んで 讃えるのだ。 因みに太一も奏もあのゲームは好きである。ふと見つけたこの言 い回しが面白く、覚えていたというだけだ。 当然マリエには分からないやり取り。 ﹁では。ああああ、で登録します﹂ ﹁しませんからね!?﹂ ﹁チェッ﹂ 263 露骨に舌打ちするマリエ。冗談だったのだ。彼女とも大分打ち解 けてきた感じがする。 ﹁無くてもいいんですよね? 考えてきますので、とりあえず保留 にしておいて下さい﹂ ﹁分かりました。では保留、と。チームの登録は完了です。他には ⋮⋮﹂ これがありましたね、と、マリエが渡してきたのは一枚の紙だっ た。依頼書である。ジェラードが言っていたゴブリン討伐の依頼だ ろう。 ﹁北の森をそこそこ奥に入ったところにありますので、気をつけて 行って来て下さいね。⋮⋮あ﹂ ﹁ん?﹂ 不意に呟くマリエ。必要なことは大体聞いたはずなのだが。 不思議そうな顔をする太一と奏に、マリエは顔を寄せて声を潜め た。 ﹁出来れば、駆け出しの冒険者っぽい装備を整えたほうがいいと思 いますよ。お二人には、いらないとは思いますが⋮⋮﹂ マリエがちらりと視線を配らせる。 それを追いかければ、なるほど、彼女のいいたい事がよく分かっ た。 ギルド内にいる冒険者は、皆武器と防具に身を包んでいる。皮だ ったり金属だったり、ローブだったりと様々だ。武器も同じで、巨 大な剣やら槍に棍棒。二刀流ナイフなんて通な者もいる。杖も腰に 携える程度の短いものから、身の丈ほどもある長い樫製のもの等。 264 彼らと自分たちを比べてみる。太一と奏は布の服な上に丸腰。E ランク冒険者とした場合、確実に浮く。目立ちたくないと言いなが ら、初っ端からつまずくところだった。 ﹁そうですね。装備は整えていこうと思います﹂ 声を潜められると、ついこちらも潜めてしまう。 習性というものだろう。 ﹁どこかいい店知ってますか?﹂ 奏の問いかけに、マリエは記憶を発掘する。 武器屋防具屋はそう多くは無い。特に駆け出しとして一般的な装 備品を整えるなら、と考え、消去法で残った店の名前を伝えていく。 どうせ装備を整えるなら冒険者として必携の道具も一緒に買い揃え てはどうか、と道具屋の名前も一緒に。 マリエに礼を言ってギルドを出る。 ここから北の森に直行する予定だった。だが、このままで北の森 に行くのは確かに常識外れだろう。太一と奏は装備を整えるため、 行き先を変更する事になったのだった。 265 三者面談︵後書き︶ 書き溜めをどんどん作ります。 読んでくださってありがとうございます。 266 MOBっぽい。︵前書き︶ Eランク最初の依頼に出発です。 267 MOBっぽい。 今根城にしているのは、長期滞在で割引が効く宿屋ミスリル。室 内にあるのはベッドとクローゼット、そしてテーブルと椅子が二脚 と必要最低限なものだけだ。 トイレ、シャワーの水回りは共同。石鹸代わりの泡が出る薬草と タオルは別料金である。朝食と夕食代は宿泊代に含まれている。三 泊刻みで料金が割引かれるため、昨日新たに六泊分のお金を支払っ た。 太一は借りた部屋のベッドに身を投げている。一度宿屋にもどっ てきたのだ。何故かと言えば、休憩がてら武器と防具を装備するた めである。飾って眺めるためのものではない。Eランク冒険者とし て、いかにも駆け出しっぽい格好をするためだ。テーブルに置いて あるのは肩当てと胸当て、そして両腕を保護するガントレット。後 は革のブーツ。全て革製のそれは、店主に﹁動きやすいの﹂と見繕 ってもらったものだ。 そして壁には、鞘に納められた片手剣。いかにもファンタジーら しい武器である。つい先程まで眺めたり触れたりして、ようやく飽 きたのだった。武器屋でもさんざはしゃいだ。やはり太一も男の子 である。 この後の予定は、装備を整えたらロビーで集合。その後屋台を適 当に物色して昼食を摂り、その足でゴブリン退治に出発だ。 ギルドと装備の調達で思ったより時間を使い、気付けば昼の鐘が 鳴っていたのだった。 この世界では、秒刻みどころか分刻みですら時間が分からない。 手段は二つ。太陽と月の位置でざっくり把握するか、朝九時を起点 に約三時間刻みで、夕方六時まで鳴る鐘を聞くか。時間を知る手段 はそれくらいだ。 太一はソーラー充電出来る○︲ショックを着けているため時間に 268 困った事がない。腕時計を着ける習慣の無かった奏はそれを少し後 悔していた。携帯は既に充電が切れて無用の長物と化している。太 一達の持ち物はこの世界ではオーバーテクノロジーが過ぎる。液晶 でソーラーバッテリーの腕時計も然り。普段は袖の下に隠すか懐に 忍ばせている。 因みに学生鞄には、制服や携帯、財布など全て突っ込んでレミー アに預けてある。壊さない、外に出さないを条件に好きに見ていい とも言った。この世界ではどのみち使い途も無いのだから、特に抵 抗も無い。一応携帯はいざ戻れた時に使えないと困るため、厳重に 扱うように言ってあるが。 ミューラとレミーアにはノートと四色ボールペンを一対ずつプレ ゼントした。羊皮紙と羽ペンとは比べ物にならないだろう。ノート の紙質と、ボールペンの滑らかな書き味に、地球のテクノロジーに 対して畏怖に近い感情を抱いていたのが新鮮だった。 ﹁さて。行くか﹂ あの真面目な奏の事だから、きっちり休憩してきっちり準備をし ていることだろう。太一にはとても出来ない。 肩当てと胸当て。ベルトで締め付けて固定する感じだ。これらは 全て布の服の上に重ねて装着する。ガントレットも同じ。苦労する のは革のブーツだ。馴染んでいないためとても硬い。 これがゲームなら決定ボタンひとつで終わるのだが。ローファー は素晴らしい履き物だと知った瞬間だった。慣れないため手間取り ながらも、何とか装備をし終える。 最後に腰に新たにベルトを着け、そこに剣をたばさんだ。武器屋 で剣固定用に売られているだけあり、かなりしっかり固定出来た。 自身の姿を確認したいが、この世界では鏡は宝石並みに貴重な一 品である。こんな片田舎では持っているのは貴族位だろう。大衆向 けの宿屋には期待できない。 269 きちんと準備出来たかは感覚で推し測るしかない。少し考え、め んどくさくなって止める辺りは太一らしかった。 部屋を出てロビーに向かう。 ソファーに座る紺色のローブを纏った黒髪ポニーテールの後ろ姿。 間違いなく奏だ。 ﹁ゴメン待たせた﹂ ﹁ん、だいじょぶ﹂ 立ち上がりながら振り替える奏。そしてお互いに固まった。 ファンタジーな物語の、いかにもMOBな出で立ち。雑魚い魔物 にやられる端役そのものだ。だが、目の前の相手を笑うことは出来 ない。コスプレと揶揄するのも憚られる。自分が思っていることは、 相手も思っていること。そして今の格好こそ、冒険者の駆け出しと して、この世界におけるあるべき姿。つまりは正装である。 郷に入って郷に従った結果なのだから、これを笑えばこの世界の 常識を笑うことだ。 頭では解っている。 解っているが。 こらえるのは、もう無理だった。 ﹁か、奏⋮⋮魔術師デビュー⋮⋮おめ﹂ ﹁た、太一こそ⋮⋮雑魚っぽい⋮⋮﹂ 肩を震わせて必死に耐える二人。 つまり何が言いたいかと言えば。 ﹁似合わない﹂ この一言に尽きる。 お互いに笑い合う二人。 この宿は冒険者も多く滞在している。彼ら先輩冒険者たちにとっ 270 ては通った道だ。﹁あんな頃が俺にもあったなあ﹂と懐かしむ顔を している者もいる。 大体の冒険者はEランクになってから武器防具を用意する。当然 最初から似合うわけはない。 場数を踏み戦士として熟練していけば同時に貫禄も増し、大層な 装備が似合うようになっていくのだ。 ﹁やっと冒険者っぽくなったな﹂ ﹁そうね。ここからがスタートね﹂ コスプレ︵?︶にもようやく見慣れてくると、俄然気合いが入っ てくる。 太一は軽戦士の格好。 奏は純魔術師の格好。 得意な戦闘スタイルが違うため、格好も必然的に異なった。 例えばエリステイン魔法王国の軍隊は、近接戦闘に秀でた騎士団 と、遠距離攻撃に長ける宮廷魔術師部隊がいる。彼らは双方共大き な括りでは﹃魔術師﹄である。 この世界では、戦闘には魔術が必須。それは冒険者になるのに魔 術の適性が必ず求められる事からも分かる。 野獣を相手にするだけなら、多少身体能力に優れた者が戦闘技術 を修めるだけでも何とかなる。だが、驚異となるのは当然野獣だけ ではない。 太一と奏の標的であるゴブリンも、矮小な見た目に関わらず、そ の膂力は成人男性を上回る。それは、ゴブリンが魔力を持ち、意識 的にか無意識かは分からないが、自身を強化してるからである。 魔力を持たないか、持っていても扱えない生き物を野獣。魔力を 持ち、それを多少でも扱える存在を魔物という。 魔物に立ち向かう戦闘職が魔術を必須とする理由だ。 装備をガチガチに固める重戦士、軽戦士にも太一のようにある程 271 度の防御と動きやすさを両立させる者と、防御を捨てて布製の防具 を纏い、機動力を武器にする者がいる。他にもラケルタのような弓 使いもいたりと、物理攻撃をメインとする者でもその得物やスタイ ルで分かれる。 魔術による攻撃を主とする者も大別して二種類ある。奏のように ある程度機動力にも魔力を割く軽魔術師、メヒリャのようにあまり 動かない分、火力重視の砲台をメインとする重魔術師。 物理攻撃職は魔術を補助に、魔術職は魔術を攻撃に。 それらは基礎魔術レベルでは実現出来ない、実戦に耐えうる魔術 を扱えるということ。つまり戦闘職は全員が﹃魔術師﹄であり、そ こから中分類で重戦士や軽魔術師、小分類で剣士や弓使い、魔術師 と分かれるのだ。 その分類で見ると、近接戦闘メインの太一は剣士、魔術が主の奏 は魔術師である。 因みに二人はそれぞれ片手剣、短いスタッフを持っているが、正 直無くても平気である。身も蓋もない言い方をすれば太一は力任せ に殴る蹴るの暴行を加えるだけだし、奏は元々媒体等介さずに直接 魔術を使うからだ。 勿論一般的ではない。 徒手空拳で戦う者もいるが、必ずナックルや鉤爪を着ける。理由 は単純に刃物と比べて攻撃力不足。太一のように桁の違う身体強化 を使える者はまずいない。それだったら、と太一は剣を選んだ。特 に必要な装備では無いが、気持ちの問題だ。気分はRPGである。 魔術師は、媒体を介すのが普通である。杖や指輪、水晶など形は 様々。全てに共通して言えるのは、魔力の増幅と伝導装置を兼ねる ということ。ここで重要なのは伝導である。レミーアに教わった奏 は魔力を操作して具現化させる事に苦労は無いが、魔術師諸兄にと っては悩みの種だ。奏のように扱えるのは極少数派で、大体は具現 化する際に減少してしまう。それを、媒体を中継することで減少を 抑えるのが目的だ。 272 なので二人にとっては武器はもちろん、圧倒的な防御手段を持つ ため防具も正直必要無いのだが、バレない為には仕方がない。﹃冒 険者の一組﹄という扱いが欲しかった。 ﹁行くか﹂ ﹁そうね﹂ 宿を出て街に繰り出す。目指すのは屋台の並ぶ市場だ。宿から歩 いて数分。空腹を刺激するいい匂いがそこかしこから漂ってきた。 ﹁うまそー﹂ ﹁何食べようかな﹂ 二人で物色して回る。串に刺した肉を豪快に炙っている。滴る肉 汁がたまらない。今日の味付けは胡椒と香草のようだ。 何も考えず食指が伸びたが、引き戻した。昨日も食べたのだ。肉 ばかりは奏に禁止されている太一である。 ﹁おう兄ちゃん! 今日は買ってかねえのか?﹂ ﹁あいにく連れに太ったら仕置きだって言われてな。泣く泣く我慢 さ﹂ ﹁ああ! あの別嬪さんかい? それじゃあ仕方ねえな!﹂ はっはっはと豪快に笑う屋台のオヤジ。何度となく訪れたため顔 見知りだ。 ﹁尻に敷かれてんなあ、ええおい?﹂ ﹁円満の秘訣だろ?﹂ ﹁ちげぇねぇ!﹂ 273 一際愉快そうに笑うオヤジに﹁また来るよ﹂と伝えてその場を離 れる太一。 奏はそっぽを向いたまま、しばし太一を無視する。何か機嫌を損 ねるような事をしたかと考えるも、さっぱり思い付かない。丸きり 夫婦の会話だったのに、太一だけが気付いていなかった。周囲の視 線がやや暖かかったのにも、当然気付いていないのだった。 他にも小麦の麺を甘辛ソースで炒めたものや甘味など盛りだくさ んだ。散々歩き回って、結局最初に見かけたパンにハムと野菜を挟 んだサンドイッチとフルーツを購入する二人。フルーツはこの街特 産のメリラというもの。見た目はまんまピンクグレープフルーツだ が、味はパインというと不思議なフルーツだ。とても美味しいのだ が、見た目の先入観があり、太一と奏は違和感も同時に味わえる一 品だった。 歩きながら食べるのも、どうやらこの街では普通のようで、太一 も奏もすっかり慣れてしまった。 ﹁おお、サンドイッチうめえ﹂ ﹁うん。パンが柔らかい﹂ 驚いたのは、このパンが柔らかいこと。さすがに日本の食卓に並 ぶようなふかふかさではないが、我慢できないレベルではない。 固いパンも確かにあるから、作り手によってレシピが違うのだろ う。 メリラも食べ終え、途中で水を買って、街の外へと続く門に向か う。冒険者になってから一ヶ月と強。冒険者らしい討伐の依頼のた めに街の外に出た太一と奏だった。 ◇◇◇◇◇ 274 森までの道は、あえて描写しない。延々と続く草原をひたすら歩 き続けただけだからだ。途中での出来事と言えば、薬草を拾ったり、 角の生えた兎を見かけた位だ。 もそもそと草を食む兎に奏が癒されたりしつつ歩くこと二時間。 目の前に広がるのは広大な森だった。 ﹁木が多いな﹂ ﹁そうね⋮⋮﹂ レミーアの家周りの森は、まあ歩くのに苦労は無い程度だったと 記憶している。だがこの森は、まるで密林を思わせる程の密集具合 だ。 下生えの草も腰くらいまであり、相当歩きにくそうだ。 この中を歩くのかとうんざりする太一の横で、奏が顔を巡らせ、 ある一点で止めた。 ﹁太一、あそこ﹂ ﹁んあ? お﹂ 切り開かれたところがある。 この森には、狩人もやってくると聞いている。恐らくは彼らが作 った獣道だろう。 ﹁助かるな。草切り分けなくて済む﹂ ﹁試し切り出来なくて残念じゃない﹂ 剣の柄に手を置いていた意味がバレていた。図星を突かれたので、 275 とりあえず黙っておく。その行為が認めると分かっていても、だ。 奏には隠し事は出来ないのだ。 太一が先頭になって進んでいく。途中でちらほらと野獣を見掛け るが、こちらには掛かってこない。太一も奏も、敵対してこない限 りは仕掛ける気はない。 野獣たちは仕掛けないのではなく、仕掛けられなかった。普通こ の森にやってくる人間は、みな警戒心を顕にしている。武器を抜き、 周囲をひっきりなしに観察しながら。彼らを見て、狩れそうだと思 えば、野獣たちは躊躇しないで襲いかかる。 だが、太一と奏は違った。野獣が人間の臭いを感じて気配を潜め て近づいてみれば、二人は既にこちらを見ているのだ。まさか見つ かっているとは思わない獣は足を止める。太一も奏も、特に殺気を 放っているのではなければ、武器すら抜いていない。得体の知れな い相手に警戒していると、向こうはこちらから視線を外して歩いて 行く。慌てる様子すら見せない獲物にただ者ではない気配を感じ、 野生の勘が襲うのを止めさせるのだった。 もちろんその選択は獣たちにとって大正解であるが、そんな事と は露知らない太一と奏は、のんびりと森の中を歩いていく。 小鳥の鳴き声が耳に届く森の小道。肉食らしい獣もいるが、襲っ てこないところを見ると大人しいのだろう。太一はのどかさを満喫 していた。 ピクニック気分は、ふと終わりを告げる。 背後で奏が足を止めたのだ。 ﹁どうした?﹂ 振り返ると、奏が首を右に向け、鬱蒼とした茂みを見詰めていた。 ﹁太一﹂ ﹁ん?﹂ 276 ﹁この先に人がいる﹂ ﹁⋮⋮﹂ そう言われて神経を研ぎ澄ませてみるも、気配は感じない。半径 一〇〇メートル程度なら、遮蔽物があろうとも気付ける位には鍛え た感覚なのだが。 だが、奏の言葉は無条件で信頼に足ると思っている太一は、特に 疑うことなく頷いた。 ﹁良く分かったな。俺はなんも感じないぞ?﹂ 奏は視線を太一に戻した。 ﹁音を読んでたの。多分二〇〇メートル位離れてると思う﹂ ﹁音を読むう? ソナーみたいな?﹂ ﹁うん。ホラ、音って空気の振動でしょ? だから風魔術で何とか 出来ないかなーって⋮⋮何そのうんざりした顔﹂ ﹁いや⋮⋮異世界来てまで理科やるとは⋮⋮﹂ ﹁こんなの一般常識でしょうが﹂ 地球では常識でも、この世界に音が何なのかを説明出来る者はい ない。 ﹁えっと、獣みたいな大きさじゃないから、多分人だと思う。ホン トはレーダーみたいなのを再現出来ればいいんだけど⋮⋮﹂ 奏曰く、レーダーに使われる電磁波の仕組みが思い出せないらし い。つまり思い出せたらレーダーを再現する気満々たったのだ。電 磁波が分からないからと音を持ち出すとか、何でも有りかこいつは ⋮⋮と呆れてしまう。 277 自分の力の強さを棚に上げてそんな事を思う太一だった。 ﹁ん⋮⋮と。一人じゃない⋮⋮一、二⋮⋮九人? 多い﹂ ﹁結構な団体さんだな。こんなとこで何してんだ?﹂ 冒険者パーティなら多くても六人前後。Eランク冒険者でも、そ れだけいればこの森で脅威になる相手は殆どいない。脅威になると すれば、極稀にいるらしい、冒険者を狙った快楽殺人者位だろう。 どの世界にも、そういう人間はいるらしい。 ﹁さあ。大掛かりな依頼でもあったのかな?﹂ ﹁かもしれないな﹂ 冒険者ギルドに来ている全ての依頼に目を通せた訳じゃない。そ んな依頼があったのかも知れない。 ﹁まあ、俺達は俺達でやることあるんだ。向こうは向こうの用があ るんだろ?﹂ ﹁そうだね﹂ 太一はこの時、大して意識せずにそう言った。この森が、街にと ってどういう位置付けなのかをきちんと知らないが故の判断だった。 だがそれは間違っていた。太一と奏が、この出来事の中身を知るの は、もう少し先である。 ◇◇◇◇◇ 278 ミューラはクーフェを持って二階のとある部屋の前に来ていた。 この部屋は特別であり、ある波長の魔力を手に込めてノックしない 限り、中に音が届かない。 これが出来るのは、太一とミューラだけである。魔力操作だけに 時間を費やした太一と、長年レミーアの元で修行していたミューラ だからだ。奏も時間を掛ければ出来ただろうが、彼女は魔力操作と 魔術の修行を両立していたため、波長の制御までは至らなかった。 ﹁ミューラか? 入っていいぞ﹂ レミーアの声を確認して扉を開ける。 部屋の主はいつものように研究をしていたようで、室内は乱雑に なっていた。 ﹁またこんなに散らかして⋮⋮整理しましょうよ﹂ ﹁下手に触るな。私はどこに何があるか分かっているのだ。動かさ れると分からなくなる﹂ 片付けられない人間の言い訳である。 ﹁タイチとカナデには見せられませんね⋮⋮﹂ ﹁何故あの二人が出てくるのだ⋮⋮﹂ とはいえ、散らかしている自覚はあるのか、強くは出れないレミ ーア。いっそ地震でも起きればいいのにと師匠不孝な事を思うミュ ーラだった。 ﹁タイチとカナデが街に行ってもうすぐ一〇日ですね﹂ ﹁そんなになるか﹂ 279 ﹁今頃、何してますかね、あの二人﹂ ﹁ふむ。流石にもうEランクになっているだろう。何か依頼をこな しているんじゃないか?﹂ 確かにあの二人のポテンシャルなら、求められるのがせいぜい力 仕事のFランクの依頼に困ることは無いだろう。 戦闘でも、あれだけの事が出来るのだからパスして当然だ。 ﹁討伐の依頼受けても、街の周りなら敵はいないですね﹂ ﹁うむ。角兎と針トカゲしかおらんからな﹂ 街の周囲で闘う事になる魔物はこの二種類のみ。角兎は、襲わな ければ側に近づいても敵対してこない大人しい魔物だし、針トカゲ は尻尾の鋭い針が驚異だが、尻尾を切ってしまえばただの大きいト カゲである。どちらもEランクになって戦いに慣れれば負ける方が 難しい。 因みに黒曜馬に出会うには、馬車のスピードで一時間程の距離を 街から離れなければ出会うことはない。徒歩では数倍の時間歩かな ければならないだろう。 ﹁後は北の森ですか?﹂ ﹁ああ⋮⋮あそこにはゴブリンとフェンウルフがいるな﹂ ﹁ゴブリンとフェンウルフ⋮⋮タイチとカナデが負けるところが全 く想像出来ません﹂ ﹁私もだよ﹂ ゴブリンはEランクでチームを組んでいれば討伐依頼を受けられ るし、フェンウルフはゴブリンより多少厄介な程度である。どう見 積もっても、太一と奏の相手ではない。 280 ﹁もっと色々な経験をさせてやらねばならんな﹂ レミーアは実践での修行を考える。太一たちは強い。敵を探すの が大変な程度には強い。しかしその強さだけで生きていけるかとな ると、そうも言えないだろう。 もちろん強いに越したことはない。しかし、生きていれば単純な 腕っぷし以外の要素を求められる事も往々にしてある。全てを力で 解決しようとすれば、様々な手段で立ち向かってくる者有無も言わ せず片っ端から叩き伏せることになる。太一と奏の性格上、それは 望まないだろう。 なればこそ常識だけではなく、この世界で生きていくための様々 な要素を知らねばならない。 レミーアは妙案を思い付いた。 一度思い付けば、これ以外にいい案は無いだろう、と思わせる類 いのものだ。 早速準備を始める事にする。 急にこちらを見詰めてくる偏屈魔術師にまた何かをする気だな、 と心構えをするエルフの少女だった。 281 MOBっぽい。︵後書き︶ 読んで頂いてありがとうございます。 282 over run︵前書き︶ ちょっとグロいかもです。 R指定しといてよかった。 283 over run 複数の気配を感じるようになったのは、夕方に差し掛かってきて からだった。 こういった討伐の依頼を受けた冒険者は、ランクに関わらず、日 帰りのために朝早く出発するか、さもなくば夜営の準備をしておく のが一般的だ。暗くなったらこういう森を歩かないで済むように。 野性動物の夜目は、人間とは比べ物にならない。木々という障害 物もあるため、逃げるのも妨げられる。冒険者といえど、油断すれ ば狩られてしまう。 それに対して、太一も奏も、一切不安を感じていない。昼夜関係 なく、野性動物の気配を感じれる事がまず一つ目。野性動物を脅威 と感じることがない、これが二つ目。その気になれば時間を掛けず に森を抜けれる、これが三つ目。最後に、森で暮らしていたからか、 森の中にいることに慣れている。 これらが、森林の中でこれ以上なく落ち着いていられる理由だ。 ﹁いるっぽい﹂ ﹁やっと見付けれたか﹂ 森の中を歩き続けて正味二時間とちょっと。一〇ではきかない数 の気配が、太一と奏に届いている。 ここまでたどり着く途中でやたら牙の長い狼が威嚇してきた。実 戦かと思った太一は、剣の試し切りを兼ねて手頃な木を一刀両断し た。どうやらそれが威嚇になってしまっようで、キャンキャン鳴い て逃げていった。実はそれがフェンウルフだとは、太一も奏も全く 想像していなかったが。 それよりも今はゴブリンだ。少し小高い場所を見付けたので、そ こで息を潜めて様子を見る。パッと見で五〇匹くらい。土が盛られ 284 た穴に出たり入ったりしている。どうやらあそこがコロニーのよう だ。 ﹁⋮⋮キモッ﹂ ﹁同感⋮⋮﹂ グギャグギャとけたたましく喚いている。それがゴブリン同士の 会話らしい。 子供のような大きさで、前情報通りオスメス共に一糸纏わぬ姿。 紫の肌と、ぎょろりとした目がせわしなく動いている。 ぶっちゃければ、キモいので近寄りたくない。 ﹁奏。巣ごと吹っ飛ばしちゃえ﹂ ﹁そうしたいのは山々なんだけど⋮⋮﹂ ﹁ダメか、やっぱ﹂ 奏は腰にぶら下げた大きめの皮袋を見る。ゴブリンを退治した証 拠として、耳を持ち帰らなければならないのだ。今回は全滅が目的 ではないが、数の調査も兼ねるため、出会ったゴブリンの総数のお よそ半分を持ち帰る必要がある。 ﹁しゃあない。切り捨てる。買ったのが剣で良かった﹂ ﹁流石に殴りたくはない?﹂ そう問われて神妙に頷く太一。あれに触れる勇気が出ない。奏も 納得の表情だ。 ﹁奏は適当に魔術撃っててくれ。出来れば逃げ出すやつを優先的に﹂ ﹁ん、りょーかい﹂ 285 ゴブリンが人に害しかなさないのは既に知っている。太一は、一 匹も逃すつもりはなかった。 ﹁短期決戦で行くか﹂ 呟いた太一の身体から、濃密な魔力が溢れだした。真横にいる奏 は圧倒されてしまう。 どうやらゴブリンたちもこの異常な魔力に気付いたようで、殆ど が立ち止まって辺りを見渡している。見当違いなところを見ている あたり、見つかってはいないようだ。 ﹁よっ﹂ 軽く何かに飛び乗るような調子で、奏の真横から太一の姿が消え た。 ﹁ギャバア!﹂ ゴブリン集団のど真ん中で、緑色の液体が舞った。太一が放った すり抜け様の袈裟斬りに、斜めに両断されたゴブリンが二つに別れ て倒れて行く。 ﹁こいつは気分いいモンじゃないな﹂ 嫌悪感も顕に、太一は駆け出した。 一匹切り捨てて分かった。 人型の魔物を倒すのは重労働だ。主に精神的に。 ﹁うえ、吐きそ⋮⋮﹂ 286 返り血を浴びたくないがために、高速で移動しながら一刀の下に 叩き切る。必然的に速度はゴブリンに対しては過剰となった。 ゴブリンのコロニーに、突如として死神が現れた。何をされたの かも分からないまま次々と殺されていく仲間。ゴブリンたちには悪 夢としか思えなかった。 ﹁ギャビ!﹂ ﹁グギャ!?﹂ ﹁グビ!﹂ ゴブリンには視認すら出来ない圧倒的速度の死神だけでも悪夢な のに。彼の者の凶刃が届いていない仲間が、何かに穿たれて次々と 倒れた。 何事か。一匹ではない。一撃で三匹がやられた。 ﹁ギャ? ギャボ⋮⋮﹂ 隣に立っていたはずの仲間を見て呆けていたゴブリンの喉を、何 か鋭いものが貫通する。倒れ際彼が見たのは、水の槍に撃ち抜かれ る、二匹の仲間だった。 ﹁これは、しんどいわ⋮⋮﹂ 水の槍を精製しながら、奏は顔を青くしていた 今使っているのはウォーターカッターを直線で放つもの。ウォー ターランスとでも言うべきか。いや、ウォータービームか。 魔術の片手間にそんな事を考えても、気分は一切不安を晴れない。 太一と同じく人型の魔物を倒す心構えが半端だった奏も、気分の 悪さに襲われていた。 だが、この時ばかりは、奏も目を背けられない。直接剣でゴブリ 287 ンを倒さなければならない太一に比べれば、奏はなんと恵まれてい ることか。 遠くで狙撃するだけでこれだけ辛いのだから、あそこで接近戦し ている太一のしんどさは推して知るべし。太一の為にも、奏は目を 逸らしてはならないのだ。 今度は両手で魔術を練る。戦闘が始まってから三分。太一と奏は 既に半数以上のゴブリンを屠っていた。 ◇◇◇◇◇◇ 血の臭いが森の広場に充満する。夜の訪れを知らせるかのような 不気味な鳥の鳴き声が、太一の鼓膜を揺るがした。周囲を見渡せば、 先程まで奇怪な鳴き声をあげていたモノが、地面を覆うように転が っている。 ふわふわして覚束ない。痺れるような錯覚。右手が握る剣はとこ ろどころ刃こぼれを起こしている。骨ごと叩き伐ったのだから当然 か。地面に触れそうな切っ先。そこから、緑色の液体が滴っている。 剣は緑色に染め上げられていた。 いや、染まっているのは剣だけではない。剣を握る右手も。いや、 腕も。全身も。この鼻を突く不快な臭いは、自分の身体から⋮⋮。 ﹁うっ⋮⋮げほっ⋮⋮!﹂ 腹の底からせりあがってくる感覚に、太一は逆らわなかった。耐 えようとすら思わなかった。外に出しても出しても止まらない。止 めようと思えない。 288 視界が滲む。えずいているのだから当然だ。この苦しさは、吐い ているからだ。決して、心が潰れそうになっている訳じゃない。 ﹁太一⋮⋮﹂ こちらを窺う声。聞き覚えは嫌と言うほどある。 この世界で、太一の心の支えである人物の声。彼女を守る力が欲 しかった。だから、強くなったのだ。 大切な親友だ。彼女を不安がらせてはならないのだ。 戻ると決めた。また高校生活を一緒に送ると誓った。 望みなんて儚いものじゃない。 決定事項だ。 だから。 こんなところで、折れてはならないのだ。 ﹁大丈夫だ⋮⋮﹂ 地面に着いていた両手に力を込めて、上体を起こす。 くらむ頭を振って無理矢理覚醒させる。 肉体的な疲労はない。ゴブリン程度を倒した位で疲れるような、 柔な力ではない。 しかし、起こしたそばから今度は反対に倒れかかる。保っていら れない。 太一の身体を、奏が支えた。 ﹁嘘。そんなんで大丈夫なんて、信じられると思う?﹂ ズバリと斬り込んでくる奏。 ﹁平気だって。ちょっと気持ち悪いだけだよ。吐いたし、大丈夫﹂ 289 ﹁うーそ﹂ 再び切り捨てられる。 ﹁辛いのに辛くないなんて嘘言う人の言葉なんて信じません﹂ 反論したかったが、思い当たる節が多すぎて返す言葉がない。 奏の手が、服が、太一が浴びた返り血に染まっていく。 ﹁ねえ太一﹂ ﹁うー⋮⋮何?﹂ ﹁私達、覚悟足りなかったよね﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁私は太一みたいに直接ゴブリンに触れた訳じゃない。でも、吐い ちゃった﹂ 苦笑い。 ﹁魔物だと分かってるのに、人に近い姿してるだけで、耐えられな かった﹂ 太一を襲う気分の悪さ。その原因はそれだ。 ﹁私達、生き物の命を奪う事すら忌避する国にいたんだよね。まし て、人殺しは絶対にやっちゃいけない国に﹂ その通りだ。たった一五年。それしか生きていないのに、人を殺 めるのはいけないと、理性はおろか本能にまで染み込んでいた。 ゴブリンに刃を幾度も突き立てた。 太一の中で、知らぬ間にゴブリンが人に置き換わっていた。割り 290 切ったつもりでいたのだ。 心が起こした防衛反応。太一が味わっている苦しみはその結果だ った。 ﹁もうゴブリンとか、人型の魔物を相手にするの止める? きっと、 楽になれる思うよ?﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁冒険者は辞めれないけど、受ける依頼は選べるしね﹂ 奏の提案は、とても魅力的だった。 実は、これこそが自分たちが強すぎる弊害だと、二人とも気付い ていない。 少なくとも並の冒険者と同じ実力だったなら、生き残るのに必死 だった。相手が誰かなど、考える余裕など無かった。 太一も奏も強すぎて、命を脅かされない故に起きた事なのだ。戦 いながら、他の事に意識を向ける余裕があってしまったからだ。 しばし考えて、太一は前を向いた。 ﹁いや⋮⋮やろう﹂ ﹁太一⋮⋮﹂ ﹁ゴブリンとか、人型の魔物を倒すことで助かる人がこれから先も きっといると思う﹂ ﹁うん﹂ ﹁折角強くなったんだ。目に届く範囲でいいから、人助け位出来る ようになりたい﹂ ﹁うん﹂ ﹁奏は、それでいいか?﹂ ﹁いいよ﹂ 驚くほどあっさりと、奏は頷いた。 291 ﹁異世界の事だからどうでもいい、なんて、私は思えない。出来る 人助けならやりたいと思う﹂ ﹁そうだな﹂ ﹁こうなる事を、ジェラードさんは分かってたと思う?﹂ ﹁さー⋮⋮。そればっかりはなあ。日本の事は話してないし﹂ ﹁だよねえ﹂ ゴブリンという、ファンタジー定番の魔物と戦うことで得られた のは、報酬の権利だけでは無かった。カネを積んだから得られるも のではない、貴重な気付きだった。ジェラードがこういうものを狙 っていたかは定かではない。しかし、感謝してもいいだろう。 ﹁よし、もう大丈夫だ奏﹂ ﹁うん﹂ すっくと立ち上がり、奏に手を差し出す。彼女は太一を支えるた めに、中腰になっていたのだ。手を取った奏を引っ張り上げて立た せる。 憑き物が取れたような互いの顔を見やって、笑いあった。 直後、ゴブリンの耳を切り取らなければならないことに気付き、 どちらがやるかを喧嘩の末ジャンケンで決めたのは余談である。 どちらがやったのかは、当人が記憶の引き出しにしまい込み、セ メントでガチガチに固めて封印してしまったので割愛する。 ◇◇◇◇◇ 292 目を開けて飛び込んできた景色は、ここ最近は見慣れた天井だっ た。むくりと身体を起こして伸びをする。異世界に来て一ヶ月。ま た豊かさを増した胸元の膨らみが、薄い寝巻きを押し上げてそこそ この自己主張をしていた。 テレビで見掛ける巨乳のグラビアアイドル程ではない。体型に見 合った、奏的に不満の無い大きさである。 ミューラが羨ましがる逸品と言っておく事にしよう。 ﹁んー⋮⋮あふ﹂ 二度寝の習慣が無い奏は、目が覚めた時間が起床時間だ。 ベッド脇のカーテンを開ける。空の彼方が明るくなってきていた。 元から早起きだったが、今日は随分と目覚めが早い。まあ、身体 は睡眠不足を訴えてこないので、特に気にはしなかったが。 隣室の太一はまだ寝ているだろう。掛け布団を蹴っ飛ばしてるん ではなかろうか。 まだ一緒に寝たことは無いため分からないのだが。 ﹁⋮⋮何が﹃まだ﹄よ﹂ 自分のバカな思考回路にツッコミを入れる。紅くなっているのを 誤魔化そうにも、あいにく朝焼けはもう少し経ってからだ。 一緒に寝る。それはそういう事だ。知らないと子供ぶる年齢はと っくに過ぎている。嫌悪感が無いことにも気付いてしまい一通り悶 えてから、ようやっとベッドを抜け出した。 寝巻きから部屋着に着替え、タオルを持って外に出る。向かうの は井戸。目がさめても、顔を洗わないと何となく起きた気がしない 奏である。 まだ大多数が寝てるだろう時間帯。出来る限り足音を殺して歩く。 293 裏口を開ける。その先にある井戸には、先客がいた。 ﹁おはよう﹂ ﹁あら、早いね﹂ 藍色の髪を後ろで結い、頭にバンダナを巻いた素朴な感じの少女 と挨拶を交わす。取り立てて美人では無いが、愛嬌のある笑顔が可 愛らしい娘。 この宿の一人娘、アルメダ。歳も近く、奏とは良く話す間柄だ。 ﹁早いのはお互い様﹂ ﹁まあ。わたしは仕事だから﹂ 一杯に水が汲まれた桶が二つ。最初は驚いたものだ。見掛けに寄 らず力持ちである。 ﹁そうだ。昨日はありがとう﹂ やっとの思いで戦利品を集め、ギルドに戻る頃にはすっかり夜も 更けていた。二四時間営業のギルドに感謝しつつ依頼完了の手続き を終え、宿屋に戻った奏たちを迎えたのは、ロビーを片付けていた アルメダだった。 ゴブリンの血にまみれた二人を見て悲鳴をあげるというオマケも ありつつ、シャワー等の準備を手早くしてくれたのは彼女だ。 寝室に戻る時間も省いて奏をシャワールームに放り込み、太一に は手桶二つと大量の手拭い、更に自分と太一の着替えも用意してく れた。 ﹁ゴブリンの血はその日の内に落とさないと大変なのよ!?﹂ 294 と鬼気迫るアルメダに気圧されて、素直に従ったのは正解だった。 流石に冒険者も多く宿泊する宿の娘。深夜のミスリルはある意味で 戦場となった。 今着ているのはアルメダの服。奏が着ていた服は血がガビガビに なってしまい、臭いも酷かったためゴミとなってしまった。 ﹁昨日は大変だったねえ﹂ 依頼そのものは正直大したことはない。しかし色々な意味で大変 だったのは事実である。 ﹁まあ、仕事だから﹂ 言葉遊び。アルメダは一瞬きょとんとして、その意を察したのか 楽しげに微笑んだ。賢い子だと思う。 ﹁こないだまでFランクだったのに、もうEランクになっちゃって。 それで最初に受けたのがゴブリンの討伐でしょ? ホントに凄いわ﹂ ﹁そうかしら?﹂ ﹁そうよ!﹂ アルメダが両手を握る。 ﹁ゴブリンは簡単に勝てる魔物じゃないわ。Dランクの冒険者だっ て、パーティ組んで行くくらいなんだから。Eランクじゃ、尻込み する冒険者も多いのよ?﹂ ﹁⋮⋮そうなんだ。運が良かったのね﹂ 徒党を組む魔物。個々の力は大したこと無くとも、数が多いとい うのはそれだけで大きな武器である。奏の言葉を安堵と受け取った 295 アルメダは、嬉しそうに笑った。 ﹁帰ってきてくれて嬉しい。生還祝いに美味しいクーフェ淹れるね。 食堂開けるから、後で来て﹂ ﹁ありがとう﹂ 今なら貸し切りよ、と言って、アルメダは宿の中に入っていった。 井戸を見つめて、奏は一人考える。 ﹁帰ってきてくれて嬉しい﹂ ﹁生還祝い﹂ それは、ゴブリンの討伐に出掛けて、帰ってこなかった冒険者が いたことを、奏に理解させるセリフだった。 ﹁帰ったら旨い酒頼むぜ﹂と陽気に笑って出ていって、帰ってこ なかった冒険者。一晩経ち二晩経ち、やがて悟るのだ。﹁ああ。彼 とはもう、会うことはない﹂と。 あくまでもこれは奏の想像である。だが、このような事を経験し た時のアルメダの気持ちは、奏には分からない。確かに冒険者は明 日の知れない稼業である。アルメダにとっては従業員と客だ。だが、 希薄な関係だからと、割り切れるのだろうか。もし奏が、アルメダ の立場だったら。 闘っている最中はそんな事思いもしなかった。 ゴブリンの討伐は、危険な依頼。 どんな魔物だったかを思い出す。口に出せない率直な感想は、﹁ あの程度﹂だ。 太一と奏にとっては、命の危険どころか、苦戦するのが難しい相 手だった。一体自分達にどれだけ縛りをかけたら、ゴブリン相手に 危機感を覚えるだろう。 本当に迂闊な事は出来ない。 296 自分達は異常である。この世界の常識を頭で理解しているだけの 奏。Dランクのマリエを圧倒し、ゴブリンを蹂躙して、漸くその意 味を実感出来た、ような気がしたのだった。 297 over run︵後書き︶ 実力は飛び抜けていますが、あくまで現代日本では普通の高校一年 生。 この話は、異世界ファンタジーを書くにあたって必ず入れたかった の魔法カードから拝借しました。 run ものです。 over 有名なTCG 298 金の剣士︵前書き︶ 誰が出てくるでしょうか? クイズにすらなってないですね︵笑︶ 299 金の剣士 ウェネーフィクス。 エリステイン王国の城下町。他国からは畏怖と敬意を持って﹃王 都﹄﹃首都﹄と呼ばれる、魔術の象徴とされる大都市である。 交流が盛んで、自国他国問わず様々な者が訪れるこの街。活気に 溢れているのが平常のウェネーフィクスは、しかし今は陰鬱な空気 に支配されていた。 首都の玄関口である東の大正門。太一と奏が思い浮かべるのは巨 大な関所と言ったところか。経済活動の活性化のため、広い門戸を 開いているはずなのだが。 現在、入都しようとやってきた者達が長蛇の列を作っていた。 混雑か。 否。 待たされてもせいぜい数時間のこの門で、二回夜を明かすことが おかしい。 門の近くで並んでいた商人の男。彼はエリステインの北側を数ヶ 月かけて旅をし、各地の名産を取り揃えてようやくウェネーフィク スに辿り着いた。 この地を訪れるのは初めてではない。過去数回も、幾分待たされ た記憶があった。 最初の数時間は待つのも予想済み。 半日が経ち、﹁今回は手間取っているんだな﹂と感じる程度。 一晩明けて﹁何やってんだ?﹂と思うようになった。 そして今、二度目の朝を迎えた。限界を迎えたのは彼だけでは無 かっただろう。 最初は小さな不満が燻っていただけ。二日も野宿させられれば、 文句の一つも浮かぼうというもの。火は瞬く間に燃え上がり、今は そこかしこで大炎上だ。 300 ﹁いつまで待たせんだ!﹂ ﹁門番は何やってやかる!﹂ ﹁責任者出しやがれ!﹂ 飛び交う罵詈雑言。彼らの憤りも当然だ。なんの説明も無しに突 如として門が閉ざされ、訳も分からずに待たされる。その間の釈明 は一切無し。 やがて沸騰しきった一部の者が﹁門をぶっ壊すぞ!﹂と騒いだと ころで、城壁の上に人影が見えた。 この門を破壊するなど、常識の範疇では不可能である。高さ五メ ートル。厚さ数十センチの巨大な門だ。表面には強固な反魔術結界 が施されている。宮廷魔術師を一〇〇人集めてようやく突破出来る だろう。 そうだ、やっちまえ、と周囲も囃し立てる。 言った本人とて、出来るとは思っていない。 頭にきて吐いた、言うなれば単なる暴言。 乗っかった周囲も同じ。 説明も釈明も無いまま待たされた鬱憤晴らしだ。 誰もがそう思う中。 城壁の上に立つ者だけが、そうは思わなかった。 ﹁この場にいる者全て、王国に仇成す危険分子の可能性ありと確認 した!﹂ 空気が、固まる。 ﹁全員引っ捕らえろ! 抵抗されたら殺害を許可する!﹂ 固まった空気が、どよめきとなって動き出す。 301 ﹁ドルトエスハイム家の名に於いて、貴様らを拘束するッ!﹂ ドルトエスハイム家。 エリステイン魔法王国の建国以来、三〇〇〇年を支えてきた公爵 家。世界的にも名の知れた貴族。大物中の大物。王族といえど、容 易くは扱えない存在。 普通に生きていたらまず関わりの無い名前だ。 予想外の名に止まる時間。 その時、門が重厚な音を立てて開いていく。 その先に悠然と構えていたのは、二〇〇〇を超える完全武装の騎 兵隊だった。 逃げ惑う人々と追う騎兵。 阿鼻叫喚の地獄絵図を作り出した人物は、満足そうに二度頷いて、 悠然と背を向けたのだった。 ◇◇◇◇◇ このクーフェは、異世界に来て一番美味しいかもしれない。目の 前のカップを見ながら、奏は正直にそう思った。 ﹁どお? 美味しい?﹂ テーブルを拭いて回っているアルメダからそんな声が届いた。 ﹁うん。凄く美味しい﹂ 302 ﹁良かった。クーフェ淹れるの苦手なんだよね﹂ これで? 下手な喫茶店より美味しいのに。苦笑するアルメダを 見ると、今の言葉は本心のようだ。 舌が肥えていると言う気は無いが、少なくても今まで飲んだ中で は五指に入る味だ。 ﹁大丈夫。これならお金取れる﹂ ﹁大袈裟﹂ 大袈裟なものか。 アルメダも満更でもないようで上機嫌になっている。 ちらほらと他の宿泊客がやってきていた。そろそろ街が動き出す 時間帯。奏が普段起きる時間帯でもある。 とはいえ、奏の実際の活動開始はまだまだ先。共に冒険者をして いる面倒臭がりな少年が起きてからだ。 多少の寝坊なら大目に見るが、度が過ぎるなら叩き起こそう。そ んな事をちらりと考えつつ、目の前の絶品クーフェに舌鼓を打つ奏。 一時間が経ち、二時間が経ち。朝食を摂って部屋に戻って身嗜み を改めて整えて。 奏は今も食堂でのんびりしていた。 太一の朝は遅い。流石に奏と約束していれば、そこそこきちんと 起きるのだが、何もない日はぐっすり寝る。 本当に良く寝る。 呆れる程良く寝る。 結果として、太一が起きたのは午前九時の鐘を目覚ましにしてだ った。 ﹁ふあああぁ⋮⋮﹂ 303 盛大な欠伸をしながら食堂に降りる太一。アルメダとお喋りに興 じていた奏が太一に気付き、思いっきり呆れた顔をした。 ﹁おはよう奏⋮⋮とアルメダ﹂ ﹁おはよう太一。ぐっすり寝れた?﹂ ﹁おう。お陰様でな﹂ 嫌味に気付け、と心の中で毒づいてみる。 ﹁わたしはついで?﹂ お姉さん悲しいなー、と溜め息をつくアルメダ。 ﹁嘘つけぃ。んなことこれっぽちも思ってないだろ。それと同い年 な﹂ ﹁お! 突っ込み鋭くなったねえ﹂ 定番のやり取りである。奏の﹁またか﹂という顔がそれを物語っ ていた。 ﹁今クーフェ淹れてくるから。ストレートでいいんだよね?﹂ ﹁それでいいよ﹂ 地球にいたときからブラックでコーヒーを飲んでいた太一。最初 はかっこつけであった。苦い思いと顔をしながら、それでも飲み続 け、いつしかブラックを美味しいと思うようになっていた。 因みに奏はミルクを入れる派。コーヒー用のポーションは入れな い。どうやらそこはこだわりのようである。最も、異世界にポーシ ョンはないのだが。 304 ﹁はいどうぞ。生還祝い﹂ クーフェ豆から挽いて淹れたそれは絶品だ。苦手とは思えない。 ﹁サンキュー⋮⋮って、何だって?﹂ ﹁昨日初依頼だったんでしょ? 無事に帰れておめでとー、ってこ と﹂ ﹁そういうこと。ん、何とか無事に戻れたよ﹂ ﹁血だらけで立ってるからびっくりしたよ﹂ ﹁ああ、それはすまんかった﹂ 奏と同様、太一も服を借りた。これはアルメダのお父さんの服で ある。腰回りにそこそこの余裕があるが、まあ着るものを借りてる のだから、文句を言う筋合いではない。 洗って返すのはもちろん、替えの服をもう少し持っておくべきだ と思った出来事でもあった。 ﹁この時間まで宿にいるってことは、今日は休み?﹂ ふと周りを見渡せば、数人の冒険者らしき人物が、思い思いに寛 いでいた。 冒険者が、一回依頼を受けたら休みを取ることは知っている。普 通に考えれば、連続で依頼をこなすのはかなりしんどいのだ。 だが。 ﹁いや。俺は今日も依頼受けに行こうと思う﹂ 太一の言葉を聞き、その意味を理解したアルメダが目を丸くした。 だったら早く起きなさい、と刺してくる奏の視線には気付かない 振りをする。依頼を受けたいという考えは奏も今知ったのだが、そ 305 れについての突っ込みが無かったのはありがたい。 ﹁大丈夫なの? 昨日結構大変だったんでしょ?﹂ 確かに大変だった。精神的に。 しかし肉体的にはピンピンしている。一晩寝れば、回復出来る程 度の疲労しかなかった。 なので、こう答える事にする。 ﹁俺も奏も、体力が一番の取り柄なんだよ﹂ ﹁私は太一ほど体力無い﹂ 彼らの不思議さは体力うんぬんで片付けられるものなのか。 やり取りを見て、アルメダは割と本気で首を傾げていた。 ◇◇◇◇◇ たん、と軽やかな音を立てて、太一が着地した。 ﹁採れたー?﹂ 奏の声が届く。 ﹁おー。採れたよー﹂ 離れた場所にある林の前で屈んでいる奏に向かい、太一は答える。 306 今しがた飛び付いた崖の位置を見上げた。 凡そ一〇メートル。結構高さがあって苦労した。ジャンプが低す ぎたり高すぎたりして、アジャストが難しかったのだ。 結局狙った場所にしがみつけたのは、都合四回目のジャンプでだ。 切り立った崖に生える香幻花。受領した採集依頼のひとつだ。普 通は強化魔術を施して、落ちないようしっかり崖にしがみついてよ じ登る依頼だが、太一は崖を見て﹁余裕で届く﹂と判断したため飛 び付いたのだ。 加工して粉末にすると、幻惑効果を発揮するらしい。魔物にも効 果的で、より優位に立つために冒険者も利用する便利アイテムの元。 このアイテムは中々高価らしく、報酬も結構割がいい。最も、力業 で捩じ伏せる事が可能な太一に、必要性は感じない。 ﹁そっちはどう?﹂ ﹁いい感じ﹂ ナイフで地面を掘っていた奏が振り向いた。土に汚れた手袋を外 し、腕で汗の滲む額を拭う。 籠にはとある植物の根が集まっている。こちらも上々のようだ。 マギの根っこ。煎じた液体は、避妊の効果があるという。夜の町 で働く女性たち必携の一品だ。何に使われるのかを聞いて、太一と 奏はお互いに顔を逸らした。思春期真っ只中の男女である。 この二つの依頼は場所がとても近いためセットで受けられるとて もオトクな依頼だが、掲示板には二日前から残っていたらしい。理 由を聞いて納得した。そこは野獣が多く棲息し、更に猛毒を持つ小 さな蜘蛛が大量にいるのだという。 毒という言葉に怖じ気づいた太一と奏だったが、受けてみれば大 したことはない。結界を張っていれば、蜘蛛の牙など恐れるに値し なかったのだ。 また獣の方も、二人にとっては敵ではない。鋭い牙の野犬に近づ 307 き、頭を撫でて腹を向けさせた。群れていた野犬たちだが、今は少 し離れたところで安心したように寝ている。何故彼らになつかれた か分からない二人だが、野犬たちは﹁強者に逆らうべからず﹂とい う本能に従った結果である。 香幻花も採った。マギの根っこも採集すべき本数は確保した。も ういいだろう。 ﹁はー。これで防具の分取り返したか?﹂ ﹁そうね。まさか一日でダメにしちゃうとは予想外だった﹂ ゴブリンの血で汚れた防具は、もう使えなかった。アルメダに聞 いたところ﹁これは捨てるしかないわね﹂とばっさり言われてしま ったのだ。革や布にとって、ゴブリンの血は天敵だという。 今後は気を付けよう。買ったばかりでゴミとなった防具を見て、 そう強く思った太一と奏であった。 ﹁さあて、けーるかー﹂ 大口を開けて欠伸をする太一に、奏は頷いた。日少し傾いた程度。 人目につかないように強化すれば、夕方頃には戻れるだろう。 ﹁ソナー魔術オッケー。うん、周囲に人はいないよ﹂ ﹁分かった。⋮⋮それマジで便利だな﹂ 太一は近くに寝転がったまま頭を起こした野犬の頭を二撫でして から立ち上がり、前を向いて強化を施す。 ﹁よし出発!﹂ ﹁うん。街はそっちじゃないからね﹂ 308 流石の方向音痴だった。 ◇◇◇◇◇ 冒険者ギルドは静かな喧騒に包まれていた。 このところ二人の少年少女が一週間でEランクに上がり、冒険者 たちの間を賑わせている。もっとも話題に上がるのは奏の方だ。こ の世界では珍しい綺麗な黒髪にすらりとした美人。彼らとしても、 黒髪以外は平凡な太一よりも、奏の話をした方が盛り上がるという ものだ。 そんな彼らにとって、今一番ホットな話の種が、冒険者ギルドの 一角で凄まじい存在感を放っていた。 ﹁おい⋮⋮金の剣士だぜ⋮⋮﹂ 誰かが言う。 ﹁本当だ⋮⋮生きてたのか⋮⋮﹂ 別の誰かが言う。 ﹁相変わらずすげえ美人だなあ﹂ ﹁あいつまだ一五にもなってねえって話だぜ?﹂ ﹁何だよ、オマエそっちの趣味かよ﹂ ﹁バカヤロ、青田買いに決まってんだろ。唾つけときゃあ三年後が 楽しみってもんだぜ﹂ 309 ﹁ハッ、やめとけやめとけ。てめーみてえな凡夫を相手にするオン ナじゃねーよ﹂ ﹁あんだとお!?﹂ ﹁やるかコラア!﹂ ﹁うるせえよバカ共があ!﹂ 話の種になっている少女は、黙ってカップを傾けている。まるで 何も聞こえていないかのように。 ﹁金の剣士がここに来たのっていつ以来かな?﹂ ﹁さあねえ。少なくても半年は見てないね﹂ 彼女の事が気になるのは、野郎共だけではないようだ。別のテー ブルを陣取る女冒険者たちも、口にするのは﹃金の剣士﹄の話題だ。 ﹁また依頼持ってかれちゃうなあ﹂ ﹁そうよねえ。あの若さであんな強いなんて反則よ﹂ 彼女たちはDランク冒険者。かなり長い期間そのランクを続けて いるベテラン。Cランクには上がれていないが、Dランクとしては 腕利きである。 ﹃金の剣士﹄は、彼女たちを歯牙にもかけない腕を持ちながら、 彼女らと同じDランクの冒険者である。 一説では、模擬戦と称してあのバラダーと互角に切り結んだとか 結んでないとか。Bランク冒険者相手に、そんな噂が立つこと自体、 普通ではない。 カップをソーサーに置いてから目を閉じてずっと微動だにしなか った﹃金の剣士﹄が、ゆっくりと目を開けた。 彼女はじっと、ギルドの入り口を見詰めている。 少しの間。 310 数分か、或いは数十秒か。ギルドに入ってきた男女。思わぬ注目 を浴びて戸惑う二人 に、金の剣士が声を掛けた。 ﹁タイチ、カナデ、二週間ぶりね﹂ ﹁タイチ、カナデ、二週間ぶりね﹂ ﹁ミューラ!?﹂ ﹁どうしてここに!?﹂ ギルドとテーブルで頬杖をついてこちらを見ているのは、レミー アの家で三週間共同生活をしたエルフの少女だった。 ほんのりと優雅な雰囲気が漂うのは果たして気のせいだろうか。 ﹁二人の様子を見に来たのよ。レミーアさんに言われてね﹂ 集まる注目もなんのその。ミューラは太一と奏に席を勧めた。二 人は多少周囲の視線が気になったが、それ以上に、久々に会った友 人との再会が勝った。 ﹁レミーアさんに?﹂ ミューラが頷く。 ﹁そう。冒険者として生きるなら必要な知識はたくさんあるから、 あたしが二人に教えてこい、って﹂ ﹁なるほど﹂ 311 確かに知識は必要だ。今は採集や討伐だけだが、じきに護衛や探 索など、依頼の幅も広がって来るだろう。或いは、二人で依頼を受 けるだけでは無くなる事も有りうる。 ﹁今日は何の依頼受けてきたの?﹂ ﹁採集の依頼﹂ ﹁そう﹂ 何を採って来たの? と訊こうとして留まるミューラ。太一と奏 の事だから、Eランクの依頼の難易度はどれも同じに映っているに 違いない。 実際はEランクの依頼でも、難易度はピンキリである。下手なこ とを話させて周囲に余計な印象を与える必要はない。 ﹁明日からはあたしも一緒に依頼受けるわ﹂ ﹁ミューラも?﹂ ﹁ええ。これでもランクDだから。冒険者としては先輩よ?﹂ 彼女も冒険者だったらしい。新たな事実発覚である。ミューラ自 身は言わなかっただけで特に隠していなかったし、太一も奏も聞か なかっただけなのだが。 とはいえとても心強い。腕は立つかもしれないが、冒険者として はひよっこ、という自覚があっただけに。 ﹁分かった。よろしく頼むよミューラ﹂ ﹁私からも是非お願いしたいな﹂ ﹁ええ。引き受けたわ﹂ 何だかレミーアの家で共同生活していた頃を思い、少し懐かしく なる三人。直後、それはたった二週間前の事だったと気付き、三人 312 で笑った。 この時は、三人共気付かなかった。ギルドの奥から強い視線が向 けられている事に。三人は連れ立って、夕食は何にしようかとギル ドを後にした。 313 金の剣士︵後書き︶ このところ筆がよく進みます。そういう時はサクサク更新します。 更新間隔が空いたら﹁詰まってやがるm9︵^д^︶プギャー﹂と 思っておいて下さい︵笑︶ 読んでくださってありがとうございます。 314 どの世界にも、イチャモン付けてくる人はいる。︵前書き︶ 鉄板。テンプレ。お約束。 分かってても、書かずにはいられませんでした。 315 どの世界にも、イチャモン付けてくる人はいる。 ミューラと合流してからは、あちらこちらで声が掛けられた。 彼女の容姿と実力はアズパイアではかなり有名なようだった。 ﹁すげえなミューラ。大人気じゃん﹂ ﹁ミューラ可愛いからね﹂ 贔屓目なしに、ミューラは美人である。それは太一はもちろん、 奏も認めている。 自分の容姿がどういうものかあまり理解していない彼女の事だか ら、そういう事を言われても嬉しくないかと思いきや。 ﹁何よ。褒めたって何も出ないわよ!?﹂ と、ツンデレ︵太一談︶の名に恥じないお約束の返事が返ってく るのだった。 照れて紅くなるミューラ。感情を表すのが珍しいのか、街の人々 も皆驚いている。この街にいたとき、彼女がどれだけ無愛想だった かを知らしめるものだった。 アルメダに心底驚かれながらミューラの部屋を奏との相部屋で取 り直し、パパッと夕食を摂って、集まったのは奏とミューラの部屋。 本当は食堂でも良かったのだが、良くも悪くも目立ってしまうミュ ーラが共にいるので、人目のつかない場所に移動したのだ。 ﹁さて。早速動こうと思うんだけど、タイチとカナデは平気? ⋮ ⋮ううん、訊くまでもないわね﹂ 愚問だった。 316 ﹁近い内馬車で少し遠くまで行こうと思う﹂ 少し遠く。 日本にいたころなら。関東から関西まで五〇〇キロの距離も新幹 線で三時間。朝出発して昼には着いてしまう。金と時間さえあれば、 ﹁そうだ!﹂という思い付きで京都に気軽に行けてしまうのだ。し かしこの世界では五〇〇キロは、もう壮大な旅である。 五〇キロの距離だって、細かい差異はあれど一時間で移動できて しまう環境だったのだ。 日本の移動手段の話になったとき、レミーアの家から首都ウェネ ーフィクスまで、ものを選べば二時間掛からないと言ったら大層驚 かれたものだ。 この世界には魔術という便利なものがある。だが、魔術も万能で はない。レミーアやミューラのリアクションを見れば、すぐに思い 至ったのだった。 ﹁どのくらい離れてるの?﹂ ﹁そうね。馬車で二日かしら。ダンジョンに潜るわ﹂ ダンジョン。その妖しくも魅力的な響きに、太一はビビッと来て しまった。 ﹁ダンジョン? どんなところなの?﹂ 辛うじて響きに騙されなかった奏が問い掛ける。 ﹁そうね。五〇年前は炭坑だったところよ。盗賊が塒にして罠が仕 掛けられまくった挙げ句、今は魔物の巣窟になってて、危険なとこ ろ﹂ 317 ﹁罠! 魔物! みなぎってきた!﹂ ﹁うっさい﹂ 騒ぐ太一を奏が一喝して黙らせる。 ﹁アズパイアから街道を西に向かうと村がある。そこからダンジョ ンに入ることになるわね﹂ ﹁なるほどね。馬車ってそんな頻繁に出てるの?﹂ 片道二日。そうおいそれと行ける距離ではない。 ﹁大丈夫よ。向こうの村にとっては、この街での買付は死活問題だ から。半月に一度は出てるの﹂ なるほど。それなら納得である。 目的の村はユーラフ。炭坑での採掘がメインの収入源。しかしミ ューラが言った通り、凄まじい危険が伴うのだ。だから定期的に冒 険者など腕の立つ者に潜ってもらう必要がある。かなり危険で対象 を選ぶため、炭坑探索の依頼は常に出ていると言うのだ。 掘り出した鉄鉱石等は武器防具の原材料でもあるため、冒険者側 にとっても重要だ。持ちつ持たれつの関係と言うわけだ。 ﹁次の馬車がいつ来るかにもよるけれど、そう待たないはずよ﹂ 確かにどんなに待っても二週間。そこまで待つものでもない。そ の間依頼を受けていればいいのだ。 ﹁なあミューラ﹂ ずっとダンジョン攻略の妄想をしていたらしい太一が、ふと問い 318 掛ける。 ﹁どうしたの? 何か分からなかった?﹂ ﹁んにゃ。その依頼って冒険者ランクはいくつだ?﹂ ﹁えっと、Dね﹂ ﹁あらー。そんじゃ無理だな﹂ 心底残念そうに言う太一。太一も奏も、今のランクはEだ。力尽 くで最速攻略記録も樹立出来る実力を持っているが。 ﹁忘れたの? チーム組んでれば、一つ上のランクの依頼も受けれ る事﹂ ﹁﹁あ﹂﹂ 完全に忘れていたようだった。 ﹁それに、あたしも二人のチームに入れてもらうからね。実力的に は十分の筈よ﹂ ﹁十分っていうか⋮⋮﹂ ﹁下手な盗賊集団より脅威じゃね、俺ら﹂ 太一。 奏。 ミューラ。 どこの貴族領を滅ぼす気だろう、とは言わないミューラだった。 ◇◇◇◇◇ 319 予定としてはまずミューラのチーム加入手続きと炭坑探索の依頼 受領。そしてユーラフの馬車がいつ来るかの情報収集。馬車がすぐ 来るならその準備。来ないなら手頃な依頼をこなす。 行動は至ってシンプルだ。 ﹁ミューラさんが加入、ですか⋮⋮﹂ 疲れた様子で、マリエが呟いた。太一と奏はどれだけ人を驚かせ れば気が済むのだろう。昔の事とはいえ、元Aランクのジェラード を軽く越える実力を持つのに加えて、この冒険者ギルドで最も目立 つ存在であるミューラとチームを組むなんて。 ﹁あれ、何か不味いすか?﹂ ﹁そんなことは無いです⋮⋮手続きは名前を書くだけですし﹂ ミューラとチームを組む意味を、いやチームを組める意味を、太 一と奏は分かっているのだろうか。 太一の後ろで談笑する奏とミューラ。どうやら知己のようだ。何 も心配していない彼女たちの様子を見て、﹁分かってないな﹂とか ぶりを振るマリエ。太一はマリエのリアクションの意味が分からず、 首をかしげるばかりだ。 ﹁はい。これでミューラさんはタイチさんのチームのメンバーにな りました。他に何かありますか?﹂ ﹁これ受けます﹂ 320 さらっと渡されたのは、ユーラフの炭坑探索依頼書。マリエはめ まいがした。 Dランクにおいて最も難易度と危険度が高い依頼である。これを 三人で受けて達成出来るのなら、Cランクの実力十分と断言しても いいくらいだ。 もしマリエだったら、自分と同じくらいの実力者を最低でも六人 は確保したいところだ。 ﹁えーと、ユーラフ炭坑探索ですね⋮⋮はい、確かに処理しました﹂ 疲れたようにカウンターに突っ伏すマリエ。 目立ちたくないと言っていたではないか! そう声を大にしたい気分だった。 ﹁はあ⋮⋮タイチさん。一応言っておきますが、無理はしないでく ださいね?﹂ ﹁分かってますよ﹂ ﹁本当ですかー?﹂ 太一と奏は、Eランクの依頼を二つ受けただけで、五〇万ゴール ドを荒稼ぎしているのだ。もうそれだけて無理どころか無茶苦茶な のだから。 ぶっちゃけマリエの二月分の稼ぎである。 その実力と才能に、ちょっぴり嫉妬しているのも否定出来ない。 ﹁今回は勉強の為なんす。ヤバかったら速攻で引き揚げるっす。命 あっての物種なんで﹂ 全く。口だけはよく回る。そんな風に言われたら、強く出れない ではないか。 321 ﹁⋮⋮分かりました。今回はそれで納得しておきます﹂ ﹁助かります﹂ 太一は軽く頭を下げて、カウンターに背を向けた。 ギルドを出ていく三人の背中を見送る。 と、その三人を追うように、五人の冒険者が出ていった。 ︵まさか⋮⋮ね︶ マリエの予感は、残念ながら外れなかった。 ﹁おい﹂ 後ろから声が聞こえる。自分達に掛けられたものだと思わなかっ た三人は、気にせず目的地に歩いていく。 ﹁おい! 返事くらいしたらどうだ!﹂ 太一の肩が強く掴まれた。がくりと足が止まる太一。常に強化を している訳ではない。強化が無ければ普通の一五歳だ。 ﹁何か用すか?﹂ ﹁ああ。ちょいとテメェに話があんだよ﹂ 振り返った太一が見たのは、屈強な男五人組だった。見れば、全 員がにやついている。正直きもちわるい。 ﹁こっちに、あんたたちと話すことは無いんすけど﹂ ﹁テメェになくてもこっちにゃあんだよ。大人しく言うこと聞きゃ 322 いいんだ﹂ 横柄な。 奏とミューラが騒ぎに気付きこちらを見ている。あまりいい感情 を抱いていない顔だ。 周囲の人々が、太一と五人から距離を取った。 ﹁はあ⋮⋮で、なんすか?﹂ 心底面倒臭げに先を促す太一。 絡んできた先頭の男が、満足げに口を開いた。 ﹁テメェ、金の剣士とチーム組んだんだな﹂ ﹁それが?﹂ ﹁俺たちが先に誘ってたんだぜ? それを横からしゃしゃりでてく るとは感心しねえな。なあ?﹂ 残りの四人も頷いている。ああ、こいつら絡んできてるだけだ。 太一はそう確信した。こういう輩は相手しないに限る。 ﹁縁が無かったんすね。残念。じゃ﹂ 肩を掴んでいた手を払って踵を返そうとする。今度は更に強い力 で腕を掴まれ止められた。少し痛かった。自分で良かったと思う。 ﹁おいおい、心が籠ってねえな﹂ ﹁⋮⋮じゃあどうすりゃいいんすか?﹂ その言葉を待っていたのか、男たちは笑みを深くした。これはロ クなことは言われないな、と感じる笑みだ。 323 ﹁金の剣士と、黒髪の嬢ちゃんを俺たちのチームに移籍させな。そ うしたら、テメェの失礼も大目にみてやらあ﹂ 予想通り過ぎる展開に、ちょっとは捻りが欲しくなってしまう。 ﹁テメェに代わって、俺たちが冒険者のイロハを教えてやるよ。モ チロン夜の方もな!﹂ ギャハハと響く笑い声。 奏もミューラも、嫌悪を隠そうともしない表情だ。 太一ははじめて、力を持っている事に心から感謝した。 ﹁奏、ミューラ。こいつらお仕置きしてもいいよな?﹂ 軽い口調だ。笑みさえ浮かべている。 奏の横で、ミューラが息を呑んだのが分かった。 付き合いの長い奏は分かる。太一の目が笑っていない。あそこま で怒った太一を見たのはいつぶりだろうか。 ﹁あ? テメェ誰に向かって口きいてんだ? ちょっと先輩に対す る礼儀を教えてやるよッ!﹂ 殴りかかってくる男の拳を、左手で受け止める。はっきり言って、 遅い。ビデオのコマ送りかと思うほど。施しているのは一〇の強化 なのだが。 まさか止められると思っていなかった男は、目を丸くした。鍛え ているように見えない太一の腕は細い。 ﹁礼儀か。是非教えてくれるか? 先輩﹂ 324 ﹁ご⋮⋮お、お⋮⋮﹂ 男は顔を赤くして唸っている。動かせないのだ。太一は左手を小 指側にゆっくり捻っていく。 ﹁ぐあ⋮⋮っ!﹂ 関節をあらぬ方向に捻られ、男が苦鳴を漏らした。掴んだ手を離 しながら押してやる。痛みから解放され、男がたたらを踏んで蹲っ た。 ﹁もういいだろ?﹂ 気のない太一のセリフ。これで退いてくれればと思ったが、まだ 甘かった。五人で突っ掛かった冒険者たち。人の往来で恥をかかさ れて黙っているわけにはいかない。人それを自業自得というが、彼 等は退けない。面子がかかっているのだから。 そういうのは割とどうでもいい太一と奏、ミューラにとっては理 解できない感情の揺れである。 ﹁テメェら、何見てやがる! このガキ黙らせろ!﹂ 痛めたらしい右腕を押さえたまま、男が叫ぶ。それに合わせて四 人が一斉に得物を抜いた。たちまち、悲鳴がそこかしこから上がる。 街の中で武器を抜くなど、マナーが全くもってなっていない。 彼等はこうして今までもやってきたのだと、推測するには十分だ った。 ﹁あーあ、抜いちゃった。もう言い訳出来ないぞ?﹂ ﹁抜かせ! ガキ一人に何が出来る!﹂ 325 残りの四人が、最初に殴りかかってきた男と同じくらいの強さな ら、彼等の無力化は問題ない。 ククリナイフを上段に振りかぶって接近してきた男。その降り下 ろしの一撃は、殺す気満々だった。それはマズい。だいぶ腹は立っ たものの、彼等を貶めるつもりはない太一。男の懐に入り込み、ク クリナイフを握る手首を掴んでひねり、ガードの甘いボディにリバ ーブロー。カランと乾いた音を立てて、ククリナイフか転がった。 格闘技など知らないため、強化しているからこその手段だ。 武器を持つ冒険者を、細身の少年が武器も抜かず、目にも止まら ぬ速さで無力化させた。呆気に取られる男たち。いや、この騒ぎを 遠巻きに見詰めていた者たちも同じである。 太一はククリナイフを拾い上げ、悠然と男たちの元に向かう。 ﹁な、何のつもりだ!﹂ ﹁何のつもりかって? 先に抜いたのはそっちだぜ? 俺が抵抗し なきゃ殺す気だったんだろ?﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁殺すつもりだったってことは、殺されても文句は言わないんよな ?﹂ かつて読んだ剣客漫画の登場キャラクターが取っていた構えを真 似てみる。実際に剣の腕が上がるわけではない。この場のイニシア チブを握れたため、少し箔をつけるためのポーズだ。 自分で思った以上に様になっていたようで、彼等は一様に顔を青 くしていた。 ﹁わ、分かった! 俺たちが悪かった! もう見逃してくれ!﹂ 都合のいいことを。 326 別に彼等をどうこうする気はないのだが、もう一言位は言ってお いていいだろう。そんな気がした。 ﹁そうやって助けを求めてきた相手に対して、あんたらは今まで何 と言ってきた?﹂ 返事はない。いや、出来るわけは無いだろう。彼等の振る舞いを 考えれば、答えを聞くまでもないのだから。 太一はククリナイフを肩関節から先だけ使い投擲した。最初に殴 りかかってきた男の足から二〇cmのところに突き刺さる。男が悲 鳴を上げた。 ﹁次は威嚇じゃ済まなくなる。その辺覚えとけ﹂ 縺れる足取りでそそくさと退散する五人組。その姿を見送ってか ら、太一は踵を返す。奏は﹁ナイス!﹂的な顔で、ミューラは﹁意 外な一面を見た﹂的な顔でそれぞれ迎えてくれた。 ﹁あんたやるねえ!﹂ ばしんと背中が叩かれた。 ﹁おふっ!﹂ 思わぬ衝撃に、肺から空気が少し抜ける。 ﹁あいつらを懲らしめてくれてスッキリしたぜ!﹂﹁見たかよあの ツラ!﹂﹁これで少しは懲りてくれるといいわね﹂﹁手がつけられ なくてこまってたんだよ!﹂ 327 四方八方から届く賞賛と感謝の言葉。彼等は色々な人に随分と迷 惑をかけていたらしい。 彼等に抵抗する術を持たない人々からすれば、太一は救世主だろ う。 意図せずならず者にお灸を据えて、一躍ヒーローとなった当の太 一はと言えば。 急に頭を抱えて蹲った。 ﹁やっちまった⋮⋮恥ずい⋮⋮埋まりたい﹂ どうやら結構頭に血が昇っていたようで、自分の行いを思い出し て悶えていた。 随分と人間臭いヒーローを見て、皆思わず笑った。 街角には和やかな空気が流れていたのだった。 328 どの世界にも、イチャモン付けてくる人はいる。︵後書き︶ 土日は随分と書けました。 のでストック二つ目放出します。 329 北の森のメリラ︵前書き︶ ダンジョン期待されてた方ごめんなさい。 こういうプロットだったんです。 330 北の森のメリラ 次の定期馬車は大体二日後。 立ち寄った道具屋の主人に、炭坑探索の依頼を受けたと話したら 教えてくれたのだ。聞けばユーラフとは昔から取引があるとのこと。 薬草や干し肉、水を入れる革の袋等を買い込む。定期馬車は食事 等を出してくれるわけではない。利用者が自分で用意するのだ。そ れを忘れてしまうと、味わうのは空腹と喉の渇き。恵んでくれる人 も稀にいるそうだが、それはそれて恥ずかしい。 二日分の食料。結構な量だった。 荷物がたくさん入る魔術が施されたものもあるにはあるが、物凄 く高価。アズパイアのような辺境の街にはそもそも置いてない。 最もかさ張るだけで、重さそのものは問題にならないのだが。 馬車が来る日までは適当な依頼をこなしつつ。 さあ出発しようかと馬車が来る西の門へ向かう途中で、見知った 顔が前を横切った。 ﹁あれ。マリエさんじゃないですか﹂ ﹁あっ! タイチさん! カナデさん! ミューラさん!﹂ こちらを見つけたマリエが、安堵の表情を浮かべて駆けてきた。 何だろうか。 思わず面食らっていると、マリエは太一、奏、ミューラの顔を見 渡した。 ﹁ギルドへ来てくれませんか?﹂ ﹁えっ?﹂ マリエの言葉にもう一度面食らう三人。今は依頼遂行中である。 331 ただ﹁はい分かりました﹂とは言えない。 ﹁ちょっと待って。あたしたちこれからユーラフに行かないといけ ないのよ?﹂ その依頼を受理したのは他ならぬマリエである。 ﹁分かっています。ギルドの都合ですから依頼失敗にはなりません。 是非三人にお願いしたいんです﹂ 何となく断りづらい空気が漂う。わざわざ探しに来たということ は、状況に余裕が無いと解釈することも出来る。 ﹁行こう。太一、ミューラ﹂ ﹁ん﹂ 奏の言葉を間髪いれずに肯定する太一。あれだけはしゃいでいた のに随分な変わりようだ。 ﹁⋮⋮仕方ないわね。炭坑は別の機会に行こうか﹂ 予定が乱されてしまったが、まあ、こんなこともあるだろう。美 麗な眉を一瞬だけ潜めて、ミューラは気持ちを切り替えた。 マリエに連れられて入った部屋は、ギルドの会議室である。 そこには数人の男たち。そして、ギルドマスター、ジェラード。 彼がいる時点で、何やら良くない臭いを感じる。 男たちも関係者だろう。彼等はみな、よく日に焼けた顔をした中 年の男だった。 ﹁ほう。間に合ったか。でかしたぞマリエ﹂ 332 ﹁久々だなジェラードのオッサン﹂ ﹁はっは。お前の無礼さが逆に新鮮だな﹂ アズパイア有数の実力者であるジェラード。太一のように恐れも なく馴れ馴れしくする者はそういない。 ﹁で、どんな用なんですか?﹂ 流れをぶった切ってミューラが前に出る。いつぞやか、エルフと ドワーフの仲は良くないと聞いた気がする。だが、ミューラ個人は ドワーフを特別敵視していない。予定を乱されたからだ。 ﹁うむ。彼等の依頼内容を聞いてな。お前たちが適任だと判断した。 ワシの権限において発令する、ギルドからの指名依頼だ﹂ 指名依頼。 失敗の許されない依頼が来たときに発生するものだ。ギルドが依 頼を必ず解決出来ると太鼓判を押す冒険者が選ばれる。即ち、この 冒険者は優秀だと、ギルドが公式に認めることに他ならない。 太一たち三人はDランク冒険者チーム。異例中の異例だ。 ﹁あたしたちが適任?﹂ ﹁どういう事です?﹂ ﹁そう急くな。それも説明してやる﹂ ジェラードは男たちを一瞥した。 ﹁もう予想は着いてると思うが依頼主は彼等だ。依頼内容は北の森 の巡回警備の護衛と密猟者の捕縛の補佐、そして密猟者を護衛する 魔術師の撃退。報酬は五〇〇万ゴールド。一〇〇万ゴールドは先渡 333 しだ。期間は密猟者の捕縛及び魔術師の撃退まで﹂ ﹁五〇〇万? 二年は働かなくていい額じゃん﹂ ﹁バカ。それだけ困難な依頼って事じゃない。犯人見つからなきゃ いつまでもやるのよ?﹂ ﹁あ、そうか﹂ 因みにこの報酬額は、長引いた場合の補償も含まれている。内容 を考えればそこまで破格ではない。農家団体と街が身を切って捻出 した額である。 ﹁因みに何が密猟されてるんですか?﹂ 北の森で何か採れると聞いたことはない。せいぜい猟師の狩り場、 そのくらいだ。 ﹁市場で買い食いせんかったか? メリラだ﹂ ﹁メリラかあ﹂ あのパイナップル味のグレープフルーツ。他の果物の三倍はする 値段だが、瑞々しさと甘さがはまってしまう逸品。太一と奏も何度 奮発したことか。高いと分かっていてもつい食べたくなってしまう のだ。 ﹁アズパイア一番の名産品だ。北の森でだけ採れるんだが、最近密 猟者に乱獲されているのだ﹂ ここ一ヶ月で、値段が倍近くまで高騰した。 街に安くはない権利費を毎年支払うことで収穫に参加できるよう になるという。 そもそも、北の森のどこでメリラが採れるのか、まずその情報料 334 が半端ではない。メリラの農家となるまでに凄まじい投資が必要な のだ。 メリラは簡単には採ることが出来ない。日照量が基準に達しなけ れば実が成らない。少し水が足りないだけで甘さが半減してしまう。 きちんと日が当たるよう周囲の植栽を含めて管理し、水が足りなけ れば川から引く。森の中というのも、畑での栽培よりも難易度が高 い理由だ。 緻密な計画を立てなければ、市場の流通にすぐ影響する。 貴重な果物だと、素直にそう思った。 北の森で採れるというのも、依頼遂行で必要だからであり、この 情報を正規ルートで買おうと思ったら一〇〇万ゴールドはするとい う。 本来もっと高値で売れてもいいのだが、そこは農家と商人の企業 努力の上に成り立つという。 話を聞けば、密猟者が出てもおかしくなかった。 ﹁うーん。確かに重要な案件だと思いますが、わざわざ指名依頼に する理由はなんですか?﹂ ﹁うむ。先程魔術師の護衛がいると言ったな?﹂ 確かに聞いた。 ﹁彼等の仕事仲間の一人が、その魔術師に怪我をさせられた。奴さ んが使った魔術の目撃情報を検討した結果、密猟者の護衛は最低で もBランク冒険者相当の腕前があると判断した﹂ 人が襲われているという情報は、緊張感を生み出すのに充分だっ た。 Bランク冒険者。バラダーたちと同等。魔術師と考えれば、メヒ リャを相手にすると考えた方がいい。確かに、並の冒険者には辛い 335 だろう。 ﹁バラダーさんたちじゃダメなん?﹂ 太一は思い浮かんだ事をそのまま口にしてみる。 ﹁ダメということはない。だがあいにく長期間の護衛依頼に出てい てな。今街にいる冒険者で一番信頼出来る実力者がお前たちだ。こ れは街の名産を守る依頼だ。生半な輩に任せていいものではない﹂ そう言い切って、ジェラードは口を閉じた。どうやら太一たちに 伝えることはそれで全てのようだ。奏とミューラが頷く。この話を 聞いたら、断る理由はなかった。 ﹁分かった。受けるよその依頼﹂ 不安がないわけではない。話を聞く限り、太一と奏にとっては、 この世界に来て初めて相対する強敵である。もしかしたら怪我を負 うかもしれない。 だが、わざわざ名指しされたのだ。腕は立っても経験値が心許な い太一たちに依頼するのは、ジェラードにとっても苦渋だったに違 いない。 自分達が持つ常識外の力、チート能力を信じてみる気になった。 ﹁頼んだ。聞いての通り、あんたたちの護衛は彼等に一任する﹂ やり取りを聞いていれば、それは言われずとも良く分かる。だが、 納得出来るかと言うと別問題。太一たちの倍以上は軽く生きている 農夫たちから見て、太一と奏、ミューラは冒険者気取りの子供にし か見えない。 336 ﹁大丈夫なんですかい? わっぱにしか⋮⋮﹂ ﹁心配いらん。戦闘力は保証する﹂ ギルドマスターの言葉は重い。冒険者でないとはいえ、農夫たち もそれは分かっていたのだろう。 質実剛健の塊のようなジェラードにきっぱりと言われ、反論は封 じられた。 ﹁そうですか。では貴方を信じましょう﹂ ﹁お、おい⋮⋮﹂ ﹁我々は荒事は専門外。だからギルドに依頼したんですよ? プロ の言葉なら、従うのが得策でしょう﹂ そう仲間たちを説得したのは、農夫の仲では比較的若い男。 ﹁私の名はカシム。頼みますよ、若い冒険者さん﹂ ﹁太一だ。こっちは奏とミューラ。解決出来るように努力するよ﹂ 二人はがっしりと握手を交わした。 ﹁⋮⋮?﹂ 太一は違和感を覚える。彼は農夫のはずだ。だが、それにしては。 それぞれと挨拶を交わし、農夫たちはギルドを出ていった。 依頼状を作ってくると言って、マリエが会議室を辞した。残った のは太一たち三人とジェラードだけだ。 ﹁⋮⋮どうしたタイチ﹂ 337 自分の右手を見つめて動かない太一に、部屋を去ろうとしていた ジェラードが足を止めた。 ﹁あのカシムってヤツ、変だ﹂ ﹁何だと?﹂ ﹁太一?﹂ ﹁どういうこと?﹂ 三人の声を聞いて太一が顔をあげる。彼自身も戸惑っていると顔 に書いてある。 ﹁なあオッサン。あのカシムって農家なんだよな? 間違いないん だよな?﹂ ﹁うむ﹂ 力強く頷くジェラード。 ﹁ミューラ。農家が畑耕すとき何使うんだ?﹂ ﹁え? 鍬よ?﹂ 当たり前の事を問われて不思議そうな顔をするミューラ。 ﹁⋮⋮あいつの手、何であんなに綺麗なんだろう﹂ ﹁⋮⋮﹂ ここにいるメンバーは皆賢いし、洞察力も低くはない。太一が何 を言いたいのか理解できた。 太一が見たカシムの手は、農作業に従事する者特有の節くれも無 ければ、掌にタコも無かった。 メリラ農家は、何もメリラだけを生業にしているわけではない。 338 皆自分の畑を持っているし、そこで仕事も当然している。農具を握 らない訳が無いのだ。 もちろん農家になったのはつい最近だからという可能性も無いこ とも無い。 しかしこの世界での常識は、農家は親の畑を継ぐもの。幼い頃か ら修業を兼ねて手伝いも当然するものだ。不自然な要素だった。 ﹁⋮⋮警戒する必要がありそうだな﹂ ﹁そうですね﹂ ﹁タイチにしてはナイスな観察力﹂ メリラ農家側に﹃異物﹄が紛れ込んでいる可能性がある。この段 階で気付けたのは、確かに太一のファインプレーだ。 だが、太一が覚えた違和感はそれだけではない。それが具体的に どういうものなのか説明が出来ないのがもどかしかった。 明日から、本格的に北の森の巡回警備が始まる。 339 北の森のメリラ︵後書き︶ 読んでくださってありがとうございます。 第二章もそろそろ折り返しです。 340 疑心︵前書き︶ なかなか執筆が進みませんが⋮ とりあえず更新。 休日がんばりますね! 341 疑心 巡回初日。 結論から言えば、何も起きなかった。 森の奥にある少し開けた場所に、数十本からなるメリラの木があ った。背はそれほど高くなく、逆扇状に広がる枝の下に、メリラは 実を付ける。 多いなあ、と漏らした太一に、三割は売り物にならない、と農夫 が教えてくれた。 厳密な管理を重ねても、三割が売れない。確かに厳しい。 そう教えてくれたのは、髭面で面倒見が良い男、マギル。 少々神経質ではあるが、メリラ農産に強い誇りを持っているライ テ。 そして誰に対しても腰の低い、マギルやライテと比べて若いカシ ム。 今回のメリラ密猟に対する農家団体の代表者三人。それに、太一、 奏、ミューラを加えた六人で、北の森を歩いた。 メリラの木には、計画ではもうすぐ収穫を迎える実がたわわに実 る頃だという。しかし実際見てみれば、メリラの実は随分と減って おり、木の下には何度も往復したとみられる足跡が無数についてい た。 既にやられた後だったのだ。 愕然とするライテに、言葉も荒く怒りを口にするマギル。失望し たように顔を俯けるカシム。 リアクションの取り方は様々だが、皆小さくないショックを受け ている事が簡単に分かった。 ろくに得たものも無いまま街に戻り、やけ酒を煽るという三人と 別れ、太一たちは宿に戻った。 この日注意深くカシムを見ていたミューラ。だが、今日の行動や 342 仕草、言動を見る限り、怪しい点は無かったという。 まあ初日だから、と気を取り直したのだが、二日、三日と時間が 経ち、一向に何も起きはしない。 メリラも、初日から一切減っていなかったのだ。 ﹁おいおい。密猟者はこんなに大人しいもんだったか?﹂ 流石に焦れてきたようで、マギルがそう溢したのは、北の森の巡 回を始めて五日が過ぎてからだった。 ﹁さあな。密猟者の事なんか知りたくもない﹂ ライテも不機嫌そうに吐き捨てる。 ﹁まあまあ。冒険者の方を雇ってるんですから、見付けたらこちら のものですよ﹂ カシムがそう諭すものの、彼の顔も焦燥の色が濃い。 森に入る度にソナー魔術を使っている奏だが、半径二〇〇メート ルの範囲に引っ掛かるのは野獣かフェンウルフのみ。 密猟者が見付からないのは太一たちのせいでは無いが、何となく 申し訳なく思ってしまう。 ﹁カナデ?﹂ 問い掛けるミューラに、奏は小さく首を左右に振った。 奏も人間だから見落としがあるかもしれないと、太一も周囲の気 配を探っているが、相変わらず進展はない。 今日も不発か。そう考えはじめたところで、奏が太一の腕を掴ん だ。 343 ﹁奏﹂ ﹁太一。メリラの木の近くに何かいる﹂ ﹁密猟者か!?﹂ 奏の言葉は、行き詰まっていた一同にとっては神の啓示に等しか った。 ﹁待ってください!﹂ 走り出そうとしたマギルを、奏が大声で引き留めた。 ﹁何だカナデちゃん! 何で止める!﹂ 振り返り鬼の形相で奏を睨むマギル。奏は更に強い気迫を纏って 受け止めた。いくら強面でもマギルは農夫。一方の奏は現役冒険者。 しかもその辺の有象無象とは訳が違う。結果的に視線のみでマギル を押し返した。 ﹁メリラの木の近くにいるのは、どれも人間の大きさじゃありませ ん。闇雲に突っ込むのは危険です﹂ 勝手に突っ走られたら守りきる自信はない。口にはしないが、偽 らざる本音でもあった。 ﹁⋮⋮チッ。分かった。おれたちはどうすればいい?﹂ ﹁私の側を離れないでください。相手が危険だった場合、太一とミ ューラで無力化します﹂ 戦闘になった場合にどうするか。予め決めていた事だった。 344 桁違いの制圧能力を持つ太一を主力とし、遠近と間合いを選ばな いミューラが遊撃、様々な状況への対応力に最も優れた奏が後方支 援と、万一の退却経路確保。 冒険者として団体での戦闘経験も持つミューラが決めた役割分担 である。 三人がそれを承知したのを確認し、メリラの木の元へ向かう。 そこにいたのは、 ﹁オーガとオーク!? 何故こんなところに!﹂ ミューラが口にするより早く、カシムが魔物の正体をいち早く看 破した。 ミューラはカシムを静かに見詰める。 ︵この人⋮⋮オーガとオークを何で知ってるの? 北端の荒野付近 にしかいない魔物なのに︶ ミューラは、レミーアの家にあった魔物大全という図鑑を読んで いたため知っている。しかし、普通は例え冒険者だったとしても、 自分に関わりの無い魔物の事など分からない。 ましてカシムは農夫のはず。アズパイア近隣に出没する魔物の事 ならまだしも、北端に棲息する魔物の知識など、最もいらないもの に分類されるだろう。 カシムへの警戒心をより一層強め、ミューラは目の前の脅威に意 識を向けた。 オーガ。鈍い青の肌をした、身長四メートルを超える巨人。武器 は鍛えぬかれたその筋肉。単純ゆえに破壊力は凄まじく、Cランク の冒険者チームなら挑むのを許されるような相手だ。 オーク。端的に表せば、二足歩行の大猪。ゴブリン以上の知能を 持ち、木の槍を武器にしたりする。彼等は強い者の威を借る習性が 345 あり、今はオーガを軸としているのだろう。 折れたメリラの木に群がる一匹のオーガと三匹のオーク。密猟者 ではないが、手早い駆除が必要だ。 ﹁俺とミューラが片付ける! 奏ここは任せた!﹂ ﹁分かった!﹂ ミューラが俊足を発揮してオークに飛び掛かる。パワー馬鹿の相 手を太一に任せ、雑兵は手早く掃除。打ち合わせしてないのは、言 う必要も無いからだ。 抜剣から横薙ぎの流麗な剣閃が手近なオークの槍を切り落とし、 返す斬撃がその胴に深い痛手を与えた。 ﹁ぐひぃ!﹂ ﹁やっ!﹂ 呼気と共に尚も剣を振るミューラ。血飛沫の合間を縫うように二 度、三度と剣が振るわれ、やがてダメージが致死を越えたオークは、 仰向けに倒れた。 太一の雑な剣とはまるで違う、本物の剣術だ。 ﹁ひゅう♪﹂ 思わず出た口笛。太一は視線をオーガに向けた。 ﹁デカブツ! お前はこっちだ!﹂ 飛びかかりながら拳を振りかぶる太一。 オーガは自分に迫ってくる小さな人間を嘲笑った。そのちっぽけ な存在は、あろうことか自分に肉弾戦を挑むつもりらしい。腰の剣 346 は何のために持っているのか。 かつて倒した冒険者たちは、剣や槍で完全武装し、遠距離からの 魔術攻撃も駆使してきたというのに。 あの時は苦戦したが、最後は己の肉体の強さにものを言わせて押 しきった。 彼等に比べれば、その度胸は認めてもいい。しかし。愚かでもあ った。 ここはひとつ、少年の行いがいかに身の程を知らないかを、教え てやるべきだ。 ここまで考える知能があるかは分からないが、オーガが太一を侮 ったのは事実。太一に合わせ、巨大な拳を振りかぶる。 ドパアン! 空気を震わす炸裂音。太一とオーガの拳がぶつかり合った。 奏とミューラはあからさまにあきれ、それ以外の観客が全員目を 丸くした。 力比べで押しきったのは太一。オーガの巨体を強制的に数メート ル後退させたのだ。 ﹁デカいからどんだけ強いかと思ったら﹂ 肩をぐるぐる回しながら、太一が言う。取るに足らない相手だと 言うように。 ﹁⋮⋮オーガと力比べとか平気でやるのね﹂ ﹁何か言ったかミューラ?﹂ ﹁何でもないわ。早くやっつけちゃって﹂ りょーかい、と気だるそうに返事をして、太一が両足に力を込め る。 最初はやる気満々だったのだが、手応えある力では無いと分かっ 347 てしまった。太一にとっては、弱い者苛めに等しい。 ﹁一発で終わらせる﹂ 一体どんな魔術を使ったのか。太一はオーガの頭上三メートルの 高さに浮いていた。 実際は魔術でもなんでもない。太一が立っていた場所が抉れてい た。魔力強化をして移動しただけである。 見上げた時には真上から迫る少年の姿。直後脳天に凄まじい衝撃 が走り、その瞬間にオーガの意識は暗転。太一は腕を振り抜き、オ ーガを地面に仰向けに叩き付けた。 一撃。オーガは絶命していた。ふと横を見れば、ミューラが三匹 目のオークを切り伏せたところだった。 ﹁奏。どうだ?﹂ ﹁⋮⋮うん。周りには何もいない﹂ 奏の言葉を聞いてから太一は魔力強化を解き、ミューラは剣の血 振りをして鞘に納めた。今後何があるかは分からないが、当面の危 機は去ったと言っていいだろう。 悠然と戻ってくる太一とミューラを見て、ライテは恐る恐る奏に 問い掛ける。 ﹁君ら⋮⋮何者なんだよ⋮⋮﹂ 奏は周囲に目を配らせ、ライテを見ずに答えた。 ﹁私たちはただの冒険者ですよ﹂ それ以上、返す言葉がない。農家たちがすがる思いで雇った冒険 348 者は、彼等の常識を打ち砕く実力の持ち主だった。 ◇◇◇◇◇ 被害に遭ったメリラの木は三本。何とか少なく食い止められた形 だ。太一たちでなければ、オークはともかくオーガに勝てたかは怪 しい。いやむしろ、生きて帰れたかどうかすら定かではない。 生きてアズパイアに戻れたことに安堵するマギルたちと別れ、太 一たちはギルドに向かった。カウンターで書類を整理しているマリ エに近付く。 ﹁あら。タイチさん、カナデさん、ミューラさん﹂ 連れ立ってやって来た三人。どうしました? と声を掛けようと 思っていたのだが、三人の顔が少々厳しいものだったので続きを言 わなかった。 沈黙を以て促すと、太一が口を開いた。 ﹁ギルドマスターに会いたいんすけど﹂ ジェラードは今来客対応中だ。だが、それを伝えたところで﹁出 直す﹂と言いだすような雰囲気ではなかった。 ﹁分かりました。ギルドマスターは今立て込んでるので、終わるま 349 で待っててくださいね﹂ 少し長く待ってもらうことになるだろう。ジェラードとて暇な人 物ではないが、予定に太一たちとの面会を入れるとマリエは決めた。 彼等は待つことに対して何か言ってこなかった。﹁分かりました﹂ とだけ言って、ギルドのテーブルに座ったのだ。具体的にどれだけ 待たせるかは分からないため言っていない。つまり、そうまでして も話すべき事があると言うこと。 ︵そういえば、タイチさんとカナデさんがあんな仏頂面してるのは 初めて見たかも︶ マリエの記憶にある二人は、他の冒険者では持ち得ない余裕に溢 れていた。だから真剣な表情をしながらも肩の力は抜けていた。 考えれば分かることでもない。マリエはギルドマスターの部屋に 急ぐ事にした。彼等が会うためにギルドで待っている、と。 ﹁⋮⋮﹂ 同僚にカウンターの業務を任せて奥に引っ込んだマリエを眺めな がら、ミューラは自身の記憶をもう一度掘り起こす。 オーガ。 体高は平均でおよそ四〇〇センチ。体重は約一五〇〇キロ。個体 差があるため概算だが、強ち外れてもいないと思う。 棲息地はエリステインでは北端の海岸線から少し南に進んだとこ ろにある荒野。北側に住む人々にとってオーガは、アズパイアに住 む人々にとっての黒曜馬。 圧倒的な体躯と強靭な肉体にものを言わせた力任せな魔物。シン プル故に強い。ミューラでも勝てはするが、太一のように力で対抗 は不可能だ。 350 エリステインの南側に位置するアズパイアからオーガを倒しに行 こうとすれば、北の森の先にある標高五〇〇〇メートル級の山脈を 越えるか、山を大きく迂回しなければならない。直線距離は、首都 ウェネーフィクスまで行くのと同じ。魔物一匹を倒すための労力と しては大きすぎる。 それほどの距離が離れた場所に棲むオーガという魔物が、何故北 の森にいたのか。 そもそも冒険者ですらないカシムが何故知っていたのか。 ミューラ自身確証には至っていないが、オーガとカシムは切り離 せない気がするのだ。 太一と奏にもこの事は伝えてある。二人の神妙な顔つきは、繋が りかけたピースが、あと一歩で繋がらないもどかしさからだろう。 三人の思考が戻ったのは、マリエがギルドマスターの手が空いた ことを伝えに来てからだった。 マリエに連れられ、ジェラードの部屋に案内される。 形式通りの挨拶を手短に済ませ、早速本題に入った。 ﹁オーガがいた、だと?﹂ ﹁ええ﹂ 顔をしかめ、この部屋の主、ジェラードが呻いた。 苦虫を噛み潰した表情が、事が重大であると理解させる。彼の横 では、マリエが言葉を失っていた。 ﹁バカな⋮⋮。そんなことが﹂ ミューラは嘘を言っているのか。そんな思いを胸に、ジェラード は彼女を見る。 分かっている。そんな嘘をついて彼女に一切の得など無い。こう してジェラードとの面会をいきなりねじ込んで来る程だ。 351 ﹁何故オーガがいたのかを突き止めて対処しない限り、北の森は危 ないわ﹂ ﹁うむ。しかし⋮⋮﹂ ミューラの主張はとても正論。 早急に調査を開始し、北の森への立ち入りを禁ずるべきだ。 ジェラードとてそれが最善だと分かっている。杞憂ならそれも良 し。安全なことが確認されるのだから何も問題はない。 オーガクラスの魔物が出る森は、最早かなりの危険地帯だ。だが、 いくつか考えられたその可能性が、ジェラードに頭痛を覚えさせた。 ﹁く⋮⋮仕方あるまい。オーガの件が解決するまで、森への立ち入 りは許可制だな﹂ ﹁うん。それがいいと思う﹂ ミューラとしても、オーガがいる、と街の人々に告げるべきかは 迷っている。 今まで危険はゴブリンとフェンウルフだけだったのだ。闇雲に不 安がらせるのが良いとは思えない。 とはいえ、それで余計な被害が出ては本末転倒。 ﹁ジェラードさん﹂ ﹁む?﹂ 奏が神妙に口を開いた。 ﹁次、カシムさんに突っ掛けてみようと思います﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁これは賭けです。でも、農夫として過ごしているはずの人がオー 352 ガを知ってたりと、疑わしいところが多すぎます﹂ 慎重な奏から聞くとは思わなかった言葉。 本当に、驚かせてくれる。 ﹁ふむ。だが相手は依頼主だぞ。違ったらどうするのだ?﹂ 奏の脳裏に﹃疑わしきは罰せず﹄という言葉が過る。 だが、奏はあえてその言葉を頭から消した。 ﹁その時は⋮⋮﹂ ﹁謝るよ﹂ ﹁ほう?﹂ 今まで黙っていた太一が言う。 ﹁疑ってごめんなさい、ってな﹂ ﹁それで許してくれればいいがな﹂ ﹁まあね﹂ 太一は笑う。どこからそんな自信が出てくるのか。 ﹁オッサンだって、あのカシムってやつがきな臭いって思ってるん じゃないの?﹂ その通りだ。太一たちとの初顔合わせといい、オーガを知ってる 事といい、まるで、暴かれるのを待っているかのような⋮⋮。 ﹁⋮⋮そういうことか﹂ 353 合点がいったジェラードを見て、太一がニッと笑う。 ﹁もしカシムがそうなら、迂闊過ぎると思うんだ。どんな思惑かは 分からないけど、向こうがわざとやってるなら納得がいくだろ?﹂ その道のプロならあまりにも杜撰。ジェラードがそういう依頼を 行うなら、念には念を入れて農家の人間になりきる。 太一もそう思う。映画なんかに出てくる凄腕のスパイがこういう 真似をするときは、大抵はわざとだ。 奏が強気に出ると言い切ったのも、太一が抱いていた違和感の理 由を聞いたからだ。 ﹁せっかくのお誘いだから、乗ってやろうかと思ってさ﹂ ﹁おなごの前だからってかっこつけおってからに﹂ ﹁俺男だもん﹂ ﹁ふん。いいだろう。好きにやれ。ヤバい事になったらワシも力を 貸そう﹂ ﹁頼りにしてるぜオッサン﹂ 話は纏まった。 次の巡回警備は明日。 勝負の時まで、残り一二時間。 354 疑心︵後書き︶ 太一が強すぎて戦闘らしい戦闘になりません︵笑︶ 読んでくださってありがとうございます。 355 それぞれの敗北︵前書き︶ 恐ろしいほどの難産でした⋮ これで、メリラ編は終了です。 356 それぞれの敗北 見上げた空は、雲が多かった。アズパイアに来てからはずっと晴 れだったので、太陽が雲に隠れるこの空模様は珍しい。 オーガたちを退治してから一晩明けて。今日も休むことなく北の 森を歩いていた。メリラの畑までの道は一つだけではない。似たよ うな景色の森の中を右に回り斜めに進み。案内が無ければ確実に迷 ってしまうだろう。後をつけられて場所がバレても、辿り着ける可 能性を出来るだけ少なくするための自衛手段だ。 この巡回は、都合六回目になる。正直そろそろ何かしらの成果が 欲しいところだ。 今日は、初めて太一たちから動く。密漁者に出会う出会わないに 関わらず、こちらから一石を投じてみる。頼りは太一の違和感。根 拠を示せと言われると辛い。だがこのまま後手に回ったままという のも不毛だ。 森の中を注意しながら歩く。野獣はもちろん、魔物も姿を見せな い。昨日出会ったオーガ、オークは警戒しなければならない。昨日 出会ったのが全てとは限らないのだ。 同時に三つの事に意識を向けながら森を歩く。腰近くまである下 生えの草の中に、目をこらさなこれば見えないほどの道が一つ。複 数のルートがあるのは、道が出来ないためでもありそうだ。 ﹁タイチ、ストップ﹂ 殿を歩いていたミューラが、足を止めた。 ﹁どうした?﹂ ﹁これ﹂ 357 ミューラは、腰を折って草を見詰めている。何だろうと思い近付 いてみると。 ﹁⋮⋮血か?﹂ ﹁ええ。まだ新しい﹂ 顔を上げて周囲を見渡す。草むらの一部が、不自然な方向に生え ていた。そこにあったのは、野生の大猫だったモノ。人を襲う肉食 獣だが、食用でもあり、猟師にとってはターゲットだ。 喉元を貫かれ物言わぬ屍となった大猫を見て、ミューラは眉をひ そめる。 ﹁おかしい。猟師がやったのなら、せっかくの戦利品を置いてかな いはず﹂ ﹁⋮⋮密漁者かな﹂ 可能性は高い。彼等の目的はメリラなのだから、野獣の死体は邪 魔なだけだろう。メリラの畑に行く途中で、この野獣が襲ってきた ので殺したというところか。 やがてその予感は、確信に変わる。 ﹁⋮⋮いる。向こうに六人﹂ 奏が指差しながら言う。この先はメリラの木が生えている広場の はずだ。 マギルの顔つきがみるみる険しくなる。 やがて視界が開けた。 縦横一〇〇メートル弱の大きな広場。ここ数日ちょくちょくきて いたため見慣れた景色だ。メリラの木が見える。その下にいる、六 人の男。 358 ﹁くぉらてめえら! また来てやがったのか!﹂ 一瞬で顔を真っ赤にして、マギルが叫んだ。聴覚に優れるエルフ のミューラが思わず耳を塞いだ。 向けられたら思わず竦み上がる程の怒気にあてられ、しかし男た ちはこちらを一瞥するだけで気にした様子も無くメリラを採り続け ていた。 ﹁止めろって言ってるだろうがこの密漁者ども!﹂ ﹁おいマギル! ⋮⋮くそっ!﹂ 止める間もなく走り出すマギル。諌めようとしたライテに耳も貸 さなかった。このままでは暴力沙汰になるかもしれない。 ﹁奏、ミューラ。強化しとけ。殴られたらたまったもんじゃない﹂ 奏もミューラもそう思っている様子で、特に何を言うでもなく頷 いた。 突っ掛かるマギルを押さえるライテ。嘲笑うかのようにメリラを 採り続ける密漁者たち。 密漁者六人の内二人は腰に大きなナイフを持っている。今は何も していないが、あれを抜かれては不味い。マギルもライテも丸腰な のだ。 ﹁そろそろ止めといたらどうよ?﹂ 太一は全員の注目を浴びるように間に割って入った。マギルたち と密漁者。小競り合いになったら血を見るのは明らかだ。奏とミュ ーラも横に控えて、逃走を計られた時に備える。 359 ﹁何だ? 大人の話し合いにガキがしゃしゃり出てくるんじゃねえ よ﹂ ﹁話し合い? お宅らマギルさん達の言葉聞いてねえじゃん。相手 の話聞いて初めて話し合いになるんだぜ?﹂ ﹁仕方ねえだろ! そいつがすげえ剣幕で来るからよお! こっち の言葉なんて聞かなそうじゃねえか!﹂ 最初の作戦は成功した。マギルを奥に引っ込め、話をする。相手 が丸腰ならまだ良かったが、武器を持っているなら話は別だ。依頼 である以上、マギルやライテを怪我させる訳にはいかない。 ﹁聞かなそうなだけで、聞かなかった訳じゃないよな? 実際に話 を聞いてくれなかったのか?﹂ 口は回ると方々から言われる太一。正論をふりかざして相手が痛 がると思われるところを突いていく。揚げ足を取っているだけとも 言う。 ﹁っ、この! ガキはすっこんでろ! 関係ねえだろお前には!﹂ ﹁関係無いわけ無いだろ。俺は、いや、俺達は雇われた冒険者だ。 あんたたち密漁者を捕まえるためにな﹂ ﹁⋮⋮!﹂ 密漁者たちの顔色が変わる。 農家の本気が伝わっただろうか。 ﹁メリラを採取する許可を持って無い以上、あんたらは密漁者だ。 密漁は犯罪。子どもでも分かること。現行犯で逮捕だ﹂ 360 現行犯、や逮捕、といった言葉がこの世界にあるかは分からない。 言ってみたかっただけである。後で刑事ドラマの見すぎと突っ込ま れるだろうか。 ﹁ライテさん。縄ちょうだい。全員縛り上げる﹂ ﹁あ、ああ﹂ ライテから縄が手渡された。 ﹁逃走しようとか思うなよ? こっちだって一般人相手に手荒な捕 まえ方はしたくないんだ﹂ 男たちは何も言わない。いくら人数が多かろうと、一般人と冒険 者では力が違う。例え比較対象がEランク冒険者であっても、だ。 ﹁奏、見張り頼む。ミューラ、手伝って﹂ ﹁うん﹂ ﹁ええ﹂ 二人が何か言う前に、話は終わってしまった。太一の追い詰め方 は見事だった。 ギルドマスターから教わったやり方で縛っていく。数分もしない で男たちから武器を取り上げ、動きも封じた。 恨みのこもった視線で見てくる密漁者たち。その感情の正体は逆 恨みである。気にする必要はない。 ﹁くそ! あの魔術師め! 今日に限ってなんでいやがらねえ!﹂ ﹁そういやいないな、魔術師。おたくらの護衛だろ、何か知らない のか?﹂ ﹁知らねえよ! あの裏切り者が!﹂ 361 ﹁裏切り者? 密猟なんて犯罪やってる人間がよく言えたな﹂ 太一の脳裏に、夕方のニュース番組の特集が思い出される。勝手 に採ってはいけない場所で、海ではアサリやハマグリ、山では筍や 松茸を採っていく人々。 ﹁皆やっている﹂ ﹁あんたたちに関係あるのか﹂ ﹁うるさい!﹂ 自分の行いが犯罪と分かっていてやる質の悪い人間。大体が太一 の倍ではきかない程の人生の先達である。 言葉だけならまだいい。中にはテレビの人に暴力を振るう不届き 者までいた。画面の向こうの事ながら、思わずイラッとしてしまっ た。家に帰れば、偉そうなツラで子どもや孫を叱っているのだろう か。 ﹁ここはたまたま見付けたんだ! 何が悪い!﹂ この期におよんで認めるつもりは無いらしい。 ﹁マギルさんたちに聞いたぞ。最初は注意だけで済ませたってな。 あんたらは不貞腐れてメリラを地面に叩き付けて去っていったって な﹂ マギルたちにもいいたいことはあるだろう。だが、今は黙ってい る。どんな心境かは分からないが、この場は太一に任せてくれるら しい。 実は、太一のような少年に受ける説教の方が、密漁者にとっては 辛いだろうとライテが考え、それをマギルに伝えたのが真相だった 362 りする。 ﹁俺たちも必死なんだ! ここで採れなきゃ、明日の飯だってない んだよ!﹂ 根深いものがありそうだ。太一たちは素直にそう思った。だが、 それとこれとは話が別だ。これを許すと言うことは、﹁こいつムカ つくので殺しました﹂という言い分を認めるのと同じである。 ﹁それはあんたらの都合だろ。あんたらにどんな事情があろうと、 犯罪は犯罪。自警団に突き出すのは変わらないよ﹂ 窃盗の罪は軽くはない。盗品が街の名産なら尚更だ。 ﹁ま、待ってくれ! 俺達が捕まったら家族が!﹂ ﹁だから知らんって﹂ ついに泣きの入った密漁者たちをバッサリ切り捨てる。 ﹁自分の非は認めない、マギルさんたちの注意も聞き入れない、ど こまで自分勝手なんだか﹂ ﹁もういいよ太一﹂ ﹁奏﹂ 奏が太一の肩に手を置いて、穏やかな顔で首を左右に振った。 正直、聞くに耐えなかった。 やむを得ない事情があったのだろう。 それでも、悪いことは悪いことなのだ。世間が﹃やむを得ない事 情﹄を免罪符にしてくれるのは滅多にない。 太一は溜め息をついて背中を向ける。許しを乞う視線にイラッと 363 来てしまった。 自分自身、彼らの言う通りガキである。分かったような事を言っ ている自覚もあった。あまり、気分は良くなかった。 ﹁もういいよ。うん、もういい﹂ ﹁⋮⋮サンキュー﹂ もう一度溜め息をついて、鬱々とした気持ちを吐き出す。ストレ スが溜まることこの上ない。 ﹁ありがとうよタイチ。おかげで少しスッとしたぜ﹂ ﹁マギルさん﹂ 太一の肩を叩いて労ってくるマギル。見た目は強面だが、やはり この人はいい人だ。 ﹁マギルに任せたら拳で語り合い兼ねないからな。俺にも礼を言わ せてくれ﹂ 次いでライテが手を差し出してきた。後頭部をバリバリとかいて、 その手を握り返す太一。 ﹁私からもお礼を言わせてください。見事なお点前でした﹂ 頭を下げるカシム。 密漁者は捕まえた。これで全員ならいいのだが。いや、仮にそう だとして、また次の密漁者が出てくる可能性は高い。 そうならないためにも、厳しい罰が必要だろう。 ﹁さて。次の用事を済ませようか、タイチ、カナデ﹂ 364 ﹁そうだった。そっちが本命だったな﹂ かなり精神的に気疲れしていた太一が、うんざりしたように呻く。 その様子を見て奏は苦笑した。 ﹁次の用事だって? こいつら捕まえて終わりだろ?﹂ ﹁違うんですよ、それが﹂ ﹁何かあるんですか?﹂ ﹁誤魔化さないで﹂ 問い掛けてきたカシムに、ミューラが強い視線を叩きつけた。カ シムが怯んだ。 ﹁貴方、オーガとオークを知っていたわね?﹂ ﹁え、ええ。それが、何か?﹂ ﹁あれ、どこに棲息してるか知ってる?﹂ ﹁もちろんです。北端の荒野ですよね?﹂ ミューラは頷いた。 ﹁それがどうかしましたか?﹂ ﹁何で知ってるのかしら﹂ ﹁それは、有名な魔物ですから﹂ ﹁マギルさん、ライテさん。あれがオーガとオークだって知ってま したか?﹂ 奏の問い掛けに否定する二人。 ﹁貴方たちはオーガとオークを知ってる?﹂ 365 密漁者たちも否定する。皆、唐突な話の展開に戸惑っているよう だった。 ﹁冒険者であるタイチもカナデも、あれがオーガとオークだって知 らなかった。それなのに、農家のはずの貴方が何故それを知ってい たのかしら?﹂ ﹁それは、そう。知り合いの冒険者に教わったんですよ。たまたま だったんですが﹂ ﹁たまたま、ね。教わっただけなら見たこと無いはず。予測はつい ても断定までは無理。貴方、オーガだって疑いもしなかったわね?﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁もう一つ。貴方、農家の割には手が綺麗ね。とても土仕事してる とは思えないわ﹂ カシムは俯いて黙りこんだ。 ﹁答えてくれるかしら。貴方、何者なの?﹂ 一陣の風が、広場を吹き抜ける。 沈黙が場を支配する。 どれだけの時間が経っただろうか。 カシムが、拍手を始めた。 ﹁ふふふ⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮何がおかしいの?﹂ ﹁いえ⋮⋮まあ、ギリギリ及第点といったところでしょうか﹂ カシムが顔をあげた。 慇懃無礼な笑みを浮かべて。 思わぬ展開に固まるマギルたちと密漁者たち。 366 ミューラが怪訝そうな顔をした。 ﹁及第点、ですって?﹂ ﹁ええ。あれだけヒントをあげたんですよ? いつまで経っても気 付かないから失望しかけてたんです。そろそろ私から明かそうかと 思っていたんですが⋮⋮まあ、その前に誰何を問う事が出来た。な ので、及第点です﹂ ﹁⋮⋮どういう事よ﹂ ﹁まあ慌てないで下さいよ。今から説明しますから﹂ カシムは悠然と広場を歩く。二二の視線を浴びて、愉快そうに。 ﹁私の正体を明かすとですね。表の顔は、彼等密漁者の護衛魔術師﹂ ﹁なっ!?﹂ ﹁裏切りやがったのか!﹂ 喚く密漁者には一瞥すらくれないカシム。眼中にすらないようだ。 ﹁タイチさんたちからすれば、私は刺客、と言えるでしょう。斥候 でも合っています﹂ ﹁⋮⋮っ!﹂ 奏が魔術を発動させた。無詠唱で、火の玉を五つ。彼女を見て、 カシムは一層愉快そうに微笑んだ。 一方驚いたのはマギルやライテ、密漁者たちだ。マギルとライテ は、奏がどれほどの力を持つのか分からなかったし、密漁者たちか ら見て、奏は可愛い女の子だ。 こんな真似が出来るとは、毛の先程も思っていなかったのだ。 ﹁素晴らしい⋮⋮﹃フレイムランス﹄程の魔術を無詠唱とは。先に 367 言っておきましょう。貴方たち三人の方が、私より遥かに強いです。 一対一でも、誰にも勝てないでしょう。そこのエルフの美人さん相 手なら、多少は粘れそうですが﹂ 信用していいのだろうか。感情の読めない笑みが、疑いを深くす る。 ﹁撃ちたければいつでもどうぞ。避けられる自信はありませんがね﹂ ﹁カ、カナデちゃん待ってくれ! そんなもんここで撃ったら⋮⋮ !﹂ ﹁大丈夫ですよ、マギルさん﹂ ﹁⋮⋮何?﹂ ﹁彼女程の腕があれば、森林火災なんて間抜けなミスは犯さないで しょう。私だけを捉えるはずです﹂ ﹁お前⋮⋮何なんだ﹂ ﹁だからそれを説明しているんです﹂ 話は最後まで聞きなさい、とカシムは笑う。 奏は魔術を撃てない。撃てば、カシムから話を聞けなくなる。こ の場を支配しているのは、間違いなく彼だ。 ﹁私は、貴方たちの実力がどれほどのものかを調査しに来たのです。 戦闘能力、冒険者としての腕、もちろん人としての出来も﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁戦闘能力は文句なし。三人とも、人類では上位です。特にタイチ さん。オーガを一撃で倒せるくらいですからね﹂ ﹁オーガとオークはやっぱりあんたの差し金だったのね﹂ ミューラがカシムを睨む。彼は表情を変えぬまま頷いた。 368 ﹁そうです。あれも試験の一環です。ああ、安心して下さい。あそ こに連れてきたオーガたちはあれだけですから﹂ 連れてきた? この男は、何を言っているのだろう。 ﹁冒険者としての腕も、まだまだこれからですが、資質は悪くない。 問題は、人間の出来ですね﹂ 諭すように、言葉を失う太一、奏、ミューラを順繰りに見る。 ﹁私から見て、貴方たちは力だけ持った未熟者。現にほら、私を信 じるか否かを迷っている﹂ ﹁⋮⋮!﹂ ﹁私のような者は、大抵嘘と真実を半分ずつの割合で明かすのです。 まともに聞いては混乱するだけ。腕の立つ者が取るのは二択。役に 立てば幸運、という心持ちで聞き流すか、ヘタに混乱させられる前 に私を殺すかです﹂ 反論の言葉が浮かばない。 ﹁どうしても私から真実を聞きたいのなら、即刻拘束して拷問を加 えるか、自白剤や自白魔術を行使するかですね。やれやれ、この程 度で驚くから甘いんですよ﹂ この男は強い。力ではない、頭の出来が違う。経験を積めば埋め られるのか。とてもではないが、頷ける自信は出なかった。 ﹁貴方たちの情報は、もう一人の仲間がきちんと上に伝えます﹂ ﹁ッ!?﹂ 369 太一、奏、ミューラ。三人が同時に視線を外した。奏のソナーに は何もかかっていないし、太一が気配を探っても、何も感じない。 二〇〇メートル以上離れていても分かると言うのか。 ﹁すみません。嘘です﹂ カシムが申し訳なさそうに、しかし堪えられないようで笑ってい る。 ﹁貴方たちの反応があまりにも面白いので、ついつい、からかって しまいました﹂ ﹁⋮⋮! あんたねえ!﹂ ミューラが思わず抜剣して斬りかかった。だが、それでは通用し ない。頭に血が昇っているのだろう、普段のミューラのキレはない。 ﹁だめですよ。それは﹂ ぼうん、と音がして、一瞬にして辺りを霧が覆った。 ﹁っ! しまった!?﹂ ミューラが悲鳴のような声をあげる。 ﹁貴方たちの優しさに感謝しますよ﹂ ﹁この!﹂ 痛烈な皮肉。これで逃げられては、完全に言われっぱなしだ。 これだけの霧を作れる相手だ、ダメージは望まない。せめて多少 370 でもカシムが慌ててくれれば、溜飲も下がるというもの。 イメージは風の弾丸。途中で弾けさせ、風の刃を無数に放つもの。 上下左右一二〇度に展開されるショットガンだ。 ﹁行けっ!﹂ 即席魔術のため、名前など無い。 パァン! 弾丸が弾け、霧が強烈な突風で吹き飛んだ。続けて何かが切り裂 かれる音が断続して鼓膜を揺らす。 やがて視界が回復する。予想していたことだったが、カシムの姿 は無かった。 ﹁⋮⋮ダメだった﹂ 奏が肩を落とす。 ﹁まあまあ﹂ 太一に慰められて、力なく笑う奏。 あれだけの事をやってのけたのだから、十分だと思っているのは、 太一だけでは無かった。 ◇◇◇◇◇ 371 ぽたりぽたりと、血が垂れる。 ﹁くっ⋮⋮あれほどとは﹂ ここまで来れたのは、幸運だった。 正直、余裕はなかった。なんせ、自分より強い者が三人もいたの だ。まともに来られれば、まず逃げられなかっただろう。あの話術 も、頭をフル回転させ、死に物狂いで発揮したものだ。 心の逼迫をどうにか悟られないように圧し殺し、逃走用の霧の魔 術をスタンバイさせ、隙を突いて発動。自分でも笑えるほどに上手 くいった。 だが、どうやら甘く見ていたらしい。 戦闘能力では敵わないとは思っていたが、ここまで凄まじいとは 思っていなかった。 カシムは苦笑した。 あれだけ偉そうに説教しておきながら、人のことを言えた義理で はない。 右腕が骨まで抉られている。風の刃なんて生易しいものではない。 最早風の鉈だ。 今後の人生、右腕は無いものと考えた方がいいだろう。 ﹁おっと。置き土産は必要ですね﹂ カシムが詠唱を始める。 淡い黄色の光を放つ魔法陣が生み出される。それが完成したのを 確認して、カシムは右腕を引き千切った。ぶら下がるだけのそれに、 未練はない。左手を振り子のように動かし、魔法陣に投げ込んだ。 黄色の光が、やがて赤色に変わる。 372 ﹁ふふふ。これはプレゼントですよ、お三方﹂ 満足げに微笑み、カシムは森の奥へ消えていった。 魔法陣は、静かに光を湛えている。 373 それぞれの敗北︵後書き︶ 次は久々にあの人が出てきます。 読んでくださってありがとうございます。 374 召喚術師︵前書き︶ 太一の属性についてです。 予め言っておきます。 太一の属性、判明まで引っ張りましたが、珍しいものを考えること ができたわけではないので、その辺ご了承ください。 375 召喚術師 ﹁ああ、大失敗⋮⋮﹂ ﹁もー気にするなって﹂ 溜め息をつく奏を、太一が慰める。カシムを逃がしたことが、大 分堪えていた。 あの時ソナー魔術を使っていれば、追うことも出来た。一瞬で二 〇〇メートルもの距離を移動出来るはずがないのだ。まして隠れて 逃げているのだから尚更だ。 あの時は大分冷静さを失っていた。いや、失わされていた。して やられた感が奏を支配していた。 太一とミューラにしてみれば、奏がソナー魔術を持っていること を知っているのだから、一言アドバイスしてやれれば良かったのだ。 それが出来なかった時点で自分達も同罪、奏を責める気は毛頭無か った。 ﹁次は逃がさない。それでいいわよカナデ﹂ ﹁うん⋮⋮﹂ 納得いっていない様子だったが、とりあえず頷く奏。冒険者にな ったばかりの太一と奏に、しっかり機転を利かせろと誰が言えるだ ろうか。 事実、報告を聞いたジェラードも、カシムを逃がしたことを一切 咎めなかった。戦闘能力が高くても、経験が追い付いていないのを 承知の上で太一たちに依頼したからだ。 二日間は、依頼を受けない予定だ。 毎日依頼を受けるのが普通だった太一と奏にとっては珍しい事と 言えるだろう。 376 名誉のために弁明すると、決してさぼる訳ではない。 ﹁久々だな、この森も﹂ ﹁⋮⋮そうね。二週間ぶりくらい?﹂ ﹁そんなになるか﹂ 異世界に来てから既に一ヶ月以上が経過している。 人は順応する生き物とはよく言ったもので、太一も奏も、すっか り冒険者生活に慣れていた。最も、それは二人が持つ桁違いの力の 恩恵だ。まともに冒険者をやっていたら、とてもではないがこんな 余裕はなかっただろう。 ﹁あたしは一週間しか経ってないんだけどね。すぐ戻るとは思わな かったわ﹂ ミューラはそうごちる。 聞けば、一ヶ月、二ヶ月のスパンで太一たちと冒険者をやる予定 だったらしい。 それもこれも全てあの密漁者の事件が、いや、そこにいたカシム のせいだ。 ﹁あれは仕方無いだろ﹂ ﹁そうだけど﹂ ﹁今思うと、全部あいつの差し金でも驚かないかも﹂ ﹁確かに﹂ カシムの頭のよさは凄まじかった。何故監視対象である太一たち に依頼を受けさせることが出来たのか。カシムがここにいて、﹁全 て私が仕組んだことです﹂と明かしてきたら、疑うどころかむしろ 腑に落ちてしまいそうなのが腹ただしいところだ。 377 大分離れた某所では、話題の慇懃無礼な男が、風邪を引いたかと 自身の体調を考えていたのはどうでもいい余談である。 それはさておいて。 レミーアの家への一時帰宅は、無目的ではない。 カシムは、自身を斥候、刺客と称した。悪い予想をするなら、ど こかの組織が、太一と奏を知っているということ。そして、カシム が魔物を操れる可能性があるということだ。 それらをレミーアに報告して、彼女の智謀に協力を仰ぐ。はっき り言って手に負えないというのが正直な感想だ。 それ以外にも、沈み気味の奏のリフレッシュも兼ねていた。 道中人がまずいないと思われるところを強化による高速移動です っ飛ばし、アズパイアを出て二時間程度で、レミーアの家にたどり 着いた。 がちゃりと扉を開けて、家に入る。ここは三人にとって実家と同 じである。 ﹁ただい⋮⋮ま﹂ ﹁おお。タイチ、カナデ、ミューラ。帰ったのか﹂ ﹁⋮⋮﹂ レミーアがいた。彼女の家だ、当然だ。問題は、彼女が下着姿だ ったということだ。固まる三人と、何が原因か分からないレミーア。 なんという、デジャヴ。 ﹁服を着てください! その格好でバナナをくわえない!﹂ ミューラが声を荒げた。その横では奏が太一の目を両手で塞いで いる。太一の視界は真っ黒だ。だが、聞こえてしまう。どうしてこ う、音だけというのは想像力をかきたてるのか。 378 ﹁固いことを言うな。私の家で家主の私がどんな格好でいようと構 わぬだろう﹂ ﹁レミーアさんが良くてもあたしたちが良くないです!﹂ ﹁減るもんでもなし⋮⋮あーあー分かった分かった。今服を着てく るから騒ぐな﹂ レミーアが自室に引っ込んだのを確認して、奏が太一の顔から手 をどけた。 視界が開けた途端、厳しい視線を向けてくる二人の美少女に身が 縮こまる思いだ。 ﹁⋮⋮見た?﹂ 奏が低い声で問い掛けてきた。 ﹁見たというか、見えてしまったというか⋮⋮﹂ そう答えるしかない。 あのタイミングでは、見るなと言う方が無理だろう。 それは分かっている。誰が扉を開けても、あの事態は避けられな かった。不可抗力をそれ以上責める訳にもいかず、奏とミューラは やむを得ず引き下がった。 前にも同じような事があったが、あの時は随分と悪ノリした記憶 が蘇り、二人で仲良く頭を抱えたのだった。 ◇◇◇◇◇ 379 キッチンではミューラがクーフェを淹れている。その横ではレミ ーアが軽食を作っていた。出てきたのはたっぷりの油で揚げたポテ トフライのようなものだ。 ジャンクなものに目がない太一は願ったりだ。一方遠慮がちにつ まんでいるのは奏とミューラ。ギッシュな油が気になるらしい。こ んがりと狐色に揚がったそれは、大いに食欲を刺激しているようだ ったが。 そんなことは気にした様子のないレミーアが、﹁魔術師たるもの、 脂肪位は魔術で燃やせ﹂とのたまい、二人が猛烈な勢いで食い付い たのを太一は圧倒されながら見ていた。 ﹁何? オーガがいただと?﹂ カップがテーブルに置かれる。コトリと音がした。 ﹁そうなんです﹂ ﹁北の森にか⋮⋮で、そのカシムとやらが、連れてきた、と言った のか﹂ ﹁はい﹂ ﹁ふむ⋮⋮﹂ 腕を組んで背もたれに寄り掛かるレミーア。果たして、彼女の頭 脳はどのような答えを弾き出すのだろうか。 密漁者たちは、素直に罰を受けると言い出したとジェラードから 聞いた。その変わりように驚いたのだが、話を聞くとどうやら太一 たちのおかげだと言うのだ。 あの時のカシムとの舌戦。︵というには一方的にやり込められた 380 が︶ 自分達の半分にも満たない少年少女が、想像もつかない世界で生 きている。それを目の前で見て、密漁なんかやっている自身が恥ず かしくなったのだそうだ。自警団には、﹁どんな罰も受ける。望み を言うなら、再出発だけはさせてほしい﹂と異口同音に訴えたとい う。 彼等の改心に携われたのなら、依頼を受けた意味もあったのだろ う。カシムの件で心がもやもやしていた三人にとって、それはいい ニュースだった。 報酬は満額の五〇〇万を受け取った。メリラの木を間接的にとは いえ三本もダメにしたのだ。半額でいいと訴えたのだが、聞き入れ られなかった。 三人で普通に暮らして二年間は働かなくても良い大金である。持 ち歩いていても強奪される心配はまずないが、どこかで落っことし ても怖いので、全額を即ギルドの口座に預けた。一人おおよそ一七 〇万ゴールド。ミューラは﹁剣を新調する﹂と喜んでいた。 ここが日本なら、あれも欲しい、これも欲しい、となった太一と 奏。だがここ異世界で、どんなことにお金を使えばいいのか分から ない。まあ、持っていて困らないのもお金であるため、無理に使う 必要はないのだが。 ﹁ふーむ。心当たり、無いこともない﹂ ﹁マジか﹂ 本当に何でも知っている。Wiki○ediaみたいだ。 ﹁文献で知ったのか、人から聞いたのかすら覚えとらん知識だが、 それでも良ければ話そう﹂ 是非もない。何でもいいから取っ掛かりが欲しい。 381 ﹁実在するかは分からんが、いくつか説があるのは確かだ。魔を操 る術。そう書いて魔操術と呼ぶ。まあ、そのままだな﹂ 確かに。捻りも何もない。 ﹁どのような仕組みかは分からぬ。魔術だと主張する説もあるし、 未知の術式だとする説もあるからな。ついでに言えば、どこの誰が 伝えているのか、世界のどこにあるのかすら分かっていない﹂ なのに、その術の存在そのものは、静かに語られているらしい。 ﹁何だか雲を掴むような話ですね﹂ ﹁全くだ。だが気になるな。カシムとやらがどこの者かも掴める切 っ掛けになるやもしれん。私も調べてみることにしよう﹂ 調べてみる。それで思い出した事が太一にはあった。 ﹁そいやレミーアさん﹂ ﹁ん? なんだタイチ﹂ ﹁俺の属性って何だか分かった?﹂ ああ、とレミーアは頷く。太一はもちろん、奏もミューラも気に なっていた事だ。 ﹁タイチは、恐らく精霊魔術師だ﹂ ﹁精霊魔術師﹂ この世界に存在する精霊から力を借りるのが魔術。精霊魔術師は、 確かより強い力を行使出来るのでは無かったか。三週間も前に一度 382 だけ聞いた話なので、あまり覚えていないのが正直なところだが。 ﹁確か精霊と契約するんでしたね。契約という絆が、凄まじい力を 発揮できる理由だと﹂ ﹁その通りだ。よく覚えていたな﹂ すらすらと答える奏。やはり彼女と太一では頭の出来が違う。 ﹁お前が修行中に聞いたという声、精霊の可能性が高い。いずれ、 契約も可能になるだろう。どうだ、最近、精霊の声を聴いていない か?﹂ この辺りは知的好奇心を刺激されているのか、レミーアはワクワ クしているのを隠そうともしていない。 その期待に答えられないことを申し訳なく思いながら、太一はそ れを否定した。 ﹁いや⋮⋮声を聞いたのはあの時が最初で最後だな﹂ 精霊はどこにでもいるが、特に自然の中に多くいるという。草原 や森など、何度となく自然の中に身を置いたが、ついぞ声は聞こえ なかった。 ﹁そうか﹂ 残念そうに項垂れるレミーア。が。 ﹁待て⋮⋮あれから、一切聞こえていないのか?﹂ レミーアの雰囲気が変わった。 383 ﹁あ、ああ⋮⋮あれ以来聞いてないな﹂ いきなりの事に、奏とミューラも驚いている。 ﹁精霊魔術師の素質を持つなら、精霊の方から好んで声を掛けてく る。精霊の声を聞ける人間などそうはいないからな。こう言っては なんだが、声を掛けられる側の都合はあまり考慮されぬ。違和感を、 覚えんか?﹂ ﹁⋮⋮?﹂ ﹁確かに﹂ ﹁言われてみればそうかも﹂ 太一だけが分かっていない。 ﹁タイチと話すのが、精霊は楽しい、ということだ。行く場所によ っては四六時中声が聞こえてもおかしくない。だのに、精霊の声を 聞いたのが一度だけとお前は言った。妙だろう?﹂ ﹁確かに﹂ ﹁むう。そこそこ自信のある予想だったのだが、外れていたか?﹂ ﹁いや聞かれても﹂ 聞こえないものは聞こえないのだから仕方がない。 ﹁まあ、そうだな。精霊魔術師については他のユニークマジシャン よりも分かっていない事が多い﹂ ﹁珍しいんですね﹂ ﹁うむ。あとこれは推測の域を出ないのだが⋮⋮﹂ はきはきと喋るレミーアには珍しく、濁すような言い回しだった。 384 ﹁精霊魔術師には、その更に上のランクがあるらしい﹂ ﹁上のランク?﹂ ユニークマジシャンの上、ということだろうか。 ﹁ああ。召喚術師というものだ。初めて聞く名だった。文献でも暫 定的にその呼び名を使用しているようだったしな﹂ ﹁召喚術師?﹂ ﹁精霊魔術師が更に進化したものだ、と書かれていたが、どういう 方向に、どのように進化したのか皆目見当がつかん。言葉通りなら、 精霊を召喚することになるのだろうが⋮⋮﹂ 説明のための確たる物を持っていない。推測の域を出ないのだ、 とレミーアは付け加えた。 ﹁レミーアさんにも分からない事があるなんて﹂ ミューラの呟きは、彼女にとってレミーアがどういう存在なのか を示すもの。それに対してレミーアは。 ﹁何を言っておるミューラ。この世には分からんことの方が多いで はないか﹂ と、至極最もな事を言うのだった。 385 召喚術師︵後書き︶ 読んでくださってありがとうございます。 386 再会︵前書き︶ あの人たちが登場します。 関係は泥沼⋮⋮なんですかねえ。 設定上はかなり良好なんですが︵笑︶ ていうか2000000PVですか⋮⋮ 何が起きてるんでしょうねえ⋮⋮ 387 再会 結局予定より二日オーバーの四日間をレミーアの家で過ごした。 もちろん、無為な時間を過ごした訳ではない。むしろ充実した時 間だった。 まず、太一がミューラから剣術を習った。武器と言うより、見た 目と体裁のために剣を持っていた太一に、ちょっと稽古に付き合っ て、と言い出したのはミューラの方である。ミューラとしては、太 一がまともに剣を扱えるとは思っていなかった。 強化無しで打ち合ってみた最初の掛かり稽古。ミューラの一の太 刀すら受けられなかった。オークを切り伏せたのを見て、ミューラ の剣が凄まじい事は分かっていた。だが実際に見てみると、切っ先 の動き出しすら捉えられなかったのだ。目の前でピタリと止まる剣 先を認識して冷や汗をかく太一。この世界でここまで生きた心地が しなかったのは、あの日黒曜馬に襲われて以来だった。 ﹁剣だけならあたしの勝ちね。いいわ、少し教えてあげる﹂ 切っ先を太一に突き付けたまま、不敵に微笑むミューラに見とれ たのは内緒である。 その一方、奏は自らが開発した音波ソナーの魔術をレミーアに教 えた。 半径二〇〇メートルにいる存在を、何となくだが知ることが出来 るこの魔術。 音とは空気の波である。現代の知識を披露したときのレミーアの 食いつきようは半端ではなかった。人が何故音を認識出来るのか。 音の波を鼓膜が受け取り、それを脳が認識して⋮⋮等、高校一年生 で知り得た知識の範囲内でレミーアの質問に答えていく奏。この世 界での常識からは数百年の単位で先に進んでいる奏の知識にレミー 388 アが疑問を投げ掛けたが、奏は﹁そういうもの﹂と断言した。 レミーアの魔術における理解力はやはり半端ではなく、教えてそ の日のうちに使えるようになっていた。 訓練を兼ねた休暇はとてもいいリフレッシュタイムとなり、三人 は気持ちも新たにアズパイアへ戻ったのだった。 出発間際、レミーアが﹁しばらくしたら私も街へ行こう﹂と言っ ていた。久々にジェラードに話すことがあるらしい。 今はギルドの掲示板で手頃な依頼を物色中だ。前回は行けなかっ たユーラフに行こうかとミューラは頭の端で考えながら言う。ユー ラフ炭坑探索の依頼書はどこだろうか。こう貼り紙が多いと見付け るのも一苦労だ。 ﹁レミーアさん言ってたわ。音波ソナー魔術は、偵察とか斥候の常 識を打ち砕く魔術だって﹂ ﹁そうなのかな﹂ 奏としては、電磁波を使ったレーダーが再現出来なかったため、 その場しのぎのつもりで作った魔術だったので、そこまで高い自己 評価をしていなかった。 ﹁自分を中心に半径二〇〇メートルの生物を捉えるって。そんな事 されたら奇襲も不意打ちも出来ない。凄いことよ?﹂ その為に作った魔術である。では何故カシムを追跡するときに使 わなかったのか。そう問われたら、切羽詰まっていた、としか答え ようがない。自分でもどうして使わなかったのか分からないのだか ら。 ﹁ミューラの剣術も凄かった。やっぱ俺の紛い物とは違うや﹂ ﹁流石に剣でも負けたらあたしの立つ瀬が無いわ﹂ 389 ミューラが教えたのは、構えと剣での切り方、そして受けの型を いくつか。太一に防御が必要とは思えないが、それでも対人相手の 威圧には十分だろう。軽々と余裕綽々に受けられ、悠然と構えてく る敵を想像したら、背筋がぞっとしない。 切り方については、攻撃の型というよりは刃物の扱い方だ。力任 せに叩きつけるようなやり方だったため、刃が潰れてすぐナマクラ になってしまう。 因みに、教えたらメキメキと上達していく太一の筋の良さに、少 なからず嫉妬したのは内緒である。 ﹁あ、見付けた﹂ ユーラフ炭坑探索の依頼書を見付けた。そうそう受ける者はいな いだろうが、確保しておくに越したことはない。取ろうとして、斜 め下からにゅっと可愛らしい手が伸びてきた。 脇目も振らずに伸びるその手の先には、ユーラフ炭坑探索の依頼 書。このタイミングでは間に合わない。慌ててミューラも手を伸ば そうとして、ライバルの手が、依頼書の手前で止まった。 ﹁え?﹂ 冒険者がどの依頼を受けるかは、早い者勝ちである。気に入った ら確保してしまえばいいのだ。取られた方が悪い。だから、遠慮を する必要などないのだが⋮⋮。 ﹁⋮⋮とどかない﹂ 依頼の奪い合いというバトルには似つかわしくないのんびりとし た声が、三人に届く。 390 とりあえず、依頼ゲットは早い者勝ちの法則に則り、ミューラは ユーラフ炭坑探索の依頼を確保した。 ﹁⋮⋮むう﹂ 黒いローブを頭からすっぽり被った小さな影が、膨れっ面をして こちらを見上げてくる。 この顔に、太一と奏は、見覚えがあった。 ﹁﹁あ﹂﹂ ﹁⋮⋮﹂ こちらを見たローブの人物が目を丸くする。 見間違えるはずもない。この世界で太一たちの命を救った恩人。 アズパイアギルドのナンバーワンチームの魔術師、メヒリャだった。 ◇◇◇◇◇ ﹁はっはっは! しばらく見ねえうちに男前の顔になったじゃねえ か!﹂ ﹁いて! いててて!﹂ 391 バシバシと太一の背中を叩くバラダーが豪快に笑っている。 ﹁まさか本当に冒険者になっているとは⋮⋮その様子だと、順調の ようだね。カナデちゃん﹂ ﹁ええ、お陰様で﹂ ﹁金の剣士と⋮⋮チーム組んでる。びっくり⋮⋮﹂ ﹁ちょっと縁があって、組むことになったの﹂ ここはギルドのホール。メヒリャに呼ばれてやって来たバラダー、 ラケルタとも再会した。誰ともなく昼を共に食べようと言い出し、 今に至る。 事実はまだ明かされていないため、当人たち以外の冒険者はバラ ダーたちがアズパイア最高の冒険者チームだと思っている。更に、 破竹の勢いで頭角を表した上、ミューラをメンバーに迎えた事で一 気に時の人となった太一たち。彼らが一堂に介するテーブルは、他 の冒険者たちの注目の的となっていた。 ﹁どうだ冒険者は。楽な生き方じゃあねえだろ?﹂ ﹁そうですね。厳しいです﹂ ついこの間厳しい現実を味わった奏の言葉には、妙な実感がこも っていた。 それを、依頼をこなすのが大変なんだな、と解釈したラケルタは、 嬉しそうに笑った。 あの時命を救った二人が、仲間を増やし、厳しい現実と向き合い ながら生きている。その姿はラケルタたちにとって、助ける事が出 来て本当に良かった、と思わせ、また明日の知れない冒険者稼業を しながら、再会を果たせたのは奇跡、と実感させるものだったから。 ﹁金の剣士と組んでるってことは⋮⋮Eランクに上がれたの⋮⋮?﹂ 392 Eランク冒険者になるのに、たった一ヶ月は相当早い。実力その ものは最低でもBランク冒険者と言われるミューラに教わったとし ても、早すぎる。そもそも上がれなくたって不思議ではないのだ。 戦いのたの字も知らなかった若い二人が、一体どうやったのか。メ ヒリャは単純な疑問として聞いた。 その質問に、深い意図は無かった。駆け出し冒険者の苦労話を肴 にしようと思っただけなのだ。太一たちは顔を見合せ、やがて口を ゆっくり開いた。 ﹁実は俺たち、こないだCランクになったんだ﹂ ラケルタが、食べようとしていたフライを口から落とす。メヒリ ャが目を丸くした。バラダーがコップを傾ける。中身の酒がだばだ ばとこぼれた。 ギルドが、静寂に包まれた。 ﹁⋮⋮Cランクぅ? はっは、冗談きついな﹂ ﹁そうだねえ、ドッキリだとしても、もう少し信憑性あるものがい いよ﹂ ﹁⋮⋮いくらなんでも⋮⋮それは無理がある﹂ バラダーたちは、それを三人の冗談として片付けるつもりらしい。 こちらの話を聞いていた他の冒険者たちも乾いた笑みを浮かべてい た。 ミューラはおもむろにギルドカードを取り出し、魔力を込めて三 人に提示した。 ﹁⋮⋮Cって、なってる⋮⋮﹂ ﹁﹁⋮⋮﹂﹂ 393 これが嘘なら、ギルドぐるみのたちの悪い冗談ということになる。 だが、そんなことは万が一にも起こり得ない。ギルドにとって冒険 者ランクの評価はギルドの顔と同等。例え国家予算に匹敵する金を 積んでも、捏造など出来はしない。 チームのランクは、メンバー個々の実力が厳正に審査された上で 決められるので、これは正式なランクだ。因みにCランク冒険者の チームにEランク冒険者が加入したりすると、ほぼ確実にチームラ ンクはDに格下げされる。Eランク冒険者の実力がつかないと、C ランクに戻ることは出来ないのだ。 冒険者を始めて一ヶ月強でCランクに到達。これはジェラードか ら聞いたが、文句なしの世界最速記録である。 ﹁そんな馬鹿なああああ!?﹂ 外野冒険者たちの、魂の叫びがギルドにこだました。 ﹁マジかよ⋮⋮本当にCランクかよ⋮⋮俺たちは苦労したよな⋮⋮ ?﹂ ﹁二年は掛かったかな﹂ ﹁そもそも⋮⋮Dランクに上がるまで⋮⋮三年掛かった⋮⋮﹂ チートとレミーアという優れた師匠のおかげである。もっといえ ば、特に苦労した実感はない。DランクからCランクに上がったの も、指名依頼を無事達成、と評価され、副次的な報酬としてジェラ ードからもらったからだ。貰ったというよりは、依頼達成処理でギ ルドカードを預け、返ってきたらCランクになっていた、というの が正しい。想定外と思っているのは太一たちも一緒である。 とはいえ、これまでの苦労を思い出して遠い目をしているバラダ ーたちに、掛ける言葉がない三人。 394 バラダーたちはとても優秀な冒険者チームである。比較対象が悪 かったとしか言いようがなかった。 ﹁はあーあ。ちっと先輩面してやろうかと思ってたんだが、これじ ゃあ何も言えねえなあ﹂ いち早く事実を事実として受け止めたらしいバラダーが笑う。彼 の器は、ガタイと同様やはり大きい。 ﹁そうだね。Cランクといえばもう一人前だからね﹂ ﹁うん⋮⋮見事⋮⋮天晴れ⋮⋮﹂ 褒められると恐縮してしまう。 ﹁でも、足りないところがたくさんあるのよ﹂ その流れを断ち、ミューラが切り出した。何を言おうとしている のか分からない太一と奏は、黙ってエルフの少女を見詰めている。 ﹁足りないところ?﹂ ﹁ええ。あたしたち、Cランクになるのに一ヶ月ちょっとしか経っ てない。Cランクともなれば、大体なんでも経験していると思われ るものよね﹂ ﹁なるほど﹂ ﹁⋮⋮そういうこと⋮⋮﹂ ミューラが何を言いたいか察するラケルタとメヒリャ。 ﹁おいおい、二人だけで納得すんなよ﹂ ﹁全く。本当に脳筋だ﹂ 395 ﹁ああん!?﹂ ﹁彼女は受けたことのない依頼がたくさんある、って言ってるんだ よ﹂ ﹁んなもん、俺たちだってそうだろうよ﹂ ﹁⋮⋮そうじゃない。ミューラは、経験の無い⋮⋮依頼のジャンル がある⋮⋮そう、言ってる﹂ ﹁⋮⋮つまり、どういうこった?﹂ ﹁例えばだよ? 討伐依頼はやったことあるけど、護衛依頼は受け た事が無い。採取依頼は経験してても、探索依頼は未経験。多分、 そういう事を言ってるんだよ﹂ ﹁何だ。護衛依頼受けたこと無いのか﹂ ﹁例えだよ、例え﹂ ラケルタの言っている事は当たっている。護衛は一度だけだし、 探索は未経験だ。それ以外にも野営の仕方や、武器防具の手入れを 自分でやらねばならない事もありうるし、簡単な怪我の応急措置や 一般的な病の治療に解毒法も必要、トラップの解除だって必要な技 術だ。覚えなければいけない事はたくさんある。 一般的には失敗したときに足りないものに気付き、一つずつ補完 していくもの。無論バラダーたちもそうやって力を付けてきた。 しかし太一と奏は、ここまで一度も依頼をしくじっていない。順 調に来すぎてしまったがゆえの、不足ポイントだった。 ﹁だから⋮⋮炭坑探索の依頼を⋮⋮?﹂ ﹁ええ。いい経験になると思って﹂ Dランクとしては難易度が高い依頼だが、一ヶ月でCランクに上 がれる腕があるのなら、少し物足りないかもしれない。 と、何かを思い付いたのか、バラダーが楽しげに笑った。 396 ﹁よおミューラちゃん。それ、俺たちにも一枚噛ませろよ﹂ ﹁え?﹂ ﹁俺にいい案があんだよ。お前らもいいよな?﹂ 確認しているようで、バラダーが一人で既に決めている。 ラケルタとメヒリャが、また始まったよ、という顔をしていた。 ミューラがこちらに小さくサムズアップを向けてきた。この展開 を狙ったようだった。 397 再会︵後書き︶ 次回以降の簡単なあらすじです。 太一がみた夢。 思い知る未熟さ。 異世界に来て圧倒的な力を得、苦労をしてこなかった太一と奏が知 る現実。 そんな中、一人の行動が二人を揺るがす。 彼等は、どのような答えを出すのか。 それを見ていたミューラもまた、経験したことのない複雑な感情が 揺れる。 そして訪れる脅威。 味わう恐怖に、抗えるのか。 398 アニメ予告のナレーター風にしてみました。 二章の今後の流れです︵笑︶ 楽しみに思って頂けたら幸いです。自分に適度なプレッシャーをか けて頑張ります! 399 冒険者としての厳しさ︵前書き︶ いつの間にかストック出しきりました︵笑︶ 今回はバラダーたち大活躍です。 400 冒険者としての厳しさ ユーラフへは、太一たちのチームと、バラダーたちのチーム合同 で行くこととなった。 馬車ではなく、歩きでアズパイアを出発した。徒歩での遠征の経 験値蓄積である。アズパイアからユーラフの道中に、太一たちにと っても、バラダーたちにとっても、脅威となる魔物はいない。だが、 いやだからこそ、やる価値は十分にある。 最も肝となるのは野営だ。テントを張って食事を用意し、周囲を 警戒しながら見張り番もする。 言葉にすれば簡単である。しかし実際は口で言うほど易い事では ない。今回、街から保存食は持っていかない。全ては道中で確保す る。それが可能だと知っているラケルタの指示だ。 食べられる植物と食べられない植物の見分け方。 動物の捕獲と、その血抜き。 それだけでも、日本人である太一と奏にはかなりの衝撃だった。 生きるために必要なこと、と言いながら、ミューラは捕らえた野 うさぎに感謝と祈りを捧げ、その首に短刀を突き立てた。焚き火で 焼けたうさぎの肉に、味付けは無かった。 こういった生き方は地球でも行われている。ただ、それはテレビ で見掛けるドキュメンタリー番組で観るのがせいぜい。 魔物を殺すのとは感覚が違う。どちらも命を奪う事に変わりがな いのだが、それでもやはり感じるものは一緒ではなかった。 バラダーたちやミューラの奮闘もあり、何とか食事にありつけた。 これはなかなか厳しい課題である。いくら強かろうと、餓えと渇き には勝てないのだから。 その後は夜中の見張り番である。バラダーたちのチーム、太一た ちのチームから一人ずつ担当する事になった。前半中盤後半の三分 割。夜の見張り番は手慣れた様子のバラダーたちに比べ、太一たち 401 は翌日眠かった。この辺も経験不足が露呈する。道中五日間。本当 に足りないものが多いと実感させられたのだった。 ユーラフに着いたのは、五日目の夕方。門番にギルドカードを提 示して村に入り、ユーラフの村長を訪ねて炭坑探索の依頼で来た事 を告げる。Bランク冒険者チームとCランク冒険者チームが同時に 受けに来た事を知ると、村長は大層驚いていた。この依頼を受ける のは殆どがDランクの冒険者チーム。たまにCランク冒険者チーム が来るくらいだ。Bランク冒険者チームが来ることは殆ど無い。 明日から早速炭坑に潜ることを伝え、太一たちは村長宅を後にし、 宿屋に向かった。 初めてのダンジョン探索は、明日早朝から始まる。 ◇◇◇◇◇ この場所に見覚えはなかった。 とても白い。 右も左も。前も後ろも。上も下も。 全方向が、白い。 何故ここにいられるのだろう。 地に足を着けている感覚はない。浮いている感覚もない。 自分が存在する感覚がない。 だが、確かにここにいる。 ぽたり⋮⋮ 402 自分でも何故。 こんな支離滅裂な思考をしているのか分からない。 それでもこの状況を表現するのなら。 それが一番しっくりくるのだ。 ここは、どこだ。 分からない。 だが、ここがどこだか知っている。 ぽたり⋮⋮。 矛盾。 矛盾している。 自分の思考に、そう評価を下した。 だが、分かる。 分からないのに、分かる。 分かるから、不安ではないのだ。 ぽたり⋮⋮。 では、何故ここにいるのか。 アタシが呼んだのよ︱︱︱︱ どうやら彼女が呼んだらしい。 懐かしさを覚える声だった。 聞き覚えの無い声なのに。 ぽたり⋮⋮。 もう、待ちくたびれたわ︱︱︱︱ 待たせているのか。 403 それは悪いことをしている。 早く、会わなければ。 ぽたり⋮⋮。 いいえ、慌てなくていいわ︱︱︱︱ さっきと言っている事が違う。 それに、この落ちる音は一体。 ぽたり⋮⋮。 もうすぐ目覚めるの。それは、カウントダウン︱︱︱︱ 何が目覚めるというのだろう。 ぽたり⋮⋮。 会えるわ。これは、運命だから︱︱︱︱ ぽたりぽたり⋮⋮。 何かを思い付いたのか問い掛ける前に、視界が光に染まる。 ﹁ちょ、待ってくれ!﹂ 自分の声で、太一は目が覚めた。 伸ばされた自分の手と、その先に見える天井。 意識を取り戻すためには、少しの時間が必要だった。 やがて覚醒していく頭。 何か夢を見ていた気がする。だが、それが何なのか、もう思い出 せない。 404 何となく懐かしく、何となく切ない夢。 とても大切な何かなはずなのに、何も思い出せない。どういう事 なのだろうか。 ﹁君は誰なんだ。教えてくれ⋮⋮エアリィ﹂ 極自然に口にした名前。 エアリィなる人物と、異世界で出会った事など無いのに。太一に とっては、知っているのが当然と思える名前だった。 ◇◇◇◇◇ 炭坑は暗く、灯りが無ければ足下すら見えない。 奏とミューラが、火を灯して光を生み出している。 メヒリャも火属性の魔術師である。だが、本人が言うには﹁細か い魔術は苦手﹂とのことだ。 攻撃魔術の威力には自信があるが、汎用性が無いらしい。他でも ない本人が言うのだから間違いはないだろう。 バラダーたちは、ダンジョンに潜る時は松明を持っていくらしい。 今回は奏とミューラが灯りを供給出来るため、荷物が減っている。 ミューラはシンプルに火を。 奏はランタンをイメージした火を。 405 灯りが二つともなれば、相当な光だ。 足元もよく見える。ならばダンジョン探索も順調かと言えばそう でもなく。 ﹁うおわあっ!?﹂ 太一がトラップを踏み抜いて、左右の壁から飛び出す槍を何とか 真剣白羽取りし。 ﹁っいやあああ!﹂ 寄りかかった壁が回転式の隠し扉で。中にあったたくさんのドク ロに奏が可愛らしい悲鳴を上げ。 ﹁こんな子供だましのトラップ、見破らな、きゃあああ!﹂ 余裕綽々でひょいひょいと歩くミューラを、天井から降り注ぐ芋 虫が襲い。 ﹁ぜえ、ぜえ⋮⋮﹂ ﹁はあ⋮⋮はあ⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 炭坑に潜って都合二時間。 三人の若者はくたばっていた。 ラケルタが呼び掛けても返事がない。ただの屍のようだ。 ﹁なんだ。本当に経験不足だな。こんなとこまだまだ温いほうだぜ﹂ 流石のバラダーも苦笑いを浮かべている。 406 ﹁これは⋮⋮前途多難⋮⋮﹂ メヒリャの評価は散々だ。しかし、反論の余地はない。ついでに 気力もない。 途中何度か魔物にも出会った。その時の戦闘は見事なものだ。連 携はまだまだ改善すべきところもあるにはあるが、そんなものを吹 き飛ばす位に個々の力が凄まじい。 このダンジョンで出る魔物でははっきり言って力不足。そう断言 してもいいくらいの強さである。 一方、冒険者としての総合力はまだまだだ。 Eランク冒険者ですら引っ掛からないような罠に引っ掛かる。マ シなのはミューラだが、彼女も脇が少し甘い。バラダーたちからみ て、突出した強さが無ければ、既に数回死んでいる。 自分達を経験不足と評したミューラだが、それは謙遜でも何でも なく、純然たる事実だったのだ。 ﹁はあ⋮⋮ったく、ここは炭坑だろ? 何でこんなにトラップある んだよ⋮⋮﹂ 力無く呟く太一。 ﹁この炭坑はよく盗賊のアジトにされるんだよ。だから、侵入者妨 害のために、坑夫たちが仕掛けたんだ。ギルドの罠師とかに依頼し てね﹂ 項垂れる太一たち三人。坑夫たちは引っ掛からないのだろう。つ まり、冒険者でありながら、彼等にも劣っているということ。他に も、折角仕掛けたトラップを太一たちが無駄に発動させているとい う側面もあるのだが、泣きっ面に蜂と考え、あえて言わないでおい 407 た。 流石にいつまでもトラップで時間を喰うわけにはいかない。バラ ダーたちにトラップの回避指南をしてもらいながら、サクサクと進 んでいく。最初太一たちが先導したのは、自分達がどれだけ未熟者 かを知るためだ。バラダーたちが先導をしてからピタリと罠に掛か らなくなった。 力の差を痛感する。 しかしこれでただで起きるのも癪である。ラケルタが分かりやす く解説してくれるのを、頭と身体に叩き込んでいく。 入り組んだ炭坑を、直感に任せ、魔物を狩りながら進んでいくと。 ふと、雰囲気が変わった。 ﹁太一。何か変﹂ ﹁奏も感じるか﹂ 太一も今はあえて気配をさぐっていないし、奏もソナー魔術も使 っていない。 いつでもそれを使える訳ではない。頼りすぎるのも問題だ。そう 諫言してきたレミーアの教えを実践中である。 空気を肌で感じとる、直感の類い。いい機会だと、二人はそれを 鍛える事にしたのだ。便利魔術を持っていないミューラの感覚は二 人より遥かに鋭敏で、太一と奏の前に気付いていた。 ﹁何かここにいたらいけない気がする﹂ ﹁奇遇だな。俺もそう思う﹂ ﹁あたしも⋮⋮でも、何か変ね﹂ ミューラの疑問は、太一と奏も覚えたものだ。この炭坑に潜って 既に四時間。それだけ長い間いるのに、﹁いたらいけない﹂という 感覚を覚えたのは初めてだ。 408 バラダーたちはこの気配に何を考えるのか。そう思って見てみる と。メヒリャが洞窟の壁一点をじっと見詰めて微動だにしない。 ﹁早えな。見付けたか﹂ こくりと、メヒリャが頷く。 ﹁やっはり。どうやら、この先にいるようだね﹂ 何があるのか。そして、何がいるのか。 ﹁人払いの魔法具だよ﹂ ﹁人払い?﹂ ﹁うん⋮⋮﹂ メヒリャが杖の先端で壁を突く。パン、と音かして、違和感が一 切吹き飛んだ。 杖の先には、割れた木の板。先程までそんなものは無かったはず だ。 ﹁人払いの魔術に⋮⋮隠蔽の魔術⋮⋮﹂ ﹁どうやら、後ろめたい誰かさんがいるようだね﹂ ﹁折角だ。潰しておくか﹂ 気負いなどまるで無い。人払いの魔術を見破ったことも、この先 にいる誰かを潰すと言ったことも。これが経験の差なのか。とても ではないが、すぐには埋められそうもない。先に進んでいくバラダ ーたちを追いかける。 やがて、洞窟の先に開けた場所が見えた。洞窟としては不釣り合 いな生活感が溢れている。そこにいたのは、一三人の男たち。粗野 409 な風貌に薄汚れた服を纏い、視線をこちらに向けている。 やがてこちらの人相を把握した一人が笑い出した。 ﹁おうおめえら。バカな冒険者が武器くれるってよ!﹂ ﹁上玉の女もいんじゃねえか! こいつあいいや!﹂ どうやら、相手の実力を見た目でしか判断出来ないらしい。奏と ミューラは不快げだが、太一にとってはあまり脅威とは思えなかっ た。ゴブリンたちの方がよほど厄介だ。彼等は全力で獲物を狩りに 来る魔物だから。 ﹁てめえら盗賊だな﹂ 一通り男たちの言葉を聞いて、バラダーは静かに言った。彼の声 色に、一切の容赦が無いことに気付いているのだろうか。 ﹁だったらどうだってんだ? ええ? ハゲ!﹂ 罵られたバラダーは、自分の頭を二回撫で上げ、笑う。 ﹁否定なしか。ありがとよ﹂ 背中の大剣を抜き、男たちに向ける。 ﹁心置無く、てめえらのきたねえツラを斬れるってモンだ﹂ バラダーに続き、ラケルタが薄い笑みを浮かべながら弓に矢をつ がえ、メヒリャが杖を構える。 ﹁んだとこら! このにんず⋮⋮が﹂ 410 椅子を蹴り上げ、立ち上がった男の言葉は、最後まで続かなかっ た。彼の喉には矢が生えている。ラケルタが射ったらしい。凄まじ い早業である。 口の端から血を吹きながら、男は仰向けに倒れた。 ﹁盗賊なら、自警団に突き出したところで死罪。なら、ここで死ん でも変わらないよね?﹂ 盗賊たちの顔から笑みが消える。 ﹁全滅させたって⋮⋮ユーラフで報告する﹂ メヒリャが杖を掲げた。その先に火の玉が生まれる。 ﹃ファイアアロー﹄ 小さな火の矢が三本、盗賊に向かっていった。それを皮切りにバ ラダーが駆け出し、ラケルタが再び矢をつがえた。 悲鳴が周囲の壁に当たり反響する。 ﹁⋮⋮﹂ 目の前で人が死んでいる。 紅い血飛沫が舞っている。 盗賊は死罪。何故なら悪人だから。それはこの世界の常識なのだ ろう。 日本でも凶悪な犯罪者には死刑が課せられる。彼等盗賊も、日本 で罪を犯したなら死刑に匹敵する凶悪犯だろう。情状酌量の余地は ない。 411 だが、人がこのようにリアルに死ぬところを見たことはなかった。 スプラッタ映画など目ではない。どんなにバイオレンスだろうと、 あれはフィクション。太一と奏の目の前で起きているこれはリアル。 ﹁タイチとカナデは、人を殺めたことが無いのよね?﹂ ミューラとレミーアには、どういう世界から来たかを話している。 その時、冒険者として生きるなら人を殺す必要もある、と言われて いた。 返事をする余裕すら無い二人を見て、ミューラは二人の肩をそっ と抱き寄せた。 ﹁無理しなくていいわ⋮⋮でも、目は逸らしちゃダメ⋮⋮。あたし たちは、こういう世界に生きてるから﹂ ﹁ミューラは、あるのか?﹂ 何が、とは訊かなかった。訊く必要がなかった。 ﹁あるわ﹂ ミューラは答える。彼女は太一と奏の一つ年下だったはずだ。 ﹁勘違いしないでね。人を殺めて平気なほど、腐ってはいないから﹂ バラダーが一人を豪快に切り伏せる。 ﹁必要なのよ、これも。あいつらを放っておいたら、もっと酷い被 害が出る。一度盗賊に堕ちてしまったら、死罪か、冒険者の討伐隊 に潰されるか。それしかないのよ﹂ 412 Bランク冒険者のバラダーたちと、ただの無法者に過ぎない盗賊 とでは、戦闘力の地力が違う。両足に矢を穿たれ、動くことの出来 ない盗賊が命乞いをしている。他に動いているのはバラダー、ラケ ルタ、メヒリャのみ。一人を残して全滅したようだ。 ﹁おい。仲間はどこだ?﹂ ﹁い、いねえよ! これで全部だ! 助けてくれ!!﹂ ﹁嘘じゃないという証拠は何かあるのかい?﹂ ﹁嘘ついても意味ねえだろ! 本当だ! 信じてくれ!﹂ ﹁盗賊の言葉を⋮⋮信じるのは大変⋮⋮﹂ 三人から冷たい視線を浴びせられ、男はそれでも喚いている。 ﹁分かった分かった。悪かったな、疑って﹂ 満足したのか、バラダーが男の言い分を認めた。 ﹁当面はユーラフに危機はねえってこったな。あんがとよ﹂ 安堵した男の顔が、すぐに驚愕に染まる。そして彼は、その表情 のまま動かなくなった。 バラダーの大剣が男の心臓に突き立っている。それはさながら、 ここで裁かれた盗賊たちの墓標のようだった。 413 冒険者としての厳しさ︵後書き︶ 今後、更新間隔が開きそうです。 三日に一話を目標に一先ずやっていきます。早く書ければ早く更新 しますし、三日では出来ないと思えばもっと間が空きます。 すみませんがご了承下さい。 良ければ次も読んでみてください! 414 閑話休題∼作者の落書き∼︵前書き︶ ちょっと息抜きに挿し絵のテスト。 本編はも少しお待ちください。 415 閑話休題∼作者の落書き∼ 作者の︵下手くそな︶落書き。 ついでに字も下手です。 本キャラデザは友人に依頼しています。 ちょっと途中を送ってもらって見ましたが、このイラストとは大分 違います。 今回アップしたものについては、﹁こうかもー﹂位で見てください。 あまりこれでイメージ固めるのは控えてもらえると。 友人の方が作者より数倍は絵が上手いので︵笑︶ 奏 <i50549|6223> ミューラ <i50550|6223> レミーア <i50551|6223> 416 え? 太一はどうしたって? 普通過ぎてイメージ浮かばねえ︵笑︶ というより、野郎描いてもおもしろくn︵ry つかでけえwww 417 閑話休題∼作者の落書き∼︵後書き︶ 因みに絵は上手くなろうとしてませんので、イラストへの指摘やア ドバイスは受け付けません︵笑︶ 指摘、アドバイスには一切リアクションしないので予めご了承下さ い。 初めての挿し絵なので、うまく見れない等ありましたらご一報下さ い。 418 それぞれの気持ち其の一︵前書き︶ 二話で一セット。 場面切り替わり多いです。 419 それぞれの気持ち其の一 バラダーたちが泊まるホテルに程近い場所にある酒場。そこでバ ラダーは、朝っぱらから酒をあおっていた。 ﹁あー。失敗したなあ﹂ 口を開けばそれである。彼の前に座るラケルタは、お茶を飲みな がらバラダーの愚痴を聞いていた。 ﹁仕方無い⋮⋮私たちも⋮⋮知らなかった⋮⋮﹂ バラダーの横に座るメヒリャが、ミルクティーを飲みながら言う。 彼女のそれは凄まじい白。ミルク入りのティーではなく、ティー入 りのミルクである。因みに砂糖もたっぷり。見てるだけで胸焼けし そうな一品だ。 ﹁まさか、タイチ君とカナデちゃん、人が死ぬところを見るのは初 めてとは思わなかったね﹂ 二人にとって、昨日の盗賊殲滅劇はかなりショッキングだったら しい。朝酒場に行こうとして、ミューラとすれ違った。 太一と奏は? と聞けば、まだ立ち直れていないという。二人に は相当に刺激が強かったようだ。 太一と奏はCランク冒険者。それが、二人の前で殺しを躊躇わな かった理由である。そう易々とCランクになどなれはしない。それ を一ヶ月で達成した二人だから、問題ないと思ったのが、バラダー の正直なところだ。 ラケルタとメヒリャもそれは十分分かっている。二人も同じ考え 420 だったからだ。 ﹁結構ショッキングだったと思うぜあれは﹂ ﹁確かに﹂ ﹁⋮⋮うん﹂ 今でこそ盗賊程度なら気にせず倒すことができるバラダー。だが、 最初からそんな真似が出来たわけではない。実力は勝っても、正当 な理由があっても、盗賊に剣を振り下ろせるようになるまでは少な くない時間がかかった。 力を持たない小さな集落が盗賊たちによって蹂躙された。男は皆 殺しにされ、女は慰み者となり、子供は奴隷商人のもとに連れてい かれた。後に分かったのは、それをやったのが、バラダーが殺せな かった盗賊たちだったと言うこと。 打ちひしがれる程の思いを味わい、やっと悪党に手を下す事を躊 躇わなくなった。 あんな思いは二度とゴメンだ。あれで覚悟を決めれたとしてもだ。 あれほどの出来事がなければ、太一も奏も難しいだろうか。 ﹁ちきしょう! うじうじしてるのなんざガラじゃねえや!﹂ がたりと豪快に音を立て、バラダーは立ち上がる。 ﹁バラダー⋮⋮どこ、行くの⋮⋮?﹂ ﹁ああ。タイチのボーズと色街にな。こーいう時はスカッとヌいち まうのが一番いいんだ!﹂ 何だか字が違うのは、きっと気のせいではない。 ﹁⋮⋮下品﹂ 421 顔をしかめるメヒリャに、バラダーはガハハと笑った。 ﹁おいラケルタ。お前もたまにゃ付き合うか?﹂ ﹁いや遠慮しておくよ﹂ ﹁相変わらず付き合いわりいなあ。いっつも俺だけで行ってるんだ ぜ?﹂ ﹁今日はタイチ君も連れてくんでしょ? 一人じゃないよ﹂ ﹁おお、それもそうだ!﹂ じゃあいってくらあ、と手を振って、バラダーは酒場を出ていっ た。 残されたラケルタとメヒリャは顔を見合わせる。 実は、バラダーは見掛けによらず気配り上手である。それであの 強さと逞しさ。バラダーはモテるのだ。色々な街に行くが、場所に よっては女性から本気でアプローチを掛けられる程だ。 当人も女性は好きなはずだ。気が向いたらふらりと色街に繰り出 す位には。だが、先述の本気でぶつかってくる女性には手を出した ことが無いという。 それは何故なのか。ラケルタはふと目の前の少女⋮⋮もとい、大 人の女に目を向ける。 ﹁まあ⋮⋮思うようにはいかないか﹂ 小首を傾げるメヒリャを見て、やはり気づく予兆すら無い、と溜 め息をつくラケルタ。 バラダーも前途多難である。 ﹁さて。僕も行ってくるよ﹂ ﹁⋮⋮カナデの⋮⋮ところね⋮⋮?﹂ 422 ラケルタは頷いた。 ﹁そ。タイチ君だけ慰められるのも不公平だからね﹂ メヒリャは笑う。感情が読めないように。 ﹁いってらっしゃい⋮⋮﹂ 笑顔のまま、メヒリャはラケルタの背中 を見送ったのだった。 ◇◇◇◇◇ ﹁どう? 気分は﹂ クーフェを持って、ミューラが部屋に戻ってきた。 ﹁うん。少し良くなった﹂ ありがとう、と受け取り、湯気を立てるそれを一口。少し薄めに 淹れられたそれは、ブラック派ではない奏にも十分飲めた。 423 ﹁美味しい﹂ ほう、と溜め息をつき、カップを見詰める。 人を殺すのは必要。宿に戻ってから、改めてミューラに説かれた。 冒険者が相手にするのは、盗賊や脱走する犯罪者。或いは奴隷商人 などの人に言えない何かがある者。ギルドが主体となって、冒険者 の討伐隊が組まれることもあるという。 因みに、奴隷商人にも真っ当な者ももちろんいる。国に認められ た商人で、奴隷相手といえども不当な虐待などをすれば罰せられる。 異性に対する立場を利用した性行為の強要など言語道断。食事も一 日二回、そこそこのものを食べさせねばならない。そういうコスト が掛かる分、奴隷の値段も高い。しかしその対価を支払って釣りが 来るほどに質がいい。隠れて営業しているモグリの奴隷商人が売る 奴隷とは雲泥の差である。またモグリの奴隷商人から奴隷を買うと、 それだけで犯罪である。 話を戻すと、Cランクなら、ギルドも積極的に選んでくると聞い た。盗賊ごときには負けない戦闘能力があると判断されて。つまり 今後、奏がどれだけ嫌がろうと、向こうからやってくるという事だ。 ならば、早目に慣れておくべきか。いや、いくら相手が犯罪者だ ろうと、殺人に慣れるなんてもってのほか。 その辺り、太一はどう考えているだろうか。 ﹁ミューラ。太一は?﹂ ﹁出掛けたわよ?﹂ ﹁出掛けた?﹂ ﹁ええ。バラダーと一緒に﹂ ﹁ふーん⋮⋮﹂ そういえば、この異世界で別行動を取ったのは、Eランクの依頼 424 をこなしていた時だけだったと思う。 酒場なども 太一とて気晴らしがしたいんだろうと、奏は不満には思わなかっ た。この時は、まだ。 ◇◇◇◇◇ ユーラフは中々広い。 アズパイア程では無いが、そこそこに人もいるし、 多い。その理由として、出稼ぎに来る坑夫が多いこと。鉱物の原産 地という理由から質の高い武器を入手できる場所であるため、冒険 者がそれを求めてやってくる。 太一にすれば、片田舎の駅前繁華街のような感覚だ。 それらの情報は、道すがらバラダーから聞いた情報だ。この街の 話から、炭坑について。また周辺の地理や魔物について。 話題には事欠かないが、太一が今聞きたい肝心なことについては、 口を割ろうとしない。 ﹁そろそろどこ向かってるのか教えてくれても﹂ ﹁焦んなよ。じきに分かるからよお﹂ 終始こんな具合である。 425 ﹁何でそんな勿体ぶるんだよ﹂ ﹁楽しみは隠されてた方がいいだろうよ。なあ?﹂ ﹁なあ? じゃなくてさ!﹂ それは確かにそうだが、太一としては何となく嫌な予感が拭えな い。 ﹁男はドッシリ構えてるもんだ。はええとカナデの嬢ちゃんに嫌わ れちまうぞ?﹂ ﹁何で奏が出てくる!?﹂ 思わず声を荒げて誤魔化した。心臓が跳ね上がったのは、悟られ なかっただろうか。ゲラゲラと豪放に笑うバラダーからは、それを 読み取る事は出来ない。 太一の倍以上を生き、太一が生きてきた時間よりも長く冒険者を やっているバラダーが相手では、分が悪いのも当然と言えるのだが。 ﹁さあて。着いたぞ﹂ ﹁ここ? 何この店﹂ 外から見て分かるのは、ごく普通の宿屋のような三階建ての建造 物。だが、そこに宿屋を示す看板はない。 ﹁入りゃ分かる﹂ 二の足を踏む太一を無視して、バラダーはずんずんと進んでいく。 慌ててついていった建物の中には、たくさんの女性がいた。 ﹁あら。バラダーさんじゃない! 久し振り∼!﹂ ﹁えっ? 本当だ! バラダーさんだ!﹂ 426 大柄な男に群がる女性たち。太一は直視出来ない。七人中七人が、 物凄く扇情的な格好だったからだ。刺激が強かった。 ﹁おう! ちぃっとスッキリしにきたぜ!﹂ ﹁あら! じゃあいっぱいサービスしちゃう!﹂ バラダーにしなだれかかり、分厚い胸板を細い指でつつく女性。 日本でなら大学生位の歳だろうか。 ﹁あーずるい! 私も!﹂ 次々とバラダーに迫る女性たちを、バラダーは﹁全員まとめて面 倒みてやる﹂と言いながら笑う。黄色い歓声が上がった。 太一はようやく、ここがどういうところか分かった。ここは日本 で言うところの風俗だ。いかがわしい店だ。 真っ白になった頭で呆然としていると。 ﹁ねえバラダーさん? 後ろの坊やが固まってるけど、その子もお 客さん?﹂ とても落ち着いた声の女性が奥からやってきた。 太一は思わず息を飲む。 何てエロい人なんだ。 第一に抱いた素直な感想はそれだった。 彼女は特に肌を露出させているわけではない。滲み出る雰囲気と でも言えばいいのか、とんでもない妖艶さだ。 ﹁おお忘れてた。そいつはタイチっつーんだ。冒険者だ﹂ 427 視線が一気に太一に集まる。途端に全てが縮こまってしまった。 前屈みになる必要がなくなった。安心すればいいのやら、情けない やらである。 ﹁へえ。この子が。虫も殺せないような優しそうな子じゃない﹂ ﹁まーな。でも見た目だけだ。そいつはCランク冒険者だぞ?﹂ にわかにざわつく。 晒し者になっているようで、正直勘弁してほしい。 ﹁Cランク? 本当に?﹂ ﹁ああ。本当さ。まー色々あったらしくてな。総合的にゃあまだま だだが、戦闘能力だけなら俺とタメ張るぜ?﹂ ﹁へえ凄い坊やじゃない。で、私はこの坊やのお相手をすればいい のかしら?﹂ ﹁話が早くて助かるぜロゼッタ。まー冒険者ならではの洗礼ってや つを味わってな。優しく慰めてやってくれや。ついでに男にしてや ってくれ﹂ ﹁そういうこと。しかも初めてなのね。じゃあ、確かに私の出番ね﹂ クスっと笑うロゼッタ。その空気に圧倒されて太一は動けない。 ﹁じゃよろしく頼んだぜ! 俺は楽しんでくらあ!﹂ バラダーは七人の女性を引き連れて奥へと引っ込んでいく。 ﹁さ、私たちも行きましょうか﹂ ロゼッタが太一の腕を取る。太一よりも少し背が低い。ナイスバ ディというほどではないが、その色っぽさはその辺の女性を遥かに 428 凌駕する。 連れていかれるままに入った部屋は、ベッドとテーブルがあるだ けの簡素な部屋だった。 ﹁座って﹂ 言われるままにベッドに腰を下ろす太一。 ロゼッタはその真正面に立ち、シニヨンで纏めていた髪を優雅に ほどく。はらりと落ちる長い髪に目を奪われた。太一の視線が自分 に向いたのを確認して、ロゼッタは胸元を薄く開く。見えそうで見 えない絶妙なチラリズム。胸元の谷間が眩しかった。 ﹁緊張してるのね。そのまま、何も考えなくていいわ。私が良くし てあげるから﹂ 近づいてくるロゼッタを、太一は働かない頭で見詰めた。 429 それぞれの気持ち其の一︵後書き︶ こういう話を書くのは初めてです。 さて、書かなきゃ。 読んでくださってありがとうございます。 430 それぞれの気持ち其の二︵前書き︶ キャラが勝手に動いて気付いたら出来上がってました。 こんな執筆はそうそうできません︵笑︶ 作者の後書きが悪くて色々反響ありましたが、いい意味で予想を裏 切れたら幸いです。 431 それぞれの気持ち其の二 ﹁ラケルタさん﹂ 来客だと言われてロビーに降りてみれば、ラケルタがテーブルに ついて手を振っていた。 ﹁今日は来客が多いわね﹂ そう呟いて、ミューラが腰を下ろす。それに奏も続いた。 ﹁ごめんね、急に押し掛けて﹂ ラケルタは謝った。奏もミューラも、特に気にすることでもない ため首を左右に振る。単なる社交辞令だ。 ﹁カナデちゃん。気分はどうだい?﹂ 彼も気にかけてくれていたのだ。感謝の気持ちを抱いて、奏は微 笑んだ。 ﹁ありがとうございます。昨日よりは楽になりました﹂ それは建前ではなく本音である。一晩休み、ミューラにそばにい てもらって、本当に楽になった。 何より、太一も同じく辛い気持ちであると考えると、自分ばかり 悲劇に浸るわけにもいかない。 運ばれてきたお茶を一口飲んで、奏はほっと息を吐いた。 432 ﹁わざわざ足を運ぶほど心配だったのね﹂ ﹁そうだね。やっぱりじかに会わないと分からない事もあるしね﹂ ミューラのそれは、トラップだった。少し意地悪に言ってみて、 ラケルタがどう対処するかを見たのだ。それに対して彼は臆するこ となく踏み込んできた。 分かっていないのか、それとも。 彼は、ミューラをじっと見ていた。口の端が軽く上がっている。 ︵⋮⋮このタヌキ︶ ミューラは心の中で毒づく。彼がどういうつもりでここに来たの か察した。いや意図的である事を考えると、察する事を余儀なくさ れた、といったところか。 奏はまともな精神状態ではない。今は自分が防波堤にならなくて は。ミューラは静かにラケルタを警戒する。 ﹁タイチくんはバラダーが引っ張り出したんだよね。カナデちゃん。 僕と気晴らしに出掛けないかい?﹂ ﹁ラケルタさんと、ですか?﹂ 彼はこくりと頷く。面食いな少女ならこのお誘いには一も二もな く乗るだろう。彼はとても整った顔立ちをしている。背も高く、適 度に鍛え上げられてもいる。客観的に評して、男前度はかなり高い。 ミューラはその誘いには乗らないが。 ﹁ありがとうございます⋮⋮。でも⋮⋮﹂ と、言い淀む奏。恐らく脳裏には太一がよぎっている。ミューラ から見てもかなり分かりやすい奏の好意。それを考えれば、いくら 433 ラケルタがカッコよかろうと、その誘いに乗らないのは当然だとミ ューラは思った。 その反応は分かっていたのか、ラケルタはさほど落胆した様子を 見せずに背もたれに寄りかかった。 ﹁そっか。残念﹂ ﹁⋮⋮ごめんなさい﹂ ただ、何だろう。ミューラは違和感をぬぐえない。ラケルタがか なり頭脳明晰なのは、昨日の炭坑探索の時に分かっている。その彼 にしては、随分と無策。言ってみたかっただけなのか。 ミューラは直後、自分の読みの浅さを悔やんだ。 ﹁タイチ君はバラダーが色街に連れていったよ。今頃よろしくやっ てるんじゃないかな﹂ ﹁なっ⋮⋮﹂ 思わず声が出た。これがラケルタの奥の手。奏の心の急所を効果 的に突いた。 恐る恐る奏を見れば、彼女は青い顔をして俯いていた。はっきり 言って、盗賊たちが目の前で惨殺されるのを見たときよりも酷い。 ︵やられた⋮⋮カナデっ!︶ ﹁カナデちゃん。君も少し気分転換した方がいいよ﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁行こう。いいところを知ってるんだ﹂ ラケルタは立ち上がり、馴れ馴れしく奏の手を取った。促される まま立ち上がる奏。 あれだけ強い少女が、今は消えそうなほどに弱々しい。 434 ﹁じゃあミューラちゃん。夜までには戻るよ﹂ ﹁ちょっ⋮⋮﹂ 咄嗟に言葉が出てこなかった。 それが大きなミス。ラケルタは奏を連れて出ていった後だった。 ﹁⋮⋮もう! 何やってんのよあのバカ!﹂ だん、とテーブルを強く叩く。周囲の視線が集まるが、気にする 余裕はない。最近はいつも一緒だった異世界出身の少年の顔がはっ きりと浮かぶ。 力なく椅子に座り、ミューラは両手で顔を覆った。 ﹁何やってんのよバカタイチ⋮⋮。早く⋮⋮戻ってきなさいよっ⋮ ⋮﹂ 悔しい。 ミューラは、嗚咽をこらえるのに苦労した。 溢れる感情をもて余す。何故こんな気持ちになるのか、ミューラ にはその理由が分からなかった。 ◇◇◇◇◇ 435 ロゼッタがぎしりと太一の横に腰かけた。肌をが触れ合う距離。 しなやかな指先が、太一の胸を撫でる。背筋がぞわりと震えた。 ﹁素直に、身体で感じるまま委ねるの。それが一番いいのよ?﹂ ロゼッタが耳元で囁く。 頭が痺れて思考回路が焼けつく。 このまま、すべてを委ねてしまおうか。 彼女は相当に慣れているようだ。であれば、きっと何もかもが、 万事上手く行くだろう。 ﹁緊張なんか、感じる余裕ないわよ。ふふ、覚悟しててね?﹂ ひと もう何も考えたくない。 ただ、この女性に、されるがままになってしまおう。 そう考えたところで、脳裏にある人の顔が浮かんだ。 こちらを見ていたのに、悲しげに顔を背けるその人。 その人は、太一にとってどんな人だった? 彼女を悲しませて、自分は胸を張れるのか? いや。 そんなことはない。 誓ったのは、そんなに安いことではない。 刹那的な欲望に囚われて、見失っていいものじゃない。 ﹁⋮⋮奏﹂ そう呟いたのと、ロゼッタの指が太一から離れたのは、同時だっ た。 436 ﹁⋮⋮?﹂ 何で止めたのだろう。随分と盛り上がっていたはずだ。少なくと も、太一の気持ちは別にして。 そう思ってロゼッタを見てみる。 彼女は、姉のような優しい笑みを浮かべていた。 日本にいる姉も優しかった。あの笑みに一体何度癒されたことか。 異世界に来てから、感じる余裕すらなかった、激しい郷愁だった。 ﹁私はね、これでも男を虜にさせる自信があるわ﹂ 開いた胸元を正しながら、ロゼッタは言う。 ﹁でも坊やは、私に迫られながら、他の女の子の事を考えてた﹂ どくんと、心臓が強く胸を叩く。 ﹁何でわかるのか、って顔してるわね﹂ からかうような口調で、しかしどこまでも優しい笑みで、ロゼッ タは続けた。 ﹁坊やが私に隠し事するなら、後三〇年は歳を重ねてきなさい﹂ くすくすと笑う。 その数値があまりにもリアルで、太一は無条件に思う。 ああ。この人には、絶対勝てない、と。 ﹁ふふ。私ほどの女に迫られながら考える子なんだから、よっぽど 437 好きなのね﹂ ﹁⋮⋮好き?﹂ 自分で自分をいい女と言うロゼッタ。とても似合っていた。 ぼけっとした顔でおうむ返しする太一。ロゼッタは﹁なるほどね﹂ と頷く。 ﹁気付いてなかったのね﹂ ﹁えっと。ちょい待ち。好き? 誰が?﹂ ﹁坊やが﹂ ﹁誰を?﹂ ﹁カナデちゃんって子を﹂ ﹁⋮⋮マジで?﹂ ﹁マジで﹂ 信じられない。 一体何が信じられないかというと。 奏を好き。 それが、すとんと腑に落ちたからだ。 ﹁そっか。俺奏が好きなのか﹂ ﹁そうよ。坊やはカナデちゃんが好きなのよ﹂ 諭すようなロゼッタ。太一は彼女に向き合い、頭を下げる。 ﹁ごめんロゼッタさん。俺、貴方とは寝れない﹂ ﹁いいわよ﹂ 彼女の仕事を奪ってしまった。 その思いから謝ったのだが、ロゼッタは微笑んだまま、それを受 438 け取った。 ﹁え?﹂ ﹁バラダーさんが言う通り、まだまだね。いい? 商売女を買った からって、気持ちいい事するだけが時間の使い方じゃないのよ?﹂ ﹁⋮⋮?﹂ 良く分からずに首をひねった。 ﹁つまり、買った女とどんな時間を過ごそうが、買った男の自由っ てこと。たまにいるわ。女に酒を注がれたい、って言って私を買っ て、本当にお酒だけ飲んで帰る人も﹂ ﹁へえー﹂ そうなのか。 それは全く知らなかった。 ﹁だからね、私と寝ないのも坊やの自由。気にする事は無いわ﹂ 個人的にはウブな坊やは好きだけど、とぺろりと舌を出すロゼッ タ。かなりエロい。思わずぐらりと来るほどに。 ﹁さて。どうするの、坊や。時間はたっぷり余ってるわよ?﹂ ﹁そうだなあ。⋮⋮折角だから、ダメ出ししてくれない? 今まで の俺を﹂ 太一が何を言いたいのか、ロゼッタは即座に理解した。そして今 度は小悪魔な笑みを顔に乗せる。 ﹁いいのかしら? おねーさんの採点は激辛よ?﹂ 439 ﹁の、望むところ!﹂ 三時間後。 ﹁おいロゼッタ。一体どんだけサービスしたんだ?﹂ 憑き物がとれたような太一の表情を見て、バラダーが問う。 ﹁うんと。目一杯。最大限﹂ 楽しそうにロゼッタは笑う。バラダーは乾いた笑みを張り付けた。 彼女がどれだけ達者かは身をもって知っているからだ。 ﹁そ、そうか。男になったか。良かった、のか?﹂ ﹁そうね。剥けたのは一皮どころじゃないんじゃないかしら?﹂ ロゼッタが太一に向ける視線に気付く。まるで、最愛の弟を見る ような。 当の太一は、ロゼッタとひとときを過ごして雰囲気がガラッと変 わり、娼館の娘達に囲まれている。あれだけ頼もしい少年はそうは いないからだ。 ﹁ロゼッタさん﹂ ﹁なあに、坊や﹂ ﹁次はいい報告持ってくるよ﹂ ﹁ふふふ。楽しみにしてるわ﹂ サムズアップする太一に、右手を顔の横で小さくひらひらさせる 440 ロゼッタ。 一体この数時間でどんな魔術を使ったのか。 バラダーには皆目見当がつかなかった。 ◇◇◇◇◇ 数時間前まで遡る。 何故ここにいるのだろう。奏はふと周囲を見渡した。 太一が色街に行った。 その言葉を聞いた瞬間、頭の中が真っ白になった。 その後の事は覚えていない。気付いたら、ここにいた。 ﹁カナデちゃん。水しかないけどいい?﹂ ﹁あ、はい﹂ ラケルタが差し出してきた木のコップには、水が七割ほど入って いる。 酷い顔だ。 水面に映る自分を眺めて、正直にそう思った。 目尻から頬を撫でる。 涙の跡。 441 自分が涙を流した事すら、気付いていなかったらしい。 ﹁泣いてたよ、カナデちゃん。ショックだったんだね﹂ ﹁えっと⋮⋮﹂ ﹁ああ、ごめんごめん。困っちゃうよね﹂ 苦笑いを浮かべるラケルタ。何故彼は、自分をここに連れてきた のか。 正気だったら、ここに来る前に帰っていただろう。 ﹁あの⋮⋮﹂ ﹁ああ、ちょっとでいいんだ。僕の話を聞いてくれるかい?﹂ ﹁はあ⋮⋮﹂ 頭が働かない。言われるまま、奏は頷く。 ﹁君は、タイチ君が好きなんだよね﹂ 不意に言われてかっと顔が熱くなる。 断定された。隠せていなかったと言うこと。 ﹁それが君の秘密だね﹂ 当たり前のように言う。 この期に及んで、まだ太一が好きらしい。 ﹁じゃあ、次は僕の秘密だ。カナデちゃん。僕は、君が好きだ﹂ ﹁⋮⋮えっ?﹂ 何を言われたのか分からない。 442 ふと顔を上げる。ラケルタが、すぐそばに来ていた。 ﹁僕は、君をタイチ君に取られたくないな。君のことを放って、色 街なんかに行っちゃう彼には、負けたくはない﹂ ﹁⋮⋮太一は﹂ そんな人じゃない。 その言葉が、言えなかった。 奏を放置して色街に出掛けた。それは事実だからだ。 ﹁君を大切にするよ。タイチ君よりも、大切にしてみせるよ﹂ ラケルタの手が、奏のほほに触れる。 私は、どうしたらいいのだろう。 私は、どうしたいのだろう。 奏はぼんやりと、正面の壁を見詰めていた。 443 それぞれの気持ち其の二︵後書き︶ もう一つ続きます。次回で、それぞれの気持ちシリーズは終わる、 はずです︵笑︶ 444 それぞれの気持ち其の三︵前書き︶ これでそれぞれの気持ち編終わりです。 色々と考えましたが、プロット通りの展開にしました。 445 それぞれの気持ち其の三 ﹁何? ラケルタの野郎、カナデちゃんのトコ行ったって?﹂ 酒場で魔導書を読んでいたメヒリャからそれを聞き、バラダーは 途端に眉をひそめた。 折角鬱屈とした気持ちをスッキリさせてきたのに、またいらぬ懸 念事項が出てしまった。 奏が太一を好き。 それは考えるまでもなく分かること。 ラケルタが奏に一目惚れしたことも分かっている。本人がそう打 ち明けて来たのだから当然だ。 記憶が間違いでなければ、ラケルタは﹁タイチ君とカナデちゃん を応援する﹂と言ってなかったか。奏にアプローチをしかけるなど、 全くの予想外だ。 ﹁なあ、メヒリャ﹂ バラダーが問い掛ける。 メヒリャは頷く。 ﹁⋮⋮やっぱりか。あンの馬鹿﹂ 苦虫を噛み潰すバラダー。 ﹁ラケルタは⋮⋮器用に見えて⋮⋮﹂ ﹁わぁってるよ。あいつは超不器用だ。ついでに言やあ特上の馬鹿 だ﹂ ﹁⋮⋮その通り﹂ 446 空席を見詰める。いつもならそこにいる、チームメンバーを思っ て。 ◇◇◇◇◇ 宿屋に向かって歩く。 気分がスッキリしている。 人はこんなに、晴れ晴れとした気持ちになれるのか。 足取りが軽い。 心の重みが全部吹っ飛んだような爽快感。そのなかに、少しの恐 怖感も覚えながら。 ﹁カナデちゃんが、他の男と付き合ってるのを許せる?﹂ ロゼッタが言ったその一言を許容出来なかった時点で、太一の心 は決まった。 フラれても構わない。気持ちを伝える。今はダメでも、振り向か せる。 それは努力次第でなんとでもなるとロゼッタは言った。顔は普通 のクラスメイトが、彼女が出来たと自慢していた。写メを見せても らったが、めちゃくちゃ可愛い女の子だった。大金星である。ふり 447 むいて貰うために相当努力を重ねたという。 今度は太一の番だ。 初めて、女の子に恋をした。いや、いいな、と思うくらいなら何 度もあったが、ここまで明確になったのは初めての経験だ。 一五歳。太一の初恋である。 例えよい返事が聞けなくても後悔しない。奏を他の男にとられて 嘆く位なら、当たって砕け散った方がましだ。 結構長い間娼館にいた。暮れていく太陽。手を翳して夕陽を遮る。 その先に、人影。 ﹁やあ。タイチ君﹂ 聞き覚えのある声だった。相変わらず、内心の読めない声色。 ﹁ラケルタさん﹂ 逆光になって表情が読めない。だが、何だろう。普段と違う。ラ ケルタから、余裕を感じなかった。 ﹁いきなりで悪いんだけど、ちょっと話があるんだ﹂ ﹁⋮⋮?﹂ 良く分からないが、わざわざ待っていたのだろう。 断る理由が無いので了承する。ラケルタは頷いた。 ﹁じゃあ、こっちに来てもらえるかな?﹂ 踵を返すラケルタに太一はついていく。 迷わずに帰れるかな? と、太一は呑気にそんなことを考えてい た。 448 ◇◇◇◇◇ もう何杯飲んだか思い出せない。空になったカップを置いて、ミ ューラは天井を見上げた。奏がいる部屋を。 憔悴しきった表情で奏が帰って来たのが一時間前。ミューラが何 かを問う前に、﹁一人にさせて﹂とだけ言って引っ込んでしまった。 返す言葉もなく、部屋に踏み込む勇気もなく、ミューラはこうし て時間をもて余すしかない。 覚えるのは、無力感。 こういうとき、どんな顔をすればいいのか分からない。 どんな風に奏と接すればいいのか分からない。 最悪の事態が、嫌でも脳裏をよぎる。 今までの自分の在り方を後悔する。 どうして、人との触れ合いを避けていたのか。 冒険者として太一と奏より優れている。 だが、コミュニケーション能力は目も当てられない。 こうして、ただウジウジとしかできない自分に嫌気が差す。 そして自己嫌悪に陥りながら、何も行動を起こせない自分にも。 案ずるより産むが易し。 その言葉を聞いても、何もできないだろう。 太一と奏が楽しそうに話している姿が脳裏に浮かぶ。 449 こんな状況になって、それがミューラにとって守るべきものだっ たのだと、ようやく気付いたのだった。 ◇◇◇◇◇ 街の奥にある拓けた場所。人はいない。 込み入った話をするなら、おあつらえ向きなところだ。 ﹁こんなとこがあるのか﹂ ﹁そうだね。いずれ発展してくれば、ここも住宅街になるそうだよ﹂ ﹁そうなんだ﹂ 先導していたラケルタが、こちらに振り向いた。 ﹁さてタイチ君﹂ ﹁ん﹂ ﹁単刀直入に言おうか。カナデちゃんから、離れてくれないかい?﹂ ﹁はい?﹂ 藪から棒に何を言うのだろうか。 奏と離れる? いくらなんでも無理な相談だ。だが、頭ごなしに否定はしない。 450 そこまで言うからには、ラケルタにも考えがあるのだろう。最終的 に返す答えは変わらないが、そう告げてくるに至った理由は聞こう と思った。 ﹁さっきね。カナデちゃんに告白したんだ﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁受け入れてくれるらしいんだけど、まだ君のことが気になってる らしくてね。だから、彼女の目に映らないところに行って欲しい。 そうだね。シカトリスか、ガルゲン辺りがいいかな?﹂ エリステインに並ぶ三大国家。 活動の場を国外に移してくれ、と彼は言っている。確かにこれは、 その辺でざっくばらんに話せる内容ではない。 ﹁悪いけど拒否権を与えるつもりはないよ。力ずくでも、頷いても らう﹂ ラケルタが背中の弓に手を伸ばす。本気か、ハッタリか。 まあ、そんなのはどうでもよい。 返答は、変わらない。 ﹁断る﹂ ラケルタは弓に触れたまま動かない。 ﹁なあ。俺より圧倒的に頭いいんだからさ、隙作るなよ﹂ ﹁⋮⋮どういう意味だい?﹂ ﹁その顔どうした?﹂ ラケルタは表情を変えずに目をそらす。右頬が腫れていた。 451 ﹁喧嘩でもしたか? いや。仮に喧嘩したって、あんたを殴れるや つはそういない。それ、奏にひっぱたかれたんだろ?﹂ ﹁⋮⋮何で、そう言えるのかな?﹂ ﹁知るはずないよな。奏はビンタは左でやるんだよ。右でやるとな、 強すぎるからな﹂ ﹁強すぎる? どういうことだい?﹂ ﹁な? 知らないだろ? 俺は知ってるよ。 教えないけど﹂ ﹁⋮⋮﹂ 口では言わずに目で告げる。 浅い。 と。 ﹁まあ、奏が手を上げる状況だった時点で、ラケルタさん、あんた は結構な振る舞いをしたってことだ﹂ 奏が手を上げるなど、相当な事をしなければ起こらない。 告白した。その言葉が嘘か本当かは分からない。 受け入れてくれる。これは嘘だ。そう答えたのに、手を上げる理 由がない。 恐らくは、無理矢理迫った。 ﹁ラケルタさん。あんたは俺達の恩人だ。返し切れない恩があると 思ってる。だからさ⋮⋮﹂ ﹁甘いね。タイチ君﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁そんなんだから、横から取られちゃうんだよ﹂ ﹁⋮⋮はあ﹂ 452 太一は大袈裟に溜め息をついた。興醒めしてしまった。もう、聞 く気すら起きない。ラケルタが頭がいいと思ったのは、太一の気の せいだったのか。 ﹁あのね。奏に叩かれるような真似してて、それでそんなこと言っ たって、信用出来ないって﹂ ﹁根拠を聞きたいね﹂ ﹁根拠? 簡単さ。奏が実力行使に出たら、悪いけどラケルタさん じゃ一〇〇回挑んだって一度も勝てないよ﹂ ﹁そんなのが根拠かい? ただの戯れ言じゃないか﹂ ラケルタが笑う。太一は極めて真面目な顔で彼を見つめた。 ﹁今から右手でラケルタさんをぶっ飛ばす。真っ直ぐ向かっていく から、避けてみなよ﹂ 笑顔のまま、ラケルタは太一を見る。その姿がゆらりとぶれると いう予想外の光景に眼を疑う。 顔面に衝撃。 視界が空転。 身体が地面を転がった。 ﹁ぐ⋮⋮﹂ 鼻から熱い液体が流れる。手のひらが紅に染まった。今しがたラ ケルタが立っていた場所と入れ替わり、太一が立っている。右手を 引いた状態で。 今のは寸止め。太一はそう言った。 寸止め。つまり衝撃だけで、ラケルタは吹っ飛んだということ。 453 いやそれより、太一の動きが一切見えなかった。太一は宣言した 通りに動いたのだ。相手が何をするか分かっていても防げない。ラ ケルタとは、強さの次元が違った。 ﹁この程度なら、奏は防ぐか避けるかは簡単にこなす。できないな ら、奏に勝てる訳がない﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁俺にとって、あんたは恩人。追いかけるべき冒険者。頼むよ。今 後も、そう思わせてくれよ﹂ 太一は踵を返す。 足音が遠ざかり、そして聞こえなくなった。 ﹁ふふふ⋮⋮完敗だ。タイチ君、カナデちゃん﹂ 仰向けのまま、ラケルタは夜と夕の境目を見詰める。この時間帯 しか見れない、紫色の空が鮮やかだ。 ﹁無様にやられたな。バカラケルタ﹂ しばらくぼんやりと空を眺めていると、馴染みのある声がラケル タに届いた。 ﹁カナデちゃんの気持ちを考えずに、色街なんかにタイチ君連れて いっちゃうバラダーに言われたくないね﹂ ﹁うぐっ⋮⋮。あ、あんときゃあれが一番だと⋮⋮いや、言い訳だ な﹂ ﹁おかげで嫌われ役やる羽目になったよ﹂ ﹁やっぱり⋮⋮そのつもりだったの⋮⋮﹂ 454 メヒリャは分かっていた。 惚れた男の事だ。 そのくらいは、何も言われなくても、顔を見ればわかってしまっ た。 ﹁やりすぎだったと反省してる。まあ、カナデちゃんを叩かず済ん で良かったよ﹂ 奏が一時の感情に囚われて万が一ラケルタを受け入れようとする なら、遠慮なく頬を張るつもりでいた。 ラケルタが惚れたのは、そんな弱い奏ではない。 自分勝手だと、自嘲する。 ﹁そもそも⋮⋮私がバラダーを止めれば⋮⋮﹂ ﹁どのみち、もう取り返しはつかないよ。恐らくね﹂ 果たしてそれは、何を指しているのか。 ﹁あの二人、大丈夫だと思うか?﹂ ﹁どうかな⋮⋮信じるしかない⋮⋮﹂ バラダーもラケルタもメヒリャも、とんでもない大ポカをやらか した自覚がある。 もう、三人の前に姿を見せるのは難しいだろう。 ﹁はあ⋮⋮。俺達も出直さんとな。まだあんな子ども相手にやっち まうくらいだからな﹂ 一五歳前後の少年少女にやることではない。 冒険者としての未熟さを考えてもなお、釣りが来るほどの強さに、 455 つい一人前と見てしまった面も確かにある。意識的か、無意識かを 別にして。それほどに飛び抜けていたのだ。 バラダーは娼館で太一の強さを﹁互角﹂と評したが、それは﹁見 ることが出来た実力は﹂という前置詞が来る。たっぷり余力を残し ていることは分かったが、どれ程出来るかは分からなかった。 先輩面した結果、酷いことになった。 後はあの二人がどうなるか、見守ることしかできないのを歯痒く 思いながらも、それ以外に選択肢がないのだった。 ◇◇◇◇◇ 宿屋につく頃には、丁度夕食時だった。魚やら肉やら、焼きたて のパンやらの匂いが充満して、かすかなアルコールと共に食欲をそ そる。 何はともあれ、奏と話がしたい。まずは会いに行こう。客室があ る二階に行こうとして、ふと見覚えのあるシルエットを見付けた。 食事を取っている客たちの中、カップを両手で抱え込んだまま俯 いているミューラの姿。そのテーブルに、奏の姿がない。 奏は部屋だろうか。太一は特に深く考えずに、ミューラに近付い た。 ﹁よお、ミューラ。奏は部屋か?﹂ 456 ﹁⋮⋮タイチ﹂ 席に座ると同時に、ミューラが顔を上げる。その美貌が台無しに なるほどに疲れきった顔を見て、太一は顔をしかめる。 ﹁どうしたんだ?﹂ ﹁のんきね、あんたは⋮⋮﹂ ミューラはじっと太一を見据えている。その憔悴した顔付きから はかけ離れた眼光の強さで。 ﹁あんた、今まで何処行ってたのよ﹂ ﹁それは⋮⋮﹂ ﹁言わなくていいわ。知ってる。娼館でしょ﹂ ﹁⋮⋮﹂ 何故それを知っているのだ。ついていっただけとはいえ、事に及 んでいないとはいえ、行ったのは事実。 それは全て明かすつもりでいた。全てを打ち明けた上で、奏に気 持ちを伝えるつもりでいた。 誰が話したのだろうか。いや、考えるまでもない。答えは出てい る。 ﹁ラケルタさんから聞いたのか﹂ ﹁ええ。そうよ。カナデ、ひどい顔で帰ってきたわ﹂ ﹁⋮⋮そうか﹂ さきほどラケルタと話しているときは余裕な態度は崩さなかった が、内心は不安でいっぱいである。 万が一がない訳じゃないのだから。 457 ﹁カナデ、逃げてきたって。何とかそれだけ、教えてくれたわ﹂ ﹁そっか⋮⋮セーフか﹂ ﹁セーフ? アウトよ。何であんたは、肝心なときに色街になんか に行ってるわけ?﹂ ミューラは、段々と自分の声が荒くなっていることに気付いた。 ﹁ギリギリまで教えてくれなくてな。まさか、色街だなんて思わな かった﹂ ﹁教えてくれないなら帰る、とか言えたじゃない。何でそれが言え ないわけ?﹂ それは結果論だ。バラダーには本当に世話になった。そんな無下 な真似が出来るわけがない。 辛うじて冷静なもう一人のミューラがそう理解する。 ﹁それは⋮⋮そうかもな﹂ ﹁何でそんなのんびりしてるの?﹂ ﹁そんなことない﹂ ﹁そんなことある。ラケルタはそこを突いて、カナデを連れていっ ちゃったのよ﹂ 確かにラケルタの行動は褒められたものではない。だが、だから と言って、自分に太一を責める資格があるのか。あの時、ラケルタ を止められなかった自分とて同罪ではないか。 もう一人の自分に厳しく叱責を喰らう。 ﹁そっか。何考えてんだか知らないけど、もうあの人の前で今まで 通り接するのは無理だろうな﹂ 458 ﹁はぐらかさないで﹂ ピシャリと太一を切り捨てる。不穏な空気に周囲からの視線が集 まるが、気にする余裕がない。 ﹁あんたがここにいれば、カナデは連れていかれずに済んだ﹂ ﹁それはそうかもしれない﹂ ﹁しれない、じゃなくてそうなのよ﹂ 抑えが効かない。自分の声が相当大きいと自覚しながら、それを 抑える気にならない。 太一がここにいれば、等と言うのは責任転嫁だ。この事態を防げ なかった自分の至らなさを棚に上げているだけだ。 ﹁どうすんのよ。カナデが取り返しがつかないくらいに傷付いてた ら﹂ どう傷付いているのか。それは言わない。言えなかった。 太一は少し考え、決意のこもった眼で、言った。 ﹁うーん。関係ないな、だって俺は⋮⋮﹂ ミューラは頭が真っ白だった。 気付いたら立ち上がり、右手を振り抜いていた。遠くからぱん、 と乾いた音が聞こえた気がした。 徐々に鮮明になる視界。太一が右を向いている。頬が赤い。口の 端に紅いものが滲んでいる。 ﹁あ⋮⋮﹂ 459 ミューラは自分の右手を握りしめ、どすんと落ちるように椅子に 座った。 手を上げる気など無かった。太一は何かを言いかけていた。まだ 続きがあったのだ。 これだけ責め立てたのだから、太一に主張があるなら聞くべきだ。 間違っても手を上げる場面ではない。 ﹁関係ない﹂ 太一のその一言だけを拾い、叩いてしまった。自分がしでかした 行いが、ショックだった。 ﹁俺の切り出し方が悪かったな。ごめん﹂ ﹁う、ううん⋮⋮﹂ 太一は殴られた事に触れなかった。自分でも、説明してから言う べき言葉だと思ったのだ。 ﹁俺はな、奏が好きなんだ﹂ ﹁え⋮⋮﹂ ﹁そういうのが気にならないくらい好きなんだ。だから、関係ない、 って言ったんだ﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁まあ、今奏に好きな男がいて、幸せだって言うなら応援する﹂ それはめっちゃ嫌だけど、と太一は苦笑した。 ﹁でもな、俺だって奏に幸せになってほしい﹂ ﹁⋮⋮﹂ 460 太一の雰囲気が今までと違う。 ﹁奏を幸せに出来ない男なら、例え奏が良くても俺が認めない。そ んな男に任せるくらいなら俺が幸せにする﹂ ﹁タイチ⋮⋮﹂ 彼から滲む強い決意に呑まれる。言葉が出てこない。 ﹁傲慢で自分勝手なのは分かってるよ。でも、もう決めたんだ﹂ とある娼婦が、それを気付かせてくれた。娼館に行ったからこそ 自分の気持ちに気付いたし、こういう決意が出来たのだと、太一は 言った。 ﹁娼館、ってのが情けないけどな﹂ ミューラは、太一の顔が見れない。 ﹁ま、そういう訳だ。ところで、奏は部屋にいるのか?﹂ ﹁いるわ⋮⋮おりてきてないから⋮⋮﹂ ﹁そっか。じゃあ、行ってくる﹂ がたりと立ち上がった太一が、動きを止めた。 ﹁あ、ミューラ﹂ ﹁⋮⋮何?﹂ 返事が少し遅れた。 多分、違和感は無かったと思う。 461 ﹁ありがとな﹂ ﹁お礼なんかいいから、早く行ってあげなさいよ﹂ ﹁そうする﹂ 太一の気配が二階に消えた。ミューラは再びうつむいた。 先程と同じ姿勢。だが胸の裡に抱く感情は、先程までと全く違う。 きっと大丈夫。根拠など一切ないが断言できる。太一を見ていた ら、不意にそう思ったのだ。 そして、もう一つ。 ミューラは、胸の高鳴りを覚えていた。 太一があれほど頼もしいと思った事はない。だからこそ、大丈夫 だと感じたのだ。 これだけ心臓が激しく脈打つなんて、初めての経験だ。 この感情を、知識としては知っている。だが、自分がそれを経験 するとは。 ミューラは顔を上げ、太一が消えた階段をじっと見詰めた。 ◇◇◇◇◇ ノックをする。 待つ。 一〇秒。 462 二〇秒経っても返事がないのでもう一度ノック。 ﹁奏?﹂ 今度は呼び掛けてもみる。 再び待つ。 一〇秒。 二〇秒。 やはり返事はない。 どうする。待つか。 いや、それでは変わらない。なけなしの勇気を振り絞り、再度声 をかける。 ﹁奏。いるんだろ?﹂ 気配でいることは分かっている。どうやら、寝ているわけではな いことも。 ﹁ダメならダメって言ってくれ﹂ やはり返事はない。 だが、否定の言葉も来なかった。太一はそれを黙認と受け取るこ とにした。 今日しかないのだ。いや、今しかないのだ。 この扉をノックするために振り絞った勇気の量は尋常ではない。 次の機会に、と言い訳して、また同じだけの勇気を振り絞れる自信 はない。 ﹁入るぞ﹂ 463 ドアノブを握るのに一瞬だけ躊躇して。 高所から飛び降りるつもりで一気に捻る。 がちゃりと、聞き慣れた開閉音とともに、室内の景色が太一の視 神経に投影された。 明かりは一切ついていない。 唯一ある窓は開けられていて、そこから月明かりが部屋に流れ込 んでいる。思いの外暗くはない。そんな印象を、太一は抱いた。 ダブルベッド一つ。奏とミューラは同じベッドで寝ているようだ。 ベッドの縁に腰掛け、窓の外を見詰めるシルエットが一つ。誰何 など問う必要ない。見慣れた姿だ。 ﹁奏﹂ 返事はない。太一は扉が空いているのに気付き、そっと閉めた。 開けるときよりも静かに、扉が閉まる。 それは果たしてそれは数秒か。もしかしたら数十秒、いや、数分 だったかもしれない。そんな感想を抱く程度には長く重い沈黙。 ずっと黙っていた奏が、ふと口を開いた。 ﹁太一。お帰り﹂ ﹁ただいま﹂ 上擦るかと思ったが、何とかいつも通りの声を出せた。 ﹁ごめん。今度にしてほしいんだけど﹂ こちらに顔を向けずに告げられた言葉に、太一はグッと拳を握る。 折れそうになる心を奮い立たせる。 ﹁今じゃなきゃダメなんだ﹂ 464 ﹁どうして?﹂ ﹁奏が大切だから﹂ 唇が震える。 三半規管が痺れる。 これほどの緊張を、かつて味わったことはない。 ﹁私が大切? それは、私だって太一が大切よ。一緒に、日本に戻 らなきゃ﹂ からからに乾いた喉を、唾を飲んで潤した。今一つの効果だった。 奏からは、話を切り上げたいという感情がビリビリと伝わってく る。 めげるな。 負けるな。 貴史だって、フラれる恐怖と闘って、打ち勝った。 ﹁そういう大切じゃないんだ﹂ ﹁じゃあ、何?﹂ 何? そう聞かれたら、出る言葉は一つ。 噛むなよ! と自分の尻を叩く。多くはいらない。気のきいた台 詞をすらすら吐けるほど、太一の舌は達者じゃない。ただ一言、言 えればいい。 ﹁俺は、奏が好きなんだ﹂ ﹁太一が私を好き?﹂ ﹁ああ﹂ ﹁本当に?﹂ 465 ﹁本当だよ﹂ ﹁嘘じゃ、ないの?﹂ ﹁好きだよ。奏﹂ 奏がふふ、と笑った。 ﹁偶然だね。私も、太一が好きなの﹂ ﹁マジで?﹂ ﹁うん。マジだよ﹂ ﹁両想い?﹂ ﹁両想いだね﹂ ﹁すげえ嬉しい﹂ ﹁うん、私も﹂ テンポのいい会話は、ここで終わった。終わると分かった。 奏が、涙声だったから。 ﹁好き⋮⋮太一⋮⋮﹂ ﹁俺も好きだ﹂ ﹁大好き⋮⋮﹂ ﹁俺もだよ奏﹂ ﹁ずっと前から⋮⋮好きだった⋮⋮﹂ ﹁俺も、ずっと前から好きだった。自覚無かったけど﹂ ﹁⋮⋮何よ⋮⋮あんなにアプローチしてたのに⋮⋮ちっとも気付い て⋮⋮くれないんだから⋮⋮﹂ ﹁うん。それ、今日こっぴどく叱られた﹂ ﹁グスッ⋮⋮誰に⋮⋮?﹂ ﹁ラブ師匠に﹂ ﹁ラブ師匠⋮⋮?﹂ ﹁違う違う。ラにアクセントな﹂ 466 ﹁ラブ師匠?﹂ ﹁そう。それ﹂ 言わずもがな、ロゼッタの事である。 あれは地獄だった。思い出したくもない程に。 ﹁⋮⋮じゃあ、その人に⋮⋮感謝⋮⋮しなきゃ⋮⋮﹂ 嗚咽に弱々しい笑い声を乗せる奏。 ﹁ラケルタさんから⋮⋮逃げてきた⋮⋮﹂ ﹁聞いた﹂ ﹁好きでもない人に身体許すほど⋮⋮安い女じゃないつもり⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁初めては⋮⋮やっぱり⋮⋮好きな人とがいい⋮⋮﹂ ﹁奏⋮⋮﹂ ﹁太一となら⋮⋮嬉しい⋮⋮﹂ 男冥利に尽きるとはこの事だろうか。こんなに嬉しいと思ったこ とが、あっただろうか。 ﹁でもね⋮⋮っ。ダメなの⋮⋮太一の事⋮⋮信じたいのに⋮⋮信じ れない私がいるの⋮⋮っ!﹂ 太一の思考がストップする。 ﹁好きな人に⋮⋮好きだって言って貰えたのに⋮⋮どうしてこうな っちゃうのっ!﹂ 奏の心が叩き付けられた。 467 太一の頭が、凄まじい速度で冷えていく。 舞い上がっていた。 奏が好きだと言ってくれて、有頂天になっていた。 経緯は関係ない。結果として、奏を裏切った。傷付けた。 それは、動かしようのない、リセットしようのない事実だった。 だが。だからこそ。 目の前の少女が、余計に愛しくなった。失った信頼を、もう一度 取り戻す。異世界でやることが、もう一つ増えた。 ﹁奏﹂ ﹁⋮⋮なに?﹂ 返事がある。太一の話を聞いてくれるということ。 ﹁信じなくていい﹂ ﹁え⋮⋮?﹂ 予想外の言葉だったようで、頓狂な声が返ってきた。 ﹁奏を傷付けたのは俺だからな。自業自得だ﹂ ﹁太一⋮⋮?﹂ 途端に、奏の声が不安げになる。太一はあえて気付かない振りを して続ける。 ﹁今度は俺が頑張る番だ。奏が俺を信じてくれるまでな﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁俺は確かに色街に行った。でも誓って言える。俺は、誰も抱いて ない﹂ ﹁太一⋮⋮﹂ 468 ﹁俺の今の言葉を、奏が信じてくれるまで努力するよ﹂ 奏は何も言わない。太一は一度間を置いた。 ﹁この程度で身を引くくらいなら、最初から告白しに来たりしない﹂ ﹁⋮⋮っ﹂ ﹁だから、よーく俺の事見ててくれ。試してくれ﹂ ﹁⋮⋮ばか。ほんと⋮⋮口ばっかり⋮⋮達者なんだから⋮⋮﹂ 俺の特技。そう言って太一は笑う。さっき気の利いたセリフが出 なかったことは、気にしないようにして。 ﹁じゃあ⋮⋮見てるわ⋮⋮。私に⋮⋮太一を信じさせてよね⋮⋮?﹂ ﹁ああ。奏は誰にも渡さないからな﹂ 奏は顔が熱くなるのを感じた。 ふと、太一は﹁あー⋮⋮﹂と歯切れが悪くなった。なんだろう。 あれだけビシッと決めていたのに。 ﹁冒険者やってるときだけは、普段通りでお願い致します﹂ 多分、バツが悪そうに頭をかいてるんだろうなと予想し、見てみ ると案の定だった。 ﹁それは大丈夫。公私混同はしない。普段から、いつも通りに出来 ると思う﹂ ホッとため息をつく太一。 太一を信じたい。何故なら好きだから。好きだと言ってくれたか ら。 469 奏からすれば、もうそう遠くない未来に、太一の努力は実を結ぶ と思う。 太一が自分のために努力してくれると言った。 普段自分から進んで何かをやる、と言わない少年が言ったのだ。 いざやると言ったら本当にやる少年なのだ。 根底の部分では、信じられないと言いながら、信じている自分が いる。 太一の決意は言わばけじめ。 きっとこれも、必要な試練なのだろう。そう考えれば、悪い面ば かりでもないと、奏は思った。 流した涙も、きっと思い出に変わるのだろう。 穏やかな月の明かりは、こんな夜も、いつもと変わらない輝きを 放っていた。 470 それぞれの気持ち其の三︵後書き︶ 今回の話は大分波紋を呼びましたね。 色々な意見を頂き、参考になる意見もありました。 お知らせがあります。 今回の話に関する感想では、応援、称賛、批判と様々頂きました。 全て読ませて頂きました。ありがとうございます。 今まで、感想には返信するよう心掛けていましたが、今回の件につ いては申し訳無いですが一律返信無しとします。 作品の打ち切りすら考えました。 どうして好きでやってるだけの趣味でこんな鬱々とした気分になら なければならないのか、とても疑問に思った二日間でした。 ですが、応援してくれる人、読みたいと言ってくれる人も確かにい らっしゃるので、その人たちのために、続けていこうと思います。 いつも応援してくれる方へ ありがとうございます。 本当に支えになりました。 ゆっくりペースになるかもしれませんが、良ければ今後も読んでみ てください。 471 小さくて大きな異変︵前書き︶ 第二章クライマックスのプロット確認終わりました。 二時間くらいでサクッと書いたので、粗いかもしれません︵笑︶ 472 小さくて大きな異変 東西の最長が四〇キロ。奥行きが最大で七キロ。最奥部には五〇 メートル級の木が生い茂り、地上は常に夜のように暗いのだという。 アズパイアから北上したところに聳える山脈に沿って鬱蒼と繁る 北の森の規模だ。 そこはアズパイアに住む者にとって、大地と自然の恵みを受けら れる正に宝の山。狩人が来ない日はないし、冒険者も、採取や魔物 退治でちょくちょく訪れる。 狩人も入り込まない区域は、冒険者の領域である。 ここにも、その日の稼ぎをあげにきた冒険者が二人。一人は背が 高く細い棒切れのような男。もう一人は背が低く、丸い饅頭のよう な男。下生えの草を踏み潰し、邪魔な木の枝を切り払い奥へ奥へ進 む。 ﹁あーあ。ショボい依頼だなあ﹂ ﹁やかましいな。無いよりましだろうが﹂ ﹁そうだけどよう。今日飲んじまったら終わりだぜ?﹂ ﹁明日も依頼探すしかないだろう。つーか酒なんか我慢しやがれ﹂ ﹁ちっ。やっぱそうなるか﹂ Dランク冒険者になって長い二人にとって、Eランクの採取依頼 ではその日暮らしにしかならない。割のいい討伐の依頼などをこな せればよいのだが。 ﹁おい。そういやお前、この間酒場で引っかけた女はどうした?﹂ 細い男がそう問うと、饅頭のような頭を左右に振ってため息をつ いた。 473 ﹁ダメだダメだ。ヤッてもちっとも楽しくねえよ。スレちまってん だ﹂ ﹁スレてる? 若い女だったろ?﹂ ﹁歳だけはな。商売女だった﹂ ﹁そういうことか﹂ 商売女は金さえあればいつでも買える。そうでない女狙いだった のだ。 ﹁あーあ。金の剣士にカナデとか、羨ましいよなあ﹂ ﹁お前は口を開けばいつもそれだな﹂ 背の高い男は苦笑する。 ﹁お前あんな別嬪二人とチーム組んだら、昼も夜もたのしいに決ま ってんだろ!?﹂ ﹁そいつは否定しない﹂ ﹁あの二人とチーム組んでる男⋮⋮えーと、名前何だっけ﹂ 金の剣士、ミューラと奏はギルドでも有名人。一方の太一は、あ まり興味を持たれる対象ではなかった。見た目平凡な少年。いや、 野郎だから当然の成り行きとも言えた。もっともごく一部は、太一 のことをやっかみの対象としてしっかり覚えているのだが。 ﹁タイヤだろ﹂ ﹁そうだったか? トイチじゃなかったか?﹂ ﹁そりゃあ高利貸しだろ﹂ 二人とも惜しい。足して二で割れば正解が出る。 474 ﹁あー別にヤローの名前なんざどうでもいいか﹂ ﹁それもそうだ﹂ 二人は、ほぼ同時に剣の柄を握った。こんな話をしていても、周 囲の警戒を怠っていた訳ではない。さもなければ、明日をも知れな い冒険者稼業で、長く生き延びることは不可能だ。 じっと見つめる視線の先。見慣れた北の森の光景。 ﹁来るぞ﹂ 結構な勢いで茂みから飛び出してきたのはゴブリンだった。一刀 のもと袈裟懸けに切り捨て、饅頭男が叫ぶ。 ﹁ラッキーだぜ! おい! 魔術でドタマ吹っ飛ばすなよ!﹂ ﹁お前じゃないんだ! そんなへまするかよ!﹂ 次々と向かってくるゴブリンは隙だらけ。勢いはあるが、それだ けだ。 飛んで火に入る夏の虫とばかりに次々とゴブリンを仕留める。周 囲に鉄臭い臭いが充満していく。ゴブリン討伐の証拠は、依頼が出 ていなくてもギルドから報奨金が出る。この機を逃す手はない。 最初は幸運とばかりに獲物を狩っていただけの二人。だがやがて 疑問が出てきた。 ゴブリンは臆病な魔物だ。だから群で行動して数の利を得ようと するし、それでも勝てないならすぐ逃げる程には臆病だ。 これだけ仲間を殺されれば、臆して反転逃走し出してもおかしく ない。 なのに、彼らの勢いは止まらない。まるで何かに怯えるように。 475 ﹁⋮⋮どういうこった?﹂ 剣を血振りし、素直に疑問を口にする。もう、ゴブリンはやって こなかった。積み上がった死体の山を見て、二人は首をかしげた。 ﹁何かあんのか?﹂ ﹁さーな。確認するか?﹂ 顔を見合わせる。答えは出た。 ﹁やめとこうぜ。触らぬ神になんとやらだ﹂ ﹁言えてらあ﹂ 少し臆病なくらいでなければ、冒険者はやっていられない。長い 経験の中で導きだした答えである。 油断していそうに見えて警戒を怠らない二人だが、気配を消して 忍び寄る存在に気付かない。 アズパイアに訪れる脅威の始まり。 彼らは、戻ってこなかった。 ◇◇◇◇◇ 476 二週間振りにアズパイアに戻った太一たち一行は、その足でギル ドに向かった。 行きは一緒だったバラダーたちとは別行動だ。帰りはどうするか 聞いたのだが、同行を丁重に断られた。炭坑探索を行った冒険者と して、村長に特別に馬車を出してもらったのだ。バラダーたちは自 費で適当に戻ってくるらしい。 あの出来事が、かなりの溝を生んでしまった。太一は仕方なく、 応対をしたメヒリャに借りたお金を返済し、その場を後にした。 歩きながらユーラフでの出来事を思い出していると。 ﹁⋮⋮変ね。多い﹂ ふと、ミューラが口を開く。 主語が省略されてて何を指しているのか分からなかった太一と奏 は、ブロンドのエルフの少女に視線を向けた。 ﹁あ、ごめん。えっと、冒険者の数多くな い?﹂ ミューラに問われ、周囲に目を向ける。 ﹁⋮⋮うん。多いね﹂ 夕暮れ時。依頼から帰ってきた冒険者が雑踏に溢れるのは太一た ちにとっても見慣れた光景だ。だが、今三人が見る限り、普段に比 べて三割から四割増しで冒険者が多い印象を受けた。 首をかしげながらも、人の合間をひょいひょいと縫うように、途 中奏とミューラに絡んできたオッサンを適当にあしらったりしなが ら、三人はギルドにたどり着いた。 477 ﹁あ。タイチさん。お久し振りですね﹂ 受付ではなく、掲示板に大量の紙をペタペタと貼っていたマリエ が駆け寄ってきた。 ﹁あー、どもっす﹂ ﹁ユーラフの炭鉱探索、終わったんですか?﹂ ﹁はいこれ﹂ ユーラフ村長のサインが入った依頼書を、肯定の言葉の代わりに する。マリエが﹁本当に潜ったのね⋮⋮﹂と呆れている。太一たち の行動にマリエが呆れるのは、もう恒例だった。 ﹁では完了手続きをするのでこちらにどうぞ﹂ 何だか専属みたいだな、と太一は思いながら、マリエに連れられ て受付のカウンターに向かう。実は何気なく太一が思った感想はド ンピシャである。太一と奏の事情を知るジェラードが、同じく事情 を知るマリエを専属につけたのだ。彼女とのやり取りは多いが、他 の職員とあまり接する機会がないのは、そう言った理由からだ。 探索は無事完了。更に盗賊の討伐がボーナスで加算され、多目の 報酬を受け取った。 これで終わり。そう思って席を立とうとした三人を、マリエが止 めた。 ﹁実はお願いがあるんです﹂ そう切り出すマリエ。 また指名依頼だろうか。思わず身構えた三人に、マリエはこくり と頷く。 478 ﹁ごめんなさい。バラダーチームが戻っていないので、ギルドが頼 れるのは貴方たち三人だけなんです﹂ 何だか良くない流れだ。しかし、断るような空気でもない。 ﹁皆さんには、この二つの依頼を受けて頂きたいんです﹂ ブレザーの内ポケットから二枚の紙を出し、カウンターの上に置 いた。それを手に取り、一切目を通さずにミューラへバケツリレー。 冷ややかな視線は、一部の性癖を持つ者には快感だろう。 ﹁えっと⋮⋮何々。ムラコ茸の採取とフェンウルフの討伐? 何こ れ。Eランクの依頼じゃない﹂ キョトンとする太一と奏。文面から見て、わざわざ指名してくる 必要を感じない。それはマリエも自覚はあるようで頷く。そして、 続けた。 ﹁ムラコ茸の採取を受けたDランク冒険者二人組のチームが、まだ 戻ってきていないんです﹂ その二人が依頼を受けて既に四日。ムラコ茸の採取は、長くかか ってもせいぜいが二日である。無論、Eランク冒険者が受けた上で、 だ。Dランクになれる冒険者が、北の森で迷うとも考えにくい。何 かがあったと考えるべきだろう。 ﹁タイチ。これ、受けてもいいと思う﹂ ミューラの言葉に異論はない。ムラコ茸を採ってくると共に、冒 479 険者二人が戻らない理由の調査だ。だが、疑問が解決しきった訳で もない。 ﹁ムラコ茸は受けます。でも、フェンウルフは何でっすか?﹂ 単体ではゴブリンよりも脅威だが、群れたゴブリンよりも危険度 の低い魔物。それがフェンウルフ。 いつぞやか、威嚇だけで逃走させた魔物である。Eランク以上の 冒険者なら誰でもいい依頼。何で自分達なのか。 ﹁冒険者、多く感じませんでしたか?﹂ マリエの言葉に覚えがあった三人は頷いた。 ﹁ここ数日、北の森の魔物が増えているんです﹂ ﹁増えている?﹂ ﹁ええ。実際に森に入った冒険者たちからは同様の報告が何度もギ ルドにされました。五日間で二〇件です。なので一度調査隊を派遣 したんですが、どうやら三倍から五倍、エンカウント率が上がった ようなんです﹂ 魔物と出会うことをエンカウントという。三倍から五倍。看過は 出来ない上昇率だ。 ﹁こちらはシンプルです。進んで探す必要はありません。出会った ら、威嚇等せずに倒してほしいんです﹂ 恐らく向こうからやってくる。マリエはそう言った。 少しアズパイアを離れていた間に、何やら雲行きが怪しくなって いる。 480 遠因が自分達であるとは、この時は一切思わなかった。 481 小さくて大きな異変︵後書き︶ 書き上がったら更新のスタンスでいきます。 ちょっと書きためできそにないので⋮ では、次話でお会いしましょう。 482 引き金︵前書き︶ 食事中の方は一服するか、食べ終わってから読んでください。 483 引き金 逃げ出したフェンウルフに剣を投げ付ける。外れたが、動きを止 めることが出来た。 ミューラがすかさず地面から石の槍を作り出し、フェンウルフを 腹から串刺しにした。 ﹁ふう。これで何頭目?﹂ ﹁さあ。一〇頭は行くんじゃないか?﹂ 地面に突き立っている鋼の剣を引っこ抜く。 この剣は今朝買ったものだ。ずっと使っていた鉄の剣を修理に出 そうとして﹁こりゃあ直せない。どんなモン斬ればここまでヤレる んだ?﹂との言葉を武器屋の店主に頂戴した。どんなと言われても、 魔物と木くらいしか斬っていない。かかる負荷が強すぎたのだ。 直せないなら仕方がないと、買い換えを決意した。幸いと言うべ きか、使う機会の無かったお金はたっぷり残っている。アズパイア では最高級の鋼の剣を買っても、懐はちっとも痛まない。 因みにこの剣、ミューラは振り回すことが出来ない位には重い。 太一の強化があってこそだ。普段から一〇〇のうち五の強化を強い られるが、あれからまた魔力操作の精度や効率が上がったため、負 担らしい負担は無くなっていた。 ﹁確かに数多いね﹂ 奏がひい、ふう、みいと指折り数え、一三と答えた。午前中に森 に入ってまだ三時間。ゴブリン討伐の時は往復で片手で数えるほど しか見なかったフェンウルフなのに。 484 ﹁魔物ってこんな急に増えるもん?﹂ ﹁うーん。あたしが知る限り、そんな例は聞いたことないわね﹂ 太一の疑問を、ミューラは否定する。やはり異常らしい。 北の森に棲息するゴブリンとフェンウルフ。ゴブリンの繁殖力は 周知の通りで、コロニーの周囲は凄まじい勢いで乱獲される。それ はフェンウルフとて対象になるほどだ。その一方、コロニーはそう 数が多いわけではなく、別コロニーの行動範囲に干渉しないように コロニーは作られる。ゴブリンの行動範囲はかなり広いため、必然 的に分布も広くなる。先ほど一つ、ゴブリンの群れを見付けた。ひ とまず太一とミューラで素早く耳を切り落とし、回収した後に奏が 地面に大穴を作る土属性魔術でコロニーごと埋め立ててやっつけた。 ゴブリンを討伐しての報酬も、コロニー一つ分ともなれば見逃すに は惜しい額である。 一方、フェンウルフの生態は普通の野獣と変わらない。言ってみ れば獣が魔力を持ったのがフェンウルフだからだ。 彼等が狩るのは他の獣や人間。単独で行動しているゴブリンもタ ーゲットとなる。 基本的には単独行動の狼だ。個体の大きさは狼を二回りほど大き くしたもの。Eランクの冒険者平均よりも多少劣る程度の強さだ。 太一たちの敵ではない。一人で闘っても余裕で勝てる相手に三人が かりで攻撃を仕掛けるのだから、受けるフェンウルフにしてみれば 悪夢そのものだ。 ペースは並の冒険者たちと比べても速い。出会ったら瞬殺。いく らフェンウルフが弱いとはいえ、出会い頭に一撃必殺はそうそう出 来るものではない。。 彼らにとって幸運なのは、太一たちが積極的にフェンウルフを狩 っていないことか。今は森の奥を目指して歩き、特に寄り道したり はしない。奏のソナー魔術にかかっても、方角が進行方向から著し く外れるなら見逃している。 485 ムラコ茸は北の森を真っ直ぐ奥に向かって進入し、木の高さが中 層に差し掛かるエリアに生えるという。まだ見る限り木のたかさは 低い。もう少し歩く必要があるだろうとミューラは言った。 ﹁⋮⋮うっ﹂ 代わり映えのしない森を歩いていると、ふと、太一が鼻を押さえ て顔を青くした。 かなりの悪心を覚えている顔。尋常ではない様子に、奏とミュー ラは驚いた。 ﹁太一!?﹂ ﹁どうしたの!?﹂ 二人にジェスチャーで大丈夫と告げ、太一は胸を押さえ木に手を 当てて蹲った。 二度、三度と大きくえずき、ようやく収まった吐き気に太一は安 堵する。苦しさから目尻に滲んだ涙を袖口で乱暴に拭い、太一は二 人に向き直った。 ﹁⋮⋮悪い悪い。とんでもない悪臭がどかんって来てな﹂ ﹁悪臭⋮⋮?﹂ 言われてにおいを嗅いでみるも、二人は何も感じない。 ﹁ああ。嗅覚だけ魔力強化出来るかと思ってやってみたんだけど、 想像以上でさ﹂ 思い出したのか、再びおえ、とえずく太一。奏とミューラは呆れ るしかない。 486 奏のソナー魔術も大概だが、太一の嗅覚も人外である。しかも理 知的な奏の手段と違い、随分と原始的でもあった。 ﹁腐敗臭だ。向こうで何かが腐ってる﹂ 有り得ない。 ミューラは絶句した。 ここで息絶えた生き物は、腐る前に何かしらの生き物に亡骸を喰 われる。 魔物も獣も、人すら例外ではない。 北の森で死亡した者の探索は不可能として、ギルドですら請け負 わないのだ。 ﹁どうする? 大分よろしくない事になりそうだけど、行ってみる ?﹂ 太一の予想は外れることはないだろう。死体の残らない北の森に 漂う腐敗臭。どう転んでもいいことはなさそうだ。 ﹁⋮⋮行ってみようか﹂ 大分ためらったものの、奏が太一の提案を承諾した。その方向で 行くというなら、ミューラとしても否やはない。 確認する方向で纏まり、太一の先導で森を進む。鼻栓が欲しい、 と本気でごちる太一に、二人は覚悟を決める必要があると強く思う のだった。 進むこと数分。奏のソナー魔術が、何かの影を捉えた。 ﹁⋮⋮フェンウルフ? でも、それにしては大きすぎる⋮⋮﹂ 487 ソナー魔術に集中している奏は、じっと一点を見つめたまま歩く。 どうやら奏の探知限界距離の更に遠くから臭いはしたようだ。 気にかけるべきは腐敗臭だけではないらしい。珍しく方向音痴を 発揮しなかった太一に連れられて。三人はやがて少し拓けた場所に 出た。拓けたといっても、メリラがあった所ほどではない。北の森 の中では比較的、という程度だ。 それを見た瞬間、奏は自分達の周りに空気の渦を作り出した。辛 うじて、腐敗臭の直撃を避けることができた。 ﹁くっ⋮⋮。これが理由か⋮⋮﹂ 太一が顔をしかめる。直視できない。人が二人、木の枝に刺さっ ている。滴る液体がなんなのか、考えたくもなかった。 百舌鳥のはやにえの如きそれは、人の希望を丸ごと削ぎ取る悪魔 のオブジェ。 ﹁奏、ミューラ。見るなよ⋮⋮﹂ と気遣う太一も、一度目を向けた後、見ることは出来ていないの だが。 ﹁⋮⋮手遅れ﹂ ﹁見ちゃった⋮⋮割とバッチリ⋮⋮﹂ 顔を真っ青にしている二人を振り返って。 太一の背後からぱきりと枝が折れる音がした。 振り返ったその先にいたのは。 ﹁魔物!?﹂ 488 太一の声に、弾かれたように戦闘体勢を取る奏とミューラ。あの 盗賊の一件で、自分達が思っている以上に心が強くなっていたらし い。そんな二人だが、戸惑いは隠せなかった。 シルエットはフェンウルフ。だが、その色と大きさが違う。フェ ンウルフの倍近い巨躯に、真っ赤な体毛。見た目は間違いなくフェ ンウルフなのに、まるでその印象を抱かせない。 ﹁なんだ⋮⋮こいつ⋮⋮﹂ 燃えるような赤だからこそ、黒い瞳がとても目立つ。これは何な んだ。答えのでない問い。 ﹁グオアアアアア!!﹂ ﹁⋮⋮っ!﹂ 鼓膜が破れるかと思うほどの咆哮。黒曜馬など比べ物にならない、 凄まじいプレッシャーだった。 ◇◇◇◇◇ 同日同時刻、某所。 光が一切無い部屋に、三つの気配があった。男か、女か。若いの 489 か、年配か。それすらも分からない、暗い、暗い部屋。 ﹁冒険者が三匹、C地点に入った﹂ 男とも女とも取れる中性的な声が、淡々と告げる。 ﹁C地点か。あそこはレッドウルフを配置していたはずだな﹂ 答えたのは、重たい声の男だった。 ﹁作戦に支障は?﹂ 問うたのは老いた女の声。 ﹁少々痛手だが、問題ない。残りで十分代替出来る﹂ その答えは、二人を安堵するさせるに足るものだったようだ。そ れ以降、男と老婆から言葉はない。 ﹁見せてもらうとしよう。あのカシムが煮え湯を呑まされたという、 若者たちの腕前を﹂ 誰かが、にやりと笑ったような気がした。 ◇◇◇◇◇ 490 フェンウルフもどきの突進は、桁外れのスピードだった。 ﹁うわっ!﹂ あっという間に太一の元まで走り寄り、突進の勢いを乗せた頭突 きで、彼の小さな身体を吹き飛ばした。 魔力強化が出来るようになった太一が受けた、最初の直撃である。 油断があったかも知れない。それでも、太一が直撃を受けるなど 全くの予想外だった奏とミューラは本気で驚いた。 彼の身体はピンポン球のようにふっとんでいき、木を数本薙ぎ倒 して止まったようだ。バキバキと木が悲鳴をあげる。 会心の手応えがあったらしい紅のフェンウルフは、再び咆哮した。 奏とミューラは油断せぬように構える。太一を吹き飛ばしたあのス ピードは、かなりの脅威だ。 残りの獲物を狩ろうと二人に向き直る魔物。奏はいつでも魔術を 撃てるようスタンバイが済んでいて、ミューラもまた相手の攻撃を いなし、カウンターを叩き込むべく剣を握る。 これが人だったら、猛烈な攻撃に仲間を吹き飛ばされたにも関わ らず、全くと言っていいほどに心配をしていない二人に違和感を覚 えるだろう。 その種明かしは、攻撃を受けた本人が自ら行った。 ﹁おーあぶねえ。間一髪だ﹂ パンパンと埃を叩きながら、太一が瓦礫から姿を現した。 あの瞬間。太一から発せられた、これまでで一番強い魔力の活性 491 化を、奏とミューラはしっかりと感じ取っていた。あれほどの魔力 を身体にまとった太一がダメージなど受けるはずがない。 現に、太一はピンピンしている。 ﹁タイチ、平気?﹂ ﹁問題なし。それより、こいつ相当速いな﹂ それは太一への攻撃を見てよく分かった。 今までの相手とはレベルが違う。 とはいえ、負けるとは思わなかったが。無傷の太一を見て警戒す る赤いフェンウルフ。スピードが武器なのだろうから、撹乱でもす るべきなのだ。立ち止まっていては持ち味が半減してしまうのに。 ただ、それならそれでよい。 たとえ意思疏通が出来る相手だとしても、わざわざ教えてやる義 理はない。 太一が自身に施した魔力強化は六〇。相手がいる上での割合では 最高だ。奏とミューラが仕掛けないのは、それが太一からの﹁俺が やる﹂というメッセージだと思ったからだ。 ﹁どこのどいつか知らないが、ふざけた事するじゃねーか!﹂ 衝撃と、何かが砕ける音。 彼を注視していた奏とミューラ。辛うじて、初動を追うことが出 来た。 赤いフェンウルフは身体の真ん中がくの字に折れている。真横か らの猛烈な一撃だった。 悲鳴すら一瞬。血ヘドと唾液を撒き散らしながら、魔物は数メー トル地面を転がった。 赤いフェンウルフが戦闘不能に陥ったのは明らかだった。背骨を へし折った。もう立ち上がれないだろう。 492 あのまま放っておけばじきに息絶えるだろうが、闇雲に苦しませ るのも趣味ではない。腰の剣を抜き払い、赤いフェンウルフに近付 く。激痛に苦しむ魔物に見えぬように、延髄目掛けて剣を振り下ろ した。 びしゃりと拡がる鮮血と、動かなくなるフェンウルフ。振り返っ て、奏とミューラに言った。 ﹁あの木、焼き払ってやろう﹂ この世界では土葬が主流。太一はあえて日本で行われる火葬を選 んだ。死んでまで辱しめられたあの二人の冒険者を考えれば、この 方がいいと思った。 太一の意図を汲んだ奏が、火球を三つ作り出す。 ミューラには流石に分からないだろうが、明確な理由があると察 したのだろう、無言で奏に追従する。 どん、と爆発が起き、激しい炎があっという間に木を包む。ひょ ろりと背の高い遺体と 、饅頭のように丸い遺体が、明滅する炎に溺れていく。 全てが灰になり、火が消えるまで、三人はその場で見守り続けた。 ◇◇◇◇◇ 493 ﹁二一秒﹂ 暗闇に通った声に男と老婆の感嘆の溜め息が漏れる。 ﹁レッドウルフ相手に二一秒も持たせたか﹂ ﹁なかなかだの。カシムが苦しんだのも納得じゃ﹂ 満足げな返事に、しかし中性的な声の主は。 ﹁レッドウルフが、二一秒で狩られた。闘ったのは三人のうち一人 だ﹂ 仏頂面を浮かべていることが容易に想像出来る声色で告げる。 空気が、暗闇ごと凍りつく。 ﹁想像を遥かに上回る⋮⋮手を打たなければ﹂ 返事など期待していなかったのか、続けてそう呟く。 太一の圧倒的な戦闘力が、彼らに最後の引き金を引かせる事にな ったのだった。 494 引き金︵後書き︶ 一話遅れましたが、たくさんの応援ありがとうございました。 応援への回答は、この更新をもって代えさせて頂きます。 495 忍び寄る危機︵前書き︶ 何とか土曜日更新間に合いました。 土日のどっちかで一回は更新しようと思います。 496 忍び寄る危機 魔物があのように遺体を放置するような真似はしない。三人はそ の結論に至り、人為的だったと一致した。 誰が。どのような目的で。 あのような行為は、日本でなら法律で罰せられる重罪だ。許され あれからムラコ茸をいくつか採取し、森の中を探索しながら、 るはずがない。 魔物を狩りながら歩いた。 あの赤いフェンウルフ。 どういう理由で生まれたのだろうか。突然変異で片付けていいと は思えない。何等かの手懸かりがあればいいと考えて森をうろうろ する。 が、そうそう事が上手く運ぶはずもなく。目立った成果を挙げら れぬまま夕方を迎え、三人は肩を落として北の森を後にした。 ギルドに着いたのは、すっかり日が暮れた頃だった。 入口付近でぐるりと顔を見渡し、マリエがいないか確認する。話 をするにも、事情を知っている彼女の方が話が早くて面倒が少い。 のだが。マリエを見付けることは出来なかった。休憩でもとって いるのか、それとも奥で仕事中か。いないのなら仕方がないと、カ ウンターに向かい、手頃な職員に声をかける。 ﹁ども﹂ ﹁あ、皆さん。どうされましたか?﹂ ﹁依頼を受けてきたんです。はいどうぞ﹂ 奏が腰袋から昨日受け取った依頼書と、ムラコ茸が入った布の袋 を取り出して渡す。 497 ﹁なるほど、確かに。戦果の方はいかがでしたか?﹂ ﹁これっす﹂ 太一は大きめの皮袋をどさりとカウンターに置いた。たった一日 にしては多すぎる戦果に、女性職員の営業スマイルがひきつる。 ﹁ゴブリンのコロニーを一つ潰して、フェンウルフを四〇頭位やっ つけてきたわ﹂ お昼はパスタ食べたよ。 友人に他愛もない事を告げるのと同じノリで言うミューラ。 この職員は、マリエの愚痴から、太一のチームが常識を蹴り飛ば して歩く規格外だと知っていた。実際にこうして相対して、自分の 認識が甘かったと実感する。 ﹁ち、ちょっと数が多いので、報酬は明日お渡しでもいいですか?﹂ ﹁構いませんよ﹂ 働かなくてもしばらく生きていけるだけのお金は持っている。慌 てて受け取る必要はない。 ﹁それでは、完了手続きはこれで終了になりますが、他に何かあり ますか?﹂ いつもの定型文。 話を終わらす社交辞令。 今から大量の戦利品を数え上げ、報酬を準備しなければならない。 早くその作業に入りたかったのだが、太一は彼女を呼び止めた。 ﹁すんません。ギルドマスターに会いたいんすけど﹂ 498 言われて、彼女は顎に手を当てた。ギルドマスターは、今は。 ﹁すみません。今来客中で⋮⋮﹂ ﹁大丈夫ですよ。タイチさん、カナデさん、ミューラさん﹂ 丁重に断ろうとした彼女の台詞を遮ったのは。 ﹁あ、マリエさん。こんばんは﹂ ﹁こんばんは。その様子だと依頼は終えたようですね﹂ 書類を抱えたマリエが、階段を降りてきたところだった。 ﹁ええ。ついさっき戻ってきたわ﹂ ﹁そうですか。相変わらず早いですね。ギルドマスターの部屋、入 って大丈夫ですよ﹂ 来客中ではなかったのか。そこにずかずかと踏み入るのは若干躊 躇いがある。 だが、マリエが言うのならよいのだろう。三人は礼を言って階段 を登っていった。 ﹁マリエ。いいの?﹂ ﹁いいんですよ、先輩﹂ 今しがた太一たちの応対をしていた彼女は、マリエにとって先輩 らしい。 ﹁ギルドマスターの来客は、彼らにとって縁深い人ですから﹂ ﹁ふうーん﹂ 499 特に言及する気はない。ギルドマスターとも懇意にするあの三人 組とのやり取りは、実質マリエの独占状態だからだ。彼女が接した のは本当にたまたまである。 ﹁あ、そうだ、マリエ﹂ ﹁はい?﹂ ﹁これ。あの子たちが狩ってきた魔物の戦利品。報酬は明日でいい って言ってもらったから。もちろん、貴女にも手伝ってもらうわ﹂ カウンターに鎮座する大きな皮袋。 北の森にいるのはゴブリンとフェンウルフ。彼らならこの程度は 片手間でこなすだろう。 だが、この作業をする方は片手間とは行かない。相変わらずブレ ない非常識っぷりに、マリエは溜め息をついた。 疲れた様子の後輩の苦労を思い、先輩職員は苦笑いするのみだっ た。 ◇◇◇◇◇ ﹁陣はどうだった﹂ 500 極めて平坦な声で、老婆が問うた。 ﹁火炎系魔術の影響で吹き飛んでいた。跡形も無かった。奴等の実 力を侮っていたことは、認めなければならない﹂ それに答える中性的な声もまた、特に何かを憂いでいるとは思え なかった。 本当にとるに足らないのだと思わせられる。 ﹁肝心のあれは無事か﹂ ﹁今回のはダミー。本命は当然無事だ。無論、残りの陣も全て健在 だ﹂ ﹁そうか﹂ それだけ聞ければ満足なのか、彼はそれきり口を閉ざした。 ﹁進捗は?﹂ ﹁四〇パーセント﹂ ﹁上々じゃな﹂ 続いて老婆も黙る。誰もが喋らなくなると、その暗闇には誰もい ないのではないかと思うほどの静けさだ。息を吸い、吐く音すら聞 こえない。 ﹁この程度は小細工だ。少々派手だけどな﹂ その一言を最後に、暗闇には再び長い長い静寂が訪れたのだった。 501 ◇◇◇◇◇ 扉をノックし、了解を得てからノブを捻る。見慣れてはいないが、 驚くほどでもなくなったジェラードの執務室。 ﹁おう。お前たちか﹂ 当然、ジェラードがいる。 ﹁久し振りだな﹂ 何故か、レミーアもいる。 ﹁レミーアさん!﹂ ﹁来客ってレミーアさんだったのか﹂ いつもの格好であるジェラードに対し、レミーアは黒の質素なド レスに生地の透けているケープを羽織っている。 現代では女性用だが、中世では男性用だったはずだ。まあここは 異世界なので、地球の常識で考えない方がいいだろうが。 何より、そんなことは些細である。レミーアはいつも通りレミー ア。扇情的な格好をするのは家でも外でも変わらないらしい。太一 にとっては目に毒である。主に胸元が。 奏とミューラに睨まれる程度には、太一も意識してしまった。そ 502 んな三人を見て、レミーアが一瞬意味深な笑みを浮かべたのには、 この場の誰も気付かなかったが。 ﹁タイチよ⋮⋮レミーアは名で呼ぶのか。何故ワシはオッサン呼ば わりなのだ﹂ ﹁オッサンだし?﹂ ﹁オッサンですよね?﹂ ﹁オッサンね﹂ もうよい、と呟き、疲れたように項垂れるジェラード。本気で咎 めてこないということは、じゃれあいの範囲内ということだろう。 ﹁はっはっは。その通りじゃないか﹂ ﹁やかましい。ワシの倍以上生きとるババアが﹂ ﹁ふふ。私は長寿だからな。二五〇歳位までは女として現役だ﹂ ﹁何を。ワシとて後一〇〇年は男として現役だぞ﹂ ﹁男の嫉妬は見苦しいな。なあ、オッサン?﹂ ﹁うぐぐ⋮⋮﹂ 途端にじゃれあいを始める二人。太一と奏を手紙の一通で保護さ せた通り、仲は悪くないらしい。 ﹁話の途中で悪いんだけど﹂ ﹁何だ?﹂ 二の句は継がずに、立派なテーブルに二振りの剣を置いた。 炎に焼かれ、刀身が黒くなった剣を。 あの冒険者たちの、形見を。 罵り合いという名のコミュニケーションを即座に止め、その剣を 見詰める二人。尋常な痛み方ではないそれの内一本を、ジェラード 503 はゆっくり手に取った。 ﹁⋮⋮どうした、これは。誰かに襲われでもしたか?﹂ ﹁大分高熱で焼かれているな。カナデか? それともミューラか?﹂ 柄の部分など炭化してボロボロだ。レミーアは視線を太一たちに 向ける。 ﹁私とミューラでやりました﹂ ﹁二人でファイアボール六発です﹂ 奏とミューラでファイアボール六発。明らかに過剰。オーバーキ ル。一体どんな状況ならそんな事態が起こるのか。レミーアが眉を ひそめる。 ﹁攻撃の為じゃないんだ。弔うためにやった。あ、やってもらった か﹂ 自分でやったのではないため言い直す太一。 もちろん、問題はそこではない。 ﹁弔うとはなんだ。何が起きた﹂ ムラコ茸を取りに行って、ついに戻ってこなかった冒険者。彼ら の変わり果てた姿を見付けた。死者になってまで冒涜されていたの で、全てを灰にすることで無かったことにしようと思った。 あの時思った素直な気持ちを吐露する。 レミーアとジェラード。 太一たちと比べれば圧倒的に大人な二人。 つい。知らず知らず。頼っていた自分たちがいたことに、話をし 504 ながら頭の隅で思っていた。 ﹁そうか。彼らか。惜しい人材を無くしたな﹂ 剣をじっと見詰め、彼らと会話するように呟くジェラード。 ﹁フェンウルフが襲ってきたと言ったな。本当か?﹂ ﹁本当です﹂ ミューラの答えを聞き、唸るレミーア。フェンウルフは頭がいい。 太一たちとの力量差は一目見れば分かるだろう。三人から仕掛ける 事はあっても、フェンウルフから攻撃を仕掛けるなど有り得ない。 強い者に挑んでいくような精神など、フェンウルフは持ち合わせて いない。 ﹁普通のフェンウルフじゃなかったな。身体とか一回り大きかった し、真っ赤だったし﹂ レミーアの疑問を察したように、見たままを答える太一。 ﹁⋮⋮待て。今なんと言った?﹂ ﹁えっと。普通のフェンウルフじゃなかった?﹂ ﹁その先だ﹂ ﹁一回り大きくて、真っ赤﹂ ﹁⋮⋮﹂ レミーアは口許に手を当て、視線を下に向けて黙考する。 雰囲気の変わったレミーアに戸惑う太一たち。ジェラードは剣を ことりとテーブルに置き、彼女を見詰めた。 505 ﹁ミューラ。お前なら差しで勝てるか?﹂ ﹁⋮⋮勝つまで、時間掛かります。二人いると、より確実ですね﹂ ﹁そうか﹂ ジェラードは驚いた。一時期低ランクながら圧倒的な強さでもっ て、討伐依頼を次々とこなしていった金の剣士。そのミューラをし て、勝つまで時間が掛かるという。一体この少年少女はどれだけの 強さの魔物と出会ったのか。 ﹁何か分かりましたか?﹂ ﹁ああ。順を追って説明してやる。まずは赤いフェンウルフの強さ だが、恐らくは黒曜馬と同格と言ったところだろう﹂ ﹁黒曜馬だと? フェンウルフが?﹂ ﹁うむ。では説明しよう。お前たちが倒した魔物は、“真紅の契約 ”を受けている﹂ 真紅の契約。カシムが使用した魔操術の一種。対象の魔物の強さ を数段引き上げ、更にある程度の命令が出来るようになるというも の。 魔操術について調べていたら、そういうものも見付けたとレミー アは言った。 それを使えば、最底辺の魔物でも、そう易々と手出しが出来ない レベルまで引き上げることが可能だというのだ。特徴として、身体 が大きくなり、色が赤くなるのだということだ。 ﹁しかし、此度の連中は本気だな﹂ ﹁どういうことだ﹂ ﹁それほどの法外な効果を持つ術が、何の代償もなしに使えると思 うか?﹂ ﹁なるほどな。そういうことか﹂ 506 真紅の契約を行使するのに必要な供物は二つ。 一つは術者の魔力。 そしてもう一つは術者の血肉。 それらを捧げることで、真紅の契約は完成する。 ここでいう血肉とは、肉体の一部である。両手両足を失っても、 人生で四度しか使うことが出来ない。五度目は体内の臓器が全て失 われる。 死の術、とレミーアは形容した。正にその通りだと思う。 この時点でそれを看破出来たのは幸運だろう。レミーアの手柄は 大きい。 しかし、レミーアには不安が一つあった。 真紅の契約と、フェンウルフの異常増殖。果たしてそれは無関係 なのだろうか。別々に区切って考えるべきではないと、直感が告げ ている。そのせいでレミーアは、最悪の組み合わせがあることを見 逃していた。彼女の頭脳のレベルを考えれば、ケアレスミスと言っ ていいものだ。 それが発覚するのは、アズパイアを揺るがす事件が発生してから の事である。 507 忍び寄る危機︵後書き︶ 読んで下さってありがとうございます。 悪の秘密結社っぽい人達の組織名は、もうしばらくお待ちください ︵笑︶ 508 急変︵前書き︶ 今回、太一たちの活躍は少ないです。 次の話以降で。 アレンさんのお名前お借りしました︵事後承諾 名前考えるの大変なんです⋮⋮︵笑︶ 509 急変 レミーアを連れて宿屋ミスリルに戻る。 その時のアルメダのリアクションは凄まじかった。 ﹁まさか、レミーア様!?﹂ と、何と様付けで彼女を呼んだのである。 一体何事だとレミーアを見てみれば、彼女は居心地悪そうに後頭 部を掻いていた。どうやらこういう扱いは嫌いらしい。 ミューラとレミーアを同室に、奏と太一をそれぞれ個室で部屋を 取り直し、四人は夕食を摂って床についた。 そして翌朝。 場所は違うが、久しぶりに揃った四人で食卓を囲む。 メニューはパンと目玉焼きとハム。サラダと琥珀色のスープ。 食事は至って平凡なのに、作る人の腕がいいのだろう。ミスリル の食事に不満を覚えた事は一度も無い。料理上手なレミーアも満足 の一品ばかりだった。 スープが入ったカップを手に取り、少し。さらりとした感触の熱 い液体が喉をすり抜けていく。薄いはずなのに満足感がある味のス ープをコースター代わりのお皿において、太一はレミーアへ目を向 けた。 ﹁レミーアさんに﹃落葉の魔術師﹄なんて二つ名があったのは知ら なかったなあ﹂ ﹁もう止めろと言っているだろう⋮⋮﹂ 力なくため息をつくレミーア。 この世界で二つ名がつくのはそう容易い事ではない。 510 たった一人で一〇〇〇人からなる敵兵を屠った騎士には﹃一騎当 千﹄と正しくな二つ名がつけられたり。 艱難辛苦を乗り越え、一貴族にも匹敵する財宝を探し当てた冒険 者には﹃トレジャーハンター﹄なる二つ名が。 例を挙げればそんな感じである。 それ以外にも様々な人物が二つ名を冠せられているが、その全員 に共通して言えるのは、一人では常識的に不可能な事を成し遂げて いる事だ。 因みにレミーアの場合、一枚の葉が枝から離れ、地面に落ちる前 に、一〇〇もの魔物を凄まじい速度で範囲魔術を連射して、一瞬で 葬り去ったことからついた二つ名だ。 それによって、アズパイアとユーラフ両方を一瞬で救ったのだと いう。 既に三〇年も前の事だというが、アルメダが心酔した様子で様付 けするのも何となく納得である。 その行為に至った理由も聞いた。 気に食わない貴族と、売り言葉に買い言葉で乗ったギャンブルに 大負けして、自分が開発した魔術を持っていかれたのだという。集 まっている魔物の群れを見つけ、これ幸いと持ちうる魔力を総動員 して魔術をぶっ放した。討伐に訪れた冒険者チームが結構な数いた のだが、彼らの出番を一瞬で奪ってしまった。レミーアのあまりの 鬼神っぷりに何もいう事が出来ず、むしろ戦わずに済んだイコール 命を落とさずに済んだということで、感謝されてしまったらしい。 本人は八つ当たりだっただけに、すこぶる居心地が悪かったと当時 を振り返った。 ムシャクシャしてやった。相手は誰でも良かった。今は後悔して いる。 どこかの犯人の供述のようなレミーアの告白は、とてもではない がアズパイアとユーラフの住人には聞かせられないと、太一たちは 思ったのだった。 511 ﹁私の事はどうでもいい。それよりも、北の森の方が今は大事だろ う﹂ ﹁レミーアさんの過去も気になるけどなー。俺達そういえば、二人 の事殆ど知らないし﹂ 太一の言葉に同意した奏が二回頷く。 二人の今は知っているが、二人の昔は聞いた事が無かった。共に 行動しているのだから、知りたいと思ってしまうのも当然の心理だ ろう。 ﹁それを言うなら、あたしとレミーアさんも、タイチとカナデの事 は殆ど知らないわ﹂ 確かにそうだ。二人の事を聞いたことが無かったが、自分達の事 も話したことは無かった。せいぜい日本がどういうところか、どう いう文化か。その程度である。 ﹁じゃあ、その辺の情報交換と行こうか﹂ ﹁それも良いな。但し、私の家にさせてもらおう。ここで色々話す のはお前達としても良くないだろう?﹂ 言われて気付く。そういえば、異世界人である事は隠しているの だ。 冒険者としての生活に慣れてきているのは、実感としてあった。 その中では、日本の事を思い出す事はそう多くはない。必要な要素 は戦闘力だけではない。他の事に気をとられながらこなせるほど、 ぬるい仕事ではない。 ﹁うーん。仕方ないか。今回はそれで手を打とう﹂ 512 ﹁何を偉そうに﹂ レミーアの言葉に、四人で笑った。 和やかな団欒。 それが続くのは今日の午後まで。 事態の急変は、すぐそこまで差し迫っていたのだった。 ◇◇◇◇◇ 同日早朝、北の森の偵察及び討伐冒険者部隊で後方支援に回って いるアレンは、北の森近くの岩場に設えられた陣営で、夜営の片づ けを行っていた。 Eランク冒険者に上がって二ヶ月。まだまだひよっこである彼に、 北の森の偵察部隊への編入は許されない。 後方支援も大切だと自分に言い聞かせ、目の前の皿をもくもくと 洗っていく。 ここに残っているのは当然アレンだけではない。他にもDランク 冒険者等が率先して後方支援に回ったりもしている。三〇人からな る大所帯。七人ずつの偵察部隊三つと、後方支援の冒険者九人。E ランクだけでないのも当然だ。意図としては﹁ひよっこが覚えるの は何も戦闘だけじゃない﹂というものがある。 513 ﹁よし⋮⋮後少し﹂ 積み上がった皿を見て、腕で汗を拭った。 食器を洗うのに、貴重な飲み水を使うわけにはいかない。陣営か ら一五分ほど歩いたところにある小川で洗い物。 アレンは不思議に思う。何故こんな事をしているのだろう。どう して自分は、北の森を歩けていないのか。 脳裏をよぎるのは、少年と少女二人の冒険者チーム。少年のほう は黒い髪が珍しいこと以外は至って普通。一方、彼とチームを組む 二人の少女は飛び切りの美人だ。一人は少年と同じ黒い髪を後ろで 束ねた少女。もう一人は、金の剣士と呼ばれるエルフの少女。 受付でギルド職員と話している隣の席に座っていたときは、心臓 が跳ね上がった。ちらちらと盗み聞いて、金の剣士の名前がミュー ラである事を知った。ギルド職員からの話が飛び飛びになってしま い、依頼中に酷い目に遭う程度には、隣の席に注意を払っていた。 彼女の事を思い出すと、途端に頭が茹だる。 話した事など無い。今年で一七歳になるアレンは女性と話すのが 苦手だ。ギルド職員でさえ、わざわざ男性のところが空いたのを見 計らっていくくらいだ。恋愛経験は勿論無いし、女性経験も当然無 い。 いつも、遠巻きに見ているだけ。 そういえばここ数日、彼女を見ていないなあ。また見たいなあ。 アレンが思えるのはその位だ。ミューラの姿を見れるだけで、今 は満足だ。﹁もしもあの子と恋人同士だったら﹂という幸せな想像 すら、彼はする事が無い。 ミューラたちがたったの一ヶ月でCランク冒険者になった事。あ のバラダーチームと仲良さそうに話していた事。それらを思い出す たびに、自分の小さな恋心にすら躊躇してしまう。 Eランクになってからの、アレンの依頼達成率はおよそ三〇パー セント。未だにDランクに上がれる兆しすら見えない。 514 自分がこなしている依頼と、その出来を考えるたびに実感するの は、ミューラたちの凄まじさだ。圧倒的な力量差だ。彼らからすれ ば、その辺の有象無象に変わらないのだろうな。アレンはそう思っ ている。隣のテーブルになっても、すれ違っても。自分は彼女達の 事を覚えていても、彼女達は自分の事など覚えていない。 それが現実だ。彼女達とは、生きている世界が違う。立つ舞台が、 違うのだ。 はあ、とため息一つ。 最後の皿を洗い終え、重ねた山の一番上に置いた。 うじうじと考えていて何かが好転するわけでもない。アレンのや る事はまだたくさんあるのだ。 そう思って皿を抱えて、仲間が待つ陣営に戻る。 皿を落とさないように気を使って歩く事一五分。陣営は、騒然と していた。 ﹁戻りましたー﹂ 手近な台に皿を置いて、アレンは仲間が集まっているところに駆 け寄った。 ﹁おおアレン! やっと戻ってきやがったか! 呼びに行こうかと 思ってたんだ!﹂ ﹁何があったんですか?﹂ アレンに気付いた先輩冒険者が、アレンの肩を掴む。 そして。 ﹁今から街に早馬を飛ばせ!!﹂ 切羽詰った表情でそう怒鳴った。 515 事態が飲み込めずに呆然とするアレン。しかし、彼らはそんなア レンの尻を引っぱたく。 ﹁魔物の大群が、街に向かって来てる!﹂ ﹁四桁はいる! いるはずがないオークもいやがるんだ!﹂ ﹁この中で一番馬が速いのはアレン、お前だ! 速く準備しろ!﹂ 矢継ぎ早に言われる言葉に、アレンの頭が真っ白になる。 魔物四桁? 何だその非常識な数値は。最早戦争のレベルである。それにオー ク? 聞いたことの無い魔物の名前まで飛び出してきた。 昨日までは何も無かった。フェンウルフは相変わらず多かったが、 それ位である。 それが何故急に、今日になって。 アレンの頬を、冒険者の一人が叩く。 ぼんやりとしていた思考が、急にクリアになった。 ﹁ぼやっとしてんじゃねえ! もう時間がねぇんだ! 早くしろ! !﹂ そうだ。ぼけている場合じゃない。 自分出来ることをやる。そう決めて偵察隊の後方支援に志願した のだ。 だがその前に。どうしても聞かなければならないことが、アレン にはあった。 ﹁皆は!? 皆はどうするんだ!?﹂ 敬意から常に丁寧な言葉を使っていたアレンだが、やる事が明確 になって焦りが出て、その辺の意識がすっ飛んだのだ。 516 アレンの乱暴な問いかけに対して、冒険者達は、頼もしく笑った。 ﹁俺たちが時間を稼ぐ。お前が街に辿り着けなけりゃ、街の連中も 皆まとめてお陀仏だからな﹂ アレンは言葉が紡げなかった。 全てを、分かっていたかのような口調だった。 ﹁お前が偵察隊に志願してきたときは断ろうかと思ってたんだが、 断らなくて良かったぜ﹂ ﹁後は任せろ。お前は自分の出来る事を精一杯やれ。一人前の冒険 者になりてぇんだろう?﹂ 視界が滲んだ。 何だ。自分の目はおかしくなったのか。さっきまで、正常に物が 見えていたじゃないか。 ﹁早く行け!﹂ ﹁一人前の冒険者ってのはなあ!﹂ ﹁どんな事があろうと!﹂ ﹁テメェの仕事をまっとうするヤツの事を言うんだ!﹂ アレンは馬に飛び乗り、鞭打って走り出す。 彼らは分かっていたのだ。 偵察隊としての活動期間内にもしもの事が起きたら、命を賭けて 食い止める先駆けとなる事を。 自分の命を、アズパイア存続の為に、使い切る事を。 偵察隊の冒険者達は、森の中で奮闘したのだろう。例えそれだけ では事態が好転しないと分かっていても。 強い風が頬を叩いた。 517 もっと速く。もっとがんばれ。 走りながら馬の首を撫でる。実家が馬車便で生計を立てているた め、Eランクながら馬の扱いについては冒険者達の間でも一目置か れる存在だったアレン。 できることは、馬を誰よりも上手く操る事。 一秒でも早く、街に辿り着く事。 だから、背後から僅かに響く爆発の音や、魔物の悲鳴は聞こえな い。 こちらに追いついてきた魔物など、振り切って当然だ。 その魔物が小さな矢を放ってきた。関係ない。ヤツの特徴は一瞬 の速さのようだ。いくら瞬発力に優れていようと、馬の持久力には 敵わないはずだ。 アレンは、馬の持久力を上げる強化魔術を使う事が出来る。アレ ンの家族は誰もが使える魔術。今までは﹁何の役に⋮⋮﹂とバカに していた魔術だったが、ここに来て感謝した。 矢を撃ってくる魔物は、追撃を諦めたようだ。振り返ると、ぐん ぐんと距離が離れていく。やがてその小さな影は、踵を返して戦場 に戻っていった。 何もかもが些細な事だ。 肩に刺さった矢など、痛くは無い。 アレンは馬を走らせる。 大分遠くだが小さく見えてきた、アズパイアの街を目指して。 ◇◇◇◇◇ 518 呼び出されて行ってみれば、たくさんの冒険者がギルド前にに集 まっていた。 太一たちの後からも冒険者が集まってきているが、全員ではなか ったのだろう、まだまだ続々と人が入ってくる。太一たちは端っこ のほうに場所を確保した。真ん中の方はぎゅうぎゅう詰めで、とて もではないがいられたものではない。 ただでさえゴツくて暑苦しい冒険者たちだ。細かい事は気にしな い彼らと対照的に、太一たちと同じような考えを持つ冒険者も確か にいた。 主に女性冒険者たち。ふと、彼女らと目が合う。同じ考えである 事を視線で確認して、苦笑いを浮かべた。 それにしても凄い数である。少なく見積もっても一〇〇人以上は いるのではないか。 ジェラードは、他の街からも冒険者を呼び寄せたと言った。アズ パイアの冒険者だけでは、増え続けるフェンウルフにとてもではな いが対応が出来なかったのだ。近所のありとあらゆる街に馬車を出 し、高い報酬を出して冒険者達を誘致する。アズパイアの危機でも あるため、行政からも大分支援金は出ているという。街の経済状況 は、今回のことでかなり悪くなったとジェラードはごちていた。 太一は冒険者で埋め尽くされたギルドを見渡してみる。北の森の 魔物大量発生事件前からアズパイアにいた冒険者もちらほら。彼ら の中には、太一を見て手を上げる者もいた。そんな気さくな冒険者 に返事を返しながら、再び目を巡らせる。 ジェラードが言った通り、見たことのない顔もかなり多い。彼ら が、別の街から来た冒険者たちだろうか。アズパイアの冒険者全員 を見たことがないため、判別はつかない。 顔は知らずとも、彼等を見ているだけで飽きなかった。鉄の胸当 519 て。背中に背負う槍。湾曲した剣。そのどれもがくすんだり、傷が ついたりして年季が入っている。レプリカとはリアルさが違う。 こうして戦士たちが集うと、改めて思うが、迫力が凄まじかった。 何度か新宿や渋谷に足を運んだことがあった。その時、街にたむろ するやんちゃなお兄さんにビビったものだが、こうして冒険者を見 ていると、彼らを怖がっていた理由が分からない。人を威嚇するよ うな格好とポーズを取るお兄さんたちの前に、冒険者の一人でも連 れていったら、多分逃げ出してしまうだろう。鍛え上げられた肉体 と鋭い眼光。明らかに荒事慣れした本物だけが持つ余裕。太一とて、 魔力強化がなかったらこんなところには近づきたいとすら思わない。 ぼーっとした頭でそんなことを考えていると。 ﹁命知らずのバカ共。集まってくれて感謝する。ワシはアズパイア 冒険者ギルドのギルドマスター、ジェラードだ﹂ 良く知る声がこちらに届く。何の気なしにそちらに目を向けると、 大きな台の上に小さいオッサン⋮⋮もとい、ジェラードが立ってい た。 ﹁耳のいいヤツはもう聞いているだろうが、北の森の偵察をしてい た冒険者部隊が、魔物の群れにトランプルされた。早馬の報告によ れば、全滅はほぼ確実だということだ﹂ ざわざわがやがやと騒がしかったギルドが、今はしんとなってい る。 ﹁ワシから伝えてもいいんだが、本人が自分の口でどうしても伝え たいと言うのでな。彼に任せる事にした。アレン。さあ、話せ﹂ ジェラードに促され、一人の少年が壇上に立った。見た感じ、太 520 一たちと同い年くらいの印象だ。肩には包帯が巻かれている。うっ すらと赤いものが滲んでいることを考えると、傷は相当に深いよう だ。 数百の視線を浴びてなお、彼は臆することなく話始めた。 ﹁北の森を偵察していた冒険者の話を総合すると、魔物の数は少な くても四桁。オークとかいう良く分からない魔物もいる。この傷は、 小さい人型の魔物の矢にやられた﹂ 堂々と、場を制圧する。物凄い胆力。 ﹁俺一人を逃がすために、三〇人いた冒険者たちは全滅した。この 街を守るために散った冒険者たちのために、同じ冒険者として頼み たい。彼らの遺志を継いで欲しい﹂ 忌々しげに自身の怪我を睨む少年。 ﹁情けないけど、この怪我じゃ俺は戦えない。俺の分も、お願いし ます﹂ その言葉を最後に、少年は頭を下げて、黙した。後は全てを、集 まった冒険者に委ねて。 沈黙が支配する。 吹き付ける風に乗り、空になった缶詰めがカラカラと大地を這う。 やがて。 一人が槍の石突きで強く地面を叩いた。 ﹁いいツラしてんじゃねえか、ケツの青いガキがよお! 俺あ乗っ てやるぜ!﹂ ﹁バカか!? 四桁だぞ!?﹂ 521 ﹁ああ!? タマのついてねえ腰抜けはママのオッパイでも吸って ろよ!﹂ ギャアギャアとけたたましい喧嘩に、そこかしこで起こる殴り合 い。 ﹁血の気しかねえ大バカどもが⋮⋮﹂ ジェラードが顔に手を当てて呆れている。 大勢は考えるまでもない。 魔物の侵攻に、アズパイアが抵抗することが今この瞬間、決まっ た。 522 急変︵後書き︶ 最近牙の旅商人にはまってます。 どうやら、作者が基本的に好きなのはダークな物語のようです。 読んで下さってありがとうございます。 523 奏先生の現代知識有効利用講座︵前書き︶ ついに四〇部投稿! よく続いたなあ⋮⋮ この話からはやりたい放題です︵笑︶ 524 奏先生の現代知識有効利用講座 ﹁一発で群れに大ダメージを与えるだと?﹂ ジェラードは、奏の言葉に自身の耳を疑った。 申し出そのものは大歓迎だ。広範囲殲滅魔術が使えるのなら、そ れを拒む理由はない。 だが、どうやって。 例えばレミーアでも、どんなに範囲の広い魔術を使ったとして、 三桁を一発で倒すのは不可能だろう。 奏は﹁外さなければ一〇〇はかたい﹂と言った。どうやってそれ を実現するのか、見当がつかない。いくらフォースマジシャンとは いえ。 ﹁そんな事が可能なのか、カナデ?﹂ レミーアもにわかには信じられないのか、奏に問い返していた。 奏は間髪入れずに肯定する。 この場で顔色を変えていないのは言った張本人である奏と、その 友人太一。ミューラもレミーアもジェラードも、どう受け取ればよ いのか分からず、もて余していた。 ﹁奏にやらせりゃいいんだ﹂ ﹁簡単に言うな小僧め﹂ ﹁奏が出来るって言ったら出来るんだって﹂ それにどんな根拠があるのか。やけに自信満々に言い切ったが。 ﹁⋮⋮任せていいのか? 作戦に今更手を加えるのだ。やっぱりで 525 きませんでは済まんぞ?﹂ ﹁問題ないです。タイミングさえ間違えなければ﹂ その魔術そのものの成功は疑っていないようだ。ふとミューラと レミーアを見てみれば﹁やらせてみよう﹂と目が語っていた。 ジェラードとしても、出会い頭の一撃で三桁の魔物を倒せるとい う奏の提案にはとても魅力を感じている。 ﹁⋮⋮良かろう。ではせめて、何をする気なのかを教えてくれ﹂ ﹁分かりました﹂ 奏が頷く。 ﹁使う属性は火と水です。起こす現象の名前は、水蒸気爆発﹂ すいじょうきばくはつ。言葉からイメージが一切沸いてこない。 どうやら爆発を起こすらしいが、火と水は相反する属性だ。普通、 被らないように注意して発動するものだ。 ﹁何発撃てる?﹂﹁憶測だけど、三発かな﹂﹁じゃあ、頭で一発 だけだな。使いきるのはまずい﹂﹁そうだね﹂ 二人のやり取りを見守っていると、魔術を撃った後の話になって いった。ここまで成功するのが前提の態度を取られると、むしろ信 じない方が酷いことのように思えてしまうから不思議である。 ﹁こんなに魔力使うのは初めてかも。そこは気になる﹂﹁心配す んな。俺が奏抱えてすぐに離脱する。奏には指一本触れさせねえよ﹂ ﹁⋮⋮ばか﹂ 太一と奏の間にピンク色の空気が流れ始める。やり取りを見守っ たことによって、三人は胸焼けを覚える羽目になったのだった。 526 ◇◇◇◇◇ 小細工なしで真正面から魔物たちとぶつかるはずの作戦。地平線 に見える黒い塊を前に一時待機を命じられた冒険者たちは、戸惑っ ていた。 斥候役の報告によれば、魔物それぞれの移動速度によって三つの 群れに分かれているらしい。第一陣の数はおよそ一四〇。アズパイ ア防衛戦に参加した冒険者の総数とほぼ同じだ。 単純計算で一人一匹。初戦としては悪くはない。ここで勢いをつ けて士気を高めようと考えていた冒険者も多かっただけに、肩透か しもいいところだ。 ジェラードは一発楔を撃ち込むと言っていた。 果たしてどういうことなのか。 その答えは、異口同音に沸き立った一つの言葉から始まった。 ﹁地面に大量の水が﹂ ある者は騒ぎ立て、またある者はただ絶句している。 地面がくりぬかれ、そこに多量の水が溜まる。ちょうど魔物の群 れの進行方向。今から方向転換は難しいだろう。特に、団体行動で は。 魔物たちがその地点に到達した瞬間。 数個の大きな火球が水溜まりへ飛んで行く。それが、起爆の合図。 527 獲物を心待ちにしていた猛獣の如く、地面が急激に弾けた。 そこからは一瞬の出来事だった。 轟音を撒き散らし、目を疑うような規模の爆発が、魔物の群れを 丸ごと飲み込んだ。 ◇◇◇◇◇ 腹の底に響くような振動が、アズパイアを揺らす。同時に猛烈な 突風が、三人を襲った。ギルドの屋上からでも分かる。今の爆発が どれほどの範囲を吹き飛ばしたのか。 上空に立ち上っていく黒煙を、三人はぼんやりと眺めていた。 水蒸気爆発。水が気化すると体積は数千倍に跳ね上がる。気体を 急激に膨張させて起こすものだと、奏は言った。 ﹁火山ありますよね。地下水脈と溶岩がぶつかると、条件にもより ますが、水蒸気爆発が起きるんです。今回はその原理を利用します﹂ こともなげにそう言ってのけた奏。ニホンでは、火山がどういう ものかが分かっているのだ。この世界では、﹃大地の神の怒り﹄な どと呼ばれ、原理すらろくに分かっていない超常現象だというのに。 ﹁レミーア。あの魔術、どんな価値がある?﹂ 528 レミーアはゆっくりと視線をジェラードに向けた。 ﹁⋮⋮本気で聞いているのか?﹂ ﹁まさか。戯れだ﹂ ふん、とレミーアは鼻を鳴らした。 ﹁一撃で戦局が変わる。戦術級だ。あんな規模の魔術を一人で発動 されたら、バカバカしくてやってられん﹂ だろうな、とジェラードがごちる。 ﹁では、カナデそのものの価値はどう見る?﹂ ﹁⋮⋮﹂ レミーアは答えない。その横で、ミューラがごくりと唾を飲んだ。 ﹁パッと見だが、直径で一〇〇メートルは吹っ飛ばしたぞ﹂ ﹁⋮⋮分からん。だが、私なら脅したくはないな﹂ ﹁ほう?﹂ その返答に、ジェラードは興味深そうに顔を覗き込む。 ﹁カナデが出来ることがあれだけとは到底思えん。その気になれば、 更にえげつないことも可能なのだろう﹂ 火属性の魔術と水属性の魔術を当たり前のように混ぜて使った。 この世界での魔術の常識に真っ向からアンチテーゼを唱えたのだ。 529 ﹁精神状態が平常なら、性格的にやらぬだろう。力を誇示して喜ぶ たちでもないし、闇雲に痛め付けるのを是とすることもない。だか らこそ、無闇に追い詰めたらどうなるか想像もつかん﹂ ﹁なるほどな﹂ 納得いった様子で腕を組み、数度頷くジェラード。レミーアは彼 を一瞥し、﹁それに﹂と続けた。 ﹁下手にカナデに手を出せば、タイチが確実に出張ってくる。私か らすれば、そちらの方が余程脅威だ﹂ ジェラードはもちろん、修行を課したレミーアも、冒険者として 共に活動したミューラすら、太一の底を見たことがないのだ。力を セーブしているにも関わらずあの強さ。太一が全力を出したら、ど うなってしまうのか想像すら出来ない。 ﹁私はな﹂ レミーアが不敵に笑んだ。 ﹁アズパイアに手を出している愚か者に、本気で忠告してやりたい のだ﹂ タイチが守りたいものに、手を出すな︱︱︱ 冗談でもなんでもないレミーアの言葉。その意図が本当に良く分 かったミューラとジェラードは、心から頷いたのだった。 530 ◇◇◇◇◇ 奏が火の玉を作り出し、スタンバイさせる。一つ一つが摂氏一五 〇〇度の高温。 先ほどくりぬいて作り出した池に、これを叩き込むのだと言う。 ﹁実際、本当に上手くいくのかは分からないけど⋮⋮﹂ 苦笑いする奏。奏にしては珍しい見切り発車。出来るだろうと踏 んでかかっているとは思うのだが。 実験したわけではないから不安なんだろうな、と太一は予想する。 水蒸気爆発など、実験する場所が無いのだから仕方がない。 ﹁大丈夫だろ、多分﹂ ﹁ホントに気楽ね﹂ ﹁んなもん、やってみないとわからないんだから仕方ないじゃん﹂ ﹁⋮⋮正論だけに何か腹立つ﹂ そんなやり取りをしているうちに、魔物の一陣が大分近くまで来 ていた。 ﹁始めるよ?﹂ ﹁いつでもどうぞ﹂ 太一がそう言ったのを確認して、奏は火球を放った。空気を裂い 531 て飛んで行く火の玉を見送って。 ﹁⋮⋮っ、あれ﹂ かくんと、奏が崩れる。 ﹁大丈夫か?﹂ ﹁あ、あはは。三割じゃきかなかった⋮⋮半分くらい魔力使ったみ たい⋮⋮﹂ 奏が魔力を半分も使ったところは見たことがない。つまり、それ ほどの規模だということ。 ﹁た⋮⋮﹂ 立てるか、と聞こうとしたところで、太一と奏から一〇〇メート ル離れた辺りで爆発が起こった。 水蒸気爆発は成功だ。が、どうやらそんな事を言っている場合で はなさそうだ。 爆発そのものに巻き込まれる心配はない。充分に距離は取ってい る。だが、爆発の余波はその限りではなかった。太一が目を向ける と、とんでもない速さの突風が爆発点を中心に八方に向かって広が っている。 そんな物理現象に、何かを避けるといった事は有り得ない。避け るどころか薙ぎ倒すのだ。 奏はまだ立っていない。 ﹁奏さん! 失礼します!﹂ ﹁えっなに⋮⋮きゃっ!?﹂ 532 謝りながら奏の背中と膝裏に手を差し込み、抱えあげてジャンプ。 赤いフェンウルフを倒した時と同じ六割の強化だ。 爆発の余波からあっという間に遠ざかり、太一は動きを止める。 ﹁ここまで離れりゃ平気か﹂ 太一は黒煙を見上げた。爆発の凄まじさを物語る景色。まるで戦 争だ、等と分かったような感想を抱き、武器と文明は違えど戦争と 変わらない状況に身を置いている事に気付いた。 自分達が助かるだけなら、別に魔物が一〇〇〇体だろうと二〇〇 〇体だろうと怖くはない。だが、アズパイアにはマリエがいる。ア ルメダがいる。良くしてくれた武器屋のオヤジにカフェのお兄さん。 守りたい人がたくさんいるのだ。 だからこそ、こうして数減らしを行うのだ。 ﹁奏。もう大丈夫か?﹂ まだ抱えていた。魔力で強化している今だと、奏に限らず人一人 程度はスプーン程の重さも感じない。 奏を見ると、そっぽを向いてしまっていた。耳まで真っ赤だ。何 で照れる⋮⋮と考えて、自分がどんな風に奏を抱いているか気付い てしまった。 これはあれだ。 ギャルゲー等では鉄板の。 ﹁お姫様抱っこですね、わかります﹂ ﹁言うなぁ⋮⋮恥ずかしいからぁ⋮⋮﹂ 奏の声が弱々しい。降ろして、と言わないのは何でだろうか。そ の辺が察せられるほど、太一は女心は分かっていない。残念ながら。 533 ﹁まあ、人見てないからいいじゃん﹂ ﹁見られてたらホント死ぬ⋮⋮﹂ しばらくそのまま立ち尽くして、奏がようやく太一から降りた。 まだ若干顔が紅い奏と共に、太一は魔物の群れに向かった。 目立たないように、総数を減らす。 恐らく持久戦になる、とはジェラードの弁。時間が経てば経つほ ど苦しくなる。戦闘後半に差し掛かった辺りで相手にする魔物の数 を減らしておいた方がいい、とのレミーアの助言に従う事にする。 先制パンチは大成功。これからが本当の開戦だ。 534 奏先生の現代知識有効利用講座︵後書き︶ 現代知識の完璧な正確さよりも、チートでスカッとする方を優先し ます。 水蒸気爆発のネタ下さった方、ありがとうございます。 因みに、作者も女心は分かってません。 読んでくださってありがとうございます。 535 太一と奏絶賛無双中︵前書き︶ 魔物の数に何か現実感が無いかも分かりませんが、まあ、ファンタ ジーということで︵笑︶ 536 太一と奏絶賛無双中 首尾よく水蒸気爆発を成功させた奏は、魔物退治でも好調だった。 移動速度と防御力を上げる強化魔術を常時発動。攻撃面では必殺 の威力を保ちながらも魔力の消費を控えるという離れ業を駆使し、 次々と魔物を倒していく。 これだけのことを同時に、楽々とこなすことの価値を、奏は知ら ない。この時点で奏に匹敵する魔術師は、世界中を探して一〇〇人 見付かるかどうか。 世界でも屈指の水準である恵まれた魔力値と魔力強度を、レミー アが課した質の高い修行が余すところなく生かしきる。この場にレ ミーアがいれば、歴史上最強のフォースマジシャン候補だと太鼓判 を押した事だろう。 今奏が倒しているのはオークだ。北の森で、ミューラがやっつけ た二足歩行で槍を持った猪の魔物。 目前のオークに、水の槍を三発撃つ。大体どこを穿てば一撃で倒 せるかはもう分かっている。その急所も、個体によって多少の誤差 があるため、それをカバーするために三発。水の槍がオークのみぞ おちやや左に着弾し、茶色い体毛の魔物はぐらりと崩れた。 素早く周囲を見渡し、オークが数匹固まっているのが見えた。一 々確殺はしていられない。奏は両手を彼らに突きだし、別の魔術を 発動する。フレイムランスの対極。全てを凍てつかせ、貫く槍。 ﹃フリーズランス!﹄ 奏の前方に直径二メートル程の冷気の膜が生成される。そこから、 無数の氷柱を断続して放つ。一撃一撃に高い威力を孕むフレイムラ ンスに対し、フリーズランスは一撃の威力はそれなりながら、手数 を重視した魔術。因みに、フリーズランスなる魔術はこの世界には 537 ない。理由は、氷属性実現が難しいからだ。水属性魔術師にとって は最高難度の一つに分類されている。 よってこれは、奏が思い付きで使ったオリジナル。 ﹁おっ、これ便利かも!﹂ フレイムランスが強敵へダメージを通すためだとすれば、フリー ズランスは対雑魚敵用だ。 氷柱の針ネズミとなったオークたちには一瞥もくれず、奏は次の 標的に向かって駆け出す。 戦乙女と形容するに相応しい奏の活躍。 奏は真面目にオーク退治をしている。 アズパイアを救うために、真剣に。 ちらりと、一〇〇メートルほど離れたところにいる太一を見る。 そして、ため息をついた。 太一はすたすたと戦場を歩いている。移動速度を上げている奏と くらべれば、酷く緩慢な動きだ。 オークたちは太一に近寄れない。その魔力にあてられて固まって いるのだ。ふと、太一の腕がぶれる。オークが、真っ二つになって 倒れる頃には、太一は剣を鞘に納め、次の獲物に向かって歩いてい た。なんという無駄のない攻撃だ。抵抗どころか動きすらしない魔 物など、敵と呼ぶことは出来ない。 ﹁何あれ⋮⋮﹂ 太一と奏。オークたちから見てどちらが与し易いか。考えるまで もない。であれば、奏にオークが殺到してもおかしくはない。現に 十数分前、それは起きた。 八方から押し寄せるオークの波に、流石にまずいかと身構えた奏。 だが、魔物は奏のところまで辿り着かなかった。否、辿り着けなか 538 った。上空から奏の側に降り立った太一が、﹁五割﹂と呟き、徐に 魔力を解放する。 オークたちはそれで全員が固まった。ただ魔力強化するだけで強 力な牽制をした太一は、半分任せた、と言い残して、オークを切り 捨てながら歩いていく。 ﹁各個撃破なんて小賢しい真似は無駄無駄。大人しくしてろって﹂ 太一の言葉が理解できたのかどうかは分からないが、オークたち は、それ以降精細を欠くようになった。 奏が倒しているオークの動きは鈍い。 ﹁これ、やっぱ太一のおかげ、よね⋮⋮﹂ 多彩さ、柔軟さでは太一よりもかなり先を歩いていると奏は思っ ている。 太一はとても単純だ。だが、現代にはシンプルイズベスト、とい うような言葉もある。まして太一はシンプルを極めたような存在だ。 どんな小細工を仕掛けようと、圧倒的なエネルギーでもって真正面 から砕きに来る。避け続けるのも、いなし続けるのも、一度しくじ れば終わりというプレッシャーを抱えながらだ。奏だったら、敵に 回すのは御免被りたい。切実に。 奏に難敵として認定された太一は、戦闘が始まって七〇匹の魔物 を倒していた。 ﹁オークが相手じゃ弱いもの虐めだよなあ﹂ と呟く太一は知らない。街にいる冒険者たち大多数にとって、オ ークは互角か格上に位置する事を。 手頃なオークを回し蹴りで吹っ飛ばす。少し離れたところにいた 539 オークたちを巻き込んで倒れた。 ﹁ストライク﹂ こんな時、遠距離から攻撃できる手段があればと思う。魔力を飛 ばせるかと思って試し、それは成功した。だが、攻撃手段にはなり えなかった。放った後の減衰率がシャレになっておらず、一〇メー トル離れたところに的として置いたワイングラスすら破壊出来なか ったのだ。 よって、近付いて止めを刺すしかない。一撃で済むように、或い は自身の精神保護のため、オークの額に一度ずつ剣を突き立てる。 撃破数七六。数十分での戦果としては十分すぎる程だ。 が、このなんとも非効率な戦法に、もどかしさを覚えるのも事実 だ。 ⋮⋮⋮⋮︱︱︱ ﹁ん?﹂ ふと、太一の耳に誰かの声が届いた気がした。はて、なんと言っ たのか。小さい声で、内容までは聞き取れなかった。 ﹁気のせいか?﹂ 見渡したところで周囲に誰かいるわけでもなく。奏はそれなりに 離れたところで戦っている。 ﹁まあ、いいか﹂ あまり気にしないことにした。アズパイアに程近いところでは、 540 冒険者たちが防衛ラインを引いている。それを引き上げる一助にす るのが、太一と奏の役割だ。 ミューラも冒険者たちに混じって戦っていることだろう。サボっ たのがバレると怒られるため、引き続きオーク退治に勤しむ。 それから十数分としないうちにオークを全滅させるという冗談の ような戦果をたった二人で挙げることになる。手抜きしても怒るこ とが出来ないものであると、太一は全く気付かないのだった。 ◇◇◇◇◇ ﹁くっくっく﹂ ﹁何事だ﹂ ﹁⋮⋮気でもふれたかの?﹂ 突如暗闇に響いた含み笑いに、怪訝そうな声が次々と発せられる。 それを受け止め、急に笑い出した人物はやっとそれを収めた。 ﹁すまないな。我々の予想を簡単に蹴り飛ばされたものだから、つ いな﹂ どういうことだ。こいつは、何を言っているのか。別に隠すつも りは無いのか、その者は続ける。 541 ﹁宣戦布告に魔物一五〇体を一度の爆発で吹き飛ばし、その後オー クの群れ二〇〇匹を一時間前後で殲滅。例の二人が開戦から今まで に挙げた戦果だ﹂ ﹁⋮⋮バカな﹂ 開戦から、まだ二時間も経過していない。一体どんな裏技を使え ばそんなことが可能なのか。 ﹁正攻法だ。奴等は搦め手等一切使っていない。我々に対する当て 付けとしか思えんな﹂ 二時間もせずに、正攻法で三〇〇以上の戦果。騎士団が出動した というならまだしも、Cランク冒険者に挙げられる戦果ではない。 ﹁さすが、王宮直送の情報だ。下馬評以上だな﹂ ﹁悠長だな。これからどうするのだ?﹂ 彼らに残された手は多くはない。アズパイアへの侵攻そのものが、 彼らが切った切り札の一つだ。 ﹁あれだけあった複製陣の効果は切れておる。召喚陣も、“真紅の 契約”も、後一度ずつ使えば効果は切れるのだぞ?﹂ ﹁なるほどな。そういうことか﹂ 老婆の言葉に被さるように、渋い男の声が響いた。 ﹁御明察。最早それしかない。それを操るには、我ら三人の命が必 要となるがな﹂ ﹁まあ、そうなるか。アレを操ろうと言うのだからな﹂ 542 老婆が﹁貧乏クジか⋮⋮やむを得ん﹂と呻く。変わり果てた三人 の死体が見つかるのは、大分先の事である。 ◇◇◇◇◇ アズパイア付近に設置された簡易な陣営に戻ったのは、戦闘開始 から三時間が経過した位だった。 ギルド職員が駆けずり回っている。マリエもいた。こちらに気づ くことなく、すぐにどこかに行ってしまった。 顔を知っている料亭のお姉さんが、軽食を作っていた。傷ついた 冒険者を、町人たちが治療している。 さながら野戦病院。 日本にいたらまずお目にかかれないものだ。前線で魔物を殺すだ けが、戦争ではない。どこかで聞いたその言葉が真実であると、目 の前の光景が語っている。 ﹁よお。もっときつく縛ってくれよ。俺の貴重な野生の血が流れち まうだろ﹂ ﹁ったく。バカ言ってんじゃないよ。自分の怪我考えな!﹂ ﹁はっはっは。冒険者なんざ怪我が勲章だろ!﹂ 543 妙に賑やかな会話が、二人に届く。いちムードだなあ、と思って そちらを見てみると。 ﹁何が勲章だ。左腕喰われた癖にカッコつけてんじゃないよ﹂ ﹁左腕の一本くらいなんだってんだ。減るもんじゃねえし﹂ ﹁減るんだよこのバカ!﹂ 左肩の包帯を真っ赤に染めて高笑いするいかつい男。左肩から、 その先がない。 彼は、アレンの懇願にいの一番に乗った槍使いの冒険者。彼のそ ばの地面に投げ捨てられた槍は、半ばから折られていた。 ﹁おいバカ﹂ ﹁んだよどいつもこいつも人をバカ呼ばわりしやがってよお﹂ 左肩がない男に近付いたのは、武器屋のオヤジ。つい先日、太一 に鋼の剣を見繕った人当たりのいい中年だ。 ﹁おら。てめえのために剣持ってきてやったぞ﹂ ﹁あ? 剣なんて軟弱なモンの世話になんのかよ⋮⋮﹂ ﹁こいつは斬る剣じゃねえ。突き刺す剣だ。先も少し潰してあっか ら、ちっとばかり鈍いが、長持ちはするはずだ﹂ ﹁へえ。そいつあありがてえ。幾らだオヤジ﹂ ﹁カネは生きて帰ってきたら払いやがれ。それまでツケといてやる。 ⋮⋮踏み倒すんじゃねえぞ﹂ ﹁辛気くせえ面すんなよやる気失せんなあ﹂ やはり無傷では済まないらしい。 当然だろう。これは戦争なのだから。 太一と奏は相当に幸運である。この程度の相手に、怪我を負う心 544 配は無いのだ。 ﹁タイチ、カナデ﹂ 背後からの声に振り返る。ミューラだった。どうやら特に怪我も なく無事らしい。浴びた大量の返り血が、彼女の戦いが凄惨だった と物語っているが。 ﹁ミューラ。無事か﹂ ﹁もちろん。この位の相手なら、遅れは取らないわ﹂ それはその通りだろう。ゴブリンやフェンウルフなどが殆どだ。 ゴブリンの中には弓矢を持っていたり、弱い魔術で攻撃してくる個 体もいるにはいたが、所詮はその程度。ミューラの敵ではない。 と、分かっていても、やはり心配なものは心配な訳で。 ﹁万が一ってこともあるじゃない﹂ ﹁まあね。それは否定しないわ。というかアンタたちこそお疲れ様。 どうだった?﹂ ミューラは、太一と奏がどんな役割をこなしたかを知っている。 人知れずに、しかし物凄い数の魔物を倒してきたんだろうな、と思 う。 人払いするために、ミューラを連れて天幕の外へ。そこで狩った 総数を明かす事にした。誰かに聞かれるのはあまりよろしくない。 ﹁ざっくりだけど、奏の魔術入れれば三〇〇以上か?﹂ ﹁三五〇は行ったでしょ﹂ 二人から言われた数字に、ミューラは頭痛を覚える。冒険者百数 545 十人がかりで、まだ二〇〇を越えたところだ。ミューラも頑張って 四〇は狩ったが、比較対象にすらならないとは。しかも、相手はオ ークだという。 ⋮⋮深く考えるのは止めよう。 二人は規格外なのでむしろこれくらいが平常運転。 そう考えれば気も楽になるというもの。 これだけの戦果なら、作戦もかなり楽になるだろう。そう思った ところで、天幕に怒号が響いた。 ﹁オーガだ! オーガが出たぞ!!﹂ 三人の脳裏に、あの巨躯の怪物が思い浮かぶ。凄まじいパワーを 持つ、あの巨人が。 普通の冒険者で太刀打ち出来る相手ではない。 三人は顔を見合わせ、ジェラードのところに急いだ。 546 太一と奏絶賛無双中︵後書き︶ フリーズランス 氷魔術で氷柱を無数に作り出し、放つ魔術。細かい狙いは苦手。 奏オリジナル。 氷魔術は難度が高く、使える者がいても技術を秘匿してしまうため、 一般に出回らない。 読んでくださってありがとうございます。 547 レッドオーガ ジェラードとレミーアがいるテントは、陣営の最奥部にあった。 数人の冒険者が入れ替わりにテントから出てきた。誰も彼もが厳し い形相を浮かべていて、緊急であると物語っている。 彼らの背中を見送って、三人はテントの中に入った。 ジェラードとレミーアは、顔をしかめ、机を睨めつけている。 ﹁レミーアさん。オッサン﹂ ﹁おお、お前たちか﹂ 太一の声を聞いて初めて、ジェラードが顔をあげた。それはレミ ーアも同じだ。決して鈍くない二人が、入室しても気付かない。そ れが、事態の異常さを示す。 オーガ。北の荒野に棲息する魔物。かなり強い魔物だ。Cランク チームから、挑むことを許される魔物。単独撃破を目指すなら、最 低でもBランクを要求される。 バラダーたちなら、単独で戦うことも許されるだろう。 ただし、オーガよりも黒曜馬の方が実は強かったりする。オーガ はパワーこそ凄まじく、巨体故にとても強そうに見えるのだが、い かんせん鈍重である。オーガでは、黒曜馬を捉えることは出来ない。 かの肉食馬の攻撃もそれほど効く訳ではないが、持久戦で馬の勝ち。 それが魔物格付けの評価らしい。 ﹁今呼びに行かせようかと思っていたところだ﹂ レミーアが言う。 当然だと、三人は思った。申し訳無いが、冒険者たちには荷が重 いだろう。 548 ﹁オーガが出たって聞きましたが﹂ ﹁ああ。間違いない。全部で五体とのことだ﹂ ﹁五体か⋮⋮﹂ ﹁接触まではどのくらい?﹂ ﹁後二〇分﹂ あまり芳しくない。殆ど余裕がないではないか。 ﹁じゃあ、とっとと狩っちまおうぜ﹂ これは太一たちだから口に出来るセリフだ。太一にとっては敵に はなり得ない魔物。奏にとっても負ける敵ではない。ミューラには 少し苦しいが、一体だけなら勝つことは出来ると断言出来る。オー ガ五体なら、さして時間も掛からずに倒せるはずだ。 三人が早く戦場に出れば出るほど、冒険者たちの危機が減ってい く。 ジェラードはゆっくりと息を吐き、視線を三人に向けた。 ﹁お前たちに、伝えておく事がある﹂ 何だろうか、随分と改まって。 ﹁先程、状況の詳しい報告があった。魔物たちの数を、四割ほど減 らすことが出来た。お前たちの戦果が大きい﹂ 一時間程度で三五〇を狩ったのだ。どうやら効果が現れてきたら しい。 ジェラードが続ける。 549 ﹁アズパイア側だが、先程戦死者が三〇名を超えた。重傷者三七名、 軽傷者他全員。今戦えるのはおよそ五〇人。まあ、想定内だ﹂ 想定内? 三〇人が命を失ったこの状況が、想定内というのか。 ﹁意外そうだな。もしかして、誰も死なないとでも思っていたのか ?﹂ 三人で冒険者たち全体の八割の撃破数を稼いだのだが。一番の戦 果を挙げていて、誰にも恥じる必要は無いというのに。 ﹁ジェラード﹂ ﹁む⋮⋮。⋮⋮今のは忘れてくれ﹂ 太一たちを責める気は、ジェラードにはなかった。彼らがこの街 に滞在していたことそのものが幸運なのだ。三人がいなければ、も っと早く決着していただろう。アズパイアが、魔物に蹂躙されると いう形で。 ここまで持ったのは、太一たちのお陰である。感謝こそすれ、責 める理由がない。 だがそれでも、衝動に近いかたちで出てしまった。太一と奏の境 遇、実力を隠したいという思い。それら全てを分かっていた。しか し、冒険者が次々と息絶えて行くなかで、実力を隠している二人を 見て、衝動を抑えられなかったのだ。 ﹁気にすることはない。ジェラードも少し気が立っているだけだ﹂ 仲間が次々と死んでいくのを聞けば、八つ当たりのひとつも言い たくなるだろう。彼とて完璧ではないのだ。 550 ﹁すまんな。少し大人気なかった。﹂ 自らの半分も生きていない少年少女に、非を認めて謝罪が出来る。 それだけで十分、彼は大人である。 ﹁いや、いいさ。俺たちが実力を出せば済む話だろうしな﹂ 実力なら、もう十分出している。オーク三〇〇以上に加えて、オ ーガを倒しにいくと、頼もうとしていた事を太一の方から言っても らったのだ。 ﹁⋮⋮。では、オーガも任せたい﹂ ﹁おう。ちょちょいとシバいてくるぜ﹂ ﹁あー、タイチ。待て﹂ ボヤボヤしている時間は無いと、早速出ていこうとした三人を、 レミーアが止めた。 後二〇分しかないのだ。時間の浪費は避けたい。しかし、こうい う時のレミーアが、無意味な行動を取ることはないと、三人は良く 分かってもいた。 ﹁どしたん?﹂ 振り返って彼女を見る。頭を一頻りかいてから、レミーアは太一 を見据えた。 ﹁悪い知らせがある﹂ ギクリとしてしまった。太一。奏。ミューラ。三人の強さを良く 551 知っているからこそ、常に余裕のある態度を崩さず、大抵の事を﹁ 問題ない﹂と一蹴してきたレミーアが言った、﹁悪い知らせ﹂とい う言葉。 レミーアは一度息を吐いた。 ﹁斥候からの報告だ。一回り大きい、赤いオーガがいた、とな﹂ 思わず息を呑んだ奏のリアクションは、至極当然と言えるものだ った。 一回り大きい。赤い色。 北の森で見たフェンウルフが思い浮かぶ。凄まじいパワーアップ を手に入れた魔物の事を。 底辺ランクに位置するフェンウルフでさえ、考えられない程の強 さになったのだ。それが、オーガに施されたとなれば。 ﹁お前たちの想像通りだ。そのオーガは、恐らく“真紅の契約”を 受けている﹂ 信じたくない事実。襲い掛かる不安をどこかに投げ捨てるように、 太一は笑った。 ﹁そいつは厄介そうだな。それ、俺に相手して欲しいと?﹂ レミーアは頷く。ジェラードが険しい顔を更に険しくしている。 ﹁まあそうだよな。アズパイアで一番強いの、多分俺だもんな﹂ ﹁そうだな﹂ 自分がどれだけ強いとか、誰々より強いとか、そういうのは興味 なかった。降って沸いた、棚ぼたな力。便利なのは間違いない。幸 552 運と思いこそすれ、それを誇る気は無かった。 そんな太一が、自分の強さを明確に口にして評価した。 その意図が、痛いほど伝わってくる。 ﹁ついに一〇〇の力を出すときが来たかあ﹂ そこで、太一は黙りこむ。たっぷり数十秒の時間を費やし、やが てその言葉を口にした。少し、震えていた。 ﹁⋮⋮俺、勝てそうか?﹂ 自らの命をBETする職業、冒険者。一攫千金を手に入れられる か、或いは人知れず果てるか。 そんな職業についていながら、太一も奏も、今まで呑気に暮らし ていた。 もちろん、手を抜いた訳はないし、真剣にやってもいた。だが、 ギャップがあった。 この世界で生きる冒険者たちとは、埋めようのないギャップか。 ﹁⋮⋮分からぬ。今回ばかりは、保証してやることは出来ん﹂ ガラガラとなにかが崩れ去る。 結局は、そういうことだったのだ。 ただ、安全圏にいただけ。危険などない。自分達が、死ぬことは ない。それが分かっているからこそ、冒険者をやれていたのだ。 ﹁そう、か⋮⋮﹂ 奏も、何かを言ってやる余裕はない。死の危険があるのは自分も 同じだ。 553 ミューラは驚いていた。本当の意味で恐怖を感じている、自分よ り遥かに強い二人を見て。 レミーアは、こうなるだろうと分かっていた。この三人が共にい て、危険を感じることなどそうそうない。いや、全くないとは言わ ないが、それでもこのように命を脅かすような危機を感じた経験は 無いだろう。これが、自分で望んだのなら、叱咤するところだ。だ が太一と奏は、やむを得ず冒険者になったのだ。自分達で金を稼ぐ ために、取れる手段がこれしかなかった。 成り行きとはいえ自分で決めたことであるのはもちろん、その通 りだ。 しかし、それでも、安易な脊髄反射で批判するのは躊躇われた。 表面だけ見て批判するのは猿と同じだ。いや、そんなことを言えば 猿に失礼なくらいにはたちが悪い。 強敵を求めるような戦闘狂ではないし、最強を目指す、というよ うな夢を持つわけでもない。ただ、日々の生活を維持するための手 段。 冒険者の厳しさは甘んじて受けるつもりだった。 しかし命を賭ける覚悟はしていなかった。 つまり冒険者としては半端。言ってしまえば、そういうことだ。 ﹁勝てないかもしれない、か⋮⋮強敵、なんだな⋮⋮﹂ 太一が背負うのは、アズパイアすべての命。数千の命を預かり、 負けるかもしれない戦いをするということ。 レミーアとジェラードが見る限り、太一は、このプレッシャーに 潰れそうになっている。 やはり、無理か。 ﹁タイチ、カナデ。お前たちは無理せずともよい﹂ ﹁え?﹂ 554 二人が無理だと言うなら、無理強いさせる気は無かった。 予想外の言葉に、呆ける太一と奏。 ﹁元を辿れば、こちらの世界の問題だ。後は、私達が何とかするさ﹂ ﹁何とかって⋮⋮何とかなるんですか?﹂ レミーアは、笑うだけだった。穏やかな笑顔。太一と奏には、出 来そうもない。 ﹁ジェラード。ここから先はお前にも前線に来てもらうぞ﹂ ﹁分かっている。こうなるだろうとは思っていた﹂ 二人が連れ立って、テントを出ていく。 ﹁タイチ、カナデ。アンタたちと冒険出来て、楽しかったわ﹂ ミューラが、二人の肩を抱いた。 ﹁ミューラ⋮⋮。あなたも、行くの?﹂ ﹁ええ。あたしは、この世界の人間だから﹂ 笑顔が眩しくて、まともに見ることが出来ない。太一と奏の頬に、 ミューラは軽く口付けをした。 ﹁大好きよ、二人とも。無事、ニホンに戻れるのを願ってるわ﹂ 何故、彼女は責めないのか。腰抜けだと、いっそ罵ってくれれば いいのに。 555 ﹁バイバイ﹂ 出ていくミューラの背中を見ることすら出来ない。 今の挨拶は、今生の別れ。だというのに、声をかけるどころか、 見送ることすら出来なかった。 一体どれほどそうしていたのだろう。数分か? もっと経過した か? 或いはそんなに経っていないか? 二人が見つめるのは地面。外の喧騒が、やけに遠くに聞こえる。 ﹁⋮⋮あんたら、何でここにいるんだ﹂ 太一と奏の背中に、声が掛けられた。 556 レッドオーガ︵後書き︶ クッション回です。 読んでくださってありがとうございます。 557 覚醒︵前書き︶ 今思うと、前の話の題名ははネタバレでしたね︵笑︶ 勿体ぶったので、この話はボリュームたっぷり。 9000文字に達しました。普段の二話分の長さです。 それではどうぞ。 558 覚醒 改めて見ると、圧倒的なプレッシャーだった。体高四メートルの 巨体を持つオーガ。それが五体。 ﹁タイチはあれを一撃で殴り殺したのか﹂ メリラ密漁事件でオーガと遭遇したと報告を受けている。頭上ま でひとっ飛び。そのまま脳天を打ち抜いて、必殺。 対峙してみて思い知る。太一がどれだけの事を成したのかを。 ﹁物足りなそうでしたね。手応えがないって﹂ 当時のことを思い出したのか、ミューラはくすりと笑う。 それを聞いたレミーアとジェラードは呆れるばかりだ。 そのオーガを見付けたのは、奏の魔術。いち早く発見し、その場 で退治。メリラの畑だけで済ませる事が出来た。オーガが街に近付 いていたら、どれだけの被害が出たか分からない。いかに、太一と 奏がアズパイアを救ってきたか。 この場に集まっている冒険者たちは知らないはずだ。あのオーガ を歯牙にもかけない、とんでもない少年と少女がいることを。 オーガたちと、アズパイア防衛軍。今は、数十メートルの距離を 保ったまま睨み合っている。 決死の覚悟を持った冒険者たちに対し、オーガらは余裕そうだ。 彼らから見れば、人間などちっぽけな生き物であることは間違いな いからだ。 好都合。ジェラードがいだいている素直な思いだ。その油断に付 け入る。足元を掬ってやるのだ。 一体でも多く、オーガを倒さなければならない。その後には、更 559 に強い敵が待っている。 五体のオーガの後ろ。オーガを軽く越える程の、巨大な紅の魔物。 レッドオーガだ。一体どこまで飛び抜けているのだろうか。想像 すら出来ない。 だからこそ、こちちの被害を最小限に、オーガ五体を倒しきる必 要がある。 もっとも、これは理想論だ。 ﹁ジェラード。欲張るなよ﹂ ﹁⋮⋮そう上手くはいかぬか﹂ ﹁当たり前だ﹂ 与し易いのがオーガ。どんな冗談だと一笑に付してしまいたいく らいだ。 ﹁あたしは、最初から飛ばします﹂ 剣を抜き払い、ミューラは静かに、強く宣言する。そこに秘めら れたのは、決死の覚悟。 ﹁一体は、あたしが一人で受け持ちます。その間に、残り四体をど うにかしてください﹂ 完全な丸投げだが、それを無責任と言うことは出来ない。 たった一人であれを相手出来ること自体が、既に飛び抜けている。 ﹁良かろう。私は三体は倒そう。努力目標は四体だ﹂ 後のことを考えて戦える相手ではない。レミーアもそれは良く分 かっている。 560 本来のレミーアなら、四体のオーガは倒せると自信を持って言え る。だが、いつレッドオーガが介入してくるか分からない現状、無 責任に風呂敷は広げられない。 ﹁ワシも一体は受け持つとしよう。聞いての通りだ! お前たちは 戦力温存しろ! 出番は最後だ!﹂ ジェラードが声を張り上げる。生き残った冒険者は約一一〇人。 レッドオーガを、人海戦術で押し切る。 この作戦には穴がある。まず、ここにいる冒険者の攻撃が、レッ ドオーガに通るのかどうか。傷ひとつつけられないようでは、勝ち 目は無くなってしまう。 そして、オーガを倒してからレッドオーガに挑むことが出来るか どうか。六体全て一度に相手する事になるかもしれない。 それは誰もが考えた懸念。同時に、今考えても意味のないこと。 最初から、後戻りという選択肢は残されていないのだ。 ﹁良し。始めようか﹂ レミーアが右手に魔力を込める。 幕が、上がる。 ◇◇◇◇◇ 561 テントに入ってきた少年には見覚えがあった。 冒険者一四〇人を前にして、堂々と協力を仰いだ少年。確か名前 はアレンと言ったはずだ。その彼が、テントの中に入ってきたのだ。 ﹁何してんだよ。もう皆、オーガを倒すために出ていったぞ﹂ 鋭い口調で切り込んでくるアレンに顔を向ける。余程ひどい顔を しているのだろう。アレンが訝しげな顔をした。 ﹁⋮⋮どうしたんだ? 何かあったのか?﹂ 奏が自嘲した。 ﹁情けないけど⋮⋮怖いんだ﹂ ﹁そりゃ、オーガなんて、皆怖いに決まってる﹂ 俺だって怖い。アレンはそう言った。これは励ましだ。足手まと いの自分に変わって、戦場に出ていた太一と奏に対する、激励。 根本に齟齬があると感じた太一が、力なく笑う。 ﹁違う﹂ ﹁違う? オーガが怖いんじゃないんなら、何が怖いんだ?﹂ バカにされると分かっていても、今は取り繕う気にはならなかっ た。 ﹁⋮⋮死ぬのが怖いんだ﹂ ﹁そんなの、皆思ってる事だ。あんたらCランクだろ。今更そんな 562 こと言ってるのか?﹂ そうだ。今更だ。冒険者は死の恐怖と戦うものだ。死の恐怖と向 き合うものだ。死の恐怖に、背を向ける者は、冒険者とは言えない。 ﹁⋮⋮まあ、いいや。ビビってる奴が戦場に出たって、役立たずな だけだからな﹂ 容赦のない言葉が刺さる。 ﹁あんたの剣、貸してくれ﹂ ﹁え?﹂ アレンが、太一に向けて右手を差し出していた。その行動の意図 が読めず、間抜けな返事を返してしまう。 ﹁戦わない奴が持ってたって意味ないだろ。一人でも人手が欲しい んだよ。あんたらの代わりに俺が行く﹂ 無茶だ。左肩にそんな重い傷を負っていて、戦えるはずがない。 太一と奏の考えを、アレンは強い意志で一蹴する。 ﹁戦えないと思ってるだろ。その通りだよ。でも、囮くらいにはな る。それだけで十分意味がある﹂ 言葉を失う。 アレンは、強かった。 自分達よりも、よっぽど。 ﹁あんたらがかなり強いってのは、噂で聞いたよ。俺なんか相手に 563 ならないくらい強いんだって、噂だけで分かった﹂ この少年のランクは分からない。だが、負けるとは思わない。ア ズパイア唯一のBランク冒険者であるバラダーたちが相手でも、負 けるとは思えなかったからだ。 だが、勝てない。戦闘力では勝っても、冒険者としての強さで、 負けている。 ﹁でも不思議だな。今は、全く負ける気がしない﹂ 奇遇だ。全く勝てる気がしない。 ﹁あんたらの強さがあれば、何人守れるんだろうな。何で、その力 持ってるのが、ビビってるあんたらなんだ﹂ 歯噛みするアレン。 力を持っていれば、守れる。 何人を、救える? ﹁なあ。力を渡してくれよ。俺の頼みを聞いて死んでいった奴らに、 胸を張りたいんだよ! アズパイアを守りたいんだよ!﹂ アレンの言葉は、太一と奏の心を揺さぶった。 この戦いで、何人が死んだか。 この戦いに負ければ、何人が死ぬか。 マリエ。アルメダ。知り合った人々。 日本とは関係ない世界。 日本に戻ったら、二度と会うことのない人々。 だから、死んでもいいのか? 死なせてもいいのか? 564 ミューラ。 レミーア。 ジェラード。 このまま逃げたら、恐らく二度と会えない。 尻尾を巻いて逃げて、生き延びて。 そうしたら、二度と胸を張れないだろう。 いつもついて回るだろう。 あの時⋮⋮と。 日本に戻れてもきっと思い出す。 それを許容できるのか。 いや、もっと単純に。 それでいいか。 それとも嫌か。 問うまでも無かった。 だから、ずっとテントの中にいたのだ。 とっとと逃げれば良かったのに。 太一はすっと前を向いた。奏が杖を取った。 ﹁奏。死ぬかも知れないぞ?﹂ ﹁そうかもね﹂ ﹁まあ、それならそれでもいいか﹂ ﹁ん。太一が死ぬときは、私も一緒に死んであげるから﹂ ﹁不吉な事言うなよ﹂ 二人を見て、驚いたのはアレンだ。さっきまで、あれだけウジウ ジしていたと言うのに。この変わりようについていけない。 ﹁あんたら⋮⋮行くのか?﹂ ﹁ああ。アレンのおかけだ﹂ ﹁俺の⋮⋮?﹂ 565 ﹁うん。アレン君が私達を焚き付けてくれたおかげ﹂ にこりと笑う奏に、かっと顔を紅くするアレン。 ﹁どこまでやれるかは、分からないけどな﹂ ﹁多少、力にはなれると思う﹂ 実際は、多少どころではない。アズパイアの戦力の実に六割近く を、太一と奏で占めているとレミーアとジェラードは評していたの だ。 ﹁そうか⋮⋮あんたらが行くなら、俺の出番はない、か﹂ ﹁そんなことないよ﹂ 奏が言い、太一が頷く。 ﹁アレン君は、弱虫の冒険者二人をやる気にさせた。ううん、一〇 〇人以上の冒険者を動かした。アレン君が一番すごいよ﹂ ﹁あー、それは奏に激しく同意﹂ 彼がここに来なかったら、こんな気持ちにはなれなかった。やけ くそも正直、多少ある。 だが、それでもいい。一歩は踏み出せそうだ。その動機になるな ら、ネガティブな感情でも、構わないと思う。 ﹃やる気になった?﹄ ﹁え?﹂ 太一が耳に手を当てて、周囲を見渡す。 急に様子の変わった太一に、奏とアレンが不思議そうな顔をした。 566 太一としては、驚きを隠せない。これほどはっきりと声が聞こえ たのは、初めてだったからだ。 ﹃ちゃんと聞こえてるみたいね﹄ ﹁誰だ? どこにいるんだ?﹂ 誰何を問うても姿は見えず。くすくす、と可愛らしい含み笑いが 聞こえた。 ﹃アタシに会いたい?﹄ ﹁⋮⋮会える、のか?﹂ 奏とアレンには、太一が誰と話しているのか分からない。声が聞 こえているのは太一だけだ。 ﹃もしアタシに会いたいなら、魔力を込めて、アタシに渡そうとし てみて﹄ ﹁魔力を込めて。渡す。こうか?﹂ 太一は右手に魔力を込め、空中に突き出した。 一瞬。 テントが緑の光に照らされる。それはとても強い光。しかし、と ても優しい光。 三人とも例外なく、突然の光に目を閉じる。瞼すら焼こうとする 光が徐々に収まっていく。 ﹁え⋮⋮?﹂ ﹁は⋮⋮?﹂ 先に目を開けたらしい奏とアレンが、ほぼ同じタイミングですっ 567 頓狂な声を出した。 その声につられて目を開けてみると。 掌大の女の子が、太一の突き出した手に腰掛け、頬杖を突いて微 笑んでいた。 状況をストレートに言葉にするとそれである。 だが、それを素直に受け入れていいのだろうか。 掌大の女の子、という、ファンタジーここに極まれり、という部 分だ。 太一は目をごしごしと擦ってみる。再び右手を見てみる。掌大の 女の子が、くすくす、と笑っている。 続いて、視線を奏に向ける。奏は困ったように笑うだけだ。その 表情は、予想外すぎる出来事が起きてどうしたらいいか分からない ときに見せるもの。ということは、奏にもこの女の子が見えている、 ということだ。 アレンにも目を向けてみる。⋮⋮だめだった。カチンコチンに固 まって微動だにしない。思考がストップしてしまっているようだ。 ﹁くすくす。満足した?﹂ ﹁あーうん。えっと。妖精さん?﹂ 小さな女の子は、人差し指を立ててウインクした。 ﹁惜しい。まあ、この姿だからそう思うのも無理は無いかな﹂ 彼女は下唇に人差し指を当てて片目を閉じ、鈴を転がしたような 声で、 ﹁アタシの名前はエアリアル。風の精霊よ﹂ と言った。 568 ﹁せい、れい?﹂ ﹁ふふふ。そう。エアリィって呼んでね﹂ エアリアル︱︱︱エアリィと名乗った精霊少女は、立ち上がって 手を後ろで組み、少しだけ前屈みになって太一の顔を覗き込んだ。 そのポーズは、やる人にとってはあざとい印象を受けるだろう。 だが、エアリィに限ってはとても似合っていた。およそ現実感を 感じない、常識の埒外の美貌。薄い緑がかった銀髪は、肩辺りまで 伸ばされている。彼女が身に纏うのは、白い布。これはローブと言 えばいいのか。それを、身体に巻くように身に付けているだけ。 エアリィの外見をみたまま人に伝えるなら、太一はこのように言 っただろう。詳しくは伝わらないと思う。言葉ではチープ。太一の 語彙では、エアリィの魅力を伝えられる自信がない。 いや、そんなことよりも。 ﹁エアリィ⋮⋮?﹂ ﹁思い出した?﹂ ユーラフの宿屋に泊まった時に見た夢。あの時、エアリィという 女の子の名前だけは、覚えていた。あの後色々あって今まで忘れて しまっていたが。 ﹁君が⋮⋮あの時俺の夢に?﹂ ﹁そう。あれ、アタシ﹂ ﹁そうか、君だったのか﹂ ふと、エアリィは膨れっ面をしてそっぽを向いた。とても不機嫌 そうだ。何か気に障る事でも言っただろうか。そう思っていると。 569 ﹁⋮⋮エアリィ﹂ ﹁へ?﹂ ﹁エアリィって呼んで、って言ったのに﹂ 一瞬フリーズ。強制シャットダウン。再起動。 なるほど、名前で呼ばなかったから拗ねているのか? そう思ったので、呼んでみることにした。 ﹁エアリィ﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁エアリィ?﹂ ﹁⋮⋮もう一回﹂ ﹁エアリィ﹂ ﹁⋮⋮へへー﹂ 拗ね顔を途端に崩し、にへらと笑うエアリィ。 何だこの可愛いのは。 それは太一が素直に抱いた印象。ふと奏を見てみると、彼女もな んだか微笑ましそうな顔をしていた。太一と同じく、小さい子が拗 ねているように見えたのだろう。いや、実際に小さいのだが。年齢 とかではなく、物理的に。 ﹁ねえ、たいち?﹂ ﹁ん?﹂ ふと笑顔を戻したエアリィが、太一を見上げてくる。 ﹁行かなくていいの?﹂ ﹁︱︱︱っ!﹂ 570 エアリィ そうだ。 風の精霊に会った衝撃で、一瞬今まで考えていたことが全て飛ん でしまっていた。 行かなければ。一刻も早く。 ﹁エアリィ﹂ ﹁うん﹂ ﹁俺は、この街と、大切な人たちを守りたい﹂ ﹁うん﹂ ﹁だから、力を貸してくれ﹂ ﹁うん!﹂ 力強く首を縦に振ったエアリィ。太一と奏とエアリィ。三人で一 度頷き、テントを出⋮⋮ようとして、太一はアレンを見た。 ﹁アレン!﹂ ﹁え? ⋮⋮うわっ!?﹂ 正気に戻った瞬間、自分に迫ってくる細長い何か。思わず受け取 り、その重さに驚愕した。 これは、剣だ。武器屋のオヤジに頼んで握らせてもらった、鋼の 剣。アズパイアで最も強力な武器。 ﹁アレン! 礼だ! それやるよ!﹂ 太一が晴れ晴れとした顔で言った。 ﹁武器無しで行くのか!? 無茶だ!﹂ 何の礼なのか。そう考えながら、全く別のことを問う。 571 太一は笑って。 ﹁いいんだよ! 俺は素手のがつええ!﹂ と宣って、踵を返した。 ﹁素手のがつええって、マジかよ⋮⋮﹂ 去っていく二人の背中を見ながら、手に持った剣を眺める。 いずれはこれが似合う冒険者になりたいと、目標にしてきた剣。 アレンにとって、様々な意味を持つ重い剣だった。 ◇◇◇◇◇ 目の前に迫る巨大な拳を剣で逸らす。 隙の多いオーガの腹の真ん中に向かって突進する。 ﹁うあああああッ!﹂ 裂迫の気合とともに、腰だめに構えた剣に体重の全てを乗せて、 勢いよく突き出す。狙いは、何度も切りつけてようやく開いたオー ガの傷口。硬い皮よりはダメージが通るであろう、内部組織を狙う。 572 ミューラの渾身の突きは、剣を根元まで深々と潜らせた。初めて だったからだ。与えた致命傷。 剣を引き抜くと同時に、その傷口に向かってファイアボールを叩 き付ける。起こる爆風に乗って、ミューラは距離を取った。 切れた息を整えながら、ミューラは炎に包まれたオーガを見る。 本来なら、ここまで追い込まれる事はない。確かに手強い。楽勝 なんて言うつもりはない。だが、予想以上に苦戦している。 その理由はただ一つ。 どおん、と背後で爆発が起きた。空中で広がる爆炎。 ちらりと見れば、レミーアがその爆発に向けて左手を突き出して いた。今、彼女が相対しているオーガは、その右手側。まるであさ っての方向に魔術を放ち、それが炸裂したのだ。 レミーアが撃ち落としたのは、飛来する岩。 ミューラは忌々しく、それを放っている犯人に視線を向けた。レ ッドオーガが、人差し指と親指で石を摘まんでいる。あの巨体から すれば、彼にとっては石ころに等しいだろう。だが、人間側にとっ ては岩と同じだ。 戦闘開始当初、レッドオーガからの介入はなかった。 岩が飛んでくるようになったタイミングはうろ覚えだ。レミーア が二体目のオーガを倒した後くらいだったと、ミューラは思ってい る。いつから始まったのか、そんなことは些細。一発貰えば即死す らありうる攻撃を前にして、いつから、とか、どのくらいの頻度で、 とか、そういった事に思考を割く余裕はなかった。 レミーアが肩で息をしている。 レッドオーガからの介入が始まってから、一体も倒せていない。 オーガを相手にしながら、飛んでくる岩も撃ち落とさなければなら ないレミーアに、あまり多くを求めるのは酷だ。 ミューラも余裕はない。レミーアが撃ち漏らした岩を避けながら オーガからの攻撃にも気を配らなければならない。それはジェラー ドも全く同じである。 573 結果的に、じり貧を強いられていた。 ﹁くっ⋮⋮﹂ 炎から出てきたオーガを睨む。確かに効いている。だが、倒すに は至っていない。 ﹁もう一度ッ!﹂ 土属性魔術を発動。自身の膂力に全てを割りふる。本来は大振り になるため、あまり使いたくはない手段。だが、これ以上、長引か せる訳には行かない。 自身に溢れる力を感じ取り、ぐっとオーガを見据えた。 はっきり言えば、ミューラのこれは悪手である。 彼女が冷静ならば、まず運動性能の方に強化を割り振っただろう。 当たれば終わり。ならば、まず攻撃を貰わぬよう準備し、その上で 相手にどうやったらダメージが通るかを考える。当初オーガと戦っ ていた時は、それをどう実現するかを考えていた。 では何故今になって悪手を打ったのか。理由など、単純明快。一 向に改善の気配が見えないこの状況に焦りを覚えて、一発逆転を狙 おうと考えたからだ。いや、言い直すべきだろう。考えてしまった からだ、と。 オーガは予想以上に鈍重。避けるのにほとんど苦労はしなかった。 無論プレッシャーはあったが、その一方で、これは避け続けられる、 と自信も深めていた。 その自信を持てた理由が、入念に運動性能に割り振った準備のお かげだと忘れて。 オーガの攻撃は単純で一直線。しかし、パワー重視の攻撃速度そ のものは、決して鈍くないことを忘れて。 ちょっと冷静に考えれば、簡単に分かること。 574 それに気付かないのだから、ミューラがいかに平常心を失ってい るかは推して知るべし。 ﹁はっ!﹂ 息を一度鋭く吐いて、ミューラが駆け出す。その様子がおかしい ことにいち早く気付けたのは、レミーアだった。 ﹁ミューラ!? バカ、よせッ!!﹂ ミューラは気付かない。自分の移動スピードが、かなり下がって いることに。周りが、一切見えていない事に。 レッドオーガが投じた岩が、ミューラに向かっている。レミーア はそれを撃ち落とそうとするが。 ﹁ちっ!﹂ オーガからの攻撃に魔術を阻害される。 ﹁ミューラ!! 横に跳べ!!﹂ ﹁えっ? ⋮⋮しまっ﹂ ふと見れば、自身に迫る巨大な岩。きちんと強化魔術を使用して いれば避けるのは容易い。が、今はパワー全振り。防御と回避を一 切考慮していない頭でっかちの状態である。 辛うじて行った回避行動。だが。 ﹁︱︱︱っ!﹂ 砕ける岩の衝撃に、全身が打ち付けられる。剣がどこかに吹き飛 575 んでしまった。身体が大地を転がり、何度も頭が真っ白になった。 ﹁⋮⋮うっ﹂ 右目が痛い。瞼を開けられない。頭からの出血が、目に入ってし まったようだ。まだ見える左目を開けて、自分の状態を観察する。 左腕が、折れている。千切れていないだけマシか。 口から血が溢れた。肋骨が折れてしまったか。 一番酷いのは右足だ。脹ら脛に石の破片が突き刺さり、膝が関節 の可動域を超えた方向を向いている。 右足を犠牲にして、何とか命を繋ぎ止めた。 結論から言えば、そういうことだ。 だが、最早戦えない。いや、立つことすらできない。 ﹁ミューラ!!﹂ レミーアの声が遠くから聞こえる。 目の前に落ちる影。誰かなど、考えるまでもない。 見上げると、そこにいたのは、体高四メートルの巨体。 ﹁ごめんなさい⋮⋮レミーアさん⋮⋮﹂ 殆ど、役に立てなかった。 戦場では常に氷の如き精神を。 その教えをまもれなかったのだ。当然の報い。 ﹁カナデ⋮⋮﹂ 異世界から来た、初めての同性の友人が浮かぶ。自分より遥かに 女らしいその姿に憧れた。 576 ﹁⋮⋮タイチ﹂ その奏の友人であり、彼女の想い人である異世界の少年。 奏の想いは、割と早く分かった。最初は﹁こんな綺麗な子がなん で⋮⋮﹂と思ったものだ。 だが、彼らと共にいて。二人の振る舞いを見て。太一の行動、そ の原理を知って。 今は分かる。奏の気持ちが。どうして、彼女が彼に惚れているの か。 オーガが拳を頭の上に持ち上げた。 何故分かるかと言えば。理由ははっきりしている。 何故なら、あたしも︱︱︱ オーガが、拳を振り下ろす。 ﹁⋮⋮タイチっ!﹂ ズドン! 鈍い音が、ミューラの耳朶を強く打った。 ﹁呼んだか? ミューラ﹂ 聞こえるはずの無い声に、目を開ける。 何度も見た、何度も追い掛けた、その背中。 太一が、オーガの拳を左手一本で受け止めていた。 ﹁タイ⋮⋮チ⋮⋮?﹂ ﹁おう。って、うわ、ひでえな!﹂ 577 こちらを振り向いた太一が目を丸くしている。確かに酷い姿だろ う。恥ずかしいが、それを隠す余裕がない。 ﹁よし、ちょっと待ってろ﹂ 拳を受け止めたまま、太一が右手を握る。 ﹁よ!﹂ 拳に拳を軽く打ち付ける。オーガの腕が思い切り真後ろにぶっ飛 び、身体ごとよろめく。ずしんずしんと地面を揺らし、数歩後退し ていくオーガ。 なんというパワーだろう。自分の強化魔術が霞んで見えてしまう。 その身体に、三本もの稲妻が降り注いだ。 圧倒的な光と音の奔流に、ミューラは思わず目を閉じる。 それが収まったのを確認して目を向けてみれば、四メートルもあ る大きな身体が、隅から隅まで丸焦げになっていた。 雷魔術。こんなことが出来る魔術師を、ミューラは一人しか知ら ない。 ﹁よかった。間に合ったね﹂ ﹁カナデ⋮⋮﹂ 初心者用の杖を持ち、初心者用のローブを羽織った、最早レミー アすら上回ろうとする程の魔術師、奏。 アズパイアが誇る最強の二人が、オーガたちの前に立ちはだかっ た。 578 覚醒︵後書き︶ 異世界人と精霊で太一と奏の呼び方を分けました。 異世界人:二人をカタカナで呼ぶ 精霊:二人を平仮名で呼ぶ 地の文、太一と奏同士でのみ、名前を漢字で表記します。 これまでの投稿分と差があったりしたら、教えてくださると嬉しい です。 読んでくださってありがとうございます。 579 奏先生の現代知識有効利用講座∼第二弾∼︵前書き︶ 奏さんが大活躍したので、分けました。 580 奏先生の現代知識有効利用講座∼第二弾∼ ﹁ミューラ、だ⋮⋮えっと、具合はどうだ?﹂ 大丈夫か? 出かかったその言葉を呑み込んで、太一はミューラにそう声を掛 けた。 大丈夫なはずはない。よく気を失わずにいられるものだ。なるべ く負担がかからないように、優しく抱え上げたのだが、それだけで 小さく呻いた程だ。 ﹁え、ええ⋮⋮何とか﹂ と言いながら、ミューラは気絶しそうになったのを隠した。 ゆっくり抱き上げられたのに、その衝撃が痛みとなって全身を駆 け巡った。そこで意識が飛び掛けた矢先、ミューラは気付いてしま った。自分が物凄い抱えられ方をしていることに。 アドレナリンがたっぷり出て、一時的な麻酔のようになったのが 原因だが、ミューラはそこには気付かなかった。 大怪我で良かったと思う。周りに悟られたら、色々な意味で死ん でしまう。 衝撃的出来事にぼーっとしている間に応急処置が始まり、大分容 態も安定し始めていた。 ﹁無茶をしたな、大バカ娘。タイチとカナデがこなかったらどうす るつもりだったんだ﹂ ﹁⋮⋮ごめんなさい﹂ か細い声で答えるミューラを見据えるレミーアのこめかみには青 581 筋が浮かんでいる。一発どつきたい位の心境なのだろう。 ﹁ごめんで済んだら騎士団はいらんぞ﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁全く⋮⋮私より先に死ぬなと何度も言ったろう。不孝者め﹂ ミューラは答えない。変わりに、目尻にじわりと涙が滲む。その リアクションが予想外だったのだろう、ハッとしたレミーアはバツ が悪そうに頬をかき、目を逸らした。 そんな二人を微笑ましげに一瞥したジェラードが、視線を太一と 奏に移した。その目は一転して鋭くなっている。太一は飄々と、奏 は何食わぬ顔で。つまり、どちらも表情を一切変えずにその視線を 受け止める。 目立ちたくない上に死ぬのが怖い。だから、この場に立つのを拒 んだのではなかったか。 ﹁⋮⋮どういう心境の変化だ?﹂ ﹁ああ。尻を叩かれたんだよ﹂ ﹁誰にだ?﹂ ﹁アレンに﹂ 冒険者たちに、アズパイアを救ってくれ、と頭を下げた少年の姿 がジェラードの脳裏に浮かぶ。 ﹁ほう?﹂ 興味深そうに先を促すジェラード。 ﹁それだけ強いんだからたくさん守れるだろ、と。グサッと来まし た﹂ 582 ﹁なるほどな﹂ やり取りがそれだけとは思わないが、要約するとそういうことな のだと、ジェラードには分かった。 ﹁連続で済まんが、もう一つ聞きたい﹂ ﹁何ですか?﹂ ジェラードがちらりと視線をオーガたちに向けた。これだけ隙だ らけな自分達を前にして、微動だにしない侵略者たちを。 ﹁ああ﹂と頷いて太一を見る奏。 ﹁俺が止めてる﹂ 事も無げに、太一はそう言った。 止める? オーガを? にわかには信じがたい太一の言葉。ミューラとレミーアが太一を 見た。話が聞こえたのだ。 ﹁止める、だと? どうやって﹂ ﹁オッサン﹂ ﹁なんだ﹂ ﹁地に足は着いてるよな?﹂ ﹁無論だ﹂ ﹁踏ん張れよ、しっかりと﹂ ﹁何⋮⋮?﹂ ずっと明後日の方角を見ていた太一が、すっとジェラードに視線 を移す。 583 ﹁く⋮⋮!?﹂ ジェラードがふらりと、二歩下がった。こちらを見ていた二人が 目を丸くする。今まで生きてきて、プレッシャーだけで後退りさせ られたのは初めてだった。 ふっと、自身に向けられていた圧力が全て霧散する。ジェラード は呼吸が止まっていたことに気付き、ふう、と大きく息を吐いた。 ﹁な、何だ⋮⋮今のは⋮⋮﹂ ﹁何って、魔力強化﹂ ﹁八割の魔力強化を、オーガたちだけに向けてるそうですよ﹂ ﹁八割⋮⋮﹂ 強い強いと思ってはいた。だが、実際にこうして体験して、太一 の凄まじさがよく分かった。これだけの圧力を放ちながら、まだ全 力でないのか。 実際、レッドオーガを除くオーガたちはガチカチに固まっている。 恐怖すら覚えているはすだ。逃げ出したい心境だろう。 レッドオーガも動かないが、過ごし方意味合いが変わる。これま でとは段違いの敵が現れ、警戒を強くしているのだ。 ここにいる者達全員に言えることだが、オーガらが逃げることは 絶対にありえないという事を、誰も知らない。あの三人組から魔操 術を受けているため、逃げるという選択肢が存在しないのだ。 太一と奏にとっては、知っていようと知っていまいと関係無い。 そこにいて逃げないのなら倒すだけだ。 ミューラの手当てが終わったのを見届けて、二人はオーガたちの 方に向き直った。 ﹁さて。やっつけるか﹂ 584 ﹁うん﹂ ﹁お前たち﹂ 向けられた背中に向かって、ジェラードが声をかける。 ﹁いいのか、任せて。バレずには済まないぞ?﹂ ﹁構いませんよ。私たちも自重する気ありません﹂ 奏が言う。 ﹁そーいうこと。まあ後の事は、あいつら倒してから考える﹂ 太一も続く。 ﹁⋮⋮そうか﹂ であれば、もう何も言うことはない。太一と奏に任せた方が良い のは、あの攻撃を受け止めた事、雷魔術でオーガを一撃で仕留めた 事が物語っているからだ。 ﹁さて。とりあえず弱い方から駆除するか﹂ 邪魔なものを払いのけるように、太一が言った。 ﹁うん。じゃあ、そっちは私がやる﹂ 腰からナイフを抜き、奏は小さいオーガを見詰めた。 ﹁二匹いるけど平気か?﹂ ﹁うん。とりあえず一体には即退場願おうかなって思って﹂ 585 ﹁そっか﹂ さらりととんでもないことを言い出した奏。彼女の言葉が聞こえ た者は、全員がその華奢な後ろ姿に目を向ける。 ﹁何するんだ?﹂ ﹁えっとね。電磁加速砲﹂ ﹁⋮⋮はい?﹂ ﹁こう言った方が分かりやすいかな? レールガンだよ﹂ ﹁⋮⋮みさk﹂ ﹁はいアウト﹂ ﹁ビリビr﹂ ﹁同じだから﹂ よくわからない事を口走った太一を強制的に遮り、手を突き出し てナイフををオーガの一匹に向けた。無作為に選ばれたオーガは、 幸せだったかもしれない。 ﹁えーっと。確か﹂ 奏の右腕に電気が走る。火水土風の属性をどう混ぜて使ったら電 気になるのかが太一は気になった。 だが、あえて聞かない。聞けば丁寧に説明してくれるだろうが、 それを理解できる自信が太一にはない。 やがて腕の電気の密度が増し、奏の右手が青白く輝き始める。 ﹁これはお釣りよ。多くても返さなくていいから﹂ 弾ける音は、空気が急激に熱せられた故。空中にオレンジの線が 真っ直ぐ引かれた。距離にしておよそ一〇〇メートル。目視測定だ 586 から正確ではないだろうが、大体そんなものだと結論付けた。 高熱に当てられて、線に沿って地面が焼けている。 射線上にいたオーガの真ん中に、直径一メートルの大穴が空いて いた。あれで生きていられる訳がない。死んだことすら自覚しない まま、オーガは地面に倒れ伏した。 ﹁ひゅう。すっげえ﹂ 現代科学の真髄のひとつとも言っていいと、太一は思う。他にも たくさん理論があるとは思うが、一介の女子高生がレールガンの原 理を知っているだけで凄まじい。 何でこんなことまで知っているのか。そう問われれば、太一は﹁ 奏だから﹂と答えるだろう。それで納得しておいた方がいいことも ある。 ﹁さてと。これで一対一ね﹂ 残った最後のオーガに視線を向けたまま奏が問う。 ﹁ねえ太一﹂ ﹁ん?﹂ ﹁火災旋風って知ってる?﹂ ﹁知らん⋮⋮でも、ろくでもなさそうだな、それ﹂ ﹁うん。まあ簡単に言うと、炎の竜巻﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁高熱で火災を起こして酸素を急激に失わせて、周囲から取り込も うとして起きる風が強いと起きるの﹂ 風魔術で酸素の供給を後押しする、と奏は宣う。 奏がやらんとすることを理解した太一は、呆れた目を向ける。 587 自重しないとは確かに言ったが、随分と弾けたものだ。 ﹁お前⋮⋮えぐいぞ﹂ 太一に突っ込まれた奏は膨れていた。 ﹁だって。ミューラあんなにボロボロにされたんだよ? 悔しいじ ゃない﹂ ﹁そういうこと。じゃあ仕方ないね﹂ 掌に火球を生み出す奏。心なしか、燃え方が強い。 ﹁一応風の壁作っておかないと。こちらまで酸欠になるかもしれな いし﹂ ﹁⋮⋮ホント、えぐいわ﹂ 太一はこの時心に決めた。絶対に、奏を本気で怒らせないように しよう、と。 奏の前面一メートル程の場所に生まれる風の壁。これで防御は万 端と言うことか。 ﹁⋮⋮ふう。かなり魔力使ったかも。これ撃ったら、大したこと出 来なくなっちゃう﹂ ﹁ご利用が無計画だからだな﹂ ﹁うん⋮⋮結構頭に来てたみたい、私﹂ 苦笑いする奏。 ﹁じゃあ、行くよ?﹂ ﹁おう﹂ 588 ﹁名付けるなら、ファイアストーム﹂ 太一の返事を聞いて、奏は火の玉を放り投げた。太一の魔力で相 変わらず動けないオーガは、迫る火の玉を眺めるだけだ。大きさ的 には、ミューラのファイアボールと変わらない。 もちろん、性質は全くの別物だが。恐らくこれは、高温での燃焼 を目的とした魔術。ナパーム弾にも似た効果があるだろう。 ボン、と炎が上がる。灼熱のゆらめきが、あっという間にオーガ とレッドオーガを包んだ。そこに風を送り込み始める。数十秒とい う短い時間で、巻き上がる炎の渦が生まれた。 うわあー、と太一が呆れている。視覚的にも派手だが、それに恥 じない威力を誇る攻撃魔術。 およそ数分続いた炎の渦が収まってゆく。高温でゆらめく空気の 中、灼熱地獄に曝された二体のオーガが視認できるようになる。 オーガ一体は、完全に丸焦げになっていた。 ﹁あー。ウェルダンだ﹂ ﹁倒せた、かな⋮⋮?﹂ 奏の息が切れている。電磁加速砲にファイアストームと、強力な 魔術を二連発で放った。更に数時間前には、水蒸気爆発も起こして いる。これだけ派手に魔術を使えば、自然回復では追い付かないの も道理だ。 ﹁⋮⋮あいつ、タフすぎだろ。普通に立ってるぞ﹂ 確かにオーガに対してはオーバーキルだったのだろう。しかし一 方、レッドオーガは多少焦げがある程度で、効果のあるダメージが 与えられたとはいまいち言いがたい。 あの業火を耐えきったということ。 589 ﹁効いてない、かあ⋮⋮酸素が無くても⋮⋮オーガって死なないの ね⋮⋮﹂ ﹁そこ? あの高温が通じなかったのに、気にするのそこなの?﹂ 奏は杖にもたれ掛かる。 ﹁レッドオーガも倒せたら、と思ったんだけど⋮⋮ダメだった﹂ ﹁奏⋮⋮﹂ ﹁私、もう⋮⋮電池切れ⋮⋮﹂ それは一目見れば分かる。もう余力は残っていないだろう。 ﹁疲れたから⋮⋮タッチ交代⋮⋮﹂ ぽん、と太一の肩に触れて、奏はその場にへたり込んだ。 ﹁お疲れ奏。後は俺がやる﹂ 奏の実力を考えれば、電磁加速砲を使ってからのファイアストー ムは、はっきり言って非効率極まりない。最初からファイアストー ムを使っていれば良かったのだ。 一体ずつ倒したい、という衝動に駆られる程、ミューラを傷つけ られたのが腹に据えかねたのだろう。 もっとも、太一だって人の事は言えない。 ﹁さて。始めるか﹂ 多少なりともダメージを与えられ、怒りの咆哮を上げるレッドオ ーガに、太一は改めて魔力を練り始めた。 590 奏先生の現代知識有効利用講座∼第二弾∼︵後書き︶ レッドオーガとの対決は次話で。 読んで下さってありがとうございます。 591 一〇〇︵前書き︶ 太一が全力を出しました。 戦闘描写って、難しいですね⋮⋮。 592 一〇〇 レミーアに肩を貸してもらい後退した奏は、ミューラが背もたれ にしている岩に寄りかかっていた。枯渇寸前まで魔力を使ってしま ったため、まともに動くことも出来ない。 あれだけの魔術を二連発で放ったのだから、レミーアからすれば 当然の状態と言えた。 底が知れない。 ミューラが奏をそう評していたのを思い出す。確かに単純な戦闘 力では太一だ。だが、彼女の凄さはそこではない。 最後に放ったファイアストームも。 開戦の狼煙がわりになった水蒸気爆発も。 レミーアにとって、レールガンの前では霞む。 弾丸を目で追おうという行動すらおこがましい、神速の大砲。奏 は﹁電磁加速砲﹂と言っていた。発射前、腕に宿っていた電流を見 る限り、電気を使うものなのだろう。 原理の想像すらつかない。何をどうやれば、あんなモノを撃てる のか。あの速度。撃った瞬間、橙色の線が空中に現れた。恐らくあ れが、奏が放った砲弾の軌跡。 あれを避けられる者がこの世界にいるのか甚だ疑問だ。 レミーアの疑問は、太一の一言によって解決することになる。 これから見せ付けられる人外のスペックをもってして、﹁防御一 択﹂と言わしめた事によって。 ﹁レミーア。タイチに知らせんでよいのか?﹂ ジェラードの言葉に、レミーアは思考を中断する。やや間を置い て、首を左右に振った。 593 ﹁教えぬ方がいいだろう。集中を乱すのが良いとは思えん。相手が 相手だからな﹂ ﹁確かにそうだな﹂ ﹁私が、魔力を使いすぎたから⋮⋮﹂ ぐっと唇を噛む奏。本当に悔しげだ。 ﹁馬鹿を言うなカナデ。間違ってもお前のせいじゃないさ﹂ ﹁ユーラフにはバラダーたちがいるそうだ。奴等に期待するしかな い﹂ ﹁そういうことだ。私たちとて、他人を心配している余裕はないぞ﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮。そうです、ね⋮⋮﹂ ﹁辛いかもしれんが、私たちはタイチの心を乱してはならない。分 かるな?﹂ レミーアの言うことはよく分かる。分かるが、感情がついていか ない。 ついさっきやってきた早馬。アズパイア侵攻の余波が、隣街のユ ーラフに飛び火したということだ。バラダーたちを筆頭に、冒険者 や自警団でなんとか食い止めているという。 飛び火というだけあって、アズパイア程の魔物は来ていないとい うが、崖の縁を歩くような攻防を強いられているとのことだ。 ﹁太一⋮⋮﹂ 息を整えながら、奏は同郷の少年の背中を見詰めた。釣られるよ うに、視線が太一に集まる。今は、こっちだ。目前の脅威を除かね ば、滅ぶのはアズパイア。太一に命運を託すしかない。 奏のファイアストームを防ぎきったレッドオーガに、太一が今ま さに挑もうとしているところだ。 594 ﹁おー、改めて見るとでかいな﹂ レッドオーガに近寄って見上げる。距離はおよそ一〇メートル。 五〇メートル近く詰めたことになる。 オーガ相手でさえ、あんな無防備に近付くのは危険だ。それを、 更に凶悪なレッドオーガ相手に出来るのだから、太一が余裕を持っ ている事が分かる。 ﹁よし。とりあえず、殴ってみるか﹂ そう、世間話をするように呟いて。 太一が飛び上がった事を視認出来たのは、レッドオーガを含め、 太一を見ていた者のうち一割にも満たなかった。 アッパーカットを顎に。そのまま打ち抜いて更に膝の追い打ち。 勢いを殺さずにレッドオーガの頭に着地して、降りながら後頭部に 回し蹴り。 太一がレッドオーガに放った攻撃の一部始終。 文章にすると冗長だと、目撃者は口を揃えるだろう。実際は破裂 するような音が三連続で響いただけだからだ。 高さ七メートルはある巨体が前に一歩よろめいた。 驚きを隠せないのはそれを見ていた冒険者側だ。徒手空拳でレッ ドオーガに挑み、攻撃の勢いであの巨体を移動させた。 奏が見せた術式の方が見栄えは確かにある。それでも、どちらが 実際凄いかと聞かれれば、太一の攻撃だ。 タイヤみたいだ。レッドオーガを殴打した素直な感想。 手首をぷらぷらとさせながら、太一は紅い化物を見上げる。堅さ に弾力があり、攻撃を全て吸収された感じだ。 後頭部を一頻り擦ったレッドオーガが、太一に向き直る。そして、 右足を振り上げた。 595 ﹁っ﹂ プロレス技で言うところのストンピング。跳びながら退避。地面 に蜘蛛の巣状のヒビが走った。あんなのをいちいち受け止める気に はならない。 太一は、自分の対応が、レッドオーガの思う壺だと気付く。 太一がいる場所は空中。 太一の背の丈ほどもある拳を握るレッドオーガ。 当然だが、逃げ場はない。 ﹁上等!﹂ 太一も拳を軽く握る。全身をリラックス。レッドオーガの打撃に 太一も合わせる。狙うのは相殺。避ける暇は無いが、単なる防御で は面白くない。 いい力測定にもなるだろう。 巨大な紅い岩とも呼べるレッドオーガの拳。 向かってくる塊に、脱力状態で拳を突き出した。 太一のセンスのよさはここに集約されていると、奏は思っている。 スポーツをまともにやったこともなく、体力的にも日本では平均レ ベルだった太一が、運動神経がいいと言われる所以。 一連の動作のどのタイミングで力を入れるのがいいかを掴む感覚 が抜群に優れている。 ボール投げでいえば投げる瞬間の指先、テニスでいえばボールが ラケットに当たる瞬間。太一はそこで力を入れる。前後の動作が不 格好でも、およそ素人と思えないパフォーマンスが出来るのはそれ が理由だ。 太一に格闘技の心得はないし、奏もまたしかり。力を入れないで 突いた方がいいと、感覚的に思ったのだろう。太一の腕は鋭い軌道 596 を描いた。 思わずレミーアとミューラが耳を押さえる。エルフ族は耳がいい。 太一とレッドオーガの激突は、二人にとって大音量では済まない轟 音だった。 拳を打ち合ってから数瞬。太一はやおら飛び退くと、右手を掴ん でうめき出した。 ﹁いってー!﹂ まさか、太一にダメージが通るとは思っていなかった。つまり、 打ち負けたということ。 痛がり方を見る限りそこまで深刻そうではないが、それでも驚き だ。八〇の力を出している太一を、パワーで上回っている。 ﹁コンクリかよ⋮⋮﹂ 素手でコンクリートを殴った感覚に近かった。ここまで強く殴っ た事はないが。 太一の手が真っ赤になっている。かなり痛そうだが、あれは太一 だからこそあの程度で済んだ、ともいえる。 にやりと笑うレッドオーガ。太一はその顔を見上げ、同じように 笑った。その笑みの理由は余裕の表れか、それとも強者に会えたこ とへの喜びか。前者の割合が多いように見える。それでも後者を否 定しきれないのは、太一がここまで力を出す機会が無かったからだ。 自分の力を相当もて余していたことだろう。 ﹁一〇〇﹂ そう呟きが聞こえ、奏がまばたき一つした瞬間。 レッドオーガの顔面があった辺りで左手を斜め上に振り抜いてい 597 る太一と、殴り飛ばされて宙に浮いているレッドオーガの姿を目撃 することになった。 大地が震動する。レッドオーガの巨体が地面に叩きつけられ、土 埃を巻き上げた。 ﹁ええー⋮⋮﹂ どう驚いたらいいのか分からない様子で、そう搾り出す奏。 その横では、ミューラがこれでもかとばかりに目を見開いている。 レミーアも全く同感だ。凄まじすぎて、どう凄いのかを説明する のに苦労する光景だ。 まさかあんな巨大な魔物を、文字通り殴り飛ばすとは。かつて八 〇の力で地面にクレーターを開けたことのある太一だから、まあ突 拍子な訳でもない。 問題は、地面は無機物であり、今回は魔物が相手ということだ。 魔物とて魔力によって自身を強化しているし、そう容易く吹き飛 ばされてはくれないものだ。重量が同じの人形と冒険者。同じ力で 殴ってみてどちらが倒しやすいか。踏ん張る冒険者の方が圧倒的に 倒しにくいだろう。 ﹁大して効いてないだろ。遊んでないで立てって﹂ 太一の言葉を理解したのだろうか。やがて薄くなっていく土埃に 巨大な影が映し出される。 殴った感じでは、八〇のときと違いダメージが通っている印象が あった。だがそれでも、効果抜群とはいかない。速度にある程度割 いたため、威力の方が低くなってしまった。 一〇〇の力を使うのは初めてで、本音を言えば使い切れていない。 どのくらいの分量で割り振るとどんな効果なのか、手探りでウェル バランスを見付けるしかない。 598 実戦でそれを探すなんて面倒な思いをするのなら、修行の時から 慣れておけば良かったとごちる太一。恐ろしいことに、一〇〇の力 でどのくらいの時間戦えるかも分かっていない。 まずは騙し騙し。 力もそう離れていない。 自動反撃機能付きという絶好の訓練相手。こんなチャンスはまた とないだろう。ギリギリまで色々試せると、太一は頭を巡らせるの だった。 ◇◇◇◇◇ ﹁あれが、一〇〇の力か⋮⋮﹂ レミーアが見たのは太一の力の片鱗に過ぎないことが証明された。 八〇の時で目にも映らぬ速さだった。最大限目を凝らさなければ追 うことすら許さないそのスピード。あの巨体をよろめかせる程のパ ワー。 正直に言えば、あの実力を持った者が仲間としているだけで奇跡 である。 そして今、太一がギアを一段上げた。レミーアの知識をもってし ても、太一の強さをどう例えればいいかすぐには出てこない。 ただ、国が滅ぶのは間違いない。騎士団をぶつけても、宮廷魔術 599 師で守っても、太一は意にすら介さないだろう。読んで字の如く蹴 散らして、やがて城を破壊すると思われる。 ﹁全く、悪い夢のようだ﹂ ﹁同感だ﹂ この事実に目を背けてはいけない。太一に一〇〇の力で殴られ、 普通に立ち上がるような魔物が敵なのだと。レミーアと奏が万全で、 全魔力を一撃に注ぎ込んでも、勝てそうにないと。 ﹁太一、訓練がわりにしてますね﹂ 多少なり魔力が回復し、やっと息切れが治まった奏がそう言った。 ﹁訓練だと?﹂ 奏の言葉がすんなりと入ってこず、ジェラードは思わず聞き返し た。 ﹁はい。一〇〇の力を出すのは初めてだから、色々試してるんじゃ ないでしょうか﹂ そんなことを悠長に出来る相手とは思えない。だが、奏は言い切 った。彼女が見ているのは太一の動きではなく、表情。試行錯誤を して悩んでいる顔だった。 ﹁余裕だな、あんな強敵を相手に﹂ 素直に同意出来ないジェラードと、奏が言うならそうなのかもな、 という顔をするレミーアの対比が面白い。 600 安心させる材料になるだろう。奏は教える事にした。 ﹁太一にはとっておきがあるんです。勝てる算段は、あります﹂ 疑いもせずに断言した奏。レミーアとジェラードは、遠くでトン デモ戦闘を繰り広げる太一に目を向けた。 ◇◇◇◇◇ どんな感じで試せばいいのか。深く考えた結果、基本は自然体が 最もいいのではないか、という結論に至った。何も考えずに強化す ると、必要な箇所を満遍なく強くする事が出来る。 具体的には、パワー、スピード、防御。それと視力、思考能力。 この五つが、戦闘時に強化を施す基本部分だ。 視力と思考能力を上げるのは何故か。CPUとメモリーである脳 と、情報をインプットするデバイスである視力が、高速で移動する 自分を処理しきれなかったのだ。それに気付いたのは、紅いフェン ウルフを倒すのに六〇の力を出したとき。 奏とミューラにこのことを話したら、﹁むしろ何で強化してない の?﹂という白けた目で見られてしまった。 二〇や三〇では必要なかった。二〇程度であれば、体感で原付ス クーター位の速さだったからだ。一五歳の太一が何故それを知って 601 いるかは考えない方向で。決して真似をしてはいけない。 そんなことがあり、一〇〇の強化をしている今は、必須だ。圧倒 的なパワーとスピードは、頭できちんと処理をしなければ振り回さ れるだけだ。 太一の強みは、並外れたそれらのスペックを、きちんと理性的に 操れること。更に、相手に合わせて強化の場所を任意で変えられる ことだ。 手札はこれだけ。奏は﹁八と二とジョーカーしかないね﹂と大富 豪に例えていたが、言い得て妙だと太一も思う。仮に相手の手札が 分かったとして、そんなカードしか持っていない相手とでは勝負に すらならない。 それが自分だと言うのだから、喜んでいいやら複雑な気分だ。 いや、今は喜ぶべきだろう。 この力のおかげで、この怪物を止める事が出来ている。倒す目算 が、立てられる。 ﹁コンボやってみるか﹂ 魔力強化の集大成。太一はレッドオーガから距離を取り、脱力し て一度息を吐く。 心を落ち着け、レッドオーガを一瞥。 距離は一〇〇メートル。軽めの一足跳びでこれだけ跳躍できるの だから、自分のスペックが信じられない気分だ。 正確に時間を計ったら一秒経過していない。太一はレッドオーガ の顎を膝で打ち抜いた。背後を見ていないので気付かないが、太一 が蹴った地面が抉れている。踏み込みの力が強すぎたのだ。因みに、 太一を見ていた者から見ると、地面が弾け、太一の姿が消えたよう に見えただろう。頸椎が外れそうなほど跳ね上げられたレッドオー ガの顔面に向かい掌底の寸止め。風圧で両目を閉じたのを確認し、 鼻っ柱をフルパワーで殴り付けた。 602 ゴキボキ、とあまり心地よくはない手応え。レッドオーガが頭か ら後ろに倒れていく。レッドオーガの胸に両足をつけて、思いきり 跳躍。その勢いが加算され、大地に叩き付けられてワンバウンドし た。 これは流石にいいダメージが入っただろう。 初撃はスピードにモノを言わせ、次の風も高速の手の動きで生ま れた風圧。殴打は、強化を膂力に割り振った。跳躍に関しては普段 と変わらないが、それでも殴った勢いに加算出来たのは良かった。 たん、と軽快に着地した場所は、奏やレミーア、ジェラードに近 い位置だった。 ﹁ふう﹂ 息をつく。 ﹁太一﹂ ﹁奏? おお、こんなとこまで跳んでたのか﹂ 振り返れば、見知った仲間たち。皆の驚いた顔に、逆に驚く。し かし、すぐに納得がいった。己のしたことを思い出せば、簡単だっ た。 ﹁あー⋮⋮。まあ、人間やれば出来る?﹂ ﹁それで片付くわけがない﹂ レミーアにピシャリと言われて肩を竦める太一。 ﹁太一。傷は平気なの?﹂ ちょいちょい、と頭を指す奏。触れてみて、手についた血を見て、 603 出血していることに気付いた。 ﹁あら。気付かなかった。まあ問題ない﹂ 思い当たる節は結構ある。レッドオーガと戦い始めた当初、少な くない被弾をした。流石に頭でっかちなレッドオーガだけあって、 一撃一撃の威力は高く、何度かいなしきれなかった。多少だが身体 のあちこちが確かに痛むし、流血もしている。 ジェラードが心配していた理由がこれだ。最初は互角に見えたの だ。 今は、レッドオーガの攻撃を受ける気がしない。太一と比べてあ まりにも巨大すぎるのだ。当てるだけで苦労していることだろう。 太一にとっては知ったことではない。戦いやすくて何よりだ。 ﹁全く⋮⋮お前をはめる型が見つからん﹂ そうごちるジェラードの肩をまあまあ、と叩いてやる。フレンド リー作戦で宥めようと思ったが、本人がやったのでため息をつかれ てしまった。 ﹁それがタイチの全力?﹂ ﹁そうだなあ。全力っちゃあ全力かな﹂ ミューラが近付いてくる。杖をついて。無理するなと言いたいが、 こんな目に遭わせたのは覚悟がなかった自分だと気付いた。 医療の心得がある冒険者が、﹁後遺症とか傷痕は残らないだろう﹂ と言っていたのが不幸中の幸いだろう。 ﹁悪かった、ミューラ﹂ ﹁え?﹂ 604 きょとんと目を丸くするミューラ。他にも色々言葉が浮かんでき たが、あえて言わない事にした。怪我をさせた、とか、女の子なの に、とか、そういう言葉だ。 しかしミューラは自分から進んで冒険者をやっている。そういう のは覚悟の上なのだろう。まして死ぬ覚悟さえ決めているような少 女に、そんな言葉は失礼だと感じたのだ。 それでも。もう少しでミューラを喪う事になっていたと思うと、 謝らずにはいられなかった。 謝ったことで少しスッキリした太一と、何故謝られたか分からな いミューラ。 二人を含めて、奏、レミーア、ジェラードが一斉に同じ方向を向 く。 レッドオーガが、巨大な魔力を放っていた。 605 一〇〇︵後書き︶ 決着は次で。 荒らしらしき人が現れました。 感想欄が荒れるのは困るので、警告一回で改善されない場合はブロ ックさせて頂きます。 次は二章最終話。 606 決着︵前書き︶ エアリィと初戦闘。 607 決着 ゆっくりと起き上がるレッドオーガ。その目は何を映しているの か、濁っていて察する事は出来ない。 ﹁何だ⋮⋮?﹂ 思わずと言った様子で呟くレミーアに聞けば、魔力が際限無く漏 れているとのことだ。まるで、穴の空いた鍋のように。 魔力を持っているからこそ、魔物と呼べるのだ。故に魔物から魔 力が漏れだすなど有り得ない。レミーアはそう続けた。 ﹁要は異常ってことか。勝手に弱くなってんなら、ラッキーって事 にしときゃいいんじゃね?﹂ ﹁それはそうだが。常識として有り得ないから、驚いているんだ﹂ さもありなん。 ﹁じゃあ、ある程度無くなったら一気に決めるか﹂ 太一は様子を見ることにしたようだ。自分で弱くなってくれるの なら、そのまま放っておけばいい。それが太一が下した結論。 その決定に意を唱える者はいない。もちろん理にかなっていると いうのもある。もう一つの理由として、戦うのは太一だからだ。本 人が考えたようにやるのが一番いい。 油断無くレッドオーガを見詰める太一。節約のためか、魔力強化 はしていないが。起き上がったレッドオーガは、じっと動かない。 まるで、彫像のようだ。レミーアが、今も魔力が漏れていると言っ た。 608 どの程度、時間が経っただろうか。かなりの集中力を発揮してい た太一が、ふっと息を吐く。 前触れは一切なかった。レッドオーガが口から火球を吐き出す。 人の背丈ほどもあるそれはかなりの速度で、人の視力の限界を超え て飛んで行った。 激しい光源と、数秒遅れて届く爆音。そして、突風。 ﹁なんだあ!?﹂ ﹁バカヤロー! あのバケモンの仕業だろ!﹂ それは誰かの目に入らないというのが有り得ない規模。やがて遠 くの空を支配する黒煙が、爆発の大きさを雄弁に語る。 ﹁⋮⋮奏﹂ ﹁私以上。聞くまでもないでしょ﹂ ﹁やっぱりか﹂ 太一が訊ねたのは、﹁水蒸気爆発とどっちが上か﹂だ。皆まで聞 かずともその意図を理解した奏が、先を打って否定した。 ﹁レミーアさん⋮⋮﹂ ﹁うむ。今ので魔力が大分減った﹂ 突風に倒れないよう、レミーアに支えられていたミューラは、師 の顔を仰ぎ見る。 ﹁オーガは、炎など使う魔物ではない。恐らくは、真紅の契約が原 因だろう﹂ ﹁タイチと互角にやりあえるようなヤツの技なら、あの威力も納得、 というわけだな﹂ 609 何故、ここまで冷静でいられるのか。 アズパイアのトップ集団であるレミーアたちが慌てては、それが 他の冒険者に容易く飛び火するからだ。一度飛び散ってしまった火 種は、もはや収拾は不可能。ここで狼狽した姿は見せられない、と いう責任感から。 正直言えば、かなりまずい。あれが暴走してこちらに走ってきた ら、太一で止められるだろうか。リミッターが外れている状態では、 どこまで強くなっているのか全く分からない。 あの真紅の契約は、これが本当の目的なのだろう。強さを引き上 げるのは当然として、もう一つの付加価値。現に、強化されたレッ ドオーガが放った火球の破壊力は目を見張るものがあった。アズパ イアなど軽く焦土になってしまう。 レッドオーガの様相が大分変化してきた。巨大なシルエットが揺 らいでいる。高温を放つ身体が、周囲の水分を蒸発させているのだ。 ﹁タイチ。そろそろ⋮⋮﹂ 一〇〇の強化を施した太一でなければ、近寄る事すら難しいと思 われる。その旨を伝え、止めを刺してもらおうと考えたレミーアは、 動きを止めざるを得なかった。 ﹁⋮⋮気づいたか﹂ ゆらゆらとぎこちなく揺れる頭が、ぐりんとこちらを向いた。ホ ラー映画のゾンビのような覚束なさ。しかし、はっきりとこちらを 見据えている。 ﹁タイチ。頼む﹂ ﹁分かってる。でもまずは、あれをどうにかしてからだな﹂ 610 太一は前を向いたままそう告げた。なんの事だ⋮⋮と思い、視線 をレッドオーガに向け、危うく声を出すところだった。 あれほどの大きさの火球は見たことがない。 ほんの一瞬。時間にして五秒も目を外していない。そんな短時間 で、あれほどの大きさ。 終わった。 レミーアはそう、他人事のように思った。ミューラとジェラード が背後で脱力したのを気配で感じる。いくら太一が凄かろうと、あ れを止めるすべがあるとは思えない。 これで助かったなら奇蹟だろう。これから太一が、正にその奇蹟 を起こすとは露ほども思わずに。 火球は既に放たれ、こちらに飛来してきている。レッドオーガも 漏れなく巻き込まれ、吹き飛ぶだろう。当人はそんなこと、意に介 していないだろうが。 寄ってくる絶望に気を取られ、全員が一切気付いていない。 太一が﹁どうにかしてから﹂と言ったことに。 どうにか出来ると疑っていない、断言だったことに。 ﹁エアリィ﹂ 太一が何かを呼んだ。 ﹁はいはーい﹂ 呼び掛けに応える、この絶望の渦には相応しくない可愛らしい声。 ﹁薙ぎ払え﹂ ﹁がってん!﹂ 611 どばん! と。 絶望に向かって見えない何かが殺到し、あっさりと、消し飛ばし た。 これには誰もが声を失った。 直径にして五メートルはあった火の玉が、無かったことにされた のだ。 ﹁おお、言うだけあるなあエアリィ﹂ ﹁とーぜん! アタシを誰だと思ってるの?﹂ 太一が何かしたのは分かる。だが、何をしたのかが分かった者は 皆無。太一の﹁とっておき﹂をあらかじめ知っていた奏を除いて。 当事者に視線が集まる。太一の周囲を、薄い緑色の光を放つ球体 が漂っていた。 ﹁え⋮⋮?﹂ ﹁は⋮⋮?﹂ ﹁何⋮⋮それ⋮⋮﹂ 今のが恐らく太一の奥の手。だが、驚くのも当然。そんなことが 出来るなんて全く思っていなかったのだから。 ﹁それとはひどいなー。アタシにだって意思はあるのよ?﹂ 本気で咎めていないのは、ころころと笑う声から分かる。 ﹁嬉しそうだなエアリィ﹂ ﹁それはそうよ。たいちのおかげて、こうしてアタシの声が届くん だから﹂ 612 太一のおかげ。 声が届く。 それはどういうことだ、と問う前に、球体がまとう光を取り払っ た。 現れたのは、見た目一二∼三歳ほど、奏やミューラより少し幼い 少女だった。その大きさは掌大と、大分不思議さを醸していたが。 ﹁アタシの名前はエアリアルよ。エアリィって呼んでね﹂ ﹁エアリアル⋮⋮だって?﹂ レッドオーガの炎をかき消した時以上に驚くレミーア。もちろん、 彼女だけが驚いた訳ではない。 四大精霊シルフの使いとも、代弁者とも言われる、風の上級精霊。 この世界において、四大精霊に次ぐ格の高さを持つ精霊だ。 伝承の中にしか出てこない精霊が今目の前にいる。すぐに現実と 受け入れるには、些か酷というものだ。 そして、予想外なのはもう一つ。 ﹁精霊って、結構ラフなのね⋮⋮﹂ もっと、荘厳な存在だと思っていた。しかし蓋を開けてみれば、 天真爛漫な笑顔といい、あだ名で呼んでと願い出ることといい。ミ ューラがこぼした一言が、端的によく表していた。 ﹁アタシが、というより精霊が召喚術師以外の人とこうして話すの は初めてだもの。教えておくと、精霊によって性格は違うのよ?﹂ エアリアル改めエアリィはにこりと笑う。ミューラは思わず見と れ、赤面した。なんだこの可愛いのは。素直な感想である。 613 ﹁まあ、アタシがどうとか、この状況は何とか、細かいことはさて おいて﹂ 細かくはない。さておくな。 誰かの心の声をすっぱりスルーし、太一に向き直った。 ﹁まずは、あれをやっつけてからね﹂ 未だレッドオーガは存在している。 いつまた、炎攻撃をしてくるかは分からないのだ。 ﹁たいち。アタシの力、どう使うか試してみたら?﹂ ﹁そうだな。さっきのはエアリィに丸投げだったもんな﹂ エアリィを喚び出し、魔力を大雑把に渡しただけ。どう火球を消 すかはエアリィに任せたのだ。召喚術師は精霊に思うように術を使 わせて、初めて召喚術師と呼べる。 どうやるかは、エアリィから聞いている。かつて存在した召喚術 師と契約していた精霊から、どんなやり取りをしたかを聞いたから だと、エアリィは言った。 ならば、まずはそれに倣ってみることにしよう。それが太一とエ アリィにとって正しいかは分からない。 それでも、かつて正解だった方法を取るのは、きっと悪いことで はない。 ﹁魔力で、何するかをイメージ⋮⋮じゃ、はい﹂ 太一は練った魔力をエアリィに渡すイメージを持つ。それを受け 取ったエアリィは、右腕を下から上に振り上げた。 耳をつんざく破壊音が届き。そして、大地に長い長い亀裂が生ま 614 れる。その射線にいたレッドオーガの左肩から先が、剪定バサミで 切り落とした小枝のように吹き飛んだ。 ﹁⋮⋮おおう﹂ 考えた本人が驚いている。 ﹁密度を上げて細くして風の刃、かあ。面白い使い方するね﹂ そうまともに誉められると恥ずかしくなってくる。有名なゲーム の風魔法をイメージしただけだったために。 そもそも、イメージだけで魔術は撃てるのだろうか。今まで一切 縁のない生活をしていたために、いまいち掴めていない。 ﹁ってか﹂ 太一はエアリィを見る。 ﹁俺大した魔力渡してないぞ。随分威力高かったな﹂ どんなもんだろう、と思っていた太一。エアリィに渡したのは、 自身が三〇の強化をするときと同程度。それで大地を割るほどの威 力が出るとは。 ﹁それはね。たいちの魔力が強かったんだよ﹂ ﹁強かった?﹂ ﹁うん﹂ エアリィが頷く。 615 ﹁過去三〇〇〇年位遡っても、たいちが一番強いんじゃないかなあ ?﹂ ﹁さんぜ⋮⋮﹂ 地球では紀元前と呼ばれる数字だ。たった三〇年だって、想像な どつかないと言うのに。 それより前は分からない、とエアリィは舌をペロッとした。 ﹁それよりたいち﹂ ﹁ん?﹂ ﹁戦いの最中に余所見はダメだよ?﹂ 言われて見る先はレッドオーガ。口から炎を吐き出したところだ った。 今度はあれを防ぐ術を。咄嗟に出来ることなどたかが知れている。 奏のような真似は出来ない。奇をてらわず、正攻法で対抗する。 空気を集めて叩き付ける。行ったのはそれだけだ。それだけだっ たが、それで十分でもあった。歴史上でも類を見ない太一の魔力強 度と、エアリィという精霊。二人の力が合わさった攻撃の前には、 レッドオーガの炎など些細なものでしかない。 ﹁一気に決めちゃうか﹂ ﹁うん﹂ 再び攻撃を無効化され、レッドオーガは何を思っただろうか。 炎を放つたびに弱まるのは分かっている。だが、わざわざそこま で待ってやる理由はない。 先程の風の刃をなぞる。ただし、一発ではない。 当たらないとも限らないのだから、念には念を。全部当たるなら オーバーキル。しかし、無駄な時間をかける気はない。 616 驚くほどあっさりと。 レッドオーガは細切れになり。 戦いは、終わりを告げた。 617 決着︵後書き︶ 召喚術師太一VSレッドオーガはあまりにもあっさり。 意図的です。 何故なら、力の差がありすぎるから。 最終話は次にします。 付け足したいエピソードが出来ました。 618 第二章エピローグ︵前書き︶ 二章もついに終わりです。 619 第二章エピローグ 全力で草原を駆けている。周囲の景色があっという間に後方へと 飛んでいく。 スピードガンを用いたなら、測定結果は時速一五〇キロと示すだ ろう。六〇の強化を施せばこの程度は問題ない。もっと速く走るこ とも十分可能。 それをしないのは、彼が背負っている存在が理由だ。 ﹁奏、平気か﹂ ﹁うん﹂ 頷いたのが背中越しに伝わる。太一としても、なるべく震動を与 えないようにしてはいる。 しかし奏は一度魔力が底をついている。自然回復でもある程度戻 るとはいえ、今の奏は一般人。あまり無茶はさせられない。 ﹁私のことはいいから、早く行こう?﹂ ﹁分かった﹂ 太一はそれきり前を向く。何故奏を背負って走っているか。その 理由を説明するために、舞台は三〇分程前まで遡る。 いとま 重力に従う暇すら与えられずに鱠切りにされたレッドオーガが、 一瞬の間をおいて次々と地面に落ちた。 殴ってもなかなか倒せなかった相手。負けるとは思わないが、魔 力強化だけではもっと時間がかかっていただろう。 ﹁うん。名付けて、エアロスラスト﹂ 620 どこかで聞いたような名前を口走り、思わずむず痒くなる太一。 ﹁発想の勝利だね﹂ 空気の流れであるところの風を、刃とする考えは持っていなかっ たエアリィが、素直に称賛した。 奏、レミーアを含めて誰もが生を諦めるであろう魔物を一瞬で苦 もなく倒した太一。 レッドオーガは紛れもなく怪物。それをあっさりと倒した太一も また、怪物であるという証左に他ならない。 恐れられるだろうか。疎まれるだろうか。それも仕方がないと思 う。レミーアもジェラードも、こうなる事を見越していたのか、再 三忠告をしてきていた。 ﹁ま、いいか﹂ 多少の強がりは否めないが、覚悟の上でもあった。目的は、アズ パイアの防衛。 どことも知れないまるで漫画やライトノベルの世界のような土地 に飛ばされて。 何やら凄まじい力が自分たちにあることを知り。 その力を誰かから奪うためではなく。 こうして誰かの命を守るのに使えたのなら、きっとそれは、この 世界に来た意味と言っていいだろう。 エアリィが太一の肩に腰かけた。こちらを見てくる精霊と目が合 う。 ここが駄目でも、生きていくことは出来る。 今度は大人しく冒険者でもしていればいい。そんなに上手く行く だろうか。楽観過ぎるとは思う。それでも今は、自分を納得させる 621 理由としては十分だ。 どこかスッキリした顔で振り返り、皆の元へ戻る。 驚いていないのは、知っていた奏だけ。レミーアもミューラも含 めて、他の者は軒並み絶句している。まあ当然のリアクションだろ う。太一が発現したユニークマジシャンの力。それは、レミーアが 可能性として挙げていた召喚術師だった。 ﹁⋮⋮タイチ﹂ 声を掛けてきたミューラに、太一は顔を向けた。 ﹁ん﹂ ﹁本当に、精霊を?﹂ ﹁ああ﹂ ﹁はあ∼⋮⋮﹂ 何とも言えない、長い長い溜め息。それが感嘆から来るものだと 気付くのに、少し時間が必要だった。 ﹁まさか本当に召喚術師だったとはな。⋮⋮呆れるしかないな﹂ ﹁それは俺もだ﹂ レミーアとのやり取りは、何となくいつもと変わらないと太一は 感じる。 ﹁自分の事だろう。まあ、そのお陰でワシらは助かったのだから、 運が良かったと思うべきだろうな﹂ ジェラードにも肯定的に受け止められた。 太一は思いきって聞いてみる事にした。何故、変わらないのか。 622 恐れないのか。あれだけの力を見せたにも関わらず。 ﹁バカを言え﹂ 開口一番、にべもなく一蹴したのはジェラードだった。 ﹁おまえがその気だったら、アズパイアなど既に滅んでいるわ。い つでも出来たのにしなかったのだから、する気がないのだろう?﹂ アズパイアを滅ぼす。考えたこともなかった。 ﹁くだらん事をわざわざ言わせるな。あまりみくびってくれるなよ ?﹂ ジェラードは腕を組んで、口の端を吊り上げた。 ﹁お陰様で命拾いしたからな。タイチが来なかったら私たちは今頃 お陀仏だったろう﹂ お陀仏とは乙な言い方をする。まるで日本のようだ。翻訳された 言葉のニュアンスを、太一の脳がそのように解釈したのが原因。そ れが、レミーアの言葉を味なものに変えた。もっとも、太一とレミ ーア、双方とも知る由もないことだが。 ﹁タイチ﹂ ミューラが近付いてきた。カツン、カツンと、杖を突く音が聞こ える。 ﹁ミューラ﹂ 623 ﹁よく戦う気になったね﹂ ﹁ああ。俺にしか勝てない相手だったしな﹂ ﹁そっか﹂ 笑顔を浮かべるミューラ。 ﹁あた⋮⋮ううん、この街を守ってくれてありがとう﹂ そのお礼は、心から。 どうやら、アズパイアにいてもいいらしい。ふー、と大きく息を 吐いて、太一はその場に座り込んだ。太一が何を懸念していたのか、 その理由が明らかになった。 ﹁安心しろタイチ。お前を追い出したりはせんよ﹂ ﹁レミーアさん⋮⋮﹂ ﹁せっかくの召喚術師︵研究対象︶をみすみす逃がす手はないから な﹂ ﹁俺の感動を返せ﹂ ノリと勢いによるコントに奏が吹き出す。それはやがて冒険者た ちにも感染し、張り詰めていた空気が霧散した。戦いが終わったこ とを告げる笑い声が空に響く。今日はアズパイアの至るところで生 還を祝う宴会が行われることだろう。 その和やかな空気を破壊する覚悟を決めたのは、奏だった。 ﹁太一﹂ ﹁おう奏。魔力は平気か?﹂ 大丈夫、と答えて奏は続ける。 624 ﹁悪い知らせがある﹂ ﹁悪い知らせ?﹂ 怪訝そうな顔をする太一。歓喜の輪には、ミューラやレミーア、 ジェラードも巻き込まれた。和やかな空気の中、太一と奏の間だけ、 切り取られたように雰囲気が変わる。 ﹁うん。ユーラフにも、魔物襲撃の余波が行ってるって﹂ ﹁︱︱︱は?﹂ 寝耳に水とはこのことか。 奏は種を明かした。 太一がレッドオーガと戦い始める直前に、ユーラフから早馬が到 着した。アズパイアに助けを求めるために来たという。その伝令は、 ユーラフより遥かに多い魔物に襲われているアズパイアの状況に言 えなかったようだが。 勘違いしそうだが、ユーラフの状況を楽観視は出来ない。でなけ れば、わざわざ早馬など飛ばさない。 報告によれば、住民の殆どは二つの施設に立て籠り、自警団と運 良く街にいた冒険者で何とか凌いでいるとのことだ。魔物の数は二 〇〇もいないらしいが、街へ侵入されるのは時間の問題だという。 アズパイアのようにギリギリで食い止められるかは分からない。 魔物の数はアズパイアが圧倒的に多かったが、街が蹂躙されてし まうかもしれないユーラフの方が酷い、と言うことも出来るだろう。 何故今になってそれを知らせるのか。太一がレッドオーガとの戦 闘に集中出来るようにするため。太一の負けはアズパイアの負け。 そうなれば、ユーラフへ援軍を送ることもかなわない。 ﹁そっか⋮⋮ユーラフが⋮⋮﹂ 625 太一は自分の手を見詰めた。後どのくらい魔力は残っているだろ う。 一〇〇の力であれだけの時間強化していたから、かなり減ってい る感覚はある。 最初に辿り着いた思考が魔力の残量だった時点で、太一の心は決 まっていた。 ﹁行く?﹂ ﹁行く﹂ そこに至ることは、奏も分かっていた。 ﹁私も連れてって﹂ ﹁⋮⋮分かった﹂ 奏は燃料切れのため強化魔術を使えない。使えたとしても、太一 の強化にはかなわない。 来るな、と言っても聞かないだろう。結局、太一が奏を背負って いくことになった。 ﹁タイチ? ⋮⋮カナデ?﹂ ばか騒ぎの主役である二人がいないことに気付き、呼びに来たミ ューラ。 ﹁あれ?﹂ ミューラは首をかしげる。ほんの数分前まで、ここにいたはずだ ったのに。どこに行ったか。その謎はじきに解ける事になる。 626 ◇◇◇◇◇ ﹁ひでえな、こりゃ⋮⋮﹂ ようやく辿り着いたユーラフは、半ば廃墟と化していた。 ところどころで灰色の煙が上がっている。魔物の死体がそこかし こに転がっている。これらの光景が相当な激戦だったことを物語る。 傍らに落ちていた、欠けた剣を拾い上げた。刃に血糊がべっとり とついているが、構うことはない。きっと、ここを守って果てた冒 険者か自警団のものだろう。 奏のソナー魔術があれば魔物を探すのも楽なのだが、魔力が欠乏 状態の彼女にそれをねだるのは忍びない。 ﹁太一。⋮⋮あっち﹂ じゃあ自分が気配を探ろう。そう思ったところで、奏から指示が 出た。 額に脂汗を滲ませ、街の奥の方を指差す奏。 ﹁無茶すんなよ﹂ ﹁⋮⋮平気﹂ 627 荒い呼吸で良く言う。 しかし、文句は後でいい。奏に頷き、示された方へと歩き出す。 歩ける、とごちる奏に有無を言わさず肩を貸し、五分程。探らな くても届く濃密な気配が太一の肌を刺した。 立ち込める煙の先、見えたのは娼館。数十からなる魔物がそこを 取り囲んでいる。それに遮られて見えないが、奥から聞こえる人の 怒声が、戦闘中であることを表している。 奏に肩を貸したままだが、見る限り問題がある相手ではなさそう だ。幸運だ。 慌てて割って入る必要はない。別に呑気な訳ではない。それより も効率のいい手段を取ることができるからだ。その方法なら、指先 すら動かす必要がない。 八〇の強化を施し、その状態で遠慮も手加減もせずに魔物を睨み 付けた。 まるで再生中の映像を一時停止したかのように、一匹残らず魔物 たちは固まった。 ﹁よしOK﹂ ﹁圧巻だね⋮⋮﹂ こうなると分かってはいたが、いとも容易くやられると、苦笑い するしかない。奏がこの魔物たちを駆除しようと思ったら、もっと 時間と手間がかかる。抵抗してる人たちを巻き込まないように、と か、娼館に流れ弾がいかないように、とか。 太一と奏は、動けなくなった魔物たちの間を悠々と歩く。間近で 太一に重圧を与えられた魔物はブルブルとかわいそうなほど震えて いる。同情の余地などありはしないが。 魔物たちの向こう。急に止まった敵の集団に、とまどっている武 器を持った人々。彼等がユーラフの防衛隊。その中には、見知った 顔が三人。 628 バラダー、ラケルタ、メヒリャだ。別れてから彼らはまだこの街 に留まっていたらしい。 ﹁⋮⋮ボーズ、か?﹂ ﹁おう、オッサン﹂ ひょい、と空いている手を挙げる太一。横にいたラケルタがこち らから目をそらした。相変わらず表情の変わらないメヒリャ。 ﹁⋮⋮どうして⋮⋮ここに?﹂ ﹁どうしてって、ユーラフの援軍に﹂ 無表情なだけで驚いてはいるらしい。メヒリャの声色には驚愕が 多分に含まれていた。 ﹁そいつあありがてえが⋮⋮アズパイアはどうしたんだ?﹂ アズパイアは更に深刻だという情報は入っている。 太一は奏を適当な石に座らせる。 ﹁ああ。終わった﹂ ﹁なん、だと?﹂ ﹁全部片付けた。だからここに来れた﹂ ﹁全部⋮⋮?﹂ 信じられない、というメヒリャ。太一はあえて答えずに、魔物た ちに向き直った。 ﹁こいつらも俺が片付ける﹂ ﹁片付けるっておめえ﹂ 629 バラダーが何か言い終える前に太一が消え、同時に血飛沫が舞う。 およそ三分の一を一瞬で切り伏せた太一が、再び同じ場所に戻って きた。 どさどさ、と魔物が倒れる音は、太一が戻ってきてから発生した。 一瞬。相手が動かないとは言え、瞬き一つ二つの時間で稼げる戦 果ではない。 ﹁は⋮⋮?﹂ 驚くバラダーら冒険者たちを尻目に、太一は面倒そうだ。彼から すれば、早く動けるだけで、一匹一匹切り伏せる手間は変わらない。 かといってエアリィの術は強すぎて使えない。いくら廃墟と化して いるとはいえ、壊していいという免罪符にはならない。 かかった時間は大したことないとはいえ、全ての魔物を切り捨て る手間を要した太一だった。 ◇◇◇◇◇ ユーラフに侵入した魔物は、太一が切り捨てた群れで最後だった と、メヒリャから聞いた。 どうやらユーラフも救えたようだ。被害は少なくなく、犠牲者も 630 かなり出たようだが。人をたくさん収容可能な娼館と冒険者ギルド にユーラフの住人は避難したらしい。戦いの最中、住人をギルドか ら娼館にうつす時、冒険者ギルドが囮になったという。冒険者では 既に全滅しているとのことだ。 何にしても、救えただけマシだろう。出来れば、ベッドに横たわ る目の前の女性も救いたかったが。 ﹁⋮⋮坊や⋮⋮来たのね⋮⋮﹂ ロゼッタが苦しげに呟く。 娼館に入った太一を見た若い娼婦の娘が、挨拶もそこそこに太一 の手を引いてここまで連れてきたのだ。 ロゼッタの脇腹は真っ赤に染まっている。ここで働く娘を魔物か ら庇った際に負った傷とのことだ。 ﹁ロゼッタさん﹂ 弱々しく笑う、目の前の女性。まさか、こんな形で再会すること になろうとは。 彼女の周囲に集まった女性たちがすすり泣いている。 ﹁ふふ⋮⋮その子が、カナデちゃんね⋮⋮﹂ 太一の横に立つ奏に、ロゼッタは慈しむような目を向けた。 ﹁可愛い⋮⋮子じゃない⋮⋮。ちゃんと、伝えられたの⋮⋮?﹂ ﹁ああ。伝えたよ﹂ ﹁そう⋮⋮﹂ ロゼッタが手を伸ばす。が、その手は途中まで上がり、そこで力 631 無く落ちた。その手を、太一が辛うじて受け止める。 ﹁いい子いい子⋮⋮してあげようと、思ったのに⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮っ。無理すんなよ。喋っちゃダメだ﹂ 太一の手を、ロゼッタが弱々しく握ってきた。なんと華奢な手。 それでも、太一より数段強い女性。 ﹁いい、坊や⋮⋮カナデちゃんも⋮⋮﹂ ﹁ん﹂ ﹁⋮⋮はい﹂ ﹁恋愛ってのはね⋮⋮そんなに、キレイじゃないのよ⋮⋮?﹂ ロゼッタが何かを教えてくれるようだ。 治ってからでいい、というのは、空気が読めていないだろうか。 ﹁無様に⋮⋮情けなく⋮⋮、惨めな思いを、して⋮⋮それでも、相 手を⋮⋮想うと幸せになれる⋮⋮﹂ 痛みからだろう、秀麗な眉がひそめられる。 ﹁それが⋮⋮恋愛⋮⋮。周りから見るとね⋮⋮とても⋮⋮カッコ悪 いの⋮⋮﹂ 正解か不正解かはどうでもいい。ロゼッタの教えなら、素直に受 け止められる。 ﹁でも、一人じゃないから⋮⋮乗り越えられる⋮⋮だから⋮⋮恋愛 はステキなのよ⋮⋮﹂ ﹁分かった。分かったから、もう喋るなよ!﹂ 632 人を虜にしてしまう笑みを、ロゼッタが浮かべた。 ﹁いい⋮⋮お互いが、お互いを⋮⋮精一杯⋮⋮思いやること⋮⋮。 これが、私が言える、最後の言葉よ⋮⋮﹂ ﹁最後なんて言うなよ。もっと相談に乗ってくれよ﹂ ﹁仲良く⋮⋮するのよ⋮⋮?﹂ ロゼッタが目を閉じる。 おかしい。瞬きではない。 何故だ。 何故こんなことになる。 周囲の女性たちの泣き声が一層大きくなる。ふと、奏が太一の服 を掴んだ。その手は、震えている。 ﹁くそっ!﹂ ロゼッタの手を握る。 こんな結末を受け入れられるはずがない。 何のための力なんだ。その自答に応える者はいない。 すすり泣きだけが響くなか、太一はロゼッタの顔を見詰めた。 そして、違和感に気付く。 何故彼女の胸は上下しているのか。 ﹁ん⋮⋮?﹂ 太一は彼女の口元に耳を寄せた。 くう⋮⋮ 633 すう⋮⋮ ﹁これは⋮⋮﹂ 顔を上げる太一。 目を丸くした女性陣と向き合う。 ﹁寝てんぞ⋮⋮この人⋮⋮﹂ 太一の言葉を理解するのにかかったのは十数秒。ずっと泣いてい た一人が、思い出したように言った。 ﹁そういえば⋮⋮私たちを守るために⋮⋮この人、寝てなかった⋮ ⋮﹂ 太一はへなへなとその場に崩れる。もちろん、彼だけではない。 部屋にいた全員が。 ﹁ひ、人騒がせな⋮⋮﹂ ﹁あ、あはは⋮⋮﹂ 乾いた笑いが部屋に響く。 だがそれは、とても幸せなものだった。極大の悲しみに包まれた ぶん、より大きな。 太一と奏は顔を見合わせる。そして、どちらともなく笑った。 一〇〇〇を超える魔物に対し、一五〇人にも満たない冒険者で見 事打ち勝った。 その数は、容易く覆せるものではない。 誰が立役者となったのか。当然とも言えるその疑問は、様々な者 634 が動き出す切っ掛けとなる。 アズパイア防衛戦は、水面下で新たな煙を発しながら、幕を下ろ したのだった。 635 第二章エピローグ︵後書き︶ ロゼッタさんは退場させようか迷いましたが、お気に入りなので出 てもらうことにしました。 ラストシーンは某映画のオマージュです。 分かりやすいですね︵笑︶ これから三章のプロットの確認に入ります。 済み次第、執筆再開致します。 読んでくださってありがとうございました。 636 開幕︵前書き︶ 三章更新始めます。 637 開幕 人はとてもたくましい。 地球にいた頃から、そう思わせられる事は何度かあった。大半は、 それを授業などで追体験するのみだったが。 国を窮地に陥れる大災害。 多数の国を巻き込んだ戦争。 そんなものが軽微な損害で済む筈がない。大抵は命と経済の双方 に甚大な被害を引き起こす。 その度に立ち直ってきたからこそ、今日の国際社会があると言っ ていいだろう。 世界が違えど、それはアズパイアとユーラフにも当てはまる。 魔物大侵攻から三週間。アズパイアとユーラフの人々はいつもの 暮らしを取り戻していた。 アズパイアは街への侵入を防げたためそこまで大きな影響はない。 せいぜい商店から品物が減ったことと、医療従事者がしばらくてん てこ舞いだった程度。一〇〇〇を超える魔物に襲われてそれで済ん だというべきだろう。 しかしユーラフはそうはいかない。建物の全壊が三割、半壊が五 割という散々な状況。再建するにも多大な時間を要するというのが 調査の結果。生き残った人々はアズパイアに一旦居を移すことを余 儀無くされた。 それに困ったのはアズパイア。三桁の人間を一時的ではなくある 程度の期間受け入れるには、住居が足りなかったのだ。もちろん冒 険者や商隊が一挙に押し寄せることはある。それでもそうそう長期 滞在はしない。 太一ら三人は宿を引き払い部屋を空けたが、それも微々たる効果。 住む場所が無いからと路頭に放り出すわけにもいかず、今は応急 措置として居候を受け入れてもいい、という民家に世話になってい 638 る状態だ。 生活費などはどうするのか、その辺の補償をしたいと譲らないユ ーラフの長が、アズパイアの行政と詳細を詰めている事だろう。そ れも杞憂に終わりそうだが。 前述の有志は完全なる厚意である。 アズパイアは運良く助かった。太一と奏がいなければ共倒れだっ たことを考えれば、家が、街が無傷で残っているのは幸運。生活費 は家事や仕事を手伝ってもらえばそれでよい。 そう考える者が多いのが事実。持ちつ持たれつ助け合いの精神が 強い、というのが、太一と奏の印象だった。 太一一行はレミーアの家に戻っている。ここを本拠とするか、落 ち着いたらアズパイアに戻るかは未知数。力を隠す必要が無くなっ た以上、街へ行くのに遠慮無く強化ができる。途中休憩を挟んでも 馬車より少し時間がかかる程度。 この世界にはバスやタクシーのような便利な移動ツールは殆どな く、その生活にも慣れてきた太一も奏も、特に不自由を感じていな い。 良く晴れた青空の下、太一は広がる地平線を手頃な石に座って眺 めていた。 極彩色の蝶は、動かない太一を枝か何かと勘違いしたのか、その 鼻先に止まる。そよ風が太一と髪と蝶の羽を揺らした。蝶はしばら くそこで羽休めした後、再び空へ飛び立った。 間違えそうだが、太一はただぼんやりしているわけではない。 彼が見ているもの、それは契約を交わしたパートナーだ。 数千年という悠久を過ごした四大精霊シルフの代弁者。 風の上級精霊、エアリィことエアリアル。 何もないように思える空間。しかしそこには確かにいる。 ﹃たいち。大分上手くなったね﹄ ﹃そうか?﹄ 639 声には出さず、心で思う。そしてそれを、相手に伝える。 以心伝心。 テレパシー。 そんな形容詞ならばしっくりくるだろうか。 エアリィは太一をそう褒めるが、それほどではない、というのが 本人の評価。 なんせ凄まじい集中が必要なのだ。寄ってきた蝶が、太一に止ま るほど無防備に。 声に出すよりも思ったことがそのままに伝わる方が早い。 そう至った理由として、常にエアリィを具現化させておくわけに はいかないからだ。 エアリィは﹁他人に姿を見えないようにすることも、声を聞こえ ないようにすることも可能﹂と言った。その辺りの匙加減は召喚術 師次第だと。 考え方は至極シンプル。他人に姿を見せたいか否か。声を聞かせ たいか否か。その二つに集約されるというのだ。基本的に自分だけ に見えて、自分だけ聞ければいいと思った太一は、その辺りの訓練 を積むことにしたのだ。もちろん得られる恩恵はそれだけではない。 エアリィとの意思疏通がスムーズになることで、より絆が深まる。 エアリィから力を借りるのだから、絆は深いに越したことはない。 今エアリィを捉えられるのは太一のみ。やがてこれが息をするよ うに可能になれば。それが二人の目指すゴールだ。 これ以外にも訓練メニューはある。魔力強化一〇〇の時の効率化。 エアリィを介した風魔法の習熟。 一〇〇の強化は、流石の太一と言えどそうそう長時間は出来ない ことが、あの日判明した。翌日の疲労感は半端なものではなく、奏 とミューラに本気で心配されてしまったのだ。魔力の消費を減らす より、必要な時に必要なところだけ強化する場所を切り替える。そ れが最も良いとレミーアからアドバイスされた。一〇〇の強化を施 640 した時の太一のスピードは尋常ではないため、素早さと的確さとい う相反する要素を両立という離れ業に挑戦中だ。 風魔法の習熟については、やりたいことによってエアリィに渡す 魔力の量、強さを調節することで、意図に沿った魔法を行使するの が目的だ。対レッドオーガ戦で放った魔法のどれもが、威力過多だ ったとレミーアの指摘に則ったのだ。バリエーションそのものは少 ない。突風と風の刃。せいぜいがそんなものだ。その両方に必殺の 威力を持たせるのは容易いため、そこまで問題ではないのだが。 そして、今丁度行っているエアリィとの絆強化。結局魔法を使う のはエアリィだ。太一は彼女に魔力を渡すだけ。自分で練り上げた 魔力を使い、自分で魔術を使う奏やレミーア、ミューラとは毛色が 違う。太一の意志をエアリィが正確に汲めるように。また太一も、 自身の描いたイメージを正確にエアリィに渡せるように。 こうして修行を始めてからはや二週間。あの面倒臭がりな太一が、 自主的に訓練を積んでいる。太一を知る人物が久々に彼を見れば、 漏れなく驚くだろう。太一が﹁少し変わった﹂と気付いた奏を除い て。 その理由は、やはり魔物襲撃がきっかけだ。数十人からの冒険者 が、アズパイアを守って散った。ユーラフが半壊した。ミューラが、 ロゼッタが、重傷を負った。もちろんそれらは太一のせいではない。 しかし、太一が死に怯えて戦うのを躊躇わなければ。いや、もっ と言えば力の露呈を恐れなければ。防げた被害があったかもしれな い。 たらればなんてのは後の祭り。かつて奏はそう言った。その通り だと思う。 だから、今後起こるかも知れない先の祭りに備えて、自分の実力 を昇華する。最強とか、そういうのはどうでもいい。せめて、目に 映る範囲くらいは守れる力を。 内に秘めるこの決心は誰にも明かしていない。ただ、修行をする、 とだけ。 641 太一は息を吐いて立ち上がる。修行の終わりには、景気付けする ようにしている。エアリィが具現化した。 ﹁エアリィ﹂ ﹁うん﹂ まだ半端な習熟でしかない以心伝心は使わず、言葉でやり取りを する。 風を右手に集めて密度を高くする。 エアリィが撃つのではなく、あたかも太一が撃つようにみせられ ることも、修行をしたからこそ分かった。 狙いは地平線からやや空へ角度をつけた空間へ。射程距離は恐ら く三〇〇メートル。射線上を無差別に凪ぎ払う風の弾丸。 ﹁行け﹂ 強い風が吹き荒んだ時の、独特の音を響かせて、見えない弾丸が 飛んでいく。辺りの草を引っこ抜くかという余波を撒き散らす。太 一が放った弾丸の壮絶さの表れだ。これで二割程度の力の入れ具合 だ。五階建て程度の鉄筋コンクリートのビルなら一撃で破壊する威 力がある。魔力強化でも可能だが、威力は比べるべくもない。更に 遠距離攻撃、という点が大きい。魔力強化だけなら、当然近付かな ければならないが、エアリィを介した魔法なら、近づく必要がない。 問題はべらぼうに高い威力。きちんと扱わないと、敵はもちろん 味方もまとめてやっつけてしまう。一般的な魔術師諸兄にとっては 贅沢極まりない悩みだ。 ﹁人に向けて撃てねえなあ﹂ 並の相手なら遥か彼方まで吹っ飛ばしてしまう。いや、それ以前 642 にぺしゃんこにしてしまいかねない。 自分で放っておきながらその威力にしばらく呆れ。 ﹁ミューラ﹂ 周囲を一切確認せずそう口にした。 ﹁やっぱりダメね﹂ かさりと草が鳴り、エルフの少女が姿を見せた。 少し悔しげに。そして、握っていた剣の柄からゆっくり手を離し た。 ﹁いつから気付いてたの?﹂ 太一に歩み寄り、そう尋ねる。 特に間を置かず、淡々と、 ﹁ミューラが柄に手をかけたとき﹂ そう答えた。 その解答にミューラは苦そうに笑った。 ﹁じゃあそれまでは気付いてなかった?﹂ ﹁そうだなあ﹂ ミューラが剣を握った瞬間。チリ、とひりつく何かが微かに太一 に届いた。鋭いそれは、何度となく感じたことのある気配。 背中を預ける仲間のものだと、太一は気付いた。外れたらカッコ 悪いなあ、と、内心それなりにドキドキしていたのは彼だけの秘密 643 だ。 ﹁悔しいなあもう﹂ ﹁俺の気配探知も鋭くなったからな﹂ ﹁そうみたいね。修行は終わった?﹂ ﹁ああ。ちょうどな。ミューラの方は済んだのか﹂ 頷いて、視線を配らせる。岩の上に置かれた紙袋が一つ。欲しい ものは無事買えたらしい。 太一らが圧倒的な力を示したことで、また、あの魔物襲撃が引き 金となり、アズパイアにいる冒険者たちがかなり元気だという。減 りが遅く、なかなか下地が見えてこなかった掲示板の依頼が、怒濤 のペースで消化されているらしい。 現時点ではそれなりに蓄えもあり、冒険者たちがせっかく気合い が入っているならと、依頼を受けるのを一時中断していたのだ。そ ろそろ再開するか、という話になったのは今朝のこと。ちょうどア ズパイアに買い物にいく予定だったミューラがついでということで 見に行ったのだ。 ﹁なんかめぼしいのあった?﹂ ﹁ええ。受けてきたけれど、構わないわよね?﹂ 腰のポーチから折り畳まれた紙を取り出してひらひらさせるミュ ーラ。 太一はそれに一も二もなく頷く。自分の代わりに云ってもらった のだから、ミューラの判断に否やはない。 早速奏にも知らせて、出発することにした。 644 ◇◇◇◇◇ 微風と草の音が耳に届く草原に、五台の馬車が停まっていた。五 台とも、馬車としての平均を上回っている。とても大きくて立派。 見るからに頑強そうなその五台は、馬車を使用した商売を営む者な ら誰もが羨むだろう。 その内の一台。豪奢さでは他の追随を許さない馬車が、一〇人か らの武装した男たちに囲まれている。この言葉だと勘違いしそうだ が、問題はない。男たちは全員馬車に背を向けて武器を構えている からだ。彼らは護衛なのだろう。馬車を守るように展開していた。 ﹁何か変化はあったか?﹂ ﹁いえ! あれ以来何もございません!﹂ ﹁そうか﹂ 馬車の中から聞こえた威厳のある声に、若い男が素早く応える。 その問い掛けの原因となった出来事を思い返す。 あの時、凄まじい魔力の奔流とともに、大気が震動した。馬車が ビリビリと震えるほどの威力。 何者かが何らかの術を行使したのだろう。それがどのような術な のか。少なくとも、自分たちに向けられれば防ぎようがないほどの 威力だと分かる。何せ目に映る範囲には人っ子一人いないのだ。 かなり離れているにも関わらず、術の行使を察知できる。どれほ どの術者だというのだろうか。 645 ひたすら周囲を警戒したまま、二〇分が経った。 その間、何一つ変化は起きない。 ﹁もういいでしょう。出発しましょう﹂ ﹁殿下﹂ 鈴のような、しかし凛とした少女の声が馬車から外に向けられる。 ﹁ここであまり時間を取られる訳には参りません。周囲の警戒は怠 らずに、少しでも進みましょう﹂ ﹁⋮⋮仰せのままに﹂ 自身の考えを押し込み、少女の言葉に従う、重たい声の持ち主。 それから三分も経たずに、馬車は再び動き出す。 馬の鼻を辿った先にあるのはアズパイア。 新たな幕が上がる。 646 開幕︵後書き︶ 書き上げ↓即更新 のスタイルで行きます。 読んでくださってありがとうございます。 647 指名︵前書き︶ 始業前更新間に合いました︵笑︶ 648 指名 アズパイアに流布する噂は、一向に収まる気配がない。 何でも、首都ウェネーフィクスが閉鎖されて一ヶ月だと。最初は、 商人たちの間でのみ流れる噂だった。実際にはもっと前からその情 報は届いていたのだが、混乱を招くと判断され、表沙汰にはならな いようにしていた。 商人たちがそこまで深いルールを設けずに決めたこと。明確な統 制のもと行われた情報規制ではないため、漏洩も仕方がないだろう。 人伝にその話を耳にした噂好きの旅人が、酒場で何気無く漏らした。 本人は単なる酒の肴のつもりだ。 横で聞いていた者を防ぐことなど出来ない。 その噂に興味があってもなくても、かなりの人物がそれを知るこ ととなった。 興味がない者にとっては、それを聞いたとて﹁ふーん﹂という感 じである。太一と奏、ミューラはそちら側だ。 その噂は当然ながら依頼成功に一役買うわけではない。商人なら ともかく、ただの冒険者だと思っている三人は、今この瞬間、ウェ ネーフィクスの噂の事は完全に忘れていた。どうでもいいが、三人 を普通と呼んでいいかは甚だ疑問である。 ﹁ちょ! 動くなよ!﹂ ﹁あのねえ! タイチがこの吊り橋は平気だー、なんて言ったんで しょう!?﹂ ﹁喧嘩してる場合じゃないって!﹂ レッドオーガ︵ばけもの︶を圧倒した太一と。 一四〇もの魔物を一撃で倒した奏と。 一人で並の冒険者数十人分の戦力であるミューラが。 649 吊り橋一本に翻弄されていた。 ゆらゆら揺れる吊り橋のロープは、着古した布のように至るとこ ろで解れている。何故大丈夫と思ったのか。当時の自分を問い詰め てみたいと本気で思う太一。 頼りないロープに掴まる三人がいるのは、吊り橋のほぼ真ん中。 動いたら壊れてしまいそうで進むに進めず戻るに戻れず、進退窮ま ってから三分が経過。カップラーメンが作れる、と一瞬だけ呑気な ことを考えて。 吊り橋の現状に否応なく直面させられる。雨風にさらされたまま、 長いこと放置されていたと思われる吊り橋。いつ作られたのかすら 定かではない。昔は使われていた道なのだろう、吊り橋の両端には、 道らしきものが森の中へ伸びている。しかし、その道は長くは続か ない。来たときもそうだが、その先は鬱蒼としげる下生えに覆われ ているのだ。道なき道を歩いて、ふと目に入ってきたのが、今三人 がいる吊り橋だった。端から端までは目測で凡そ三〇メートル。今 思えば、幅跳びで越えることは十分可能だっただろう。一人なら抱 えて越えることも難しくない。ピストン輸送すればいいだけだった のだ。 ばきりと音が鳴り、そちらを見ると、傷んだ吊り橋の床が破片を 撒き散らしながら落ちて行く。高さはおよそ二〇メートル。この程 度の高さで怪我をするような者はこの場にはいないが、だから落ち ていい、というわけではない。下を流れるのは川。落ちてから、戻 るまでが面倒だ。 さてどうするか。一人一人渡ればいいだろうか。打開策を考えて いると、不吉な音が耳に届く。ぴりぴりと、紙でも破くような音。 吊り橋のロープが、目に見えて細くなっていく。長いこと手入れさ れずに傷んでいたところへ、三人の体重という負荷。内二人は細身 の少女、というのは何の関係もない。誰が乗ったって、落ちる運命 だったのだろう。 650 ﹁奏。ミューラ﹂ ﹁⋮⋮そうね﹂ ﹁急いだ方が、よさそうだね﹂ 同じくカウントダウンを眺めていた二人が、太一の言葉を正確に 汲み取った。 ﹁走れええ!﹂ 太一の声をスタートの合図に、弾かれたように駆け出す奏とミュ ーラ。 衝撃が吊り橋へのダメージ蓄積を加速する。見る間に解れたロー プが、ついに千切れた。吊り橋が真ん中付近から落ち始めるのと、 三人が対岸へたどり着いたのはほぼ同時だった。 しっかりとした大地に身を投げる。太一は大の字になって寝転が り、奏はへなへなとその場に崩れ落ち、ミューラは手頃な木に寄り かかってずるずると落ちた。 共通しているのは三人とも息が荒いこと。この程度で疲れるほど やわな実力ではない。しかしそれでも、手に汗握る瞬間を味わって、 身体が自然にこんな反応を示したのだ。 流し目で谷を見れば、吊り橋はすっかり落ちてしまっていた。こ れは掛け直すのは手間だろう。そもそも、こんな場所の吊り橋を誰 が使うと言うのか。太一たちだって、依頼でなければこんな場所に は来なかった。 ﹁ふー⋮⋮﹂ 息を大きく吐いて身体を起こす。 同じく落ち着いて来たらしい二人に、太一は言った。 651 ﹁帰りは抱えて跳ぶしかないな﹂ うっ、と何かを喉に詰まらせたような反応をする奏とミューラ。 複雑な気持ちを抱えることになった。 いや、仕方ないことではある。ミューラはこの谷を飛び越えるの は難しいし、奏にも出来るかは未知数。だが太一なら確実に出来る。 確実に出来るならそうするべきだ。失敗しても怪我はしないだろう が、リカバリーが面倒。そもそもそういうのは修行の時間を設ける ものだ。 太一とて可愛い、という言葉では陳腐になるレベルの少女を二度 も抱えなければならず、葛藤はある。戦闘中のように切迫している わけではないから尚更だ。 奏とミューラが黙ったことを肯定と受け取り、太一は尻の砂を払 って立ち上がった。そして、行く手を見上げる。北の森をほぼ縦断 しきった。視界を塞ぐのは、頂点に厚い雲の帽子をかぶった巨大な 山脈。この先の森を少し歩けば、じきに草原になるだろう。草原を 更に大人の足で一時間弱北上すれば、そこはもう山の麓だ。太一た ちが向かうのはその山を少し登ったところ。そこに根をおろす月見 の花だ。 目的地まではもう少し。着いてからすぐに見付かるかは分からな いものを探さなくてはならないのだ。ぼやぼやしている時間が惜し い。 ﹁よし。行こうか﹂ ﹁ええ﹂ ﹁うん、行こう﹂ 三人は山を目指して進んでいく。 難しい依頼ではない。 そう思えるのはごく一部の上位冒険者だけであると、三人はつい 652 に気付かないのだった。 ◇◇◇◇◇ ﹁はい。これ﹂ ﹁ありがとー!!﹂ しゃがむミューラの前には、最大級の笑みを浮かべた女の子。年 の頃は五歳か六歳というところか。ミューラが手渡した月見の花を 両手に抱え、とても嬉しそうにしている。 アズパイアを夕焼けがオレンジに染める。まさか日帰りで北の森 を縦断出来るとは思っていなかった。脇目をふらず突き進むことに 主眼を置くと、森でも草原を歩くのと変わらない。大きな収穫であ る。 とはいえ苦労がなかった訳ではない。あの吊り橋事故もそうだし、 登山中に足を滑らせたミューラの頭突きが太一の顎を撃ち抜いて二 人で目を回したり、飛んできた一見綺麗な蝶が実は毒持ちで、奏が 危うく錯乱仕掛けたり。はたから見ればコントのような出来事ばか りだったが、本人たちにとってはたまったものではない。 道中含め、北の山脈が危険地帯であると思い知りつつ、探し物自 体は滞りなく進んだ。 そんな感想も、実に些細だと思う。目の前の少女が浮かべる、屈 653 託のない満面の笑みを見れば。 ﹁じゃあ、これで依頼は達成ね?﹂ ﹁うん!﹂ そう元気よく答えて、女の子はごそごそとポケットを探る。差し 出された小さな掌に載っているのは、黄褐色の綺麗な石。 ﹁綺麗ね﹂ ﹁琥珀⋮⋮﹂ ぽつりと奏が呟いた。女の子はこれが何かは分かっていないだろ う。恐らくは綺麗だからという理由で拾った、彼女の宝物だ。 ﹁これ、ほーしゅー!﹂ 舌っ足らずな声でそう告げる女の子。ミューラは目を丸くしてい た。ミューラとしては、対価を受け取る気は無かったのだ。ただ泣 いていたこの子が言った、お母さんの病気を治して、という願いを 聞き届けた。それだけなのだから。 しかし女の子は報酬、と言った。こんな小さい子ですら、冒険者 に頼み事をするには何かを払わなければならないと知っている。で あれば、受け取るべきなのだろう。彼女なりの誠意の表れだから。 ﹁ええ。確かに受け取ったわ﹂ その小さな手を包むようにして、ミューラは琥珀を受け取った。 これがあれば、病気が治らないという彼女の母もだいぶ良くなるだ ろう。この月見の花を、正しく使用できれば、だが。 その手を取ったまま立ち上がる。﹁?﹂と顔に出した女の子に、 654 ミューラは微笑みかけた。 ﹁送っていくわ。もう暗くなっちゃうからね﹂ ﹁えー! わたし一人でもかえれるよぉ!﹂ 子供扱いはやはり嫌らしい。だから、切り返しも用意してあった。 ﹁お姉ちゃんたちがもう少し一緒にいたいの。だめ?﹂ ﹁しょーがないなー﹂ と言いながら、スキップをしてミューラを引っ張る女の子。上手 くいったらしい。 太一と奏は顔を見合わせ苦笑する。乗り掛かった船なら最後まで。 年の離れた姉妹のような二人を、太一と奏は追った。 結局ミューラが月見の花から薬を精製するところまで面倒見た。 月見の花の存在すら一般的に知られていないのに、使用法が出回っ ているはずがない。 ﹁いいとこあんなあ、ミューラ﹂ ﹁⋮⋮ふん﹂ 素っ気ない返事は照れ隠し。 アズパイアに戻ってギルドに寄ろうとしないミューラに問うと、 ギルドを通さずに依頼を受けたらしい。クライアントは誰なのか、 とついていけば、あの小さな女の子だった。因みに太一たちを指名 して同じ依頼をした場合、成功報酬はかなりのものになる。依頼主 を明かさずに依頼内容をジェラード辺りが聞いたなら一人頭五〇万 ゴールド、三人で一五〇万ゴールドと言ったことだろう。 かなり儲けることも可能だったが、この結末に太一も奏も一切不 満はない。あの嬉しそうな笑顔を見れば、それだけで生きる活力が 655 出てくる。 そもそも、あんな小さな子どもからお金をせびりたくはない。お 金など持っているはずがないのだから。 月見の花。花から成分を抽出し、茎を煎じて混ぜたエキスは、万 病に効果のある薬。完治はしないが、大分容態は安定するという。 北の森を抜けた先の山に生えることは、殆どの者が知らない。ミュ ーラが偶然知っていたのも、レミーアの家の文献を読んでいたから だ。言うなれば劣化万能薬。しかしお値段も高く、一株あたり時価 一〇〇万ゴールドほど。買った方が安い。 なにはともあれ、これで依頼は成功である。 旨い飯でも食べて、宿をとるかレミーアの家に戻るか。どちらに しても、これで一日は終わる。そう思っていた三人の背中に。 ﹁月見の花を製薬までボランティアか。大盤振る舞いだな﹂ 声が届いた。 特別な気配があったわけではない。数多ある気配の一つ。それが 声をかけてきただけだ。故に声をかけられるまで気付かなかった。 振り返ると、青年が立っていた。太一たちより一〇は上だろうか。 ﹁誰よ﹂ その青年は明らかにこちらに声をかけてきている。月見の花、と 言ったのだから。その言葉そのものは、喧騒に紛れ、他の人びとに は聞こえていないだろう。賑やかな夕暮れ時の雑踏の一部だ。 ミューラの言葉に、青年は表情を変えない。 ﹁用件を伝えにきた﹂ ﹁用件?﹂ 656 踵を返す青年。右足を一歩出し、立ち止まる。 ﹁冒険者ギルドに、お前たちを待っている御方がおられる﹂ ﹁え?﹂ 青年は振り返らない。 ﹁事前に連絡をしなかったのはこちらの落ち度だが、とはいえあま り待たせて良い御方でもない。なるべく早く、ギルドへ向かえ﹂ 伝えるべき事は伝えたと背中で語り、青年は歩き出した。 彼の後ろ姿を見送って、太一たちは顔を見合わせた。誰がが待っ ている。その人をあまり待たせるのは良くない。 そのキーワードから想像できるのは、かなり身分が高いというこ と。 そんな人と会う理由が分からない。しかしくだんの人物は既にア ズパイアにいる。 ならば、会いに行った方がいいのだろう。疑問は全く解決しない が、三人はギルドに向かうことにした。 657 指名︵後書き︶ 次、例の﹁殿下﹂が登場します。 読んでくださってありがとうございます。 7月13日改稿しました。 658 邂逅︵前書き︶ 殿下のお名前判明。 659 邂逅 ここからギルドまではそう遠くはない。数分で到着出来るだろう。 人々の合間を縫って歩く。見知った顔と何度もすれ違った。アズ パイアを拠点にして随分たつ。知己もそれなりに増えたのだ。 歩きながら耳に入る声の中には、ちらほらとギルドに停まってい る馬車の話があった。何でも有り得ないほどに立派だと。その辺の 田舎貴族が使う馬車と比べても、雲泥の差だと。 話を聞く限り考えうるのは、相当に位の高い人物が待っていると いうこと。 あまり待たせていい御方ではない︱︱︱そう言っていた青年の言 葉は、決して大袈裟ではなかったのだと思える。 それが予想から確信に変わったのは、実物を目にしてからだ。 まるで冗談のような立派さだ。 金銀などの装飾物に彩られているわけではない。アクセントに使 われている位で、それらが自己主張しているわけではない。むしろ、 そんなものに頼るのは無粋だといわんばかり。取れているのは調和。 宝石貴金属は飾りだと言外に告げている。そう思わせる一番の理由 は、馬車全体から滲み出す威厳だ。これ見よがしに見せつけるわけ でもなければ、声高に訴えることもない。ただ、そこにあるだけ。 これは心する必要がある、と三人は身構える。物珍しげに、しか し畏れ多い、という感じで馬車の周囲を囲む群衆の間を抜けて、ギ ルドに入った。 ﹁ああ! タイチさん!﹂ 入るなりこの大声だ。 面食らう太一たちに血相変えて駆け寄ってきたのはマリエだった。 尋常でない慌てっぷりである。 660 ﹁マリエさん。落ち着いて﹂ どうした、と聞こうと思ったが、口を突いたのはその言葉。それ ほどまでに、マリエは冷静さを失っていた。 はあふうとあまり意味をなしていないような深呼吸をして、マリ エは太一の両腕を掴んだ。距離がかなり近い。マリエの整った顔が 目の前にある。 そんなことすら気にならない様子のマリエは、一度大きな動作で 唾を飲み込んだ。 ﹁お⋮⋮﹂ ﹁お?﹂ ﹁王女様が、タイチさんたちに会いたいと⋮⋮!﹂ ﹁おうじょさまあ?﹂ 奏とミューラが目を丸くして固まった。太一の間抜けな鸚鵡返し を茶化さず、マリエが頷く。 ﹁冗談でもなんでもないんですよ!﹂ ﹁いや、俺そんなこと⋮⋮ってひっぱらなくてもいいから!﹂ ﹁いいから早く来てください! カナデさん! ミューラさんも!﹂ ﹁は、はい!﹂ ﹁わ、分かったわ!﹂ マリエの怒濤の勢いに押されて、三人は彼女に連れられてギルド の奥へ進む。案内されたのは見慣れた扉。考えるまでもない、ジェ ラードの執務室だ。 マリエは今までの勢いを押し殺し、一度大きな息を吐いてから扉 をノックした。 661 ﹁誰だ﹂ ジェラードの誰何。 ﹁マリエです。タイチさんたちをお連れしました﹂ ﹁⋮⋮入れ﹂ ﹁失礼します﹂ 先程の慌てっぷりはどこへやら。恭しく扉を開くマリエ。それに 合わせて、視界が広がって行く。 ﹁突然お呼びだてして申し訳ありません。お待ちしておりました﹂ ソファから立ち上がった少女に、太一も、奏も、ミューラも、圧 倒された。 表の馬車の持ち主だと一も二もなく納得できる。凄まじい存在感。 彼女は、本物だ。 悠然と微笑むだけで、ここまでの威厳を見せるとは。 固まる太一たち三人に、ドレスのスカートをつまんで優雅に礼を した。 一朝一夕では身に付かない、高貴な淑女の礼。日本でなら、なり きりコスプレとでも言ったかもしれない。しかし彼女の礼は、そん なにわか仕込みと比べるのは失礼なほど堂に入っている。幼い頃か ら、それこそ物心つく前から叩き込まれた英才教育の賜物だろう。 ﹁御初にお目にかかります。わたしはエリステイン魔法王国第二王 女シャルロット・エリステインと申します﹂ ボリュームあるやや金も混ざった銀色の髪が、彼女の動作に合わ 662 せて揺れた。 ﹁し、シャルロット⋮⋮姫?﹂ ミューラが心底驚いている。 ﹁⋮⋮ご存知なの? ミューラ﹂ 知ってるの? と聞こうとして、奏はギリギリで言い回しを変え た。謎のプレッシャー故だ。 ﹁ご存知も何も⋮⋮シャルロット姫は、エリステインの象徴のよう な御方よ⋮⋮﹂ ミューラはそれきり言葉を詰まらせた。 シャルロットはふわりと笑みを浮かべる。 ﹁親しい者はわたしを﹃シャル﹄と愛称で呼ぶのです。お三方も是 非、愛称でお呼びください﹂ シャルロットでは少々長いですから、とシャルは言った。随分と フレンドリーだ。王族という先入観が覆される気さくさ。だが、彼 女にとってはそれが普通なのだろう。そう言うのに一切ためらいが ない。 なんでだ。太一は素直にそう思った。親しい者が使用する愛称。 知己はなくとも友達の友達をそう呼ぶならまだしも、彼女と太一た ちは初対面からまだ数分だ。まして彼女はこの国の王族。そんな気 安く接していいものか。顔に出してしまっていたのか、シャルロッ トの斜め後ろに控えていた若い男が、重々しく口を開いた。 663 ﹁殿下はお前たちを気遣っておられるのだ。光栄に思うがいい﹂ ﹁⋮⋮﹂ 何故だか、釈然としない。 エリステインの人にとっては、彼女は天上人だろう。それは疑い の余地はない。彼女を敬うのに異論はない。日本でだって、目の前 に突然現れたのが天皇陛下だったなら、きっと敬うだろうから。 頭では理解できるのに。なのに何故、釈然としないのか。その理 由までは分からなかった。 ﹁出すぎるなミゲール﹂ ﹁は⋮⋮しかし﹂ ﹁二度繰り返すつもりは無い﹂ ﹁⋮⋮失礼しました﹂ それを諌めたのは、壮年の男。冷静さと滲み出る苛烈さを兼ね備 えている。やり取りをみるに、ミゲールの上司なのだろう。ミゲー ルはそれきり引き下がった。 細く小さく息を吐き、シャルロットが気を取り直す。 ﹁お見苦しいところをお見せしました。立ち話もなんですので、座 ってお話ししたいのですが﹂ ﹁こちらをお使いください、姫様﹂ 間を置かずにジェラードがソファを薦める。礼を言って腰かける シャルロット。 ﹁お前たちも座れ﹂ ジェラードが振り返り、太一たちに座るよう促す。ここはジェラ 664 ードの執務室だが、彼はシャルロットを優先しているらしい。 シャルロットが腰掛けるソファに座る訳にもいくまい。対面のソ ファは太一たち三人が座れば埋まる。ジェラードは立っているつも りのようだ。 このまま突っ立ったままだと、シャルロットを上から見下ろす形 になる。何となくその位置関係は立場的に落ち着かない。促される まま、太一たちは腰を下ろした。 向き合うと、改めて彼女の纏う空気を直接浴びせられる。慣れな いのは仕方無いだろう。 ﹁本当なら早速本題に入りたいところなのですが、まずはタイチさ ん、カナデさん、お二人に打ち明けなければならないことがありま す﹂ 優雅かつ綺麗な姿勢。まるで等身大の人形のようだ。 いやそれよりも。打ち明けることとはなんだろうか。随分と深刻 そうな表情をしているが。 ﹁まず、わたしの属性ですが⋮⋮わたしは、ユニークマジシャンで す﹂ ユニークマジシャン。属性というか、種類は五つ。精霊魔術師と、 太一の召喚術師。光属性、闇属性、そして、時空属性。 シャルロットは一度目を閉じ、そして開いた。 ﹁ユニークマジシャンとしての属性は⋮⋮時空属性﹂ ざわ、と。太一の心に小さくない波紋が広がる。レミーアが言う には、時空属性には、異なる世界から対象を召喚出来る術式がある のではなかったか。 665 シャルロットは続ける。 ﹁タイチさんとカナデさんは、﹃落葉の魔術師﹄たるレミーア殿に 師事していると報告を受けています。ユニークマジシャンについて も、説明は受けられているでしょう﹂ 報告を受けている? 太一たちの事を調べでもしたのだろうか。 一国の王族が、一冒険者を、何故。 思い当たる節があるのが恨めしい。ふと奏を見れば、その表情が 全てを物語る。太一だけがその予想をしていたわけではないようだ。 ﹁タイチさん。カナデさん﹂ シャルロットが、二人の顔を一度ずつしっかりと見た。 そして。 ﹁お二人をこの世界に召喚したのは、わたしです﹂ ぐっと拳を握るだけで耐えれたのは、予想通りの答えだったから。 彼女が。 この世界に。 自分たちを。 喚んだ。 太一は静かに息を吐いた。 ﹁そうっすか﹂ それだけ。声に感情が乗らないように細心の注意を払った。 ﹁貴様。何と無礼な口の利き方を⋮⋮﹂ 666 ﹁ミゲール﹂ ﹁⋮⋮はっ﹂ ミゲールは、どうやらシャルロットに対する忠誠がかなり篤いよ うだ。今の太一にとっては、鬱陶しいだけだったが。 ﹁もちろん、目的もなく召喚したのではありません﹂ ﹁目的ですか?﹂ この問い掛けは奏。太一と違い、まだ冷静なようだ。メンタルコ ントロールが上手なため、表面に出ないだけかもしれない。内心は、 分からない。 ﹁はい。もう噂ではお耳に入っているかと存じますが、今、ウェネ ーフィクスは⋮⋮いえ、エリステインは危機に陥っています﹂ 恐らく、ウェネーフィクスが閉鎖されている事が絡んでいるのだ ろう。 ﹁二〇年に渡る王家と貴族とのいさかいで、国は疲弊しています。 国外に手出しされるのも時間の問題⋮⋮ですが、我々では最早どう しようもないのです﹂ ミゲールが苦汁をなめたような顔をする。本当に悔しげだ。一体 何に対して悔しさを覚えているかは分からないが。 ﹁それで、俺たちになんとかして欲しい、と?﹂ 重々しく頷くシャルロット。 667 ﹁いくつか、質問があります﹂ 奏が遠慮がちに手を挙げる。どうぞ、とシャルロットが答えたの を待って、口を開いた。 ﹁まず、何故私たちだったんですか?﹂ それは当然の疑問であった。 想定内とばかりに、シャルロットは直ぐ様答えを返す。 ﹁それは召喚魔法陣が決定するのです。わたしがタイチさんとカナ デさんを選んだのではありません﹂ ﹁⋮⋮。二つ目。何故私たちは、魔術が使えたんですか?﹂ ﹁それも、召喚魔法陣が決めたからです。召喚魔法陣は、行使する 者が抱える運命を読み取り、それを解決するために必要な力を持っ た人物を召喚します﹂ ﹁⋮⋮ということは、私たちは無作為に選ばれたんですね?﹂ こくりと、シャルロットが首を縦に振った。 ﹁では、最後です。私たちは﹂ 奏はそこで息をのんだ。口を閉じたり開いたり。聞かなければい けない。しかし、聞きたくない。そんな思いが手に取るように分か る。 そうして数十秒か、或いは数分か。奏が、意を決した。 ﹁⋮⋮私たちは、元の世界に戻れますか?﹂ シャルロットは聡明だ。だから、この質問が来ることなど、分か 668 るはずだ。ならば何故俯くのだろう。何故目を逸らすのだろう。 その行動が、答えだった。 戻れない。 奏がソファに身体を預ける。その手が小刻みに震えていた。 太一は、奏の手を握った。 不思議だ。何故こんなに冷静になれるのか。打ちのめされた奏を 見て、太一の心が冷えきった。 ﹁帰れない、かあ﹂ シャルロットがびくりと動いた。それに気付いたが無視した。 ﹁当たり前っすけど、元の世界には家族もいるし、友達もいるんす よ﹂ 太一は上半身を前に傾ける。その視線を感じてるのか、シャルロ ットは目を伏せたままだ。 ﹁もちろん、向こうに生活がある。俺たちを探して、たぶん大騒ぎ になってる﹂ 太一と彼の家族は時間が合わずにすれ違いが多いが、それは不仲 を意味するわけではない。むしろいい方だろう。 無論奏もだ。彼女だって家族との仲は良好だ。 ずっと、ずっと意図的に考えなかったこと。考えれば、思い出せ ば、折れてしまうから。 しかし突きつけられた現実が、背を向けることを許さない。 ﹁俺たちの世界にはね﹂ 669 太一の言葉は止まらない。 ﹁魔術とかないんすよ。俺たちの世界の人間は特別な力なんて何も 持たない﹂ この世界の人々は、魔術という、特別な力がある。全員ではない が、確かに持っている者が多数いる。 ﹁自分たちの世界で何とかするならいざ知らず、他の世界の力を借 りないとダメなのか。魔術なんて力を持つくせに﹂ どれだけ言葉のナイフで突き刺しただろう。しかし、相手を慮る 余裕はない。 ﹁俺たちね。この世界に着いた瞬間、死にかけました﹂ 思わず、といった言葉に、シャルロットが顔をあげる。そして太 一に射抜かれて固まった。 ﹁腕の立つ冒険者が助けてくれなきゃ。ここのギルドマスターが口 利きしてくれなきゃ。レミーアさんが保護してくれなきゃ。俺たち はこの世界じゃ生きられなかった﹂ 何の力も持たない者を生かすほど、この世界は甘くはない。 ﹁さっき、自分達じゃどうしようもないから俺たちを喚んだと、姫 様は言ったんすよ?﹂ 確かにシャルロットはそう口にした。 670 ﹁そうやってこの世界に喚ばれた俺たちが、何故死にかけなきゃな らない﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁雑すぎるっしょ。扱いが。で、喚んだ張本人と会ったのは二ヶ月 も経ってから? 断りもなしに喚ばれたんすよ? 喚ばれて頼み事 されて、きちんとそれを達成したって帰れないのに、問答無用で。 それどころか、喚ばれた瞬間死ぬ思いまでして。それに対する言い 訳すら、今の今まで一切無い﹂ 何か言ってくるかと思ったが、シャルロットはだんまりだ。その 後ろに控える壮年の男もしかり。ミゲールが、こちらを睨むように 見ていたが。 論外だ。王族がここにいる以上、彼を相手する意味はない。 ﹁姫様の願いを叶えたら、俺たちは用済みすか?﹂ ﹁⋮⋮っ! そんなことはっ!﹂ ﹁じゃあ、何をしてくれるんです?﹂ ﹁それは⋮⋮﹂ 考えていたことを口にしようとして、太一も奏も、そんなことを 望んでいないと気付く。 衣食住の生涯の保証と、一生かかっても使いきれない程の莫大な 報酬。 この世界の住人でない彼等に、それが一体どれだけの価値がある のか。 ﹁⋮⋮元の世界に帰る可能性を探って見付けてみせる、とか。そん な気休めすら、言ってくれないんすね﹂ ﹁あ⋮⋮﹂ ﹁いいっすよ。協力します。何でも言ってください。姫様の願い、 671 叶えるよう、努力するっす﹂ 話は以上。そう言わんばかりに、太一はそれ以上、シャルロット を見ようとしなかった。 奏を促し、立ち上がらせる。 ﹁二日。二日したらまたギルドに来るっす。準備がありますから﹂ ﹁あ、あの⋮⋮っ﹂ 太一はそれきり踵を返し、執務室を出た。 シャルロットのすがるような言葉を、意図的に無視して。 672 邂逅︵後書き︶ 出てきた途端にフルボッコ⋮⋮ プロットとはいえ、不憫な⋮⋮ 愛称は最初﹁シャルル﹂でした。 ISのボクっ子とカブってると気付いたのは一昨日のこと、慌てて 変えました。 そんな経緯もあったりしつつ。 読んでくださってありがとうございます。 673 ミューラさんが無双したようです。︵前書き︶ 難産でした⋮ 全く納得いってないので、書き直すかもしれません 674 ミューラさんが無双したようです。 シャルロットは慌てて手を伸ばす。彼女が立ち上がるのと、二人 が退室したのはほぼ同時だった。 伸ばされた手を嘲笑うように響く、扉が閉まる音。シャルロット の右手が虚しく宙をさ迷う。 しばらく戸を見詰めていたシャルロットだったが、やがて力なく ソファに座り直した。 分かっていたことではあった。太一と奏に、嫌われてしまうと。 召喚魔法が失敗したあの日。シャルロットは慌てて捜索命令を出 した。第二王女という、現存する王族では最も小さい権限しか持た ない中で、それを最大限に使って。 妨害してきた男のせいにするのは簡単だ。むしろ、邪魔さえされ なければ、あの魔法陣に、太一と奏は現れたのだから。 だが喚ばれた本人たちにとっては、そんなことは関係ないだろう。 それなら仕方ない、と大目に見てもらえるようなことではないのだ。 エリステインは狭くはないし、シャルロットの権限も大きくはな い。しかし、彼女が直接命令を下す臣下とあって、それぞれの分野 において精鋭揃いなのは間違いない。一ヶ月もしないうちに国内を しらみ潰しに捜し、見付けられると思っていた。事実それだけの力 量がある者たちだと分かっているから。 だがそんな目論見は捜索開始する前に暗礁に乗り上げた。 臣下の一人が問う。 ﹁して、捜す者の容姿は如何様なのですか?﹂ と。その問い掛けに、シャルロットは答えられなかった。会って すらいない人物の容姿など知るはずがない。何故そんな簡単なこと にすら気付かなかったのか。相当に我を忘れていたらしい。 675 その結果がこれである。シャルロットは細く溜め息をついた。 ジェラードの執務室は、重苦しい雰囲気に包まれていた。 落ち込んだ様子のシャルロット。彼女を見れば、酷ではないかと 思わないでもない。しかし、初めて出来た同年代の友人のため、ミ ューラは言うべきことは言わなければ、と気を引き締めた。 ﹁シャルロット殿下﹂ ﹁⋮⋮なにか?﹂ 顔をあげる王女。他国から﹃朝露の姫君﹄と、その美貌を評され るシャルロット。惜しみ無い賛辞を贈られるにふさわしいと、女の ミューラから見ても思う。少し憔悴してはいるが、それすらも彼女 の美しさを際立たせている。 一瞬呑まれそうになったものの、ミューラは緩みかけた緊張の糸 を結び直した。 ﹁あの二人に何をさせるおつもりなのですか?﹂ 回りくどい言い回しが出来るわけではない。ミューラはストレー トに尋ねた。 ﹁貴様。直接言葉を交わすなど、許されると思っているのか﹂ 途端に声をあげるミゲール。言葉そのものは平坦だが、不快げな 表情を隠そうともしない。それを諌めたのは、シャルロット本人だ った。 ﹁ミゲール。良いのです﹂ ﹁⋮⋮失礼しました﹂ 676 流石に王女本人がそれを了承してしまったら、一兵士である彼も 黙るしかない。 ミューラの言葉を咀嚼した様子のシャルロット。帰ってきたのは ﹁抑止力になって頂こうと思っています﹂だった。 抑止力。即ち二人の力を知っているということだ。 ﹁つまり、殆ど戦うことはない、ということですね?﹂ 確かに太一と奏がいるだけで、大きな力になるだろう。一度人を 傷付けぬように力を振るって、後はその場にいるだけでいい。ミュ ーラが貴族の立場なら、どちらも相手したくはない。死んでも断る。 ともあれそれなら安心だ。戦う必要がないのなら、無闇に人を傷 付けることはないだろう。 しかしシャルロットが続けた言葉が、ミューラの眉をしかめさせ る。 ﹁いえ⋮⋮お二人には最前線に立って頂きたいのです﹂ ﹁え? でも、抑止力と⋮⋮﹂ シャルロットが頷く。 ﹁その通りです。そして、王家に逆らう貴族たちをあまり殺めずに 無力化。これが、あの二人にお願いする依頼となります﹂ 無茶苦茶にも程がある。シャルロットは戦のなんたるかをまるで 分かっていないように見える。 ミューラとて人に語れるほど経験している訳ではないが、殺さず 無力化するのがどれだけ大変かは、盗賊や山賊を相手にして思い知 っている。 それがもし。太一と奏の高い戦闘力だけを見て言っているなら。 677 はっきり言って論外だ。 ﹁失礼ながらお伺いします。それがどれだけ難しいか、殿下はご理 解されているのですか?﹂ 剣を取る者として、魔術を駆る者として。フォローをしておく必 要があるだろう。太一は﹁受ける﹂と言っているしまった。恐らく は頭に血が昇って、勢いで言ったのだ。話を聞いて無理なら、辞退 することも必要だ。ミューラは二人とチームを組んでいるのだから。 ﹁重々、承知しています﹂ シャルロットは力なく笑った。この笑みが自嘲だと、ミューラは 何となく分かった。 ﹁わたしのこの考えを、近衛兵長や騎士団長に相談しました。返事 はどれも﹁困難を極める﹂でした﹂ 首を左右に振るシャルロット。相談したのが彼女でなければ、ま ともに取り合ってさえ貰えなかったことだろう。 ﹁事ここに至って、わたしがどれだけ世間知らずかが分かって来た ところです。そんなつもりはありませんでしたが、持て囃されて自 惚れていたのかもしれません﹂ 自身を省みて反省する。至らぬ自分と向き合い、正直に認めるの は辛いことだ。まして彼女は王女。国を背負う血を持つ彼女が、己 の未熟さを認め、一冒険者でしかないミューラに告白する。それが どれだけ重たいことか。 678 ﹁甘いとは承知しています。ですが、反乱軍とはいえ、元は貴族。 エリステイン王国に貢献してきた者たち。出来れば、更正の機会を 与えたいのです﹂ ﹁それで、無力化なのですね﹂ 自分で甘いと分かっていつつ、困難だとばっさり断じられてなお、 切り捨てる、という考えにはついに至らなかった。シャルロットは そう言っているのだ。 国を背負う者としてはどうなのだ、とも思うが、彼女のような王 族がいてもいいかもしれない。ミューラは素直にそう思った。 シャルロットの根底にあるのは一つ。国民が大切、それに尽きる。 未熟で甘く、世間知らず。自分をそう評しながら、それでも切り 捨てることは出来ない。それが正しいか間違っているかは別にして、 非情になりきれない彼女はきっと優しすぎるのだろう。 が。 それとこれとは話が別。 言うべきは言う。シャルロットも人には分からない苦悩を抱えて いるだろうが、それは太一と奏も同じだ。そして、ミューラも、ま た。 いや、今はそれはいい。 太一と奏が先だ。 ﹁殿下﹂ ﹁なんでしょう﹂ ﹁先程、殿下﹁出来ればあまり殺めずに﹂と仰られました﹂ ﹁ええ。その通りです﹂ ﹁ということは、多少の犠牲はやむを得ない、ということでしょう か﹂ ﹁⋮⋮そうなります。わたしが無力なばかりに﹂ 679 目を伏せる朝露の姫君。その悔しさは胸中察する。が。 ﹁タイチとカナデの二人が、人を殺めることになると﹂ ﹁ええ﹂ 内紛だから、当然と言える。 ﹁あの二人は、元の世界では一般人。人を殺すどころか、盗賊の討 伐に居合わせただけで顔を青くしていました﹂ ﹁⋮⋮﹂ シャルロットは言葉を発しない。 ﹁戦で人を殺すのは当然。ですが、元々軍に属してすらいなかった 人間に、それを求めるのは酷ではないでしょうか﹂ ユーラフ炭鉱で真っ青になっていた二人が、ミューラの脳裏によ みがえる。 ﹁それでも二人を連れていくと言うのなら、これだけは心してくだ さい。殿下は⋮⋮いえ、エリステインは、内輪の都合で、異世界の 二人の人生を破壊せしめた。それだけでなく、人死ににすら慣れて いない二人に、人殺しをさせようとしている。この罪を、忘れては ならないかと﹂ ミューラはそれだけ言い切った。 シャルロットは今度こそ、ミューラから目を逸らさない。 見つめあうこと数瞬。ミゲールが動いた。 つかつかと大股で、ミューラの元へ歩み寄ってくる。ここまで我 慢してくれたのだから、彼に文句があるなら言わせるつもりだった。 680 ﹁先程から無礼な発言の数々。流石に認めるわけにはゆかんぞ﹂ ただし、素直に聞き入れるつもりはなかったが。 ﹁無礼? 礼節は守ったけれど?﹂ 自身より年上の青年だが、彼に払う敬意は生憎持ち合わせていな いミューラだった。 ﹁このような場所までわざわざ殿下が足を運ばれたのだ。それを貴 様らは、殿下の優しさにつけあがったな﹂ ﹁言ってる意味が分からないわ﹂ ﹁やめろ、ミゲール﹂ 低く、圧迫感のある声がミゲールを諌める。しかし止まらない。 ﹁分からんか。ふん。里が知れるというものだ。貴様も、あの異世 界の野蛮人もな﹂ 随分な罵倒だが、怒る気になれなかった。自身の発言が、そのま ま主の評価に繋がると分かっていないのだから。 ﹁へえ。タイチとカナデがいた世界が、どれだけの文明を誇ってい たか知ってるのかしら?﹂ ﹁あんな礼儀しか持たないのだ。大したものではあるまい﹂ ﹁やっぱり知らない。無知は見ていて恥ずかしいから、そのお喋り な口を閉じてることをお勧めするわ﹂ ﹁なんだと? どれほどのものだと言うのだ﹂ 681 瞬間湯沸し器。平静な太一と奏が見たら、そう評したことだろう。 ﹁そうねえ。教えてあげない﹂ いい笑顔でさっくり断るミューラ。 ﹁愚弄するのも大概にしろ!﹂ ﹁果たしてどちらが愚弄してるのかしらね。あ、そうだ。貴方これ から、剣も鎧もお金も全部ここに置いて、着の身着のままでガルゲ ン帝国に行ってきなさいな﹂ 唐突に言われた言葉の意味が分からず、目をぱちくりさせるミゲ ール。一方シャルロットや彼女の後ろに控える騎士、またジェラー ドはその意味が分かったようだ。やはり彼らは違う。いやこの場合 は、シンプルにミゲールが短絡なだけだろう。 やがてその言葉の意味を理解したのか、ミゲールは鼻で笑った。 ﹁馬鹿馬鹿しい。何故そんなことをせねばならんのだ。頭がおかし いのではないか?﹂ 得意気なミゲール。その発言こそ、ミューラが求めていたことだ と分からずに。壮年の騎士が呆れている。さぞ手のかかる部下だろ う。 ﹁⋮⋮やっぱりそうよね。嫌よね、そんなこと。武器もお金もない まま放り出されるわけだもんね﹂ ﹁当然だろう﹂ ﹁そうよね。さて、タイチとカナデは、貴方がされたら嫌なことを されたのは分かっているかしら。しかも、貴方が敬愛するシャルロ ット殿下に﹂ 682 ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 返す言葉などあるはずがない。ぐうの音も出ないとはこの事だろ う。 ﹁これで少しはタイチがあんなに怒った理由が分かった? ああ、 そうそう。この場にいる全員、運が良かったわよ?﹂ ﹁⋮⋮なに?﹂ ミューラは立ち上がり、固まった青年を押し退けて扉に向かう。 少し強くあてればこれだ。彼の腕は相対すれば分かる。黒曜馬やオ ーガの方が強い。 ﹁もしタイチがヤケになって暴れていたら。断言してもいいけど、 エリステインの何処を探しても、止められる人はいないから﹂ ﹁⋮⋮出任せなら、もう少しまともな事を言ったらどうだ﹂ 一瞬前のプレッシャーに加え、余りにも堂々と嘯いたミューラに、 ミゲールのリアクションが少し遅れた。 ﹁はたして出任せかしらね。タイチがその気になったら⋮⋮あ、考 えたくない﹂ 頭を左右に振って、その考えを追い出そうとする。演技と言うに はあまりにも真に迫っていたその様子に、シャルロット含め実際を 知らない面々が押し黙る。 ﹁タイチとカナデの強さは、薬にも毒にもなります。それと、少な くてもタイチは、国家権力に対して脅威の感情を持ちません。そん な必要が無いほどに強いですから﹂ 683 ミューラはそう言い残し、執務室を出た。 少しして、自身の発言を強く後悔することになる。 売り言葉に買い言葉だったのだ。これでは、要らぬ警戒をされて も仕方がないだろう。 だがこの啖呵と、後に太一と奏が挙げる成果が、自分たちの立場 を思わぬ方向に好転させることになる要因となるのだから、世の中 は分からない。 もっともそれはもっと先の話であり、そんな事を予想できるよう な先見性は、レミーアにだって無理だろうから。 684 ミューラさんが無双したようです。︵後書き︶ 書きながら自分で欠点を見つけ。 それを拾おうとしても拾えない。 書けば書くほど、自分の未熟さが浮き彫りになります。 読んでくださってありがとうございます。 685 レミーアの思いやり もうそろそろ日付が変わる。揺り椅子から見上げた月の位置をほ んやり眺めて、レミーアはそう思った。 家の中にはまだ自分以外の気配がない。まだ帰ってきていないよ うだ。今日は随分と遅い。 心配だ。荒くれ者や盗賊などに絡まれていないだろうか。太一は 一見すれば普通の少年だし、奏やミューラは別嬪だ。絡むには十分 魅力的だ。 可能性は捨てきれない。レミーアはそっと無事を祈った。 もちろん、太一たちに手を出そうとしかねないバカどもの無事を。 月の明かりを浴びての読書はとても捗る。自室にこもっていても いいのだが、たまにはこういう時間を過ごしたくなる。横に置いて いた酒瓶をらっぱ飲みする。度数はそこそこ強い六〇度。こんな飲 み方は、ミューラがいたら出来ない。グラスに注がないとうるさく 言われてしまうのだ。お目付け役の鋭い目がない読書タイムはとて も幸せだ。 それも、もう終わりを告げるのだが。 ﹁む⋮⋮なんだ。もう無くなったのか﹂ 瓶をひっくり返しても、一滴すら落ちなかった。この程度では水 と同じだ。酔わないからこそがぶ飲み出来るのだが。レミーアは、 代えを取るために席を立った。いちいち取りに行くのも面倒に感じ、 今度は三本くらいそばに置いておくことにしようと思いながら。 ぽい、と瓶を背後に放り投げる。 月の明かりを反射しながら放物線を描く瓶は、地面に落ちる前に 砕け散った。 否。砕け散ったように見えた。 686 翳した手をゆっくり握り、レミーアはため息をつく。そして、口 の端をわずかに上げる。 ﹁⋮⋮この私に、魔術の練習をさせるとはな。くく、相変わらず、 驚かせてくれる﹂ 威力は違えど、行ったことは変わらない。レッドオーガを細切れ にしてみせた太一の風魔法、エアロスラストだ。初見から、こうし て意のままに操れるようになるには、少なからぬ時間を要した。 太一が即興で考えたというその魔法。一度理屈を聞いてしまえば そう苦労せずに魔術を使えるレミーアをして、エアロスラストを再 現するのに丸一日かかった。 奏がカマイタチ、と呼ぶ風の刃、正式名エアカッターの派生と思 っていた。 しかし、話を聞くと、エアカッターとは似て非なるものだった。 エアカッターは、風属性を操る魔術師としては基礎とも言えるも の。風を細く集めて叩き付ける、仕組みそのものはシンプルだ。 基礎だから弱いか? もちろんそんな事はない。宮廷魔術師にも エアカッターを主力魔術にしている者がいるくらいだ。威力の調節 がしやすく、また影響範囲もある程度選べる。汎用性があり、﹁使 える﹂と﹁使いこなす﹂は別物であると教えてくれる魔術。そして 何よりも、詠唱から発動までの速さ。威力よりもスピードを重視す る風魔術師の必須要素だ。 エアカッターを現すのに最も適切なのは鈍い大剣だ。切断力はそ こまで高くはなく、代わりに打撃の力も秘めている。この魔術の強 みは、相手が硬質の防具でがちがちに守りを固めていても、その上 から打撃のダメージを比較的簡単に通せることだ。その一方で、斬 る方の効果は期待しないのが吉だ。一定以下の硬さでなければ斬る ことは出来ない。かつて奏が岩に深い傷を刻めたのも、高い魔力強 度故である。 687 対してエアロスラスト。こちらは純粋な切断力を求めた魔術だ。 斬れなければ大したダメージは与えられないが、威力が相手の防御 を上回れば、容赦の無い刃と化す。 イメージは目標に飛ぶ切れ味重視の刃物。口で言うのは簡単だが、 細い刃を再現するのに苦労した。魔術の行使で苦労したのはもう一 〇年以上昔のため、新鮮な感覚だった。まず一本その刃を再現して から一本ずつ増やしていく。瓶を細切れに出来る今ならば使えるだ ろう。覚えてみて、これはかなりの武器になるというのがレミーア の正直な感想。 太一といい奏といい、こちらの世界の人間とは魔術に対する認識 が違う。奏は魔術をミックスしてとんでもない魔術を使ってみせた。 一方の太一はバリエーションこそ少ないが、それでもエアロスラス トというオリジナル魔法を生み出してみせた。魔術に捧げた半生で 得た常識を、ことごとく打ち砕いた二人。 二人を保護して正解だった。こんなに楽しい気分にさせられると は。過去の自分は英断を下したと素直に思っていた。 ﹁ん?﹂ 気配を感じて、レミーアは玄関の方に顔を向けた。 ここしばらく、最も近しい人物のもの。 彼女が少し訝しげなのは、その気配が二つだったということだ。 ガチャリと音がして、玄関の扉が開く。入ってきたのはやはり二 人。今しがた思考のメインを占めていた太一と奏の両名だった。 ﹁おお、帰ったか﹂ ﹁ただいま﹂ はて。もう一人の弟子はどこに行ったのか。 そう思ったレミーアが問いかけると。 688 ﹁あー、うん。アズパイアに置いてきちゃった﹂ と、太一は答えた。実際はミューラが自分の意志であの場に残っ たため、置いてきた、というのは多少語弊があった。 レミーアは考える。いきなり本題か、それとも前置きするか。 その選択は、すぐに決まった。 奏の表情がかなり切羽詰っていたから。 ﹁そうか。ま、あいつもガキじゃないし、問題なかろ。とりあえず 座れ。何か出してやる﹂ ﹁うん﹂ 席につかせて、レミーアは紅茶を淹れて二人に出す。 味にこだわると時間がかかるので、簡素なものだ。こだわりの紅 茶を出すのが目的ではない。因みに、お湯は魔術で熱した石を手ご ろな鍋に放り込めば一発である。 レミーアの光源を取る魔術で明るくなったリビングの壁に、三人 分の影が映し出される。 カップからのぼる湯気も、かすかにその存在を主張している。 即席にしてはまあ悪くはない。自分で淹れた紅茶を一口飲んで、 そう評価したレミーア。そして、改めて二人の顔を見た。 太一はそこまで変わらないが、普段と比べてやや仏頂面。そして、 ひどいのは奏の方だ。普段からハキハキとした少女の顔に落ちる翳。 これは相当なものだ。 さて。どう切り出すか。もう一口紅茶を喉に流し込み、何から話 を持っていくかを決めた。 ﹁どうだタイチ。精霊との絆は強くなったか﹂ 689 最近はそこまで事細かに聞いていない。何か変化があった時にだ け報告をするように太一には言ってあるのだ。だから、彼女から様 子を尋ねるなんて久しぶりだったりする。 我ながらへたくそだな、とレミーアは表に出さずに内心苦笑した。 ﹁ああ。少しずつだけど、念話みたいなのが出来るようになってき たよ﹂ 太一は手に持っていたカップを置いて、そう言った。 ﹁そうか。それは何よりだな。魔法のバリエーションは増えたか?﹂ ﹁んー。増やそうとは思ってるんだけど、イマイチなあ。それ以前 に力の加減が難しい﹂ 太一の史上最高クラスの魔力強度と、数々の伝承や、果ては子供 向けの童話にまで登場する程に格の高い精霊、エアリアル。この二 人が協力して放つ術だから、その非常識さは想像の範囲外だろう。 どれほど加減したってかなりの威力が出てしまうのだ。身も蓋も無 いことをいえば、相手を倒すだけならバリエーションなど太一には 必要ない。どんな魔法を放とうと、全てが必殺の攻撃力だ。 ﹁まだ魔術と魔法が混ざるなあ﹂ ﹁慣れるしかないぞ﹂ レミーアはそれについて既に説明をしている。端的に言えば、四 属性からなる現代魔術。光や闇、そして召喚術師といった属性を持 つ者が操るのは魔法。 細かく説明すると、魔法の起源から四属性の始まりといった魔術 史の授業となるため詳細は省いた。要はユニークマジシャンが使う のは魔術ではなく魔法と呼ぶということだ。 690 太一が使うのが魔法。奏やミューラ、レミーアが使うのが魔術だ。 身内しかいないから﹁魔法﹂と言っているが、外では迂闊に﹁魔 法﹂という名詞は出すなとレミーアは警告していた。魔法とはすな わちユニークマジシャンの事を指す。世界に一〇人といないのであ り、ある意味では国王よりも貴重な存在。 ユニークマジシャンの誰もが有名人であり、国賓として国の重鎮 に登用されたりするのが当たり前なレベルだ。望まない面倒を呼び 寄せるか、頭がおかしい人物として忌避されてしまう可能性が高い。 因みに魔術師に対して、ユニークマジシャンは魔法師と呼ばれる。 ﹁魔法と言えば﹂ 太一は視線をカップに固定している。 ﹁シャルロット姫が、俺たちに会いに来たよ﹂ レミーアはぴくりと眉をあげた。その一言で大体の事情を察する ことが出来た。 エリステイン魔法王国第二王女、シャルロット・エリステイン。 この国の象徴とも言える存在であり、現時点において世界唯一の時 空魔法師。 彼女と会ったというなら、二人のこの様子も納得である。 ﹁ほう。よくお前たちが被召喚者だと分かったな﹂ ﹁⋮⋮言われてみれば、確かに﹂ どうやって太一と奏が異世界人だと特定したのか。黒髪黒目はこ の世界では確かに珍しいが、全くいないわけでもないのに。 ﹁まあ、それは良い。権力が少ないとはいえ王族。そこいらの貴族 691 とは比べ物にならんからな﹂ 何らかの手段があったと見るべきだろう。そこは今は重要ではな い。 ﹁で、先方は何の用だったのだ?﹂ ﹁ああうん。なんか、貴族の反乱を止めるのに手を貸して欲しいん だってさ。かっとなってつい引き受けちゃったよ﹂ ﹁早まったな。何をさせられるか聞いて無いだろ﹂ ﹁⋮⋮返す言葉もない﹂ 項垂れる太一。奏、ミューラを含め、三人ともそこには行き着か なかったのだろう。それほど衝撃的だった何かがあったのだと予測 できる。 ﹁恐らくは戦に駆り出されるだろう。下手をすれば、冒険者にも満 たないレベルの人間が相手になるだろうな﹂ ﹁うげ﹂ 人間が相手。奏はともかく、太一に手加減を求めるのは酷だ。精 々魔力強化でプレッシャーを与えるくらいか。それしか出来ない、 人を殺めるのを恐れていると分かれば、相手にとって脅威とはなら ない。 ﹁まあそれも良い﹂ ﹁良いのかよ﹂ 何故太一と奏を特定できたのか。 戦で殺し合いをさせられるかもしれない。 それら二つを些事として切り捨てたレミーアに、太一は思わず声 692 を上げる。 ﹁うむ。まずはお前たちが冷静になるのが先だ。そんな精神状態で、 まともな判断と広い視野が得られると思うな﹂ ﹁ああ⋮⋮﹂ 思い当たる節が大いにある。太一はやや間をおいて頷いた。 ﹁素直で良い。さて、第二王女と言葉を交わしたのだろう?﹂ 肯定する太一。 ﹁なんと言われたのだ?﹂ ﹁まあうん。元の世界に帰る方法は無いってさ﹂ どんな気持ちでそのやり取りをしたのだろう。 淡々と告げる口調に、静かな怒りが込められている。 気持ちは分からなくもない。だが八〇余年の時を生きてなお、二 人へのフォローの言葉が浮かばない。自分を呼んだからには送り返 せる。そう考えるのは普通のことだろう。それを無理だと突きつけ られれば、怒るのも当然だと思えた。 長期的に考えれば、太一と奏にとっては正に死活問題。しかし、 彼らが生きているのは今この瞬間だ。もしも帰れる方法が見付かっ た時、﹁あの時こうしていなかったばっかりに﹂と後悔させるのは 忍びない。 とんでもない力を持っていても、まだまだティーンの少年少女。 二人が成してきた実績と現時点での人間の出来を比べるとちぐはぐ だ。 だがそこが、レミーアにとってはむしろ好ましく思える。 693 ﹁タイチ、カナデ﹂ 人は間違いなく成長する。 ﹁隣には誰が座っている﹂ だがそれは容易くはない。 ﹁違えるな。一人ではない。同郷の者と共にいることを考えろ﹂ 太一と奏はお互いの顔を見合った。 ﹁私もミューラも、お前たちの味方だ。他にも、お前たちの味方を してくれそうな者はいないか?﹂ いないなんて事はないはずだ。この世界に来て、数々の知り合い を得たとレミーアは聞いている。全員が無条件で、などと都合の良 いことを言うつもりは毛頭無いが、太一と奏が困ったら親身になっ てくれる人は少なくてもいるはずだ。 ﹁お前たちが戻れるまで。何年でも、何十年でも協力してやる﹂ ﹁不吉なこと言わんでよ﹂ 太一が苦笑する。その横で、奏は俯いて肩を震わせていた。 ﹁根拠の無い気休めは、私は嫌いでな。何、最悪、ここを第二の故 郷にしたらいい。少なくとも、私は大歓迎だ﹂ ﹁ちょ、冗談きついって﹂ ﹁ん? 私とミューラでは家族として不満か?﹂ ﹁いやそんなことはないって! って、そうじゃなくって。もっと 694 こう、一緒に帰る方法を探そう、とか。元気付けてくれるとこじゃ ないの?﹂ ﹁だから最悪、と前置きしたろう。無論帰る方法は探すさ﹂ レミーアは腕を組んで背凭れに寄りかかる。 ﹁お前たちを家族と思っていいくらいには信用しているし、気に入 っている、と言っているんだ﹂ ﹁レミーアさん⋮⋮﹂ 涙声は、奏。 ﹁その件は任せておけ。保証は出来んが、最大限の努力は約束しよ う﹂ ﹁⋮⋮よろしくお願いします﹂ 太一が頭を下げた。追従するように、奏も。 ﹁さて、タイチ、カナデ﹂ ﹁ん?﹂ 頭を上げた二人に、レミーアは明るい笑みを向ける。 ﹁私に対して、いつまでもそんなしょぼくれたツラを向けてくれる な﹂ レミーアは太一と奏のために動くと約束してくれた。そんな人に 対して、いつまでも落ち込んでいるのは礼を失すると言うものだ。 ﹁そうですね⋮⋮﹂ 695 奏が目尻を拭う。 ﹁今日は取り敢えず寝ろ。寂しいなら添い寝でもしてやろうか? ん?﹂ ﹁いりません!﹂ 太一と奏の声がハモる。 奏は気恥ずかしさ。 太一は煩悩で眠れないだろうという青少年の悩みから。 仲のいい二人を、レミーアは姉のような瞳で見詰めるのだった。 696 レミーアの思いやり︵後書き︶ たくさんの感想を頂きましてありがとうございます。 今後も返信はしますが、やはり更新が最大の答えだと思いますので、 そちらを優先します。 返信は一言二言になりそうです。すみません。 もちろん、感想は全て読ませて頂いています。賞賛、指摘、批判。 ありがたく目を通しています。 今後も気兼ねなく書いて頂けると嬉しいです。 目指せ中三日更新! 読んでくださってありがとうございます。 697 幽霊都市ウェネーフィクス︵前書き︶ 王都の人口はフィクションとして受け止めてくださいませ。 698 幽霊都市ウェネーフィクス 馬車に揺られること数日。これほどの長距離を移動したのは、こ の世界では初めてだった。 遠くに薄く、巨大な盆をひっくり返したようなものが見える。 ﹁でけえ⋮⋮﹂ 馬車の屋根で風を感じていた太一は、思わずといった様子で呟い た。 まだまだ離れているにも関わらずここまで大きく見えるとは。 エリステイン最大の都市は伊達ではなかった。 ﹁立派なものだろう﹂ 馬車に馬を寄せてきたリシャールに目をやり、頷きを返した。 ギルドにシャルロットが来ていると知らせにきた青年。数日前合 流した時に、立派な鎧を着て立っていた。自己紹介をして話を聞け ば、近衛騎士団の小隊長だという。 小隊長といえば、騎士団の中でも上の方の実力者。しかも彼は王 女直属の近衛騎士団の小隊長。腕前はかなりのものだ、とはレミー アの弁。レミーアの賞賛に、謙遜も増長もせず、シンプルに返礼を した辺りに、彼の人柄と自分に対する自信が伺い知れた。 ミューラ曰く、毅然とした態度と行動に、実力者の片鱗が見える とのこと。太一は戦闘のプロではないため、隙があるとか、立ち居 振舞いの洗練度合いなどは分からなかったが。 ﹁人口三〇〇万の巨大都市だ。世界でも五指に入る規模だな﹂ 699 三〇〇万。それなら納得である。 端から端まで見渡す限り都市だ。ぐるりと囲う高い壁は、全長で 何キロあるのだろう。いや、何キロなんて規模で収まるとは到底思 えなかった。 ﹁あの壁どうやって作ったんだろう﹂ 太一の問いに、リシャールは視線を前に向けた。 ﹁なんでも一〇〇〇年以上の時をかけて築いたそうだ。補修と拡張 を繰り返してな。土木工事と土属性の宮廷魔術師が担当している﹂ ﹁なるほどね﹂ 一〇〇〇年とはまた随分と気が遠くなる話だ。日本の一〇〇〇年 前といえば。太一が思い出したのは一一九二作ろう鎌倉幕府である。 鎌倉幕府の前が平安時代なので、かなりざっくりとだがそのくらい と捉える。研究が進み、今は一一八五年に改訂されたことは度忘れ していた。余談だが、丁度一〇〇〇年前の歴史的出来事といえば、 源氏物語の完成だ。 ﹁私もこれしか知らない。すまないが、これ以上は調べるか、詳し い者にあたってくれ﹂ ﹁分かった﹂ そろそろ馬車の中に入れ、と指示を残し、リシャールは持ち場へ と戻っていった。 リシャールに対して、太一は特別悪感情は抱いていない。初めて 出会った時はシャルロットの近衛騎士団小隊長だとは知らなかった。 多少高圧的なところが無いわけではないが、それでもこちらを気遣 っているのが言葉の端々から感じられ、根は悪い人間ではないと思 700 わせる。 初対面のあの日、感情的になって扱き下ろしたシャルロットはこ ちらに対して贖罪をしようとしているらしく、かなり気を使ってい る。もちろん許したわけではないが、かなり必死な様子が見てとれ た。そんな相手に対して最初のようなつっけんどんな態度はどうし ても取りにくい。シャルロットの態度が演技の可能性もあるが、太 一としては疑り半分信用半分といったところか。完全に疑えない辺 り、やはり太一も甘いのだろう。 因みにミゲールだが、またも突っ掛かってきた。一度ミューラに やり込められたのに、懲りていないようだった。太一が反論しよう としたところで、前に出たのはレミーアだ。 ﹁ご高説中に悪いが、こちらもヒマではないのでな。すっこんでく れないか?﹂ 今度ばかりは相手が悪いとしか言いようがなかった。その後も言 うこと言うこと片っ端からレミーアに論破され、一蹴され。顔を紅 潮させたところでリシャールに後ろに追いやられたのだ。 その時の痛快さを思い出し、太一は思わずにやついた。因みにミ ゲールは、王女行脚部隊の最後尾に配置されている。部隊の真ん中 辺りにある太一たちが乗る馬車とは関わりようがない。 いつまでも屋根にいるわけにもいかないだろう。大人しく馬車の 中に入る。 ﹁何にやついてんのよ。気持ち悪いわね﹂ 馬車に戻った途端にミューラから浴びせられたきつい一言に、太 一は一瞬肩を竦めた。 ﹁いや、レミーアさんが、ミゲールをやり込めたとこを思い出して 701 た﹂ ﹁ああ⋮⋮﹂ 得心した様子のミューラと目が合う。そして二人で黒い笑みを浮 かべた。それを見ていた奏がジト目をしていたが、太一とミューラ はそれを華麗にスルーすることで一致した。 この馬車にいるのは太一、奏、ミューラのチームに、師であるレ ミーア。そして、シャルロットお付きのメイドたちから一人。 肩にかかる程度に伸ばされたエメラルドグリーンの髪が載る顔は かなり整っている。笑えば魅力的だろうに、殆ど変わらない無表情 が勿体ない。メイドはじっと座ったまま動かない。動くのは瞼くら いで、それがなくなったら﹁これは等身大の人形﹂と言われても違 和感がないくらいだ。彼女の名前はティルメア。シャルロットが太 一たちを賓客として迎えたため、身の回りの世話を命令されたのだ。 シャルロット曰く優秀なメイドだという。 その優秀さはすぐに知ることが出来た。動き出した馬車は今まで で最も乗り心地が良かったが、それでも結構な振動がある。日本で 乗ったオンボロ軽自動車の乗り心地が天国に思えるくらいだ。そん な中で、ティルメアは平然と立っていたのだ。何かに掴まるという ことはなく、両手を下腹部付近で柔らかく重ねた姿勢で微動だにし ない。﹁座ったらどう?﹂と進言しようと声をかけたミューラに、 ティルメアはすぐさま﹁御用でしょうか﹂と職務を全うし始めた。 凄まじいプロ意識である。年の頃は太一、奏よりもいくつか上か。 丁度二〇歳くらいだと思う。 毅然とした態度に圧倒されたミューラだが、めげずに着席を促し た。懇切丁寧な謝罪と気遣いに対する謝辞の後、﹁他国の王族と同 等に接するよう命じられておりますので﹂と断るティルメア。そん なやり取りを何度か繰り返した後、奏が﹁じゃあ他国の王族が座れ と命令したら座りますか?﹂と言ったのがファインプレーだった。 頑ななティルメアがついに折れたのが三日ほど前の事である。 702 そばに立たれたままというのは何とも居心地が悪かったので、ホ ッとしたのだった。 因みにだが、レミーアはずっと文献を読んでいるか、何かを書物 に記すのを繰り返している。研究の成果を纏めているらしい。身の 回りの荷物は最低限しか持ってきておらず、それなのに荷物そのも のは四人の中で一番多い。殆どが文献と書物だと悪びれもなく告げ るレミーアに、ミューラはそっとため息をついた。 結構揺れる馬車の中で本を読んで酔わないのか。字など書けるの か。そんな疑問に、意味深に笑うだけのレミーアが少しだけ不気味 だったことを記しておく。 窓から入る太一の行儀の悪さには、最後まで誰からも突っ込みが なかった。 ◇◇◇◇◇ 太一と奏の知識から表現するなら、ウェネーフィクスの街並みは 物語に登場する近世ヨーロッパだ。 石畳の道は幅が広く、端から端までで凡そ二〇〇メートルはある だろう。 建物は白い壁に、オレンジの瓦葺き。建物同士の隙間はとても狭 く、人一人すら通る隙間がない。ちょくちょく見掛ける少し広目の 隙間は生活道路だと、ティルメアが教えてくれた。 703 事前に聞かされていた通り正門が封鎖されていた。では何故ウェ ネーフィクスに入れたのか。それは王族のみが使用できる門がある からだ。そこはどのような権力があろうと封鎖することは出来ない。 その代わり王族以外は通過不可能なため、事実上外界との交流が断 たれている状況に変わりはないのだが。 予め言われていたのだが、ウェネーフィクスの空気は良くない。 王都と言うからには活気に溢れているのだろうと太一と奏は思っ ていたし、平素はその通りだとティルメアが同意した。 大通りを通るのは、シャルロットの行脚部隊のみ。人が全くいな い。この大通りはウェネーフィクスを走る一〇本のメインストリー トの一つである。普段は露店が出され、事前に王族が通過すること を告知しておかなければ通るのに相当な時間がかかるほど人が溢れ るのだという。 しかし今、通行を遮るものはない。どこからか犬の遠吠えが聞こ え、物陰から猫が顔を出すくらいだ。馬の蹄が石畳を叩く音と、車 輪が地面を転がる音が響き渡る。 空は透き通るような水色なのに、どんよりとした空気が充満して いるようで、どことなく息苦しい。 ﹁⋮⋮幽霊都市みたいだな﹂ 太一の素直な感想である。 ﹁みな、怖がって家から出ないのです﹂ ティルメアは太一にそう答えた。 怖がって、とは、どちらを指すのだろうか。王族派を恐れている のか、もしくは貴族派か。確かな情報が無い今、どちらかを断定す ることは出来ない。 その時だった。 704 怒声と馬の嘶き。前方から感じる慌ただしい空気。 ﹁な、何!?﹂ 奏の声に答える者はおらず、代わりに馬車が急停止した。不意に 発生した慣性の法則に太一と奏は仲良くバランスを崩した。 部隊の進軍が止まった。 ﹁ってて、なんなんだ﹂ しこたまぶつけた頭を擦りながら、太一は同じく床に転がった奏 を起こす。レミーアとミューラは平然と座っており、ティルメアは 当然とばかりに立っていたが。 ﹁⋮⋮恐らく、何者かに止められました﹂ ﹁何者か?﹂ ﹁貴族派じゃないの?﹂ ﹁ああ、そっか﹂ ティルメアの状況予測と、ミューラの容疑者予測に頷く太一。 前方からは怒鳴り声が聞こえてくる。相当激しくやり合っている のだろう。蹴散らしてしまうわけにはいかないのだろうか。素直に そう思ったのでティルメアに訊ねる。 ﹁可能ですが、そうすると向こうに攻める口実を与えます。王族派 はまだ迎撃する準備が終わっていないのです﹂ つまり、今は無理ということか。そもそもそれが出来るのなら最 初からやっているはずだ。間抜けな事を聞いたと太一は反省する。 この時点で、ティルメアの太一に対する評価はかなり下がってい 705 た。旅中に見せた数々の非常識に行儀のなさ。そして、頭の回転の 遅さ。更には、先程の急停止にすら対応出来ない鈍さ。つもり積も ってどん底だ。奏はそんな悪い評価を受ける振る舞いはしていない が、同郷の太一にひっぱられて評価を下げている。迷惑甚だしいだ ろう。ティルメアはそれを口にするような人物ではないため、知ら ずに済んだのは幸運というところか。 そして太一への評価を、これから上方修正することになるとは、 この時はまだ思っていなかった。 ﹁俺たちを出せって言ってるな﹂ ポツリと呟いた太一に、ティルメアは目を丸くする。 五感に自信のあるティルメアでも、ここから詳細に聞き取るなど 不可能なのに。 ﹁⋮⋮タイチ様、聞き取れるのですか?﹂ ﹁あーうん。まあね﹂ ﹁そ、そうですか。⋮⋮凄いですね﹂ ﹁いや別に。通せんぼしてるのはダルマー家だってさ﹂ ﹁ダルマー家ですか。先日当代が継がれた男爵家ですね。確か後継 ぎの名はニックだっ⋮⋮﹂ ﹁ぶっ!﹂ ﹁た⋮⋮はずですが⋮⋮。どうされたのですか?﹂ 噴き出したのは太一と奏。 どう聞いても肉達磨である。こちらにはそういうのは罵倒にはな らないのだろうか。 太一は壁に手をついて身体を震わせ、先にやり過ごしたらしい奏 が目尻を指先で拭いた。 良いか悪いかは分からないが、緊張感が一気に吹き飛んだ。 706 ﹁あー、笑った。よし、そんなに俺たちに会いたいなら、出向いて やろうじゃないか﹂ ﹁た、タイチ様?﹂ 何を言い出すんだ、と、言外に込めて言う。何せ、馬車の急停止 にも対応出来なかったのに。 ﹁構わん。行かせれば良い。じきに蹴散らして戻ってくるさ﹂ ﹁⋮⋮レミーア様﹂ とはいえ、﹁落葉の魔術師﹂たるレミーアにそう言われては、彼 女には実力で及ばないティルメアの出る幕ではない。 ﹁じゃ、適当に追っ払って来るわ。行こうぜ奏﹂ ﹁うん﹂ 馬車を出ていく二人を心配そうに見守るティルメア。 二人を送り出した途端に気を抜いて寛ぎ始めるミューラ、レミー アとの間に、明確な温度差が生まれているのだった。 707 幽霊都市ウェネーフィクス︵後書き︶ 読んでくださってありがとうございます。 708 ティルメアさんが見てる 馬車はかなり大きいものだ。四人が悠々座れるソファが二対。そ れだけでなく、飲み物が納められている棚と、準備に使う固定され たワゴンも。他国の貴人を幾度となく乗せたことのある馬車である。 二つ名持ちであり、世界最高の魔術師とも言われるレミーア・サ ンタクルとなれば、馬車の乗客として充分である。レミーアの一番 弟子であるミューラも大丈夫だ。シャルロットに召喚された太一と 奏も乗る資格を持っていると言えるだろう。 シャルロットが﹁国を救って下さる方々だから﹂と敬意を払うの を見て、ティルメアも細心の注意を払って彼らと接する事を決めた。 任されたからには、主に代わって国の威信を背負うのだ。シャルロ ットの顔を見れば、彼女が自分で太一、奏の世話をしたかったに違 いない。身の回りの事は普段侍女に任せているが、幼少から施され た英才教育にそれも含まれている。むしろ下手な侍女よりもレベル が高いくらいである。それでも彼女は王族である。幾ら英雄や異世 界の国賓が相手でも、王女が世話をするなどかなわない。 よってシャルロットが﹁もっとも信頼できる侍女﹂として賓客が 乗る馬車を任せたのがティルメアだった。 どのような人たちなのだろうか。異世界の人間と出会うのは初め てである。とても興味があった。 レミーアはとても物静かな人物。じっと馬車で本を読んでいるか、 何かを盛んに書き記している。宮廷魔術師の一部が﹃歩く魔術図書 館﹄と揶揄するに足ると、ティルメアは心の中で感嘆した。 王女に直接仕える侍女は単に主の世話をするだけが存在意義では ない。時に主の盾となり、時と場合によってはその身を投げ出して 主を逃がす必要がある。そのためには時間稼ぎが出来なければ話に ならない。魔術師としてもそれなりの研鑽を積んでいるティルメア であるが、レミーアが手に取る魔術書や文献は、タイトルだけを見 709 ても読むのを躊躇うほどの難しさである。そんな本を読みながら﹁ なるほど﹂等と時折頷いている辺り、彼女がどれだけずば抜けてい るかがよく分かる。 そしてその一番弟子であるミューラ。彼女は生粋のエルフ。まだ うら若い乙女であるが、彼女が纏う空気は乙女と思って触れれば怪 我をするような鋭さを持っている。ティルメアの記憶が確かならば、 エルフは魔術を得意とする森の民族だったはずだ。それが、彼女は 腰に剣を差している。最初はそれが魔術を行使するときの触媒なの だと予想していた。しかし最初の夜営でその読みが外れた事を思い 知らされる。修練と言って陣営から離れ構えるミューラの姿は、剣 を剣として扱う戦士の姿であった。騎士でもかなりの手練者でなけ れば軽くあしらわれてしまうだろう程度には、その剣は洗練されて いた。あの剣術に加え、エルフらしく魔術もひとかどだというから 驚きだ。 他を圧倒的に凌駕する魔術の知識を持つレミーアも、魔術をきち んと修めながら剣まで一人前に操ることの出来るミューラも、天才 と称していいレベルだ。 では、異世界から来た男女のカップルはどうか。因みにだが、客 人同士の関係を使用人が尋ねるなど無礼にも程があるためティルメ アはもちろんたずねない。ポーカーフェイスを貫くティルメアがそ んな勘違いをしているなど、太一と奏は想像もつかなかった。 それはさておき。 ティルメアは興味を持って彼らを観察した。 ほどけば背中の真ん中辺りまで伸びる髪を、後ろの上の方で結っ ている少女。 ティルメアに対して、丁寧な口調と動作で﹁カナデ アヅマ﹂と 名乗った。 物腰はとても丁寧で、振る舞い、発言と全てにおいて知性を感じ させる。年齢は一六だという。一六歳でこれほどの教養を得るには、 相当な教育を受けなければならない。かくいうティルメアも、王女 710 に直接仕える侍女として現在のようになるまでに、かなり厳しい教 育を受けてきた。ティルメアと同じ教育を受けたからと言ってそれ にまず耐えられるかが疑問だし、耐えられたとしてもそれを生かせ るようになるかがまた疑問。 思考のるつぼに陥ってしまったが、要は奏の教養はすばらしい、 の一言に尽きる。 ティルメアは想像もつかないが、現代の日本で普通に生活してき た少年少女であれば、その気になれば奏のように振舞う、あるいは それに近いレベルを再現するのは不可能ではない。現代日本の義務 教育のレベルが、この世界と比較して凄まじく高いのだ。尤も完璧 ではなく、粗を探そうとすれば出てくるのだが、それは今は本題で ないので割愛する。 彼女も魔術は扱える。ミューラと共に魔術の練習をしているとこ ろを幾度か見かけている。 その時は命中率であったり、詠唱から発動までの速度だったりと いった部分の練習に特化していた。使う魔術の属性はいつも一緒。 事前にフォースマジシャンであると報告を受けていたので、全て の属性を一人で放つところを見れなかったのは少し残念だ。修行す る姿から奏の﹁底﹂を少しでも覗ければと思っていたのだが、見え たのは水面だけで、どれだけの深さがあるのか全く分からない。 実際に見えれば浅いのかもしれない。逆に相当深いのかもしれな い。だが今得られている情報は、放つ魔術は命中率が高いことと、 詠唱から発動までの速度が速いこと。その二つの要素は特別なこと ではない。魔力量、魔力強度が平均よりも低い魔術師が、それでも 自分の魔術を武器にしようと考えたときに、一番力を入れる部分で ある。報告では一撃で三桁に達する魔物を葬った戦術級広範囲殲滅 魔術の使い手とのこと。シャルロット直属の諜報部隊の情報が間違 っているとは言わないが、自分の目で見て確かめたいという思いが 強い。 今得られている情報だけでは、それの判断はつけられなかった。 711 今度は、観察の目を太一に向けてみる。 整った顔立ちでスラッとした奏に対して、こう言ってはなんだが、 平凡な印象を与える。いや、この場合は奏が非凡故に太一が平凡に 見えるのだろう。太一の名誉のために、そう思うことにした。 奏と同郷であるからには、彼もまた高い知識と教養を持っている と思っていた。 その予想がひとつひとつ外れていくという体験を、ティルメアは 味わった。 知識レベルは決して低くはないが、奏と比べるとどうしても今一 歩という印象がぬぐえない。太一とてやる気を出せば平均の上くら いはいける。奏の水準が高過ぎるのだ。比べれば奏が遥かに上なの は当然なのだが、ティルメアがそれを知るはずもない。 そして教養。何を考えているのか、若くして近衛騎士団の小隊長 まで登ったリシャールに対して、まるで友人と接するかのような言 葉遣い。リシャールは許しているらしく、事実気にしていない様子 だが、だからと言ってそれに甘えるのは如何なものか。 この世界の常識で考えれば、騎士に対して馴れ馴れしく接するな ど考えられない。宮廷魔術師が国の矢なら、騎士は盾と矛。貴族と 並ぶ特別階級だ。 それが王族の直接の盾と矛となる近衛騎士団となれば、更に力は 上だ。有事の際は騎士に対して優勢な指揮権を持ち、逆に騎士団の 総指揮官であっても干渉は許されない。 因みにだが、同じ指揮系統が宮廷魔術師にも採用されており、近 衛騎士団は宮廷魔術師にも、有事の際の指揮権を持っている。 そんな相手に対する太一の態度。よい方へ解釈すれば、人懐っこ く物怖じしないとも言える。 だが悪く捉えたら、単なる無礼者である。 太一がリシャールと年が近いなら一〇〇歩譲ってよしとしよう。 しかしリシャールは、若いとはいえ一回り近く太一より年上。せめ て敬意くらい払うべきではないのか、というのが正直な感想だ。 712 因みに、太一本人は十分に敬意を払っているつもりだ。傍から見 たらまるで伝わらないが。 ふと、太一はいなくなることがある。気付いたらいないのだ。夜 営中に護衛対象がいなくなるという、シャルロット直属部隊として 恥ずべき事態。捜さなくてはと躍起になりかけた騎士たちを止めた のは、他ならぬ奏であった。 ﹁太一の身を心配してのことなら、無用だと思います﹂ と。太一が負ける事は、今すぐエリステインが水没するくらいにあ りえないとのことだ。 気遣いに対する謝辞も忘れない辺りは流石だ。が、一応団体行動 なのだから止めて欲しいと思ったが、言わなかった。騎士たちの目 を掻い潜ってふらりといずこかへ行ってしまったため、不用意にそ れを口にすればいらぬ突っ込みをされる可能性があったからだ。 明け方になって、﹁迷った⋮⋮﹂と眠そうな目を擦りながら戻っ てきた太一と遭遇した。ティルメアは朝の炊事の準備中。まさか朝 日が昇る時間帯までうろついているとは思わず、呆れてしまった。 一度くらいならそれもまあ目を瞑れた。だが二度三度と似たような 事が続いたのだ。あまりにも自由すぎだ。 それでも、強いのなら全てを水に流していいとティルメアは気持 ちを切り替えた。例え無礼だろうと、若干情けなかろうと。 だが、それすらも不安にさせるような出来事が、ついにティルメ アの目の前で起きた。 ミューラに請われて剣術の修行を始めた太一。落ちていた手頃な 棒きれで行われるかかり稽古。 はっきり言って、ずぶの素人もいいところだった。確かに筋のよ さは散見されるし、きちんと修行を続ければ強くなるだろうと思う。 それでも、これならまだ駆け出しの冒険者の方がよほど上手く剣を 操る。腰に差す鋼の剣がお飾りに見えてしまった。ナイフによる接 713 近戦を修得しているティルメアにとって、はっきり言って敵ではな かった。 その後も見せられる行儀の悪さや馴れ馴れしさに、太一の評価は 右肩下りだ。ティルメア脳内の採点表に記された評価は五段階評価 で一である。 そんな評価だから、太一を無条件で信じることは出来ないし、彼 と恋人関係にある︵とティルメアは思っている︶奏も、同じ女とし ていまいち共感が出来ない。 二人がこの場にいないため、ティルメアはその評価を正直にレミ ーア、ミューラの両名に吐露した。 国を預ける立場としては当然であった。 その評価を一通り聞いた二人は、ティルメアに対してこう言った。 ﹁まあ、そういう感想にもなるわな﹂ ﹁そうですね﹂ 否定しない二人を見て、不安の度合いを強めるティルメア。 ﹁ならばこそ、その目で見てくればよい﹂ ﹁丁度、おあつらえ向きの噛ませ犬がいることですし﹂ 相手は団体だろう。太一が強いという評価を信じることの出来な ﹂ いティルメアにとって、レミーアとミューラの言葉は驚愕の一言だ った。 ﹁気持ちは分からないでもないですよ、ティルメアさん ﹁はあ⋮⋮﹂ ﹁まあ、騙されたと思って行ってみることだ﹂ そこまで言われて、ティルメアは行ってみることにした。この二 714 人がティルメアを担ぐとは思えなかった。 馬車を出ようとしたところで、背中に声が掛けられる。 ﹁気を付けろ。タイチの魔力は洒落になっていないからな﹂ レミーアの言葉が純然たる忠告だと、ティルメアは素直に受け取 れなかったのだった。 騒がしい部隊の先頭に向かって慎重に歩を進める。 小競り合いの現場に真っ直ぐ進むティルメアに対して、騎士たち から何か言われる事はない。彼女が護衛も務める実力者であること は周知の事実であり、何よりも大きいのが﹃シャルロット姫の侍女﹄ という肩書だ。 シャルロットをはじめとする王族の私室まで入れる侍女の地位は、 実はかなり高いのだ。具体的には、近衛騎士団の小隊長と同等。周 囲に隊長格がいない時に王族の身に危険が迫った場合にのみ、自ら 騎士に指示を出すためだ。指示を受ける騎士の立場から見ても、侍 女から指示を受ける=かなりのエマージェンシーである。 怒声が近付いてくる。少しずつだが、何を言い合っているのかが 聞き取れるようになってきた。 近衛騎士による壁の間をするすると抜けて最前列に立つ。 一〇〇人を引き連れてこちらを通さないようにしているニック・ ダルマー男爵。彼らと対峙していたのは、他ならぬ太一と奏だった。 その場にいたリシャールに訊ねてみると、ダルマー男爵の怒鳴り 声に、丁度太一と奏が前に出たところだったと返ってきた。 ﹁少なくとも一〇〇人はいる。何故物怖じせずいられるのだ﹂ もっともだ。よほど力を上回らない限り、一〇〇人を一人二人で 相手にするのは不可能だ。 二人を交互に見比べたダルマー男爵は、ふっくらと丸くなった頬 715 をあげ、やけに鮮やかな赤い唇を三日月の形に歪めた。 ﹂ ﹁お前たちが異世界人か。我々貴族を待たせるとは礼儀がなっとら んな﹂ ﹁悪いね、礼儀知らずで﹂ ﹁口の利き方もなっとらんか ﹁まあね﹂ 頭の後ろで両手を組んでそう言う太一。敬意を払うどころか、一 〇〇の軍勢に対して一切戦いていない。 ﹁まあよい。貴様がすぐにこの国から立ち去るなら全てを水に流そ う﹂ ﹁それはどうも﹂ ﹁そこの小娘は置いていけ。それも条件に追加だ。何、それで命が 助かるのだ、安いものだろう﹂ 太一はふう、と溜め息をついて、じっとニック・ダルマーを見据 える。 そして。 ﹁断る﹂ はっきりと、そう言った。 ﹁⋮⋮よく聞こえなかったな。もう一度言ってみろ﹂ ﹁断る﹂ 今度は耳をほじりながら気だるげに。 あからさまに馬鹿にした態度に、ニック・ダルマーがその巨体を 716 プルプルと震わせる。 みっともなくたるんだ脂肪が揺れているようにみえて、太一と奏 も別の意味で身体を震わせる。無理に笑いを堪えているせいで、二 人の顔が引きつっていた。 ﹁貴様ら⋮⋮命は惜しくないようだな﹂ どうやら怒っているらしい。意図的に虚仮にした自覚があった太 一は、ここいらで終わらせることにした。 ﹁いや惜しいよ?﹂ なあ? と奏を見ながら言い、黒髪の少女は頷いた。 ﹁惜しくないから私の慈悲を断ったのだろう!﹂ ﹁慈悲? あれは脅しって言うんだよ。まあ、それでも断った理由 だけど、俺たちにとってあんたらは敵にならない﹂ 太一の言葉に、ニック・ダルマーは一瞬目を丸くし、そして心の 底から愉快げに笑い始めた。 それは瞬く間に伝染していき、一〇〇人の笑いの合唱となる。 数の暴力がいかに優れているかは良く分かっているし、少し腕が 立つくらいでそれを覆せるとは思っていなかった。それこそ、宮廷 魔術師の小隊長クラスがいない限りは。 ﹁笑わせてくれる! やはりガキだな、たった二人で我々をどうに かできると思ったか!﹂ 笑い声の中。太一と奏がかすかに、しかし不敵に笑ったことに気 付いたのは五人といなかった。 717 ﹁奏﹂ ﹁うん。⋮⋮リベレイト・デュアルスペル﹂ 不意のことだった。奏から強烈な魔力が漏れ。 無数の炎の槍と氷の槍が生み出された。 予め詠唱だけ済ませておいて、キーワードと魔力のみで発動させ る遅延魔術だ。やってみたら出来た、と言ってのける奏に、レミー アもミューラも呆れたのは少し前の話。技術そのものはもともと存 在するが、教えれば出来るようになるような単純な技ではない。デ ュアルスペルと同じく、奥の手と呼んでいい技だ。その二つを惜し げもなく使うのだから、嫉妬など起こらず、いっそ気持ちがいいく らいだ。傍から第三者として見ている分には。 どよめきがそこかしこから沸き起こり、矛先全てを向けられたニ ック・ダルマーの軍勢が固まる。 フレイムランスとフリーズランスの同時発動。どちらも上級と呼 んでいい魔術である。そして恐るべきは、氷の魔術を攻撃用として 行使したこと。これほどの規模になれば、当たり前のように使える ものではない。 その数合わせて凡そ三〇。フリーズランスはともかく、フレイム ランスは爆発し炎を撒き散らすことを考えれば、被害は弾数で単純 な計算は出来ない。 これはまずいかもしれない│││実際は相当にまずいのだが、呑 気にそんなことを考えているから、ニック・ダルマーたちは行動を 取り損ねた。 ﹁魔力強化、四〇﹂ どれほど鈍い者でさえ、この凄まじさはすぐに分かる。太一がま とった魔力は人間の常識を上回っていた。 718 ニック・ダルマーらは勿論、近衛騎士、そしてティルメアも動き が取れない。たった二人の少年少女が、この場を完全に支配してい た。 ﹁だから言ったんだ。敵にならないって。やるって言うなら│││﹂ 太一の姿が消える。 ﹁│││いくらでも、相手になる﹂ ニック・ダルマーが腰に差していたやたらと派手な装飾の剣が太 一の手に握られ、切っ先がその額に突き付けられていた。 十数メートルの距離が、まるで無かったことにされていた。とん でもない速度。 ﹁ひっ! ひいい!﹂ ニック・ダルマーの軍勢があっさりと崩れ去る。 情けない悲鳴を残し、一〇〇人の私兵たちが背を向けて逃走して いく。 誰より先に逃げに入ったのは、予想通りニック・ダルマーだった。 足音が遠ざかり、賑やかだった通りが静かになった。太一は手に 持った剣を眺めてから、枝でも折るように素手でへし折り、その場 に捨てた。 ﹁太一。何で額に突き付けたの?﹂ こういうときは首に突き付けるものではないか。奏はそう言って いるのだ。 719 ﹁⋮⋮肉がありすぎて、どう見てもクビナシでした﹂ 某国民的アニメ映画が二人の脳裏を過る。ぷっ、と噴き出す太一 と奏を、近衛騎士、そしてティルメアは呆然と見詰めていた。 720 ティルメアさんが見てる︵後書き︶ 読んでくださってありがとうございます。 721 シャルロットの苦悩︵前書き︶ 気付けば更新が一週間近く空いてました。 高速で書き上げました。 722 シャルロットの苦悩 ニック・ダルマー男爵を追い払った後は妨害が入ることもなく、 メインストリートをエリステイン城に向かって順調に進むことが出 来た。 相変わらず殆んど人を見掛けない街を進み、視界に入ってきたの ﹂ は左右に背の高い塔を擁する石を切り出して組みあげられた城だっ た。 ﹁エリステイン城です 一言で淡々と告げられたようで、ティルメアの言葉にはどことな く誇らしさが含まれていた。 太一も奏も釘付けだ。 本物の城。それも過去の遺産ではなく、今この瞬間も息をしてい るのだ。 城の敷地は深く幅広の外堀にぐるりと囲まれており、敵の侵入を 妨げている。 部隊が減速する必要がないよう、大手門がだいぶ離れたところか ら下がり始める。五〇メートルを切ったところで完全な橋となった。 馬車隊が駆け抜けると、再び門が上がっていく。大手門から王城ま ではパッと見て三〇〇メートルはある。間にあるのは立派な庭園だ。 大きいとは思っていたが、改めてその規模に驚かされた。 城門を潜ったところで馬車はようやく停まった。先にティルメア が降車し、こうべを垂れる。促されるままに馬車を降りて、太一と 奏は感動を思う存分味わった。絢爛というよりは剛健。しかし決し て気品を損なうようなことがない。絶妙なバランスの上に建築され た城。建築士のセンスの良さがそこかしこから窺えた。 海外旅行に行ったことのない太一と奏が見たことがあるのは、有 723 名なテーマパークにあるアトラクションの城だけだったため、多少 の違和感がないことも無かったが。 エリステイン城が建築された時代は世界情勢がだいぶ違い、隣国 の豊かさを求めた侵略戦争がそこかしこで起きていた。城は砦も兼 ねるのが当時の当たり前。ただ豪華さを求めればいいというわけで はなかったのが、そのギャップの正体である。 現在は国同士の戦争が起きていない時代。今から新たに城を建て るとすれば、かなり様相も変わるだろう。 勝手に動くのは憚られる。自由人な太一には、あっちに行きたい こっちに行きたいという欲求があったがどうにか堪えている。こう いうカッチリとした場所は苦手なのだ。早く立ち去りたいが、勝手 な事をすると叱られそうなので留まる。少し自由にしたら怒られた 全校集会を思い出していた。太一の名誉のために言うと、叱られた のは彼を含む数人である。 ﹁皆さん。長旅ご苦労様でした﹂ こちらに静かに歩いてきたシャルロットが頭を下げる。 場がどよめく。他国の王族ならまだしも、それ以外に頭を下げる のが許される身分ではない。 王族としては相当腰が低いと他国でも噂が通っているが、それで も平民に対して行う礼ではなかった。口出ししたい者はこの場に何 人もいたが、シャルロットの侍女や近衛騎士団らが何も言わなかっ たので口を開く輩はいなかった。 ﹁私は皆さんが無事到着されたことを陛下に報告せねばなりません。 申し訳ないのですが、その間別室でお待ちください﹂ 左手から別の侍女が現れる。彼女が案内してくれるのだろう。テ ィルメアはシャルロットの斜め後方に控えたままだ。彼女による世 724 話は旅の終わりとともに終了したようだ。 待つことそのものに不満はないため、四人はシャルロットの言葉 に頷いた。 シャルロットが背を向けて城内へ入っていく。数名の騎士を引き 連れているのを当然としている辺り、やはり彼女とはそもそも基盤 とする常識が違うとしみじみ思ったのだった。 そばにいた侍女はリーサと名乗った。彼女を先頭に城内を進む。 通路に敷かれた絨毯の上を歩きながら曲がって登ってまた曲がって。 三回目曲がった時、太一はもう戻る道が分からないと自信をもって 言えた。逃げなければならない事態になったらどうしよう、と考え て、どうもしない、とすぐに思い直した。どの向きでも一直線に進 めばいいと考えたのだ。もちろん、障害物はぶち抜いて。荒っぽい その考えは間違っていなかった。緊急事態になったらそうすればい いとレミーアも考えていたから。 ﹁こちらです﹂ 歩き続けて一〇分そこそこ。先導していたリーサがある扉の前で 立ち止まった。 かちりと音がして戸が開く。 目に飛び込んできたのは、五〇畳はある巨大な部屋だった。奏の 実家のリビングのおよそ倍の広さである。 ﹁ひろ﹂ 太一の素直な感想に、案内役の侍女は﹁賓客用の客室ですので、 これくらいはなければ体面が保てません﹂とすまし顔。この規模の 客室が後七部屋あり、客室と名のつく部屋はまだまだあるという。 ﹁ひとまずこちらで羽を伸ばされてください。何かあればなんなり 725 とご用命を﹂ 深々と礼をして、リーサは扉の横に佇む。気配も薄くなっている。 彼女も色々な意味でデキるようだ。ティルメアと並ぶくらいだろう か。 その予測は当たっていた。ティルメアもリーサもシャルロットの 侍女。この城の中でトップレベルの能力を持った者ばかりだ。 巨大なソファに腰掛けてくつろぐ。間髪入れずに用意された紅茶 とお茶請け。タイミングも味も言うことなし。実に優秀な侍女であ る。だからこそ。 ﹁リーサと言ったな﹂ ﹁どうかなさいましたか﹂ 腰を落ち着けて十数分。レミーアはリーサを呼んだ。 ﹁内輪で話をしたい。済まないが外してくれ﹂ ﹁申し訳ありませんが、皆様の手足となりお世話するようにと申し 使っておりますので退室は出来ません。私はいないものと扱って頂 いて結構です﹂ 意訳は﹁監視対象から離れるなんてとんでもない﹂だ。 シャルロットの命令は純粋な世話役だろうが、誰かがそこに命令 を付け加えたのだと思われる。 勿論、この程度の展開は予測済みである。 ﹁そうか。先程からこの部屋を盗み聞きしている助平がいるのでな。 その者に外してもらいたい﹂ ﹁っ、なんのことでしょう﹂ 726 致命的なミス。リーサの返事が半拍遅れた。 ﹁そう来るか。まあよい。エリステインは、招いた客に音声遮断結 界を使わせる無粋な国と言うことだな﹂ ﹁⋮⋮失礼しました。部屋の外におりますので、ご用命あれば何な りと﹂ リーサが退室し、そして天井にあった気配も消えた。 これが一端の魔術師であったなら、ここまでの応酬は出来ない。 しかしレミーアは立場が違う。﹃落葉の魔術師﹄の異名は他国ま で響いている。発言の影響力がそんじょそこらの魔術師とは次元が 違うのだ。 二つ名持ちの冒険者や魔術師に対して下手な対応をとれば、尊敬 されるべき存在に敬意を払わない無礼者、というレッテルが貼られ てしまう。偉大な戦果を挙げなければ付かないのが二つ名。かつて ジェラードが言っていた下手な貴族よりも高い影響力とはそういう ことだ。 二つ名持ちとはいえ、一冒険者と国とではその力はレベルが違う。 それでも国が敬意を払わなければならない理由がもちろん存在する。 二つ名が歴史に登場した当初はそこまで敬意を払われることはな かった。一冒険者だからという認識で、扱いも変わらない。その中 で、とある国が﹃二つ名持ちを優遇する﹄と言い出した。そこにい けば認めてもらえ、国から厚待遇を受けられる。二つ名持ちは皆そ の国に流れた。二つ名を得るために払った代償や努力を認めてもら えない国になど、冒険者は居着きたいと思わない。慌てたのはその 他の国だ。二つ名持ちが持っているのは単なる強さだけてはない。 ノウハウや知識が丸ごと他国に持っていかれ、その国とそれ以外の 国とでは冒険者の質に巨大な差が出てしまったのだ。 その後はどの国も競って二つ名持ちを優遇するようになり、やが て国によって優待制度の質に差が出ないように協定が結ばれ、今に 727 至る。二つ名持ちを不遇に扱えば、﹁過去から何も学ばぬうつけも の﹂と陰で囁かれ、侮られるはめになるのだ。国にとっては主に外 交の面で不利になる。 勘違いないように言うと、現在の制度で優遇されるのは食住税含 む金銭面や、ちょっとした交渉時の手札としてだ。横柄な振る舞い までも許されるわけではない。 ﹁二つ名もたまには役に立つな﹂ 時に崇拝される要因のため辟易しながらも返上しない理由がこれ だ。こういう使い方が出来て便利なのも事実なので、手放すのは惜 しいのだ。 ﹁珍しいですね。レミーアさんが二つ名を利用するなんて﹂ ﹁散々鬱陶しい思いをさせられているのだ、このくらいは良かろう﹂ ミューラは頷いた。レミーアが二つ名を疎ましく思っているのを 知っているからだ。 ﹁さて。今後について話し合いをしよう。恐らくは、こういう展開 になるだろうからな﹂ レミーアは自身の考えを三人に伝え、三人からもまた意見を得る。 話し合いは一時間を越えて続いた。 ◇◇◇◇◇ 728 ところ変わって執務室。 華美ではないが隠しきれない威厳が漂う。流石に一国の王女の執 務室となれば、やはりものが違うといったところか。 ﹁⋮⋮なるほどな。レミーア殿に諫言をもらったか﹂ ﹁はっ。下級貴族の諜報では隠れるのは不可能かと﹂ 大柄な騎士の声に、誰かが応える。姿は見えない。気配を探るの に長けていて、漸くいることが分かる程度だろう。 ﹁お前たちは露見していないだろうな﹂ ﹁はい。現在のところは露見しておりません。大きく距離を取らざ るを得ませんが﹂ 実際は奏のソナー魔術でそこに誰かがいることはバレている。し かし、当然ながら城には他にもたくさん人間がいるため、特定の人 物が諜報だとはバレていない。城の人間の一人だと思われている。 木を隠すなら森である。 ﹁分かりました。ご苦労様﹂ ﹁はっ﹂ シャルロットの労いに応えた何者かは、そのまま気配を消して何 処かへ消えていった。 729 ﹁テスラン。情報は貴族派に﹂ ﹁はい。予想通り嗅ぎ付けたようです﹂ 鎧がカチャリと鳴る。 ﹁ここまでは順調のようですね。ティルメア﹂ ﹁はい、姫様﹂ ﹁あの四人が味方してくれるためには、何か足りないものがあると 思いますか?﹂ ﹁よほどこちらが理不尽なことをしない限りは。後は、我々が先方 の要求をきちんと呑むことが求められるかと﹂ ﹁やはり、そうなりますか⋮⋮﹂ シャルロットは不安げな表情を隠そうともしない。ここには彼女 の腹心であるテスランとティルメアしかいない。 シャルロットの不安も当然だ。王家側は概ね﹁異世界の二人に国 を救う手助けをしてもらう﹂というシャルロットの考えと同調して いるが、王族派も一枚岩ではない。太一と奏の招聘に反対する者も いるのだ。 ﹁やはり、父上と宰相と意思確認しておきましょう﹂ 二人に外すよう命じる。執務室に一人残ったシャルロットは、窓 から外を見詰める。城下町が目に映った。今は活気のかの字すらな い、城下町が。 ﹁これが、国の│││いいえ、世界存続の為だと仰るのですね﹂ そもそも、召喚術を行使した理由の大部分は別にある。 エリステインを救うというのは、表向きの大義名分でしかない。 730 本当の理由は、腹心である二人にはもちろん、王である彼女の父 にすら話していない。話せるような事ではなかったからだ。 前提条件として、この事を疑うという選択肢は存在しない。存在 してはいけない。 ﹁そのためなら、わたしは⋮⋮﹂ この身を太一と奏に差し出すことすら躊躇わない。煮るなり焼く なり好きなようにすればよいと思っている。 争いのない故郷で平和に暮らしていた二人の少年少女。この世界 に来なければ、さぞ幸せな人生を紡いだだろう。シャルロットは│ ││否。この世界は、自分達の都合だけで、彼らの人生をとことん まで狂わせた。むしろ、自分如きの身体ひとつで購えるなら代償と しては破格とも言える。 誰に言うことも出来ず。小さな肩には重すぎる荷物を抱えたシャ ルロットの苦悩は続く。 731 シャルロットの苦悩︵後書き︶ 昨日妹の結婚式があって、その準備でバタバタして書けませんでし た。 〇お知らせ 活動報告には書きましたが、夏のホラーイベントに参加します。 そちらを書き上げてから次の話に取り掛かります。 ご了承ください。 読んでくださってありがとうございます。 732 謁見の間︵前書き︶ ホラー小説一段落つきました。 733 謁見の間 太一と奏が見ているのは、ふかふかの赤い絨毯。歩くと足が沈ん でふわふわとした感触を与えてくる。土足で踏むには抵抗がある。 これを買うには日本円で幾らだろう、と考えてみるが、そもそも絨 毯の価値など分からないので思考が止まる。 言うまでもなく、ここは謁見の間だ。入り口から玉座まで伸びる 絨毯の左右に等間隔に騎士が立っている。騎士の中には、シャルロ ット側近の近衛騎士たちの姿もあった。玉座の付近には、数人の豪 奢な服を着た者たちがいる。あれが恐らくこの国の重鎮たちなのだ ろう。レミーアに言われた前情報通りだった。 玉座の数メートル前まで進んでから、ゆっくりとした動作で傅く。 横ではレミーアとミューラも同じ姿勢を取っている。 四人がほぼ同時に、淀みなくこの姿勢を取ったことで、謁見の間 の空気が一瞬揺らいだのを、太一は感じ取った。 レミーアの表情は髪に隠れて見えていないが、恐らくは悪い笑み を浮かべていることだろう。めざとい者以外にはバレないように、 わずかな変化で。 ﹁おもてを上げよ﹂ その言葉を得てから顔を上げる。 玉座に腰を下ろす男が目に入る。 ﹁遠路はるばるご苦労だった。予がジルマールだ﹂ ジルマール=エリステイン。エリステイン魔法王国当代国王で、 シャルロットの実父。あの美貌の姫の父親だけあり、彼もかなりの 美丈夫だ。彼の血がシャルロットの美しさの原風景なのだろう。そ 734 のシャルロットは玉座の横に立って、こちらに視線を寄越していた。 どうやら同席するようだ。彼女の横にはもう一人、これまた飛び切 りの美人が立っている。彼女は王妃だろうか。それとも、第一王女 か。王妃だとすると、二人目の娘であるシャルロットを産んで尚あ の若さと美貌、スタイルを保っていることになる。第一王女と思い たいが、そうすると今度はシャルロットと歳が離れすぎているよう にも思う。年齢不詳もいいところだ。 ﹁さて。だらだらと前口上を並べるのは趣味ではない。早速本題に 入ろうか﹂ ジルマールは視線を太一たちに固定したまま言う。 ﹁娘⋮⋮シャルロットから、お前たちが我々に手を貸してくれると 聞いている。その事に相違は無いか?﹂ ﹁相違はございません﹂ 応じたのはこちら側の交渉役であるレミーアだ。経験値や頭の回 転の速さから言っても、彼女がこの中で一番の適任であることは間 違いないと、太一は二人が言葉を交わす様子を見ながら思った。 頭の回転という意味では、奏もいい線を行っている。しかし、こ の場においては少し分が悪いと太一は思っている。 彼と同じく、奏も呑まれている。ジルマールが放つ、覇者として の雰囲気に。 単なる戦闘能力では測れない、人の上に立つ者だけが持つ空気。 闘えばまず負けないだろうが、戦場のそれとは違う威圧感だ。 ﹁そこの二人とも是非言葉を交わしたい。先程から黙っているが、 何か意図があってのことかな? 異界の少年少女よ﹂ 735 思慮に耽っていた最中、その言葉を聞き取れたのは幸運だった。 水が向けられそうだと思ったが、寸ででレミーアがインターセプ トした。 ﹁二人は、陛下のように高貴なお方と接するための礼儀に自信がな いと申しております。その為、この場は私が取り持たせて頂いてお ります﹂ ふむ、とジルマールは頷いた。恐らくはレミーアの言葉を計りか ねている。先程のエリステイン式の王家礼式は見事なものだった。 レミーアが叩き込んだものであったが、一朝一夕にしてはかなり様 になっていたのだ。知っていたからと言って、簡単に出来るもので もない。そしてこういった厳粛な場での振る舞い方にも多少なり心 得があるようにジルマールには見えたのだ。 それと話し方に差があるかもしれないが、これだけの人の前で礼 節を保てているなら、そこまで非礼な事はしないだろうとジルマー ルは思った。 ﹁良かろう。多少の無礼は不問とする。予と話してくれぬか﹂ それに対し、一部の騎士や貴族が口を尖らせる。やれ王家の威信 に関わる、やれ平民に甘い。それらの喧騒を一通り聞いたジルマー ルは。 ﹁静まれ﹂ 凪いだ海のような、それでも良く通る声で謁見の間を一喝した。 ﹁予が許すと決めたのだ。何故それにお前たちが口を出す﹂ 736 しん、と場に静寂が落ちる。 あのざわめきを拡声すらせずに鎮める辺りに、ジルマールの非凡 さが垣間見える。この騒ぎにあって、ジルマールの近くにいる人々 は全く動じていないのが印象的だった。彼らは本当の意味で王の側 近なのだろう。 ﹁済まんな。彼らも国を思うが故。大目に見てやってくれ﹂ 国王にそう言われては許すしかない。もっとも気にする意味もな いのだが。 この辺りもレミーアの予測の範囲だ。待っているときに様々なシ ミュレーションが行われ、その中にこんな展開も話題に上った記憶 があったからだ。それは二つ名持ちの優秀な魔術師に任せるとして、 太一と奏はジルマールに集中する。 ﹁タイチ=ニシムラ。カナデ=アヅマ。この名に誤りは無いな?﹂ 最近では呼ばれ慣れた形式。特に間違いもないので肯定する。 ﹁済まなかったな。故郷を無理矢理捨てさせる事になってしまった﹂ 初っぱなから出た王からの謝罪。気にしていないと言うわけにも 行かず、神妙な顔をするだけだ。それ以外に応じようが無い。 ﹁シャルロットからは、タイチとカナデ、お前たち二人が随分と腹 を立てていると聞いている﹂ ﹁まあ⋮⋮そうですね﹂ 太一はそれに頷く。余計な相槌は気にしないことにした。 737 ﹁娘を責めないでやってくれないか。召喚魔法陣を紡ぐよう命じた のたのは予だ。シャルロットは、王女として予の命令に従っただけ なのだ﹂ 王の命令に従っただけ、と居直ることも、シャルロットには可能 だった。しかし彼女の心はそうならなかった。どんな事情があれ、 召喚魔法陣を行使したのはシャルロット。喚びました、失敗しまし た、仕方なし、とは出来なかった。自ら迎えに行き、自らの頭を下 げる。この世界の人間に対してなら、良し悪しは別にして絶大な効 果のあるシャルロットの低頭。異世界の住人に対してはどれだけの 価値があるかは分からないとしても。 ﹁では、陛下に怒りをぶつければ良いですか?﹂ 太一はストレートにカードを切ってみた。多少の無礼は許すと言 われたが、そのさじ加減が分からないのでは踏み込みようがない。 最悪、自分達の周りに高風圧でバリアを張ればいい。エアリィに駆 使させるバリアを破られるとは到底思えなかったからだ。 後に、太一の魔法も条件次第では破られる事も有り得ると判明す るのだが、今は関係なく、それを知るのが先のことであるため割愛 する。理由としては、太一の魔法を破るには余程都合の良い条件が 必要になってくる上、その方法が実行可能な者はこの世界に一人し かいない事が挙げられる。 ﹁予を恨むのも良かろう。それで気が済むのならな﹂ 普通なら不遜と取られてもよい態度だったが、ジルマールは眉一 つ動かさなかった。この程度は挑発にすらならないらしい。 ﹁まあ、俺達がシャルロット姫様に対して怒ってた理由は、理不尽 738 な扱いを受けたからだけじゃないんですけどね﹂ 一度踏み込んで平気だったので、太一は少しだけ崩した。ダメな ラインは踏まないように注意しながら、遠慮はせずに切り込む。普 通に考えれば降り注ぐ火の玉の中を丸裸で駆け抜けるようなものだ が、太一はそれを力ずくで振り払えるからこそ出来ることだ。 ﹁ほう? それはなにかね?﹂ シャルロットがぴくりと動いたのが太一には見えた。やはり気に なるのだろう。教える気はないのだが。 ﹁いや。こればっかりは、本人に自分で気付いて欲しいです﹂ ﹁だそうだぞ、シャル﹂ ﹁⋮⋮はい﹂ 消え入るような声で答えるシャルロット。気の毒に見えたことだ ろう。当事者でなければ。 ﹁では、話を戻そう。お前たちはアズパイアで冒険者を生業として いるそうだな。貴族派に対して勝利した場合、これを依頼と捉えて 相応の報酬は当然用意するつもりだ。何を望む?﹂ 太一は奏に目を向ける。頷く彼女を見て、予め用意してあった答 えを返す。レミーアとも話し合い、こう答えろと言われていた答え を。 ﹁元の世界に戻してください﹂ この答えは当然ジルマールも予測していただろう。その上で、彼 739 は残念そうな顔をした。 ﹁済まないが、それは叶えてやることは出来ん﹂ ショックは無い。時空属性を持つシャルロットが不可能だと言っ たのだから、この答えも想定内だ。 ﹁そうですか。では、逆に何を用意して下さいますか?﹂ 奏が問い返す。 ﹁そうだな。最低でも、お前たちが一生を三度は生きるのに困らぬ 金銭を用意しよう。それで足りなくば五度でも一〇度でもよい﹂ そんな金を得ても使い途が無いだけだが、無いよりはマシか。あ くまでもマシ程度で、欲しいものではないため素直に喜べない。 金銭で賄おうとする展開は予定通り。ジルマールがその先の言葉 を待っているのが分かった。話が早くて助かるというものだ。 ﹁もう一つ⋮⋮王立魔術図書館の立ち入り禁止区域への立ち入り許 可を下さい﹂ ここに来て初めて、ジルマールの顔色が変わる。 ついでに畳み掛ける。 ﹁後、禁止区域からのみ行ける地下にあると言われている、禁書だ けを収めた書庫の利用許可も下さいますか﹂ ここまで言って、ジルマールはむしろ愉快そうに笑った。とても 精悍な笑みだった。 740 ﹁⋮⋮ふっ。ふははっ。食えないな。レミーア殿の入れ知恵か﹂ その通り。異世界出身の太一と奏が知りうる筈の無い情報。否定 する意味も理由もないので、それに答えることもない。 エリステインの歴史と共に蓄積された叡知。他国が喉から手が出 るほど欲しがるエリステインの秘宝。それを対価として要求しろと レミーアに指示されたのだ。この要求が意味するところは、考える までもなかった。 ﹁バカにするのも大概にしろ!﹂ 貴族の一人が激昂する。 │││かかった。 こうなるのを待っていた。望んだ展開だ。 もちろん本気で要求しているが、こうなることも狙っていたのだ。 ﹁バカにする? 何が?﹂ ﹁貴様、ここがどこだか分かっているのか!﹂ ﹁お・し・ろ﹂ 舐めきった太一の態度。 相手の怒りの炎に油を注ぐ。勿論わざとだ。 バカにされたはずのジルマールだが、彼は笑みを消していない。 怒るどころか成り行きを楽しんで見ているようだ。 ︵食えないのはどっちだよ︶ 741 偽らざる本音だった。 ﹁度重なる無礼、見逃す事は出来ん! 提示された金品だけでも十 二分だろう! 撤回しろ!﹂ ﹁えー﹂ ﹁何だその態度は! 怪我をしない内に撤回したほうが身のためだ ぞ!﹂ その言葉と同時に、数名の騎士が抜剣した。その中にはミゲール の姿もあった。やっと抜いたか、という思いが大きい。もちろんバ カ正直に言ったりはしない。 ﹁この剣を納めるのに必要なのが何か、小生意気にもそれなりに頭 の回る貴様なら分かるな?﹂ もちろん分かる。 一つは要求を呑む事。 黙りこんだ太一を見て、貴族は得意げに笑みを浮かべた。 ﹁貴様らに釣り合うだけの報酬を受け取っていればいいのだ。大人 しくな﹂ もう一つは、力で捻じ伏せる事。 ﹁釣り合えばいいんだな?﹂ ﹁フン。釣り合えば、な﹂ ﹁よし、言ったな。アンタこそ撤回すんなよ﹂ 視線をレミーアに配る。彼女が頷いたのを見て、太一は手加減抜 きで行こうと決めた。 742 太一は右手を前に伸ばす。 ﹁召喚。エアリアル﹂ 黒い髪をなびかせるゆるい風を周囲に纏う。 その右手の先に魔力が収束し、掌サイズの少女が姿を現した。 ﹁もー! 酷いよたいち! ここんとこずっと具現化してくんない んだから!﹂ 現れるや否や愛らしい仕草で膨れる少女。 容姿も仕草も、群を抜く可愛らしさ。男女問わず見とれてしまう だろう。 普通なら。 そこに、強力な魔力が渦を巻いていなければ。 金属と石を打った音を響かせて、数名がその場に倒れ伏した。 ﹁まーそう言うなって。オイシイとこで喚んだだろ?﹂ ﹁それは、まあ⋮⋮そうね﹂ エアリィは周囲を見渡して、微笑んだ。とても楽しそうに。無邪 気に。 しかしそれを眺めるのに、胸中穏やかでいられる者は殆どいなか った。 ﹁な、何だ⋮⋮それは﹂ ﹁それとか失礼しちゃうなー。たいちがエアリアル、って言ったじ ゃない。知らないの?﹂ ﹁い、いや⋮⋮﹂ 743 エアリアルがどういう存在か、この世界に住む人間が知らないは ずが無い。単純に、認めたくなかっただけだ。 ﹁俺が召喚術師だって事、知らなかった訳じゃないだろ?﹂ 太一と奏がどういうクラスの魔術師かは、エリステインの王族派、 貴族派問わず情報が落ちている。知らないはずが無い。 その大多数が、﹁ありえない﹂と真面目に捉えていなかったのが 原因なのだが。 謁見の間がやけに静かだ。むしろ、今しがた言葉を発する事が出 来た貴族を褒めるべきだろう。 太一は、エアリィを七〇の力で召喚した。 これまで最大でも五〇だった事を考えれば、最高記録更新である。 どんなものかと思ったが、身体から抜ける魔力の感覚を感じ取ると、 魔力強化している時と大差無い。 しかし、これによって得られる対外への効果は、絶大だった。 太一の持つただでさえ圧倒的な魔力を、エアリィが受け取ってい る。魔力の操作能力は人間と精霊ではそもそも比べるのもおこがま しいほどに差がある。魔力を最大限に生かす。それが可能だからこ その効果。 余談だが、エアリィにとって太一の魔力は極上のご馳走らしい。 現在謁見の間を占拠しているのは、太一の魔力をエアリィが受け 取る事によって発生している強烈なプレッシャー。 直接中てられる事がないように注意を払っているにも関わらず、 またその矛先が向く事が無いと分かっているにも関わらず、奏、ミ ューラ、レミーアの三人の顔が引きつっているのがいい証拠だ。 気を保てなかった騎士が、召喚と同時に気を失って崩れ落ちたの もそれに拍車をかけている。 ジルマールさえも圧倒する事が出来ている。この場を支配するの に成功した。 744 ﹁なあエアリィ﹂ ﹁なぁに?﹂ ﹁今だったら、どんな事が出来る?﹂ 抽象的な太一の問いかけの意図を正確に読み取ったエアリィは、 にっこりとイイ笑顔を浮かべた。 ﹁このお城位なら簡単に更地に出来るけど。それじゃあ不満?﹂ ﹁更地? 具体的には?﹂ ﹁そうね。一瞬でぺちゃんこにしてあげる﹂ ﹁上から押し潰すのか﹂ ﹁うん。かなでが前ちらっと言ってた、ダウンなんちゃらってやつ﹂ いやらしいやり取りだと、張本人ながら思う太一。 これではどちらが脅しだか分かったものではない。 国相手に恫喝するなど、凡そまともな神経では出来たものではな いだろうな、と太一は思う。だが、まともな神経でも、持っている 力がチート、いわゆるズルレベルであるため、気にする事は無いと も思っている。アズパイアの時点で力を隠すのを止めたのだ。無駄 にひけらかすつもりもないが、必要とあらば使うことに躊躇いはな い。 そもそもこの流れに持ってくるのが狙いだったので、自重する気 は一切無い。 因みに、この城の建物面積で大体四ヘクタールだ。 甲子園球場を打ち下ろしの一撃のみで全て押し潰すと考えれば分 かりやすいだろうか。 ﹁⋮⋮風の上級精霊か﹂ 745 今までずっと固まっていて、やっと再起動したらしいジルマール が、呻くように呟いた。 ﹁そうです。これが俺の魔術、あ、召喚術師はユニークマジシャン だから魔法になるんでしたね﹂ ﹁まあ、そうだな⋮⋮﹂ そんな分類は些細である。 この力の奔流の前では。 太一の力を初めて目の当たりにしたシャルロット、第一王女︵恐 らく︶含む王の側近たちは未だに固まっている。完全に想定外だっ たのだろう。 ﹁あ、一応言っときますけど、今で大体七分位ですからね﹂ ﹁⋮⋮今、聞きたくない何かが聞こえたな﹂ 全くもって同感だとレミーアがジルマールに同調する。 何やら目線でやり取りをしている二人。何となく失礼な事を考え られているようにも思えたが、ここはスルーする事にした。 ﹁ジルマール陛下。これでもご不満ですか?﹂ 先ほどまで舌戦を繰り広げた貴族にではなく、ジルマールに直接 問う。 報酬を決めるのは無論国王。貴族といえど、決定権があるはずも なかった。 ﹁うむ。それほどの力を持っているというのなら我々としても心強 い。金銭に加え、王立魔術図書館の全面的な使用許可を報酬としよ う﹂ 746 まだエアリィによるプレッシャーは解いていない。なのにジルマ ールは気を取り直している。凄まじいメンタルの強靭さだ。伊達に 三大国家のひとつを治めていないということか。 ﹁そうですか。それは良かったです﹂ 交渉が成功した事で、太一もホッと一息つく。実は結構いっぱい いっぱいだった。エアリィを召喚する事が出来なければ、ここまで 話す事は出来なかっただろうと考える。最初の時点で、ジルマール が持つ覇者の雰囲気に呑まれていたのだから。 ﹁無駄だよ﹂ エアリィがふと呟き、直後硬質の音が響く。 太一に向かって降り下ろされた剣が、途中で止まっていた。打っ てきたのはミゲール。 空中で止められた剣を眺め、信じられないといった顔をしていた。 ﹁アタシとたいちの魔力に中てられながら、それでも動けた事は褒 めたげる﹂ エアリィが人差し指で空中に線を引く。つい、と動かされたその 指に合わせて、何か極細の線が紡がれて。 カラン、と。ミゲールが持っていた剣の刀身が半ばから床に落下 した。今まで支えていたテーブルが突如消えたかのような、自然な のに不自然な自由落下だった。 ミゲールは二歩、三歩と後ずさりし、バターナイフで綺麗に切り 取られたような自分の愛剣を呆然と見つめる。 747 ﹁魔剣ならまだしもね。ただの剣で、どうにか出来るなんて思わな いほうがいいよ?﹂ 一連のやり取りを見ていた太一は、剣を抜いた。ティルメアを始 めとする、ウェネーフィクスまでの旅路を共にした者たちには露呈 している﹁剣は素人﹂という事実。しかし最早、それを槍玉に挙げ て太一を舐めるものはこの場にはいない。少なくとも、ミゲール以 外は。 ﹁何のつもりか知らないけどさ﹂ 切っ先をミゲールに向ける。 ﹁後ろから斬りかかって来たって事は、やる気満々って事だよな﹂ ﹁くそっ!﹂ ミゲールは踵を返し、騎士達の間を駆け抜ける。 呆気に取られていた彼らを責める事は出来ないだろう。慌ててミ ゲールを追うものの、既にトップスピードに乗っている彼を止める のは至難だった。 全く速度を落とさぬまま窓まで突進し、そしてそれを突き破って 中空に躍り出た。謁見の間があるのは城の最上階。高さは凡そ三〇 メートル。魔力強化があっても少し躊躇うような高さだ。重力に逆 らわずに自由落下した先は植栽が生い茂る場所。ミゲールの姿は瞬 く間に見えなくなった。 ﹁逃がすか! すぐに追跡部隊を編成しろ!﹂ ﹁待て﹂ 騎士の隊長格と思われる威厳のある怒声が響くが、それをすぐさ 748 まジルマールが制した。 ﹁はっ!﹂ 王から直接声を掛けられ、すぐに床に跪く隊長。 ﹁逃げられても構わない。追跡していると、奴に分かるように追う のだ﹂ ﹁御意!﹂ バタバタとあわただしくなる謁見の間。王と会う場所。その国に おいて神聖でなければならないその場所には似つかわしくない騒ぎ がやがて沈静した頃。 ジルマールはすまなそうにこちらに顔を向けた。 ﹁すまないな。炙り出してくれたこと感謝する﹂ 本人に問いただすまでもない。疑惑が確信に変わった瞬間だった。 太一たちが招かれたのは、王族側の助っ人としてだ。その助っ人 に刃を向ける事の意味が分からないはずが無い。 ミゲールの言動は、表面上はシャルロットを敬っていたが、その 実彼女の意思を無視して太一たちに突っかかっていた。言動と行動 に矛盾があった事は大いに感じていた事だったが、彼が裏切り者で、 太一たちの感情を逆撫でしようという意図が根底にあったと思えば 納得が行く。 それを炙り出そうと考えたのはレミーアだった。ミゲールが行動 を起こさない可能性は考えられたが、シャルロットが太一と奏に会 いに来たその席で、シャルロットの前に出て太一と奏に文句を言っ た。一近衛騎士が口出しなど考えられない。太一と奏のシャルロッ トに対する心象を悪くする為に行動したのだと考えれば納得も行く。 749 そもそもあの席に何故彼がいられたのかという疑問も残る。感情 を排除して冷静にシャルロットの目的を考えれば、恐らくは何者か に強引に捻じ込まれたのだろうと予測出来る。 それはさておき、面白いくらいに上手く事が運んでいる。これは 最大限の成果だ。 レミーアは仕上げに入る事にした。 ﹁まさか、王がおられる場所で命を狙われるとは思いませんでした﹂ ﹁⋮⋮﹂ 頭のいいジルマールならこの言葉の意味が分かるだろう。そう思 って投げかけた言葉。 交渉を引き受けたレミーアからすれば、この依頼を蹴る事も選択 肢としてきちんと残している。 エリステインという国に住み続ける理由は無いのだ。アズパイア で得た知己の安否も気にはなるが、全員を助けられると傲慢な事は 考えていない。だが仲のいい宿屋の看板娘や、ユーラフで助けた人 々。自分達の命が大事だからと安易に斬り捨てられないと訴えたの は太一と奏。最後までもがきたいと二人が願った結果、ギリギリま で交渉するとレミーアは彼らの願いを聞き入れた。その願いを聞き 入れる条件として、得られる報酬に旨味が無いのなら、受けるに値 する依頼ではないとも念を押した。国を救って得られるのが金銭だ け。得られたチート能力でもって稼げば済むものを前払いされたと ころであまり旨味は無い。渋々ながら太一と奏も了承した。 引き出した条件で妥協が可能か。最終的な決断を委ねられたレミ ーアとしては、図書館の使用許可程度では安請け合いだと考えてい る。もう一押し。これが一番の望み。 案の定浮かべられた不敵な笑みに、レミーアもまた不敵に笑った。 ﹁何が望みだ﹂ 750 この言葉だ。本当の意味で、こちらからの要求を遠慮なくぶつけ る許可証。 ミゲールの襲撃は、太一に対して無駄な行為なのは誰の目にも明 らかだ。だが問題はそこではない。 ﹁謁見の間﹂という場所に﹁裏切り者﹂が紛れ込み、﹁国賓を斬 り付けた﹂という事実こそが大切なのだ。 レミーアはジルマールの目を真っ直ぐ見据えた。 ﹁では、僭越ながら申し上げます﹂ 少しだけもったいぶって、﹃本命﹄の願いをジルマールに要求し た。 ﹁シャルロット殿下の、我々への無条件の協力。これを、報酬に加 えていただきたく存じます﹂ ジルマールは目を丸くした。 ﹁始めから、それが望みだったのだな﹂ ﹁⋮⋮﹂ レミーアは微笑むだけだ。 ﹁良かろう。お前達の要求を聞き入れる﹂ 一冒険者達による、王家に対して対等の交渉という歴史上でも稀 な出来事を成し遂げた瞬間だった。 751 謁見の間︵後書き︶ 早速修正しました。 矛盾無いとは思うんですが ⋮ 読んでくださってありがとうございます。 752 エリステインの重鎮たち 国王の執務室。王が執政を行う場所。重要な案件が捌かれるこの 場所に、太一と奏らは連れられた。 こちらから提示した条件が呑まれたため、﹁依頼を受ける﹂とレ ミーアが改めて決定した。その流れで王族側の陣営の紹介と、現状 の情報公開が行われることとなったのだ。 ずらりと並んだ、三大国家の一つを運営する重鎮たち。 あれだけ太一に圧倒されたにも関わらず、彼らの目はしっかりと こちらを見詰めている。太い芯がど真ん中を貫いているのだろう。 ﹁では、改めて紹介しよう。ここにいる者たちは予の腹心と右腕。 予が最も信頼する者たちだ﹂ 腹心と明言する辺り、彼がどれだけ信頼しているかが窺える。 ジルマールの言葉を受け、まず前に出たのは、彼の横に立ってい たあの美しい女性だ。 ﹁では、わたくしから自己紹介させて頂きますね﹂ にこりと柔らかく微笑まれ、太一に限らず奏も見とれた。 ﹁第一王女、エフティヒアでございます。エフティと愛称で呼んで くださって結構ですよ﹂ 第一王女。年齢不詳の彼女はシャルロットの姉らしい。 不躾極まりない感想だったが、どうやら顔に出さずに済んだよう で、誰からも反応はなかった。 753 ﹁はっはっは。美しいだろう。エフティヒア様もシャルロット様も、 エリステイン自慢の美姫だからな。見とれるのもよう分かる。見慣 れてる筈のわしも見とれるくらいだからな﹂ 次いで矢継ぎ早に言葉を紡いだのは、頭頂部が禿げた背の低い恰 幅のいいエロ面の中年親父。失礼甚だしいが、正直な第一印象だ。 ﹁ヘクマ。名乗ってからにしなさいな﹂ エフティヒアにたしなめられ、﹁いや失礼﹂と禿げ頭をぺちりと 叩いた。 ﹁エリステイン魔法王国、当代の宰相を務めているヘクマ=コドラ だ。こう見えて仕事は出来るから勘違いするでないぞ﹂ 愉快な親父である。だが騙されてはいけない。彼の眼は鋭い。こ ちらを見極めようと、細かい事も見逃すまいと皿になっている。そ の外見と気さくな振る舞いに一体何人が油断させられてきただろう か。 ﹁自分で自分を優秀などとよく言えるな﹂ ﹁事実だから仕方あるまい﹂ ﹁全く。誇張でないから始末におえん﹂ 燃えるような紅の髪をかきあげながら、ため息をついて一歩前に 出る妙齢の女。背はレミーアよりも高いかもしれない。槍のような 眼光はそれだけで人を射殺してしまえそうだ。 ﹁将軍、スミェーラ=ガーヤだ。協力感謝する﹂ 754 無駄に言葉を口にしないその姿勢に好感を抱く。ただし、自分達 に力がある前提だ。もしも異世界に来たばかりの状態だったら、彼 女の前に立つのはごめん被りたいと太一は思う。冗談抜きで目で殺 されてしまいそうだ。 ﹁私の横にいるのは騎士団総長のパソス=ファクルと宮廷魔術師総 長ベラ=ラフマ。私は騎士団と宮廷魔術師の双方の責任者だ﹂ パソス=ファクルは銀色の甲冑に身を包んだ白髪の大男。体躯だ けならバラダーにも劣らない。その強さは彼以上だろう。見た目壮 年だが、鍛えられた身体は積み上げられた時の流れを感じさせない。 剣をカチリと鳴らし、目礼をしてきた。 そしてベラ=ラフマ。濃い緑の生地に金色の刺繍が施してあるロ ーブを身に纏っている。宮廷魔術師の長。見た感じは結構若い女性 だ。優れた才能に胡座をかいていたら到底辿り着ける領域ではない はずだ。どれほどの研鑽を積んだのだろうか。 ﹁久しいな、ベラ﹂ ﹁ご無沙汰しています。レミーア様﹂ 言葉を交わしあう二人に視線が集まる。 ﹁知り合いか?﹂ スミェーラの問いに、ベラが頷く。 ﹁はい。以前、不覚を取ったところを救って頂きました﹂ ﹁ほう。お前ほどの魔術師が不覚を取るとはな﹂ 興味深そうなスミェーラに、ベラは恥ずかしげだ。 755 ﹁駆け出しの頃の話です。お恥ずかしい﹂ ﹁腕を上げたようだな。宮廷魔術師長とは驚いたぞ﹂ ﹁レミーア様にはまるで及びません﹂ 彼女のレミーアを見る目には、尊敬の感情が強く出ていた。 まだ彼女を知らないが故、気付けなかった事実もあるのだが。 ﹁謙遜も程々にな。後でお茶の機会でも設けよう﹂ そう言って、レミーアはスミェーラに顔を向けた。 ﹁済まんな。続けてくれ﹂ 二人の久々の再会を特に遮らず見ていたスミェーラは、レミーア から差し出されたバトンを頷きながら受け取った。 ﹁基本的にはこの二人の指揮下に入ってもらう。状況によって変わ るが、基本方針は今述べた通りだ﹂ ジルマールに確認もせずに決めていいのか。そんな考えも浮かん だが、何も口を挟まないところを見ると、任せているのだろう。 部下を信頼し、権限を与えて自由にやらせ、責任は上が取る。優 れた組織で取られる形の一つである。太一と奏も、日本で社会人と して数年過ごしていれば、そこに気付くことが出来ただろう。 ﹁陛下。紹介終了致しました﹂ 低頭し、バトンをジルマールに返すスミェーラ。 756 ﹁うむ。ここにいる者に、肩書きだけの木偶の坊はいない。困った ことがあれば何でも言うと良い。無論、直接予やエフティ、シャル に言っても構わぬ﹂ 太一は﹁誰に聞いてもいいのね﹂と素直に受け取ったが、奏はそ う思わなかった。直接王に訴えることが許されるなど、普通はあり 得ないはずだ。破格の条件と言っていい。 ジルマールの胸中にどんな思いが去来しているか、奏には分から ないし、たかが一六の小娘に読み取らせたりはしないだろう。 奏が思い付く理由としては、太一が予想以上に凄まじかったため、 不自由させずに王族派でいてもらおうと考えたか、位だ。 強ち間違っていないだろうと思う。太一が味方にいた方が、勝て る確率は格段に上がる。もちろん絶対は無いが、奏なら、敵対組織 に太一がいたら敵前逃亡を選ぶ。相手にしたら負け。太一と戦うな どどんな罰ゲームだろうか。魔力強化しか手持ちに無い状態で、半 分の力も出されずに負けてしまうのに。レミーアやジェラードは、 太一が一〇〇の状態になったら、束になってかかってもかすり傷一 つ負わせられないと評していた。 今はそれに加えてエアリィまでいる。とてもではないが勝てると 思えない。やる前から戦意喪失だ。 ﹁では、状況を説明する。ヘクマ、頼む﹂ ﹁はっ﹂ ジルマールに促され、ヘクマが一歩前に出た。 ﹁わしからは概要だけを簡単に話すとしよう。疑問が生まれたら都 度聞いてくれ。一から一〇まで話したら、一晩ではとても時間が足 りんからな﹂ 757 王族派と貴族派の歯車がずれ始めたのは、凡そ三〇年程前の事だ った。 最初は小さなずれだったという。 それでも、国の運営はしていかなければならないため、お互いに 妥協点を見つけながら何とか政策を決めてきたらしい。 政治としては、その形はむしろ悪くはなかった。 全てが王の考えで決まってしまえば、それは独裁政治だからだ。 そのような形を望まなかった先王は、貴族から出される反対意見に も熱心に耳を傾けた。貴族派も、王が聞く耳を持たないわけではな かったため、歯車がずれていても、目立った反発はなかった。言い がかりにしか思えないような反論にも、何か生かす点が無いかと先 王がきちんと拾ったからだった。 対立が目立ち始めたのは、二〇年前の事。 他国との交流を強めようという政策方針が打ち出されてからだっ た。 無論、それまで交流がなかったわけではない。貿易や知識、技術 交換、王族同士の交流もそれなりには行われていた。 先王はそれを更に強くしようとしたのだ。 今思えば、その時からくすぶる火の温度が高まり始めた、とヘク マは述懐した。 その頃、先王からジルマールに正式に政権が譲渡される。 ジルマールの基本姿勢も、先王を踏襲した。いやむしろ、先王が 打ち出した他国と手を結んで歴史を紡ぐという方針に幼い頃から強 い希望を抱いていたジルマールは、先王よりもより強い形で政策を 考える事が多くなった。 日本風に言えば国際化、と言ったところか。貴族からの反対が強 くなりつつも、何とか協力をしながら国営を続けてきた。 そして、事件は起きた。 宮廷魔術師の他国への派遣。 ジルマールが打ち出したその政策に、貴族派はついに首を縦に振 758 らなかった。 根気良く説得を続ける王族派。それは国益の損失だと頑として聞 かない貴族派。 エリステイン魔法王国という名前が示すとおり、宮廷魔術師の質 は世界一である。これはエリステインが自称しているのではなく、 他国からも多少の嫉妬を含む賞賛を受けた、いわば世界公認の事実 だ。 もちろん、ただでその技術や力を供与する訳ではない。 エリステインがエリステインたる為の最強の矢。それを他国に派 遣しようというのだから、安価なはずがない。それはジルマールも 重々承知しており、宮廷魔術師を派遣させるために相手国に要求す るためには大きな対価を設定した。 それでも、貴族派は動かなかった。それどころか更に反発を強め た。 王族派と貴族派の力は王族派の五対五。勢力差は無い。簡単に戦 える相手ではないし、貴族派と戦えば与えた分だけのダメージが王 族派にも返ってくる事を意味している。 国営が滞り始める。 出来た溝が深かった事に気付いたときには、再び共に国を作って いけるのかと疑うほどに離れてしまっていた。 ﹁⋮⋮とまあ、ここまでが経緯だな﹂ 内政の事はよく分からないが、相容れない価値観がぶつかり合っ た結果の仲違いだと感じる。実際はそんなシンプルな話ではないは ずだが、むしろそのように捉えたほうが大筋から外れないのではな いか、と太一は考えた。 元々難しい事は即座に理解するのは得意ではない。いや、好きで はない。 この好きではない、というのが、奏がいつも言う﹁出来るのにや 759 らない﹂という所以だ。 しかしこの場合に限っては、太一の対応も間違いではないだろう。 対案を出して理性的に解決できるような知識も頭も無いのだから。 ﹁相手はエリステインに所属する貴族ほぼ全てだ。今も王族派に残 る貴族は殆どいないと言って良い﹂ 領地を統治している貴族は子爵や男爵で、基本的には領地にいる という。しかし姿勢は反王族派だといい、王家からの通達を突き返 される事もあるらしい。 それよりも問題なのは、伯爵から上の、子爵や男爵を束ねる立場 にいる者たちだ。 ﹁伯爵、侯爵、公爵といった上級貴族は全てが我々に敵対している。 彼らが持つ力はやはり大きいのでな。手を焼いている所だ﹂ エリステインでは、公爵と呼ばれる地位にいる貴族は一家のみ。 侯爵の爵位を持つ家柄は多い。これは公爵と侯爵に明確な力の差が ある事を示している。但しそれは、侯爵の力が小さい事を意味する ものではないが。 公爵の地位を持つのは建国から変わらないのだという。共に国を 作り上げてきた王の盟友。その名誉を讃え、エリステインにてただ 一家のみ、公爵を名乗る事が許されるのだ。 ﹁その公爵家が今回の反王族派を主導していてな。故にここまでこ じれてしまったのだ﹂ 大まかな流れは理解する事が出来た。 ﹁ドルトエスハイム家。建国以来、ずっと王を陰陽両面から支えて 760 きてくれた公爵家だ﹂ ヘクマから出たその名を聞いて、苦い顔をするジルマール。戦友 といっていい相手から叩きつけられた交流断絶。やはり堪えている のだろう。 難しい問題だ。まともに考えたら頭がパンクしてしまうだろう事 は想像に難くない。 太一は遠慮がちに挙手をした。 ﹁む。何だ﹂ ﹁いや、俺には難しい事は分からないし、政治とか交渉とか出来な いし。なので戦闘だけにしてください﹂ わざわざ口にしたのは何故か。念のため、というのが主な理由だ。 ﹁ここで敵を足止めしてくれ、とか、追い返してくれ、とか、そう いうのだけにしてくださいね。逆にそっちだったら相手が誰でも大 丈夫だと思うので﹂ ヘクマはそれを聞いて、驚かなかった自分に驚いた。 貴族派の勢力は王家と五分五分と話したばかりである。という事 は相手の数が多い事も十分考えられるし、騎士団や宮廷魔術師レベ ルで高い能力を持った相手と戦う事もありえる。それを﹁相手が誰 でも﹂と言い切った。 普通なら考えられない大口だと一蹴されるだろう。それも王やそ の側近だけがいるこの場でだ。驚くべき発言である。 しかしそれも、謁見の間で見せ付けられた化け物のような力を持 ってすれば、十分達成できるだろうと思える。 何せ戦う前に足を竦まされ、微動だに出来なくさせられてしまっ たのだから。 761 まずそこを克服する事から始めなければならないのだから、太一 と相対する者には敵ながら同情を禁じえない。 ﹁よろしい。そのように配慮しよう。出来ると思ったことは言って くれて構わんし、出来ない事は出来ないと言ってくれた方がこちら もありがたい﹂ ﹁助かります。もし知恵が欲しいなら、レミーアさんから聞いたほ うがいいと思います﹂ ﹁うむ。そうしよう﹂ それを聞いて安心した。太一はもう何も無い、と言わんばかりに 一歩下がる。 ﹁まて、坊主﹂ 坊主って。そう思ったのは奏とミューラである。レミーアはそれ を聞いてくつくつと笑っていた。 確かに子供っぽい。いや、見た目だけではなく、中身もだが。 ﹁俺?﹂という顔で自分を指差す太一に声をかけたのは、スミェ ーラだった。 ﹁この席に坊主と呼べる年齢の男がお前以外にいるか﹂ いや、いない。 仮に奏やミューラを呼ぶのなら、小娘、とでも表すだろう。 ﹁なんですか?﹂ 特に何か話せる事があるわけではない。今しがた、知恵を振るう のは不得手だと意思表明したばかりなのだ。 762 ﹁先ほど、どんな相手でも平気だと言ったな﹂ ﹁まあ、はい。多分大丈夫だと﹂ ﹁そうか。では、試しても良いか﹂ 意味が分からずに首を傾げる。 ﹁謁見の間の事を思えば、お前が力不足などとは口が裂けても言え ん。だが、我々も国を預ける側として、より確信を深めたいのだ﹂ ﹁それは分かります﹂ じゃあどうすれば良いのか。太一としては 太一は目線で先を促した。 それには応えずに、スミェーラはジルマールに向き直り、跪いた。 ﹁陛下。僭越ながらお願いがございます﹂ それから二〇分後。太一とスミェーラは中庭で向き合っていた。 ﹁まさか戦う事になるなんて﹂ 一〇メートルほど離れたところで、スミェーラは自身の身体の動 きを確認している。 スミェーラが頼んだのは、太一の力を計らせて欲しいとの願いだ った。それは聞き入れられ、そして今に至る。 王国最強の戦士と召喚術師との一戦と言う類い稀な好カードに、 注目度は俄に高まっている。 ﹁剣を主武器として使い、スタイルはスピード型かな?﹂ 763 太一の格好は腰に鋼の剣を差し、防具は必要最低限という軽戦士 姿。 装備を見ればどのような戦い方をするのか、スミェーラが分から ないはずが無い。 だが太一は、それに対して首を横に振った。 ﹁違うのか?﹂ その回答は意外だったようで、問いかけてくるスミェーラ。 太一は改めて違う、と否定した。 ﹁何が違うのか説明してもらえるか?﹂ 当然の問い。 ﹁いやー。この格好の方が目立たないかなって、最初は思ってたん ですよ﹂ 察しの良いスミェーラは、太一が何を言いたいのかを大体理解し た。要は目立ちたくなかったのだろう。あれだけの力を持って、そ れを間違って発揮してしまえば、嫌でも注目が集まる。力ずくで来 られてもそうそう困りはしないだろうが、面倒な事態になるのは想 像するまでも無い。 そんな面倒を避ける為に纏った、いわばカモフラージュだ。最初 は、という事は今は違うということだ。 ﹁では、今はどんな理由でそんな格好をしている?﹂ ﹁えーっと。カッコいいから?﹂ ﹁はあ?﹂ 764 言ってから、自分の声が相当に間抜けだった事に気付くスミェー ラ。 ﹁俺達の世界って、こんな剣とか持ってるだけで罪になる世界なん ですよ。表立って持てないし、憧れだったんですよねー﹂ ﹁⋮⋮﹂ 文化の違いだというのは何となく分かる。それでも、理解は出来 ないな、とスミェーラは早々に割り切った。住む世界の違えば常識 も違うのは不思議な事ではない。この世界では剣は憧れではなく必 要なもの。平民であっても、金に多少の余裕があるなら剣の一本く らいは家に常備してあるのだ。 ﹁まあ良い。持っているという事は、使うのだろう?﹂ ﹁そうですね。ド素人ですけど。実際に戦う分には、剣も鎧も要り ません﹂ ﹁ほう﹂ スミェーラを前にして、随分と豪胆な事である。彼女の事を少し でも知っていれば、目の前にして言っていいセリフではない。面白 い事を言う、とスミェーラは愉快になった。少し饒舌になってもい いかとすら思っている。お喋りよりも沈黙を好む彼女からすれば、 珍しい心境である。 ﹁では、少し私の話をしよう﹂ ﹁どうぞ﹂ ﹁私は今年で三三になる﹂ ﹁え。若いですね﹂ 冗談ではなく本気の感想。 765 お世辞だろうと本音だろうと、そんな賞賛に興味は無いのか、ス ミェーラは一切触れない。 ﹁たかだか三三歳で、しかも女。将軍になるのは難しいと思わんか﹂ ﹁それは、確かに﹂ 日本でなら、分からなくもない。若くて女性の優秀な組織のリー ダーがいないわけではない。 だがこの世界ではどうなのだろうか。 ﹁お前は異世界出身だったな。この世界の軍は男社会だ。女が身を 立てるのは簡単な事じゃない﹂ ﹁はあ﹂ ﹁では何故、私が将軍という地位にいるか。理由は実に簡単﹂ ﹁それは?﹂ ﹁この国にいる誰よりも、私が強いからだ﹂ スミェーラが剣を抜いた。無骨な剣。装飾なども一切無い。 彼女が必要としたのは武器としての性能。見た目だけの飾りに一 切拘りは無い。 太一も剣を抜く。必要ないとは言ったが、何となく合わせて抜い てしまったのだ。 ﹁お前がどれだけ自分の力を扱えているのか試させてもらう。行く ぞ﹂ スミェーラの姿が揺れ、そして消えた。 ︵っ! はええ!?︶ 766 慌てて三〇の強化を施す。スミェーラは既に射程圏内に入ってお り、剣を肩に振りかぶっていた。同じく片手剣使い。しかも、同じ スピード型。 そんな感想を持つ暇はなかった。 太一は身体を横にずらしながら、襲い掛かってくる剣閃を逸らす 為に持っていた剣をぶつけに行った。 そして、太一の剣は半ばで叩き折られる。 ︵うげ!?︶ 咄嗟の反応。太一は思い切り横に跳んだ。 そして襲い来る強い風の弾丸。まともに喰らい、太一は吹き飛ん だ。ごろごろと数メートル転がり、ようやく止まる。そこまでダメ ージは無い。 しかし、一つだけ分かった事がある。 だが、それを考える前に、スミェーラは既に目の前にいた。 ﹁殺すつもりで行くぞ。お前のほうが強いのだから、手加減をする 気は無い﹂ ﹁マジで!? うわっ!﹂ 更に振り抜かれる剣の一撃に、太一はバックステップで回避する。 飛び道具が無いのが悔やまれる。エアリィを召喚すればそれも可 能だが、対人で使える威嚇のような事は出来ない。相手が人なら、 ほぼ間違いなく殺し技になってしまう。謁見の間でミゲールの剣を 真っ二つに切断した魔法だって、人に当てれば首と胴体を問題なく 切り離せるだけの威力があるのだ。 という事は、魔力強化のみでここは切り抜ける必要がある。 そして、一番の驚きは。 767 ︵三〇だと押される!︶ 奏と戦って勝つのに必要な魔力強化は三〇。 圧倒は出来ないが勝つことは出来る。 しかしスミェーラ相手にはそれは通用しないことが分かった。太 一は攻撃を避けながら、地面を強く蹴り上げた。 ﹁ぬっ!﹂ 戦闘開始からずっと優勢を保っていたスミェーラが、すぐに後ろ に跳んで距離を取る。直後、彼女がいた場所を砂塵が通過した。 自身の有利を容易く放棄し、勇気ある﹁退く﹂選択の出来るスミ ェーラ。間違いなく、異世界で出会った人間の中では最強の戦闘力 だ。 ﹁目潰しとは。失明したらどうしてくれる﹂ ﹁殺しに来てる奴に言われたかねえ!﹂ ﹁それはそれだ﹂ ﹁どれ!?﹂ 理不尽さに敬語が無くなる太一。軽口の叩き合いだ。 そんな二人の戦いを観戦していた者たちは、驚きを余儀無くされ ていた。 ﹁素手で張り合うのかよ⋮⋮﹂ ﹁化けモンだろ⋮⋮﹂ 騎士や宮廷魔術師がそう呟けば。 ﹁まさかスミェーラ将軍相手に無手で闘えるとは﹂ 768 ﹁⋮⋮私はとんでもない方を召喚したのですね﹂ ﹁なに。頼もしい限りじゃないか﹂ ジルマールたちは、王国最強の戦士と渡り合える太一の実力に驚 愕し。 ﹁三〇の強化で太一が押されるなんて⋮⋮﹂ ﹁信じられない﹂ ﹁世界は広いと言うことだな﹂ 太一と互角に闘える人間の存在に驚愕していた。 ﹁準備運動はそのくらいでいいだろう。その程度で終わりじゃある まい?﹂ 剣を構えずに、スミェーラが太一に言った。 太一は捨てるのを忘れていた剣を放り投げ、スミェーラを見る。 どのくらい強化すべきか。四〇ではやはり心許ない。三〇で押され たのだから、四〇だと少し上回る程度かもしれない。相手の攻撃は、 鋼の剣を叩き折るほどの威力。なまじな強化で腕や足が飛ばされて はたまったものではない。 少し考えて、余分に安全マージンを取ると決めた。 ﹁スミェーラ将軍﹂ ﹁なんだ?﹂ ﹁今の倍で行きます﹂ ﹁⋮⋮倍だと?﹂ さらっと言われたことに、頭が追い付かない。 押してはいたものの、太一の動きはとんでもないものだった、と 769 いうのがスミェーラの感想。動きはまだまだ新人の域を抜けない冒 険者だったので、単なるスペックのみであれだけの闘いを見せ付け たのだ。 スピードはもちろん、最初に剣を打ち合って、そのパワーもかな りのものだと知った。それが全て倍になろうものなら。 ﹁とてもではないが、太刀打ちできんな﹂ 楽しげに﹁敵わない﹂宣言をしてみせるスミェーラ。 小さく呟いたため、誰にも聞こえはしなかったが。 太一の魔力が膨れ上がっていく。謁見の間で精霊を召喚した時ほ どではないが、そんなのは何の慰めにもならない。 それに、もう目的も達した。太一は倍で行く、と明言した。今の 自分はどの程度力を出していて、それをどの程度まで強くすれば倍 になるかを分かっていなければ言える台詞でないからだ。 自分の強大な力を制御している証左となる。 ならば、することは一つ。未経験の強さを体感してみること。そ れはとても楽しみなことだった。腕の一本くらい支払ってもいいと、 本気で思える位には。 ﹁んじゃ、失礼して﹂ 太一の姿が消える。それを認識した途端に肩が後ろに強く引かれ た。 ﹁くっ!?﹂ 抗うのも無意味なほどの強い力をかけられていると直感で理解し たスミェーラ。膝裏を下に押され、腕を後ろに取られながら片膝を つく。その拍子に、剣が手から滑り落ちた。 770 そして、首筋に指が当てられた。抵抗する間もなく急所に触れら れては、降参以外に選択肢は無かった。 ﹁降参ですか?﹂ ﹁うむ。参った、完敗だ﹂ 太一は降参宣言を聞いて、スミェーラを解放した。落ちた剣を拾 って鞘に納め、太一を見下ろす。決して見下している訳ではない。 頭一つ背が違うのだ。 ﹁坊主などと言ったことを詫びよう。見事だ﹂ ﹁いやあ。事実ですし﹂ 周囲にいる大人と比べて自分が子供であるとは充分に理解してい る。 ﹁ところで。これは確認だが﹂ ﹁ん?﹂ ﹁お前には嫁はいるのか?﹂ ﹁ぶふっ!?﹂ ﹁﹁なっ!?﹂﹂ スミェーラは表情を変えずに言う。 太一は狼狽して噴いた。 奏とミューラが声に出して驚いた。 ﹁お前は私の求める条件にぴったりの男だ。こう見えても尽くす方 だぞ、私は﹂ ﹁な⋮⋮なな何を⋮⋮﹂ 771 突然の求婚。驚きすぎて言葉が出ない太一を見かねたのか、パソ スが助け船を出した。 因みにさっき声を出して驚いた二人は固まっている。 ﹁閣下は高望みが過ぎると何度も申したではございませんか。そん な少年に何を﹂ ﹁私も女だぞ。結婚相手に理想を持って何が悪い﹂ ﹁だからと言って、閣下より強くなければ認めない、等と⋮⋮この 国のどこにそんな者がおると言うのです﹂ ︵ああ⋮⋮それは、見つからないだろ⋮⋮︶ この話を聞いていた大多数が等しくそう思った。 ﹁ここにいるではないか。年のことなら気にするな。私の家系は代 々老けるのが遅い﹂ ﹁そういう問題ではありません! 彼の気持ちも大事ですぞ!﹂ ﹁子供は三人は欲しいところだな﹂ ﹁話を聞きなされ!!﹂ パソスの叫びに、皆が大きく頷いたのだった。 772 エリステインの重鎮たち︵後書き︶ 暴走しました。作者が。 途中、スマホじゃなくてパソコンで書いてみました。 何か違いありますか? 読んでくださってありがとうございます。 773 ドルトエスハイムという男︵前書き︶ 遅くなりました。 774 ドルトエスハイムという男 国王との謁見、エリステイン最強の戦士との戦闘、そして予想外 の求婚。 昨日はかなり濃い一日だった。 太一の瞳に映るのは、もう数えるのを断念した異世界での朝日だ った。将来は布団と結婚したいと本気で考えたこともある太一の普 段を振り返れば、非常に珍しい光景と言える。 王城の塔、その屋根から見える景色は絶品だ。見渡す限りこの城 並みに背の高い建造物は数えるほどしかない。遮るもののない光景 は、澄んだ空気も相まって望遠なしでも遠くまで届く視界を見る者 に提供していた。 ﹁召喚。エアリアル﹂ 風と光が集まり、小柄な精霊少女が姿を現す。 ﹁おはよ、たいち﹂ ﹁おう﹂ 壁に寄りかかる太一の膝にふわりと降り立つ風の精霊。 ﹁どうしたの?﹂ ﹁いや。綺麗な景色だから、エアリィも一緒にどうかな、と﹂ ﹁あら。デートのお誘いされちゃった﹂ ﹁そうか。そうなるかもな﹂ 朝の涼しい風が、太陽に向かって駆け抜けていく。 775 ﹁お悩み?﹂ ﹁あーうん。まーな﹂ エアリィが太一の顔を覗き込んだ。 ﹁アタシで乗れる相談?﹂ ﹁エアリィじゃないと乗れない相談﹂ ﹁そっか。任せなさい! 伊達に一〇〇〇年生きてないんだから!﹂ むん、と胸を張るエアリィ。無い、とは言えない。恐ろしくて。 ﹁⋮⋮精霊って生き物?﹂ ﹁さあ?﹂ いい加減なやり取りである。 ﹁つーか三〇〇〇年じゃなかったっけ﹂ ﹁そうだっけ? 細かいこといちいち覚えてないわ﹂ 一〇〇〇も三〇〇〇も一緒よ、と宣うエアリィ。 実にいい加減なやり取りである。 しかし、寿命という概念の無い精霊にとっては、重ねた時の量が 多すぎて覚えていないということを分かるべきなのだろう。数千年 に及ぶ時を経ることで発生する情報量の規模など見当もつかない。 ﹁それで、どんなお悩みなの?﹂ 太一は昨日の出来事を、二点に絞って思い出す。 ミゲールを追い詰めるためにエアリィに使わせた風魔法。 スミェーラとの模擬戦闘で、威嚇ですら魔法を使えなかったこと。 776 その二つが、太一に徹夜をさせた理由だ。気になって気になって、 寝付けなかったのだ。ついでに将軍からの奇襲求婚も、寝不足に一 役買っている。 ﹁魔法の威力が強すぎる﹂ ﹁ああ、うん。つい後回しにしてたけど﹂ ﹁対人だと漏れなく殺し技とかエグすぎる﹂ ﹁アタシたちの悩みってゼータクよねえ﹂ 威力が足らずに悩む魔術師たちはたくさんいるはずだ。その中で、 強すぎて不便とは言いにくい。調節できればなんとかなるのだから。 それに、もっと簡単な解決法方はある。徹頭徹尾、対する者の生死 を問わないこと。威力の調節に神経を削る必要がなくなる。せいぜ い魔力をいかに節約するか、くらいだろう。 それが可能なら今悩んだりしていない。敵意、害意を向けてくる 相手を全て殺して排除する乱暴な手段は、出来れば最後の最後で仕 方なく選ぶものでありたい。 本当は取り組まなければならないこと。だが、エアリィとの連携 がそもそも十分とは言い難い。テレパスは大分ましになってきたが、 エアリィに魔力を渡すのがいまいち上手くいっていない。〇から一 〇〇まで、五刻みで魔力を操れる太一としては不満が残る。 一先ずは慣れの問題として置いておいたのだが。 ﹁原因がどこにあんのか分からないんだよなあ﹂ 渡すために練る魔力を制御している自負がある。しかしそれを自 分で使うのではなく、第三者に渡すという経験はない。 エアリィとしてもきちんと受け取れている感覚があるという。 ﹁埒があかないねー﹂ 777 サバサバと言うエアリィ。 ﹁全くだなあ﹂ サバサバと応じる太一。 寝れなかったのは事実だが、深刻な訳ではない。いずれ出来るよ うにならなければならないとは思っているが、現状でも何とか出来 ないことはない。 深刻になれば解決するなら、最初から苦労していないのだ。 ﹁とりあえず先生に聞いてみるか﹂ 太一は立ち上がって伸びをする。 ﹁先生? れみーあ?﹂ ﹁んにゃ﹂ 言いながらエアリィを腕に乗せる。 ﹁レミーアさんは師匠だな﹂ 本来なら彼女に聞くのが正解だ。それは良く分かっている。しか し、流石に長いこと共同生活をしていない。用事の無い日の彼女が、 朝という時間帯に起きるわけがないことはよく知っていた。 レミーアへ質問は当然行うとして。この時間帯に尋ねる相手と言 えば。 ﹁奏だ。奏先生﹂ ﹁なるほどねえ﹂ 778 ひょい、と飛び降りるにはためらう高さを難なく飛び降り、バル コニーから城内に入る。跳び上がって登ったのだから降りれない道 理はない。 城内を部屋に向かって歩く。ここまでは廊下一本なので迷うこと もない。逆方向に間違って進み、危うく迷子になるところだったの は些事である。 途中ですれ違ったメイドさんが固まる。何だろうと疑問を覚え、 エアリィを具現化しっ放しだったのを思い出す。しかし少なくても 城内では太一が召喚術師だと露見しているので、特に隠す必要もな いかと気にしないことにした。 そうこうしているうちに、部屋に辿り着いた。 ﹁あれ。奏いねえな﹂ 客間を見渡すが、奏はいなかった。トイレ浴室付で、かつ個室が 三部屋にリビングまである客間。豪華なものだ。かなり厚遇されて いることが分かる。 客間を出るときには、奏は既に起きていた。早起きなんて珍しい ね、ちょっと風に当たってくる、というやり取りを確かにしたから、 奏が起きている事は間違いない。 ﹁寝たのかな? いや、奏に限って二度寝は無いか﹂ ﹁どこいったんだろうね﹂ 太一は特に深く考えずに洗面所のドアを開ける。トイレに行くに は洗面所を通らなければならないのだ。 無防備な声が、太一の鼓膜を揺らした。 ﹁へ?﹂ 779 尿意を感じたからトイレに向かう。生理現象に従ったために、太 一はとんでもないものを見ることになった。 ﹁⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮﹂ 上下下着姿の奏。下ろされて濡れた髪を拭っている。いわゆる朝 シャンというやつだろう。水も滴るいい女。洗面所の湿度が高くな っていて、少し紅潮した頬が色気を放っていた。 そして何よりも。 思わずといった感じて奏が振り返ってしまったために、真正面か ら見てしまったのだ。 男という生き物は単純なため、ミューラやレミーアでもダメージ は大きいだろう。だが、今はそれに輪をかけてダメージが大きい。 理由はシンプルで明確、相手が奏だからだ。 硬直したままの二人が、衝撃の大きさを物語っていた。 決してそんなつもりはなかった。わざとじゃない。⋮⋮浮かんで は消える一切の主張が、出た途端に言い訳に変わることを太一は悟 る。 ﹁ねえ⋮⋮とりあえずたいちは閉めようよ。かなでは隠そうよ﹂ 呆れているエアリィに言われるまで、覗いてしまった加害者太一 も、覗かれてしまった被害者奏も、まるで身動きが取れなかったの だ。 慌てて背を向けながらバスタオルで身体を覆う奏と、慌てて扉を 閉める太一の動きは、その道のプロかと思うほどに素早かった。 そして太一は、しばらく上を向いたままの姿勢を余儀なくされる ことになった。下手に下を向くと、真っ赤な情熱を地面に多数咲か 780 せることになると分かったからだ。覗き魔に下される制裁としては 安いものだろう。ニヤニヤ笑うエアリィにからかわれるのも、甘ん じて受け入れるべきである。そして何よりも、しばらくは気まずく なるであろう奏との仲も、甘んじて受け入れるべきなのだった。 その後﹁興味なしもそれはそれでいや﹂という複雑な恋する乙女 心と、被疑者が一時間の自主的正座による反省を申し出たことによ り、放免となった。 それに、思ったほど気にしていない自分がいることに奏は気付い ている。説明しろと言われても難しい。セクハラされたのに、不思 議な感覚だった。 鍵はついていたが、うっかりというべきか施錠を忘れていた。あ り得ないと思うようなうっかりミスをしたところに、タイミング悪 く太一が入ってきてしまったため、鉢合わせと相成ってしまったの だ。太一もノックをすべきだったが、それを言い始めたらキリがな い。太一は自主的に罰を受けたのだから。 しばらくは顔を合わせる度にお互い赤くなる日が続くことになる。 自業自得、痛み分けというところ。 結局太一は、ラッキースケベと引き換えに、相談をし損ねたのだ った。 ◇◇◇◇◇ 781 エリステインには、公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵の五種類の爵 位がある。 国によって貴族の爵位も様々だが、概ねエリステインと同じ形式 の国が多い。国によっては、挙げた功績によって公爵になれる国も ある。しかしエリステインではそれは不可能だ。 エリステインにて、戦果や社会貢献によって得られる爵位の最高 位は侯爵。 ヘクマが太一たちに説明した通り、エリステインにおける公爵と いう爵位は特別なものなのだ。 特別な存在故に、その財産も侯爵以下の貴族と比べれば頭ひとつ 飛び抜けている。それは、ドルトエスハイム家が持つ別宅にも表れ ていた。信じられないほどの豪華さ。敷地も相当広い。本邸と言わ れても全く違和感はない。伯爵家が持つ一般的な本邸を上回るレベ ル。この規模の別宅を更にもう一軒持っているのだから、その財力 が分かろうと言うもの。侯爵であれば、ドルトエスハイム家並の本 邸を建てた場合、別宅はもう一軒が精々だ。しかもその別宅の規模 は大分格が下がってしまう。 憧れとやっかみを受ける存在。それが公爵家である。 王都から馬車で二日の村。件の巨大な別宅はそこに建てられてい た。村の規模はアズパイアとどっこい。敷地の半分近くが邸宅の敷 地である。周囲は高い壁に囲まれており、守りも堅い。 その邸宅にある広い会議室。置かれた円卓には、六人の侯爵が腰 掛けている。 厳かな基調の広い室内には、怒号が響いていた。 ﹁勝手な真似をされては困るぞ!﹂ ﹁何を考えておるのだ!﹂ ただの怒鳴り声ではない。人口二〇〇〇万を数える国家で六人に しか名乗る権利を与えられない大貴族の長。彼等の叱責が、半端な 782 ものであるはずがない。 それを受けるのが、同じ貴族であってもだ。いやむしろ貴族であ るからこそ堪えるのかも知れない。 ﹁落ち着きがないな﹂ その大騒ぎを、一言で断じる静かな声。 ﹁⋮⋮マルケーゼ侯爵。しかしだな。このように勝手なことをされ てはな﹂ ﹁その通りだ。恥だけかいて戻ってきたとあっては、貴族として侮 られるぞ﹂ ﹁確かに皆の言うことも分かる。しかし、もう過ぎてしまったのだ。 時が戻るわけでもない。シャルロット姫でも連れてくるかね?﹂ ﹁⋮⋮それでは、許すというのか。手ぬるいとは思わんか﹂ ﹁許すとは言っていない﹂ マルケーゼ=アストゥートは、金色の髪を撫で付けて、その端正 な顔立ちに笑みを浮かべる。 ここにいる貴族の中では最も若い。彼は視線を部屋のある一点に 向ける。 ﹁侯爵たるもの、やたらと声を張り上げるものではない。私はそう 言っている。そうは思わないか? ダルマー男爵﹂ ﹁いえ⋮⋮その⋮⋮﹂ 頷けば、マルケーゼが批判した侯爵に睨まれる。頷かなければ、 マルケーゼの考えを否定する。男爵という特権階級も、彼等の前で は大人と子供。答えられるはずがない。突き上げられたダルマーは、 真っ青な顔で俯くだけだ。 783 ﹁こんな愚か者に答える度胸などあるわけないだろう﹂ ﹁成り上がりの若造が。随分と一人前な台詞を吐くではないか﹂ ﹁失礼。立場上は、対等なのでね﹂ 悪びれもせずにそう嘯いて見せるマルケーゼ。他の侯爵が何か言 わんとするのを手で制した。そして。 ﹁この場はどのように収めたらよいでしょうか。ドルトエスハイム 公﹂ マルケーゼは頭を下げ、窓際に立つ中年の男に身体を向ける。 一言も発することなくずっと外を見詰め続けていたドルトエスハ イムは、名前を呼ばれてゆっくりと振り返る。 モノクルの奥に光るその強い意志に、彼の者の名を呼んだ本人で あるマルケーゼすら圧倒された。彼の表情は平静である。呼ばれた から振り返った、ただそれだけの事だ。 なのに、この圧倒的な存在感は何がもたらすのだろうか。 侯爵が集まるこの場において、ドルトエスハイムは覇者の空気を 纏っていた。彼に良く似た空気を持つ者を、ここにいる侯爵たちは 皆知っている。 エリステイン魔法王国を統べる国王、ジルマール=エリステイン。 彼と良く似た王者の空気。どれほどの努力と才覚があれば辿り着 けるのか、まるで想像もつかない。 ﹁ダルマー男爵﹂ ﹁は、ははっ!﹂ ドルトエスハイムの心境は穏やかであろう。侯爵という地位にい れば、彼と接する機会も少なくはない。その中で、表情や声色、抑 784 揚で彼の感情がどのようなものかは大体分かる。いや、分かる必要 がある。彼の不興を買えば、進む道の行き先が破滅に変わる事もあ りうるのだ。家を存続させる為に、絶対に必要な技能である。 ﹁貴族にとって一番大切なものは何だと思う。金か。名誉か。地位 か﹂ ゆっくりとした足取りで、わざと円卓を大回りするドルトエスハ イム。やがてダルマーの前に立ったドルトエスハイムは、跪くダル マーをじっと見下ろした。 ﹁無論それらは大切だ。否定はせぬ﹂ ﹁⋮⋮﹂ 上から降り注ぐ圧力に、ダルマーは地べたにへばりつかないよう にするだけで精一杯だ。 ﹁だが、貴様はもっとも大切な物が何か分かっていない﹂ おもむろに腰の剣を抜き払うドルトエスハイム。その剣で、ダル マーが跪く床の手前を上に切り上げた。 はらりと舞う前髪と、眼鏡が真ん中で切られ、乾いた音を立てて 床に落ちる。 ﹁それらは貴族が貴族たるために必要な一部品でしかない﹂ ひっくり返ってしまったダルマーの鼻先を、鋭い剣がつつく。皮 が数枚破れ、小さな血の珠が出来た。 ﹁無様だな。貴様の世襲を許したのは間違いだったか﹂ 785 ドルトエスハイムは剣を引き鞘に納めた。 ﹁とはいえ、許した私にも責任はある。ダルマー男爵、貴様に、一 度だけ機会をやろう﹂ かつ、かつと靴底が床を叩く音だけが部屋に響く。 ﹁貴族たるもの、どのような理由があろうと抜いた剣を使わぬまま 納めるなど言語道断。だからこそ、容易く抜いていいものではない。 この程度すら学ばなかった己の怠惰を恥じ、汚名返上するにはどう すべきか、もう一度よく考える事だ﹂ ﹁あ、ありがとうございます⋮⋮﹂ がたがたと震えるダルマーを一瞥し、ドルトエスハイムは円卓の 椅子に腰掛け、腕を組んで目を閉じた。 それはダルマーに対する退室せよ、という合図。 これだけ厳しく糾弾されても分からないほど馬鹿ではなかったの か、ダルマーは重い足取りで部屋を出て行った。 重たい空気が、室内を支配している。 ダルマーがどうするのか。貴族たりえる振る舞いが可能なのか。 ドルトエスハイムの当面の興味はそこに尽きる。 ﹁ドルトエスハイム公。ダルマーは役に立つでしょうか﹂ ﹁同じ規模の軍勢と相討ちにでもなれば御の字だろう。異世界から 来たという少年少女の情報を少しでも引き出したなら、手柄として 褒美をくれてやっても良い﹂ 侯爵の質問にそう答える。 敵前逃亡など品格を下げる最たるもの、あの場で切り捨てられて 786 もおかしくはない。そんな前科を持つダルマーを何故行かせたのか。 浮かぶ当然の疑問だが、あえて問う必要は無かった。 それは、ドルトエスハイムの人となりを知っていれば、考えるま でも無い事だからだ。 目的のために役に立ちそうなものは何でも利用する。それが捨て 駒であろうと、必要ならいくらでも非情になれる。それが、ドルト エスハイムという男だった。 787 ドルトエスハイムという男︵後書き︶ 読んでくださってありがとうございます。 788 作戦会議 ﹁パソス。騎士団はどうなっている?﹂ ﹁はっ。臨戦態勢の騎士は常に三〇〇〇、残り六〇〇〇をローテー ションで待機、休暇としております﹂ ﹁うむ。変わりはないな﹂ ﹁継続して間者に目を光らせております。時折やり取りはしている ようですが、表立った動きはありません﹂ ﹁よろしい。宮廷魔術師たちはどうだ﹂ ﹁現在三〇〇人が臨戦態勢です。残り五〇〇人は騎士団と同じくロ ーテーションを組んでいます﹂ ﹁うむ﹂ 三日に一度の軍幹部による定例会議。太一たちが城に着いてから は初である。ここ最近は会議というより現状の確認が主。貴族側と の小競り合いは散発するものの、お互いろくにダメージを与えずに 撤退するため、小康状態が続いている。 王家側から打って出るカードを常に懐に忍ばせているスミェーラ だが、未だそれを出す機会は無い。ギリギリまで待つとジルマール から通達が出ているのだ。もちろん、手遅れにならないうちは、と いう前提条件付きで。その為に情報収集は欠かしていないし、いつ でも攻撃に転じれるようにしてある。 ティルメアは先日﹁迎撃の準備は出来ていない﹂と言った。それ はスミェーラが外に出している情報である。間者がいるのが分かっ ているのに、わざわざ教えてやる必要はない。ジルマールはじめ王 族にその側近は知りうる情報だが、油断して漏れました、では話に ならないため、ジルマールやスミェーラの許可がなければ知ること は出来ないのだ。あの時点では情報を与えて良いか、王女付きとは いえ一介の侍女には判断が出来なかった。 789 臨戦態勢というのも、知っているのはもちろん間者以外の騎士や 宮廷魔術師たちである。末端まで命令を浸透させる桁外れな統率力 は、スミェーラの類い希なカリスマ性あってのものだ。スミェーラ 自らトップダウンで隊長クラスに根気よく作戦を伝えた努力も当然 あるのだが。 ﹁折角だ、間者にはもう少し泳いでもらわんとな﹂ ﹁そうですな。しかし、あのドルトエスハイム公のことですから、 それには気付いているかも知れませんぞ﹂ ﹁それはお互い様です。私たちだって、間者にすぐ気付いたんです から﹂ ﹁しばらくは化かし合いだ﹂ ﹁それが出来るのも、再編を急いだお陰ですな﹂ ﹁そうだな。話の早い奴等ばかりで私は楽が出来る﹂ ﹁しかし、あの晩は死にかけました﹂ ﹁突貫でしたからな﹂ ベラとパソスが疲れた顔を浮かべた。たった一晩。数千を超える 騎士団と、準備に時間が掛かる宮廷魔術師たちにいつでも出撃出来 るよう対応させた。それだけならまあまだ難しくはないが、間者に 悟られないようにするのが大前提だったため、骨が折れたのだ。 今考えてもかなり神経を磨り減らした。優秀な部下たちばかりだ ったからこそできた、神業と呼んで良い位の所業だった。 ﹁ところで閣下﹂ ﹁なにか気になることでもあるか?﹂ テーブルに足を乗せ、頭の後ろで腕を組むスミェーラ。彼女だか ら許される姿勢である。 790 ﹁あの少年への求婚、本気だったのですか?﹂ ﹁なんだ、そんなことか﹂ つまらなそうに呟くスミェーラ。パソスは相手の気のないリアク ションを一切合切スルーする。 ﹁閣下とあの少年の人生に関わる事ですからな﹂ ﹁本気だ。でなければ、御前試合であんなことを言うものか﹂ ﹁まあ、そうでしょうな⋮⋮﹂ パソスの物言いに、スミェーラが眉を寄せる。 ﹁なんだ、引っ掛かる言い回しをするな?﹂ はっきり言え、と言われたので、パソスはストレートで聞くこと にした。 ﹁閣下は、あの少年に力が無かったら、求婚をなさいましたか?﹂ ﹁するわけないだろう﹂ ﹁だろうと思いました﹂ ﹁何が言いたい?﹂ スミェーラの瞳がパソスを射抜く。普通なら気圧されるだろうそ れも、パソスにとっては慣れたものだ。 ﹁あの少年は偶然選ばれ、運良く力を手に入れただけの存在。閣下 が興味があるのは、少年の人柄等ではなく、あの力だけではないで すか?﹂ 少し厳しめの論調。ベラは空気を読んで黙っている。 791 パソスに対し、スミェーラは応じた。 ﹁それがおかしいか?﹂ ﹁力があれば誰でも良い、と受け取られかねませんからな﹂ ﹁否定はせんよ﹂ ﹁閣下⋮⋮﹂ 呆れるパソスに、早とちりだと釘を刺す。 ﹁聞けば、タイチはこの世界に来たばかりの時は力を使えなかった そうじゃないか。黒曜馬に襲われたところを腕の立つ冒険者に救わ れ、その後レミーア殿に弟子入りするという度重なる幸運に恵まれ ている﹂ その通りだ。相当に恵まれている。 ﹁あの少年でなければ、そのような幸運には恵まれなかったと考え ることもできる﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁腕が立っても運が悪ければ死ぬこの世界で、運だけで今では国賓 扱いだ。強さだけでなく人柄に対する仲間たちからの信頼もかなり 厚いと聞く。強運と人から協力を得られる人格。かなり優れた人物 と思わんか?﹂ 想像以上の高評価に、パソスの方が目を剥いた。本人が聞いたら むず痒さに呻いていた事だろう。 ﹁今のを最終評価とするには情報が足りんことは私も良く分かって いる。だが、お前とて分からない訳ではないだろう。どんな建前や 理由を並べたところで、強い者が異性に好まれるとな﹂ 792 ﹁否定できませんな﹂ スミェーラの言葉に、パソスがふっと笑った。 ﹁すべてのしがらみを取り払って良いのなら、孫娘に嫁いでもらい たいくらいですからな﹂ それに呆れたのは、今までは成り行きを見守っていたベラだ。 ﹁パソス様のお孫さんはまだ九つではありませんでしたか?﹂ ﹁そうですな。なに、後三、四年もすれば絶世の美少女になります ぞ﹂ そういう問題なのだろうか。論点が少しずれてきている気がする。 ﹁確かに可愛らしいですからね。そういえば、昨日パソス様は、タ イチ殿の気持ちも大事だと﹂ ﹁む。うちの孫にケチをつける気か彼は﹂ ﹁話聞いてました? タイチ殿の気持ちが大事だと仰ったのはパソ ス様ですし、第一彼はパソス様に孫娘がいると知らないではありま せんか﹂ ﹁むう⋮⋮﹂ 理路整然と説き伏せられ、パソスの回りに膨れ上がった熱が急激 に萎んでいく。 最大で二〇〇〇〇の騎士を束ねるパソスといえども、最愛の孫娘 の事となるとつい冷静さが何処かに出掛けてしまうのだった。 スミェーラが楽しそうに笑う。 ﹁まずは、タイチに少女に興味があるかを聞くことだな、パソスよ﹂ 793 ﹁お恥ずかしい⋮⋮ですが、そうですな、考えておきましょう﹂ 三、四年後といえば、太一は一八から一九であり、パソスの孫娘 は一二から一三。日本では犯罪だが、この世界では婚姻が結べる年 齢である。確かに早い部類ではあるが。 ﹁昨日レミーア様から聞きましたが、タイチ殿とカナデ殿両名とも、 まだ人を殺してはいないそうです﹂ ﹁ふむ﹂ ﹁ほう﹂ 盗賊などは、相手がそうだと分かったら即殺していい手合い。そ れらに出会った経験があって尚そうなのだから、筋金入りである。 ﹁何でも彼らが住んでいた国では、殺人は相当に忌避されていたと か。例え凶悪犯罪者でも、正当防衛以外での殺人は認められない国 だそうです﹂ ﹁それはまた﹂ ﹁しかし、それは少々気になりますな﹂ パソスの感想に二人は同調した。 無闇に人を殺さない。 信念があるのは好ましいことであるし、人を傷つけて平気な者よ りはよほどいい。しかし、今は戦時中である。相手も自国民である ため、なるべくなら殺したくはないが、それは終戦してからの国力 の弱体化を最小限に抑えたいがためだ。犠牲無しで勝てるなど口が 裂けても言えないし、必要とあらば相手部隊を壊滅させる事もある だろう。自分達を守るのが最優先で相手の命まで慮っていられない 可能性も十分にあり得る。太一たちのそれは、戦場では甘さや隙に なるだろう。 794 ﹁まあそれは追い追い考えよう。それよりベラ、レミーア殿と話を する機会を設けたのか﹂ ﹁はい。私のほうが我慢できず⋮⋮もう少し、自制というものにつ いて考えるとします﹂ 少し恥ずかしげに頬を染めるベラ。彼女の表情にふと思うところ があったスミェーラだが、今は黙っておくことにした。 ﹁タイチの強さは肌で感じたが、カナデについて何か聞いたか?﹂ あの時力を確認できたのは太一のみ。奏についての情報はフォー スマジシャンであることと、魔術が強力ということ。強力ならそれ に越したことはないが、具体的にどのくらいかが分からない。ある 程度の指標が欲しいと思うのは当然だった。 もちろんです、と言いながらベラは頷いた。 ﹁タイチ殿も凄いですが、カナデ殿も大概ですよ﹂ 呆れと畏怖の混ざった顔をする。 ﹁強さだけで言えば、レミーア様との差を大分詰めているそうです。 その内抜かれるとあの方は仰っていました﹂ レミーアの名声は誰もが知るところだ。高名な魔術研究家であり、 魔術の開発能力では他の追随を許さない。加えて魔術師としての実 力も超一流。あれほどの人材なら、お抱えにしたい組織は両手の指 では足りない程にあるはずだ。 ﹁レミーア殿と僅差か﹂ 795 ﹁はい。今なら、一〇度やれば三度は負けるだろうと。二ヶ月前な ら負けるとはつゆほども思わなかったそうですので、凄まじい成長 速度ですね﹂ ﹁末恐ろしい﹂ パソスはそう絞り出した。 ﹁ベラ。お前はレミーア殿に勝てると言えるか?﹂ ﹁⋮⋮まず負けます。勝てても率は三割から四割ですね﹂ ﹁そうか。私も確実に勝利を得られるとは言えんな﹂ レミーアが落葉の魔術師と呼ばれるようになってから長い。その 間生まれたたくさんの逸話は、当然彼らの耳にも入っている。 ﹁閣下もですか?﹂ ﹁実際に闘ってみんと何とも言えんが、まあ一〇回のうち二、三回 は不覚を取るだろう﹂ 総合的な戦闘力で比べるなら、スミェーラとレミーアの間にそこ まで大きな差は無い。だがスミェーラには太一をして速いと言わし めるスピードがある。対魔術師であれば、その辺がアドバンテージ になるのだ。魔術を満足に使わせないという戦術を取れる。 ﹁レミーア殿が戦場で敵として出てきたら、お前たちならどうする ?﹂ ﹁すっ飛んで逃げます﹂ ﹁即時撤退命令一択ですな﹂ 三人で一瞬見詰め合い、不敵な笑みを同時に浮かべた。 796 ﹁同感だ。レミーア殿クラスの魔術師との戦いは覚悟がいるな。払 う犠牲が大きすぎる﹂ 数で押せば勝てる相手ではある。だが、レミーアレベルの魔術師 が放つ広範囲魔術の被弾を数発は覚悟せねばならない。先を取り自 分達で打って出る選択肢もあるにはある。指揮系統は副官に任せれ ばいいが、流れ弾を考えると頭が痛い。どの程度の犠牲を払う必要 があるのか、考えたくはない類いのものだ。 ﹁とりあえず、カナデの強さはレミーア殿に追随する、ということ だな﹂ ﹁私と互角、とも言えると思います﹂ ﹁言葉にすると簡単ですな⋮⋮実際はとんでもないことですぞ?﹂ エリステイン魔法王国の宮廷魔術師総長であるベラの実力は、も ちろん世界最強クラス、世界中の魔術師を昇順でソートし、上から 数えたほうが早い実力者。 ベラクラスの魔術師は探してもまず見付からない。三大国の宮廷 魔術師長で比較すれば、ベラの一人勝ちである。 つまりレミーアという存在はかなりイレギュラーなのだ。 そして、ベラをして﹁互角﹂と言わしめる奏の実力もまた。 ﹁今は味方なのだ、そういう検証は時間があるときにやるとしよう﹂ スミェーラはそう言った。 ﹁私としては、レミーア殿、加えてカナデ、おまけにタイチを相手 にしなければならないドルトエスハイム公に同情するな﹂ 正規軍だけでなく、レミーアクラスの魔術師二人に、人間という 797 枠を軽々飛び越えている太一。戦いたいとは思えない相手だ。 ﹁準備さえ出来れば、カナデ殿は一撃で一〇〇メートルを薙ぎ払え るらしいですし﹂ ﹁⋮⋮笑えん冗談だ﹂ ﹁事実のようですから﹂ ﹁それだけの強さがありながら、殺さないというのはなかなか難題 ですな﹂ ﹁うむ。これは我々も試されている﹂ 太一と奏というジョーカーをどのタイミングでどこに配置するの か、作戦指揮と戦局の読みなど、様々な要素が試される。﹁戦場で 殺さずを貫くのは不可能だから諦めろ﹂と突っぱねるのは簡単だが、 それで協力が得られなくなるのもそれはそれで痛手だ。 それらのネックに目をつむっても良いと思えるほどにメリットも 大きい。 タイミングがいいというかなんというか。話が一段落したところ で、扉がノックされた。 ﹁入れ﹂ ﹁失礼します﹂ 鎧を身に纏った兵士が入室し、整った敬礼をした。 ﹁斥候から報告がありました。反乱軍が正門に向かってきておりま す。数は一〇〇〇超﹂ ﹁来たか﹂ がたりと椅子をならし、長身の女将軍は立ち上がった。 798 ﹁陛下に御連絡申し上げろ。後は異世界の少年たち援軍にも伝える のだ。他主要な者を集めろ﹂ ﹁はっ!﹂ 退室する兵士を見送り、両側に立つ騎士団総長と宮廷魔術師総長 に目を向ける。 ﹁パソス﹂ ﹁はっ。二〇〇〇程、すぐに出撃準備させます。他の者の警戒レベ ルを二級に引き上げます﹂ ﹁ベラ﹂ ﹁はい。臨戦態勢の魔術師全員に出撃準備させます。残りの者も騎 士団と足並みを揃えるよう手配します﹂ ﹁よし。ゆけ﹂ 二人同時にスミェーラに向かって敬礼をし、作戦室を出ていった。 一人残されたスミェーラは、やや間を置いてから、口許に手を当 てる。 ︵⋮⋮妙だな。一〇〇〇だと?︶ 貴族派が動かせる最大兵力はこんなものではない。何故そんな半 端な数なのか。 ︵馬鹿貴族の道楽息子が先走ったか、或いは、秘策があるのか⋮⋮︶ 前者なら楽なものだ。数で圧倒してしまえばよい。だが後者なら 懸案事項として挙げなければならない。そしてこの場合、想定する のは考えうる最悪の事態だ。数万の兵を束ねる長として、スミェー ラには部下の命に責任がある。 799 ︵⋮⋮行くか。どの道看過できる数ではない︶ 一〇〇〇人に好きにさせれば、一日で王都のかなりの範囲が憂き 目に遭う。 都市への侵入を止めることに変わりはない。スミェーラは歩き出 し、有事の際に人が集まる場所に向かう。その時には、どのような 作戦を取るべきかに思考が変わっている。歩き出して数分、スミェ ーラは目的地に辿り着いた。 800 作戦会議︵後書き︶ 本章もおおよそ半分まで来ました。 読んでくださってありがとうございます。 801 開戦前︵前書き︶ 酷い難産でした。 802 開戦前 寛いでいたところを急に呼び出され、何事かと思えば、敵襲だと 告げられた。 敵の数はおよそ一〇〇〇。明後日に王都前正門から視認できるよ うになるという。 他にもあれやこれやと話があったと思うが、太一が重要だと感じ た情報はそれだった。 出撃する必要はあるのだろうか。一番確認しなければならないの はそこだ。行けと言われれば行くし、来なくていいと言われれば昼 寝でもしているつもりだ。助けたい気持ちに偽りはないが、でしゃ ばって邪魔になるかもしれないという気持ちは確かにある。 戦争については素人もいいところで、詳しいことは全く分からな い。攻め込まれたら守るのではないか? 太一はごく単純にそう考 えていた。そして防衛戦に必要だと言われればついていくまでだ。 だが、実際はそう簡単なことではないという。 ﹁陽動の可能性が捨てきれません﹂ ﹁別動隊が本隊である場合もありますからな﹂ ベラとパソスにそう解説される。 ﹁複数箇所同時進攻を企てている可能性は低い。そういう報告は聞 かないからな。警戒するとすれば、敵軍の後ろに本隊がいる、とい うこと位だが⋮⋮まあそれはこちらも増援を出せば済む話だ﹂ 更にスミェーラが続けた。 諜報要員は王都全方向をカバー出来るように配置しているが、別 方向に敵部隊は見当たらないという。 803 魔術による隠密行動は、レミーアが﹁二桁単位の人間を隠匿する 魔術はない﹂と断言したことで切り捨てられた。そもそも姿を隠す 手段は、光属性│││つまりはユニークマジシャンにのみ扱える術 だという。そしてエリステインに光属性を持つ術者はいないとのこ とだ。 今まで隠れていた光属性のユニークマジシャンが貴族派に協力し ている可能性についても訊ねてみたが、その可能性は極めて低いと 断言された。国にとってのユニークマジシャンの位置付け、光属性 の特徴等を鑑みれば、ユニークマジシャンであることを隠すメリッ トは殆ど無いらしい。 目の前に一〇億円の小切手があり、それが自分のものだと言われ た後にあえて焼き捨てる行為である。事実かを疑いはするだろうが、 信じられないからといきなり焼き捨てはしないはずだ。焼き捨てる のは偽物だと判明してからでも遅くはない。本物なら一〇億円が手 に入る。嘘でもガッカリはするだろうが、損をするわけではないの だから。 最低でも損はせず、むしろ一生涯の富裕層入りを国から認められ る権利を持つのがユニークマジシャンという存在。普通に考えて、 それと引き換える価値のあるものはそうないだろう。 光属性のユニークマジシャンが敵にいるという可能性について、 太一と奏を除いた全員が同じ見解。 もしかして、は幾らでもあるだろうが、完全無欠な作戦は無いと のことだ。可能性が低いものから切っていく、とスミェーラは述べ た。 ﹁気になるのは、敵の軍勢が全員一般人ではないか、ということだ な﹂ ジルマールはそうごちた。 全員武装していないという報告なのだ。 804 仮にも王都に攻め入るのに、全くの丸腰というのは不可解極まり ない。 相手が全員戦に卓越しており、武器を隠し持って相手の油断を誘 うカモフラージュではないか、という懸念もあるが、攻める標的が 標的なので、防衛には騎士や宮廷魔術師が当たると考えない方がお かしい。 王族派と貴族派の勢力比は先日話に上がった通り。突出した兵な ど数えるほどしかおらず、個々の質は同等。同じ国の中なのだから 当然である。 いくら騎士や宮廷魔術師とはいえ、同じ強さの敵相手に装備品が 不十分では勝ち目など無いに等しい。だからこそ油断を誘った上で 玉砕覚悟なのかという考えに至るのも当然と言えるが、報告では進 軍の足並みがまるでずぶの素人で、素人を演じている気配もないよ うなのだ。 聞けば聞くほどに暴挙としか思えない敵軍の行動が、ジルマール 以下首脳陣の頭を悩ませている原因とも言えた。 思考の坩堝に陥ったなら時間の浪費。等しく時が流れる世界で、 遅れることは対応が後手に回ることを意味する。それを狙ったのな ら敵ながら天晴れだが、そのアドバンテージを生かせないとなると 時間を稼いだ意味がない。 うんうんと悩む大人たちから数歩下がったところで成り行きを眺 めていた太一は、同じく横にいる奏に問い掛ける。 ﹁貴族派の狙いは何だと思う?﹂ ﹁うーん⋮⋮何か秘策があるとは思うのだけど⋮⋮﹂ 無難な解答。いくら奏でも、戦争の判断までは及ばないようだ。 ﹁案外、何も考えてなかったりして﹂ 805 奏の隣にいるミューラがそう呟く。シンプルすぎる答えだが、そ れもあり得るだろう。 元々捨て駒、敵に考えさせて時間を奪う事そのものが目的という のも成立する答えである。現場レベルでは何も考えていなくても問 題ない。少々こじつけ感は否めないが。 ﹁太一ならどうする?﹂ ﹁相手が魔物だったら、俺一人で行ってエアリィの魔法でさくっと ぶっ飛ばして帰ってくる﹂ ﹁魔物だったらねえ⋮⋮﹂ さくっとぶっ飛ばすには躊躇う相手である。 ﹁近付けさせない、っていうのは?﹂ ひらりと舞うエアリィがそう述べる。 ﹁近付けさせない?﹂ ミューラが問い返す。 ﹁うん﹂ ﹁どうやって?﹂ ﹁えっとねえ。大地割りとか﹂ ﹁風の刃でぶった切る的な?﹂ ﹁的な﹂ 出来る前提の会話である。トンデモトーク炸裂だが、太一とエア リィに常識は通用しない。 806 ﹁後始末が大変ね、それ﹂ ﹁それはほら、気合いで!﹂ むん、と両手をぎゅっとするエアリィ。とても可愛らしくて結構 だが、精神論でなんとかなるなら苦労はない。 ﹁いや、それで行こう﹂ ふと声が掛けられる。その主はレミーアだった。他の大人たちの 視線もこちらに向いている。 ﹁それで行こうって、いいのかよ?﹂ ﹁近接戦闘は回避できるからな。妙案など出なかったのだし、第一 損はしない﹂ ﹁さいですか﹂ 雑談で出てきた戯れ言レベルの発言を拾われ、太一は唖然とした。 エアリィは横でけたけたと笑っている。 ﹁ジルマール陛下、スミェーラ将軍、いかがですか?﹂ ﹁悪くないですね。陛下、私はレミーア殿の意見に賛成です﹂ ﹁良かろう。二人が有効だと思うのなら任せよう。委細については そちらで決定するといい﹂ ﹁はっ!﹂ 跪くスミェーラに、倣う軍人たち。 あれよあれよという間に決まってしまった。 ﹁そういう訳だ。お前たちにも出撃してもらうことになった﹂ ﹁近接戦闘の可能性が低くなるのなら、騎士の数は減らせますかな﹂ 807 ﹁撃ち合いになった時の為に、宮廷魔術師の数は増やしましょうか﹂ 作戦の立案が始まっている。どうやら本気らしい。もう諦めるし かなかった。 結局、騎士が一〇〇〇名、宮廷魔術師が四〇〇名動員されること になった。相手が一〇〇〇であることを考えれば、戦力差はかなり 大きい。 出発は今夜。陣営を築いて明後日と試算されている敵軍勢の到達 を待ち構える予定だ。相手は素人。こちらの動きを察知して進路を 変えても、簡単には対応できまい。一方王族側は練度の高い正規軍 である。指揮系統や統率力、極端に言えば一挙一投足までレベルが 違う。どんな秘策があろうと、相手が一般人に身をやつした騎士や 宮廷魔術師でやっと近いところまで来れる、という認識であった。 この時は、まだ。 作戦会議から翌日は何事も起こらず、更に一夜明けて。 ﹁敵部隊発見! 距離三〇〇〇!﹂ 正門の上、高台から遠見ができる器具で様子を探っていた兵士か ら、陣営に報告が入った。 ﹁来ましたね﹂ 今回の陣頭指揮を取るのはベラだ。スミェーラとパソスは不測の 事態に備えて王城で待機。指揮官が全員同じ局地戦に携わる必要は ない。むしろこの戦闘さえ、本来の戦ならばベラの下の階級にいる 将兵が受け持つレベルのものだ。言うまでもなく、理由があっての 人選である。 ﹁ではタイチ殿。お願いします﹂ 808 ﹁りょーかいっす﹂ 気の無い返事は、太一の実力を知らなければ不安さえ覚えるもの だろう。 しかし、不安になる要素はない。太一の強さがずば抜けている事 は分かりきっている。 ふわりと小鳥が舞うように、太一は地面を蹴って飛び上がった。 軽々と外壁の上に跳ぶ脚力にその片鱗が見え隠れする。太一にとっ ては大したことはない。王城の塔ほど高くはないだろうか。それで も遮るものがないため、見晴らしはとてもいい。 三キロ程だろうか。離れたところに見付かる黒い塊。視力を強化 して見てみると、やはり多数の人だった。 ﹁あれか﹂ あの連中を近付けさせない。それが、太一に与えられた役割だ。 その後どうするかは国の仕事である。背後に誰かが降り立った気配 を感じる。振り返ってそこにいたのはベラだった。 ﹁折角ですから、見物させてもらいますね﹂ ﹁いいっすよ﹂ 太一は視線を戻し、イメージを固める。大地を切り裂く風の刃を 落とす。全長で一キロ位を切れればいいだろうか。 ﹁とりあえず、七割ってとこか?﹂ 魔力を溜めて、エアリィを喚び出す。足りなければ何度でも撃て ばいい。充填した魔力をエアリィに渡した。 809 ﹁じゃー、やってみるね﹂ ﹁よろしくな﹂ ﹁うん﹂ エアリィはひらりと羽を翻し、右手を顔の横に持っていった。 狙いどころを考えているのか、しばし沈黙が続く。その間にも、 一〇〇〇の軍勢は少しずつこちらに近付いている。 ﹁それっ﹂ 右腕を払うエアリィ。 一瞬間を置いて。 爆音と砂煙を撒き散らし、大地が割れた。 ﹁⋮⋮っ﹂ 横で見ていたベラは思わず息を呑んだ。この規模の魔術は何度か 目にしたことがある。儀式と、十数名の宮廷魔術師による魔法陣を 駆使した上での戦略級魔術である。放つまでに半日は要しただろう か。 やがて砂塵が晴れ、幅十数メートル、長さ八〇〇メートルはある 巨大な裂け目が大地に口を開けているのが見えた。 おー、よく切れたな、と言っている太一をまじまじと見てしまう。 あれだけの威力を見せておいて、まだ七割と嘯いた。王城を一撃 で押し潰すと言ったのは嘘ではなかったということか。 ベラは一度頭を振って気を取り直す。今は驚くより先にやること があるのだ。 ﹁いいものを見せてもらいました﹂ 810 内心の驚愕を押し殺せたのは、地位と経験のなせる技か。くるり ときびすを返して、ベラは外壁から飛び降りた。 あんなもんでよかったのか、と聞こうと思った。近付けさせない と言う目的は達せられるのか。しかし、不満があるなら言ってきて いるはずである。 この後の作戦は、呼ばれない限りは軍が行うことになっている。 せっかくなので高みの見物をさせてもらう。太一は外壁の縁に腰掛 けて敵や味方がどう動くのか、注視することにした。 ◇◇◇◇◇◇ 目の前で起きた光景が、ダルマーは信じられなかった。 数百メートルを一撃で破砕するなんらかの力が、自軍から一キロ ほど離れたところに着弾した。 即座に進軍を止め、様子を探る。 斥候に確認に行かせたところ、長さは少なくても五〇〇メートル 以上、幅は十数メートルに及ぶという。 とんでもない一撃。精霊を操るという異世界の少年。先日ダルマ ーに赤っ恥をかかせたあの憎たらしい少年の仕業か。即座に浮かん だのは彼の顔であった。 これだけの力があるとすれば、勝ち目など無いではないか。 思わず腰が引ける。圧倒的過ぎる力を目の当たりにした人間の、 811 当然の反応であった。 ﹁怖じ気づく必要はありません。ダルマー男爵閣下﹂ ダルマーの後ろから近づく長身の男。口ひげを撫で付けながら、 ダルマーの横に立つ。 ﹁イニミークスか⋮⋮﹂ イニミークスはダルマーを一瞥し、視線を前に向けた。 その先には四桁に上る人の姿。 ﹁我々を仕留めるつもりなら、あれを最初からここに撃てば良いの です﹂ ﹁ど、どういうことだ?﹂ 情けない顔でダルマーはイニミークスにすがり付いた。 ﹁射程距離が足りないのか、或いは我々に当てなかったのは何か理 由があるか、ですね﹂ ﹁そ、そうか! そうだな!﹂ ﹁そうですとも。これ以上は近付くのは危険です。さあ、目にもの 見せてやりましょう﹂ ﹁うむ! 見ていろ、我々の覇道を邪魔する者共め!﹂ ダルマーは意気揚々と二歩前に出た。 その様子を、イニミークスは冷たい目で見詰めている。 あれだけの破壊を目の当たりにした一〇〇〇の軍勢は、微動だに していなかった。 812 813 開戦前︵後書き︶ 読んでくださってありがとうございます。 814 魔法具・魔術石 太一が見ている場所には、いつものメンバーが集まっている。言 わずもがな、奏、ミューラ、レミーアの三人である。 呼ばれなければ出番が無いので、今のところは暇だ。 とはいえ、準備をしておきつつ、戦況をきちんと観察しておく必 要がある。 戦況の見極めが素人である太一や奏に出来るとは本人たちも思っ ていないが、それでも見ていないのとはだいぶ違うだろう。 敵軍は待機状態だ。太一の一撃以降、進軍する様子を見せていな い。 一方ベラ率いる王国軍も、現在は待機状態だ。三キロの距離を、 大地の裂け目を挟んでにらみ合っている。 ﹁動かないなぁ﹂ ﹁そうだね﹂ かれこれ数分が経過している。 すぐに開戦、両軍突撃とでもなるかと思っていた太一と奏は予想 外の膠着に拍子抜けしている。 ﹁あれも作戦かな?﹂ ﹁どっちかが動くのを待ってるってこと?﹂ ﹁⋮⋮多分﹂ ミューラとて軍の指揮などに精通しているわけではない。単体で の戦闘力を生かした戦いであれば秀でたものを持つミューラである が、軍勢同士の戦い方は、冒険者として生きる上ではそこまで必要 なものではない。傭兵として徴兵された場合でも、言い渡されるの 815 は個の力を生かした突破などだ。軍のように連携が出来るわけでは ない。 ﹁ベラは後の先を取る作戦を採用している﹂ そう教えてくれたのはレミーアである。 ﹁後の先?﹂ ﹁うむ。一旦受けに回る。手を相手に握らせるのだ。その中で、相 手も受けに回らねばならない状態に陥れる。そうやって自分側に手 を持ってくる戦法だ﹂ ﹁⋮⋮?﹂ それを聞いても即座に理解は出来なかった太一だったが、作戦の うちだということは理解できた。聞いていて、めちゃくちゃ難しい んじゃないか。そう素直に感じたままレミーアに問うてみる。レミ ーアは﹁その通りだ﹂と頷いた。 ﹁森の中で正解の木を一度で当てるような難易度だ。個人、団体問 わず誰もが使う戦術だが、使用者のレベルによって当然その質は変 わってくる﹂ 宮廷魔術師の総長であるベラは、防衛時の指揮能力は総司令であ るスミェーラに匹敵するらしい。因みに、攻撃時の指揮能力に秀で ているのはパソス。その両方を兼ね備えるのがスミェーラとのこと だ。 ベラの作戦は、受けに回って迎撃、耐えて敵の戦列が崩れたとこ ろで反撃。 基本方針を簡単に表せばそうなるという。そこにさまざまな陣形、 タイミング、相手の攻撃に対するカウンター、打って出るときにメ 816 インとして選択する攻撃方法などは複数選択があると言っていた。 対局の詰みまで読み、そこから遡って現在。それをいくつものパ ターンで予測しているということだ。従う兵士たちからすれば頼も しいことこの上ない。 ベラの年齢は二十代半ばだという。その若さでエリステイン王国 軍で同率二位の地位を得ているのがその証明となるだろう。 ﹁相手が行動を起こさなかったらどうするんです?﹂ ﹁その時は一気呵成に攻め立てて叩き潰すだけだろうな。そもそも 侵攻に来ているのに、待つという選択肢は得策ではない﹂ 時間を与えれば与えるほど、その分防衛側は守りを固められるし、 攻め手に対してさまざまな対応を取るための準備時間に変えられて しまう。 ﹁⋮⋮あれ?﹂ 奏は眼の端で何かが光ったのに気付いた。 視線を敵軍に向けた奏に倣い、三人も同じ方向を向く。 そこから、炎の矢、圧縮した水の塊、空間の歪みで捉えられる風 の塊、石でできた無数の針が眼に映った。 ﹁魔術か!﹂ ﹁一〇〇〇人全員が遠距離を撃てるの!?﹂ それらが一〇〇〇の軍勢の上で一瞬留まり、高速で自陣に向かっ て飛来してきた。 眼下で組まれた隊列のそこかしこで、無数の魔術が炸裂する。 一発一発は初級から中級レベルの魔術だが、その数が半端ではな い。 817 ﹁慌てるな!﹂ ﹁普通に対処すれば恐れる必要はない!﹂ 大声があちこちからあがる。 騎士は冷静に飛んできた魔術を受け流し、宮廷魔術師は結界を張 って魔術を弾く。 確かに、彼らにとってはこの程度は容易いようで、問題なく対処 できている者が多数。ただ眼に映っただけでも数名が被弾している 様子が見て取れた。流石にあれだけの数が一度に飛来すれば、死角 も出来るということか。 ﹁レミーアさん﹂ ﹁あれは、異常だな﹂ 正式に騎士となれば、初級から中級の魔術を使えるのは普通だ。 むしろ、使えなければ騎士という職に就くことは出来ない。冒険 者となるにも魔術を使えることが必須条件というのが、それをよく 表している。 一般的に、魔術の射程は遠くまで狙おうとしてもせいぜい一〇〇 メートル。普通に戦う分にはそれだけ遠くまで届けば十分であり、 遠距離狙撃を必要としない。近接戦闘をあまり行わず、砲台を務め る魔術師ならば必須となるだろうが。 例えば同じファイアボールでも、二〇∼三〇メートル先を狙うの と、一〇〇〇メートル先を狙うのとでは、術式に組み込む命令に差 が出る。まずは標的まで威力を失わずに届かせる事が前提となる。 距離に応じて複雑になるのは言うまでもなく。消費する魔力も当然 多くなる。 騎士と宮廷魔術師であれば、遠距離を狙撃する役目を担うのは宮 廷魔術師だ。近距離から中距離までを担う騎士には必要としない技 818 術。 つまり、敵は宮廷魔術師レベルの魔術師を一〇〇〇人揃えてきた 事になる。 騎士と宮廷魔術師は、王族側と貴族側でほぼ仲良く分け合ってい るため、全員が出動した可能性が高いのだ。 しかし。 ﹁宮廷魔術師を全員使ったのか? それならこんな戦術を選択する ことにどんな理由が⋮⋮いやそれ以前に、残り三〇〇人はどうやっ て⋮⋮﹂ 口元に手を当てて、レミーアは思考の海に沈む。 宮廷魔術師の数は、国内総勢一五〇〇人。王族側に八〇〇人。貴 族側に七〇〇人が回っている計算。そもそもの計算が合わないのだ。 ﹁ミューラ、見える?﹂ ﹁届かないわね。カナデは?﹂ ﹁私にも無理。太一は?﹂ ﹁ん? あ、見ろって?﹂ ﹁⋮⋮なんで見てないの﹂ ﹁あーいや、うん。真下を見てました。スイマセン﹂ ﹁はあ。お願いできる?﹂ ﹁オッケー了解﹂ 太一は魔力の強化を目に向ける。遠見の道具よりも、ミューラや 奏の視力強化魔術よりも更にはっきりと見るために。目の前に人が 立つくらいまで、三〇〇〇メートルの距離をゼロにする。 ﹁んー⋮⋮と﹂ ﹁見えた?﹂ 819 ﹁見えた﹂ ﹁杖持ってる?﹂ ﹁いや、持ってない﹂ 持っていない。 ますます謎が深まる言葉に、全員の視線が集まる。 それだけの魔術を使うのならば、媒体を介するのが普通だ。奏も レミーアも今まで行わなかったが、長距離を狙うのなら媒体が必要 となる。 ﹁えっと。あ、指輪が光ったな。で、ファイアボールが出来た。あ ー、なんか皆それだな﹂ ﹁指輪が媒体なの?﹂ ﹁⋮⋮指輪を媒体とする魔術師っていうのは、いるにはいるんでし ょうけど、あまり聞かないわね﹂ 揃って首を傾げる奏とミューラ。 基本的に魔術師の媒体は杖である。 もちろん、指輪や水晶も媒体となりえるが、その携帯利便性ゆえ に、杖ほどの効果を持たせたものはとても高価なのだ。 例えば一〇〇〇〇〇ゴールドの杖があったとしよう。それと同じ 効果を持った指輪を手に入れようとすれば、軽く一〇倍の値が張り、 水晶でも三倍から五倍の値段がする。 よほど使い道がなく金に困っていない道楽者でなければ、とても ではないがそんなものに手は出せない。まして魔術師にとって媒体 は消耗品なのだ。激しい戦闘で破損することもままある。 せいぜい補助媒体として忍ばせておくくらいだろう。 ﹁⋮⋮タイチ。今、何と言った?﹂ ﹁ん? 指輪が光って、ファイアボールが出来た?﹂ 820 ﹁⋮⋮﹂ レミーアが顔を上げる。普段ではめったに見せないようなかなり 厳しい顔を浮かべていた。 ﹁⋮⋮どしたの?﹂ ﹁知識とは、持っているだけでは何の意味も無いことを今更ながら に思い知ったところだ﹂ しかめた顔を緩め、自嘲を浮かべる。 ﹁タイチが見えなかったら、ずっと気付かなかった。それは恐らく 魔術石だ﹂ ﹁まじゅつせき?﹂ 魔術石とは、石そのものに属性が付加され、さらに魔術の術式が 数個納められている魔法具。納められている魔術の名を唱えれば、 魔術を使えなくても、使用者の魔力を使い魔術石が代わりに行使し てくれる。属性と魔力があっても、魔術を使えるようになる確率は 世界人口の二割強という現実を考えれば、その有用度は明らかだ。 本来なら死んでいるはずの魔術の適正を生かすことが出来るのだか ら。当然だが、魔術石なら何でも良い訳ではない。使用者の属性と 同じ属性が付加された魔術石である条件はあるのだが。 ﹁指輪の媒体と魔術石の見分け方は?﹂ ﹁指輪を媒体に魔術を唱えても、別に光ったりはせんからな。杖も 水晶も同じことよ﹂ ﹁なるほど﹂ 逆に魔術石は発動時には必ず光るという。 821 ﹁しかしあんな高いものをよくもまああれだけ⋮⋮﹂ レミーアは呆れている。 それもそのはず、手に入れようと思えば、品質が最低でも一億ゴ ールドはする。 魔術石の品質を判断する基準は使用可能数、収められた魔術の種 類、或いは数。 並みの質の魔術石で四億ゴールド前後、高級品と分類されれば、 最低でも一〇億を下回らない。正に桁の違う価値を持つ物。 魔術石に使われるのは、それぞれの属性に当てはまる鉱石だ。火 属性はルビー、水属性はアクアマリン、風属性はエメラルド、土属 性はトパーズ。宝石であることも、値段がつり上がる要因だ。 魔術を使うということは、全世界人口の中で二割に入る権利であ る。地球出身で、チート性能な魔術能力がある太一と奏にはいまい ち理解が追い付かないが、この世界の人間にとっては、その高額な 対価を払うに値するものなのだ。 因みに太一と奏は、魔術石の存在は初耳である。自分で使える者 にとっては無用の長物。ミューラは﹁いつかチラッと聞いたのを思 い出した﹂というリアクションで、詳しくは知らなかったようだ。 彼女も自分で高いレベルで魔術を操れるため、特に必要としない知 識であった。冒険者をやっていて、魔術石を恒常的に使うような者 に出会うこともないからだ。魔術を使えなければ冒険者になれない のだから、さもありなん。 因みにこれらを求める層は、金が余っている者だ。属性があるこ とが分かっているが、魔術を使えない。そういった人物が、武器と 同じく護身用に求めたり、或いはもっと単純にコレクターがコレク ションとして求めたり。 ﹁一〇〇〇人分の魔術石が用意可能なほど、貴族は潤っているのか 822 ?﹂ 最低品質のものでも一〇〇〇個集めれば一〇〇〇億ゴールドであ る。そんなもので、王都を攻められるような使い方に耐えられると は思えないとレミーアは言う。 ﹁⋮⋮魔術石って、そんなに強い魔術が付加できるんですか?﹂ ﹁いや、中級魔術が限度だろうな﹂ 中級魔術ならば、それほど脅威ではないだろうなと奏は思う。ミ ューラが駆使する初級魔術のが余程厄介に感じられた。一般兵が相 手ならまだしも、騎士相手には苦しい。宮廷魔術師には、通用する と思う方がおかしいレベルだ。 ﹁道具に頼った魔術が通用するのは、魔術が使えない盗賊や低レベ ルの魔物が限度だろう。中級魔術とて、扱いがなっていない者が使 ったところで、さして脅威はない。だが、今回懸念すべきはそこで はないよ﹂ レミーアがそう呟くと同時に、ミューラが剣の柄を握る。その行 動の意味が分からない者はここにはいない。 きらりと光る銀糸が風を裂く。重い音を二回立てて、石の塊が足 下に転がった。どうやら土属性魔術の流れ弾のようだ。 キン、と鳴る音は、剣が再び鞘に納められて発したもの。床の石 を一瞥し、ミューラは顔を上げた。 ﹁確かにこの程度の威力なら、大して気にする必要は感じないです ね﹂ ﹁うむ。腕を上げたなミューラ﹂ ﹁このままだとタイチとカナデに全部持っていかれちゃいますから﹂ 823 とっさに返事が出来ない太一と奏を見て、苦笑するミューラとレ ミーア。 ﹁話を戻そう。魔力を使い切ると魔術が撃てなくなる。当たり前だ な﹂ 常識も常識。三人が頷く。 ﹁魔術が使える者は、自分の魔力がどのくらい残っているかを何と なくでも感じ取れる。魔力を操作できるのだから、それも当たり前 だな﹂ 魔力の操作能力は魔術を使うには必須である。操れなければ暴発 して、自分はもちろん、周囲までもが傷付いてしまう可能性もある。 ﹁魔力切れによって起こる倦怠感は、魔術師の自衛本能だ。﹃これ 以上は撃てない﹄という身体の悲鳴だ﹂ レミーアを含め、ここにいる全員が魔力切れを体験している。か なり辛いものだ。 ﹁さて、ここで魔術石を使う際の弊害が出てくる。魔術石はな、壊 れるまでは幾らでも使用可能だ﹂ ﹁魔術石の使用可能数ですね?﹂ 奏が問う。 ﹁その通りだが、それだけてはない。壊れるのは、使用者の肉体も 然りだ﹂ 824 レミーアの言葉に、太一も奏もミューラも、返事ができなかった。 ﹁魔術に触れてこなかったのだから、魔力操作が稚拙でも不思議で はない。魔力切れによる倦怠感が何なのかに気付かないことも十分 考えられる。魔術石は、その状態でも使えるのだ。使用者の生命力 を強引に燃料にしてな﹂ 三キロ先の敵軍を見る。彼らは今も次々と魔術を生み出していた。 ﹁魔術石による魔力の消費は大した量じゃない。やつら全員が魔術 石に頼っているとは断言できん⋮⋮が、このまま行けば、私たちは 凄まじい人数の自滅死を目撃することになる可能性が高い﹂ 今回の自軍の編成は、敵軍の攻撃に危機を覚えるような布陣では ない。戦に勝つという目的そのものであれば、耐えて自滅を誘う選 択もあり得るだろう。 だが、感情がそれを許容できるかといえば、否だ。 魔術石について敵の指揮官がどこまで知識があるかは分からない。 魔術石にそのような副作用があるとは露知らず、兵が魔術を使える ようになったからと意気揚々戦場に出てきたのかもしれない。それ でさえ看過できるものではないが、問題はそうなると分かっていて あえて魔術石を使わせている場合だ。 味方に﹁死んでこい﹂と言っているようなもの。ましてその副作 用を説明していなかったとしたら、兵士は自分が敵の攻撃を受けな くても死ぬことすら知らないのだろう。 この場合で説得力をかろうじて持たせられるのは、使用者が﹁死 ぬ﹂と分かっていながら、上官の命令に従っていることだ。つまり 玉砕覚悟。それでさえ、万人から共感を得られるものではないのだ が。 825 ﹁そんなの、止めさせなきゃ!﹂ ﹁レミーアさん、何か方法無いのか?﹂ ﹁あるから話したのだ。私とて魔術師。戦い、戦場に散るのならい ざ知らず、そのような末路になると分かっていて手を打たぬ気はな い﹂ レミーアはくるりと振り返り、本陣を見据えた。 ﹁そういうことだ、ベラ。お前にも協力してもらうぞ。聞いていた のだろう?﹂ 大声を出しても届くような距離ではない。まるでそこにいる人物 に声をかけるような声量だった。だが、ベラは本陣から顔を出し、 こちらに向かってやってきた。 ﹁いつからバレていましたか? レミーア様﹂ ベラは﹁視線は向けていなかったはずですが⋮⋮﹂と呟く。 ﹁ん? 私が指揮官ならそうすると思ってな。現に聞いていたのだ ろう?﹂ ﹁参りましたね⋮⋮﹂ レミーアの話はもちろん無駄は無いだろうし、太一の規格外な強 さがもたらす常識外の言葉も、聞き逃すのは損というものだ。 ズバリ言い当てられたベラは前髪をくるくると指で巻き、苦笑す る。 ﹁大当たりです、レミーア様。話は聞いていました。無論協力させ 826 ていただきます﹂ ﹁うむ。では、いくつか質問をするぞ。タイチ、カナデ、ミューラ ももちろん役を割り振るからな﹂ 827 魔法具・魔術石︵後書き︶ 次の話で王都攻防戦は終わりの予定です。 読んで下さってありがとうございます。 828 複合魔術 作戦には宮廷魔術師から土属性を得意とする者、水属性を得意と する者が選ばれた。両属性合わせて総勢二〇〇人ほど。内訳はそれ ぞれ一〇〇人。偏らない人選はベラによるものだ。やることが決ま っている作戦でなければ、どのような事態にも対応出来るように部 隊を編成するのだという。 それを聞いたレミーアはニヤリと笑った。とても愉快げであった。 宮廷魔術師二〇〇人がかりというのはオーバーパワーも甚だしいが、 全力で撃たないのなら時間の短縮に繋がるので何も問題はない。 レミーアは作戦をベラに伝える。なるほどと思わせる素晴らしい ものであり、全員が納得した。 そしてそこに、奏がスパイスを加えようと提案した。それを聞い たベラはぎょっとした。奏が披露したのはとある魔術の理論である。 その魔術は、難易度は高いが珍しいものではない。問題は実現方法 だ。 ベラが聞いたことのない理論で実現させるものであった。 本来魔術の理論は、秘匿されてしかるべきもの。魔術師にとって、 人より優れたものはそのまま自身の生きる手段となる。間違っても おいそれと他人に教えて良いものではない。 それを問うベラに対して、奏は涼しい顔で﹁他にもたくさんある ので一つくらい大丈夫です﹂と宣った。魔術理論を聞いた後での確 認になんの意味があるのか。ベラはそう思いつつ聞いてみたのだが、 いらぬ心配だったようだ。 開いた口が塞がらないベラ。レミーアが彼女の肩に手を置いた。 ﹁タイチが凄すぎて目立たないが、カナデも桁が違うぞ﹂ そう忠告された。反論の余地は無かった。 829 本人が良いと言うのだから、素直に受け取った。火水土のトリプ ルマジシャンであるベラであれば、発動は特に問題はない。懇切丁 寧に理論の解説をされ、実践してみて問題ないことも分かった。普 通一度聞いたくらいで真似できるほど魔術の道は甘くはないのだが、 ベラが天才であること、太一の勉強を何度も見たことで、奏が教え るのが上手かったこと、この二つが見事に噛み合った結果だった。 作戦が問題なく実行に移せると分かり、それぞれ役割を分担して 己の任務に取り掛かる。 太一と奏、ミューラとレミーアでペアを組み、それぞれ敵軍に接 近する。奏とレミーアが魔術の使用、太一とミューラが二人の護衛 だ。二人が担当する魔術は威力は高くはないが、とても繊細なもの。 集中を乱すとしくじる可能性がある。奏もレミーアも、ベラから見 て世界最高峰の魔術師だ。そんな二人が、詠唱に神経を注ぐのだか ら、どれだけ繊細なことを成そうとしているかは考えなくても分か るというもの。その護衛を担う二人もそうだ。彼女たちの集中を乱 すようなことがあってはならない。かなり気を使うはずだ。 そして、ベラも呑気にそんな評価をしていられるほど楽な役回り ではない。 宮廷魔術師部隊には、ベラを筆頭にして、直下に四人の隊長がい る。それぞれ属性ごとに分かれているのだ。その四人のうち、土と 水の部隊を率いる二人の隊長に集まるよう命令を出した。水を飲み ながら待つこと数分。ベラの天幕に二人の男がやってきた。水の部 隊隊長と土の部隊隊長。彼らはローブの下の軍服が色で分かれてお り、水属性なら青、土属性なら黄色の着用が軍規で定められている。 風なら緑で火なら赤だ。 因みにローブの色は自由である。分かりやすい色分けをしてわざ わざ相手に教えてやる必要はない。ベラの濃緑のローブの色は彼女 の趣味である。宮廷魔術師部隊最高指揮官の証である金色の刺繍は 入っているが。 830 ﹁ただいま参りました﹂ ﹁お呼びでしょうか閣下﹂ ピンと背筋を伸ばし、びしりと決まっている敬礼が、練度の一端 を表している。 ﹁御苦労様。被害状況は?﹂ ﹁はっ。水部隊は軽傷者数名出たのみで大した損害はございません﹂ ﹁土部隊も同様です。全く、あの程度の魔術に手傷を負わされると は、恥ずかしい限りです﹂ ﹁全くです。小官を含めてたるんでいるようですので、戻りました ら鍛え直します﹂ 彼らの言葉にベラは頷いた。 ﹁では、帰還したら貴方たち含めて四人全員、普段からサボってい ないか試してみますね。久々に私自らお相手しましょう﹂ ベラの言葉に二人は嬉しさと恐怖が混ざった器用な表情を浮かべ た。 ﹁お、お手柔らかにお願いします﹂ ﹁さあ。それで済むかは貴方たち次第ですよ﹂ 穏やかな口調ながら、ベラの鍛練は体育会系のパソスよりも厳し いと評判である。しかし文句など出ようはずがない。宮廷魔術師部 隊で一番厳しい鍛練を自らに課しているのは、ベラ自身だからだ。 しかし一方で、ベラほどの魔術師から手解きを受けるチャンスなど 一生で見てもそう回数はない。厳しかろうと断る理由はない。 831 ﹁それはそれとして。我々は何をすればよろしいのですか?﹂ 何の意味もなく現場レベルの責任者を持ち場から離れさせる訳は ない。それが分かっているからこその問い掛けであった。 ﹁ええ。水部隊と土部隊は、これより戦術級魔術の準備に入ります﹂ それを聞いた二人は目を丸くし、直後素早く我に返って敬礼した。 これは命令である。 ﹁火属性、風属性部隊、騎士の皆さんは、貴方たちの護衛部隊とな ります﹂ ベラは一切言わないが、この命令は重大である。失敗が、許され ていない。自分達の部隊以外全員が、自分達の護衛となるのだ。こ れで﹁しくじりました﹂なんて報告をあげようものなら懲罰ものだ ろう。ベラが言わなくても自ら申し出る必要を感じるほどに。 ﹁委細はこれから説明します。作戦開始は今より二〇分後。魔術の 詠唱開始から一〇分で撃てるようにしてください﹂ ﹁はっ!﹂ ﹁承知しました!﹂ 頼もしい返事に、ベラはにこりと微笑んだ。 ﹁それでは説明します。時間が無いので説明は一度しかしませんか らそのつもりで﹂ ベラはテーブルに広げられた王都周辺の地図にサラサラと書き込 み始める。二人の隊長は、一言一句を頭に叩き込むため、目を皿に 832 し、耳の穴の風通しを良くしてベラから与えられる情報を受け取る。 やがて明かされた作戦は、二人の度肝を抜くものだった。 ベラにとっては、正確に作戦を伝えたあと、奏とレミーアがどれ だけ大変かを思い知る仕事が控えている。そう、今回の作戦の肝は 三人。世界最高の魔術師の国エリステインの宮廷魔術師長と、落葉 の魔術師と呼ばれ、世界中で知る人ぞ知る稀代の魔術師。その落葉 の魔術師に腕を認められている異世界出身のフォースマジシャン。 夢の共演である。 ◇◇◇◇◇ 魔術が飛び交い、景色が鮮やかに彩られる中を、てくてくと歩く こと五分。強化していれば、歩きでも三倍の速さを実現できる。二 人とも装備に赤の配色はない。 太一は自分が作った大きな裂け目を覗いていた。 ﹁おーおー深いな。我ながら呆れるわ﹂ 底無しというわけではないだろう。しかし、太陽の光は底まで届 かないようだ。 ﹁近くで見るととんでもないね﹂ 833 太一の横で顔を出している奏も、同じように呆れている。 どんな手段を取ろうとも、奏にはこんな威力は出せそうもない。 威力を一点に集中させるならまだ可能性はあるかもしれないが、太 一は長さ数百メートルの範囲攻撃で成したのだから。 ﹁奏、出来るんだよな?﹂ 太一の問いと言うよりは確認に、ためらいなく奏は頷く。 ﹁簡単じゃあないけど、出来る。ベラさんに偉そうに教えておいて、 失敗しましたとか恥ずかしいしね﹂ ﹁それもそうだ﹂ 太一は半身をずらし、右手を奏とは逆方向に突き出した。 直後火炎球が受け止められる。太一はそれを握り潰して消滅させ た。 ﹁まーしっかりやれよな﹂ ﹁はあい﹂ 太一が護衛。世界で最も強固かつ贅沢な盾である。守りに専念す る太一を抜ける者がいるとは、奏は一切考えていない。 奏は背中に背負った杖を手に取り、抱くようにして目を閉じる。 これから放つ魔術のイメージを鮮明に。そして魔力を練り上げる。 ここから標的までは短く見積もっても一キロ近くあるだろう。それ だけ離れた相手に届かせるためには、少なくない魔力が必要である。 使う魔術には殺傷能力は殆ど無いが、だからこそ繊細な制御が必要 だ。威力の調整に射程距離の調節。その配分を間違えれば、全く意 味がない。更に、レミーア、ベラともタイミングを合わせる必要が 834 ある。その為には最速で魔術を編み上げ、いつでも発動できるよう 待機状態に移行できるのが望ましい。待機中も魔術を設定した状態 で維持させる必要があるため、相当に神経を使うことは分かってい る。 奏が魔術の準備を始めたのを確認して、太一は視線を前に向ける。 ﹁エアリィ、具現化﹂ 太一の右肩に腰掛けていたエアリィが姿を見せる。ここに来るま でには、騎士団や宮廷魔術師の近くを通る必要があった。具現化さ れた状態では、エアリィの圧力をもろに味方に浴びせてしまう。姿 を見えないようにすればその圧力も無くなるため、今までは姿が見 えないようにしていたのだ。奏にはエアリィを喚ぶと伝えてあるた め、精神に乱れはなさそうだ。 ﹁乱れ飛んでるねえ﹂ エアリィは手を額の上にかざして目を細める。頭上をひっきりな しに魔術が通過していく。 ﹁こっちに飛んでくる魔術、全部叩き落とすぞ﹂ ﹁オッケー。じゃあ、結界でも張る?﹂ ﹁⋮⋮そんなことできんのか﹂ ﹁まー、結界っていっても﹂ ぶうん、とエアリィの身体が淡く光る。 一〇メートルほど離れたところに、風の幕が生み出された。それ に当たった風の弾丸が、パアンと弾けてかき消えた。 ﹁風圧で防ぐだけだけどネ﹂ 835 なるほど。はたしてどの程度の防御力があるのか。太一は手頃な 石を拾い、五〇の強化を施して振りかぶる。体重移動に腰の捻り、 肩肘手首から指先に力が伝わり、石が飛び出す。速度計測装置がこ こにあれば、時速六〇〇キロと表示されるほどのスピードで投げら れた石は、エアリィが作った風の壁に当たって、消えた。 ﹁うへえ。粉々かよ﹂ 今太一が投げた石よりも威力のある魔術が飛んでいる気配はない。 ﹁少し強く作ったんだけど⋮⋮過剰だったかも﹂ てへっと笑うエアリィ。どうやら加減を間違えたようだ。これだ けの結界があるのならば、奏に届くことはまずないだろう。 後は万が一に備えて周囲に気を配れば良い。そもそも結界が無く たって防ぐのは難しいと思っていなかったので、全く問題ない。油 断ではない、余裕である。 神経を尖らせて奏の周囲に意識を向ける。奏さえ守れば良い。し かも時間制限付である。一発だけ上から水の塊が降ってきた。流れ 弾の類いだろう。太一は突風を起こして吹き飛ばした。水滴一つす ら奏に触れさせるつもりはなかったからだ。 そうして過ごすこと一〇分あまり。遥か後方から、大きな魔力の うねりが太一たちがいるところまで届いた。 ﹁来たか﹂ 作戦の実行である。ずっと集中していた奏が目を開け、杖を前に 掲げた。 836 ﹁太一﹂ ﹁任せろ﹂ 太一はくるりと奏の方を見る。実際に見ているのは奏ではない。 その後ろ、王国軍である。 やや間を置いて、二種類の大きな魔術が立て続けに放たれる。そ して、天に向かって数発の火球が撃ち上げられた。 ﹁撃て!﹂ ﹁リベレイトスペル!﹂ 奏が魔術を発動した。作戦実行完了である。後は、効果を確認す るだけだ。太一は貴族軍を見る。効果は、すでに現れていた。 ◇◇◇◇◇ 地面が砂と化し、一〇〇〇人の兵たちががくりとバランスを崩す。 瞬間足下に水が生まれ、彼らはくるぶしまでくらいの浅い泥沼に浸 かることを余儀無くされた。一連の事象に対してダルマーが何か感 想を覚える前に、その泥沼が青白い光と、バチバチという弾ける音 がダルマーに届く。一〇〇〇人の兵は、一人残らず崩れ落ちた。 今までひっきりなしに敵軍へ向かって撃たれていた色鮮やかな魔 837 術の波状攻撃が、一瞬にして止んだ。 兵たちは立ち上がる気配がない。目の前に広がる光景が信じられ なかった。悪い夢でも見ているのだろうか。まさか一〇〇〇の部隊 が一瞬で沈黙するとは。どのような手段を講じれば、こんな非現実 的なことが起こりうるのか。 泥の水溜まりが一瞬で蒸発する。倒れた兵たちは生きている。時 折痙攣するのみで、身体を動かせないようだ。 立っているのはダルマーとイニミークスのみ。兵が殺された訳で はないが、全滅に等しい状況である。 ﹁⋮⋮な、何が起こったのだ⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮﹂ 応えない副官の胸ぐらを掴むダルマー。 ﹁何が起こったと聞いたのだ!﹂ ﹁感電、という症状です。電撃を喰らったのですよ﹂ ﹁電撃⋮⋮?﹂ 魔術で電撃を起こすのはとても難しく、風属性魔術師にとって、 一流から超一流になるための登竜門と言われている。 特に魔術に精通している訳ではないダルマーでも知っているよう な、有名なことである。 ﹁そうです。更に足下に水を充満させることで、電気の通りを良く したのでしょう﹂ ﹁水が電気の通りを良くする?﹂ ﹁左様です閣下。私もかつて聞いただけですので、信じていなかっ たのですが﹂ 838 一〇〇〇人もの集団を一度に感電させるほどの魔術を単発で起こ すのは至難の技だ。足下が水溜まりで、そこに電撃を流したからこ そ、彼らは感電したのだ。 ﹁そんなことが⋮⋮﹂ ﹁いやはや、流石本物の軍隊。やはり勝ち目は無かったようですな﹂ ﹁なんだと?﹂ ダルマーにとって、それはとてもではないが聞き流せるものでは なかった。 イニミークスは薄く笑った。 ﹁元から勝ち目は無かった、と申したのです。ダルマー男爵閣下﹂ ﹁き、貴様あ⋮⋮﹂ 言葉が出ない。怒りで震える。一体どこに、負けるつもりで戦に 出る輩がいるというのか。 ダルマーにとっては秘蔵の作戦だった。一〇〇〇人の遠距離攻撃 が可能な魔術師部隊。それを実現するなら、宮廷魔術師レベルの人 材を集めなければならない。普通なら何処に行っても﹃逸材﹄と呼 ばれるような才能と実力が飛び抜けた魔術師。それが宮廷魔術師と いう存在だ。 それを実現出来たのはイニミークスのお陰であるということも忘 れてダルマーは突っ掛かる。 ﹁ぼさっとしていないで、とっとと奴等を立ち上がらせろ!﹂ 声量を更に一段階上げて怒鳴り付ける。必死の訴えにしかし、イ ニミークスは両手のひらを上に向けて肩を竦めた。 839 ﹁先程から何度もやっています。いくら命じても、動かない。いい や、動けないのですよ﹂ ﹁動けない、だと?﹂ ﹁ええ。先の電撃で、皆麻痺したままです。いつこの麻痺が解ける やら﹂ ﹁貴様が取り除いてやればよかろう!﹂ ﹁一〇〇〇人一人一人を? その前に、彼等がここに到着しますよ﹂ イニミークスの視線を辿れば、王国軍が左右に分かれ、大地の裂 け目を迂回し始めたところだった。 一〇分とせずに彼らはここに辿り着くだろう。 ダルマーはふらりと後ずさった。最早逃げることは敵わない。絶 望感が重りとなって降り注ぐ。 ﹁一〇〇〇人をまとめて殺さずに戦闘不能にするだけの魔術を操れ る。初級魔術を撃つしかない我々では、逆立ちしても及ばぬでしょ うな﹂ 反論の余地は無い。向こうは魔術のプロ。一方ダルマーの軍勢は 魔法具を使った素人軍団。力の差は歴然だ。 殺さないという手段ははっきり言って相当な手間のはず。それで もその手段を選ばざるをえない、何らかの事情があったのだろう。 今思えば付け入る隙はそこだったのではないかと思えなくもないが、 随分あっさりと実現させられてしまった。 イニミークスにとっても想像以上である。 これは再考の必要があった。 ﹁ど、どうすればよいのだ⋮⋮﹂ ﹁助かる方法はありますぞ﹂ ﹁お、おお! では早速!﹂ 840 ダルマーは情けなくイニミークスに駆け寄った。 ﹁ええ。早速﹂ ずぶりと、何かがダルマーにめり込んだ。 ﹁あへ?﹂ 自身のへその辺りに生える剣の柄。その周りがじわりと赤黒く染 まっていく。 ダルマーは自分の腹部から視線を目の前に立つイニミークスに向 ける。彼は右手を突きだす姿勢を取っていた。 いくらダルマーの頭でも、それが何を意味するかは理解ができた。 ﹁き、きさ⋮⋮﹂ ﹁貴方の死体で、一〇〇〇人の兵と私の命が助かります﹂ ﹁裏切っ⋮⋮たな⋮⋮﹂ ﹁心外な。いつ私が貴方の盟友となったのです。勘違いなさらぬよ う。そうだ、兵にかけた術は解いておきましょう。私は、ここにい なかったことになる﹂ ダルマーはがくりと膝を追った。 ﹁地獄に⋮⋮堕ちろ⋮⋮ぐふっ﹂ 最後に捨て台詞を吐いて、ダルマーは事切れた。動かなくなった 彼の死体を、イニミークスは見下ろした。 ﹁貴方に言われずとも、私はまともな死に方はしませぬよ﹂ 841 低い含み笑いは、立ち去る彼の姿と共に広大な大空に溶けて消え た。 842 複合魔術︵後書き︶ 読んでくださってありがとうございます。 843 襲撃 一〇〇〇人もの人間が、一人残らず動きを封じられている。殺す のは容易いが、無力化するのはとても骨が折れるものだ。 しかし今、王国軍の前に広がるのは、倒れたまま呻いている人間 たちばかり。圧巻の光景だった。 敵である前にエリステインの国民である。救う手間が増えたのは 確かだが、自国民の救済を面倒だなどと感じる人間が、正規軍に籍 は置けない。罰するかはこれから決めること。まずは保護が先だ。 部下にその対処を命じたベラは、彼らのてきぱきとした働きぶりに 目を細めていた。 次々と報告が上がってくる。死者はいないという報告が。 奏の提案が正解だったのは、この結果を見れば明らかだ。殺さず に沈黙させた奏の功績は大きい。 そう考えれば、ベラは奏の身を案じずにはいられない。 太一に手を出そうというバカは彼の力を知ればいなくなるだろう が、奏はその限りではない。奏の実力が世界屈指だとベラは太鼓判 を捺している。それでも、彼女は人間の範疇を出ていない。自分の 言葉がおかしいとベラ自身も思うが、それでもこの表現は間違って いないと思う。 自分の身を守るための選択をしなければならない。レミーアのよ うに、世間から距離をおいた生活を強いられることになるか、或い は自分のように組織に所属するか。最後の選択肢は、太一の側を片 時も離れないか、だ。選びやすいのは三つめか。自由がない生活は 受け入れなければならないだろう。まあ、奏という少女を知ってい けば、三つめの選択肢で問題ないという答えに行き着くのだが。 どれほど時間が経過しただろうか。横で電撃の魔術を練習してい たレミーアがベラに声をかけた。先程の電撃魔術の制御が、彼女的 には納得いかなかったらしい。あれだけコントロール出来るなら充 844 分ではないか、と思わずにはいられないレベルの話である。 ﹁ベラ。あいつらを行かせて良かったのか?﹂ 魔術の練習を止めて、レミーアはベラに顔を向けた。 ﹁問題ありません。むしろ願ったりの申し出でしたので﹂ ﹁お前の独断ではないか?﹂ ﹁伊達に軍で二番目の地位にいません。スミェーラ将軍にも、もち ろん陛下にも、私がきちんと説明します﹂ ﹁偉くなったもんだ。昔はゴブリン︵ざこ︶相手にびくついてピー ピー泣いていた小娘が﹂ ﹁レミーア様!﹂ 耳まで真っ赤にして大声をあげるベラ。 上官にもそんな時代があったのか、と、周囲の兵士たちが聞き耳 を立てているのが分かる。もちろんそれはベラも気付いたことであ り、彼女はやおら魔力を活性化させ、たっぷりと威圧感を乗せて撒 き散らした。ぎゅぴーん、と目が光ったように、レミーアには見え た。実に愉快な光景である。 蜘蛛の子を散らすように慌てて離れていった部下たちを見詰め、 ベラは大袈裟にため息をついて肩を竦めた。あれで仕事はきちんと こなしているから、強くは咎められない。優秀な部下を持つ上司の 贅沢な悩みである。 ﹁レミーア様こそ、行かなくてよろしかったのですか?﹂ ﹁私が行く必要があると思うか? タイチ、カナデ、ミューラがい るというのに﹂ レミーアが挙げた三名の中で戦闘力で一番劣るミューラでさえ、 845 騎士と宮廷魔術師を合わせたような実力があるとレミーアが評価し ているのを思い出し、ベラは素直に戦慄を覚えた。 ﹁それに、あいつら、特にタイチとカナデには良い勉強になるだろ う。本物の対人戦闘の経験を積むという意味でな﹂ 彼女の言いたいことが良く分かったベラは、それ以上異を唱えは しなかった。 内乱に携わった以上、避けて通れる道ではない。まかり間違えば 人を殺めてしまうかもしれないが、それもまた、この世界では普通 のことだ。戦争となれば尚更である。 レミーアは、自分の目が届く範囲では最大限気を配ろうと考えて いる。しかしいつ何時も共にいられると約束は出来ない。 人を殺めるかもしれないという覚悟はもちろん、慣れておいて困 ることはない。共に行かなかったのも、過剰戦力というのも理由の ひとつだが、レミーアのフォローが受けられないという状況も経験 してもらった方がいいと思ったからだ。 必ずしも正解だと自惚れているわけではない。しかしレミーアな りの親心である。本人たちがこの意図に気付いているかは別にして。 ◇◇◇◇◇◇ 846 荒野から王都に戻り、歩くこと二〇分。目的地までもうすぐと告 げられ、太一たちは気を引き締めた。 王都ウェネーフィクスは、敷地内に隙間なく建物が建てられてい る訳ではない。王都の中を小さな川が流れているし、池があれば林 も存在している。それらを利用した畑や牧場もあるのだ。 メインストリートから離れるように歩けば、様々な顔をのぞかせ る王都。 ふと太一の目に、人だかりが飛び込んできた。人の往来が少ない 状態の王都において、そこだけが異様と思えるほどに人が多い。 興味深げな目をしている太一の視線を追いかけたミューラが﹁あ れはレージャ教の教会ね﹂と言った。アズパイアには教会はなかっ たので気にも留めなかったが、この世界にも宗教があるようだ。 ﹁外の出歩きを非推奨している今、人々の暮らしを支えるのは商業 組合から代理販売を請け負った国かレージャ教なんだ﹂ ここまで太一たちを案内してくれた宮廷魔術師の青年が答える。 商人にも等しく外出を自重させているため、市場が回らなくなる。 しかし日々の食料は生活していれば無くなっていくのだ。国民を飢 えさせるわけにはいかない。言ったからには国が責任を負っている というわけだ。そしてそれを手助けしているのが、前述のレージャ 教らしい。この世界唯一の宗教であり、世界すべての国にて﹃人類 の未来を救うために今を救う﹄という教えのもと、布教活動を続け ているという。 ﹁如何せん人が不足気味だから、彼等にはとても助けられているよ﹂ 今を救う、と、口にするだけでなく行動もしているということか。 信念がどうであれ、吐いた言葉に責任を取るには行動で明かすしか ない。どこかの国の政治家にも聞かせてやりたいものである。 847 彼等を横目に見ながら、太一たちは目的地へ足を止めない。たま に群衆からこちらに目を向ける者がいるが、宮廷魔術師と共にいる ため、特に咎められることはない。これが太一たち三人だけなら、 ﹁早く家に帰れ﹂と忠告されていただろう。 更に歩くこと一〇分弱。大きな屋敷が見えてきた。物陰から覗き 見てみる。これだけの大きさの屋敷は、土地の限られる日本ではち ょっと見掛けない。もう宮殿といっていいかもしれない。土地も当 然ながら広い。 ﹁これが、サーワハ伯爵邸だよ。どうする?﹂ 興味があるのだろう。青年が問い掛けてきた。 どうするも何も、作戦などある訳じゃない。 代表して奏が﹁小細工なし。正面から行きます﹂と言った。キョ トンとする青年をよそに、三人は身を隠していた角から身を踊らせ、 スタスタと正門まで歩いていった。 門番が三人の前に立ちはだかる。 ﹁何用だ﹂ ﹁サーワハ伯爵に会いたいんだけど﹂ 前置きもなしにそう告げた太一に対して、門番の男は露骨に警戒 の色を浮かべる。今は戦時中である。それでなくてもアポなしで貴 族を訪ねるというのはよほど切羽詰まっているか、大切な用がある かだ。聞き入れられる筈はなかった。 ﹁帰れ帰れ。どうしても会いたくば、書簡で約束を取ることだな。 伯爵様が会う価値があると判断してくだされば、二週間後くらいに はお顔合わせが出来るだろう﹂ 848 返された答えに、太一は﹁仕方ないな﹂と呟いた。門番としては 当然のリアクションである。ほいほいと会えるような人物ではない のだ。 妙な奴等が来たものだと門番は思ったが、この後の三人の行動は、 彼の想像を越えていた。 ﹁分かった。押し通る﹂ ﹁何? が⋮⋮﹂ 後頭部に鈍い衝撃。崩れ落ちる門番の後ろで、いつの間にか彼の 背後を取っていたミューラが、剣の柄を掲げていた。そこで殴打し たようだ。 ﹁奏﹂ ﹁ファイアボール﹂ ゴオンと腹に響く音と共に、門が吹き飛んだ。ド派手な侵入であ る。いや、これは最早侵攻だ。 爆発と共に門が吹き飛べば、それはそのまま警報となる。怒号を 上げながら、何十人と武装した男たちが現れた。 向かってくる人の波に臆すことなく、太一たちも徐々に速度をあ げて向かっていく。 始まった乱戦を目の当たりにして、案内役の青年は唖然としてい た。まさか伯爵家を相手に正面突破をやってのけるとは。自分達の 実力に自信がなければとても出来る芸当ではない。ベラには﹁参戦 しなくていい﹂と言われているため、彼の仕事と言えば退路の確保 くらいだ。 しかしそれも、彼らの闘いを見れば必要性を感じない。悠々と戻 って来るのだろうな、と想像がつく。個々の力が飛び抜けている上 に、連携もかなりできているのだ。 849 ﹁自信なくすなあ﹂ 青年は苦笑した。彼とて人から羨ましがられるような実力者だ。 しかし今に限っては、比較対象が悪かった。 太一は二〇の強化を施し、肉弾戦で戦っていた。どんなものだろ うと最初は一〇の強化で戦っていたのだが、一人二人なら問題なく ても、これだけ数が多いと死角のフォローに限界があることが分か ったのだ。しかし、対する方はたまったものではない。一〇の強化 でも戦士として強いのに、いきなり強さが倍加したのだから。太一 の動きを追うだけで大変だ。 太一の武器は拳と蹴りの格闘だ。決して楽な戦いではなかった。 スペックでは明らかに上回ることが出来ているが、殺さぬように相 手を倒すのが大変である。 基本はボディと顎狙い。気絶を狙った攻撃だ。殴る相手が魔物か ら人になると、こうも精神的な疲労が強いとは思わなかった。レミ ーアが言っていたことは大当たりだったのだ。 斜め後ろから来た斬撃をひらりとかわし、顎を撃ち抜く。魔物を 殴ったときと違う脆い感触が手に残る。これでも大分手加減してい る。もう少し力を込めていたら、首の骨を折ってしまっていただろ う。今のでさえ、顎の骨にヒビが入ったかもしれない。その前兆は あった。顔面を狙ったハイキックを放ち、防がれはしたのだがぼき りというなんとも言えない感触が残った。腕の骨を折ってしまった のだ。オーガの首の骨を折ったこともある太一だが、それが人のも のとなれば、抱く感想はまるで変わってくる。 普通に考えれば相手の腕を折るくらいで申し訳ない気分にはなら ない。相手とて必死である。抜き身の刃で殺すつもりで斬りかかっ て来られているのだから、腕の一本や二本折った程度でどうこう言 850 う必要はない。 それでも申し訳ない気分になるのは、太一にとってこの戦闘では 命の危険をまるで感じない故である。 ﹁対人戦闘って気使うなあ⋮⋮﹂ ぽつりと呟く。けたたましい戦闘の音にかき消された。 今後も対人戦闘は増えていく。やむを得ず出撃して、力加減の手 探りから始めるのはあまりよろしくない。味方の命も掛かっている のだから。 であれば、自分からその場所に飛び込んでいくというレミーアの 助言はもっともだと思ったし、今ならばいい意味で気を使わなくて 済む面子だけで戦えている。 ﹁くそ! 何だこのガキ!﹂ ﹁取り囲め! 一斉に行くぞ!﹂ 周囲を囲まれるのはかなりのピンチだ。だが、太一が抱いた感想 は違う。﹁作戦明かしちゃっていいの?﹂だ。この程度はなんのこ とはない。 周囲を囲むのは一〇人強。一斉にとは言うが、一度に全員はさす がに来ないだろう。味方の攻撃まで阻害しては数の優位を保つ意味 がない。 まず向かってきたのは正面から二人。背後から一人。そして、真 横から石が飛んできた。 ﹁おお﹂ 石を避けると隙が出来る。太一はそれを受け止め、握り潰して粉 々に︵・・・・・・・・︶した。それを正面に向けて投げる。散っ 851 たのは砂。効果は抜群で、正面の二人は勢いを緩めて目をかばった。 彼等を一旦スルーして、太一はくるりと振り返る。強化した聴覚 は、背後から向かってくる男のスピードと距離をざっくりでも把握 することを可能とした。 驚く衛兵に向かい、太一は振り返る動作の慣性を利用して後ろ回 し蹴りを男の脇腹に直撃させた。 ﹁ぐほっ﹂ 呻き声を上げて地面を転がる男には目もくれずに、身体の向きを 目潰しをかけた二人に向け飛び掛かった。二〇の強化を施した太一 の身体能力は、体操選手世界チャンピオンを数倍単位で上回る。地 面に手をついて前回り程度は簡単な動作である。反動で人を飛び越 える高さまでジャンプし、両足を外に広げて二人の頭を同時に蹴り 飛ばした。 ﹁ぐっ!﹂ ﹁があっ!﹂ たん、と軽やかに着地した太一に、取り囲んだはずの男たちが二 の足を踏んでいる。それはアドバンテージを自ら放棄する行為。 ﹁来ないならこっちから行くぞ﹂ 律儀に宣言し、太一は目に映った衛兵に向かって駆ける。既に相 手を呑んでいた。 奏は自分の手数の多さによる難しさを実感していた。相手を殺さ ないように、負わせる怪我も最低限にして攻撃をする。目的はそれ 852 であり、それを実行するのが難しい。 炎系の魔術は相手に火傷を負わせてしまうためNG。 氷系の魔術も持続的に凍らせてしまえば凍傷の危険があるのでN G。因みにかつてマリエに撃った時は効果を一瞬で解除したので問 題なかった。 そうすると残るのは水属性、風属性、土属性か。 水も風も土も、打撃を与える目的で行使するのなら悪くはない。 奏は、あまり使う機会がなかった土属性魔術をメインに据えること にした。 石を相手の進路などに叩き付けて牽制したり、砂煙を巻き起こし て視界を奪ったりと、実に様々な使い方があり、とても便利である。 そして、中小人数の対人で奏的にもっとも有効だと思う魔術がこ れだ。 ﹁うおお!﹂ ﹁穴ぁ!?﹂ こちらに接近していた四人を一撃で落とし穴に放り込む。深さは 大体三メートルから五メートルといったところだ。出られない深さ ではないが、もちろん容易くやらせはしない。 穴の底を田植えをイメージして膝まで浸かる泥にしたり、またカ チカチの氷にしたり。受ければ厄介極まりないトラップで次々と穴 に落としていく。 周囲にいくつか穴を作ったところで、﹁やりすぎる﹂可能性が出 る方法だと実感した。穴だらけにしてしまうかもしるれないのだ。 這い上がれない相手に対しては足止めとして十分な効果があるが、 這い上がれる相手に対しては一時しのぎにしかならない。そんな欠 点も、考えているうちは良いと思っても、実際に使ってみなければ 気づかないことだった。 この魔術は使い所を吟味する必要がありそうだ。自分だけならい 853 いが、味方の邪魔をしては意味がないし、問題なく抜けれる相手に 対して使う場合にはもっと脱出しにくい構造を考える必要がある。 ひとまず落とし穴は横に置いて、奏は素直に行くことを決めた。 水鉄砲で相手を吹き飛ばす方針に切り換える。落とし穴の存在が相 手の進路を制限する。際限なく水鉄砲を放つ奏は、衛兵たちにとっ て相当な脅威だった。 三人の中で一番オーソドックスな戦闘をするのがミューラである。 剣術と強化魔術を軸に、牽制に炎や石を使用する。近距離から中 距離を得意とする剣士。それがミューラという少女だ。 三人の中では、ミューラがもっとも与し易いだろう。彼女が、も っと弱ければ。 太一、奏と行動を共にするようになって、ミューラはめきめきと 腕をあげてきている。奏やレミーアほどでないにしろ、素質そのも のはもともと高かったのだ。これまでは慌てる必要がなかったため に、ゆっくりとしたペースで修行を重ねていた。そんな日常を過ご すなかで、突如ミューラの前に現れた異世界の二人。 圧倒的な素質と、それを生かすセンスに舌を巻いた。今後も共に 行動していくことになるだろう。そう考えたときに、いい意味で焦 燥感にかられた。 威力では逆立ちしたって太一に敵わない。 魔術のバリエーションでは異世界の知識を駆使するフォースマジ シャンの奏に敵わない。 幸いというべきは、嫉妬するのもバカらしい程、素質に差があっ たことだ。だからこそ、前向きに自分の得手を磨くと素直に決意で きた。 自分の得意は剣。 デュアルマジシャンであり、魔力量も魔力強度も宮廷魔術師の基 準を大きく上回っている。 854 太一と奏が特別だと考えればいい。ミューラだって人から羨まし がられる素質を持っているのだ。 レミーアという最高の師の元で築き上げた土台が、ミューラを支 える。 王都に来て宮廷魔術師の魔術を見学する機会があったが、魔力の 操作などは劣っていないと自信を持てる。 騎士のかかり稽古を見て、独学にしては悪くない剣術を使えてい ると実感できた。 けれん味のないオーソドックスな魔術剣士のスタイル。正攻法で 得られた強さ。 実質的なスピードでは太一の方が明らかに速いが、ミューラには ﹃遅く見せる﹄技術がある。相手の視覚を惑わして間合いに入り、 先手を打てる。剣を振るいながら同時に魔術を紡ぐことができる。 戦闘における技能を全体的に見れば、ミューラは太一と奏の二人を 上回っているのだ。 片刃の剣を普段と逆に持ち、目の前の相手に容赦なく剣を叩き付 ける。切れないだけましだが、そんなのは慰めにならないほどの殴 打の一撃が次々と加えられていく。 二人との差をもっとも顕著に現すのが、対人戦闘での躊躇いの無 さである。今回はなるべく殺さない、という制限がかけられている が、必要とあれば峰ではなく刃の方で剣を振るうことも、ミューラ は厭わない。 人殺しが好きだ、などという猟奇的な性癖は持っていないが、殺 さなければ殺されるという常識の世界で剣を取った以上、そこに忌 避感が過剰に入り込んでは命を落とすのはミューラの方だからだ。 むしろ人を殺すのを躊躇っていても命の危険が少ない太一と奏の 実力が非常識なだけである。 横合いの衛兵が剣を振りかぶるそれを受け止めようとして、ミュ ーラの直感が警鐘を鳴らした。膂力を大幅に強化し、横から振り下 ろされようとしている剣を横薙ぎの一閃で半ばからへし折った。そ 855 のまま半歩ずれながら振り返り、背後をとっていた男の足下を刈る。 ﹁ぎゃあ!﹂ 膝を砕かれて悲鳴を上げ、のたうち回る男には一瞥もくれずにく るりと回転し、剣を折った男の上腕に剣の峰をめり込ませ、弾き飛 ばした。 同時に発動させた土属性魔術で石を生み出し、膝を砕いた男の鳩 尾にぶつけて気絶させた。 隙を見せない流れるような連続攻撃。ミューラにもっと容赦がな ければ、今の一瞬で二人は絶命していただろう。 ﹁くっ! 退け! 立て直せ!﹂ 指揮官の判断は遅かった。こちらを牽制しながら引いていく衛兵 たちの数はものの五分の戦闘で半分近く減っている。 衛兵たちの被害は上層部に伝わっているはすだ。伯爵家の戦力か ら考えれば、もうすぐ主力が出てくるだろう。 ﹁カナデ﹂ ﹁うん﹂ 奏は杖を取り出して魔術を紡ぐ。 数えて凡そ三〇秒。衛兵たちの退路の先に、三発の稲妻が落ちた。 網膜をつんざく光の奔流と鼓膜を揺るがす轟音が彼らの足を止め、 地面を伝わった電撃で数人が崩れ落ちる。 逃がすわけがない。太一たちの意図は伝わっただろう。 戦闘開始から四〇分。たった三人の襲撃によって、サーワハ伯爵 家は半壊滅的な人為的ダメージを負った。 重傷者が多数出たものの、死者ゼロという結果を残して。 856 襲撃︵後書き︶ ありがとうございました。 857 策謀 太陽が地平線の彼方に呑まれ、光が消えていった。 紫色の空が徐々にその範囲を広げていく。 そのさまを眺めながら、マルケーゼは手に持ったワイングラスを 手で回して揺らす。 そして、対面に座る男に、恭しく視線を向ける。 同じくずっと外を見つめていた、ドルトエスハイム。 彼はマルケーゼの視線を感じ取ったのだろう、外に向けていた目 を、マルケーゼに移動させた。 マルケーゼはじっと彼の視線を受け止める。 二人の間を流れる時間。 何秒か、何分か。 ﹁お忙しいところ、お時間を頂きまして申し訳ありません。改めて お礼申し上げます﹂ ﹁良い。侯がわざわざ早馬を出して面会を申し出るくらいだ。よほ どのことがあったのだろう?﹂ ずしりとのしかかるドルトエスハイムの声にマルケーゼの動きが 止まるが、それも一瞬だった。 マルケーゼはドルトエスハイムの言葉を肯定し、頭の中にある伝 えるべき事柄を整然と並べ立てる。 ﹁二点ございます。一つは悪い報告です﹂ ドルトエスハイムはぴくりとも表情を変えなかった。 ﹁では一つ目ですが。ダルマー男爵が死にました﹂ 858 ﹁そうか﹂ ﹁兵士一〇〇〇人は全員王族派に捕らえられました﹂ ﹁一人残らずか﹂ ﹁左様です﹂ ﹁一人ずつ捕らえたと言うのか?﹂ ﹁いえ。同行した部下の報告によれば、戦術級魔術で一網打尽にさ れたそうです﹂ ﹁ほう﹂ ドルトエスハイムは﹁面白い﹂と呟いて腕を組んだ。 彼が望むのはその先の情報。もちろんマルケーゼも分かっている。 ﹁実現させたのは三種類の魔術。土魔術と水魔術、電撃魔術です﹂ ﹁⋮⋮感電か﹂ ﹁ご明察でございます﹂ 特に魔術を研鑽していたわけではないドルトエスハイムだが、頭 の中に蓄積された情報から答えを導いた。彼の立場は公爵。王族の 次に立場が高い。鮮度の高い一次情報に触れる機会には事欠かず、 所定の手続きを踏めば深度Aランクの情報さえ手に入る。そして彼 の頭はただ体に乗っかる御飾りではない。 ﹁足元の土を砂とし、そこに水を発生させて泥にする。その泥に電 撃を流して感電させる。殺さずに動きを封じる、針の穴を通すよう な恐ろしいまでの緻密さでございます﹂ ﹁そうか﹂ マルケーゼはドルトエスハイムの表情を窺う。 彼がこの程度の敗北で悔しがるような器量でないことは分かって いる。ではどんな反応を見せるのか。マルケーゼの予想では﹁敵な 859 がら天晴れ﹂といったところか。貧弱な創造力だとマルケーゼも思 う。だからこそ読み取ってやろうと思ったのだが、ドルトエスハイ ムはリアクション一つせず、とうとうマルケーゼに感情のかけらす ら読み取らせなかった。これでは正解かどうかも分からない。 ﹁異世界の少年少女は何かしたか?﹂ マルケーゼは肯定する。 断定はできませんが、と前置きし、部下からの報告をそのままド ルトエスハイムに伝えた。 ﹁数百メートルを一撃で分断したと?﹂ ﹁はい。三〇〇〇メートル離れたところからでも、信じがたい程の 魔力を感じたそうです、それも一人の﹂ ﹁一人か⋮⋮召喚術師の少年だと、侯はそう言うのだな﹂ ﹁恐らくは﹂ マルケーゼが辿り着いた事実に、ドルトエスハイムも辿り着いて いることだろう。 ﹁では、悪いニュースです﹂ ﹁聞こう﹂ ドルトエスハイムの許可を得て、マルケーゼはもう一つのニュー スを告げた。 ﹁王都襲撃戦の三〇分後、サーワハ伯爵家が襲撃され、半壊滅状態 に追い込まれました。犯人は三名の少年少女。いずれも手の付けよ うのない強さだったそうです﹂ ﹁半壊滅か﹂ 860 ﹁はい。死者はいなかったそうですが、戦闘員は四割が重傷、再起 まで最低でも一ヶ月。一番の被害は、金品が建物ごと吹き飛ばされ た事です。伯爵の目の前で、建物が爆発で消し飛んだ、と。物資等 の調達は絶望的だと、伯爵の名で申告が上がっております﹂ ﹁やってくれる⋮⋮王国軍の現場指揮官は?﹂ ﹁軍旗から察するに、ベラ宮廷魔術師長と思われます﹂ ﹁愛らしい顔をして、食えない女狐だ﹂ ドルトエスハイムはそう言って笑った。 これはミスリードを誘う罠だ。単に伯爵家を潰すことが目的と浅 く読むと、痛い目を見るだろう。 裏に潜む本当の意味は、貴族派への警告と挑発。 貴族を一つずつ潰し、戦力を削っていくことが可能だという、 警告。王国軍が疲弊することなく、伯爵家にたった三人で乗り込ん で真正面から打ち破れるのなら、この手段を今後も取らない理由は ない。本格的にぶつかるのが遅くなればなるほど、貴族派は弱体化 を強いられるだろう。 そしてそれが挑発にも繋がる。ベラは暗に﹁かかってこい﹂と言 ってきているのだ。厄介なのは、その挑発に乗るのが貴族派にとっ ても最善だということ。乗らずに手をこまねいていれば、次から次 へと各個撃破され、戦力がどんどん削られて行く。最後には﹁戦う 前から負けている﹂状態に追い込まれかねない。クーデターを起こ した側としては、これほど屈辱的な幕切れはない。 ドルトエスハイムは決断を強いられたが、答えは既に出ていた。 ﹁いいだろう。乗せられてやるとしよう。決戦の準備を始める﹂ ﹁承知いたしました。直ちに周知いたします﹂ ﹁うむ﹂ 肝の据わった公爵との差を痛感しながらも、それはおくびにも出 861 さずにマルケーゼは恭しく礼をした。 ﹁ところでマルケーゼ侯﹂ ﹁何でございましょう﹂ ﹁貴侯のところには、腕の立つ者はいるか﹂ ﹁ええ、いないことはございませんが﹂ ドルトエスハイムが何を言わんとするのか、マルケーゼはピンと 来た。 ﹁一人よこせ。我が方からも選りすぐりを一人用意する﹂ ﹁畏まりました﹂ 開戦前に、時間稼ぎがてら一矢くらいは報いてやろうと言うのだ。 もちろん、相手が相手だけに、通用すると楽天的になるつもりは ない。一撃与えられたら御の字。逃げ帰れるのなら僥幸。仕留めら れたならば一生分の運を使い果たすことになるだろう。捕まり、帰 ってこないことを念頭に置いた上での搦め手。 かの少年少女に逃す気があっても、スミェーラがそれを容認する はずがない。捕まれば最期だ。 ﹁では、委細は追って連絡する。決行は明日夜だ﹂ ﹁承知いたしました。では、私はこれで⋮⋮﹂ マルケーゼの気配が遠ざかったのを確認し、ドルトエスハイムは ぎしりと背もたれに身体を預け、目を閉じた。 宮廷魔術師複数人がかなりの時間をかけて実現させる戦術級魔術 を、たった一人で、それも一瞬で練り上げることができる。 その少年は、その気になればこの国を丸ごと陥落させることが可 能なのだろう。 862 今なおそれをやらないのは、この国を支配することに興味がない のか、何らかの時を待っているのか。 ﹁⋮⋮陛下は、何をお考えでおいでか﹂ ドルトエスハイムは掛け値なしに、前者であることを願った。最 早次元が違いすぎて、人間にどうこうできるレベルではない。彼の 願いが既に叶っていることを教えられる者は、この場にはいない。 やがてゆっくりと上体を起こし、手元にある鈴を一度だけ、チリ ンと鳴らした。 ﹁お呼びでございますか、旦那様﹂ 音もなくドルトエスハイムの前に現れた、カイゼルひげを蓄えた 白髪の老人。隙の全く感じられない執事である。 ﹁話は聞いていたな?﹂ ﹁全て、手配は終えております﹂ ﹁うむ﹂ ツーと言えばカーと応える長年共に歩んだ執事の相変わらずの手 際に、ドルトエスハイムは満足げに頷いた。 ドルトエスハイムが隙を見せれば諫言も 辞さないこの優秀な執事との、ピリピリとしたやり取りが、彼にと っては心地よかった。 ﹁ミゲールが言っていたことは本当だったな﹂ ﹁仰る通りでございます﹂ 最初に聞いた時は、何をバカなことを、と一蹴しかけた。しかし 863 彼が余りにも必死に訴えるものだから、少し突っ掛けてみたのだ。 必死さを前面に出す部下の言葉は、鵜呑みにせずとも心のすみに留 めておいて損はない。 ﹁旦那様、少しお疲れのようですな﹂ ﹁お前に隠し事は出来んな﹂ ドルトエスハイムはちょい、と指を動かし、彼に指示をした。 ﹁オールドー。少し付き合え﹂ ﹁では、お言葉に甘えまして。久々に良いワインが入りましたので、 一服といたしましょう﹂ ﹁ほう。お前の目に適うものがあるのか。楽しみにさせてもらおう﹂ ﹁ではお持ちいたします。少々お待ちくださいませ﹂ 優雅に礼をし、音を立てずに退室するオールドー。戦前の乾杯に はもってこいの夜になりそうだ。 ◇◇◇◇◇◇ 戦を見事勝利で終えた翌朝。 太一は頭を抑えてベランダで風に吹かれていた。 864 今日は雲ひとつなければ、そよ風一つない見事な天気なので、横 にいるエアリィに風を起こして貰っている。 コップについである水を一口飲み込み、太一は﹁うえー﹂と呻い た。 ﹁飲み過ぎた﹂ ﹁見事な二日酔いだね﹂ 決して小さくは無い戦だった。 そのため勝利祝いとして、ささやかな催しが執り行われたのが昨 晩の話。 太一はそこで調子に乗って酒を飲みすぎたのだ。 お酒は二〇歳になってから、と咎める者は、この世界には存在し ない。 むしろこの世界では一五歳になったら飲酒が許されるのだ。 ﹁たいち。お酒弱いの?﹂ ﹁俺のいた世界じゃ、俺の歳じゃ法律で酒は禁止されてるんだよ﹂ ﹁へえー﹂ ﹁まあ。隠れて一杯呑むくらいなら、みんなやってたんじゃないか な﹂ ふーん、とエアリィが呟いた。 ﹁太一? あ、いた﹂ シャツにロングスカートを履いたラフな格好の奏が部屋の中から 顔を出した。 パッと見て彼女は酒が残っている訳ではないようだ。﹁郷に従え﹂ と、二∼三杯は飲んでいたのだが、流石に酔っ払うほど飲みはしな 865 かったようだ。 マジメな彼女ではあるが、異世界に来てまで日本の常識に囚われ るような堅苦しい性格ではなかったのだ。 ﹁おう﹂ ﹁何? 二日酔い?﹂ 湿った視線を受けて、太一は笑った。 ﹁不覚﹂ ﹁不覚も何も吐くまで飲んでりゃ当たり前でしょうが﹂ ﹁まあ祝勝会だし?﹂ ﹁空気を読んだってワケ? そんなんで免罪符になるとでも?﹂ ﹁思ってません﹂ ﹁ならよろしい﹂ 奏は太一の横に腰掛けて、同じく空を見上げる。 雲ひとつ無い青空は、日本で見上げたものと同じ。 ちょうど過ごしやすい季節なのだろう、長袖でも暑さを感じない。 ﹁人を傷つけた﹂ ぽつりと、奏が呟いた。 空には、ぽつりと雲が流れている。上空はそれなりに風があるよ うだ。 彼女が何が言いたいか、太一だからこそ分かる。 ﹁ん。俺も何人か骨を折ったよ﹂ ﹁私たち、日本だったら傷害罪で逮捕だね﹂ ﹁せいぜい補導じゃないか?﹂ 866 そっか。と奏が言う。 太一は水を一口飲んだ。 ﹁殺さずに済んだのは、きっと運が良かった﹂ ぴくりと、奏の肩が揺らぐ。 綺麗事をずっと言い続けられる世界ではない。それが分かるくら いには、太一も奏も知識もあれば、人生経験も積んでいる。 たかだが一五、六年で何を言う、と、大人が聞けば笑うだろう。 ﹁いずれ、手にかけるかもしれない、ってことだね﹂ ﹁その可能性は十分にあるだろ。俺たち強いし﹂ 台詞だけ汲めば自画自賛だが、自らを誇るような言い方ではない。 ただ淡々と事実を述べた印象だ。 ﹁覚悟決めておいた方がいいのかなぁ﹂ ﹁昨日、スミェーラ将軍が﹁決戦になる﹂って言ってたしな﹂ そして、レミーアやミューラもよく口にする事である。 ﹁この世界で、人を殺めたくない﹂という信念を貫き通すのは難 しい、と。 出来ればそうありたいと思う太一と奏。その考えは今も変わって いないが。 ﹁一度殺してしまうと、歯止めが効かなくなりそうで﹂ ﹁まあ、なあ﹂ 奏の物言いは極端であるが、言いたいことは分かる。 867 殺すことに躊躇いを持たなくなってしまえば、それは単なる下衆 である。 いやそれ以前に、再起不能になるまで心が壊れてしまう可能性も ある。 日本でも殺人事件の報道を頻繁に見るが、そのたびに彼らの心境 がとんでもないものであると、実際に命のやり取りをする人間を目 の当たりにして実感する。 ﹁でも。いつまでもレミーアさんやミューラにおんぶに抱っこじゃ 厳しい﹂ ﹁そうだね⋮⋮﹂ その必要がある場面には、今後も出くわすことだろう。 その度にレミーア、そしてミューラに任せていては、彼女らに業 を背負わせることになる。それはずいぶんと無責任だと思えるし、 もっと言えば、その場面において二人が行動を共にしていない可能 性もあるのだ。 ﹁まあでも、殺さずに済むものをあえて殺す必要も無いよな﹂ ﹁うん﹂ その時が来たら考える。棚上げ論もいいところであるが、かとい って積極的に人の命を奪って慣れる、という結論には行き着かない し、行き着きたくない。 幸い、というべきか。太一も奏も、敵対した者を無力化できるだ けの圧倒的な戦闘力がある。それでやっていけるうちはそれでいい。 太一は半分まで残るコップの水をくい、と呷った。 ﹁ま、出来ることを最大限やって、それでもダメなら考えよう﹂ ﹁太一から﹁最大限﹂なんて言葉を聞くと違和感﹂ 868 ﹁ひでぇ﹂ 二人の笑い声が、青空に溶けて消えた。 ﹁あ、そうだ﹂ ﹁何?﹂ 立ち上がる太一を、奏が呼び止めた。 ﹁王女様からお茶会に誘われたんだよ。私はそれを伝えに来たんだ った﹂ ﹁王女様? シャルロット姫?﹂ そう問い掛けた太一に、奏は頷き。 ﹁シャルロット姫も来るみたいだね。主催者はエフティヒア姫だけ ど。今ある中で正装して行かないとね﹂ そんな畏まった服装は持っていない。 冒険者の服装で良いだろうか。そもそもジルマールとの謁見でも その格好だったのだから。 自分たちが冒険者であると考えれば、その格好は正装である、と いう言い分も何となく筋が通っている気がする。 ﹁えーっと。俺、そんなとこの作法なんて知らないんだけど﹂ ﹁私だって知らないよ﹂ ﹁呼ばれたのは?﹂ ﹁太一、レミーアさん、ミューラ、私﹂ ﹁ふうん。何の用なんだろ?﹂ ﹁交流の場、とか言ってたけど、何を話すのかはその場に行ってみ 869 ないことには﹂ それもそうだ。 意図が読めずに首を傾げる二人。 お茶会は一四時から。後三時間あまりである。 870 策謀︵後書き︶ 遅くなりました 871 昼下がりティータイム あれやこれやと悩んだ挙げ句、結局着るものは日本での正装、つ まり学生服になった。 最初は予定通り冒険者の装備にしようとした。アズパイアで入手 した一般的な装備品である。気分転換等と称して何度か新調しては いるが、買うものは廉価な装備だ。もう二ランク程上の防具が買え る程度には金銭に余裕がある。しかし太一も奏も勝敗を装備品に左 右されることはないため、﹃良い装備﹄に必要性を感じないのだ。 奏に限り、相手がベラやパソスといったレベルになれば、相応の 装備を買い揃える必要性が出てくる。因みについ昨日そのことをベ ラに言われたばかりだったりする。 二人が所持する装備品は何処をどう見ても駆け出しから初中級が 身に付けるもの。実力と装備の格が一致していないことは横に置く。 久方ぶりに袖を通した制服。太一は前に比べて少し余裕を感じた。 訓練のため、強化をしないで剣を振ったりしていたのが、多少なり 身体を引き締めたのだろう。 こうして着てみると技術に差を感じる。ワイシャツなどは工場の 流れ作業で出来上がる品である。大量生産品なのだが、この世界の 肌着と比べると着心地は正直雲泥の差だ。しばらく着ていなかった からこそ日本の服が素晴らしいと気付くことができた。 久々に奏の制服姿を見た。中高でデザインは変わったものの、一 番数多く見た出で立ちである。 しかし、異世界に来てから日本では味わえない刺激的な日々を過 ごした二人にとって、お互いに強い懐かしさを感じさせる格好だっ た。 そういえばこっちのがスタンダードだった、とお互いに笑い合っ た。この世界の服装でいるのがお互いに当たり前になっていた。毎 日長い時間顔を会わせているのだから、日常がそちらに移動したの 872 だった。 そもそも何故ここに制服があるのかといえば、レミーアの大量の 荷物の中に入っていた。彼女曰く﹁ニホンのモノはもれなく全てオ ーバーテクノロジー﹂とのことだ。万が一盗まれたりなどすれば大 問題。この世界の技術バランスが崩壊してしまう。レミーアの隠れ 家には強固な結界を施してきたが、絶対はないからと持ってきたの だという。 用心のための行為が、思わぬ形で役に立ったと言うわけだ。 制服を着て顔を洗えば終了の太一。一〇代の特権をいかし、基本 的に最低限の化粧しかしない奏も髪を整えて結い直せば準備は終わ りだ。 どうやらミューラとレミーアはそれなりの服装を持ち合わせてい るらしく、普段よりお洒落を決めていた。 ﹁こんな格好する機会滅多にないから、今回はラッキーね﹂ ﹁確かに、これ着て冒険とか戦闘とか出来ないしなあ﹂ ﹁破れちゃうと困るしね﹂ 上に行くに従って薄い緑から白にグラデーションしていく、ノー スリーブで大胆に背中があいたセクシーなドレスがスレンダーな体 型を見事に引き立てていた。 ﹁つーか似合ってるな、ミューラ﹂ ﹁⋮⋮そう? ほ、褒めたって何も出ないわよ?﹂ 等と言いながらてろんてろんになっているミューラは、凛とした 普段とギャップがあって可愛らしい。 他人が持っているものを羨ましく感じ、自分もほしいな、と思っ てしまうのは人並みに物欲があれば誰にでも経験があるだろう。 このようなお洒落着は日本にいたらまず着る機会は無いだろう。 873 結婚式等で着るとしてもここまでの格好はしない。仮に買おうと思 っても決意がいる程度には値が張るはずだ。 今は、金なら稼ごうと思えば幾らでも手に入る。そのうち入手し ようと心に決めた太一と奏だった。 ﹁相変わらず見事な洋裁技術だな、それは﹂ 太一と奏を見て、レミーアが改めて、と言った具合に呟いた。 ﹁俺達にとっちゃ消耗品なんだけどな﹂ ﹁それを欲しがる裁縫家はたくさんいるだろうに、なんと贅沢な﹂ オーダーメイドのブランドものを見せたりしたらどんなリアクシ ョンをするのだろうか。太一は少しだけそれが気になった。 それに、贅沢と言えば、レミーアもそうだ。 黒のドレスに身を包んだ彼女は、えもいわれぬ妖艶さを放ってい る。そして、男どもの視線を掴んで離さないだろう豊かな胸。胸元 が大きく開いた装いで、つい目が行ってしまうこと請け合いだ。 世の女性は、男の視線に対して、男が思う以上に敏感だという。 ﹁ここまで然り気無ければバレないだろう﹂とかなり気を使ってい たとしても、実はバレバレというのは往々にしてあることらしい。 因みに髪の毛にコンプレックスを抱く男性の場合、当該部位への然 り気無さを装った視線がばれやすかったりもするようだ。 聞いた限りなので本当かどうかは太一には分からない。しかしこ の場合は当てはまったようだ。 レミーアがニヤリと笑う。時既に遅かった。 ﹁私の乳が気になるか?﹂ しまった、という顔をする太一。隣から零下の風を吹かせる奏。 874 奏の貼り付けたような笑顔が、これまで出会ったどんな強敵より も恐ろしい。 ﹁太一﹂ ﹁は、はい﹂ ﹁やっぱり、胸は大きい方がいいの?﹂ ﹁いや、その﹂ ﹁否定しないんだ。ふーん。ごめんね、そんなに大きくなくて﹂ 奏の名誉のために言うが、決して小さいわけではない。少なくと も平均以上ではないだろうか。 そして奏の一言に、檻の外にいながら石を当てられたエルフの魔 術剣士が、自分の胸元に手を当てて落ち込んでいた。 顔面蒼白の太一は固まっている。 ﹁⋮⋮ばか。⋮⋮り⋮⋮、⋮⋮て⋮⋮れば﹂ ﹁あの、奏さん?﹂ 小さく呟かれた奏の言葉は聞き取れなかったらしく、太一が聞き 返す。 途端に奏は顔を真っ赤にさせて怒鳴った。 ﹁ば、バカって言ったの! バカって!﹂ ﹁そ、そんなに連呼しなくても。いくら本当の事だからって﹂ ギャグのつもりの軽口か、単なる自虐か。太一も気が動転してい るらしい。謁見の間で三大国の国王相手に正面から渡り合った勇敢 な少年の姿は見る影もない。 どれ、そろそろ助け船を出してやろうか、と、騒ぎを起こした張 本人が、他人事のように呟く。 875 ﹁心配要らんぞカナデ﹂ ﹁えっ﹂ ﹁タイチを誘惑する気は少ししかないからな﹂ ﹁少し!?﹂ ﹁おっと言い間違ったか。毛の先位しかないぞ﹂ ﹁まだ残ってる!?﹂ わいわいはしゃぐ⋮⋮もといぎゃあぎゃあ騒ぐ奏と、冷静に右か ら左へ受け流すレミーア。茫然と眺める太一。受けた傷が思った以 上に深かったようで、どよーんと沈むミューラ。 奏が小声で何を言ったのか。彼女は墓まで持っていくつもりなの で、謎のままである。 ◇◇◇◇◇ お茶会の場所は城の真ん中にある中庭だ。庭園のようになってい て、その一角に屋根とテーブルが備えられたスペースがある。城の 壁まではそれなりに距離があり、太陽の光を十分に取り込める作り になっている。 ずっと城内での生活のサポートをしていたリーサに連れられてそ の場所に辿り着く。ホスト側のエフティヒアとシャルロットは、既 876 に席に着いていた。 二人が立ち上がり、そして優雅に礼をした。 ﹁急なお呼び立てに関わらず、お応えくださってありがとうござい ます﹂ ﹁いえ、お誘い頂きまして、光栄の極み﹂ エフティヒアの挨拶に、一通りの社交辞令がするすると出てくる レミーアが応じる。 促されて着席する。 ﹁そんなに身構えなくても結構ですよ﹂ 呼び出されたからには何かあるのだろうと気を引き締めていた太 一と奏に、エフティヒアが微笑んだ。こんなに柔らかい笑顔は、そ う簡単に出来るものではない。彼女が穏やかな性格である証拠だろ う。 ﹁何か目的があってお呼びしたのではありませんから。強いて言う なら、そうですね⋮⋮交流の場、といったところでしょうか。堅苦 しいことは抜きにして。無礼講で構いませんよ﹂ 王女ともなれば公務などもあって決して暇な身分ではないはずだ。 その合間を縫って設けられた交流の場。彼女らにとっては、恐ら くこれも公務なのだろう。 奏の予測は当たっている。賓客として迎えられている太一たちが 王城に滞在している間に、一度くらいはもてなす機会が欲しいと考 えたゆえの、この度のお茶会である。それ以外にも、決戦となるで あろうとスミェーラが公言したため、自動的に出征が決まった太一 たちの壮行会も兼ねているし、後は単純に、あまり話す機会が無か 877 った太一と奏と話をしてみたいという、エフティヒアの個人的な希 望もあった。 ﹁二言三言言葉を交わした程度しか記憶にないのです。せっかくな らば、異世界から来られたお二人とゆっくり話をしてみたい。これ は、純粋な願いです﹂ そう言われては、断る理由はない。 了承した太一と奏に、エフティヒアは笑顔の華をパッと咲かせた。 ﹁では、お茶と請けを用意しましょう。お願い﹂ 今回の給仕はシャルロットの侍女であるティルメアとリーサ。そ してエフティヒアの侍女、セリス。三人とも優秀なのは疑うまでも ない。あっという間にテーブルの上が華やかになった。 ﹁それでは、頂きましょうか﹂ カチャリと音を立ててしまった太一に対し、エフティヒアとシャ ルロットは無音でカップを手に取る。流石の淑女っぷりを発揮した。 美しい王女姉妹、実に絵になる光景だ。 ﹁タイチさんとカナデさんは夫婦なのかしら?﹂ のっけから飛び出した切れ味鋭い一撃に、含んだ紅茶を二人して 吹きそうになったのはご愛敬だ。何とかこらえられたのはグッジョ ブと言っていいだろう。 ﹁ふ、夫婦までは⋮⋮﹂ ﹁と、友達以上、恋人未満、ですかね、今は⋮⋮﹂ 878 ﹁そうなの。仲睦まじいから勘違いしてしまいましたね。お似合い だと思うのだけど﹂ 頬を紅潮させる奏の横で、太一が目を泳がせる。挙動不審極まり ない。 ﹁ま、今は、ということだから、朗報を待つとしましょうか﹂ ﹁!?﹂ 言質を取られた格好だ。単にからかっているだけなのかもしれな いが。必要以上に突っ込んでこない姿勢からも、彼女の手強さが垣 間見れる。優しそうに見えて強かだ。簡単に動揺すると、言葉尻を 拾われてしまうだろう。 ﹁タイチさんとカナデさんはお若いと聞いたのだけど、おいくつな のかしら?﹂ ﹁えっと、俺が一五で﹂ ﹁私が一六です﹂ ﹁ということは、私の三歳下ですね﹂ そう答えたのはシャルロット。彼女は現在一八歳だ。 ﹁わたくしとは一回り違うの⋮⋮ショック﹂ よよよ、とあからさまに声を出して嘆くエフティヒアは、二七か ら二八らしい。どう見ても二〇代前半である。下手すれば一〇代で も通じるかもしれない。エルフならまだしも、エフティヒアは人な ので天然の年齢詐称だ。 ちらりと横を見て、鋭く視線を感じ取ったレミーアに﹁こっち見 んな﹂と指先でびしりとつつかれた。 879 ﹁⋮⋮お若いですよ、とかお世辞もなしかしら?﹂ ﹁そんな月並みなお世辞、姫様なら耳だこじゃないですか?﹂ ﹁月並みでも、女は言ってほしい生き物なのよ﹂ ﹁⋮⋮覚えておきます﹂ 言いながら一切気にしていない様子。エフティヒアがニコニコし ていることからもそれが分かる。 用意されたスコーンが大方無くなったところで、リーサが追加を 持ってきた。 紅茶を口に含み、数拍間を置く。 ﹁タイチさん、カナデさん﹂ ほう、と一息ついてから、エフティヒアが口を開いた。 ﹁良ければお聞かせくださる? あなた方が住んでいた国のお話を﹂ それを話すのは問題ない。次元を越えた先にある世界の話に興味 があるというのは当然だろう。 日本の、世界の文明を簡単に説明しようと考えた奏は、手始めに 科学的な面から入ることにした。 ﹁火は、何故燃えると思いますか?﹂ この世界に、この問いに答えられるものはいないだろう。レミー アでさえ、今もって分からないのだから。 奏は人差し指を上に向ける。そこに、小さな火が灯った。 ﹁私たちの世界では、これを燃焼と言います。詳しく説明すると長 880 くなるので省きますが、燃焼の原理に則れば﹂ 指先で揺らめいていた火の色が徐々に青く変わり、炎も安定した ものになる。 劇的な視覚変化。これを見せられたら、説得力抜群だ。 ﹁こういうこともできます﹂ 火がまた元の橙色に戻り、揺らめく。直後、ポン、とかわいい音 と共に弾けた。 ﹁今の小規模の爆発も、燃焼という現象です。私たちのいた地球は、 自然現象、人工現象問わず、全てこうして理論的に説明しようとす る世界です。私たちの世界には魔術という概念が存在していなくて、 代わりに発達したのが、科学です﹂ ﹁カガク⋮⋮﹂ 聞いてもピンとは来ないのだろう。むしろ魔術というものに対し て、ゲームやサブカルチャーなどで鍛え上げた現代っ子の太一と奏 があっさり受け入れすぎた、とも言える。 ﹁移動手段なんかは分かりやすいかなあ。ここからアズパイアまで、 シャルロット姫様の部隊なら五個くらいまとめて一度に一時間以内 に運ぶこともできますね﹂ ﹁船が風なしでも動くっていうのもそうかな?﹂ ﹁後は潜水艦とかだね﹂ ﹁あ、潜水艦っていうのは、海中一〇〇〇メートル以上潜れたりす る船のことです﹂ 矢継ぎ早に出てくる言葉と、信じられない水準の技術力。エフテ 881 ィヒア、シャルロットは言葉を失っていた。 三〇〇キロの距離を一時間で踏破する。 一〇〇〇メートル以上海を潜る。 とてもではないが﹁はいそうですか﹂と受け入れられるものでは ない。 しかし、疑うこともできない。太一と奏が﹁当然﹂という顔で、 事実を淡々とあげつらっているからだ。 ﹁凄まじい、世界なのですね⋮⋮﹂ シャルロットが呆然と答える。 太一も奏も科学技術について専門的な知識はそこまで持っていな いが、説明するには十分だった。 ﹁平和を保つための技術も発達してます。医療なんかは最たるもの ですね﹂ ﹁医療⋮⋮怪我や病でしょうか﹂ ﹁そうです。大抵の怪我や病気は治ります﹂ 治せないものもまだまだあるが、それも今後の発展によって解決 してゆくだろう。 そう考えれば、恵まれた世界だと言える。 ﹁自分達の世界の人たちとか技術を、凄いなって思うことは何度も ありますよ﹂ しみじみと呟いた太一。同じ世界に住んでいながら別次元の成果 を挙げる超人を何人もテレビやネットを通じて見てきた。 この世界で例えれば、力を持たない一般人の目から見るレミーア やスミェーラといった人物が該当することだろう。 882 ﹁お二人の異世界での日常はどのような感じだったのですか?﹂ ﹁寝て、起きて、学校行って、遊んでから帰って、テレビ見て、寝 る、です﹂ ﹁端折りすぎ﹂ ざっくりし過ぎた太一をたしなめ、奏が説明を始めた。学校での 勉強、部活動や習い事。太一と奏は未経験、友人たちから聞くバイ トのこと。 大学受験に向けた勉強中であること。就職のこと。覚えている限 りの社会制度、経済。世界の地理、歴史。 全て語れば一日二日で終わるものではないので、さわりだけ話し た感じではある。エフティヒアとシャルロットはもちろん、一度は 話したはずのレミーアとミューラも退屈しない話だったようだ。 奏と太一の話が一段落ついたところで、セリスがエフティヒアに 耳打ちした。 エフティヒアは少し残念そうな顔をして、太一たちに向き直った。 ﹁残念ですが時間が来てしまったようです。この場はこれでお仕舞 いとしましょう﹂ 言われて、随分時間が経過していたと、太陽の位置を見て気付い た。 ﹁最後に、皆さんにお渡しするものがあります﹂ シャルロットがそう言って片手を挙げる。両手に何かを抱える二 人の侍女が近づいてきた。彼女たちが持つのは剣と杖、そして指輪 だ。 883 ﹁これらは先の戦闘における皆さんへの報酬です﹂ ﹁⋮⋮どれも高級品ではありませんか﹂ レミーアが思わず、といった顔で呟いた。 ミスリルソードが二本、ルーンスタッフが一本、サブ媒体の白銀 の指輪が一つ。どれも買おうと思えば軽く数千万の値が張る、冒険 者垂涎の逸品。 国王ジルマールとの約束では、無事内乱が片付けばきちんと報酬 を貰うことになっている。 そこから生まれた疑問を感じ取ったのだろう、シャルロットが答 えた。 ﹁これは、わたしと姉上からの個人的な報酬です。一〇〇〇人もの 国民を、命を奪うことなく救ってくださったことに対するお礼です﹂ 命をお金で購おうというのが、そもそも間違っているのですが⋮ ⋮と申し訳なさそうなシャルロット。しかし、王女である二人の権 限内で用意できるのはこのくらいだと言う。 お礼はしたい。例え物でしか謝意を表せないとしても。その結果 の、今回の報酬である。 用意された物がどうこうではなく、感謝の気持ち。 ﹁ありがとうございます。使わせて貰います﹂ 民を救いたい。その一念から来たであろうこの謝礼は受け取って もいいと太一は思った。 それについて二人を疑いたくはない、と思ったのは、果して甘い だろうか。 ・・ シャルロットに対しての蟠りが消えたわけではないが、いがみ、 睨むつもりもない。ただ一言、シャルロットが腹を割った本音が欲 884 しいだけである。 同時刻、斥候からドルトエスハイムを中心とする軍勢が、六割近 く編成が終わっているという一報がスミェーラの元に入った。 エリステインの内乱は、終結に向けて佳境を迎えていた。 885 昼下がりティータイム︵後書き︶ 読んでくださってありがとうございます。 886 必然の一手 お茶会が終わって一息ついた太一たちは、パソスに断りを入れた 上で修練場に足を運んでいた。全体の訓練は既に終了しており、今 修練場に残っているのは自主的に鍛練を積む者たちだけだ。さすが に数千の騎士や宮廷魔術師が己を鍛える場所だけあって、かなり広 い。 いつもの軽戦士の格好に戻ったミューラが、腰に帯びた剣を抜い た。 ﹁タイチ。早速試し切りしてみようか﹂ ﹁おう﹂ 太一もミューラに呼応して剣を抜く。 太一の剣は、刃渡り七〇センチ程の、見た目オーソドックスな片 刃の剣。特に意匠などは施されていないが、剣としての性能を見た ときに、今まで使っていた鋼の剣とは大違いだ。刀身はくすみの全 く無い美しいシルバー。まるで鏡面のようである。そして重い。鋼 の剣の倍以上あるのでは無いだろうか。これは桁違いの膂力を誇る 太一のために、ミスリルソードを見繕うよう依頼された刀匠が選ん だものだ。これだけ重いと、素の状態ではまともに振ることは出来 ない。 とりあえず、ということで、太一は二〇の強化を施して切り下ろ し、切り上げをやってみた。悪くない重量感だ。二〇の強化で鋼の 剣を振ったときに感じる頼りなさは微塵もない。重さもそうだが、 硬度に優れるといわれる魔法金属、ミスリルで造られた結果だろう。 一方ミューラの剣は、長さは太一の剣と同じ程度だが一回りほど 細い片刃の剣だ。これはミューラが片手で操ることを念頭に置いた 結果だ。右手に剣、左手で魔術を駆使する魔術剣士としては、両手 887 が塞がるのは避けたいところ。そこを考慮されて選ばれたところを 見ても、エフティヒアとシャルロットが本気で考えたことが窺える。 剣を左右に振ってみる。ミューラの力でも問題なく振れた。今ま で使っていた剣と比べて重量感は増しているが、許容範囲内だ。 太一とミューラの得物をどのような基準で選んだのか。それは、 二人のことを見ていたベラ、太一と刃を交えたスミェーラの意見を 参考にしたからだ。ミスリルの剣を与えたいということで、王国お 抱えの刀匠にスミェーラ、ベラから聞いた特徴を伝えて選んでもら った上で、二人に割り当てられている国家予算から捻出して購入し た。因みに二本とも片刃なのは、峰打ちが出来るようにとの配慮が された結果である。 剣を持って巻き藁を準備し始めた太一とミューラを見やって、奏 はレミーアの方を見た。 ﹁私たちも始めますか﹂ ﹁そうだな﹂ 新しく手に入れた武器の性能くらいは知っておいた方がいい。 それがここに来た一番の理由だ。戦を前にして、少し肩慣らしし ておく意味もある。 奏はルーンスタッフを手に取った。早速魔力を流してみて驚いた。 今まで使っていた杖から感じた抵抗がまるでない。実際はある程度 抵抗があるのだろうが、雲泥の差のため無いと錯覚してしまったの だ。 ﹁凄い⋮⋮今までの杖と全然違う﹂ ﹁当然だ。私がメインで使う杖の亜種だぞ、それは。安物の市販品 と一緒にするな﹂ ﹁そうなんですね⋮⋮﹂ 888 杖を掲げて呆然と眺める奏。溢れた魔力が彼女の身体の周りで渦 を巻き、髪とローブをはためかせている。 ﹁⋮⋮むしろ、安物であんな繊細な電撃を撃てるのが驚きだがな﹂ 小さく呟いたレミーアの声は、杖に夢中な奏には届かなかったよ うだ。 奏は杖を誰もいない空間に向ける。ここから端までは凡そ八〇〇 メートル。遠距離攻撃の練習としては悪くはない。 奏は全力で魔術を撃ってみることにした。 生み出すのは炎の球。途中で無数に分裂するように。杖の先に風 の幕。腰の付近に漂う火球を、テニスのバックハンドの要領で打ち 込んだ。 どうせなら音の威嚇も混ぜようと、打つ瞬間に炸裂するよう、火 球にも空気を纏わせて。 パアンと小気味いい、かなり大きな音を響かせて、火球が空高く 飛んでいく。因みにバックハンドで打ったのに深い意味はない。音 というのも後付けの理由である。放物線を描く火の玉が落下を始め た頃、弾けた。 連続する爆発音が目標とした座標一帯を容赦なく焼き払う。 ﹁うん。使えそう﹂ ﹁⋮⋮﹂ 使えそうどころか、奥義としても十分通用する威力と範囲、射程 である。複数の火球を放って広範囲を焼き払うというのは割りと昔 からある攻撃方法だが、奏の場合は密度がかなり濃く、また球数も 多かった。現在の主流は、一発一発の隙間を空けてなるべく広範囲 を破壊することだ。だがあれなら標的を逃さず攻撃できるだろう。 やはり隙間なく撃つのも悪くはない。解っていたことだったが、レ 889 ミーアはそれを改めて認識した。 絨毯爆撃。イメージしたのはクラスター爆弾。 太一と一緒に観た動画に映っていた、米軍の何とか一〇という戦 闘機が落とした爆弾からヒントを得た。確かその時は公開演習だっ たはずだ。 男の子らしく嬉々として画面に食い入っていた太一に何となく付 き合っていたのが、こんなところで役に立つとは。 太一、ミューラを含む演習場全員の視線を集めながらそれを一切 気にしない奏。 ﹁派手にやる。どれ、私も試してみるか﹂ レミーアは自分の左手の人差し指をナイフでスッと引いた。薄く 裂けた皮からじわりと滲んだ血を、右手の中指に嵌めた指輪に付け る。その指輪を前方に向けた。 ﹁風の精霊、我血に応じよ。覇王の暴風﹂ 奏が無数の火球で薙ぎ払った地点で、風が暴れた。 地面をめくりあげる勢いで大地を破壊していく。奏が放った魔術 によってでこぼこになった地面が、さらに痛め付けられていく。 いまだ昇る黒煙をあっという間に吹き飛ばし、砂を巻き上げなが ら風の渦が上空に上がっていく。 レミーアによる蹂躙が終わった地面は、見るも無惨に荒れ果てて いた。 ﹁⋮⋮凄い﹂ 奏の魔術も凄まじい迫力と威力だったが、レミーアの魔術ははそ れ以上だ。奏も使い手だからこそ分かることだった。 890 ﹁カナデ﹂ レミーアは不敵に笑っている。 ﹁魔術のバリエーションではお前に劣ることを私は認めよう﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁だが、魔術師としての実力ではまだまだお前に並ばれる気は無い﹂ それは師より弟子に告げられたライバル宣言。 レミーアが奏を正式に﹁己を脅かす実力者﹂と認めた証だった。 そして、そういうことを言われると燃えるのが奏という少女だ。 伊達に全国区でライバルと鎬を削っていた訳ではない。負けず嫌い でなければそこまで行くことなど出来ないからだ。 ﹁レミーアさん、知っていますか? 追われる立場というのは結構 しんどいんですよ?﹂ ﹁ほう。追われたことなど無いから分からんな。カナデが味わわせ てくれるのか﹂ ﹁後ろから迫る足音のプレッシャー、一度聞くとヤミツキになりま すよ﹂ ﹁冗談に聞こえんから怖いな。だが面白い。離されんようについて くることだ﹂ ﹁臨むところです﹂ 実力の近いライバルというのは、お互いを高める良いカンフル剤 だ。 勝ち負けがどうこうより、二人で実力を高め合えればいい。⋮⋮ という建前のもと、相手が隙を見せたら追い抜かし、突き放す気満 々で、二人は笑うのだった。 891 ﹁なんかあっち楽しそうだな﹂ ﹁ていうか派手にやりすぎでしょあの二人⋮⋮﹂ 何も考えずにぼんやり言った太一に対して、ミューラは呆れを多 分に含んだ声色で応えた。 見ごたえ抜群のデモンストレーションとなった奏とレミーアの魔 術練習に対して、こちらはとても地味である。単に剣の切れ味や使 い勝手を確かめるだけの訓練だから、そんな派手になることはない のは当然なのだが。 ﹁つーか奏のやつ。絨毯爆撃しやがった。⋮⋮よっと﹂ 空気を裂く音と共に紡がれる銀糸。一瞬間をおいて、巻き藁が斜 めにずれてどさりと落ちた。 ﹁絨毯爆撃?﹂ 太一が斬った残りの巻き藁に、ミューラの剣が食い込む。スパン と藁が吹き飛んだ。 ﹁ああ。俺たちの世界じゃ空襲とか空爆って呼ばれる、敵の陣地を 隙間無く爆破していく攻撃の事﹂ これで三本目の巻き藁を切って切れ味は確かめた。 今度は峰打ちで新しい巻き藁に叩きつける。鈍い音と共に、巻き 藁がくの字に折れ曲がった。 ﹁何それ凄いわね⋮⋮無差別?﹂ ﹁味方の歩兵は撤退してるんじゃないかな。軍事に詳しくないから 892 よー分からんけど﹂ ミューラが下半身から腰のひねり、そして腕へと力を伝達した一 撃で、折れ曲がった巻き藁を反対側から打ち付ける。 ﹁ホント、タイチたちがいた世界って凄いわ﹂ ﹁俺もそう思う﹂ 地球産の知識にどれだけ助けられたか分からない。高校一年での 知識で助けられているのだから、これが大学生とかになったらどれ だけなのか想像すらつかない。とりあえず今より凄いことになるの は確実だろう。奏は特に。 ﹁ねえタイチ﹂ ﹁んあ?﹂ ﹁ちょっと模擬戦やらない? 本気で﹂ ﹁マジか。ミューラと同じレベルじゃ勝ち目無いぜ?﹂ ﹁二五くらい強化すれば?﹂ ﹁あーまあ、それなら互角か⋮⋮?﹂ ﹁何なら三〇でもいいわよ﹂ ﹁三〇だと有利に出来るな﹂ 全力のミューラと同じレベルの身体能力を得るには、二〇程の強 化が必要だ。 だがミューラの場合はイコール戦闘能力とならない。 彼女に剣の手解きを受ける太一は、ミューラの戦闘における技術 の高さには舌を巻いているのだ。 身体能力だけが同じでは、技術力の差で確実に遅れを取る。 それを埋めるには単純にスペックで上回らなければならない。 白兵戦では騎士と互角。魔術戦では宮廷魔術師と互角。その二つ 893 を同時に駆使してくるミューラを相手にするにはそこそこの強化が 要るのだ。 少し前まで、ミューラに勝つには二五あれば十分だった事を考え れば、彼女の上達は凄まじいものがあった。相当な鍛錬を積んでい たのだから、実力が上がって当然といえば当然なのだが。 因みに現時点で奏に勝つには三五は必要で、スミェーラやレミー アに勝つには四〇は欲しいところだ。スミェーラとの一戦で六〇の 強化をしたのは単純に安全マージンである。 ミューラももちろんだが、奏もレミーアもこのところの実力の向 上が半端ではない。魔力強化ではそのうち追いつかなくなるんじゃ ないかと太一は考えている。 まあ、そんな事を言い出せば、エアリィを召喚してしまえば並ぶ 問題を軒並み、それも強引に解決する事が出来る太一の異常さが更 に際立つのだが。 太一は身体に魔力を纏わせた。宣言通りの二五。同等の身体能力 となる二〇と比べ、たかだか五程度と思うかもしれない。しかし実 際は五も上昇すると動きががらりと変わるのだ。 半身をずらし、剣をやや斜めに構える太一。 ﹁先手は譲ってやるよミューラ﹂ ﹁何その上から目線。⋮⋮まあいいわ。やれるもんならやってみな さいな﹂ 後の先を取ろうとする相手を封じるのはミューラが一番得意とす るところだ。自信があるのか、いやそうではないだろう。魔力なし での模擬戦闘で太一に遅れを取ったことは一度も無い。あえてミュ ーラの土俵で勝負しようというのだ。 今太一は身体能力でミューラとの総合的な強さを帳尻合わせして いるだけ。 実力が互角なら、勝てるチャンスはそこらじゅうに転がっている。 894 そしてミューラがミスをすればチャンスをわざわざ拾って太一に手 渡すことになる。 模擬戦とはいえ、ギリギリの戦いだ。 目一杯緊張感を高め、魔術で身体に強化を染み込ませていく。太 一が言い放った﹁先に来い﹂という安い挑発に乗ることにしたミュ ーラは、左手にファイアボールを二発生み出した。 この時点で、太一はどれだけのパターンを読んでいるだろうか。 ぐ、と剣の柄を握り直したのを、ミューラは見逃さなかった。 易々と後の先などやらせる気はない。ミューラは強化を足に集中、 全力で大地を蹴った。 ﹁はっ!﹂ 一足跳びで太一に迫ったミューラは、鋭く吐き出した呼気と共に 右手の剣を逆袈裟に切り上げる。太一がその軌道に剣をかざして逸 らしたところまでは想定内。この程度やってのけるくらいには鍛え ているし、何より反応速度は太一の方が一枚上だ。 だから、用意したカードを立て続けに切る。 半身をすっとずらし、後方で待機させてあったファイアボールの 一発を太一に向けて放つ。当然それも見えているだろう。だから、 残りのもう一発を至近距離で重ねた。時間差で太一に迫るファイア ボールに、上に待機させたままの剣を返して降り下ろした。 三段構えの連撃。 ﹁だあー無理無理無理無理!﹂ 太一は大声をあげて、凄まじいスピードで後退した。迫り来る火 球を退きながらしっかりと防ぐ。 ファイアボールに対処した太一と、攻めいったミューラとの距離 が開始時よりも開いた。 895 一見距離を取れて仕切り直しと見えるが、実質はそうではない。 後の先を取ろうと宣言までした太一から距離を取った。イニシアチ ブがどちらにあるかは明白である。 ミューラは剣を肩に担いで笑った。 ﹁まあそんなもんよねー﹂ ﹁お、お前ガチ過ぎんだろ! 死ぬかと思ったわ!﹂ ﹁何言ってんの。殺したって死にゃしないくせに﹂ まあ確かに。あの瞬間、過剰に強化すれば被ダメージは避けられ るし、強化することも十分可能だった。 ミューラの言葉に、太一は反論の余地は無かった。 ﹁あたしから後の先取るなんて一〇年早いわよ﹂ ﹁リアルな数値出しやがって⋮⋮﹂ ﹁ふふっ⋮⋮。さ、次はタイチの番よ。あたしに後の先を取られな いように頑張んなさい?﹂ 悔しさを噛み潰してどう攻めるかを考える太一には、ミューラが 心の底から楽しそうに笑ったことに、ついぞ気づかなかった。 ◇◇◇◇◇ 896 ﹁ったく、面倒なものを寄越してくれたものだな、あのお嬢様も﹂ 今しがた読んでいた紙の束を机に投げ、スミェーラは眉間を揉ん だ。 厄介ごとを抱えたときに見せる上官の顔を見て、ベラは苦笑いを 浮かべた。 ﹁電撃をこのような手段で引き起こせるとはな⋮⋮これは常識がひ っくり返るシロモノだぞ﹂ ﹁その通りですな﹂ 本来魔術の知識がそこまで深くはないパソスだが、この紙ぺら数 枚がどれだけの価値を持つかは大体分かる。いつもベラと情報交換 をしているため、魔術に対してどんどん詳しくなっていったのだ。 奏から教授された電撃の起こし方。ベラからそれを報告されたス ミェーラは、﹁詳しく﹂と言って内容を解説したものを用意させた のだ。 ﹁それを言われたときは驚きましたし、実演されて驚きました。や ってみたら本当に電撃が発生したことに一番驚きました﹂ 驚きしか出来ませんでした、と言うベラを誰が責められようか。 そのように電撃魔術を使う者など、この世界では前例が無いのだ。 そして奏曰く、まだまだ彼女オリジナルの魔術があるという。お そらくは、この程度は序の口なのだろう。 ﹁これを発表したらどうなりますかな﹂ 答えの分かりきっている事をパソスが問う。 897 ﹁大騒ぎだ。国内だけで済めばいいが、他人の耳を塞ぐにも限界が ある﹂ ﹁まあ、考えた人を出せ、ってなるのは間違いないですよね﹂ ﹁でしょうなあ⋮⋮﹂ ベラは、あの魔術については緘口令を敷いた。近しい者以外の一 般兵には、ベラが電撃魔術を使ったことは分かっていないはずだ。 奏と太一を一緒にして、隊から離れた場所で魔術を使わせたのもそ れが理由である。 あんな出鱈目な理論で電撃が生み出されるなど、他人にほいほい 見せてよいものではない。 ﹁一応彼女には、装備品をきちんとするように伝えましたが⋮⋮﹂ ﹁遠回しだな。まあ今頃、王女殿下方から武器を受け取っているだ ろう﹂ ﹁正直申しますと、迷っています。⋮⋮バレたら狙われるから気を つけろ、と言っていいのか﹂ ﹁徒に伝えれば不安を煽るだけになりかねませんからな﹂ ﹁それに、我々に対する不信感を抱かれても困る﹂ 一応の信頼関係は築けていると自負しているが、それでも余計な 火種を作りたくないのが本音だ。 太一と奏がそこまでひねくれているとは思っていない。しかし万 が一、エリステイン王国側が奏が持つ知識を利用しようとしている、 と疑われてしまえば。 その誤解を解くのに、しなくても良い約束を結ばなければならな い可能性だってある。 そしてそんなことがどうでもよくなってしまうほどの懸念は、太 一が奏の味方をするのが確定事項ということだ。 898 国で総力を挙げても太一一人に負けることが分かっている以上、 彼との確執は絶対に避けなければならない。 話が通じる相手なのが救いか。太一の力を目の前で見たベラから すれば、彼がこちらと仲良くやろうとしていることが本当によく分 かるのだ。 ﹁まあ、これはここだけの話にしておくのが一番かな﹂ ﹁そうですね﹂ ﹁異論はありませぬ﹂ 本人たちに隠す気がないのは知っているが、だからといって無闇 に拡散するのは得策ではない。結局はその結論に落ち着くのだった。 知らぬところで軍のトップスリーが頭を悩ませているなど、当人 たちは思いもしないだろう。この辺はやはり少年少女といったとこ ろか。 ﹁ところでパソスよ﹂ ﹁はっ。例の件ですな﹂ スミェーラが頷く。 ﹁かなり出来るようです。放った諜報は悉く撒かれました﹂ ﹁ふむ⋮⋮﹂ ﹁流石に騎士を複数相手には出来ないのでしょう。今は身を隠して いるようです﹂ ﹁狙いはなんだと思う?﹂ ﹁恐らくは、あの少年たちかと﹂ ﹁当然だな。私がドルトエスハイムの立場なら、通用しないと分か っていても一度は打つ一手だ﹂ 899 スミェーラの言葉にベラもパソスも頷いた。 彼らに対する気遣いが出来る人としての一面と、勝利のために出 来る手を打つ軍人としての一面は当然別だ。 この場にいる三人にそんな甘い手は通用しない。有事には狙われ る側であり、また狙う側でもある。その辺に対する警戒心は太一た ちの比ではない。 だが太一と奏は? 異世界では争いと無縁の生活を送っていた若い少年少女は? はたして自分達と同じように警戒しているだろうか。 国賓として招いている相手をむざむざやらせてしまえば国として 大恥である。 それ以上に、まだまだ残っている人生という時間を、あの若さで 失わせるのはあまりにも惨いという親心にも似た感情があった。 もっとも、彼らにはレミーアという頭の回る師が側にいるので、 問題ないのではという思いもあるのだが。 決戦は近い。動くなら今夜ではないかと、三人は考えている。 900 必然の一手︵後書き︶ 奏のクラスター爆弾魔術、厨二的な名前付けるなら何がいいでしょ うか。 901 サイレントキラー ﹁そろそろ、やっこさんも動いてくる頃だろう﹂ レミーアが﹁明日は買い物に行こう﹂と誘うような穏やかな口調 でそう言った。食事が終わり就寝までの一時のまったりタイムのこ とだった。 一瞬なんのことか分からなかった太一と奏は、やはりどこか危機 管理が薄かった。たしなめるように﹁暗殺者が来るかもしれないと 言ったろう﹂と言葉を続けられ、二人は一瞬絶句した。分かったつ もりではいたものの、いざそうなってくると非現実だと思ってしま うのは、やはりどこか他人事のように思っていたからだ。 今はその準備も終わり、太一と奏は同じ寝室にいた。据え膳食わ ぬはなんとやら、という言葉もあるが、そんな気分にはなれなかっ た。 何せ命が狙われているのだ。そしてレミーアの見立てなら、太一 よりも奏の方が狙われやすい、とも。 その根拠として、レミーアが刺客の立場なら、わざわざ攻撃が通 用しない相手を狙う理由はない、と断じたからだ。太一と奏、どち らに攻撃が通りやすいかを考えれば明白である。 ﹁⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮﹂ 開け放たれた窓からは月の光が射し込んでいたが、雲が出てきた のだろう、室内が合わせて暗くなってきた。 明日は戦争。 人を怪我させるだけで憂鬱な気分になるのに、殺し合いの場に赴 く。 902 自分達が相手を殺してしまう可能性はもちろん、敵味方問わず複 数の死体の中を移動する可能性は高い。それに加えて今命を狙われ ている。そんな状況で睡眠が取れるほど図太くはなれないのだった。 ﹁まあ、寝ろなんて言われても無理だわなあ﹂ ﹁うん﹂ 誰に言うでもなく呟く太一に奏が答える。 ﹁でも、横になった方がいいのは確かだなあ﹂ ﹁うん﹂ 太一の横に寄り添うようにベッドに座る奏。二人の間には、拳ひ とつの隙間があるかないか。かなり近い距離と言えるだろう。夜に 男の寝室でベッドに至近距離で座る奏。それがそのまま彼女が彼に 対して抱くもろもろの感情と距離感を示していた。 ﹁ここはやっぱ横になって休むべきだよなあ﹂ ﹁うん﹂ 先程﹁そんな気分にならなかった﹂と評した太一の心情に間違い はない。しかしここが日本に存在する太一の部屋、共にいるのが奏 というシチュエーションだったなら、彼は衝動を抑えられたか分か らない。 理性でもって大人になりきれるほど、太一は成熟していないのだ った。 しかしそれでも。 先程まで微かに怯えていた奏を思えば、自身の欲求をただぶつけ ることに強い抵抗を覚えていた。奏相手だからこそ、そんな弱味に つけこむようなずるい真似はしたくなかった。 903 ﹁よし奏。お前寝ろ﹂ ﹁太一はどうするの﹂ ﹁俺は椅子でいい﹂ ﹁ダメ。それなら私が椅子で寝る﹂ ﹁それこそダメに決まってんだろ﹂ 主張は平行線。 徒にベッドを伴にするなどあり得ないとする太一。 明日に備えて休むのに椅子はあり得ないとする奏。 どちらも真っ当な主張ゆえにお互いに一蹴出来ず、視線と視線が ぶつかり合う。 力を持っていても不安なものは不安な奏は、太一の側にいたい。 わがままを言っている自覚はあるし、相手が太一なら同じ布団で寝 ても問題ないと考えていた。 こうなったらどちらかが相手を論破して納得させるしかない。 そして、そういうやり取りになれば勝つのは奏である。 ﹁寝不足で戦場に立つ気?﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁そんな状態でまともな判断できるの? 太一なら怪我とかはしな いと思うけど、怪我はさせちゃうかもしれないじゃない﹂ ﹁⋮⋮﹂ 反論が出来なかった。奏は怪我させることそのものを非難してい るのではない。太一の頭が働かないせいで、無用な怪我人を出すか もしれないと、奏は言っているのだ。 ﹁でもな。それでも同じ布団はダメだろ﹂ ﹁どうして?﹂ 904 ﹁どうしてって⋮⋮俺たちまだ付き合ってないし⋮⋮﹂ あの日お互いの気持ちを確認しあった夜から、微妙な関係が続い ている。友達以上恋人未満という手あかのついた表現は、二人の関 係を的確に表してもいたのだ。 ﹁まあ⋮⋮そうなんだけど﹂ ﹁だろ。だったらやっぱりここは節度を持った清い関係をですね⋮ ⋮﹂ そうやって饒舌に喋り出す太一を黙らせるのは、奏にとっては容 易い。 ﹁男の俺が気を遣うべきであるからして⋮⋮﹂ ﹁太一は、私と寝るのはいや?﹂ ﹁寝たいです。⋮⋮⋮⋮あ﹂ かっと頬を紅潮させながらもこちらから目を逸らさない奏を見て、 太一は願望に正直な口を縫いつけてしまいたかった。 そして、太一は敗北を悟った。 ﹁いやって言われなくてよかった﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁男の太一が節度を持ってくれるんでしょ?﹂ 言葉尻を拾われて外堀が埋められていくのを、太一は黙って眺め るしかない。 ﹁だったら、問題ないんじゃないかな?﹂ 905 反論の材料が見つからない。だが、せめてもの抵抗はしておきた い太一は一度だけ足掻くことにした。 ﹁あのう。このベッド、シングルなんで狭いんですが﹂ その意図が分からない奏ではない。一層顔を紅くした彼女であっ たが、自分から言い出した手前、引くに引けなくなっていた。 ﹁そ、そんなの⋮⋮くっついて寝ればいいじゃない﹂ ﹁⋮⋮﹂ 足掻くどころか盛大に地雷を踏み抜いた太一であった。 結論から言えば、二人の貞操は守られたままである。太一が素数 を数えてなんとか乗りきることに成功する。その時数えていた数字 は素数ではなく奇数だったことは、今回ばかりは不問に処すことに しよう。 向き合って寝る根性が無かった少年は、奏に背を向けてベッドに 横になっている。 微かに耳に届く虫の声を聞きながら、太一は﹁どうしてこうなっ た﹂と真剣に考える。そして、奏に押し切られたという事実に辿り 着き、今更ながら顔が熱くなった。 女の子とひとつのベッドで寝ているという状況に思わず興奮した 太一の背中側の服が奏にそっとつままれる。 瞬間心臓が跳ね上がったが、その手から伝わる震えに気付いた時、 太一の舞い上がった心がすっと冷えた。 命を狙われている。 そんな現実的とは思えない状況に対して真剣に対応を考えるレミ ーアの姿が脳裏に浮かぶ。茶化すとかそんな雰囲気は一切無く、﹁ どう捕まえてやろうか﹂とその方法を検討していた。 まず最初に捕獲できること前提で手段の検討をしている時点で心 906 配はないだろうと思うが、それはあくまで太一から見た現状である。 奏の気持ちが分かるわけではない。当事者であって他人事。太一 が覚える感覚はそれだ。 そもそも太一は暗殺者に命を狙われても、それが人間のレベルな ら脅威を感じない。実力的な面でも、その前段階、策敵能力の面で も。その気になれば相手がどこにいるかは正確に分かるし、攻撃を 受ける前に先手を打つことも、攻撃されてから一〇〇パーセント成 功するカウンターを放つことも可能である。 しかしそんなことは奏には不可能⋮⋮とまでは言わないが難しい だろう。だから、奏の気持ちが分かる、とおこがましいことを言う つもりはない。 では、太一が恐怖を覚えるとしたら何だろうか。 自分が狙われること? 違う。 狙われたところで返り討ちにすればいいだけだ。 そんな遠回りな思考をせずとも、答えは明白。 暗殺が、成功すること。 つまり、奏を喪うこと。 太一は思わず身体の向きを変え、奏と向き合った。 思った以上に勢いが強かったのだろう、奏が目を白黒させていた。 その頭に、太一は手を置いた。 ﹁寝ろ﹂ ﹁⋮⋮﹂ 自分のものとは思えないほどに固い声が耳に届き、口にした太一 自身が驚いた。 それは奏も同じだったようで、固まっている。 数瞬経ってから奏は少しだけ微笑み、﹁うん﹂と頷いて目を閉じ た。 907 これだけ巨大な力を持ちながら今まで理性を保っていられた理由 がはっきりする。奏が無事だったからである。 もしも今ここに、奏がいなかったら。 この後、奏を喪うという結末を迎えたとしたら。 太一は、全てがどうでも良くなるだろう。 国を脅してでも貴族の居場所を聞き出し、単独飛び込んで破壊の 限りを尽くすかもしれない。国を脅すのは簡単だ。答えないなら王 都全てを無差別に薙ぎ払うと言って、どこかを見せしめに吹き飛ば せばいい。どうせ、太一を止められる者などこの国にはいないのだ から。 もしもそうなったとき、そのような理性的な行動を取れるかどう かが分からない。 自分の中にここまで狂暴な一面があることに驚いた。太一は頭を 掻いて苦笑する。何だかんだ言いながら、嗜虐的な部分も持ってい るのだ。聖人を気取りたいわけでもないので、考えるだけなら構わ ないだろう。 それに、今の思考は奏が無事でいてくれる限りは起こらないだろ うと自信を持って思えることである。奏がいることで得られる精神 的な安定は、自分が得た実力以上のものだった。願わくば、奏にと っての自分がそうであったら嬉しいと太一は思った。 ◇◇◇◇◇ 908 息をひそめて城の屋根裏に隠れること七時間。 鍛え上げた時間感覚は、今が夜中の三時頃であると正確に告げて いる。 魔術的にも気配を消す必要があるため、隠密になるには相当な訓 練を積む必要がある。厳しさは騎士や宮廷魔術師に劣らないぶん、 乗り越えられれば食いっぱぐれない仕事でもある。もちろん、己の 手が穢れること、命懸けであること前提の仕事であるのだが。それ は騎士も宮廷魔術師も同じである。 ちらりと右に目を向ける。 相棒は約束の時間を一〇分過ぎてもやってこない。 恐らくは敵方の諜報辺りに捕まったのだろう。今は情報を聞き出 さんとする軍上層部の命令で拷問に遭っていると予想される。 流石は三大国家のひとつ、エリステインといったところか。他二 国に比べて軍の数で劣るエリステインが、それでも三大国家と呼ば れる理由のひとつに、王国軍の質と練度の高さがある。闇雲に手を 出せばこっぴどく叩かれ、返り討ちにされるだろう。 そんな国が抱える諜報だ。彼からしても撒くのにとても苦労した。 捕まった仲間を助けることは不可能だろう。明日は我が身であるが、 そんなことは彼にとってはどうでもよかった。今回の任務は異世界 の少年少女に一太刀浴びせること。 二人のうちどちらかが達成すればいいのだ。 捕まった間抜けな仲間に対する感慨はない。一歩間違えば捕まっ たのは自分であり、間抜けと罵られているのも自分だったからだ。 むしろ最初の顔合わせで、必要があればどちらかが人柱になるこ とも擦り合わせ済みだ。時間稼ぎの最終手段。何度か情報の共有の 際に落ち合って決めたのだ。約束の時間、午前三時から一〇分経っ ても現れなければ死んだものと見なす、と。 ついに一〇分が経過した。彼の中で、相棒は死亡した。 足音も気配も全て殺し、ターゲットがいる部屋の真上に向かう。 909 今回の標的は異世界の二人のうち少女の方だ。より与し易い方に 狙いを定める。 狙いやすいのが宮廷魔術師の中でもトップクラスと同レベルとは 何の冗談だと思わなくもないが、それでも化け物のような強さをも つ相手とやりあう可能性に比べたら数段マシだ。 今回のターゲットが寝ている部屋は下準備の段階で判明している。 迷わずその真上に行き、ナイフで天井に微かに穴を開ける。強化し た視力は、ベッドの上に盛り上がる布団を見付けた。 わずかに感じる魔力も、体に覚えさせた標的のものと相違ない。 男は腰から刃渡り四〇センチ程の短刀を抜いた。刃には緑の液体 がこれでもかとまとわりついている。 刺し傷だけでなく、猛毒も使った二段構え。一撃が急所に至らず とも、毒を体内に流し込めればそれだけで死を誘える。 後は邪魔さえ入らなければいい。他に気配が無いか、男は周囲に 気を配った。 ◇◇◇◇◇ ︵たいち。来たよ︶ ︵おう︶ 直接脳内に響いた相棒の声に、太一は応じた。 910 太一の索敵能力はこれだ。 エアリィに協力してもらい、空気の流れを感じとる。いくら気配 を消そうと、魔力を隠そうと、足音を消そうと。 身体が移動することで生まれる空気の動きまでは遮断できない。 そしてエアリィは風を司る上級精霊。この程度は朝飯前である。 索敵範囲は一〇〇メートル。この能力の凄いところは、どんなに 自身を隠蔽しようと、動けば存在がバレるという点だ。 奏の部屋を挟んだ反対側の部屋では、レミーアとミューラがスタ ンバイを済ませている。レミーアが張ったのは一定の距離に足を踏 み入れたら脳内にアラームを流す結界魔術。有効範囲は一〇メート ル程。踏み込んだ側には余程でないと悟られない隠蔽力を持ったス グレモノ。索敵には使えないが、待ち伏せにはとても有効だ。 あらかじめリーサには部屋の壁をぶち抜くと宣言してある。刑事 ドラマのように、ご丁寧に扉から事件現場に踏み込むつもりはない。 左右の壁をぶち抜いて虚を突き、そのまま捕まえる。 瞬間、隣の部屋から鈍い音が太一の耳に届いた。それを確認し、 太一はベッドからのそりと起き上がった。 手応えはあった。刃は根本まで突き刺さっている。 例え急所を外していても、刺し傷だけで致命傷だろう。 男は剣を引き抜こうとした。毒の代わりに刃にこびりついた血を 確認しようと思ったのだ。 ﹁残念、そいつはデコイだ﹂ 若い男の声と共に、左の壁が吹き飛んだ。 全身を黒装束に包んだ人物が、こちらを見ている。 911 その手には短刀。 壁が破砕した音とほぼ同時にこちらへ振り向くその反射速度は称 賛に値する。レミーアやスミェーラの見立て通り、かなり出来る相 手が送り込まれたようだ。 刺客の目が見開かれる。今仕留めたはずの奏が、太一に守られる ようにしてそこに立っているのだから。 その者は短刀を引き抜き、掛け布団をひっぺがした。ベッドに横 たわっていたのは土の人形。胸の辺りに刺傷が刻まれている。 ﹁中々見事な木偶人形だろう?﹂ 人を食ったような、それでいて艶のある声が三人の耳に届き、続 いて右側の壁が砕けた。杖を構えるレミーアと、剣を抜いたミュー ラだ。 ﹁喜べ。それに引っ掛かったのはお前さんが優秀な暗殺者である証 左だ﹂ 木偶人形からは、奏の魔力が微弱に放出されていたのだ。だから こそ刺客は、木偶人形を本物と誤認した。 相手の魔力を感じ取り、識別する力があるからこそ有効なトラッ プだ。 男はじり、と半歩下がる。隙あらば逃げようという腹だろう。 ﹁逃がしはせぬよ﹂ レミーアの声が、太一にはどこか遠く聞こえた。 あの短刀は、木偶人形の胸元深く刺さっていた。 あれが奏だったら無事では済まなかっただろう。もしもこの手段 を取っていなければ命を落としていたかもしれない。 912 レミーアが側にいなければ防げなかったかもしれない。 幾らでも万が一があったのだと、太一は気付いた。 そう考えたとき、太一は男を床に叩き付けていた。男の身体が数 センチバウンドし、肺から押し出された空気によって呻き声が漏れ た。 相手の腕を両手で掴んで放った背負い投げ。人間の耐久力を遥か に上回った力で放たれた攻撃に、手首が砕け、肩が外れた。 肩を激しく上下させて呼吸を繰り返す太一の足下には、刺客が転 がっている。その背中を中心に蜘蛛の巣状のヒビが床に走っていた。 奏もミューラもレミーアも呆然と立ち尽くしている。止めなかっ たのではない、止められなかった。 彼女たちの知覚できる限界速度を上回った速さだったのだ。冗談 でもなんでもなく、気付いたら刺客が床に倒れていたのだ。 ﹁う⋮⋮ご⋮⋮﹂ あれだけの力で投げられては背骨も折れてしまっているだろう。 まだ息があるのは不幸中の幸いか。 ﹁⋮⋮っ!﹂ 太一は男が手放した短刀を拾い上げそれを振り上げる。 ﹁太一!﹂ ﹁ダメよ!﹂ 奏が太一にしがみつき、ミューラが太一の手に飛び付いた。 ﹁⋮⋮奏? ミューラ?﹂ 913 自分に飛び付いてきた二人を見て、太一は動きを止めた。 ﹁早まっちゃダメ﹂ ﹁落ち着いて、タイチ﹂ 太一は足下を見る。自分が投げ飛ばしたのだと理解できた。 ﹁あ、ああ⋮⋮﹂ 振り上げたナイフを下ろす。 太一に追撃の意思はないと確認した奏とミューラは、太一への拘 束を緩めた。 その時、音を聞き付けて部屋になだれ込んできた騎士数人。それ を率いていたパソスは眉をしかめる。 刺客が倒れている。短刀を持った太一が打ち倒したらしい。 今回軍は太一達の側にいなかった。最初は護衛すると申し出たの だが、レミーアに捕まえる自信があったのであえて守りを薄くした。 もっとも、じゃあ放置、とは当然ならずいつでも出動できるよう 戦闘待機状態だったのだが、駆け付けたときには終わっていたのだ。 ﹁遅くなりましたな﹂ ﹁いや、助かる﹂ パソスの言葉にレミーアは首を左右に振る。 ﹁その賊はこちらで引き取りましょう。代わりの部屋を用意させま すので、お待ちくだされ﹂ ﹁御気遣い感謝する﹂ ﹁よし。連れていけ﹂ 914 引き連れていた騎士たちに刺客は拘束され、部屋から運び出され た。 立ち尽くす太一と、彼を心配そうに見詰める奏とミューラに目を 向ける。パソスのその視線の意図が分からないレミーアではない。 ﹁夜が明ければ出立の式典がございます﹂ ﹁うむ。聞いている﹂ ﹁今宵は、ゆっくり休ませてやるのがよろしいでしょうな﹂ ﹁私もそう思う﹂ パソスが太一を見る目は、まるで孫を見るそれに近かった。 ﹁夜分失礼。また明朝﹂ ﹁良い夢を﹂ パソスは一度敬礼し、きびすを返した。彼の背中を見送り、レミ ーアは太一に目を向ける。 時間は止まったりはしてくれない。 自分の行いに対して相当なショックを受けている太一。しかし戦 場に出ないという選択肢はない。 いつの間にか、月の明かりは完全に分厚い雲の向こうに消えてし まっていた。 915 サイレントキラー︵後書き︶ 三章もついに佳境です。 916 マーウォルトの会戦 一 アルティア歴四一三八年一〇月二二日 歴史書、絵本から子守り唄にまで出てくる有名な日である 親から子へ 子から孫へ 幾星霜をまたいで語り継がれる その日 世界の歴史を変える大魔法使いが現れた、と︱︱︱ 917 眼前に広がる一〇〇〇〇もの軍を見下ろすのは壮観である。 剣や杖の先に嵌め込まれた宝石が朝焼けを乱反射させ、えもいわ れぬ幻想的な光景を生み出していた。 ついに始まるのだ。この国の行く末を決める戦が。 マルケーゼは剣の柄に手を添え、逸る気持ちを目を閉じることで 鎮める。この辺のメンタルコントロール力は流石に国を背負うと自 負する大貴族だ。例え若くとも、いや若いからこそ、このような自 制心は何よりも大切になる。 軽く剣を抜き、ぱちんと音を立てて納める。それをスイッチにし て、マルケーゼは頭を意識的に切り替えた。 ﹁イニミークス。状況はどうなっている﹂ ﹁現在八割方、準備は完了しております﹂ ﹁そうか。王国軍は?﹂ ﹁先方も同じ程度かと。規模も前情報通りでございます﹂ 腹心の言葉は、マルケーゼの想定通りであった。ガチャガチャと 金属が擦れる音や準備に追われる声がそこかしこからマルケーゼの 耳に届いている。 現在他の貴族も、準備や最終確認に追われていることだろう。だ がマルケーゼの陣営は静かなものだ。彼の腹心イニミークスはとて も優秀であるし、他にもこういった戦に秀でる者を何人か雇ってい る。おかげで準備は滞りなく進んでいる。 ﹁⋮⋮たぎる﹂ ﹁御自重のほどお願い致します、旦那様﹂ ﹁分かっている﹂ 918 マルケーゼは椅子にふんぞり返るだけの権力の権化ではない。侯 爵達の中でもっとも腕が立つ剣士としての顔も持っているのだ。 ﹁だが、戦局が膠着するなら、私も出るぞ﹂ マルケーゼの言葉に、イニミークスは深いため息をついた。 ﹁⋮⋮致し方ありますまい。その時は、お供させて頂きましょう﹂ ﹁何だ、保護者じゃあるまいし﹂ ﹁どこの世界に、主を単独で死地に送り出す側近がいるのです﹂ 全く口うるさい男だ。マルケーゼは本気でそう思い、嫌そうな顔 を隠そうともしなかった。だが、それは当人たちにしか分からない 信頼の証である。元より他人に理解されようなどと考えていない。 ﹁勘違いするなよ? 私が出る必要のない展開が一番良いのだ﹂ ﹁承知しております。あくまでも念のため、でございます﹂ ﹁念のため、か。便利な言葉だな﹂ ﹁恐れ入ります﹂ マルケーゼは笑って正面を見据えた。 ﹁イニミークス。後は任せた﹂ ﹁畏まりました﹂ ﹁ミストフォロスとスソラにも出る準備をさせておけ﹂ ﹁御意﹂ 彼の背中を頭を下げながら見送るイニミークスは、誰にも悟られ ぬよう口の端をわずかに上げた。 919 ◇◇◇◇◇ ﹁⋮⋮姫様。どうしても往かれるのですか?﹂ どうにか、といった様子で言葉を紡いだティルメアに、シャルロ ットは力強く頷いた。 ﹁ええ。皆さんを死地に追いやろうとしているのは、我々王族の不 徳が致すところだから﹂ ﹁しかし⋮⋮﹂ ティルメアは次の句を封じられた。すっと唇に当てられた、シャ ルロットの白魚のような人差し指によって。 ﹁大丈夫。攻撃が届かない所までにするわ。わたしが下手に出たと ころで、足を引っ張るだけなのは分かっているもの﹂ シャルロットはティルメアの自重しろ、という言外の想いを一蹴 し続けている。 主人がここまで頑なな意志を見せたのはいつぶりだろうか。 普段身に纏うドレスを脱ぎ、軽くて魔法防御力の高いローブを着 920 込み、その上にマントを羽織る。魔力増強の効果がある虹フラミン ゴの羽を使用した耳当てを左耳につけた。 高貴さを損なわず、それでいて戦場にふさわしい身軽さを実現し た、シャルロットの戦闘服だ。 ﹁それでも、わたしが戦地にいることで士気は上がるはずよ﹂ それは間違いないため、ティルメアは口を閉ざした。 戦において重要なファクターのひとつに士気の高さがある。 どれほど練度が高い軍を率いようとも。どれほど強い兵士が部下 にいようとも。彼らの士気が低ければ戦に勝つのは難しい。 前述の二つの要素も大事だが、それと同じくらい士気を高く保つ ことも大事なのだ。 これはスミェーラが言った金言であるため、否定のしようがない。 ﹁お父様が号令をなさるし、お姉さまも救護班に混ざって怪我をし た兵の治療をなさるわ。わたしだけ何もしない訳にもいかないじゃ ない﹂ エフティヒアは水属性の高位魔術師。魔力量や魔力強度は水属性 の宮廷魔術師部隊隊長に劣らぬ資質を持っている。 戦闘系の魔術も護身用としていくつか持っているが、彼女がもっ とも得意とするのは液体⋮⋮体液を操作して行う怪我の治療だ。 水属性を扱えれば誰にでも出来る魔術ではない。 医学知識として人体の事を良く知っていなければ不可能と言って いい技術である。 エフティヒアが戦場に後方支援として赴くのはまだ分かる。 だがシャルロットは。 強力な時空魔術を扱えるとはいえ、彼女は通常の魔術師とは大分 異なる。時空魔術は世界の理をねじ曲げる魔術。基本的にどの魔術 921 も想像を絶するほどに強力だが、発動には時間がかかるのだ。当た れば必殺の魔術もあるのにはある。しかしどんなに簡易な魔術でも、 発動するまでに五分もの詠唱が必要なのがネックだ。弓につがえて 放つだけの矢も、一言二言で撃つことが出来るファイアボールも防 ぐことができない。まして今回はやむを得ない場合を除き、敵兵を 極力殺めないようにしなければならないと何度も言っているのはシ ャルロットである。その彼女が、必殺の魔術など使うはずがない。 つまり、敵の攻撃に対しては無防備なのだ。間違っても敵の攻撃が 届く範囲に立つことは出来ない。 そんなことを考えていたティルメアをよそに、シャルロットは壁 に大事に飾られたスタッフを手に取る。 彼女の身長ほどもあろうかという、アメジストが嵌め込まれ、白 金で作られたスタッフだ。 時空魔術師である彼女専用の媒体。 ﹁ティルメア﹂ 温和な笑みから放たれる、威厳。 シャルロットは賢王ジルマールの血を引く王女である。 ﹁出立の準備が出来たわ﹂ ﹁⋮⋮畏まりました。全ては姫様の望むがままに﹂ 思わず圧倒されたティルメアは、はっとして膝を突き、主に対し てこうべを垂れた。 ◇◇◇◇◇ 922 寝て起きて。 普通ならそれでいつも通りとなるはずの心は、いまだざわついた ままだった。 太一はテーブルの上で組んだ両手をじっと見つめていた。 昨晩起きた奏暗殺未遂事件。 思わず我を失ってしまった。 目の前に立つ暗殺者に、強い憎しみをもって攻撃を仕掛けた。 キレる、とはこういう事を言うのだろう。 ワイドショー等では﹁キレる若者たち﹂などという特集が、文言 を変えて放送されていた時期があった。 あの時は遠く﹁自分には関係ねーや﹂と眺めていた太一だったが、 今は﹁キレる若者﹂の気持ちが良く分かった。 自分の思い通りにならないから、とキレるどうしようもない奴も 確かにいるだろう。しかし、自分が大切にするものが理不尽に蹂躙 されそうになり、思わず﹁キレ﹂てしまった者もいたはずだ。 人によって価値観は千差万別。そうでなければ﹁十人十色﹂とい う至言は生まれていなかったと太一は思う。 Aにとっては価値が無いものでも、Bにとっては人生で一番大切 な宝物である、ということは往々にしてあるだろう。太一の場合、 今もっとも大切なのは奏だ。それは、昨日我を忘れてしまった事実 が如実に表している。 奏とミューラに制止され、自分が何をしていたのかをまるで他人 事のように見つめた。 床に倒れた賊。 923 ︱︱︱何故まだ生きているのか︱︱︱ そう思ったから短刀を拾い上げて振りかざしたのだ。 そして、そんなことをした自分に愕然とした。 人を傷つけたくないといいながら、殺さなければ気が済まないと、 そんな思いまで抱いていた自分に気付かされてしまった。 それでも。 奏を喪うと考えた瞬間、頭の中がふっと真っ白になったのだ。 ぞわりと何かが背中を這い上がったのだ。 どうしても、許せなかったのだ。 もちろんむやみに人を傷つけることを是としている訳ではない。 だが、守るためにはやむを得ないのかもしれない。 太一はそう考えた。 あの賊を速攻で戦闘不能にまで追いやったからこそ、あの夜誰も 怪我をせずに済んだということも出来るだろう。 もしも捕らえようとして下手に長引かせ、猫を噛まんとした窮鼠 の牙が誰かに突き立った場合。 大切な仲間が怪我を負っていたかもしれない。 怪我で済まなかったかもしれない。 太一は圧倒的な能力を持っている。 事強さにおいては、レミーアをして﹁この国に、太一に勝てるも のはおらん﹂と断言するほどに。 しかしそれだけの力を持っていても、守れないかもしれないのだ。 最強という、大仰な肩書きを持つにも関わらずだ。 これだけの力を持つのに、守りたい者を守れないのでは、いった いどんな意味があるというのか。 奏を、ミューラを、レミーアを。 目に映る守れる人がいるなら守りたい。 そう思ったのは偽りではない。 しかしそんな決意も、口先ばかりで実が伴っていないのかもしれ 924 ないのだ。 守るというのが、これだけ困難だとは思いもしなかった。 底なしの魔力量。圧倒的な魔力強度。そしてエアリィという上級 精霊の力を借りることの召喚術師。稀有で強いと持て囃されて。 何でも出来る、と思い上がっていたのかもしれない。 本当に、この戦を乗り越えられるのか。 いくらでも想定外は起こりえるだろう。 シナリオどおりに進む物語ではないのだ。 奏たちは人類最強クラスだとスミェーラからお墨付きを貰ってい る。 しかし、万が一はやはりあり得る。 もっと言えば、騎士や宮廷魔術師はその奏たちのレベルに至って いない者が殆どだろう。 目の前で人が死ぬさまを目撃するかもしれない。 守りたいとする意志は固くとも、実行できるのかまったく分から ない。 太一はテーブルにおいた両手に額をつけた。 まとまりのない思考がぐるぐるぐだぐだと彼の頭を駆け巡る。 そんな太一を、エアリィは慈愛のこもった、かつ決意が滲んだ瞳 で見つめていた。 ◇◇◇◇◇ 925 エリステインから南へ数キロ離れたところに、マーウォルト平原 がある。 拵えられた櫓にスミェーラは立っている。視線の先には、一〇〇 〇〇にのぼる兵士たち。整然と物音すら立てずに並ぶさまは、彼等 の優秀さをこれ以上ないほどに示している。 視線を上げれば、一キロ離れたところに同じ程度の規模の人の群 れ。 言わずもがな、貴族軍だ。 これだけの規模の戦闘は早々起こるものではない。ここまでくれ ばぶつかるのみ。懸念があるとすれば、このところ戦がなかったた め、兵士が浮き足立っていないかだ。 しかしどのみち避けられない戦闘である。一ヶ月前のスミェーラ の予測からは随分と早まった。これも太一と奏が王国軍の側につい たからだ。貴族側につかなかっただけ、幸運と言うべきなのだろう。 長かった。この戦が終わった後、エリステインは再建に向けて動 かなければならない。スミェーラを含む上層部はやることが多すぎ て頭痛に苛まれるだろう。 だがそれもこの戦に勝った後に起こる頭痛である。 勝たなければ始まらない。 やる前から悩むことではないと、スミェーラは全てを心の奥の引 き出しに放り込んで鍵をかけた。 背後に気配を感じる。抑えても隠しきれない覇王の空気。 ﹁陛下。お願い致します﹂ 彼女の後ろに立ったジルマールに、スミェーラは跪いた。 ﹁うむ﹂ 926 ジルマールは腰の剣を抜き払い、天高く掲げた。スミェーラがジ ルマールに拡声の魔術をかける。 ﹁エリステイン魔法王国英雄諸君! 貴殿らに必達の使命を与える !﹂ 威厳のある声が、その言葉が。兵士たちの鼓膜を揺らし、そして プライドをくすぐる。 ﹁貴族らから勝利を収めることはもちろん、再び王都ウェネーフィ クスの地を踏みしめろ! 予にその勇姿をもう一度見せに来い! 勅命だ!﹂ ウオオオオ、と歓声が地鳴りとなって、櫓ごとビリビリと揺らす。 頼もしいことこの上ない光景だった。 ジルマールは二度頷き、掲げた剣を見事な剣捌きで鞘に納めた。 ﹁スミェーラ将軍﹂ ﹁はっ!﹂ くるりときびすを返したジルマールはいまだ跪いたままのスミェ ーラに目を向ける。 ﹁この国を、全て任せる﹂ ﹁畏まりました﹂ 自分で出来るのなら、ジルマールは全ての指揮を執り、この内乱 を鎮めたいと考えている。 しかし同時に分かってもいる。適任は、自分ではないと。 軍事に関して、スミェーラの足下にも及ばないとジルマールは考 927 えている。自分よりもその方面で優れた者がいるのなら、自身の権 限に近いところで思う存分力を発揮させた方が良いだろう。 もちろん責任は自分で取る。責任の所在を明確に自分の元に置い た上で好きにやらせる。 ジルマールが敷く国政執行部は全てその形態を保っているのだ。 ﹁うむ。頼んだぞ﹂ ﹁はっ。必ずや、御期待に応えてみせましょう﹂ 頼もしい部下の返事に一度頷き、豪奢な緋色のマントを翻して王 は櫓を後にした。 君主の気配が遠ざかったのを確認し、スミェーラは立ち上がった。 眼下に広がる頼もしい軍をぐるりと眺める。 この戦の命運を握るのは彼らだ。 ﹁抜剣!﹂ 同じく自身に拡声を行い、端まで声を行き渡らせる。 スミェーラの号令に追従し、一〇〇〇〇の兵士が一斉に得物を抜 いた。 ﹁進め!﹂ 右手を前に突き出す。 素早く、しかし整然と。 全体が進軍を開始する。 一糸乱れぬ一〇〇〇〇の軍の攻勢。これだけで、敵軍の心胆を寒 からしめることができるのだと、スミェーラは分かっていた。 928 ◇◇◇◇◇ 王国軍が動き出してから正確に三〇八秒後。 貴族軍が騎兵隊を配置した左翼側が歩兵部隊よりも突出。整然と 揃った足並みで迫ってくる王国軍の隊列に突っ込み、戦端が開かれ た。 飛び交う魔術と響く剣戟。そして両軍兵士が上げる怒号と掛け声。 それら全てが混ざって化学反応を起こし、戦場はたちまち轟音に包 まれた。 ﹁流石だな、スミェーラ﹂ ドルトエスハイムは唸った。認めざるを得ない。統率力では、貴 族側は王国軍に二歩以上の差があると。 密集陣形で進軍していた王国軍は、突出した形となった騎兵隊を 半円の中に誘い込もうとしている。攻撃を受けてからの包囲作戦。 恐らくは現場指揮官の指令だろう。目を見張るほどに素早い決断だ った。 このままいけば、初手は王国軍に軍配が上がりそうだ。だが貴族 軍とてただ騎兵隊を突出させた訳ではない。 ﹁徐々に厚みを増していくぞ。防いでみるがいい﹂ 929 白兵戦が起きているそのもう少し奥。多数の魔術が王国軍騎士た ちに降り注ぐ。突撃力に優れる騎兵隊をただ突っ込ませただけでは 無駄ゴマである。 もちろんそのバックアップも万全。お互いに打った一手目をイー ブンにすること。それがドルトエスハイムの一つめの狙い。もう一 つ狙いがあるが、それはもう少し後に発揮される予定だ。 その間に、両軍同士の先頭がついに交錯した。 戦はこれからだ。スミェーラとドルトエスハイムの智謀の勝負。 予想通りの激戦を目の当たりにし、ドルトエスハイムは手に持っ た杖をぐっと握った。 ﹁始まったな﹂ ﹁はい。旦那様﹂ 彼の斜め後ろに控える有能な執事が、恭しく頭を下げたのが分か る。別に気配を感じ取ったりしたわけではない。オールドーならそ うするだろうと長年の付き合いで分かるだけだ。 ﹁この戦が⋮⋮この国の未来を、この世界の未来を変える﹂ ﹁はい。旦那様﹂ ドルトエスハイムは口の端を上げ、不敵に笑った。 ﹁後世の歴史家は、私を笑うと思うか﹂ ﹁思います﹂ ﹁うつけと罵られると思うか﹂ ﹁思います﹂ 不敬な回答に、しかし大満足のドルトエスハイムは豪快に笑った。 930 ﹁そうだ。私は史上もっとも愚かな公爵として語り継がれるだろう﹂ ﹁旦那様のおっしゃる通りでございます﹂ ﹁だが⋮⋮それで良いのだ﹂ ﹁はい﹂ ﹁誰からも理解されようなどと望んでおらぬ﹂ ﹁旦那様﹂ ﹁何だ?﹂ 初めて振り返ったドルトエスハイムの目に映ったのは、今までと 変わらず、彼に敬意を払うオールドーの姿だった。 ﹁旦那様のお気が済むまで、不肖オールドー、どこまでもお供させ て頂きます﹂ ﹁⋮⋮貴様も愚かよな﹂ ﹁お褒め頂きありがとうございます﹂ 茶目っ気たっぷりに放たれた痛烈な皮肉に打たれ、ドルトエスハ イムは一層愉快げに笑うのだった。 931 マーウォルトの会戦 一︵後書き︶ いつの間にかPVが八桁⋮⋮ 書き始めたときはここまでくるとは夢にも思っていませんでした。 読んでくれる人がいるから、今日も続きを書こうと思えます。 932 マーウォルトの会戦 二 ﹁流石は公爵。簡単にはやらせてくれんな﹂ 情勢は拮抗している。戦闘開始からおよそ二〇分。相手の手に被 せるように対応し、相手がまたそれに被せてくる。いたちごっこの 様相を見せる戦場は、膠着状態になっていた。 統率力や指揮能力、状況判断力では誰よりも優れると自負するス ミェーラに対して、随分と張り合っている。 これはスミェーラの自身の評価だけではなく、第三者から見た客 観的事実でもあった。 世が世なら歴史上でも一〇本の指に入る名将と評されるスミェー ラである。もちろん歴史家、軍事研究家の全員がそこまで破格の評 価をしているわけではないし、批判も当然あるのだが、それでもス ミェーラが名将であるという評価に異を唱える者はいなかった。 二流は相手にされず、一流は褒め称えられ、超一流は批判される。 その理論に則れば、スミェーラは間違いなく超一流だ。 そのスミェーラに対して一歩も譲らぬ戦いを繰り広げているドル トエスハイムを﹁敵ながら天晴れ﹂と讃えずして何と言うのか。 ﹁左翼! 手薄になってきているぞ! 何をやっている!﹂ スミェーラの叱責に、現場指揮官から悲鳴のような声が上がった。 端から見れば手薄なわけではない。しかし自軍と敵軍の動き、双 方の攻撃と防御を見れば、徐々に手薄になっていくだろうとスミェ ーラには分かるのだ。 恐ろしく高い基準で示される作戦行動。しかし誰も異など唱えら れる訳がない。 総司令から現場指揮官、部隊長に一兵士のどれをやらせてもスミ 933 ェーラが王国軍一。出来る人間だからこそ生まれる説得力である。 ﹁ふむ。滑り出しは上々か﹂ ﹁左様ですな﹂ 騎士たちを統括するパソスが、今は現場から一時離れてスミェー ラが控える本陣にいた。 もちろん職場放棄ではない。スミェーラに報告があって出向いた のだ。 今回の作戦行動は敵を進ませなければ達成。最終的には敵の指揮 系統を破壊することが勝利への近道だが、大局としては負けなけれ ばイコール勝利でもある。 だが、そんな消極策はスミェーラの望むところではないし、何よ り烈火のごとき彼女の性質を考えればらしくない。 ﹁敵軍のジャックやクイーンらは役を作ったか?﹂ ﹁はっ。諜報より、ロイヤルストレートが切られたと報告がござい ました﹂ パソスの報告を聞き、スミェーラは頷いた。 ﹁宜しい。ではこちらもとっておきを切るとしようか﹂ ﹁承知しました。そのように致します﹂ 敵軍の動きは速い。持久戦は臨むところの王国軍に対して貴族側 は何としても打ち破らなければならない。 打てる手を次々使い、波状攻撃を仕掛けてくるのは想定通りだ。 ﹁⋮⋮勝利だけを求めるのなら、とっくに終わっている戦だがな﹂ ﹁そうですな﹂ 934 スミェーラが何を言いたいか、パソスにはすぐに分かった。 ただ勝つだけなら、敵の総司令部を派手な範囲攻撃魔法で破壊す ればいいだけなのだ。 だが、今回その手は使えない。いや、使いたくない。 ﹁それをやれば、自分の国の不始末を年端も行かぬ子供に尻拭いさ せることになる﹂ ﹁そんなことになったら末代までの恥です﹂ ﹁うむ。腹を切って死んだ方がマシだ﹂ 国の存続を考えれば、至極妥当な選択肢。しかしエリステインは それを是としなかった。例え理解されなくとも、矜持や意地といっ た類いのものだ。 ﹁私も、非情にはなりきれなかったということか。知らぬ間に彼等 には随分と情が移っていたらしい﹂ ﹁人間味があってよろしいのでは﹂ ﹁言うじゃないか﹂ パソスの言葉にスミェーラは笑った。 ﹁そんな年端も行かぬ子供に求婚をなさったのはどこの閣下でした かな?﹂ ﹁いいではないか。恋愛は自由だ﹂ ﹁まったく⋮⋮勝ってからじっくりと考えてもらって、返事を頂く と良いでしょう﹂ ﹁そうするとしよう﹂ 立ち去るパソスの足音を聞き、スミェーラは前を向いた。 935 さあ次はどんな用兵を見せてくれるのか。 今まで和やかな会話を交わしていたとは思えないほど、スミェー ラの頭は見事に切り替わっていた。 ◇◇◇◇◇ 太一一行に与えられた任務は二つ。 一つは遊撃手として支援をすること。進路は決められており、特 にどこか手薄なところ、というのを探す必要はない。 太一と奏、ミューラとレミーアに分けられており、それぞれ別の 位置から進行を開始する。 支援するなら手薄なところからやった方がいいのではないか。素 人ながらそう尋ねた奏に対し、パソスは首を横に振った。 その理由が二つ目の任務に繋がる。 どうやら貴族軍がとっておきを切ってきたらしい。かなり高いレ ベルの相手らしく、一般兵では荷が重いとのことだ。その敵は既に 戦場に出て暴れ始めているという。確実に倒すならベラ、パソスが 出向くべきだが、彼等は部隊の指揮という任務を負っていておいそ れと持ち場を離れられないのだ。 そこで太一たちにおはちが回ってきたというわけだ。王国軍にお ける、自由度の高い強力なカード四枚。この場面で何より重要視さ れるのは、自由度の高さ。敵のカードの進路にぶつかるように進ん 936 でいき、それらを引き受ける。それがパソスを通じてスミェーラか ら受けた指示である。 レミーアも含め、四人とも異論はなかった。 そもそも軍の一兵士に収まるようなスケールの四人ではない。自 由にやらせてもらった方がよいということだ。 最前線を後方から望む総司令部から向かって右側を太一と奏が。 向かって左側をレミーアとミューラが進む。 敵兵士を叩き伏せながら進むペースを変えないレミーアとミュー ラに、やがて敵の攻撃が少しずつ集中していく。 敵指揮官がかなり厳しい采配を強いられているのが目に見えて分 かる。他の騎士と同じように相対して抑えられる二人ではない。じ ゃあ先にレミーアとミューラに一極集中して一気にいく、という選 択も取り辛い。そんなあからさまな隙を見逃すほど、王国軍は甘く はないのだから。 実際に騎士と闘ってみてミューラは本気で驚いている。近いレベ ルの実力だろうと思っていたのだが、実際はかなり有利に闘いを進 められるのだ。 鍔迫り合いから相手の視界に入るギリギリの領域を読みきって、 ミューラは自分の左後ろやや上方に火球を生み出す。 騎士の意識がそちらに向いたことで、その反対側にかすかな死角 が生まれる。 その死角側、この場合は相手の左足の地面を砂に変えた。がくっ と足を取られる騎士。ぐらりと傾く身体の方向に、鎧の上から剣を 叩き付けた。があんと強い音が響き、衝撃で騎士が崩れ落ちる。剣 は鎧よりも硬度と柔軟性が高いミスリル。峰打ちしたくらいではび くともしない。刃を使わないのは、切れ味が鋭すぎて上半身と下半 身に分けてしまうからだ。 作り出した火球は、目の前で崩れた騎士に対してはブラフ。その 後ろから向かってきていた応援の騎士に向けて作ったものだ。ミュ ーラはファイアボールを、あえて対処できる速度と威力で二人目の 937 騎士に放つ。 彼は盾を使ってファイアボールを弾いた。明後日の方向に飛んで いくファイアボールの行く先を確認するいとまも無く、ミューラは 騎士の懐に潜り込んでいた。 ﹁く、この⋮⋮!﹂ ﹁遅い﹂ 騎士の後方に、膝のバネのみで跳ぶ。その位置からの攻撃を予測 していた騎士の反撃が一拍遅れて通過する。相手の背後を取りなが らくるりと体を反転させ、後頭部を打ち抜いた。延髄を狙わなかっ たのは、同じく相手を殺さないためだ。崩れ落ちる騎士を見て二の 足を踏む周囲の敵勢力。 ミューラは視線のみで彼らを牽制する。その鋭くも冷たい視線に、 幾人かが戦意を失ったのを感じた。 戦場に立つ以上、相手を殺すことに躊躇いを持ったりはしていな い。今回はなるだけ死者を減らすよう言われているのだ。クライア ントの要望に答えるのは冒険者として基本だ。 しかしミューラからすればそれだけではなかった。敵の返り血で 染まった姿を見せたくない少年がいるのだ。複雑な自分の心をもて 余した結果、彼女は﹁依頼だから﹂と自分を納得させたりしている のだ。 戦場で敵を殺さずにやれるうちは、それを貫き通してもいいと考 えていた。 知らぬ間に驚くほど向上していた自分の剣に自信を深めながら、 ミューラは己の師匠に目を向けた。 存在そのもので周囲を圧倒し、敵の攻撃を封じ込めているけた違 いの師匠を。 かつかつとブーツの踵が大地を叩く音だけが響いている。レミー アの周囲は静寂に包まれていた。 938 杖を構えるでもなく、スタイルのいい自身の身体を誇示するよう に、姿勢良く。 ﹁何だ。私も大概顔が売れているのだな﹂ レミーアは、近くにいた騎士を適当に選び、無防備に近寄った。 剣を振ればその美しい肌を容易く切り裂くことが出来る。しかし、 近付かれた若い騎士はぴくりとも動けない。しかし彼を責めるのは 酷だし、第一周囲の者にそんな資格はない。彼らも動けないのだか ら。 ﹁ふふ。小僧。私が何者か、答えてみんか?﹂ ﹁⋮⋮、ら、﹂ ﹁ら?﹂ ﹁落葉の魔術師⋮⋮レミーア⋮⋮サンタクル⋮⋮﹂ レミーアは目を細めて口の端をわずかに上げた。 ﹁大正解だ。以後、見知りおき願えるかな?﹂ 細く長い指先が、兜から覗く青年の顎をつい、と撫でる。ほほを 流れる汗を認めて、レミーアは指を離した。 ﹁では褒美をやろう。心して受け取れ﹂ 手を開いて青年の腹部に手を当てる。 炸裂音が響き渡り、青年は胃の中のものをぶちまけながら倒れた。 空気の塊を叩き付けるシンプルな魔術。 シンプルゆえに発動まで極めて高速な、風魔術師にとっては主力 となりうる攻撃魔術だ。 939 普通は一撃で相手を這いつくばらせるような威力は出せない魔術 だが、使い手が使い手である。彼女にとっては威力を分散させずに 放つ程度は訳無いのだ。 倒れた青年には目もくれずに、レミーアは眼前の敵集団に目を向 けた。 ﹁⋮⋮仮にも王国騎士団なのだろう? この程度の束縛、とっとと 解けぬのか?﹂ 広域制圧魔術﹃メデューサの抱擁﹄。 対象を複数取り、体感温度を下げる魔術である。人間は体温が下 がれば動きが鈍る。どちらかと言えば理屈ではなく感覚で理解して いること。 水属性で、上級魔術師であれば扱うことが出来るものだ。 もちろんこれにより敵の行動力が鈍る効果は望める。レミーアが 行使している魔術なのだからなおさら高い効力だ。だが、これで行 動を完全に止めることは出来ない。 メデューサの抱擁を行使するときに漏れ出たレミーアのプレッシ ャーが原因である。存在のみで相手の動きを封じるとはそういうこ とだ。 彼ら騎士はその辺の冒険者とは一線を画す強さを誇る。だからこ そ、分かってしまうのだ。レミーアがどれほどすさまじいかが。 ﹁まあ、良い。やる気がないのなら蹴散らすぞ﹂ やる気がないのではなく、やる気を出させていないのだが。もち ろんレミーアもそれを分かって言っている。 杖を振りかざし、レミーアは詠唱を始める。人の踏ん張りでは耐 えられない強風を叩き付けて薙ぎ倒そうと試みる。騎士は一般人と はレベルが違うが、今はメデューサの抱擁が効いているので実力は 940 大幅に下がっている。 強風ですっころんだ相手に対しては、電撃魔術で麻痺でもさせれ ばよいとレミーアは考えている。先日使用した魔術よりは範囲も劣 るが、それでも二〇∼三〇人なら一度に麻痺させることは出来ると 踏んでいた。 ふと、レミーアは強烈な魔力の奔流を感じた。そんじょそこらの 冒険者とは格の違う強さ。 もはや条件反射のレベルで対魔防御を行いながら、それでも編み 上げた魔術はきちんと発動する。 そうして放った魔術は。 途中で打ち消された。 ﹁⋮⋮ほう﹂ 凍り付いた自分の右手を見つめる。 自身の中にとどまる魔力を感じ取り、魔術が発動直前で止まった と正確に分析した。 この氷は単なる﹃フリーズ﹄ではない。魔術の行使を中断させる 阻害魔術がメインのものだ。 魔術とは、適切な呪文を経て精霊から力を借りることで発動する もの。 術者が使用したい魔術に該当する呪文を詠唱することで、身近に いる精霊に伺いを立てる。精霊が了承をすれば、魔術師は己の魔力 を魔術発動の代金として支払うのだ。 例えばファイアボールなら、付近にいる火の精霊の誰かが。カマ イタチ︱︱︱正式名称エアカッターならば同じく風の精霊の誰かが 応じる。魔力さえ支払えば、応えない精霊はいないようで、魔力と 適切な詠唱さえ行えれば魔術は確実に発動する。 その魔術を阻害する魔術は、確かに存在する。 レミーアも使用可能な魔術だが、誰にでも扱えるわけではない。 941 火、水、土、風のどの属性でも使える。それでも難易度はレミー アも特別と認めるほどだ。その理由は単純で、相手の魔力量と魔力 強度を上回らなければ阻害には至らないからだ。 相手が格下ならば確実に発動出来るが、その場合使ってもあまり 意味が無い。格下相手ならば正攻法で攻めたほうが確実かつ早い。 わざわざ相手の魔術を封じる理由は無い。 阻害魔術を使う適切な場面としては、自身に近い相手か、自身と 互角の相手と戦闘するとき。勝敗が確実でない相手に対し、勝率を 上げるために使うのだ。そしてそこに、難しさが内包される。実力 が近い、或いは互角という事は、とりもなおさず魔力量、魔力強度 も近い可能性が高い。 相手がどの程度の魔力を込め、どの程度の魔力強度で放とうとし ているのかを正確に読み取った上でなければ、貴重な魔力の浪費に 繋がる。レミーアとて、実力が近い相手に対してはよほどの事がな ければ阻害魔術を使ったりはしない。それよりもきちんと相手の魔 術を防ぐ事に注力し、相手の攻撃パターンを分析してそれに対応し たほうが確実だからだ。 つまり相手は、落葉の魔術師に対して阻害魔術を行使し、そして 成功させることが出来る実力の持ち主と言うことだ。 ﹁姿を見せろ﹂ レミーアはふっと笑い、顔を人垣に向ける。 せせらぎのようなざわめきを発する人垣を割って、一人の男が現 れた。 全身を青いローブに包んだ人物。フードの下から僅かに覗く顎に 蓄えられた髭を見て、レミーアは男だと判断した。 ﹁落葉の魔術師だな﹂ ﹁阻害魔術とは愉快な真似をしてくれる﹂ 942 低く嗄れた声がレミーアの耳に届く。誰何には答えずにそう告げ たことで、言外に肯定した。 ﹁我が名はミストフォロス。これから貴様を殺す者の名だ﹂ ﹁あいにく、どうでもいいことはすぐに忘れるたちでな﹂ ﹁⋮⋮優れたる魔術師が私だということを、証明させてもらおう﹂ レミーアは笑みを浮かべたまま、端正な眉を上げる。 ﹁貴様の命、もらい受ける﹂ ﹁それはそれは。では一つ、いいことを教えてやろう﹂ ﹁言い残したことがあるなら聞いてやる﹂ ﹁物心ついたときから八〇年。私はすべての時を魔術に費やしてき た﹂ 凍り付いたままの右手を前につき出す。そこから、目視できるほ どの魔力が奔流となって溢れだした。その魔力はやがて収束してい き、小さな輝きとなって空中に留まる。 ばきん、と。凍り付いた手を握り締め、レミーアはその光を拳に 収めた。阻害魔術を悠々と上回る魔力の強さ。 容赦なき圧力を撒き散らしながら生み出されたのは、人一人は軽 く呑み込むほどの巨大な水球。見た目通りの水量とはどう楽観視し ても不可能、間違いなく圧縮しているはずだ。あれが炸裂したなら、 一体どれだけの破壊がもたらされるだろうか。 無詠唱で唱えてよいものではない。 ﹁ミストフォロスとやら。出し惜しみすることなく掛かってくるの だ。この私に決闘を挑んだ以上は、あまり失望させてくれるなよ?﹂ ﹁⋮⋮叩き潰す﹂ 943 ﹁その意気だ﹂ 二人から放たれる魔力が俄に濃密になっていく。 ﹁退け!﹂ ﹁巻き添えを食うぞ!﹂ 王国軍、貴族軍両部隊の隊長の悲鳴のような命令が響き、双方が 慌てて二人から距離を取り始めた。 魔力を活性化させて相対する上級魔術師二人を、ミューラは思わ ず足を止めて眺める。 師が全開になるなど、アズパイア防衛戦以来、人間が相手では、 ミューラが知る限りでは初めてのことだ。 太一というイレギュラーを勘案しなければ、人間、エルフ、ドワ ーフと人型種族の中では間違いなく最強クラスの実力を誇る彼女の 師匠。 魔物相手の戦闘は見たので分かる。では高い実力を持つ人間相手 ではどうだろうか。 レミーアがどのような戦いをするのかとても興味がある。後学の ため、近くで見学したいと考えるのは普通のことだろう。 しかしこの場を放り出すわけにはいかない。ミューラがいること で、この付近の情勢は王国軍に有利になっている。ここを離れてし まえば、貴族軍の反撃が始まるのは目に見えている。彼女一人のワ ガママが通用しないことくらいは考えるでもない。 それに、どうあってもこの場を離れられない理由が、ミューラに はあった。 944 ﹁お久し振りね﹂ 兵士たちに紛れて、しかし隠しきれない特徴のある気配。 誰に向けたかも分からないミューラの言葉に、その気配の持ち主 がピクリと反応した。 ﹁もう種はバレてるんだから、出てきたらどう?﹂ 相変わらず、顔はレミーアがいる方向を向いている。しかし、意 識は完全に貴族軍の一点に向いていた。 どうやら出てくる気は無いようで、一瞬揺らいだ気配も、今は平 静だ。 それならそれでいい。思い切り罵倒してやるだけだ。 ﹁性格だけじゃなくて往生際も悪いのね。元シャルロット姫直属部 隊、裏切り者のミゲールさん?﹂ ざわり、と。王国軍側がざわめいた。 王族の直属部隊といえば、実力も忠誠心も騎士の中でトップクラ スの者だけが手中におさめられる名誉である。 そこには無論のこと王族からの信頼も含まれている。つまりミゲ ールとやらは、シャルロットの信頼を裏切ったことになるのだ。 ﹁裏切り者? 言葉には気を付けてほしいな。そもそも、俺が忠誠 を誓うのはドルトエスハイム閣下ただひとりだ。例えシャルロット 様であろうと、俺の忠誠を買うことは敵わん﹂ ﹁よく言うわ。公爵が下野したら裏切るんでしょう?﹂ ﹁そんなことはないさ﹂ ガチャガチャと金属の擦れる音を鳴らして、一人の騎士が歩み出 945 てきた。 やはり。 その気配、背格好には覚えがあった。 ﹁根拠が希薄ね。一度あることは二度、三度とあるのよ﹂ ﹁なんとでも言うがいい。それよりもだ﹂ ミゲールは腰の剣を抜いた。やる気はあるらしい。背後からぶす り、というのは、彼が描くシナリオだったのだろうが。それが潰れ た以上、戦うしかないのは明白である。 ﹁よく俺のことが分かったな﹂ ミューラは朗らかな笑みを浮かべ、 ﹁だって貴方の薄汚い気配、憎たらしくて一度知ったら忘れられな いわ﹂ 痛烈な毒を吐いた。 ミューラとしてはここで会ったが一〇〇年目、である。ここぞと ばかりに罵倒してやるのだ。それで逆上するならそれまでの相手。 まあもっとも、 ﹁お前のようないい女に覚えててもらえるとは光栄だな。ま、ヤる だけの肉人形としてなら魅力的だ﹂ そんな安価な挑発に乗ってくるとは毛先ほども期待していなかっ たが。 ﹁残念だけど、純情を捧げてもいい、って相手には一人しか出逢っ 946 てないわ。貴方じゃゲス過ぎてとてもとても﹂ ﹁そうかそうか。ならばお前が負けたら両手足を切り落として、ぼ ろきれになるまでもてあそんでやろう﹂ 口汚い罵り合いは、実は相手が隙を見せるかどうかのジャブの応 酬。少しでも頭に血が昇ろうものなら、それがそのままつけこまれ る隙になる。 口を動かしながらも、お互い相手の一挙一投足に神経を張り巡ら せているのだ。少しでも心を乱した方の負け。単なるなじり合いは、 実は戦う前から勝敗を決めかねないギリギリのやり取り。 ﹁ふふ。やれるものならやってみなさいよ。裏切り者さん?﹂ 腰を落とし、剣を斜めに構え、剣越しにミゲールを見据えるミュ ーラ。 ﹁やってやろうじゃないか。小娘が﹂ 剣を両手で持ち、切っ先を地面に向けて構えるミゲール。 ミューラは攻守ともにもっともバランスのよい構え。ミゲールは 王国剣の型の一つ。 ピイン│││ 張り詰める。 ぎしりと空気が軋んだ。 数メートルの空間を挟んで睨み合う二人が発する強烈な覇気だ。 ﹁バラバラにしてやる!﹂ 激しく、しかし綿密に練り上げられたそれは強化魔術。 相当の熟練度だとミューラは直感で理解。裏切り者であろうと、 947 王族の直属だったのは伊達ではないようだ。 ﹁生まれて来たこと、後悔させてやるわ!﹂ だが、ミューラにとってはそれくらいでちょうどいい。並みの騎 士では最早相手にならない。ミゲールがどれだけの実力を持つのか とても興味があった。 土属性の強化魔術を全身に行き渡らせる。無駄の一切無い美しい 強化術式を目の当たりにした周囲の兵士たちは、ミューラが今まで 手心を加えていたことを知った。 二人が交わす視線が火花を散らす。ミューラとミゲールには、既 に周囲は見えなくなっていた。 948 マーウォルトの会戦 三 戦とは、人が死に至るのが普通の非日常である。太一と奏が生活 していた日本ではそうだった。 世界最先端の科学技術を誇り、世界でも先進国の位置を確たるも のとしていた日本。そうそう不自由も無かったし、事故や重い病気、 或いは不運にも事件に巻き込まれたりしなければ、当たり前のよう に寿命を全うできる世界である。 太一と奏が暮らしていた街は、東京に比べれば田舎だが、不自由 はしなかった。 この世界に来て、改めて故郷がどれだけ恵まれていたかが分かる。 遠くに行くのにもっとも有効な手段は馬車。海を渡るには船。魔 術をもってしても空を行き来する技術は確立されておらず、膨大な 移動時間が掛かるのだ。 更に顕著なのは医療だ。医療現場で有効な魔術を使える魔術師は そこまで多くはない。当然安売りされる技術ではなく、膨大な費用 が掛かる。 その代わりに発達したのが魔法薬を利用した治療である。それに よって致死性の病は目に見えて減ったのだが、それも今現在、安く はない治療費を要する。 特にパンデミックに襲われれば万単位で人が死亡することも珍し くないという。 そういう観点で言えば、やはり日本は恵まれていたのだ。 そんな先進国日本に住む人々は、この世界の人間からすれば甘や かされた存在と言えるだろう。太一も奏も、何の力も持たずにこの 世界に来ていたら、今ごろは死んでいたかもしれない。 手にした力は、語る必要すらないほどに強大だ。 だからこそ戦場をのんびり散歩でもするように歩けるというもの だ。 949 奏は右手にルーンスタッフを持って。 太一は腰の剣を抜きもせずに手ぶらで。 試しに適当な敵騎士に喧嘩を吹っ掛け、問題ないと判断したゆえ のことだ。 太一から見て騎士たちの動作はスローモーションに等しい。 奏からすればそこまで遅くは見えないとのことだが、それでも小 さい子に喧嘩を吹っ掛けられるようなものだと言った。 太一と奏に攻撃を仕掛けてくる者はもういない。 あまりに自信満々に戦場を歩く上、実際に攻撃を仕掛けた騎士が 瞬殺で気絶させられてしまった場面を見て、けた違いの相手だと悟 ったゆえだ。 戦は数だとか、大局観だとか、或いは補給だとか。そんなものが ばかばかしくなるほどの力の差。 常識外の力でもって正攻法で破られれば、抵抗する気などあっと いう間に失せてしまう。 為す術無し。 まさかそれを地でいく敵を相手にするとは、貴族側も夢にも思っ ていなかった。 もちろん何もせずにこうなった訳ではない。貴族軍も必死に抗っ た。 太一を倒すのは厳しい。では奏ならどうか。 その選択は一見正解に見えて、実は大チョンボであった。 彼女を取り巻く上下左右の空間全てが、太一の制空権内。 自分に来る攻撃への対処は甘いくせに、奏への攻撃は牽制のスト ーンブラストすら通さない。今までに見たこともないほど鉄壁だっ たのだ。 奏の方が呆れて﹁過保護すぎだよ﹂と諌める始末。その一言だけ でもどれだけの防御なのか想像に難くない。 二人の周囲を取り囲むように兵士たちは臨戦態勢を保つ。いつ彼 らのどちらかが飛び掛かってくるか分からないからだ。 950 警戒心を三六〇度全方位から向けられている当の本人たちは、ま るで意に介していなかった。太一はそれこそ、脅威を感じようが無 かったし、奏は見られるのは好きではないが、太一のそばというこ とで安心しているのだ。 やがて、二人が足を止めた。 のんびり歩いていたとはいえ、戦場をこれだけの速度で歩ける者 などいない。 ﹁ここでいっか﹂ ﹁うん﹂ 二人は顔を見合わせて、そして視線を敵兵士に向けた。 ﹁皆さん。引き波って結構強いの、知ってましたか?﹂ 波というからには水系魔術か。しかし、艶やかな黒髪を後ろで結 った美少女が何をせんとするのか、分かる者はいなかった。 奏は右手の平を騎士たちに向けた。 ﹁リベレイトスペル。タイダルウェイブ﹂ どばあ、と音を響かせて、膝下まで届くような高波が騎士たちを 襲う。流石に全方位へは放たれなかったが、その波を受けた数十名 はその場で踏ん張ることを余儀無くされた。 ﹁ただの高波だ! 強化して耐えれば問題ない! 隊列を崩すな!﹂ 隊長格の男が叫ぶ。 膝下程度の波で何を大袈裟な、と思うかもしれない。しかしこの 波は自然現象ではなく奏が放った魔術。波が押し流そうとする強さ 951 は見た目以上である。 必死に耐える騎士たちに、奏はくすりと笑った。 ﹁私は、引き波、と言いましたよ?﹂ 突如、波の進行方向が反転した。力が掛かる方向が変われば、そ れに対する対処も変わる。押し寄せる波よりも強い引き波に、少な くない人数が足を取られてすっ転んだ。 ﹁では、続けて﹂ 奏が今度は左手を前に掲げる。 ﹁リベレイトスペル。ショック﹂ 空気が弾ける。転んで体勢を立て直しきれていない者は盛大に、 何とか踏ん張った者でも耐えきれずに吹き飛ぶ。 一見して逃げ場のないはずの包囲網の一部に、容易く大穴が空い た。 これを一人たりとも大きな怪我をさせずにやられては正直たまっ たものではない。 奏の実力を考えれば、本気で攻撃してきていれば少なくない犠牲 者が出ているということ。つまりは相手を傷つけることなく、ここ までの戦果を挙げているのだ。そして何より恐ろしいのは、今の今 まで太一が殆んど戦闘に参加していないことだ。タイダルウェイブ でバランスを崩した兵たちに対し、太一が剣を抜いて切り捨てに来 ていたら。 手加減されていながらこれだけの実力差。 普通なら、兵士たちの心が折れていても不思議ではない。 それでも、放棄する者は未だに出ていない。 952 まるで奇跡のような事実だが、ある意味では必然と言えた。 太一も奏も、人を殺すのを忌避しているのだ。傷付けてしまうの はやむを得ないと割り切っている節があるが、命を奪うのは是とし ていない。 死ぬ危険が無い以上、退却する理由が見付からない。ただし、こ の後もからかわれるような攻撃を受け、プライドがズタズタになる 可能性はあったが。 そうなると、逆上させずに戦線を保ち続けることが、貴族軍にと って大切になる。下手なことをして、彼らから箍を外してはならな い。 屈辱的な選択だが、彼ら二人に弄ばれることで、足止めをするこ とが可能なのだ。こんな常識外の二人に思うように動かれたら、貴 族軍はたちまち潰走を余儀無くされるだろう。 戦いに負けても戦に勝てばいいのだから。 そう、思っていたのだが。 ﹁うーん。いつまでもここで立ち往生してる訳にもいかないよなあ﹂ 太一はふと周囲を見渡した。 相変わらず一定の距離を保って、敵軍に囲まれている。それをま ずいとは思わないし、一定数の敵兵士を足止めしているとなれば、 それなりの効果があるのだろう。 こちらから加えている攻撃は、はっきり言えば攻撃というには生 ぬるい。 足止めをする役割ならそれでもよいだろうが、求められている役 割はそれではない。果たせていない、という思いが太一と奏の中に ある。 騎士や宮廷魔術師では相手するのが辛い敵がいるというから、そ の進行方向にかち合うよう進んできたのだ。ここまでやって来て、 その目標に出会えていない。 953 もしかしたら別の場所にいるのではないか。 目標が途中で進路を変えたのではないか。 そんな思考に包まれていた。 もしも出会えないとすれば、王国軍に少なくない被害が出るだろ う。 そうなる前に食い止めなければならないのだが。 ならば、どうするか。 ﹁炙り出すか。奏﹂ ﹁ん?﹂ ﹁腹に力入れとけ。無差別に放射する﹂ ﹁オッケー﹂ ﹁とりま七〇でいいかな﹂ 太一はおもむろに右手を前に出した。 ついに召喚術師が自分から動く。 それを見て身構える騎士たちには目もくれない。 狙うのはそんなやつらではない。 太一はその手を斜め下に払った。 魔術が使われた訳ではない。 天変地異が起きた訳でもない。 しかし、暴風が荒れ狂った。 何が起きるか知っていた奏が、猛烈な風に吹かれたかのように耐 えている。 強大で異様なプレッシャーが四方八方に放射され、それを受けた 騎士たちの足がすくんだ。 奏のように耐えられる者はそういない。敵味方を問わず、圧力に 押されて次々と膝をついていく。 エアリィを介して放つものよりは劣るのだが、それでも人外の魔 力であることは間違いない。 954 これは感覚だが、騎士、宮廷魔術師のレベルでは、七〇の強化で 放つ威圧には耐えられない。 それよりも一歩二歩、いや、一段から二段上のレベルでないと厳 しいだろうというのを、何となくだが掴んでいる。 ﹁見付けた﹂ だから、この威圧が届く範囲で耐え、基準値を上回る強さ、かつ 騎士、宮廷魔術師の格好をしていない者がターゲットだ。 ほどなくして、目標は見つかった。 ﹁びっくりしタ。まーさかこんだけの威圧されるとはネ。効いてる フリすりゃよかったヨ﹂ 届いた声は女のものだった。 全身を獣の毛皮に身を包み、鮮やかな赤い液体が滴る戦斧を片手 で担ぐ女。 顔には何かの模様と思われる赤いペイントが右耳から左耳を横断 してなされている。見ようによっては愛嬌がある顔立ちと評するこ ともできるだろうが、出で立ちがそれを躊躇わせた。 ﹁俺の情報は行ってるだろ? やるだけ無駄じゃね?﹂ 淡々とした降伏勧告。しかし女は明朗に笑う。 ﹁ああ、届いてるヨ。けた違いの強さを持つ、人を殺せないガキど もとネ﹂ ﹁⋮⋮﹂ その通りであるがゆえに、太一は反論しなかった。 955 ﹁生憎、死なないと分かってればどんだけ威圧されても怖くはない んでネ。坊やは無理でも、そこのお嬢さんはやらせてもらうヨ﹂ ﹁⋮⋮あんたに坊やなんて呼ばれるほど、歳なんて離れてねぇだろ﹂ ﹁クフフ。女に歳を聞くなんて野暮ったいねェ﹂ 背格好は奏よりも低い女は、片手で悠々と戦斧を持ち上げ、真横 に薙ぎ払った。大したパワーの持ち主だ。 ﹁それとも、坊やがあたしの相手をするのかナ? まあ勝てないだ ろうけど、簡単には負けてあげないヨ?﹂ この女の自信はどこから来るのだろうか。駆け引きの経験値では 圧倒的に劣る太一には判断がつかない。 彼女の言葉を聞く限りは、太一の威圧はそれなりに効果があるだ ろう。 ならばエアリィを全力で喚び出して強制的に黙らせようとも考え たが、それはエアリィ自身に止められた。 エアリィ曰く、影響を与えられる範囲が中途半端で、戦場が大混 乱に陥るというのだ。エアリィが様子を見たところ、王国軍が有利 に事を運びつつあるらしい。そこで太一が闇雲に威圧すれば、スミ ェーラの作戦を台無しにしてしまう可能性が高い。 客員とはいえ王国軍の一員。下手に和を乱すような真似は慎むべ きだ。人の命が天秤にかけられている現状では特に。 あれやこれやと考えて、太一は思考を強制終了させた。元々頭が 悪いのだから、難しいことは分かりはしない。 ぐだぐだ考えるよりは、目の前の女を地面に這いつくばらせた方 が早い。女を殴るのは気が引けるが、あの戦斧は既に何人かの血を 吸っている。これ以上のさばらせれば被害が拡大するだけだ。 956 ﹁よし分かった。一撃で叩き伏せてやる。⋮⋮死んでも知らねえか らな﹂ ﹁⋮⋮楽しみだネ﹂ 太一が決めた覚悟が本物だと感じ取ったのか、じわりと女の背を 嫌な汗が湿らせた。 この女は奏に手をかけると明言した。やられる前にやるしかない。 人殺しになることを是とする気はないし、その後の精神状態を考え れば気が重いが、奏を喪うよりは数倍マシである。 殺すことをいとわないなら、七〇の強化のまま戦えばいい。 そこまで決意したところで、くい、と袖口を引かれた。 ﹁ん?﹂ 見ると、奏が太一の服を摘まんでいる。太一の目を真正面から見 据え、奏はふるふると首を振った。 ﹁どうしたんだよ﹂ ﹁落ち着いて太一。あの人とは、私がやる﹂ 彼女が何を言ったのか、太一は理解するまでたっぷり三秒ほど要 した。 ﹁何言ってんだよ。俺がやった方が確実だろ﹂ ﹁だから、落ち着いて﹂ もう一度同じ言葉で諭される。女にはしっかりと意識を向けて隙 を見せないようにしながら、奏の言葉にも耳を傾ける。 ﹁あ、俺器用﹂などと、至極どうでもいい感想を抱いた。 957 ﹁後ろから二人、強い人が隙を狙ってる。気付いてない?﹂ ﹁⋮⋮!﹂ 気付いてなどいなかった。目の前の女に意識を集中させてしまっ ていた。 ﹁流石に二人相手は私もきついかも。出来れば一対一の方がいいか な﹂ それは確実性を重視した意見であり、理にかなっていたため、太 一は咄嗟に反応ができなかった。 ﹁危なくなったらすぐ太一のとこに行くから。ね?﹂ 危ないだろ、と言おうとして予防線を張られてしまい、太一は奏 の申し出を受けざるをえなくなってしまった。 奏は一歩足を前に踏み出し、一度息を吸って吐く。そして、宣戦 布告をした。 ﹁というわけで、貴女の相手は私がする﹂ 奏の言葉を聞いた女は、ホッとした様子を隠すことなく笑った。 ﹁クフフ。いいのかナ? キミも強いのは知ってるけれど、坊やと 比べれば雲泥の差だヨ?﹂ ﹁分かってる。アレは特別﹂ 稀代の召喚術師をアレ呼ばわり。女はまた笑う。 ﹁面白いねキミ。若いのにいい度胸してるヨ。その度胸に敬意を評 958 して、名乗らせてもらうヨ﹂ 女は戦斧を水平にピタリと構え、切っ先を奏に向けた。 ﹁あたしの名前はスソラ。見ての通り重戦士。冒険者ランクはA。 主に傭兵とか護衛なんかをやってるヨ﹂ ﹁何か個人情報たくさん。いいのかな?﹂ ﹁変なこと言うネ。冒険者なら名を売ってナンボじゃないカ﹂ ﹁それもそっか﹂ 日本では騒がれた個人情報保護だが、冒険者としては当てはまら ない。名前が売れた方が仕事が来て儲かる。考えれば当たり前のこ とだった。 ﹁私の名前は奏 吾妻。魔術師。冒険者ランクはC﹂ 名乗られたので名乗り返す。スソラは目を丸くした。 ﹁チグハグだネ。あんなに強い魔術を連発できるのニ﹂ 奏の強さならもっとランクが高くてもいいと言っているのだ。強 さだけを考えれば自分がCランクに収まるとは思っていないが、特 に固執していないので感慨はなかった。 ﹁まあ。そんなこともあるんじゃない?﹂ ﹁ううン。レアケースだネ﹂ ﹁そう﹂ これから戦闘をするとは思えないほどに和やかな雰囲気は、不意 に終わりを告げる。 959 ﹁さア。やろうカ﹂ ﹁⋮⋮﹂ 戦斧を肩に担いで半身を斜めにし、ぐっと構えるスソラ。 奏も左手にルーンスタッフを構え、右手を握る。 正直に言えば怖い。 あんな血がべっとりついた刃を向けられて、少しでも気を抜けば 足がすくんでしまいそうだ。 だが、奏は逃げるわけには行かなかった。 昨夜の暗殺未遂。奏が狙われた事を知った太一がキレた。奏が彼 と知り合ってからこれまでで、太一がキレるのを見たのは二回目だ。 何だかんだで自分の感情コントロールが上手い太一が、自分の衝動 を抑えきれないほど我を忘れるところを見たのは久しぶりだ。それ だけ重要だったのだ。 自分のためにキレてくれたのが嬉しくもあったし、一方で物凄く 衝撃でもあった。太一の中で奏の存在が大きい事を知れたのは喜ぶ べき事。 しかしそれゆえに、太一は奏のために己の手を汚す可能性が高い ことを知った。 それを背負おうとしてくれる太一の心意気は嬉しかったが、同時 に太一だけに背負わせるのは納得し難かった。 守られるのは別に構わないのだが、か弱い女の子でいいと思った ことは一度もない。奏は太一と対等でありたいと考えている。自分 と言う堅固な芯を持った女の子でありたい。 そのためには、いつまでも太一におんぶにだっこではダメなのだ。 幸いにも奏には、あのレミーアに太鼓判を押されるほどの魔術の 実力がある。 自分の強さにそこまで自信を持っているわけではないが、それで もレミーアの言葉は信じられる。 960 ﹁大丈夫。勝てる﹂ 小声で呟いたので、スソラには聞こえていない。 重戦士が魔術師と戦う場合は何に一番注意を払うだろう。 奏の思考は、既に対スソラ戦に大幅に傾いていた。 961 マーウォルトの会戦 四 奏がスソラと言葉を交わしているのを少しだけ眺めて、太一はく るりと振り返った。こちらの隙を狙っていた二人というのは、存外 すぐに見つかった。 こちらに目を向けているのは、一目見れば分かる高級そうな鎧に、 これまた高そうな剣を腰にさした若い男。 そしてもう一人はあご髭を蓄えた初老の男。彼は手に剣などは持 っておらず、代わりに短めの杖を手にしていた。 雰囲気で、二人が只者ではないと分かった。 確かにこの二人を奏一人で相手するのは辛いだろうと太一は理解 する。 スソラも決して楽な相手ではないが、まだマシというものだ。 ﹁お前が召喚術師か。思ったより貧弱だな﹂ 若い男がそう言った。 そんなことを言われても返事のしようがない。いったいどんな姿 を想像していたのか。 魔力強化、或いは強化魔術を使える人間にとっては、筋肉などあ まり意味をなさないのは太一もよく分かっている。 本人に太一を嘲るような意図はなかったのだろう、淡々としたも のだったが。 ﹁そういうあんたはどこの誰さんだ?﹂ 太一が得た知己に、彼の顔は記憶にはない。つまりは初対面だ。 ﹁私か。私はマルケーゼ。侯爵だ﹂ 962 これはまた随分と大物が出張ってきたものだ。この国で数えるほ どの者にしか与えられない由緒ある爵位。やんごとない身分の男が、 目の前に立っている。 ﹁ふうん。で、その侯爵様が何してんだこんなとこで﹂ ﹁決まっているだろう。陣頭指揮を取りに来たのだ﹂ さも当然と言わんばかりの口調。だが、太一はそこに違和感を覚 える。何に対しての違和感かは分からないのだが。 ﹁大将が最前線に出てくるのは危ないんじゃね?﹂ 戦国時代の戦では、大名は本陣から指揮を執るのがメインだった 気がする。積極的に戦場に出て敵を切り伏せた武将もいたかもしれ ないが、太一の記憶には無かった。 ﹁少年の言う通りでございます旦那様。貴方がここまで出てくるな ど⋮⋮﹂ ﹁かたいことを言うな。押されているのだから何かを変えねばなら んだろう﹂ 老人の諫言に、マルケーゼは飄々ともっともらしいことを言った。 じゃじゃ馬な主だ。 ﹁あんた苦労してるんだな﹂という言葉を視線に乗せて老人を見 る。老人が﹁分かるかね?﹂と視線で答えてきた。 まあ、彼らの都合など太一には知ったことではない。 敵意を見せてくるのなら相応に応じるだけだ。後ろでは奏が戦い を始めようとしている。いつでもフォローが出来るようにしておく 必要があるのだ。 963 ﹁まあ何でもいいけどよ。こっちも忙しいんだ。どうすんのか決め ろよ﹂ 要はやるのかやらないのか。 やるなら適当にあしらう。 やらないなら気絶させておしまいだ。敵軍の大将をわざわざ見逃 す理由はない。これがスミェーラなら問答無用で首を獲りに行くだ ろう。太一であったことを幸運と思うべきかもしれない。 ﹁無論やるとも。せっかくここまで出てきたのだからな﹂ ﹁勝ち目など、ありませんぞ?﹂ ﹁分かっている﹂ 老人の言葉をマルケーゼは一蹴し、剣を構える。それを見て老人 はため息をついて、杖を構えた。 実力が上でも、ミスをすれば負けることは多々ある。油断が負け に繋がることもある。どんなベテランだろうと、人間である限りミ スをゼロにすることは出来ない。 だが太一に限ってはそれに当てはまらない。ミスがこうとか、油 断がどうとか、問題は最早そこではないのだ。 七〇の強化を施した太一に対して奏が全力で魔術を撃ち続け、掠 り傷がつけば御の字だ。 奏が扱える魔術の中で最強の威力であるレールガンでも通用しな い可能性が高い。 威力だけならレミーアをも上回ったレールガンでさえ通じないの だから、さもありなん。 極端に言えば、この戦場において七〇の強化をして突っ立ってい るだけで、太一の安全は一〇〇パーセント確保される。 マルケーゼの強さがどの程度か分からないが、とりあえずでも五 964 〇強化しておけばいいだろう。必要もないのに﹁魔力の節約﹂と考 えている。 ﹁とりあえず、俺からは攻撃しない。好きなように攻めてこいよ﹂ ミスリルの剣を抜く。 攻める気がないというのは本音だ。やりたいようにやらせた後で、 適当に打ち倒して縛り上げればいいと考えている。王国軍の隊長格 の誰かに引き渡せば終了だ。 ﹁舐めてくれるな。油断すると死ぬぞ﹂ ﹁それ、とりあえず攻撃が通ってから言えよ﹂ スミェーラ相手でも四〇あれば勝てる事を考えれば、五〇はオー バーパワー。ここで侯爵を適当にあしらうだけでも敵の指揮系統は 崩れるだろう。 そして、彼らは馬鹿ではないのが顔を見れば分かる。 指揮系統を崩すまいと打ってくる手があるはずだ。それを叩き潰 し、この付近一帯の敵戦線を瓦解させる。太一が作った解れを見逃 すスミェーラではないだろう。 最悪強引に奏を連れて離脱することも考えながら、太一は剣を構 えた。 ◇◇◇◇◇ 965 太一たちが敵のロイヤルストレートと向き合っている頃。 王国軍陣営の奥深くに設営された野戦病院は喧騒と怒号に包まれ ていた。 ひっきりなしに運ばれてくる傷付いた兵士たち。文字通り医療班 は休むまもなく行ったり来たり。切り傷に刺し傷は当たり前。打撲 に火傷、凍傷を負った兵士たちの姿も多い。足や腕がどこかに行っ てしまった兵士も珍しくはない。 だが、ここに担ぎ込まれる兵士たちは、幸運な方である。 野戦病院から一〇〇メートルほど離れたところ。そこは懸命な治 療も虚しく命を散らした者たちが横たわっている。 戦なのだから死ぬのも当然。 それを覚悟して騎士として、宮廷魔術師として志願したのだから 本懐なのかもしれない。 そして、遺体安置所で眠る彼らもまた、境遇としては幸運である。 もっとも不幸なのは、戦場で果て、誰にも拾われない屍である。 彼らに比べれば、弔ってもらえるだけマシというものだ。 傷付く兵士たち。いや、国の民を見て、シャルロットは唇を噛み 締めた。 頭では理解していても、感情にも落とし込むのは至難の技だった。 この時ばかりは、役に立たない己の時空魔術師としての資質を呪 った。 珍しくなくてもいい。息を切らせ、額に汗をにじませながら治癒 魔術を使い続けるエフティヒアのように、役に立つ属性がよかった。 そしてそう考えること自体が、シャルロットの心の弱さそのもの なのだ。 こんなことでは、己が背負った運命を全うできるのだろうか甚だ 疑問。 966 その運命を考えれば、兵士たちの死すら、いや、エリステインと いう国すら些細なものとして捉えられなければならないのだ。 もちろん自身の命など、とるに足らない糧でしかない。 自分自身の命などいつでも捧げてもよい。しかし、自分以外の命 が犠牲となり散るのがここまで辛いものだとは思わなかった。 ﹁姫様。少しお休みになられてください﹂ 主の顔色が普段より悪いと判断したティルメアがそう進言する。 ﹁⋮⋮大丈夫よ﹂ ﹁お言葉ですが、とてもそうは見えません﹂ やっと紡いだ強がりを瞬時に見破られ、シャルロットは苦笑した。 このメイドは少し優秀すぎる。自分には勿体無いほどに。 ﹁ううん。大丈夫﹂ シャルロットはあえて同じ言葉を使った。 ﹁皆に苦しい思いを強いているのに、私だけ休むわけにはいかない わ﹂ 身も蓋もないことを言えば、シャルロットがいるから何の役に立 つか、というレベルである。 それでも、兵士たちに自ら声をかけたり手を握って励ましたり。 それが、自己満足でしかないと分かっていても。 彼女にしかできないこともあるかもしれないと信じている。 贖罪にすらならないと分かっていても。 967 ﹁⋮⋮無茶だと判断したら、無理矢理にでも休んでいただきます﹂ ティルメアはそう言って引き下がった。 ﹁ありがとう。ティルメア﹂ 本心から述べた謝辞に、ティルメアは深々と礼をした。 ◇◇◇◇◇ 櫓から戦場を眺めていたスミェーラは、戦況が大きく王国軍側に 傾き始めていることを読み取っていた。 二〇分位前から、点の攻撃から面制圧に切り替えろと下した命令 が実行されている。 貴族軍の分布範囲を一気に削りに掛かっているのだ。 敵の攻撃を最小の被害で乗り切れた要因は、一歩引いた位置でタ クトを振るうベラの功績だ。自軍が薄くなるや否や即座にカバーに 入る素早さと、優先順位の付け方の正確さなど諸々には、流石のス ミェーラも感嘆ものだ。 スミェーラがいなければ、ベラが王国軍総司令官でもおかしくな い。 パソスも十分資質があるが、彼はそう言った役割よりも、前線指 968 揮官の方が性に合っているのだろう。事実、攻撃が得意のはずのパ ソスが、防御に専念する作戦を遂行して十分に力を発揮している。 スミェーラの持ち場で同じことをやってそれが上手くいったかは 疑問が残る。 指揮を執る貴族たちも無能ではない。だが本職であるスミェーラ、 パソス、ベラの方が上手だったというだけだ。 ﹁被害状況は?﹂ ﹁はっ! 死者三〇〇名! 負傷者一二〇〇名! 内重傷者は四〇 〇名! 全て概算となっております!﹂ ﹁ご苦労﹂ ﹁はっ!﹂ 今回スミェーラの副官を務める兵士が、敬礼をして一歩後ろに下 がった。 ﹁勝ちは見えてきた、か。そろそろ決めさせてもらうぞ、貴族ども﹂ こういう時ほど油断が生まれやすいものである。日本の故事にも、 ﹃勝って兜の緒を締めろ﹄という金言があるくらいだ。 凡庸な将ならその言葉は宝となるだろう。だが非凡が鎧を身に付 けているかのような鉄の女・スミェーラにはそれは当てはまらない。 ﹁全軍に司令を出せ。中央に楔を打ち込んだ後、一斉に攻勢に出る とな﹂ ﹁はっ! ⋮⋮して、詳細はいかように?﹂ 具体的な指示がなく、敬礼したまま直立不動の副官に、スミェー ラは答える。 969 ﹁突撃能力に優れた兵を三〇〇、馬を三〇〇集めろ。内五〇は宮廷 魔術師だ﹂ ﹁承知しました﹂ ここまで来て、奇策を選ぶ必要はない。短期に決着をつける。平 凡な手を打てることが、スミェーラのすごさだ。 スミェーラは剣の柄に手を置き、ニヤリと笑った。 風にあおられてマントがたなびく。 ﹁この場はお前に任せるが、基本方針は一つだ。敵を蹴散らせ﹂ ﹁はっ!﹂ 任せるとは、つまり。 ﹁楔は、私だよ﹂ ◇◇◇◇◇ マルケーゼと剣を交える太一を、エアリィはじっと見つめていた。 今までと変わらぬ光景。一〇年前も、一〇〇年前も、一〇〇〇年 前も。 それぞれの時代で、世界各地で戦は起きていた。大国同士の大戦 970 争。小さな国での小さな内戦。 観察していた面白そうな人間が戦地に赴くのについて行き、戦争 そうして観察していた者が、エアリィの目の前 を眺めるのは過去何度あったかな⋮⋮と考えたところで、エアリィ は思考を止めた。 で命を落とす場面が幾度もあったと気付いたからだ。 ある時観察していた青年は、故郷に結婚を約束した恋人を残した まま、敵の罠から味方を庇って命を散らした。 次に見付けたエアリィ好みの可愛らしい少女は、敵軍に占領され た街で捕らえられ敵兵士に散々弄ばれた。人生に絶望した彼女は、 最後は割れたガラスの破片で己の命を絶った。 次に出会ったのは優しげな笑顔が魅力的な老人。 人のためにと周囲に奉仕する心と、実行する姿が街の人気者だっ た。彼はかつては戦場でたくさんの人を殺した兵士。その罪滅ぼし になればと、懊悩とした老後を歩み、天命を全うした。 目の前で死んでいく人を助けられもしなければ、声をかけて話を 聞いてやることすら出来なかった。 声をかければそれが届く。 ただそれだけのことなのに、こんなにもいとおしいだなんて。 数千年という悠久の時を刻んだエアリィは、いつも孤独だった。 かつて現れた召喚術師は、全員エアリィと契約するに足る力を持 っていなかった。精霊の声は確かに聞こえている。だが、中級クラ スの精霊になると声が届かない。エアリィのような上級精霊の声を 聞き届ける事が出来るだけのキャパシティは、もちろん持っていな かった。 エアリィ以外にも数体の上級精霊がその召喚術師の元に集ってい たが、全員が肩を落としてその場を去っていたのだ。 だから、太一が現れた時にも、殆どの精霊は彼の元に現れなかっ た。かつての経験から、諦めてしまっていたのだと思う。 かくいうエアリィも、これでダメなら二度と期待は持たないと、 そういう意識を持った状態で、気付けば太一のところにいた。 971 大して期待もせずに声をかけてみる。 そして太一が反応したときには心底驚いた。 まさか、声が届くとは。 当時の太一はまだ魔力というものを知っただけ、というかなり未 熟な状態。 なのに、上級精霊たるエアリィの声が届くとは。その後は太一の 元に張り付くように共にいて、チャンスを窺うことにした。太一が 寝入った後、声をかけてみる。夢の中の太一に、声が届くように。 最初に太一に声が届いてから、他の精霊が太一に声をかけなかっ たのは、実はエアリィが他の精霊に自粛させていたからだ。例え属 性が違っても、上級精霊の言葉を聞き入れないわけにはいかない。 もちろんそれは意地悪などではない。⋮⋮いや、少なからず独占 欲があったことは認めよう。 太一なら、中級や下級の精霊の声ならすぐにでも聞くことが出来 ただろう。 もっと早く、召喚術師として力を発揮することは出来た。 太一が持つ魔力量、魔力強度を考えればもちろん絶大な力である。 しかしエアリィは直感で分かっていた。 それは確かに絶大だが﹃真価﹄ではないと。 太一から直接魔力を受け取るようになって、それは確信に変わる。 どう安く見積もっても、太一はこんなところで収まるような器で はなかった。 エアリィと太一は細かい魔法の使用に二人して四苦八苦している。 首をかしげる太一をよそに、エアリィには原因がはっきりしている。 エアリィでは、太一の魔力を十全に扱い切れないのだ。完全なキ ャパシティオーバー。上級精霊たる自分の枠にすら収まらないなど どんな冗談だと思わなくもないが、エアリィは悔しさと同時に誇ら しさも覚えさせるものだった。 これまでの記憶から考察するなら、かつて現れた召喚術師は、そ の肩書きの後に﹁もどき﹂辺りをつけるべきだろう。 972 要は召喚術師のなり損ないである。 そしてエアリィは思う。 太一こそが、本物の召喚術師ではないか、と。 それを証明する方法が、エアリィにはある。 だが、彼女にとってそれはどうしても取りたくない手段だった。 金属が激しく打ち合わされ、火花が散った。 マルケーゼが振り抜いた剣に、太一が剣を合わせて受け止めた。 両手で剣を握るマルケーゼに対して左手一本で剣を扱う太一。ここ に、いかんともしがたい実力差が垣間見える。もっとも、太一と人 間では、比べることが間違っているのだが。 人間の中で最強とか最弱とか、論点は最早そこではない。 太一は人間であって人間ではない。 いや、そんなことはどうでもいいか。 どんな分類をしようと、太一は太一だ。 初めてエアリィの声を聞き届けてくれた少年なのだ。その事実は 揺るぐことがない。 エアリィは太一の肩に乗った。 ﹁お、どうした?﹂ ﹁アタシが後ろとか見ててあげるよ﹂ ﹁んー? 気配なら探れるぜ?﹂ ﹁ほー。じゃ、アタシが気付く前にきちんと気付きなさいよね﹂ にやりと笑う太一に、にやりと笑い返すエアリィ。 ﹁って、空気の流れ読むのは反則だかんな?﹂ ﹁ダイジョウブヨーツカワナイカラー﹂ ﹁使う気だな? 使う気なんだなー!? ずるいぞ!﹂ こんな他愛ないやり取りができる喜びを噛み締めて、エアリィは 973 太一と共に戦うべく、目線をまっすぐ前に向けた。 974 マーウォルトの会戦 五 レミーア=サンタクル。 またの名を落葉の魔術師。 この世界でもっとも優れるとされる魔術師の一人に数えられてい る。 音声遮断結界にメデューサの抱擁。覇王の暴風。 ウェネーフィクス滞在中に見せたこの三つの魔術は、実はレミー アが編み出したものだ。 特に音声遮断結界は、巨大な組織の重鎮に大変重宝されている。 外の音が届かないという欠点があるが、人に聞かれたくない話を するときにはもってこいだ。 これには随分な価値がつけられており、レミーアはそれなりに高 値を吹っ掛けている。客はその程度の金額はまるで意に介さない金 持ちばかりで、レミーアの言い値がいつの間にか定価になってしま っていた程だ。金持ちがたくさんいるわけではないため顧客の絶対 数も少ないが、それでも自分以外にも二、三人程度は楽に養える程 の財力を手に入れた。 そしてそれ以上に高値がついたのは、魔力量、魔力強度測定魔術 だ。 これまで、どの程度の魔力を持っているのか、どの程度の強さが あるのかは漠然としか判別できなかった。更に、そんな技術を持つ のはごく一部の高位な魔術師。 例えば宮廷魔術師の長や、それに準ずる位の魔術である。 魔術師の実力がどの程度のものなのか。倒せる魔物や勝てる相手 の強さを基準に決めるしか無かったのだ。 だがそれを、レミーアが可能とした。 明確に数値でのランク付けが出来るようになったのだ。 レミーアは金が欲しいわけではない。しかし同時に、己の魔術を 975 安売りするつもりは毛の先もない。 それは、魔術師という存在の地位を高めるためである。 どこの馬の骨とも分からぬ者に安く見られるのは気分がいいもの ではなかったのだ。それはレミーアでなくてもそう感じるだろう。 レミーアは、魔力測定魔術に法外とも言える値段をつけた。それ はとてもではないが冒険者ギルドや中堅貴族に支払える額ではない。 結果的に購買対称は大貴族、莫大な資産を築いた商人や国に絞ら れた。 エリステイン魔法王国やドルトエスハイム家、マルケーゼ家を始 めとする侯爵家も顧客である。 魔力測定魔術は、何も組織が組織員の力を量るためだけの道具で はない。 レミーアに敵意むき出しで攻撃を仕掛けてくる目の前の男を、レ ミーアはくしゃくしゃにした紙を握った手で一度殴りかかった。攻 撃はかすった程度だが、拳には鋭く回転する風を纏わせていた。 その風の影響を受けて、男は吹き飛ばされた。傷をつけるような 術ではなかったため、お互いの間合いが離れただけだったが。 攻撃の回避の仕方、空中で体勢を立て直した男の身のこなしは見 事だった。 ﹁近接戦闘など出来るのか﹂ レミーアが使用した格闘技が、男の予想以上にさまになっていた のだ。 魔術師であっても近接戦闘を得意とする敵と戦うときはある。そ のために回避能力を高めておくことは魔術師も行う訓練だが、近接 戦闘をレミーアのレベルで修めている者はそういない。 ﹁八〇年も生きているとな。魔術以外にもたしなむ時間が出来るの さ﹂ 976 ﹁なるほどな﹂ レミーアは左手の杖を肩に担ぐ。 ﹁三〇年ほど前だな。妙なおっさんに魔術を教えた対価に教わった。 無駄なことかと思っていたが、存外役に立つから侮れん﹂ ﹁人間にはできない時間の使い方だ﹂ 数ヵ月前、太一に魔力強化のデモンストレーションを見せた時は、 意図的に格闘術を使わなかった。戦闘技術が身に付いていなくても、 とんでもない威力が出せると知ってもらった方がモチベーションも 上がるだろうと判断してのことだ。 ﹁どれ﹂ 握り締めていた紙を、これ見よがしに広げる。 単に殴りかかったのではない。間合いを詰められることに対する 警戒心を植え付けるとともに、魔力測定も行ったのだ。 レミーアが広げた紙に何か意味があるのかと、男が警戒を露にす る。 ﹁魔力値二七〇〇〇、魔力強度二五〇〇か。中々のものじゃないか﹂ それを聞いて、男が目を丸くした。まさか戦闘中に魔力測定をや られるとは思いもしなかった。これは丸裸にされるのと同義である。 宮廷魔術師として登用されていれば即座にエースとなりうる魔力 の持ち主である。これはミューラに近い数値であり、訓練相手とし て丁度いいのではないかと感想を抱くレミーア。 ミューラは生粋のエルフ。まだまだ成長途中だが高い資質を持つ。 奏には劣るのだが、それはミューラが低いのではなく、奏が異常な 977 だけである。もっとも、ミューラが一八歳になり成人する頃││エ ルフの成人は一八歳である││には、奏と同格まで上がるのではと 予測している。 余談だが、太一を引き合いに出すと全員が子供と化すため割愛す る。 ﹁魔力測定、だと? やってくれる﹂ それがどれだけ不味いことなのかが分かる男は歯噛みした。 ﹁まあそう怒るな。悪くない数字だぞこれは﹂ 宮廷魔術師の値の平均値を上回っていることを考えれば、彼の測 定値は誇ってよいもの。その点については、レミーアは本心から彼 を称賛していた。 ﹁その魔術でずいぶんとふんだくったそうだな?﹂ ﹁なんだ、嫉妬か? 男の嫉妬は見苦しいな。ミストホロボスよ﹂ ﹁ミストフォロスだ!﹂ ﹁おお、そうだったか。いや、すまぬ。生憎どうでもいいことは忘 れてしまうのでな﹂ 更に何かを言い掛けたミストフォロスだったが、開いた口をゆっ くり閉じ、そして一度目を閉じた。 ほんの二秒と経たないうちに彼の目は落ち着きを取り戻しており、 顔色も平静になっていた。 レミーアは﹁なんだ、もう終わりか﹂とつまらなそうにしている。 ﹁私の相手が誰かを忘れていた。挑戦状を叩きつけた立場だった﹂ ﹁よく冷静になれたものだ﹂ 978 ﹁流石は落葉の魔術師。魔術師の力をいかに封じるかをよく心得て いる﹂ これ以上何を言っても暖簾に腕押しだろう。レミーアは返事を止 めた。 魔術師に必要なのはなんと言っても冷静さ。怒りで力を発揮する 者もいるにはいるが、魔術師ではそれが仇となる場合が多い。レミ ーアでさえ常に冷静に振る舞うことを大切にしていると考えれば、 それがいかに重要なファクターかが自ずと知れる。 ﹁体力の削り合いは止めるとしよう。全身全霊で、ぶつからせても らう﹂ 男の目の奥に、冷静に、しかしたぎるものをレミーアは見た。 ﹁良い目だ。よろしい。その挑戦、受けて立とう﹂ 玉砕も辞さぬ構えとは違う、己のすべてを振るう覚悟を決めた者 の目。相手が格下でも、そのような目をした者は総じて強敵となる うることをレミーアは知っていた。 ﹁では﹂ ミストフォロスが杖を振り上げ、そして振り下ろす。 この距離なら、ミストフォロス程の腕になれば杖がなくとも十分 に戦える。だが彼はあえて杖を使用している。慢心はゼロというこ とだ。 風で渦巻く無数の氷。彼の杖に呼応して、それが無数に産み出さ れた。 979 ﹁参る﹂ それらが一斉にレミーアの方へ向かう。すべてがレミーアに当た るわけではない。いくつかは外している。 ︵⋮⋮うまいな︶ 狙いが甘いわけではなかった。回避しようとする動きを遮断する もの。そして、弾幕の一部が誂えたように薄い。ここなら避けられ るぞ、と誘われているかのようだ。 そのルートで避けさせることこそ、ミストフォロスの狙いなのだ ろう。ならば。 ﹁全て、叩き落とすまで﹂ くるりと杖を回し、石突きで大地を激しく叩いた。 地面が割れ、そこから火炎が吹き上がった。対突進及び対水属性 防御魔術、燃える大地。ミストフォロスの魔術はその熱に耐えきれ ず一瞬で蒸発する。 燃える大地が収まり、炎が大地に沈んでいく。その瞬間お互いが 見たものは、水の塊を向ける男と、火球を向ける女だった。 二人の丁度真ん中でそれらが激突し、白い煙を放ちながら弾ける。 激しい白煙と水しぶきをたてながら打ち消し合った火と水。 晴れようとする煙を吹き飛ばし、ミストフォロスが風の塊を生み 出した。無色透明のそれは、ミストフォロスの魔力によって確かに そこに存在を感じられる。 弾けて散り散りになったそれは、一撃一撃が鋭い鉈のような切れ 味を持つ空気の円月輪。もう間もなくミストフォロスの制御から解 放され、一斉にレミーアに向かうだろう。 980 ﹁風月輪か。実に見事だ﹂ 風属性上位殲滅魔術。これを使えればそれだけで一流魔術師の仲 間入りが出来ると言われる高等魔術だ。 因みにレミーアも使える魔術である。太一が考案したエアロスラ ストと風月輪、どちらが優れるかを検証してみる。 指向性を持ち、一直線に標的に向かうエアロスラスト。 無数の風の刃を複数方向から標的に叩き付ける風月輪。 特性を考えれば、使い方次第でどちらも一長一短だ。 では性能はどうだろうか。 切れ味ではエアロスラスト。 回避のしにくさでは風月輪。 弾の速度ではエアロスラスト。 放つまでの速さでもエアロスラスト。 特に最後の要素はとても大きい。発動してから弾を分裂させるま での時間が溜めとなる風月輪に対し、発動イコール発射のエアロス ラスト。 それが決め手となる。結論は、エアロスラスト優勢。 ﹁さあ、避けられるか!?﹂ ﹁そんな必要は感じぬな﹂ ﹁何? が⋮⋮!﹂ 上半身に大きなX印の切り傷を刻まれ、ミストフォロスは血を吐 いて地面に膝をついた。 攻撃を受けると、使用中の魔術は維持されずに霧散する。その法 則に則り、風月輪がかき消えた。 右手を振り払った姿勢で立つレミーアの姿が、ミストフォロスの 目に映った。 杖を持たない方の手で傷をなぞってみる。かなり深い。致命傷だ。 981 地面に突っ伏しそうな弱気を精神力でねじ伏せて、ミストフォロ スはレミーアを睨み付ける。 ﹁ぐ⋮⋮はっ。貴様⋮⋮何をした⋮⋮﹂ レミーアは払った右手を暫し見つめ、握り締めた。予想通り芳し い効果に満足げだ。 ﹁異世界から来た召喚術師の少年のことは知っているな?﹂ ﹁⋮⋮﹂ 沈黙を肯定と受け取る。 ﹁今のは、その少年が編み出した魔術だ。私はそれを教わって自分 用にアレンジしたのさ﹂ ﹁アレンジ⋮⋮だと⋮⋮﹂ 言葉にすれば簡単だが、実際に魔術をアレンジするのは簡単では ない。 それをやってのけることが、彼女が落葉の魔術師たる由縁なのだ ろう。 ﹁名をエアロスラストという。風月輪の刃とは比べ物にならんほど に薄くせねばならんのが難しいところだな﹂ ﹁⋮⋮ペラペラと⋮⋮口の軽いことだ⋮⋮﹂ 淡々と魔術の仕組みを明かすレミーアに嫌みのひとつをぶつけて みる。レミーアはふっと笑った。 ﹁構わぬさ。周りには誰もおらんし、﹂ 982 レミーアとミストフォロスの戦闘に巻き込まれぬよう、周囲の兵 たちは敵味方問わず一定の距離を取っているのだ。遠距離からレミ ーアたちの会話を聞き取る魔術を使われても、すぐに気付く自信が あった。 ﹁これから逝くやつにいくら話したところで、何も問題は感じない﹂ ﹁⋮⋮そうか﹂ レミーアの言葉を聞いて肩の荷が下りたのか、ミストフォロスは 表情を緩めた。 ﹁では⋮⋮死ぬことも分からずに死ねるのかな⋮⋮?﹂ ﹁それが死に際の望みなら聞き届けてやる﹂ 死に逝くものの最後の願いも叶えないほど、レミーアは冷酷では ない。 右手を天高く掲げる。 彼女の周囲を炎が舞う。 熱風に煽られて、レミーアの服が、髪がはためいた。 炎と踊る美女。 魔術師である前に一人の男であるミストフォロスにとっては、目 の保養になったに違いなかった。 ﹁何も心配はいらん。痛みも、苦しみも、一切感じぬようにしてや ろう﹂ 右手の上に生み出されたのは、直径二メートルを超える火球。 ミストフォロスも、名前だけは知っている。 焦熱地獄。またの名をインフェルノ。 983 あれはただの火球ではない。骨すら残らない灼熱の炎で焼き尽く す。 難易度、破壊力共に最高ランクに数えられる魔術である。 ﹁インフェルノか⋮⋮流石だ⋮⋮高い、壁だった⋮⋮﹂ ﹁言ったはずだぞ﹂ レミーアは右手を地面に膝をついたミストフォロスに向けた。 燃え盛る火球が彼の身体をあっという間に呑み込む。 炎が膨れ上がり、弾ける。 大地を吹き飛ばし地面を焼き、灼熱がミストフォロスを中心に周 囲一体を高熱で蹂躙する。 夕方でもないのにオレンジに染まった一帯。信じられない破壊力 の魔術に、一瞬、時が止まった。 もう既にミストフォロスがいた痕跡は跡形もなく燃え尽きている だろう。 ﹁⋮⋮八〇年、とな﹂ 立ち上る紅蓮の炎を目前にして、レミーアは表情を変えずに呟い た。 ◇◇◇◇◇ 984 レミーアが放ったインフェルノによって八方に散った衝撃が、ミ ューラの足元を揺らした。 思わず横を見れば、少し離れたところで巨大な火柱が上がってい た。 ﹁⋮⋮レミーアさんね﹂ 太一と奏で慣れてしまったが、本来は目の前で驚いているミゲー ルの反応が正解。 レミーアは、普通に考えたら一生涯で一度会えるか会えないかと いう存在なのだ。 今のはインフェルノだろうか。威力ももちろんすごい。だが彼女 のすごいところはそこではない。あれだけの魔術を撃っておきなが ら、レミーアはケロリとしていることだろう。ミューラにとっては そちらの方が戦慄を覚える。 ﹁信じられんな⋮⋮あんな魔術が使える者が実在するのか﹂ ﹁落葉の魔術師を過小評価し過ぎよ﹂ しばらく燃え立つ炎を眺めていた二人は、同じタイミングで対戦 相手に視線を戻した。 ﹁そのようだ。世界は広い。反省しよう﹂ ﹁やけに素直ね﹂ ﹁⋮⋮お前が俺をどんな目で見ていたのか良く分かった﹂ 最初の印象は大事だな、と呟くミゲール。しかしその表情になん の変化もないことから、彼はミューラの評価をまるで気にしていな 985 いようだった。 まあそれはミューラも同じなのでおあいこといったところだろう。 ﹁ま、そんなことはどうでもいいわ。第二ラウンドと行きましょう。 攻守ところを変えさせてもらうわ﹂ ﹁いいだろう﹂ ミューラは左足を引き、剣を構える。ちゃき、と金属が小さく鳴 った。ミューラに応えるように、ミゲールも剣を構え直す。 最初のぶつかり合いは、結果だけを見れば互角だった。 お互いの攻撃を防ぎ防がれ。 高速で移動するミゲールと必要最小限の動きでそれを迎え撃つミ ューラ。 二人とも掠り傷すら負うことなく終わったのだ。終わったという よりは、途中でレミーアの魔術に思わず中断してしまったのだが。 互いにそれを隙と見なさなかったのは、そんな不意打ちなど効果 がないと分かっていたからだ。 ﹁来い﹂ ﹁言われなくても﹂ ミューラは身体で隠した左手に魔力を収束させる。 ﹁いかせてもらうわ﹂ 腰をぐい、と捩って左手をミゲールに突きつける。 破裂音と共に、無数の火球がミゲールに向けて飛んだ。一発一発 は大した威力ではない。 しかし弾幕としては十分。 今度は剣に炎をまとわせ、それを振り抜くことで炎の斬撃を飛ば 986 した。速度も十分なそれは、追尾機能もついている。当てるだけな ら奏にも通用するのだ。 回避行動を取ったミゲールに、剣を地面に向けた状態で近付く。 火球を無視し、ミゲールは炎の斬撃のみに狙いを定めて迎え撃った。 相手の力量からこれは防げると見ていたミューラは、炎の斬撃に 細工を仕掛けていた。斬る力はない。代わりに何かに触れたら炸裂 するようにしておいた。 ﹁っ!﹂ 振り上げられた剣に触れた瞬間、炎の斬撃は弾けた。小さな爆発 だが、剣を弾くには十分。 自分の魔術による爆発を受けることもいとわずに、ミューラは一 瞬の間隙を突いて剣を振り抜いた。刃は返していない。迫るミスリ ルの刃は、当たれば一撃で致命傷となりうるだろう、まるで蜂が刺 すかのような鋭い一撃。 声を出す間も惜しみ、ミゲールは盾をその軌道に重ねる。まとも に受ければ腕ごと飛ばされ兼ねないミューラの斬撃を、表面を滑ら せるような見事な盾捌きで回避するミゲール。 息もつかせぬ連続攻撃を防ぎきったミゲールがにやりと笑うと同 時に、ミューラもにこりと笑う。 ・・・・・・・・・ ミューラにとってはここまでが予定通りだ。でなければ、わざわ ざ確実に防げるように攻撃を放ち続けた意味がない。 ﹁ぐうっ!?﹂ 全ては、この一撃のために。左手に造り出した岩の剣が、ミゲー ルの土手っ腹にめり込んだ。鎧で固めている相手に対して殺傷能力 は期待していない。衝撃と打撃のダメージが与えられれば良い。 だがやはり、容易い相手ではない。自ら後ろに跳ぶことでミゲー 987 ルはダメージの緩和を試みたのだ。ならばどうするか。 答えはひとつしかない。すぐさま行う追撃だ。岩の剣を分解し弾 けさせ、礫としてミゲールを追わせる。 そして第二波は自分自身。腹部へのダメージが引かないうちに乱 戦に持ち込む。 ﹁ぐ、お⋮⋮舐めるなよ!!﹂ 飛ばされながらもミゲールが剣を振り下ろした。背筋を冷たいも のが駆け抜ける。 ズバンと大地が裂ける。ミゲールの空斬剣だ。先ほど放ったミュ ーラの炎撃剣と同じ魔術剣。威力はかなり高い。だがこれだけの強 さで放てば、多少なりとも反動があるだろう。同じ技術の使い手だ からこそ瞬時に分析し、紙一重で避けることを選択。 迫る大地の裂け目と自身の速度からタイミングを割りだす。ここ というタイミングで身体を思い切りひねって回避した。左腕を軽く 斬られたが大したことはない。問題なく動かせると、身体の様子で 判断、勢いが削がれることの方を忌避し、スピードを落とさずに、 反動で若干動きが鈍っているミゲール向けて足を出し続ける。 ﹁やっ!﹂ ﹁うおお!﹂ ミューラの攻撃の激しさに、応じるミゲールの反撃も強さを増し ていく。 一撃一撃の威力はミゲール。速さは互角。技術はミューラ。 力で張り合っても不利になるだけと判断したミューラは、ミゲー ルの剣を絡め奪うために目的を切り替えた。 ミゲールの剣に触れるたび、複雑な軌道で刀身を捻り上げ柄の握 りを甘くしようと狙うミューラ。その意図に気付いたミゲールは慌 988 てて剣を引っ込める。だがそこで攻撃を止めれば、ミューラの暴風 のような攻撃にその身が晒される。 パワーの差に全く怖じ気づかないミューラに戦慄を覚えながらも、 ミゲールは剣を振る手を止められない。 ミューラからすれば、これよりも厳しいスペック差を何度も訓練 で経験している。 一度四〇の力で戦ってもらったときは、ついていくのもやっとの 速さ、にも拘らず併せ持った防御を躊躇うほどのパワー。訓練にも 関わらず恐怖すら覚えた。 嫌な顔をするどころか、仮想強モンスター役を進んで買って出て くれた精霊を従える少年。彼にはきちんと礼を言わなければならな いだろう。 このところのミューラが目を見張るような成長を遂げた原因がそ れだ。手練手管を尽くしても攻撃が通らない相手に対して続けてい た実戦訓練。ただ攻撃しても通じない。ちょっと工夫した程度では 捩じ伏せられる。出来うる手を全て打ってようやく当たるか当たら ないか。もちちん、それだけ実力の離れた相手に対して、﹁惜しい﹂ では許されない。 太一の反撃はただひとつ。ミューラの首を左右どちらかの手で掴 むこと。何度も返り討ちに遭いながら、何度でもコンティニューが できるなど、普通に命のやり取りをしていたらありえないことだ。 太一には﹁ふがいない戦闘したら威圧して﹂とお願いしてある。 一分から二分は持つようになってきた頃、わずか十数秒で負けてし まったとき、太一に威圧された。 実際に危害は加えられないと分かっていながら、本能的な恐怖に 刈られて思わず涙目になってしまい、その後慌てふためく太一に慰 められたのは心の中にしまってある思い出だ。まあ、思い出と呼ぶ ほど過去のことではないのだが。 それから比べれば、ミゲールのパワーは正直恐れるほどではない。 ミューラとミゲールの剣戟は、剣が触れれば離れるを繰り返すも 989 の。それが迫力がないかと言えば否である。 乱れ飛ぶ銀の糸を追い掛ける斬撃。その糸を紡ぐために動く身体。 特に、身軽なミューラはまるで剣舞のような動きを見せている。 高速で打ち合う剣の衝撃。一発一発は大したことなくても、それ が重なれば衝撃となる。 足元の草がなびき、離れたところにある低い植生の葉が揺らぐ。 少しギアを上げてみたらどうなるだろうか。同じようなスピード で攻防を続けても埒が明かないため、身体に更に鞭を打って速度を 上げる。 変化は劇的だった。ミゲールが明らかについてこれなくなってい る。ミューラも、強化魔術のセーフティーエリアから片足を出して いるため反動が来ている。 しかし自分から土俵際に足をかけたミューラと、土俵際に足をか けさせられたミゲールでは根本的に立場が違った。 ﹁くおおっ!﹂ ﹁うあ、あ⋮⋮ああああっ!!﹂ これ以上は息が続かないと直感で理解したミューラ。ミゲールの 剣に当たる一瞬前に、強化を全てパワーに割り振った。 剣同士の打ち合いとは思えないほどの衝撃音が鳴り響き、ミゲー ルが一〇メートルほど押されて後ずさった。切り結ぶのに夢中で、 ミューラの切り換えについていけなかったのだ。 つまり、ここがミゲールの限界。ミューラとの、紙一重だがとて も分厚い差。 ﹁ぜえ⋮⋮ぜえ⋮⋮﹂ ﹁はあ⋮⋮はあ⋮⋮はっ⋮⋮﹂ 肩で息をする二人の呼吸だけが周囲に響く。その音を風がさらっ 990 ていった。 ﹁⋮⋮くっ﹂ 悔しげに歯噛みしているということは、彼もその事実に気付いた ということだ。どちらに分があるか、最早明白。 ﹁⋮⋮もう、終わりにして良いわよね?﹂ ﹁くそ⋮⋮簡単には終わらんぞ!﹂ ﹁いいえ。終わりにするわ﹂ 初めて剣を両手で持ち、正眼に構えるミューラ。ミスリルの剣を 中心に炎が渦巻く。 魔術剣・焔狐。エネルギーの全てを威力に割り振った、レミーア 曰く頭でっかちの術。ミューラのスタイルには合わないかもな、と 忠告されている。一方で、必殺技としては悪くない、とも。必殺技、 という文言は正直気になるのだが、レミーアに﹁当たれば﹁必ず殺 す技﹂だ。何を気にしている﹂と一蹴されてしまっている。攻撃力 は申し分なく、同じレベルの相手なら避ける以外に対処法がないほ ど攻撃力に優れている。 オーガとの戦闘で実感した攻撃力不足を補うため、必死になって 会得した、ミューラの手札の中でもっとも攻撃力の高い攻撃手段。 太一とレミーアは別として奏にも大きく遅れをとっている現状で、 これ以上離されるのは彼女のプライドが許さなかった。 ﹁ミゲール。あんたをこの剣で斬る。あたしの勝ちで、この勝負は おしまいよ﹂ ﹁調子に乗るな!﹂ 余裕の笑みを浮かべて挑発する。上手く激昂してくれて正直助か 991 っている。ミューラもそれなりにぎりぎりなのだ。 普通に戦って勝てるならそれに越したことはない、と封じていた 奥の手を、使わざるを得ないのだから。 その奥の手は、反動が凄まじい。こんな戦場のど真ん中では使い たくはない。仮に外せば大きな隙を見せることになる。普通に戦っ ても、いずれは勝てると思う。だが消耗戦となるだろうことは容易 に想像が出来る。勝てた後の消耗度では、奥の手を使った後とそう 大差ないはずだ。 だったら、速攻で決着を着けた方が良い。 出会い頭にこの奥の手を使っていたほうが、結果的には一番良か ったのが皮肉だとミューラは思う。 そのあたりの判断力、見切りの甘さはまだまだだな、と思いつつ、 それはイコール成長の余地があるのだと前向きに捉える事にした。 視線の先ではミゲールが剣に巨大な風を纏わせていた。焔狐を迎 撃しようというのか。 いや、魔術剣の使い手として、同レベル帯の魔術剣士が繰る焔狐 を防ぐ術など無いことは知っていなければおかしい。つまりあれは、 ミューラの攻撃を避けた後のカウンター用だ。 これを外せば、嬲り殺されるのはミューラの方だ。ろくな抵抗も 出来ずに、好き放題やられるおぞましい結末が待っている。命を散 らすだけならまだしも、女としての尊厳すら踏み躙られることも確 定事項だ。 だが。 それも結局。 外さなければ、問題は無い。 ひう、と一陣の風が、ミゲールの頬を撫でた。 何が起きたのか。 ミューラの姿が、ミゲールの視界から消えていた。 どこに行った︱︱︱ そう考えた瞬間、彼の視界が紅に染まった。 992 パッと花開く真紅の華。 ミゲールの左肩から右腰にかけて、背骨にまで達するほどの切り 傷が刻まれていた。 ﹁な⋮⋮んだと⋮⋮﹂ ミゲールから二〇メートルほど離れたところで、剣を振り下ろし た姿で止まっているミューラの姿。 それを一瞬視界に収め、ミゲールは口から血を吐いた。次いで意 識がブラックアウト。 知覚すら不可能な速さで受けた致命傷に、剣を大地に落とし、前 のめりに倒れた。 ﹁ほら⋮⋮。あたしの勝ちで、勝負は、終わり⋮⋮﹂ 軋み悲鳴を上げる自分の身体を気迫で制御し、ミューラは胸を張 った。 993 マーウォルトの会戦 六 ただ距離を取るだけでは鼬ごっこになるだけだ。そう判断した奏 は、弾幕を張って逃れることにした。 バックステップで後ろに跳ぶ。迫るスソラをしっかり見据えなが ら、左手の人差し指を天に向ける。 スソラは撃たせまいとして更に速度を上げた。このままでは追い 付かれる。その前に弾幕を張らなければ。 鼓膜を強力に叩く轟音と共に、奏の指先に稲妻が落ちた。自爆か ? いや、そんなはずはない。奏ほどの魔術師が、今さらそんなミ スをするはずがないと、スソラはこれまでの戦闘で理解している。 ﹁ボールライトニング!﹂ 奏の眼前に生み出されたのは、三発の電気の球。パチパチと音を 鳴らしながら周囲に放電している。 ﹁アタック!﹂ 右手を振り払い、魔術を放つ奏。複雑な軌道でスソラに迫るそれ を、叩き落とそうかとしたところで強烈な悪寒が彼女を襲う。 理屈などではない。冒険者として生きてきた半生で培った直感に 従い、スソラは前進する身体に急制動をかけ、全力で後ろに跳んだ。 着弾地点が吹き飛ぶ。地面がお椀をひっくり返したようにえぐれ ているのを見て、奏の魔術がただの牽制ではなく、あわよくば勝敗 を決するために放ったものだったと理解した。 二人で距離を取るように跳んだ結果、二〇メートル以上離れるこ とになった。 これは完全に奏の距離である。 994 ﹁はあ⋮⋮⋮⋮はあ⋮⋮⋮⋮﹂ 荒くなった息を整えながら、スソラの些細な動きも見逃すまいと 目を凝らす奏。 迎撃のボールライトニングは不発。麻痺効果の高さを狙って編み 出した魔術だったが、勘の良さを発揮したスソラに避けられてしま った。 スソラはとんでもなく強かった。太一とレミーア、スミェーラを 除けば、今まで出会った人物の中では最強ではなかろうか。 現時点での戦闘ではほぼ互角。ほんの若干奏に傾いているような 気がしないでもないが、当事者である現在、そんな分析をする余裕 は彼女にはなかった。 ﹁⋮⋮フウ﹂ 息を整える必要があるのはスソラも同じである。地面に突き立て た戦斧に寄りかかり、聞きようによってはアンニュイとも言えなく もなさそうなため息をついた。 ﹁参ったネ。前言を撤回するヨ。予想以上にキミは強いネ﹂ ﹁それはどうも﹂ ﹁特にアレ。接近戦を仕掛けてくる相手への対処が本当に凄イ。ろ くに近寄らせてもらえないなんてネ﹂ これは対処ができるようになったというよりは、嫌でも上手くな らざるを得なかったと言った方が正しい。 訓練相手があの太一だったのだ。 最早皆まで語る必要すら感じない。 スソラの言葉はおべんちゃらの類いではない。本心からそう思っ 995 ているのが見ても分かる。そういう意味では、明け透けな性格であ るようだった。 ﹁特に最後のは、当たりどころ悪かったら死んでたヨ﹂ ﹁そんな戦斧持って追いかけ回されるのも割と本気で恐怖なんだけ ど﹂ ﹁それはそれヨ﹂ ﹁どれ?﹂ 他愛もないやり取りも、休憩中だからこそ。 奏は自身の選択が、間違っていなかったのだと自信を深める。 スソラが遠距離だけでなく近距離も警戒しながらの戦闘を強いら れているのは、ひとえに選んだ初手が好手だったからだ。 あの時は、得物を構えて隙なく佇むスソラに、どう攻めていくか を考えていた。 ︵普通にいったとこで、あんなにどっしり構えられたら防がれる︶ この位置から魔術を放つのは魔術師としては当然選択する手。 ならばスソラがそれに対応すべく準備していても不思議ではない。 ︵⋮⋮ううん。防がれるだけならまだいい⋮⋮私の攻撃を反撃の足 掛かりにしかねない︶ 奏はある程度距離を保って戦うことで力を発揮する魔術師だ。そ ういう戦闘スタイルだとスソラが悟っていると判断した方が良さそ うだ。何せ奏の格好は魔術師の典型的な出で立ちなのだから。 お互いに手の内がばれた状態で、ではどうするか。 先述の通り、一手目に好手を打つこと。他にも選択肢はあろうが、 奏が選んだのはそれだった。 996 出会い頭の大技か。いや、その気配を感じたスソラが黙っている わけがない。大技はそれにかかる準備も膨大だ。 奏はこれ見よがしに呪文を詠唱し、スソラに向けて駆け出した。 まさか魔術師が自分から間合いを詰めてくるとは思わなかったスソ ラが、一瞬面食らったのを、奏は見逃さなかった。用意した呪文を 解放する。水鉄砲四発。これは相手の手を限定するための魔術。防 御してもらわねば困るので、それなりの威力で放ってある。そして、 スソラは狙い通り水鉄砲を防ぎきった。技術など何も無し、力任せ に水鉄砲をかき消すパワーには恐れ入ったが、それは分かっていた こと。パワーに自信がなければ、戦斧などという武器は選ばないだ ろう。戦斧は奏の左側、スソラの右側にある。 スソラが戦斧を腰だめに構えるのと、強度に性能を割り振った障 壁を奏が展開したのは、同じタイミングだった。 一拍の間を置いてガラスが割れるような音を響かせて障壁が砕け 散り、スソラの戦斧が跳ね返る。かなりの強度で展開したのに一撃 しか耐えられなかった。だがそれで十分だった。 砕ける障壁の破片の中をくぐりながら、奏はスソラの懐に潜り込 む。先手必勝、一撃目に大きなダメージを与えようと目論んで伸ば した右手は、スソラの胸元に届く前に割って入った腕に阻まれた。 防がれるならそれでもよい。この距離からなら減退の一切無い威 力の魔術をスソラは防がなければならないのだ。躊躇を一息に飲み 下し、奏はショックを発動させた。 騎士たちを転ばすために放ったショックとは威力の次元が違う。 至近からの衝撃によってスソラは吹き飛んだ。 奏はそれ以上深追いはせずに、出来る最大の詠唱速度でフレイム ランスを唱えて放った。その後は持ち直したスソラによって戦闘は 拮抗した展開に持ち込まれたが、先制のジャブは成功した。 好手と思った選択肢は奇手だったが、結果的には良い手になった のだった。 現時点の状況が若干奏寄りなのも、初手があればこそである。 997 さて。狙うは更に分を良くすること。大技が一発でも当たれば勝 てるかもしれないが、易々と撃たせてはくれないだろう。ならば一 歩ずつでも優位に事を進められるようにせねばならない。 ここで幸運だったのは、奏が自分やや有利ということに気付いて ないことだ。あの戦斧を一撃でも貰えば負けると真剣に思っている。 だからこそ、慢心の入り込む隙間がないのだ。 ﹁このままじゃ埒が明かないネ。あたしもなりふり構わず行かせて 貰うヨ﹂ 律儀というかなんというか、彼女はそんなことを言い出した。具 体的にどうするかまではもちろん明かしはしなかったものの、これ までの戦闘とは色が変わってくるだろう。 奏を本物の強敵と認めたからこその台詞だとは、奏は気付いてい ない。なんだかんだで、スペックのみだとスソラは考えていたのだ。 その認識の甘さを認め評価を上方修正し、対応するという宣言でも あった。 自分に素直な者は総じて強い。それは単に戦闘力だけではなく、 精神力や心にある芯の強さにも結び付き、それらを総合した実力と して評価の対象とされる。 この場合の自分に素直というのは、欲望のまま動くということで はない。自分の考え方や行動が正解だった場合は己を素直に承認す る。逆に間違っていた場合は素直にそれを認めて反省、更に改善の ためにすぐさま行動に移す。 簡単そうで容易くはないそれを実践できるのが、スソラという女 だった。 ﹁次はどんな手であたしの攻撃に対処するのかナ﹂ スソラは戦斧を片手でくるくると回しながら笑う。刃の部分から 998 石突きまでで三メートルはあるかという巨大な得物が振り回され、 ひゅんひゅんと空気が鳴いている。 あの巨大な刃が迫ってくるのはやはり恐怖を覚える。だが同時に、 彼女の懐も死角。スソラの攻撃を凌いで距離をとって闘うか、再び 近接戦を挑むか。どちらを選ぶか考えていると。 ﹁はっ!﹂ 短く息を吐き、スソラが飛び上がった。高さはパッと見一五メー トル程だろうか。上空で戦斧を振りかぶるスソラ。落下の勢いを利 用した一撃だろうか。しかし、そんな隙の多い攻撃なら避ければ良 いだけの話である。上空では左右には動けまい、そう考えて地上か ら多数のファイアボールをばら蒔き、ついで思い切り後ろに跳んだ。 これであの一撃を貰うことは万が一も無い。 ここで、奏はそれはおかしいと気付いた。 万が一も何も、あの飛び上がる角度と奏とスソラの立ち位置を考 えれば、元々攻撃が当たらないではないか。 あれは奏に戦斧を当てようとして行った行動ではない。 そう思った矢先、ファイアボールが当たる直前でスソラは空中を 蹴り、落下速度を上げた。 風属性移動魔術中空疾走。奏も使える魔術だが実戦では使用する 機会がなかった。なるほどあれがあれば、空中に跳んでも無防備に なる時間は格段に少なくなる。 ﹁さア! 行くヨ!﹂ スソラは勢いよく戦斧で大地を強烈に叩き付けた。 砂塵が巻き上がったその直後。 地面から吹き上がる無数の火柱が奏に向かって接近してきた。 あの一撃は魔術を放つためだったのだ。よく考えれば、スソラは 999 今まで奏に対して普通に火を放ったり風の刃を飛ばしたりしただけ。 このような魔術の使い方が出来ると警戒をしなかったのは奏の落 ち度である。 火柱は吹き上がる勢いが強く、一発一発が小さな爆発のようだ。 迫る速さも尋常ではなく、障壁は間に合わない。 奏はやむを得ず対魔防御に切り替えて回避行動に移る。しかしそ れをスソラが見逃すはずもなく。火柱を回避しながらも急激な速度 で迫るスソラに気付いた奏は、そちらを確認せずに直感で真横に跳 んだ。 間一髪で戦斧の一撃は避けられた。しかし、足下から吹き上がる 火柱には、対処できなかった。 ﹁っ⋮⋮っ!﹂ 真下ではなく左足に掛かるか掛からないかの距離だったが、衝撃 は奏にダメージを与えるのに十分だった。爆発のダメージを堪えな がら体勢を立て直し、吹き飛ばされつつも杖で地面を殴り付けて倒 れかかった体を起こし、両の足で着地する。 奏は顔をしかめた。左足を刺すような痛みが襲う。見ればダメー ジはやはり軽くはなく、左足は膝から下が血まみれになっていた。 何とかでも動くだけ幸運。対魔防御がなければ左足が吹き飛んでい ただろう。 こんな激痛には出会ったことがない。それでも声を上げなかった のは、下手に悲鳴を上げれば太一に気付かれるからだ。痛みに耐え る力は女の方がある。奏はそれを身体で理解した。 魔術を唱えながら顔を上げる。案の定こちらにスソラが向かって きていた。 ここからイニシアチブを奪うのはかなり大変だが、出来ないとは 思わない。奏とて、使わなかった手ならまだまだある。 1000 ﹁フリーズランス!﹂ 総弾数二〇〇発。左右と上、半端な回避動作で避けれる数ではな い。 防御に失敗すれば、勝負こそ決まらないものの、奏が負った左足 の傷を上回るダメージを受けることは必然。アズパイアで魔物相手 に使用したものとは数も威力も段違いだ。 足に傷を受けて機動力を削られた以上、攻撃力と手数を増やさな ければならない。 氷柱との距離を詰める格好となったスソラに、回避行動を取る余 裕はなかった。即断で回避を諦め、防御体勢を取るスソラ。奏は現 在の位置から動かずに呪文の詠唱を開始。それを見て放たれたスソ ラのエアカッターが奏の右肩を僅かに切り裂くが、構う気はない。 スソラを足止めしている好機を逃すわけにはいかなかった。魔術が 発動してから放つまで。術者の制御下にある魔術は、術者が攻撃を 受けると打ち消されるのだが、撃った後は打ち消されないし、詠唱 途中ならそれを途切れさせなければよい。 右手で生み出した火の球。それを杖を使って全力で上空に打ち上 げた。太一命名のレッドカーペット。絨毯爆撃という魔術の詳細を 聞いた太一が出したうちの一案を採用した。他に上がっていたジェ ノサイドやらクリムゾンやらは、流石に恥ずかしくて名前に入れら れなかった。 火球は上空で分裂し、スソラに向かって降り注ぐ。 前方、そして上空からの二段攻撃に、スソラは目を見開いた。 そのどちらも攻撃範囲がとても広く、回避は間に合わない。いよ いよスソラは防御を固めることを余儀無くされ、直後氷柱の嵐に加 えて上空から無数の火の球が襲いかかり、爆発の連続とそれに突っ 込んでいく多数の氷柱という光景が出来上がった。 スソラはその中から出てこない。ここでやっと時間的余裕を確保 した奏は、後ろに跳んで間合いを確保した。巻き起こった煙が徐々 1001 に晴れていく。 炎と氷の波状攻撃に曝され、ボロボロになったスソラがそこにい た。纏う服は焼け焦げ、右肩には氷柱が突き刺さっている。刺さら なかった氷柱がスソラの足下にいくつか転がっており、それらも彼 女に小さいながらも出血を伴う傷を与えていた。 ﹁ク⋮⋮やられたヨ。キミに一撃あたえたことで気が緩んだかナ﹂ スソラはそう言っているが、手負いの状態で放った奏の魔術の威 力がスソラの予測を上回ったのだ。 ﹁⋮⋮いいや、違うネ。失礼、キミが強い、ただそれだけのはずダ﹂ ﹁随分と、高い評価、してくれてるのね﹂ 右肩の氷柱を躊躇なく抜き、血に染まった氷の矢を投げ捨てた。 スソラは奏がそれを意識していないと確信できてからを、戦斧に 魔術をのせて放つ技を解禁した。そこまで手を掛けなければ直撃す らしてくれない奏の戦闘力の高さに、ひりつくような感覚を覚えて いた。対人戦闘では久しく感じていなかったそれは、相手が強いこ とを五感が感じ取っている証し。 現に、人間でスソラに傷を負わせられる者が現れたのは何年ぶり だろう。 ︵クフフ⋮⋮楽しい、楽しいネ! 勝敗の分からない戦いがこんな に良いモノだって忘れてたヨ!︶ 爆発の直撃で受けた傷と、衝撃による全身の殴打。それだけのダ メージを受けながら、反撃にはこれまで使ってこなかった広範囲攻 撃魔術を採用した奏。年端も行かぬ少女が見せた底知れない力に、 スソラは自然と笑みがこぼれた。 1002 そもそも対象を範囲で取る魔術は、単体を狙う魔術よりも威力で 劣る。理由はシンプルで、同じ魔力を込めても効果が分散するから だ。使用魔力を一〇〇として、ファイアボールを一発撃てば威力は 一〇〇。二発撃てば一発当たり五〇。一〇撃てば一発の威力も一〇 だ。範囲攻撃魔術は、防御を貫通するのが物理的に難しいのだ。 ︵ふう⋮⋮足はスゴく痛いけど⋮⋮彼女相手に無傷なんてのは虫が 良すぎるよね︶ 一方の奏も、これまで範囲攻撃魔術を温存していた。考えはスソ ラと似たようなもので、範囲攻撃魔術の存在がスソラの頭から消え たと感じたら使おうと決めていた。 最初から使っても良かったのだが、戦闘の後半で更に相手に考え させれれば良いと思ったのだ。後で見せるという手段は、温存する 手札が使えないという規制状態で、最低でも拮抗した展開に持ち込 めてこそ。押されるのなら出し惜しみはしないという大前提ありき の戦術だった。 先に怪我を負ったため自分のタイミングで、とはいかなかったが、 勝負事は相手がいるので思い通りにはいかないのは当たり前である。 結果オーライも実力のうちと割り切って、奏は自身の魔術が一定の 成果をあげたことに満足することにした。 ﹁さぁテ。お互い手傷を負ったわけだけド﹂ 肩の刺し傷から血が吹き出るのにも構わずに、スソラが戦斧を構 え直した。まるでその程度の怪我では戦闘を止める理由にならない と言わんばかりに。 ﹁ええ﹂ 1003 痛みを緊張感が押し流していく。スソラを相手に痛い痛いと言っ ていられない。 ﹁もちろん、これで終わりじゃないよネ?﹂ ﹁あなたがこれで退いてくれるなら終わるんだけど﹂ ﹁ないないなイ。有り得ないネ﹂ ﹁まあ、そうよね﹂ ﹁こんな楽しい戦い、終わらせるのは勿体無いヨ﹂ ﹁うわっ、バトル脳だ﹂ ﹁⋮⋮言葉の意味はよく分からないが、あんまりいい言葉じゃない ね、そレ﹂ 褒めるはずがない。 奏はちらりと太一を見る。二人を相手にしながら未だに戦ってい た。 と。彼がこちらを見た。その目は﹁大丈夫か?﹂と言っている。 足の怪我を指していることはすぐに分かった。奏は頷いて﹁大丈 夫﹂と応じる。 ギリギリになったら太一の元に行こう。しかしまだ、やれる。 この見切りはとても大切で、かつ難しいものだったが、太一にば かり頼るわけにはいかないと、気持ちを強く持つのだった。 奏がスソラと限界ギリギリまで徹底的にやり合うと覚悟を決めた のとほぼ同時刻。 ついに最前線に出てきた王国軍の総大将。太一やレミーアを除け ばエリステイン最強の女が自ら楔となって敵を蹴散らし、戦況を王 国軍絶対優勢に変えていく。 マーウォルトの会戦は、最終局面を迎えようとしていた。 1004 1005 マーウォルトの会戦 七 総勢三〇〇名で構成された騎兵隊が、地鳴りを伴い貴族軍を手当 たり次第に食い散らかしている。 数だけを見るならば、数千の大軍団に比べて三〇〇の一団など取 るに足らないと言っていい。だが、幾ら一〇倍以上の兵力でも、一 ヶ所に集められる訳ではないのだ。そして数の差など軽く覆す要因 が、騎兵隊の先頭にいた。 エリステイン魔法王国軍最高司令官、スミェーラ・ガーヤ。事戦 争にかけてはほぼすべての面でエリステイン最高の傑物。 決して低くはないレベルのエリステイン王国軍の騎士や宮廷魔術 師が、スミェーラの前ではまるで子供のように蹴散らされていく。 ﹁どうした!? たかだか三〇〇の騎兵隊すら止められんのか貴様 ら! 私の軍で何を学んでいた!!﹂ 貴族軍の騎士、宮廷魔術師は二つの所属を持つ。一つは貴族辺境 遊撃軍。もう一つはエリステイン魔法王国正規軍。彼らは貴族に仕 える軍隊であり、王国に仕える軍隊でもあった。 彼らに対する指揮命令の優先権は爵位をもつ貴族だが、同時にス ミェーラも上官である。因みに優先権は、スミェーラより貴族が上 という意味ではない。 そんな背景があり、貴族側についた騎士や宮廷魔術師も、スミェ ーラの元で日々鍛練をして来たのだ。それゆえの叱責だが、彼女の 後ろをついていく兵士たちは、貴族軍の兵士たちに本気で同情して いた。 スミェーラの雷はドラゴン並みに恐ろしい。まして彼女と戦うな どまっぴらごめんである。味方であるならこの上ない心の支えとな るが、敵に回ればこれほど厄介な相手はいない。 1006 この評価は誰でもない、パソスとベラの言だ。 同じ数の軍を率いての模擬戦で、スミェーラ対パソス、ベラ連合 軍の強さは互角である。ベラとパソスの役割はそれぞれ後方指揮官 と前線指揮官。二人とも非常に優れた能力を持っているし、連携も 抜群だ。その二人に対して、たった一人で後方と前線の指揮を受け 持ちながら互角にやりあえるスミェーラは別格である。この話を聞 いたジルマールが真顔で﹁スミェーラが我が国にいるのは建国以来 の幸運だ﹂と述べ、それが全く大袈裟に聞こえなかったという逸話 がある。 ﹁情けない連中だ。この戦が終わったら全員鍛え直しだな﹂ 黒い体に深紅のたてがみを持つ馬にまたがりそう呟くスミェーラ。 格好よさでいえば他の追随など許さないレベルで絵になる姿だった が、貴族軍の兵士たちは一様に顔を青くした。 念のため彼らの擁護をしておくと、押されているのはスミェーラ が相手だからではない。いくら一騎当千のスミェーラといえど、一 人で相手できる数はたかが知れている。勇ましいスミェーラの姿に 奮い立った王国軍兵士たちが、今が好機と言わんばかりに一斉に攻 撃を開始したのだ。士気が高まった王国軍兵士らと比べれば、自分 達の劣勢に気付きつつあった貴族軍との間には歴然の差があった。 ﹁何安心している。お前らもやるに決まっているだろう﹂ ふと振り返ってそんなことを言う女将軍。 これは気の毒に⋮⋮と他人事を決め込んでいた王国軍兵士たちが 首をすくめたり呻いたりした。 ﹁騎士も宮廷魔術師もたるんでるとしか思えん報告ばかりが耳に入 る。ちょっと実戦がないだけですぐこれだ。まずはパソスとベラか 1007 ら鍛え直してやるとするか﹂ 同じタイミングで﹁くちっ!﹂という何だか可愛いくしゃみが響 いたり、いい年をした孫バカのおっさんが悪寒を感じたりしたらし いが、些細なため割愛する。 戦場の真っ只中で敵味方問わずその手を止めさせ、自身の声を届 かせる事ができるのは、スミェーラの並外れたカリスマが要因だ。 ﹁さあ、行くぞ。私の軍にいるのは骨のあるやつばかりだと期待し ている﹂ スミェーラは周囲にいる兵たちに見えるよう、手綱を握り直した。 ﹁はあっ!﹂ びしりと鳴る音。それが戦闘再開の合図。容赦も手加減もなく進 んでいくスミェーラに続けと、王国軍の騎士たちが雪崩となって押 し寄せた。 ◇◇◇◇◇ ドルトエスハイムの屋敷からは、よく戦場が見渡せた。 1008 オールドーが見た限りでは、貴族軍圧倒的劣勢。虎の子の強者た ちは既に敗れるか足止めされており、戦況を変えようと現場に出て いったマルケーゼも帰ってこない。 侯爵たちの必死の抵抗もむなしく、あちらこちらで自軍が潰走し ているのが見てとれた。 この屋敷の目と鼻の先に王国軍が迫っている。 ﹁旦那様は無事逃げ仰せたか﹂ ﹁はい﹂ オールドーは隣にいる少年にそう問いかける。彼はオールドーが 自ら手を掛けて育てている後継者だ。 このまま一〇年もすればオールドーは隠居だな、と主が手放しで 褒めるほどに少年は才能豊かであり、また天性の努力家だった。だ がそれも今日をもって水泡と化す。 今この屋敷に、居るべき主人はいない。既に離脱した後だ。いや、 離脱させた後、と言うべきか。 プライドの高いドルトエスハイムはオールドーの進言に今度こそ 耳を貸さなかった。オールドーは無理矢理彼を馬に乗せて離脱させ た。 ﹁このような場所で守って果てるなど、公爵ともあろうお方が何と 情けない。どうせ果てるなら前のめりで果てて頂きたい﹂ ドルトエスハイムに仕えて数十年。かつてない厳しさでぶつけた 諫言を、ドルトエスハイムは愉快そうに受け取った。不敬ととられ て然るべき発言は、公爵の心を揺り動かしたらしい。 ﹁お前の⋮⋮否。お前たちの忠義に答えよう。あの世でお前たちに 文句を言われんようにせんとな﹂ 1009 ドルトエスハイムはそう言い残し、一度も振り返らずにこの屋敷 を去った。 この場所は囮だ。彼らが敬愛してやまない主人に相応しい死に場 所を守るための、最後の砦である。 ﹁さて。ここに残った者共は全員ここで死ぬわけだ﹂ オールドーが淡々とそう言った。 男も女も。老いも若いも。 皆、笑っていた。思い残すことなど無いと言うように。 ドルトエスハイムが王家に反逆すると決めたその日から、全員が 覚悟していたことだ。去りたい者は引き留めないと何度もドルトエ スハイムから御触れが出され、しかし誰一人として彼の元から去ら なかった。財産は没収。爵位も剥奪。次働く場所の保証はなく、そ れどころか命すら約束されない。 報告を聞いたドルトエスハイムは﹁馬鹿共が⋮⋮﹂と呟いてグラ スにたゆたうワインを見詰めていた。表情の変わらぬ瞳の奥で、彼 は何を想ったのだろうか。 ﹁ふ。揃いも揃って愚か者ばかりだな﹂ ﹁愚か者筆頭のオールドー様にだけは言われたくありませんね﹂ 快活な声で笑ったのは、屋敷でメイドをしている若い女。彼女も、 ここで果てると己の人生を決めた一人だ。 若いながら非常に優秀で、仕事についてオールドーとしょっちゅ うドンパチやった仲である。 ﹁ふん⋮⋮赦せ。お前たちには貧乏くじを引かせた﹂ ﹁貧乏くじ? まさか。特権の間違いでさあ﹂ 1010 誰かの言葉に笑うだけで応えず、オールドーは身体を戦場に向け た。既に屋敷は王国軍に包囲されている。 ﹁徹底抗戦! 何人たりとも屋敷に入れるな!﹂ 火球が数十屋敷に飛来する。彼らの姿を、紅の炎が包み込んだ。 ◇◇◇◇◇ 飛び交う魔術と矢の中を、身体一つで平然とこちらに歩いてくる 人影を、スミェーラは認めた。 ﹁あれは⋮⋮﹂ その姿正に威風堂々。何もしていない。ただ歩くだけで放たれる 存在感。怒号と轟音が支配する戦場においてなお、ただそこにいる だけで場が完成する人物を、ジルマールを除けば一人しか知らない。 ﹁そこにいたか。スミェーラ将軍﹂ スミェーラの周囲には騎兵が数十いる。なのにその人物は、スミ 1011 ェーラだけを見据えていた。他の者になど興味がないとでも言うよ うに。 ﹁お久し振りですね。ドルトエスハイム公爵閣下﹂ 周囲の兵士たちは、公爵に会う機会はそうそうない。誰か分から ず、しかしその雰囲気に圧倒されていた彼らは、スミェーラの言葉 にぎょっとした。 何をしている、とは聞かなかった。彼がわざわざスミェーラを名 指しした理由は一つしかない。 ﹁私に相応しい死に場所として貴様を選んだ。少しばかり時間をも らおうか﹂ ﹁それは、光栄の極みです﹂ 敵と言えど公爵。スミェーラは馬を降りて彼に敬意を払った。 尊敬できる貴族として。 尊敬できる人間として。 尊敬できる戦士として。 ﹁どれ。かつて矯正した悪い癖がどれだけ直っているか、直々に見 てやろう﹂ ﹁その節は感謝しています。良い機会ですので、恩返しさせて頂き ます﹂ ﹁ふ。剣だけでなく口も達者になったようだ﹂ 同時に鳴った、鞘を走る剣の音。 戦場はいつの間にか静寂に包まれていた。 この戦いを見逃すのはあまりにも勿体無い。 当代の将軍と、先代の将軍の直接対決なのだから。 1012 ピン、と張り詰めた糸が、見えた気がした。 唾を呑む音さえ、どこまでも届きそうな気がした。 桁違いのプレッシャーに、誰かの汗が地面に落ちていく。 ぽたり。 凄まじい音を響かせて、スミェーラとドルトエスハイムが剣を打 ち合った。 衝撃が烈風となって辺り一体を洗い流す。 国とプライドを賭けた二人の戦いが、今始まった。 ◇◇◇◇◇ 飛んできたのは成人男性ほどもある巨大な岩。台風で吹き飛ばさ れた車よりも尚速いスピードで迫るそれを、太一は左手一本で受け 止めた。 身体はゆらりとも動かない。衝撃を関節で和らげることすらしな い。 この程度の攻撃で、そんな小細工は一切必要なかった。 太一を止めるには、こんな攻撃では何の役にも立たない。 ﹁ちっ。化け物か貴様﹂ イニミークスの魔術を軽くあしらうその姿に、マルケーゼが毒づ 1013 く。 そんなことを言われても、という心境で、太一は肩を竦めた。 ﹁勝てないのにかかってきてんのそっちだろ﹂ 正論も正論に、マルケーゼは口を閉じた。 太一は一度たりとも攻撃していない。なんだか上の空で、防御行 動さえおざなりだ。 マルケーゼの剣も、イニミークスの魔術にも、防御すらしないと きがあるのだ。もちろん彼らも素人ではないので、この期に及んで 攻撃を外すという愚は犯さない。 攻撃は見事に太一に直撃し、そして弾かれる。マルケーゼの剣が、 人間の急所の一つである首を捉えたこともあった。その時の感触と 言えば﹁分厚い鉄板に弾かれたようだ﹂である。 かあん、と人を斬ったとは思えないほど高い音が響いたのだ。 切りつけられようが、魔術で撃たれようが、太一ははっきりいっ てどうでもよかった。太一としては、奏が心配で仕方ないのだ。良 い勝負しているとはいえ左足の状態は良いとはとても思えない。そ ういえば異世界に来て、流血沙汰の怪我を奏が負ったのは初めてか もしれない。 出来ることなら今すぐ奏の戦闘に介入して何とかしたいが、敵を 引き受けると言った彼女の気持ちも大切にしたい。ならばきちんと 見守るのが大切だろう。その間太一はマルケーゼとイニミークスを 引き付けていれば良いのだ。 戦場において感情論で物事を考えている辺りはまだまだなのだが、 そんな自分を反省する心の余裕は太一にはなかった。今すぐにマル ケーゼとイニミークスを黙らせ、奏を連れて離脱するのが正解だろ う。太一にはそれができる力があるのだから。 ﹁あのさ﹂ 1014 太一が、マルケーゼの剣を指先でぴたりと受け止める。 ﹁今すぐ終わらせても良いわけだけど﹂ それはどうしても承服できない。何のためにここまで来たのか、 意味が全く無くなってしまう。 ﹁く! まだまだ!﹂ 戦争という状況を考えれば、お互いに意味のない行為だ。 勝ち目の全くない相手に向かっていくこと。 格下との戦闘を無闇に引き延ばすこと。 それを、無駄と呼ばずに何と呼ぶ。 マルケーゼはここで退くわけにはいかないのだ。 イニミークスが、﹁異世界の召喚術師を封じてみせましょう﹂と いうから、わざわざ彼の前に姿を見せた。 戦場に出る気は満々だったが、勝てない相手の前に立つつもりは なかった。 本人を視界に収めていなければ厳しいというからここまで来たの だ。 太一がここまで付き合ってくれているのは、幸運と言う他ない。 彼の気まぐれ次第で、戦闘は長引きもするし、即終わったりもする。 マルケーゼは待ちわびている。イニミークスの策が完了するのを。 今か今かと待ち続けるマルケーゼと、奏に意識が向かいそれには 興味を示さない太一。スソラと戦うと決めた奏。彼らの選択と運命 が全て絡み合ったからこそなのだと、後世の歴史家たちは解析する。 どれか一つでも欠けていたら、それは起こり得なかった、あり得 なかったと。 今までマルケーゼとイニミークスを相手にしていた太一は、ふと 1015 イニミークスの様子が変わったことに気が付いた。気付かせてくれ たのはエアリィだ。 ﹁たいち。あの人様子がヘン﹂ 魔力強化によって感覚器官が人間の数百倍単位で優れる太一だが、 流石に精霊の感受性には及ばない。言われて始めてイニミークスに 注目し、彼の回りに何やら不思議な力が渦巻いているのが見てとれ た。 ﹁⋮⋮んん?﹂ 上の空だった意識が、引き戻される。 よくよく観察してみて、余計意味が分からなくなった。彼の周囲 を渦巻くのが魔力ではなかったのだ。 イニミークスは土属性の魔術師だ。マルチ属性の持ち主ではない のだが、実力はかなり高い。土属性の魔術だけならミューラと互角 かそれ以上だろう。 そんな彼が魔力でない何かを纏っている。いったいどういう事な のか。太一の乏しい知識では答えは導き出せなかった。 ﹁なあエアリィ。あれ、なんだ?﹂ ﹁⋮⋮﹂ エアリィが太一の言葉に返事をしないなど、今まであり得なかっ た。どんな下らない言葉を投げ掛けても嬉々としてリアクションを する精霊娘を知っているだけに違和感が凄まじい。 返事がないことで、これは珍しい、とエアリィを見た太一は、よ うやく自分の選択が間違っていたことに気付く。ここまで厳しい顔 をする彼女を見たことがなかった。 1016 エアリィは、あれが何かを知っている。 ﹁知⋮⋮﹁たいち! あれを! 早く止めて! 今すぐ!﹂ ﹁知っているのか、エアリィ﹂とやろうとして、とんでもなく切 羽詰まった顔で相棒が訴えてきた。 これはいよいよまずいと、深く考える前に身体を動かしてイニミ ークスに迫る。一発殴り飛ばして黙らせようとしたのだ。しかし。 ﹁一歩。遅かったな﹂ 振りかぶった拳を叩き付ける直前、イニミークスがそう言った。 とりあえず、もう拳は止まらないためそのまま彼を殴り飛ばす。地 面を転がっていくイニミークス。 ﹁⋮⋮﹂ 尻餅をついたまま、イニミークスは切れた口の端を拳で拭い、笑 う。 この余裕はどこから来るのか。 ﹁エアリィ!﹂ 根拠のない悪寒に従って、太一はエアリィを具現化させた。 ふわりと舞う精霊から放たれる強烈な魔力。その圧力に、周囲で 小石が浮かび上がった。 エアリィは厳しい表情で地べたに座る老人を睨み付けた。 ﹁今すぐそれを止めなさい!﹂ 1017 圧倒されているだろうイニミークスだが、彼は首を左右に振る。 ﹁無駄だ。一度発動した以上、最早私にも止められぬ﹂ ﹁なんてことを⋮⋮!﹂ ぎり、とエアリィが奥歯を噛み締める音が聞こえた気がした。 内容は分からないが、何やら宜しくない方向にことが進んでいる のは分かる。 ﹁なあ侯爵さんよ。あんたなんか知らないのか?﹂ イニミークスはマルケーゼの従者だ。主ならば部下が何をしよう としているか知っているだろうと思ったために問うたのだが。 ﹁⋮⋮委細までは知らん。こやつがお前を封じる手があるというか ら、その策に託したまでだ﹂ そう答えたマルケーゼが、何かを隠しているわけではないと、太 一は悟る。 彼もまた、慇懃だったはずのイニミークスの変化と、上級精霊エ アリアルが浮かべる険しい表情に、頭が若干ついていかないのだ。 ﹁旦那様、ご心配なく。彼らの動きを封じ、貴族に勝ちをもたらす ことにはかわりありません﹂ ﹁⋮⋮イニミークス。お前は何を考えている﹂ 張り付けた笑みを浮かべたまま、マルケーゼの問いには答えよう としないイニミークス。 彼からは、魔力ではないなんらかの力が、周囲に向けて放たれて いる。 1018 太一にはそれがなんなのか分からない。だが肌に触れるその感触 が、あまり宜しくないものだというのは理解できた。 ﹁⋮⋮エアリィ、これは﹂ ﹁これは妖気よ、たいち﹂ エアリィは周囲に目を配らせてから、太一に向き直った。 ﹁妖気を使った術を、妖術というの。最後に見たのは二〇〇年前。 まさかまた見ることになるなんて﹂ 最悪の気分、とエアリィは吐き捨てた。 ﹁この妖気の広がり方には覚えがある。ねえあなた。二〇〇年前に 起きた、ガルゲン帝国とシカトリス皇国の戦は知っているかしら﹂ 精霊と声を交わすことがあろうとは。心の片隅でそんなことを考 えながら、マルケーゼは頷いた。 歴史上でも下から数えた方が速いくらいに、最悪の戦争だった。 両軍合わせて五〇〇〇〇人、民間人は両国合計で七〇〇〇〇〇人 が犠牲になった戦である。 規模だけでも凄まじいのだが、それよりも恐ろしいのは、その戦 につけられた俗称だ。 別名、血みどろの狂想曲。 当時の文献には、軍人民間人問わずに制御不能なほど好戦的な者 が万単位で現れ、敵に向かうだけではなく同士討ちが何度となく引 き起こされた。 殺す必要のない民間人が一晩で四桁が虐殺されることもあれば、 屈強な部隊が暴徒と化した民間人数千人に八つ裂きにされることも あった。 1019 これは各国の上層部と一部の高名な歴史家のみが知る事実であり、 対外的にはかつてないほど激しい戦闘が続いたゆえの犠牲だった、 とぼかされている。 両国の仲は今も良好とは言えぬ状態だが、二〇〇年前の戦がよほ ど堪えたのか譲れぬことは一旦棚上げするなどし、一定以下まで関 係が冷え込まぬよう互いに気を遣った外交がなされている。 マルケーゼは他国からも尊重される重鎮、侯爵。一般には知られ ていない真実を知ることができる立場にあった。 ﹁して、その戦がどうしたのだ?﹂ 二〇〇年前の他国の戦が唐突に話に出された意図が分からない。 マルケーゼは素直にそう訪ねた。 ﹁あの時、軍人、一般人問わず狂戦士状態になったのは、戦争状態 という緊迫感でタガが外れたって言われてるらしいけど⋮⋮実際は、 そうじゃないの﹂ ﹁おいエアリィ、まさか⋮⋮﹂ マルケーゼはもちろん、太一にも嫌な予想が頭を過る。 イニミークスの一連の行動。エアリィの彼に対する発言。妖術。 そして血みどろの狂想曲。 全ての要素が、一つの鎖で繋がれているのだとしたら。 ﹁原因は、とある術によるもの。術の名前は﹃心食﹄。術の種類は ⋮⋮妖術﹂ ざわりと、太一の腕を鳥肌が駆け巡る。 それはエアリィの話が一本の糸で繋がったからか、それとも、貴 族兵たちの様子が、がらりと変わったからか。 1020 太一を、エアリィを、マルケーゼを見詰める目からは全ての色が 消え失せ、ただ、血を求める狂い尽くしたケダモノのものに変わっ ていた。 世界最大の大国ガルゲン帝国とシカトリス皇国上層部を震撼させ た悪夢が、二〇〇年の時を越えて、今再び始まろうとしていた。 1021 マーウォルトの会戦 八 ミゲールを倒した後一旦退いて体力の回復をはかったミューラは、 再び最前線にて貴族軍相手に獅子奮迅の活躍を見せていた。 あの戦闘は並みの騎士や宮廷魔術師ではとてもではないが追い付 けない。それをまざまざと見せ付けたミューラに対して、貴族軍兵 士の動きは明らかに忌避感が滲み出ている。 まあ自分達よりも格上と判明している相手と戦いたいと思う者は そういない。ミューラが積極的に命を奪おうとしていないとは分か っているが、必要と思えば躊躇いなく刃を返すと、ミゲールの死体 が雄弁に語っている。鎧ごと致命傷を与えたミューラの剣はとても 分りやすい脅威だった。 ミューラたった一人を数人で囲む貴族軍。卑怯でもなんでもなく、 そこまでしなければ足止めもできないのだから必要な措置である。 互いに勝つために戦争をしている以上、ミューラもそこに突っ込み をいれるつもりはなかった。 複数人を相手取って切り結ぶミューラ。ふと、肌に触れる空気に 妙な違和感を覚える。更に敵兵士の様子がさっきまでと違うことに 気が付いた。 彼らはプライドの高い正規兵であり、幼いミューラに実力で敵わ ない事実を反骨心という原動力に変えて対抗してきていたのだ。 手練手管を尽くして向かってくる彼らは、ミューラといえども気 を抜ける相手ではなく、気持ちを切らさずに対応することが求めら れている。 どこか彼らに穴があればそこを遠慮なく突いてやろうと考えたミ ューラは、敵兵士たちの動向から視線の動きまで、できうる範囲で 観察し続けていた。 敵の攻撃への対応は勝手に反応する身体に任せ、観察に意識を傾 けていたからこそ気付けた、些細な変化。 1022 彼らは少しずつだが、動きに精彩を欠き始めていた。やがて目か ら、理性の色が減っていく。 どう考えても普通ではない反応だ。騎士が操る王国剣術はケレン 味がなく正確さを持ち味にしたもの。言ってしまえばオーソドック スで、特筆するものがないのは確かだが、同時に穴という穴もない。 どんな敵を相手取っても、一定以上の戦闘を可能にする優れた剣術 なのは言うまでもない。ミューラも参考にすべき点はいくつもある と考える、オーソドックスな剣術の優位性。それは、エリステイン 最強の王国剣術の使い手であるスミェーラが証明している。 騎士になるには魔術の素質ももちろんだが、王国剣術を修めるこ とも必要だ。骨の髄までそれを浸透させている彼らの剣が、粗雑な 動きをするなど考えられない。 付近でこれに気付いているのは、どうやらミューラだけのようだ。 たん、と軽やかに後ろに跳んで、一〇メートルほど距離を取る。 ﹁どうした、ミューラ殿﹂ 付近一帯の王国軍を統率する部隊長が、訝しげにミューラに近付 いた。彼女に対して敬意を払っているのは実力が高いと認めたから である。 ﹁貴族軍の様子がおかしい﹂ 言葉少なに、しかし最低限のことは伝えるためにミューラが答え る。 何を言っているのか。しかし理由もなく急に距離を取らないだろ うと部隊長は視線を貴族軍に向け、すぐさまその理由に気付いた。 ﹁⋮⋮なんだ、あの目は⋮⋮﹂ 1023 小規模とはいえ流石に部下の命を預かる軍人である。その観察眼 はやはり優れたものだ。 最初に気付いたのはミューラ。 続いて部隊長。 それから数十秒。 今では周囲の騎士たち全員が見ただけで分かるような劇的な変化 が訪れた。 目からは明らかに色が消え、直立不動で立ち尽くす敵軍兵士たち。 隙だらけといえば隙だらけな姿だが、誰も追撃をかけられない。 ここまであからさまにされると、むしろ攻めにくいのだ。 さて、どうするか⋮⋮もう一度距離を詰めてみようか。 そう考えたところで、一つの気配がこちらに高速で接近していた。 何者かを考えようとして、この気配の主のことをミューラはよく知 っていると結論付ける。 やがてその気配の持ち主は、ひらりとミューラたちと貴族軍の真 ん中に降り立った。 ﹁レミーアさん?﹂ ミューラの呼び掛けには答えずに、レミーアは着地するや否や空 いている右手を貴族軍に向け。 ﹁風よ!﹂ 詠唱自体は至極シンプル。だが猛烈な突風が貴族軍を襲い、最前 線の騎士たちは抵抗もできずに吹っ飛んだ。 ただ風というだけだったが、風圧は筆舌に尽くしがたいものがあ った。 ﹁⋮⋮ミューラ。まずいことになった﹂ 1024 それはまた随分と穏やかではない。レミーアが言うから余計にだ。 レミーアの言葉を信じないという選択肢はミューラにはない。 ﹁どういうことですか?﹂ 何が起きているのかまでは、ミューラが保有する知識では答えは 導き出せなかった。 ﹁先日王都攻めてきた連中がいただろ﹂ ﹁はい﹂ 魔術石を使って攻めてきた一〇〇〇ほどの敵のことを言っている のだとミューラはすぐに理解した。 ﹁あれと似たようなことが起きている﹂ ﹁⋮⋮どういうこと、ですか?﹂ レミーアが頷く。 ﹁そういや、お前には話していなかったな。時間がないから手短に 済ます。精神操作が使われた疑いがある﹂ さあ、と血が引いていくのをミューラは感じた。 精神操作は、属性魔術では不可能だ。火、水、風、土の四属性は もちろん、光、闇などのユニーク属性でも同じである。 ということはつまり、魔術以外のなんらかの方法がとられている 可能性があるということ。 はっきり言って眉唾物だ。噂程度で囁かれているだけだとばかり 思っていた。 1025 ﹁レミーアさんは、知っていたんですか?﹂ やけに鮮明に響いた自分の声に、周囲が静寂に包まれていたのだ と、ミューラは気付くことができた。 ﹁噂程度に、な。だが、それを噂と切り捨てると、こやつらの変貌 ぶりの説明が出来ん﹂ ごもっとも。ミューラは口をつぐんだ。 ﹁さあ気を引き締めろ。あの程度吹っ飛ばしたくらいでは焼け石に 水だ﹂ レミーアに言われ、視線を貴族軍兵士に戻す。血走り、我を忘れ たその目は、どんなことが起こればそこまで正気を失うのかと思わ せるほどだった。 獣の咆哮を彷彿とさせる叫び声と共に迫る兵士たち。 ﹁全員死にたくなければ守りを固めろ! 力が段違いに強くなって いるはずだ!﹂ レミーアの忠告がミューラの耳に届く。騎士のレベルを遥かに超 えた威圧感で迫る彼らを見て、グリップを固めてカウンター専用の 構えをとった。 1026 ◇◇◇◇◇ その変化は戦場全体で見られた。 貴族軍兵士たちが、狂戦士と化していった。 その力は常軌を逸していた。 受けた盾ごと切り裂く威力の攻撃を平然と放ってくるのだ。 混沌に包まれる。 全てを呑み込まんと殺到する貴族軍。 侯爵の言葉も届かない。 この危急をおさめることができるのか。 難題が、エリステイン魔法王国に課せられた。 ◇◇◇◇◇ ジルマールは机を強く殴打した。 ばきりと机にヒビが入る。 貴族軍兵士が狂戦士化したと、パソス名義で報告が入った。疑い たくとも、情報の出所がそれを許さない。 1027 ﹁なんということだ⋮⋮!﹂ ジルマールは知っている。二〇〇年前の、血みどろの狂想曲を知 っている。 あの時も、狂戦士化したのではなかったか。軍は全壊、民間人も 数十万人単位で死亡したはずだ。 近代の歴史では短期間でもっとも多くの人が死んだ時期だ。 あれは確か、ガルゲンとシカトリスの国境付近で起きたからこそ、 広がった戦火に対して犠牲者が少なかったのだ。 だが、ここはどうだ? 人口およそ三〇〇万、エリステイン魔法王国の首都ウェネーフィ クスが目と鼻の先にある土地だ。彼らがウェネーフィクスに入り込 んだら、どんな酷いことが起きるか想像もしたくない。 絶望と恐怖に染まる民の顔など、考えたくもなかった。 ﹁⋮⋮御父様﹂ ﹁シャルか﹂ 愛娘の心配そうな声に、しかしジルマールは彼女を見ずに応じた。 この様子だと、どうやら彼女も知っているようだ。 ﹁エフティはどうした﹂ ﹁今は、疲れて休んでいるそうです﹂ ﹁そうか⋮⋮ずっと魔術を使いっぱなしだろうからな。無理もない﹂ シャルロットは頷いた。 魔力は底無しではないし、使う術が繊細なため精神的な疲労も大 きい。これまでも何度となく休憩を挟んでいるだろう。 1028 ﹁御父様⋮⋮。これから⋮⋮これから、どうなさるのですか﹂ 回りくどい言い回しは止めた。 どうせ避けて通れる話題ではないし、最終的には結論を出さねば ならないのだ。 この難局をどう打開するのか。 それ以外にも追求必須の問題は山ほどあるが、さしあたって対処 しなければならないことは決まっている。 ここで食い止められなければ、エリステインが終わるのだ。 ﹁やむを得ん。最悪は刺し違えてでもここで止める﹂ ﹁⋮⋮﹂ 刺し違えるのが妥当と思えるとはどんな冗談だろうと、シャルロ ットは思わず天を仰いだ。 ﹁エリステインで収めなければならない。他国まで及べば、犠牲者 の数に天井がなくなってしまう﹂ これは極論だが、エリステイン魔法王国の国民が全員死ぬと、死 者数は二〇〇〇万人だ。自国内で起きた内戦が引き金である以上、 それを覚悟してしかるべきだ。 それで収まるならば、国ひとつの滅亡で済むのだ。しかし魔の手 が他国にまで及んだら、犠牲者の数は天文学的数値にまでなるだろ う。 為政者として、それだけは防がなければならなかった。 ﹁だがな。予とてこの命容易くくれてやるつもりはない﹂ ﹁私もです、御父様﹂ ﹁うむ。お前とエフティの花嫁姿を見るまでは、死んでも死にきれ 1029 んな﹂ ﹁ふふ。御姉様には是が非でもいい御相手を見付けて頂かないとな りませんね﹂ ﹁まったくだ。あの器量だからと油断していたらものの見事に行き 遅れおって﹂ ジルマールは視線を戦場に向けた。まずはスミェーラに頑張って もらわなければならない。刺し違えるのはあくまでも最終手段。そ うならずに済むのならそうしたいところだ。 同時に、軍を統括するスミェーラが、全軍に﹁刺し違えろ﹂と命 令したのなら、その決定を全面的に指示する腹積もりでもあった。 戦場に出たくても出られない己の血筋を歯痒く思いながら、ジル マールは戦場の様子を目に焼き付けていた。 ◇◇◇◇◇ 高速移動をしながらの剣の打ち合い。 力を強化したパワフルな剣の叩きつけ合い。 持てる技術を惜しみ無く発揮した技術戦。 スミェーラとドルトエスハイムが披露した剣技全てが超一流であ り、拳闘を行えば高い観戦料を徴収できるだろう。 それほどまでに拮抗した戦闘は、お互いに傷ひとつつかないとい 1030 う膠着状態を作り出していた。 近接戦闘を極限まで高めた者同士の闘いは苛烈を極めた。だが今 は、あれだけの戦闘が嘘のように静かだ。先程から二人は動きを止 めているのだ。構えてすらいない。 全力になれる相手と戦えているというのに、何故か二人の顔は曇 っている。 ﹁⋮⋮ドルトエスハイム公爵閣下。申し開きがあるならお伺いしま すよ﹂ ﹁⋮⋮﹂ 極上の時間を邪魔されたのも確かにあるが、問題はそんな些細で はない。 ﹁何も言うことはないと。そういうことですか?﹂ ﹁これは私が命じたことではない。申し開きのしようがないという のが、正直なところだな﹂ 彼の言い分に、スミェーラは片眉をあげた。 ﹁それを誰が信じるのです﹂ ﹁剣を、軍の指揮を教えてやったというのに、ずいぶん薄情だな﹂ ﹁確かに閣下は師ですが。それ以前に、貴方は逆賊だ﹂ ドルトエスハイムは﹁はっ﹂と笑った。 ﹁言うようになったな、青二才が﹂ ﹁誰かの教育が優れていたということでしょう﹂ 重ねられるスミェーラの皮肉に、しかしドルトエスハイムはびく 1031 ともしない。スミェーラの方もこの程度で恐縮するタマではないと 知りながら皮肉っているので、どっちもどっちだが。 ﹁まあそんなことはどうでもよい。一先ずは休戦といこうではない かスミェーラ﹂ ﹁休戦⋮⋮?﹂ そうだ、と肯定するドルトエスハイム。今の一言で、会話のイニ シアチブを奪われたとスミェーラは理解した。とはいえ、ドルトエ スハイムがどんな意図をもってそれを言い出したのかが分からない。 ﹁重ねて言うが、これは私が命じたのではない。むしろ私の方が驚 いている﹂ 彼の視線の先には、狂ったとしか思えない目で王国軍に襲いかか る貴族軍兵士たち。 ﹁私が反逆者である事実を否定するつもりはない。この戦に敗れた なら、法に則り裁かれよう。だが、私には私の正義があり王家に、 ジルマール陛下に剣を向けたのだ﹂ これが、一線を退いて三〇年経った者にできる目か。スミェーラ でなければ正面から受け止めることは出来なかっただろう。 それだけの、強い意志が込められた目だった。 ﹁何人たりとも。例え理想を語り合った盟友であろうとも、私の正 義を踏みにじる真似は断じて承認できぬ﹂ この台詞を切り取って聞いたなら、傲慢な男だと思われることだ ろう。 1032 だがドルトエスハイムには、この台詞を口にする唯一の資格があ ると、スミェーラは知っている。 理由は単純。ドルトエスハイムが蜂起し、それに他の貴族が乗っ たのだ。ドルトエスハイムという威光を借りての反逆である。いっ たいどれだけの貴族が、ドルトエスハイムと同じ基準の理想と誇り を持っていたのだろうか。 ﹁なるほど。では、公爵閣下はどうそれを証すのです?﹂ とはいえ、それだけでは無条件に彼を信じる理由にならない。 彼の信念は大いに結構だが、スミェーラにとっては反逆者だ。 無論それは、ドルトエスハイムも理解するところだ。 ﹁貴族軍を黙らせるぞ﹂ ﹁公爵閣下も戦うと﹂ ﹁無論だ。このような手段を用いてまで勝利を得ようとするほど浅 ましくはない﹂ ﹁我々と共同戦線を張ると仰るのですか﹂ ﹁いいや、少々違うな﹂ ドルトエスハイムは身体を王都の方に向けた。スミェーラに対し ては丸きり無防備に。 ﹁私が槍となって戦線をこじ開ける。お前たちはその穴を利用して 広げろ﹂ 己の背中を預けて、先陣を切って戦うというのだ。 ﹁私を信じられぬと思ったなら、いつでも背中から切り捨てるがよ い﹂ 1033 ﹁⋮⋮﹂ ここまで言うのなら良いだろう。スミェーラは素直にそう思った。 妙な動きをしたら彼の言う通り切り捨てればよい。いくら世話にな り、また敬愛する公爵と言えど、今は反逆者。この厳しさこそが、 スミェーラがジルマールから将軍の肩書きを与えられる理由のひと つである。 ﹁さあ、ぐずぐずするな。並の騎士であのバーサーカーどもを押さ え込むのは厳しそうだ。お前が指揮をとってやれ﹂ ﹁そのつもりですからご心配なく﹂ ﹁よい返事だ﹂ ドルトエスハイムは剣を真横に薙ぎ払い、貴族兵たちに向かって いった。 その姿を見送り、スミェーラは率いる部下たちに向き直る。想定 外の戦闘をしなければならない。相手は同じ騎士、宮廷魔術師であ るが、箍の外れた人間が発揮する力が凄まじいものになることは分 かっている。部下たちには厳しい戦いを強いることになるだろう。 だが、それは彼らの義務でもある。だからこそ、平時は庶民に比べ 優先権や優遇制度など、様々な特権が与えられているのだ。 そして何よりも、こうした緊急事態が発生した時こそ使命感に燃 えられる者が彼女の軍に所属しているとスミェーラは信じていた。 自分に拡声の魔術をかけて、命令を下した。 ﹁この声が聞こえた者たちに告ぐ! 私に続け! 貴族兵どもを押 し返す!﹂ 頼れる指揮官の命令に俄に沸き立つ王国軍。 士気は落ちていない。 1034 さて、どこまでやれる。否、やれるやれないではなく、やるのだ。 スミェーラは歯噛みした。 ﹁私も、偉そうなことは言えんな⋮⋮﹂ この戦を管理する者として、このような事態まで想定するべきだ ったのだ。 まさかのバーサーカー化。そこまでカバーしろというのも酷では あるのだが。 とはいえ、起きてしまった以上は、鎮めなければならない。やる ことは、既に決まっていた。 1035 マーウォルトの会戦 九 ﹁今度はさっきの比じゃないヨ!﹂ 大上段に振りかぶった戦斧を、スソラは思い切り振り下ろさんと している。 魔術剣ならぬ魔術斧と、奏は暫定的に命名した。先程と同じよう に、大地を走る何らかの魔術が奏目掛けて迫るだろう。 この魔術の凄まじさは、初動が恐ろしく速いこと。彼女が繰り出 す通常の魔術に比べて明らかに速い。 戦斧を介しなければ撃てない、連射はできないという制限はある ものの、それを補って余りある利点だ。連射については奏の推測で はあるが、それが可能なら既に連射しているだろう。有効な手を打 てるのに打たない道理はない。 奏としては速さを全力で求めて、ようやく追い付けるか否か。信 じられないほどに手強い相手。 逆を言えば、これだけの手応えを奏にもたらせる相手はそういな いのだ。戦えば戦うほどに分かるが、彼女との勝敗は引き分けに終 わる可能性が非常に高いと奏は踏んでいる。力があまりにも拮抗し ており、決定打がどちらも通らない。このまま時間が過ぎ、お互い に戦闘継続不可能。そんな形で終わるのではないか。 そんなことを考えながら、奏も既に魔術を完成させていた。 地面を這う魔術なら、地面ごと破壊してしまえばいい。 火属性及び土属性融合魔術、焦熱の飛弾。言ってしまえば劣化溶 岩弾だ。 口にするのは容易いが、相手の魔術の威力と最低でも互角でなけ れば不可能な対抗手段。奏の才覚と能力があればこそである。 高速詠唱に失敗しなかった。後はスソラに合わせて魔術を撃つだ けである。 1036 二人の間に横たわる一瞬の静寂。 ﹁っ!﹂ 二人が息を呑む音が発せられたのは同時だった。 スソラは撃つ方向を。 奏は撃つ方向と魔術を。 咄嗟に変えて放つのもまた同時だった。 スソラの魔術が近付いてきた貴族兵を吹き飛ばし、焦熱の飛弾を サスペンドさせた奏が水鉄砲で押し流した。 そして周囲を窺い⋮⋮予想以上の光景に思わず息を呑んだ。更に それぞれの背後から迫る貴族兵に、振り返りつつバックステップを とった結果、奏とスソラは背中を預け合う体勢になった。 ﹁なんなのこれは!?﹂ ﹁あたしだって聞いてないヨ!?﹂ 二人の視界に映るのは、目が血走り、口の端から泡を吹いて唸る 貴族兵たち。 尋常でない光景に、二人は警戒心を強める。奏は経験不足だから こそ。スソラは経験豊富だからこそ。二人の背景は違うものの、状 況を把握しようという結論は同じだった。 ﹁聞いてない? 貴族側の差し金じゃないの?﹂ ﹁こんなのが手段にあるなんて一言も言われなかったヨ﹂ スソラは知らない、ときっぱり言った。 八方を完全に囲まれている。蟻の通る隙間すら存在しない。今に も飛びかからんとする貴族兵。ここまで囲まれてから気付くとは。 思った以上に戦いに夢中になっていたことに、奏は思わず舌打ちを 1037 しそうになった。同じことを考えていたのだろう、スソラが己の不 注意を毒づいたので、それでよしとすることにした。 ﹁どう考えても、これは貴族側が発端だよね﹂ ﹁それが妥当な線だナ﹂ 貴族兵が皆狂っている。ドルトエスハイムの人となりは会ったこ とがないので分からないが、スミェーラの性格を考えれば、このよ うな手段を取るとは考えられなかった。 ﹁ここは、一時休戦といこうよ﹂ ﹁お断り⋮⋮と言いたいとこだけど、確かにこれは続きどころじゃ ないネ﹂ 奏は現有戦力を確認。魔力はもう半分ほど使っている。体力もそ れに合わせて減っている。足の怪我も枷だ。 結論、状況は芳しくない。 唯一の救いは、スソラがいることか。今まで戦っていた相手に背 中を預けるのは気が進まないが、彼女とて消耗は少なくないはずだ。 一人でこの局面を乗りきるのは苦しいだろう。ここは共闘するのが 利口なはずだ。 ﹁ま、お互い死にたくないからネ。いいよ、あたしの背中をキミに 預けるヨ﹂ ﹁⋮⋮貴族に雇われてるんでしょ? 契約は?﹂ 一応それも聞いておかねばならないだろう。だがスソラは鼻で笑 った。 ﹁これが意図的にしろそうでないにしろ、あたしまで狙ってくるな 1038 ら契約は破棄するしかなイ。命あっての物種サ﹂ それには全面的に同意する。どんなことも、五体満足で元気だか らこそなし得るのだ。 ならば、と。奏はふと思い付いたことを言ってみた。 ﹁なら私に雇われない?﹂ ﹁はイ?﹂ 初めて聞いたスソラの呆けた声色に、こんな状況ながら奏はくす くすと笑ってしまった。 戦いながらもなんとなく感じていたことだったが、奏はこのバト ルジャンキー女を嫌いになれそうにもなかった。 ﹁私はこんなとこで死ぬつもりは更々ない。そしてそれは貴女も同 じ。依頼内容は簡単、私と共に戦うこと。達成条件は生き残ること。 どう? 悪くないと思わない?﹂ 瞬間目を丸くしたスソラだったが、やがて何を言われたのか理解 したのだろう、今度は彼女の方が笑い始めた。 ﹁クフフフ⋮⋮ほんとに、キミはほんっっとに面白いネ。いいよ、 その依頼受けよウ。報酬はあたしの命で手を打つとするヨ﹂ ﹁あら。それだと値引き交渉はできないね﹂ ﹁当然。その代わり、キミを五体満足で家に帰すと約束しよウ﹂ 戦う前から生還の約束など大言壮語もいいところだが、大口を叩 きつつお互いを鼓舞するくらいで丁度いい。 バーサーカーが相手だ。結果的な同士討ちの可能性も無視して津 波のように殺到してくるのは目に見えている。なりふり構わない攻 1039 撃は流石の奏とスソラでも十分脅威となりうる。 ﹁じゃあ、まずは太一のところに行こう﹂ ﹁あの召喚術師の少年カ。その方が生き残れそうだネ。乗っタ﹂ 太一はエアリィを召喚しているようで、圧倒的な魔力を放出して いた。探すまでもなく方角が分かる。見失おうにも見失えないだろ う。 奏が杖を両手で構え、スソラががん、と大地を戦斧で叩いた。 ﹁あたしが前を担当するヨ﹂ ﹁私がバックアップと背中を引き受ける﹂ 理性がないのに、小癪にも知恵は回るようで、全員で足並みを揃 えて包囲網を狭めてきていた貴族兵たち。彼我の距離は三割ほど縮 められていた。 ﹁終わったらメシでも行こうカ!﹂ ﹁生還記念にね!﹂ 景気付けに大声を出して。 生き残る可能性を高めるため、二人はこの戦場において最強の戦 力を持つ少年の元へ向かうべく作戦行動を開始した。 ◇◇◇◇◇ 1040 殴り倒しても。 殴り倒しても。 一向に数の減らない貴族兵たち。 エアリィを呼び出しての強化。それは強化魔術と同じであり、し かしその効率と効果は魔力強化の比ではない。 配分をかなり速度に割り振って、殺さないギリギリのラインで力 を強化している。 普通なら、これで通用するのだ。 理性ある人間や、魔物でさえも通用する。 その速度はもはや目で追えるものですらなく、ガチガチに固めら れた鎧の上からでも容赦なく衝撃が身体に通る。 ここまで力の差を見せつければ、相手の方が戦意を喪失する。 目で追えないスピードで戦場を駆け巡り、地に倒れ伏す騎士たち。 味方がそんな状況に陥れば、嫌でも思い知るというものだ。 だが、今に限っては、それが有効ではなかった。 一時凌ぎにしかならないのだ。 ﹁無事か!?﹂ 太一は近くで剣を振るっているマルケーゼに対して、大声で問い かけた。 ﹁なんとかな!﹂ 即座に反応が返ってきて、まだまだ健在なのだとホッとする。 しかしそれは、気休めにしかならなかった。 1041 斬り殺せる相手は容赦なく切り捨てているマルケーゼに対して、 太一は相手が気を失ったり、怪我をする程度の攻撃しか加えていな い。 端的に言えば、敵の数を減らしているのはマルケーゼのみなのだ。 太一の攻撃は、結果を見れば通用していなかった。 我を忘れて襲い掛かってくる貴族兵は、痛覚が麻痺しているのか、 いくら殴ってもじきに起き上がる。 隙をついて倒れた貴族兵にマルケーゼが止めを刺してはいるもの の、彼にも貴族兵が殺到しているので微々たる戦果だ。 そうなっているのは、太一が相手が致死性の攻撃をしていないか ら。 容赦なく相手を殺せればいいのは、太一自身が一番良く分かって いる。この期に及んで殺害に対して腰が引けている自分に辟易しな がらも、最後のラインを踏み越えられない。 強化した状態で敵の攻撃を受けてみて、この戦場で自分が死なな いと確信している。 そう、例え全員が死んだとしても、太一だけは生き残っているだ ろう。 結局、何も分かっていなかった。 反省、反省と言い続け、己の甘さにあれだけ懊悩を重ねたにも関 わらず、出た答えがこれである。 あの時。マルケーゼとイニミークスを相手に遊んでいたあの時が、 ラストチャンスだったのだ。 とっとと終わらせるべきだった。 奏の意志を尊重などと、尤もらしい言葉で先送りしている場合で はなかった。 もっと言えば、この決戦が始まる前に、自分がドルトエスハイム の本拠に乗り込んで、さっさと捕まえてしまえば良かった。 自分の力を正確に分析すれば、どれもこれも可能なのだ。レミー アが、奏が、ミューラが、スミェーラが、ベラが、パソスが、全力 1042 を出しても不可能なそれが、太一にだけは出来たのだ。この戦にな る前に、片を付けることが出来た。 全ては後の祭りだ。 守る力は持っている。 今できることは、覚悟を決めるだけ。 同じ言葉でも、含まれる意味はまるで違う。 口先だけの、言葉としての覚悟ではなく、求められるのは行動を 伴った覚悟である。 マルケーゼは、太一が敵を殺さないことに対して何も言わない。 もちろん彼としては太一が貴族兵を殺してくれた方が助かる。し かし太一が圧倒的なスピードで敵を次々と殴り倒しているからこそ、 自分が生き長らえていると分かるからだ。見捨てられる可能性があ ったことを考えれば、太一がマルケーゼを守る対象としているのは 彼にとっては幸運だ。 その上でまだ何かを求めるのは間違っていると頭では分かってい る。 だがせめて。 欲を言えば、その速さでもって、敵を切ってくれれば。 言わないし、顔にすら出さないが、マルケーゼは本心からそう思 っていた。 相変わらず、貴族兵の攻撃は留まるところを知らない。 マルケーゼから向けられる、何かすがるような目。 彼のことを助けたい。敵ではあったが、目の前でみすみす死なせ たくはない。 奏との距離は離れている。すぐに行かなければ。 レミーアとミューラとの距離は更に離れている。マルケーゼと奏 を連れて、すぐに行かなければ。 だが、そうすることで、この付近にいる王国軍兵士はどうなる? 太一が一人で引き受ける貴族兵の数は半端ではない。太一がこの 場を離れれば、それらがすべて、次の獲物を探して動き回ることは 1043 必至だ。 最悪なのは、狙うべき獲物とそうでない者を、きちんと分別して いることだ。 あちらを守ればこちらが守れない。太一にとって大切な人を守れ ば、その枠に入らなかった者は間接的に見捨てることになる。 ぐるぐる、ぐるぐると回る。 あれもできる。これもできる。 あれをすれば、それが出来ない。 これをすれば、あれが出来ない。 恐らく、太一が何を選んだとしても。 誰も彼を責めようとはしないだろう。 太一がまだまだ子供だと、周囲の大人はそれを前提で彼に接して いる。 太一一人が背負わなくていいと、言ってくれるだろう。 それが辛い。 いっそ、罵ってくれればよいのだ。 目に映る敵という敵を全てを切り捨てて行くのはどうだ。 確かにそれなら、早く決着はつくだろう。 だが、太一が救える者と、救えない者が出るのは必然。 やらないよりはもちろんマシ。 しかしだ。 こうなる前に防げる術がいくつもあったと気付いた今では、何を やろうとも罪滅ぼしになりはしないだろう。 結局、当事者にも関わらず、他人事だったのだ。 巻き込まれただけだと、被害者意識でいたのだ。 視界が、滲んだ。 ﹁なにが、召喚術師だ⋮⋮﹂ 何のことはない。結局子供だったと言うだけだ。 1044 ぐじぐじと。 うだうだと。 第三者の目で見れば鬱陶しいことこの上ない。 自分で自分を省みてそう思うのだから、他人が見たらなお強くそ う感じるだろう。 自分は強いからと、特別意識があったのだろう。 思い違いも甚だしい。 現に今、手も足も出ない状況になっているではないか。 自己分析でも客観的評価でも確かに強いが、それを万能と思い上 がった罰が、今下されているのだ。 ﹁やってやる⋮⋮﹂ もう遅いだろうか。 いいや。その反省は後だ。 今だって十分悩んだではないか。 遅かったなら遅かったでいい。 こうなったのは自分の責任だ。 ならば、自分ができる最大限で、その責任を取らなければならな い。 太一は剣を抜いた。 この剣で、文字通り切り開く。 貴族兵の数を、片っ端から減少させる。 敵と味方が入り乱れている以上、エアリィの魔法は使えない。敵 と味方を識別するような、細かい魔法は使えないのだ。今は、この 剣だけが頼りだ。 正面から、迫る貴族軍の騎士。狂ったような目で、太一を見据え ている。 彼を切り捨てる。 それが、太一にとっての本当の戦争の始まりだ。 1045 柄を握りしめれば、返ってくる頼もしい手応え。 太一は、剣を振り上げた。 ﹁│││っ!?﹂ 振り上げた剣を、しかし、振り下ろせなかった。 両手を広げたエアリィが、太一の目の前で妨害している。 相棒の行動の意図が分からずに、思わず固まる太一。 悲鳴と喧騒が支配する戦場において、太一とエアリィの周囲だけ、 時間を切り取ったかのように灰色になっているような錯覚を覚えた。 ﹁⋮⋮エアリィ。どいてくれ﹂ このままでは取り返しがつかなくなる。 目に映る人を救いたい。かつての決意を今こそ実行するのだ。 太一とエアリィの絆は強い。太一の確固たる想いは、エアリィに も届いているはずだ。 だが、彼女は太一の前に立ち塞がったまま。 やっとの思いで覚悟を決めた矢先に、その覚悟を無にするという のか。 彼女は何を考えているのか。 そう思ったところで、太一は思わずぎょっとした。 エアリィが目に涙を浮かべていたから。 涙を振り撒きながら、首を左右に振るエアリィ。 悲しみにくれるその顔に、太一はふと、妙な胸騒ぎを覚えた。 ポロポロと溢れる涙を拭おうともせずに。エアリィは、やがてそ の可憐な口を開いた。 ﹁⋮⋮ごめんね、たいち⋮⋮﹂ 1046 エアリィは、今、なんと言った? 耳がいかれていなければ、﹁ごめんね﹂と言わなかったか? ﹁何で謝ってるんだ、エアリィ﹂ ﹁だって! アタシは⋮⋮謝らないと、いけないの⋮⋮﹂ 益々意味が分からない。エアリィには常日頃助けられている。彼 女がいるからこそ、乗り切れた場面はひとつやふたつではない。 彼女が謝る必要はない。 太一は本気でそう思った。だが。 ﹁ううん⋮⋮たいちには、ごめんなさいを、しないとダメなの⋮⋮﹂ 頑なに、エアリィは譲らなかった。 見つめあう二人。 止めどなく溢れるエアリィの涙を見て、太一はこれ以上、彼女が 泣く姿を見たくないと思った。 ﹁分かった⋮⋮何故エアリィが謝るのか、理由を教えてくれないか ?﹂ エアリィには理由があるのだろうが、太一には謝られる理由がな い。 考えても分からないのだから、聞くしかないのだ。 エアリィは﹁うん﹂と頷き、そして涙が浮かんだ目で太一の視線 を正面から受け止める。 ﹁アタシね⋮⋮この姿は⋮⋮本当の姿じゃないの⋮⋮﹂ ﹁へ?﹂ 1047 何を言っているのかが分からずに、間抜けな声が思わず出てしま った。 ﹁この姿は、仮初めなの⋮⋮アタシ、たいちに嘘ついてたの﹂ ﹁嘘?﹂ こくりと頷くエアリィ。 嘘と言われても、太一には皆目見当がつかないのだが。 ﹁もっと前に⋮⋮たいちに本当の姿を明かしていれば⋮⋮こんなこ と、もうとっくに止めれてたの﹂ ﹁え⋮⋮﹂ 止めることができていた。 信じられない。 エアリィは魔力での圧力も半端すぎて使えないと言っていた。だ から使わなかったのだが、彼女いわく本当の姿ならば、このふざけ た悪夢すら止められるというのだ。 ﹁だから、ごめんね⋮⋮怖かったの⋮⋮。たいちが凄すぎて、どう なっちゃうのか想像もできなくて⋮⋮﹂ しゃくりあげながらも独白を続けるエアリィ。太一は返す言葉が 出てこずに、ただ聞いているだけ。 ﹁でも⋮⋮こんなにたいちが苦しむなんて⋮⋮そんなこと、したく なかったの! ごめんね、たいち!﹂ ついに声をあげて泣き始めてしまったエアリィ。 つまり、彼女には何らかの躊躇いがあって、本当のことを明かせ 1048 ずにいたのだ。つまり隠し事をされていたということ。 それさえなければ、この悪夢はもっと前に止めれていたというこ と。 エアリィの独白をまとめればそういうことだ。 もちろんだが、太一は隠し事をするなんて、とエアリィを責める 気は無かった。 むしろ、嬉しかった。 この悪夢を、止められるかもしれないということ。 涙を流しながら、心からの謝罪をしてくれたということ。 何より、エアリィが、それだけ太一を大切だと思ってくれていた ということ。 ﹁エアリィ﹂ びくりと、彼女の肩が震えた。 本当に、本当に小さな肩だ。 彼女も人知れず、人間には理解できない大きなものを背負ってい たのだ。 ﹁ふあ⋮⋮﹂ 指先で、彼女の目尻を拭う。 ﹁ありがとな、エアリィ﹂ ﹁怒って、ないの?﹂ 太一の指を両手で掴みながら、エアリィがおずおずと訊ねてきた。 答えは﹁もちろん﹂の一択だ。 ﹁今のに、俺が怒っていいとこは無いだろ﹂ 1049 ﹁でも⋮⋮﹂ ﹁でもじゃなくて﹂ もう一度、エアリィの涙を拭う。 ﹁エアリィに覚悟が無かった、って話なら、俺は間違ってもエアリ ィを責められない。俺がもっとしっかりしてれば、こんなことにな らずに済んだ。エアリィがいなきゃ俺はただのガキなんだ﹂ ﹁たいち⋮⋮﹂ エアリィが浮かべたのは泣き笑い、とでもいうのだろうか。 女の子の涙は男にとって本当に凶悪な武器だと、太一は再確認し た。 ﹁俺は、どんなことをしてもこの戦争を終わらせる。俺の手で終わ らせる。だから、エアリィ﹂ ﹁うん﹂ 太一は一度、深呼吸した。そして、エアリィに向かい、頭を下げ た。 ﹁俺に、力を貸してください﹂ エアリィは自分で涙を拭い、それでも溢れる涙は止めずに、笑っ た。 ﹁⋮⋮喜んで﹂ 最高の返事が聞けた。 それが嬉しくて、太一は顔を上げる。そして、思わず硬直した。 1050 エアリィの姿が、薄くなっていたから。 ﹁エアリィ⋮⋮?﹂ ﹁大丈夫⋮⋮。姿が変わっても、アタシは、アタシだから﹂ 穏やかな笑みを浮かべるエアリィ。 そこに何かを差し挟む余地はなく、太一は黙ってそれを見詰めた。 ﹁ね、たいち﹂ ﹁ん?﹂ ﹁忘れないでね、アタシのこと﹂ ﹁心配すんなよ。忘れたくても、忘れらんないから﹂ ﹁ふふ、嬉しい⋮⋮﹂ どんどんと、エアリィの姿が薄らいでいく。 ﹁アタシの呼び方と本当の名前を教えるね﹂ ﹁ああ﹂ ﹁アタシの、本当の、名前は│││﹂ パシンと、太一の脳裏で何かが弾けた。 これは夢か。それとも幻か。 どちらでもいい。 眼前には、こちらに迫る貴族兵の姿。 彼が振り下ろす剣を左手で受け止め、右足を上げて蹴り飛ばした。 吹き飛んだ騎士はそのまま敵軍の団体に突っ込み、将棋倒しになっ た。 さあ。全てを終わらせよう。 ﹁太一!!﹂ 1051 後方から、奏の声。振り返れば、肩で息はしているものの、目立 った傷のない大好きな娘の姿。 その横には、彼女と死闘を繰り広げていた戦斧使いの女もいる。 どんなやり取りがあったかは分からないが、この窮地を乗り切る ために、共闘をしたのだろう。 太一は彼女に感謝した。おかけで、奏が無事にここまで来れた。 さあ、後は太一の仕事だ。 今まで散々うだうだしていた分を、少しでも取り戻させてもらお う。 ﹁本当にありがとな、エアリィ﹂ もう呼んでも返事をしない相棒に、改めて礼を言う。 だが、彼女に会えない訳ではない。 あれだけの別れの挨拶を済ませたのにすぐに会うのは少々気恥ず かしいが、太一としても彼女に会いたいので、ここは遠慮なく呼ば せてもらおう。 駆け寄ってくる奏と戦斧使いの女にふっと笑いかけ、太一は左手 を天に掲げた。 ﹁契約に従い、我が声に答えよ│││﹂ 太一は、そこにありったけの魔力を込める。 ﹁│││召喚。エレメンタル・シルフィード﹂ 1052 エレメンタル・シルフィード 戦場のあちらこちらで、同時にその現象は観測された。 誰何を問う必要すら感じない、桁違いの魔力。それが召喚術師の 少年のものであると、敵も味方も関係無く、知るところだった。 戦場の端から端まで届くその莫大な力。 それが、一瞬にして収まったのだ。 ある者は﹁何事か﹂と声をあげ。 またある者は突如途切れた魔力に驚き、主の無事に心を配る。 この戦場において唯一、命を失う危険を持たないその少年。 そんな彼を脅かす何者かが現れたのかと、王国側も貴族側も、思 わず息を呑んだ。 もしそんなことになれば、貴族兵が狂乱したどころの騒ぎではな いのだ。 だが、幸か不幸か。 少年に向けた心配は杞憂に終わった。 その少年が発生源と思われる、更に強い力が、戦場を包み込んだ │││ ◇◇◇◇◇ 1053 フル回転させていた足を、思わず止める。 急に速度を緩めて立ち止まった奏に追随して、スソラも止まった。 エレメンタル・シルフィード│││ 奏の耳が正常に機能しているなら、太一は確かにそう言った。 エアリィはどうしたのだろうか。たまに嫉妬するほど太一と仲の 良い風の上級精霊。 太一から放出される魔力が弱まったことから、召喚していたエア リィを一端引っ込めたのだというのは分かる。その理由までは分か りかねるが、奏は召喚術師ではないし、現場にいなかったのでなん ともいえない。何らかの事情があったのだろう。 再度召喚するのだとして、何故エアリィと喚ばないのか。奏が知 る限り、太一が召喚出来る精霊はエアリィただ一人だったはず。 新たに契約した精霊がいたのだとして、太一がそれを黙っている だろうか。奏はもちろん、ミューラとレミーアにも明かすはずであ る。 それとも、戦争中に別の精霊と契約したのだろうか。 思考の迷路の中、奏は限りなく正解に近付いたのだが、当人はそ れに気付いていない。 太一は強烈な魔力を込めた左手を天に掲げたまま静止している。 彼にはひっきりなしに貴族兵が襲いかかっていたが、ある一定の範 囲に侵入した途端、まるでバットで打ち返されるボールのように弾 かれている。 どうやら凄まじい力場が太一を覆っているようだ。 ﹁どうしたんだ、あれハ⋮⋮﹂ 奏と同じく皆目見当がつかないのだろう、横でスソラが呻いた。 ﹁私にも分からない⋮⋮﹂ 1054 あのような光景は初めて見る。エアリィを喚んでいればあのよう なことも出来るのだろうが、今、太一の周りに精霊はいない。 つまり召喚術の課程で、既にそれだけの力が発揮されているのだ。 ぞくりと、奏は背筋が震えた。 何か、とんでもないことが、起きそうな気がする。 凄まじいものを、目撃するような気がする。 ﹁⋮⋮いいか?﹂ ふと、太一が虚空に向かって声を投げ掛けた。その先には、奏た ちには見えない精霊がいて、太一の声だけは届いているのだろう。 ﹁分かった﹂ 数秒後、頷きながら再び発言した太一。 天に向けられたままの左手を握り締め、太一はその手を、ゆっく りと振り下ろした。 ﹁我が前に姿を現せ。シルフィード、具現化﹂ 奏の予感が的中する。 世界が、淡い緑色の光に包まれた。 ﹁!!⋮⋮っ!﹂ 声にならない声をあげて、スソラが硬直した。 それも、当然だろう。奏には彼女の気持ちが嫌という程よく分か る。 奏も、全く同じだったから。 放たれている圧力は、本当に尋常ではなかった。 1055 不可視の暴風。これを的確に言葉であらわせと言われたら、そう 答える。 実際に風が吹いている訳ではない。奏の長い髪が、ぴくりとも揺 らがない。 太一からは欠片も敵意を感じない。それどころかこちらを慈しむ ような気持ちさえ感じる。この見えない暴風に乗って、伝わってく る。 では何故、膝をついてしまいそうになるのか。 上手く説明はできない。天敵の毒蛇を目の前にした憐れなカエル は、半ば本能的にその場で硬直するという。 そんなことを頭の隅で考えて、奏は合点がいった。 そうだ。これは本能だ。 無意識にでも頭を下げたくなるような、本能のようなものが働い ているのだ。 そして、そう感じた根拠が正しかったと、奏は思う。 天からふわりと舞い降りる、一人の女性。 少女と言っても良いその姿。年の頃は奏や太一、ミューラと同じ くらいか。 奏は、今日ほど日本語が不便な言語だと思ったことはなかった。 天を舞う少女を表現する適当な言葉が出てこないのだ。 人では、どれ程手を加えようと再現できないであろうその美しさ。 引き合いに出すのは申し訳ないが、エルフをも上回っているだろう。 淡い銀色の髪は薄いエメラルドを含んでおり、膝裏まで伸びてい る。 すらりとした均整のとれたボディ。その身体には、シルクのよう な白地の布を柔らかく纏っている。 そして、その顔立ちには、見覚えがあった。 そう。あれは。 ﹁この姿で会うのは初めてね。たいち﹂ 1056 まるで生き別れの兄妹のような表情で見つめ合う二人。 ちくりと、奏の胸に小さな針が刺さる。 ﹁やあ、さっきぶりだな。エアリィ⋮⋮いや、シルフィード﹂ ﹁うん﹂ そうだ。あれは、エアリィだ。 全てがカチリとはまる。心に生じた小さな、しかし鋭い針は見な い振りをして、奏はスソラを促し、二人に近付く。いつの間にか圧 力が消え、動けるようになっていた。慌てる必要を感じない。貴族 兵たちは脅え震えて、動けずにいた。どうやら奏とスソラだけが解 放されたようだ。 ﹁太一﹂ 奏はもう一度、彼に呼び掛ける。 ﹁奏⋮⋮﹂ 太一は顔をこちらに向け、心底ホッとした様子で答える。 そして、奏は人生で一番狼狽するという経験を味わった。 ﹁え? ええっ?﹂ ﹁ごめん。俺がバカなばっかりに、怪我させちまった﹂ 何が起きているのだろう。 自分ではない温もりを、服越しに感じる。 太一に抱き締められていると頭が理解するまで、少なくない時間 を要した。 1057 背後から﹁おーおー熱いネー。若いネー。見せ付けるネー﹂とか らかう声や、﹁むー⋮⋮﹂と膨れた声が耳に届くが、奏は無意識に それらを丸めて脳内のゴミ箱フォルダに投げ込んでいた。 そしてそれを自覚し、インフルエンザに罹患した時以上に顔が熱 くなった。 ﹁た、太一、人が見てるから﹂ ﹁もうちょい﹂ ﹁ぅ⋮⋮っ!﹂ もうちょいってなんだ、もうちょいって。 そろそろ顔が自然発火するので離して欲しい。しかし、いざ離れ る時は名残惜しく感じるのだろうな、と、なんだかんだで現金な自 分がいると更に羞恥を加速させた。 暗殺騒動があった夜が思い出される。あの時は自分からかなり積 極的に迫った。なのに、いざ太一から来られると抗体が全く存在し ない。 ﹁無事でよかった、本当に﹂ ﹁う、うん⋮⋮﹂ ようやく満足したのか、太一が身体を離す。太一の両手は、奏の 両腕を掴んだまま。予想に違わず名残惜しく感じてしまい、現状と、 抱き締められたという事実が頭の中でぐちゃぐちゃに渦を巻き、結 果、太一の顔を直視できない原因となった。 ﹁クフフ。今宵は季節外れの熱帯夜になりそうだネ﹂ ﹁スソラっ!!﹂ ﹁おお、怖い怖イ﹂ 1058 けたけたと笑うスソラ。彼女と共に戦ったからこそ、奏は無事で いられたのだろう。 ﹁サンキューな、スソラの姉さん﹂ ﹁うんにゃ、死にたくないからネ﹂ スソラは右手をひらひらと振って、礼には及ばないと態度で示し た。 ﹁ところで坊や、そこでスネてる別嬪さんはほっといていいのかナ ?﹂ ﹁うえっ?﹂ 言われて振り返る。頬を膨らませて明後日の方向を向いたシルフ ィード。 ﹁し、シルフィード?﹂ ﹁つーん﹂ 口でつーんて。 太一は、思わず笑みを浮かべる。 彼女は、あの子でもあるのだ。 根っこには、あの子が確かにいる。 嬉しくなってしまった故の笑みだった。 ﹁アタシはいらないのかな﹂ ﹁そんなことないよ﹂ ﹁でも放置されたし﹂ ﹁そんなことないって﹂ 1059 膨れたままのシルフィード。﹁タラシだネ⋮⋮﹂という不名誉な 言葉は意図的にスルーする。奏が﹁ほんとにね⋮⋮﹂と同意したの にも気付かないフリを決め込む。 ﹁機嫌直せよシルフィード﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁おーい?﹂ ﹁⋮⋮シルフィ﹂ ﹁ん?﹂ そっぽを向いたまま言うシルフィード。 凄まじいデジャヴ。 ﹁ニックネーム﹂ ﹁あ、ああ。シルフィ?﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁シルフィ﹂ ﹁うん﹂ はにかむシルフィードもといシルフィ。これがエレメンタル。随 分子供っぽいところがあるんだな、と太一は正直な感想を抱いた。 ﹁ねえ太一。説明してくれる?﹂ さっきまでの浮わついた気持ちをようやっと抑え込んだ奏が、太 一にそう言った。 問い掛けた奏も何となく予想はついてはいる。エレメンタル。そ してシルフィード。この二つの名前と、上級精霊であるエアリィを 上回る存在感。 それらの要素は、奏の予想をなぞることになるだろう。 1060 ﹁彼女はシルフィード。四大精霊の一人だ﹂ ﹁⋮⋮っ﹂ スソラがごくりと喉を鳴らした。 やはり。 分かっていた。分かってはいた。 この尋常ならざる空気を纏う女の子が、只者ではないことくらい は。 四大精霊。 この世界アルティアには、四つの要素がある。 現代魔術の基礎となるそれは、火、水、風、土の四属性だ。現代 魔術は、それぞれ該当する属性の精霊から力を借り受けることで行 使が可能になる。この世界にはたくさんの精霊がおり、その中で魔 術使用者に一番近い場所にいる精霊が応じる。 これまで奏が使用してきた魔術の数々も、発動の原理はすべて同 じ。種族や魔力量、魔力強度に影響されることはない。 精霊魔術師には出会ったことは無いが、現代魔術とは全く原理が 異なる。使える属性は現代魔術に比べて制限されるが、威力が跳ね 上がるのだ。 ユニークマジシャンを除けば、全ての魔術師は精霊と深く結び付 いている。普段から、それを意識しているしていないに関わらず。 そして、エレメンタル。 属性ごとに存在する精霊を束ねる王のようなものだろう。 火ならばサラマンダー。土ならばノーム。水ならばウンディーネ。 日本でもゲームなどでお馴染みの精霊。 そして、目の前にいるのは四大精霊、風のシルフィード。 風属性の全ての精霊の頂点に立つ少女である。 今でこそ普通に接しているが、彼女の存在感の大きさは、先程味 わった。あれでも、恐らく片鱗だろう。何せ、太一は彼女を喚び出 1061 し、そして具現化させただけなのだ。何かの術を使ったりしたわけ ではない。 ﹁⋮⋮まさか、生きてるうちに四大精霊に会うとは思わなかったヨ﹂ 月並みな驚きの言葉も当然。それ以外に表現のしようがない。 何気に、この世界の人間で四大精霊に出会ったのはスソラが初め てなのだ。 ﹁アタシも、人間に出会うのは初めてよ。まあ、エアリィの時の記 憶を呼び戻せば、そうじゃなくなるけれど﹂ ﹁そこ。貴女は、エアリィとどんな関係なの?﹂ パッと一目見て、エアリィだと思った。エアリィがもう少し成長 し、人間と同じスケールの姿になればこうだろうな、という予想を そのまま実体化させたような姿なのだ。 ﹁えっとね。アタシ、自分の力と人格を封印していたの。だから幼 かったし、身体も小さかったのよ﹂ 何故封印していたのか。それを訊ねると、﹁まあ、色々あって⋮ ⋮﹂と濁されてしまった。精霊にも悩みのひとつやふたつあるだろ う。言いたくないなら掘り下げない方が良い。 ﹁今のアタシは、エアリィなんだけどエアリィじゃない。あの子の 時の人格も記憶も確かに持っているけれど、アタシはアタシよ﹂ 説明をしながら首を傾げはじめてしまったシルフィ。自分でも何 を言っているのか、伝わるのかと疑問に思ったらしい。 何となくだが、シルフィが何を伝えたかったのかは理解できた。 1062 ﹁かなで。あなたのことはエアリィの記憶でよく知ってる。だから あなたも、アタシに対してはエアリィと同じように接してくれて良 いわ﹂ 本人が良いと言うのならそうさせてもらうことにする。 しかし。 ﹁なんというカ。風の精霊の頂点のはずだけど、随分フランクだネ﹂ それは奏も思っていた。存在としての格は明らかにシルフィの方 が上のはずだ。が、今のやり取りを考えても、クラスメイトや友人 と話している感覚しか覚えない。 ﹁そんな崇められても困るもの。今みたいに直接会話が出来るよう になってる今は特に﹂ どうリアクションしたらいいのか分からない、とごちるシルフィ に、三人揃って﹁なるほど確かに﹂と納得した。 ﹁よし。シルフィ。そろそろ片を付けるか﹂ ﹁そうだね、たいち﹂ 一通り会話が終わったところで、太一がそう呼び掛けた。 はっとする奏とスソラ。そうだ、今は貴族兵が狂戦士となってい るのだ。この一帯はシルフィの影響下にあるのだろうが、戦場は今 やかなり広がりを見せている。シルフィというとんでもない存在を 目の当たりにして頭から抜け落ちてしまっていたが、今は緊急事態 だ。 急に慌て出した奏とスソラに、しかし太一とシルフィが﹁大丈夫﹂ 1063 と口を揃える。 ﹁大丈夫って⋮⋮どういうこと?﹂ ﹁シルフィが、もう止めてる﹂ 事も無げにそう言う太一。 止めている? 貴族兵を? ﹁全員止まってるの?﹂と確認する奏に、太一は﹁そうだよ﹂と 応じた。 信じられない。この戦場、どれだけの広さがあると思っているの か。 ﹁指向性を持たせて、威圧してる。貴族兵だけが、止まってるよ﹂ ﹁威圧⋮⋮?﹂ ﹁貴族兵だケ⋮⋮?﹂ ﹁ん。やつらは本能に近い状態にあるから、その本能に訴えかける ように威圧するんだ﹂ さらりと言っているが、それがどれだけ凄まじいのか、彼は分か っているのだろうか。 ⋮⋮いや、分かっていないだろう。出来るからやった。その程 度の認識のはずだ。 ﹁後は妖気を洗い流すだけだな﹂ ﹁うん﹂ 太一がシルフィに左手を向ける。 シルフィが太一に右手を向ける。 フランクなのは態度だけだった。 1064 魔力のやり取りが行われた途端、まるで押し潰されるかと思うほ どのエネルギーがシルフィの周囲を渦巻く。 これが四大精霊。 風を統べる者の力。 奏には分かる。シルフィは、半分も力を出していない。太一がシ ルフィに与えた魔力の強度が、およそ三〇前後。 この時点で、エアリィを七〇の力で召喚した状態を遥かに上回っ ている。 人間離れという言葉では生易しい。 怪物? いや、そんな可愛い生き物ではない。 これではまるで。 ﹁かなり優れた妖術だけど、アタシなら簡単に止められる﹂ 呟いたシルフィが、右手を天に向け、半円を描きながら戦場の中 心に向けて突き出した。 シルフィが纏っていた、緑色に明滅するエネルギーが、猛烈な速 さで広がっていく。思わず身構えてしまった奏とスソラをも包み込 んで、その勢いは留まるところを知らなかった。 暴力的なまでのエネルギーの奔流。その実、触れるととても柔ら かく、温もりさえ孕んでいた。 ﹁これは⋮⋮﹂ ﹁あったかイ⋮⋮﹂ 貴族兵も、王国軍も、何もかもを覆っていく優しい力。 実害のない竜巻とでも呼ぼうか。役目を終えたのか、徐々に薄く なり、散っていく。 幻想的な光景を呆然と眺める奏とスソラ。それは彼女たちだけで 1065 はなく、今この瞬間、正気だった者全員に、等しく起こったことだ った。 そして、劇的な変化は、これだけに留まらない。 ﹁あれ?﹂ ﹁俺、何してたんだ?﹂ あちらこちらから届く、戸惑う声。声の主は、つい先程まで暴走 していた貴族兵によるものだった。 ﹁正気に戻った⋮⋮?﹂ その呟きは、誰が発したものだったか。 いや、誰の言葉かは重要ではない。気にするべきは、あの悪夢が 終わった、ただ一点だ。 ﹁ね? 簡単でしょ?﹂ シルフィは、誰かに聞かせるためにその言葉を言ったわけではな い。しかし結果的に、戦場を包み込む大歓声開始の合図だった。 ﹁終わった! 終わったぞ!﹂ ﹁た、助かった!!﹂ 地獄絵図が終わったことを喜ぶ王国軍兵士たち。狂戦士化してい たときの記憶は無いのか、そこかしこで無防備に喜ぶ王国側の兵士 たちを見て、何がなんだか分からない、と戸惑う貴族軍。劣勢だっ たとはいえ、まだまだ戦える者も多いのだ。しかし敵軍であるとこ ろの王国軍は、まるで戦に勝ったかのように喜んでいた。 無邪気に人が喜ぶ姿は、自然と顔に笑みを浮かばせるもの。その 1066 例に漏れずに自然と顔をほころばせていた奏とスソラ。あれだけの 出来事が、本当に嘘のようだった。 ﹁太一。これで、終わったの?﹂ ﹁ん? ああ、終わったよ﹂ 勝ちも負けもない戦になった。そこかしこで、もはや王国軍も貴 族軍も関係なしに喜ぶ姿が見てとれる。 その輪には加わっていない貴族兵も、既に戦意は持っていないよ うだ。 太一は、本当にすごいことをやってのけた。 ﹁さて。第二段階だな﹂ ﹁え?﹂ これ以上、することがあるというのか。 太一が何をしようとしているのか分からない。だが彼はお構いな しに、再びシルフィに魔力を与えた。 ﹁シルフィ、声どこまで届く?﹂ ﹁んー? ご所望とあらば一〇マイル先まで﹂ ﹁いやそんなにいらね﹂ ﹁冗談よ﹂ ﹁だよな﹂ ﹁本気でやれば一〇〇マイルはいくもの﹂ ﹁⋮⋮﹂ 直線距離で凡そ一六一キロメートル。この世界では並外れた通信 手段だろう。 未だに主流は伝令なのだ。 1067 無線通信に比較的近いことをしているのは、奏のソナー魔術だろ うか。 ﹁この戦場で届けばいいから!﹂ ﹁それだけでいいの? なら寝てても出来ちゃうな﹂ 精霊が寝るのかよ⋮⋮という太一の愚痴を見事に黙殺し、シルフ ィは人差し指に光を点し、指で小さく弾いた。緑色に瞬く光の球が 浮遊する。 ﹁はい。この光に向かって話しかけてみて。戦場全体に太一の声、 届くよ﹂ マイクのようなものだろうか。それなら分かりやすい。太一はそ の光を口元に取り寄せた。 ﹁聞こえてるか! ドルトエスハイム公爵!﹂ ビリビリと世界が震える、天から大地に放たれる、とんでもない 大きさに拡声された太一の声。 ﹁あんたに与える選択肢は二つ! 今すぐに降伏するか、さもなく ば俺と決闘するかだ!﹂ 太一と決闘など、正気の沙汰ではないだろう。シルフィを従える 太一相手に決闘を挑む者がいたなら、その者は間違いなく勇者だ。 まあ、無謀者とも言うのだが。 ﹁あんたが勝ったら、この戦争貴族軍の勝ちでいい。どっちも選ば ないってんならもう知らん﹂ 1068 一見好条件に思えるが、実は酷いものだ。選択肢を選ばなくても 負け。選択肢のどちらを選んでも負け。 要は、貴族に勝たせるつもりなど毛の先すらないのだ。 ﹁三分経ったら答えを聞きに行く。よぉく考えろ!﹂ 最後にそれを言い放ち、太一はマイク代わりの魔力球を消滅させ た。 ふう、とため息をつく太一を、誰もが呆然と見つめている。 ﹁太一⋮⋮あれは、条件にすらなってないよね?﹂ 考える時間が三分しか与えられない上にあの条件。あれでは選ぶ という言葉は不適切だ。 どんなつもりで今の条件をドルトエスハイムに突き付けたのか、 奏はそれを聞いてみたかった。 ﹁あーうん。チャンスなんかやるつもりねぇし﹂ やはり確信犯だった。 ﹁いやな。最初っからこうしときゃ、良かったんだよ﹂ 太一が、ぽつりと言った。 ﹁俺とエアリィなら、単独でドルトエスハイムんとこ乗り込んで、 拉致って城まで連れていくことも出来たんだよな﹂ とんでもなく強引な手段だが、太一ならではの方法だ。奏でもレ 1069 ミーアでもミューラでもそうは行かない。太一の専売特許である。 ﹁結局そうしなかったばかりに、戦死した人も結構いると思う。俺 がワガママなばかりにな﹂ 防げた犠牲だと、太一はそう言いたいのだ。 ﹁だから、俺は。もう遠慮するのは止めたんだ﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁もちろん何でもかんでも首を突っ込む気はないけどさ。少なくて もこういう時に役に立つ力を持ってるんだから、使わないとな、っ て思うんだよ﹂ これが太一の答え。 確かに彼の力なら、常人には出来ないことを軽々とやってのける。 憧れすら持つこともできない圧倒的な力。太一だからこそ出せる 答え。 奏は、太一の視線を正面から受け止める。 ﹁支持するよ﹂ 表情を緩めてそう答えた。 ﹁え?﹂ ﹁答え、出たんでしょ?﹂ ﹁あ、ああ﹂ ﹁だったら、支持する﹂ まだ、彼の中ですべてが解決した訳ではないのだと思う。それで も、何となくスッキリとした太一の表情。その裏では、奏にも分か 1070 らない苦悩があったはずだ。相談されなかったのは少しばかり悔し いが、太一にとっては人に話しにくかったのだろう。 奏にだってそういう悩みはあるのだから、相談されなかったこと をとやかく言うのは筋違いだ。 今は、悩んだ太一を労うのが先だ。 ﹁私は、太一の味方﹂ ﹁お、おう⋮⋮ありがとう﹂ 照れ臭そうに後ろ頭をかく太一。そのお陰で、奏は恥ずかしさを 抑えることができた。 ﹁応援するから、私にできることがあるなら何でも言ってよ?﹂ ﹁ん。頼りにしてるよ奏﹂ ﹁うん﹂ と、馬にまたがった騎士が一人太一のもとへやってきた。 彼はやおら馬を止めると、ゆっくりと下馬して太一を見据えた。 ﹁タイチ・ニシムラだな﹂ びしりと声をかけられ、太一は頷いた。 ﹁ドルトエスハイム公爵からの伝言をお伝えする。﹃この戦、貴族 軍は全面降伏する﹄とのこと。当降伏宣言は、スミェーラが保証し ている﹂ ﹁⋮⋮﹂ その言葉をどのような基準で受け入れればいいのか、太一は即座 に判断しかねた。彼が貴族側、或いは第三者の間者である可能性は 1071 否めないのだ。 この戦の勝敗を一手に引き受けると宣言したのだ。責任は重大だ。 誤った判断は折角治めたこの場を台無しにしかねない。 最悪シルフィに手伝ってもらって、両軍の動きを止めてしまえば いいのだが、出来れば穏便に締め括った方が後々楽だろうとも思う のだ。 太一の返事を待つ伝令。 言葉を脳内で選び続ける太一。 責任が重いからこその沈黙。 しばらく考え込んで、そもそも、という点に辿り着く。降伏勧告 に対する答えを自ら聞きに行く、という形を取ったのは、確実な情 報を得るためだ。戦略だの駆け引きだの、そういったところからは 無縁だと自己評価している太一。そんな太一に出来るのは、チート 能力を使って力づくで喋らせること。脅迫ではある。だが知略を持 たない以上、やむを得ない。先伸ばしにしたり躊躇ったりすれば先 ほどの二の舞となるのは必至だ。 ﹁伝令を介してじゃなくて直接本人から言葉を聞きたい。ドルトエ スハイム公爵んとこまで案内してくれ﹂ ﹁⋮⋮公爵閣下の言葉を疑うのか?﹂ ﹁ちげーよ。俺が信用なんないのはあんただ。下っ端の使い走りに 用はないって言ってんの﹂ 太一の挑発的な言葉に、怒りで顔を歪める伝令の男。 だが、彼は耐えた。彼が降伏を勧告したのはドルトエスハイム公 爵。その言葉の時点で、彼は公爵以外のいかなる者とも話す理由は ないのだ。 彼が一介の兵士ならば、相手にもされないだろう。 しかしドルトエスハイムが直接話をする理由も価値も、この少年 は持ち合わせる。それは単に降伏を勧告されたからではない。召喚 1072 術師から勧告をされたということに意味がある。 と。太一は強い生命力を二つ感じた。 その方向に顔を向けると。 先頭を歩く初老の男、その背中に槍を突き付けながら、馬に乗っ て進む王国軍最高司令官の姿。 ﹁スミェーラ。お前の言った通りだったな﹂ ﹁私が彼の立場なら、直接会わないと納得しないでしょうから﹂ スミェーラの顔はよく知っているが、もう一人の男のことは初め て見る。だが身体から滲み出る、只者ではない空気から、太一は彼 こそが公爵だと当たりをつけた。 奏とスソラに目配せする。手出しは無用、と。 ﹁少年が召喚術師か。会いたかったぞ﹂ ずっしりと、鉛のような声。 ﹁あんたが公爵か﹂ ﹁うむ﹂ 本来は敬意を払うべき相手なのだろう。しかし立場としては敵軍。 今彼に対して必要なのは、降伏を迫ることだ。 ﹁貴族軍の暴走を止めたのは君かね﹂ ﹁そうだけど﹂ ﹁ほう⋮⋮興味がある。どうやったのだ﹂ ﹁どうもなにも。ただ魔力を叩きつけて貴族兵にかけられた術を吹 き飛ばしただけだ﹂ 1073 魔力で術を吹き飛ばす。よほど力量に差がなければ不可能なカウ ンター技。単純明快な答えが、太一の非常識さを際立たせる。 今交わしているのは無駄話。太一はそれも多少なら構わないと思 っている。目の前にいる以上、取り逃がすというのは万が一にもあ りえない。 第一、彼はスミェーラの槍をずっと向けられているのだ。 ﹁術を吹き飛ばす⋮⋮か。随分と強引だな﹂ ﹁止めれれば方法なんて何でもいいよな﹂ ﹁うむ。違いない﹂ 目的と手段を履き違えないのが大事だ。 格好だけつけて効果が無いことの方がよっぽど情けない。 ﹁ところで。井戸端会議に付き合ってもいいんだけど、答えは用意 してるんだよな?﹂ まあ、スミェーラに槍を向けられるということを許容している時 点で、彼の答えは決まっているだろうが。 ﹁無論だ。それにしても少年。君は目上に対して随分と不遜だな﹂ ﹁そりゃあ、あんたとは敵として会ったからな。味方として会って たら敬意くらい示してた﹂ ﹁どうだかな。それだけの力があれば、ジルマール陛下に対しても 敬意など必要あるまい。その気になれば実力でこの国を制圧出来る だろう﹂ ﹁まあな﹂ ドルトエスハイムが核心として迫った言葉に対して、躊躇いもな く肯定した。三大国家では敵にならないという宣言だ。 1074 ﹁何故それをしない﹂ 全員とは言わないが、力があればそれに匹敵する野心を持つ者が 多い。太一がどの程度の野心を持つのか、ドルトエスハイムは気に なっていた。 ﹁何故って。国なんか手に入れたってめんどくさいだけじゃんか﹂ ﹁は⋮⋮?﹂ 手に入れることはできる。それを前提で、国を制圧するのを面倒 だと言った太一。ドルトエスハイムは目を丸くする。 ﹁手に入れた後、責任取んなきゃなんないじゃん。忙しくって昼寝 も出来なくなるだろうし﹂ ﹁好きなように独裁すれば良かろう﹂ ﹁やだよ。何で好き好んで人に嫌われることせにゃなんないんだ﹂ それが、国を奪ったものに与えられる特権だというのに。 いや、それよりも。 国を獲るという誘惑が、昼寝という誘惑に負けた。 その事実がゆっくりとドルトエスハイムの頭に溶け込み、彼は大 声で笑った。 ﹁くっくっく⋮⋮。君は面白い。やはり特別な者、凡人には分かり かねるということか﹂ ﹁それは違います。ドルトエスハイム公爵閣下﹂ すっと流麗な足取りで太一の横に並んだ奏が、はっきりとした口 調で一言そう告げた。 1075 ﹁ほう。随分としっかりした娘だ﹂ ﹁ありがとうございます﹂ 太一と違い、何となく敬語で話す気になった奏である。 ﹁して、違うとはどういうことかな﹂ ﹁私たちは、元の世界では一般人でした。私も、フォースマジシャ ンの力を持っていますが、努力もせずに得た力で他人から何かを奪 うのは躊躇われます。私たちはどちらかといえば小市民です﹂ ﹁⋮⋮なるほどな。そういうことにしておこう﹂ 納得したかどうかは別にして、ひとまずは奏の言葉を受け入れる ようだ。 自分らが小市民だというのを譲るつもりはない。単なる小市民が、 強い力を得ただけなのだ。 ﹁じゃあそろそろ答えを聞かせてくれよ、ドルトエスハイム公爵﹂ 井戸端会議は十分だと、自分の言葉に込めて言う。そう問われた 彼は微笑み、頷いた。 ﹁私の名において、貴族軍の無条件降伏を宣言する﹂ マーウォルトの会戦は、ドルトエスハイム公爵による敗北宣言に よって、その幕を下ろした。 1076 ﹁よーし。戦争は終わりっと。じゃ、もう一人に落とし前をつける とするか﹂ これで終わったと思っていた太一以外の者たちは、その言葉に首 をかしげる。戦が終わったのに、何をしよういうのか。 ﹁タイチ、カナデ﹂ ﹁あっ! レミーアさん、ミューラ!!﹂ やるべきことが終わったのか、ちょうどレミーアとミューラがこ ちらに姿を現した。二人ともところどころ怪我をしているが、見た 限りでは軽傷のようだ。 目に涙を浮かべて二人に近寄る奏。 戦場を縦に三分割し、その右翼側と左翼側に分かれていたために ずっと安否が分からなかったのだ。 ﹁カナデ!﹂ 抱き合う美少女二人に、少し離れたところでそれを見ていた太一 は﹁眼福眼福﹂とおっさんのようなことを言っていた。 ﹁タイチがいるから大丈夫だろうと思っていたが、まあ、無事でよ かった﹂ ﹁私も、安心しました。ずっと、様子が分からなかったから⋮⋮﹂ お互いに無事を確認し、ほう、と安堵のため息をつく三人。 ﹁カナデ。タイチは⋮⋮何をしてるんだ?﹂ まあ太一が無事なのはある意味では当然。それでも心配していた 1077 のだろう、少し離れている太一に視線を向けたレミーアが、不思議 なことをしていた。 指先で虚空をなぞっている。まるで何かを測るように。 ﹁分かりません、何か、もう一人に落とし前をつけるとか⋮⋮﹂ ﹁もう一人、か。⋮⋮なるほどな﹂ 少し黙考し、合点がいったようで頷くレミーア。一方の奏は分か らないままだ。太一は誰を指しているのだろうか。 奏が分からぬのも無理はない。この場でそれを理解しているのは、 レミーアを除けばスミェーラとドルトエスハイムのみなのだ。 ﹁レミーアさん⋮⋮タイチの横にいる子⋮⋮気にならないんですか ?﹂ ﹁ああ、気になるとも。だが躊躇われるな。⋮⋮どんな答えが返っ てくるのか恐ろしい﹂ ﹁ああ⋮⋮﹂ 気になって仕方ない、という様子のミューラと、触れるのが恐い、 というレミーア。太一の横にいるのがエレメンタル、風のシルフィ ードと聞いたら、どんな顔をするのだろうか。 ﹁カナデは、知っているか?﹂ ﹁はい﹂ ﹁どう、なの?﹂ 話す分には普通だが、正体はとんでもない。微妙な顔をする奏に、 ﹁やっぱりいい﹂と口を揃えるレミーアとミューラ。 ﹁よし、シルフィ。このくらいの距離だな?﹂ 1078 ﹁うん。ねえ、ホントにやるの?﹂ そんなやり取りが聞こえてくる。いつの間にか太一を中心に出来 る輪。この光景に、奏は郷愁を覚えた。 思い出されるのは、とある日の教室の光景。 ︵そっか⋮⋮あの時も、そうだった⋮⋮︶ 奏とて、何の理由もなしに男の子を好きになることは殆ど無い。 一目惚れというのもあるそうだが、それを経験する前に、太一に対 し、生まれて初めて本気で恋をした。 その理由が、ふと脳裏によみがえったのだ。 ﹁あれだけの人を傷つけたんだ。報復される覚悟くらいは出来てる だろ﹂ ﹁でも、たいちがやらなくても⋮⋮﹂ ﹁俺じゃないと出来ないし、今逃がすとまた同じことやるぜ﹂ ﹁⋮⋮背負うんだね?﹂ ﹁⋮⋮ああ﹂ ﹁そう⋮⋮アタシは、たいちが望むようにするだけだよ﹂ ﹁サンキュー、シルフィ﹂ そう返事をした太一は身体を明後日の方向に向けた。ウェネーフ ィクスの正門から向かって左。方角は地球の単位で北西。 ﹁イニミークス。逃がしゃしねーよ﹂ 右手の剣を振り上げ、振り下ろす。 遥か数キロ離れた大地に、極大の光が天から叩き付けられる。 青白い光が網膜を侵し、皆反射的に目をつむった。 1079 二〇秒。太一が地面に落としたのが落雷だと、空気が加熱されて 放たれる轟音が教えてくれた。 四大精霊と契約した希代の召喚術師がメインとして使用したと後 世まで語り継がれる雷魔法﹃トールハンマー︵雷神の鎚︶﹄が、最 初に登場した歴史的瞬間だった。 その威力は筆舌に尽くしがたく、一撃で龍さえも撃墜すると言わ れる。 ﹁⋮⋮標的、沈黙﹂ ﹁⋮⋮そっか。これで、本当に終わりだな﹂ 数多の歴史書が記すこの瞬間だが、使用者の太一が苦い顔をして いたと正確に記しているものは、一冊として存在することはなかっ た。 1080 三章エピローグ 夜が明けた。 晴れ渡った青空を見上げる。 昨日は大規模な戦に参戦していたのだ。 そんなことがあったのだと、まるであれは夢だったと思わせるよ うな、この異世界で迎える変わらぬ朝だった。 部屋にしつらえられているバルコニーから外を眺める。 眼下の庭では、この城で働く者たちが、所狭しと動き回っている。 あれだけの戦争があっても。いや、あったからこそ忙しいのだろ う。彼らは昨日までと比べて数割増しで忙しない。 視線を遠くに移してみる。遠目に見える町並み。 耳を澄ませば聞こえてくる、街の喧騒。 貴族との内戦が終わったと、ジルマール名義で即座にお触れが出 された。夜が明けたなら、これまでと同じ通りに生活をして構わな いと。 市民たちの動きは素早かった。ずっと家に閉じ込められて、鬱屈 のようなものが溜まっていたのだろう。多数の人の声が重なってい るから、というのもあるだろうが、これだけ離れているのに王城ま で活気が伝わってくるのだ。 戦争が無事終わってよかった。太一は心からそう思った。 ﹁タイチ。もう起きとったのか﹂ 寝癖がぴんぴんと跳ね、寝巻きかわりのネグリジェを崩したまま のレミーアがベランダに姿を見せた。 年頃の青少年の視線をもろともしない豪胆さ。相変わらずワイル ドな人である。 1081 ﹁ああ。目が覚めちった。奏とミューラは?﹂ ﹁まだ寝ているよ。肉体的にも精神的にも負荷が大きかったからな。 ゆっくり休ませてやれ﹂ ﹁そうだな﹂ 奏が負った足の傷は、昨日のうちに完治している。優秀な魔術師 が腕を振るった。痕も残らないほど綺麗に治ったのだ。 ﹁レミーアさん、ありがとう﹂ ﹁なんだ、礼なら昨日聞いたぞ﹂ 欄干に体重をかけて寄り掛かる落葉の魔術師に今一度礼を伝えた。 レミーアは左手をひらひらと振るが、こういう礼は何度言ってもい いだろう。 ﹁レミーアさんが治癒魔術使えるなんて知らなかったなあ﹂ ﹁まあ、怪我でもせん限りは使わんからな﹂ それに、と彼女は付け加える。 ﹁私の治癒魔術など半端だ。骨折などの大きな怪我にはまだまだ対 処できんからな﹂ アズパイアでの防衛戦でミューラが負った怪我は重傷。あの時、 治癒魔術はさわり程度でしか修得しておらず、使えなかった。現在 のレミーアが治せるのは、擦過傷や火傷、刺し傷、切り傷などで、 そのうち軽傷に限られるという。 そこに治癒魔術の弱点がある。行使する者の許容範囲を越えた怪 我に対しては、幾ら治癒魔術を使っても効果がない。 奏がもう少し深く傷を負っていたら手に余ったとのことだ。レミ 1082 ーアですらそれだ。治癒魔術の難易度の高さは推して知るべし。 レミーアは﹁亜流でも上達が急務だと思い知ったのでな﹂と空を 見上げながら言った。 回復魔術や治癒魔術などはもっと普及しているのかと思っていた。 真っ先に研究される課題だろうと、太一は思うのだ。 その考えをレミーアにぶつけると、彼女はフッと笑った。 ﹁お前が思うほど、魔術は万能ではない。治癒魔術を扱えるのは一 部の水属性魔術師と、光属性のユニークマジシャンのみだ。需要に 対して供給が圧倒的に追い付いていないのが現状でな。怪我をして も簡単には、はい元通り、とはいかぬのさ﹂ 腕が吹っ飛んだらそのままだし、一生痕が残る傷も有り得ると。 似たような環境を太一は知っている。それは日本だ。 日本の医療は高度である。しかしそれでも、万能には程遠い。 ﹁しかし、私は生まれてこの方、あそこまで驚いたことはなかった ぞ﹂ まじまじと太一を見据えるレミーア。太一は肩を竦めた。 ﹁まさか、エレメンタルとは。私の想像を軽く飛び越えるな、お前 は﹂ ﹁俺だって狙った訳じゃない﹂ ﹁それは分かっているがな﹂ エレメンタル、風のシルフィードと契約しようと、太一が目標を 立てていた訳ではない。上級精霊エアリアルと契約したら、実はシ ルフィードのかりそめの姿だったというだけだ。 1083 ﹁シルフィード⋮⋮いや、シルフィだったか。彼女を召喚していた 時のお前は、信じられんほどの魔力を有していた﹂ ﹁だろうね。シルフィから感じる力は、ぶっちゃけエアリィの比じ ゃなかった﹂ エアリィを従える太一。その時でさえ、人智を超える力だった。 エアリィが本当の姿を明かした今は、人智を超える、とか、常軌を 逸している、とか、そういう言葉が生温い。 肌に感じる風に心地よさを覚える。これを暴力に出来る力。竜巻 などは言うに及ばず、台風を作れと言われても、全力でやれば出来 てしまう気がする。激甚災害を指先ひとつで引き起こすことが出来 る。それが、太一が今保有する力だ。 ﹁なあ、レミーアさん﹂ ﹁なんだ﹂ 太一の声が真剣味を帯びていると感じたレミーアは、心の体勢を 整えつつ返事をする。 ﹁俺、間違ってたよな?﹂ ﹁⋮⋮﹂ 空をたゆたう雲が太陽を少しの間隠した。風に泳ぐ雲が移動し、 再び陽光が降り注ぐ。 ﹁俺がだらだらしてたばっかりに、戦死者も結構出た。とっとと終 わらせればよかったんだ。俺にはその力があったのに﹂ 柵を握る力を強める太一。 太一は間違っていたのか、或いはそうでないのか。 1084 レミーアから見て、太一は別に悪くはない。 確かに戦をとっとと止める力があり、それを選択していれば犠牲 者も少なく済んだだろうとは思う。 しかしそれで太一を責める者がいたとしたら筋違いも甚だしい。 物事の本質がろくに見えておらず、視野が狭いと言わざるをえない。 そもそも内乱をもっと早く鎮圧できなかったエリステイン魔法王国 にこそ原因があるのだ。太一自身がそこをすっかり忘れている。あ まつさえエリステインは、反乱軍と互角の状況を打開するために、 異世界から何の関係もない者を召喚しなければならないという体た らく。ジルマールやスミェーラなども、それは分かっているだろう。 今日これから謁見があるが、無条件に、とはいかずとも、彼等は太 一の要求を呑む前提でいるはず。拒もうとするのは悪手だ。何故悪 手なのか⋮⋮それすら分からぬようなら話にもなるまい。 しかし一方で、太一もまだまだ子供だとも思う。 環境に幾ら文句を言ったところで、状況は好転などしない。売り 言葉に買い言葉だったとはいえ、引き受けると言ったのは太一本人。 ならばそれに即した行動を、思考をするのが妥当であり、それがで きなかった太一が悩み落ち込むのも当然だ。嫌々だったとしても、 やらなかった場合にどうなるかが想像できて、その想像した結果を 望まないならそうならないように行動を起こせばよかった。太一に しか出来ないことであり、それは実現が難しいものではなかったの だから。 何よりもそういう覚悟のなさが、今後は奏や、彼が大切にしたい と思う者に振りかかる可能性がゼロではない。太一のことだから、 そこに自分も入っているのだろうなと思って妙な感覚を覚えながら も、レミーアはそれらすべての感情を一旦心の奥底に押し込んだ。 ﹁甘ったれるなよ小僧が﹂ レミーアが選んだのは別の言葉だった。 1085 いきなりの手厳しい一言に、太一が目を白黒させる。 ﹁間違っているかどうか? 答えが出ているものを私に聞くな﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁たかだか一五、六年生きた程度で物事の善し悪しが判別できるの なら、誰も道を間違ったりはせん﹂ ﹁そうかもしんないけど﹂ ﹁どうすればいいか。お前の中で結論があったのだろう。どんな理 由があろうと行動しないという選択をしていたのはお前だ。その葛 藤は御代だ、甘んじて受けろ﹂ ﹁⋮⋮くー、キビシイな﹂ ﹁甘やかす教育はしない主義でな﹂ 大人にだって道を誤った者がいる、とレミーアは付け加えた。 ﹁今出来ていないならこれから出来るようになればよい。何度失敗 しても、最終的に出来るようになればお前の勝ちだタイチ﹂ 太一は下を向いたまま動かない。 ﹁しかしまあ、お前の場合は特殊だからな。意外と難しくはないと 私は思うよ﹂ ﹁そうかあ?﹂ ﹁そうとも。⋮⋮っぷ﹂ 少し強く吹いた風がいたずらをし、レミーアの柔らかな黒髪を顔 にかけた。それを指先でかきあげて耳にかける仕草になんとも言え ぬ色っぽさを覚えて、太一は思わずどきりとした。 ﹁この期に及んで何を気にする必要がある。お前は、自分に素直に 1086 なればいい﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁思うがまま、己の心に正直になれ。どうしたいのか、どうなりた いのか。それを考えれば自ずと正解が導き出せるはずだ﹂ 城の屋根を掠めて数羽の鳥が飛んでいく。太一は頭をかいた。 今回の戦では、特に貴族兵が狂戦士化した時点で王国軍も手加減 が出来なくなった。正確な数値はまだ出ていないが、両軍合わせて 概算で三〇〇〇人は死亡したのではないかとのことだ。 太一がずっしりと悩んでいるのも無理はない。表面上だけでも、 がんばって取り繕っている方だ。 過去をなきものに出来はしない。成長できるかどうかは彼次第。 しかし、出来ることなら絶望の最中から這い上がらなければならな いような、一歩間違えば廃人になり兼ねない状況は避けてやりたい と思う。甘やかすのは主義ではないと言っておきながら、相反する ことを考えている。 随分と丸くなったものだと、レミーアは自分を振り返った。 ﹁さあ朝食にしよう。今日も暇ではないぞ﹂ ﹁そうだな。⋮⋮あんま食欲ないけど﹂ ﹁捩じ込め﹂ ﹁鬼ッ!﹂ 腹が減っていては戦は出来ないのである。昨日とは違う戦に出な ければならないのだから。 1087 ◇◇◇◇◇ 時は昨晩に遡る。 両手両足に魔封じの枷を嵌められたドルトエスハイムが、ジルマ ールの前に座らされていた。 建国以来、エリステイン魔法王国を陰陽に渡り支えた公爵家が、 没落の時を迎えたのだ。 ﹁陛下。反逆者の言葉に耳を傾けられるのですか﹂ この状況に陥ってなお、彼は自信に溢れた表情を崩そうとしない。 王城の中でも極一部の地位にいるものしか立ち入ることを許され ぬ一角。 スミェーラ、ベラ、パソス他重鎮たちを背後に従えたジルマール が、設えられた椅子に座ってじっとドルトエスハイムを見据えてい た。 二人の間に、ずしりと重たい沈黙が横たわる。誰もが思わず気圧 されるなか、ジルマールがふ、と息を吐いた。 ﹁公爵。予を⋮⋮いや、エリステインを試したな?﹂ これまで何を聞かれようともだんまりを決めていたドルトエスハ イムの表情が、ほんの一瞬、揺らいだ。 ﹁お前は常にこの国を思い、必要とあらば先代の王は無論、予に対 しても諫言を辞さなかった。お前のすべての発言と行動は、エリス 1088 テインへ向いていた﹂ ジルマールはドルトエスハイムから目を逸らさない。やがて手足 の自由を奪われた初老の男は満足げに微笑んだ。 ﹁本望です、陛下﹂ ドルトエスハイムはただ一言、そう答える。眉間を数度揉みほぐ し、ジルマールは残念そうな顔をした。 ﹁お前の名には、後世まで消えぬ傷が残る﹂ ﹁誰かに理解されよう、誰かに納得されよう、そのようなことは一 切考えておりません。祖国のために生まれ、祖国のために散る。こ れを本望と呼ばずになんと呼びましょう﹂ 愚直な男だった。 ジルマールが彼に掛けるべき一言は、もはや決まっていた。 ﹁⋮⋮よろしい。お前の墓に刻む言葉が決まった。公爵ドルトエス ハイム、誇りと共に散る、とな﹂ ﹁ありがたき幸せ﹂ これほどの覚悟を持った上での反乱。下手に彼の名誉を守ろうと するのは、むしろ彼を貶める行為だ。闇雲に後世に伝える言葉をい じくり回すのは良くない。 それでも、友として、墓に刻む言葉だけは、こうせねば気が済ま なかった。 ﹁後は予に任せてもらおう。冥府にはよい土産話を持っていく﹂ ﹁極上のぶどう酒を用意してお待ち申し上げます﹂ 1089 ジルマールが手を挙げる。 すらりと腰の剣を抜き去ったスミェーラが、彼の元に歩み寄った。 その剣が振り下ろされれば、この戦争は本当に終わりだ。もちろ んそれでやることがなくなる訳ではない。しかしこれからやらなけ ればならないことは、終戦処理に該当するだろう。 処刑にはその専門の者がいる。スミェーラが処刑を執行すること は、まずもってないと言っていい。ドルトエスハイムだからこそ、 とスミェーラが志願したのだ。 ﹁最後にひとつ、よろしいでしょうか、陛下﹂ ﹁辞世の句か?﹂ ﹁いえ、違います。これから申し上げますのは、マルケーゼ侯爵の 元にいた執事についてです﹂ イニミークスのことだ。ジルマールもよく知っている。とても優 秀な、オールドーにも迫る人材だったはずだ。 そして、血みどろの狂想曲を再現しようとした者だと、召喚術師 の少年から聞いていた。 ﹁かの者がとても優れた人物というのは、陛下もご存知だと思いま す。しかしその者、ここ二ヶ月の間に変わったのです﹂ ﹁⋮⋮続けろ﹂ 最後に会ったのはいつだったか。ここ半年はイニミークスはおろ かマルケーゼ侯爵にも会っていない。そして、もう会うことはかな わない。彼も反逆罪に問われたのだ。主犯格である侯爵である以上、 極刑は免れられなかった。 ﹁具体的にどう変わったかはお答え出来かねますが、漠然と、かの 1090 者から感じる空気に変化があったのです﹂ ﹁して?﹂ ﹁はい。手の者を使い、調べさせました。そして、ある組織と、繋 がりがあることが判明したのです﹂ それ以上は尻尾をつかませなかった、とドルトエスハイムは言う。 ﹁陛下。レージャ教にはくれぐれもお気をつけ下さい﹂ 場がどよめいた。 ドルトエスハイムが他を貶めるようなことを言わない人物だとい うのは、自国はもちろん他国においても有名だからである。そんな 彼が名指しで忠告をしてきた。それがどういう意味を持つのか、考 えずとも明らかである。 そしてそれが、あのレージャ教を指している。貧しい民や、人々 が困窮したときには進んで手を差し伸べる﹃あの﹄レージャ教が。 それが、ドルトエスハイムの口から聞いたとあれば、驚くなと言 う方が無理な話だった。 ﹁私からは以上でございます﹂ 言い残すことはないと表情が物語っている。ジルマールとドルト エスハイムが見つめあうこと数分。やがて彼は目を閉じて瞑想を始 めた。 現世に別れを告げると、そのたたずまいが雄弁に語る。 死の間際にしてこの穏やかな表情。何人が真似を出来るだろう。 ﹁忠告しかと聞き届けた﹂ 返事をしないドルトエスハイム。ジルマールもリアクションを期 1091 待しての言葉ではない。 ﹁さらばだ。ドルトエスハイム公爵。⋮⋮我が友よ﹂ ジルマールが右手を挙げる。ドルトエスハイムのそばで待機して いたスミェーラが、全身に最大限の強化を施した。これならば人間 の首を枯れ枝を叩き折るより容易く両断する一撃が放てるのだ。 祖国を誰よりも愛した偉人への、せめてもの、慈悲だった。 ◇◇◇◇◇ 太陽が中天から西に傾いた頃。太一たちは大きな会議室を訪れて いた。 恐らくは戦に関することと、報酬のことになるだろう。 雇われの傭兵であるので、考えるまでもない。 着座位置はジルマールが当然上座。その両隣にシャルロットとエ フティヒア。シャルロットの隣にスミェーラ。エフティヒアの隣に 久々に会うヘクマ。他重鎮たちが雁首を揃えている。対面に座るの は太一たちだ。注目されることには意外となれている太一と、観客 の中でテニスの試合に何度も挑んだことがある奏。そもそも人の目 など気にしないレミーア。一番居心地が悪そうなのはミューラであ る。 1092 ﹁まずは感謝の意を述べよう。無事、戦を終えることが出来た﹂ そんな定型めいた挨拶から、話が始まった。例によって、太一た ちはエリステイン式の礼に則って略式型の返礼をした。 自らを小市民とした奏の言葉は間違っていない。どんな力を得よ うとも、基本的に大きな権力に対してなんとなくへりくだってしま うのは、日本人としての性のひとつなのかもしれなかった。 ﹁本題の前に、些事を片付けよう。報酬だが、事前の約束通りお前 たちの言い値で支払うことを、ジルマールの名において約束する﹂ ﹁⋮⋮あれ?﹂ 間抜けな声をあげたのは太一である。 なんやかやと吹っ掛けられるのかなあー、等と考えていた矢先に さっくりと宣言されて、拍子抜けしたゆえの反応だった。 ﹁意外か?﹂ 楽しそうに、からかうように言うジルマール。太一は素直に頷い た。 ﹁予は嘘はつかぬ主義でな。他国からは﹃正直者のジルマール﹄と 揶揄されるくらいだ﹂ ﹁父上。初めて聞きましたよ﹂ ﹁作り話だからな﹂ ﹁⋮⋮捏造はお止めくださいませ﹂ 呆れた口調で釘を刺すエフティヒア。 このやり取りからも分かるように、この度の謁見は堅苦しいもの 1093 ではない。下手を打って揚げ足をとられても困るため気を付けるよ うレミーアにも言われてはいるが、基本的に初日のような緊張はな い。 ﹁冗談はこのくらいにして、まずは、あれからどうなったかを軽く 話しておこう﹂ どうなったか、とは終戦後のことだ。 戦における戦死者や負傷者は少なくないそうだが、それでも本来 よりは大分少なく済んだとのことだ。本来とは、太一たちが協力を 拒んだ場合である。イニミークスの企てにより被害者はかなり増え たそうだが、太一たちがいなければ更に被害は拡大していただろう とも。それを悔やんでいるとしたら、気にする必要はない、と釘を 刺された。今後しばらくは軍事力の再生に力を注ぐという。 ドルトエスハイム公爵を始めとして侯爵は全員処刑。ドルトエス ハイムは既にこの世を去り、後の侯爵たちも順を追って処刑される ようだ。 高貴な身分にある者が企てた国家反逆罪は重い。 一気に権力者がいなくなってしまい、国力の著しい低下は免れな い。それでも例外を認めるのは更にまずい。 そして、イニミークスがレージャ教と繋がっていたこと。それに は驚きを隠せなかったが、同時に妙に納得も出来た。地球でも信仰 上で生じた主張の違いにより、血で血を洗う紛争がリアルタイムで 起きていた。 宗教には様々な形があるが、信じる者を救うために存在している はずである。それが争いの種になっているのだから、日本人である 太一と奏には理解できないが何となく納得がいったのだ。 ﹁ところでタイチ。エレメンタルを召喚できるようになったと聞い たが⋮⋮それはまことか?﹂ 1094 ﹁まことですよ。なあシルフィ﹂ ﹁なにー?﹂ 太一の髪の中から、シルフィがひょこ、と顔を出した。 ﹁⋮⋮どこにいんだよ﹂ 太一が視線を上に向ける。 ﹁アタシはどこにでもいれるよ。空気あるところがアタシの家だか ら﹂ 実に豪快な家だ。国だのなんだのという枠組みさえ、彼女の前で はちっぽけになってしまう。精霊にはそれぞれ縄張りがあるらしい。 その縄張りからは基本的に出ないらしいのだが、エレメンタルとも なればそんな枠組みは存在しない。まさに風の吹くままどこにでも 行けると言うのだ。 ﹁シルフィが⋮⋮﹂ ﹁ちっちゃいだと⋮⋮?﹂ ﹁エアリィ⋮⋮?﹂ 順に奏、レミーア、ミューラの声だ。そういえば教えてなかった 気がする。 ﹁ああ。自分の大きさ、好きなように変えられるらしいんだ﹂ 自由だよなー、と他人事のような太一。鈍い頭痛を覚えた三人は それ以上突っ込むまいとスルーを決め込んだ。太一のしでかすこと にいちいち動揺していられない。 1095 ﹁まあ、本気出すときは、俺たちと同じ大きさになる必要があるら しいんだけどさ﹂ ﹁今はそんな必要ないからねー﹂ ぐでー、と太一の頭の上でうつ伏せになってくつろぐシルフィ。 まるで子猫のような印象を受ける。 ﹁でも、出来ればあまりホントの姿にはなりたくないかな﹂ ふわりと太一の頭から飛び立ち、そんなことを言う。 ﹁ん? なんでだ?﹂ ﹁だって⋮⋮﹂ ちら、と太一を見て、人差し指を突き合わせてつんつんしている。 ﹁?﹂ 鈍感め、と誰かが思ったとか思わないとか。 ﹁まー心配要らないよ。この状態の時については、話した通りだか ら﹂ ﹁確か力の強さはエアリィで、制御能力は格段に上がってるんだっ け﹂ ﹁そゆこと。それに、太一が望むなら﹂ シルフィはその場でくるりと回る。その姿が瞬間的な光に包まれ、 そこに居たのは等身大まで大きくなったシルフィだった。 1096 ﹁いつでもこの姿になるよ﹂ いつ見てもとても可憐な少女だ。信じられないほど綺麗な姿をし ている。 そう、姿は。 シルフィはその場で本来の姿を見せただけだ。 太一からは雨粒ほどの魔力しか受け取っていない。 ただ、そこにいるだけ。 人間、エルフ、ハーフエルフ関係なく。その者の地位すらも関係 なく。皆等しく跪きたくなっていた。 シルフィが、人やエルフに対して圧倒的に上位の存在であるから だ。感情でどうとか、というレベルではない。 本能に刻み込まれた肉体の反応である。 ﹁これが、四大精霊か⋮⋮﹂ ジルマールが呻くように呟いた。彼とて魔術師。シルフィから威 圧も何も受けていないことが分かる。 そもそも、存在の次元が違う。そしてそのエレメンタル・シルフ ィードは、太一の意思を汲むと宣言している。 王族だの国だのを歯牙にもかけない領域に、太一はいるのだ。 その上で。 ﹁ではタイチ。依頼がある﹂ ジルマールはそう切り出した。 太一はキョトンとし、それから一瞬考えて答える。 ﹁内容によります﹂ 1097 と。 一度は願いを聞いたのだ。この上もう一度聞く義務はない。 ﹁当然だな。内容は、我が軍に非常勤で籍を置いてもらいたい﹂ ﹁⋮⋮軍に?﹂ ﹁そうだ﹂ 非常勤の軍属など聞いたことがない太一は首をかしげる。いや、 そういうことはあるのかもしれないが、太一にはその知識はなかっ たのだ。奏に目を向ける。奏ならそういうことも知っているかと思 ったが、首を横に振られてしまった。 ﹁知っての通り、現在我が国の国力は著しく低下している。そこを 狙って他国から侵略があるかも分からぬ。そういう非常事態に、力 を貸して欲しいのだ﹂ 包み隠すことなくジルマールはそう明かした。腹の探り合いを兼 ねた回りくどい説明は意味をなさないと判断したのだ。 ﹁俺だけですか?﹂ ﹁もちろんタイチが一番だが、後の三人の力も十分魅力的だと予は 思っている﹂ ﹁うーん⋮⋮﹂ 一人で勝手に決めていいのだろうか。いや、独断専行で戦争への 参加を決めておいて何を今さら、と思われるかもしれない。だから こそ決めかねる。 太一は奏を、ミューラを、レミーアを見た。三人は何も言わない。 太一に任せると言わんばかりだ。 レミーアが頷く。好きにしろ、ということだろうか。 1098 それならば。太一は思い付いたことを言ってみる。 ﹁条件を呑んでくれたなら、引き受けます﹂ 当たり前の言葉であったため、ジルマールが頷いた。 ﹁その条件は?﹂ ﹁参加人数かける参加回数分、こちらの要求を叶えると約束してく ださい。それを了承してもらえるなら、契約成立です﹂ ﹁む⋮⋮﹂ 実にうまいと、ジルマールは素直に感心した。この場合依頼をし たのは王国側であり、報酬が受け入れられないのなら太一は断れば いいだけだ。 そもそもこの依頼は、どのような背景があろうと内乱という状況 を作ってしまった王国に責任があり、戦の鎮圧という当初の目的を 達成したした太一たちが追加で依頼を受ける理由はないのだ。 依頼に対する報酬も悪くない。どの程度の裁量かを太一は一切言 わなかった。つまり言い値。法外な対価を要求される可能性は大い にある。それを一蹴できないのは、エレメンタルを召喚できるほど の召喚術師を雇うことを考えれば、妥当な額だと感じてしまうのだ。 何よりも、彼との関係を失うのは国として有り得ない。良好であ るに越したことはないのだ。 これが人のレベルであれば脅し紛いのことも言うことはできた。 しかし、太一に対してそんなことをすればどうなるだろう。 雷魔法﹃トールハンマー﹄は、直径一〇〇メートル程の、パン生 地を型でくり貫いたような綺麗な大穴をあけた。そんな魔法を瞬速 で発動させてケロリとしているような相手に脅しをかけるなど、ジ ルマールはまっぴらごめんだ。 1099 ﹁因みに、踏み倒した場合はどんな報いがあるかね?﹂ ジルマールの人柄からそのようなことはないと分かる。恐らくは 単なる興味だろう。 どうしようかと考えていると、シルフィがちょん、と服の裾を引 っ張った。 ﹁どうした?﹂ ﹁こんなのはどう? 向こう一〇〇年、エリステインからは風属性 の魔術師は生まれない﹂ ぎょっとしたのは、太一とシルフィを除く全員であった。 ﹁んなこと出来るのか﹂ ﹁だって、風の精霊たち︵子供たち︶に言い聞かせればいいだけだ し﹂ 不満の声も多少あろうが、シルフィの言葉を無視できる風の精霊 は皆無だという。 何でもありだな、と言う太一に誇らしげに胸を張るシルフィ。し かしジルマール以下王国側は一様に顔を青くしていた。そんなこと をされれば魔法王国の面目丸潰れだ。風属性の部隊が編成できない ことで生じる弊害は、此度の内乱で受けた被害の比ではない。太一 が出した条件を呑まざるを得なかった。 ﹁⋮⋮興味本意で聞いてみたが、とんでもないやぶ蛇だったな。良 かろうタイチ。その条件全て呑もう﹂ 太一は頷いた。無茶なことを言われたら相応に対処するだけだ。 あくまでもこれは契約。譲歩など必要なく、ドライに対応するのは 1100 当然である。 その後は幾らかの雑談を交わし、やがて日が暮れる手前で太一た ちは城を後にした。 帰り際にカードを人数分手渡された。非常勤とはいえ軍属になっ たので、城の通行パスを支給されたのだ。それは城だけでなく、ウ ェネーフィクス正門も顔パスで入れる代物だ。それからも分かるよ うに、エリステインとしてはそんなに堅苦しくするつもりはなく、 用はなくてもいつでも来てもらって結構だと言っていた。 風に流れる夕焼け雲と同じ方向に向かって四人は歩いている。 数日はここウェネーフィクスで過ごし、その後馬車にてアズパイ アに戻る予定だ。忙しかったので、しばらくは観光もかねてのんび りしようということになったのだった。 ﹁⋮⋮終わったわね﹂ ようやく肩の荷が降りたことを実感したのだろう、ミューラが小 さくないため息と共にそう呟いた。 ﹁うん。みんな無事で本当によかった﹂ ミューラの言葉に奏が追従する。 ﹁久々に本格的な戦を体験したな。修行は足りていたが、実戦感覚 が衰えていたな。少し鍛え直さんといかん﹂ 自身について振り返っていたのだろう、レミーアは己をそう総括 した。 会話には混ざらず、俯いて 心の内に差はあれど、抱く感想は三人とも似たようなもの。つま り無事この戦を切り抜けた、である。 その三人の後ろをついていく太一。 1101 歩いている。 どうしても、言っておきたいことがあったのだ。その言葉がどう 受け取られるかは関係ない。ただ一言、それを告げることに意味が あった。 ﹁ミューラ、レミーアさん⋮⋮奏﹂ 太一の言葉に三人が足を止め、振り返る。 三人をじっと太一は見詰めていた。真顔の太一に何事かと思って いると。 ﹁ごめん﹂ 頭を下げる。 唐突に謝られて三人は顔を見合わせた。太一が謝る理由が分から なかった。 その理由が分からない以上、聞いてみるしかない。何故彼は謝罪 したのか。 ﹁太一。どうしたの?﹂ 奏が問いかける。 ﹁俺が先走ったから、みんなを戦場に駆り立てる羽目になった﹂ だから、と太一は言う。 言っても詮なきことである。過程はどうあれ、皆無事に切り抜け ることが出来たのだ。奏もミューラもレミーアも気にしてはいない。 ﹁そんな⋮⋮﹂ 1102 そんなこと気にしなくていい。そう伝えようとしたミューラを、 レミーアが遮った。 ﹁結果として戦に参戦するにしても、きちんと相談して決めるべき だったんだ。だから、ごめん﹂ 戦に参戦したことを悔いているのではなかった。カッとなって自 分だけでそれを決めてしまったことを悔いていた。 極端な話をすれば、太一は人間同士の戦場に出ても命の心配はな い。しかし奏、ミューラ、レミーアはそうはいかない。売り言葉に 買い言葉で三人を死地に送り込む結果になった。 仲間であるからこそ、きちんと相談するべきだ。改めてそう思っ たが故の謝罪だった。 ﹁謝罪を受け入れよう﹂ レミーアはそう答えた。 ﹁レミーアさん。結果的に無事だったんだし⋮⋮﹂ ﹁分かっている。私とてあいつを責めるつもりはないさ。だが、こ れはお前なりのケジメなのだろう、タイチ?﹂ そうなの? と言いながら、ミューラは太一に目を向ける。その 視線を受けて、太一は頷いた。 ﹁謝らないと、俺の気が済まないってのもある、かな﹂ ﹁タイチ⋮⋮﹂ ミューラとしては、戦う事に否やは無かった。あの時太一が思わ 1103 ず突っ走ってしまったのもやむをえないと思っている。現場で実際 に太一と奏の様子を見ていたのだから。 彼らの気持ちが分かる、と言うつもりは無いが、二人の感情があ れだけ乱れるところを見てしまったのだから。ミューラにとってシ ャルロットと太一&奏。どちらの味方をするかと問われれば、考え るまでもなかったのだ。 ﹁ミューラ。この謝罪は、受け取ってくれるとうれしい。大切だか らこそなんだ﹂ ﹁⋮⋮っ﹂ 真剣な眼でそう言われて、ミューラは思わず息を呑んだ。この感 情の揺れは尋常ではなかった。 だが今はそんな感情を表に出すような雰囲気ではない。 四人を避けるように人々が過ぎ去っていく。 この場所だけ、時間の流れに取り残されたような錯覚さえ覚えた。 一秒間眼を閉じて心を落ち着かせ、太一をまっすぐ見つめる。 ﹁分かったわ、タイチ。あたしも、その謝罪を受け入れるわ﹂ ﹁サンキュ、ミューラ﹂ ほっとしたような太一。その顔が、本当に心からの謝罪だったと 雄弁に語っていた。 ﹁太一。私は、言ったはずだよね﹂ ﹁ああ。俺の⋮⋮えっと、味方してくれるんだよな?﹂ 少し照れ臭そうに言う。 ﹁うん。太一の謝罪、受け入れるよ。今度からは、遠慮なく相談し 1104 てよね?﹂ ﹁ああ。絶対にするって誓うよ﹂ 心が晴れやかになり、太一は空を見上げた。夜と夕焼けの境目が、 なんともいえない美しいグラデーションを見せている。 濃紺の空には、一番星が瞬き始めていた。 謝罪をしたことで、太一にとっての戦争はようやく終わりを迎え た。 ﹁よっしゃ、行くか! 腹減った!﹂ ﹁切り替えはやっ!﹂ 呆れ声の突っ込みを華麗にスルーする。 ぽつりぽつりと見える出店では軽食など売っていたりするのだ。 安心したら空腹がにわかに襲ってきた。 今後何が起きるのかは分からない。 それでも今は、ひと時の休息をじっくり味わっても良いだろう。 一気に先頭に踊り出た太一に、三人は顔を見合わせて笑い、その 後を追った。 1105 三章エピローグ︵後書き︶ これにて三章終了となります。 ご不快な思いをされた方がたくさんいらっしゃったようで、実力不 足を痛感しております。お詫び致します。 or 一覧 今後は以下の流れを予定しています。 ・キャラクター設定 ・普通チート小話をいくつか ・四章投稿開始 四章の開始は今のところ未定となっています。ご了承ください。 ∼お知らせ∼ 感想に、他の作品を批判している書き込みがありました。 他にご覧になる方もいらっしゃいます。 私への批判ならばまだしも、全く関係ない作品及び作者様を批判す る行為を、この作品の管理者として許容するつもりは一切ございま せん。 今後は、そのような書き込みがありましたら、その度合い如何に関 わらず一律削除とさせて頂きます。 以上をご留意の上、感想への書き込みをお願い申し上げます。 1106 三章終了時点キャラクター一覧 ○主人公組 西村 太一 一六歳 召喚術師 契約精霊:エレメンタル・シルフィード 魔力量:一二〇〇〇〇 魔力強度:四〇〇〇〇 元高校一年生 現冒険者 冒険者ランクC 吾妻 奏 一六歳 魔術師 属性:火水風土 魔力量:三七〇〇〇 魔力強度五〇〇〇 元高校一年生 現冒険者 冒険者ランクC ミューラ 一四歳 魔術剣士 属性:火土 魔力量:三〇五〇〇 魔力強度:三八〇〇 1107 エルフ 現冒険者 冒険者ランクC レミーア・サンタクル 八二歳 魔術師 属性:火風水 魔力量:四三〇〇〇 魔力強度:六〇〇〇 冒険者ランクA ○アズパイア ジェラード・ボガード 三八歳 属性:土 ドワーフ アズパイア冒険者ギルドマスター マリエ 二五歳 アズパイア冒険者ギルド職員 バラダー 三八歳 属性:土 冒険者ランクB ラケルタ 1108 一九歳 属性:風 冒険者ランクB メヒリャ 二四歳 冒険者ランクB アレン 一七歳 冒険者ランクE ロゼッタ 三〇歳 ユーラフナンバーワン娼婦 ○王都ウェネーフィクス シャルロット・エリステイン 一八歳 時空魔術師 属性:時空 第二王女 ジルマール・エリステイン 四八歳 魔術師 属性:風 国王 1109 エルティヒア・エリステイン 二?歳 魔術師 属性:水 第一王女 スミェーラ・ガーヤ 三三歳 魔術剣士 属性:風土 王国軍総司令官 ベラ・ラフマ 二七歳 魔術師 属性:火水土 宮廷魔術師長 パソス・ファクル 六〇歳 騎士 属性:火 騎士団長 ミゲール 三〇歳 騎士 属性:風 近衛騎士 1110 ヘクマ・ゴドラ 五五歳 宰相 ティルメア 二〇歳 シャルロットの侍従 リーサ 一七歳 シャルロットの侍従 セリス 二二歳 エフティヒアの侍従 ドルトエスハイム 六一歳 元王国軍司令官 公爵 マルケーゼ・アストゥート 三六歳 剣士 侯爵 オールドー 六七歳 ドルトエスハイム家執事 1111 ミストフォロス 四〇歳 魔術師 属性:水風 冒険者・傭兵 スソラ 二六歳 戦士 属性:火風 冒険者・傭兵 ○??? カシム ??歳 属性:水 イニミークス ??歳 属性:土 1112 1113 三章終了時点キャラクター一覧︵後書き︶ 抜けてる人はいないはずです。。。 1114 変わらぬ日常。変わる心境。 感じる草の匂い。 踏み締める大地。 久しぶりの感触だ。 青い空。 白い雲。 昨晩降った雨の足跡が、草たちに潤いを与えている。 太一は空を見上げて、懐かしい感触を思う存分味わっていた。 マーウォルトの会戦から三ヶ月。 はるか三〇〇キロ離れたアズパイアでも、少なくない影響があっ たらしい。物資や食料、人材の面で。 大貴族が処刑され、それ以外の貴族にも処分が下された。エリス テイン魔法王国を回していたのは当然ながら王家のみではない。エ リステイン魔法王国の国土面積は、上から数えて四番目に広い。そ れだけの国土を王家だけで統治するのはどう考えても無理がある。 だからこその貴族であり、彼らに権利を貸与して管理を任せること で国として体をなしていたのだ。 その貴族たちは降格処分が言い渡され、軒並み力が減っている。 反逆罪に問われたのだから当然だ。本来は処刑及び爵位剥奪が妥当 なところである。しかしそれをやってしまうと国の機能が麻痺して しまう。苦肉の策として、例外的に反逆罪の罪状に執行猶予を設け た。エリステイン復興に尽力し、結果を出せば処刑、爵位剥奪の免 除を条件に。 爵位剥奪と処刑を免れるチャンスがあるとあって、貴族たちは勤 勉に、必死に職務に励んでいるという。王家に従わない選択も彼ら にはあったが、出来なかった。此度の内乱でどの家も疲弊しきって いた。更にドルトエスハイムという絶対的なリーダーがいない以上、 簒奪を企んでも纏まれない。最終的には仲間内で潰し合う形になる 1115 のは目に見えていた。 それでも己の力を過信した愚かな貴族は確かにいて、再度反旗を 翻したのだが、結局は王家がろくに迎え撃つ必要さえなく同士討ち で自滅していった。 家を建て直さねばならない他の貴族たちにとって、その姿はとて も滑稽に見えた。同じ轍を踏むまいと皆が自重した結果、それ以上 の反抗はなかった。 そもそもが貴族にとって最悪の罪である反逆罪に問われながら、 爵位が未だに手元にあるのだ。失うはずだったものが残った上に命 まで助かっている。それをみすみす手放すよりは、がむしゃらにし がみついた方が利口というものだ。 そういった情報はベラからレミーアを通じて聞いていた。ベラと は文通のようなやり取りをしているらしい。 マグマのごとき熱意ですがりつかれ、逃れるために思わず了承し てしまったという。その時のことは思い出したくないと頭を抱える レミーアであるが、ベラが相手ともなれば深度の高い情報も手に入 れられるとほくそ笑んでいるあたり、やはり敵に回したくない部類 の女だった。 そんなことを考えながら、吹く風に身を委ね、流れる雲に視線を やる。 のどかである。 実に見慣れた光景だ。 冒険者としてなら当たり前の光景だ。 ﹁おいガキぃ。空なんか見上げてお祈りかあ?﹂ もしかしなくても太一に向けて放たれた言葉。 ︵うん。実に日常だ︶ 1116 目の前で下卑た笑みを浮かべる盗賊団も見慣れた光景である。 OR A アズパイアに戻ってから冒険者稼業を再開し、太一たちは積極的 と明記されるものを選び、捕縛するのだ。 に盗賊の討伐依頼を引き受けていた。依頼状にDEAD LIVE ﹁生死を問わないなら捕まえりゃいいよな﹂という単純な考えか ら。普通は﹁生死を問わないなら殺せばいいし楽だな﹂となるはず だが、そこは太一と奏である。自警団や警備組織に引き渡したとこ ろで縛り首なのは分かっている。直接手を下すかそうでないかの違 いだけ。命の重みを理解しているからこそ、更なる被害拡大を食い 止めるのが急務なのだ。 マーウォルトの会戦によって混乱した国内において、他者から奪 って懐を豊かにしようとする不届き者が格段に増えた。その中には 元々の盗賊はもちろん、元冒険者という連中もいる。うだつの上が らない冒険者稼業でコツコツやるよりも、余所様から奪えば楽だと、 倫理観を失った輩が相次いだのだ。 そういった者の相手は自警団たちでは荷が重い場合も多く、腕の 立つ冒険者は必然的に忙しくなる。 アズパイアとユーラフもそれに漏れず盗賊の被害が多発したため、 太一のパーティーは忙しい日々を送っていた。 ずっと考えに没頭していた太一は、改めて盗賊団に目を向ける。 筋骨隆々で悪い目付きの男たちが一六人。護衛対象の商人の馬車 を半円状に取り囲んでいる。一方の護衛組は太一たちパーティーを 含めて七人。数的には半数以下、圧倒的に不利に見える。だからこ そ盗賊たちも強気なのだが。 彼らの主張は﹁積み荷と女を置いていけば皆殺しで許してやる﹂ だ。全く頭の悪さが極まっている。きっとその肉体よろしく頭の中 まで筋肉と化しているのだろう。鍛え方が間違っている。いや、鍛 え方を考える頭がないから脳筋になったに違いない。まともに相手 すればこちらまでバカになりそうである。 1117 ﹁太一、太一﹂ 奏にちょんちょんと服の裾を引っ張られ、太一は我に返る。 ﹁何だよ奏﹂ ﹁声。だだもれ﹂ ﹁声に出てた? どこから?﹂ ﹁頭の悪さが極まってる、から﹂ 最初からだった。 よく見れば盗賊たちは顔が真っ赤だ。 それに合わせて馬車に乗る商人たちと、護衛依頼を受けた冒険者 たちの顔が真っ青だ。顔色の綺麗な対比が出来上がっている。 ミューラをだけは、額に手を当てて俯き加減に頭を左右に振って いた。 一般的に﹁やらかした﹂状態らしい。ならばその責任は取るべき だろう。 全員が馬に乗っている。その機動力は厄介だ。まずはそこから削 り取ることに決めた。 太一は肩に担いだ大きめの麻袋を地面に横たえた後、その場から かき消えるように移動した。一般的には縮地と呼ばれる神速の歩法。 太一からすれば強化を脚力に多目に割り振れば割りと簡単に再現で きるものだ。 これを極めるために生涯を費やす武術家も多数いるということか ら何となく申し訳ない気持ちになりながらも、対人対魔物問わず非 常に有効なため重宝している。 目で追うことすら許さない速度は、太一が懐に潜り込むどころか、 攻撃を受けるまでその動きに気付かせない。 ﹁ごはっ!﹂ 1118 側頭部に回し蹴りを喰らい落馬する盗賊一。どたんと地面に落ち る。乗り手のコントロールを失った馬が前足を上げて嘶いた。 ﹁さーてどんどん蹴り落とすぞー﹂ ﹁なっ! てめえいつの間に⋮⋮﹂ とわめく間に更に二人が落馬した。 ﹁お前らはここで捕らえるけど、馬に罪はないからな﹂ だから馬は逃がす。そう告げた声を置き去りにするかのような速 度で盗賊たちを次々と大地に叩き落とす太一。もちろん音速には遠 く及ばない速度だが、そう錯覚してしまうような速さだった。 ざっくり数えて十数秒。盗賊たちは皆地面に這いつくばって呻い ていた。 知覚不可能な速さで近寄られて、手加減しているというのが慰め にならないような強烈な蹴りを受けたのだから、すぐに立てと言う のは酷だろう。 盗賊たちは運が悪かった。彼らは太一たちを知らなかった。ここ 最近アズパイアとユーラフ付近にやってきたのだ。 通常の冒険者の数倍の効率で次々と盗賊を壊滅させていく凄まじ い冒険者パーティーがいるという情報は、ここら一帯の盗賊たちが 共有する情報だ。いや、正確には共有していた情報だ。冒険者ギル ドも太一たちもまだ裏は取れていないが、つい先日ここいらを根城 にしていた盗賊たちが全員討伐されたのだ。 情報を持っていた盗賊が全員いなくなってしまえば、手に入れよ うがない。 金と女を求めて意気揚々とこの地にやって来たハイエナは、実は 更なる上位捕食者が仕掛けていた蜘蛛の巣に見事に引っ掛かったの 1119 だった。 ﹁何やってんの。とっとと縛り上げるわよ﹂ 美貌と実力、更に金の剣士の名声にものを言わせたミューラが、 呆然とする冒険者たちを叱咤する。 両手を後ろ手に縛られ、更に縄で全員を繋がれた盗賊たち。自殺 できないように口には布切れが押し込まれている。 武器は剥ぎ取られて一所に集められている。そして周囲には三人 の冒険者。その中の一人である太一が、適当に見繕った盗賊の一人 と目線を合わせるべくしゃがんでいる。 徐に出された右手に男がびくりと震える。 ﹁俺たちはユーラフに向かってる。自分達の足で歩いてユーラフの 自警団に出頭するか、この場に放置されて魔物か野性動物の餌にな るか、ゴブリンの巣に放り込まれるか。好きなの選んでいいぞ﹂ 指折り数えて提示された選択肢には、どれひとつとして救いがな い。彼らは愕然とした。自分達は奪う強者のはずだ。それが今、生 殺与奪を握られて弱者に成り果てている。 ﹁ひ、一思いに殺せ!﹂ ﹁嫌だね﹂ 男の強がりを太一は一蹴した。 ﹁お前ら、抵抗できない相手に散々酷い目に遭わせてきたんだろ? それで人に頼み事とか図々しいと思わないのか?﹂ 自業自得と言わんばかりの太一の態度。 1120 ﹁早く選べよ。選ばないなら面倒だからゴブリンの巣に放り込む﹂ ゴブリンは人間の女を繁殖用にさらうことがある。それは毎年世 界のどこかで起きる事件であり、ゴブリンの巣が冒険者の的になる 主な理由だが、それだけではない。ゴブリンは人間の男もさらう。 繁殖用でもなければ食らうためでもない。動物よりはるかに知識に 優れ、簡易ながら社会的な組織も作るゴブリン。男女問わず役目が 終われば食料にするのだが、男の場合は狩りの練習に使われる的が 主な役目だ。或いはもっと単純になぶり殺しの標的か。殺さぬよう じわじわと傷つけていくのだ。その残虐さは、縛り首が慈悲にすら 思えるほどだという。それこそが、ゴブリンが討伐対象である理由 のひとつだが。 ﹁わ、分かった! ユーラフまで歩く!﹂ ゴブリンの劣悪さは知っていたのか慌てて頷いた。 ふう、と息を吐いて立ち上がりきびすを返す。これから雇い主の 商人に盗賊どもを護送すると伝えなければならない。 幸い道程は半分以上通過しており、明日の夕方前には着くだろう。 荷馬車は満杯まで荷物を積んでおり護衛の冒険者は徒歩である。そ の前提があったからユーラフに連れていくという選択ができた。 ﹁お疲れさま﹂ 横に並ぶ奏にそう労われる。やはり脅しは慣れない。精神的にも 結構疲れる。 正直、彼らを殺すために街まで守るというのは矛盾していると思 う。しかし司法国家出身としては、現地の法できちんと罪を裁かれ ることにこそ意味があると思うのだ。ミューラとレミーアには効率 1121 が悪いと言われた。確かにその通りである。だが、自分の心には嘘 をつかないと太一は決めたのだ。やりたいようにやる、と。最終的 には太一と奏の考えを支持してくれて、協力も惜しまないと快諾し てくれたミューラ、レミーアには感謝してもしきれない。 今回の護衛では、道中の食事などは依頼者の商人持ちだ。だが盗 賊たちに分け与えるほど食事や水分の余剰はないときっぱり言われ た。それも当然である。彼は商人でボランティアではない。商人の 返答は予想通りだったので、パーティーの持ち物を与える分には構 わないだろうと交渉し、了解を得た。太一が担いでいた麻袋がそれ だ。 日が落ちてきたので街道を少し外れてキャンプを張る。 馬車から少し離れたところで縛ったままの盗賊の口に、パンを一 個ずつくわえさせた。 ﹁⋮⋮なんで飯をくれるんだ﹂ 昼間太一が脅した男が、そう問いかけてきた。それもそのはずで、 彼らは捕まれば死刑が決まっている重犯罪者、盗賊である。普通に 考えれば、彼らがどれだけ飢えようと太一らにとっては関係ないは ずなのだ。 パン一個が豪華な食事とはお世辞にも言えないが、何も口にでき ないと思っていた彼らにとってはご馳走にも等しい。 だからこそ、当たり前のようにパンを差し出してきた太一の意図 が分からなかった。 ﹁俺たちはあんたらを護送してる。ユーラフまでは無事に届ける。 水も飯もなしに歩き続けられるほど、この草原は甘かないからな﹂ ﹁⋮⋮﹂ 倒れてもらっちゃ困るんだ、と言って太一もパンをくわえた。 1122 アズパイアからユーラフまでは街道を一直線。途中で出る魔物や 野性動物も、多少武器が扱えればなんとかできないこともない。現 に普段はこの街道を行き来するのに護衛の依頼は滅多に出ないのだ。 今回この依頼が出されたのは多発している盗賊を警戒してのことで あり、事実その憂いは的中したのだ。商人からすれば護衛依頼を出 して大正解だった。 話が逸れたが、この街道を行き来するのは難しくはない。だがそ れは十分な準備をした上での話だ。 前準備も無しに踏破することは不可能である。食糧は狩りをすれ ばなんとかなるが、この辺には小川などの水源からかなり離れてい るため、水分の補給が出来ないというのは相当にまずい。せめてた っぷりの水を用意しておくのがこの街道を歩く上での常識だ。 ﹁ほれ、水だ﹂ 麻袋から水の入った皮袋を取り出して回し飲みさせる。縛られた ままなので太一に飲まされる形だが、贅沢は言っていられない。 全員に水を飲ませた太一は、空になった皮袋を投げ捨てた。 ﹁張り番は俺たちのパーティーがやる。見捨てないから安心しな﹂ 太一はそう言って立ち去る。決して大きくはないその背中を、男 たちは眺めていた。 ◇◇◇◇◇ 1123 あれからは特に問題も発生せず、見込み時間からはそう外れない うちにユーラフに到着した。もう少しすれば夕方になる。 久方ぶりに訪れたユーラフは、大分復興してきていた。魔物の大 群が残した爪痕も、もう少しすれば見えなくなるだろう。とはいえ まだまだ壊れたままの建物も散見される。完全に戻るには今しばら く掛かることだろう。 無事荷物をユーラフに届けることができた商人は、依頼書に完了 のサインを記入して村長の元へ去っていった。 彼はアズパイアからユーラフへ復興用の資材を届けるべく派遣さ れた商人だ。依頼人はアズパイアの貴族。太一たちに支払われる報 酬も、その経費に含まれるのだと彼は言っていた。その経費に盗賊 の飲食代を含められないのは当然といったところか。 道中を共にした冒険者たちと別れ、太一たちは盗賊を自警団の元 へ連れていく。何を思っているのか、彼らは素直に太一に従った。 暴れるか自殺を試みるか、すんなりと行かないだろうと考えていた 太一らにとっては意外な反応だった。 すれ違う人々が、太一たちが連れている盗賊たちを見てぎょっと する。粗野な格好の盗賊は一般人からすれば恐怖以外の何物でもな い。しかしその恐怖の対象である盗賊たちが全員にお縄を頂戴して いるのを見て、彼らを引き連れている太一たちに視線が集まった。 注目されるのはいい加減慣れてしまったので三人は気にせずずんず ん歩く。 自警団の詰め所は木造二階建て。常時待機している者もいるため そこそこ大きい建物だ。 その玄関をトントンとノックする。 1124 ﹁なんだ?﹂ そう言いながら出てきた壮年の男は、眼前に広がる光景に固まる。 盗賊がずらりと並んでいるのだから無理はない。いったい何が⋮⋮ と顔を巡らせ、﹁ああ、なるほど﹂といった様子で頷いた。太一、 奏、ミューラといえばアズパイアとユーラフを守った英雄。盗賊の 一〇人や二〇人、捕縛するのは訳ないだろう。 ﹁盗賊捕まえた﹂ ﹁こちらで引き取ればいいのだな?﹂ 太一は頷き、持っていた縄を手渡した。 ﹁では、責任を持って引き受けよう﹂ ﹁よろしくお願いします﹂ 奏が頭を下げた。礼儀正しさは相変わらずである。 自警団の男が建物に入っていく。導線を避けて退いた太一に、声 がかけられた。 ﹁あんがとよ﹂ 思わず男たちに目を向ける太一。しかし彼らは振り返らずに建物 に入っていった。 ︵ありがとう、か⋮⋮︶ 彼らを待つのは死刑である。それが分かっていながら、感謝の意 を述べられた。その声色はどこか清々しいもので、どのような心境 で呟かれた言葉だったのだろうか。 1125 自分で手を下さなかっただけで、彼らを間接的に殺すのと同義だ。 それでもなお感謝をされた。 盗賊たちの心に宿っていた思いとは何なのだろうか。 ﹁タイチ﹂ 声をかけられてそちらに身体を向ける。 奏とミューラが笑みを浮かべていた。 ﹁簡単には分からないと思う。ゆっくり考えよう?﹂ 私も分からないから、と奏は言う。 ﹁何はともあれ、やるべきことはやったわ。あたしたちは正しいこ とをしたのよ﹂ ミューラがそう励ましてくれた。 そうだ。間違ったことはしていない。その自負はある。盗賊たち が更なる罪を重ねるのを未然に防いだ。すなわち彼らによって生ま れたかもしれない被害者が救われたことになるのだ。 ﹁そうだな﹂ すぐに答えが出ないものをこの場所で悩むのは建設的ではない。 とりあえず宿をとってゆっくり休める場所を確保するのが先だ。ず っとテントに寝袋だった。宿屋ではベッドで寝るという贅沢が待っ ている。 まずは宿へ行こう。それから、明日からのことを詰めよう。やる ことがなくなった訳ではない。 そう思って一歩を踏み出したところへ。 1126 ﹁あれ、タイチ君? カナデちゃん?﹂ 横合いから名前が呼ばれた。そちらに顔を向けると、紙袋を抱え た太一たちより少し年上の少女がこちらを見ていた。 太一と奏を認めて、彼女はこちらに小走りで駆け寄ってくる。後 ろで一本に束ねられた亜麻色の髪が左右に揺れる。 ﹁やっぱりタイチ君とカナデちゃんだ﹂ ﹁あ⋮⋮﹂ ﹁えっと﹂ 彼女のことは見覚えがある。しかし名前がぱっと出てこない。 ﹁ひどいなー。忘れたのー?﹂ 人懐っこい笑みを浮かべてクスクスと笑う。取り立てて美人では ないが、笑うと可愛らしい、また少し高めの声も魅力的な女の子。 ﹁メーヌよ。ホラ、娼館で会ったじゃない﹂ ﹁ああ!﹂ ﹁メーヌさん!﹂ 思い出した。アズパイア攻防戦でユーラフに来たときに、太一と 奏をロゼッタの元へ連れていってくれた女の子だ。 ﹁久し振りだね。依頼で来たの?﹂ ﹁そうそう﹂ ﹁護衛の依頼です﹂ ﹁へえー。いいなあ冒険者。私もなろうかなー﹂ 1127 ﹁メーヌさんは買い物ですか?﹂ ﹁そう。日が落ちたらお仕事だからね。その前にご飯食べなきゃ﹂ ﹁晩飯の買い出しか﹂ ﹁昼夜逆転生活だから、朝御飯みたいなものだけどねー﹂ 二時間前に起きたし、と言って、からからとメーヌは笑う。 ユーラフの住人がアズパイアに身を寄せていたとき、一回話す機 会があった程度。彼女の言う通り、会うのは久し振りだった。 ﹁タイチ、カナデ。こちらは?﹂ ミューラが尋ねてきた。彼女とは面識がない。常に行動を共にし ている訳ではない。メーヌと会ったときは丁度ミューラは別の用事 で一緒ではなかったのだ。 ﹁ああ、この人はアズパイア防衛戦でのユーラフの生き残り﹂ ﹁メーヌよ。娼婦やってるわ。よろしくね﹂ 娼婦、という言葉に一片の曇りもなかった。金を稼いでいる以上、 仕事として誇りは持っていると胸を張った通り、プロ意識故だろう。 ﹁あたしはミューラ。冒険者よ。タイチとカナデとパーティー組ん でるわ﹂ メーヌはミューラを足から頭までまじまじと見詰めた。いやらし さは無いが、その視線にミューラは右足を引く。 ﹁な、何?﹂ ﹁あ、ごめんね﹂ 1128 自分の視線が不躾だと気付いたのだろう、メーヌは即座に謝り、 その理由を明かした。 ﹁えっとね。あまりに美人さんなので、ついネットリ見詰めてしま いました﹂ ﹁ネットリ言うな﹂ ﹁あたっ﹂ ぺし、と奏の突っ込みが入る。頭をはたくと言うよりは触れるよ うな突っ込みだったが、律儀にリアクションを返す辺り、メーヌの ノリの良さが窺える。 ﹁ほ、褒めても何も出ないわよ?﹂ ボケ混じりだったが、メーヌが下心なしで本音で褒めたことが伝 わったのだろう。ミューラは少しほほを染めてそう返した。 ﹁あら、照れ屋さんなのね﹂ ﹁俗に言うツンデレですな﹂ ﹁つんでれ?﹂ ﹁普段ツンツンしてるけど、ここぞというときに照れたり素直にな ったりしてギャップが可愛い人のことです﹂ ﹁ッ⋮⋮!﹂ ﹁なーるほど﹂ 太一は無自覚である。 自分の発言が相手にどうとられるかを考えていない。 近しい相手ゆえ、油断しているというのもあるだろう。 ﹁変なこと吹き込まない!﹂ 1129 ﹁ぁいてっ!﹂ 今度は本当にはたいた奏の突っ込みが太一に炸裂した。そこに少 しモヤモヤした感情が込められていたことに、太一が気付くのはい つになるだろうか。 その傍らでは、ミューラが顔を紅くしているのだった。 ﹁ふふ。貴方たち本当に仲間なのね﹂ ﹁へ? どゆこと?﹂ その声色に若干の羨望が含まれていたことに、鋭い奏とミューラ も気付かなかった。憂いの感情は本当に一瞬だったのだ。 ﹁何でもないよ。っと。そろそろかな﹂ メーヌは来た方向に顔を向ける。そこには見知った顔があった。 ﹁ロゼッタさーん!﹂ ﹁メーヌ、そこにいたの。⋮⋮あら﹂ 名前を呼ばれてこちらに歩いてくる妙齢の女性。太一と奏も良く 知る彼女は、歩み寄りながらこちらに気付いたようだ。 ﹁坊やにカナデちゃん。久し振りねえ﹂ 相も変わらずというか、それだけで男の心を蕩かすような笑みを 浮かべるロゼッタ。勘違いすることなかれ、彼女は狙ってやってい るのではない。ナチュラルなのだ。 ﹁ロゼッタさん﹂ 1130 ﹁お久し振りです﹂ ﹁会えて嬉しいわ。⋮⋮っと、その子は?﹂ ﹁えっと、タイチ君とカナデちゃんのパーティーメンバーで、ミュ ーラちゃんです﹂ ﹁そう。はじめまして。ロゼッタよ﹂ ﹁ミューラよ。タイチがお世話になったみたいね﹂ ロゼッタはきょとんとして、それから右手をひらひらと振った。 ﹁そんなことないわ。お世話になったのはむしろ私たち。貴方たち のおかげで、私たちはこうして生きているのだから﹂ ロゼッタの後ろでメーヌがうんうんと頷く。 あの日、ユーラフは破滅の危機を迎えていた。バラダーのパーテ ィーが粘っていたものの、数の暴力の前には穴も生まれる。そこを 突かれるのは時間の問題だったのだ。 結果としては太一と奏がこの街を訪れたことで何とか事なきを得 た。しかしあのタイミングで太一と奏がここユーラフに来れたのは、 アズパイア防衛隊の必死の掃討戦があったればこそだ。ロゼッタや メーヌはもちろん、ユーラフの住人はアズパイアの冒険者に対して 大きな恩義を感じているのだ。 その最たる恩返しとしてユーラフが選んだのが、一日も早い復興 である。命を賭して守った街が元通りの姿になる。それこそ守った 甲斐があるだろうと、住人が一致団結しているのだ。 驚異的な速度での復興には、そんな背景があった。 ﹁今日はここに泊まっていくんでしょう?﹂ ロゼッタの言葉に頷く。流石に今からアズパイアに帰る選択肢は ない。 1131 ﹁じゃあ、晩御飯に御相判してもいいかしら? ゆっくりおしゃべ りしたいわ﹂ ﹁えっ? ロゼッタさん。お仕事は?﹂ ﹁坊やたちとお食事してからね﹂ ﹁でも、今日も指名いっぱいきますよきっと﹂ ﹁ふふ。今からしばらく、私は坊やの貸し切り﹂ 語尾にハートがつくかのよう。ロゼッタはパチリとウインクして みせた。こんなあからさまな仕草がこれほど板につく女性はそうは いない。 ﹁坊や。カナデちゃん。ミューラちゃん。どう?﹂ ﹁じゃ、一緒に食うか。奏とミューラもそれでいいよな?﹂ ﹁うん﹂ ﹁いいわよ﹂ 太一としては断る理由はない。それは奏も同様で、太一が世話に なったことを知っているミューラもやぶさかではなかった。太一の 返事を聞いたロゼッタは嬉しそうに微笑んだ。 ﹁メーヌ。そういうことだからよろしくね﹂ ﹁あ、ずるいですよー!﹂ ﹁私より稼いだら好きにしていいわよー﹂ 奏、ミューラだけでなく、この時間帯はいつもなら娼館にいるは ずのロゼッタまでも現れて、酒場は一時騒然となった。 美女三人を引き連れた太一には数多のやっかみの視線が突き刺さ ったが、太一は図太さを発揮して華麗にスルー。思い出話や近況報 告、ロゼッタの﹁どっちが本命なの?﹂というからかい発言が飛び 1132 出すなど、酒場は夜遅くまで盛り上がったのだった。 1133 変わらぬ日常。変わる心境。︵後書き︶ 四章更新開始です。 一応のお知らせ。 頂いた感想は全て読んでいます。 返信が一言二言になってしまうのは時間が無いためです。すみませ ん。 念のためご連絡でした。 1134 客員冒険者アレン 朝焼けが街を照らし出した頃、ミューラはむくりと起き上がった。 小鳥のさえずりが耳に届く。横でまだ寝ている奏を起こさないよ うに寝巻きから着替えて手拭いを持って、部屋を出た。 ミューラの朝は早い。まだ大多数が寝ているだろう宿の廊下を、 気配と足音を消して歩く。この瞬間から、ミューラの訓練は始まっ ていた。 階段を降りて、裏口から外に出る。大分肌寒い季節になってきた と、澄んだ空を見上げてそんなことを思う。徐々に寒くなっていく だろう。 ﹁もうすぐ、冬ね﹂ 寒さがそこまで得意ではないミューラにとっては、少しばかり憂 鬱な気分だ。 身体の隅々まで意識を行き渡らせる。ミューラの戦闘においてそ れはかかせない要素。それ故に、寒さで感覚が鈍る冬はミューラの 戦闘力を低下させる恐れがあるからだ。 とはいえ、それが分かっていながら指をくわえて眺めるだけのミ ューラではない。難点が分かっているならそれを克服する手を講じ るだけだ。 朝夜と冷え込んできたこの時期、身体を馴らすにはもってこいだ。 井戸から水を汲み上げて顔を洗う。一度。二度。三度。 洗い終わる頃には、手拭いを取った手が冷たくなっていた。これ でいい。 まずはこの状態から。慌てなくてもどんどんと寒くなっていくの だから。 手拭いをリボンの代わりにして髪を束ねる。普段結うことはない。 1135 今は手拭いが邪魔なのだ。 その格好のまま、ユーラフを出た。眼前には広大な草原が広がっ ている。朝露を浴びた草がひんやりとした空気を更に強くしている。 街からしばらく歩いて離れ、適当なところで足を止めた。 ここならば多少大きな音を出しても問題あるまい。 その場で立ったまま、ミューラは体内の魔力を活性化させる。今 朝の訓練課題は、魔力の効率的な運用。 剣による近接戦闘が軸になる以上、強化魔術は常に使用すること になる。特にミューラは繊細な強化魔術の使用が必要だ。奏やレミ ーアのように運動性能と反射神経だけ強化すればよいというわけで はない。魔力強化で肉弾戦を挑むときの太一からはいいところを盗 めると思うが、生来のセンスなのか、豪快な速度や攻撃力に反して とても繊細な制御をしていたりするのだ。特に見事なのは部分強化 の切り替えの速さ、タイミングの正確さ。あれはもう魔力強化だか らこそなし得るのではと思うほどだ。ミューラが駆使する強化魔術 ではどう頑張っても半拍の遅れが出る。時間にしてほんの一瞬。し かし詰められない永遠の一瞬。 いくら頑張っても現時点での実力では届かないと判断したのは、 今から一月半前のことだ。努力では届かない領域なら、ひとまず置 いておいてもいいだろう。他にも出来ることはあるのだから。 ならばとミューラが目を向けたのが、強化魔術の運用力向上。こ れはそのまま実力のアップに繋がる。体内で活性化させた魔力を掌 に凝縮する。魔力の操作は悪くない。これについては太一と奏にも 負けていない。彼らのセンスが本物なのは認めるが、そう簡単に追 い抜かせてやるつもりもないのだ。 ﹁強化。属性、土﹂ 普段は無詠唱。息をするように発動出来る強化魔術を、あえてき ちんと詠唱して発動させる。 1136 強化ポイントは足と腕。脚力と腕力が劇的に向上しているのが感 覚で分かる。何も制限がない状態で使用した強化魔術の効果はかな り高い。これが戦闘中にかけ直したりする場合、他のことと同時進 行になるためどうしても粗が出てくるのだ。まずはどんな時でもこ の水準で強化魔術を使えるようになるのが目標。 強化魔術が施された自分自身と向き合い、この感覚を身体に覚え させる。 ある程度維持したところで、強化魔術を意識から完全に外した。 今は無意識下で強化されている状態。ミューラは左手を適当な地面 に向ける。 ﹁火炎破!﹂ ずしんと腹に響く轟音を伴い、地面が直径五メートルの円を描い て吹き飛んだ。火属性爆発魔術の派生系、火炎破。 ファイアボールも着弾すれば爆発のように炎が広がるが、この火 炎破は直接指定した座標に火柱を立てる魔術。標的に向かって飛ん でいく魔術ではない分、避けるのが難しい。 しかし一方で、あまり日の目を見ることのない魔術でもあった。 火属性の魔術師でも、人によっては覚えない者もいるくらいだ。 その理由は、座標指定という照準方法にあった。空間を三次元的 に捉え、座標を正確に認識。その中心点に火柱を立てる必要がある。 その手順が煩わしいのだ。ファイアボールなら、ヒットさせたい場 所を強く念じて放てば、ド素人でもそこそこの命中率を保てる。意 表を突くにはうまくやらねばならないが、それを差し引いても使い 勝手は圧倒的にファイアボールが上だ。 ﹁やっぱり、乱れた﹂ 大方の予想通り、強化魔術の精度が下がっている。それはほんの 1137 少しの差だったが、積み重なれば無視できないものになる。いくら 面倒な魔術を使ったとはいえ、なんの妨害もない状態で放ったのだ から、この結果は無視できるものではない。これが戦闘中なら、相 手から当然妨害が入る。そちらに意識を向けていたなら、この下が り幅は更に大きなものとなるだろう。 目指すべきは、強化魔術の効果を減衰させずに火炎破を撃てるよ うになること。簡単な道のりではないとは思う。しかしそれを実現 させたときの自身を思い浮かべれば、やりがいはかなり大きい。 二つの目標を改めて確認したミューラは、まずは強化魔術を更に 洗練すべく、自分の世界に没頭するのだった。 ◇◇◇◇◇ ユーラフからアズパイアに戻って三日。何か手頃な依頼はないか と掲示板を物色する太一と奏。ミューラは手持ちの道具を補充する ために別行動を取っている。 異世界アルティアに来て半年が経った。この世界の文字を覚えよ うと真面目に学んでいた奏は誰かの手助けがなくても依頼書くらい は読めるようになっていたし、奏ほど真面目にはやっていないもの の、太一もある程度の単語や簡単な短文などは理解できるようにな っている。 この世界に来た当初は良く分からない記号の羅列にしか見えなか 1138 った依頼書も、今は何を指しているのかそれなりに理解が出来る。 太一のパーティは現在冒険者ランクBだ。ウェネーフィクスから 帰還した後にランクアップの報せを受けたのだ。アズパイア防衛の 功績から、本当ならAランクへと打診もあったが、断った。太一た ちはランキングに余り拘りがない。レミーアやスソラがAランクで あることを考えれば、太一と奏もAランクになってもおかしくはな い。 まあ、相応のランキングに近づいてきたと言うべきだろう。他の 冒険者たちから向けられる憧憬の視線が少し気になるところだが。 掲示板を眺めていた太一が、腕を組んで呟いた。 ﹁ゴブリン退治でもやるか﹂ ﹁めぼしいのないもんね﹂ 掲示板を眺めて思ったのが、自分等の実力に見合う依頼がない、 ということ。太一にとって張り合いがある相手というのは洒落にな っていないが、ここに貼り出されている依頼では、奏かミューラが 一人で受けても十分完遂できるものばかりなのだ。 大抵の依頼には適正ランクが設けられている。しかしそこに、B ランク冒険者を指定した依頼は見つからない。仕方がないのでどの ランクでも受けられるゴブリン退治を選んだというわけだ。 ゴブリンの繁殖力は尋常ではなく、減らす先から増えていく。つ に会いに行け﹂なんて格言があるくら まるところ、ゴブリン退治の依頼がなくなることはない。冒険者に は﹁困ったときはゴブリン いだ。 ゴブリン退治の依頼は全部で六つ。そのなかでも数が一番多いコ ロニーを指定している依頼書を掲示板からひっぺがした。 ﹁ゴブリンの総数二〇〇以上だってよ﹂ ﹁うわ。随分と多いね﹂ 1139 醜悪な姿の二〇〇の群れ。思わず想像してしまった奏が眉をひそ めた。 ﹁五∼六〇のコロニーが四つくらい纏まってるんだってさ﹂ ﹁なるほどね。二〇〇のコロニーがあるのかと思った﹂ ﹁流石にそれはないわー﹂ 過去にはそういうコロニーがあったと報告がされたことがあるの は、太一と奏も知っている。しかしそれはかなり特異な例であり、 普通に考えたら五〇とか六〇が平均的である。冒険者として初めて 受けた魔物討伐の依頼もゴブリンだった。その時のゴブリンの巣も 数は五〇くらい。あれが平均値である。 ﹁よし。ゴブリン、君に決めた﹂ ﹁全く育てる気にならないなぁ﹂ そんなどうでもいいやり取りをしている太一と奏に近付く少年が 一人。 ﹁タイチ、カナデ。久し振り﹂ ﹁ん? アレン君だ﹂ ﹁ようアレン﹂ あの時、レッドオーガの話を聞いてへたれていた太一と奏の尻を 叩いた少年だ。 太一。奏。ミューラ。アズパイアの冒険者たちは、彼らが未だに Bランクなのが信じられないと思っている者が多数。実力的には全 員がAランクでもおかしくはないのだ。 冒険者ランクAは、もう雲の上の存在である。滅多に出会うこと 1140 は出来ないし、出会っても声を掛けることなど畏れ多い部類だ。 数多の修羅場をくぐり抜けた歴戦の勇士。Aランクの冒険者を一 言で表現するならそれだ。 だから。誰もが声を掛けることを躊躇ってしまう太一と奏に対し て普通に接することが出来るアレンは、他の冒険者から﹁度胸満点﹂ と見られている。一方太一と奏からすれば、低ランクの頃の姿も見 せているだけに、肩書き一つで変わる反応に若干の居心地の悪さと、 冒険者ランクが持つ影響力に驚いていた。 ﹁調子はどう?﹂ ﹁まあまあかな﹂ ﹁俺があげた剣、使えるようになったか?﹂ ﹁⋮⋮無理だって。こないだもそう言ったろ? まだまだ剣に振り 回されてるよ﹂ 太一の剣は、武器屋の親父に頼んで店で一番重いものを出しても らった物だ。アレンにはまだ厳しいに違いない。強化魔術は使える ようになってきたと言っていたから、振り回されているのは強化な しでの時だろう。 ﹁強化なしで振れるようになったら、もっと楽に扱えるようになる んだけどな﹂ ﹁頑張れアレン﹂ 頑張れ、と言わなくてもアレンは頑張っているのを知っている。 あえてその言葉を使ったのだ。今はランクEで、成功と失敗を繰り 返して揉まれているところだ。 ﹁私たち依頼を受けるんだ。また今度話をしよう?﹂ 1141 太一が持っていた依頼書を受け取り、アレンに見せる。ミューラ と合流してこの依頼を受けたことを報告。ゴブリン相手ならばそう 苦労することはないため、特別準備をせずに装備だけ整えて出発に なるだろう。 ゴブリンが相手なら日帰りで行けるはずだ。そう考えていると、 ふとアレンが難しい顔をしていた。いや、難しい顔というよりは緊 張した顔というべきか。 さっき話をしているときは普通だったのだが。読心などは使えな いので彼の胸中は分からない。だが、何となくアレンが口にしよう としていることが分かった。 ﹁依頼、ゴブリン退治だろ?﹂ ﹁そうだけどそれがどうかしたか?﹂ ﹁俺のことも連れてってくれないか? 同行させて欲しいんだ﹂ やはり。アレンの言葉は予想通りだった。 別に連れていくことそのものに問題は無い。しかしそれを太一と 奏だけで決めてしまうのは抵抗があった。パーティーで動くと決め ている以上、メンバーの意見を聞かずに独断は避けるのが普通だ。 リーダーは太一だ。彼が決めることそのものは理屈にかなってい る。しかし、太一は便宜上必要だったからリーダーになっているだ けで、奏やミューラと比べて権利が強いということを意味しないと 本人は思っている。 ﹁俺はまあ、条件付きでなら構わない。でも、ここにはいないメン バーいるし、彼女の意見を聞くまでは決められないな﹂ ﹁私も太一と同意見。勝手にオッケーは出せないかな。ミューラが ダメって言ったら連れていけないかも知れないよ?﹂ たぶん大丈夫だと思うけど、というメッセージが含まれた二人の 1142 言葉を、アレンはすぐに了承した。もともと我儘言っているのはア レンの方だ。断られたとしても文句を言う資格すら彼にはないし、 アレン自身も十分承知の上だった。 用事を済ませたら、ミューラは冒険者ギルドに来るという。それ までは適当な席で待つことにしたアレン。太一と奏は依頼の受付の ためカウンターに向かっていった。遥か高みにいる二人の背中をぼ んやりと眺める。 何の理由もなくこんなことを言い出したわけではない。 アズパイア攻防戦では、アレンは怪我の影響で街から出ることが 出来なかった。太一たちの活躍は後で話に聞いたのみ。 それは相当に勿体ないことをしたと、彼らの話を聞いて本当にそ う思った。どうしても見てみたい。超一流と言って問題ないであろ う彼らの強さを。自分と彼らに、どれほどの差があるのか。 もしかしたらその圧倒的な差を目の当たりにして現実の厳しさに 打ちのめされるかもしれない。 前に一度、彼らの凄さを是非目にしたいと後をつけたことがあっ た。こっそり盗み見ようと。しかしその時点で、アレンは彼ら三人 との力の差を思い知った。離れているのに気配が気取られていたの だ。途中で逆に気配を消され、完全に見失った。 もう一度後をつけても同じ結果になるだけだろうと考えたので、 今回は正面から頼んでみたのだった。 後は、憧れの存在ミューラの意見を聞くだけ。多分大丈夫だろう という妙に楽観的な気持ちと、もしかしたら断られるかもしれない という想像で、落ち着いているつもりがそわそわとしてしまう。 そんな彼を眺める冒険者たちの感想は﹁とんでもないことを言い 出した﹂だ。その中には太一と奏、ミューラの戦闘を目の当たりに した者もいる。どう控えめに見たって、バラダーたちのレベルを上 回っているのは明らかだ。今もって太一たちパーティ以外に、バラ ダーらに追いつき追い越せた者がいないことからも、そのレベルが 高次元であることを物語る。 1143 静かなどよめきが支配するギルドの中。 どれだけの時間が経ったのだろうか。 観音開きのギルドの扉が開いて、一人の少女が入ってきた。 ざわ、と。今度こそ本当にどよめきが起きる。 ﹁な、何?﹂ 集まる注目に引き気味のミューラ。かつても似たように注目され ていたのだが、その時は自分以外は眼中に無かった。そのため全く 気にならなかったのだが、今は周囲に目を配るようになっている。 そのため突如浴びた視線の嵐にたじろいでしまったのだ。 ﹁ミューラ。買い物終わったか?﹂ 振り返りながら声を掛ける太一。確認しなくても気配でミューラ が戻ってきたのだと分かったのだろう。 太一の問い掛けにミューラは大きめの袋を掲げてみせる。買いた いものは概ね買えたようだ。 傷薬に包帯、保存食と水筒用の筒。皮袋にロープ等。あの中には そういった道具のどれかが詰まっているはずだ。冒険者をするにあ たり必要になる道具の管理はミューラの役目だ。これは冒険者とし ての経験の長さや、売買などでの交渉の仕方を分かっているからだ。 一四歳にしては不相応だが、彼女にそれらを叩き込んだのがレミー アであると考えれば納得も出来る。 因みに傷薬は奏とミューラ用だ。太一のように強化すれば鉄壁の 防御を実現できるわけではない。奏とミューラもよほどでなければ 怪我をすることもないが、それでも太一よりは﹃万が一﹄の可能性 があるのだ。用意しておいて損はない。 ミューラは周囲をゆっくり見渡す。向けられた視線を受け止める 者と逸らす者に分かれた。 1144 ﹁で、これは何事?﹂ 普段ここまで視線を浴びることはない。ちらりと見られることは あるが、そのくらいだ。それが今日は過剰な反応をされている。 ﹁ランクと、あいつ﹂ ﹁ん? ああ、アレンね﹂ なるほど、という顔をした。 Bランクとなってから太一のパーティーに遠慮する冒険者が増え る中、あまり気にせず接してくれる一人だった。 そのアレンが声をかけてきた。そうすると他の冒険者たちは気に なるのか注目してくるという妙な状況が続いていたが、その時と比 べても随分と見られている気がする。そういう視線を気にしない太 一と奏が共にいるからミューラもそれに釣られて平気でいられるが、 一人ではちょっと気後れしてしまうだろう。 ﹁で、そのアレンがどうしたの?﹂ ﹁俺たちと一緒にゴブリン退治に行きたいんだってさ﹂ ﹁え? 一緒に? というかゴブリン退治?﹂ 依頼がゴブリン退治に決まったこと。それにアレンが同行したい ということ。二つの話をされて思わず聞き返す。 ﹁めぼしい依頼が無かったからゴブリンにした。二〇〇だってよ﹂ ﹁アレン君については、私と太一はいいかなって思うんだけど、ミ ューラの意見も聞いてみようと思って﹂ ﹁そういうこと﹂ 1145 答えながら、こちらに歩いてくる少年に顔を向ける。 アレンの顔は多少こわばっている。それは冒険者としても異性と しても憧れの存在を目の前にしたからだ。表情に出すまいとよくポ ーカーフェイスが出来ている方で、彼の心臓は早鐘である。かつて 遠くで眺めるだけでいいと思っていた相手と、視線を交わし、言葉 を交わす。アレンにとってはとんでもない幸運だった。 ﹁アレンのランクは?﹂ ﹁えっと、Eランクだ﹂ Eか⋮⋮と顎に手を当てて呟くミューラ。どうすべきか彼女の中 で計算がなされているのだろう。駄目元で申し出たとはいえ、出来 ればよい答えが聞きたいと考えるのは人情だろう。 一方のミューラは、ランクE冒険者の平均的な戦闘シーンを脳内 で再生していた。アレンがゴブリン相手にどれだけやれるか。どれ だけフォローが要るか。彼を連れていくと決めた後に発生する影響 など。 一通り演算を済ませたミューラは、すっと流麗な仕草でアレンを 見た。 彼の身体に緊張が走る。 ﹁条件付きで、ついてきてもいいわ﹂ ﹁じょ、条件?﹂ ﹁ええ﹂ ミューラは頷く。 ﹁まず、基本的にあたしたちの指示に従ってもらうわ﹂ これは連携を乱さないため。三人での戦闘をスムーズにするため 1146 に磨かれた連携に、慣れていない者が入れば乱れる恐れがある。相 手がゴブリンとはいえ、そこに油断を入り込ませるつもりはミュー ラには無かった。 ﹁後、準備は自分でしてきて﹂ ﹁分かった﹂ もちろん足りなかったりすれば貸したりはする。しかし最初から アテにされても困る。 ﹁報酬は山分けにはしない。あなたが活躍した分だけ渡す﹂ ミューラの条件を聞きながら、アレンは違和感を覚えていた。 こんなことは、言われなくても分かりきったことだ。あくまでも アレンは同行するだけ。共同で依頼を受ける訳でもないし、小額で も報酬が渡されるだけ好条件だ。 ﹁最後に、助けはするけれど責任は取れないわ。それでもよければ、 ついてくる?﹂ 最後の言葉を聞いて理解した。これはアレンにだけ聞かせた言葉 ではない。この場にいる他の冒険者たちにも向けられた言葉だ。 アレンを連れていくのは特別。他の者がぞろぞろとついてきて楽 をしながらおこぼれに預かろうとされる可能性がある。そういう輩 はもちろん少数派だが、残念ながら確かに存在するのも事実だ。太 一たちとて、困っていたり自分等より低いランクの冒険者がいたら 力になりたいとは思っている。しかし最初から楽をして依存しよう とする相手に来られても迷惑でしかない。分かりきったことをあえ て口にすることで、他の冒険者に釘を刺したのだった。 アレンとしては報酬が一切なくても否やはない。金では買えない、 1147 経験という無二の報酬が得られるのだから。 ﹁了解。その条件飲むよ。是非連れていってくれ﹂ アレンは歓喜した。雲の上のような存在の冒険者たちと肩を並 ﹁分かったわ﹂ べて戦える。曖昧だった、霧の中にあって輪郭すら捉えられなかっ た目標がはっきりと見える。 そんな風にウキウキ気分でいたのだが、それは一ヶ所目のゴブリ ンの巣に辿り着いていざ戦闘が始まってから、粉々に吹き飛んでし まった。 アレンは必死に鍛練を積んできた。ゴブリン一体なら苦もなく一 撃で切り捨てることが出来るし、二体三体を同時に相手にしても持 ち堪えることが出来る。 だが、太一、奏、ミューラの三人は、格が違った。 ゴブリンを一体切り捨てた後、二体のゴブリンを相手に我慢の展 開が続いていた。これで多少は楽になるかと思ってちらりと横を見 てしまったのが運のつきだ。 口笛でも吹いていそうな気の抜けた表情ながら、アレンを楽に越 える速さと攻撃力で次々とゴブリンを狩っていく太一。 槍のように鋭く高速の水の魔術を楽々と飛ばして、ゴブリンの急 所をピンポイントで次々と貫く奏。 身体能力に物を言わせるのが太一なら、ミューラは技術力で勝負 している。が太一。アレンから見て信じられないほど無駄の無い動 きで流れるようにゴブリンを切り捨てていく。 三人が三人とも必殺必中。一撃必殺。 アレンが三体目のゴブリンをやっと倒した頃には、太一たちは五 〇を超えるゴブリンを狩り終えていたのだ。 ︵な、なんだあの強さは!︶ 1148 凄すぎて、差がありすぎてどれだけ離れているのかすら分からな い。 アレンには分かる、彼らはポテンシャルの三割も発揮していない。 ゴブリン相手には全力など出す必要すらないと言うのか。 そんな悔しさに埋没するアレンは気付いていない。太一たちは、 アレンが三体以上同時に相手にするのはきついと見抜いていた。あ れ以上彼の方にゴブリンが行かないようにと気を使っていたことま では。 結局その後もそんな戦闘が続き、ゴブリン二〇〇体すべて倒して ノルマを達成する頃には、アレンは﹁ズーン﹂と打ちひしがれてい るのだった。 1149 外国に行くと決めてみる。 依頼を終えてギルドに報告し。︵ゴブリンの巣四つを日帰りで潰 してきたので、相変わらずギルドには呆れられた︶ 拠点とする宿屋の食堂に戻ってきた太一、奏、ミューラの三人は 苦笑していた。 今日の客員冒険者がテーブルに突っ伏している。まるでくたびれ た老木のよう。真っ白に燃え尽きている。 ﹁なにー? タイチ君たちについていったの?﹂ クーフェのおかわりを持ってきたアルメダが、アレンが打ちひし がれている理由を聞いて呆れていた。 ﹁何でまた?﹂ ﹁あー何でも、アズパイア防衛線で俺たちの戦いが見れなかったの が心残りだったんだと﹂ ﹁怪我してたからねぇ﹂ 怪我人でさらに駆け出し冒険者と来れば、戦闘に参加させてもら えなくても納得である。 冒険者のお得意様が多いここミスリルで何年も働いているアルメ ダはかなりの事情通だ。ちなみにあの日、彼女は後方にてバックア ップをしていた。その時にアレンの怪我の応急手当もしたのだ。 アルメダも太一たちの戦闘を実際に見たわけではないが、噂は耳 に入ってきた。 黒髪の少年少女が、オーガをあっという間にやっつけた、と。ア ズパイアに黒い髪の人物は太一と奏しかいないことは分かっていた ため、活躍したのが彼ら二人だとすぐに分かったのだ。 1150 ふう、と溜め息一つ。アルメダは笑顔を浮かべてアレンの肩をぽ ん、と叩いた。 ﹁アレン﹂ ﹁⋮⋮なんだよ﹂ 鬱陶しそうに顔を上げるアレンに。 ﹁身の程知らず﹂ ﹁うっ!?﹂ 言葉の刃その一。 ﹁足手まとい﹂ ﹁ううっ!?﹂ ﹁お邪魔虫﹂ ﹁うううっ!?﹂ 手心一切無し。言葉の刃その二その三が容赦なく突き刺さる。 ﹁邪魔だけした上に、きちんと分け前もらったんでしょ? 恥ずか しくない?﹂ ﹁うぐぅ⋮⋮﹂ 止めがクリティカルヒットし。 アレンは撃沈した。 いい仕事をしたと言わんばかりに両手をパンパンと打って何かを 払う仕草をするアルメダ。彼女の足元では叩きのめされたアレンが 痙攣していた。 1151 ﹁ちょ、ちょっとアルメダ。そこまで言わなくてもいいんじゃ⋮⋮﹂ かなり痛烈な批判だった。そこまで気にしていない太一たちにと っては言いすぎと思わなくも無い。そう思った奏がフォローしよう とするが。 ﹁ダメ。甘やかしてもコイツのためになんないんだから﹂ いつまでも床に突っ伏しているアレンの首根っこを掴み、椅子に 座らせる。肝っ玉母さんを見ているようだ。 ﹁冒険者なんてのは自分自身と向き合う仕事でしょ。もちろん目標 を持つのはいいことだけど、最初に立てる目標としては、タイチ君 たちは遠すぎるよ﹂ 身の丈に合わなすぎる、と容赦なかった。 ﹁んな事言ったってよ! 志は高く持てって言うじゃねーか!﹂ ﹁はいはい。足元もロクに見えてないのによく言うわ﹂ ﹁うっく⋮⋮﹂ 一瞬で反論を封じられるアレン。どうやら彼ではアルメダにはま るで敵わないらしい。 散々ボコボコにしてようやく気が済んだのか、アルメダはやっと 矛を収めたようだ。 ﹁まったくもう。タイチ君たちの噂を聞けば、どれくらい力が離れ てるのかなんてすぐに分かりそうなものじゃない﹂ ﹁⋮⋮分かんねーよ。だから、ついていったんだ﹂ ﹁分かんないってあのねえ。アレンじゃまだゴブリンの巣、一人で 1152 潰せないでしょ﹂ 返事が無い事を肯定を受け取るアルメダ。 そして、くるりと振り返り、太一らに目を向ける。 三人に向けた質問は、﹁ゴブリンの巣を、一人でやってどの位掛 かる?﹂である。 奏は﹁魔法二∼三発﹂、太一は﹁剣だけでやって一分以内﹂、ミ ューラは﹁何も考えずにやって二∼三分﹂と答えた。 ちなみに奏は周囲への影響を考えない場合、である。周囲への延 焼や自然が荒れることを考えると、あまり強い魔法は撃ちたくない と付け加えた。 戦闘が出来ないアルメダから見ても、この答えが既に図抜けてい る。 ゴブリンの巣を一人で潰すのなら最低でもDランクはいるのでは なかろうか。安全マージンを取るならCランクは必要かもしれない。 Aランクに匹敵する太一たちとはそれほどの差があるのだ。 ﹁タイチ君たちの強さを知ろうと思ったら、ある程度強くなきゃ実 感できないんじゃないの?﹂ いわゆる、凄すぎて何が凄いのか良く分からない、といった状況 だ。アレンはまさにそんな心境である。 そもそもオーガを倒せるという時点で、アレンでは参考にならな いのではないか。アルメダはそう思うのだ。 ﹁くう⋮⋮。分かったよ。俺が間違ってた﹂ よろしい、と言ったアルメダが、ほっとした顔を浮かべたのを、 太一は見逃さなかった。 何だかんだ言っても心配なのだろう。太一たちと一緒であれば、 1153 この辺をうろつく限りは危険はほぼないと言っていい。もしかした らアレンのプライドに傷をつけるかもしれないが、ミューラは条件 に﹁こちらの指示に従うこと﹂と明言したし、命には変えられない と割り切ってもらうしかない。 それよりも、少し気になる。アレンとアルメダが妙に親しげなの だ。太一たちは二人が知己だとは知らなかった。何か関係があるの かもしれない。 ﹁ねえアルメダ﹂ ﹁ん? 何かなカナデ﹂ ﹁アレン君とは知り合いなの? 仲良さそうだけど﹂ アルメダはあれ? と首をかしげて、その後手をぽん、と打った。 ﹁ああ。言ってなかったか。アレンはわたしの従兄なんだ﹂ ﹁従兄?﹂ ﹁そうなの?﹂ 新事実発覚だ。アルメダの心配そうな顔も納得だ。 ﹁手が掛かるんだよー﹂ ﹁ちっちゃいころお兄ちゃんお兄ちゃんって後ろくっついてばっか りだったくせに﹂ ﹁なあに? また呼んであげようか。お・に・い・ちゃ・ん﹂ ﹁や、やめろ!﹂ アレンは顔を赤くして反論する。対するアルメダの楽しそうなこ と。本当に仲がよいのだと思わせる一幕だ。 じゃれあう二人を見ながら、太一は故郷の姉を。奏は同じく弟を 思い出していた。 1154 太一は姉と仲は悪くなかった。年頃としては珍しい方だろう。と いうよりも、大学に入って彼氏を作るまでは、やたら太一に構って きていたのは姉の方だった。早く弟離れしろよー、なんてからかっ ていたのが、いざ実際にそうされると若干の寂しさを覚えたことに 自嘲したものだ。 一方の奏は、思春期の弟を微笑ましく思っていた口だ。中学生に なって大人ぶってきた弟は、恥ずかしがってあまり奏と顔を突き合 わせて話さなくなった。それが寂しかった奏だが、大人になったの だと思うことにしたのだ。弟はふと、姉がかなりの美人であること に気付いてしまったからだったとは、奏は無論知る由もない。 故郷を思い出してどこか遠い目をしている太一と奏を、ミューラ は複雑な瞳で見つめていた。 ﹁それにしても、三人とも凄いよねー﹂ 急に水を向けられて、太一たちははっとしてアルメダを見た。彼 女はこちらを憧れの眼差しで見つめている。 単純に称賛していると思われる。最初は居心地が悪かったそれも、 今は普通に受け止められるようになった。 どのみち、これからもそのような称賛を受けることは分かってい る。その度に﹁素質は棚ぼた﹂と考えて謙遜するのもバカらしくな ったのだ。確かに素質は棚ぼたであるが、その素質を生かすために 努力をしたのは確かであり、全く苦労をしなかった訳ではないのだ から。 大きすぎる力を制御するための努力はやはり楽なものではなく、 今だってかなり頭を使う必要がある。出来ることが多すぎるが故の 贅沢な悩みではあるが、考えるとキリが無いのでそこはあえて気に しないことにする。 ﹁運良く素質があったみたいでさ﹂ 1155 ﹁お陰様で危険少なくて助かってるよ﹂ 強ければ攻撃を受ける前に倒すことが出来る。攻撃は最大の防御 とは良く言ったものだ。 ﹁素質かあ。それだと真似はできないかなあ﹂ 努力で実力を伸ばす者は確かにいる。だが、元々持っているキャ パシティの上限に達した場合、その後は工夫をしていくことになる のだ。もちろんそこからでも実力の伸ばしようはあるが、素質その ものを伸ばすには途方も無い努力と時間が必要なのだ。 素質を伸ばすことそのものに費やせるほど、人間には時間が存在 しない。エルフなど長寿の種族であればその限りではないのだが。 ﹁まあなあ。俺たちだって、素質が低かったかもしれないんだしな﹂ こればっかりは方便だ。召喚魔術で召喚された以上、素質が低い ということは無いだろう。その力を持っているからこそ選ばれたと いうことだから。 ﹁ま、アレンはこつこつやるしかないねぇ﹂ バシバシと背中を叩くアルメダ。アレンはゲホゲホと咳き込んだ。 ﹁それだけ強いんなら、色んな国を巡ってもいいんじゃないかなぁ﹂ ﹁ん?﹂ ﹁国を巡る?﹂ ぽつりと言われたのが予想外の言葉だったため、太一と奏が目を 丸くした。 1156 ﹁うん。よっぽど準備しないと、遠出は危険なんだよ。だから隣の 国に行ったりする場合は、冒険者の護衛を雇ったりしないといけな いんだ﹂ ついでに定期馬車などを利用する場合、乗車料金も洒落にならな い金額になる、と苦笑するアルメダ。他国を目的地とする場合、普 通の生活をしていては、片道の料金でさえ捻出するのは難しい。 ﹁三人なら護衛しながらお金かけずに街を転々と出来るわけだし、 他所の国に行けるなんてわたしはすごく羨ましいけどなぁ﹂ 他国へ行く。考えたことも無かった。確かに、活動場所をエリス テインに限定する必要は無い。拠点はエリステインのレミーア宅で いいかもしれないが、活動する場所を一定期間他国に移すというの は選択肢としてあがってもいいはずだ。むしろ何故今までそこに目 が行かなかったのか。 人生一度は外国に行ってみるといい、なんて言葉は、日本でも時 折聞いた。日本も確かにすばらしいが、海外の異文化に触れること で見聞が広まり、また違った視点から物事が見れることもある、と。 とある旅行好きの、太一にとって身近な女性は常々口にしていた。 まあ、彼の姉のことであるが。 ﹁陸続きでいける国って、シカトリス皇国とガルゲン帝国だっけ﹂ ﹁そうだね﹂ 奏の言葉にアルメダが頷く。 どうやら彼女も気になっているようだ。 ﹁片道だとどのくらいかかるもの?﹂ 1157 ﹁さぁー。利用したことないから分からない。ごめんね﹂ アルメダは眉を八の字にしてそう言った。謝られることでもない ため気にしないように言い、太一は腕を組んだ。 ﹁とりあえず金貨三枚持ってけば足りるか?﹂ 突然出てきた金額に、アルメダとアレンが目を白黒させた。 金貨三枚と言えば、四人家族が一年暮らせる額。それを簡単に口 に出来るとはどういうことなのか。 ﹁念を入れるならもっと多い必要あるよね﹂ ﹁冒険者ギルドなら大体の街にあるだろうから、そこまで多くなく てもいいと思うわよ。というか、金貨なんて出されても、普通のお 店にお釣りなんか無いわよ﹂ ﹁ああ、そっか。崩して持ってく必要があるか﹂ ﹁それだと嵩張るね。やだなあ﹂ ﹁ちょ、ちょっとちょっと!﹂ ﹁ん? 何慌ててんだ?﹂ 肩で息をするアルメダに割り込まれる。その理由が分からずに首 を傾げる三人。 ﹁そ、そんなお金どこから出てくるの?﹂ ﹁あ﹂ そういえば金貨三枚といえば大金だった。三人が三人とも失念し ていた。依頼をこなせば貯まって行く。元々欲しいものがあるわけ でもないし、太一の防具は高価でなくてもいいし、奏とミューラの 装備品は結構値が張るが、それでも傷を負うわけでもなし。日ごろ 1158 の手入れを怠らなければ修理や買い替えの必要に迫られることもな い。 エンゲル係数はそれなりに高くなったが、それ以外でかかるのは 宿代、消耗品の必要経費のみ。使い道はそれ以外では探すのが難し い、というのが現状だ。 また暇つぶしとしてそれなりの頻度で依頼を受けているため、金 は貯まる一方だ。金貨三枚くらいなら、躊躇わず出せる程度には貯 まっている。 それを説明すると、聞いていたアルメダは静かに椅子に座った。 呆けた顔で﹁これが、Aランク⋮⋮﹂等と呟いている。アレンの方 は指折り数えていたが、途中から放棄したらしい。考えたら負けだ とでも考えたのだろう。 この様子では、エリステイン王家からの報酬のことは黙っていた 方がよさそうだ。金貨二〇〇〇枚が届いたことは。 いざそれを目の前にして思ったことは﹁どう使えと?﹂である。 日本でなら豪邸に高級車に海外旅行に⋮⋮となるところだが、あい にくこの世界ではレミーア邸が豪邸だし、馬がなくても足で十分速 く移動できる。流石に長距離を足で移動するワケにもいかないが、 どこかを転々とするわけでもないため、今は馬車も必要ない。 そこで、おあつらえ向きと思った使い道が、他国へ行ってみる、 だったのだ。 少し散財しながら旅行気分を味わえるかもしれないのだ。腐らせ るよりはよっぽどいいだろう。 ﹁やっぱり、タイチ君たちは規格外よ﹂ ﹁やっぱそうだよなー﹂ ﹁一応自覚あるんだ⋮⋮﹂ ﹁それは、うん、まあね﹂ 太一の潔い肯定に奏が追随する。ここで話してしまったのが運の 1159 ツキ。バレてしまったものは仕方がないので、開き直ってしまおう と、太一は適当に考えた。 ﹁はは⋮⋮金貨三枚ってなんだよ⋮⋮俺どんだけ依頼受けたらそん なに貯まるんだよ⋮⋮ははは⋮⋮﹂ 壊れてしまった者約一名。 アルメダが彼の顔の前で手をひらひらさせながら﹁おーい﹂と呼 びかけられているが一向に返事が無い。完全にどこかに旅立ってし まったようだった。 ﹁ん。折角だから、他国に行ってもいいかもな﹂ ﹁そうだね。それにもっと早く気付いても良かったのに﹂ ﹁あたしたち揃ってその選択肢が頭から飛んでたわね﹂ そう。そのつもりになって話していたら、行きたい、という気持 ちが一気に膨れ上がったのだ。 太一はもうこれは行くしかないだろう、というところまで傾いて いる。 奏とミューラも思いの外乗り気なため、今後は国外への旅に向け て準備や情報収集となるだろう。 一方気まぐれで﹁外国に行ってみるのはどう?﹂と口にしたアル メダは、こんな簡単に話がそちらに行っている事に驚いている。 ﹁ね、ねえ。言い出しておいて何なんだけど、そんな簡単に決めち ゃっていいの?﹂ ﹁いいんじゃね? 折角行けるんだし。今は何か予定がある訳でも ないし﹂ ﹁うん。他の国ってのも気になるしね﹂ ﹁あたしも小さい頃は別の国にいたけど、後はずっとエリステイン 1160 だったから。久々に外国に行くのもいいって思ってるわ﹂ ﹁そ、そう⋮⋮。三人がいいって言うならいいんだけど﹂ 本人たちがいいと言うなら、それをアルメダに止める理由は無い。 彼らは冒険者。風の吹くまま気の向くまま、色々なところへ旅をす る者も多いからだ。太一、奏、ミューラのように一つの街に腰を落 ち着けている冒険者の方が実は少数派だったりするのだ。 ﹁じゃあ、シカトリスとガルゲンどっちにすっか?﹂ ﹁えっと、シカトリスがどちらかというと北側で、ガルゲンが南だ ったかな?﹂ ﹁そうだよ。シカトリスはもう冬真っ盛りだと思うな。地理的にも アズパイアより上だし、高度も高いから。冒険者のお客さんが言っ てたんだけど、ガルゲン帝国は縦長だから、南に下って行けば、冬 でも暖かいらしいわ﹂ アルメダの解説に食い付いた者が約一名。 ﹁決まりね。ガルゲン帝国にしましょう。そして南に下るのよ﹂ ミューラがそう断じる。 何故シカトリスはダメなのか。確かあの国は白色族という種族が 主に暮らしてる国だ。白色族とは大地に根付く強い魔力によって変 異した人間のことである。アルビノではないが白い肌に白い髪を持 つ。全員が老化が遅く、押しなべて長寿。またエルフほどではない が、人間と比べると美形が多いと評判である。強い魔力にさらされ てきた影響からか、魔術が得意な種族である。一方で身体能力は人 間のそれよりも劣り、またタフさでも人間を下回る。美しく、儚い。 そんな言葉がしっくり来るのが白色族である。 白色族が多く住む街に冬に訪れると、白い雪と白い色の人々でと 1161 ても幻想的な景色が見えると奏は本で読んだ。一度は行ってみたい と思っていたのだが。 ﹁寒いのヤ﹂ 子供のように嫌がるミューラ。いくら克服のために頑張っている とはいえ、嫌いなものがすぐ好きになるかといえばノーだ。太一と 奏は小さく笑う。 そんなオチもつきつつ、ガルゲン帝国を南下するルートでの、エ リステイン国外遠征が決まったのだった。 ◇◇◇◇◇ ﹁ほう。ガルゲン帝国か。良いではないか﹂ 宿屋ミスリルを引き払って、二週間ぶりにレミーアの家に戻った 太一、奏、ミューラの三人。ガルゲンに行くことにしたとレミーア に伝えたところの返答がそれであった。 ﹁あれ。ずいぶんアッサリだな﹂ 色々と聞かれたり、もしかしたら反対されるかも? 等と考えて 1162 いたため、即座に了承されたことに拍子抜けした。 ﹁ん? 何だ、反対して欲しかったのか?﹂ ﹁いや、そーゆーワケじゃないけどさ﹂ ﹁なら良かろう。お前たちが行きたいと言うなら行って来たら良い﹂ 冒険者なら、自分が行動したいようにするのが基本だとレミーア は言った。 ﹁お前たちは自由だよ。何にも縛られぬ。お前たちの実力ならガル ゲンへの旅程度なら大して危険はあるまい。私は安心して送り出す ことが出来る﹂ 強いというのはやはりいいことである。アルメダは旅は﹁危ない もの﹂と言っていたし、レミーアも﹁強くて安心﹂と言った。 反対されないのなら、是非行ってみたい。三人の気持ちは既に旅 の最中だ。太一と奏は分かりやすいし、ミューラも表情には出さな いだけでワクワクしているのだろう。 レミーアが三人の感情を正確に読み取り、心の中で笑っているこ とには気付いていない。 ﹁あ、レミーアさんも行きますか?﹂ ミューラの問い掛けに、しかしレミーアは首を横に振った。 どうやら彼女は行かないらしい。ずっとここで留守番でもしてい ると言うのだろうか。 ﹁いや。私はウェネーフィクスの王立図書館にでも篭ろうかと思っ ているよ﹂ 1163 王立図書館、と口にしたときのレミーアが、とても楽しそうだっ た。 あの場所は知識の壷。そこに大手を振って入り、堂々と篭れると いうのだから、知識欲が非常に旺盛な彼女にとっては宝部屋にでも 入るような心境なのだろう。 ﹁王立図書館に?﹂ ﹁うむ。個人的に調べたい事もあるし、時空魔法や迷い人について も調べる必要があるからな﹂ ﹁﹁⋮⋮﹂﹂ 元々の目的はそれだ。太一たちが国外に出て見聞を広めている間、 彼女は一人で調べてくれるというのだ。 太一と奏が次元を超えるために必要な知識や可能性を探る行動で ある。 それをレミーア一人に任せるとなり、太一と奏は途端に申し訳な い気持ちになった。それが表情に出ていたのだろう。レミーアは﹁ 気にするな﹂と小さく笑った。 ﹁お前たちでは手伝えぬよ。やっと現代語を覚えてきたお前たちが、 どうやって現代語よりも桁違いに難解な古代アルティア語を読むと いうのだ。手伝ってもらうにも、フォローをしながらやるくらいな ら私一人の方がよほど効率的だ﹂ 古代アルティア語。今は失われし、数千年前にこの世界で使われ ていた言語である。現代でその言葉を解読できるのは世界でも一パ ーセントといないだろうといわれている。レミーアはそれを読める 希少な一人であった。 因みにミューラも古代アルティア語は多少解読出来るのだが、彼 女の役目は冒険者としての経験を太一と奏にも提供すること。彼ら 1164 二人も大分慣れてきたとはいえ、ミューラから見てまだ少し甘いと ころもあるのが実際のところだった。知識として知っていても、実 際に経験するのとではまた違うのである。 ﹁それに、これは私の趣味も兼ねる。調べるのはお前たちの事に関 してだけではない。私の研究している題材で、資料が足りずに滞っ ているものがいくつあると思っている。その足しにするためにも行 くからな﹂ ざっと少なく見積もっても三〇はあったはずだ。かつて雑談をし ている時に尋ねてみたらその位だと言っていた記憶がある。 因みに内容については、適当な題材を一つ選んで貰ってさわりを 話してもらった。二分も経たないうちに太一にはちんぷんかんぷん になってしまった。奏とミューラは少しだけ耐えていたが、それで も一〇分もしないうちに二人ともダウンしていた。 やはりレミーアの頭はデキが違うようだ。是非その構造を見てみ たいところである。 ﹁じゃあ、すみません。お願いします﹂ 奏が頭を下げる。それに合わせて太一も何となく頭を下げた。 ﹁うむ、任されよう。お前たちは思う存分楽しんで来るといい。私 はその間基本的にウェネーフィクスを離れるつもりは無い。気が済 んだらウェネーフィクスにおいで﹂ 快く許可を出してくれたレミーアにもう一度礼を伝える。 そうと決まれば忙しくなるのが遠出前だ。 本来国外への長距離移動ともなれば危険が伴うのだが、太一、奏 は旅行気分でいた。その辺がやはり、チートと言うべきであろう。 1165 浮かれ気味の二人を見て、ここは自分がしっかりするべきだなと 気を引き締めるミューラ。しかし彼女の足取りが普段よりやや軽い のは、今だけは目をつむってあげるべきだろう。 そんな三人の背中を、﹁歳相応だな﹂とほほえましく思いながら、 レミーアは見送ったのだった。 1166 飼い馬クロ 出発まではトントン拍子に決まった。もっとも懸念だった盗賊は、 ギルドによる調査の結果警戒体制解除が言い渡されたのだ。後顧の 憂いなく発てることとなった。 アルメダとアレン、他普段関わりのある人々に挨拶をし、ロゼッ タたちには太一がひとっ走りユーラフに行き、旅立つことを伝えた。 文言は違うが、全員に﹁また戻ってこい﹂と言われたことが、太一 たちはとても嬉しかった。 アズパイアからガルゲン帝国までは、まず馬車の定期便で南下。 貿易が盛んな港町シーヤックを目指す。そこから海岸線沿いを進む ガルゲンへの定期便が来るまで待つか、ガルゲン入りする商人の馬 車の護衛を引き受けるか。或いは馬車を雇うか、自前の馬車を用意 するかの四択になる。国境越えは冒険者である証を身分証明書とし て見せれば問題ない。驚くほどあっさりと通れるということだ。こ れが、冒険者ギルドカードに対する厳重なルールの理由である。 さて問題はそこまで何を足にするかだ。太一たちであれば、方角 さえ間違えなければずっと歩いてでも問題なくシーヤックに着くだ ろう。しかし草原のど真ん中を徒歩で歩き続けるというのはあまり 良い方法とは言えないかもしれない。よっぽどの理由がなければア ズパイア∼シーヤックを徒歩で踏破するのは非現実的だからだ。 別に好き好んで目立ちたい訳でもないので、馬車で行こうとすぐ に決まった。定期便もあるため何もしなくてもシーヤックには辿り 着くだろう。 そこでふと奏が呟く。 ﹁馬車の中で何してるものなの?﹂ と。 1167 ミューラは﹁何もしない。武器の手入れくらい﹂と答えた。つま り特にやることはないということ。 数日もの間することがないというのは実は相当な苦痛である。景 色を眺めたところで、代わり映えしない風景ばかりなのは分かりき っている。 その退屈をどのように潰すか。思わぬ障害だった。修行でも出来 るかと思ったが、まずペースを他人に握られている時点でかなり難 しいだろう。定期便は乗り合いである。他人の目に触れるのも面倒 だし、第一プライバシーがない。一日二日なら耐えられようが、そ れが一週間二週間となるのは流石にきつい。 それなら、いっそのこと。 ﹁馬車買うか﹂ 思い付いたから言ってみただけの太一の一言は、奏にとってもミ ューラにとってもこれ以上ない提案だった。プライバシーの確保に 行動ペースの自由。それは何にも代えがたいメリットだ。デメリッ トは馬車代とその維持費、そして御者である。無論そのデメリット は﹁一般的に馬車を入手する場合﹂に発生するものだ。金なら文字 通り山のようにあるので問題なし。唯一の懸念だった御者も、ミュ ーラの﹁あたしできるけど﹂の一言により無事通過。 即断即行動とばかりに、太一一行は馬車を売っている店を訪れた。 小さなものから大きなものまで、動かす力となる馬の種類も様々 だ。金に糸目をつけるつもりはないが、ただ大金を支払って大きい 馬車を買っても持て余す。かといって小さい馬車では、不測の状況 となったときに不便である。 とりあえず六人乗り天蓋つきの馬車にすることで落ち着いた。さ て、続いては馬である。速度はそこまで必要ない。タフな馬がいい。 ﹁それならこいつなんてどうだい?﹂ 1168 馬車屋と提携している牧場主が勧めてきたのは、体格のいい大き な馬だった。見たことがある。アズパイアからウェネーフィクスに 向かう際、シャルロットの馬車を牽いていたのと同じ軍用馬だ。ス ピードはそこまででもないものの、とても力強い足取りだったのを 覚えている。この馬が二頭もいれば十分だろう。ミューラがそれに 決めようとしたとき。太一はふと牧場の端にいる馬に目を惹かれた。 一際太い鎖に繋がれた黒い馬。その存在感は軍用馬の比ではない。 というかあれは。 ﹁オイオイ。黒曜馬かあれ﹂ 太一の言葉に、牧場主の親父は頷いた。 ﹁ああ。旅の冒険者が子供の黒曜馬捕まえて売りに来たんだよ。小 さい頃から育ててっから人にも慣れたが、如何せん大喰らいでな。 魔物なんざ買う物好きもいねーから死ぬまでここで過ごすことにな るだろうさ﹂ ﹁ふーん﹂ 返事もおざなりに太一は黒曜馬に近付く。太一を見ていた黒曜馬 は、少年が自分に近付いてくると気付き、横たえていた身体をのそ りと起こした。 大きさはなぜか普通の馬くらいだ。小型バスほどの大きさがある ものだとばかり思っていた。 ﹁ああ。そりゃまだ子供だからな。大人になるまでにゃ後二〇年は かかるだろ﹂ 牧場主の解説を背中に受け、太一はなるほど、と頷いた。かなり 1169 成長が遅いらしい。時間かかりすぎと思わなくもないが、魔物だか ら人間の常識が通じなくても不思議ではない。 威嚇するように蹄で地面を叩く黒曜馬の目を、太一は真正面から 見据える。 人に慣れているとはいえ、そう簡単に心を許すつもりはないのだ ろう。その目からは高いプライドが伝わってきた。 ﹁お前はこの辺の王だもんな﹂ 数こそ少ないが、黒曜馬は危険指定されているAランクの魔物。 基本的に森の中にいるが、極稀に草原に出てくるのだ。その頻度は 年に一、二回。太一と奏が短い期間で二度も出会ったのは非常に珍 しいことである。 ふと、奏は空気が冷えてきたのを感じた。ミューラも感じている ようだ。それが太一から発せられていると、二人はすぐに気付いた。 牧場主は固まっている。太一のことは知っていようが、その魔力を 感じたことはないだろう。太一の魔力を感じてしまえば、その底知 れぬ力による恐怖ゆえに本能が警鐘を鳴らす。 それは黒い馬も例外ではなかった。自分より強い者に出会うなど なかったことだ。それも、自分の次元を遥かに越えるレベルで。己 の強さにプライドを持つからこそ、太一の強さは良く伝わったはず だ。 太一は魔力の放出を抑える。黒曜馬は目を丸くしている。怯えて はいないが驚きはしたようで、もう威嚇していなかった。太一の魔 力を感じてなお、ただ驚いただけとは実に肝が据わった魔物だ。 太一はこの黒曜馬が気に入った。 ﹁お前、俺たちの馬車を牽く気ないか?﹂ 言葉が伝わるのかは不明だ。だが太一はあえて声を掛ける。 1170 ﹁俺も、俺の仲間も、お前より強い。自分より弱いやつの命令は聞 けなくても、俺たちならどうだ?﹂ 黒曜馬は目を細める。まるで﹁面白い﹂とでも言うかのようだ。 ﹁お前は化け物、って怖がられてんだろ? ついて来いよ黒曜馬。 俺はお前以上の化け物だ﹂ 鼻をふん、と鳴らして、黒曜馬は首を鋭く動かす。ばきんと音が して、鎖は容易く千切れた。その光景に牧場主は言葉を失う。黒曜 馬はあえて鎖に繋がれることを容認していたのだ。獲物もろくに捕 れないほど小さな頃から、魔物である己に食べ物をくれ、ここまで 育ててくれた人間に謝意を表するつもりで。 ﹁お前、やっぱ頭いい魔物だったんだな。実は言葉も分かるんだろ﹂ 黒曜馬はリアクションしない。奏とミューラの元に戻る太一の斜 め後ろを、黙ってついてきている。 ﹁勝手に決めちゃって﹂ ﹁⋮⋮スンマセン。どうしても気になっちゃってさ﹂ ﹁ちゃんと言う事聞いてくれればいいけど﹂ ﹁⋮⋮﹂ あ。という顔をする太一を見て、奏は首を左右に振り、ミューラ ははあー、と大きなため息をついた。先走った少年を諫める可憐な 少女二人の図。太一の真後ろにはランクAの魔物である黒曜馬がい るのだが、二人の落ち着き方は尋常ではない。太一が﹁仲間も強い﹂ と言ったのは間違いではなかったのだ。 1171 ﹁俺たちの馬車はお前に牽いてもらう。頼んだぜ、いや、割とマジ で﹂ 奏とミューラの白い目に晒されて魔物に懇願する少年。 先程の痛烈なプレッシャーは何だったのかと思わずにはいられな い。黒曜馬が﹁こいつはこの二人に頭が上がらない﹂とにやついて いる。表面上は無表情のままなのであくまで心の中でだけだが。 ﹁こいつ、売るなら幾ら?﹂ 気を取り直して、太一は牧場主に問い掛ける。 やっと正気に戻ったらしい。彼はハッとして太一を見た。そして その後ろに堂々と立つ黒曜馬に視線を移す。 ﹁いや、正直魔物の相場なんて分からんもんだからよ、値段決めて ねえんだ﹂ ﹁ああ、そうなん? じゃあ軍用馬二頭分でどうよ? 悪くないと 思うんだけどな﹂ ﹁分かった、それでいい﹂ あっさりと終わる交渉。牧場主からすれば、これからは大量の肉 を用意せずに済む上に高級な馬二頭分の売り上げが入るのだ。今後 浮く食費を考えても、それを売り上げと考えた場合かなりの金額に なる。頭の中でそれを計算した牧場主にとって、頷かない理由がな かった。 ﹁よし。お前の名前は⋮⋮クロな﹂ ﹁安直ね﹂ ﹁⋮⋮犬じゃないんだから﹂ 1172 ﹁な、なんだよ。いいだろ分かりやすくて。⋮⋮おいクロ、なんだ その﹁どうしようもねぇなこいつ﹂って目は! やっぱこっちの言 葉分かるんだな! そうなんだろ!?﹂ 些細な一悶着もありつつ。 クロの手綱を牽いて馬車のもとへ向かう。子供とはいえ街中を黒 曜馬が歩いているのだが、大人しくしている限りは見た目ただの黒 い馬。そして、仮に暴れたとして、太一、奏、ミューラの三人がか りとなれば取り押さえるのは一瞬だ。 まあそれは万が一にもないだろうな、と太一は思っている。この 馬の頭のよさは群を抜いている。ここまで来て暴れるくらいなら、 いっそ最初からついてすら来なかっただろう。太一からにじみ出る その信頼を、クロがきちんと受け取っていることまでは気付いてい ない。 馬車は既に準備されていた。荷物を荷室に放り込んで、クロを馬 車に繋ぐ。馬車屋の主は﹁一頭でこれを牽かせる気かい!?﹂と声 を大きくしたが、クロが平然と数歩歩いて見せたことで納得させる に至る。子供とはいえとんでもない脚力とパワー自慢の魔物である。 六人乗りの馬車程度はやはりなんでもないようだった。 荷物は昨日のうちにある程度揃えてある。後は足りないものを補 充して、その足でアズパイアを経つことにした。 クロはかなり力強く、手綱で与える指示通りに素直に歩いた。た った一頭で、軍用馬二頭分の働きをして見せるクロ。素養が馬のそ れとは桁が違うようだった。 アズパイアからシーヤックまでの道中は平和なものだ。時折現れ る魔物は太一らが出るまでもなくクロが威嚇一発で追っ払ってしま うし、ここら一帯で稀に出現する野生の黒曜馬にも、一度も出会う ことなくその生息域を抜けた。 どこまでも続く草原を、のんびりペースで馬車は進む。カッポラ カッポラリズム良く響く蹄の音と、雲一つ無い澄んだ青空から降り 1173 注ぐ日差し。 ﹁くあ⋮⋮んむ﹂ 秋空の昼下がり。太一は大きなあくびをした。秋がさよならをい つ告げようかと見計らっている季節。とはいえ、風のない晴れた昼 間はまだまだ結構暖かい。 今御者をしているのは太一だ。ミューラに、﹁折角だから教えて﹂ と教わったのがアズパイアを出発した翌日。一度やり方を覚えてか らは、メインで手綱を握るのは太一の役目だ。まだまだ初心者に毛 が生えただけの太一が一端っぽく御者をやれているのは、頭のいい クロが太一の考えを機敏に察知しているからである。 ﹁のどかだなあ﹂ 目尻に滲んだ涙を指でぬぐう。そして、両肩にかかる重量感に意 識を向ける。 奏とミューラが太一の肩を枕がわりにして寝ていた。 ﹁羨ましいシエスタですこと﹂ 起こさないように小声で呟いた言葉は溶けて消えた。 くう、すう、と。可愛らしい寝息がそよ風の合間を縫って微かに 聞こえてくる。警戒心のかけらもない、信頼しきった寝顔。今なら 唇を奪ってしまっても気付かないのではなかろうか。まあ、そんな 度胸は今のところないのだが。 ずれていた膝掛けをかけ直し、太一は手綱を握り直す。ふと、ク ロが顔を向けて半目で太一を見ていた。﹁起こさないように歩いて やるよ﹂と言われた気がして、太一は軽く苦笑した。魔物の癖に実 に良くできたやつだ。 1174 ﹁なあ、シルフィ﹂ ﹁んー?﹂ そう呼び掛けて具現化させると、太一の膝の上に現れる手の平大 の女の子。どうやら寝ていたのだろう、﹁うにー⋮⋮﹂と理解不能 な言葉を口にしながら目を擦っていた。 ﹁シルフィ。お前も俺を枕にしてんのか﹂ ﹁んー? 寝るときはいつもそうだけど?﹂ 何を今さら、という顔をされてしまう。流石風の化身。全く気付 かなかった。空気の重さを感じろと言う方が無茶であろう。 普段から近くにいることは分かっているので全然気にしなかった が、もう少しシルフィのことを見てもいいのかもしれない。出来れ ば、いつでも話ができる程度に。太一と念話だけでもいいのだが、 奏やミューラとも話が出来た方がいいだろう。幾星霜の時を越えて、 ようやっと孤独から解放されたのだから。 しかし奏、ミューラと話をするには具現化させていなければなら ないし、手の平大だと滅茶苦茶目立つ。等身大の状態にすればいい だけだが、そこにも問題はある。否応なしに他人を跪かせるような 存在感の持ち主だ。シルフィは狙ってやっているわけではないが、 身近にいる奏とミューラも、気を抜くと思わず膝を付きそうになる というから、何も知らない一般人では更にその傾向が強いと思われ る。下手をすれば将軍様のおなーりー、なんて状態になりかねず、 おいそれと等身大には出来ない。 その辺も考えなければならないだろう。こうして移動している時 間などはたっぷりその思考に浸れるはずである。 ﹁もう半分くらい来たかな?﹂ 1175 方角は合っているが、距離感は分からない。行けども行けども同 じ景色で、目印なんかありはしない。地図のどの辺にいるのか、太 一だけでなく奏もミューラも現在地を見失っていた。 ﹁半分どころか、もうすぐ着くよ﹂ 速い速い、と笑うシルフィ。驚いた。まさかそこまで進んでいた とは。 ﹁クロが優秀だからだね。普通の馬じゃあ、このペースで朝から夕 方まで歩き続けるのは無理だもん﹂ 余程のことがなければ、基本的に昼休憩以外では休まないで進ん でいる。一応クロの調子は観察しているが、まるで疲れた様子を見 せないのだ。歩き続けて一晩休ませると、驚くほど回復しているの だ。 ﹁馬じゃこうはいかなかったな﹂ ﹁そうだね。あ、そうだ。ついでに、進んできたって実感、させて あげようか?﹂ ﹁はい?﹂ 実感とはどういうことか。シルフィが魔力ちょうだい、と両手を 突き出してくるので適当な量を渡す。淡く輝く緑の光の球をシルフ ィは両手でしばらく捏ね回してから、﹁えい﹂と掛け声一発、大空 に放り投げた。魔力球は空をぐんぐん昇っていき、やかて見えなく なった。 カッポラカッポラ。 クロの蹄の音だけが響く。何も起きない。もちろん、ずっとこの 1176 ままということは有り得ない。なんらかの術を使ったのは﹁あの﹂ シルフィだ。ただそれだけで、何が起きるのだろうとワクワクする 理由としては十分だった。 変化が起きないまま十数分が経過。 さすがに﹁あれ?﹂と太一が思い始めた頃。些細だが、確かに変 化が起きた。 クロがぴくりと耳を動かし、そして顔をわずかに上に向ける。 そう。それは空からやってきていた。 無色透明。目では判別できないが、しかしそこに存在する。 そう、それは﹁匂い﹂だった。 鼻腔をくすぐるその香りは、かつては夏によく嗅いだものだった。 ﹁これは⋮⋮﹂ ふふーん、と言いたげに胸を張るシルフィを見て、それから視線 を空に移す。間違いない、気のせいなんかではない。 ﹁奏、ミューラ﹂ 思わず二人を起こす。 ﹁んん?﹂ ﹁どうしたの?﹂ 心地よい微睡みを遮られて身体を起こす二人。奏は小さくあくび をし、ミューラは﹁ん∼∼⋮⋮﹂と言いながら伸びをする。そして、 二人とも気付いた。 ﹁あれ﹂ ﹁これって﹂ 1177 違和感を覚えたらしい二人が周囲を見渡す。しかし広がる代わり 映えの無い草原に、今度は揃って首をかしげた。 ﹁潮の香りだよな﹂ ﹁う、うん﹂ ﹁そうなんだけど⋮⋮﹂ 戸惑う二人。どう考えても、近くに海はない。ではなぜ、潮の香 りがするのか。 ﹁アタシが運んできたんだよ﹂ ﹁シルフィ?﹂ ﹁うん。おはよう、かなで、みゅーら。あ、二人ともよだれ﹂ ﹁﹁⋮⋮⋮⋮っっ!!﹂﹂ 顔を紅くして口元をぬぐう二人。 ﹁う・そ♪﹂ ひっかかったー! と言いながらけたけたと笑うシルフィ。して やられた奏とミューラは、更に顔を紅くした。 ﹁シルフィ!﹂ 声を荒げる奏。だが、シルフィの ﹁たいち枕は寝心地よかった?﹂ の一言に再度沈黙させられる羽目になった。このやり取りで旗色 1178 の悪さを感じ取ったミューラは沈黙を決め込むこととする。必然的 に奏VSシルフィの構図が出来上がるが、優勢なのはどちらか言う までもない。階級別キャットファイト口喧嘩バージョンをBGMに、 草原ではまず嗅ぐことの出来ない潮の香りをツマミにして、カッポ ラカッポラ馬車は進む。 港町シーヤックまでは後二日の距離。最初の旅ももうすぐ一段落。 海産物が非常に美味だというシーヤックに思いを馳せる。 キャットファイトは、シルフィが奏を一ラウンドテクニカルノッ クアウトで下したことを、ここに追記しておくとする。 1179 異世界のヴェネチア 港町シーヤック。 エリステインの南東に位置する湾に存在する島に築かれた、エリ ステイン魔法王国においてウェネーフィクスに次いで二番目に大き な都市だ。ほぼ九割方の商人や旅人が、エリステインとガルゲンを 往き来する際に中継地点に入れる。太一一行もそれに倣い、ここシ ーヤックを中継地に定めたのだ。 エリステインの本土からは、橋島と呼ばれる横幅四〇〇メートル 程、長さ三キロの細い陸地が続いており、その先には成熟した茄子 のような形の島、ウェンチアがある。このような地形を作り上げて しまうのだから、自然の力とは偉大だ。 人口は島に住む者が一〇万人、本土に発展した街に居を構える者 が九〇万人超。合わせて一〇〇万人を超える巨大都市だ。島の方は 居住区というよりは観光地区、商業地区の意味合いが強く、元々こ の島に住んでいた先住民の血筋を引く者が今も住んでいる。人気の 宿泊施設があるのもウェンチアだ。 シーヤックはウェンチアに漁を生業とする者が住み着いたのが始 まりと言われている。海でも川でも漁ができた、という文献が多数 残されている通り、大小様々な運河が一〇〇以上も街の中を走って おり、その運河を渡る橋の数も三〇〇を越える。陸の道路と、川の 水路を進む舟が都市内の主な移動手段。反対に街の中は馬車、馬が 禁止されている。馬車や馬でこの街を訪れた者は、橋島を渡る前に シーヤックが公営している厩舎に預けるのだ。アルティアにも満ち 潮と引き潮がある。シーヤックは海抜三メートルの高さにあるため、 高潮が発生すると水没の危険がある。その為この街の建物はみんな 高床式だ。一階は丸々基礎になっている。 太一と奏の率直な感想は、﹁異世界のヴェネツィア﹂だ。島の形 と、本土を結ぶ橋が自然由来か人工的かの違いを無視すれば、﹁イ 1180 タリアのヴェネツィアがこの異世界アルティアにあったら﹂という 例え話が実現したかのような街並みだった。地球上でもっとも美し い都市の一つと言われるヴェネツィアならば、シーヤックを例える のにおあつらえ向きだろう。島の名前も何だか似ていることである し。 ﹁すげー﹂ ﹁綺麗な街だね﹂ ﹁うん⋮⋮ほんとね﹂ 三人は思い思いの言葉で感動を表現する。 太一と奏はヴェネツィアを訪れたことはないし、ミューラは一度 だけこの場所に来たことがあるらしいが、小さい頃の話だったので うっすらとしか覚えていない。 橋島から見えるウェンチアは、海原に街が直接浮いているように 見える。やや赤の強い建物の屋根が、コバルトブルーの海によく映 える。 ﹁でしょう? ここから眺めるウェンチアも私たちの自慢なんです よ﹂ 馬車を預けるために訪れた厩舎の、爽やかな青年といった出で立 ちの若旦那が、ニコニコとそう言った。 その言葉もこの景色を見た後ならば納得である。 絶景を横目に馬車を預ける手続きをする。滞在日数を明確には決 めていないので、前金で一週間分を納め、後は実際の滞在日数から 精算する方法を選んだ。 ﹁良き癒しの時間をお過ごしください。ようこそ、水の都シーヤッ クへ﹂ 1181 いい子にしてるよう目一杯クロを撫でて。 青年の歓迎の言葉に送られて、太一たちは橋島を渡る。 静かに打ち寄せる波が砂浜を洗っている。透き通るように綺麗な 海。工業排水などで汚染されていないのは一度見れば分かった。波 打ち際から数メートル海に入れば、水深二メートルほどの浅瀬にも たくさんの生き物がいる。 この景色と水平線、髪を撫でる潮風を味わいながら、素の状態で 歩いていく。一キロの道のりを、時折立ち止まりながらたっぷり二 〇分以上かけて渡る。 そうして辿り着いたウェンチア島の街並みに目を奪われる。濃い オレンジの屋根。白い壁の建物。石を切り出して組み上げた基礎は 平均で二∼三メートルといったところか。それらは常に潮風と高潮 にさらされるウェンチア島において、塩害に強い材質で、水没しな い建物をと先人が厳選した結果。それが機能美と外観の美しさを両 立するという黄金比になったのは奇跡的とも言うべきだろう。 歩けば至るところに運河があり、所狭しと小舟が往来している。 そこには様々な商品を並べた行商船もあり、同じく船で移動する人 々と盛んに交渉をしている姿が見てとれた。 ﹁来てよかったね﹂ ﹁そうだな。飯も旨そうだし﹂ 風景に目を向けて顔を綻ばせる奏に、小舟で売っている新鮮そう な肉を見ながら同調する太一。何を目当てにしているか丸分かりだ。 ﹁はいはい。まずは宿を取らないとね。観光は後よ﹂ 何はともあれ寝床の確保は最優先だ。本土にも多数宿屋はあるが、 折角観光しにここに来たのに、寝るためにわざわざ本土に戻らなけ 1182 ればならないというのは些か締まりが悪い。 観光地らしく宿屋は街の真ん中に固まって多数営業していると、 厩舎の若旦那から情報を得ている。早速そちらに足を向けて歩くこ と三〇分。宿屋の区画に辿り着いて、三人は焦らざるを得なくなっ た。 ﹁ちょ。満室ばっかじゃねーか﹂ ﹁どういうことなの?﹂ ﹁分からない。でも、どこかに空きはあるはず。探すわよ﹂ 宿屋は確かにたくさんある。しかしその軒先には﹁満室御礼﹂と 書かれた立看板が出されている宿屋ばかりなのだ。これはあまり芳 しくないと、太一たちは小走りで宿屋通りを進んでいく。 全長三キロの通りをほぼ真ん中まで来たとき。立看板がかけられ ていない宿屋を数件見付けた。これは渡りに船と駆け込もうとして、 ﹁満室御礼﹂の立看板を持った従業員と鉢合わせた。 ﹁⋮⋮もしかして、満室ですか?﹂ ﹁申し訳ございません。たった今全室お客様が決まりまして﹂ ﹁そんなあ⋮⋮﹂ ﹁またのご利用お待ちしております﹂ 事務的な謝罪と共に、従業員は立看板を立て掛けて、中に入って いった。宿の無い客を放り出したことをあまり気にしていないよう な口調と態度だった。 そして、一瞬呆然としてしまったのが運のツキ。次々と出される 立看板。本当にタッチの差だったのだ。 ﹁⋮⋮やべ。素で宿無しだぜコレ﹂ ﹁参ったわね⋮⋮﹂ 1183 勿論本土にも宿屋はあるし、そちらは空いているはずだ。とはい え折角観光しにここまで来たのだから、ウェンチア島に泊まりたい と思うのは普通だろう。しかし、現実は無情だ。 偶然にも人通りが途切れる。立ち尽くす三人を風があおっていっ た。 ﹁あら。貴方たち観光客?﹂ 後ろから声をかけられて振り返る。 両手で紙袋を抱えている若い女がそこにいた。声をかけてきたの は彼女らしい。ウェンチア島を囲む海と同じコバルトブルーの髪が 印象的な、一〇人いれば八∼九人は美人と答えるだろう美貌の持ち 主だった。 ﹁そうだけど﹂ ﹁そう⋮⋮﹂ 何かを察したのか、彼女は気の毒そうに眉を下げる。 ﹁何か知ってるんですか?﹂ 否定も肯定もしない女性。しかしその目が﹁知っている﹂と告げ ていた。 ﹁本土の宿を取った方がいいかもしれないわ﹂ 狙っているのか天然なのか、明らかに﹁何かある﹂と言わんばか りの台詞と態度。 とはいえ何も情報が無い以上、手を貸すにもどこから手をつけれ 1184 ばいいのか分からない。相手から乞われたならばいざ知らず。 ﹁埋まってしまったものは仕方ないわね。本土の宿で我慢しましょ﹂ ミューラがそう言って太一と奏を促す。このままなら、三人とも 黙ってウェンチア島を立ち去っていただろう。太一たちに背を向け た女性が、﹁ホントはお客として迎えてあげたいんだけど⋮⋮﹂と 呟かなければ。 腕を掴まれ、女性はびくりと身体を一瞬震わせて立ち止まった。 太一が真剣な目をして、彼女を引き留めていた。 ﹁お客として? そんな台詞、一般家庭じゃ出てこないよな?﹂ 太一の台詞に女性は目を白黒させた。間違っても、普通の聴力で 聞き取れる音量ではなかった。 呟かずにはいられない。しかし聞こえて欲しくはない。だから消 え入るように声を出したのに。面と向かっていたって、彼女の唇が 微かに動くのを見て、やっと﹁何か言った﹂と分かるようなレベル だったのだ。 しかし、﹁何かある﹂と感じて聴覚を強化していた太一には、そ の程度はなんの意味もなさなかった。 ﹁わ、私の言葉が聞こえたの?﹂ ﹁地獄耳でね﹂ ﹁え? じごくみみ?﹂ ﹁あー。えっと。めちゃくちゃ耳がいいんだよ俺。この距離なら、 声に出されればどんなに小さくても聞こうと思えば聞ける﹂ ﹁そうなんだ⋮⋮﹂ 信じられないとばかりに今度は彼女が呆然とする番だった。 1185 ﹁話してみませんか? 力になれるかは分かりませんが、吐き出す ことで楽になるときもありますから﹂ 悩みごとは抱えれば抱えるほど、悪い方悪い方へ進みがちだ。そ れを身をもって知っている奏はそう申し出てみる。 その声色から奏の純粋な厚意を感じ取った女性は、目尻に涙を浮 かべて頷いた。 ◇◇◇◇◇ 熱いクーフェが湯気を立てる。五つのカップをテーブルに置いた 女性は席についた。 案内されたのは、宿屋通りの外れにある宿屋。それなりの大きさ で建物も立派だが、ここだけ立看板が出されていなかった。聞けば、 一人も客がいないらしい。両隣も対面も立看板を出しているという のに、どういうことなのか。 女性はミントと名乗った。二一の若さにしてこの宿屋の女将をし ているという。そして彼女の隣に座るのが、この宿屋の持ち主にし てミントの夫であるテイラー・マゴット。両親から受け継いだ宿を 経営する四代目主人だ。歳は三〇。柔和な顔つきながら、芯の通っ た緑色の目が印象的な男性だ。それなりの歳の差夫婦。 1186 ﹁今までと変わり無く、宿を経営していただけなんだ﹂ テイラーはとつとつと話し始める。 ﹁かつてはそれなりにこの宿も繁盛していたし、両親や祖父母に恥 じないよう、必死にお客様にサービスしてきた。手前味噌だけど、 評判も悪くなかったんだよ﹂ それが徐々に変わったのは、今から二年前。 ﹁ウェンチアで一番の大商人、ガルハドが病気で倒れて、息子のミ ジックが継いでからなんだ﹂ 誠実で敏腕と評判だったガルハドが健在だった頃は、大人しく父 親の事業を手伝っていたミジック。才能豊かだったガルハドに比べ、 商売の腕は平凡であったが、彼はまだ若かったし、何よりガルハド に負けず劣らず誠実な人柄が評判であった。しかしその跡を継いで からは、ミジックは好き放題やり始めた。普通の商人がやったら途 端に爪弾きにされそうな横暴ぶり。しかしそれは出来なかった。あ りとあらゆる分野に手を出していたガルハドは、シーヤックの商業 の六割、ここウェンチア島に限っては九割を牛耳っていた。下手に 逆らえば一家が路頭に迷うことになるとあって、あまりに横暴なミ ジックに誰も逆らうことが出来なくなっていたのだ。 しかも質が悪いのは、ミジックに逆らわない限りは商売が上手く いくことだ。ミジック自身の商売の才覚は並みレベルだが、人心の 掌握術には人一倍長けていた。 特に被害にあっていたテイラー夫婦を皆気の毒に思っていたが、 かといってそれを表立って口にすれば次に標的になるのは自分たち。 結果的にテイラー夫婦は孤立無援の状態に追い込まれたのだ。 1187 現在は三代かけて築き上げた資産を少しずつ切り崩して繋いでい るという。しかしそれもいつまで持つか。当然ながら金は湧いて出 てくるものではない。 ﹁なるほど。何で、そんなに目をつけられるようになってしまった の?﹂ ミューラはその核心と言える部分に切り込んだ。 びくっとミントが震える。その顔は怯えているようにも見えた。 ﹁ミントは、僕と離婚してミジックの妻になるように言われている んだ﹂ 権力者にありがちな横暴であった。女として嫌悪感を抱く奏とミ ューラ。 ﹁やっとの思いでミントを振り向かせたんだ。あんな脂ガエルにく れてやるものか﹂ ﹁テイラー⋮⋮﹂ 身も蓋もない口振りに、ミジックの見てくれが知れるというもの。 しかし元は引き締まった身なりをしていたのだ。自分に甘いミジッ クに対し、見た目も商売では大切だと説くガルハドが贅沢を厳しく 禁じていた。自分の天下になって好き勝手やり始め、あっという間 にぶくぶくと太ってしまったのだ。 テイラーからは断固たる決意が見てとれる。 ﹁でも、結果としてこの有り様﹂ 太一の一言に、ぐうの音も出ずにテイラーは項垂れる。 1188 欲しいものが手に入らないミジックが、テイラー夫妻が経営する 宿屋に客が来ないように仕向けているのだろう。その程度のことは、 これまでの話を聞けば嫌でも想像ができる。 ﹁そうなんだ⋮⋮何も知らないお客様は、時折ここを訪れる。その 度に、僕らだけならまだしも、お客様にまで嫌がらせをするんだ。 そんなことを許すわけにはいかない。僕らは、お客様が来ても断ら ざるを得ないんだ﹂ 彼らはお人好しなのだろう。自分たちが苦しいにも関わらず、他 人が困るのは嫌だというのだ。それが原因に自分たちがいるなら尚 更。それを当然として口にする夫と、一瞬の間もおかずに頷く妻に、 太一たちは好感を持った。 テイラー夫妻をお人好しと心の中で評する太一たちだが、彼らも 大概お人好しである。現に、放っておけないと思っている。 ﹁決めた。俺たちこの宿に泊まるわ﹂ ﹁はっ?﹂ 今しがた断らざるを得ないと話したばっかりである。それは遠回 しに、太一たちにお引き取り願うための言葉でもあったのだ。それ を一瞬で反故にされてテイラーとミントは目を白黒させる。 奏もミューラも、太一の言葉に異論は無いようだった。 ﹁な、何を言っているんだ。この宿に泊まったら、君たちまで嫌が らせされるんだよ!? 僕の話を│││﹂ ﹁貴方たちが気に入った。だから貴方たちからの依頼という形でど うだい。報酬は、俺たちに部屋を貸すこと﹂ 何様だ、と思うほどの上から目線の台詞に太一は少しだけ自己嫌 1189 悪を覚えるが、今は強引さが必要だろうとあえてそれに目をつぶる。 ﹁依頼って⋮⋮君たち冒険者か。しかし、こう言ったらなんだけど、 君たちの若さで何が﹂ 出来るのか。その台詞が出てくるのは想定内だったので、太一は 黙ってギルドカードに魔力を通し、二人の前に翳す。 テイラーとミントが固まった。 ﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮B、ランク、だって?﹂ Bといえば、相当な実力者か、大がつくほどのベテランでなけれ ば冠することが出来ないランク。ギルドカードの権威はこの世界に 生きる者なら誰でも知っている。ギルドとて遊びでランク分けして いるわけではない。冒険者に与えるランクに、ギルドは沽券を賭け ているのだ。 例えば、正規ルートでBランク冒険者を護衛なりで雇った場合、 たった一日で一般家庭の一ヶ月の生活費が軽く吹き飛ぶ。三人のチ ームともなれば、割引がされても二ヶ月半位の値段になるだろう。 それが部屋を貸すことで雇えるなど、相場破壊もいいところだ。ジ ェラードやマリエがここにいたら、慌てて止めに入るだろう。 テイラーとミントは非常に運がいいと言えるだろう。彼らは知ら ないのだ。太一たちが首を縦に振っていたら、BランクどころかA ランクになっていたことは。Cランクからの飛び級ランクアップな ど、過去に片手で数えるほどしか実例がない出来事だ。因みに太一 たち以前の直近ではレミーアがCランクから一気にAランクに上が っている。世間は狭い。 ﹁あたしたちはこの宿に泊まりたいの。宿の主人と宿泊客じゃなく て、クライアントと冒険者でどう?﹂ 1190 ﹁つーか、この宿の周りにチンピラが何人かたむろってるけど、あ れこの宿を監視してるミジックの手先だろ?﹂ ﹁な、なんで気付いて⋮⋮﹂ ﹁気配で分かりますよ﹂ あれしかいないなら、ミジックって雑魚じゃん、と一言で切って 捨てる太一に、あれでは気付かない方が難しいと追い討ちをかける 奏。 普通に考えれば分かる。Bランク冒険者と一般人を比べるのは、 剣士と、よちよち歩きの子供を比べるが如くだ。ぶっちゃけ話にな らない程の力の差がある。 彼らから受ける嫌がらせなど、ものの数にも入らない。この時ば かりは冒険者ランクに感謝してもいいだろう。思う存分その威光を 借りることにする。いっそAランクにしとけば良かった、なんて思 うほどには、太一たちはミジックに対して憤りを覚えていた。 一度主導権を握ってしまえばこちらのものとばかりに畳み掛けて から凡そ一時間後。 この宿一番の部屋のベッドに身を投げている太一は、大きなあく びをした。 四人までが泊まれる、元の世界で言うところのスイートルームと いうやつだろう。 奏、ミューラと同室だが、ベッドを仕切る衝立が備えられており、 それなりにプライバシーの確保も可能だ。 ﹁それにしても、この規模の宿にこんな部屋があるんだな﹂ ﹁そうだね。何か悪いな、こんないい部屋用意してもらっちゃって﹂ ﹁気にするだけ損だと思うわよ﹂ 四階建ての宿の、四階部分の半分をこの部屋が占領している。残 りの半分は同じような部屋がもうひとつ。この部屋だけで、今まで 1191 宿泊してきた一人用の部屋が四つは入るだろう。 衝立の向こうから聞こえてきていた衣擦れの音が収まり、部屋着 に着替えた奏とミューラが顔を出した。二人のリラックスした格好 を見たいと思う男はかなりいるだろう。太一は役得役得とばかりに 二人を見た。もちろん、ポーカーフェイスそのままに。 太一はひょい、とベッドから飛び降りてソファに座る。その対面 に奏とミューラも腰を下ろした。座っただけで分かる、ソファの高 級具合。テーブルにも埃一つ無い。ベッドメイキングも完璧。浴室 やトイレといった水回りもピカピカだ。 客に帰ってもらうしかない、と苦々しくテイラーは言っていたが、 この部屋の手入れの行き届き具合はどうだ。いつ客が来てもいいよ うに、見事な用意がされているではないか。 来るはずがないと分かっていながら、それでも準備に手が抜けな いテイラー夫妻。 そして、来るはずがない客を、ずっと待ち続けていた客室。 宿をどれだけ大切に思っているかはこの部屋からびしびしと伝わ ってくる。切なささえ覚えるほどに。 ﹁さて。ここまでは順調だな﹂ 何となくしんみりしてしまった雰囲気を吹き飛ばすために、努め て明るく振る舞う太一。 ﹁どうやって脂ガエルに一泡吹かせるかね﹂ ﹁カエルだけに?﹂ つまらない太一の合いの手に凍える視線をミューラが浴びせる。 その横で吹いてしまった奏が、耳まで真っ赤にして俯いた。彼女の 笑いのツボは時折よく分からない。 1192 ︵可愛いなあ⋮⋮︶ とは太一とミューラの感想である。 ﹁どうやってって言っても、俺たちとミジックじゃあ土俵が違うか らなあ﹂ 気を取り直して話を進める。 先程までの重い空気が取り払えたため、太一のつまらない駄洒落 も、吹いてしまった奏も、よしすることができた。 ﹁片や冒険者。片や商人﹂ ﹁あたしたちに商売の心得はないわね﹂ 今なら元手も十分あるが、それだけで成功できるなら今頃破産者 は生まれていない。今からここで商売を立ち上げるような時間的余 裕はない。軌道に乗るまで何年も待たせることになるし、第一冒険 者が出来なくなる。商売で勝負というのは却下だ。 ﹁となると、向こうにこっち側に来てもらう必要があるわけだが﹂ ﹁それをどうするか、だよね⋮⋮﹂ 奏の言葉も尻すぼみ。具体的な案が出てこないのだ。何をどうす れば、ミジックを引きずり出せるのか。 腕を組んでいたミューラが顔をあげる。 ﹁あたしたちは冒険者よね?﹂ 聞くまでもないことだが、無意味な発言ではないだろう。太一と 奏は頷いた。 1193 ﹁冒険者って、自由な仕事だと思うの﹂ それはその通り。 ﹁今まで巻き込まれてばかりだったんだしね。こんな風に自ら考え てやるなんて中々なかったし、これこそ醍醐味じゃない?﹂ そう言ってミューラは笑う。この難しい状況を楽しんでこそ冒険 者だ。 1194 デートっぽいこと 大海原に浮かぶウェンチア島は、四〇〇平方キロの広さがあるそ れなりに大きな島だ。 中心付近に宿屋通りがあり、その周囲に先住民の住む地区が広が る。そして島の外周を囲うように商業地区が広がっていた。 そこではウェンチア島の特産品を売る商店はもちろん、食事処も たくさんある。海鮮から海の動物の肉料理、海の植物をふんだんに 使った野菜料理など。 食事は、何も店に入るだけではない。アズパイアの大通りと同じ ように、屋台も多数出店しているのだ。 そして、今ウェンチア島はお祭り騒ぎである。熱気がすごい。そ の理由は、ガルゲン帝国から王族がここシーヤックを訪れる予定だ というのだ。一両日中にはウェンチア島にやって来るらしい。最終 的な目的地は王都ウェネーフィクスらしいと、情報に聡い商人の一 人が教えてくれた。 ガルゲン帝国からの王族とはこれまた大きな客だ。世界最大の大 国からの王族の行脚ともなれば、大きな一団となるだろう。ウェン チア島の宿屋が軒並み借り上げられたのも、王族を迎え入れるため だと考えれば納得がいく。まあそのお陰でテイラーとミントに出会 えたのだから、運命とは数奇だ。 魚の串焼きにかぶりつきながら歩く。前を見ながら、ちらりと意 識を後ろに向ける。付かず離れずの距離をずっとついてきている六 人の集団。一般人相手なら通用するだろう尾行は、太一とミューラ 相手には稚拙としか言えない。 因みに奏は宿屋で留守番だ。無論理由あってのこと。過去二年も の間、取ろうと思えば取れた強引な手段を取らなかったミジックで ある。その理由はミントに首を縦に振らせればダメージがより大き いだろうと考えているのだと、テイラーが言った。人心掌握に長け 1195 ると評される通りの陰険さだ。その一因に、テイラーとミントでは 大きな反抗が出来なかったことも起因しているはずだ。 今回、太一たちが大きく反撃に打って出る。あまり考えたくはな いが、ミジックが激昂して暴力に訴えて来る可能性も否定できない のだ。それを鑑みて、適切な人選として残したのが奏である。 Aランク冒険者であるスソラと互角に渡り合った奏の敵となるよ うな者はそうそういない。そして何よりも大きな理由は、放火対策 だ。フォースマジシャンである奏ならば、火を放たれても簡単に鎮 火できる。この周囲は他の宿屋が密集している上、自身のテリトリ ーであるウェンチア島で暴れて商売を破壊する気はないミジックが 放火という極端な手段を取るとは思えない。それでも念のためだ。 因みに奏の心境は、理屈は理解できるが感情は納得いかない、だ。 もちろん大事な役目なのは分かっているが、太一とミューラがデー トに行くことには変わりない。この一件が片付いたら今度は自分の 番、と心の中で拳を握る。全く表に出さなかった上での決意だった ので、太一もミューラも気付いてはいないのだが。 そうして自分達に出来る限りの磐石な布陣を敷いた後で、こうし て撒き餌として太一とミューラは自らを街に放った。思惑通りとい うかなんというか、太一たちが客になったという情報は既に先方の 知るところなのだろう。宿を出て少ししてから、ずっとつけられて いた。彼らは、最初から気付かれているとは夢にも思っていないだ ろう。意図的に一度も振り返っていないし、デートのように装って いるのだから。 ﹁おっ。このジュース濃くてうめえ﹂ ミューラの思考を、太一の声が引き戻した。 屋台のおばちゃんから買ったジュースは、目の前で焦げ茶色の芋 のような植物を機械で搾ったもの。味としては、生搾りサトウキビ ジュースである。中学の修学旅行で行った時に飲んだ味が思い出さ 1196 れた。 因みにこれは砂糖の材料にもなる。﹁海の粉雪﹂と呼ばれるそれ は、一つから一グラムも採れないため高級品だ。 ﹁だろう? それはシーフルーツっていうんだ。海の中になる果物 だよ﹂ 恰幅のいいおばちゃんはからからと笑って答えた。 海の中になるからシーフルーツ。まんまなネーミングだ。思わず そう呟くと、奇をてらうより分かりやすいだろう? と解説され、 なるほどと納得した。そのネーミングは旅行客のためにつけられた ものらしい。さすがはエリステインきっての観光地だ。初めて訪れ る者のことをよく考えている。 ﹁ミューラ。飲んでみろよ﹂ 差し出されたカップを思わず受け取ってしまった。 しまったと思ったがもう遅いここで飲まないのはむしろ不自然に 見えてしまう今はデートのように見せると二人で話したのだならば 彼女に飲み物を分けるというのは不自然ではないむしろ恋人ならば これくらいは普通にやるだろう。 ⋮⋮と高速で頭を回転させるミューラは、飲まなくても不自然で ない手段に気付いていない。恥ずかしがる演技をしながら突っ返せ ば、初心な年頃の少年少女に見えるのだ。おばちゃんが見てる前で 間接キスをするのと、イチャイチャする姿を晒すのとどちらが恥ず かしいかは微妙なところだが。 彼女にとって歳の近い異性の友人は太一が初である。もちろん恋 人など出来たことはない。なので、こういうときどんな顔をすれば いいのかが分からない。だがこの場では飲むのが自然だと頭は理解 していた。 1197 一方の太一は平然としているし、二人きりにも関わらず不自然な 様子をまるで見せない。 太一とて全く緊張がないわけではない。だが地球にいた頃から女 子との会話が苦手なわけではなかったし、何より奏と仲が良かった のでそれなりに免疫があるのだった。 ﹁⋮⋮っ﹂ 理屈で感情を捩じ伏せて、ミューラは飲む決意を決める。そして、 太一がカップのどの辺に口をつけたか、深い思考に陥ったお陰で完 全に失念した。 太一に﹁飲まないのか?﹂と言われる。これ以上引き伸ばすのは 不自然だ。 こういうこと、タイチは気にしないの? もしかして、慣れっこなの? ちくりとミューラの胸を何かが刺す。それが何かは分からないが、 ミューラは無性に悔しくなった。 ︵⋮⋮もお!︶ ぐっとカップを煽る。ぐいぐいと流し込む。 太一が﹁ちょ﹂と驚いているが知ったことではない。味わう余裕 などない。大した量じゃないし空にして突き返してやる。 そう思ってすべて飲んだ後で、コップを太一に手渡す。 ﹁⋮⋮うわあ。全部飲んじまったのか﹂ 太一はカップをひっくり返して振っている。一滴すら落ちてこな かった。 彼が何故驚いたか。そして今のやや呆れた声色。その理由がよく 1198 分かる。 ﹁⋮⋮あまい﹂ 甘味は好物だが、ここまで強いとさすがに辛い。 ﹁あんたあたしの話聞いてなかったのかい。強いからちびちび飲む ように言ったじゃないか。彼氏みたいにホンの少しずつ飲むんだよ﹂ ﹁っ⋮⋮っっ!﹂ 聞き間違いでなければ、このおばちゃんは太一を彼氏といった。 誰の? 今恋人役をしているミューラの彼氏という意味に決まって いる。 ﹁あーあ。やっぱ薄めてもらうべきだったな。興味本意で原液はま ずかった﹂ ﹁そうだねえ。あたしも薄めて渡すべきだったと思ってるよ﹂ 本来は水と一対一で薄めて飲むのが正しい方法だという。もちろ ん原液でも美味しく飲めるが、甘さが強いので先の説明の通り一口 ずつ飲むのが常識とのことだ。 口の中を支配する強烈な甘味を水で洗い流しながら、ミューラは 運が良かったと思っていた。さっきは自分でも信じられないほどに 気が動転していたのだ。 水をくれた屋台のおばちゃんに礼を言ってコップを返す。その時 にミューラにだけ聞こえる声で﹁ああいう朴念人にはガツガツいか なきゃだめさ。がんばんな﹂と応援され、せっかく引いた熱が戻っ てきた。大きなお世話である。 そんな他愛もないやり取りを一頻り繰り返し、冒険者という枠か ら外れて普通に観光地を楽しんだ。これは獲物を誘き寄せるための 1199 罠だが、より掛かりやすくするには獲物を油断させることだ。そう しておよそ一時間が過ぎる。素の状態は非常に優れた気配探知能力 を持つミューラと、アクティブソナーを常時発動させていた太一に とっては、男たちが徐々に距離を詰めてきていることは筒抜けだっ た。一度周囲を確認する。人の往来。観光客もたくさんいるし、そ こかしこに屋台もある。ここで事を起こす気か。どんな意図がある のか、探る必要があるだろう。 少しずつだが確実に距離を縮める集団を背に、太一とミューラは アイコンタクトを交わし、小さく頷く。まずは受け身。あくまで巻 き込まれた男女だ。 ﹁よう。ちょっといいか﹂ そう対して時間経たずに声が掛けられる。 太一は振り返って驚いた顔をした。肉体的には立派な男が六人。 ただの一般人であれば驚くだろう。 ﹁⋮⋮俺たち?﹂ 驚く演技とは難しいなと思いながら返事をする。上手く出来てい るとは思っていないし、事情を知るミューラから見れば大根役者も いいとこだろう。しかし男たちは太一のリアクションに気を良くし たらしい。稚拙な演技でもターゲットを欺けたなら目標達成である。 ﹁ちょっと話があんだよ﹂ 向き合う太一と男たち。さりげなくミューラの盾になるようにす る。 往来の人々は何事かと、距離を置いてこちらを観察し始める。 端から見れば彼女を粗暴な男どもからかばう彼氏の図か。もっと 1200 もこの光景をアズパイアの住人が見たなら、ミューラから男たちを かばう太一の図になる。太一もミューラも今は武器を帯びていない が、太一はそもそも武器の有無で強さが変わったりしないし、ミュ ーラとて剣が無いと何も出来ないようなヤワな鍛え方はしていない。 立場と知識が変われば見方が変わる良い例だ。 ﹁話って、なんだよ?﹂ 怪訝そうな顔のまま、太一は問う。一歩引くようにして小細工も 忘れない。 ﹁なあに、大人しくしてりゃすぐ終わるよ﹂ ﹁ちょーっと、﹃忠告﹄を聞いてもらうだけさ﹂ ﹁忠告?﹂ 太一の反芻に先頭の男が頷く。 ﹁そうとも。お前らは﹃海風の屋根﹄に泊まってるんだよな?﹂ 黙って肯定する。ほんの一瞬、周囲の空気が変わった。それはほ んの些細な変化だったが、注意すれば気付くことができるものだっ た。 ﹁わりぃことは言わねえ。あそこはいい宿じゃねえよ。今からでも 引き払って別の宿にした方がいい﹂ ﹁もうあの辺の宿は埋まってんだけど﹂ ﹁そりゃあ気の毒だな。もうすぐガルゲン帝国からお偉いさんが来 るからな。その為に宿は借り上げられちまったんだろ。お前らもそ の話は聞いてるはずだ﹂ ﹁それは聞いてるけれど⋮⋮あそこの宿が良くないって、どういう 1201 ことなの?﹂ 彼らは殊更勿体振るような間を置いてから口を開いた。 ﹁あそこの主人には盗癖があるんだよ﹂ ミューラは自重した。つい反応してしまいそうになったのだ。 盗み癖とはどういうことか。もしもこれが嘘ならば、テイラー夫 妻は冤罪をかけられたことになるのだ。 しかし一方で、男たちの言葉が言い掛かりであると証明できるも のがないのも事実。人柄は信用に足ると太一たちは思っているが、 ﹁何故この人が﹂と思うような、一見そんな犯罪とは無縁そうな人 が罪を犯すことは有り得る。何よりまだ知り合ってたった一日。そ わら んな状態でテイラーのことを知っていると言っても﹁何を知ってい るんだ﹂と嘲笑われるだけだろう。 信頼を壊すのは簡単。だが築くのは大変なのだ。小さな事をコツ コツと積み上げて、相手に信用してもらうしかない。太一たちには Bランク冒険者としての信用があるが、テイラー夫妻は太一のパー ティーに対して信用をこれから築く段階と言えるだろう。太一たち から持ち掛けた依頼のため状況は特殊だが、そんな事情は当人たち 以外は知るよしもないし、関係もないことだ。 否定したくとも出来ず、かといって肯定も出来ず、太一とミュー ラは沈黙を選ばざるを得なかった。 ﹁忠告はしたぜ。じゃーな﹂ 男たちはきびすを返して去っていく。小さくなっていく彼らの姿 をしばらく眺めてから、太一は小さくため息をついた。これがミジ ックのやり方か。肉体的にではなく精神的にダメージを与えるやり 方。 1202 殴りかかってこられた方が楽だ。しかしこうした搦め手でこられ るとこうまで厄介だとは思わなかった。しっかりと隙間を狙ってき て、ピンポイントで突かれた。 ファーストコンタクトはミジック側の勝利だ。 ﹁タイチ。どうする?﹂ ﹁うーん。奴等の言葉を鵜呑みにする気は更々ないけど、否定する だけのモンも持ってないんだよなあ﹂ 彼らの素性を聞けなかったが、仕方ないと思っている。そう簡単 に尻尾は掴ませないだろうし、惚けられたらそれまでだ。﹁お節介 焼いてるだけ﹂とでも言われたらそれこそ返す言葉がない。 さて。どうするべきか。聞き込みをしてみるか。冒険者として聞 き込みすれば情報を入手することは可能だろう。しかし太一は探偵 などごっこ遊びでしかしたことはない。ミューラも賢い女の子だが、 そういった依頼の経験はそこまで豊富なわけでもない。 本人たちの証言、あの男たちの言葉。そして聞き込みをした場合 に得られる情報。それらから判断して結論を出す必要がある。それ なら、考えるのに頭数は多い方がいい。ひとまずは奏と合流するこ とで落ち着いた。 これがレミーアなら、この場で何か案が出ているだろう。予測が 外れた時に選べる引き出しの数はまだまだ少なかった。 ◇◇◇◇◇ 1203 太一一行がシーヤックで厄介ごとに首を突っ込んでいる頃。 入城するために列を作る人々を尻目に通行パスで悠々と正門を通 過したレミーアは、品格が漂う部屋に通されていた。 そこは客としてもかなり位の高い者のみが通される一室だ。現職 の国王のみが発行を許される通行パスの持ち主を待たせるのに、半 端な部屋では国の威信に関わる。まして訪れたのがレミーアとなれ ば、扱いはこれで普通と言えた。 相当な年月を重ねた木から削り出して作ったとみられるテーブル の上には、湯気を立てるカップと飾り気はシンプルながらも絶妙な バランスに整えられた味を誇る焼き菓子。VIP扱いである。 レミーアがここを訪れたのは、王立図書館を使うと知らせること と、太一たちが旅だったことの報告だ。現在は非常勤とはいえ軍属 である。事後報告にはなるが一言言っておくべきだと考えたのだ。 事前に許可を得なかったのは、軍属である前に冒険者だからである。 無論召集されれば応じるが、あまり当てにされても困る。無礼は承 知の上でレミーアはその選択をしたのだった。 ティーカップに注がれた紅茶が無くなりかけている。扉前に控え る侍女にそろそろ二杯目を頼もうかと考えたところで、部屋の扉が ノックされた。 侍女がそれに応じ、少しのやり取りの後、扉が静かに開かれた。 ﹁いやはや。お待たせして申し訳ない﹂ 禿げ上がった頭を撫で付けながら、この国の政治部門におけるト ップであるヘクマが入室してきた。レミーアの突然の訪問に、とん でもない大物が顔を見せる。彼が自ら出張るほどの客であるという ことだ。レミーアは立ち上がって応じる。 1204 ﹁突然ですまないな﹂ ﹁何を仰る。いつでも良いと告げたのは他ならぬ陛下ですからな。 貴殿らが気にすることは何もありますまい﹂ ﹁そう言って貰えるとこちらも気が楽になる﹂ 社交辞令もそこそこに、レミーアとヘクマは対面に腰掛けた。 会話の合間を見計らい、素早いながらも丁寧に出される紅茶。レ ミーアのカップも新しいものに交換された。相変わらずここの侍女 は教育が行き届いている。 ﹁仕事を中断させたようだな﹂ 宰相が暇なはずはない。それでもレミーアは地位が高い者との面 会を望んでいた。どうせなら話が分かる者が面倒がなくてよい。 ﹁はっはっは。これも立派な公務。無機質な紙の束相手よりはよほ ど重要ですな﹂ ﹁それなら良かった。復興はいかがか?﹂ ﹁まあ容易ではありませんな。しかし、簡単に終わっては遣り甲斐 もないというものです﹂ ﹁なるほど﹂ この国に居を置いている身としては心強い言葉だった。 レミーアは他の国に拠点を移しても構わないのだが、一般国民は そうはいかない。 件の戦ではエリステインの対応に不備が少なからずあったとレミ ーアは思っている。が、どんな事柄であっても、所詮人間がやるこ と。いかに優秀でも失策は有り得る。歴史を紐解いても、馬鹿げた 執政がそのまま失政に変わり滅んだ国はいくつもあるのだ。レミー 1205 アとて人に言えないような恥ずかしいミスを犯してしまうことはあ るし、今もなお、研究中にはちょいちょい発生している。 問題はその失敗から何を学ぶかだ。 ﹁せっかく来ていただいたのにあまりもてなしが出来ないのは申し 訳ない。早速本題に入りたいのだがよろしいですかな?﹂ ヘクマは両肘を膝の上に置き、前傾姿勢となってレミーアを覗き 込むように見た。 いくつか文言が省かれているが、彼がスケジュールにどうにか都 合をつけてこの時間を設けたことくらいは説明されずとも分かる。 ﹁私もそのつもりだ。用件は二点。一つは、今日からしばらく王立 図書館を使わせてもらうと連絡しに来た﹂ ﹁ふむ﹂ レミーアは王立図書館の立ち入り禁止区域に足を踏み入れること は可能だ。いちいち王家から許可を得る必要はない。それでも前も って報せに来たレミーアに、ヘクマは素直に好感を覚える。 ﹁よろしいでしょう。好きなだけお使いくだされ﹂ ﹁そうさせてもらおう。そしてもうひとつだが﹂ レミーアは一瞬呼吸を挟む。 ﹁タイチたちは、数日前にガルゲン帝国へ旅立った﹂ ﹁⋮⋮ほほう﹂ ヘクマは身体を起こした。なるほど。軍属の身であるために、一 応の報告に来たということか。 1206 事後報告だったことの意図も、ヘクマは正確に受け取っていた。 そう当てにするなと言われているのだ、と。 ﹁旅立ったといえ、別に離別した訳ではない。あいつらの心情的に は、旅行というところか﹂ ﹁旅行ですか!﹂ 他国への旅を旅行と捉えるあの三人に、ヘクマはなんだか愉快に なった。長旅はそんな簡単なものではない。 今は自由に呼び出すことは出来ないが、彼らとのパイプの、なん と心強いことか。ジルマールは英断だったとヘクマは再認識した。 ﹁一頻り旅を続けたら戻ってくるだろう。まあしばらくは無いだろ うが﹂ ﹁ふむ。仕方ありませんな。軍属である以前に冒険者ですからな。 彼等を本当の意味で縛り付けることは国にもできますまい﹂ この場合、例えば物理的に縛り付けるというのは無しだ。 もちろんそんな話をしているのではない。冒険者は、己の行動に 責任を背負う代わりに自由を購える。例え身体的に縛り付けたとし ても、彼らの心まで縛ることはできないのだ。それは何も太一たち に限った話ではない。 ﹁うむ。そういうわけでな。しばらくはあいつらを頭数に入れずに 物事を計算するのが賢明かと思う﹂ ﹁同感ですな﹂ レミーアの提案にヘクマは頷いた。自分の能力と地位に矜持を持 っているヘクマだが、一方で優れる者の言葉を聞き入れる柔軟性も 持ち合わせていた。まあこの場合は聞き入れるもなにも、それしか 1207 選択肢がないのだが。 ﹁私からは以上だ﹂ ﹁確かに聞き届けました。では、こちらからも少し良いですかな?﹂ ﹁何か?﹂ ﹁二点ほど、こちらにもありましてな﹂ これから喋るため、ヘクマは紅茶で喉を潤した。 ﹁一つは、タイチ殿、カナデ殿、そしてミューラ殿に二つ名を与え ようかと話が持ち上がっているのです﹂ レミーアはぴくりと眉を上げた。 ﹁彼らの意向を考えずに一方的に出ている話ではあるが、一先ずそ れは横に置いて﹂ 一呼吸が挟まれる。 ﹁問題は、タイチ殿に対する適切な文言が出ないことですな﹂ ﹁ああ﹂ それは理解できる。スケールが大きすぎてどんな言葉を当て嵌め れば適切かが分からない。二つ名は、その者が﹁こんな信じられな い成果を上げられる﹂という指標のようなものでもある。 そして太一の実力は、単騎で世界を手中に納めることも可能なほ ど。常識など通用しない。 ﹁うーむ。いざそれを考えると、確かに頭を悩ませるな﹂ ﹁でしょう? まあこの話は彼等に感謝をしている一部の兵や文官 1208 が勝手に言い出していることでもありますがな﹂ いつの間にかそれが中央部にも浸透し、受け入れられるかはとも かく提案してみようという方向になっているらしい。 ﹁史上最強、とでもつければよいのではないか?﹂ ﹁⋮⋮その文言がこれほど似合う御仁も珍しい﹂ レミーアは茶化しているわけではなく、至極真面目だ。使い古さ れた陳腐な言葉であることは確か。だが、この国の祖である大賢者 レスピラルでさえ、太一には敵わないのではなかろうか。レスピラ ルは大賢者とも、勇者とも呼ばれる、この世界で知らないものなど いないほどの偉人。 そのような偉大な存在に比肩すると言われても全く疑問を抱かな いのが、太一の凄まじいところだ。 ﹁というわけで、彼らがそれを望むにしろ望まざるにしろ、提案を してみることそのものに、我々は前向きなのですわ﹂ ﹁分かった。それはいずれ本人たちに会ってから直接聞いてみると よかろう﹂ ﹁そうします。続いて二つ目ですが﹂ ヘクマが微妙な顔をする。なんとなく、あまりよろしいことには なっていないとレミーアは予測を立てた。 ﹁ふむ。何があった?﹂ ﹁実は、タイチ殿のことは、既にシカトリス皇国、ガルゲン帝国の 上層部に露見しているのです﹂ レミーアは目を閉じた。ヘクマの言葉の意味をじっくり吟味し、 1209 ややあってソファーの背もたれに身体を預けた。 ﹁⋮⋮やはりか﹂ ついにそうなったかと、レミーアは考えていた。 他の国に太一のことが知られるのは時間の問題だった。内戦で荒 れるエリステインのことを、シカトリスとガルゲンが注視していな い訳がない。 その戦が終わった。太一がとんでもない手段で強引に終わらせた。 もちろんそれは報告として渡るだろう。 ﹁今のところ両国とも目立った動きは見せていませぬが、シカトリ ス皇国はタイチ殿に会ってみたい、と﹂ ﹁そうだろうな﹂ 太一ほどの力があるなら、興味が沸くのは当然のこと。レミーア とて、太一と全く接点がなくこの話を聞けば、一度会ってみたいと 思っていただろう。 ﹁まあ、それについては、本人たちに聞いてほしいと答えましたが ね﹂ ﹁⋮⋮﹂ 中々意地の悪い返答をする。レミーアはヘクマの顔を見る。彼は 笑っていた。思わず釣られて人の悪い笑みを浮かべた。その言葉に は様々な含みが持たされている。額面通りに受け取ることはないだ ろうが、この言葉でシカトリスも慎重になるはずだ。察しなければ ならない一番の情報は﹁エリステインは太一を御しているわけでは ない﹂ということ。やるやらないは別にして、エリステインを陥落 させることそのものは難しくないと太一は明言したのだ。エリステ 1210 インと軍事力でそう差がないシカトリス皇国も自ずと知れる。世界 一の軍を持つガルゲン帝国でさえ、太一の前では無力だろう。どう やれば彼を御せるのか逆に聞いてみたいところで、打つ手なしと見 たエリステイン魔法王国は彼と仲良くやるという選択をしたのだ。 エリステインよりもシカトリスが上手くやると言うならばそれは それで仕方がない。ヘクマからはそういった意図が感じられた。 ﹁では、それについては私からタイチたちに尋ねてみよう。シカト リス皇国の女狐が強く望んだなら、会うことになるだろうな﹂ ﹁女狐とはまた﹂ それがシカトリス皇国を統べる女皇を指すことは確認するまでも なかった。かなり過激な発言だが、ヘクマは咄嗟にフォローの言葉 がでなかった。本音では同じことを考えているのだ。 とはいえ、太一と奏は自らを小市民と宣言している。あれだけの 力を持っているが、太一たちは決して野蛮ではない。国王ジルマー ルに対して礼節を保ったのだから。 ﹁とにかく、タイチ殿、カナデ殿へ伝言お願い致しますか﹂ ﹁承ろう﹂ その後幾らかの雑談に興じ、ヘクマは公務へ、レミーアは王立図 書館に向かったのだった。 1211 護りたいもの 夕方ごろに戻るはずの太一とミューラが昼過ぎに帰ってきた。折 角の観光なのだから時間一杯楽しんでくるものと思っていた。ミン トから借りた本を読んでいた奏は、神妙な顔つきで部屋に入ってき た二人を見て首をかしげた。 ﹁あれ? もう戻ったんだ﹂ ﹁まあな。うし、作戦会議だ﹂ 太一はそう言って奏の対面に腰掛けた。 その隣にミューラが座る。何故そちらなのか。そんな細かいとこ ろが目に入った奏だったが、座る場所にまでいちいち気にするのも 変だと思い直し、奏は二人に目を向けた。 ﹁何かあったの?﹂ 帰ってくるなり作戦会議とは。 何らかの出来事があったのだろう。 ﹁ああ。ミジック一味っぽい奴等が接触してきた﹂ ﹁⋮⋮それで?﹂ 太一とミューラはそこで言われた言葉と、周囲の反応、自分達の 見解を奏に報告する。二人では答えが出なかったこと。今後の動き。 三人の行動にずれがないようにしたいということ。 一通り話終えた奏は、﹁そうなんだ﹂と言って腕を組んだ。 果たしてこの聡明な少女はなんと返してくるか。そう思ったが、 ﹁買い被りすぎだよ﹂と釘を刺されてしまった。 1212 まあ彼女は漫画などに出てくる高校生探偵とかではないので仕方 ないだろう。 ﹁とりあえず、テイラーさんとミントさんに聞いてみる?﹂ ﹁話はそこからか⋮⋮﹂ 人柄としては、彼らがそんなことをするとは思えない。しかし一 見虫も殺せそうにない顔をした人が重大な犯罪を犯すことだって有 り得る。その観点からいけば、可能性を潰すためにも必要なことだ。 疑うのは心苦しいとしても。 夕食後に聞いてみると、案の定﹁そんなことは絶対にしていない﹂ と断言された。 まあそうだろうなと思っていた太一たちは、疑うような真似をし た理由を二人に話す。そもそも盗みが起きた宿で、しかも犯人が宿 屋の主人だった場合、罪を償ったとしても残った資産で何とか続け たとしても、二度と客は寄り付かない。つまり、バレたなら店を畳 むしかないのだ。それはシーヤックに限らずどこの町でもそうなる とテイラーに説明された。 主人に盗み癖がある宿屋に泊まりたいかい? と聞かれれば、そ れも納得だった。 テイラーの話は男たちの主張と矛盾する。何故彼らはテイラーと ミントが盗人だと知っているのか。そしてそれが本当なら、何故こ の宿は今も潰れていないのか。往生際悪くこの宿を続けている可能 性は無い。嘘だと思うなら冒険者ギルドにでも、自警団の詰め所に でも尋ねれば良いと言われたのだ。そこまで自信満々に言い切られ ては、これ以上疑うのは太一たちには無理だった。 太一たちはミスを犯した。実はギルドと自警団の犯罪記録簿には、 窃盗の前科二犯として﹃海風の屋根﹄が記載されていた。決め付け てしまったことで、大切な情報を見落とすことになったのだった。 そしてそれが事態を思わぬ方向に運ぶことになる。太一たちは、そ 1213 んなこと知るよしもないが。 手詰まりとなったまま時間だけが過ぎていく。 太一たちに真偽の不確かな情報を寄越した男たちを探して回るが、 会うことができず。 聞き込みをしてみるものの、皆﹃海風の屋根﹄についての話をし たがらず、これといった情報も得られない。 ﹁はあーあ。今日も収穫なしっとくらあ﹂ 妙に古くさい台詞を口にしながら、太一はベッドに飛び込んだ。 その気持ちはよく分かる。何も進展しないまま、既に数日が経過し ているのだ。 完全に暗礁に乗り上げた気分だった。 ﹁うー⋮⋮ん﹂ ﹁はあ⋮⋮﹂ 疲れた様子で奏が伸びをし、ミューラがソファーに沈む。 もはや観光気分ではない。自分達から首を突っ込んだため、それ に文句を言う気はない。むしろ自ら望んだからこそ、いつまでも事 態を好転させられないことに苛立ちを覚える。 テイラーとミントはそのことに文句ひとつ言うことはない。それ となく表情を探っても、我慢しているような素振りすらない。本心 から彼らは気にしていないようだった。 ﹁参ったなあ﹂ ここ二、三日は、太一たちと会話をしようとする者もいない。街 の人々が﹃海風の屋根﹄の話を避けている。テイラーとミントが嫌 いだ、と言うよりは、何かを恐れているようにも見えるのだ。 1214 何度か、この宿を見張っている者たちにも接触を試みた。しかし 彼らの返事は﹁犯罪者の監視﹂の一点張り。彼らは何か暴力を振る うわけでもなし、下手に強引な手段も取れない。一体どうしたらよ いのだろうか。 今回、シルフィの力は使わないと決めている。 シルフィに協力してもらえば、ミジック側の情報は筒抜けにする ことが出来る。だがそれでは、頭が鍛えられないと判断したからだ。 シルフィに頼んでもどうにもならない事態が、今後絶対に起きない と誰も確約してくれるわけではない。 太一の役に立ちたい、と考えていたシルフィが、出番が無いと知 って頬を膨らませてしまったので、太一はなだめるのに少し苦労し た。 ﹁⋮⋮ダメだ。マジなんも思い付かん﹂ これ以上考えると知恵熱が出ると判断した太一は思考を放棄した。 ミジックが裏で糸を操っているのだと予想は出来るのだが、それ を実証できるものがない。 太一は全身を弛緩させる。 ﹁そういえば、そろそろガルゲン帝国からの王族がこの街に来る頃 よね﹂ ぽつりとミューラが呟いた。確かに彼女の言う通り。だがそれが どうしたというのか。 ﹁呑気ねアンタ。王族が来たら街はそっちに集中する。とてもじゃ ないけど調査なんてできないわよ?﹂ ﹁げ﹂ 1215 呻く太一。奏がうんうんと頷いていた。 王族が去るまで待つという手段はある。しかしいつまで滞在する か分からない王族が去るまでずっと待機というのも気が引ける。宿 の宿泊代だって今は支払っていないのだ。報酬と言ってしまった以 上、払うと言っても丁重に固辞されてしまった。最悪契約不履行の ため弁償という手段で支払うことができるが、同時にそれは敗北を 意味している。それではあまりにみっともないし、そうなるとテイ ラー夫妻はこれまでと変わらぬ日々を送ることになるのだ。 ﹁王族に直談判しにカチ込むか﹂ ﹁他国の王族よ? 最重要の賓客よ? それにカチ込むとかないわ﹂ ﹁冗談だよ﹂ 静かに批判されて太一は肩を竦めた。ダメだとは分かっている。 テイラー夫妻が無実だという確かな証拠を用意できていないのだ。 そんなことを思わず口にしてしまうほど、この停滞が堪えているの だ。 ﹁あー。ミジックの方から来てくんねぇかな﹂ それは希望的観測であった。 そんな都合のいいことはないと思ったからこその言葉。 奏もミューラもそれを咎めはしなかった。同じようなことは何度 も考えていたから。 ふと、太一はピクリと上半身を起こす。ほぼ同じタイミングで奏 とミューラが視線を同じ方向に向けた。 一〇人ほどの集団が歩いている。進行方向にあるのは、この宿。 ﹁これは﹂ ﹁もしかして﹂ 1216 ﹁もしかするかも?﹂ その集団は一定の速度でこちらに進んできて、この宿の正面でぴ たりと止まった。 静観することしばし。階下が俄に騒がしくなった。 何やら言い争っているようだ。聴力を強化してみると、数人の男 たちと、それに抵抗するテイラーの声。奏とミューラは太一の邪魔 をしないよう黙っている。 今のところ暴力はないようだ。 ﹁これは、行った方が良さそうだ﹂ 相手がミジック一派かどうかは分からない。だが、もし違った場 合は気になる。 今まで暴力に訴えては来なかったミジックにはある種の妙な信頼 があるが、ミジック一派でないのなら、力に訴えてくる可能性はあ る。 部屋を出て階段を降りて、一階へ続く階段の踊り場で、太一は足 を止める。 ﹁ミントさん﹂ 一階から二階に上がる途中でぐるりと曲がる階段。その踊り場で、 ミントは蹲っていた。 ﹁あ⋮⋮タイチ君⋮⋮﹂ 今にも泣き出しそうだ。整った顔立ちが今は歪められている。 ここまで来ると声は強化せずとも聞こえてくる。太一はそちらに 意識を向けた。 1217 ﹁ミントは渡さないと言っているでしょう﹂ ﹁アンタも強情だなあ。こんな場末の宿なんかより、ミジック様に 嫁いだ方がよっぽど幸せな暮らしが出来るってもんだ﹂ ﹁金があれば幸せなんて⋮⋮それでは心は貧しいままだ!﹂ ﹁いい歳して甘ちゃんの綺麗事かよ。客もロクに入らねえから、ギ リギリの生活してんじゃねえか。そんなんで嫁を養っていけんのか ? あ?﹂ ﹁ぐっ⋮⋮そう仕向けておいてよくもぬけぬけと⋮⋮﹂ ﹁はっ。テメェの犯した罪を棚にあげて図々しいこったな﹂ この声には聞き覚えがある。散々街を探してもついに出会うこと が出来なかった、あの日の男の声だ。 太一は、ふと振り返る。そこにいるのはもちろん奏とミューラ。 二人の顔を交互にじっと見つめる。 地球にいた頃から太一を好きでいてくれた短くない付き合いの女 の子。 この世界に来て最初に出来た、同世代の友人。とても才能に溢れ た女の子。 二人とも、太一にとってかけがえのない存在。 穴が開くほど見詰められて二人の心臓は跳ね上がっているが、太 一はそんなことお構いなしに二人を暫し見つめた。 そして。 ﹁奏、ミューラ。ここで待ってろ。俺一人で十分だ﹂ 想像以上に低い声が出たが、今の太一にそれを省みるつもりはな い。 ﹁う、うん⋮⋮﹂ 1218 ﹁分かったわ⋮⋮﹂ それに気圧されたのか、二人はそう答えるのが精一杯だった。 ﹁ミントさんも、ここから動かないでくれ﹂ 太一の気迫に押され、ミントは頷くことしか出来ない。冒険者と してそこそこ修羅場を潜って肝が据わってきた太一と、街で平和に 暮らしていたミントではそもそもの土台が違う。魔力強化がなくと も、一般人相手なら気迫で黙らせることが太一には出来る。本人は 気付いていないが。 太一は三人に背を向けて階段を降りていく。 ﹁やっていないものを何故認めなければならないんだ!﹂ ﹁俺もこのやり取り飽きたぜ。こっちには証拠もあるんだからよぉ﹂ ﹁そりゃ初耳だ。俺にも見せてくれよ﹂ とんとんと足音を響かせて、太一は階段を降りながら無遠慮に会 話に割り込んだ。 ﹁た、タイチ君⋮⋮!﹂ ﹁おめえ⋮⋮﹂ 驚くテイラーと、太一をにらむ男たち。あれは客が食事をするた めのテーブルだ。それに足を乗せている男は、太一の顔を見て呆れ た顔をした。 ﹁本当にまだ宿にいたんだな。せっかく忠告してやったのによ﹂ ﹁いい言葉を教えてやるよ。小さな親切大きなお世話、ってな﹂ ﹁おいおい。いきなり挑発たあ穏やかじゃねえな﹂ 1219 太一の挑発に、男は笑って見せた。この男、見た目に反してそれ なりに冷静さを持ち合わせているようだ。 ﹁まあどうでもいいけどよ。おめえちっとばかし図に乗りすぎじゃ あねぇか?﹂ ﹁そうか? こんなもんだろ?﹂ ﹁ガキだと思ってちょっと甘くしてりゃ調子に乗りやがって。大人 代表として、ガキには世間の厳しさを教えてやらんといけねえな﹂ 太一はその言葉を鼻で嘲う。男が頭に血を昇らせるまで挑発する だけである。 ﹁チンピラに教わることなんかないね。黙って帰れ﹂ ﹁こいつ⋮⋮一発だけで済ませてやるから感謝しな﹂ ﹁俺の顔まで届いたらご褒美に銅貨一枚やるよ﹂ ﹁ガキが! 避けんじゃねえぞ!﹂ 男は椅子を蹴り倒して立ち上がり、拳を振り上げた。その動作は てんで素人で、筋力にものを言わせた技の欠片もないパンチだ。 剣を失った際の護身術として会得しているミューラの格闘術を見 せてもらった太一から見て、子供のお遊びにも見えなかった。 もっとも身体つきはかなりよく、同じく魔術を使えない一般市民 相手ならこれ以上ない驚異になるのだろうが。 迫り来る拳を、太一は左手一本で受け止めた。体格差を考えれば、 それは信じられない光景だった。 ﹁こんな攻撃、避ける必要全く無い﹂ 拳を押し返す。男がたたらを踏んだ。 1220 ﹁回避ってのは、防御しきれない攻撃に対してするもんだからな﹂ とても鍛えているようには見えない細身の少年にあしらわれて二 の足を踏む男たち。力比べでは圧倒的に優位だったはずなのだ。 太一はギルドカードを取り出して男たちに見せる。冒険者、つま り魔力を持ち、それを操れるという証拠。簡単には手に入らないカ ードである。 ﹁俺はここの宿の主人と契約してる。理不尽な暴力も、証拠の伴わ ない冤罪も許す気はない。分かったらミジックに言っておけ。てめ えが出向いて来いってな﹂ ﹁この野郎⋮⋮口の利き方に気を付けろ﹂ 男の言葉が負け惜しみだと、太一は何となく察する。 ﹁チンケな真似しか出来ない腰抜け相手にビビる理由はないね﹂ ﹁⋮⋮その言葉、きっちり伝えるからな﹂ ﹁どうぞどうぞ。お前ら頭悪そうだからなあ。間違えんなよ?﹂ くそが、と毒づいて、男たちは出て行った。 騒がしかった宿のロビーは静けさを取り戻す。 男たちの気配が完全に去ったのを確認して、太一はテイラーに向 き直った。 ﹁ごめん。やっちまった﹂ 完全な宣戦布告。ミジックを挑発した以上、これまでのように大 人しくはしていないだろう。今までは無かった、暴力に訴えてくる かもしれない。力の張り合いなら滅多なことで負ける気はしないが、 1221 選択を誤れば暴力を受けるのはテイラーとミントである。 ﹁ありがとう、タイチ君﹂ 責められるかと思ったが、返ってきたのは意外な言葉。太一はテ イラーを見る。彼は笑っていた。 ﹁悔しいけど、僕では何も出来なかった。今までと同じだったんだ。 多少分が悪くなっても何かを変えなければならないのに、後のこ とを考えるとどうしても出来なかった﹂ テイラーはとつとつと語る。二年間の停滞はとても長いと言える だろう。よくぞ耐えていた。 だが、何かを打開するには行動を変えなければならない。例えば 今の太一のようにはっきりと抵抗の意思を行動で示す。しかし、テ イラーでは束になってくる屈強な男たちに太刀打ちなど出来ない。 最悪そのままミントを連れ去られてしまうかも知れなかった。そう 考えると、行動も起こせなかったのだ。 だが今回、Bランク冒険者という協力者が、テイラーの代わりに 行動を起こした。太一の言動は、程度の差こそあれ、テイラーの代 弁だったのだ。 隠れていたミントにも、男たちを追い払ってくれたことで礼を言 われる。太一としては我慢できずにやってしまったことだったので、 些か居心地が悪かった。 これで敗北は許されなくなった。自ら崖の縁に進んだのだ。 一頻り感謝された後で部屋に戻った太一は、真正面から四つの視 線を受け止めている。その視線の主はもちろん奏とミューラだ。 二人は神妙な顔をしている。太一の行為を責めるつもりは、二人 にはない。どの道あの場は止めに入るのが正解だと思ったし、ミジ ックを直接挑発したことで、事態は変わる。停滞していた状況が動 1222 くきっかけになるはずだ。 気になることはある。何故ミジックは、今になって部下を動かし たのか。これからガルゲン帝国の賓客が来るのは分かっている。な らば何故動いたのだろう。 テイラーとミントを吊し上げて点数稼ぎでもしようとしたのか。 もしもそうなら性急すぎやしないか。 ミジックの考えが読めない。 そして、もう一つ。 太一のあの怒りは何が原因だったのだろう。 あれだけ怒りを露にするのも珍しい。一体、何に怒っていたのか。 太一は秘密、と言って黙りを決め込んだ。 気恥ずかしくて。 もしも、テイラーの立場に太一が立っていたら。 自分の大切な人を、彼女らの意志を無視して強引に連れ去ろうと されたら。 怯えるミントを見て、その姿に、奏が、ミューラが重なった。 もしも力がなければ、テイラーの立場に立たされていたのは太一 だったかもしれないのだ。 たらればの話に意味はないと太一自身も分かっている。 だが太一は許せなかった。金にものを言わせて掠め取ろうとする その性根が。正々堂々と出来ないからそういう手段を取ろうとする のだろう。全てを自分の思い通りに出来なければ認められないとい う、浅ましい思考が見てとれる。そして、本人はそれが許されると 本気で考えているのだろう。特権階級の選民意識。槍を突きつけら れながら、孤立無援にも関わらず太一の前に姿を見せて、尚誇りを 失わなかったドルトエスハイム公爵とは雲泥の差だ。 こんな横暴を許す気はない。 いよいよ本腰を上げて動いてくるだろうミジックを正面から打ち 砕く。 力押しでくるならそれもよし。むしろ願ったりだ。また搦め手で 1223 来るなら厄介だが、今度は相手の手に乗る気はない。一度痛い目に 遭わないと身に染みないだろうから。 ﹁絶対に、守るぞ﹂ 主語がごっそり抜けた太一の言葉。だが、それが何を指している のか、今更考えるまでもない。 あの男たちがどういう存在なのか、今回の騒ぎできっちり知るこ とが出来た。太一の言う通り理不尽な行為も、暴力も、濡れ衣も許 す気はない。 太一の言葉に、奏もミューラも力強く頷くのだった。 1224 反撃への一手目 ﹁状況を整理しよう﹂ 夕食後客室に戻って一服をしている最中。太一はそう切り出した。 あの後もずっと考えていた。待っているのがベストなのか。ベス トを導き出せないとしてもベターな結果に近づけるにはどうするべ きか。 様々なシミュレーションや推理をしたかった。奏とミューラに比 べれば頭が良くないのは分かっている。しかし、無理だった。 結論を出すことが、ではない。 シミュレーションそのものが、だ。 何せ情報が足りなさすぎる。このままでは、﹁俺の頭じゃ答えが 出ない﹂という結論さえも出せなかった。 鍋があっても材料がなければ料理は作れない。 ﹁そうね﹂ ﹁じゃあ、まずは分かっていることからだね﹂ テイラー夫妻の宿に、宿泊客が来ないように仕向けられているこ と。 テイラー夫妻にかけられている窃盗の疑いは冤罪の可能性がある こと。 街の人々はテイラー夫妻に関わろうとしないこと。 テイラー夫妻に関わらなければ平穏に暮らせること。 ﹁⋮⋮今更なんだけどさ、良く耐えてるよな﹂ 改めて確認して、分かっていることがあまりに少なすぎる上に、 1225 状況の酷さが浮き彫りになった。 良く挫けずにここまで忍んだものだ。それはテイラーがどれだけ ミントを愛しているかの証明だ。彼一人だったらとっくに折れてい ただろう。 ﹁⋮⋮そうね﹂ ﹁どうにかしてあげるためには、ミジックを切り崩さないと﹂ 今のままでは何も出来ない。力で解決できるパターンとしては、 力で攻勢を受けて返り討ちにした場合。こちらから力で攻め込んで、 勝利を得ることは出来る。しかしそれは一過性のものだ。シーヤッ クにいるうちはいいだろう。しかし太一たちが旅立った後、ミジッ クが報復に出ないとは思えない。むしろ報復する可能性の方が高い。 その場合はこれまでのように大人しい手段を取る筈がない。テイ ラーとミントはより手酷い仕打ちを受けることになるだろう。 そして何より、力ずくでミジックにダメージを与える根拠が極め て乏しい。大義名分なんて大層なものは必要ないが、取る行動に説 得力を持たせるのは重要。第三者に聞かせて﹁その行動は正しい﹂ と言わせるくらいでなければ。 ﹁やっぱ、ミジックに突っ掛けられるくらい固めないとダメだな﹂ 昼間の男たちの態度から考えてミジックは黒。後は巧妙に隠され ている絵の具の色を如何にして白日のもとに曝すかだ。 その為の最初の一撃。どこに撃ってみるか、それを考えていなか ったわけではない。 ミジックの行為は、見逃してもよいと思える範囲を少々逸脱して いる。その辺りにチャンスがありそうだ。 ﹁そろそろ情報屋を使っていい頃ね﹂ 1226 脈絡もなく告げられたミューラの言葉に、太一と奏が﹁やっとか ー﹂という顔をした。 元々聞き込みに大きく期待していた訳ではない。それでも全く手 掛かりが掴めなかったので辟易はしていた。 ﹁じゃあ、種蒔きは済んだってことでいいのかな﹂ 奏の台詞は質問というよりは確認だった。 ﹁そうね。これで第一段階。次のステップに行くわよ﹂ 三人はあらすじと手順を確認して頷き合った。 情報屋に聞きに行くにあたって、今回の留守番役は太一だ。最初 は奏に任せていたのだが、持ち回りでも問題なくやれることが判明 したので、交代制にしたのだ。 この近辺で火事になったときにどうなるか。テイラーは﹁すぐに 隣家に燃え移って大火事になってしまうよ﹂と断言した。そうなれ ば窃盗どころではない重大な犯罪者になってしまう。実行犯は手下 かもしれないが、命令を下したということでミジックにも重い罪が 科せられるのは想像に難くない。 言葉は悪いが女一人にそこまで思い切るというのは現時点ではな いだろう。そうすると、とれる強引な手段は限られる。二人にはあ まり離れないようにしてもらうため多少の不便さと非効率さを呑ん でもらうことになるが、そうすれば三人のうち誰が残ってもテイラ ーとミントを守ることは不可能ではない。輪番制に変更して、今日 は太一が留守を預かる寸法だ。 奏とミューラは連れ立って街を歩いている。王族を迎え入れるた めか、街の人々は大分慌ただしい雰囲気に包まれている。二人にち らちらと目を向ける者はいるが、誰も声をかけてこない。あれだけ 1227 聞き込みをしたので目立っているのだろう。 市民が見せる反応に、奏とミューラは内心笑む。期待通りのリア クションを見せてくれているのだ。 ﹁⋮⋮カナデ、着いてきてる?﹂ ﹁うん。斜め後ろ。付かず離れず﹂ これも当然予想の範囲内。 索敵は奏担当。ミューラの気配探知もかなり優秀だが、奏のソナ ー魔術の有効範囲には物理的に及ばない。ミューラが劣るというよ りも、奏が反則気味なだけだ。 ﹁付かず離れず、か。結構やるわね﹂ 奏はこくりと頷いた。このソナー魔術の範囲外となると、どれだ け探知に特化した隠密のような存在であっても、目標を正確に捉え 続けるのにはかなりの難易度を要求する。 確実に尾行をするにはソナー魔術の範囲内に入るしかないのだが、 そうなると今度は奏に存在が筒抜けとなる。隠密泣かせの索敵魔術。 それが奏のソナー魔術だ。 件の追跡者は、奏の魔術には気付いているのだろう。その魔術の 中身までは理解できていないだろうが、相当に感知が難しいこのソ ナー魔術を捉えているというだけで称賛に値する。 ﹁ずっと泳がせておくんだっけ﹂ 奏がミューラに顔を向けてそう確認する。 泳がせる必要がない場合、奏は長距離魔術で狙撃するつもりだっ た。かつて緻密な制御を要する魔術を一キロ遠方に向けて放ってみ せた奏なので、そのくらいは朝飯前か。 1228 ﹁ええ。あたしたちの行動を、ちゃんとミジックに教えてもらわな きゃ﹂ ﹁そうだね﹂ 傍目にはにこやかに、華のある表情でそんなことを話す奏とミュ ーラ。会話の内容を確認しなければ、雑談にしか見えない。 男にとっては保養となる表情で話をしながら二人が向かったのは 冒険者ギルド。武器らしい武器を携えていない町娘姿の少女二人に は似つかわしくなく見えるその場所に、奏とミューラは躊躇なく入 っていった。 改めて言うまでもないことだが、二人とも抜群の美少女だ。どち らかといえば男社会の冒険者稼業、その本山冒険者ギルドにおいて、 奏とミューラの二人はとても目立っていた。 慣れた様子で空いているカウンターに座る。若い女性のギルド職 員が丁寧に挨拶した。 ﹁どのようなご用件でしょうか﹂ 面食らったギルド職員だが、表情の変化は一瞬。普通の女の子が 初めて訪れた場合、まず間違いなく萎縮してしまう場所、冒険者ギ ルド。ここでこのような振る舞いが出来るのだから、装備品を身に 付けていないだけで冒険者なのだろうと予測をしたのだ。プロの仕 事である。 ﹁お金を引き出したいのだけど﹂ ミューラは懐からギルドカードを取り出してカウンターに置く。 職員の予測通りだった。 1229 ﹁かしこまりした。お幾らでしょうか﹂ ﹁そうね。とりあえず、三〇〇〇万﹂ 三人の間にある空気が凍結した。 ﹁⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮大丈夫?﹂ ﹁はっ!?﹂ 怪訝そうなミューラに声をかけられて、トリップしていた意識が 戻るギルド職員。彼女が一〇年かけて稼ぎ出す金額を事も無げに引 き出すと言い出したミューラに、一瞬現実逃避してしまったのだ。 ﹁し、失礼しました。ではご本人確認のために、ギルドカードに魔 力をお願いします﹂ ﹁はい﹂ カウンターに置かれたギルドカードに、白くて細い指が軽く触れ る。とてもしなやかな動作。形の整った綺麗な爪の先から、微量の 魔力が流し込まれ、ギルドカードに文字が浮かび上がる。これで彼 女の身分は世界中の冒険者ギルドが保証することが証明された。 ﹁⋮⋮金の剣士、ですか⋮⋮﹂ ギルドカードの文字を確認したギルド職員がそう呟く。 ﹁アズパイアだけじゃなくて、ここにも話が届いてるのね﹂ ﹁ここら一帯の冒険者たちの間では有名な呼び名ですから﹂ 1230 そう答える職員の声色にほんのりと畏敬の感情が混ざったことに、 ミューラも奏も気付いた。ギルド職員が初めて訪れた冒険者のギル ドカードを確認する際、名前の次に注目する場所、冒険者ランク。 そこに記されていた﹃B﹄の一文字に、職員は素直に敬意を示した のだ。どんな理由があろうと、この文字の捏造は出来ない。それは 世界の常識。たとえ貴族でも、王族であっても、このランクの改変 は出来ないのだから。 ﹁ご本人確認が出来ましたので手続きをして参ります。少々お時間 を頂きますので、あちらでお掛けになってお待ちください﹂ ギルド職員に示されたのはロビーだ。半分以上のテーブルは他の 冒険者たちが座っていて埋まっている。広さはアズパイアのギルド の一〇倍はありそうだ。町の規模から考えれば、これでも狭い方な のかもしれない。 ギルド職員が置くに引っ込む。その背中を見送って立ち上がる。 街が変わるとどのような依頼が発生しているのか。二人はそれが気 になったのだ。 掲示板を主に締めるのは街の外に生息する魔物や野性動物の討伐 と、シーヤックから西北西に徒歩で二日ほどの距離にある森での採 集。パッシブクエストとして、黒曜馬の討伐。討伐の証拠品を持ち 込めば、事後申告でも依頼を受けたと見なされて報酬が支払われる ということだ。 他にも船の建造における資材運びや貿易で輸入した品物を詰め込 んだ倉庫の整理など、港町ならではの依頼も散見された。 その中でもミューラの目に留まったのは、銅カマキリの討伐依頼 である。 体高一メートル程の巨大カマキリ。身体が銅で出来ており、鎌の 切れ味は凄まじい。Bランクの魔物として位置付けされており、食 欲旺盛な肉食の魔物で動物だけでなく人間も喰らう。 1231 暖かい気候を好む銅カマキリは、本来ガルゲン帝国に入国し、あ る程度南下したところの温暖な気候が主な生息地域の筈だ。何が原 因か、北に位置するシーヤック付近に現れたらしい。依頼書には﹃ 討伐済み﹄を示す大きな赤いスタンプが押されている。討伐完了日 付は今から一ヶ月前、つい最近だ。おそらくは他の冒険者に注意を 促すために今も貼られているのだろう。 そうして時間を潰すことしばらく。 ﹁ミューラさん﹂ 名前を呼ばれて振り返れば、先程のカウンターに女性職員が戻っ てきていた。 ﹁こちらになります。中身をご確認ください﹂ 示されたのは小さな皮袋。中には金貨が三〇枚入っていた。それ を見て頷いたミューラは、皮袋を懐に仕舞った。 ここは大きなギルドの為大金も持っているが、小さな街のギルド の場合は事前に申請が必要だったりする。いきなり纏まった金を出 せと言われても、ギルドの規模に合わせて金庫の大きさも変わるの だから当然だ。 ﹁ご用件は以上でしょうか﹂ 職員に問われる。もちろんそれだけではない。わざわざ引き出し た大金、その使い道も当然決まっている。 ﹁この街の情報屋の場所を教えてください﹂ 女性職員に、魔力を通したギルドカードを提示しながら奏が問い 1232 掛ける。 より濃い情報が欲しい。ギルドで手に入るのは冒険者に関わるも のだ。そこに、今奏たちが欲している情報は無いだろう。ならば、 そのような情報を扱う専門家を頼るのが近道だ。 ﹁情報屋ですね。かしこまりました。少々お待ちください﹂ 女性職員が、座る椅子の背後にある棚から羊皮紙を束ねたファイ ルを取り出す。パラパラと捲られ、あるページに辿り着いたところ で紙の動きが止まった。 ﹁こちらになります﹂ 示されたのは、シーヤックの地図でいうところの本土側、海沿い にあるバラックが集まった一角。俗にスラム街と呼ばれる場所だ。 奏は予め入手しておいたシーヤックの地図に、情報屋の住所をメ モする。更に冒険者ギルドからの紹介であることを証明する合言葉 も。 ﹁ありがとうございます﹂ 一通りメモを終えた奏はファイルを職員に返した。 ﹁用件は以上よ。ありがとう﹂ ミューラと奏は席を立ってギルドを去った。その背中を見つめて いた数多の冒険者たちだったが、誰もその後を追おうとしなかった。 情報屋を冒険者ギルドから紹介してもらえるのは、ギルドから信 頼を勝ち取った者のみだ。 その基準はシンプルで、冒険者ランクB以上。女性職員とのやり 1233 取りに聞き耳を立てていた冒険者たちは、二人がとんでもない冒険 者であることを知った。 理由も至極単純。情報屋が必要とするほどの冒険をするには、B ランクになれる程度の実力が最低でも必要なのだ。更に言えば、情 報屋に支払う対価もかなりの金額を必要とする。Cランク程度では 捻出に苦労する金額。それを払った位では揺らがない程度の財政基 盤があると判断してもらえなければならない。その基準がBランク 冒険者だ。 財政基盤としては申し分ない奏とミューラ。先の内戦の報酬金貨 二〇〇〇枚は、太一、奏、ミューラの三人で六〇〇枚ずつ均等に分 け合い、割り切れない二〇〇枚をレミーアに渡した。本当は五〇〇 枚ずつ分けようと思っていたのだが、もう十分に金を持っているレ ミーアに﹁お前たちが好きに使え﹂と言われたのだ。金額換算六億。 バラダーたちが冒険者として三人がかりで必死に稼いだ額に、一人 頭で追い付いた計算である。 二人で一二億を超える資産を持つ二人は、冒険者ギルドから歩い て一時間程の場所にあるスラム街に来ていた。 浮浪者とならず者がたむろするスラム街は決して空気が良い場所 ではない。運悪く迷い込んでしまった女性、或いはならず者に目を つけられて連れ込まれてしまった女性が、身ぐるみを剥ぎ取られよ ってたかって陵辱されてしまうという事件は年に数回起きている。 シーヤックの社会問題にもなっているのだ。だが二人は浴びせられ る数多の視線をまるで意に介さない。 スカートの裾や胸元に向けられる男の視線は、二人とも以前から 数えきれないほど浴びている。有り体に言えば慣れたものなのだ。 身近にいる女性たちは異口同音にそう言うし、思春期の少年である 太一という実例でも確認済みだ。彼に見られるのは恥ずかしいが、 彼が他の女性を見るのもそれはそれでモヤモヤするという複雑な感 情を抱えているのは、今は横に置くことにする。 目に映るならず者に比べれば、総勢二〇〇匹のゴブリンの方がよ 1234 ほど強敵だ。 もちろん、何も知らない者から見れば、奏とミューラは鴨が葱を 背負ってやって来たように見えたことだろう。 背後から殴り付けて意識を奪い、裏通りに連れ込んで思う存分楽 しもうとした不逞の輩は確かにいた。角材を手に五人がかりで後ろ から抜き足差し足で忍び寄り、残り五メートルのところまで近付い て、魔術を発現した奏とミューラが同時に振り返った。 距離五メートル。手に角材を持った状態で、自動小銃を手にした 人間の前に立つことが出来るのか。力関係を地球上の基準で表現す るとこうなるだろう。 数発のファイアボールを空中に待機させているミューラ。 氷の矢を一〇本ほど自身の周りに浮かせる奏。 葱を背負った鴨は、実は刃の翼を持った鷹だった。言葉など必要 なく、一睨みでならず者どもを黙らせることに成功した。 魔術を使えるだけでも一般人とは一線を画す上に、二人は攻撃魔 術を行使。それだけで力の差が判然としたのだ。ならず者は自分よ り弱い者から搾取する存在。自分より強い者に自分から手を出すと いう下策は取らない。 相変わらず向けられる視線には、劣情と共に恐れが混じる。その 視線さえ意識の外においやってしまえば、二人の行く手を遮る者は 誰もいなかった。 更に歩くこと二〇分。二人は目的地に辿り着いた。外観は周囲に 林立するバラックと何ら変わりはない。陸から海に建てられた小屋 からは木で出来た足が海面に向かって伸びている。海上の掘っ立て 小屋。一言で表すならそんな感じだ。 それだと判断した根拠は簡単で、その一軒だけ、小屋と陸地を繋 ぐ板を通せんぼするように、体格のいい男が立っていたからだ。見 た目は浮浪者やならず者と変わらない。だが彼から滲む空気は浮浪 者、ならず者のそれではない。 1235 ﹁⋮⋮ギルドにここを紹介された冒険者だな?﹂ 男は抑揚のない、低い声でそう告げた。放たれるバリトンボイス にはえもいわれぬ圧力があった。 ﹁⋮⋮我々は“情報屋”だ。情報において我々を上回る者などいな い﹂ 何故分かったのか、そう顔に出す前に機先を制されて面食らう奏 とミューラ。 これは手強い、と感じた二人は気を引き締めた。 ﹁⋮⋮合言葉を言え﹂ ﹁世を照らす光は影と共にあり﹂ 何故か五七五で作られた合言葉を口にする奏。こちらにも俳句、 或いは川柳に似た風習でもあるのだろうか。 ﹁⋮⋮確かにギルドに紹介を受けた冒険者のようだ。⋮⋮ついて来 い﹂ 奏の合言葉を聞いた男は、背を向けて小屋へと歩き出す。その後 を追って、ミシミシと軋む板の上を歩いて小屋へ向かう。開け放た れた背の低い扉を屈んで潜る。 中はとても殺風景だった。六畳ほどの部屋。床に直接敷かれたカ ーペットの上にテーブルが一つ。小屋の中にあるのはただそれだけ。 殺風景で逆に印象に残るような、そんな部屋である。 そして。 ﹁良く来たね。冒険者の娘っ子ども﹂ 1236 スラムがどうとか部屋の印象がなんだとか。 全てを吹き飛ばしてしまうほどのプレッシャーを放つ老婆が、玄 関の対面に置かれた大きなクッションに座っていた。 ﹁あたしゃ足がこの通りでね。このまま失礼するよ﹂ 彼女の言う通り右足はあるが、左足の膝から下がない。更に右目 には黒い眼帯。満身創痍⋮⋮というには眼の力が強すぎる。 身体そのものはかなり小柄なのにこの存在感。半世紀昔に戻れた なら、現役の彼女が見れたことだろう。 ﹁⋮⋮ほう。あたしを見て侮らんのか。ただの娘っ子じゃあなさそ うだねぇ﹂ ﹁何を仰るんですか。隠そうともせずに﹂ ﹁ほっほ﹂ 老婆はしわがれた手の平を下に向けて上下に動かした。座れ、と いうことだと判断して腰を下ろす。 ﹁中々に鋭いのうお前さんら。最近のBランク冒険者はこの程度に すら気付けん輩が多いでな﹂ ﹁あれで気付かないニブチンがホントにいるわけ?﹂ 呆れた顔をしているのはミューラ。目の前の老婆はこれでもかと いうくらい露骨にプレッシャーを向けてきていたではないか。 ﹁いるとも。なまくらなBランクじゃな。一定以上の強さを持っと れば、気付ける筈なんじゃがの﹂ ﹁⋮⋮﹂ 1237 老婆の言葉に、二人揃って一瞬言葉が出なかった。 あるレベルを超えなければ感知できないプレッシャー。そんな器 用な真似を目の前の老婆はしていたというのだ。試されていたとい うことがまるで気にならないほど、老婆が見せた器用さに言葉を奪 われた。 二人の様子を見ていた老婆が目を細める。僅かに上げられた唇に、 老婆の心境の変化が込められていた。 ﹁ふぁふぁふぁ。精進することじゃな若人よ。あたしに出来てお前 さんたちに出来ぬ理由はないじゃろ﹂ ﹁││││﹂ ﹁して。今日は何を知りに来たんじゃ?﹂ 完全に主導権を握られている。経験では完敗。そしてこの老婆の 底もまるで読めない。 ﹁さあ聞いてみるが良い。金さえ払えばなんでも教えてやろうぞ﹂ 情報屋。 金を払えばその情報屋が知りうる範囲の情報を得ることができる 場所。 奏とミューラは気を取り直し、それから聞く体勢を整えた。 ここから先は、この老婆の言葉、一言たりとも聞き逃しは許され ない。 ミューラは小さく息を吐いて老婆を見据えた。 ﹁聞きたいのは、シーヤックの商人ミジックの情報と、ミジックの 後ろ楯の情報よ﹂ 1238 反撃への一手目︵後書き︶ 明けましておめでとうございます。 本年もどうぞよろしくお願いします。 今回の話はかなり慎重に書いてるので筆が遅いです。 今後も更新までには間が空くと思いますがご了承下さい。 1239 情報屋 ミューラは、ここに何を買いに来たのかを目の前の老婆に伝えた。 情報屋から情報を得る。情報の鮮度、濃度、精度によって値段が 変わるが、最底辺の情報でも決して安価ではない。 大抵の情報は冒険者ギルド、或いは事情通の宿屋や酒場でも入手 することができる。 それでも手に入らない情報は、普通の冒険者では用がないものだ。 例を挙げてみるとしよう。 一攫千金が狙える魔物は、並みの冒険者では犬死にするのがオチ だ。 幅広い冒険者にチャンスがある大きな儲け話は、情報を集めよう とするまでもなく耳に入る。 一般的な手段では入手できないが、人によっては需要のある情報 を供給する側。それが情報屋。 そのような情報は得てして手に入れるにもある程度の苦労を要す る場合が多く、情報屋としても情報の価値以外に経費を回収しなけ ればならない。だから、情報屋から購入する情報は必然的に高価に なる。 冒険者として一人で活動し、またレミーアから座学のような形で 様々な情報を得ていたミューラ。与えられた知識の中には情報屋に 関するものもあった。 一般人からすれば法外と言える代金を請求される。しかし彼女に とってはそれが基本だったので、高額な代金を支払うことに躊躇い はない。 ﹁ほうほう。道楽息子のミジックについてか。あの夫妻を助けよう とでもいうのかい﹂ ﹁⋮⋮何故それを?﹂ 1240 驚きを飲み込んで問い掛ける奏。 ﹁のう、黒髪のお嬢ちゃん。ここがどこだか忘れたのかい?﹂ ﹁⋮⋮﹂ 何もかも知っている。ここはそれが常識の場所だと思い出し、奏 はこれ以上気にするのを止めた。考えるだけ徒労に終わりそうなの は目に見えていたからだ。 ﹁流石は情報屋ね。そこまで知ってるなんて。この街にはどれだけ 貴女の手の者がいるのかしら﹂ ﹁ふぁふぁふぁ。悪いんじゃが教えられんのう﹂ ﹁ごもっともです﹂ そんな簡単に飯の種を明かしては商売あがったりだ。 老婆は今度は愉快げな表情を隠さなかった。ミューラの問いかけ と、老婆の回答に対する奏の切り返しが彼女のお気に召したのだっ た。 ﹁面白い娘っ子どもじゃな﹂ 老婆はそういって、表情はそのままに眼の力を強めた。仕事モー ドに切り替え完了のようだ。 ﹁じゃあ、ミジックのスキャンダルについて教えてもらえるかしら ?﹂ ﹁あやつはスキャンダルの塊じゃな。横領、脱税、贈収賄、脅迫、 恐喝、暴行。パッと思い付くだけでもこれだけある﹂ 1241 どこぞの国のダメ政治家を糾弾するニュースが脳裏に浮かぶ奏。 ﹁あれで用心深くてな、なかなか尻尾を掴ませないんじゃよ﹂ 参考資料じゃ、と無造作にテーブルに放り投げられたのは、羊皮 紙を何枚も重ねて丸めたもの。 断りを入れて広げてみる。 一体何処から入手したのか、ミジックが脱税や横領、贈収賄を、 名前だけの団体を介して行ったことが記された文書だった。これ単 体では証拠とはならないだろうが、この数値を書き起こすには原本 が要る。つまり、本物の数字を書き写したもの。 予め必要だと分かっていなければ、会話の流れと共に出すことな ど不可能だ。 二人は本気で﹁この老婆何者?﹂と思ったが、沈黙を貫いた。下 手に探って藪から蛇を誘い出すことはない。 ﹁⋮⋮不正のオンパレードね﹂ ﹁真っ黒﹂ ﹁はたきゃホコリしか出てこんわい﹂ ミジックについて調べさせている老婆も、調査結果が出るたびに 呆れ果てている。これは訴えられたら情状酌量すら不可能なレベル だ。 何故ミジックが告発されないのか不思議なくらいだが、それは老 婆に尋ねた二つ目の質問が関係してくるだろう。 これほどの不正が慢性的に起きているなら、地域を管轄している 貴族が放ってはおかないはずだ。ましてやそれがミジックのように、 シーヤックという大都市にて大きな力を持つレベルの商人ならば尚 更だ。権力を、金を⋮⋮影響力を持つ者ならば、当然それ相応の責 任も背負う。 1242 つまり、その責任を免れることを許容する、ミジックの後ろ楯が いるということだ。 老婆もそれは心得たものだ。 ﹁普通なら幾らミジックといえどとっくに裁かれとるじゃろうな﹂ ﹁やっぱり後ろ楯がいるんですね﹂ ﹁うむ。シーヤックを管轄しとるのはガルレア家じゃ。伯爵位じゃ な﹂ 伯爵家。かなりの大物である。いや、シーヤック程の街を管轄す るなら、決して格負けということはない。 ガルレアという名前を聞いてミューラが微かに眉を動かしたが、 すぐに元に戻っていた。だがそんな些細な変化であっても、目の前 の老婆は見逃さなかった。 ﹁ガルレア家を知っておるのか、エルフの娘っ子﹂ ﹁⋮⋮三男なら、一度だけ会ったことがあるわ﹂ ミューラとしては話題にあげるつもりは無かったため反応してし まったことそのものを無かったことにしようとしたのだが、この老 婆はそこまで甘くはなかった。ミューラの名誉のために言うと、彼 女のポーカーフェイスが未熟なのではない。老婆の観察力が群を抜 いて高いのだ。隠し通すには相手が悪かったというべきだろう。 ﹁コセイじゃな。今シーヤックを管轄しているのはコセイじゃよ﹂ ﹁⋮⋮当主ではなくて、三男がやってるんですか?﹂ ﹁そうじゃ﹂ 老婆はとつとつと説明を始めた。ガルレア家では伯爵位継承権の 有無に関わらず、一七になった男児はシーヤックの管轄を二年間行 1243 うのだという。 それは貴族としての実力を養うとともに、民の生活を理解するた めにも先祖代々行われてきた手段とのことだ。 ﹁不正が行われるようになったのは次男のイーダサからじゃな﹂ ﹁⋮⋮﹂ こんな場だが、奏は一度大きく深呼吸をした。沸き上がる笑いを ポーカーフェイスで噛み殺す。 コセイだのイーダサだの、先程から名前に悪意しか感じないのは 奏の気のせいだろうか。 もちろん気のせいである。この世界では特におかしい名前でもな い。奏の思考が逸れる間も話は続く。置いていかれないよう、奏は すぐにその思考を隅に追いやった。 ﹁イーダサもコセイも、頭は悪くない。ミジックの不正の片棒を担 いではおるが、不正によって発生する数値は、シーヤック全体から 見て誤差で片付けられる範囲に押さえておるんじゃよ﹂ 誤差で片付けられる範囲のために露見しにくい。現に今までそれ が咎められていないという事実が、いかに上手く事を運んでいるか を証明していた。特にイーダサはその辺りの数値にはかなり強いら しく、コセイに色々と吹き込んでいるとのことだ。 ﹁結構、手強いってことね﹂ ﹁そうじゃな。ミジックだけを狙うと、都合が悪いコセイとイーダ サに揉み消される恐れもあろうな﹂ ﹁じゃあ、においは元から絶たないと﹂ ﹁そうじゃな﹂ ﹁ミジックを潰すのはオマケになりそうね﹂ 1244 二人が辿り着いた答えに満足げに頷く老婆。二人が聡明なのは分 かっていたので、ヒントさえ与えれば自分で答えに行き着くのは分 かっていた。それでも、打てば響くような二人の機敏さに、老婆は 会話をするのが楽しかった。 このところBランク冒険者に不作が多いと感じていた老婆は、部 下を除けばこのように話の早い者と久しく会話をしていなかった。 それが、自身の孫くらいの年齢の少女二人となれば、嬉しさもひと しお。 下の世代もやっと面白くなってきた。そう思わせるには十分だっ た。 ﹁潜入捜査に向いている人を紹介してくれないかしら?﹂ ﹁何故じゃ。お主らもBランクの端くれじゃろうて。その程度自分 でこなせぬのか﹂ 最上ともいうべき言葉が聞けた老婆は、あえて厳しい口調で迫っ てみる。 ﹁残念だけど、あたしたちにはそういう潜入の経験がまだないの﹂ ﹁分の悪い賭けをする余裕は、今はありません﹂ ﹁そうかい﹂ 目の前の一五歳前後の少女二人が、実はAランクに匹敵する実力 を持つことは、老婆の情報の網にかかっていた。 それだけの実力を持ちながら、得手と不得手を自覚し、及ばない 部分を恥と感じず補強しようとする。今すぐに補えないのなら、外 から力を借りることも躊躇わない。それは、簡単なようで、難しい。 腕っぷしだけではない、本当の強さを持つ者のみが有する資質であ った。 1245 もう一人、彼女たちの仲間である召喚術師の少年にも会ってみた かった老婆だが、今三人が置かれている状況を考えれば、彼が残る という選択は正しい。 ﹁そういうことなら、おあつらえ向きのやつがおるわ。安くはない がな。そやつを雇うか?﹂ 間髪入れずに頷く二人。 ﹁よかろう。手配しておくことにしよう。一両日中には結果が出る じゃろうから、三日後にまた来ると良かろう﹂ ﹁⋮⋮三日ですか﹂ ﹁随分と早いわね﹂ ﹁これで食っとるからのう。仕事は速く正確に。客を増やすコツじ ゃな﹂ この程度は何でもないとばかりの老婆の態度。そのコツとやらも 言いたいことは分かるが、実現するためにはどれだけ労力が要るか 分かったものではない。 ﹁話はこれで全部じゃな?﹂ 調査してもらえるなら、もうここに用はない。日を改めてまた来 ればいい。 ﹁ではしめて三〇〇〇万じゃ。前金として一五〇〇万貰おう。残り の一五〇〇万は調査結果と引き換えじゃ﹂ 手持ちの資金ぴったりの金額提示。口座から引き出すところを隣 で見ていたかのようだ。 1246 呆れはしたが驚くことはもうない。例え問いただしたところで、 ﹁情報屋だから﹂と返ってくるのが関の山だ。利用するには頼もし いが、敵に回したくはない相手である。ミューラは皮袋をまるごと 老婆に放った。前置きなしに、しかも足と目が不自由な老人にする ことではない。だが二人とも動じない。この老獪な女に通用しない ことは分かりきっている。その予想通り老婆は口を結っている紐の 輪っかに人差し指を通して受け取る。 ﹁前金だの後金だの、面倒は省かせてもらうわ。信用するから、期 待を裏切らないで欲しいわね﹂ せめてもの意趣返しにそう言ってやるが、老婆は皮の袋をお手玉 しながら不敵に笑うだけだった。 奏とミューラは立ち上がる。 ずっと扉の脇に気配を薄めて立っていた案内役の男が、玄関を開 く。 礼を言って背を向けた奏とミューラに、老婆は声をかけた。 ﹁さっきから彷徨いてる影の者、お主ら泳がせておるのじゃろう?﹂ ﹁そうだけど﹂ ﹁それが何か?﹂ ﹁いんや、何でもない。精々頑張ってみることじゃな﹂ その言葉を背に受けて、二人は去っていった。気配が遠ざかって いく。 ﹁陽炎をガルレア家に行かせろ。丸裸にするまで帰ってくるなと言 っておけ﹂ 先程までの老獪な雰囲気は完全になりを潜めている。今老婆を覆 1247 っているのは、触れれば斬れてしまうような良く研がれた剣のよう な空気だった。 ﹁⋮⋮随分と気に入ったようですね。⋮⋮陽炎を出すなら倍は貰わ ないと割にあいませんよ﹂ 陽炎は老婆が抱える駒のなかで最大の実力者。伯爵家への侵入と いう任務を陽炎に依頼するなら、男の言う通り六〇〇〇万から七〇 〇〇万が相場だ。 それを踏まえて案内役を務めた男が言うと。 ﹁たわけ。金ではないわ﹂ ぴしゃりと言われて男は首を竦めた。もっとも彼もかなり図太い ようで、顔色を全く変えなかったが。 ﹁あやつらの潜在能力を感じなかったか。実力の半分も発揮できて おらんぞ﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮それはまた﹂ 本当に予想外だったようで、男が目を丸くする。 ﹁あやつらに恩を売っておいて損はなにもない。むしろこれこそが 我々の存在理由だ。違うか?﹂ ﹁仰せの通り﹂ 男はそう言って頭を下げた。 口を閉ざした男にはそれ以上目を向けずに、老婆はにやりと笑う。 ﹁そうとも。冒険者はこうでなければな。なあ、ジルバよ﹂ 1248 老婆はとある名前を口にした。その名を聞いた途端、男が恭しく 頭を下げる。 ジルバ。冒険者の歴史を紐解いたことがある者ならば、一度は目 に、或いは耳にしたことがある名前。無論レミーアもミューラも知 る名前だ。 冒険者の祖師、ジルバ=クレメンス。その者がいなければ、冒険 者という職業は生まれなかったであろう。 老婆は、ジルバ=クレメンスの血を引いていた。 それこそが老婆の正体。現代の冒険者に嘆いたのは心からの言葉 だった。 彼女は、自身がこれは、と興味を持った者の前にしか姿を現すこ とはない。最後に老婆の姿を見たのは誰だったか。 知る者こそ少ないが、彼女は現代の生ける伝説の一人である。最 盛期の老婆には、現代最高の戦士の一人であるスミェーラと、現代 最高の魔術師であるレミーアが同時にかかっても敵わないと予想す る者さえいる。 ﹁期待しているぞ若人。あたしに本物の冒険者の姿を今一度見せて くれ﹂ その目には、いったい何が見えているのか。 輝かしい栄光か、はたまた暗き地獄か。或いは平凡な未来か。老 婆は語ろうとはしなかった。 ◇◇◇◇◇ 1249 今しがた自分達が会っていた人物が、ある意味では国王よりも偉 大な人物だとは露程も思っていない奏とミューラは、夕方に差し掛 かった街をのんびりと歩いていた。 相変わらず影の者がついてきている。それでいい。これで、情報 屋に向かったということがミジックの知るところとなるだろう。 今までの聞き込み、そして今日の情報屋。全ては餌だ。これで、 ミジックは本気で自身の地位を脅かそうとする者が現れたと知るだ ろう。そしてそれは彼にとっては初めての経験の筈だ。これまでも、 ミジックに耐えきれずに喧嘩を売った者はいたにはいただろうが、 あれほどの権力を持っているのだから、決定的な打撃は与えられず、 返り討ちに遭ってしまったのだろうと思う。 それは気の毒に思うが、だからといって奏たちに何かできるわけ ではない。出来るのは、今後不利益を被るであろう人々を救うため に努力することだけだ。ミジックを懲らしめることができたら、か つてミジックに挑み敗れ去った者たちの溜飲も下がるだろう。 奏もミューラも、この場にはいないが太一も、シーヤックに来て 普通に過ごせていたら、ミジックの横暴など知らずに街を去ってい た。このような行動は起こさなかったと断言できる。ウェンチア島 はリゾート。三人ともリゾートを満喫するのが最大の目的だったの だから。全ては偶然の産物。何の因果か知り合った夫婦を気に入り、 その夫婦がミジックに迫害されているから、助けたいと思っただけ だ。 今回のミジックの相手は本格派だ。少女二人はAランクに匹敵す る実力を持つ上に太一は桁が外れている。故に示威行為が通用しな い。そして情報屋を利用したことで、本気度がいよいよ知れるだろ 1250 う。更にはそれらがミジックに伝わることをあえて望んでプレッシ ャーを掛ける手段にする程度には頭も回る。あからさまな敵対に微 塵も怯んでいないことも印象づけられる。ミジックの目をテイラー 夫妻から太一たち三人に移すことが出来るのだ。そして、聞き込み と情報屋という餌にはもう一つの狙いがあったのだが、それは確実 ではないためあまり期待していない。情報屋がきちんと仕事をして くれば、それをもってミジックの土台を支える貴族を叩くことで一 定の効果は得られるため、現時点でも勝算はある。餌に込められた もう一つの狙いが現実になれば勝率は上がるが、不確定事項に依存 するような足元がおぼつかない作戦は立てていない。 そして何よりも、奥の手は三人が持つジルマール始め王国重鎮と のコネだ。これを利用すれば、作戦全てが泡沫に消え去っても、テ イラー夫妻を救い、引いてはシーヤックを解毒することが可能だ。 端からこれに頼っていては解決能力が身に付かないために奥の手と しているが、全ての目論見が違えた場合、このカードを切ることに 躊躇いはない。ミントの人生が懸かっているのだ、プライドどうこ うの話ではない。 ﹁さて、イーダサとコセイは何をしでかしてるかしらね﹂ ﹁そうだね。どんな不正行為が出てくるかな﹂ ﹁多分呆れるほど出てくるわよ﹂ 二人は情報屋が仕事をしてくることに疑いをもってない。此度の 情報屋はギルドから直接紹介されたのだ。 情報屋が得る売り上げの数パーセントをギルドが受け取る仲介業 のようなものをやっているのだ。下手な業者は紹介できない。最悪 その業者だけでなく、ギルドも信用をなくし、冒険者が寄り付かな くなる可能性もあるのだ。そうなってしまうと、その街は冒険者に 頼れずに自分達でなんとかせざるを得なくなる。そのギルドの関係 者は全員で責任を取ることになるのだ。 1251 三日後が楽しみだ。宿に戻った奏とミューラの報告を聞いた太一 はそう言った。これで、ガルレア家に、引いてはミジックに打撃を 入れられるチャンスが生じる。万事を上手くやれたら、テイラーと ミントを、呪縛から解放できるのだ。 そして、運が良いのかなんなのか。どうやら風は太一たちに吹い ているらしい。事態は思わぬ方向に好転することになる。期待して いなかった、餌の最後の狙いが、現実となったのだった。 1252 vs隠密 意識を向ける先、奏が大通りを歩いている。太一が気配を感知で きる限界距離は、奏のソナー魔術でカバー可能なので、彼女の方も 太一が着いてきているときちんと捉えていることだろう。 奏が魔術を使っていることは、太一がその気になって探ればさほ ど労せず分かることであるのだが、今はそちらにはそこまで意識を 割いていなかった。 目下太一が意識を向けるべき相手は、直線距離にして太一の後方 約二〇〇メートルにいた。位置関係は奏、太一、件の隠密だ。 ﹁まだ、まだ﹂ 隠密の方も太一には気付いているだろう。奏に向ける警戒と同じ くらい、太一にも注意を払っているのが肌で分かる。 情報屋に調査を依頼してから丁度三日後。太一と奏、そしてミュ ーラは別行動を取っていた。今留守を預かるのはミューラ。作戦行 動を取るのは太一と奏の役目だ。 今日、事態は大きく動く。太一が奏から離れて彼女を追っている のも、行動を起こすためだ。 今はまだ、その時ではない。太一の役目は二つ。一つは隠密に警 戒対象を増やすこと。もう一つは、時が来れば行動に移す手はずに なっている。 奏の足取りに迷いはなく、やがてスラムの方へ向かっていった。 付かず離れずの距離を保って、太一はその後を追う。その更に後ろ を、隠密が着いてきている。 スラムでは、奏が見た目通りのただの少女でない事は、すでに周 知の事実だった。その為か、初日はあれほどあからさまにこちらを 狙う視線に晒されていたのだが、今は時おり感じるのみだ。見られ 1253 ている当の奏はといえば、鬱陶しい視線が無くなって精々している といったところだ。 一方初めてこの場に足を踏み入れた太一は、小綺麗な服装と華奢 な身体つきから、見た目通りに舐められていた。 太一から身ぐるみ剥がしてやろうと目論んだならず者たちに、今 は囲まれていた。 姿が見えている者、姿は見えないがこちらを虎視眈々と狙ってい る者。数えればきりがなく、倒すのは簡単だがいちいち相手にする のは時間の無駄という答えにすぐに至った太一。徹頭徹尾ガン無視 することにした。 ﹁痛い目に遭いたくなきゃ金と服全部置いていきな﹂ 数人がナイフや角材を持って声をかけてきたが、まずは無視する。 ﹁おい、聞いてんのか?﹂ 続いて声をかけられたので、とりあえず無視する。 ﹁舐めてんじゃねえぞこのガキ!﹂ わめいている男たち。更に無視する。 ﹁この野郎ぶっ殺してやる!﹂ 物騒な言葉も華麗に無視する。 角材で殴られる。痛みはないのでもちろんのこと無視する。 ﹁は⋮⋮?﹂ 1254 振り下ろされた角材が太一の頭で止まっている。 視界が妨げられているのでとりあえずどける。 ﹁うお!?﹂ 殴ってきた男がたたらを踏むが、興味がないので無視する。 確保できた視界の先、薄暗い雰囲気漂う通りを奏が悠々と歩いて いる。 ﹁おい、お前らやっちまえ!﹂ 前後左右から加えられる攻撃。痛痒すら感じないそれは太一にと っては攻撃ではないため、適当に無視する。 ﹁あ、離れすぎた﹂ 奏との距離を保ち続けるため、太一は歩き出す。後には攻撃に疲 れてへたり込んだならず者たちが、呆然として太一の背中を見送っ ていた。 からくりはとても単純で、外に漏れないようにした三〇の強化を、 全て防御力に割り振っただけだ。 奏やミューラの中級魔術をも防ぐことができるこの防御を、強化 魔術すら使えないならず者が破れる理由はないということだ。 ならず者にとっては、奏とミューラの方がよっぽど脅威として分 かりやすい。角材で殴り付けても、ナイフで刺そうとしても傷一つ 負わない太一の方が、相当不気味に見えた。 その後は奏だけではなく、太一の行く手を阻む者もいなくなった。 順調にスラムを歩き続けること三〇分ほど。奏がとある小屋の前で 立ち止まる。扉の前に立つ男と一言二言言葉を交わして小屋に入っ ていった。どうやらあそこが情報屋のようだ。奏の目的地到着。そ 1255 れが太一の作戦行動開始の合図。 ﹁よし。やるか﹂ 太一はくるりと踵を返し、斜め上を見上げる。直後、その姿が文 字通り消えた。 男子三日会わねば瞠目せよ、という趣旨の諺があったと奏は記憶 している。だが、三日程度では変わらない者の方が圧倒的多数だ。 例えば情報屋の小屋は相変わらずボロ屋だ。 ﹁こら娘っ子。人の仕事場にケチつけるんじゃないわい﹂ 何も言っていない奏の視線から思考を読み取りでもしたのか、老 婆にたしなめられた。思わず肩を竦める奏。 ただ者ではない雰囲気を漂わせる老婆は相変わらず大きなクッシ ョンに身体を乗せて寛いでいる。そして、その横には鋭い気配を纏 う全身を黒で覆った人物が立っていた。 ﹁三日ぶりじゃな。待っておったぞ﹂ ﹁お待たせしたようですみません﹂ よほどでない限りは、目上にはとりあえず敬意を払う奏である。 ﹁ふぁふぁふぁ。良い良い。早速じゃが本題に入ろうぞ﹂ 老婆は視線を横に立つ長身の黒の人物に向ける。 1256 ﹁今回、ガルレア家に侵入してきた隠密の陽炎じゃ﹂ 黒い布の隙間から覗く鋭い双瞼以外は真っ黒。若いのか年を取っ ているのか、男なのか女なのか、姿を見るだけでは何も分からない。 まあ、そんなことははっきり言えばどうでもいい。望んだ情報が 手に入るのか。要はそこだ。 ﹁心配要らんぞ。あたしが抱える手駒の中じゃ一番優秀じゃからな。 陽炎が失敗したところをあたしは見たことないわ﹂ その言葉が本当かどうかは分からないが、老婆の自信は本物に思 えた。まあ嘘だったとして、この老女はそのくらいは簡単に演じて しまうだろうが。 ﹁どんな感じですか?﹂ ﹁うむ。イーダサとコセイを吊し上げるにはピッタリじゃ。陽炎、 渡してやれ﹂ 老婆に促され、陽炎が一歩前に出る。 妙な感覚を覚えた奏が無意識に魔術を発動させたのと、陽炎から 突如何らかの力が発せられたのはほぼ同時だった。六畳の狭い部屋 で、巨大風船が割れたような衝撃が炸裂した。 ﹁⋮⋮っ!﹂ ﹁ほう⋮⋮﹂ ほぼ脊髄反射で放った空気弾が、陽炎から放たれた不可視の弾丸 に当たって相殺。それが、瞬間の顛末だ。 ﹁い、いきなり何するんですか!﹂ 1257 前置きもなしに攻撃を受けて憤慨する奏。彼女の怒りはもっとも ではあるのだが、相手の攻撃の気配を何となく感じ取り、後追いに も関わらず同時に迎撃し、尚且つ同じ威力の攻撃を放って相殺した 奏も、大概と言えば大概だ。むしろ攻撃するまで時間があった陽炎 に対し、それらの行程を瞬時に、考えることなくやってのけた奏の 凄まじさが浮き彫りになったのだが、当の本人はまだそこに思い至 っていない。 ﹁わたしの魔力弾を防ぐとは、中々やるな﹂ ﹁⋮⋮魔力弾﹂ 聞き覚えのある単語に目を白黒させる奏。黒ずくめの長身の声が 若い女のものだったという意外な事実すら気にならないほどに驚い ていた。 ﹁知っているのか﹂ かつて修行中、レミーアに片手間に教わった。魔力を固めて弾丸 として飛ばす。言ってしまえばそれだけのことなのだが、口で言う ほど単純ではない。 魔力は、それ単体では主を離れた瞬間から猛烈な勢いで減衰して いく。魔力弾にEfficacyが認められているのならば攻撃魔 術は必要ない。魔力弾が使い物にならないからこそ、魔術が発達し たのだ。 太一がかつてチャレンジして、使い物にならなかったことからも、 どれだけの勢いで減衰するかが分かる。 それを、目の前の陽炎は使って見せた。それが奏には信じられな かった。 1258 ﹁陽炎。おふざけが過ぎるぞ。早く渡さんか﹂ ﹁申し訳ありません﹂ まるで申し訳なく思っていない口調で形だけの謝罪をして、陽炎 は懐から数枚の羊皮紙を丸めたものを取り出して奏に手渡した。 羊皮紙を受け取ったことで奏は我に返った。手の中のそれを繁々 と見詰める。 ﹁⋮⋮これが﹂ ﹁うむ。確認してみい﹂ 言われるがまま、羊皮紙がばらけないようにとめてある紐をほど いて広げる。 イーダサ、コセイの名の元に発行された領収書や命令書。それを 中央⋮⋮つまり王国中枢部に報告する際に書かれた報告書。他にも 不正な雇用や本来必要ない借金の借用書。桁を一つ誤魔化した小切 手発行の証拠。不正のオンパレードだ。 ﹁これ⋮⋮もしも王家に提出したら﹂ ﹁最低でも爵位降格。最悪除名、コセイとイーダサは追放処分。片 棒を担いだミジックにもかなりの制裁が科せられるじゃろうな﹂ これはとんでもない。ミジックはこれだけの賄賂をコセイとイー ダサに渡し、その対価に好き放題していたのだ。証拠とするならこ れくらいでないと話にならないのも確かだが、実際目の当たりにし てその強烈さを改めて実感する。 ﹁仕事、速い上に優秀なんですね﹂ ﹁速度と正確さと言うたろう﹂ 1259 ふぁふぁふぁ、と特徴的な老婆の声が部屋に響き渡る。 これがあれば。だが、念には念を入れるべきだろう。 奏はぐっと拳を握る。そして、老婆に目を向けた。 ﹁筆写複製も受け付けておるぞ﹂ 奏が何を考えているのか、表情で分かったらしい。 話が早くてとても助かる。 ﹁お願いします﹂ ﹁承ろう。上客じゃからな、格安で受けてやるわい﹂ ﹁複製は三部欲しいんですけど﹂ ﹁⋮⋮は、良かろう。今宵までには仕上げてやる﹂ ﹁助かります﹂ 奏は頭を下げる。地面を見つめ、決意を新たにする。今宵、決行 だ。 ◇◇◇◇◇ 太一はひょい、と建物の屋根に跳び移った。その姿を認めた隠密 が、慌てて踵を返すのが視界の端に写る。逃がすまいと、太一はそ 1260 れ以上の速さで隠密に向かって駆け出す。 太一が追い付くまで二秒もかからなかった。建物同士の細い隙間 に飛び降りようとした隠密の首根っこを掴み上げ、その背中に膝蹴 りを叩き込む。骨は折れないように加減したが、ミシミシと軋むの が膝に伝わってきた。 悲鳴を上げる間もなく、肺から空気が漏れたようでひゅ、という 呼気が聞こえる。太一は隠密の身体をくるりと回転させ、みぞおち の下辺りを狙って突き上げるように殴り付けた。 ﹁ぐっ! ぐああっ!﹂ むせるように咳き込みながら、隠密は胃液を吐いてうずくまる。 殺すつもりは毛頭無いが、逃がす余裕を与えるほどに手加減をする 気もない。 腰の剣を抜き、男の顎先に突き付ける。 ﹁吐く気はあるか?﹂ 恐らくはミジックかガルレア家の次男、三男辺りに雇われている のだろう。彼自身に恨みはないが、テイラーとミントが苦しむ遠因 になっている以上、太一とて見逃すわけにはいかない。 ﹁無いよねえ﹂ 太一はそう嘯いた。 ようやく吐き気が収まってきたのか、隠密が顔を上げて太一を睨 む。だが、力の差は痛いほど分かっているだろう。背中と腹へ一発 ずつ。直接殴るくらいなら、手に安物のナイフ一本でも持っていれ ば、即座に隠密を仕留められたのだ。殺せるのに殺さない。それは 油断とも傲慢とも受け取れるが、一方で残酷なまでの力量さによる 1261 強者の余裕というものを、対峙した相手に刻み込むこともできるの だ。 甘いと取られるだろうか、だが隠密の力量を測った時、どんなに 不意を打とうとされてもその後から先手を取ることができると判断 した。この男が、わざとこうして攻撃を受けて、太一の隙を誘って いる可能性は拭い去れない。いつでも八〇の強化をして動きを封じ る心構えのまま、太一は無表情に男を見下ろしていた。 一方、隠密としてずっと太一たちの監視を続けていた男は、目の 前の少年から一切の隙を見いだせずに戦いていた。信じられないほ どの速さと、一撃の攻撃力。これだけの相手を前に、わざと攻撃を 受けて⋮⋮なんて真似をする余裕は男にはなかった。目で追えない 速さで接近され、気付いた時には背骨が折れるかという程の攻撃を 受けて、更に無慈悲なボディーブローを受けた。裏の世界で、人の 苦しみを飯の種にする男が、地面に這いつくばって吐瀉物をぶちま けるような醜態を敵を目の前にして晒すなど、プライドが許さない。 プライドは許さないが、身体が立つことすら拒んだ。これはもう条 件反射のレベルで、吐いたことも自分の意識ではどうにもならなか った。 監視対象の少年。冒険者ということはその立ち居振舞いや、さり げない周囲への意識の向け方などで何となく察していたが、彼が本 気でこちらを警戒し始めた今日、確信した。 そしてその矢先、どうしようもないほど一方的に反撃を受けた。 彼が冒険者となったなら、Bランク位ならすぐに駆け上がること が出来るだろう。それは主観的な判断ではなく、実際Bランク冒険 者と対峙せざるをえない状況に陥り、互角に戦って相手の攻撃を凌 ぎ、逃げ仰せた経験があったからだ。 隠密ではあるが、戦闘能力もひとかどのものだと自負していた矢 先に、ミッションと一緒に自信も粉微塵に砕け散った。 このままというわけにはいかない。だが、あの攻撃を見る限り、 1262 男にはどうにもできない。今こうして見下ろす彼の目は、男が彼に とっての有象無象を見下ろす時と同じ目をしていた。 ﹁た、頼む⋮⋮も、もう付きまとわないから見逃してくれ⋮⋮﹂ 己の声の弱々しさ、そしてそもそも声を出すことが精一杯という 事実に気付かされ、男は愕然とした。 男は全力で懇願したが、当然ながら打算も含まれている。少年に 見逃してもらい、何処かに身を隠して体調を整えるのだ。見た目若 く見える彼ならば、甘さもあるだろうと考えてのこと。だが、結果 的に失敗した。男は視界がぶれるのを理解するのが精一杯だった。 ついで彼を襲ったのは、喉元の息苦しさ。そして、足が地面に着い ていないことに気付く。視線が急激に高くなっていた。 ﹁う⋮⋮ぐっ﹂ その視線を少し下に向ければ、剣を持っていない方の手で、男の 胸ぐらを掴んで吊し上げている少年の姿。 ﹁悪いけど無理だね﹂ ﹁⋮⋮!﹂ 少年は顔色をまるで変えずにそう言った。 己に与えられた僅かな希望がなくなり愕然とする隠密の男。 なぜだ。必死に願ったではないか。彼は、かつて狙った相手に命 を乞われて、見逃さなかったことに気付いていない。彼に狙われた 者も、まさしく今の彼と同じ思いを抱いていたことに。 ﹁見逃したところで、どうせまた隠密作業に戻るんだろ?﹂ ﹁⋮⋮そ、そんなことはな⋮⋮げふっ!﹂ 1263 思わず声を荒げようとして、上手く息を外に出せずにむせた。そ んな男を、太一は黙って見ている。 ﹁いいや。信用なんない。と、いうわけでさ﹂ 太一が手を離す。重力に従い男の身体が自由落下を始める。それ を、横から襲う強烈な衝撃。ごきりと左肘から嫌な音がした。 ﹁またうろつかれると鬱陶しいから、両手両足をへし折るだけで勘 弁しとくよ﹂ 痛みをこらえ、男は脂汗が浮かぶ顔を上げる。そこに太一はいな かった。 今度は右腕を襲う鈍い衝撃。右肘を蹴り上げられ、曲がってはい けない方向に曲がっていた。 その痛みに苦しむひますらなく、別の箇所が折られた。踏み砕か れているのは右の足首。最後に刃を返した剣が左足に叩き付けられ、 膝が破壊された。 殺されずに済んだ。そんなものが慰めにならないほどの激痛が男 の四肢を襲う。この道のプロである男は、それでも鋼の精神で耐え ていたが、痛いものは痛いのだ。 幾ら彼がその道のプロであっても、両手両足を折られて即座に回 復する手段はない。男はこの場に縫い付けられたのと同じになった。 ﹁一通り済ませたら、通報しておく。あんたがここに倒れてる、っ てな﹂ それまでそこで待ってろよな。そう言い残して、太一は踵を返す。 圧倒的強者にプライドもろとも完膚なきまでに叩きのめされる。 1264 それはこの世界ではままあること。強さが正義。幾ら建前や綺麗事 を並べ立てようと、子供ですらも知っているこの真理を覆すことは 出来ない。 まるで赤子の手を捻るようにあっさりと、あしらわれてしまった。 少年にしか見えない太一に完敗した男は、思わず笑った。悔しいと 思うことがおこがましいほどの実力差を体感し、笑うしかなかった のだった。 1265 嵐の前はなんとやら 奏はとある喫茶店でお茶を飲んでいた。だが、一目見て彼女が奏 だと見抜ける者はごく一部だと断言できる。 ミューラから教わった、特殊な髪染め薬で髪を深い緑に変えてい る。さらに普段ポニーテールに結っている髪をおろし、眼鏡を掛け ている。パッと見て、彼女が奏だとは気付かないだろう。 こんな格好をしているのには勿論理由がある。 現在待ち合わせ中だ。奏と通じているのが露見するとまずい相手。 太一が隠密を封じているだろうが、変装は念のためだ。 待つことしばらく。暇なので頭の中でコセイとイーダサの不正資 料を思い返していると、手元に影が落ちる。奏は俯いていた顔を上 げた。 そこに立っていたのは、明るい亜麻色の髪をセミロングに伸ばし ている女性。質素な服装に似合わない整った顔立ち。少しそばかす があるがそれもチャームポイントだ。彼女は奏の待ち人である。 ﹁こんにちは。アティさん﹂ この場にこちらの様子を窺う者がいないことを確認した奏が挨拶 をして席を勧める。 ﹁遅れてごめんなさい﹂ ﹁大して待っていませんよ﹂ 少し申し訳なさそうな顔をして席につくアティに、奏は答える。 携帯電話のような便利な利器もないこの世界において、三〇分程 度の遅れは遅刻に入らない。日本にいたときの、例えば五分前行動 というのは相当シビアな基準だ。文化が違うし、この世界にもかな 1266 り順応してきた奏は、勿論相手にそんなことを要求したりしない。 この後奏は太一、ミューラと待ち合わせをしているが、その時間 も日没から前後一時間という非常にざっくりとしたものだ。 ﹁それで、首尾はいかがですか?﹂ ﹁こちらに⋮⋮﹂ 注文をするいとまも惜しんで奏が本題に入る。会話に一切の緩衝 材を挟まない奏に対して、アティも心得たもので薄手のコートの懐 から数枚の書類を取り出し、奏に手渡した。 受け取った奏はそれをパラパラと眺める。緊張に身を強ばらせる アティの視線を感じながら、やがて数十秒としないうちに書類を見 終え、人差し指の爪で紙を軽く叩いた。 ﹁これだけあれば十分です。ありがとうございます﹂ それはアティが最も聞きたかった言葉。ほう、と吐かれた大きな ため息と共にアティが身体を弛緩させる。吐息には大量の緊張が含 まれていた。 ﹁さあ、行きましょうか﹂ ﹁はい﹂ アティが入店してから三分も経っていない。注文を取りに来たウ ェイトレスと鉢合わせる。奏は自分が頼んだドリンクの代金に幾ば くかを上乗せして手渡し、﹁御馳走様でした﹂と告げる。喫茶店に 来て注文をしなかったことに対する詫びの意味も込められたものだ。 申し訳ないが何も言わせる気は無いため、奏とアティは早足で外に 出た。 1267 ﹁さ、このまま冒険者ギルドに行きます﹂ ﹁了解です﹂ アティが頷く。彼女はミジックの四人目の妻。そして、内通者だ。 彼女のコンタクトは太一たちに宛てられた一通の手紙だった。差出 人がアティだとバレないように、冒険者を三人雇ってバケツリレー 形式で配達を依頼したもの。一通の手紙を手渡すだけでそこそこの 金額を手に入れられるため、冒険者は喜んで引き受けてくれたとい う。流石にミジックも妻全員の監視はしていなかったといい、冒険 者への依頼もスムーズに進められたとのことだ。 因みにこの宿に手紙を届けた冒険者のことはミジックにも報告が 入っているが、手紙や届け物まで見張ってはいないようで、その後 も特に変化は無かった。 手紙の内容は、指定した日にちに先程まで奏が滞在していた喫茶 店にて待っている。という趣旨の文と、ミジックの妻だというアテ ィという名前。 罠の可能性もあったが、そんじょそこらのトラップでにっちもさ っちも行かなくなるような可愛いげが三人にあるはずもなく。トラ ップは踏み潰せばいい、と三人が一致したため、呼び出しに応じる ことが決まった。 太一を見張りにつけて奏がコンタクトに応じた。今奏と共に歩い ているアティが、フードつきのマントを羽織り、そのフードを目深 にかぶって待っていた。 話を聞けば、奏に協力したいと言い出した。 最近周りを飛び回っている小蝿がいるとミジックが話していたら しい。身体も心も無防備になったタイミングでそれとなく詳細を聞 いてみれば、奏たちの話が出てきて知ったとのことだ。少ない情報 源と限られた伝の中状況を探って、奏がミジックを本気で陥れよう としていることを知った。 アティには婚約者がいたが、ミジックによってその話が無かった 1268 ことにされ、気付いたらミジックの妻にさせられていたとのことだ った。ミジックには妻が六人。中にはミジックを愛する妻もいるよ うだが、殆どが彼によって人生の道を無理やり変えられた。金には 不自由しないそうだが、ミジックから解放されたいという妻が多い とアティは語った。 それ故、色々と動き回っているらしい奏たちを少しでも手助けし たいと、接触を図ったのだった。 同じ女として、惚れた男と結ばれたいという気持ちは痛い程よく 分かる。 アティは今でも婚約者だった男を愛しているという。しかし、今 の自分では彼に会わせる顔がないと肩を落として目尻をぬぐう姿に、 奏は改めて怒りを覚えた。 アティは、ミジックが重ねていた不正の証拠をこっそり持ち出す、 と奏に提案した。 渡りに船の申し出に即座に頷きたかった奏だが、それには危険が 伴う。大丈夫なのかと問い掛ければ、どうしても協力したいと泣き 付かれ、渋々、﹁無茶だけはしないでください﹂という言葉と共に 送り出したのだった。 そして今日、無事に奏の元に戻ってきたアティ。彼女が入手して きた証拠と、情報屋から入手した証拠。これらがあれば、十分にコ セイとイーダサを追い詰められるだろう。そしてその余波がミジッ クにたどり着く前に、太一たちで止めを刺す。 それまでは、アティは保護対象だ。その手配も勿論済んでいる。 程なくして辿り着いた冒険者ギルド。そこにいた冒険者二〇人を目 の当たりにし、アティは少し尻込みしている。 ﹁おう、来たか﹂ ﹁お待たせしました﹂ 丁度入り口近くにいた冒険者五人組が奏に話し掛けてきた。かつ 1269 てアズパイアで太一たちに突っ掛かってきた五人の冒険者たちだ。 今は心を入れ換えて、立派なCランク冒険者だという。ランクは実 力と共に冒険者の人となりも表す。取り組みが不真面目では、冒険 者ランクを上げていくのは至難の業なのだ。 ﹁後ろの女が護衛対象か? 残りの二人はどうした?﹂ ﹁後で合流する予定です﹂ 奏がアティの背中を押して前に出す。男女混ざっているが、冒険 者たちは性別関係なく押し並べて屈強であり、そんじょそこらのゴ ロツキとは比較にならないほどの存在感を放っている。一般人のア ティが気圧されるのは当然の反応だ。 ﹁⋮⋮護衛? どういうことですか?﹂ 不安と疑問を表情に浮かべて奏を見るアティ。 奏は何でもないかのように、 ﹁これからガルレア家とミジックに突っ掛けますから。追い詰めら れたガルレア家やミジック一派が暴挙に出ないとも限りません。渦 中に立つあなたの身の安全を確保するためです﹂ と言ってのけた。 それは分かっていたが、過剰と言えなくもない護衛の数に言葉を 失うアティ。 奏の言葉を聞いた冒険者たちは楽しそうだ。 ﹁しかし、一人一〇〇万とは大サービスだな。そんなに貰っていい のかよ?﹂ 1270 五人組の一人がそう話し掛けてくる。 ﹁その分働いてもらいます。二〇人も雇ったんですから、守れなか った、なんて言い訳は一切なしですよ?﹂ ﹁まあそっちがいいんなら俺たちに言うことはねえな。俺たちも気 を引き締めるぞ﹂ おお! と上がる歓声。前払いで一〇万。無事守りきったら九〇 万が手に入る依頼。護衛対象は三人。Dランク以上の確かな腕を持 つ冒険者仲間が二〇人。美味しい依頼である。 この依頼を出した太一たちを訝しんだ者もいた。内容に対してこ の報酬額だ、当然だろう。だがその疑念を、前述の五人の冒険者が 一言で払拭した。アズパイアでAランク昇格を打診された冒険者、 という一言で。なぜそれを知っているのかといえば、彼らはシーヤ ックとアズパイアを頻繁に行き来しているそうで、ある日アズパイ アを訪れたときに太一たちの噂を耳にしたのだという。冒険者のラ ンクにギルドが沽券をかけているのは語るまでもない話。ランクに 関するデマは即座に潰されるのであって、太一たちに関する噂が潰 されていないところを見るに、本当であると判断したのだ。 ﹁さ、アティさん。この人たちは私たちが雇った護衛です。安心し て彼らに任せてください﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁アティさん?﹂ ﹁え、あ、はい。⋮⋮わ、分かりました﹂ この上ない周到な用意。しかも報酬は全員で二〇〇〇万。これだ けの額をなんとも思わないかのように支払える奏に、アティは薄ら 寒さを覚えた。夫は、とんでもない冒険者を敵に回したのではない か、と。 1271 ﹁奥さんよ。俺たちの言うこときちんと聞いてくれや。何かあって もしっかり守ってやっからよ﹂ 余程でなければ暴力沙汰は起こらないだろうが、万が一は十分あ り得る。 ミジック、そしてガルレア家に牙を剥く者たちに雇われていると いうのに、彼らはまるで臆していない。 冒険者の胆力に驚嘆するアティ。 冒険者とは自由な存在なのだ。 ﹁後二時間もしたら、私たちは行動を開始しますね﹂ 奏はそう呟いて杖を取り出し、様子を確かめる。 自分より五つは年下であろう少女の底の深さに、アティはふわふ わとした感覚を覚えながら、奏の仕草をぼんやりと眺めていた。 ◇◇◇◇◇ ところかわって﹃海風の屋根﹄では、出掛ける準備を終えたテイ ラーとミントが、椅子に座って所在なさげに視線を右往左往させて いた。その対面の椅子では、ミューラが緊張など微塵も感じていな 1272 い様子で紅茶を飲んでいる。ミューラが平静を保っているから、テ イラーとミントもなんとか取り乱さずに済んでいる。 現在、﹃海風の屋根﹄はcloseの札が扉のノブに掛けられて いる。これが掛けられたのは今朝の話で、営業再開できるのは無事 ここに戻ってこれたらの話だ。 休業を示す札をかけるとき、テイラーが﹁来るお客様はいないだ ろうけどね﹂と寂しげに呟いた。 だが、それもこれまでだ。今夜、必ず、コセイとイーダサに鉄槌 を下す。そして、ミジックにダメージを与える。その後この宿が盛 り返すかは二人次第だが、テイラーとミントなら大丈夫だろう。二 人は誠実なのだから。 ミューラはふと立ち上がり、腰の剣をベルトから外して抜剣した。 なんのことはない、作戦行動の前に必ず行う得物の確認だ。常に剣 に気を配っているミューラにとって、確認することそのものにそこ まで意味があるわけではない。ある種の儀式のようなものだ。 いつものように問題ないことを確認したミューラは、剣を鞘に戻 す。キン、と硬質な音が静かな室内に響いた。 それが合図になったのか、偶然にも同じタイミングで入り口が開 かれる。今この宿を訪れるのは一人しかいない。はっとして入り口 に顔を向けたテイラーとミントの目に飛び込んできたのは、のんび りとした口調で﹁ただいまー﹂と入ってきた太一だった。 ﹁お帰りタイチ。首尾はどう?﹂ ﹁おう。嗅ぎ回ってた奴は両手両足をへし折って屋根の上に放置し てきた。たぶん動けないと思うよ。奏はアティさんと冒険者ギルド に入ったよ﹂ ﹁そ。見張りは?﹂ ﹁眠らせておいた。しばらくは起きないはず﹂ ﹁分かったわ。頃合いね﹂ 1273 雑談でもするかのような軽い口調の二人。だが内容がすごい。太 一はきっちりと仕事をしてきていた。隠密と、宿を監視する複数の ミジックの手下を無力化したという。当然のように二人は言うが、 にわかには信じられない会話の内容だ。 少なからず荒事があったのだと分かる。そして、太一にとっては 今の内容なら何も問題としないことも。 ﹁それじゃあ冒険者ギルドに。予定通り二人にはそこで待機してて もらうわ﹂ ﹁あ、ああ﹂ テイラーの返事には戸惑いがたっぷりブレンドされていたが、太 一もミューラも気付かないふりを決め込んだ。 太一とミューラは二人を連れて冒険者ギルドへ向かう。この時間 に出発したのなら、日が暮れる前後一〇分程度の誤差で到着できる だろう。 追っ手がいないことをこまめに確認しつつ、街の様子を眺める。 街は相変わらず王族歓待の準備で騒がしさに満ちている。大体毎日 日没から一時間後くらいまで行われている。何故これほどまでに時 間がかかるのかといえば理由は簡単。現代日本のように電動工具な どありはしないし、荷物や資材の運搬も勿論人力。作業行程などは ある程度固まっているだろうが、それでも日本の専門業者に匹敵す る作業効率とは思えない。更には祭りの準備をしながらも本業を疎 かに出来るわけでもない。必然的に事前に、しかもかなりの時間を かけて準備をしていく。 太一のこの意見に奏もミューラも同意したが、祭りは準備してい る時が最も楽しい。やがて本番になれば、非現実的なその時間はそ れこそ矢のごとく過ぎ去り、あれよあれよという間に片付けとなっ てしまうだろう。 1274 歩く速度に合わせて緩やかに景色は流れていき、やがて暗くなる 頃、冒険者ギルドへ到着した。 扉を開ければ、多少の時間差はあれどこちらに向けられる四〇を 超える視線。 太一とミューラは気にしなかったが、アティの例によってテイラ ー夫妻が少したじろいだのが背後から感じられた。 ﹁予定通りだね﹂ ﹁奏﹂ 冒険者の壁の奥から、奏がこちらにやってきた。 ﹁カナデの首尾は⋮⋮聞くまでもないわね﹂ ﹁えっ? 俺には聞いたのに?﹂ ﹁カナデがつまんないミスするところが想像できないわ﹂ ﹁俺はつまんないミスすると?﹂ ﹁しないの?﹂ ﹁する前提?﹂ ﹁えっ?﹂ ﹁えっ?﹂ 不毛なやり取りをする太一とミューラ。意味はない。単なるじゃ れあいである。太一はいいとして、奏はともかく、ミューラが軽口 に付き合っている。寝食を共にし生死を切り抜け、そのくらいには 仲良くなってきたということだ。 ﹁あ、今夜はここで寝泊まりしてくれるかしら。彼らがテイラーさ んとミントさんの二人を保護するから﹂ ミューラに唐突に話を振られて頷くのが精一杯の夫妻。事前に聞 1275 いていなければ反応すら出来なかっただろう。 ﹁じゃあ、頼みます﹂ ﹁行くのか?﹂ ﹁ああ。ガルレア家のどら息子共とミジックをボコってくる﹂ ﹁怖いもの知らずねえ。いいわ。彼女たちはわたしらに任せなさい﹂ ﹁ええ。任せたわ﹂ 連れだって冒険者ギルドを出て行く三人。テイラー夫妻とアティ は、次々と沸き立つ疑問の答えを出せずにいた。 ガルレア家にミジック。ここシーヤックでは最も強い権力者たち。 まるでハイキングにでも行くかのように気負いがない。 今宵、シーヤックは変貌を遂げようとしていた。 1276 決着︵前書き︶ お待たせしました。 イーダサとコセイ、そしてミジックのフルボッコタイムです。 二話分あるので長いです。 1277 決着 手元の時計で時刻は午後八時二五分。夜の団らんを過ごす時間帯 だ。営業中の酒場や食事どころが集まる地区は喧騒に包まれている ところだろう。そこから喧騒も届かないくらいに離れた閑静な富裕 層向けの住宅街。そこにある一軒の屋敷に向かって、太一たちは歩 いていた。もう目の前に、煌々と明かりの灯った大きな屋敷がそび えている。 ﹁止まれ。何者だ﹂ 鉄格子の門の前に立っていた門兵二人に止められる。かつてのよ うに突破するつもりはないため、素直に立ち止まる。 ﹁コセイとイーダサに会いに来た﹂ 太一は前に出て二人の門番に近寄り、胸元を抉るような直球で用 件を述べる。 そんな物言いでは相手にされないのを分かっていながら。 ﹁貴様、ふざけているのか。帰れ﹂ 突き飛ばすかのような相手の態度。太一は懐から羊皮紙を取り出 し、門番に突き付けた。 ﹁読んでみろよ﹂ 武器でも出すかと警戒した二人だったが、目の前に出された二枚 の羊皮紙の内容に目を通すうちに、顔色が悪くなっていく。 1278 太一が突き付けたのは、先程寄った情報屋から受け取った証拠の 複写のうちの一部だ。 つまり、コセイとイーダサの不正の証拠である。それを捏造と片 付ける事はできない。決算書類にはガルレア家のみが使用できる家 紋が押印されており、もう一枚は明らかにコセイとミジックの直筆 と思われる採決のサインがされた、決算書類とは異なる金額が記さ れた見積書。 太一たち三人が、ガルレア家次男と三男の不正の証拠を持って、 殴り込みに来たのだと門番は悟る。そして何より、自らが仕える伯 爵家の者が不正に手を染めているという現実が、彼らを打ち据えて いた。 ﹁信じられないか? くれてやるから、本当かどうか本人たちに聞 いてみたらどうだ﹂ そう言って羊皮紙から手を離す太一。ぱさりと地面に落ちた。 門番の二人は顔を見合わせる。自身の価値観が揺らいでいるのだ ろう。太一としてはこれ以上彼らに言うことはない。下っ端をいく らいじめてもなんの解決にもならない。それでも、彼らに深刻な顔 をさせることはできる。その表情と、手にした羊皮紙が、太一たち とコセイ、イーダサを繋ぐ架け橋となるだろう。やがて自分達では 判断しきれなかったのか、一人が羊皮紙を拾って屋敷の中に入って いった。 太一はそれを黙って見送る。じきに、話が分かる︵・・・・・︶ 者が出てくるだろう。 待つことしばし。予測に違わず、先程の門番と、もう一つの人影。 建物からの逆光で遠目ではシルエットしか分からなかったが、近づ くにつれ、その人物が話をするに足る相手だと判別できた。 立派な執事服に身を包んだすらりとした体格。穏やか表情に巧妙 に隠蔽された鋭い眼差し。この屋敷にいるガルレアの名前を名乗る 1279 資格がある者のいずれかに仕える執事であろう。 お互いの顔が見える距離になり、執事は目を一瞬だけ細めた。 ﹁当家に御用というのは貴殿らですかな?﹂ 洗練された挨拶とともに、相手に威圧を与えない穏やかな声。そ こに熟練の技が見え隠れする。貴族に仕える執事は求められるもの も多く一般市民には程遠い存在だが、同じく一般人とはどう控えめ に見ても呼べないであろう太一たちには気にする理由がない。 太一が﹁そうだ﹂と言いつつ首で肯定を示す。 ﹁畏まりました。ではご案内差し上げます。こちらへどうぞ﹂ 再度の礼と共に執事が来た道を戻り始める。 太一は後ろを向く。太一の視線を受けて、奏とミューラが頷いた。 ここまでは想定したいくつかのシミュレーションのうちの一つを 辿っている。 背後でミューラが﹁風はあたしたちに吹いてるわね﹂と小声で呟 いたのを、太一は辛うじて聞き取った。 執事に連れられて屋敷の中を歩く。実に豪奢な内装だ。品がない とも言えるが。これみよがしに飾られた調度品は、壊せばいくら弁 償させられるのか想像すらつかない。壊さないように注意しなきゃ な、等と考える太一との距離は一メートル以上離れている。その辺 りでは小市民な太一だった。 だだっ広い屋敷の中を歩いて案内されたのは、これまた広い応接 間だった。 足が沈み込む程の絨毯と、金と銀で装飾された豪奢なテーブル。 向き合った二対のソファーがそれを挟み込むように設置してある。 王宮の応接室に迫る勢いだが、一つだけ言えるのは、その品にお いて王宮に劣るということだ。 1280 ﹁こちらにお座りください﹂ 執事がそう言って頭を下げる。言われるまま腰掛けると、応接間 の入り口とは別の扉から給仕が出てきて、素早くお茶を準備した。 手際もかなりいい。 コセイとイーダサはともかく、働いている者は伯爵家の名に恥じ ないと言っていい。 招かれざる客であることは明白。何らかの策が巡らされているか もしれない現状、出された飲み物にも気を付ける必要がある。毒を 検出する薬はあるが、どこに目があるか分からない以上、下手な真 似をするわけにはいかない。相手が突っ込んでこれるような隙は極 力作らないに越したことはない。現在は魔力を使用した索敵を行っ ているのは奏のみ。太一とミューラは自分達の気配探知能力に頼っ ている。そしてその探知によって、こちらを監視する一人分の気配 が、太一たちに届いていた。 想像通り、かなりの手練れを思わせる気配の隠匿。それを探れる のだから、太一たちの探知能力も侮れない。だが、それに慢心する のは危うい気がするのだ。 ﹁じき、こちらに参ります。暫しお寛ぎくださいませ﹂ 退室した執事は実に丁寧な応対だった。三人は言葉を交わすこと なく、ここまで何度も復習してきた内容を思い返す。一枚岩となっ て思考することで、誰かのフォローを誰かが即座に行えるように。 数分か、それとも数十分か。数えたわけではないので正確には分 からないが、少しばかり待った後、扉がノックの後に開かれた。 ﹁お待たせしたな、客人﹂ 1281 太一たちはソファーから立ち上がって扉の方に身体を向ける。 入室してきたのは二人。顔は整っている方だと思うが、いかんせ んその陰険そうな目付きが全てを台無しにしている二人。と、片方 がこちらを見て顔をひきつらせる。太一と奏は顔をひきつらせた方 がコセイだと理解した。 では、何となく人のかんにさわる口調で入ってきた方がイーダサ か。 ﹁何分急だったものでな。かかり中の仕事を止めるわけにもいかず、 キリがいいところまでやらざるを得なかったのだ﹂ ﹁気にすんな。大して待っちゃいない﹂ 不躾極まる太一の物言いである。 プライドの高そうなイーダサとコセイにはさぞかし耐えかねると 思ったが、予想に反して二人は平然としていた。 本当に効いていないのか、それとも痩せ我慢なのか。それはこれ から分かることだ。 ﹁ふむ。田舎者の子供に相応しい品のない言葉遣いだな。まあ、面 白い手土産の褒美に許してやろう﹂ ﹁それはどうも﹂ 初戦は引き分けか。 続いて二回戦だ。 ﹁さて、お前たちが持ってきた手土産だがな。実に愉快だった。気 に入った﹂ ﹁気に入ってくれたなら何よりね﹂ イーダサの言葉に、ミューラが答える。彼らから自己紹介が無い 1282 が、どちらがどちらかなどどうでもいいことである。彼らが影武者 という可能性は捨てきれないが、それはそれでいい。本人を引っ張 り出す方法は用意してある。 ﹁驚いたよ。まさかあんなものを捏造して、あらぬ中傷をしようと する輩がいるとはな﹂ なるほど。どうやら太一たちの言い分を言い掛かりとして出方を 見るということか。 もちろん、相手のリアクションもどうでもいいことだ。長々と持 久戦をする気は毛頭ない。 ﹁あら。門番が持っていった羊皮紙が捏造だと?﹂ ﹁あれほど精緻とはね。節穴の目では見抜けんだろう﹂ すべてが捏造というわけではない。 彼の言葉が強がりか知らないが、一部は正解である。 そう、あの門番に渡した一枚は、情報屋のつてで拵えた本物の複 写。そういう意味では、捏造と言えなくもない。 だが、あれは本物から作り上げたものだ。本物かどうかの認定は あの喰えない老婆のお墨付き。疑う余地はない。 ざこ ﹁ふうん。どら息子かと思ってたけど、少しは話せるのね﹂ ミューラは酷薄に笑う。 その姿に眉を少し上げたのがイーダサ。 ひゅっと息を鋭く吸って顔色を悪くしたのがコセイ。どうやらコ セイにとって、ミューラはトラウマであるらしい。 ﹁先程から随分と礼を失した物言いをするな。ここがどこだか分か 1283 っているのか?﹂ ﹁もちろん。あたしたちは安っぽい挑発をしてるのよ﹂ ﹁⋮⋮﹂ つまり、反応したイーダサの敗けである。 ﹁あれは確かに偽物よ。でも、根拠なしで作った訳じゃないわ﹂ そう言って、ミューラは懐から羊皮紙を取り出した。 ﹁これが、本物﹂ ぴらりと出されたのは、先程門番に見せた羊皮紙の二枚組と同じ 物だ。 いよいよ胸中穏やかではなくなってきたのか、イーダサが顔をし かめた。 ﹁ついでに、これがあなた方が言う捏造で作り上げた原本の複写﹂ 奏がテーブルに羊皮紙を何枚も放った。それはミジックとコセイ が密約した不正の証拠の数々。 それだけの原本が太一たちの手元にあるという証左である。 イーダサはとっさに言葉が出せなかった。これはイーダサにとっ てゆゆしき事態である。太一たちが本当に原本を持っているのかが 分からない。偽物だと高をくくっているが、本物である可能性をど うしても捨てきれない。ここにある羊皮紙に記載された数字のいく つかは、イーダサにも見覚えがあったからだ。 結果、イーダサには適切な反撃の言葉が生まれなかった。その沈 黙が何より雄弁に語ると分かっていて尚。 1284 ﹁さて。俺たちの主張の種は明かした。これから、本題だ﹂ 口を開きかけたイーダサに、言葉を発する機会を与えない。 ﹁ミジックと手を切ってもらう﹂ 太一はそう言い切った。それを聞いたイーダサは、しばし沈黙し。 ﹁くっくっく⋮⋮あーっはっはっは!﹂ 豪快に笑った。 ﹁何を言うかと思えば。全く。これだから田舎者は。私たちの力を 知らぬからそんなことが言えるのだ﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁不正? だからどうした。私たちが潤うことは、この世の理だ。 なぜか分かるか? それは私たちに与えられた権利だからだ﹂ イーダサの言葉は止まらない。ついに立ち上がり、唾を飛ばさん 勢いで捲し立てる。 ﹁私たちの力を持ってすれば、お前たちのような有象無象がどれほ ど足掻こうが、その上から握り潰すのは容易いのだ。随分と頑張っ たようだが、徒労だったな。そんな羊皮紙は何の意味もなさない。 紙切れだ。ゴミだ。クズだ! なぜか教えてやる! 私たちが、全 てを葬るからだ!﹂ 随分と興奮したのだろう、イーダサは肩で息をしていた。 イーダサの激昂が生み出した独壇場に幕が下りる。 応接間を沈黙が支配した。 1285 視線をぶつけ合う三人対二人。やがて、太一が顔を真上に向けた。 ﹁だそうだけど。陽炎さん﹂ ﹁聞いていたよ。その発言は捨て置けんな﹂ 突如背後から声が聞こえて、イーダサとコセイが硬直する。 そして、動けない理由がもう一つ増えた。イーダサとコセイの喉 元に、銀色に光る短剣の先が突き付けられていたからだ。 ﹁お、お前は⋮⋮﹂ ﹁ほう。流石にわたしのことは知っていたか﹂ ﹁か⋮⋮⋮⋮陽炎⋮⋮⋮⋮﹂ 全身を、視界を確保するため目の部分以外は全て漆黒の衣装で包 んだ陽炎。 ﹁その資料はわたしが入手したものだ。お前たちは、わたしの仕事 にケチをつけるというのか?﹂ 男なら脳髄を溶かされるような甘い声色で、ちっともそれに見合 っていないことを口にする陽炎。下手に怒気を込められるよりもい っそ恐ろしい。 ﹁そ、そんなつもりは⋮⋮﹂ ﹁無いのか。わたしが入手し、わたしが作った複写なのだがな﹂ ﹁⋮⋮﹂ 陽炎の仕事を悉く貶したことにようやく気付いたイーダサ。複写 をしたのは彼女ではないのだが、その真偽を確かめる勇気は、二人 にはなかった。先程までの威勢は一瞬にしてなりを潜めた。 1286 アズパイアで太一たちが英雄扱いされているように。レミーアが ﹃落葉の魔術師﹄として敬意を集めているように。ここシーヤック で一番の実力者と、知る人ぞ知る陽炎。 陽炎に逆らうべからず。逆らいし者には、惨い結末が待っている だろう。 それは、アンダーグラウンドを知る者にとっては、最早不文律だ った。 陽炎は己の仕事に高いプライドを持っている。それを貶めるとい うことは、即ち彼女の生きざまを否定することだった。 ﹁あ、そうだ。お前ら勘違いしてるようだから教えておくけど﹂ 相変わらずソファーに座ったまま、太一がのんびりと言う。 ﹁さっきの﹃ミジックと手を切れ﹄ってやつ。あれさ、要求じゃな いから﹂ ﹁は⋮⋮?﹂ ﹁命令だから。拒否権を与えたつもりはねえよ?﹂ ﹁貴様、何を⋮⋮﹂ 言いかけたイーダサの口が強制的に止まる。 部屋の外が随分と騒がしくなったからだ。 ﹁陽炎さん流石ですね。あの短時間で手配したんですか﹂ ﹁金を受け取った以上、仕事はきちんとこなすとも﹂ 奏と陽炎のやり取りである。 ﹁な、何が⋮⋮﹂ 1287 コセイの言葉に対する回答は、開け放たれた扉の向こうこら押し 入ってきた多数の人影が与えた。 ﹁捏造資料をもって、冒険者ギルドと自警団に通報したわ。あんた たちを拘束させてもらう﹂ 延べ三〇人を超える人々が雪崩れ込んできた。流石に人が多すぎ て、応接間に入りきらない。 ﹁連れていけ﹂ 陽炎の声を合図に、屈強な男たちがイーダサとコセイを縛り上げ る。 ﹁き、貴様ら! 何をしているのか分かっているのか!﹂ ﹁無論分かっているわ。政治犯をしょっぴいてるところよ﹂ 喚くイーダサを、ミューラが何気ない口調で足蹴にする。 ﹁お、おい! 何故このような無礼を許しているのだ!﹂ ミューラでは話にならないと、続いてイーダサが見付けたのは、 冒険者や自警団から一歩離れたところに姿勢正しく立っている、太 一たちを案内した執事だった。彼は胸に手を当てて深く一礼する。 ﹁わたくしめが許可致しました。どうぞ、御反省なさいませ﹂ ﹁う、裏切るのか!?﹂ ﹁はい。わたくしめが間違っておりました。もっと早く、お止めす るべきでございました﹂ ﹁こ、こんなことがっ! 貴様もただでは済まんぞ!﹂ 1288 ﹁心得てございます。わたくしめも、身を粉にして罪を償わせて頂 きます﹂ 執事の言葉がとどめとなったのか、イーダサは茫然自失となって しまった。 話は終わったとばかりに、縄で幾重にも縛られた貴族二人を連れ ていく屈強な男たち。彼らがまた青空を拝めるかは、裁く者次第で ある。国難にも関わらず、罪を犯し続けたのだから。 ﹁⋮⋮よし。これで第一段階完了だな﹂ ﹁ん。次はミジックだね﹂ ﹁御三方。こちらを﹂ イーダサとコセイを見送った執事が、太一に対して一枚の羊皮紙 を差し出した。 ガルレア家長男直筆の、イーダサとコセイを不正により摘発した という正式書面だった。 ﹁ご利用なさいませ﹂ 執事は恭しく頭を下げる。 これはミジックは出されると痛い書類だろう。だが同時に疑問が 残る。太一の肩越しに羊皮紙を覗いていた奏が、視線を執事に向け る。 ﹁込み入ったことをお伺いしますが、何故御当主のお名前で出され ていないのですか?﹂ 執事は﹁恐れながら⋮⋮﹂と言いつつ頭を下げる。その顔には、 ﹁我が意を得たり﹂という感情が巧妙に隠されていた。この三人な 1289 らばこれくらいの機微は持ち合わせるだろうと読んだ上での事。彼 は伊達にシーヤックという巨大都市を治める貴族の執事をしていな い。人を見る目は確かだった。 ﹁御当主様は、イーダサ様とコセイ様によって軟禁状態にあらせら れます。かのお二人が処断される以上、その軟禁に効力は無きもの と考えます﹂ ﹁で、あたしたちに解放を手伝って欲しいと?﹂ ﹁図々しいとは承知しております。ですが、私も長男であらせられ るドーイッヒ様も、兵を動かす権限を取り上げられているのです﹂ ﹁なるほどね⋮⋮﹂ 未だ実権がイーダサとコセイにある状態。彼らを捕らえたばかり なのだ。犯罪者とはいえ、次男と三男が同時にいなくなったガルレ ア家のダメージは計り知れない。 ﹁入り口はイーダサ様とコセイ様に逆らえぬ騎士と、お二人が雇わ れた傭兵が固めております。兵を動かせぬわたくしではどうともす ることが敵わぬのです﹂ 太一たちは顔を見合わせた。これからミジックを懲らしめるのだ が、話を聞く限り放っておくわけにもいくまい。 ﹁よし。奏。ミューラ。解放するのを頼むわ、俺はミジックんとこ 行ってくる﹂ ﹁⋮⋮それが現実的かな﹂ ﹁そうね。じゃあタイチ。ミジックは任せたわ﹂ ﹁おう﹂ ミューラから残りの証拠を受け取り、太一がその場を辞した。扉 1290 からではなく、窓から飛び出していく。かなりのショートカットを するつもりのようだ。まあ歩けばそこそこ時間がかかるため、太一 の気持ちはよく分かった。 残った奏とミューラは、執事に案内され、屋敷をぐるりと半周し て、裏庭の端っこにある離れに辿り着いた。当該の建物からは気配 を消し、死角に潜んで様子を窺う。 執事の言った通り、騎士や傭兵が三〇人ほど建物を囲んでいた。 三交代らしいので、総勢は一〇〇人に迫るだろう。 ﹁あそこね﹂ ﹁左様でございます﹂ ﹁結構いるね﹂ ﹁ま、あたしたちなら問題ないでしょ。合図したら、援護よろしく ね﹂ ﹁うん、分かった﹂ ミューラの言葉に奏が頷く。三〇人対一人。数の差は、有利不利 を決しない。 ミューラはすたすたと一直線に離れに向かう。 ﹁止まれ。何だお前は﹂ 騎士たちはミューラの姿を認めた瞬間警戒心を露にした。それで も歩みを止めないミューラに、慌てて警告をしたのだ。その警告に 素直に従い、ミューラは立ち止まった。 両者の間に横たわるのは一五メートルほどの空間。騎士たちは失 敗している。この距離はもうミューラの射程範囲内だ。 ﹁あんたたちを職務から解放しに来たのよ﹂ 1291 妙に様になっている立ち姿で、ミューラはそう告げた。 怪訝そうな顔をした連中の口を開かせる前に、ミューラは続きを 紡ぐ。 ﹁イーダサとコセイは不正を暴かれて連行されたわ。あんたたちが その建物を守る義理も、大義名分も存在しない﹂ その言葉は、彼らを硬直させるには十分の威力を誇っていた。 ﹁世迷い言を。何を根拠に﹂ ﹁根拠ならこれよ﹂ 一際早く復活した、赤いマントに騎士の甲冑に身を包んだ男がそ う反論する。彼がここを取り仕切っているのだろう。話が早い者が いて手間が省けたと考えながら、ミューラは懐からカードを取り出 した。 ﹁このギルドカードに誓うわ。イーダサとコセイを拘束する手引き をしたのはあたしだから﹂ 微塵も淀みなくミューラは相対し続ける。 ﹁どうするの? 退くの? 退かないの?﹂ ﹁⋮⋮退けるわけがなかろう!﹂ ギルドカードだけでは信用できない。隊長の顔にはそう書いてあ った。まあ当然だとミューラは思う。この程度は駆け引きにも入ら ない。ギルドカードを見せるだけでは説得力など欠片も持っていな いのだ。 1292 ﹁仕方ないわね。退かないのなら、強引にでも排除するしかないの だけど﹂ ﹁はっ! それはこちらの台詞だ!﹂ 人を小バカにする笑みを浮かべ、全員が抜剣した。 ミューラも笑みを浮かべて剣を抜く。今にも飛び掛からんとする 騎士たちを見詰めて、ミューラは剣を上に向け、無造作に振り下ろ した。 飛来する氷の矢が数十本、連中の合間を塗って地面に突き刺さる。 男たちは戦慄した。この攻撃のすごさが分かる程度には、彼らも 実力者だったのだ。 狙いが荒くて外れたのではない。もしそうなら、外れる矢と当た る矢があったはずだ。全てが外れた。否、全てを当たらぬよう、精 密な制御能力の元放たれた魔術。 それが意味するところは、術者にその気があれば、全弾を直撃コ ースで放つことが出来たということ。地面に深々と突き刺さる無数 の氷の矢。それが直撃して、無事でいられるのだろうか。 思わず言葉を失う騎士たちに、ミューラは剣を肩に担いで笑みを 深くする。 ﹁あたしがいつ、一人で来たとと言ったかしら?﹂ ﹁⋮⋮﹂ 伏兵がいると考えるべきだったのだ。そんな基礎的なことにすら 意識が回らなかった、彼らの失態である。 ﹁因みに﹂ ミューラを強烈な魔力が包み込み、その姿がぶれる。 突然のことだった。鈍い音と衝撃と共に、隊長格の男が持ってい 1293 た剣の刀身が、根本の方から折られていた。姿勢を低くしたミュー ラが、剣を振り抜いた姿勢で目の前に立っていた。 ﹁あたしのことも、女だと思って舐めてると怪我するわよ?﹂ この一撃が、実力に埋めがたい差があることを、如実に物語った。 たった一瞬。一五メートルの距離を一足跳びで詰めた上に、剣を 一撃でへし折るほどの斬撃を放てる剣士に打ち勝てる自信がある者 は、この場にはいなかった。彼女一人抑え込むのにどれほどの人員 と労力が必要なのか検討もつかず、更に彼女を援護する腕利きの魔 術師がどこかにひそんでいる。いくら数で圧倒しようと、勝てる要 素が見つからなかった。 ﹁オレたちゃ降りるぜ﹂ ﹁⋮⋮!?﹂ とはいえ退くことは出来なかった騎士たちに、背後から声が届け られる。 声の主は、この屋敷の騎士ではなく、雇われた傭兵たちだった。 驚きに顔を染める騎士たちを尻目に、彼らは次々と得物を仕舞う。 ﹁貴様ら、裏切るのか!?﹂ ﹁ちげーよ。降りるっつったろ﹂ 傭兵の一人が首を左右に振る。 ﹁別におめぇらに敵対する気はねぇよ。そこの嬢ちゃんは、こっち にやる気がなきゃ見逃してくれそうだしな﹂ 水を向けられたミューラは肩を竦める。仕方ない、という表情と 1294 その仕草が、肯定を意味していた。 ﹁っつーわけだ。わりぃが、後はお宅らだけでやってくれや﹂ 傭兵たちは武器を納め、しかしこちらへの警戒は解かないまま、 場から離れていった。必然、対峙するのはミューラと騎士たちであ る。 ﹁で、あんたたちはどうするの?﹂ 答えは聞くまでもない。人数が減ってしまった以上、騎士たちの 劣勢は動かぬものになってしまった。少し減ったからといって、も ともとの力の差は歴然としていたのだが、人数が少ないよりは多い 方がいいに決まっている。しかしそれさえも、瓦解してしまった。 騎士たちが次々と剣を投げ捨てる。 それが意味するところは一つ。 イーダサとコセイの一派が壊滅した瞬間だった。 ◇◇◇◇◇ 奏とミューラが、ガルレア家当主を助け出しに動いている頃。太 一はミジックの屋敷の前に立っていた。 1295 目と鼻の先に巨大な屋敷が鎮座している。やることは先程伯爵家 に乗り込むときの手段とたいして変わらない。一つ違うのは、ミジ ック側のリアクションの大きさだった。不正の証拠を見せた途端、 門の守衛はすっ飛んで中に入っていき、そう間を置かずに執事らし き人物を連れて戻ってきた。 ﹁貴方が旦那様に御用があるという冒険者ですか?﹂ ﹁そうだ﹂ ﹁分かりました。こちらへどうぞ﹂ 歩き出した執事の真後ろをついていく。そのまま太一の身長の倍 はあるかという玄関を潜り、屋敷の奥にある部屋に案内された。 ﹁しばしお待ちください。じきに旦那様が来られます﹂ 太一はそこに設けられていたソファーに腰を下ろす。 懐をまさぐって、きちんと証拠の羊皮紙や、ガルレア家長男がし たためた証明書があることを確認する。ネゴシエイトの経験は無い が、なんとかなると思っている。これだけ自分を援護する書類があ って、失敗するとはどうしても思えない。 普通はそれ以外にも、アウェイに一人で乗り込んだという無形の プレッシャーがかかるものなのだが、太一に限ってはそれとは無縁 だ。ミジックがどれだけ戦力を保有しているかは分からないが、間 違っても王国軍の騎士には及ばないだろう。その程度の相手なら、 苦戦する方が難しい。 とはいえ、そうならないに越したことはない。何より手加減しな がら戦うのは面倒なのだ。 ﹁⋮⋮よっと﹂ 1296 背もたれにぐでーっと預けていた身体を起こす。客が来たら茶な りなんなりを出すのだろうが、太一にそういった待遇はない。やは りというべきか、歓迎されていないのだろうと思う。 まあ、そんなものは先方の都合であって、太一には関係のないこ とだ。やがて一〇分、二〇分と経過するが、誰も訪れようとはしな い。 このまま待たせるだけ待たせてすっぽかす気なのだろうか。或い は、ミジックは既に逃げたのか。 太一はすっと立ち上がり、扉を開け⋮⋮ようとして、ドアノブが 動かないことに気付く。そういうことか、とごちり、太一はニヤリ と笑う。 ﹁ふうん。ナメてんじゃん﹂ 加減をする気はない。まさか、この程度の扉が破れないとでも思 っているのだろうか。それならば、いっそ見せしめをしてやろうと 思う。三歩横にずれて、石の壁をこつこつと叩いて感触を確かめる。 この壁がどんな種類の石でどれほどの分厚さなのかは知らないが、 石でできている以上太一の障害とはなりえない。太一を石という道 具で封じるなら、冗談でなく山で押し潰すくらいの事が必要だろう。 ﹁せいっ!﹂ その場で左足を軸にして左回り。遠心力が乗った右足の靴底を壁 に叩き付ける。 壁が破砕し、数十にも砕かれた破片が辺りに飛び散る。かなりや かましい音がしたため、屋敷の人間が気付かないということはある まい。 実は太一は運が良かった。あの扉はノブが動かないだけではなく、 無理矢理こじ開けたり、破壊して進もうとすると設置された魔法陣 1297 が発動、爆発を起こすトラップだったのだ。さすがに無警戒の状態 では至近で爆発が起きれば何らかの怪我を負ったかもしれない。壁 をぶち破ったのは正解だったのだ。 一方、ミジック側は太一を並みの冒険者と侮り、手痛いしっぺ返 しをくらうことになった。あの部屋の壁はこの近辺で採取できる特 に硬い石を使っていたのだ。普通の冒険者では破れないだろうと高 を括っていたら、割りとあっさり破られてしまった。もちろんあれ だけ騒々しくすれば、屋敷の人間は皆知ることとなる。蹴り一発で、 監禁用の部屋から難なく抜け出した太一に何を思うだろうか。 さて、来た道はどちらだったか、としきりに首を右往左往させる 太一。耳にバタバタと複数の足音。それも、両側だ。挟撃を喰う形 になった。 ﹁来たな﹂ 太一からすれば、体のいい道案内候補が複数やってきたというこ と。 ﹁くっ⋮⋮あの部屋から抜け出したというのか!﹂ どうやら、彼にとっては脱出困難な部屋であったらしい。 ﹁よ。ミジックはどこだい?﹂ 太一は朗らかにそう問い掛ける。うっかり口を滑らせる者もいな いから、兵たちは中々練度が高そうだ。 答えが返ってくる事はないだろう。太一もそれを期待したわけで はない。 これは意思表示だ。ミジックに会わせてもらうという、太一から のメッセージ。 1298 ﹁答える必要はない! 捕らえろ!﹂ ﹁そうこなきゃな!﹂ 穏やかに済むとは毛の先ほども思っていなかった。一悶着、いや 二悶着くらいはあるだろうと考えていたため、太一は左右から襲い 掛かってくる人の波に余裕を持って対処が出来る。 ﹁⋮⋮ふっ!﹂ とはいえ、一人一人相手する理由は無ければ、付き合う義理も全 く無い。よって、魔力の放射による威圧を選択した。強化は三〇。 奏やミューラを戦闘力でやや上回る強化だ。 ﹁ぐっ!?﹂ ﹁うあ!﹂ 圧倒的強者からの威圧を受け、太一に突進していた者全員がその 足を止めさせられた。 これだけの威圧を受けたことは、彼らにとっては人生初だろう。 ﹁ミジックの居場所なんて、あんたたちからすりゃ答える理由はな いよな﹂ その威圧を保ったまま、太一は一番間近にいた男に近寄った。 ﹁まあそれは分かるんだけどさ。あいにくこっちも伊達とか酔狂で ここに来てるんじゃないわけよ﹂ 至近でプレッシャーにあてられて冷や汗を流しまくる男が持って 1299 いた剣を取り上げて、ゆっくりと握ってねじ曲げる。太一が手を離 すと、床に転がったのは真ん中が細くなり、不自然に曲がった剣だ った。 ﹁同じことを何度も言うのは嫌いなんだ。さて、ミジックはどこだ い?﹂ 男たちに残された選択肢は一つだった。 ◇◇◇◇◇ ﹁くそっ! 何故あれが流出しているのだ!﹂ ミジックは書斎の机を漁りながらそうごちる。 必要なものを鞄に、要らないものをその辺に放り出す。要は夜逃 げの準備である。肥やしに肥やした資産はある程度口座に預けてあ る。必要なときに下ろしていけば、当面の生活費には困らない。後 は持ち出せないほどに大量の高額なお宝もこの屋敷にはあるが、滅 多なことでは見付からない隠し部屋にあるため、しばらくは大丈夫 だろう。ほとぼりが冷めるまではこの街を離れ、辺境の小さな村で 息を潜める。場所はアズパイアから程近いユーラフでいいだろう。 あそこにはこの国でも有名な娼館があったと記憶している。そこな 1300 らば女にも困るまい。 粗方を鞄に詰め込んだミジックは、荷物を見詰めながら怨みを口 にする。 ﹁おのれ⋮⋮どこの馬の骨とも知れん冒険者のガキめが。覚えてお れよ!﹂ すぐさま逃げなければならないほどに状況は逼迫している。監禁 用の部屋に閉じ込めてせっかく時間を稼いだのだ。 だが、一度火がついた怒りを即座に鎮圧する術を、ミジックは持 っていなかった。脂肪を蓄えて醜くなってしまった顔を歪める。 ﹁きっと、この借りは返すからな⋮⋮!﹂ 一冒険者の分際で大商人たるミジックに楯突いたばかりか、こう して夜逃げさせられるまでに追い詰めた、顔も知らない少年たちへ の怒りは止まらない。 もちろんのことながら、それは悪手である。そんなことをしてい なければ、逃げることは出来ていたのだ。 ﹁こんな夜更けにお出掛けかい? ミジックさんよ﹂ その声は、部屋の入り口から聞こえた。思わず顔を上げると、開 け放たれた扉に寄りかかる、黒髪黒目の少年が目に飛び込んできた。 ﹁な、き、貴様どうやって⋮⋮﹂ 中肉中背のその姿。平々凡々な顔立ち。一見して彼が冒険者だと 気付くのは難しいだろう。腰に帯びた剣と、その若さに似合わない 風格さえなければ。 1301 ﹁た、確かにあの部屋に閉じ込めたはずだ!﹂ 太一を監禁したことを自白しているのだが、気が動転しているミ ジックは気付いてない。 ﹁ああ。それね。壁ぶち破って出た﹂ ﹁は⋮⋮?﹂ 呆けるミジック。普通は出入り口から出るものではないだろうか。 力を持たざるものはミジックの考える通りだろう。だが壁を破壊す るのに問題ない強さを持つ者にとってはその限りではない。持つ者 と持たざる者の常識の違いが垣間見られた。 ﹁あの壁を、ぶち破っただと?﹂ ﹁そうだけど?﹂ ﹁馬鹿な⋮⋮どれだけ硬いと思っている⋮⋮﹂ ﹁ふうん? まあ俺にとっちゃ硬かろうと軟らかかろうと石に違い はないけどな﹂ ﹁くっ、化け物め!﹂ ミジックはそう吐き捨てると、鞄をひっ掴んで背後の窓に向かっ て駆け出した。脱出経路は、当然一つではない。窓からでも逃げら れるように、平素から準備していたのだ。 これが普通の野盗などなら、問題はなかっただろう。しかし、ミ ジックはもっとも大事なことを忘れていた。単騎でミジックの書斎 に乗り込むことが出来るような人物が、逃げる獲物をなすすべなく 見送るような真似はしない。そして、この程度の距離を逃げるミジ ックより速く詰めるのは簡単である。 1302 ﹁はっはっは。どこへ行こうというのかね﹂ 殊更癪に障る口調でそう呟いた太一は、ミジックの襟首を掴んで 後ろに引き倒した。 ﹁ぐげっ!?﹂ 一〇〇キロを超える巨漢が宙を舞い、背中から床に落ちる。ミジ ックの肺から押し出された空気が、呻き声を伴って外に出た。 ﹁あぶねえあぶねえ。逃げに回るのはええわ﹂ 部屋を脱出する判断がもう少し遅かったら、まんまと逃げられて いた。ギリギリセーフでミジックを捕らえる事に成功し、太一は額 の冷や汗を手の甲で拭った。 自分の詰めの甘さを感じながらも、とりあえずは結果オーライだ ろう。 ﹁さあて。ミジックのおっさんよ。もう逃げられねえぞ﹂ ﹁ぐ⋮⋮くそっ﹂ 憎々しげに太一を見るミジック。太一は彼の足を掴んで逃げられ ないようにしながら屈んだ。 懐から数枚の羊皮紙をとりだして、声に出して読み上げる。 ﹁えーっと。こいつは粉飾決算。これは事業の受注金額の水増し、 こっちは納品の数をちょろまかしてるな。どんだけだよお前﹂ それらはどれもミジックの記憶にあった。つい最近処理したもの ばかりだからだ。サインと決済の判をしたのは他ならぬミジックな 1303 のだから。 ミジックは太一が持つそれを奪い取る。太一は素直にミジックに 取らせた。これだけの証拠を集めたという目の前の少年に、ミジッ クは戦いた。何をどうすればここまでになるのか。 ﹁それ、欲しいか?﹂ 太一が呟く。ミジックは希望を胸にそれを慌てて懐に収め始めた。 後で燃やすしかない。隠滅を計らなければ。ぐちゃぐちゃになり体 積が増したため、上手く収めることができない。ミジックは苛立ち ながら羊皮紙と格闘する。ようやくしまい終えたミジックは、これ で勝ったとばかりに笑う。 ﹁お疲れさん。それは複写だけどな。原本はこっち﹂ その笑顔が凍りついた。太一が同じものを再び取り出したのだ。 ﹁そっ! それもよこせえっ!﹂ ﹁おっと﹂ もう一度手を伸ばしたミジックを、今度は許さぬとばかりに突き 押した。背中が再度床につく。 ﹁残念。サービスは終わりだ﹂ 原本を懐に収め、代わりに取り出したのはガルレア家長男坊直筆 の宣告書だった。 ﹁ガルレア家は、当家次男イーダサと三男コセイを不正を働いた罪 により告発し、更に繋がりがある商人ミジックを汚職の罪で告発す 1304 ることを、ドーイッヒの名においてここに宣言する。ってよ﹂ ﹁ば、バカな⋮⋮そんな⋮⋮﹂ ミジックは脱力した。助けてもらおうと思っていたガルレア家に は、既に手が打たれていたのだ。ミジックに手を差し伸べる者は、 もはやいないといっていい。 これが一般的な危機で、他の商人とまともな関係を築いていたの なら、打算か厚意かはともかくとして手を差し伸べる人間は多かっ たろう。だがミジックは、自分が何をしてきたのかを分かっていた。 しかもこの状況で、誰かに助けてもらうなど不可能なことも。 彼の商人としての人生は、一瞬にして幕を下ろすことになったの だった。 ﹁ここに来る前に通報しておいたから、じきにお前とお前の幹部は 捕まることになるだろうな﹂ その通報を担ったのも陽炎である。 放心状態のミジックは目が虚ろだ。 ﹁ああ。最後に﹂ ﹁ぐおっ!?﹂ 右手でミジックの胸ぐらを掴み上げ、ぐい、と自らの顔付近に引 き寄せる太一。至近になったその顔を、太一は睨み付けた。 低い声をミジックにじわりとしみこませるように意識して声を出 す。 ﹁旅の帰り、この街にもう一度寄ることになる。その時、テイラー 夫妻からお前が大人しくしていたか話を聞く﹂ ﹁っ!?﹂ 1305 ﹁もちろん、金輪際誰かに迷惑をかけなきゃあ、俺は二度とここに は来ない。⋮⋮でもな?﹂ 太一は右手を一度突き上げる。ミジックの身体が一瞬上に持ち上 がった。忘れること無かれ、右手一本で、踏ん張りもせずに行われ た動作だ。腕一本の力でミジックの一〇〇キロにもなる身体を動か したのだ。 ﹁ひ⋮⋮はっ!﹂ ﹁次、ここに来る必要が出たとしたら⋮⋮どうなるかは俺も分かん ないからな﹂ 最後とばかりに、太一は空いている左手を天井に向ける。そこか ら強力な空気の弾丸が放たれて、天井を一瞬でぶち抜き、高空に消 えていった。風穴が空いた天井を暫し見つめて、視線をミジックに 戻す。ミジックは顔を真っ青にしてガタガタと震えていた。 低くしていた声を意識して元に戻し、太一は表情も緩める。 ﹁普通に商売してりゃあ、俺もお前に用はない。別に難しいことは 言ってないだろ?﹂ 激しく首を振って肯定するミジック。彼は捕らえられて罪を償う ことになろう。気になるのは、捕まったミジックが報復を部下に命 令するかどうかだった。その芽は摘んでおく必要があった。 ﹁よし。これから通報してくるからな。大人しくしてろよ?﹂ やっと解放されて人心地ついているミジックにそう釘を刺す。ミ ジックは慌てて頷いた。 その後言いつけをきちんと守り屋敷にいたミジックは、太一の通 1306 報により駆け付けた自警団に捕縛された。 イーダサ、コセイ、ミジックが摘発されたことにより、この街で 人知れず横行していた不正と、ミジックの度を越えた独裁商売は終 了することになる。長いこと不条理に曝されていた民衆が決着した ことを知るのは、もう少し先のことだ。 1307 いざガルゲン帝国へ ガルゲン帝国の王族がシーヤック入りして一夜が明けた。王族歓 迎にかこつけて街はお祭り騒ぎ。いや、お祭りそのものである。太 一と奏、ミューラは祭りに足を伸ばしていた。目の前でどんちゃん 騒ぎが起きているのに、それに混ざらないなどもったいないにも程 がある。 出店でくじをやったり、小石を的に当てて点数で景品がもらえる 遊びなど。日本の縁日とは違うが、こちらの娯楽もバラエティーに 富んでいる。 ﹁⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮﹂ とりあえずぐるっと回ってみようと歩いていた三人。祭り会場は 広く、全てに手を出していたら時間が足りないのだ。 時折お菓子などを買って食べ歩きながら半分ほど進んで。 太一と奏は、とある屋台の前で立ち止まり、作られている料理に 釘付けになっていた。 半円状の窪みが作られた鉄板にクリーム色の生地が流し込まれ、 程よく火が通った段階で青い吸盤がついた何かの足を放り込む。そ れをアイスピックのようなもので素早くくるくるとひっくり返して いく。焼き上がったそれは丸いかたちをしており、色の濃いソース を塗り、何かの粉を振り掛ければ完成である。香ばしい香りが二人 の鼻を掴んで離さない。 ﹁イコ焼きね﹂ 立ち止まった二人に、果物にとろりとした砂糖シロップをかけた 1308 串物を買ってきたミューラが教えてくれた。 目の前の鉄板で鼻をくすぐる匂いを漂わせるこれはイコ焼きとい うらしい。しかし、しかしだ。 ︵これはたこ焼! 異論は認めない!︶ 太一と奏の心はひとつであった。ミューラが首をかしげた。 とはいえ、イコ、とはなんなのだろうか。異世界に来てから初め て聞いた名前だ。 ﹁ああ。イコっていうのはね⋮⋮﹂ ミューラは腰の剣を鞘ごと外し、その先で土の地面にカリカリと 絵を描いた。 ﹁こんな感じね。見た目はアレだけど、食べると美味しいのよ﹂ それはタコとイカを足して二で割ったようなシルエットをしてい た。青く塗ればイコの完成だ。エリステインではここシーヤックで のみ水揚げされる。ガルゲン帝国では海沿いの村などで割りとポピ ュラーな海鮮物らしいが。 ﹁へー。ミューラ絵上手いんだな﹂ ミューラが描いたイコを見る。 シルエットがはっきりしていて、線に迷いがない。手直しなしの 一発描きで、一目見てタコとイカを混ぜたものだと分かるように描 くのは中々に難しい。デフォルメでなくリアルに描くのなら尚更だ。 ﹁そうかしら、意識したこと無かったわね﹂ 1309 謙遜でもなく、首を捻るミューラ。本当に気にしたこと無かった らしい。 ﹁ミューラの新たな一面発見を祝って、イコ焼き祭りといくか。お っちゃん、イコ焼き三つ!﹂ ﹁あいよ!﹂ ﹁じゃ、私何かお酒買ってくる!﹂ ﹁おう!﹂ ﹁朝っぱらからお酒?﹂ あきれるミューラ。 ﹁かたいこと言うなって。祭りなんだから一杯くらいありだろ?﹂ ﹁ん⋮⋮ま、それもそうね﹂ イコ焼きを受け取って少し待っていると、果実酒が入った木のカ ップを三つ抱えた奏が戻ってきた。 ﹁お待たせ!﹂ なんと、運良くメリラの果実酒が買えたという。コップになみな みと注がれたメリラ酒が芳醇な匂いを放っている。 ﹁よし。せっかくの祭りだ、昼までだけど遊び倒すぞ!﹂ ﹁うん!﹂ ﹁そうね!﹂ ﹁かんぱーい!﹂ 打ち合わされたコップの縁から果実酒の滴が舞う。祭りは始まっ 1310 たばかりだ。 ◇◇◇◇◇ テイラーとミントは、誰もいなくなった客室に入った。 太一、奏、ミューラの三人が、今日チェックアウトしたのだ。 ベッドにも三人の特徴が現れている。整えられているミューラの ベッド。布団が畳んである奏のベッド。整えようとして微妙に失敗 している太一のベッド。太一は恐らくそのままで出ようとしていた ところを奏かミューラに直すように言われたのだろう。予測でしか ないが、何となくそんな気がするのだ。 ﹁僕は水回りを掃除してくる。ミントは客室を頼むよ﹂ ﹁ええ﹂ しばらく部屋を眺めていたテイラーとミントだったが、仕事を分 担してそれぞれの作業を開始する。 本来はどちらかが客室を担当し、もう一人が一階で客を待つ。だ が今はその必要はない。すぐに客が来るようになると、そんな楽観 視はしていないからだ。そして何より、ここには一年ぶりに宿泊客 が泊まったのだ。久方ぶりの客室での仕事とあって、嬉しさもひと しおだった。 1311 ﹁凄い子達⋮⋮﹂ ミントはそう呟いた。たった一晩で、シーヤックの悪性腫瘍と言 うべきコセイとイーダサ、そしてミジックを捕らえてしまった。 ミントには冒険者のことは良くわからないが、あの晩、自分達を 護衛してくれた冒険者たちから話を聞いた。 概要を聞いた限りでは、あれだけの根回しが出来る実力を保有し た冒険者はほんの一握りだと。 自分達は本当に運が良かったのだ。 貴族と大商人に立ち向かえるほどの力を得るには、どれだけの場 数を踏めばいいのか想像もつかないと語られた。 こんな幸運は二度と無いと思える。 お膳立ては十分すぎるほどしてもらった。後は自分達が頑張る番 だ。 ミントは両手をぎゅっと握り、腕捲りをしてベッドメイクに精を 出すのだった。 ◇◇◇◇◇ ﹁クロ、お待たせ﹂ 1312 久しぶりに厩舎を訪れた太一一行は、預けていたクロと再会した。 クロは特に感情を見せることなく﹁忙しかったのか﹂と問うよう な目をしていた。相変わらず人間のような馬である。 イーダサとコセイ、そしてミジックは現在刑の確定待ちだ。どの 程度の罰を科すか、当局で話し合いが行われているらしい。現時点 で分かっているのは、どのような決が下されようと、しばらくは表 舞台に出てくることは出来ないだろうということ。 まあ、情状酌量の余地はない。彼らはそれだけのことをしたのだ から。 ブラシで鬣を梳かしている間、奏が料金の清算をしている。超過 分に餌代となかなかの金額になっているようだ。 ﹁これでしばらくはシーヤックとはお別れだな﹂ ﹁そうね。結構長くいたわね﹂ 本当はもっと短い時間で発つ予定だった。結果的には、当初の想 定を大幅に上回る時間ここにいたのだ。 ﹁ま、これも旅の醍醐味、ってことで﹂ ﹁予想外なことも楽しみの一つね﹂ テイラー夫妻を救うことに繋がり、犯罪に手を染めていた者たち に相応の報いも与えられる。悪いことではないはずだ。 ガルレア家は、奏とミューラが救出した当主が再び指揮を執るこ ととなった。当主は堅実で知られており、速度はさほど速くはない ものの、堅実な手を一つ一つ指していっており、その手が効果を発 揮するであろう期待値が市場や人々の活気となって表れていた。 またミジックが逮捕されたため、一度は現役を退いたガルハドが ミジックの代わりに商売を続けることとなった。横柄なことばかり をしていたミジックと違い、ガルハドは至極まともな商売をしてい 1313 て、評判は上々とのことだ。 アフターサービスとして情報屋の遣いから聞いた話に、太一たち は一先ず安堵のため息をつくことができたのだった。 もちろんそれらはまだ人々の暮らしを好転させるように、実感が できるレベルではない。あの夜からまだ幾日も経っていないのだ。 効果が目に見える形で現れるのは、もうしばらく時間が必要だろう。 ミジックが逮捕されたという情報が行き渡るにつれて、テイラー 夫妻への風当たりは徐々に弱まっていった。それについては最大限 の感謝をされた。当事者がどう思っているかは別にして、はたから 見れば他人の問題に首を突っ込んだ形であるためどうにも居心地は 悪かった。自分達の正義感に従っただけであり、作り出した結果に ついては満足はしているものの、それとこれとはまた別だった。 テイラーとミントからの度重なる感謝の意に対し、太一は﹁帰 路でもまた宿泊する﹂という旨を告げた。折角救ったのだから、宿 の経営が元通りになっているのが一番の恩返しである、と付け加え て。 テイラーもミントもかなり張り切っていたため、問題はないと思 う。 ﹁太一。ミューラ。精算終わったよ﹂ 奏が戻ってきた。もう出発することが可能だ。太一は早速クロを 杭に繋いでいたロープを外し、手綱を握って厩舎の外に出た。 表に出ると既に馬車が用意されていた。クロを馬車に繋ぎ、太一 が御者台に座る。奏とミューラが馬車に乗り込んだのを確認し、視 線をクロに向ける。クロは顔を半分こちらに向けながら、片目で太 一を見ていた。 ﹁よし。行くか﹂ 1314 人語を理解する賢馬クロに対して、鞭は必要ない。ただ一言そう 告げるだけでいい。 軽快な蹄の音を響かせて、クロが歩き始める。シーヤックの街を 抜け、一路ガルゲン帝国へ。当初の目的は国外へ行くこと。むしろ ここからが本番である。 馬車は急がず進んでいく。ずっと退屈させていたシルフィを具現 化して自由にさせ、太一は地平線の向こうを眺めていた。 ガルゲン帝国へは、街道を道なりに進んで馬車で三日。途中街道 沿いにある宿場町で一泊し、クロ用の干し肉を大量に買い込んだ。 馬の癖に肉食であるクロは、こう見えてグルメである。基本的に狩 りをする種のため生肉でもいいのだが、一度なんとなく与えた香辛 料が効いた干し肉を大層気に入ったようだ。それでなければいやだ、 というような我が儘を言うことはないが、だからこそ干し肉くらい 食わせてやろうと太一が買い込んだのだ。ペットを甘やかす飼い主 はこうして生まれるのだろうか。どうでもいいが、クロには食べさ せてはいけないものはない。というよりは、与えられれば肉でなく とも何でも食べる。これは肉食ではなく雑食と改めるべきではなか ろうか。まあ、肉でないものを与えたときのクロは若干不服そうで はあるのだが。 のんびりとした移動も旅の醍醐味とばかりにゆっくり進む。 馬車を牽くクロに対しては、並の馬に対する気遣いは不要のため、 速度は同じでも普通の馬車と比べて進行速度は桁違いに速い。三日 かかる道のりを二日で走破し、国境の関所に到着した。 大きな砦があり、砦の左右からずっと伸びているのは、王都を彷 彿とさせる高い壁。地球でいうなら万里の長城か。砦には向こう側 へ繋がる通路がある。幅だけでも凡そ一〇メートルはあるだろう。 そこの右半分には短くない列ができている。エリステインからガル ゲン帝国へ向かう人たちが出国手続きをしている。片側通行のよう で、左側からは通路を通ってきた人とすれ違う。 砦の前では、エリステインの騎士と、見慣れぬ鎧に身を包んだ騎 1315 士が何やら話をしている光景が見てとれる。 ﹁あの甲冑はガルゲン帝国軍騎士のものね。関所は隣接している国 同士が共同で管理することになってるのよ﹂ ミューラがそう解説してくれた。 国境を渡る者に対しては、双方の国が責任を持つということ。仮 に入国した他国の者が何か事件を起こしても、それは出国、入国を 許した両国の責任。そのため関所には騎士の中でもかなり位が高い 者が常駐しており、さらに政治部門からも地域管理官なる役職の者 が両国から派遣されているとのことだ。これは対ガルゲンだけでは なく、シカトリス皇国とも同じ管理手法をとっているという。後腐 れがなくていい制度だと太一と奏は思った。 ﹁さて、並ぶか﹂ 列の進みはゆったりとしている。国境を越えるには少し時間がか かるだろう。そう予測した通り、太一たちに順番が回ってくるまで 一時間弱を要した。太一たちが待っている間もずいぶんと後続が並 んでいる。このことからも、国交が盛んであることが理解できる。 ﹁冒険者か?﹂ ﹁そうですよ﹂ 開口一番問うてきたガルゲン帝国の中年騎士に、太一はそう返事 をした。 腰に携えた剣に防具などの装備。戦闘が不得手な一般人でも遠出 の際にはする格好ではあるが、佇まいには差が出る。どうやらその 辺を騎士は見抜いたようだ。彼らは幾万にも及ぶ様々な人間を見る 任務についている。自然とその辺の眼力は磨かれるようだった。 1316 ﹁国境を越える目的は?﹂ ﹁そうだ、京都行こう、的な?﹂ ﹁キョウト?﹂ ﹁あ、すみません。彼たまに変なことを口走る癖があるんです﹂ ﹁あ、ああ⋮⋮﹂ 横から奏がずいっと出てきて会話をインターセプトする。あまり にも自然な奏に騎士は一瞬狼狽したが、すぐに建て直していた。 ﹁ひでえ!?﹂ ﹁あんたは黙ってなさい﹂ ﹁⋮⋮はい﹂ 続いてミューラに低い声でそう言われ、太一はしゅんと小さくな った。 ﹁国境を越える目的ですが、運良く立派な馬を入手できまして。冒 険者ランクも上がってきたので、違う土地で腕試ししてみようかと﹂ すらすらと答える奏。用意していたかのようだが、実は完全なア ドリブ。 とっさの判断にも関わらず淀みなく答える奏は堂に入っており、 見事と言うほかない。嘘を言っているわけではないとはいえ、一度 もつっかえることなく答えられた奏は、本番に強いということだろ う。 ﹁ほう。腕試しか。見知らぬ土地というのはまたよい経験になるだ ろう﹂ ﹁ええ。そう思います﹂ 1317 冒険者が強くなることは、民草にとっては良いことである。とが める理由は微塵もない。が。 ﹁しかし⋮⋮大丈夫なのか? その、彼は⋮⋮﹂ 何となく言いにくそうな騎士。自分の仲間を﹁変な人﹂扱いした 奏には、彼が少しまごつく理由も分かる。 ﹁ご心配には及びません。ああ見えて、彼は私たちの中で一番強い んです﹂ ﹁い、一番なのか?﹂ ﹁はい。一番です﹂ 騎士の目がミューラに向けられる。ミューラは一瞬もためらうこ となく頷いて肯定した。仲間二人が肯定した。この世界でも多数派 の効力は強い。声には出していないが太一もそれに反論する気はな い。事実上の満場一致だ。 ﹁そ、そうか。まあ仲間が言うのならそうなのだろうな﹂ 人のいい騎士はそれで納得したようだった。 ﹁では身分証明をしてくれ﹂ ﹁ほい﹂ ﹁これを﹂ ﹁はい﹂ 予め必要だと分かっていたので、三人はギルドカードに魔力を通 して提示する。その時点で、太一たちの身分は冒険者ギルドが保証 1318 しているとの証明となった。 ﹁⋮⋮君たち、Bランクなのか﹂ ﹁そうですが﹂ 以前も述べたが、冒険者ギルドが冒険者ランクに対して何らかの 意図を混ぜることはない。それは世界共通の認識であり、つまり事 実であるということ。 後方で順番待ちしている人々の一部が微かにざわつく。それは騎 士たちも同様だ。Bランク冒険者は中々出会うのが難しい。その上 三人の見た目は相当若い。太一はその反応も見慣れたもののため、 全く意に介していないが。 ﹁その若さで⋮⋮はは、自信をなくしそうだ﹂ そう応じた騎士は息子たちを見る父親の目をしていた。故郷にい る子供に姿を重ねでもしたのだろう。 ﹁よろしい。エリステインからの出国、ガルゲン帝国への入国を許 可する。実りある旅になることを祈っているよ﹂ ﹁ありがとうございます﹂ 太一たちは口々にそう答え、クロを進ませた。 国境越えは事前に聞いていた通り、実にあっさりとしていた。会 話で多少時間を使ったのみで、手続きそのものはギルドカードを見 せただけだ。このカードを所持するのにも資格が必要で、維持にも 条件が課せられている理由が良く分かった。 こんなに容易く国を跨げるのならば、悪用の仕方はいくらでもあ るだろう。 1319 ﹁はー、やっぱこのギルドカードってすげえんだな﹂ まるで日本のパスポートのような信用度だ。無論ギルドカードの 場合は維持にノルマが課せられるのだが。 ﹁そりゃそうよ。もちろん、ランクも上がれば上がるほど信用され るわよ﹂ ﹁はー。Aランク断ったのはもったいなかったか﹂ Bランクであれなのだ。Aランクになったときの影響度は計り知 れない。断るというのは三人で決めたことのため言うことはないが、 もったいなかったと思うのは本心である。とはいえ。 ﹁今更ね﹂ ﹁今更だね﹂ ﹁今更だなあ﹂ 気の抜けた三人の輪唱が、それがどういうことなのかを表現して いた。 砦の通路を潜ったところで売っているガルゲン帝国中部地方と南 部地方の地図を購入し、馬車を南東に向けて続く街道を進ませる。 ガルゲン帝国は、世界でもっとも広い国土を持つ。西端から東端 までは最大で一〇〇〇キロ。北端から南端までは三〇〇〇キロ。国 土の広さに比例して、人口もエリステインとは比べ物にならぬほど に多い。 北部はエリステインとほぼ同じで四季がある。一方南下すればす るほど暖かくなり、今回の目的地である帝都ガルゲニアは年中温暖 である。寒さが嫌いなミューラがそこを強く推したのもさもありな ん。 しかし気候が変わるほどの距離はそう容易く踏破できるものでは 1320 ない。幾らクロがいるとはいえ、到着までは最短でも三週間ほどか かるだろう。 それをフォローするように、街道付近には多数の街がある。一番 規模が小さい街でもアズパイア以上であり、途中に二ヶ所、シーヤ ックに匹敵する都市があることからも、ガルゲン帝国の広大さが窺 える。 帝都を目指す際も、その隊の事情に合わせて適宜寄る街を選べる ため、旅のしやすさでは三大大国で一番と確信する商人や冒険者も 少なくない。 今回太一たちは無理な行軍をするつもりは全くないため、帝都ま では一月半ほど掛ける予定だ。進む速度を落とすわけではなく、適 宜街で休息をしっかりと取る故の計画だ。 元々急ぐ旅路ではない。慌てる必要もないのだ。 国境を越えてから一夜が明けている。まだ最初の街には辿り着い ていないため、ガルゲン帝国記念すべき最初の一夜は野宿となった。 当然だが、襲ってくる魔物はいない。そもそもクロが粗方の魔物を 近寄らせないのだ。 最初はBランク冒険者の庇護を受けようと後ろをついてくる商隊 が三つほどあった。しかし今はその姿はない。 こちらに一言﹁護衛に参加してくれ﹂と依頼してくるのなら断る 理由はなかったのだが、ただ付かず離れずの距離をついてくるだけ の輩にそこまで便宜を図る気にはなれない。彼らとて当然ながら護 衛を雇っている上、この街道はもっとも魔物が弱い地域を選んで作 られたもの。既存の護衛で十分なのだ。太一はもちろん、奏もミュ ーラも聖人ではない。図々しい相手を無条件で快く引き受ける気に はなれなかった。どうせなら一緒に行くか、とも持ち掛けたのだが、 彼等は﹁向かう方向が同じなだけだ﹂と言うだけだった。共に行く のなら護衛役になるのは自然であり、そうなると商人たちから護衛 費用をもらうことになる。Bランク冒険者を雇えば安くはない。そ の費用を払わず、かつBランク冒険者に間接的に守ってもらおうと 1321 考えていると予測できる。勘繰りすぎかもしれない、という思いも よぎらないでもなかったが、思い直した。商人という人種は得てし て、柔らかい表情と口調と物腰からは想像もできないほどに強かな のだから。 では、なぜ引き離せたのかといえば、単純に馬車を牽く馬の差だ。 定期的な休憩を必要とする馬に対し、黒曜馬は太一たちの馬車を牽 いた状態で、四割程度の力でなら三日三晩不眠不休で走り続けられ るほどの持久力と頑強さをもっている。黒曜馬の四割の速さと言え ば、制限が無い状態の馬の全力疾走に匹敵する。太一たちに追い付 ける道理はなかった。 商隊が次々と休憩を取るなか、休まず悠然と進んでいく太一たち の馬車を呆然と見送るしか無かったことだろう。 ﹁うーん。あんまり意固地になることもなかったか⋮⋮?﹂ 街道を進みながら、太一は呟いた。今思えば太一たちがついてい ることで彼らの危険を減らすことも出来たのではなかろうか。そん な思いが首をもたげたのだ。 それに対し、馬車から顔を覗かせていたミューラが首を左右に振 る。 ﹁気になるのはもっともだけど⋮⋮対価を貰わずに引き受けるのは 余りお薦めしないわ﹂ その一言で、太一は奏と一緒にウェンチア島で受けた忠告を思い 出した。 ﹃今回はあたしも二人と同じ思いだから賛成するわ。でもね、冒険 者としては、本当はきちんと正規の報酬を受け取るべきなのよ。B ランク冒険者を雇うときに、きちんと見合った対価を支払っている 1322 他の依頼人のためにも﹄ ミューラの言葉は二人にとって耳が痛かった。忠告した彼女自身 も﹃まだまだ感情制御が甘いわね⋮⋮﹄と己を戒めていたのだが。 やりたいようにやる。自分に素直になる。それそのものは決して 間違ってはいない。しかしそれは、ルールを無視してもいい、とい うわけでは当然無い。 冒険者という権利を享受している以上は、基本的にそのルールに 則るべきである。対価を受け取るのも、冒険者に課せられた権利で あると同時に義務である。Bランクにいる太一たちがタダ働きをし てしまえば、他の冒険者にも示しがつかないのだ。 ﹁あたしたちはBランクだけれど、見た目が、ううん、中身も子供 なのは事実よね?﹂ ミューラの言葉に太一は頷いた。 ﹁簡単に言えば舐められたのよ。言いくるめてしまえばいいと、そ う思われたのかもしれないわね﹂ 腹は立たなかった。そういうことか、と納得出来たのだ。この世 界は弱肉強食である。相手が弱いからといって虐げてもいいわけで はないが、強い方がより旨味のある部分を食べれるのは事実だ。弱 い者は上から順繰りに食べられていくのを指をくわえて眺めた後、 残った食べ滓を奪い合いながらしゃぶるしかないのだ。 戦闘力の弱さ。金銭的な弱さ。地位的な弱さ。頭の弱さ。一口に 弱さといっても様々である。 それが嫌ならば、強くなるしかない。一歩でも上に上がるしかな い。或いは、庇護を与えてもらえるような自分になるしかない。 それはアズパイアでも知られたことであり、森に出て狩りができ 1323 る猟師は、必然的に獲物のいい部分を得ることが出来るのだ。 勘違いしてはいけないのだが、弱者は何もかも我慢しなければい けないわけではないし、何も食べれない訳ではない。余裕がある強 者が弱者に分け与えることもあるし、弱者が一歩上に上がろうと自 らを高める場合もあるのだ。 一方で弱者を虐げる強者もいるし、弱者ということを改善する気 もなく、そこからさらに転げ落ちる者も確かにいるのだが。 そう考えれば、太一たちがどれ程の強者かは口にするのも馬鹿馬 鹿しいくらいだ。 ﹁⋮⋮そうだな。払える金があるのに出し渋るような奴まで、助け てやる理由はないよな﹂ ﹁そういうことね﹂ テイラー夫妻の場合、彼らは苦しみながらもなんとか耐えていた。 太一たちを正規報酬で雇えば、彼らには殆ど残らなかった可能性す らある。あれは特別だ。強者が弱者を虐げていたので、それを救っ たのだ。強者だから何でもしていいわけではなく、むしろ不当な行 為には相応の報いが発生する。シーヤックの事件はその典型だった のだ。 ﹁話の邪魔して悪いんだけど﹂ と言いながら、奏がひょこっと顔を出す。場所は太一の横、ミュ ーラの反対側だ。 ﹁ん? どったの?﹂ その意味に気付かない太一に、奏とミューラが揃ってため息をつ いた。 1324 ﹁⋮⋮少し離れたところに魔物がいる。どうせ暇だし、狩れるもの は狩っていこうと思うんだけど﹂ どうやら奏が魔物を見つけたらしい。奏が駆使するソナー魔術は、 最近その有効範囲が広がってきている。当人曰く﹁コツを掴んでき た﹂とのことだ。 頼もしくなった奏の索敵範囲から逃れるにはかなり離れなければ ならない。捕捉された魔物は運が悪かったのだ。 ﹁よし、それじゃあガルゲン帝国での初戦闘といくか﹂ 太一はぐるりと右肩を回す。 その後、自分達の動きを確かめるようにじっくりと戦闘をした三 人は、息をするように勝利をおさめ、最初の街へ向けて進んでいく のだった。 1325 精霊魔術師と古城探索 一 ガルゲン帝国へ入って四週間。 太一一行の旅は順調そのもの。途中で適度に魔物を狩って、街に ついたら冒険者ギルドに買い取ってもらう。そうして路銀の足しに しながらここまでやってきた。もちろん、立ち寄った街の冒険者ギ ルドで依頼を受けたりもしたため、それぞれ街では数日を過ごして いる。 ﹁これでいくつ目の街だっけ?﹂ ﹁四つ目ね﹂ ミューラは指折り数えてそう答える。 人口八万人の街、ファムテーム。 エリステイン魔法王国から帝都ガルゲニアまで、順調に進めば馬 車でおよそ一ヶ月強の旅路。道中そろそろ休憩を、と思う位置に存 在するファムテームは、旅人の実に八割が立ち寄るオアシスだ。 街の入り口に立っている衛兵にギルドカードを見せ、二、三言葉 を交わして街に入った。 ガルゲン帝国の建造物はどれも石を切り出して組み上げたものが 多く、全体のカラーリングは灰色である。ファムテームも例に漏れ ず、そのような建物が多かった。街の大きさはアズパイアよりも三 中央付近は馬車が行き 回りほど大きい。こちらの方が人口が多いのだから当然だろう。 街一番の大通りは石畳が敷かれている。 来していた。道行く馬車は皆のんびりと進んでいる。火急の事態を 除き、馬車での高速移動は禁じられているのだ。人通りが多い故の 安全措置だ。 街に入る際にそれは聞いていたため、太一の馬車も周りの流れに 合わせて進ませている。しばらく進んだところに馬車ごと預けられ 1326 る宿屋があるという。この街に滞在する間はそこに泊まるつもりだ。 目的の宿はファムテームで一、二を争う大きさのホテル。どうや ら追求したのは広さのみで、施設やお値段はそれなりらしい。そこ にこだわりは無いので、寝床があってきちんとシャワーなりがある のなら問題はない。 先にチェックインを済ませて、当面の宿泊費を支払う。厩舎サー ビスが追加されているので料金は五割増し。馬の維持は結構な金が 必要だ。クロは肉食なので、食事を自前で用意する交渉をして値引 きをしてもらうことも忘れない。 まだ日が落ちる前。荷物をそれぞれの部屋に置いて、必要なもの を買い出しに向かう。太一はクロ用の肉。奏は減ってきた保存食の 買い足し。ミューラは冒険用に必要な道具⋮⋮主にスコップや万能 ダガーに薬等々。何故薬が必要なのかといえば、この世界では回復 魔術は攻撃魔術ほど普及していないことが挙げられる。あの魔術大 全が服を着て歩いているようなレミーアをして﹁難しい﹂と言わし めるのだからさもありなん。 準備なしで旅をして、三人のうち誰かが怪我をしてしまったと仮 定しよう。もし破傷風などになってしまえば、助けることはできな い。奏も練習をしているが、まだ治癒魔術を使えないのだ。命の危 険は太一であっても例外ではない。では、怪我をしたら諦めるしか ないのかといえば、そういうわけではない。かつてミューラがオー ガ相手に重傷を負ったが、その後快復している。その理由こそ、今 ミューラの前に並んでいる小瓶に詰められた薬の数々だ。 飲めば一口にも満たない量の小瓶と侮ることなかれ。これらこそ が、この世界における救済措置の手段、魔法薬。 この世界には、魔力を宿した植物が数多く生えている。それらを 適切な手法で精製すると、魔法薬を作ることが出来るのだ。それら は森に生えている薬草や毒消し草などとは一線を画す効果を発揮す る。 魔法薬にはその原料の効果や精製方法によってランクがある。例 1327 えば、前述のミューラの大ケガも、大回復薬﹃宝樹の雫﹄ならたち どころに治ってしまう。因みにお値段一億七〇〇〇万ゴールド。ど んな大ケガも例外ではない正に魔法薬。その効果を考えれば、一億 七〇〇〇万は安いとさえ言われている。 この世界最高の薬は神薬﹃エリクシール﹄である。四肢が切断さ れていようとその場にあればくっつけて治してしまうし、死ぬ間際 の病だろうとエリクシールの敵ではない。命さえあれば、どんな重 篤な状態からでも快復方向に向かわせてしまう。使用後即全快では なく徐々に治っていくというものではあるが、死の際から治ってい くことが出来るのならば、時間が掛かるくらいは些細だろう。何せ エリクシールを使用した=被使用者の快復は絶対なのだ。入手方法、 精製方法は不明。値段はつけられず、時価である。 まあ、そんなレア物が普通の街であるファムテームにあるはずも なく。 ミューラの前にはBランク冒険者であれば当然のごとく持ってい るべき魔法薬が並んでいる。 キズ用の魔法薬としてポピュラーな﹃ポーション﹄や、解毒薬と して使われる﹃クレセント﹄を始め、他にも麻痺用のものと病気用 のもの四種類。効能が初級と中級の二クラス。計八種だ。暫し黙考。 あれこれ考えたが、結局初級四種と中級四種が一人一個ずつになる ように選んで店員に包んでもらった。 勘定を終えて待ち合わせ場所に向かう。どうやらミューラの買い 物が最後だったようだ。 三人は合流して宿に戻る。街についてから早々にバタバタして、 やっと腰を落ち着けられる。 そう、思っていたのだが。 ﹁どうしてこうなった﹂ 三人はファムテーム外縁の草原に立っている。空は蒼から橙に代 1328 わる時の独特な白み方をしていた。 太一は、一人の青年と相対していた。 ﹁おら! 何気ィ抜けたツラしてやがんだァ!﹂ 明らかに素行が悪そうなチンピラの口調で両手用のロングソード を片手で太一に突き付ける青年。背はかなり高く一九〇はあるだろ う。金色の髪は逆立っている。どこぞの戦闘民族を思わせる。 事の始まりは、待ち合わせ場所から宿へ戻る道中でだ。 歩いておおよそ一〇分。広場から宿までの距離だ。 必要なものは買い込んであり、適当に露店を物色しながらのんび り歩いていくことにした。その出来事は、歩き始めて五分ほどした ときに起きた。 けたたましい馬の鳴き声と、女性のものと思われる甲高い悲鳴が 響き渡った。 何事かとそちらを見れば、馬の手綱を思いっきり引いている冒険 者と、その馬の足元で倒れている老婆の姿があった。 その馬に老婆がぶつかりそうになったのだろう。あるいはその逆 か。 まあ、そのような交通事故はエリステインでも稀に発生している ことだったし、今回は大きな事故にならなかったので運が良かった と三人が考えたところで、しかし事態はそれでは終わらなかった。 ﹁おいババア! てめえざけてんじゃねェぞ!﹂ あろうことか地面に伏している老婆に、近くで顛末を見ていた青 年はそんな暴言を叩き付けたのだ。事故を起こしかけた冒険者も置 き去りにされて口をあんぐり開けている。 何故第三者が怒鳴るのかと考える間もなく、青年の尋常ではない 剣幕に思わず目がいく。これは穏やかではない。周囲の人は何故止 1329 めないのか。むしろ﹁ああ、また始まったよ﹂と呟きが何処かから 聞こえてくる始末。 つまりあの青年はいつもあれということだ。 老婆は足でも悪いのか、すぐに立ち上がることが出来ない。 ﹁すみません、すみません﹂ と、老婆の謝る声が聞こえてくる。 青年が何かやらかす前に止めなければ。そう思った太一たちは気 付かなかった。周囲の人々が、何も心配していないことに。 ﹁ババア! もっと注意しやがれコラ! ババアになんかあったら 孫が悲しむだろうがよ! ああ!?﹂ ﹁は⋮⋮?﹂ ﹁⋮⋮?﹂ ﹁え⋮⋮っと?﹂ 太一たちは呆気に取られてそんな声を漏らす。しかしそれは青年 の大声に簡単に塗りつぶされた。 なおも謝り続ける老婆に対し。 ﹁どっか怪我とかしてねえのかよ!? もうトシなんだから馬車道 の近くあるってんじゃねえよ! ぶつかったらどうすんだよ!﹂ と、明らかな怒鳴り声で老婆を気遣う。口調と行動が丸っきり一 致していない。 ﹁立てんのか!? 立てねえんなら立てねえって言いやがれ!﹂ と、どこまでも老婆の無事を気にする青年。 1330 やがて、青年の手を借りて老婆は立ち上がった。頭を下げる老婆 に相変わらず乱暴な口調で注意を続ける青年。相変わらず言葉は荒 いものの、言っている内容は老婆を気遣うものばかりだ。 ﹁何なの⋮⋮?﹂ 呟いた太一の言葉は雲散霧消する。 町民の誰かが言った﹁また始まったよ﹂という言葉は、あのよう な光景が過去にも何度かあったことを示していたのだ。あの青年が、 その口とは裏腹に抵抗できない者に手を上げるどころかむしろ助け た。見た目と言っていることだけでは人は判断できないという一例 であった。少々極端すぎる事例というのは否めない。 杖をつきながら立ち去る老婆の背を見送って相変わらずぶつくさ 呟いていた青年は、冒険者にも﹁気を付けやがれ!﹂とがなってい る。 場がようやく落ち着いて来たとき、青年はふと太一たちの方を見 た。 ﹁ん?﹂ こちらを短い時間眺めた後、何かニヤリとよろしくない笑みを浮 かべた青年は、大股でこちらに歩いてくる。 ﹁おい、お前らデキそうだな。ちょっと相手しろや!﹂ 吹っ掛けられたのは喧嘩だった。それも戦うことそのものを目的 としたものだ。 ﹁え、いや、俺たちは⋮⋮﹂ 1331 宿に帰って休みたい。そう言おうとしたのだが、青年はむんづと 太一の腕を掴んでいた。 ﹁男がぐだぐだ事言ってんな! オラ行くぞ!﹂ ﹁ええー⋮⋮﹂ づるづると太一が引き摺られていく。有無を言わさぬ強引さであ る。 奏とミューラは顔を見合わせ、肩を竦めて二人を追った。あれで はどの道相手をしなければ先に進まないだろう。 街の外に向かう四人を、町民たちは楽しそうに見送った。 と、そんなことがあって、四人は今街の外にいるのだった。 ﹁オレはケイオス! Bランク冒険者だ!﹂ 両手剣を片手で構える青年はケイオスと名乗った。Bランク、肩 書き上は太一たちと同じである。 ああ見えて冒険者稼業に邁進しているらしい。本当に見た目によ らない。 ﹁おい、テメエの名前は!﹂ ﹁ああ、うん。俺は太一。同じくBランクだ﹂ にべもないことを考えていた太一は気を取り直してそう応じた。 ケイオスは愉快そうにニヤリと笑う。 ﹁はっ! じゃあやっぱりテメエとサシでいいな!﹂ やっぱり、と彼は言った。その言葉から、彼が太一たちを色眼鏡 で見ていなかった事が分かる。 1332 ﹁俺でいいのか? 後ろの二人もBランクだぞ?﹂ 何の気なしに言った太一の言葉にケイオスは鼻息を荒くする。 ﹁女は殴りにくいだろが﹂ ﹁⋮⋮へえ﹂ ということらしい。 ﹁フェミニストとはね﹂ ﹁ふぇ⋮⋮あんだって?﹂ ﹁女を大切にする男って意味だよ﹂ 実際はまた少々違うのだが、今大切なのはそこではないため詳し い説明は省いた太一。 しゃらりと腰の剣を抜き払い、刃を返して切っ先をケイオスに向 けた。 ﹁しゃーない。相手するよ﹂ ﹁そう来なきゃな!﹂ 直後に訪れたのは、沈黙。 時おり吹くそよ風が草の葉を擦る音以外は、誰も音を立てない。 遠くから野性動物の遠吠えが微かに聞こえた。 ケイオスは、太一が刃を返した事に対して何も言っては来なかっ た。その辺りはあまり気にしないらしい。 ﹁⋮⋮っと。喧嘩売ったのはオレだったな。よし、初手はこっちか ら行くぜ!﹂ 1333 ﹁いつでもどうぞー﹂ ケイオスは剣を担いだ。 ﹁おう。遠慮なく﹂ そのまま突進してくるかと太一が考えたところで、ケイオスは右 足を振り上げた。 ﹁行かせてもらうぜ!﹂ どん、とケイオスが右足で強く地面を踏みつける。 ﹁っ!?﹂ 同時に、太一の足元の地面が液状化した。突然泥沼に変わった地 面に太一が足を取られる。これは確か、水属性と土属性を合わせた ⋮⋮。 ﹁おらあ! ガンガン行くぞ!﹂ 担ぎ上げた剣で、目の前の空間を十字に切る。同時に現れる複数 の水球と石の槍。無詠唱の魔術であることは分かっていたが、魔術 に詳しくない者は剣が発動キーだと勘違いしてしまうかもしれない。 相手を剣での魔術発動に警戒させたところで、普通に無詠唱で魔術 を使えばいい。相手の意表を突けることは間違いないだろう。まあ、 そうでなくても無詠唱魔術はそれだけで厄介なのだが。 水球が炸裂し、舞う水しぶきが霧となって太一を包む。そこへ追 撃の石の槍が次々と突っ込んでいく。あの両手剣での近接攻撃と思 わせたところで、足を取っての魔術波状攻撃。単純だが、それ故に 1334 効果的な策である。 ﹁先制攻撃はクリティカルヒットだな!﹂ わっはっはと腰に手を当てて豪快に笑うケイオス。だが、彼はそ の笑いを引っ込めて目を細めた。太一を包み込んでいた霧が、上空 に巻き上がる暴風と共に吹き飛んだからだ。 巻き上がる砂塵の真ん中にいるのは、剣を天空に突き上げた太一 の姿。やがて風が収まると、太一は剣を下げて不敵に笑う。 ﹁あーびっくりした。まあ、当然だけど俺も魔術は使えるわけよ﹂ ﹁おう。そりゃあそうだろうな。魔術使えねえBランクなんざ聞い たこともねえぜ﹂ そう言って、ケイオスは太一をまじまじと見た。 ﹁⋮⋮テメエ、あれを凌ぎやがったのか﹂ ﹁ああ、何とかな﹂ 正直あの攻撃は﹁何とか﹂というレベルではない。太一でなけれ ば、見事に防いだと称賛されてもいいくらいだ。 太一は首をコキコキと鳴らし、おもむろに剣を払った。ひゅん、 と鳴る風切り音。 ﹁さて、面白くなってきた。次は俺から行くぜ﹂ ﹁来いよ!﹂ 太一はその場でたん、と軽く跳んだ。そんな数センチの跳躍に何 の意味があるのか。のんきな思考時間は、ケイオスには与えられて いなかった。 1335 太一の姿がかき消える。同時に背中にうすら寒いものを覚えたケ イオスは、直感に全てを委ねて剣を真上に地面と水平に、剣の腹を 左手で支えつつ掲げる。ケイオスの身体の軸を真上から貫くような 強烈な衝撃が彼を襲った。弾かれた空気が衝撃となって辺りに撒き 散らされる。 いつの間にかケイオスの真上に現れた太一が、落下速度に膂力を 加えて剣を振り下ろしたのだ。空中にいながら移動するなんてそん な真似どうすれば、と思う暇もあらばこそ。太一の姿と重みが消え、 太一がケイオスの眼前に浮いた状態で右足を振り抜かんとしていた。 ﹁うおおおっ!﹂ ﹁はっ!﹂ ぶつけにいく上腕と、振りだされる右足。競り合いは太一の勝ち だ。想定を遥かに上回る速さと、細身の見た目によらぬパワー。ケ イオスは地面を数メートル後退させられた。 ﹁はっ! やるじゃあねえか!﹂ ﹁今のを防がれたのが驚きだ!﹂ 離れた間合いからお互いに近付き、剣で切り結び合う。太一の剣 は片手での使用を念頭に置いて作られた。一方ケイオスの剣は両手 で使うこと前提だ。それでいて、小回りの利く片手剣の使い手であ る太一にケイオスは見事についていっている。彼は本当にBランク なのだろうか。見る限りではよく知るBランク冒険者であるバラダ ーたちを明らかに上回っているように見える。 ﹁あいつ、強いわね﹂ ミューラの言葉は、本心からの称賛だった。 1336 ﹁ミューラ。彼に勝てる?﹂ 奏の問いに、ミューラは顎に手を当てて考える。 ﹁負けるとは思わないわ。でも、そんな簡単には勝たせてはくれな いとも思うわね﹂ ﹁うん、同感﹂ 相対するのが太一で良かったと、二人は割と本気で思っていた。 もしも戦うのが自分達だったら、少なくてもそうそう手を抜ける相 手ではなかったからだ。油断なく戦えば勝てると思う。しかしもし も不用意に隙を見せて、そこを突かれてしまえば、負ける可能性も 十分出てくる。 スソラやミゲール程の強敵ではない。奏もミューラも、別に戦闘 そのものに今更忌避を抱くわけでもない。それでも、必要でないの なら戦いたいと思うような相手でもなかった。 ぎゃり、と剣を擦り合わせた二人。太一が鍔迫り合いに持ち込ん だのだ。最近ますます剣の腕が上がってきた太一である。 ﹁おうおう⋮⋮! やるじゃあねえか⋮⋮!﹂ ﹁そりゃあ⋮⋮俺の台詞だ⋮⋮!﹂ ぎちぎちと悲鳴を上げる互いの剣。太一の力にケイオスは良くつ いていっている。 ﹁どらあ!!﹂ ﹁うおっ!?﹂ 気合い一閃。ケイオスが太一を押し返した。太一が思わず距離を 1337 取る。 二人の戦いは見る限りでは互角。太一はともかくとして、ケイオ スはこれでもまだ、余力を残している感さえある。彼は本当に強い。 ﹁やるなおい⋮⋮本当につええよオマエ﹂ ﹁そりゃあどうも﹂ ﹁わるかったなあ﹂ ﹁んん?﹂ ケイオスは後頭部をかりかりと掻いている。 ﹁ここまでとはオレも思ってなかったからよ。手ェ抜いてたんだよ﹂ ﹁へえ?﹂ 何となくだが、太一もそんな気がしていた。もちろん、目の前の ケイオスが本気であることは疑いようもない。それは数値とかそう いうものではなく、戦闘において肌で感じる、いわば勘のようなも のである。 その勘が告げていた。ケイオスは、本気ではあるが、全力ではな い、と。 どうやら太一の勘は当たっていて、そしてこれから、ケイオスは その全力とやらを見せるようだ。 ﹁オレから喧嘩吹っ掛けといてよ、全力出さねえなんて失礼にも程 があったわ﹂ ﹁別に気にすんな﹂ ﹁オレがするっつーの。さて、じゃあ、行くぜ﹂ ふと、ケイオスが纏う魔力の質が変わる。いや、魔力そのものは この戦闘中飽きるほど感じたケイオスのものに間違いない。言葉で 1338 説明するのは難しい。だが確かに、何かが変わった。 ﹁オマエの強さを信じてコイツを使う。死なねえようにな?﹂ ﹁っちょ! おいっ!﹂ ぶわ、と。 言葉では説明もつかぬほど急激にケイオスの魔力が膨れ上がる。 信じられない強大さ。圧倒的な魔力。それは常日頃、太一が魔力 強化によって周囲に与えている威圧と似たようなものだが、自分が するのと他人にされるのとでは当然ながら違うのだ。 太一は本当に驚いていた。 今しがたまでは二〇の強化でほぼ互角だったにも関わらず、現在 のケイオスは下手をすれば三〇に届くのではなかろうか。 ﹁ぬ、ぐ、おおおお!﹂ まるで余裕のなさそうなケイオスを見るに、恐らくは奥の手なの だろう。 己の全てを出し切るものだ。撃った後のことなどまるで考えてい ない、己の持てる力全てと引き換えに放つ、ケイオス最強の一撃。 ﹁行くぜ! 精霊魔術!﹂ ﹁⋮⋮なんだって?﹂ ケイオスは確かに言った。精霊魔術、と。レミーアから一度説明 を聞いたきりのそれに、まさかこんなところで出会うとは思っても いなかった。 ﹁土精! 水精! オレの力を全部くれてやる! オレの最高の一 撃をアイツにくれてやれ!﹂ 1339 ﹁⋮⋮っ!﹂ まさか場末の単なる殴りあいで、ここまで緊迫することになろう とは。彼は一体何者なのか。自分のことを棚にあげて、太一はそれ がとても気になった。 鼓膜を震わす音と猛烈なプレッシャーを纏った、土石流の鉄砲水。 いや、泥水の竜巻とでも言えばいいのだろうか。上手く表現は出来 ないが、目前に迫るこの茶色く濁った渦巻きは、とてつもない脅威 だろう。太一以外の誰かであったなら。 ﹁シルフィ﹂ 静かに呼んだ名前は、泥の渦が撒き散らす轟音にかき消される。 それでも全く構わなかった。要は、そう呼ぶことそのものが大事な のだ。そうすれば。 ﹁うん﹂ ほら。 打てば響くように、即座に返事が返ってくる。 ﹁これ、叩き潰してくれ﹂ ﹁はーい﹂ 太一にだけ見えるように具現化したシルフィは、その白く華奢な 右手を真っ直ぐ前方に向ける。そして太一の意図した通りの威力と 規模の風魔法が、瞬きをする間に完成する。 シルフィを具現化させていないとはいえ、第三者に疑われる余地 はなるべく与えたくはない。太一が風属性の魔術師であると、奏と ミューラを除く周囲には見せ続けていった方がいい。だから、シル 1340 フィが突き出した右手と平行に、太一も左手をその渦の中心に向け る。 本来ならば、別にシルフィの力を借りるまでもない状況だ。強化 を強め、恐らくは今も隙だらけのはずのケイオスの背後を取って剣 を突きつければ勝負は終わる。 だが、何となくそんな気分にはなれなかった。ケイオスは真っ直 ぐな男だ。太一はそれに応えたくなったのだ。 ﹁行けっ!﹂ それが、発射の合図。 ズシンと腹の底に響く重低音をもたらし、ケイオスの精霊魔術と 太一の風魔法が激突する。 そして。 一番耐久力の低い渦の中心をシルフィの風が食い破り、中から爆 散させる。泥の渦巻きは一瞬にしてその姿を保てなくなり、やがて 中空に霧散した。 強い魔力同士の衝突がもやのようなものを作り出す。その先に見 えたのは、己の最大の一撃をあっさりと打ち砕いた太一を、目を丸 くして見ているケイオスの姿。ケイオスには、左手をこちらに向け て悠然と立つ太一の姿が映っていることだろう。 ﹁テメエ⋮⋮本当に何者なんだよ⋮⋮﹂ 息も絶え絶えにケイオスが呟く。それに対して太一は﹁言っだろ、 Bランク冒険者だって﹂と嘯いた。 ﹁へっ⋮⋮冗談⋮⋮じゃねえぜ⋮⋮﹂ 全てを使い果たしたケイオスは、その場で崩れ落ちて気絶した。 1341 太一はシルフィの頭を撫でて、剣を鞘に納める。良く考えれば何 の意味があるのか分からないハイレベルな喧嘩は、太一の勝利で幕 を下ろしたのだった。 1342 精霊魔術師と古城探索 一︵後書き︶ リアルがすごく忙しくなって来たので、感想の返信は時間があると き、たまに、にさせてください。 今も、たくさんコメント書いてくれた人に一言しか返せずに歯痒い のですが⋮⋮︵苦笑 例によって頂いたコメントにはきちんと目を通していますので、ど うぞご了承ください。 後、更新頻度も若干さがります。 恐らく週一くらいかと。 宜しくお願いします。 SAS 1343 精霊魔術師と古城探索 二 ﹁おーい、そこのネエちゃんお代わりだ!﹂ ﹁はっ、はいぃ!﹂ ウェイトレスに、空いた皿をヒラヒラさせて追加注文をするケイ オス。注文を受けたウェイトレスは口をぱくぱくさせていた。 ﹁また!?﹂ 奏が驚きの声を上げる。ケイオスの前には既に皿が四枚。そのど れもが二∼三人の腹を膨らますのに十分な量の料理が載っていたも のだ。ケイオスはそれを一人で抱え、食べるというよりは飲むとい ったていでどんどんと平らげていったのだ。 ﹁おう。あれ使った後は腹が減るんだよこれが﹂ ﹁お腹空いたとか、そんな次元の話じゃないわよ⋮⋮﹂ 単なる大食いにしか見えない。呆れるミューラのリアクションは 正しい。 ﹁ここ割り勘な﹂ ﹁お断りします﹂ 刹那の沈黙。 太一とケイオスの視線がぶつかり合う。 ﹁何でだよ! オレの払う分が増えるだろうが!﹂ ﹁そんだけ食ってるんだから当たり前だろうが!﹂ 1344 ぎゃあぎゃあと言い合う太一とケイオス。集まる注目もなんのそ のだ。 良く言えば賑やかな、悪く言えば騒々しい食事が終わる。目の前 に置かれた温かいお茶を一口飲んで、ケイオスはぎしりと背もたれ に寄りかかった。 ﹁よお。タイチとか言ったな﹂ ﹁ああ﹂ ﹁テメエ、何者だ?﹂ 前触れもなく触れられた太一の秘密。太一はニッと笑い、 ﹁Bランク冒険者だ﹂ と、対戦前と同じことを口にした。 ﹁ボケ。オレが聞いてんのはそういうこっちゃねぇんだよ﹂ ﹁知ってるよ﹂ ﹁テメエは何者なんだっつーの﹂ ﹁答える気はない﹂ とりつく島もない太一の態度に、ケイオスは呆気にとられてしま う。 ﹁あんだよ。後ろめたいことでもあんのか?﹂ ﹁いや別に? 何でそんなこと聞くんだ?﹂ ﹁決まってんだろ。このオレの精霊魔術を簡単に破ってくれやがっ て。あれがただのBランク冒険者に破れると思ってんのか?﹂ 1345 ごもっともだ。奏やミューラなら防げるだろうが、二人より弱い 人間があれをどうにか出来るとは太一も思わない。 ﹁なるほど確かにな﹂ ﹁だろ。お前が何者か気になるのも当然ってこった﹂ 確かにケイオスの言う通りである。しかし。 ﹁まあ、何と言われようと答える気はないけどな。勝ったの俺だし﹂ 再び突っぱねる。ケイオスはがしがしと頭を掻いた。 ﹁ったく、しゃーねー⋮⋮。敗けってなあ面倒だわ⋮⋮﹂ ぶつぶつとごちるケイオス。やはり勝敗を盾にしたのは有効だっ たのか、渋々ではあるがこれ以上は問うて来なかった。 ﹁まあ、諦めてもらうしかないな。ところで﹂ ﹁あ?﹂ ﹁俺たちに喧嘩仕掛けてきたのは、力比べがしたかっただけか?﹂ 太一の問い掛けに、ニヤリと笑うケイオス。あまりいい予感のし ない笑い方に、厄介事がスキップしてきた気がした。 ﹁オレに近い強さを持つ冒険者を探してたんだよ﹂ 背もたれに預けていた身体をずい、と前のめりにしてそう告げる 金髪の青年。 ﹁その心は?﹂ 1346 と奏。 ﹁古城探索のパーティ募集中だったんだ﹂ ﹁だった?﹂ 何ゆえ過去形なのか。いや、ケイオスの人となりを考えれば。 ﹁そして今パーティが決まったとこだぜ!﹂ ﹁⋮⋮﹂ ため息をつく三人。 事前交渉も何もあったものではなかった。 ﹁俺たちがケイオスのお眼鏡にかなった、と?﹂ ﹁おうとも! 明日から早速出発だ!﹂ ﹁出発だ! って勝手に決めないでくれよ⋮⋮﹂ ケイオスが不思議そうな顔をする。断られるとは思っていなかっ た顔だ。その自信は何処からやってくるのか謎である。 ﹁なんだ、何か不満か?﹂ ﹁いや、不満っつーか﹂ ﹁私たちの都合は完全に無視だしね﹂ ﹁あー? いいじゃねえか。急いでんのか?﹂ ﹁ああ、急いでる﹂ と、言ってみただけだ。実際は急いでいないのだが、相手の反応 を見てみることにしたのだ。 1347 ﹁移動日含めて精々五日程度だぜ? そんくらい、ちっと時間貸し てくれよ﹂ 正攻法で口説き落としに来られた。 話していての正直な印象だが、彼は頭は悪くはない。乱雑な口調 に騙されないように意識すると、結構深く考えていることが分かる。 今の説得方法も、単純でいて断りにくいものだったのだ。 この世界で長距離移動ともなれば、五日間程度の遅れは誤差の範 囲内だ。道中何があるか分からない。大雨で鉄砲水が発生して橋が 落ちてしまえば、それだけで何日もロスしてしまう。日本のように 一〇分の遅れで咎められるような事はまずない。この世界の移動手 段では到着予定時刻からのずれがあるのが普通だ。そもそもの技術 レベルから考えれば言うまでもない事。 故に、五日程度の拘束は、それだけなら引き受けても問題ない。 ﹁分かった分かった。仕方ないな﹂ ﹁そう言うと思ってたぜ﹂ 笑うケイオス。 となれば、必要なのは対価である。 ﹁私たちが付き合う事で、どんなメリットがあるの?﹂ ﹁ああ。それについても考えてるぜ﹂ 淀みなく応じるケイオス。そこについての考えも万全らしい。 ﹁目的の古城は殆ど探索が手付かずでな。お宝は結構眠ってるはず だ﹂ ﹁へえ?﹂ ﹁見つけたお宝はお前たちにくれてやんよ﹂ 1348 ﹁⋮⋮﹂ 随分と気前がいいではないか。ケイオスの言葉を聞いて、太一は むしろ警戒心を強める。財宝があったとして、その全てをこちらに 寄越すとは。自分の取り分は無くていいと言っているのだ。 甘い蜜を採るには蜂の大群をどうにかせねばならない。簡単に採 れるようなら、むしろそこに罠があると考えるのが当然だ。 ﹁聞きたいことがいくつかあるのだけど﹂ じっと話を聞いていたミューラが、久々に口を開いた。 ﹁おう。何だよエルフ﹂ ﹁ミューラ。名前で呼びなさいよ﹂ ﹁オレは物覚えが悪くてよお﹂ 嘘をつけ、と思ったのはミューラだけではあるまい。 ﹁で、何だよ?﹂ ミューラは頭の中の項目を整理、最優先事項だけをピックアップ した。 ﹁一つ。財宝が無かったら、きちんと報酬は貰えるのかしら?﹂ ﹁当然だろうが。そんときゃ、わりぃがBランク冒険者を五日間拘 束したって相場の報酬になるだろうがな﹂ なんだったら、冒険者ギルドで契約書面でも作るか? と言うケ イオス。その言葉に、彼の本気度が垣間見えた。 1349 ﹁それならいいわ。じゃあ二つ目。お宝があるかもしれない、って 噂にはなってないの?﹂ ﹁なってるだろ、そりゃあな﹂ 噂が広がる速度は想像を遥かに越える。二、三日で劇的な広まり を見せることさえある。 ﹁それだけ噂になっていて、何で探索されてないの?﹂ それはもっともな疑問だった。それも予想の範囲内だったのか、 ケイオスはスラスラと理由を述べる。 ﹁ああ。あそこな、厄介な魔物の溜まり場なんだよ﹂ ﹁すくつか﹂ ﹁巣窟ね﹂ 読み方を知らない太一が変換不可な言葉を口走り、奏が即座に訂 正した。日本でも雰囲気をふいんきと間違えて覚えて﹁何故か変換 出来ない﹂と言っていた太一である。 ﹁そうだ。まあ、ヒヨッコにゃあ厳しい奴ばっかでな﹂ ﹁何がいるんだ?﹂ ﹁アンデッドだ﹂ びくりと身体を震わせる奏。彼女はそういった類いがすこぶる苦 手なのだ。心霊もの、心臓に悪い系統の映画はまず避けていた。 ﹁アンデッド⋮⋮確かに、並の魔術師だと厳しいわね﹂ ﹁だろぉ? Bランクは最低ラインだな﹂ ﹁確かにね﹂ 1350 アンデッド。命持たざる魔物を指す。ゾンビやスケルトン、ゴー スト等は地球の創作物やゲームでもお馴染み。武器は効きにくく、 総じて炎や光属性の魔術が弱点。弱点となる属性を持っていなくて も、魔術でないとダメージが通らない魔物も多い。魔術が一定の強 さになっておらず、武器をメインにせざるを得ないレベルの冒険者 だと、天敵と言ってもいい魔物たちの総称である。スケルトンやゾ ンビは物理攻撃も通るだろう。だが彼らは単体で襲ってくる事はな い。物理攻撃が効かないスピリット系統の魔物が徒党には必ず居る。 実際にはCランクでもやってやれないことはないが、安全マージ ンを取るならケイオスの言う通りBランクが望ましい。そんなアン デッドは戦うだけでも厄介だが、もう一つ懸案事項がある。彼らが 纏うのは濁り負の力が満ちた魔力。それは、人知を越えた不可解な 現象を起こして侵入者を手厚く歓迎する。 逆に魔術剣を持っていたり、火属性を持っていれば手強い相手は ぐんと減る。特に火の魔術剣を繰るミューラにとっては与し易い相 手だ。 ﹁アンデッド⋮⋮オバケ⋮⋮﹂ とはいえ、火属性を持っていようと、メンタル的な相性から苦手 意識を持つ者も確かにいるのだが。 奏の呟きは、幸か不幸か同席する三人には届かなかった。 ﹁じゃあ、最後に一つ﹂ ﹁おうよ﹂ ﹁そこまでの条件を提示するほど、あんたを突き動かすものは何?﹂ ﹁⋮⋮﹂ 先程まで喋りまくっていたケイオスがはたと黙る。 1351 一瞬細められた目には、これまで何となく感じさせた軽薄さが一 切無かった。そこに宿るのは確固たる意志。 しかし、それは本当に一瞬で消える。 ﹁まあいいじゃねえか! 古城探索なんてロマン溢れるだろ! オ レの夢だったんだからよ!﹂ 今度は目を輝かせる。その姿に、彼の事を計りかねる三人。本音 がどこにあるのか分からない。実力といい腹芸といい、只者ではな い。 現時点では彼が口を割る事は無いだろうとみたミューラは、ため 息一つついて太一と奏に向き直る。自分の考えを伝えるために。 ﹁あたしは古城探索、いいと思う﹂ ﹁ん﹂ ﹁もう少しダンジョンに慣れておきたいと思ってたところだから。 これに乗ってもいいと思ってるわ﹂ ﹁そっか﹂ ケイオスどうこうを抜きにすれば、アンデッドが蔓延る古城探索 というのは中々の難易度があって実践練習にはもってこいだ。狭い ところで実力を発揮する能力というのも、持っておいて損はない。 現時点でも問題ない能力を持っているが試したことがあるのとない のとでは当然違ってくる。 古城。つまり人が造った建物。壁等を破壊しようと思えば、特に 問題なく実行可能だ。 では、これが天然のダンジョン、例えば地下洞窟ならどうだろう か。闇雲に壁を破壊すれば天井が崩落する危険もある。 自分達だけなら大した危機とはならないだろうが、この先非戦闘 員を連れてそういうところに行かないと断言はできない。周囲に影 1352 響を与える事なく標的に痛打を与える能力はやはり必要だろう。 ﹁そうだなあ。探索依頼も受ける事あるだろうしな﹂ ﹁ええ﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁と、言うわけだから。古城探索、一緒に行くわ﹂ ﹁話が分かるなエルフ!﹂ ﹁ミューラだっつってるでしょ﹂ ファムテームで休む予定を変更、三人はダンジョンの探索に挑む 事になった。 三人は⋮⋮いや、太一と奏は知らない。 何故この世界に来たのか。その理由の一端が、明かされる事を。 余談だが、アンデッドを相手にすると聞いて奏が内心怯えていた 事は、結局誰からも触れられなかった。 ◇◇◇◇◇ ﹁召喚。エレメンタル・シルフィード﹂ 自室に戻って一人になった太一は、シルフィを召喚した。 淡い緑色の光が微かに瞬き、まるで芸術品のような美貌を誇る少 1353 女が目の前に現れる。 いつものマスコットサイズではない。彼女の本来の姿だ。 ﹁お待たせシルフィ﹂ ﹁もー。幾らなんでも久し振りすぎるよー﹂ ぷんぷん、と言わんばかりにふくれてみせるシルフィに苦笑を返 す太一。まあ、彼女が本気で怒っていないのは聞くまでもなく分か る。今は非戦闘体勢。魔力など殆ど込めずにただ喚び出しただけだ。 それだけで生きとし生けるもの全てがこうべを垂れたくなるという のだから、おいそれと召喚など出来る筈がない。 太一本人は全くそんな事は無いのだが、シルフィ曰く﹁契約を交 わして対等だから﹂との事。 レミーアや奏、ミューラはもちろんの事、ジルマールやスミェー ラさえも跪くというのは尋常ではない。 下手に喚び出したらパニックになってしまう。シルフィもそれは 分かっているため、こうしたやり取りはもはや定型文、お約束と呼 べるものである。 太一は部屋に置いてあった椅子に腰掛ける。太一に対面するよう に、シルフィはベッドに座った。椅子に座るようにではなく、ベッ ドの上にぺたんと女の子座りとは、狙っているのだろうか。 ﹁なあ、シルフィ﹂ ﹁んー?﹂ ﹁シルフィは精霊魔術師に出会った事あるか?﹂ ケイオス。精霊魔術を使うと明言し、直後強力な魔術を放ってき た男。 存在そのものはレミーアから話を聞いて知っていたが、実際に会 ったのは初めてだ。 1354 ケイオスの精霊魔術はもちろんユニーク属性。ユニークとは言葉 通りの意味で、場合によっては一人も存在しない時代すらある程の 稀少性を誇るのだ。 話を戻すと、精霊魔術についてはとりあえずざっくりとした知識 はある。しかしそれはレミーアから聞いた知識でしかない。太一た ちに精霊魔術について教授したレミーアとて本から知識を得たのだ が、その本がもし間違っていればレミーアの知識も間違っている事 になる。 彼女がいつぞやか﹁全ての情報は、自分で取捨選択をする癖をつ けろ﹂と言っていた事を思い出す。レミーアが持つ知識に対しても、 頭から疑いもせずに信じ込む事はするなと釘を刺されたくらいだ。 それはそれとして。シルフィを喚び出したのは、彼女なら精霊魔 術師について何か知っているのではないか、と考えた末だ。 ﹁あるよ。厳密には、見たことがある、程度だけどね﹂ ﹁そうか﹂ シルフィはこくりと頷いた。その動きに合わせて淡い緑を含んだ プラチナブロンドがふわっと動く。 ﹁ってことは、あいつは精霊魔術師で間違いないんだ?﹂ ﹁そうだよ。術を使うとき、水の精霊と土の精霊がちらっと見えた から﹂ そうだったのか。 シルフィと契約している身でありながら、それには全く気付かな かった。そう告げると、シルフィは﹁仕方ないよ﹂と笑う。召喚術 師と精霊魔術師は似て非なるもの。太一とて全ての精霊が見えるわ けではない。契約外、つまりシルフィ以外の精霊は、その精霊が太 一に姿を見せようとしなければ見ることは出来ないという。因みに、 1355 太一以外の人間が精霊の姿を見るには、精霊が太一に姿を見せよう とするのが最低条件。その上で太一が側にいなければ見ることはか なわないとの事だ。逆に側にいれば見せることが出来るのは、召喚 術師だけの特権だという。 ﹁じゃあ、俺とケイオスの術の使い方はどう違うんだ?﹂ ﹁えっとねえ⋮⋮﹂ レミーアから教授された自身の知識は果たして正しいのか。太一 はそれが気になっていたのだ。 ﹁たいちは、アタシに魔力を渡すよね?﹂ ﹁うん﹂ ﹁それで、その魔力にたいちが起こしたい現象のイメージを込める。 そのイメージに従ってアタシが術を使う。ここまではいいよね?﹂ 首肯。 ﹁で、精霊魔術師は、基本的にはかなでとかと変わらないの﹂ ﹁うん、それで?﹂ ﹁普通の魔術師は、使いたい魔術を詠唱して対価に魔力を込めると、 近くにいた精霊がその魔力を使って魔術を発動させる。 でね? 精霊魔術師は、召喚術師と同じように特定の精霊と契約を結ぶ。 同じように魔力を対価に支払うと、契約した精霊が術を起こす。 二つの違いは?﹂ ﹁契約の有無か﹂ ﹁そう。一番の違いはそれなの。 契約っていう絆が、より強い魔術を実現させるの﹂ 1356 だからより強い魔術を使うことが出来る、とシルフィは結んだ。 ただ、精霊魔術師といえど、精霊の姿を見る事は出来ないらしい。 精霊の姿を見る事が出来るのは太一のみの特権である。 ﹁やっぱり俺の覚えてたことは合ってたんだな﹂ ﹁あれ? 知ってたの?﹂ きょと、と太一を見つめるシルフィ。なんとまあ、何でもない仕 草を可愛く見せる娘か。 ﹁うん、知ってた﹂ ﹁じゃあ、アタシに聞いた意味は?﹂ ﹁そりゃお前、餅は餅屋っていうだろ?﹂ ﹁?﹂ 日本の慣用句は伝わらなかった。シルフィは小首を傾げている。 太一は補足として﹁精霊の事だからシルフィ︵専門家︶に訊いて 正しいか確かめたんだよ﹂と答えた。 どうやらシルフィと書いて専門家と読んだ太一の言葉が気に入っ たらしく、シルフィはご機嫌である。 太一はそんなシルフィを眺めて癒される。このまま、うやむやに してしまえばいい。そう思った。のだが。 ﹁⋮⋮ねえ、何か気になることでもあるの?﹂ ﹁⋮⋮﹂ ふと、シルフィは太一を見て問い掛ける。 実に鋭い。今の話にヒントとなるようなものは混ぜていなかった 筈だ。つまりシルフィは太一の顔色から判断したのだ。 頭をがしがしと掻いて苦笑い。彼女には隠し事は出来ない。 1357 ﹁⋮⋮あるよ。よく気付いたな?﹂ ﹁まあ、アタシはたいちの契約精霊だから﹂ むん、と慎ましくも主張する胸を張るシルフィ。 ﹁気になる事ってのは、今の俺の⋮⋮いや、俺たちの現状だよ﹂ ﹁現状?﹂ シルフィの反芻に頷きを返す。 ﹁俺は召喚術師⋮⋮つまり、ユニークマジシャンだよな?﹂ ﹁うん﹂ ﹁ユニークマジシャンってのは、稀有な存在のはず﹂ ﹁うん﹂ ﹁俺はこの世界に来てまだ一年経ってない。 なのに、時空魔術師のお姫様に出会って、精霊魔術師のケイオス とも知り合って、自分も召喚術師になった。 自分を含めれば既に三人もユニークマジシャンに出会った事にな る﹂ ﹁⋮⋮そうだね﹂ どうやらピンと来たようだ。何となくほんわかとした雰囲気を纏 うシルフィだが、実に聡い少女だ。見た目はともかく実年齢を考え れば少女という表現が正しいかは疑問なのだが。 ﹁ユニークマジシャンってもんはさ、そんなホイホイと会えるもん かな? って思うわけよ、俺は﹂ レミーアの話では、ユニークマジシャンは相当に稀少な存在であ 1358 るし、発覚すれば特権階級入りが即決するほどのものだ。太一も、 エリステインでの扱いからそれは良く分かっていた。 ﹁うん。確かに、そうかも﹂ シルフィは腕を組んで考え込む。現状を正しく認識した結果、不 可解だと考える太一の気持ちが伝わったのだ。 ﹁何かここまで来ると、作為的な物が働いてるとか、陰謀の結果っ て言われた方がむしろしっくりくるんだよなー、俺的に﹂ 太一はそれほど深刻に見えないように言った。 不安はある。それは偽りない事実。 しかし、幸運な要素、つまり力もある。はねのけるだけの力が。 エリステインですら打ち負かすことが可能な力に太刀打ち出来る ような存在はいないだろう。 太一は良くても、太一の周囲に影響があるかもしれないが、言い 出したらキリがない。第一これは太一自身の憶測なのだ。自分の憶 測で怯えるのは、建設的とは思えなかった。 不安をすべて払拭する事は不可能だが、自分が強いという現実が、 彼の心の支えとなっているのは否定出来ない。 ﹁たいちの思い過ごしじゃないかな?﹂ 彼の心境を察したシルフィが、あえて呑気にそう呟く。 仲間、そしてパートナーに恵まれた事を改めて感謝しつつ、太一 は明日に控えた古城探索に思いを馳せた。 1359 精霊魔術師と古城探索 二︵後書き︶ 次は奏さんヒロインの回です。 序盤二五〇〇文字ほど奏のターン。 それでは、また来週。 1360 精霊魔術師と古城探索 三 頭脳明晰。品行方正。容姿端麗。運動神経抜群。 在り来たりな褒め言葉。吾妻 奏ってどんな女の子? と聞かれ て太一が答えるならこうなる。太一の言葉を聞き、そして実際奏に 会えば、その称賛が決して大袈裟ではないと分かるだろう。 そして、奏と出会った人間の約半数は、その容姿に驚く。 女性の平均よりは高い長身に、すらりと伸びた手足。全体的にほ っそりとしていながらも、女性特有の柔らかさを主張するふくらみ。 更にトレーニングを積んでいるためにたるみとは無縁だ。しかし決 して女性らしさは失われていない。 染髪に興味が無いという奏自慢の髪は、艶やかな漆黒である。奏 はそれを頭の後ろ、高い位置で結う。指通り滑らかで、彼女の動作 に合わせてさらさらとなびく。 更に顔立ちも整っている。一〇人に九人は美少女と口を揃える位 には。そこまで行くともう人気女優やモデルといったレベルで、残 りの一割も好みの問題である。人気アイドルグループで、好きなメ ンバーが好みによって分かれる程度の些細な違いだ。 その外面に加えて、コミュニケーションを取れば彼女の出来た人 間性を知る事になる。男女含めて彼女に親い面々は揃って﹁近年で は稀少﹂と言うほどだ。 そんな奏を見て、完璧な美少女、と例える人間も少なくはない。 しかしそれは、太一から言わせれば鼻で笑うような話。 所詮上っ面しか見ていないのだ。会ったばかりの人間ならばまだ しも、ある程度付き合いがある人間がそんな事を言ったりもする。 その人は、奏という少女に幻想を当てはめているだけのように、 太一には見えるのだ。 彼女にだって、弱点や苦手はもちろんある。 例えば、彼女は虫は苦手だ。 1361 例えば、彼女は高いところと暗いところが苦手だ。 レバーは大の苦手。人参の甘さが嫌い。銀杏の臭いが苦手。 どちらかといえば不器用だ。 料理が苦手である。 辛いのを我慢しすぎる事がある。 誘惑に弱いのを気にしている。 苦手を克服しようと頑張りすぎるきらいがある。 太一が知る限りでもこれだけあるのだ。 彼女は他人に弱味を見せるのを嫌がる傾向がある。奏がそれを見 せるというのは、ある程度信頼関係が築けた証しだろう。 そして奏は、ホラー系が苦手である。 日本特有の精神的にダメージが来るものや、脅かしに来るものの どちらもとても苦手だ。彼女一番の弱点と言ってもいい。 ︵うおおお!︶ 時刻は夕方五時。 太一は余裕を失っていた。 今は奏と二人きりである。 現在の居場所は、人に見捨てられて久しい古城のどこか。窓があ るのに、まだ日は落ちていないのに、とても薄暗い。これから、本 格的な夜になるだろう。 恐いのが苦手な奏はすっかり怯えてしまっている。 その証拠に、固く閉じられた目の端にはうっすらと光るものが。 普段凛としている奏の珍しい姿だ。 しかし残念というべきか、太一にはそれを堪能する余裕は無い。 いや、今太一は別のものを堪能していた。この状況では、とてもで はないが残念なんて言葉は出てこないだろう。 ︵挟まってる挟まってる! 腕の谷間に胸が!︶ 1362 訂正しよう。胸の谷間に腕が、と。 日本語になっていないことを脳内で口走る程、太一は気が動転し ていた。 人の目が無くなったからかは分からないが、奏は太一の左腕にぎ ゅうっとしがみついているのだ。 自分の胸が太一の腕を挟んでいる事には気付いていない。彼女は 太一に掴まるのに必死だった。 ︵ぬおお! 柔らかいのがあああ!︶ 太一も必死である。主に理性を保つ方にだ。 奏はグラマーというほどではないが、それでもその長身に似合う、 バランスの取れた起伏を誇っている。レミーアと比べれば分が悪い のは確かだが、それでも奏が自身のプロポーションに不満を持てば、 世のスタイルに悩みを持つ女性から見て嫌みになる程度には自己主 張している。 太一はU−14のジュニアテニス大会の応援に行ったことがある。 ワンピースタイプの水色のテニスウェアを来た奏は、中学生にして はかなりセクシーだった。 ボールを打つ度、コートを駆け回る度にひらりと舞うスカートの 裾に目が行ったのは太一だけではあるまい。その下にアンダースコ ートを履いていると分かっていても、目が言う事を聞かないのは男 の業だった。 当時から奏は早熟だったが、その時から比べると格段に進化して いる。太一はそれを身をもって思い知っていた。 今二人に共通しているのは、とてもではないがダンジョン探索の 余裕は無いという事。その原因は全くの別物だが。もしこの状況を 日本のクラスメイトに見られでもしたら、視線で射殺される羽目に なるだろう。無論、太一が。 1363 ﹁か、奏﹂ ﹁太一⋮⋮?﹂ これ以上は理性が持たない。そう思った太一は思わず声を掛けた。 出来れば手を繋ぐくらいにしたい。いやそれも平素なら相当に恥ず かしいのだが、こうして奏の胸に腕を挟まれるよりは大分楽だろう。 思春期真っ只中の太一にとって、この柔らかい誘惑は劇薬に近か った。だから、せめて、という思いで話し掛けたのだ。 ︵⋮⋮うっ!︶ そして、カウンターで追加ダメージを受けた。 可愛い女の子に抱きつかれ、涙目で上目遣いというコンボがどれ だけの破壊力を秘めているのか。ラブコメディを描いた作品で慌て る主人公の気持ちが良く分かった太一であった。 ﹁な、なあ、奏﹂ ﹁なあに⋮⋮?﹂ ぐすっと鼻をすする奏。その姿に、これから告げようとする内容 に対して罪悪感が込み上げる。しかし、己の精神を安定させるため にと、太一は心を鬼にしようとした。 ﹁このままだと、アンデッドに奇襲受けた時に、対応が遅くなるか らさ、﹂ だから、手を繋ぐだけにしないか? その提案は、最後まで言う事が出来なかった。 アンデッドという単語に奏がびくっと反応した上に、 1364 ﹁⋮⋮ダメ?﹂ と先回りされて抵抗を受けたからだ。 目に涙を浮かべての可愛らしい抗議が出た瞬間、手札を全て強制 的に手離すトラップが発動。選択肢はサレンダー︵なすがまま︶し か残されていなかった。 ﹁あ、いや、うん。このままでいいです。はい﹂ ﹁⋮⋮うん﹂ 太一から事後承諾と、今後についても承認を受けて、更に強くし がみつく奏。 むにっと形が変わった感触が、太一の理性にトライデントを突き 刺す。 ︵ふおおお!︶ 奇声をギリギリで飲み込んだ事は、褒めてもいい筈である。 とはいえ、安心した様子の奏を引き剥がすなんて真似が太一に出 来る訳もなく。 ︵あああ! なんでこうなったんだ!︶ もう過去に八つ当たりするしか太一に残された手段は無かった。 そもそも、何故二人きりになっているのか。 昼過ぎには古城に辿り着いて、普通に探索を始める筈だったのに。 その時点では、こんな事になるなんて夢にも思っていなかった。 1365 ファムテームから馬車で一日。古城までは大した距離ではなかっ た。並の馬車での時間だったため、クロに馬車を牽いてもらってい る太一たちにとっては本当に大した道のりではなかった。 そこを進みながら、太一は気になった事をケイオスに聞いた。 この程度の距離で、何故冒険者が立ち寄らないのか。 その答えは、ケイオスの呆れと共にもたらされた。 ﹁普通は黒曜馬に馬車牽かせねえよ﹂ と。 そもそもこの行軍ペースが異常である。それについては十分に自 覚があった太一は苦笑して応じた。 そして、並の実力者が並の馬車で目指しても、まず辿り着けない とケイオスは言った。 その理由を、言葉より雄弁に語るものがあった。 古城は森を切り開いた場所に建てられている。それ自体は不思議 な事ではない。 違和感は森に立ち入った瞬間に一行を包み込んだ。 パッと見た限り普通の森だ。草や木が何か特別な訳でもない。 だが自分達を包む空気が変わったのをはっきりと感じ取る事が出 来た。 それはレミーアの結界に足を踏み入れた時のよう。注意しなけれ ば気付けないほど些細でいて、しかしはっきりとした違いだった。 矛盾している言葉だが、太一たち三人には、そうとしか表現出来な かった。 その森が、古城までの道のりを困難にしていると、大して歩かな い内に知る事になった。 ギィン! 金属同士を鋭くぶつければこんな音がするだろう。背後からの斬 撃に、太一は腰の剣を素早く抜き払い対応した。 1366 しっかりと受け止めたのを感触で判断し、押し返す。それと同時 に振り返って、斬りかかってきた犯人を見据えた。 人の三倍はありそうな巨大蜘蛛が、宙にゆらゆらと浮いていた。 背中はどどめ色で、日本の色に富んだ蜘蛛に比べれば不気味さが際 立っている。 上方の枝から音もなく降りてきたのか、蜘蛛の臀部からは揺れに 合わせてチカチカと光る細い糸。どうやら殺気と気配を隠すのも上 手いらしい。太一が気付いたのはかなり近付かれてからだった。 普通の蜘蛛にはない武器である、前足のトゲ。いやこれはもうノ コギリと呼ぶべきだろう。あれで掴んで逃がさないようにし、口に 生えた鋭い牙で獲物を喰らうのだ。 かの魔物の名前は多刃蜘蛛。前足のノコギリのような刃が名前の 由来だ。太一が知る限り、Cランク冒険者のパーティでは出会った だけで全滅を覚悟しなければならない強敵だ。 Bランクが最低条件というケイオスの言葉が、全く大袈裟でない と太一は思った。 まあ、太一一行からすれば有象無象だ。冒険者ランクで分類でき るような魔物に、太一が負ける理由が無いからだ。 ﹁よっと﹂ 太一が地を蹴り、振り下ろされた前足を足場に飛び上がり、蜘蛛 を支えていた糸を切る。鋼鉄の剣でも中々切れぬ糸だが、太一がミ スリルで出来た剣を振るのだから、抵抗もなく切れるのは必定だっ た。 糸を切られた事などもちろんなく、今まで一方的に獲物を蹂躙し 続けてきた化け蜘蛛は、生まれて初めて大地に叩き落とされた。そ こに容赦無く襲う二本の太い石の杭。一本は口から喉を、もう一本 は臀部を。 奏とミューラがそれぞれ腕を伸ばして、標的を見据えていた。 1367 地面に縫い付けられて、喉を石の杭に喰い破られて、多刃蜘蛛は その場でひとしきり痙攣し、その命の灯を消した。 決して容易くはない魔物を瞬殺せしめた三人を見て、ケイオスが 口笛を吹く。 ﹁やるじゃねえか﹂ ﹁お前だって楽勝だろ?﹂ ミスリルの剣を器用に使って蜘蛛の目玉をくり貫く太一。この化 け蜘蛛の目玉は魔法薬の原材料となる。市場では中々手に入りにく いとあって、バカにならない値で取引される。他の箇所もそれなり の値段となるのだが、全てを取っていたら保管場所が無くなる。ゲ ームのように魔法のバッグが簡単に手に入る訳ではない。 何を今更、と言わんばかりの太一に、ケイオスは笑うだけで何も 言わなかった。 太一がいるだけでも反則の上、奏とミューラというAランクと同 等の魔術師と魔術剣士を擁するパーティである。この森の魔物は強 かったが、困るには程遠い。 そしてもちろんだが、ケイオスもAランクの強さを持っていた。 総合力では奏とミューラに一歩譲るだろうが、それでもやりように よっては二人を凌駕する事も可能だと太一は感じる。 それほどの人物ならば有名なのではないか、と太一は考える。 上から鈍い銅色の刃が迫ってきたので、それを身体を少し傾けて かわす。 マーウォルトの会戦で奏とタメを張ったスソラ。太一は知らなか ったが、その名前は通な冒険者の間では通っている。 背後から飛んできた二本の針を振り返りざまに指で挟んで受け止 め、投げ返した。 その二人と同等の強さを誇るエリステインの宮廷魔術師長ベラと 騎士団長パソスは、民草でも良く知る名前だ。 1368 枝から風を纏う猿が牙を剥いて飛び掛かってきたので、ボレーシ ュートの要領で蹴り飛ばす。 むしろこの場合、軍を統べるベラ、パソスの両名と張り合える奏 とスソラが異常と言う事も出来る。 もう一度、今度は下から迫ってきた銅の刃に鬱陶しさを感じ、切 り飛ばした。 スソラ、パソス、ベラ。三人の実力に、ケイオスはそこまで劣っ ていない。 先程蹴った猿が風の刃を飛ばしてきたので、風の刃を紡いで迎撃。 相殺どころかむしろ貫き、カウンターで沈めた。 そしてケイオスは精霊魔術師、つまりユニークマジシャン。名が 通っていないのが不思議な位だ。 もう片方の銅の刃を必死に振り回すカマキリの首を一刀で両断し た。 この古城探索が終わったら、冒険者ギルドに行ってみるのもいい だろう。 最後に残った、ずっと針を飛ばしてきていた蜂が踵を返して逃げ ていく。エアカッターで羽の付け根を切り裂き、墜落させた。 ファムテームのギルドでは情報を得られなくても、その後に向か うのは大都市ガルゲニア。ケイオスの知名度くらいならすぐに分か るだろう。 ﹁お、もういないか﹂ ふと周囲を見渡して、魔物が全滅しているのを太一は確認した。 簡単に気配を探っても近くには何もいない。 考え事をしながら、身体の反応に任せて適当に戦っていたら勝っ ていた。太一からすればその程度の認識である。 しかし、そんな戦いを見せられた方は堪ったものではない。 1369 ﹁なあ⋮⋮﹂ ﹁ん?﹂ ﹁なに?﹂ ケイオスが太一をぼんやりと眺めながら呟く。 ﹁オレよお、良くあいつとあそこまで互角にやれたなって、自分を 褒めてんだけどよ⋮⋮﹂ ﹁ああ⋮⋮﹂ ﹁なるほど、うん⋮⋮﹂ 先程の魔物の集団だが、決して弱くはない。太一が相手だから弱 く見えただけであり、実際は相当の集団だった。 銅カマキリは、どれだけ下に見積もっても、平原で出会うそれよ りも一、二段は上の強さだった。そして、それは風を纏った猿も、 毒針で太一を狙撃していた蜂も同じだ。奏とミューラが見たところ、 魔物個々の強さはエリステインの騎士や宮廷魔術師よりも強かった。 とはいえこの三人でやれば楽勝と断言出来る。しかし太一のよう に一人で全てを倒すとなると、それなりに真面目にやる必要がある。 太一はそれを、何か考え事をしながら戦闘に望み、そして魔物の 群れを圧倒した。 太一の強さには慣れている奏とミューラが呆然としてしまうほど なのだから、ケイオスが口をあんぐりとさせてしまうのも納得がい く。 太一の強さは、武力だけでは語れない。もちろん攻撃力、速度、 正確性全てが超がつく一級品だが、彼の凄さはそんなところではな い。 今の闘いを観戦していて目立ったのは、太一の視野の広さだ。前 だけではなく、後ろ、左右にも目があると言わんばかりの対応能力 である。 1370 魔物たちもバカではないようで、小賢しくも数の利を生かして死 角からの攻撃を多用していた。近距離攻撃はもちろん、遠距離攻撃 に奇襲も織り交ぜられたオールレンジ全方位攻撃。太一はそれを見 事に捌いて見せたのだ。 もちろん、こんな事がいきなり出来るようになったわけではない。 馬車で移動中にも散発的に魔物との戦闘は発生していた。 街道沿いに現れる程度の魔物が一行の妨げになどなるはずがなく。 憐れ魔物たちは太一たちの戦闘訓練の相手となり、剣のさびにさせ られていた。 奏は無詠唱魔術と詠唱有りの魔術でどれだけ差が出るか等の実験 を行い。 ミューラは太一の魔力強化を真似しようと強化魔術の切り換えの 練習をしながら戦闘し。 太一はシルフィのアクティブソナーによる探知能力をパッシブで 発動出来るよう訓練した。 それだけではない。移動時間中も、雑談だけではなくどのように すれば己を高められるかを三人で情報交換しながら進んでいた。今 まで何故それをしていなかったのかと思う程に有意義な時間を過ご してきた三人は、修行時間らしい修行時間を取っていないにも関わ らず、実力の底上げが出来た。 レミーアすら称賛する魔力強化を出来るまでになった太一は、強 化部位切り換えのコツを。 魔術の技量では突出した奏が、威力を減衰させずに魔術の詠唱を 省略、かつ高速で発動させるコツを。 剣術と魔術を駆使して距離を選ばないミューラは、戦闘技術をど のように活かすか、戦いそのもののコツを。 それぞれがAランクに匹敵する三人の実戦に即したノウハウは、 話を聞くだけで実力向上が望めるほどに内容の濃い講義だったのだ。 ウェネーフィクスに戻ってレミーアに会えば、見違えた成長を遂 げた三人に目を丸くすること請け合いだ。 1371 その三人に精霊魔術師が合わされば、この森に出てくる魔物では 障害どころか時間稼ぎにすらなり得ない。 結局、一行の足をもっとも遅延させるのに成功したのは歩きにく い草木という何とも言えない結果の中、四人は邪魔な草や枝を払い ながら進み、ついに古城まで辿り着いた。 ﹁うーむ。それっぽい雰囲気バリバリだな﹂ 城を見上げて、太一はそう呟く。 太陽の光に照らされているのに、何となく淀んで見える。 それを端で見ていた奏が小さくぶるりと震え、すすっと太一に近 付いた。 ﹁この中はこんなもんじゃねえぞ﹂ ﹁来た事あるのね﹂ ﹁ああ。下見しにな。元々ちっと様子見て帰るつもりだったんだけ どよ⋮⋮﹂ 腕を組んで忌々しげに城を見つめるケイオス。どうやら何かあっ たらしい。 ﹁けど、何よ?﹂ ﹁ああ。オレが城の中にいたのは五分くらいだ﹂ ﹁え? 幾ら下見っつったって短すぎだろ﹂ 太一の言葉にケイオスが眉を上げた。 ﹁仕方ねえだろ。何かの罠作動させちまったみたいでな。城の廊下 歩いてたはずが、次の瞬間には森の中を歩いてたんだよ﹂ ﹁は⋮⋮?﹂ 1372 思いもよらない返答に目が丸くなる太一。 ﹁他にどんな罠があるか分かったもんじゃねえ。お前らも十分注意 しろよ﹂ これはかなりアレでナニな城だ。 締めてかからんと、と気合いを入れ直していざ入城する。 そして、最初の一歩目。罠を踏み抜いたのは奏だった。 ばくんと開く床。ちょうど穴が二つ。 ﹁うおっ!?﹂ ﹁マジかいきなり!?﹂ ﹁きゃああ!﹂ 流石に入った瞬間は意識していなかった。たった五分とはいえ、 ケイオスは入城は出来たとはっきり言ったのだから。⋮⋮そんな先 入観に囚われた四人の警戒の穴を、見事に突かれる形になった。 向かって右の穴には太一と奏が。左の穴にはミューラとケイオス が。抵抗する間もなく重力に引かれて落ちていく。 ﹁タイチっ! カナデ!﹂ ﹁ミューラ! ケイオス!気を付けろよ!﹂ 太一はとっさに叫び、隣で足がすくんでいる奏を抱き寄せる。 どれだけ穴が続くか分からない。二人ならば別に一〇〇メートル 程度の垂直落下位は普通に凌げる手段を持つが、万が一がある。 ミューラとケイオスの無事も気になる。とはいえまずは自分達だ。 ﹁奏! 掴まってろ!﹂ 1373 ﹁うんっ!﹂ 気付いたら震えが止まっていた奏を疑問に感じる間もなく、二人 は闇に呑まれていった。 1374 精霊魔術師と古城探索 三︵後書き︶ この更新もギリギリでした⋮ 先に謝っておきます。今後締め切り飛ばしたらすみません。 というか、高確率で締め切り飛ばす予感がひしひしと。 1375 精霊魔術師と古城探索 四︵前書き︶ お待たせしました。 1376 精霊魔術師と古城探索 四 床まではあっという間だった。 腰の剣を抜いて壁に突き刺し、勢いをやわらげる。ぎゃりぎゃり と響く耳障りな音に顔をしかめた。ミューラの体重がプラスされた 落下エネルギーをもろに受け止めてびくともしないのは、流石ミス リルの剣だ。 そのわずか下で、だん、と大きな音がする。おそらくはケイオス が着地したのだろう。 あの戦闘を見て、この程度の落下は問題ないとミューラは踏んで いたが、予想通りだった。 壁に足をつけ、剣を引き抜くと同時に宙に舞う。空中で一回転し て軽やかに着地した。 付近にケイオスのものと思しき気配だけがある。 とはいえ、暗闇に目が慣れていない現状、視認するのは無理だ。 ﹃⋮⋮ファイアボール﹄ あまりの暗さに視界が確保できず、ミューラは規模を小さくして ファイアボールを唱え、光源を生み出す。 拳大程の火の玉に照らされて、暗闇に覆われていた空間が露にな る。 四方一〇メートルほどの部屋、そのど真ん中に二人はいた。部屋 には何もない。あの落とし穴の行く先としての役割を果たすためだ けに設えられたのだろう。 右手の壁には通路が見える。流石にファイアボールの光では届か ないのか、どのようになっているのか分からない。 上を見上げてみるが、落ちてきた入り口は見えなかった。すでに 塞がっていると思われる。落下時間から換算すれば六〇メートル程 1377 だろう。 隣のケイオスに目を向ければ、﹁ぬおお⋮⋮﹂と何やら呻いてい る。着地の衝撃で足が痺れたのだろう。 ﹁あの程度で足痺れるとか、油断し過ぎじゃあないかしら?﹂ ﹁う、うるせえ⋮⋮﹂ それなりに堪えているらしく、ミューラの嫌味に対する抗議にも 力がない。 その場で大きく息を吐いて、ミューラはやるべき事を開始する。 ﹁タイチ! カナデ!﹂ 大声で呼び掛けてみるも、虚しく反響するのみだ。どうやら全く 別の場所に落とされたらしく、太一と奏の気配も魔力も感じない。 もしかしたらこの妙な魔力が阻害しているのかもしれないが。 身体をじわじわと刺すような圧倒的な憎悪が込められた魔力が、 先程からひっきりなしにミューラを叩いている。 これの発生源はどこなのか。これほどに濃密な感情がこもった魔 力に触れるのは初めての事。 ともあれここから移動するには、あの通路を使うしかなさそうだ。 このトラップに何の意味があるのかは分からないが、相手の思う 通りに動くしかないというのは気に食わない。 まあ、落ちたのはミューラの不徳のいたすところであり、文句を 言うのは筋違いだ。 ﹃ファイアボール﹄ 拳大の火球を維持したまま、今度は人の頭程の大きさの、破壊力 を落としたファイアボールを発動する。 1378 そして、それを速度を落として通路の方に放った。 揺らめく炎が周りを照らしながら進んでいく。通路は四方を石を 切り出して組み上げた、見た目はなんの変哲もないもの。 ミューラの視力が及ぶ限り進ませてみたが、特に変わったところ はない。もちろん、見た目は、だが。 適当なところでファイアボールの維持を止める。炎はやがて収縮 し、消えていった。 ﹁足の痺れは取れた?﹂ 鬼が出るか蛇が出るか。ともあれ進むしかない。 ﹁ああ⋮⋮もうちょい待てよ⋮⋮﹂ なんとも不格好にケイオスがひょこひょこと歩いているが、やが て治ってきたのだろう、足取りが確かなものに変わった。いや、こ の場合は戻ったと言うべきか。 実に不本意だが、この男と進むより他はない。いつまでも停滞し てもらっては困るのだ。 ﹁待たせたな。もういいぜ﹂ ﹁そう。じゃあ行くわよ﹂ 二人は暗闇続く通路を歩き始めた。 ﹁思った以上に厄介ね⋮⋮﹂ 小さく呟いた声は、ファイアボールが燃える音にかき消される。 太一と奏は大丈夫だろうか。 あの二人ならば余程の事がなければ危機とはならぬだろうが、心 1379 配なものは心配なのである。 まあ、最悪の手段としては城を破壊する事も視野に入れている。 とりあえずはなるようにしかならないと割り切って、ミューラは前 を見据えた。 ◇◇◇◇◇ 奏にしがみつかれたままでは十分に力を発揮できない。 他の冒険者ならともかく、太一には枷にはならない。 片腕が塞がれていようとも、そんなものは関係がない。 遠近を選ばない低速の移動砲台と化した太一は、並み居る魔物を 出会う先から叩き潰し、ずんずんと進んでいく。 実体の無いスピリッツ系のモンスターは、強めの威圧で消し飛ぶ のが分かってからは、脅威の対象から除外されている。端から見て いて切ない事この上ない。 実体がある相手には、威力を上げて剣で斬ればいい、とばかりに 一刀両断する。 斬っても再生するゾンビは、腕に強く強化を施し、秒間五〇回の 斬撃を二秒前後叩き込んで無力化する。流石に細切れにされると再 生には相当時間が掛かるようで、立ち去るまでに復活とはならなか った。 相も変わらず石造りの通路が続いている。城の大きさから考えて 1380 歩いた距離は釣り合わないが、もう気にはしない。 化かされているのだと思えば何でも納得できると結論を出した。 そんな結論を出せるのはもちろん太一だけである。いざとなれば シルフィに力を貸してもらい、強引に脱出してしまえばいいのだ。 ﹁⋮⋮おっ﹂ 歩いた先に、今までとは違う光景が。 石しか無かった壁にぽつんとある、木で造られた扉。 とりあえず開けるしか無いだろう、と、罠があったら踏み潰すつ もりでそこに向かう。 都合が良い展開を期待するなら、そこが部屋であるなら良い。 ずいぶん前に見た小窓からの光景では、既に夜になっていた。つ まりこの時間はアンデッドの舞台なのだ。日本にいた頃なら流石の 太一も怖かっただろうが、今は全て倒す対象になっているため怖さ をそれほど感じない。 先程現れたスケルトンの群れなど、一匹の骨を剣で鰹節のように 薄く削ったら、残りのスケルトンは慌てて逃げて行ったのだ。薄く 削られたスケルトンはがらんどうの目から涙を流して悲しんでいた。 お茶が似合いそうな骨であった。 どうやら彼らにも感情はあるらしい。 緊張感溢れるダンジョンにおいて、そんなコミカルな光景を作り 出せる太一である。 そんな太一だから気にしないが、奏は今もってびくついている。 幼少時に相当怖いお化け屋敷に入ってしまったのが原因で大の苦 手になってしまった奏。 一〇年近く経っても克服できなかったその苦手意識の強さは伊達 ではないらしく、このままでも進むのは可能だが、彼女に無理をさ せるのは心情的に出来なかった。 がちゃりと扉を開けて中を覗く。特に罠はなく、普通に入室出来 1381 た。 ﹁ほら、奏﹂ ﹁うん⋮⋮﹂ なんの変哲もない部屋だが、前後上下左右から脅かされる体験は かなり堪えたらしく、中々太一から離れようとしない。 ﹁シルフィ﹂ ﹁はーい﹂ その声に呼応して、緑色の強い輝きが。 実体を露にしたマスコットサイズのシルフィは、腰に左手を当て て前屈みに右手人差し指を立てていた。 ﹁四大精霊をお化け避けにするなんて、たいちも良い度胸してるよ ね﹂ ﹁まあな﹂ 悪びれない太一を見て頬を膨らましたシルフィだったが、すぐに その表情を笑みに変え、右手を上に向けた。 シルフィが放つ優しい光が部屋を覆う。何だかんだ言って、太一 の頼みはくだらなくても断れないシルフィである。 その光に触れた奏が、安心したように太一へ掴まる力を緩めた。 ﹁もう大丈夫よかなで。アタシの結界破れるアンデッドは、この城 にはいないから﹂ もちろん、二人は城の全容を明らかにしたわけではない。ただ一 本に続く通路を歩いただけだ。 1382 それなのに、シルフィは断言した。 普通は安心させるためのリップサービスだと思うだろう。しかし、 シルフィに限ってはそうならない。 ﹁ありがとう、シルフィ﹂ ようやく人心地つけたのか、奏はそう答えて太一から離れた。 想い人の様子を見て、太一も小さく安堵の息を吐いた。 ◇◇◇◇◇ 強く床を蹴る。ぐんぐんとゾンビの姿が大きくなる。 ゾンビは動きが緩慢だ。最大の武器は斬られても死なないタフさ と、毒なりウィルスなり酸なりが含まれた搦め手の攻撃である。 上位種ともなれば意思を持っているかのように動いてくるものも いるが、ここにいるゾンビは初級編。ただ目の前の生き物を本能の ままに襲うだけだ。すぐに腐敗していく武器にさえ気を付ければ、 Eランク冒険者でも狩る事は可能である。 間合いに素早く飛び込む。ゾンビは間合いに入られてから動き出 そうとしていた。 腐った腕が掴もうとしてくる前に、左手をゾンビに向ける。 1383 ﹃焦熱閃﹄ 超高熱が左手から放たれ、通路が激しく輝く。 時間にして一秒ほどの攻撃。ゾンビは跡形もなく燃え尽きていた。 瞬間的に高熱を放射する炎系の近接戦闘用魔術﹃焦熱閃﹄。持続 時間と射程距離にネックがあるが、当たれば絶大な破壊力を発揮す る。アンデッドともなれば、当たれば即死だ。 アンデッド全般に言える事だが、炎には弱い。 ミューラにとっては与しやすい相手だ。 焦熱閃を放った左手を引き戻しながら身体を回転させ、近くにい たスケルトンに飛びかかり斬りつける。一刀目で剣を持つ腕を、二 刀目で斧を持つ腕を。最後に身体を伏せて両足を斬る。支えがなく なりばらばらになりながらスケルトンは倒れた。 受け持った魔物を片付けたミューラは剣を鞘に納める。 少し離れたところでは、ケイオスが最後のゾンビを水の矢で穿ち、 よろめいたところを大剣の広い腹で上から叩き潰したところだった。 ﹁よお。終わったか﹂ ﹁ええ﹂ お互い負けるとは微塵も思っていない。このレベルの魔物が相手 なら、全てを一人で倒すのも可能なのだから当然の帰結だ。 会ったばかりで連携は取れないと判断したため、それぞれが相手 を邪魔しないのが最大の連携と結論付けている。 ﹁ここは城のどの辺りなんだろーなあオイ﹂ 剣を肩に担ぎ、ケイオスがごちる。 ﹁あたしが知るわけないわ﹂ 1384 ﹁わーってるよ。言ってみただけだ﹂ 二人が見る光景は、ホールと呼べる広さの空間だ。 派手なシャンデリアに赤い絨毯。甲冑や絵なども飾られている。 さぞかし豪華に見えるだろう。惜しむらくはその全てが濁って見 えて、色彩に欠けるために雰囲気が悪い事だ。 この場所から判断すれば、城の真ん中に来たように思う。現に一 度階段を昇っているのだ。しかし、二人には判然としない。 ﹁ホールに出たのも、これで四回目ね﹂ ﹁しかも全く同じホールと来たもんだ﹂ つまりそういうことだ。考えの擦り合わせは特に行っていないが、 現在二人が無限回廊に嵌まっている最中というのは共通認識である。 空間を切って繋げるというのは時空属性の使い手ならば可能だ。 しかし何もユニークマジシャンの専売特許ではない。 アンデッドがはびこる空間は現世から隔離された異界と言って良 く、その範囲内ではこのような現象が度々起こる。 いちいち驚いていては進めないのだ。 ﹁ちきしょう、くそかったりいな﹂ ﹁⋮⋮﹂ 文句を言っても状況は好転しないと言いたいところではあるが、 ミューラは特に諌めなかった。うんざりし始めているのは彼女も同 じだ。 と、二人はぴくりと同時に反応する。 仲が良いわけではない。中身はともかく、冒険者としての腕は認 め合っているからこそ、その勘には一定の信頼を置いている。 1385 ﹁よお﹂ ﹁ええ。何かいるわね﹂ 二人は虚空を見詰めている。その先には闇しかないが、視線を動 かす事も無い。 確信がある様子だ。 ﹁ちっとばかり、これまでとは毛色が違うようだな﹂ ﹁そうね。八つ当たりにはちょうど良いかしら﹂ ﹁はっ。気の強え女だ﹂ ﹁不遜なあんたに言われたくないわ﹂ ケイオスが剣を担いだまま、斜に構え、ミューラが剣の柄に手を 添える。 ﹁⋮⋮アークデーモン﹂ ﹁こいつらを倒せば、無限回廊から抜け出せるとかか?﹂ ﹁さあ。そうだといいわね﹂ ﹁ま、やるか﹂ 赤い鱗に包まれた人形の悪魔。その姿を見て、ミューラとケイオ スは戦闘態勢を整える。 ◇◇◇◇◇ 1386 ベッドに腰掛けている太一は、袖に隠した腕時計を見た。時刻は 午前零時手前。 ﹁もうすぐ日付が変わるか﹂ 太一の左隣に座った奏がそれを覗き込む。 ﹁電池切れは?﹂ ﹁今んとこその心配はなさそうだ﹂ 毎朝窓際に置いて太陽光で充電しているため、電池切れの心配は 皆無だ。時間のずれは正午の鐘を基準に合わせている。 それらを説明すると、奏は納得したように頷いた。 ﹁たいちの世界では、そんな風に細かく時間が分かるものなの?﹂ 左肩に腰掛けて足をぷらぷらさせていたマスコット⋮⋮もといシ ルフィがそう呟く。 その通りであるため、太一は頷いた。 ﹁俺たちの世界だと、この世界よりも時間については細かいな﹂ ﹁そうなんだー﹂ そんな彼女に、一日を大まかに二四分割すること、この世界の鐘 一つは、太一たちの世界において二四分割中の三つ分という事等を ざっと説明する。感心と若干の呆れが混じったシルフィのため息を 聞いて、六〇分割したものを更に六〇分割しているというのは言わ 1387 ない方が良さそうだと太一は判断した。 この世界の時間の判断は太陽の位置と三時間毎の鐘である。太一 と奏からすればアバウトこの上無いが、この世界の人々はそれで事 足りているのだ。常識の違いを言及する事ほど不毛なものはない。 それでも行うのなら、双方が必ず歩み寄るという前提でなければ、 単なる押し付けになってしまうだろう。 そんな事をぼんやりと考えていると。 シルフィが肩から飛び降り、ふわりと浮いた。 空中を自由に行き来する小さな姿。軌跡に沿って緑色の光が散っ た。 ﹁ねー。たいち、かなで﹂ 何かを含んだかのような声色に、二人がいぶかしむ。シルフィは にやりと笑った。 ﹁仲、良いね?﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮!?﹂ ぴったりと密着した腕と腕。奏はわずかにだが、太一に体重をか けていた。 これだけ言えば、二人がどんな状態かは分かるだろう。 顔を赤くして、冒険者としての身体能力をとても無駄に使い、二 人同時に素早く距離を取った。 ﹁えー。あれだけぴったりひっついてたのに、今更じゃない?﹂ 若い者を冷やかすデリカシーの無い親戚のおじさん状態である。 ﹁し、シルフィ!﹂ 1388 ﹁なあに?﹂ 奏の抗議に、こてん、と首をかしげる。とても可愛いのだが、今 はあざといとしか言えない。 ﹁ずっとくっついてたじゃない。見せつけてくれちゃってもー﹂ ﹁∼∼∼∼っ!﹂ 奏は頭から湯気を出している。 ﹁ねー、二人とも﹂ ずいっと近寄ってくるシルフィに、何とも言えないプレッシャー を感じ取り、太一と奏は同時に後ずさった。 ﹁もう、キスはしたの?﹂ ﹁え?﹂ ﹁は?﹂ その問いかけに、二人は固まった。 シルフィは何と言った? キスと、言ったはずだ。 キスとは、接吻である。接吻とは、口付けである。口付けとは、 キスである。 太一は何だか熱に浮かされた頭でそんな事を考える。どうやら相 当に混乱しているようだった。 ﹁あれ? してないの?﹂ シルフィは心底意外、という顔で首を捻っていた。 1389 呼べばいつでも応じるシルフィだが、常に太一の側にいるわけで はなく、よくどこかへふらっと出掛けている。どういう理屈かは分 からないが、太一が呼べばそばに一瞬で戻ってこれるというわけだ。 とにかく、シルフィは太一と奏の全てを知る訳ではない。むしろ 気を利かせてシルフィの目のない状況というのを何度となく作り出 しているのだが、どうやら二人はこれといって進展していないらし い。 腕を組んで唸ったシルフィが、ふと手を打つ。 ﹁じゃあ、アタシ今からどこか出掛けてくるから。ざっと鐘一つ分 くらい﹂ ﹁か、鐘一つって⋮⋮﹂ 真っ赤な顔で狼狽しまくる奏。 なんとも意味深な時間である。 太一は一時停止ボタンを押したかのようになっている。 ﹁だーいじょうぶよー。この場にいなくても、結界は維持できるか らー﹂ カラッと明るく言うシルフィ。 ﹁アタシを誰だと思ってるの?﹂ 四大精霊にそう言われ、反論は封じられた。 ﹁じゃあ⋮⋮⋮⋮﹂ 行ってくる。恐らくそんな風に繋がる筈のシルフィの言葉が、中 断された。シルフィは顔をベッドと反対側の壁に向けた。 1390 ずっと楽しそうににやついていた表情も、今は元に戻っている。 その落差には流石に疑問を覚え、二人はシルフィの言葉を待つ。 ﹁⋮⋮誰かが、この結界の中に入りたがってる﹂ ﹁え?﹂ ﹁はい?﹂ 入りたがってるとはどういう事か。 ﹁何か、話があるんだって﹂ 敵意は? と確認すると、シルフィはそれを否定した。太一と奏 は顔を見合わせた。 自力では破れない結界を張れる相手となれば、その力量差は考え るまでもなく分かるはずである。 それでもやって来たという事は、危険も覚悟の上なのだろう。 ﹁実体は?﹂ ﹁無いよ。多分霊体﹂ 太一は一瞬だけ考えた。 ﹁シルフィ﹂ ﹁うん。妙な素振りを見せたらやっつけるよ﹂ 敵意が無い、という言葉を鵜呑みにするつもりはない。 敵意を隠しているだけというのは充分に考えられるからだ。 ﹁じゃあ、招き入れるよ﹂ 1391 シルフィが壁に手を向ける。石の壁をすり抜けて姿を見せたのは、 身なりの良い中年の男性。一目見て、生きてはいないと分かる。身 体が半透明だし、脚が途中でぼんやりと消えてしまっているから。 1392 精霊魔術師と古城探索 五 赤い鱗のワニと人を足したような姿。ぎょろりと光る爬虫類の目。 左右の肩甲骨からは黒い角が伸びている。その手には黒く、穂先の 長さがアシンメトリーの槍。 槍を使用した近接戦闘能力はもちろん、個体によっては魔術も駆 使し、赤い鱗は半端な刃物での攻撃を軽く弾いてしまう。体高は恐 らく三メートル弱。ミューラの倍近い。 まごうことなきアークデーモン。その強さは文句なしのAランク。 何故これほどの魔物が⋮⋮と考えてみるものの、答えの出ない疑 問に思考のリソースを割くのは不毛と気付き、ミューラは考えるの を止めた。 彼女からすれば久々に出会う強敵に、剣を握る手に力が入る。 ﹁よお﹂ ﹁何よ?﹂ ﹁やれんだよな?﹂ その問い掛けに、笑って答える。 ﹁愚問ね。あんたこそどうなの?﹂ ケイオスは口の端を歪めた。 ﹁あの程度に手こずってたら、精霊魔術師なんざ名乗れねえよ﹂ 曲がりなりにもユニークマジシャンである長身の男。 特定の誰かに師事していたのは幼少期までという状況を、この古 城に来るまでの道中で聞いた。 1393 つまり殆どは我流でここまで実力を昇華したのだ。 仮にこの男がレミーアに師事していたらどうなっただろう。少な くとも、奏と自分に劣るという結果にはならないだろうとミューラ は思う。 努力では埋めがたい素質の差に嫉妬を覚えないでもないが、この 局面ではプラスである。ケイオスが強ければ強いほどいいのだ。 ﹁そう。なら一匹任せたわ﹂ ﹁任されたぜ﹂ 言うが早いか、ケイオスは剣を構え、真正面から突進していった。 アークデーモンの一匹が槍で迎撃。力と力のぶつかり合いに、空気 が震動した。 もう一匹が、間合いに入ったケイオスに一瞬だけ目を向けたのを、 ミューラは逃さなかった。 ﹃火炎破﹄ 何の前触れも無く床が弾け飛び、爆煙が上がる。紅の炎に炙られ たアークデーモンの視線を強制的に集めた。 ﹁あんたの相手はあたしよ﹂ かつて練習していた座標指定の魔術。ミューラ基準で精度が甘か ったそれも、今ではものにしつつあった。 今は身体強化魔術は解除したままだが、もう強化魔術を使いなが らでも問題なく制御する自信がある。 剣を引き、ミューラは現状の把握のために頭を回転させた。 アークデーモンは弱くはない。文句なし、オーガや黒曜馬と並ぶ ランクAの魔物である。 1394 しかし、ミューラにとっては格下の相手。負ければ﹁怠慢﹂と厳 しい評価を貰ってしまうだろう。 普通に戦えば、時間は掛かるが勝てる。 戦力評価に現在の状況を加味する。 古城探索の真っ最中だ。そして、今は無限回廊に嵌まっていて、 脱出の手掛かりは掴めていない。この戦いが長引くと、体力と魔力 を浪費する。 答えは出た。 下手に力を抑えて体力の削り合いをするくらいなら。 ︵最初から、全力全開!︶ ミューラは笑みを浮かべ、魔力を活性化。続いて全身の神経を瞬 く間に掌握する。この間一秒と経っていない。殆ど隙の無い強化魔 術の行使。 ﹁はあっ!﹂ 景気付けに一気に、最大限の強化魔術を施した。 ミューラほどの実力者が全力で身体強化魔術を施せばどうなるか。 ﹃ボアアアアア!!﹄ ミューラから放たれる強烈な気迫に引きずられるように、アーク デーモンが昂った声を上げた。 そう。大抵の相手から、手加減の文字を消去出来るのだ。 強化魔術を施した上で、一太刀目でアークデーモンのどこを斬る かを決める。 決めたなら、間合いを詰めるだけだ。 一瞬でアークデーモンまで迫り、スピードを巧みに威力へと変換 1395 して、横薙ぎに剣を繰り出す。 ケイオス以上の破壊力を持った一撃が、防御に回ったアークデー モンの槍を押し込み、その巨体を数歩後退させた。 自分より矮小なエルフに押され、アークデーモンは怒りと驚愕が ない交ぜになった顔をしている。 パワーがない。 スピードがない。 スペックが足りない。 だからどうした。 そんなものは、テクニックで埋めれば良い。 大切なのは勝つこと。否、負けないこと。 生き残ること。 無いものを嘆くより、先にやる事はいくらでもあるのだ。 更に踏み込み、振り抜いた剣を切り返す。 ﹃ブオア!﹄ やらせるか、とばかりに槍を叩き付けてくるアークデーモン。ミ スリルの剣の一撃でびくともしない槍は驚嘆に値するが。 ︵剣だけだなんて思わない事ね!︶ 右手で隠すように待機させていた左手を向ける。 ﹃瀑砂閃!﹄ 石畳の床が砂と化し、アークデーモンに殺到する。射程は五メー トルも無いが、砂の一粒一粒は地球に存在する拳銃の弾丸に匹敵す る威力。 火属性の近接用魔術、焦熱閃の土属性バージョンだ。 1396 とはいえ、硬い鱗を突き通せるとはミューラも思っていない。そ もそも、ダメージを狙ってすらいない。 砂の幕に包まれたアークデーモン。幕から微かに覗く黒色の槍に、 剣を更に叩き付ける。 耳障りな金属音。 槍がミューラから見て右に流れる。 その結果を確認する前に、ミューラは天高く舞い上がる。その跳 躍、高さ八メートル。空中でくるりと身体を回転させ、天井に足を ついた。 真下では、砂を振り払うアークデーモンの姿。 ミスリルの剣を逆手に持ち替え、炎を纏わせる。 すべては布石。この一撃を、当てるために。 ﹁はあああっ!﹂ 烈帛の気合いを声と共に吐き出し、天井を蹴った。 自由落下に合わせて加速度的にアークデーモンが近付いてくる。 これで仕留める。 そう考えていたが、Aランクの魔物はやはり一筋縄ではいかない。 後少しでコンタクトというタイミングで、アークデーモンががば っと上に顔を向ける。 迫るミューラに対して、迷うこと無く口を開ける。 ﹁⋮⋮!?﹂ 背筋をはい回る感覚を覚え、ミューラは空中で身体を捻る。 ﹃ブハア!﹄ 吐き出されたのは氷のつぶてが無数に含まれた冷気のブレス。 1397 ﹁ちっ!﹂ 本気で舌打ちをする。 ブレスの射線と変更した自身の落下軌道、そして互いの速度を瞬 時に計算。結果、最低でも左腕への軽くないダメージが避けられな い事が分かったのだ。 怖じ気づくも、このまま行くと決意する。 零下の風と氷のつぶてが左腕を激しく叩く。 激痛に顔を歪めるも、一瞬のこと。 アークデーモンの背中をかなり深く斬りつけた。背中の角さえ、 包丁で野菜を斬るより容易く撥ね飛ばした。 ﹃ブオアアア!﹄ それは悲鳴なのだろう。紫色の血を撒き散らし、アークデーモン が叫んだ。 ﹁⋮⋮くっ!﹂ 一方のミューラもそれどころではない。着地の衝撃すら腕に響く。 すぐさまアークデーモンから距離を取り、左腕を観察。冷気で感 覚が失われ、つぶてに曝された腕は血だらけで動かない。 とはいえ、傷は軽い方だ。軌道を変更しなければ、全身で受けて いた。 アークデーモンにとって氷のブレスは奥の手。 溜めの時間を殆ど要せず、直撃すればミューラですら一度で戦闘 不能にする程の攻撃力を誇るのだ。 見た目の地味さとは裏腹に、威力は超一流だ。 1398 ﹁でも、奥の手だしね﹂ 左腕を庇いながら、ミューラは笑う。 容易くは撃てないから奥の手なのだ。 ノータイムで、Aランクの冒険者を一撃で戦闘不能に出来る技が、 何の代償も無く撃てるわけがない。 撃つには残存魔力値の八割を必要とする。もちろん威力は注ぎ込 んだ魔力の量に比例し、更に暫く動きが鈍くなる。 確実に直撃させられるという大前提のもと、相手を必ず仕留めら れる場合に使う技なのだ。 何せ外せばピンチに陥るのはアークデーモン自身だから。 そこまで分かっていたからこそ、ミューラは左腕を犠牲にしてで も斬る事を選択した。 ﹁知識っていうのはやっぱり武器ね﹂ 時にスパルタで叩き込まれた様々な知識は、ミューラに無形の恩 恵を与える。 当時を思い返せば辛かった、としか言えないが、今はそれを実施 してくれたレミーアには感謝しかない。 ﹁さて。左腕を封じられたあたしと、背中の傷で済んだあんたと、 形勢はどちらかしらね?﹂ アークデーモンが人間の言葉を理解できたなら、白々しい、と思 ったことだろう。 彼女の口ぶりは明らかにブレスの代償を知っているものだったの だから。 1399 ◇◇◇◇◇ ﹁うーん⋮⋮﹂ ﹁あらら⋮⋮﹂ 奏は真っ青な顔をして目を回してしまった。 本物の幽霊直視は、流石に刺激が強かったようだ。 ﹃お初にお目に掛か⋮⋮おや?﹄ 整った、高級そうな身なりを除けば、どこにでもいそうな中年の おじさんは、困ったように顎を撫でていた。 ﹃どうされたのですかな?﹄ ﹁いや、こいつはお化けとかそういうのがめっちゃ苦手なんだ﹂ ﹃なるほどですな﹄ 気を失うほどだからよっぽどなのだと理解したおじさん幽霊は頷 いた。 太一は、自分の膝を枕にして目を回す奏の頭を撫でながら、心の 中でごめんと呟く。 奏が気を失う可能性もあると分かっていた。 分かってはいたが、それでも話を聞かなければと感じたのだ。 それはやはり、シルフィが張った結界に対して勇敢にも接触して 1400 きた、その事実が大きかった。 とりあえず、奏を無理に起こす必要はない。起きたところで、幽 霊が目の前にいるという事実は彼女に再びショックを与えるだろう。 ﹁いらっしゃい﹂ シルフィは中年の幽霊に声をかける。 彼が思わず仰け反るような姿勢になったのは、シルフィードとい う存在から声を掛けられたという事実故だ。 ﹃これはこれは。四大精霊様のお声を耳にする事があろうとは。長 生きはするものですな﹄ ﹁いや。おっさん死んでっからな﹂ 思わず突っ込んでしまう太一に、ニヤリと笑う中年霊。誘いだっ たと気付く。 そんな長閑なやり取りを見ていたシルフィは肩を竦めて長めに息 を吐いた。 ﹁さて﹂ シルフィは手を合わせる。実体がないため手を打っても音はしな いが、そこは風を司る王。小さく空気を破裂させてぱん、と音を立 てた。 ﹁アタシの結界にようこそ、霊体さん。本日はどのような御用件か しら?﹂ 多少おどけながら早速本題に入ろうとするシルフィ。中年の霊は 堂に入った所作で胸に手を当て、腰を深く折った。 1401 大袈裟ではない。シルフィがどのような存在か分かっている太一 は、シルフィに対する淀み無い対応にむしろ感心していた。 ﹁おっさん、慣れてんな﹂ ﹃この身体になってからは精霊様にお目に掛かる機会も幾度かあり ましてな﹄ 精霊はその格に関わらず、命あるもの全てよりも上位の存在。彼 の態度も分かる。 折った腰を戻しつつ、その目は太一とシルフィを収める。 ﹃改めまして、エレメンタル・シルフィード様、召喚術師・タイチ 様。私はスライマン・レングストラッドと申します﹄ 様付けされてむずむずしている太一。 ﹃お二人とお仲間がおられるこの城⋮⋮レングストラッド城の元主 です﹄ ﹁レングストラッド城⋮⋮﹂ この城に名前があるとは知らなかった太一は傾げる。 ﹁ふーん。ここ、レングストラッド城ってのか。知らなかったなあ﹂ 城の外観を思い浮かべて太一がそう呟く。 ﹃ご存じ無いのも無理ありませんな﹄ スライマンは笑った。 1402 ﹃今から二〇〇年前の戦。それによって、この城は歴史から退場し たのです﹄ ﹁二〇〇年前⋮⋮?﹂ その数字には聞き覚えがあった。 かつて、ガルゲン帝国とシカトリス皇国の間で起こった戦。 ﹁ああ⋮⋮分かっちゃった⋮⋮﹂ 記憶の海から該当する単語を引っ張り出した太一は、苦い記憶に 顔をしかめる。 ﹁血みどろの狂想曲、ね﹂ ﹃左様でございます﹄ シルフィが目を閉じ、スライマンが頭を下げる。降りる一瞬の沈 黙。 それを破ったのは太一だった。 ﹁あれ? でもおかしくね?﹂ そう言って、太一はスライマンを見た。 ﹁あれって確か、国境付近で起きたんじゃなかったっけ? この辺 は国境からは遠いだろ?﹂ 当時は状況が状況だっただけにそこまで詳しく説明はなされなか ったが、その後時間が出来た時にシルフィからもう少し詳しく経緯 を聞いたのだ。 その話を思い出して生じた疑問を口にする。 1403 ﹁そう、その通りよたいち﹂ ﹃良い質問ですな﹄ どうやら、太一が感じた疑問は話しの肝だったようだ。 ﹃バーサーカーの話は、戦線から遠く離れた我が城にも届いており ました。しかし、遠い空の下の出来事と、高を括っていたバチが当 たったのでしょうな﹄ スライマンの顔に陰が落ちる。 ﹃この城はガルゲニアと最前線を結ぶ中継拠点の役割を果たしてお ったのです﹄ とつとつと語られる昔話に、太一は何だか嫌な予感が拭えない。 ﹃ガルゲニアから物資や兵が届けられ、送り出し。或いは前線から 帝都へ帰還する途につく兵を受け入れ休ませ。戦闘はありませんで したが、立派な戦の参加者でございました﹄ その役割ならば、直接的な影響はない筈だ。二〇〇年前、一体こ の地で何があったのか。 ﹃戦が始まって半年⋮⋮。前線から小隊が帰還してきました。それ が、始まりでございます﹄ ﹁心食の遅延発症⋮⋮バーサーカー化したのね﹂ シルフィが苦々しく言う。スライマンが肯定した。 1404 ﹃城の兵たちはあっという間に影響を受け、使用人など、抵抗出来 ぬ人間を蹂躙せしめたのです。三日三晩、昼も夜もない悪夢でござ いました﹄ ﹁ごほっ、ごほっ﹂ 太一は上手く空気が吸えず、むせた。 ﹃私には息子がおりました。手前味噌ですが、出来た息子でしてな。 その息子は、戦が始まる三ヶ月前に婚姻し、妻と仲睦まじく暮らし ておったのです。半年後には孫が生まれる予定でした﹄ バーサーカーに見境はない。三大欲求のうち性欲と食欲が格段に 強化され、また破壊衝動に支配される。その息子の目の前で妻は蹂 躙され、共々命を落としたという。口にするのも憚られるほど無惨 な死に様だったらしい。 ﹁⋮⋮﹂ ﹁たいち⋮⋮﹂ 言葉が出なくなってしまった太一のほほに、シルフィが小さな手 を添えた。 ﹃まあ、過去のことです。同情して頂けるだけでも充分でございま す﹄ そう、過去は、変えられない。失った時間も、失った命も戻らな いのだ。 ﹃ですが、もしも我が息子を、その妻を憐れんで頂けるのであれば ⋮⋮お力を、お貸し下さいませ﹄ 1405 スレイマンの言葉に、太一は顔を上げた。 ﹃この城に立ち込める、怨念がこもった魔力にはお気付きでしょう か﹄ ﹁ああ﹂ 首肯する。魔力に感情がこもる事はあるが、ここまでとなると中 々ない。 恐らくは。 ﹃お分かりでしょうが、この念は無惨に命を散らした者たちのもの。 浮かばれていないのです﹄ 太一は頷いた。 予想通りだった。あの話を聞いた後では納得も行く。 ﹃死に様に納得いかないのも分かるのです⋮⋮ですが、私としては、 死んでまで現世を恨んでいる彼らを不憫に思う⋮⋮楽にさせてやり たい、と思うのです﹄ 地球においても、生き物が生きる世界が﹃この世﹄で、死後の世 界が﹃あの世﹄とする考え方があった。 生前の行いの善悪により、あの世での行き先が天国か地獄かに変 わる、とする話は有名だ。 現世に残っている霊は、要はあの世に行けていない存在。 異世界アルティアでも天国や地獄という話が通じるかは不明だが、 死者に安らかに眠って欲しいと思うのは同じのようだ。 ﹁⋮⋮俺たちに出来ることがあるのか?﹂ 1406 地球と違い、この世界はファンタジーだ。 霊感がなかった太一にとって、メディアに登場する霊能力者は信 じていいのかどうかの判断がつかない存在だった。 だが今は違う。こうして命なき存在の姿を見、声を聞き、意思を 疎通している。 魔力というものに触れてそれが可能になったのかもしれない。も しかしたら、魔術が使えれば誰でもスライマンと話ができるのかも しれない。 しかし、ここに辿り着ける人物は一握り。 つまり彼は二〇〇年もの間、懊悩とした日々を過ごしてきたのだ。 その願いを切って捨てられるほど、太一は非情にはなれなかった。 ﹃出来ます。と、いうより、貴方方にしか出来ないのです。召喚術 師様﹄ スライマンは、はっきりとそう言った。 1407 精霊魔術師と古城探索 六︵前書き︶ お久し振りでございます。。 1408 精霊魔術師と古城探索 六 白銀の煙が波紋のように広がり、燭台でゆらめく薄暗い火に照ら されてきらきらと瞬いた。 晴れた夜空を彷彿とさせるそれを吹き飛ばす勢いで、ミューラは アークデーモンに向かう。 多量に水分を含んだ煙の中を突っ切ったため、ミューラには幾分 か細かい水滴が付着している。 なびく髪はその水分によって一際美しく見えた。 ミューラが右手に持つミスリルの剣は、纏った炎によって刀身が 赤熱に染まっている。霧を一瞬で散らす程の高熱だ。 ﹁はっ!﹂ 煙を抜けたら、やつはもう目の前。ミューラは素早く剣を振り下 ろし、アークデーモンの右肩から左腰までを深く深く切り裂いた。 ﹃ブギャアアア!﹄ これまでとは違う、大きな悲鳴が漏れる。断末魔だ。 黒い槍が手から離れて床に落ちた。 ﹁⋮⋮ふう﹂ ひとつ息を吐いて、ミューラは剣を構え直す。かちりと得物が音 を立てた。 これで仕留められないかもしれない。破れかぶれの反撃が来るか もしれない。慢心して、油断したところに反撃を喰らって負けまし た、なんて事になったら恥ずかしくて死んでも死にきれない。 1409 奏に、そして太一に顔向け出来ない。 ﹃アアアア⋮⋮アア⋮⋮﹄ アークデーモンはその姿を保てなくなったようだ。雨風にさらさ れた岩が風化して崩れていくように、巨大な身体が細かい粒子に変 わっていく。 やがてアークデーモンが居たところには、細かい砂の山があるだ けだった。 それをじっと見詰めて更に少しの時間が経過。 復活する可能性が無いのを確認して、剣を逆手に持ち替えてカシ ンと鞘に納めた。左手の補助が必要な程不器用ではない。 アークデーモンはあのような死に方をする。普通は復活しないが、 ここは常識が顔を出さない異空間。﹁そんな馬鹿な﹂と思うような 事が起きても不思議ではない。 もっとも危惧したのは、アンデッドとしての蘇生だ。それが起き なかったから、一先ずは大丈夫だろう。 ﹁終わったのかよ?﹂ 背後から声か聞こえてそちらに目を向けると、大剣を右手に、黒 い槍を左手に持ったケイオスの姿。あちらの方が先に勝ったらしい。 ﹁ちょうどね﹂ ﹁随分こっぴどくやられたな、おい。休んだ方がいいんじゃねえか ?﹂ 彼は大きな怪我を負っていないようだ。だが。 ﹁それはお互い様よ。あんたは体力も魔力も枯渇寸前まで消耗して 1410 るわね﹂ そう指摘を受けて、ケイオスは肩を竦めて降参のポーズを取った。 軽くない怪我を負いながらもこのまま戦闘そのものは可能なミュ ーラ。 怪我は負わなかったが戦闘不可能な状態まで体力と魔力を消耗し たケイオス。 どちらがマシかは微妙なところだ。 ﹁ま、とりあえずは休憩だな。オレは休みたいし、お前もそれ処置 してぇだろ?﹂ ﹁⋮⋮そうね﹂ 満場一致ーー二人しかいないという突っ込みは野暮だーーで方針 が決まり、二人は休めそうな部屋を探して歩く。 どうやら無限回廊は無事抜けられたようで、二人は生活感溢れる エリアに辿り着いた。無論、初めてのエリアだ。 色々と物色していると、食物庫らしき小部屋を発見した。ミュー ラはここで手当てをしようと決めた。 平気な顔をしているが、大分辛い。表に出さない我慢強さは相当 なものである。 ﹁お願いがあるんだけど﹂ 何かを探している様子のケイオスに、ミューラは声をかけた。 ﹁あん?﹂ ミューラの方を見ずに応じるオレンジの髪の男。 1411 ﹁水を出してくれないかしら﹂ ﹁ああ。ちっと待ってろよ⋮⋮お、これでいいか﹂ ゴソゴソと戸棚を漁るケイオスが、やがて何かを引っ張り出して きた。 大きめの金だらいだ。ケイオスは何度か水を生み出して濯いだ後、 一際澄んだ水を張ってミューラに手渡した。 ﹁ほれ﹂ ﹁ありがとう﹂ 手渡されたたらいを受け取りながら素直に礼を言うと、ケイオス が目を白黒させた。その反応を見て長身の男が何を思ったかを理解 したミューラは逆に眉をひそめる。 ﹁⋮⋮何よ?﹂ ﹁いや、随分素直に礼を言うんだな、ってな﹂ 思った事をオブラートに包まずに言うものだ。だが下手に取り繕 ったりするよりは好感が持てる。 ﹁あんたがあたしをどんな目で見てたかよく分かったわ﹂ ﹁そいつは何よりだ。とっとと済ませて来やがれ﹂ ﹁ええ﹂ 金だらいとともに食料庫に入る。 かつては様々な食べ物があったであろうこの場所も、今は空き缶 や空き瓶しか存在しない。臭いも殆どなく、何かを我慢しながら治 療しなくて済むのは幸運だ。 胸当てを素早く外し、左の袖がボロボロになってしまったシャツ 1412 を脱ぎ捨てる。 名匠が陶芸家人生の集大成として作り上げた白皙の陶器と表現し て差し支えない乙女の柔肌が露になった。 もちろん、日頃の鍛練が彼女のプロポーシ ティーンという理由だけでは到底説明のつかない美しさ。これも エルフの成せる業だ。 ョンを鋭くひきしめているのは言うまでもない。 荷物から手早く小綺麗な布と包帯を取り出し、更に治療用のアイ テムを横に置く。 沁みる患部をこらえながら傷口を洗ったら、次は消毒兼治療だ。 腕全体が傷だらけなので治療時の苦痛も洒落になっていない。 ﹁⋮⋮えいっ!﹂ 分かりきっていたが、踏み切るにはいささか勇気が要った。一瞬 の躊躇の後、ミューラは回復薬の封を開けて腕全体に満遍なく塗り 込む。 ﹁∼∼∼∼∼∼ッッ!!﹂ 予想通り沁み方が半端ではない。 悶えそうになるのを必死になって耐え、激痛が過ぎ去るのをただ ただ待つ。 やっとそれが無くなってきたのを確認して、ミューラは固く閉じ ていた目を開ける。 ﹁⋮⋮ふっ⋮⋮⋮⋮はぁ⋮⋮っ﹂ 近くにあった壁に寄り掛かる。流石に憔悴していた。いつの間に か目尻に浮かんでいた涙を指先で拭き取る。 気付けば、左腕は大分楽になっていた。上級の回復薬はやはり効 1413 き目が強い。先程の苦痛も、受けるだけの価値があったというもの だ。 とりあえず服を着る前に終わらせてしまおうと包帯を手に取る。 美貌とスタイルのよさもあいまって、上半身を守るものが胸に巻 かれた布だけという扇情的な姿だが、生々しい腕の傷と手にした包 帯が色気を失わせていた。 手慣れた様子で包帯を扱いながらミューラは先程の戦闘を思い返 していた。 魔術剣は身体への反動が大きい術法である。そうそう多用は出来 ない。 それでも使わなければ、片腕しか生きていないミューラの攻撃力 では通らなかった。 つまり必要なのは攻撃の必中。そのためにはお膳立てが大切だ。 先程の攻撃もそのお膳立てが上手くいったからこそである。 アークデーモンからアイシクルボールが撃たれた。その瞬間にミ ューラもファイアボールを放った。発動時の魔力から威力を推定、 予想通り相討ちとなった。 氷の塊が一瞬で消え去り、水蒸気が残滓となって撒き散らされる。 体のいい目隠しが出来たと言わんばかりに、ミューラは強く地を蹴 ったのだ。その結果、止めを刺すのに成功した。 ﹃赤灼剣﹄。ミューラが新たに編み出した攻撃力特化の魔術剣だ。 これまでの経験から、ミューラは自分に足りないものを自覚して いた。 器用さには自信がある。剣だけ、魔術だけと制限されても戦闘に 問題はない。 適応力にも問題を感じた記憶はない。よっぽどでなければどのよ うな場所でも力を発揮出来ると自負している。 戦術の数もひとかどとお墨付きをレミーアから得ている。 何が足りないのか。 それは、攻撃力。 1414 太一のようなスペックに物を言わせたパワーはない。 奏のように威力特化の魔術を作ることも出来ない。 では、ミューラの、ミューラだけの武器は。 思い当たるのはやはり一つ、魔術剣だった。武器に存在する魔力 の導線を理解し、魔術を付与する。 卓越した剣技と魔術を持つのが最低条件。更に、そこに両者の親 和性、武器の意志を掴む感受性が求められる。 武器という無機物に意志があるのか、という疑問もあるが、ミュ ーラはそう表現する。 これを会得するために費やした時間と重ねた苦労は誰にも否定さ せる気はない。 そしてまた今日も、その努力が報われた。 腕をぐるぐる巻きにして、包帯をナイフで切る。それを止めれば 処置完了だ。 まだ少ししか動かせないが、じき元通りになるだろう。 しばらくは右手のみでの戦闘になる。問題はない。魔術だけ、剣 だけの戦闘で凌げばいい。 とりあえず自身の処置は終わった。続いてケイオスを休ませてや る番だ。 金だらいを持って、ミューラは食料庫を出た。 さて、ケイオスはどこにいるか、と首を巡らせて、少し離れたと ころでこちらを見ているのが見えた。 適当な椅子に腰掛け、背もたれに腹を向けている。 あの座り方は、よく太一がしていた。思い出したのは異世界出身 の少年の事だった。 ﹁もういいのか?﹂ ﹁ええ。待たせたわね﹂ ﹁いいって事よ﹂ 1415 ケイオスはその場で手をヒラヒラさせる。 周囲の警戒は欠かしていないがそれでも大分リラックスしている。 そのお陰かは分からないが顔色も良くなっているし魔力もそこそ こ回復していた。 とはいってもAランク冒険者に匹敵するケイオスの最大値から考 えればまだ半分も回復していないのだが。 周囲に意識を巡らせる。先程までは鬱陶しい程に感じたアンデッ ドの気配がはたと止んでいる。 気を抜くのは良くないが、ここは比較的安全地帯なのだろう。 太一、奏とはぐれてからは連戦連戦でごくわずかな休憩しか取れ なかった。ここいらで身体と精神を休めるのは悪くない選択に思え た。 見付けた手近な丸椅子にミューラも腰掛ける。 椅子に座る、という休憩も何気に久し振りだ。常時薄暗いこのダ ンジョン内に籠っていたので時間の感覚が怪しいが、体調を考える と二四時間は確実に起き続けている。 一日徹夜をしたから戦えない、なんて軟弱な事を言う気はない。 最高で二日間連続で起きながら戦い続けた経験もある。 ︵⋮⋮まあ、睡眠はいらない、なんて言うつもりもないけど︶ 起き抜けの毛布の感触は最高だ! と力説する太一には全面的に 同意する。 ふと顔を上げると、ケイオスがこくりこくりと船を漕いでいた。 気持ちは分かる。一日二日寝なくても平気だが、それは眠気を感 じないという事ではない。 ﹁ったく⋮⋮気楽なものね﹂ 何かが接近してきても気付かない、という事は無いだろうが、ミ 1416 ューラから見れば無防備に映った。 まあ、寝れるときに五分でも、三分でも寝ておくというのには賛 成だ。 ﹃探知結界﹄ 並みの魔術師では感知すら出来ない程隠匿された魔力で、ミュー ラは周囲に結界を張る。これで、何者かが接近してくればすぐに起 きられる。 結界の効果範囲がこの調理場を越える範囲まで覆ったのを確認し、 ミューラもそっとまぶたをおろした。 ◇◇◇◇◇ 目が覚めると、奏は太一の膝を枕にしていた。 太一はその体勢のままうつらうつらしている。自分が膝を占領し ていたため寝転がれなかったらしい。 どうしてこうなった。何やらかなりショックなものを目にした記 憶がある。だが、その時の事はよく覚えていない。 太一の顔がすぐ近くにある。奏は顔を紅くして彼のお腹に顔を埋 めた。太一が寝るまで頭を撫でられていたと知ったらどんな反応を するだろう。 1417 日本にいた頃の太一は運動をしていなかったので特段鍛えられて いた訳ではない。しかし今は、服越しの感触は少し固い。 触覚に訴えるその感覚は、太一が男らしくなったという印象を奏 に与えるのみ。まあ、年頃の少女が年頃の少年に対して濃密なスキ ンシップをしている時点で、彼女の想いは言わずもがなだ。 少しやり過ぎたかなあ、と、奏は心の中で悶え転げていた。 この部屋に来るまでの間、太一にずっとしがみついていた。 あまつさえ自分の胸を押し付けるような真似さえして。 恥ずかしさに顔が燃えるものの、そこに後悔はない。 もちろん、この城の探索は彼女にとって恐ろしいものだった。作 り物のお化け屋敷など比べ物にならないリアル。かつてミューラが ﹁お化けの類いは居る﹂と言っていたのが現実となったのだ。 一方で役得と感じていたのもまた事実だ。太一と二人きりになる のは久し振りだ。ましてシーヤックではミューラが太一とデートを した。あれが必要な任務だったのは分かっている。頭では理解して いても、感情が納得しきれていなかった。 そんな折、降って湧いた二人きりというシチュエーション。罠に 引っ掛かった結果というのは冒険者として情けなさを覚えないでも ないが、自分の肩書きを無視してしまえば幸運と言って差し支えな い。 この機を逃す手はない、とばかりに甘えさせてもらったのだ。 ﹁ううー⋮⋮﹂ 小さな声で奏が呻く。言い訳を幾ら重ねたところで、恥ずかしい ものは恥ずかしいのだ。 トラウマという理論武装があったとはいえ、自分がここまで甘え ん坊だった事実は、奏の顔にしっかりと火をつけていた。 こんなにも大胆になれた理由は分かっている。それは、強力なラ イバルの出現だ。 1418 仲間であるミューラの存在。彼女がいたからだ。 日本では、彼の浮いた噂は聞いた事がなかった。太一はそこそこ に人気者であったために﹁もしかしたら﹂と思ったのも一度や二度 ではない。結局はいずれも杞憂に終わったのだが。 まあ、それについては奏が知らないだけである。貴志との戦力差 は圧倒的だが、太一に心が向いた女の子は全くのゼロではない。た だライバルの存在があまりにも強力過ぎたのだ。 それはさておき。 奏にとっては初めての恋のライバルである。しかも相手は果てし なく強大だ。今でこそ見慣れたものの、初対面でその美貌に呑まれ たのは今でも鮮明な記憶だ。 美しさで勝てる気がしない。料理でも負けている。料理以外の家 事は⋮⋮僅差でミューラだろう。 女子力では連敗。太一への気持ちの強さが、奏のモチベーション だ。 今では親友と呼べるほどに仲良くなったミューラだが、これだけ は、太一だけは譲れない。 いやむしろ、ミューラだからこそ譲れないのだ。 彼と仲良くしているのを見て、嫉妬はする。今は表に出さないよ うにしていられるが、今後はどうだろうか。それは奏自身にも分か らない。 この世界に来て、より気持ちが強くなったように思う。とても切 なくて辛い。これだけの気持ちが味わえるのだから、むしろ幸運だ ろう。本気で好きになった男がいないまま恋人が次から次へと変わ っていき、その度に身体を重ねているという友達もいる。 それもまたいいだろう。だが、奏はまた別の恋愛がしたいと思っ た。 ﹁んがっ﹂ ﹁!?﹂ 1419 太一の声が聞こえ、奏の肩がびくりと跳ねる。 ついで、ぼふ、という音とベッドが弾む感覚。顔を上げると、太 一が仰向けになっていた。どうやら起きるまではいかなかったよう で、まだぐっすりだ。 奏はむくりと身体を起こした。ふと太一の時計を見ると、時刻は 丑三つ時手前。それなりの間眠っていたらしい。 ﹁⋮⋮﹂ 太一は良く寝ている。その寝顔を見つめながら思う。いつになっ たら、仲を進展させられるのだろう、と。 お互いに好きだと告白まで済ませている。だが、付き合う付き合 わないまで明言した覚えはない。 自分と太一は実に微妙な関係なのだ。 客観的に見れば事実上付き合っているのと同じだろう。だが奏と しては初めての彼氏だし、相手が太一なので尚更そういう段階も大 切にしたい。そして出来れば、太一から言って欲しいと願うのは奏 なりの乙女心だ。 ﹁⋮⋮!﹂ ふと気付けば、太一の顔との距離がかなり縮まっていた。 しかし、目が離せない。 まるでそこに視線が縫い付けられてしまったように。 まるで新しい魔法に掛けられてしまったかのように。 奏の目は、太一に。正確には太一の顔に一部に。引き寄せられて 逸らせない。 奏は、すっと目を閉じる。 思う。 1420 想う。 思い出す。 想い出す。 後悔は、しない。 ﹁ねえ、太一﹂ 目を開ける。 男を蕩かすような穏やかな声が出ていると、奏は気付いていない。 ﹁次は、起きてる時にね﹂ 背の割りには小さな手が。 細い指が。 太一の頬に触れる。 ﹁太一から、来て欲しいかな﹂ 奏の瞳に映る太一の顔が、徐々に大きくなっていく。 ﹁来てくれたら、嬉しいかな⋮⋮﹂ 部屋を照らす薄い灯りが柔らかく揺らめく。 その光に照らされた二つの影が、一つに重なった。 1421 精霊魔術師と古城探索 七︵前書き︶ お待たせしました。 1422 精霊魔術師と古城探索 七 まどろむ意識が浮上していくのを感じながら、剣の柄を握った。 閉じていた目を開ける。 確かに感じる。ミューラが張った結界の有効範囲を侵した存在を。 目を閉じてからそう時間は経っていない。体感でおおよそ二〇分 といったところか。まあ、上々の睡眠時間だろう。無いよりは全然 マシだ。 さて、こちらに近寄ってきたモノ︵・・︶はどこに居るだろうか。 雑多な魔力溜まりがそこかしこに発生していて、気配を探るのも一 苦労だ。 釈然としない。ミューラは怪訝そうな顔をした。 目を閉じるまではこんな事はなかった。たった二〇分の間に何が あったのか。 少し離れたところから、見知った人間の気配。ケイオスが起きた ようだ。今は身じろぎでもしているのだろう。 ﹁よお、エルフ﹂ 明け方の視界を遮るもやのように掴み所の無い気配を探っている と、声が届いた。 いい加減名前で呼べ、と突っ込みたくなるが、それを堪える。 ケイオスの声には、真剣を通り越して余裕すら無かったからだ。 ﹁何よ?﹂ ﹁精霊が、騒いでる﹂ 思わず目を剥いたミューラ。この男は精霊魔術師だ。太一のよう にはっきりと声は聞けなくとも、精霊が何かを伝えたがっている、 1423 という事は分かるらしい。 ﹁騒いでる?﹂ ﹁ああ。何ぞ、大分慌てた感じだな﹂ 精霊が慌てる程の出来事。ぱっと考えても即座には出てこない。 ﹁何を言っているか分からない?﹂ ﹁無茶言うんじゃねえよ。精霊の声が聞けるなんてバカな事があっ てたまるかってんだ﹂ ケイオスの言葉に苦笑する。慣れとは恐ろしいもので、太一とシ ルフィとやり取りがあまりに自然なので、ついそう聞いてしまった。 これが正常なリアクションだろう。つくづくあの召喚術師の少年は 規格外だ。 ﹁精霊の感情はどう?﹂ ﹁感情だあ? ⋮⋮いや、やってみるか﹂ 続いて何か反論をしようとしたらしいケイオスだが、その矛先を 引っ込める。試してみる気になったらしい。動きを止め、目を閉じ た。 召喚術師ではないケイオスに、太一ほどの能力は見込めないし、 そこまで無茶を言うつもりもない。それでも、やる前からの締めほ ど、もったいないものはない。まずやってみる。それは大切な心構 えだ。 ﹁⋮⋮うん? 何だか、哀しそうだな﹂ ぽつりとこぼれる独り言。 1424 どうやら精霊の感情をわずかに感じ取れたようだ。 ﹁哀しそう?﹂ ﹁おう﹂ ミューラとケイオスの視線が交差する。 二人とも不思議そうな顔だった。 精霊が哀しむような出来事とは何だろうか。ここにシルフィがい たなら考えるまでもなかっただろうが、そもそも風の精霊王の声を 聞くには太一が共にいる必要がある。考えるだけ無駄だろう。 ﹁何か、心当たりでもある?﹂ ミューラは自分に出来ること⋮⋮つまり周囲の気配を探りながら 尋ねる。 何かいるのは分かっているが、どこに何がいるのかはさっぱりだ。 相変わらずである。 探知結界の外に出た様子はないから、近くにいるはずなのだが。 問い掛け自体にはそこまで意味を持たせていなかった。 ﹁無いことも、ねえ﹂ だから、ケイオスの返事には思わず勢い良く振り返ってしまった。 ﹁無いこともない?﹂ ﹁ああ。心当たりは一つだけある﹂ 大剣を背負い、ケイオスが立ち上がる。 ﹁道すがら話すとするか。ついて来いよ﹂ 1425 ﹁⋮⋮﹂ ファムテームでのあの目に思うところがあったミューラ。 ずっと明かさないなら突っ込むつもりであったが、彼から言い出 したのならそれで構わない。 頷いて、剣を腰に差して荷物を手に取った。 ◇◇◇◇◇ 二人分の靴音が、石壁に幾度となく反響して耳に届く。太一と奏 は寄り添って廊下を歩く。 相変わらず奏は太一にしがみついている。 昨日と違うのは、彼女の様子。 思わず可哀想になるくらい怯えていた昨日と比べると、今日は雰 囲気が違う。 どうも、ホラーな空気を苦手に感じて怖いから、というわけでは なさそうだ。 では何か、と問われると、それはそれで回答に窮する。 昨晩のうちに恐怖を上塗り出来るような何かがあったらしい、と しか分からない。トラウマを克服できるような夢でも見たのだろう か。 想像もつかないので訊ねてみても、奏は俯いてしがみついてくる 1426 のみ。 太一は首をかしげざるを得なかった。 そのまま二人寄り添って歩くこと二時間。その間ずっと直進だ。 外から見た限り、二〇分程度ですら直進できる程の規模の建物では なかったから、異空間と化しているのだろう。 ﹁しかし、どこなんかなあ﹂ 変わらない景色を横目にぽつりとぼやく。いい加減、進んでいる のか戻っているのか分からなくなってきたのだ。昨日はあれだけ遭 遇したアンデッドやスピリッツの類いも、夜が明けてからはまだ戦 闘を一度しか行っていない。 ﹁スライマンさん、だっけ?﹂ ﹁そう﹂ 部屋を出る前、太一は昨晩の出来事を、刺激の強い部分は伏せな がら奏に話していた。 今はこの城に渦巻く怨念の一番深いところを探しているのだ。 ﹁右かな、左かな﹂ 奏の言葉に深い意味は無いだろう。太一は﹁さあ?﹂と応じる。 ﹁下かな? それとも、上かな?﹂ ﹁うーん﹂ 太一は首を捻る。 ﹁どの道、この無限ループを脱しないことにはどうしようもないよ 1427 ね﹂ ﹁⋮⋮やっぱ、奏もそう思うか﹂ はあ、と溜め息をつく。奏は苦笑していた。 ﹁ねえ、太一﹂ ﹁ん?﹂ ﹁もう、いいんじゃない?﹂ ﹁⋮⋮﹂ 何が﹁もういい﹂のか。その言葉が意味するところを、太一は即 座に感じ取った。 ﹁⋮⋮そうだな。やるか﹂ ﹁うん。いいと思う﹂ ﹁よし。とりま、七〇あたりで﹂ その場でぐっ、と身体に力を込める。今しがたの会話の意味を知 るのは、この場では二人のみ。 初めて聞くのでは、何の話かは分からないだろう。ましてそれほ ど大きな声ではなかった。 ﹁ぬかったな﹂ ﹁!?﹂ このように、距離を縮めて聞こうとしてくるのは予想できた事だ った。 太一が魔力強化を行使する。 奏が太一から手を離す。 太一が床を蹴る。 1428 瞬時に、息もぴったり合わせられた一連の動作には無駄がなく、 洗練されていた。 奏がどれほど動体視力を強化しようと、捕捉はかなわない。太一 が施した強化は七〇。奏が全力で強化魔術をしようして得られる身 体能力を倍以上、上回るのだ。 ﹁捕まえた﹂ 太一が首根っこを掴んでいるのは、闇よりなお黒い子猫だった。 ﹁ニャ!? 放すニャア!﹂ 喋った。 猫が喋った。 ⋮⋮のだが、太一も奏もそこまで驚きはしなかった。 エルフしかりドワーフしかり精霊しかり。この世界アルティアは 存在自体がフィクションのようなものであり、何より太一と奏はフ ィクションの最たるものというべき魔法、魔術を使えるのだ。何が 起きても﹁今更﹂としか思えなかった。 じたじたと手足を動かして抵抗する猫。ぺちぺちと猫パンチを放 っているようにしか見えず、必死の子猫には悪いがほんわかとせざ るを得ない。 穏やかなのは見た目だけで、猫パンチの威力はゴブリン程度一撃 で仕留めてしまう程だったが、魔力強化をした太一の前では、意味 など為すはずがない。 幾度となく当たるもわずかな痛痒すら感じない。 ﹁うにゃあ∼⋮⋮﹂ 抵抗がまるで意味をなさないと悟った子猫は、がっくりと項垂れ 1429 るのだった。 ◇◇◇◇◇ ﹁なんですって⋮⋮?﹂ ミューラの静かな驚き。大きな声を出さなかった自分を誉めてや りたい。 ﹁ま、驚くのも無理ねぇわな﹂ 一笑にふされてもおかしくない話をしたケイオスは、想定内のリ アクションを受けて頷いた。 それだけの話をした自覚があった。 ﹁精霊を、捕らえる⋮⋮? そんな、バカなことが⋮⋮﹂ ﹁起きてんだよ、実際にな﹂ 信じられぬと主張しようとして機先を制され、ミューラは開きか けた口を閉じる。 精霊を捕らえる。太一のような特別な存在でなければ姿を見るど ころか存在の感知すら不可能だ。 1430 ﹁その連中は、精霊を捕らえてどうしようというの?﹂ ﹁⋮⋮﹂ ケイオスはちらりとミューラに目を配り、すぐに視線を向けた。 その横顔は、険しい。 ﹁やつらは、精霊から力を吸いとってるんだ﹂ ﹁⋮⋮は?﹂ 俄には受け入れ難い話を聞かされ、目を白黒させる。 間抜けな声をあげたと、自分の声を自分で聞いて気が付いた。 ﹁どんな方法かとか、聞いても無駄だぜ。オレもそこまでは知らね え﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁ただな。精霊ってのは実体を持たねえ存在だ。エネルギーの塊と 言ってもいい。それが、力を吸いとられたらどうなるか。もう分か るだろう﹂ それは、考えるまでもない。森の民ーーエルフであるミューラか らすれば、それはあまりにおぞましい話だった。 ﹁そんな事をして⋮⋮どうなるか、分かっているの⋮⋮?﹂ ミューラは、声が震えないようにするのが精一杯だった。 この、焼き付きそうな怒りをどうすればよいのか。 ﹁オレに言うんじゃねえ。まあ、お前の怒りももっともだけどな﹂ 1431 呆れるでもなく、たしなめるでもなく、ケイオスは淡々とそう言 った。 エルフであるミューラがこの話を聞けば、業火のごとき怒りを覚 えるのは分かっていたのだ。 ﹁⋮⋮ふう。悪かったわ﹂ ﹁気にすんな﹂ ケイオスにぶつけたところで意味がないのは分かっていた。大人 げなかったーー年齢通り子供であるーー自身の非を素直に詫びる。 ﹁お前も知ってる通り、精霊がいなくなった土地は痩せて枯れ、し まいには崩壊する﹂ そう、その通りだ。精霊がいなくなれば、自然は自然である事を 拒否される。 精霊がいなくなって、即座に何か変化が起きる訳ではない。 だが、その土地は確実に滅亡へと歩み始める。 精霊がいなくなり、まず始めに無くなるのは魔力だ。 魔力が枯渇するまでは、その土地は辛うじて現状を保っていられ る。しかし、やがて魔力が完全に枯れた時、その土地に破滅の大鎌 が突き立てられる。 既存の草が寿命を迎えてその生を終えると、新たな草が生えなく なる。 大体時を同じくして、風が弱くなる。 土地を覆う空気が、冷えて行く。 空気が、土が乾燥を始める。 痩せた大地からは植物が消え、それを糧としていた生き物が死に 絶える。更にそれらを狩る事で生命を営んでいた存在も命を継続で きない。 1432 川が干上がる。辛うじて残る池や湖も、水位が下がり始めて汚濁 の濃度が高まり、水棲動物から命を吸い上げる。 風はその土地を嫌うかのようにはたと止み、その場を移動できな い空気は淀んでいく。 気温は更に下がり、熱帯の土地であっても零下を下回る。 しかし、ひび割れた大地から分かるように水もなく、風が雲を運 んでくる訳でもない土地では、寒さの象徴である雪が降ることもな い。 そうして、精霊がいなくなってから生き物を拒む土地に変わるま でに必要な時間はおよそ一〇年。長いと見るか短いと見るかは人そ れぞれといったところか。 そうなった土地の正式名称は﹁死の大地﹂だ。 何の捻りもないと思うだろう。 しかし、捻りなど必要ないのだ。実際にその土地を見れば分かる。 死と停滞しか存在しないその土地の前では、ネーミングセンスに気 を配る余裕など簡単に奪い去られてしまう。大事なのは名前という 殻ではなく、その中身だ。 戻そうと幾ら水を持ち込んでも、地面に栄養を与えても、意味は 無い。 実は、戻す方法はひとつしかない。だが誰もその方法を知らず、 また知っていても誰にも実行できる手段ではなかった。 植えた若木が三日と経たずに枯れる。それが﹁死の大地﹂と化し た土地なのだから。 ﹁そうね。恐ろしい話だわ﹂ ﹁全くだぜ﹂ かつて﹁死の大地﹂に関する文献を読んだ記憶を引き出したミュ ーラは、心の底からそう呟いた。 1433 くだん ﹁だが、今なら十分に間に合う。件の奴らがこの城にいつくように なってから、まだ三ヶ月と経ってねえ。流石に一年二年で、その土 地から全ての精霊がいなくなるようなペースでの搾取が出来ねえの は、分かってるからな﹂ ﹁そう⋮⋮﹂ 疑問は幾つもある。 何故彼はそれを知っているのか。 ミューラは今初めて知ったし、レミーアからもそのような話をさ れた事がなかった。 ケイオスは一体何者なのだろう。 疑問はそれだけではない。この話、四大精霊の一柱たるシルフィ は知っているのだろうか。 いや、知らぬ方がおかしいだろう。彼女からすれば、同胞が人間 によって憂き目に遭っているのだ。 だがまあ、ケイオスに疑問を聞いたところで全てを答えるとは思 えないし、シルフィに対する疑問は今はどうやっても解消されない。 今は、この話を聞いた意味を、考えるべきであろう。 ﹁⋮⋮で、その話をあたしにしたって事は?﹂ ﹁ああ。多分お前が考えてる通りだ﹂ ﹁この城に、精霊に不逞の輩がいるのね﹂ ミューラの問いに、ケイオスはゆっくりと首を縦に振った。 ◇◇◇◇◇ 1434 子猫をくわえる母猫よろしく首根っこを持ってぶら下げる太一。 黒猫はだらんと両手両足を重力に従わせている。 ﹁どこから来たの?﹂ その場にしゃがみこんで目線を合わせ、猫に問う奏。今は一時行 軍の中断中だ。 ぷい、と首を奏から逸らす猫。 言葉が分かるのは間違いない。 ﹁うりうり﹂ ﹁ゴロゴロゴロ⋮⋮はっ!?﹂ 空いた手で喉元をくすぐると条件反射で猫が喜びの声を上げ、そ してはっとして目を見開く。 ﹁はっ、謀ったニャ!?﹂ くつくつと笑う太一と奏に抗議の声を上げるも、リアクションを した後ではあまり意味がなかった。 ﹁て、手強いニャ⋮⋮! まさかにゃあをここまで追い詰めるとは ニャ!﹂ ﹁いや、俺たち殆どなんもしてないからな?﹂ ﹁かくなる上は必殺の魔眼ニャ!﹂ 1435 ﹁魔眼?﹂ 流石にしゃべる猫だけある、そんな奥の手を持っていたのか、と 思わず身構える太一と奏。 ﹁喰らうニャア!﹂ 猫は瞳孔を見開き、唸るような声を上げる。子猫だからか、成猫 に比べてトーンが高い。 これは、もしかしなくても、威嚇か。 悲しきかな、愛らしい見た目のせいで、迫力が皆無だ。 ﹁うりうり﹂ ﹁ゴロゴロゴロ⋮⋮はっ!?﹂ 先程の焼き直し。ややあって子猫は気まずげに目を逸らした。 やってしまった感が拭えない。 ﹁じー﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁じー﹂ ﹁むむむ⋮⋮!﹂ ﹁じー﹂ ﹁わ、分かったニャ! 居心地悪いからやめるニャ!﹂ この猫が悪ふざけをするから乗ったまでだ。 太一はぱっと手を離す。唐突かと思われたが、やはりそこは猫ら しく、しなやかな動きで着地して太一と奏から一メートル程距離を 取った。 1436 ﹁悪かったニャ。冗談が過ぎたニャ。謝るから許して欲しいのニャ﹂ ﹁いや、別にいいんだけど﹂ そんな改まって謝られるほどの事ではない。 謝罪よりも、むしろ聞きたいことはたくさんある。 ﹁久し振りに人に会ったから、つい舞い上がってしまったニャ﹂ ﹁久し振り?﹂ ﹁そうニャ﹂ どうやら太一たちの前にもここを訪れた者がいたらしい。本当に、 聞きたいことがたくさんある。 ﹁疑問がたくさんあるんだけど、いいかな?﹂ ﹁にゃあで答えられる事は全部答えるニャ﹂ 快く了承される。本題に入るまで、ずいぶんと長い前置きだった。 ﹁じゃあ私から﹂ ﹁ニャ﹂ ﹁にゃんこちゃん、何処から来たの?﹂ ﹁にゃあはずっとここにいるニャ﹂ ﹁ずっと?﹂ ﹁別の土地から来た訳じゃないニャ。このお城がにゃあのハウスニ ャ﹂ 何故か英単語が混ざる。まあ、その辺は召喚魔法陣に組み込まれ た言語翻訳ロジックが勝手に解釈し、太一と奏の知識から適当なニ ュアンスを引っ張り出して変換するため、当人たちのコントロール 下には無いのでどうしようもない。 1437 ﹁ここに住んでるの?﹂ ﹁そうニャ﹂ 廃墟⋮⋮というよりダンジョン。この猫から感じる力量通りなら、 ここのアンデッドごときに負けたりはしないだろうが、それでも疑 問は残る。 ﹁ご飯とかどうしてるの?﹂ ﹁にゃあはニュータイプのにゃあだからご飯とか無くても平気ニャ﹂ 一体どこの宇宙世紀だろう。 ﹁にゃあにも敵が見える、とか言っちゃったりするわけ?﹂ ﹁何の事ニャ?﹂ 小首をかしげる黒猫。やはり伝わらなかったらしい。 ﹁じゃあ次の質問。普段何してるんだ?﹂ ﹁寝てるニャ﹂ ﹁寝てる?﹂ ﹁そうニャ。やることといったらスケルトンの解体くらいしかない ニャ。退屈だから基本的に寝てるニャ﹂ やはりここを生き延びられる程度の戦闘能力は有しているようだ。 ﹁久し振りに人に会った、って言ってたけど、その前も結構人は来 てたの?﹂ ﹁うんニャ。来てないニャ。最後に人を見たのはいつか、覚えてな いニャ﹂ 1438 ﹁え、でも久し振りって﹂ ﹁そうニャ。にゃあがにゃあになってから、二回くらい会ったニャ﹂ ﹁二回かあ。結構少ないんだねえ﹂ ﹁そうニャ。少ないニャ﹂ ここで、奏と黒猫には認識に齟齬が発生していた。 奏は猫の寿命を思い出し、数年から十数年の間に二回しか会えて いないのか、という感想を抱く。 一方黒猫の方はまるで違う認識を持っていた。 そして、奏と子猫の話を聞いていて、太一は引っ掛かりを覚えた。 ﹁なあにゃんこ﹂ ﹁なんニャ?﹂ ﹁お前、猫の前はなんだった?﹂ ﹁うにゃー﹂ 顔を洗う仕草をした後、黒猫は前足を舌でなめる。ほんの少しの 間を置いて。 ﹁にゃあは、元人間ニャ﹂ 黒猫はそう明かす。 ﹁元人間? じゃあ、生まれ変わって猫になったの?﹂ ﹁違うニャ﹂ 違うらしい。 ﹁にゃあの魂は死ぬ前の人間のままニャ。この猫はにゃあが人間だ ったときに飼ってた猫ニャ。人間のにゃあが死んで、気付いたらに 1439 ゃあがこの猫になってたニャ﹂ 顎に指先を当てて考える奏。太一の脳裏で何かが光る。 ﹁なあ、あんたの旦那、黒い猫を飼うのに反対はしないにしろ、あ まりいい顔してなかっただろ﹂ ﹁太一?﹂ 奏には、太一の言葉は突拍子の無いものに聞こえた。藪から棒に 何を、という印象だ。 ﹁⋮⋮何で知ってるニャ?﹂ だから、驚きを隠せない声色で黒猫が応じた事に、奏も驚いた。 ﹁旦那、少し猫苦手だったんだよな。でも、あんたが猫を可愛がる 姿に強い母性を感じて、旦那はそれに惹かれた﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 子猫は絶句している。言われた言葉は全て事実だったからだ。 ﹁で、長い恋愛の末に無事旦那と結ばれた。すぐに妊娠もして幸 せだった。⋮⋮その矢先、事件が起きた﹂ ﹁⋮⋮﹂ 奏も子猫も、太一の言葉に聞き入っている。 ﹁城を襲ったやつらに殺され、旦那もすぐに後を追うように殺され た﹂ ﹁な、何でそこまで知ってるニャ⋮⋮﹂ 1440 ﹁ここじゃ昼も夜も分かりゃしない﹂ 太一は子猫の言葉には答えずに更に続ける。 その通りだ。日が昇ったのか、落ちたのか。このアンデッドの巣 窟ではそれすら分からないのだ。いやそもそも、ここと外界の時間 の流れが同じという保証もない。 ﹁どれだけ経ったか分からない、って言ったな。あれから、二〇〇 年が経ってるよ﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁二〇〇年もかニャ⋮⋮﹂ 太一は頷き、猫目を真っ直ぐ見つめた。 ﹁⋮⋮辛かったな。無念だな。カリーナさん。カリーナ・レングス トラットさん﹂ 黒猫の目が潤んだ。 1441 精霊魔術師と古城探索 七︵後書き︶ 次の話は、もしかしたら番外編を投稿するかもしれません。 もちろん、このまま本編を更新する可能性もあります。 続きか、番外編か。可能性は今のところ五分五分です。 1442 精霊魔術師と古城探索 八 歩きながら気配を消したミューラに気付き、ケイオスは己の足音 に注意を払う。先程、探知結界に何者かが引っ掛かったと彼女は言 っていた。そして、今感じた気配は、その結界を侵したものと同一 の雰囲気だという。 ケイオスも探ってみるものの、何も感じる事ができない。ケイオ スのレベルが低いのではない。ミューラのレベルが図抜けているの だ。 今更ながら、この娘、若いながらも冒険者としての経験値は一級 品だ。どこに出しても恥ずかしくないレベルである。 ダンジョン侵入当初にパーティを分断されてしまったが、彼女が 近くにいたのは幸運というしかない。 戦闘力だけではない、これだけの力を持ちながら、殆ど顔が知ら れていないというのは不可解と思わざるをえない。 ファムテームで彼らに喧嘩を吹っ掛けたのは、全くの偶然だった。 まとう雰囲気が何となく違うと思っただけ、つまり直感だったの だ。 ︵拾い物と言う他ねえなあ︶ ケイオスは心の中でそう呟く。 自身の目的を達するためには、出来れば引き入れたいと思った。 いや、引き入れられなくてもいい。その場限りだったとしても、力 を借りられたらと考えた。 そして、狙い通りにこの城に連れてくる事に成功した。半ば強引 に押し切ったが、決め手を放ったのも彼女だ。 そして、彼女の目。 ケイオスが何かを抱えている事に、ミューラは気付いていた。何 1443 を抱えているかまでは流石に分からなかったようだが。 さて、ケイオスにとってはこれからが本番。 彼女を協力的にするべく、一部の情報を明かした。 やはり純粋なエルフらしく、ケイオスが明かした実情には憤慨し た。 人里に降りてくるエルフもそれなりにいるとはいえ、種族として の在り方は﹁自然を敬い、共にいきる﹂という点で一貫している。 それはこう言い換えることも出来る。﹁精霊を敬い、共にいきる﹂ と。 種族として敬うべき精霊が迫害されている、という話を聞いて、 感情が昂らないはずか無いのだ。 ︵こいつ⋮⋮何のつもりだ?︶ だがここで、ケイオスは違和感を覚えた。 あれだけの話をすれば、切り込まれるとばかり思っていた。もち ろん容易く明かせるはずがないので当たり障りの無いところだけ話 しつつ言い逃れをするしかないのだが。 そう、言い逃れをしなければならない以上、突っ込まれなかった というのはラッキーのはずなのだ。 だが、ケイオスは、ミューラの賢さをよく知っている。年齢に対 して十分すぎるほどの知識を有し、それを活かす知恵と頭の回転の 速さは特筆ものだ。 どうやら当人は納得いっていないようだが。どれだけ高い基準な のだと舌を巻く。 ケイオスが彼女と同じ年のころ、これほどの力を有し、ここまで 高い基準で生きていただろうか。問われれば、即座に﹁否﹂と応じ るだろう。 ミューラに明かしたのは一種の諸刃の剣だった。 それだけの傑物であるミューラが、何故突っ込んでこないのか。 1444 それはどこで知った。 何か組織に所属しているのか。 この重大事件が最初に見付かったのはいつだ。 お前は何者だ。 犯人は何を考えている。 ケイオスがミューラの立場だったら、と仮定すると、簡単にこれ だけの疑問が出てくる。 ミューラにもこれくらいの疑問は浮かんでいてしかるべきだ。 いや、違う。そうではない。 浮かんでいないはずがない。 何故、聞いてこないのか、だ。 ︵っかー、わかんねえ⋮⋮︶ ミューラは意図して質問をしていないのだと、ケイオスは知らな い。 訊ねたところでまともに答えるはずがないと踏んでいる。 ミューラからすればこれは国家という枠組みすら越えた大事件だ。 大騒ぎになっているのが普通だと考える。それが、ここに来て初 耳であるということ。 ケイオスにとって誤算だったのは、ミューラが持つコネの大きさ である。世界最高峰の魔術師レミーアを師に持ち、エリステイン魔 法王国首脳部と繋がりを持つなど、誰が予測できよう。 いや、先の内乱での活躍により、三人の存在は徐々に明らかにな っている。 三大大国と呼ばれるガルゲン帝国及びシカトリス皇国にはそれな りの情報が落ちている。 だが、名前と力、多少の人相は知っていても、人となりまでは会 ったことがなければ分からない。 三大大国でもそのレベルなのだから、それに組織力で劣る国、組 1445 織の調査能力では名前すら判明していない、というのは十分にあり 得る話であった。 そうなった理由は簡単。もっとも情報をつかんでいるエリステイ ン魔法王国が、ある程度の情報統制を敷いているからだ。 それ以外の組織では、たまたまそういう存在を小耳にはさんだ、 程度でしかない。 まあ、本人たちが開き直っており、進んでに明かそうとはしない ものの無理に隠そうと躍起になっているわけでもないので、知れ渡 るのは時間の問題と言えた。 ケイオスが知らないのも、単純にタイミングだったのだ。 その後ケイオスは太一と奏、そしてミューラの事を知るのだが、 彼はその時になって、もっと本気で勧誘しておけばと後悔する事に なる。 ﹁!﹂ ケイオスははっとする。 ミューラが手振りで曲がり角の先を示したからだ。 どうやら、見付けたらしい。 ひとまずは目の前の問題から先に片付けるべきである。ケイオス は気を引きしめ、ミューラの後をついていった。 ◇ 曲がり角の壁に背を預け、ミューラは腰のポーチから手鏡を取り 出した。 まだまだ鏡が高級品のこの世界において、普通に生活していた場 合、買うにはそれなりの決断がいる程度には高価な品だ。 何故ミューラがこれを買ったのか。そもそものきっかけは、奏が 欲しがったからだ。 1446 手軽に身だしなみを整えるのに使いたいと、手鏡を所望した奏を 高級雑貨店に案内した。その時に、奏が何故身だしなみを気にする か理由を知り、ミューラも購入したのだ。 その店では中々に高貴な身分の娘が店員をしており、彼女が奏に こう言った。 ﹁淑女としましては、意中の殿方の前では、常に美しく、かつ可愛 いらしくありたいですものね﹂ と。 その時のはにかんだ奏を見て、彼女の脳裏に誰が浮かんでいるの かが分かった。 理屈ではない、説明のつかない焦燥に駆られ、気が付けばミュー ラも代金を支払っていた。 普通の金銭感覚で考えれば高価なものなのだろう。しかし奏とミ ューラは高額資産保持者。手鏡クラスであれば軽い散財程度でしか ない。 さて、自身の見た目を確認し、必要であれば整えるのに使用する 手鏡であるが、それ以外の使い方もある。それを教えてくれたのは 太一だった。 ﹁こうして、こう。こうすれば、顔を出さなくても、角の向こうの 様子を確認できるぞ﹂ 廊下の曲がり角で壁に背をつけ、手鏡を通路の向こうを写すよう に向ける太一。試しにやってみると、顔を出すという危ない行為を しなくても、角の向こうにあるリビングの様子が確認ができた。 こんな使い方は想像もしていなかったミューラは感心した。太一 にとっては映画などから得た知識であるのだが。 レミーア宅で教わったこの知識は、半分は戯れのはずだった。ま 1447 さかこんなに早く生かすことになろうとは思わなかった。 ﹁⋮⋮いる。こっちに近づいてるわ﹂ 薄いピンク色の唇を小さく震わせ、ミューラはケイオスにそう告 げる。 彼は声を出さずに﹁捕らえる﹂と口を動かして言った。手鏡を戻 し、剣の柄に手を添える。 相手は一人、こちらは二人。数の上では有利。が、一抹の不安も ある。こちらに向かってくるターゲットは中々出来る。足音が聞こ えないのだ。果たして、こちらには気付いているだろうか。気付い て近付いているのならば、厄介な事になるだろう。 そこまで考えて頭を軽く左右に振った。相手の実力がどうとか、 現時点でミューラの制御下に無い事ばかり気になっているのだ。実 戦において相手の力量が分からぬまま戦闘に突入するのはいつもの こと。それが冒険者。 思考を、切り換える。 接触まで残り五秒。 四。三。二。一。 ︵ゼロ!︶ 頭の中で気合いを入れて剣を抜く。しゃらりと鞘鳴りの音を追い 越すがごときスピードで、ミューラは男の足に剣の背を叩き付けた。 ﹁ちっ!?﹂ 反応速度は見事なもの。不意を突いたミューラの剣を咄嗟に跳躍 して回避して見せた。 しかしもちろん、それは悪手である。 1448 ﹁おらっ!﹂ ﹁くそ⋮⋮ぐはっ!﹂ 空中では無防備もいいところ。ケイオスが突き出した拳は男の腹 目掛けて一直線。辛うじて両腕を交差させて受けるものの、踏ん張 りの利かない空中でその圧倒的な衝突エネルギーをいなしきれるわ けがない。 男は壁に強かに背中を打ち付け、肺から空気を漏らした。 ずり落ちながらも男はミューラとケイオスを睨み、右手をかざそ うとする。それよりも二拍ほど、ミューラの方が速かった。 男の真横に並ぶように素早く身体を滑り込ませ、その首に剣の刃 を触れさせる。 ﹁降伏しなさい? 逃れられるとは思わない事ね﹂ Aランク冒険者に匹敵するミューラとケイオスを同時に相手取っ てその攻撃を防ぎきれる存在など極めて少数派だ。 この男は、その少数派にはなれなかった。 ﹁くっ⋮⋮﹂ 両手をあげて、悔しげに降参の意を示す男に対し、ミューラは剣 を向けたまま立ち位置を男の斜め前に変える。 ケイオスが大剣を手に、ミューラの少し後ろに控える。少しでも 変な気を起こせば一瞬で切り捨てられる距離だ。 鼻先でピタリと静止する剣先を一度見やり、男はミューラに目を 向けた。 ﹁⋮⋮いきなり襲い掛かってくるとはご挨拶だな﹂ 1449 いかにも﹁不機嫌です﹂と感情を発露させながら、男が低い声で そう呟く。 男の言葉を、ケイオスは鼻で笑った。 ﹁ゴマカシはテメェの為にならねえぜ?﹂ ﹁誤魔化す? おれが何を誤魔化すとというんだ﹂ 普通に考えれば、彼の言葉ももっともだ。外から見れば、ミュー ラとケイオスは相手が誰かを確認しないまま襲い掛かったのだから。 だが、もちろん何の根拠もなく襲ったわけでもない。だからこそ、 攻撃の直前、ミューラはわざわざケイオスに確認したのだ。 ﹁そうかい。じゃあ、オマエの代わりにバラしてやるよ﹂ ケイオスは精霊魔術師。 ﹁その妙な形した六芒星は一体なんだ? あ?﹂ 太一のように会話は出来ないが、契約している精霊と簡単な意思 疎通が出来るのだ。 ﹁⋮⋮﹂ 指摘の通り男が身に付けるベルトのバックルが、全体的に逆三角 形になるよう意匠された六芒星だった。 それをあらかじめ知ったからこそ、顔も見ずに捕らえると言った のだ。 ﹁テメェら組織の連中がその紋様を身に付けるってこたあ、既に割 1450 れてんだよ﹂ ズバリ言い当てられて、男は表情を変えないよう耐えるのに相当 な苦労を要した。 しかしその結果取らざるを得なかった沈黙は、ケイオスの言葉を 肯定したに等しかった。 ﹁望み通りバラしてやったぜ。オラ、洗いざらいキリキリ吐けや﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁だんまりか? まあそれでもいいぜ。嫌でもお喋りにさせてやる﹂ ケイオスが空いている左手の人差し指を男に向けた。 瞬間。 まるで糸のように細められた水の矢が男の太ももを穿つ。 ﹁うおあああああ!﹂ 神経から骨から全てを容易く貫いた水の矢のダメージに、男は恥 も外聞も投げ打って悶えた。 その様子を見たミューラは、咎める視線をケイオスに向けるが、 彼は全く動じなかった。 ﹁ちょっと。それは最終手段じゃないの?﹂ ﹁オレぁな、テメェみてぇに優しかねぇ﹂ ケイオスがぎりりと奥歯を噛み締める。 ﹁オレが⋮⋮オレたちが、何年コイツらを追っ駆けて来たと思って やがる。ようやく、ようやく掴み掛けてんだぞ?﹂ ﹁⋮⋮﹂ 1451 オレたち、という言葉。彼はやはりどこかの組織に所属している ようだ。 そして、この六芒星を掲げる連中を、ずっと追いかけていた事も。 精霊に手を出しているのだ。世界に対して喧嘩を売っているのと 等しい行為。それを少しでも分かっているなら決して表には出てこ ないだろうし、自分たちの足跡を残さぬよう細心の注意を払う筈。 そして、最悪の場合に切る尻尾もきちんと用意しているだろう。 そんな用意周到な連中を追うのだから、並々ならぬ苦労があった と予想がつく。 予想がつく故に、強くは言えないミューラだった。 ﹁⋮⋮。拷問はあまり好きじゃないんだけど﹂ ﹁じゃあ、コイツが変な気を起こした時のために見張っててくれや。 オレがやる﹂ 出会った当初の肩をすかすような雰囲気はどこへやら。有無を言 わさぬ意志の強さを感じ取る。 彼にとって、これは至上命題なのだ。 ﹁仕方ないわね。周囲もついでに見張っておくわ﹂ ﹁おう。任せたぜ﹂ 何があってもいいように剣は抜いたまま。ミューラは、ケイオス に尋問されている男の様子を見ると共に、周囲の気配を探る。 そのついで、負傷した左腕の様子も見る。やはりあれだけの苦痛 を浴びた甲斐があって、だいぶ動作に支障は無くなってきた。完全 に動かせるようになるまで後少しといったところか。 ケイオスは厳しく追求している。男の方も耐えていてかなり気丈 だが、あれだけ責め立てられればそろそろ限界だろう。 1452 ﹁わ、分かった⋮⋮げほっ、言う⋮⋮言う﹂ ﹁おーし。手こずらせやがって﹂ 更にしばらく経って。男はようやく音を上げた。ミューラから見 てもかなりがんばっていた。 一切手を緩めなかったケイオス。彼の意外な一面を見た気がする。 ﹁さあ、吐け﹂ ﹁⋮⋮俺たちの、組織は⋮⋮﹂ ﹁組織は?﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮よお。吐くっつった途端にだんまりはねぇんじゃねぇの?﹂ 流石に苛ついた口調で男を睨み付けるケイオス。 少々冷静さを欠いているようだ。 現に、男の様子が何だかおかしい事に気付いていない。 まあ、それも仕方無い。追い続けた手掛かりの一端が今ケイオス の目の前にいるのだ。ミューラとて彼の立場ならどんなに些細な事 でも知りたいと思うだろう。 とはいえ、これは教えた方が良さそうだ。 ﹁⋮⋮ちょっと、ケイオス﹂ ﹁あんだよ﹂ ﹁何か、変よ?﹂ ﹁あん? ⋮⋮おい、どうした﹂ ミューラの一言に少し頭が冷えたのか、ケイオスの視野が広くな った。男の様子に気付いたのだ。 1453 男が俯いたまま小刻みに震えている。 微かな変化だが、きちんと見れば分かる。 どこか苦しそうにも見える。 一体どうしたというのか。急な変化に、彼の身に何が起きたのか ミューラにもケイオスにも分からなかった。 やがて、男は頭を抱え、その場でのたうち回り始めた。 ﹁うあああああ! 止めろ! 頭が! 頭がっ!﹂ ﹁お、おいっ!﹂ ﹁ちょっと! どうしたのよ!?﹂ 尋常でない苦しみ方に、二人は驚きを隠せない。何をどうすれば こうまで苦しむのか、理解が全く及ばない。 ﹁たっ助けてくれ! 何でも話す! だからっ! 死にたくねえよ !﹂ 大の男が涙を流しながらケイオスの腕にしがみつく。今の今まで 男を痛めつけていた張本人に、思わずすがり付きたくなる程に苦し いのだと、その態度と必死さがこれでもかと主張している。 ケイオスは思わず顔をしかめた。男に握られた腕が痛む。信じら れない力だった。 ﹁な、なんだよおい! 死にたくねえってどういう事だ!﹂ ﹁うぐううう⋮⋮﹂ もはや口からは呻き声しか漏れない。 ケイオスの腕を掴む手からも力が急速に抜けていき、ずるずると 崩れ落ちていく。 1454 ﹁これは⋮⋮﹂ 一方、先程までこの現象がなんなのかまるで見当がついていなか ったミューラだが、ふと男の頭部から感じられる微かな力に気付く。 魔力とも違う、巧妙に隠蔽された何らかの力。それを感じ取れた のは偶然に近い。 隠蔽が甘かったのか、ミューラの感覚が鋭かったのか。どちらが 原因かは判断できない。ほんの一瞬の事だったのだ。 やがて、手遅れという事に、二人が気付いた。 男はびくりと震え、焦点の合わない目を二人に向けた。 ﹁⋮⋮﹂ ぷつっ。 どこか遠く。 非現実的な。 何かが切れる音。 頭頂部から血が噴き出す。 霧のように舞う紅い滴。 崩れ落ちる男を、二人は呆然と見詰めていた。 1455 精霊魔術師と古城探索 九︵前書き︶ 一〇〇回目の更新です。 1456 精霊魔術師と古城探索 九 ﹁助けて⋮⋮!﹂ 涙を湛え、ようやく絞り出された一言。 太一と奏は聖人君子ではない。が、こうやって心を真っ直ぐぶつ けられれば、応えたくなる。 冒険者である以上、そこに対価はあるべきだ。 普通は、そうだ。 だが黒猫ーーーもといカリーナは既にこの世ならざる者。命を失 ってなお魂を現世に縛り付けられる程の無念を抱えた者からの願い を、おざなりに扱うつもりは二人にはなかった。 それこそ、無償で受けてもいいと⋮⋮いや違う。その願いを叶え るための手伝いをさせて欲しいと、心から思えるほどに。 それは間違いなく、昨晩スライマンの話に対して太一が抱いた想 いと同じだった。 ﹁あの人を、救って欲しいの!﹂ ﹃あの人﹄が何を指すのか、今更問う必要すら感じない。 彼女の夫の事だろう。 ﹁あの人は、ずうっと苦しんでるの。この城を襲う悪夢を防げなか った事。働く人たちを救えなかった事。レングストラットの名を絶 やしてしまった事﹂ カリーナの瞳からこぼれた雫が、ぽたりと一つ、床を濡らす。 語尾もいつの間にか鳴りを潜めている。堰を切ったように溢れる 言葉と感情が、取り繕うことを止めさせたのだ。 1457 ﹁そして⋮⋮私と、我が子を救えなかった事⋮⋮﹂ 太一は思う。 自分がカリーナの夫の立場だったら。 奏は思う。 自分がカリーナの立場だったら。 想像すら及ばない。地獄のような二〇〇年だった事だろう。 ﹁あの人の苦しみが⋮⋮恨みが⋮⋮あの日犠牲になった人たちの魂 を掴んで離さない﹂ 気持ちが分かる、そんな分かったような言葉を口にするのが憚ら れる。 ﹁そして、自分の恨みが彼らを縛り付けていると分かっていながら、 現世を恨むしかできないあの人は更にそれに苦しんでるの﹂ 正にそれは、負のスパイラル。 ﹁だから⋮⋮っ!﹂ カリーナの言葉は、それ以上紡がれる事はなかった。 奏がそっと、黒猫を胸に抱き、優しく、それでいて力強く抱き締 めたからだ。 薄暗い通路に、奏とカリーナの嗚咽が微かに響く。太一は身体を 横に向け、彼女たちから視線を外した。 それをただ眺めるのはあまり趣味がいいとは思えなかったからだ。 無論、太一個人の感覚であるが。 少しずつ落ち着いてきたのを見計らい、太一はその目をカリーナ 1458 に向けた。 ﹁分かった。引き受ける﹂ 二つ返事。応じるまでの間が、受けるか否かの逡巡でなかったの は、その場に落ちていた空気を読めば一発で分かる。だからこそ、 カリーナは目を見開いた。 そして、今度は申し訳なさそうに目を伏せる。己の行動を恥じる かのように。 ﹁⋮⋮ごめんなさい、やっぱり、ダメ﹂ ﹁? 何故?﹂ 太一はあえて軽い調子で首をひねる。大事ではないとカリーナに 見せるために。 ﹁だって⋮⋮﹂ カリーナは言いにくそうに言葉を濁す。が、すぐに決意し、次の 句を紡いだ。 ﹁危険よ。幾らここまで来れたからって、さすがにあの人の相手は ⋮⋮﹂ 端から決めつけているわけではない。アンデッドダンジョン、レ ングストラット城を闊歩して生き残った実績はきちんと考えている ようだ。 この城の難易度をシンプルに考えれば、体感で最低ランクはB以 上。推奨はAだ。 太一と奏はまだ出会っていないが、アークデーモンという強敵が 1459 いる。それ以外でも物理攻撃を無効化する魔物がいるのだ。乗り込 んだ冒険者の体力、魔力と共に継戦能力も削り取っていく。 物理的な障害物をあっさりとすり抜ける、魔術でしか倒せないス ピリット系統のバックアタックやサイドアタックへの警戒。ゾンビ を切ることで加速度的に痛む金属製武器。時間感覚を掴ませない、 常時薄暗く代わり映えしない光景。 武器の耐久度低下速度と精神的な疲弊の蓄積速度は、一般的な洞 窟型ダンジョンや遺跡系のダンジョンを探索する時と比べれば一目 瞭然だ。 アークデーモンと戦う可能性があり、生きる迷宮と表現して差し 支えないダンジョンは一度入れば簡単には出られない。 生きて帰るにはAランク以上が必要だと言われるのも納得だ。そ の上、Aランク冒険者はそう易々会える訳ではない。 ここに二〇〇年も留まり続けたカリーナだからこそ、ダンジョン と化したレングストラット城の難易度をよく知るのだろう。 その上で、カリーナは﹁危険﹂だと言う。 Aランク冒険者ですら危険とは、一体どういう事か。 ﹁この城に残った血の臭い、そして数多の人々の怨念に引き寄せら れて集まった負の魔力を長年冒され続けて、あの人は魔物に変わっ てしまったの﹂ 負の魔力が人を魔物に変える。そんなことが起こるのかと、太一 と奏は黙って話を聞く。聞いたことのない話だったからだ。 ﹁あの人の強さは、アークデーモンさえ手も足も出ないほどなのよ ? 幾らあなたたちとはいえ⋮⋮﹂ その先の言葉を、太一は手をかざすことで止めた。 1460 ﹁言いたいことはよく分かった。俺たちを心配してくれてるんだよ な﹂ カリーナを抱いた奏が、優しい顔を浮かべている。 ﹁カリーナさんの旦那が何処にいるのか教えてくれ。大丈夫さ。俺 たちは強いんだ﹂ ﹁でも⋮⋮﹂ ﹁このまま放っておいても、何も解決しない﹂ 尚も渋るカリーナに、太一は畳み掛けた。 ﹁それは⋮⋮﹂ ﹁このまま何もしなくてもどうにかなるなら、とっくに解決してる 筈だろ?﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁それに、俺たちもやる前から諦める気はない。もしもダメなら、 その時は逃げるから、さ﹂ ﹁⋮⋮ホントだよ? 約束だからね?﹂ 頑なな意志を見せる太一に、カリーナはついに折れた。 奏の胸元から軽やかに飛び降りたカリーナは、二歩三歩と歩みを 進め、覚悟を決めた顔で振り返った。 ﹁案内するから、ついてきて。私の足跡を辿ってね﹂ ここまで歩いてきての感想は、このダンジョンは侵入者をまとも に進ませるつもりはないという事。 時間、現在地点、その他いくつ要素があるかは不明だが、その時 々で形を変えるのだろう。それはさながら生きているかのよう。 1461 太一と奏がそう感じていたその城を、勝手知ったると言わんばか りにカリーナはずんずんと進んでいく。 途中立ち塞がるスケルトンなど文字通り蹴散らし、ゾンビが現れ れば、ファイアボールを放って見せて太一たちを驚かせた。それだ け戦ってもカリーナはピンピンしている。伊達に二〇〇年、この城 の中で生き延びていない。 無限回廊の様相を呈していた通路はやがてその雰囲気を変え、二 人の前に下り階段が現れる。 道なりに進んできただけのように感じるが、そうではない。 カリーナ曰く、特定の時間内に特定の床を踏みながら進むと、こ の下り階段に辿り着けるのだという。因みにパターンを変えれば、 上り階段だったり大広間だったりと行き先が変わるとの事だ。 そのパターンに当てはまらない場合、この通路をずっと進み続け る事になり、辿り着くのはこの城でも五指に入るトラップエリア。 そこからの生還率はおよそ三〇回に一回。見事な初見殺しと呟いた カリーナに大いに同意だ。 因みにトラップエリアから生還した場合は、下り階段、上り階段、 大広間のいずれかに繋がる三叉路に着くらしい。 ﹁この階段は、地下に繋がってる﹂ ﹁その先は?﹂ ﹁遺体安置所だった場所﹂ 二人の背中を何かが這い上がる。 死後すぐに葬られる訳ではない。葬儀の準備が出来るまで、遺体 は一時的に安置所で保管される。日本で言うところの霊安室のよう な場所だろうか。 ﹁遺体安置所の更に奥、鎮魂の間に、あの人はいるわ﹂ 1462 そう言って、カリーナは階段を下り始めた。 それは、巨大な螺旋階段だった。 巨大な円柱型の塔を思い浮かべてもらいたい。その内壁に、階段 が巡らされて下まで続いている。その中央は大きな吹き抜けである。 壁には等間隔に松明が据え付けられ、階段をわずかに照らしてい る。底からは風が吹き上がっているのだが、松明の炎に揺らぎは見 えない。この城特有の不思議現象の一つだろうと、太一と奏は気に しないことにした。 縁から覗いてみても底が見えない。一体どれだけ深いのか。 カツ。カツと。 靴底が床を叩く音。乱反射して増幅されている。 ﹁なっがい階段だな﹂ そこそこの時間階段を下り続けているが、一向に底まで着かない。 ﹁疲れた?﹂ そんなことは微塵も思っていないだろう口調でカリーナが問うて くる。現に、この程度で歩き疲れるほど、太一も奏もヤワではない。 ﹁いや、でも階段飽きてきた﹂ それは紛れもない本音。景色が全く変化しないのだ。きちんと進 んでいるのか疑問に感じるのも無理はないだろう。 ﹁大丈夫。もう半分は来てるはずよ﹂ 下り始めて既に二〇分。恐らくは既に二〇〇メートルは下ってい るだろう。それで半分と言うことは、四〇〇メートルもの深さがあ 1463 るようだ。元々ここまで深い穴だったのだろうか。 ﹁そんなことない。元々は何分もかからずに下りれた。ダンジョン になってから変わってしまったの﹂ やはりダンジョン化の影響か。まあ、よくよく考えれば、この世 界の文明レベルで、地下数百メートルもの穴を人力で掘るのは至難 の技だろう。掘るだけなら可能かもしれないが、それを整備するの は難しいように思える。 因みに掘るだけなら太一一人で可能だ。シルフィを呼び出し﹃ト ールハンマー﹄を二発も撃てば、四〇〇メートルの縦穴を作ること も出来るだろう。 そうでないなら、いっそ超常現象とする方がよほど納得できると 言うものだ。 内容のない話をしつつ更に階段を下りて行く。 やがて太一と奏の鋭敏な感覚が、違和感を訴え始めた。 ﹁奏﹂ ﹁うん。感じる。複数⋮⋮ううん、無数、っていうべきかな?﹂ カツ、カツ、カツン。 二人の言葉から正確に二二〇秒。足音が変わる。太一たちは、つ いに階段の底に着いたのだ。 そこは円型の部屋。直径は二〇メートルというところか。階段の 終わりから部屋のど真ん中を横切った先に、重厚な扉が一つ。 階段を下りながら感じた無数の魔力。それは、その扉の向こうか ら放たれていた。 ﹁この先が?﹂ 1464 カリーナは頷いた。 ﹁そう。遺体安置所。もう分かってると思うけど、あの先は、モン スターハウスよ﹂ 二人が感じる魔力にはたっぷりと邪念がトッピングされている。 これが負の魔力というやつだろうか。 太一はミスリルの剣を抜き放つ。ゾンビの体液による腐食すらも 容易くはね除ける、魔法銀で鍛造された剣。決して翳る事無い鏡面 の煌めきが、かすかに届く松明の光を反射する。 扉の向こうにいる魔物は、個々の強さはそれほどでもない。脅威 なのはその数だ。数えるのも億劫になるほどの気配を感じる。モタ モタやっていると物量で押されてしまう可能性がある。そうなって も太一は大丈夫だが、奏はそうは行くまい。Aランクという括りの 中では間違いなく上位に位置するだろう、しかし奏は人間の範疇に 収まっている。何より彼女はホラー恐怖症だ。 ﹁⋮⋮奏﹂ 無理なようなら、控えてもらっていた方がいい。 奏とカリーナを守る自信が太一にはあるが、己を過信しすぎて悪 い方へ転んでしまえば目も当てられない。戦えないのなら守りに徹 してもらいたいし、目の届く範囲にいて欲しい。 そんな思いを込めた太一の言葉を受け、奏は数度深呼吸をした。 やがて心を落ち着けたのか、杖を握り、前を向く。 ﹁やれる⋮⋮ううん、やる﹂ どのような心境の変化かは分からないが、奏は己のトラウマを克 服すべく、努力を始めると宣言した。 1465 奏ほどの実力者であれば、遅れを取るような強さの魔物は扉の先 にはいない。問題は先程もいったように物量に対しての対応だ。恐 怖に駆られて動きが鈍るようなら、勝てる相手にも勝てなくなる。 ﹁⋮⋮分かった﹂ 他ならぬ奏の言葉だから、太一はそれ以上何も言わなかった。や ると言ったらやる。どれだけ苦しくとも、最後には自分の言葉を実 現させてきたのが奏だ。 彼女の言葉だけで、信じるに値する。 ﹁カリーナさんは?﹂ ﹁自分の身は自分で守る﹂ ここに来るまでのあの立ち回りを見れば、それも納得だ。どこに そんな力があるのか。小さな子猫というなりながら、かなりの実力 者である。 ﹁うし行くか。全滅させるぞ﹂ 太一は身体に魔力をみなぎらせて、扉を蹴破った。 総数三桁を軽く越える視線が、一斉に太一たちに集まった。 ﹁出会ったばかりで悪いが、これでお別れだ!﹂ 蝶番を弾き飛ばして吹き飛ぶ扉を追い越す速さで、太一は中型犬 程の大きさのレッサーデーモンを鷲掴みにした。 ここに来て初めて会う魔物かもしれない。だが、そんなことはど うでもよかった。 振りかぶり、まるでボールでも扱うようにレッサーデーモンを投 1466 げた。 スケルトンとゾンビを巻き込んで盛大な音を立てる。 ﹃ファイアボール!﹄ 太一の背後から、身体を掠めるように火の球が飛んでいく。この 魔力はカリーナのものではない。 僅かに床を震わせ、爆発が起きた。スケルトンが骨の破片を、ゾ ンビが腐敗した肉片を撒き散らしながら破壊される。 この、見た目とは裏腹な威力を持った﹃ファイアボール﹄は。 振り返ると、奏が杖を太一に振っていた。 その顔は蒼白。今もかなり怖いのだろう。 それでも、きちんと宣言通り魔術を撃って見せた奏。とんでもな い強さの芯である。 ﹁奏! 怖いんなら速攻で片付けるぞ!﹂ ﹁言われなくてもっ!﹂ 殲滅させてしまえば、恐怖など覚えようがない。 そもそもそれ以前に、見た目が不気味なのを除けば、アンデッド は奏にとってはカモとなる相手である。 力の差を考えれば、いつも通り⋮⋮いや、それなりに手を抜いて も負ける要素はない。 ﹁ガンガンいくぞ!﹂ すぐさま魔術を用意し始めた奏を満足げに見て、太一は次の獲物 に向かって駆け出した。 1467 ◇◇◇◇◇ 暗い。 暗い。 何も見えないほどに暗い。 日など、もう長い間見ていない。 最後に動くものを見たのはいつだったか。 ああ、そうだ。 いつぞやか、何かよく分からない小動物が、少しだけうろついて いたな。 あれはネズミか? 気配だけでは分からんな。 ああ⋮⋮思い出すのは面倒臭い。 考えるのも億劫だ。 今はもう気配を感じない。 どうやらどこかに行ったらしい。 惜しいな。 身体が動けば、いい声で哭かせてやるというのに。 後ろ足を持って、股から引き裂いてやったらどんな悲鳴をあげる だろうか。 爪でゆっくりと目玉をえぐり出すのもいいな。 ぞくぞくする。 ヤりたい。 1468 殺したい。 命を吸いたい。 生きるモのに、絶望を与エたい。 そういえば、少し離れたとコろに、三つの光ヲ感じるな。 イきものか? そうダといいな。 ああ。 考えるのが面倒くサい。 とにカく、殺したい。 早くコいこい。 こッちにこい。 おれのもトへとやっテこい。 ころさレるためにやっテこい。 また考えるのガ面倒になってきたな。 もうそんな時期か。 たまにこうなルと、自我をしばらく保っていられないのが困りモ ノだ。 まあどうセ、動けないノだから意味はない。 なにもすることナどないのだしな。 あのとビらをあけられるやつなどいやシない。 ああ、ころしたい。 うでをいっポんずつおってやロうか。 はをぜんブぬいてやろウか。 ⋮⋮オおおオお? おオ、キてる。 キテる。 キてるきてるきテるきてルきテるきてルきてるきてるキてる。 あハはははハははははははハははハはははははハはははハははは。 ころサれにきてル。 すばラシい。 1469 にクをさき、ほねをおリ、ちをすスってヤる。 さア、あけろ。 このいマしめがそレでとケる。 もウすぐだ、もうすグだ。 うバってやる。 ねぶッてやる。 えぐっテやる。 あハはははハははははははハははハはははははハはははハははは。 じツにたのしイな。 さいこウのきぶンだ。 アレ? トころで、おれハだれだっけ? ああ、ソんなのはやっパりどうでもいいヤ。 いマはトにかクこロしたイ。 ハヤく、はやくこナいかなア。 たすけて。 1470 精霊魔術師と古城探索 十 頭を割られて横たわる元人間を見下ろし、ミューラは大きく息を 吐いた。 精霊を食い物にする所業、情状酌量の余地はない。 警戒度を一段階引き上げる。 相手は用意周到な連中。手加減なしの尻尾切りを目の当たりにし た故だ。 残酷だが当然の帰結。この世の摂理そのものに喧嘩を売っている のだ。バレれば世界中から敵視される。それが分かりきっているの だから、痕跡を残すわけにゆくまい。もしも構成員が口を割りかね ない事態に陥ったなら、その口を永遠に閉ざすような工作は必須だ ろう。 問題は、この方法だ。 ミューラにはまるで見覚えがなかった。 恐らくは発言や心理状態等に類する要素を発動キーとするのだろ う。 だが、魔術の類いで発生したものではないと、ミューラは半ば確 信していた。 魔術で再現されたと仮定してみる。 ﹁⋮⋮いいえ、無いわね﹂ 即座に否定。 ミューラはそんな魔術に覚えはない。使える使えないに関わらず 数多の魔術を座学でレミーアから教わった。中には魔術の考案者を 疑うようなえげつない魔術も確かにあったが、言葉や感情などを発 動の条件にする魔術は教わらなかった。 知識が不足している、たまたま思い出せない等はあっても、あの 1471 レミーアがまるで知らない魔術、というのはあり得ないとミューラ は思う。 では、別の手段で検討。 遅延魔術という線は無い。 奏が得意とする﹃リベレイションスペル﹄は、詠唱を終えていつ でも発動できるようにした魔術を待機させ、即座には使用せず術者 の望むタイミングで任意に発動させるものだ。 正体不明の術がリベレイションスペルなら、どこにいるかも分か らない構成員を日がな一日術者が監視している必要があるのだ。そ んなものは考えるまでもなく、実用性など皆無だと分かる。 更に別の手段⋮⋮設置型の魔法陣ならば可能だ。予め効果を設定 した式を含んだ陣を描き、それを対象に刻めばいい。 いくつかのキーワードが対象の口から発せられる。 或いは屈服した、という感情を感知する。 それを起動条件に、対象の脳を破壊する。 だがそれも、この男を始末するのに使われた手段ではない。 待機状態であれば一切痕跡を残さない魔法陣だが、起動準備に入 った瞬間に、魔法陣に込められた魔力が活性化する。起動時から発 動までは若干のタイムラグがあり、魔力を検知してから効果を逃れ るのも決して不可能ではない。 どれだけ起動時の魔力発生を抑えても、ゼロに出来た試しはない。 隠蔽性に優れる魔法陣の、唯一の欠点であると言えるのだ。 だから、ありえないと断言できる。 あの時、感じたのは得体の知れない力。少なくても魔力ではなか った。 端から魔術の可能性は無いと分かっていたが、それでも理論武装 をして確信を深めるには必要な手順だった。 自分の仮説を証明するためにこれだけの思考を数秒も掛からずに 終えたミューラである。 1472 ﹁どうするの?﹂ この死体が一般に認知されていない力で葬られたとの認識を新た にする。 男のそばにしゃがんで屍を見詰めていたケイオスに問い掛けた。 手掛かりはもう物を言わない。 協力を仰いできたのは彼の方である。よって、彼が﹁もういい﹂ と考えるのならそれで終わりだ。 無事にここを脱出し、太一と奏にこの事件を話して、レミーアに 助力を願って独自に動けばいい。 ﹁くそ⋮⋮本当に気に食わねえ連中だ!﹂ ミューラの問いに答えるかわりに、ケイオスはそう吐き捨てる。 末端の尻尾を切り捨てる。組織を守る上では有効な手段だが、そ れは即ち命の軽視と同義だ。 闇の深さは相当だと、この出来事から悟るのは容易だった。 ﹁恐らく、もう逃げる準備を始めてる筈だ﹂ ケイオスが立ち上がる。同じことを考えていたミューラは頷いた。 冒険者の探索の手が中々入らないこのダンジョン。隠れ蓑とする にはおあつらえ向きだろう。 引きこもり息を潜め、このダンジョンで生きるのに困らない実力 があるのなら、生活する準備さえ怠らなければ選択肢としてはかな り良い。 そんな好条件の物件に、組織の人間がこの男だけだったと考える のは難しい。相手はバレれば鼻つまみ者であると自覚している筈だ。 このダンジョンのように身を潜められる場所はそう多くないと考 えれば、アジトひとつにつき一人というのは非効率、複数人いると 1473 判断するのが妥当だ。 そして口を割ろうとした組織の構成員を容赦なく殺害する手際。 残りの構成員がそれを目敏く察知し、撤退の準備を始めていても不 思議ではないと考えられる。 ﹁そうね。その通りだと思うわ﹂ ﹁今から探しても間に合わない可能性はたけえ。だが、探さないっ てのは少しの可能性にも蓋をしちまうってこった﹂ そしてケイオスの言葉もその通りである。 ﹁メンバーの一人がここにいるってことは、隠れ家はそう遠くには ないと考えることも出来るわ﹂ ﹁お前の言う通りだ。無駄足になるかもしんねえが、もう少し付き 合ってもらうぜ﹂ 彼が何の目的をもってこの辺りを歩いていたのは不明だが、今は そこを想像するより歩くのが先だ。男がやってきた方面に、足を進 める事にする。 相変わらず代わり映えのしない景色だが、これまでとは少し違う。 今まではダンジョン全体がトラップのようだったのだが、この近 辺ではそれがない。アンデッドの魔物が時おり出てくる以外は、普 通に進行が可能なのだ。 ﹁雰囲気が違うわね﹂ ﹁このダンジョンらしくねえな﹂ 考えられるのは、ここをアジトにしている一味が、ダンジョンの 効力を何らかの形で失わせた可能性だ。 どうすればそれを実現できるのか想像もつかず警戒に値するが、 1474 ミューラとケイオスも歩きやすいと言う恩恵を享受しているため、 今は深く気にしない方向で一致している。 歩くことしばし。 そこは広い正方形の地下室だった。長尺のメジャーがあれば、一 辺が凡そ三〇メートルもあると分かっただろう。 そこには年季の入った長テーブルが幾つかと、座っただけで壊れ そうな脆い椅子が多数。そして藁を敷いただけの粗末な寝台が一五。 もぬけの殻である。 人の姿は見受けられない。部屋の光源だったのだろう、天井の魔 道具シャンデリアに魔力を込めて灯りを確保した。 手近なテーブルに近付き、カップを手に取る。ほのかにクーフェ の香り。 ﹁ついさっきまで、人がいたのは間違いないようね﹂ ﹁そうだな﹂ ケイオスはフォークに刺さった食べ掛けの干し肉を見詰めている。 やはり予想通り、最低限の荷物を持って、大慌てでここを引き上 げたらしい。 カップの横に残されていた、メモがわりにされていたのだろう羊 皮紙。 ﹃一三二﹄ ﹃かまど﹄ とだけ書かれ、それ以外は空白だ。その二つの文字も、繋がって いないことから別々の意味を持つのだと予想できる。 きちんとした記録を残すのなら、辛うじて読めるレベルのミミズ のような文字ではなく、丁寧に記すだろう。 とはいえ、何かの手掛かりにはなるかもしれない。ミューラはそ 1475 れを手に取った。 ﹁手掛かりになりそうなものはなさそうね﹂ ﹁まあ、連中もそんなへまをしやしねえだろ﹂ 一頻り部屋の中を探ってみて、成果どころか隠し通路もなかった。 。強いて言うなら先程の羊皮紙くらいか。 そもそも目立つ痕跡を残すような間抜けなら、ケイオスもここま で苦労して追ってはいない。 二手に分かれて追うのも手だったが、それは採用しなかった。敵 の戦力が不明な以上、一人で追うのは自殺行為だ。こちらの戦力を 分散するのも今は得策ではない。敵の姿が見えないだけで、どこか で待ち伏せをしている可能性も否定できないのだ。ここは、敵地で ある。 先程の羊皮紙レベルの情報はケイオスの所属する組織も得ている らしく、現物を確認した上で﹁いらねえ﹂とミューラに返却した。 因みに﹃一三二﹄と﹃かまど﹄が何を意味するのかは、分かって いないという。 ﹁やっぱし無駄足だったな。まあ、一人でも仕留めただけ慰みには なるか﹂ ﹁そう考えるのが建設的ね﹂ 成果ゼロではない。本当に、本当に微々たるものだが、構成員の 一人を結果的にとはいえ倒したのだ。人数が一人減り、組織を潰す のに一歩近付いたと言える。 霞を掴むような手応えのなさの前では、そう自分を慰めたくなる のも無理はなかった。 話は変わるが、ひとときの休憩を取った部屋で、ミューラの探知 結界に侵入した気配について覚えているだろうか。 1476 ケイオスが感じた、精霊が哀しんでいる、というせりふを覚えて いるだろうか。 精霊を食い物にする組織への怒り。 その構成員との戦闘。 それら二つを経て、気配について失念してしまうという失態を犯 していた。 その結果が、二人に歩み寄っていた。 ﹁⋮⋮!﹂ ほぼ同時に、ミューラとケイオスが振り返る。 視線の先には、この部屋唯一の入口。 石の床を叩く足音が、二人の耳に届く。間違いない、こちらに近 付いている。 乗り込むときに扉は破壊した。室内と通路は繋がっている。 ﹁誰か、追ってきたのか?﹂ ﹁巡回に出ていて、撤退を知らない他の構成員?﹂ 二人は視線を合わせることなく推測を口にする。 ﹁にしちゃあ、変な足音だな﹂ ﹁そうね。不規則すぎる﹂ 靴音とおぼしきそれは、かつ、かつ、かつとリズムよく鳴らない。 不協和音というか、まるで千鳥足で歩いているかのようなのだ。 臨戦態勢を維持したまま、近寄ってくる足音に耳を澄ませる。 やがて、その姿が二人の網膜に映った。 ﹁さっきの⋮⋮﹂ 1477 ﹁⋮⋮オイオイ﹂ 現れたのは男。それだけなら、別にどうということはない。 問題はその男が先程二人の目の前で命を落としたはずだったから だ。 頭からは大量の血があふれ、床をぴたぴたと濡らしている。見開 かれた目は濁っており、焦点があっていない。両腕はくっつけただ け、と言わんばかり。力なくぶら下がっている。 ﹁もうアンデッド化しやがったのか?﹂ ﹁そう、かもしれないわね﹂ 何となく二人の歯切れは悪い。このダンジョンなら有り得なくは ないのだが、それでも目の前で生きていた男がこうして動く死体と して目の前に現れると、あまり気分がいいものではない。 睨みをきかせるミューラとケイオス。 バランス感覚が損失し、たまにふらつく男の死体。 続いたにらみ合いは、刹那だった。 ﹁っ!﹂ ﹁ちっ!﹂ 床を蹴り、跳びずさるミューラとケイオス。二人が立っていた場 所に、石で出来た三ツ又の槍が突き刺さっていた。 見た目にはそこまで派手さはない。 だが、魔術に対する造詣の深い二人には分かった。 この魔術は、派手さがないところがもっとも恐ろしいと。 ﹁こいつぁ⋮⋮﹂ 1478 ケイオスが死体を睨み付ける。 今の魔術、発動がほとんど感じられなかった。信じられないほど の隠密性に加え、かなり速い。 さらに威力も、ミューラとケイオスが避けるくらいには存在する。 先制攻撃、不意討ち、暗殺、牽制。 あらゆる場面で役立つであろう、非常に優秀な魔術である。 そして何より、魔術そのものは﹃ロックランス﹄という土属性で はポピュラーな中級魔術であることだ。 ﹁どういうこと?﹂ この結果が分からないミューラは、隙なく立ち上がりながらそう 呟く。 これだけの魔術を操れるのなら、先刻戦ったときになぜ使わなか ったのか。 発動の気配を希薄にして使えるのだから、十分な牽制になったは ずなのだ。二人がかりだから負けはしないが、とはいえそう易々と 拘束はできなかっただろう。 そう思ってじっと観察してみる。 と、男の腰の辺りで、わずかに黒い光が瞬いた。 ﹁危ない!﹂ 声を張り上げるミューラ。 ﹁こなくそっ!﹂ 鈍く重い音。 ケイオスが真横に薙ぎ払った大剣が、突如彼に向かって飛んだ岩 の塊と激突したのだ。 1479 まただ。また、発動の瞬間の魔力の流れを認識できなかった。 男の腰の辺りで一瞬黒く光った、恐らくそれが発動キー。構えた り狙いを定めるそぶりもないのが気になるが、攻撃が正確なのは間 違いない。 そんなことに不平を言っていても、状況は変わらない。 ﹃キアアアアアア!!﹄ 人間の声帯から出たとは思えない、もうこれは声ではなく音だ。 思わず歯が浮くような不快な音に、ミューラもケイオスも顔をし かめた。 そして死体は、膝をその場で深く曲げた。 ﹁来るわよ!﹂ ﹁上等だ、ちきしょうが!﹂ 低いながら圧倒的な飛距離で、一気にミューラの元へ飛び込んで くる。 その勢いを乗せ、腕が降り下ろされた。 相当な速さだが、対処できないレベルではない。しかも剣を持っ た相手に素手。 肘から先を切り飛ばしてやろうと思い、ミューラはその考えをと っさに頭から吹き飛ばした。 金属同士が擦れあうような硬質な音。 ﹁なんだあ!?﹂ ケイオスにも死体の突進は無謀に見えていたのだろう。予想とは 違う、ミューラと競り合う光景に、驚きの声が漏れる。 1480 ﹁くっ!﹂ 予想以上の力に、ミューラが少しずつ後ろに押される。 ミスリルの片手剣と鍔迫り合いを演じているのは、三〇センチほ ど伸ばされた死体の爪だった。 この表現が正しいかは不明だが、死体として生まれ変わった時に 生えたのだろうか。 接触部分から火花が散る。 それはどうでもいい。この爪は、ミスリルの剣と鍔迫り合いがで きる硬度を持っている事実の方が大事だ。 さすがにミスリルよりは硬くないようで、少しだけ刃先が爪にめ り込んでいる。だがこの爪を切り飛ばすのはかなり頑張らねばなら ないだろう。 手間に対する効果を考えると、爪の攻撃は剣できちんと受けきる ようしっかり意識すべきだ。 ﹁おらあ!﹂ と、横から振り下ろされる大上段の一撃。 ケイオスの大剣が男の死体に向かって空気を切り裂いていく。 死体はミューラを押し込むのをあっさり諦め、身軽な動作でバッ クステップして離れた。 あの膂力と得物によって繰り出される一撃は、受け止められない と判断したようだ。 そして小賢しいことに、死体の癖に転んでもただでは起きない。 男の周りに浮かび上がったのは、複数の砂の矢。 あれに撃ち抜かれると、標的には複数の細かい穴を穿たれる。治 療にはしかるべき術者が必要で、対処ができないと傷口が腐り落ち る。 つまり、今あれを受けるわけにはいかない。 1481 ﹁あたしが迎撃する! あんたは攻撃!﹂ 文句を言わせる暇を与えない。ミューラは素早く呪文を紡ぎ、砂 の矢と同じ数だけ火の球を生み出した。届く前に空中で叩き落とす。 ﹁待て! 砂には水だ! 攻撃はてめえがやれ!﹂ 横を見れば、ケイオスも多数の水球を生み出していた。 砂の矢が撃ち出される。 ﹁分かったわ!﹂ 考えている暇はない。ミューラはケイオスの言葉に従い、狙いを 変える。死体に向けて﹃ファイアボール﹄を放った。 こちらに迫る砂の矢。それらはケイオスの水球によって全て相殺 された。直後、爆発が起きる。 ﹃ファイアボール﹄が全弾、男の死体に直撃したのをミューラは 目撃した。 アンデッドには火属性が効果的。確かに魔術攻撃なら、ケイオス が支援でミューラがアタッカーだろう。 二人いるという利点を生かさない手はない。 ﹁⋮⋮けっ。死体の癖に味な真似しやがる﹂ ﹁確かに、鬱陶しいわね﹂ 黒煙が晴れて開いた視界。 土の壁が、死体の立っていた場所をぐるりと囲っていた。 ﹃ウォール﹄系統の防御魔術。土属性で使えば、物理的に相手の 攻撃を防ぐ石の壁が生み出せるのだ。 1482 ﹁どうする?﹂ ﹁長々と相手すると厄介だな﹂ 石の壁がさらさらと崩れ始め死体が現れた。 ミューラの﹃ファイアボール﹄を一度に複数受けて、防ぎきるだ けの防御力があることが証明された。 ﹁決め手に欠けるなぁちきしょう﹂ ﹁大技は隙も多いし消耗も激しいから﹂ 相手の隙を作らずとも、どれだけ防御されようとも、撃てれば一 撃で仕留める技を、二人と持っている。 ミューラの持ち技は魔術剣﹃焔狐﹄。 ケイオスの必殺技は﹃シュトルム・ヴァッサー﹄。 どちらも、決まれば多少相手が格上でも倒せるだろう。問題はそ の準備期間と、命中率だ。 ミューラの﹃焔狐﹄は、発動に時間がかかる。準備中はほぼ無防 備といっていい。ケイオスの﹃ハイドロブラスト﹄は隙が多い。避 けられる可能性がある。 どちらも片方が時間を稼ぐ必要があるのだが、それも簡単ではな い。特に死体が操る出が速い土属性の魔術がとても厄介だ。 発動させてしまえば、当てられる可能性が高いのはミューラの﹃ 焔狐﹄か。 そこまで考えたところで、男の死体が地面を蹴る。悠長に考える 時間はやらないということか。 もっとシンプルに、目の前の獲物を狩りに来ただけかもしれない が。 死体の手に、石で出来た斧が生み出される。土属性魔術では基本 となる、武器の生成だ。 1483 かなり大きく、両手で扱うべきそれを、片手で悠々と振りかぶる 死体。 身体強化魔術を使用したミューラを力で押し込むだけはある。 ﹁オレが出る!﹂ 力比べなら、ケイオスの方がミューラより優れる。 巨大質量同士がぶつかり合い、衝撃が部屋に走る。 ﹃オアアアア!﹄ ﹁うおおおお!﹂ そのまま鍔迫り合いへ。膠着状態に陥るかと思われ、であればそ の隙を逃す手はないとミューラは攻撃の準備を始める。 思い切って﹃焔狐﹄を準備しようかと考えるが、次の光景を見て その時間はないと考え直した。 互角のパワー。同じ重量級の武器。 差が出たのは得物の質。 死体の大斧は魔術で作られた即席武器。あくまでもその場凌ぎ。 一方ケイオスの大剣は、ミューラから見てそれなりに手間とコス トをかけて、長く使えるよう作られた業物だ。 それぞれの目的を考えれば差は歴然。 そして使用者二人の力は拮抗している。 ケイオスの剣が、大斧の切っ先にめり込み始めた。 ︵⋮⋮チャンス!︶ 威力よりも準備時間の短さに優れる魔術剣を使用。更に空いてい る左手で魔力を練り、魔術の発動準備を終える。 1484 ﹁はあっ!﹂ そして、あえて声を出して死体との間合いを詰めにかかった。 ﹁!﹂ それは、力をきちんと発揮すると同時に、ケイオスへの合図でも ある。 死体に、ミューラを気にする余裕はない。ケイオスは他方に気を 割いてどうにかできる男ではない。 ﹁うおおおお、らあ!!﹂ 力を込めるのは一瞬。きらりと瞬く銀色の剣が、黄土色の斧の刃 を切り飛ばした。 振り抜かれる剣を避けるために、死体は後方に飛び退くしかなか った。 弾丸のように迫るミューラ。右手の剣には炎が渦を巻く。あれを 受ければただでは済むまい。空中で対応しようと行動を起こす男の 屍。一瞬すら驚かずに即座に対応しようとする姿勢は、驚嘆に値す る。 手に生み出される石の投げ槍。ミューラを迎え撃とうとして作ら れたそれは、放つ前に水鉄砲に弾かれた。 首尾よく邪魔をしたケイオスは、不敵に口の端を上げた。 ﹁行け! 決めちまえ!﹂ ようやく作った隙。防御をさせなければ、最高の技でなくても倒 すことは出来る。ミューラは剣を左から右に振り抜いた。 肉を切り裂く手応えと共に、死体の首と胴が離れる。 1485 さしものアンデッドといえど、首を切り落とされてしまえば動け なくなる。 これで終わりなのだが、ミューラはこの死体を、普通のアンデッ ドの枠にはめて見ていなかった。 ﹁跡形すら残さないわ!﹂ 剣を振り抜いた勢いで左半身が前に出る。それに合わせ、左手を 死体に向けた。 魔術剣での一撃から至近距離での魔術に繋げるコンビネーション。 それそのものは珍しくはないが、ケイオスが感嘆を覚えるほどの流 麗さは、一朝一夕で身に付くものではない。 ﹃焦熱閃!﹄ 完全に終わらせる。その心づもりで、いつぞやかゾンビに放った 時の数倍の威力を持たせて放つ﹃焦熱閃﹄。 ミューラの左手が、まばゆい光に包まれた。 離れているケイオスすら熱波にあおられて汗が滲む。あれが直撃 している死体はたまったものではないだろう。 これで終わりだと、勝利だと、ミューラもケイオスも疑わなかっ た。 圧倒的な熱量に包まれた死体の腰が、黒く光った。 1486 精霊魔術師と古城探索 十︵後書き︶ ケイオスの必殺技、ハイドロブラスト︵仮名︶の名前を募集します。 これぞ厨二! な名称に自信のある方、感想に書いてください。 一人一回、一つのみでお願いします。 作者の琴線に触れた名前を採用します。 追記:ケイオスの必殺技名変更 締切は今週金曜日まで。 6/18 1487 精霊魔術師と古城探索 十一 ﹃フレイムラジエーション!﹄ 奏が放った業火が、数体のアンデッドを巻き込んで燃え盛る。 視覚的にとても派手な魔術だが、何のことはない、火炎放射を英 語にしただけである。 もちろん、地球に存在した兵器としての火炎放射と、威力は遜色 無い。 むしろ魔術なので細かい制御が効く分、奏の﹃フレイムラジエー ション﹄の方が質が高いとも言える。 ﹁終わったか﹂ ゾンビを斬ったことで刀身についた液体を振り払い、太一が周囲 を見渡す。 広いフロアにわらわらと存在していたアンデッドは、もう一体も 残っていない。 ﹁はあぁ⋮⋮終わったぁ⋮⋮﹂ 奏がぺたりと女の子座りでへたり込む。 苦手⋮⋮いや、天敵といっていいアンデッドを相手に、よくぞ最 後まで戦った。 最後の方はある程度なれてきたのか、それなりに落ち着いて魔術 を紡いでいたものの、最初の方は目も当てられなかった。パニック になりながら、涙目で必死に魔術を撃ち続ける奏に萌えたのは太一 だけの秘密だ。 もちろん、奏の魔術が間に合わない距離までアンデッドが入らな 1488 いよう、彼女の間合いには太一がずっと気を配っていた。奏が普段 通りの力を発揮すればこの程度のモンスターハウスは一人で殲滅で きるが、今回はそうはいかないのだ。 さりげなさを装うため、それなりに神経を使った。 好きな女の子の可愛いところが見れた、くらいのご褒美はあって いいはずである。 ﹁お疲れ。よく頑張ったな﹂ よしよし、と頭を撫でる太一。 半分放心状態だった奏はおとなしく撫でられる。少し顔を赤くし て上目遣いの破壊力は異常。 ラブコメだけかと思っていたことを自分が体験するとは思ってい なかった太一だった。 ﹁⋮⋮﹂ あてられたカリーナがむずむずする、と言わんばかりに全身をか き始め、太一と奏は我を取り戻して立ち上がった。 ﹁二人とも、気付いてる?﹂ カリーナは、何の前置きもなくそう言った。 間髪入れずに頷く太一と奏。二人とも察知能力は高い方だ。 視線がフロアの奥に向けられる。 禍々しい気配を放つ鉄扉。 これまでのダンジョンとはひと味もふた味も違う。負の感情を長 い年月溜め込み、とことんまで濃縮したかのよう。 ﹁あそこか﹂ 1489 ﹁ええ。あの人は、扉の向こうにいる﹂ 近寄ってみると、扉の大きさに圧倒される。 フロアの天井は高さ四メートルほど。 扉の上辺は、その天井に届くか届かないかの高さだ。 その幅も広く、太一と奏が横に並んだままくぐってもまだまだた っぷり余裕がある。 重厚感に満ちあふれた扉が、二人と一匹を見下ろしている。 ﹁本当にやるの? この扉を開けたら、封印が解ける﹂ 太一は笑みを浮かべた。 ﹁行こう。そのために来たんだ﹂ カリーナは嬉しさ、不安等をないまぜにした複雑な表情を浮かべ てから頷く。 扉に両手を添え、グッと前に押す太一。 ぎぎぎ、と床と擦れる音とともに、扉が開いていく。 感じるのは、わずかなほこりっぽさと湿っぽさ。 扉の奥は、真っ暗だった。 光が届かない、といった安直な理由ではない。まるで闇そのもの がそこにいついているかのように、暗いとばりが降りているのだ。 ﹁⋮⋮暗いな﹂ 先を全く見通せず、太一がつぶやく。 ﹁明かり、つけようか﹂ 1490 奏がそういって指先に火の玉をこしらえようとしたところで、異 変が起きる。 扉の幅程度の距離をおいて、火がともったのだ。 ﹁⋮⋮?﹂ その光景を不思議に思っていると、変化が連続する。 同じような火が、どんどんと奥に向かって次々と現れたのだ。 どれだけ進んだだろう、その火はやがて部屋の奥で円を描き、不 可思議な現象が終わる。 部屋が、明るくなる。 ﹁⋮⋮﹂ ﹁こいつは⋮⋮﹂ 異様な光景だった。 天井、壁、床。それら全てから数十にものぼる鎖が伸びており、 何かをがんじがらめにしていた。 がんじがらめにされている何か。それは、人の背丈ほどの骸骨。 ここに来るまでに出会ったスケルトンと表さないのを疑問に思う かもしれない。 何故ならば、それは見た目スケルトンでありながら、同じ魔物に は思えなかったのだ。 骨の色は、黒。 更に、全身には不規則な赤い線が走っている。まるで、血の色の ような。 見た目からして、スケルトンとはその禍々しさの桁が違う。そし て、瘴気のように溢れ出す負の魔力も。 ﹁あれは⋮⋮ブラッディヴァルハラー⋮⋮﹂ 1491 うめく奏。 ﹁知ってるのか?﹂ ﹁うん⋮⋮﹂ 太一の問いに、奏が頷く。 ﹁魔物図鑑で見たことあるよ。強い心残りを持ったまま死んだ人が、 骨だけになってもその念を溜め込んで生まれる魔物﹂ 記憶を探りながらぽつぽつと答える奏。そして。 ﹁長い年月の末に力を最大まで溜め込んだブラッディヴァルハラー は﹂ がんじがらめにされた骸骨の目が、怪しく光る。怒りに狂う業火 のような揺らめきだった。 ﹁真っ黒の骨に、くすんだ赤い線が走るんだって﹂ ばきん、と鎖が引きちぎられる。 地面に降り立つブラッディヴァルハラー。どんな魔術なのか、右 手に剣が生まれ。左手に盾が生まれ。頭には兜が生まれ。そして、 肩からは裾が擦りきれたマントが生まれた。 何もないところから突如として顕現すれば、生まれた、と表すの がもっとも適切だろう。 ﹃血をヨコせ⋮⋮斬ラせろぉぉォぉ!!﹄ 1492 強烈な魔力が噴き出す。このダンジョンで出会った魔物たちなど 比べ物にならない。 びしびしと肌を刺す圧力が、三人を、特に奏とカリーナを襲う。 あまり長時間当てられるのも不味いと、太一は二人を自分の背に 隠した。現に、顔色が悪くなっていた。 ﹁あ、あなた⋮⋮﹂ カリーナの声が震えている。愛した男の変わり果てた姿を見たの だ、当然だろう。 人間だった面影は、もはや骨格しかないが、彼女には分かるよう だ。夫婦のなせるわざなのだろう。 ﹁太一⋮⋮﹂ ﹁ん。あれは俺がやる﹂ 太一は目の前を剣で左から右に払った。 奏では勝ち目はゼロだろう。あの濃密で強大な魔力は、まさに化 け物だ。 ﹁援護頼む。ただし、無茶はするなよ?﹂ 奏がこくりと頷く。奴の気を逸らせられれば、御の字の成果だ。 ﹁行くぞ﹂ ﹃肉だ! 斬らセろ!﹄ 太一は魔力強化を施し、飛び掛かる。 感じた魔力はかなりのもの。今までずっと自分より遥か格下ばか りを相手にしていた弊害か、太一は一定以下の相手の強さなら分か 1493 るが、一定以上の強さの敵の判定には自信がなくなっていたのだ。 もしも読み違えて後ろに逃げられれば、万が一がある。 太一は初っぱなから一〇〇の強化で行くと決めた。 それでぶつかってみて大体の強さを把握。その後シルフィの魔法 で仕留める。つまりは短期決戦だ。 一瞬で距離を詰めた。奏やカリーナは目で追えるかも怪しい速度。 完全に虚を突いた自信があった。これならばクリーンヒット。 そう思ったのだが。 いつの間にか突き出されていた盾に防がれる。 盾で防がれようと、鎧に身を固めようと、その上から叩き切るつ もりだった斬撃。それを、盾で受けられた。 盾と剣の間に火の花が咲いた。 同じ軌跡の逆を辿ってを切り返す。今度は剣で受けられた。 舌打ちし、太一は少し後退した。二拍ほどおいて、太一がいたと ころをブラッディヴァルハラーの剣が通過する。 両者がひとつ動く毎に唸る風切り音。常識と言う言葉に喧嘩を売 っているようだ。 太一の攻撃に対する対応は速い。しかし、攻撃をするとなると遅 い。 このちぐはぐさは何なのか。いや気になるのはそこではなく。 ﹁⋮⋮こいつ、いつの間に盾を出した?﹂ 間合いを詰めるのに要した時間は本当に一瞬。 近寄ったときには、剣を振り下ろすだけだった太一。あの状態か ら守勢に転じたところで、防げるとは思えなかった。 一〇〇の強化をして倒せなかったことそのものは特に気にはなら ない。 いつぞやのレッドオーガも太一と互角だった。それと同格の魔物 がいても不思議ではあるまい。 1494 ﹁クカカ⋮⋮﹂ ﹁何がおかしい﹂ ブラッディヴァルハラーは骨をならして笑う。不快に思うも、そ れはほんの一瞬だった。 引っ掛かるところは多々あれど、どの道これで終わりである。 太一は剣を持たない左手を、ブラッディヴァルハラーに向けた。 ﹁シルフィ﹂ ﹁はーい﹂ その左上腕に腰掛けるシルフィが姿を現す。ブラッディヴァルハ ラーの暗い魔力が吹き飛ぶほどの、圧倒的存在感。 ふうしゅう ﹁吹き飛ばす。シルフィ、﹃風鷲﹄﹂ ﹁よしきた﹂ 左手に魔力が風となり渦を巻いていく。 ﹃風鷲﹄と名前をつけてはみたが、何のことはない、超高速の突 風を瞬間的に叩き付けるものである。 ブラッディヴァルハラーは諦めたのか、動く気配はない。 抵抗なしか? と疑問に思いつつ、何か心につっかえるものを抱 えながら、魔法の準備を終える。 ﹁食らえ!﹂ 動かないのなら狙いが楽でいい。圧縮した空気を解放する。 魔力と空気の奔流。風という表現が生ぬるい破壊力。効果範囲は 対象の周辺数メートル。おとなしいのは視覚的効果のみだ。その威 1495 力はレッドオーガさえも叩き潰す。 ブラッディヴァルハラーはその姿を保っていられず、バラバラに なって吹き飛ぶ。一つ一つの骨が壁にぶつかり、割れたり折れたり して力なく床に落ちていく。 ﹁⋮⋮﹂ カリーナが息を呑む。一瞬の出来事だった。 ブラッディヴァルハラーがどれだけの力を持つかは分かっていた。 即座に、自分では敵わないと判断を下したほどの魔物なのだ。 太一なら負けないと分かっていた奏とは対称的なリアクションだ った。 魔法の残滓が服をはためかせる。 左手を下ろし、太一はブラッディヴァルハラーの残骸を見つめる。 剣を交えて肌で感じ取った強さから、倒すために必要な魔法の威力 を割り出した。一撃で倒すためにはオーバーキルだ。逆に言えばそ れを達せられるのならば選ぶ魔法は何でもよかった。 ﹁い、一撃、なんて⋮⋮﹂ カリーナが絞り出すようにつぶやく。あれほどの魔物が、あまり にもあっさりと倒されてしまった。 ﹁太一は言ってたでしょ? 大丈夫だって﹂ ﹁⋮⋮﹂ 確かにそれは言っていた。だが、ここまでのものだと誰が予想で きようか。 この少女と、あの少年。二人に巡り会えたことは非常に幸運だっ たのではないか。 1496 力なき正義と正義なき力。どちらが善でどちらが悪か。カリーナ にその答えは分からないし、答えがあったとしてもその辺の哲学を 論ずる気はない。 それでも、今のカリーナの願いを叶えるのに必要なのは、確かに 力だった。 ブラッディヴァルハラーは倒れた。すべては、解決したのだ。 ﹁ねえ、タイチ君。お別れを、してもいいかな?﹂ 聞き入れられても、聞き入れられなくても、愛する夫と最後にそ れくらいはしたいと思っていたカリーナは太一にたずねる。 だが、太一からの返事は素っ気ない拒否だった。 ここまで来て断られて、思わず首をかしげるカリーナ。太一が意 地悪でそんなことを言うはずがないと思ったからこその疑問で、し かしその理由が分からなかった。 太一は相変わらずばらばらになったブラッディヴァルハラーを見 つめている。 ︵⋮⋮おかしい。あんな状態なのに、まだかすかに魔力が残ってる︶ これまでに戦ってきたスケルトンは、倒せば宿っていた魔力が消 え去り、岩が風化するように崩れる。 だがブラッディヴァルハラーはまだ魔力を残しているのだ。 極めて単純に考えるのなら、生きている︵アンデッドに生きてい る、というのも変だが︶ということになる。そんな不確定要素に対 してカリーナを近付けさせるという分の悪い冒険は出来ない。 しかし、シルフィの魔法をまともに受けて倒れない魔物などいる のだろうか。 答えは、目の前で起きた。 1497 ﹁クカカカ⋮⋮ムだだ﹂ ﹁⋮⋮﹂ 転がったしゃれこうべが、声を発した。 見れば、バラバラにしたはずの骨たちがカタカタと音を立ててい る。 磁石に吸い寄せられる砂鉄のように、骨が集まる。 背後で奏とカリーナが息を呑む音が聞こえた。 骨はひとりでに組み上がり、ブラッディヴァルハラーに戻った。 ﹁クカカカカカ。そノ程度では死なヌ﹂ そして、まるで念動力で操ったかのように、ブラッディヴァルハ ラーの装備品が戻る。ところどころ欠けたりはしているものの、ほ ぼ元通りと言っていい。 ﹁おいおい⋮⋮ブラッディヴァルハラーは何度でも復活する魔物な のか?﹂ ﹁そんな⋮⋮魔物図鑑にはそんなこと載ってなかったよ?﹂ そもそも、こんな強いなんて書いてなかった⋮⋮と奏はごちる。 ブラッディヴァルハラーの強さは、精々がAランク。そのレベル であれば、太一にとってはAもBもない。防御力に優れるというの は図鑑通りだが、多少長けている程度で太一の攻撃をどうにかでき るのなら、誰も苦労はしないのである。 ﹁今ドこそにクを斬る!﹂ ブラッディヴァルハラーが走り出す。 かたかたと骨を鳴らしながら。 1498 走る、とはいったものの、それは太一だからそう見えただけであ り、外野からすれば半分瞬間移動のようなものだ。 ﹁やらせるか!﹂ 太一を見ていなかったブラッディヴァルハラー。つまり、後方の 奏とカリーナを狙ったのだろう。 無論そんなことをさせる太一ではない。 素早く相手に余裕を与えない動きで導線に割り込み、剣を水平に 薙ぐ。 太一から逃げるのは至難の業だ。ブラッディヴァルハラーは防御 を余儀なくされる。 防御だけならやたらと反応のいいブラッディヴァルハラーに三た び斬撃を防がれる。今度は衝撃で吹き飛ばしたが。 ﹁こいつはどうだ。﹃エアロスラスト﹄﹂ 生み出された数多の刃が、次々とブラッディヴァルハラーを切り 裂いてゆく。 飛行速度は非常識なほどに高速。目で見て避けるのはまず不可能 だ。 さきほど復活する際、欠けたりした骨が元に戻らなかったことか ら、細切れにしてやろうと考えたのだ。 狙い通り原型をとどめないところまで破壊した。 死なないのかもしれないが、ここまで解体すればもう元には戻ら ないだろう。 魔法が発動した瞬間に木っ端微塵にされたブラッディヴァルハラ ーが、一斉に床に落ちた。まるで無数の小石が落ちるように。 ﹁今度は復活なんかさせねえよ﹂ 1499 それだけでは足りないと感じた太一は靴の裏で擂り潰してやろう と考える。 カリーナに別れの挨拶をさせてやれないのは心が痛むが、復活劇 を見せられた太一としては二人の命が最優先だ。 近寄ろうとした太一だったが、またしても予想外の光景に足を止 めさせられた。 ﹁なんだってんだ⋮⋮﹂ ブラッディヴァルハラーを見据えて、嫌そうな顔を浮かべる太一。 バラバラになった骨たちから、黒い何かが湯気のようにたちのぼ り始めた。そんな現象に全く心当たりがない。 ﹁シルフィ。ありゃ、なんだ?﹂ ﹁⋮⋮﹂ 太一の肩に座るシルフィが、黒いもやを刺すように睨み付けてい る。 ﹁あれは、魔力だよ、たいち﹂ ﹁魔力?﹂ ﹁そう。負の魔力が、可視化されてるの﹂ 負の魔力という名前ならば、黒い色でも納得だ。 では、何故急にそんなものを漂わせ始めたのか。 太一が抱いた疑問はそれであり、シルフィに訊ねようとした。 ﹁でもね。単なる負の魔力だと、ああやって黒いもやは生まれない の﹂ 1500 太一の質問の前に、先をとってシルフィが解説を始める。 ﹁あれは、哀しみ﹂ ﹁哀しみ?﹂ 風の精霊王が、表情を歪めた。 ﹁そう。自由を奪われ、存在さえも奪われようとしている精霊の、 哀しみ﹂ 精霊は、どんなに下位であったとしても、基本的に生ある存在よ りも位階は上である。生半可なことではその目で見ることすら叶わ ないというのが、良き証拠。 そして彼らは生きもののように時間に縛られない。生と死に囚わ れない。だからこその自由なのだ。 ﹁待てよ。精霊の哀しみってどういうことだ﹂ 召喚術師だからこそ、精霊についての知識をかなり持っている太 一が、シルフィに詰問する。 ﹁精霊が、何者かによって力を奪われてる﹂ ﹁⋮⋮何だって?﹂ 考えもしなかったセリフに、太一の声が二段ほど低くなる。 ﹁たいち。精霊の哀しみによって生まれた負の魔力に、ブラッディ ヴァルハラーが感化されてる﹂ 1501 その言葉に、ピンときた。 ﹁まさか。こいつがやたら強いのとか、すぐ復活してくるのは⋮⋮﹂ ﹁精霊が発している、哀しみの魔力の影響よ。これまで随分と長い 時間、それを少しずつ浴びていたんだと思う﹂ いつの間にか、黒いもやは人の形を象り始めた。だがそれは二本 の足で立ち、腕が二本生えているだけ。 顔の部分になにも存在しないのっぺりとしたもの。幼児の粘土細 工の方がかなりましな造形をするだろう。 ﹁それが、ここに来て哀しみの魔力が一気に強くなった。あの黒い 魔力は、その影響よ﹂ 言うが速いか、黒いもやを纏ったブラッディヴァルハラーはまる でゴムのように伸び始める。 ﹁くっ! なんだ!?﹂ 思わず、奏とカリーナを庇いながら体勢を整える太一。 予想外の動きに虚を突かれてしまったのだ。あれが襲ってくる事 前動作と考えたら、対処するのは当然だ。 太一の対応は正しかった。その結果、何が起きたとしても。 ﹁っ!﹂ ブラッディヴァルハラーは天井を突き破って消えていく。 ﹁⋮⋮﹂ 1502 パラパラと砂ぼこりがこぼれる天井の穴を、太一たちは呆然と眺 める。 あまりに予想外な出来事が連続し、脳の処理能力を超えてしまっ たのだ。 ﹁⋮⋮これ﹂ ﹁ミューラか?﹂ このダンジョンの探索を始めてから今まで感じることができなか った、太一と奏がこの世界でもっとも信頼する少女の魔力。 どうやらこのダンジョンの法則やらが少し解れたらしい。 訳がわからず首をかしげるカリーナを尻目に、太一と奏は慌てた。 その魔力は、ブラッディヴァルハラーが向かった方角から感じ取 れるのだ。 直後、遠くで起きた爆発の音が届く。 悪い予感がする。そして、そういうものは大概が当たるのだ。 太一は覚悟を決めた。まだ少し制御が甘く、単独以外というのは ぶっつけ本番だがやむを得まい。 ﹁奏、カリーナさん!﹂ 叫びつつカリーナを自分のシャツの中に放り込み、奏を強く抱き 寄せた。有無も抗議も聞く気はない。 フライ ﹁シルフィ! ﹃飛翔﹄!!﹂ ﹁りょーかい!!﹂ 太一が風をまとう。 変化は劇的。二人と一匹の身体がホバリングするヘリコプターの ように浮き、徐々に加速していく。 1503 ﹁ひ、飛行魔法!?﹂ ﹁詳しい説明は後だ! 追うぞ!﹂ ブラッディヴァルハラーが消えた天井の穴を、太一は飛行魔法で 飛んで追い掛けていった。 1504 精霊魔術師と古城探索 十一︵後書き︶ あるえー? 本当は太一奏、ミューラケイオスでバラバラに決着つけるはずだっ たのが、筆が赴くままに書いてたら合流することになったぞ? 結末どうすんだ俺。 何とかまとめます。まだまだ、プロット無しで書くレベルじゃあり ませんでしたね。 次の話で終わるはず。 いえ、長くなっても終わらせると宣言しておきます。 ケイオスの必殺技の名前、たくさん応募がありました。ありがとう ございます。 これより検討に入ります。名前の決定は次回更新と同時と致します。 御了承ください。 読んでくださってありがとうございます。 1505 精霊魔術師と古城探索 十二︵前書き︶ 古城探索編ラストです。詰め込んだので長いです。 1506 精霊魔術師と古城探索 十二 ミューラが放った﹃焦熱閃﹄と、死体が発する黒い光が拮抗する。 ﹁ぐ、くっ!﹂ 渾身の近接戦闘用魔術が受け止められ、ミューラは意地になって いた。 焼き尽くすか、押し負けて弾き飛ばされるか。首まで切り落とし たのに、ここまで抵抗をうけるのが納得いかない。 と同時に、何となくの予感がある。この魔術は、返される、と。 予感というものがバカにならないとよく知っていたミューラは、 反射的にそれに対応しようと身構えた。 それは正解だった。 首なし死体の黒い光が、﹃焦熱閃﹄を弾き飛ばしたのだ。 行き場を失った二つのエネルギーが反発しあい、爆発を起こした。 その爆風を受けて、しかし直前に距離を取ろうと行動していたミ ューラは、加速して死体から離れていく。 ﹁あうっ﹂ 勢いがつきすぎて天井に背中を打ち付けてしまったが。 そのまま落下するものの、何とか体勢を整えて着地に成功した。 ﹁ほんっとに忌々しいわね⋮⋮﹂ 掛け値ない本音が、エルフ少女の唇から漏れた。 首がないまま、死体は放つ光をいっそう強めている。 1507 ﹁おめえ大丈夫なのか?﹂ ﹁大丈夫よ。ちょっと背中を打っただけ。大したダメージじゃない わ﹂ その言葉通り、見る限りは平気そうである。 本当に大したことはないと言わんばかりに、ミューラの視線は死 体に向けられたままだ。 あの炎系魔術は、至近距離で撃たせればケイオスとて無事では済 まない。いや、対応を誤れば死に至る可能性も十分あり得る。相手 の懐に潜り込まなければ破壊力が出せないという欠点はあるものの、 それを補って余りある威力の魔術だ。特にミューラの卓越した近接 戦闘能力なら、射程が極端に短いという点も、欠点にはなり得ない だろう。 ﹁何だってんだ、あいつ﹂ ﹁首を切り落としても倒れないアンデッドとか、面倒にもほどがあ るわ﹂ 思わずといった体で口から漏れる愚痴。 首なし死体はその場でだらんと両腕を下げたまま立っている。 黒い光が明滅。 次はどうやって攻めようか。そう考えたところで、異変が起きる。 床が震え、下から突き上げるような強い衝撃が起きたのだ。 ﹁っ!?﹂ ﹁なんだこりゃ!﹂ 常人なら容易く足をとられて立てなくなるような揺れのなか、圧 倒的なバランス感覚と強化された肉体によって、どうにか持ちこた える二人。 1508 ミューラはチリチリとしたものを首の裏に感じる。冒険者として 研ぎ澄まされた感覚が、何者かの接近を強く訴える。 ﹁何か来るわ!﹂ ﹁何かってなんだ!﹂ ﹁知らないわよ! 下!!﹂ 言うが早いか、ミューラは脚力を重点的に強化して後ろに跳ぶ。 ケイオスが少し遅れて追随した。 二人がいた場所から三メートルも離れていない床に、大きな亀裂 が走る。 石造りの床は、まるで薄いベニヤ板のように砕け散った。 その範囲は半径五メートルにも及び、ミューラとケイオスが立っ ていた場所を含んでいた。あのままいたら、確実に巻き込まれてい た。二人の背中を冷や汗が流れる。 そして、床を突き破って現れたソレを見て、二人は絶望感を覚え た。 ﹁冗談じゃねえぞ⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮﹂ この部屋に現れたのは、黒い、もや。 辛うじて人型をしているが、それは二本の足で立ち、腕が肩と思 われる部分から伸び、頭と思われる部位があったからだ。 全体的な造型は、泥人形の方がよほどましである。 そして、そんな感想など何処かへ吹き飛ばしてしまうような。 桁の違う圧力が、ミューラとケイオスの肌をびりびりと刺してい た。 強い。 ケイオスは、これだけのプレッシャーを感じた経験はあるだろう 1509 か。 ミューラは、ある。 これは八〇の強化をした太一と相対した時を上回る感覚だ。 その感覚が正解だったとして、そこから導き出される答えはたっ たひとつ。 勝ち目はない、ということ。 ﹁終わりよ、ケイオス﹂ ミューラは、油断なく構えていた心をほどき、身体を弛緩させた。 戦闘態勢の解除である。 ﹁お、おい、エルフ⋮⋮﹂ 狼狽えるケイオスに、ミューラは微笑んで見せた。 基本的に、ミューラの辞書に﹁諦める﹂の文字はない。 だがそれは、常識的範囲内に物事が収まっている場合だ。多少の 困難も、己の力を信じて立ち向かってきた。 しかし、これはダメだ。 八〇の強化をした太一には、どれだけ力を込めようと、どれだけ 工夫を凝らそうと、一切通用しないのだ。 力と技術の粋を集めたミスリルの剣での一撃が、木刀で鋼鉄を叩 いたように弾かれる。 渾身の魔術を、そよ風としか感じていないかのように防がれる。 最大最強の技である魔術剣﹃焔狐﹄を、人差し指一本で事もなげ に受け止める。 八〇の強化とは、そんな領域の話なのだ。 ミューラとケイオスが持つ最高の技が、低次元の話になってしま う。 抵抗をする意味すら失うのだ。 1510 ﹁あれは、あたしたちがどう逆立ちしても、勝てる相手じゃない﹂ ﹁⋮⋮﹂ 逃走はしないのか。 ケイオスはそう思ったものの、口にはしなかった。 可能ならとっくにやっている。あの黒いもやは、ケイオスを、二 人を捉えているのだ。 あの首なし死体だけならば逃げられたかもしれない。 しかし目の前の黒いもやからは、逃げられる気がしなかった。 あまりにも力に差がある。どれだけ離れているのか、その距離が 全く掴めないほどに。 一体何がどうしてこのような状況になってしまったのか。 ケイオスには全く分からなかった。 ﹃にクだ⋮⋮にく⋮⋮キル⋮⋮﹄ 人の声とも思えない、しかし人の言葉が、黒いもやからこぼれる。 ずず⋮⋮と重いものを引き摺るような音を発しながら、黒い人型 の腕が形を変えてゆく。 それは直線に、やがて先が鋭く。 あれは、剣か。 肉を切る、という言葉通りか。 ﹁ちっ⋮⋮ろくでもねえ最期だな﹂ ﹁全くね﹂ ケイオスはそうぼやいて、剣を持つ手を緩める。 ミューラは剣を鞘に戻す。 抵抗が無意味ならば、せめて最期は潔く。 1511 肉を切りたい、という化け物の願いを叶える糧となるのは癪だが、 自分達の方が弱いのだから仕方あるまい。 願いを貫き通すには、それを成せるだけの力も必要なのがこの世 界の掟のひとつである。 ﹃ハあア⋮⋮にくダ⋮⋮﹄ 重量感を感じさせない歩みで黒いもやが近付いてくる。その後方 では、首なし死体が土の魔術を発動させていた。巨大な二本の岩の 槍。狙いはもちろん、ミューラとケイオス。 ︵ここで、あたしも終わりか⋮⋮︶ 近寄る死を、どこか夢見心地で見詰める。 ︵ま、一度助けられてここまで生き延びられたのだから、上々なの かしら︶ 黒いもやが、剣と化した腕を振り上げる。 同時に打ち出される、二本の巨大な槍。 ︵あ⋮⋮︶ 蘇るのは。 レミーア。 奏。 太一。 そして、三人と一緒に笑う自分の姿。 どうしてこんな時に限って、記憶というやつは鮮明になるのだろ う。 1512 ︵⋮⋮いや、いやよ⋮⋮こんなところで終わりなんて⋮⋮︶ 思わず、顔を歪めた。 覚悟をしたとしても。 生を諦めたとしても。 死にたくないと、まだ生きたいと、願うのは当然の権利だ。 ミューラも、人として当たり前に願ったに過ぎなかった。 ところで、﹁持っている﹂という言葉を耳にしたことはあるだろ う。 ここぞというタイミングで美味しいところをさらっていったりす る人物のことだ。 例えば、仲間の絶体絶命のピンチには、必ず助けに来るような存 在。 黒いもやが突き破った床から、三つの魔力が飛び出した。 ﹁やらせるか!﹂ 聞き慣れた、しかし久しぶりに聞いた気がする少年の声。 ﹃ウゴアアアア!﹄ 黒い人型が悲鳴をあげる。その声に誘われて目を開けてみれば。 剣に風をまとわせた異世界の少年が、剣を振り抜いてミューラの 前に立っていた。 致命傷にはなり得ていないようだが、それでも上半身と下半身を 分かたれて、黒いもやは苦しそうに蠢いている。 ﹃ボールライトニング!﹄ 1513 続いて、こちらも聞き慣れた少女の声。 太一の横に降り立った奏が、杖を振りかざしていた。何の前触れ もなく顕現した電撃の球二発。死体が放った岩の槍を迎撃、相殺し た。 目の前で起きた出来事に着いていけず立ち尽くすミューラに。 ﹁間に合った。無事みたいだな、ミューラ﹂ と太一が声を掛けた。 ﹁タイチ⋮⋮?﹂ ﹁おう﹂ 惚けているミューラに、横から軽い衝撃。 ﹁ミューラっ⋮⋮良かった⋮⋮!﹂ ﹁⋮⋮カナデ?﹂ 抱き締められる。 ようやく状況を理解してきたのか、ミューラは頬を紅潮させて奏 を抱き返した。 目の端にうっすらと光るもの。首筋に当てられていた死神の鎌が 取り払われたのを実感したのだ。 ﹁お、ケイオス。お前も無事だったのか﹂ ﹁ああ。何とかな﹂ ついでのような扱いをした太一だったが、ケイオスは気にした様 子もなく応じた。 太一としても特別含むところはなかったのだが。 1514 ﹁さて。奏、カリーナさんを頼む。後は俺がやる﹂ ﹁ん、分かった﹂ ﹁ケイオス、お前も下がっててくれ﹂ ﹁分かってらぁ﹂ ケイオスは強いが、相手はそれ以上の強さだ。 特に今の脅威は不確定要素。闇雲に前に出られては困る。まあ彼 ほどの腕があれば勝てる相手とそうでない相手の判別くらい出来る だろうから、今の忠告は念のため、という側面が大きい。 太一は振り返って剣を黒の人型に向ける。 ここから先へは一ミリたりとも先へ進ませるつもりはない。 黒いもやと、その奥に首のない、黒の光を放つ死体。どうやらあ の死体も敵らしい。 まあ、一体も二体も変わらない。ここで仕留める。 ﹁たいち。あれ。あのアンデッドから、哀しみの魔力が漏れてる﹂ シルフィが示した先、首なしの死体に目を向ける。 どう見てもアンデッドである。それと精霊が発する哀しみの魔力 との繋がりが太一には見えて来ない。 ﹃まタジゃマしやガっテ﹄ どういうことかを問おうとした太一を、ブラッディヴァルハラー の成れの果てが遮った。 その声は憤怒に染まっている。考察をしたいところだが、まずは 目の前の障害に対処するところからだ。 実体のない、エレメントのような存在になったブラッディヴァル ハラー。物理攻撃はもう通用しないだろう。 1515 剣での攻撃に意味を持たせるために、太一は刀身に風の渦を高速 で纏わせた。魔術剣のようなものだ。まあ、もどき、パクリ、真似 事だが。 ﹁悪かったな。今から相手してやるから﹂ あえて上から目線で太一は剣を構えた。 太一からは余裕が滲むものの、それは彼だからこそだ。ブラッデ ィヴァルハラーは強い。具体的には、太一に魔力強化だけではなく、 シルフィの魔法も織り交ぜようと思わせる程度には。レミーアやス トールハンマー ミェーラという、世界最高峰の魔術師や戦士ですら、勝ち目が一厘 も存在しない程度には。 因みに、この戦闘を一瞬で終わらせることは可能だ。﹃雷神の鎚﹄ を一発ずつ叩き込めば大丈夫だろう。反応すらさせずにこの世から 消し去る自信がある。 しかし放つのは危うくなりそうだったらだ。ブラッディヴァルハ ラーの謎や、哀しみの魔力とやらを発する死体の謎が解けない。せ めて手掛かり位はこの戦闘で得たいと太一は考えていた。 ﹃トールハンマー﹄を撃つ準備は既に済ませている。実験中止の 可能性を捨てたわけではない。 ﹁よし。原因探りながらやるぞ!﹂ ﹁うん! 分かった!﹂ むん、と両手を胸の前で握るシルフィ。頼もしさを覚えながら、 太一は床を軽く走り出す。 前傾姿勢で走りながら、太一は速度を急激に上昇させた。 観戦していた者は、太一が消えたように見えただろう。 ﹃ごガあ!﹄ 1516 意味をなさないブラッディヴァルハラーの叫び声と、剣同士がぶ つかり合う音が重なった。 一拍の間。 両者をほんの一瞬だけ魔力の渦が覆い。 それが、弾けた。 地球のものを引き合いに出すなら、銃声を数倍にも増幅したよう な音とでも例えるのが妥当か。そして、魔力の余波が周囲を薙ぎ払 う。立っているのもやっとの衝撃。 太一とブラッディヴァルハラーの両足を中心に、放射状にひびが 入る。 力と力の拮抗。 これが、剣と剣を打ち合って起きるのだから、その力がどれほど のものかが分かろうというもの。 鍔迫り合いをする気はないとばかりに、太一は剣を握る手からわ ずかに力を抜く。ブラッディヴァルハラーの剣がいなされて軌道が ずれた。 圧倒的膂力にものを言わせて、太一は剣を切り返す。 まるで生き物のように踊る剣先に対し、ブラッディヴァルハラー は攻撃の軌道が読めているかの如く的確に防御していく。 ﹁かてぇなこいつ﹂ ブラッディヴァルハラーからの攻撃は、太一からすれば本当に大 したことがないレベルだ。しかし一方、防御はとても優れている。 骨の姿だった時と同じ特性を備えているらしい。 ﹁なら、これはどうだ!﹂ 一瞬の、それこそ一秒にも満たない間隙。その一瞬に限って、太 1517 一は攻撃速度を二段ほど引き上げる。 ﹃ウゴああア!!﹄ ブラッディヴァルハラーが叫んだ。太一の攻撃が太ももと思われ る部分を捉えたのだ。結果的に浅かったが、この一撃でどうこうし ようと思っていなかった太一は、剣が届いた結果そのものに満足し ていた。 どの程度の攻撃なら、ブラッディヴァルハラーの防御を抜けるの か。その基準を知っておけば、より優位に戦闘を進められるだろう。 ﹁たいち﹂ ﹁おう﹂ 攻撃を受けたことに腹を立てたブラッディヴァルハラーの反撃唐 竹割りを、真下から振り上げた剣の一撃で受け止め、むしろ跳ね上 げる。 そこからの更なる追撃には少しばかりの時間がかかるだろう。 太一が魔法を放つには十分だった。 向けた左手の先には、太一に向かって飛ぶ石の槍。さきほど奏が 迎撃したものと同じだ。 馬鹿の一つ覚えのような印象を受けつつ、しかしこれを避けたり すれば背後の三人に当たるのは必定。 よって、奏と同じく迎撃するのみ。 瞬間で構築したとは思えないほどの風の壁が、ピンポイントで石 の槍を受け止める。木材に潜っていく電動ドリルの刃のように、石 の槍は短くなってゆき粉砕された。 風の壁の実態は﹃エアロスラスト﹄の設置型トラップ。無数の風 の刃を射出するのではなくその場で留まらせた結果だ。 無論、砕いて終わりなんてつまらない真似をするつもりは太一に 1518 はない。 喰らえ、と小さく呟き、左手を払った。 砕かれた石の槍は、風によって弾かれるように飛んでいく。狙い はもちろん、石の槍を放った死体。 発射から目標到達までは瞬き一つ。死体とその周囲に着弾した指 先ほどの石が、脅威の破壊力を見せる。 重機関銃の掃射のごとき数の暴力が、死体を砂煙に包んだ。 やっと身体の制御を取り戻したブラッディヴァルハラーの攻撃は、 太一が首なし死体を攻撃した後だった。 再度振り下ろされる剣を危なげなく受け止めた太一は、今度は弾 かずに押し返した。 自身を明らかに上回るパワーで抵抗を受け、黒いもやがたたらを 踏んだ。 ﹁吹っ飛べ﹂ それは、衝撃波だった。 射程は短い。一〇メートルあるかないかだ。 しかし、威力は常識の埒外にあったようで、ブラッディヴァルハ ラーは踏ん張ることも出来ずに吹き飛ばされた。部屋の壁に一直線 に飛んでゆき、激突。 砂ぼこりを巻き上げながらガラガラと崩れる壁に埋もれた。 太一は剣を手元に引き戻し、自然体で様子を見ている。 パラパラと床に落ちる砂ぼこりの音だけが鼓膜を揺らす。 ﹁⋮⋮﹂ 言葉もない、とはこういう時に使う言葉なのだと、奏とミューラ は実感していた。 太一が精霊と契約を結んでから随分と時間が経過している。 1519 これは当然というべきだろうが、シルフィがエアリィだった時か ら通算しても、近接戦闘に魔法を交えて闘ったことはない。 レッドオーガの時は魔法を使って攻撃したが、あっという間に決 着をつけてしまった。 シルフィが使った攻撃魔法も数える程度。一番強力だったのはや シルフィ はり﹃トールハンマー﹄だ。あれはもう、強力とかそんな次元の話 ではない。 後者は戦闘以前に精霊という存在そのものが太一に圧倒的なアド バンテージをもたらしていた。 召喚したが最後、一歩たりとも動くことなく敵を葬る不落の砲台。 それが太一だ。 その太一が、初めて接近戦に魔法を加えた。 そもそも、太一が魔法を使って戦うという事実そのものが事態の 異常さを物語るのだから、そうそうあっても困るのは確かではある。 奏とミューラにとっては、異次元の強さを体感できるまたとない 機会だった。 ﹁ねえミューラ﹂ ﹁⋮⋮なにかしら﹂ ﹁見えた?﹂ ﹁辛うじて、ね。動体視力を目一杯強化して、それでやっとギリギ リだなんて思わなかったわ﹂ ﹁ミューラもかあ⋮⋮﹂ 奏もミューラも、早々に裸眼で追うのを諦めた。 強化魔術で動体視力を最大限まで強化してやっと見えるようにな ったほどだ。 身体強化による接近戦のレベルの高さは二人も知るところだが、 やはり驚くべきは風の魔法である。 破壊力ももちろん、しかしその特徴は速射力だろう。 1520 はたから見る限り、まるで詠唱していない。 何気なく構えると同時に撃っている。魔術発動速度に自信があっ た奏とミューラだが、彼女たちよりもワンテンポ速い。 その速さはレミーアに匹敵する。詠唱の簡略化と魔力精製の巧み さで世界最高峰の魔術詠唱速度を持つレミーアと。奏とミューラが 到達できていない遥か高き領域。実際は紙一重ほどの差だが、それ が目が霞むほどに遠いのである。 その速さであの威力の魔法を放つのだから、つくづく規格外だ。 ﹁⋮⋮おい、なんだ、ありゃあ⋮⋮﹂ 種が分かっている奏たちだから、この程度の驚きで済んでいる。 太一の本気の戦闘を初めて見たケイオスの反応は、極めて正しい ものだろう。 ﹁何って、あれが本気になったタイチよ﹂ ﹁本来の戦闘を見るのは、私たちも初めてだけれど﹂ 本気ではあるが、まだ全力全開からは程遠いのが、太一の恐ろし いところだ。 ﹁⋮⋮何をどうしたら、あんなんなるっつうんだよ⋮⋮﹂ そう絞り出すケイオスの様子を見て、奏とミューラは顔を見合わ せて苦笑した。 当然浮かぶ疑問。太一はシルフィの具現化を解いていない。彼の そばには、手のひら大の少女が見えているのだ。 ﹁お前ら、あれ、知ってるのか?﹂ 1521 あれ、とはシルフィのことを指していると思われる。 ずっと疑問に思っていたことだったのだろうが、口にする暇がな かったのだ。 ﹁悪いんだけど、教える気はないよ﹂ もちろん、訊かれたからといって素直に答える必要は全くないが。 奏がケイオスの質問を一蹴した。 ﹁ちっ。幾らだ﹂ ノリで答えが聞けたら幸運、位のつもりだったのだろう。舌打ち にはそこまでの感情はこもっていなかった。 ﹁そうね⋮⋮﹂ ミューラが手のひらを広げてケイオスに見せる。 ﹁金貨五枚ってか? 足元見やが⋮⋮﹂ ﹁いつ五枚なんて言ったかしら﹂ ﹁⋮⋮あ?﹂ ﹁金貨五〇万枚﹂ ﹁⋮⋮﹂ ケイオスは何かを言いかけて開いた口を閉ざした。 吹っ掛けたミューラとて、お金が欲しかった訳ではない。 言外に﹁教えない﹂というメッセージを込めたのだ。 三大大国の年間国家予算の数割にも及ぶ大金。ケイオスの組織が どれだけ大きかろうと、そんな多額の金を持っているとは思えない。 持っていたとしても、情報料として支払うには馬鹿馬鹿しいにもほ 1522 どがある。 ﹁それが嫌なら自分で調べることね﹂ ﹁申し訳ないけどそういうこと﹂ ﹁わーったよ。仕方ねえ﹂ 冒険者の能力はそれが即ち飯のタネ。 その情報を簡単に出さないというのは冒険者の常識。ミューラは それを適用しただけだ。 群を抜いた実力者であれば、その情報は知れ渡るもの。人の口に 戸はたてられない。太一ほどの力を持つ冒険者の情報であれば、そ こかしこで噂になっていてもおかしくはない。 しかしケイオスは知らなかった。今の今まで噂すら耳にしなかっ たというのは妙な話である。 そして何より、太一のそばにいるあの小さな少女。 あれは普通ではない。抑えているというのは感じられるが、それ でも言い知れぬ存在感を纏っている。 まあ、積極的に明かすつもりがないというのは分かったが、調べ た結果正体が知られることに対して忌避している様子もない。調査 してよいならと、ケイオスは引き下がったのだった。 目の前の常識外な出来事に気を取られて、ケイオスは一つ失念し ていた。彼が契約している水と土の精霊の様子がおかしかったのだ。 今ここで精霊魔法を使おうとしても、ケイオスに応じることはな かっただろう。 属性は違うが、シルフィは精霊の頂点に立ちしエレメンタル。 人間でいうところの、一般市民が国王を目の前にしたのと同じな のだから。 背後で行われるやり取りを流しつつ聞いていた太一は、瓦礫にわ ずかな変化を認めて目を細める。 覆っていた砂煙は晴れており、首なし死体は横たわっている。そ 1523 の死体から、黒い光が瓦礫に吸い込まれ始めたのだ。 ﹁ん⋮⋮。今度は何が起きる?﹂ 警戒を強めて観察する。 積もった瓦礫が弾け飛んだ。大量の火薬で発破されたかのようだ。 姿を見せたブラッディヴァルハラー。人を形作っていた黒いもや はそこかしこが解れており、左腕は少し引っ張ればちぎれそうな位 に傷付いていた。太一の魔法がかなり効いたのだろう。 ﹃おノレ⋮⋮ニんゲンふゼイガ﹄ 発音がかなり怪しい。骨だった時と比べて顕著だ。その時はまだ 聞き取りやすかった。 ﹁倒すぞ?﹂ たった一言に、自分がこれから成すことを込めて告げる太一。さ きほどの魔法は、むしろ倒さないように手加減をした。 哀しみの魔力がどのようにブラッディヴァルハラーに影響を与え たか、確かめる方法は分からなかった。ならば倒さぬようにダメー ジを与え続けてみたらどうなるか、それを見てみることにしたのだ。 わざと煽る。それさえも実験のうち。 何でもいい、手がかりが欲しかった。 ﹃グヌウウう⋮⋮コろス⋮⋮コロスコロスコロスぅぅぅぅっっ!!﹄ ﹁⋮⋮﹂ 舌打ちを一つ。ブラッディヴァルハラーが壊れ始めた。 相変わらず倒れている首なしの死体からは、今も黒い光が流れ込 1524 んでいる。 ﹁なあシルフィ。あいつ、光を吸い取ってどうしようってんだろう な?﹂ ﹃※◇◎∃¬?ゐ∽⋮⋮!﹄ 後ろの三人が息を飲む気配を背中に感じる。ブラッディヴァルハ ラーの言葉が言葉としての体裁をなさなくなった。 ﹁う⋮⋮っ﹂ ﹁く、あっ﹂ ﹁うおお⋮⋮﹂ 頭痛を引き起こすようなな金切り音が大音量で響き渡り、奏たち が耳を塞いでいる。 思い出したように奏が一つ魔術を使った。ソナー魔術を応用した 音を遮断する魔術だ。 それによって鼓膜を揺らす不快な音が届かなくなり、三人は人心 地ついた。安堵のため息を吐いたり、頭を振ったりしてしる。 ﹁たいち。あれは、吸い取ってるんじゃないよ﹂ 太一とシルフィの間の会話は声を出さなくても問題はない。これ ほどの大音量の中でも静寂に包まれた部屋の中のように鮮明に互い の声が聞こえる。 ﹁吸い取ってない? ブラッディヴァルハラーに流れ込んでるだろ ?﹂ ﹁それは間違いないよ﹂ ﹁力が流れ込んでて、吸い取ってない。ってことは﹂ 1525 ﹁そう。力を流し込んでるのは、あの死体の方﹂ 死体から、ずるりと黒い光の塊が出てきた。 黒いのに、眩い。明らかに矛盾するのに、そうとしか表現しよう がない光景。 ブラッディヴァルハラーが、その光から逃れようとしている。し かし、足が縫い付けられているように動かせず、身体を不格好によ じるだけだ。 ﹁あれは⋮⋮﹂ ﹁うん⋮⋮精霊の、なれの果ての姿⋮⋮﹂ 太一には、太一だけは見える。 黒い光の塊の中にいる精霊が。 苦しげに悶えながら、ぐずぐずに朽ちかけた身体をのたうち回ら せている。 苦悶に歪むその顔。しかし、目は、ある感情に塗り潰されている。 それは、哀しみと願い。 強い悲哀に彩られた瞳を、その感情の発露を、精霊は一気にブラ ッディヴァルハラーに向けて放った。 ◇ 彼は、名も無き地精霊。 精霊の格としては、中級の中堅どころ。 弱いわけではないが、特別強い力を持つわけでもなく。 しかし中級精霊ということで、周囲一帯の地属性の下級精霊を統 括する立場にあった。 もっとも、統括といっても軍隊や組織のように規律があるわけで もない。 1526 領域から離れそうになった下級精霊を呼び戻したり、他所の領域 からきた精霊を元の場所に帰したりするのが主な仕事。そしてそれ も滅多に発生するものではない。 ここは奥地ゆえ滅多に人も訪れないが、領域内で土属性の魔術を 使う者がいれば力を貸す。彼はそうして、長い時を過ごしてきた。 基本的な行動パターンは、地面にもぐって泳いだり、大地の恩恵 を存分に受けて緑を繁らせた木の中を探険したり。それ以外は殆ど ぼんやりしていた。 日がな一日ぼーっとしていても、別に誰から咎められるわけでも なし。精霊はその場にいるだけでいいのだから。 彼は元々はとかげのような姿をしていた。 少しだけ焦がした土色の肌。尻尾には萌えたばかりの新緑を彷彿 とさせる葉がぽつりと一枚ついている。 身体を形成できない下級精霊と違うその姿。 とはいえ、彼の姿は、精霊以外に捉えることはできない。 それは絶対のルールだった。 精霊は命あるものとは違う存在。存在としての格が違うのだ。 精霊には命や時間という概念はないのだから。 そうして、いつ自身の存在を自覚したかも覚えていないほどの時 を過ごし。 彼は、初めて、彼を﹃見る﹄ことができる存在に出会った。 それは、人の姿をしていた。 肌が浅黒い、暗闇よりも黒い髪を撫で付けた青年だった。肌に若 干紫の色素が含まれているのが目立つが、造形は彼が知る人間その ものである。 その人物は彼をじっと見つめ、声をかけてきた。 ﹁精霊が、人と接することが出来るようにしたい﹂ と。 1527 絶対のルールを覆そうとする言葉の意図を察するのは彼には難し かった。しかし、自分の一挙一投足に反応を返す人物に出会ったの は初めてで、彼はこれまで感じた記憶のない感情を心に抱いた。 促されるまま、彼はその青年についていった。行く先は、彼が受 け持つ領域の端にある、歴史から捨てられた古城。 アンデッドの巣になっていた筈だ。彼も数度、その中を散歩した ことがあった。 その城の奥の奥。とある広間。そこにたどり着いた瞬間から、彼 の記憶は曖昧になった。 浅黒い肌の青年に言われるまま。人と精霊の関係をさらに一歩、 二歩と進めたいという言葉のまま。彼は青年に協力した。 初めて出来た精霊以外の友人と、彼は充実した時を過ごした。 そして、はたと気付いたとき、彼は精霊としての力を七割近く以 上失っていた。 実体を保っているのが、やっとだった。 何故そんなことになったのか、記憶がぼやけている事実に愕然と した。 彼は必死に訊ねた。 何故こんなことをしたのかと。 友に対し、言うことを聞かない身体を必死に動かし問い掛けた。 そんな彼に。 青年は。 口を三日月のように歪めた。 暗転。 次に彼が気付いたとき、自分という存在が、狭い牢に閉じ込めら れていた。 何故。 信じたのに。 初めて出来た、友だったのに。 力を奪われた怒りよりも。 1528 騙された怒りよりも。 裏切られた哀しみが、強かった。 朧気な意識の中、閉じ込められた彼にたくさんの人間が触れて、 何かをしていた。 しかし、彼はどうすることもできない。 哀しみだけが、募った。 何もかもがどうでもよくなり、眠ることが多くなっていた。 そんなある日。 彼は、この城に近付く人間たちの姿を感じ取った。 数は四人。 そして、その中の一人の少年に、彼は強い興味を持った。 全てを投げ捨てた彼が、久し振りに向けた外への意識。 信じられなかった。 その人物は、風の精霊王と強い契りで結ばれていたのだ。 精霊王。 この世界に存在する、あまたの精霊たちの頂点に君臨する存在。 彼とは属性が違うが、それは関係ない。エレメンタルは、属性と いう垣根を越えて全ての精霊の王なのだから。 力を失った。 身体も失った。 不自由という苦しみを悠久に味わうのは、自由を尊ぶ精霊には耐 えられなかった。 彼は、その少年との接触を求めた。 救って欲しかった。苦しみから、解放して欲しかった。 ことここに至って、手段を選ぶつもりはない。 彼と同じ目を見る精霊がいなくなるように。 その想いが、精霊王に伝わるように。少年に伝わるように。 彼は、自身の存在の抹消を、強く強く願った。 ◇ 1529 太一は、一瞬に流れ込んできた精霊の強い感情に、思わず動きを 止めていた。 これほどの思念を浴びせられるとは思っていなかったのだ。 黒い光が、ブラッディヴァルハラーの中に入り込む。 ﹃グブロアララアオオオア!!!﹄ 最早音でしかない叫び声。 渦を巻いて天井まで伸びる魔力。 これは、あの精霊の最後の力だ。 残った全ての力を、絞り出しているのだ。 ﹁たいち⋮⋮﹂ シルフィが、太一の服の裾をつまむ。 わずかに滲む瞳が、訴えている。 それは、精霊の王としての、願い。 ﹁ああ﹂ 風の精霊王と契約を交わせる程の召喚術師。 これまでは、何故こんな過ぎた力を持っているのかが分からなか った。 あまつさえ、精霊として最高の存在である風の精霊王の力を貸し てもらっているのだ。 この世界で普通に冒険者として生きていくには、必要のない力。 しかし、今なら分かる。何となくだが、分かる。 精霊という、人とかけ離れた力を持つ存在と対等に接するなら、 太一のこの力は、決して過剰ではない。 1530 力の殆どを奪われた中級精霊とはいえ。最後の力を全て燃やして いるとはいえ。 ここまでのエネルギーを発揮しているのだ。 人間の領域を圧倒的速度でぶっちぎったところにある。 背後で奏たちが身体を抱えて震えている。顔は真っ青だ。ケイオ スとカリーナは、気絶してしまっている。 太一に、彼らを馬鹿にするつもりはない。笑うつもりなど毛の先 もない。 これだけの魔力をまともに感じては、発狂してしまってもおかし くはない。 奏とミューラが気絶せずに済んでいるのは、太一と共に、シルフ ィードと共にいて耐性があったればこそだ。 正に、生き物と違う、上位の存在の力。 精霊がなりふり構わず全力を出すと、ここまで凄まじいのか。 太一は、ブラッディヴァルハラーをあっという間に乗っ取った土 の精霊に目を向けた。 そして、たった一言。 ﹁君の願い、俺が叶える﹂ それだけで、十分だった。 ﹁シルフィ。今から俺がやりたいこと、やってくれるか?﹂ ﹁⋮⋮っ、うん、もちろん!﹂ 嬉しそうに笑うシルフィ。 彼女にとって、精霊はその属性に関わらず、家族のようなものな のだろう。 そんな相棒の望みなら、実現させたいと心から思う。 1531 ﹁はっ!﹂ 気合い一閃、剣を真上に突き上げた。これまでの戦いとは明らか に違う威力で、太一は魔法を放った。 放たれたのは何の変哲もない風の弾丸。いや、変哲はある。その 威力だ。 空間が歪んだダンジョンである城の天井を容易く突き破り、あっ という間に天空へと消えていった。 パラパラと落ちる砂ぼこり。直径五メートルの大穴の先には空が 覗いている。どうやら、昼間のようだ。 久方ぶりに拝んだ青空に感慨を浮かべるでもなく、太一は左手を 奏たちに向ける。彼女たちを空気の幕で包み込み、そのまま浮き上 がらせた。 突如の浮遊感に奏とミューラが慌てているが、太一は二人を安心 させようと微笑む。 ﹁太一⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮﹂ 三人と一匹が、穴を通って上昇して行く。 ﹁慌てんなよ﹂ それを見送りながら、天に向けた剣を振り下ろし、切っ先を太一 に飛び掛かろうとしていたブラッディヴァルハラー⋮⋮いや、土の 精霊に向けた。 途端に、壁にぶち当たったかのように動きを止める土の精霊。 彼がどれだけ強かろうと、シルフィの魔法を駆る太一との間には、 天と地ほどの差があったのだ。 奏たちが十分な高度まで到着したのを確認し、土の精霊に施して 1532 いた拘束を解除し、太一も飛行魔法で空を飛んだ。 あっという間に城を抜け、三〇〇メートルの高さまで到達する。 見下ろすと、広大な面積を持つ城が小さく見えた。太一が開けた 直径五メートルの大穴も、視力の強化なしでは辛うじて見える程度 だ。 少し経って、城の屋根に姿を見せた土精霊。キョロキョロと周囲 を見渡して太一を見つけた彼は、すさまじい勢いで跳躍した。 重力と空気の抵抗を無視してぐんぐんと太一に迫る。しかし、ど うやら空を飛ぶ能力はないようで、太一の元まで辿り着くことなく 再び落下していった。 視力を強化してブラッディヴァルハラーを観察する。 二つの感情が見てとれる。 憎々しげな感情は、まだ残滓が残るブラッディヴァルハラーのも のだろう。 もう一つは、何かを待つような、期待するような感情。土精霊の もの。 ﹁分かった、待ってろよ。すぐ終わる﹂ 太一はそこで、奏に抱かれたカリーナをちらり見た。まだ気を失 っている。 視線を城全体に移す。 この城で起こった悪夢。もはや二〇〇年も昔の出来事だが、未だ それに縛られている魂があるのも事実。 全てをここで、断つ。 ﹁シルフィ、顕現﹂ 森羅万象を癒すかのごとき、淡いエメラルド色の光。 シルフィが、等身大の姿を取り戻した。 1533 限定解除した本人ながら、その存在感の大きさに改めて嘆息が漏 れる。 ﹁シルフィ﹂ ﹁ん﹂ 今は見とれている場合ではない。軽く頭を振って意識を取り戻し、 太一はこれから放つ魔法を告げた。 ﹁﹃トールハンマー﹄準備﹂ ﹁了解﹂ 轟! と吹きすさぶ風が、太一の服をはためかせる。 晴れ渡った空が、突如夜のように暗くなる。 広大な森を覆うほどの暗雲が、天空で渦を巻いた。瞬くのは雷光。 四大精霊は、天候さえも操る。 この世の終わりでも来たかのような、見るものを畏怖で震わせる 光景だった。 かつて放った﹃雷神の鎚﹄からは一味も二味も違う。 やがて、太一の剣が電気を帯びた。 それは、引き金である。指先ひとつで命を奪う銃のように、太一 が剣を振るえば、﹃トールハンマー﹄は発動する。 太一の脳裏を、様々な想いが駆け巡った。 なす術もなかったスライマンの懊悩。 尊厳を奪われたカリーナの苦痛。 生者を憎むことを強要されたカリーナの夫。 自由を奪われた土精霊の悲哀。 望まぬ形で果てざるを得なかった、この城の人々。 ﹁救うぞ!﹂ 1534 この方法で救えるのか、太一には分からない。 だが、彼にはこれしか思い付かなかった。 ﹁うん!﹂ シルフィが応じた。 太一は剣を振り上げ、そして、勢いよく振り下ろした。 全ての色を塗り潰し、白い一柱が、城を覆うように天から落ちる。 土の精霊が、笑ったような気がした。 光の奔流、という言葉では足りぬほどの光源。太一はシルフィの 力を得た強化で、奏たちは空気の幕で覆って防いでいる。光の周囲 は数万度に達している。防護手段がなければ丸焦げだ。 自然現象の落雷と違い、﹃雷神の鎚﹄は太一が決め技として誇る 大魔法。数えれば凡そ六秒間、雷が振り続いたことになる。 ﹁終わっちまえ、くそ悪夢﹂ 一拍の間を置いて響き渡った落雷の轟音が、太一の呟きをかき消 した。 数えればあっという間の六秒間。しかし、目の前で起こる超常現 象を見つめるという意味では永遠にも思える六秒間。 太一が込めた魔力が、﹃トールハンマー﹄に全ての消化される。 雷がその役目を終えて姿を消し、続いて天を覆っていた雷雲が徐々 に薄くなっていく。 途切れ途切れになった雲の隙間から太陽の光が降り注ぎ、幻想的 な光景が広がっていた。 ﹃トールハンマー﹄が落ちた城を見てみる。 黒煙があがっている。その隙間から、着弾地点が見えた。 森にぽっかりと口を開けた大穴。 1535 直径はおよそ一〇〇〇メートル。底まで見通すのは例によって不 可能だ。 城の姿は跡形もない。レングストラット城は、それを包んでいた 魔力もろとも完全にその姿を消した。 これでよかったのだろうか。 未だに疑問はつきない。 だが、太一にはこれしかできない。彼に退魔などの力はないのだ。 風の精霊王の魔法であれば報われるのではないか。そんな想いも あった。そうだ。やり方が間違っていたとしても、救いたいという 想いには一片たりとも偽りはない。救いたかった人たちのためにも、 胸を張っていようと決めた。 辛そうな顔をするシルフィの頭を撫でながら、太一は犠牲者の安 らかな眠りを祈った。 1536 精霊魔術師と古城探索 十二︵後書き︶ かなり強引に終わらせた感は否めません。 後日談は次の幕間にて。 1537 精霊魔術師と古城探索 エピローグ︵前書き︶ 最後のがやりたかった。反省はしているが後悔はしていない。 1538 精霊魔術師と古城探索 エピローグ ガラガラ。ガラガラと。 整備らしい整備もされていない道を馬車が行く。 時折小石を踏みつけて馬車が跳ねるが、今ではそれも慣れたもの だ。 もう目と鼻の先にファムテームが見えている。 古城探索という非日常から、日常へ戻ってきたのだ。 クロは馬車と共に森の外にいた。一応城の周囲の気配を探ってか ら﹃雷神の鎚﹄を放った太一だったが、気兼ねなく撃てたのはクロ が距離を取っていたからだ。主の考えを読んだような行動に、太一 たちは驚き、そんな彼らにクロはふっと鼻をならしたのだった。 ﹃トールハンマー﹄によって大地に穿たれた大穴は、放っておく と相当危ない。シルフィの風魔法によって穴の縁を斜めに削るよう にして埋めた。 円柱型だった大穴は、擂り鉢型の穴に形を変えてある。蒸発して しまった土を補うため、相当な量の土を削らざるを得なかった。擂 り鉢と濁したが、実際は隕石でも墜落したかのような大クレーター となっている。 ﹁ふう。これで終わりだな﹂ ﹁そうだね﹂ 程無くして馬車はファムテームの門をくぐり、街の中に入った。 のんびりと馬車を進め、久しぶりに宿に辿り着いた。ずいぶんと 長い間ここには来ていないように思える。ファムテームでは一泊し かしていないのだからそう感じるのも当然か。 ﹁そいじゃケイオス。これでお別れだな﹂ 1539 ﹁⋮⋮おう﹂ 何とも納得いっていなさそうな彼に、太一は極めて平坦に別れを 告げた。 あの大穴と、太一の真の力を垣間見た彼からは当然のように多数 の詰問が飛んだ。しかし太一はそれをことごとくいなした。 結果として、ケイオスの疑問にはこれっぽっちも答えていないの だ。 ﹁ここまでしらばっくれられるとは思わなかったぜ﹂ ﹁知りたきゃ代価持ってこいよ﹂ ﹁五〇万枚とかぼったくりもいいところだろ﹂ 一度は納得したものの、情報料としては桁がおかしいのは誰が聞 いても明らかで、今は理不尽だという思いが抜けていない。 ﹁納得できなきゃ他当たってくれ﹂ ﹁足元見やがって﹂ ぶつぶつと続く文句も、太一には何の痛痒ももたらさない。 ふてぶてしさを最大限に発揮した。 ﹁まあいい。調べっからよ﹂ じゃあな、と言って、ケイオスは馬車から遠ざかる。 背を預けあった仲間ではあるが、お互いにあえて淡白に応じた。 あまり感傷的になると余計に別れが辛くなるのだから。 背を向けて遠ざかろうとしていたケイオスが、そうだ、と言って から振り返った。 1540 ﹁どうした?﹂ ﹁報酬忘れてたわ。ほれ﹂ 放られた手のひらに収まる程度の小さな皮袋を、太一がキャッチ する。平たい金属の円盤の感触が多数。中を改めるまでもなく、貨 幣だろう。 ﹁中を見ねぇのか?﹂ ﹁ケチなのは飯代だけじゃないのか?﹂ ケイオスは肩を竦めた。食事代をけちったのは記憶に新しいが、 この報酬をケイオスはけちれないだろう。 何せ彼は太一の素性を知りたがっている。報酬を渋って嫌われる ような愚を犯すとは思えない。いずれ必ず、向こうから接触してく るだろう。もしも出し渋っていたなら、その時の対応をそれなりに すればいいだけだ。面倒が避けられるなら、一度の報酬の損は安い ものだ。 ﹁確かに渡したぜ﹂ ﹁ああ。受け取った﹂ 皮の袋を掲げる太一。じゃらりと音がする。 今度こそ去っていくケイオスの背中を見送って、太一たちはお互 いを見やった。軽い苦笑いは、これが彼からの依頼だったのを忘れ ていたためだ。濃い時間を過ごすのに手一杯だった。 普通なら報酬に一喜一憂するのが冒険者だが、すでに大金を持っ ている上に、その気になれば金稼ぎには困らない三人にはそこまで 執着はない。自分達が非常識であることも自覚はしている。 まあ、非常識が服を着て歩いているような存在︵太一︶がパーテ ィにいるのだからさもありなん。 1541 太一と奏には物欲があまりない。というよりは異世界に欲しいも のがあまりない。武器は最上級のミスリル製。防具も適度に買い換 えているが被弾回数が少ないので痛まない。レミーアによって衣食 住は保証されている。 これが日本で、同じ価値の日本円を持っていたなら。太一は単車 を買って免許を取り、カスタムにツーリングと楽しんだだろうし、 奏は奏で自分専用のテニスコート、なんてものを求めたかもしれな い。そして、二人とも両親に親孝行をしただろう。 異世界アルティアでは叶えようもない願いだ。 馬車を預けて部屋を取り、久方ぶりに身体を清め、食事をとって 部屋へ。 太一︵野郎︶は一人部屋、奏とミューラ︵婦女子︶は同室。その うちの二人部屋の方へ、三人は集まっていた。その視線は、一所に 集まっている。 ﹁なあ﹂ ﹁分からないわ﹂ ﹁まだ何も言ってねぇし﹂ ﹁聞かなくても何言いたいかは分かるわよ﹂ ﹁それもそうか﹂ それっきり落ちる沈黙。三人の視線は再び同じところへ向かう。 ﹁本物だよね?﹂ ﹁そうね﹂ ﹁そうだな﹂ ﹁触れる⋮⋮実体あるよね?﹂ ﹁そうね﹂ ﹁そうだな﹂ 1542 二人の返事はおざなりだ。気のない返事をされる奏も気にした様 子はない。 太一とミューラの視線は奏の胸元へ。ミューラはともかく太一が その箇所を凝視してしまえば、いかがわしい奴とそしられても文句 は言えないが、今回ばかりはその心配はないだろう。 ミューラはもちろん、太一も奏の女性の象徴というべき双丘を見 ているのではない。そこに抱かれた、黒い子猫を見ていた。 ﹁あの城に、囚われてた訳じゃないってことか?﹂ 女性陣からの反応はない。無視したわけではなく、応えようがな かった。 子猫はすやすやと寝ている。レングストラット城を発ってからそ れなりに時間が経っているし、こうして抱き上げたりしているのだ が起きる気配がない。これが猫なら、よほどのんびりな性格をして いない限りは、抱き上げたりすれば目をさますだろうに。 とりあえず、起きてくれないことにはどうしようもない。横に置 いて先送りにする。三人の頭脳は今頃ウェネーフィクスの王立図書 館に引きこもっているだろうから。 そう。黒猫も気になるが、もうひとつ、気になることがあるのだ。 ﹁じゃあ、読んでみようか﹂ ミューラが封筒を取り出す。 それは、この宿に帰ったときに主人から渡されたものだ。 宛名には﹃タイチ、ミューラ、カナデへ﹄とある。 ﹁まさか、レミーアさんからの手紙とはな﹂ ﹁全く予想してなかったわ﹂ 1543 差出人はレミーア・サンタクル。太一たちの師からだった。 ﹁どうやって、あたしたちの居場所に正確に届けたのかな﹂ ﹁さあ? とりあえず、読んでみるわね﹂ ︱︱自慢の弟子たちへ︱︱ そんな書き出しから、手紙は始まっていた。 ︱︱夜もガルゲン帝国ならそこまで寒くないだろう。元気にしてい るか。お前たちなら滅多なことで怪我などしないと思うが、今後も 気を付けろ。こちらは不調だな。まだ時空魔法の手がかりを掴めて おらん。もう少し待て。︱︱ まるで目の前で話しているかのようで、思わず彼女の顔が見たく なった。 ︱︱憂うことはない。私に任せておけ。さて、何故この手紙がお前 たちの元へ正しく届いたか疑問に思っているだろう。勿論方法はあ る。だが。︱︱ 不意の話題変化。それを妙に感じ、視線を交える。 ︱︱だんまりを決め込ませてもらおう。無論帰ってきてからもな。 女の秘密というやつだ。︱︱ ﹁ちょっ﹂ ﹁おい﹂ ﹁女の秘密って⋮⋮﹂ 1544 突っ込みどころ満載の文面に、しおしおと脱力する三人。 何せ相手はレミーア。叡知の塊だ。便りが手元にあるのも、きっ とあんな方法やこんな手段でどうにかしたのだろう。 ﹁⋮⋮⋮⋮続き読むわよ﹂ 気を取り直し、再び視線を手紙に落とす。 ︱︱旅は順調か。寄り道しなければとっくにガルゲニアに着いてい るだろうが、そうもいくまい。もろもろの面倒に巻き込まれた結果、 現在地はファムテーム近辺といったところか?︱︱ 途端に、三人は顔を上げて忙しなく周囲を見回す。 今なら﹃実はついてきた﹄と言いながらひょっこり顔を出されて も、驚きはしない。 やがてレミーアの気配がないと確認した三人は、もう驚かない、 と固く決心して先を読む。この手紙はレミーアなりの冗談なのだろ うか。 ︱︱心の準備という意味では、まだガルゲニアに着いていないのは いい状況だ。︱︱ やはり、面白おかしいだけの手紙ではなかった。三人は居住まい を正した。 ︱︱結論から述べよう。お前たちにガルゲニアでの依頼が入ってい る。︱︱ ﹁依頼?﹂ ﹁ガルゲニアでこなす依頼よね?﹂ 1545 ﹁それが何でレミーアさんから知らされるんだ?﹂ 思わず首を捻りつつも、先に目を進める。 ︱︱ここでは詳しい事は書けぬ。依頼人から口止め、いや筆止めさ れている。本人が細やかに説明すると言っているようなのでな。説 明を聞いた後、依頼を受諾するかどうか考えるといいだろう。︱︱ どうやら、考える余地はあるらしい。まあ、依頼が﹃きた﹄だけ で、﹃受けた﹄わけではないから、当然だろう。 筆止めとか、ところどころで遊んでいる文面に都度突っ込みを入 れながら、さらに先を読む。 ︱︱因みにだが、依頼人はメキルドラ・サインス・リクシオン・ガ ルゲンという名だ。︱︱ ﹁⋮⋮﹂ ﹁名前に、ガルゲン⋮⋮﹂ ﹁もしかして⋮⋮﹂ ﹁そう⋮⋮その通りよ﹂ ミューラは額に手を当ててゆっくりと頭を左右に振った。 ﹁メキルドラ・サインス・リクシオン・ガルゲン。ガルゲン帝国の 皇帝陛下よ﹂ 断っても、なんて気安く考えられる相手ではなかった。しかも依 頼人からの説明があると書いてあった。 この手紙から読み取れるのは、帝国重鎮との会談。下手をすれば 皇帝との謁見の可能性が浮上してきたのだ。 1546 ﹁マジか⋮⋮﹂ ﹁まったくもって⋮⋮﹂ ﹁厄介事の足音がするわね⋮⋮﹂ エリステインだけでなく、ガルゲンでも皇族、最低でも貴族と関 わるのが確定してしまい、げんなりする太一たち。 依頼の検討結果を、顔を出さずに文章で断るのも、冒険者の間で は珍しくない。が、相手が国となればそうはいくまい。 従う理由も義理も、ましてや義務も存在しないが、それでも闇雲 に敵を増やす行為は阿呆だ。進んで心証を悪くする理由はない。 ︱︱依頼については受けるも受けないもお前たち次第だ。私から言 えるのは一つ、賢明な判断をしろ。︱︱ ﹁賢明な判断を、ってことはだ⋮⋮﹂ ﹁ええ⋮⋮﹂ ﹁受けざるを、得ないよね⋮⋮﹂ 断れどころか受諾推奨としか受け取れない。こちらに決定権を委 ねてはいるものの、レミーアとしてはむしろ受けた方が良いと考え ているのだ。 ﹁太一⋮⋮﹂ ﹁どうする?﹂ ﹁どうするもなにも、やるしかないだろなあ﹂ ため息混じりに、今後の行動が決定した。 乗り気でないのは仕方ない。 1547 ﹁⋮⋮まだ続きがあるわ﹂ もう何度目かわからないが、再度気を取り直して手紙を読む。そ こには、とんでもないことが書いてあった。 ︱︱なお、この手紙は読了後自動的に爆発、消滅する。︱︱ ﹁うおいっ!﹂ ﹁マジで!?﹂ ﹁洒落になってないわよ!?﹂ ミューラが手紙を放り出し、奏が思わず伏せる。 太一は脊髄反射というレベルで自身に強化を施し、二人の盾にな った。更に二人を風の結界で包む。刹那という制限下で、最大限の 防御を構築した。 頭の片隅の冷静な部分で﹁弁償かあ⋮⋮﹂等と妙にのんきな思考 を巡らせながら、衝撃に備える。 皇帝からの依頼、という機密情報が記載された手紙だ。隠滅とい う選択は分かるのだが、爆発させる必要はあるのか。 至近距離での爆発。しかし、幾ら待っても起こらない。 ﹁⋮⋮あれ?﹂ 流石に変に思った太一が、手紙を拾い上げる。 ざっとこれまで読んだ部分を流して、﹃爆発する﹄の箇所にたど り着く。 そこには、更に続きがあった。 ︱︱皇帝からの依頼は事実だが、爆発については冗談だ。最初にそ う書いたろう。では、また会うときを楽しみにしている。︱︱ 1548 ﹁だってよ﹂ ﹁最初に? ⋮⋮⋮⋮あ﹂ 何か閃いた様子の奏が、手をぽんと打った。 ﹁分かったか?﹂ ﹁うん。これ⋮⋮冒頭の段落を縦読みだよ﹂ ﹁たてよみ?﹂ 頭にハテナマークを浮かべる太一とミューラが手紙を覗き込んだ。 ﹁⋮⋮あ﹂ ﹁なる、ほど⋮⋮﹂ 自。夜。憂。だん。 じょうだん。 何だかどっと疲れたのは、仕方のないことだろう。手紙に書かれ た依頼もそうだし、この冗談もそうだ。 ﹁⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁ネタ仕込んでんじゃねー!!﹂ 太一の叫び声が部屋にこだました。 これだけ騒いだのに、黒子猫は相変わらずぐっすり寝ているのだ った。 1549 精霊魔術師と古城探索 エピローグ︵後書き︶ 次からは第二部です。 四章はほぼ丸々ガルゲン帝国編です。 1550 帝国立魔術師養成学園の騎士候補生 一︵前書き︶ 書籍執筆のために中々本編が書けません⋮⋮ 1551 帝国立魔術師養成学園の騎士候補生 一 熱い吐息が断続的に吐き出される。 その度に、小さな肩が激しく上下した。 見詰める地面には、ぽたぽたと滴が落ちる。 ﹁はあ⋮⋮はあ⋮⋮はあ⋮⋮﹂ 杖代わりにしているショートスピアが小刻みに震えているのは何 故だろう。 そういえば、このショートスピアというものは、杖として使うも のだっただろうか。 膝が笑っているのが震えの原因だと、自分の身体の震えゆえだと、 気付かない。 アクト・バスベルはやっとの思いで顔をあげる。 整った中性的な顔立ち。小柄だが、その鋭い視線によって精悍と いう言葉がよく似合う。 肩に届く手前で切り揃えられたライトブラウンの髪は、汗で額や 頬に張り付いている。 アクトという人物を指す特徴は、とてもはっきりしている。頭の 左右から突き出した三角の耳。臀部から生えているふさふさの毛に 包まれた尻尾。 アクトは亜人。犬の獣人だった。 その姿は見るからにボロボロだ。疲れきって霞む目には、見慣れ た訓練場。五〇メートル四方の中々に立派な作りの訓練場にいるの は、アクト一人だ。 目の前には突かれ打たれ薙がれてぐずぐずになった藁人形。アク トがどれだけ激しく向き合ったか、一目見れば分かった。 しかし。それでも。 1552 ﹁この、程度か⋮⋮﹂ そう、ごちた。 藁人形くらい、さっさと使い物にならなくさせる位でなければな らない。アクトが目指す基準はそこだ。 この藁人形なら、まだ剣による一刀両断の訓練には使えそうだ。 誰が見ても廃棄するしかない。アクトは藁人形をそこまでボロボ ロにしたいのだ。 ﹁もう、少し⋮⋮もう少しだけ⋮⋮﹂ 幽鬼のようにそう呟き、アクトはほとんど言うことを聞かない足 に鞭を打って、ショートスピアを構えた。 誰もいない訓練場を覆う静寂に抗うように、攻撃の音と鋭く息を 吐く音が再び舞うのだった。 ◇◇◇◇◇ 帝都ガルゲニア。 押しも押されぬ、アルティアにおいて最大の規模を誇るメガロポ リスである。 1553 人口はウェネーフィクスを上回り、四〇〇万人以上。詳しい数は 国も把握しきれていないという規格外ぶりだ。 都市の半径は凡そ二〇キロ。これでもかと言わんばかりの大きさ。 周囲は高さと厚さが備わった外壁にぐるりと覆われており、先人 がどれだけの時間と労力をかけて覆ったかが垣間見える。 ガルゲニアは三つの区画に分かれている。 中心に近い区画が中級以上の貴族や富裕層が暮らす区域。ここに は立ち入るだけで特別な資格が必要だ。第一区と呼ばれている。 その外側は中間層が暮らす区域。下級貴族や中堅どころの商人た ちが住んでいる。第二区。 その外側、外壁と隣り合わせなのが第三区。最も人口が多い区域 で、一般市民が生活している。例によってあぶれてしまった者たち が集まって作り出したスラムのような地域も第三区にある。 街並みは活気に満ち満ちており、ウェネーフィクスの大通りを思 い出させる。 そこかしこから威勢のいい声が聞こえ、屋台からは食欲に訴える 匂いが絶え間無い。 大通りは長さ数キロ。丸い帝都を、八方向に放射状に伸びており、 その全ては皇帝の城に繋がっているのだ。 世界最大の軍事国家であるのは疑い無い事実だが、こうして市内 を見る限りそれはまるで感じない。 周囲の小国を攻め入っていた当時は軍事国家として名を轟かせて いたが、今は過去の話だからだろう。近年は戦から遠ざかっており、 また帝国は内戦を起こす者に対しての制裁が厳しく、また対応も迅 速な国家ゆえ、内ゲバはほとんど起こらない。戦争から遠ざかれば 市井は平和だ。 せっかく訪れた、この世界最大の都市。 太一と奏はもちろん、あまり遠出をしないというミューラも、こ の街を見て回るのを楽しみにしていた。 だというのに。 1554 ﹁帝都入りして最初に入る建物が帝国城とかどういうことなの⋮⋮﹂ 街に入った途端、駆け寄ってくる人物。服装は一般市民のものだ が、身のこなしは明らかに一般人ではない。冒険者のような感じと も違う。統制のとれた動きに慣れた者のそれだった。恐らく兵士、 という予想は外れていないだろう。 第一声が﹁遠路はるばるお疲れ様です﹂だった。 何故分かったのか。ガルゲン側に伝えられた太一たち一行の特徴 は、男一人に女二人。いずれも若い。黒髪の男女で一人はエルフ。 馬二頭に牽かせるべき馬車を黒い馬一頭に牽かせている、というも のだった。 話を聞いて、十分すぎる特徴だと思った。 彼らの到着は帝都周囲を監視する斥候が見つけ、すぐさま迎えの 準備をしたという。ガルゲンの位置と、エリステイン魔法王国から やってくるということから、八つある正門の内、北から西までのい ずれかから帝都入りするだろうと見られていたといい、事実太一た ちは北北西の門から帝都に入った。 あれよあれよという間に馬車は先導され、楽しみにしていた街中 をほぼスルー。城門をくぐり馬車を預け、客室までの迅速かつ丁寧 な、実に教育の行き届いた応対。 三人は現在、帝国城の一角にあるやたら豪奢な客室で、かなりの 贅を凝らした飲み物と菓子を出されて歓迎されている。 ﹁まあ、分かっていたことではあるけどな﹂ ﹁ええ。今更だけど、こうやって呼び出されるのがパターン化して るわよね﹂ ﹁言わないで﹂ 二時間ほどの間をもらっている。この後皇帝との謁見は確定事項 1555 だ。 対策を立てようにも、依頼が何なのか分からなければどうともし ようがない。 出たところ勝負というわけだ。 考えるべきは、不利益を被るような、こちらに都合の悪い条件を 呑まされるかどうか。 ジルマールが太一たちをどのように受け止めているか。それを皇 帝が知らなければ、にべもない扱いを受ける可能性もあるやもしれ ない。 が、その可能性は低いと、太一たちは考えている。帝都に来るま でに、皇帝についての話をミューラから聞いているからだ。 メキルドラ・サインス・リクシオン・ガルゲン。 長い歴史を誇る帝国の当代の皇帝。 先代以前が御しきれなかった内閣府への反発の数々を一代で鎮め たばかりか、反発していた組織の力を削ぎとる政策を発布し、奪っ た力をそのまま内閣府へと流して敵の弱体化と自身の強化を同時に 成した優れた指導者だ。それだけではなく、皇帝に味方するものに は援助を惜しまないやり方で、瞬く間に強大な力を得た。 御歳二九歳。ともすれば若僧と謗られても可笑しくはない年齢だ が、彼の実績がそれを許さない。 生半可な才覚では到底不可能だろう。 数えきれぬほどの可能性を検討し、その中に埋もれる最善の一手 を並外れた嗅覚で探り当てる。 そんな神業のようなことを繰り返した結果が、今の帝国だ。 ﹁まあ、ミューラの言う通りの皇帝陛下なら、よっぽどのことが無 い限りは大丈夫だろうけどさ﹂ 太一の一言は、楽観的とも言えるがその実よく状況を見極めてい る。 1556 太一の逆鱗に触れれば、国と言う枠は何の意味もない。奏とミュ ーラを人質にとるというのは目も当てられない悪手だ。その場合、 太一は手段を選ばない。エリステインの内乱でなにが起きたのか、 皇帝は知らないということなのだから。 先も言った通り対策が立てられるわけではないので、太一たち三 人はもっぱら意識を国のトップと相対するために高めていく。 利用される気は更々無いが、スタンスとしては引き受ける前提だ。 やはり、レミーアが手紙で﹁断れ﹂と明言しないどころか、匂わせ すらしなかったのが大きい。 三人寄れば文殊の知恵と、日本には古くから伝わる言葉があるが、 現時点では三人で束になってもレミーアには追い付けそうにもない。 ﹁お待たせ致しました、お三方。これより、陛下の御前へご案内申 し上げます﹂ そうこうしているうちに呼び出しがかかる。部屋を訪れたのは、 かなり歳を取っているものの、それを感じさせない姿勢のよさを保 った執事だった。一つ一つの所作が、柔らかさを保持したままにナ イフのごときキレを持つ。洗練、という言葉がこれほど相応しい者 もそうはいまい。 彼に連れられ、三人はだだっ広い城の中を案内される。 ﹁こちらでございます﹂ 短くはない距離を歩いて辿り着いたのは、造りこそしっかりして いるものの、そこまで大きくはない扉だった。 ﹁あれ?﹂ 思わず首をかしげたのは奏。表に出さなかっただけで、他の二人 1557 も同じ疑問を感じていた。 ﹁此度の顔合わせは非公式となっております。故に、謁見の間では 行わないと、陛下のご意向でございます﹂ ﹁なるほど﹂ 謁見の間で行わない非公式。皇帝に会うのに、謁見、ではなく顔 合わせ、ときた。 キナ臭いことこの上ない。そんな太一たちの顔色を知ってか知ら ずか、執事は扉に向き直り、コツコツとノックを行った。 中から、若い女性の誰何を問う声。 ﹁マルコスでございます。陛下が招かれたお客人をお連れ致しまし た﹂ 数瞬の間。そして、かちゃりと扉が僅かに開けられた。それを引 き継ぎ、執事が扉を開けて入室する。 ﹁どうぞ、お入り下さいませ﹂ 客人を招き入れる執事。それに従い、太一たちは執務室に足を踏 み入れる。一目で高級であると分かるのに、華美なところがない執 務室。皇帝の人となりを表しているようだ。 扉の正面、黒塗りの執務机の向こうには、柔らかな笑みを浮かべ る青年がいた。 手に持っていた書簡をそっと置いた。 メキルドラは目を閉じ、しばし微動だにしなかった。 さらさらの豪奢な金髪は流れるようだ。その下には卓越した脳が 詰まっており、今はその中であらゆる試算がなされているところだ 1558 ろう。 眉目秀麗。そんな言葉がぴったりだ。細身に見える故に華奢な印 象だが、剣と弓、また馬の名手でもあるゆえ、痩せているのではな く締まっているのだ。更には、たしなむという次元では収まらない ほどに、魔術の才にも長けている。 口でいうほど、文武両道は容易くはない。どちらも出来る者は少 なくはないだろうが、どちらかに専念した者から比べれば中途半端 な印象は否めない。 そこを、己が意志で手をつけたならば達人と胸を張れるレベルま で昇華するのが普通と考え、またそれを平然と実現するのが、メキ ルドラという男だ。地位と才覚に溺れず甘えず、努力出来るという 才能が誰よりも優れているのだ。 相手が誰であろうと、彼は一切の油断はしない。自身が目指す帝 国実現のために敵対してきた有力者たちが、メキルドラ自身が﹁強 敵﹂と評価したはずの者たちが、メキルドラを﹁若造﹂と謗り侮り、 最後には己の傲慢のツケを支払いながら倒れていったのを見ている からだ。 今でこそ帝位を簒奪し、その地位を磐石のものとしているが、当 時のメキルドラは弱小貴族であり、彼の相手は﹁強敵﹂という評価 が正当なほどに力に差があった。メキルドラもすべての力を出し尽 くしたと胸を張れるが、それでも、彼らが持ちうる力を十全に発揮 したならば全戦全勝とはいかなかったはずなのだ。 だからこそ。勝てる相手に対して油断の心を持てば足元を掬われ るのが分かっているからこそ、メキルドラは一切の油断をしない。 相手が格上、同格、格下に関わらず、だ。 そんな彼からして、これからこの執務室を訪れる相手は、実に形 容しがたいものだった。 自身が負けているものを挙げるとしよう。それはもちろん、戦闘 力だ。 剣に弓、馬に魔術。どれも運良く才能に恵まれ、それを昇華して 1559 きた。だが、自力が違う。かの三人組のうち、少女二人がエリステ イン魔法王国の騎士団長、宮廷魔術師長に引けをとらないという。 落葉の魔術師であるレミーア、魔法王国軍元帥スミェーラという、 泣く子も黙る大物二人が連名で保証しているのだから、間違いなく 嘘ではない。 幾らメキルドラでも、Aランク冒険者に比類するほどの力はもっ ていない。 そして、どの国に行っても地位を手に入れるのに困らないであろ う少女二人を侍らせているのが、太一という少年だ。 どうでもいいが、少女二人の見た目はかなり麗しいとされる。そ の二人が一人の少年を慕っているというのだから、少年にそのつも りはなくても、侍らせていると言われるのは仕方がないだろう。 閑話休題。 かの少年は、召喚術師だという。 報告にもあったにはかったのだが、俄には信じられなかった。 だが、先程まで目を通していたのは、ジルマール王直筆の書簡だ。 そこにはこう書いてあった。 ﹃我が魔法王国は、タイチ・ニシムラとの間に契約という繋がりを 持つに留めた。彼の手綱を握るのは不可能だ。もしものとき、御す 自信が持てない。だが、余よりも優れる皇帝陛下ならばいかに﹄ と。 ﹁ジルマール王め。随分と煽ってくれたな﹂ くつくつと、含み笑いが漏れる。ジルマール王の落としどころは 英断だとメキルドラも思う。その上で言っているのだ。自分よりも 上に行けるなら見せてほしい、と。 遠く離れた地にいる出来る男同士の、火花のぶつけ合いである。 やがて目を開けたメキルドラは、近くにいた側近の侍女に声をか けた。 1560 ﹁お前は、エレメンタルについてどの程度知っている?﹂ 侍女はきびきびとしながらも、しかし下品ではない余裕のある動 作でメキルドラに向き直る。 美しい娘だ。皇帝の身の回りの世話はもちろんだが、彼女の聡明 さを気に入り、メキルドラは度々侍女に問いかけることがあった。 ﹁人並みには﹂ ﹁人並みか。お前から見て、エレメンタルとはどのような存在だ?﹂ ﹁はい。居るか分からない神よりも、大自然という恵みをもたらし てくださるエレメンタルの方が、私にはよほど神に見えます﹂ ﹁神、か﹂ 執務机の上で組んだ両手に、顎を乗せる。 彼女の言葉が真実をぴたりと言い当てているとするならば。 敵に回すのはあまりに愚か。人の身で神に抗おう等、気が触れて いるとしか思えない。 ﹁帝国は、神をこの地に招き入れたということだな﹂ ﹁それだけではございません。文字通り、神頼みでございます﹂ ﹁言うな﹂ 皇帝を相手にしているとは思えぬほどの、歯に衣着せぬ言い回し。 メキルドラは、端正な顔に不敵な笑いを浮かべた。 メキルドラはそれを咎めたりはしない。思ったことをそのまま口 にしろと、この切れ者の侍女には予め命令を下しているのだから。 太一たちと己の軍との圧倒的な戦力差に向き合ったところで、再 び考える。 それでは、メキルドラが勝っている点はどこだろう、と。 1561 思い付くのは、やはり皇帝の経験から来る様々な能力だろうか。 帝位に就いてからこれまでの間、常人では到底及びもしない歳月 を過ごしてきた。己の能力を過信はせずとも、自信は持っている。 正直に言おう。メキルドラは、武者震いをしていた。 これまでの経験というのは、あくまでも﹃人﹄を相手にしたもの である。 ﹃人﹄でありながら﹃人﹄の枠を逸脱した者と出会った経験は、 若き皇帝は持っていない。 相手はろくに戦いもせずに総勢二万の兵がぶつかり合った戦を止 めてしまう傑物。 かの少年に対し、敵と思われぬようにしつつ帝国にとって最大の 益をもたらさなければならない。 ﹁⋮⋮しかし、存外容易いかもしれんな﹂ 一つ呟き、それきり黙考する。執務室には静寂が降りた。皇帝の 思案を邪魔せぬように、物音一つ立たない。 と。 静寂を破るように、メキルドラの正面の扉がノックされた。 侍女からの目配せを受け、首肯を返す。 女の背中を見つめながら、メキルドラは前のめりになっていた背 筋を伸ばした。 メキルドラの中にある答えは一つ。 対面する人間は、己の写し鏡であるという事実だった。 1562 帝国立魔術師養成学園の騎士候補生 二︵前書き︶ 最長未更新記録⋮⋮しかし三ヶ月は空けさせないっ! 悩みに悩んだ本話。 未だに最善ではないと感じつつ、しかしこれ以上の改良は今の私で は不可能と思い更新に踏み切りました。ここまでプロットを没にし まくったのは初めての経験でした。。。 大変お待たせしました⋮⋮! 1563 帝国立魔術師養成学園の騎士候補生 二 ﹁よく来てくれた﹂ 端正な顔に柔和な笑みを浮かべ、メキルドラが立ち上がって両手 を広げた。 その行為に呆気に取られ、次に慌てたのは太一たち一行である。 非公式とはいえ相手は国のトップである。入室の後はしっかり礼 節を持って接しようとした矢先に先手を取られた。 慌てて膝をつこうとする三人を、メキルドラは手を翳して制する。 その顔には分かりやすく﹁無礼講でいい﹂と書かれていた。 笑顔の裏に本心を隠す腹芸はお手の物のはず。それを信じていい ものか、三人は決めかねた。 ﹁ああ、そうだな。予の名において誓おう。この場は無礼講だ﹂ そして、相手の顔色から言いたいことを察する洞察力。 ジルマールとほぼ同じ流れを辿った。その笑みから深読みするに、 恐らくはわざと。その辺りの情報も得ていたと思われる。 やはり大国を統べる皇帝だけあり、情報戦やネゴシエイトでの勝 ち目はなさそうだ。 ︵第一打席は三球三振、ってとこだな︶ どうせ読まれるのなら、取り繕っても無意味。 せっかく相手もいいと言ってくれているのだからと開き直った太 一が、本心を隠すのを止めた。 雰囲気の変化を受けて笑みを深めるメキルドラ。 体裁として帝国の略式で礼を取った三人を見て、皇帝は椅子に座 1564 り直した。 顔を上げ、改めて執務室を、目が動く範囲で見てみる。 分かりやすい豪華さはほとんど見られない。しかし、一つ一つは とても立派なものだ。一度買えば、買い換えの必要など発生しない のではないだろうか。 ﹁質素だろう?﹂ メキルドラが言う。 ﹁ここを質素と言ってしまうと、世の中の職人が立ち直れません﹂ ミューラが返す。 曲がりなりにも王城に滞在した経験があり、太一たちは無知では ない。 この部屋の調度品は、職人が見てくれの豪華さを一切追求せず、 素材と造りの良さで価値を引き上げたものだ。 ものの価値を見る目は持っているのだと、メキルドラは満足げに 頷いた。 ﹁意地の悪い質問だったな、許せ﹂ ﹁⋮⋮いえ﹂ さっくりと謝られ、ミューラは辛うじてそう返すのが精一杯だっ た。 経験的にも実力的にも、普通のローティーンからはかけ離れた少 女であるミューラだが、流石に三大大国の皇帝相手には緊張してい る。前回、ジルマールとの謁見はレミーアが矢面に立ったため、自 分達で何とかしなければならないというプレッシャーは並ではない。 本来なら、メキルドラはそう簡単に謝罪できる立場ではない。自 1565 分に非がないと分かっていてもだ。相手側のそういう対応が、余計 に緊張を助長する。 ﹁さて。本来ならば色々と前置きがあるのが特権階級の特徴と言え るが、予はお前たちに対して下らぬ建前で取り繕うつもりはない﹂ つまり彼はこう言っている。 ﹁仕事を頼む側と仕事を受ける側。予と⋮⋮いや、俺とお前たちは ビジネスパートナーだ﹂ 自分と太一たちは対等である、と。 ︵⋮⋮簡単に言ってくれるわね、もう︶ 返す言葉がない。 この若き皇帝と対等な立ち位置でやり取りが可能な者が、果たし てどれだけいると思っているのか。 ﹁ビジネスパートナー、ですか⋮⋮﹂ ﹁ああ。ビジネスパートナーだ﹂ 奏の反芻に、メキルドラは同じ言葉で答えた。 重ねて言うが、メキルドラと対等など、両手の指で数えたところ で余るのは確実。 世界中、という広い枠組みの中で狭い門を通過した内の一人に数 えられる人物が、この場にはいる。 ︵ああ、やっぱ来たか⋮⋮︶ 1566 両隣の少女たちの視線が太一に向けられる。 いずれ自分に白羽の矢が向けられるとは思っていた。 四大精霊との契約という、凡そ考えられないことをなした。他の 人物が軒並団体の代表、という立場なのに対し、太一は一個人、と いう違いはあるが。 奏とミューラの視線が向けられたことで、メキルドラの目も太一 に移る。 手札は己の力ただ一つ、ジョーカーである。 太一は、皇帝の視線を正面から受け止めた。 持ち得た戦闘能力以外では一般人に過ぎない太一と、帝国の頂点 に立つ男との共通点が簡単に見つかるとは思えない。しかしレミー アは今不在。ここは自分達でどうにかせねばならない。 ﹁⋮⋮分が悪い賭けだなぁ﹂ ﹁何か言ったか?﹂ ﹁いえ、独り言です﹂ ポツリと呟いた言葉に質問を投げ掛けられ、今度は堂々と誤魔化 した。 どのみちここを逃げる術はない。ならば腹を決めて開き直った方 がいい。 突如堂に入った姿を見せた太一に、メキルドラの斜め後ろに控え ていたメイドの片眉がピクリと動く。 彼女とてメキルドラの側近。相手が他国の王族だろうと悟られる ようなへまはしないが。 ﹁そうか。独り言ならば良い。さて、早速商談を始めようではない か﹂ ﹁出来ないことなら引き受けられませんよ? 責任取れませんし﹂ ﹁無論だ。お前たちに政をやらせようとは考えていないし、責任を 1567 押し付けるつもりもないから安心しろ﹂ メキルドラが片手を上げると、メイドがどこからか取り出した書 類を見つつ、訥々と語り始める。 ﹁現在、この国はたくさんの問題を抱えています﹂ 鋭利な刃を思わせる声が執務室に響く。 ﹁貴族同士の軋轢、不景気、過去この国が仕掛けた戦による他国と の怨恨等々﹂ 世界一の人口を抱える大国だ。問題がない方がおかしい。エリス テインもシカトリスも、大なり小なり問題があるだろう。 ﹁それ以外にも解決すべき問題は数えきれませんが、今回、お三方 にお願いしたい問題はこちらでございます﹂ メイドはぺらりと書類をめくった。 ﹁問題の内容は、レージャ教と思われる組織からの、帝国瓦解の画 策。お三方にはレージャ教の企みを阻止して頂きたく存じます。活 動場所は、帝国立魔術師養成学園﹂ ﹁学園⋮⋮学園?﹂ レージャ教に気を付けろと言ったというエリステインの故公爵の 姿が浮かび、何とも言えない顔をした太一だったが、続いた言葉に、 太一は思わず二度呟いた。 一度目は﹁この世界にも学園があるのか﹂という感慨、強い郷愁 と言い換えてもいい。 1568 二度目は﹁レージャ教を止めるのに何故学園なのか﹂という疑問。 ﹁そうだ﹂ 思わず考えに陥りそうになるが、頷いた皇帝を見てそれを一旦横 に置く。 ﹁お前たちもエリステインの重鎮と関わりがあるのだ、ちらりとで も聞いたことはあるだろう?﹂ 太一は首肯した。 ﹁まあ、エリステインも我々も、まだ確証があるわけではない。だ が、そう予測を立てるに足る材料があるのも事実。シカトリスも賑 やかしを受けているとあの女帝が親書を寄越すくらいだ。少しずつ だが、国という枠を越えつつある﹂ ﹁⋮⋮﹂ 太一は苦い顔をした。 勘弁してくれ、と嘆きそうになったのは責められまい。 聞いてみれば随分と規模が大きい話である。考えずとも面倒であ ることは明白だ。 本音を隠す気が一切ない太一の分かりやすいリアクションに、メ キルドラは楽しそうに笑みを浮かべた。 一体どれだけ厚化粧をすれば気が済むのか、と言いたくなるほど に無数の面の皮を被った狸の相手をするのが日常のメキルドラ。 故に、真正面から本音をぶつけてくる太一に、とても新鮮な気持 ちを味わっていた。 ﹁そんなでかい話、俺たちが受けていいとは思えないな⋮⋮﹂ 1569 額に手を当てて思わず、といった体でこぼす太一に、 ﹁何故だ?﹂ と、普段なら相手の考えを見透かそうとするところをあえて素直 に問い掛けるメキルドラ。 ﹁いや、単純に、俺たちは諜報活動ド素人なのが一つ。もう一つが、 こんなデカい案件、しくじったら責任取れないというのが一つ⋮⋮ です﹂ 本音で答える。つい口調が普段通りになりかけ、辛うじて取り繕 う。それくらいには、動揺していた。取り繕えていなかったが、あ えて言うまい。 ﹁構わぬ。だからこその商談だ。先程予は﹁責任は押し付けない﹂ と言ったな?﹂ 確かに聞いた。それをメイドが﹁仰せの通りです﹂と肯定した。 ﹁契約書に責任は取らせないと明記すれば済む話だろう。信用出来 ぬというのなら、国璽を押しても良い﹂ 国璽と聞いて奏が目を丸くする。 国璽を押された文書は公的にかなりの強さを持つ。それを反故に するということは、自分から国の威信を投げ捨てるのと同じだ。 彼が提示する条件は破格と言えるだろう。 奏からその話を聞いた太一は、むしろ訝しげな目をメキルドラに 向けた。 1570 どうして彼はここまでするのか。 答えは、メキルドラ本人から告げられた。 ﹁召喚術師の少年。お前は自分の存在が持つ意味を把握していない﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁答えはシンプルだ。予は、帝国は、お前たちと事を構える事態に なりたくないのだ。恩を買い、恩を売る。働きに対して正当な対価 をもたらす相手なら、お前たちにとっては益となる存在だろう?﹂ それは、冒険者としての活動と何ら代わりのない関係。違うとす れば、冒険者ギルドを介するか否かだけだ。 ﹁益となる存在となれれば、お前たちに牙を向けられることもある まい。身も蓋もないことを言えば、予はお前たちに媚を売っている のだ﹂ あまりにあれな言い様に、太一の顔に何とも言えないものが浮か ぶ。 ﹁お前は、この国を陥とすのにどの程度時間が必要だ?﹂ ﹁陥とすだけなら、五秒ですね﹂ 一切の犠牲を考慮しないなら、何も考えずに﹃トールハンマー﹄ を城のど真ん中に撃ち込めばいいだけだ。 答えながら、メキルドラがシンプルと言った理由が太一にも分か った。 ﹁⋮⋮言うに事欠いて五秒⋮⋮いや、聞いたのは予だったな。しか し言ってくれる。どうやる?﹂ ﹁無礼は許してください。城ごと陛下を消し飛ばします﹂ 1571 ﹁⋮⋮それ程の術を撃つのに要するのが、たった五秒と?﹂ ﹁はい﹂ ﹁やれやれ⋮⋮参ったな﹂ 若き皇帝は苦笑を浮かべて脱力した。 ﹁予が媚を売る理由が分かったか?﹂ ﹁ええ。そりゃもう﹂ 今の話を聞いても、脱力こそすれ苦笑いで済ませたメキルドラに 対し、太一こそ苦笑するしかない。 ﹁お前たちに喧嘩を売れば間違いなく国が滅ぶ。であれば、友好な 関係を作りたいと考えるのはおかしい考えではあるまい?﹂ ﹁ごもっともです﹂ ﹁行為に表し形にしなければ、口にしたところで伝わらぬ。これか ら信頼を築く段階の今は特にな﹂ ﹁⋮⋮﹂ 一通りコミュニケーションが済んだと判断したメキルドラは、﹁ さて﹂と話題を切り替える。 ﹁学園に潜り込んでもらうに当たり、必要なものは幾つか用意して ある。例のものをここに持て﹂ ﹁畏まりました﹂ 皇帝の命を受け、深々と礼をしてメイドが一旦下がり、数分後に 戻ってきた。 ﹁こちらを貸与致しますので、まずはお受け取りください﹂ 1572 メイドが両手に捧げ持つのは銀色のトレイ。その上には、三つの 指輪。 これを受け取らなくば話が進まない。とりあえず手に取る。 特に装飾もなく、宝石が一つついただけのシンプルな指輪である。 指輪というからには、はめろと言うことだろう。 ﹁はめても?﹂ ﹁着けてみるといい﹂ 皇帝に促され、三人は適当に指輪をはめる。 すると、合わないサイズのはずの指輪ははめた指にごく自然にフ ィットした。 ﹁これは、魔道具ですか?﹂ ﹁左様てございます﹂ メイドが首肯し、皇帝は笑みをわずかに深める。 ﹁どうやらきちんと効果は発動したようだな﹂ ﹁え? ⋮⋮あ﹂ 太一たちは顔を見合わせてぽかんと口を開けた。 太一の髪と目はコバルトブルーに。 奏の髪と目の色がピンクに。 ミューラの髪はエメラルドに、目は濃い翡翠色に。 それぞれ色が変化していたのだ。 ﹁これは⋮⋮﹂ ﹁うむ。身をやつす魔道具だ﹂ 1573 レミーアの元で数多くの知識を身に付 ﹁こんな魔道具があるなんて⋮⋮﹂ ミューラは愕然とした。 けたが、こんな魔道具は知らなかったのだ。 ﹁この魔道具は、今のところ帝国のごく限られた重鎮しかまだ存在 を知らぬ。さすがの落葉の魔術師でも、これの存在は知るまい。厳 重に秘匿しているのだからな。有用ゆえに、使い途は色々ある故に、 な﹂ ﹁色々、ですか﹂ ﹁色々、だ﹂ そんな重要なものを貸与されても⋮⋮という思いは拭えない。そ れは自己評価の低さのためだ。もはや太一たちは、国家が最敬礼で 迎えるべき存在になりつつあるのだ。帝国から見て、へりくだる必 要はないが、秘匿技術を貸与するくらいの便宜を図る価値がある存 在なのだ。 太一、奏、ミューラは、先のエリステインでの内戦により、本人 たちが思っている以上に貴族たちに名前が知られているという。 隠してはいないが自分から明かしているわけでもない。国境を越 えながらもその情報を得られるような格の貴族はその辺の事情を察 し、﹁知っている﹂とわざわざ口にするほど間抜けではいないよう で、むしろ厄介である。その根底には、皇帝と同じように﹁敵にし たくない﹂という思いがあるのだが。 彼らが得た名声そのものは抑止力として大きな効果が見込めるが、 馬鹿正直に行けば尻尾をつかむ前に相手が警戒して大人しくしかね ないと皇帝が解説した。 ﹁つまり、最初は泳がせておきたい訳ですね﹂ ﹁その通りだ。当面は今まで通り動いて貰わねば困るのでな﹂ 1574 メキルドラが片手を上げる。 メイドが一歩前に出て、再び銀のトレイを掲げた。 その上には、いつの間に用意したのか、黒い手帳のような小さな 冊子が三冊。 ﹁それは学院の生徒手帳だ。学院生であることを証明するものだな﹂ 受け取って中を見る。それぞれの偽名が記されていた。 タイラー・ミラク、リーリン・キャロール、ミレーユ・エルディ ラ。それぞれ太一、奏、ミューラである。 姿に裏の取りやすい名前を名乗れば、勘がいい者でもそうそう気 付かないだろう、とメキルドラは言った。 ﹁でも、俺たちが入城したこと、知っている人間は知ってますよね ?﹂ ﹁まあ、そうだな﹂ 特に反論せずにメキルドラは頷き、﹁問題ない﹂と続けた。 ﹁この城に張り付く密偵は、まあいないわけではないがそこまで活 動は活発ではない﹂ ﹁いるにはいるんですね﹂ ﹁ああ。かなりの手練れが少数な。予はあえて連中を泳がせている し、連中もそれを分かっているからそこまで踏み込んでこれない。 予の子飼いの影は優秀だ﹂ そこに微かに滲んだ、覇者としての、出来る男のみが浮かべられ る笑みを、太一は同じ男として少し憧憬を抱いた。 1575 ﹁お前たちは予の密命を受けて動いていると、他の者には情報を流 す。明日の早朝には既にこの城を旅立っていることになるな﹂ ﹁へえ。誤魔化す方法は?﹂ ﹁幾らでもあるさ﹂ メキルドラからは自信しか感じられなかった。釣られて太一もニ ヤリと笑みをこぼす。精一杯張り合ってみたが、背伸びにしか見え なかったことだろう。 ﹁他に疑問がなければ話を戻すが良いか?﹂ 太一始め全員が頷いた。 ﹁さて、続きだ。お前たちの立場も用意してある﹂ メキルドラが腕を組んだ。 ﹁お前たちはエリステインからの留学生。エリステインの宮廷魔術 師を勤める貴族に魔術の才能を見初められ、貴族の側近兼助手とし て学んでいる﹂ 実際はどうか知らないが、ありえそうなケースである。 ﹁エリステイン貴族の側近たるお前たちの身元を我が国の貴族が保 証することで、帝国はエリステインに誠意と友好を見せる運びにな った。と、理由をでっち上げるわけだ。そのつもりで動いてくれ﹂ 言うに事欠いてでっち上げ、である。ぶっちゃけたよこの皇帝⋮ ⋮と太一は思ったが、さすがに口にはしなかった。 1576 ﹁お前たちの身元を明かす貴族を紹介しよう。セロフを呼べ﹂ ﹁畏まりました﹂ メイドが頭を下げ、再度退室。そして五分ほどで戻ってきた。 ﹁失礼致します﹂ 戻ってきたのは二人。一人はもちろん皇帝の側近であるメイド。 そしてもう一人が、赤の混じった金髪を撫で付けた美丈夫。背は 一八〇センチを超えているのではなかろうか。上に立つ者特有の空 気が漂っている。 そこそこの年齢を重ねているようで顔には皺が刻まれているが、 年を取ってますます磨きがかかったと思われる活力が、全身にみな ぎっていた。 ﹁セロフ・ケンドル・ベルリィニ。馳せ参じました﹂ ﹁ご苦労﹂ 彼が太一たちを保証する貴族なのだろう。セロフはメキルドラに 対して、臣下の礼を取った。 ﹁して、陛下﹂ ﹁うむ。話をしていた通り、お前に預けるのはこの者たちだ﹂ セロフの金色の眼が三人に向けられる。 しばし交わる視線。やがて、セロフは納得したように頷いた。 ﹁なるほど⋮⋮。確かに一味違うようです﹂ ﹁そうだろう﹂ 1577 セロフの評はメキルドラと一致した。 太一たちが齢一五、六の冒険者というのはセロフも聞いている。 そのくらいの年代の冒険者は珍しくもなんともないが、レベルと しては駆け出しが殆どだ。 そんな駆け出し冒険者に、彼の主君である世界最大国家の皇帝と の謁見の機会など、よほどの功績がない限りまず与えられないと言 っていい。 そして、仮に謁見のチャンスを得られたとして、皇帝の御前にお いて萎縮せずにいるというのはまずもって不可能。皇帝の感情の動 き方によっては、ややもすればセロフさえも萎縮しかける時がある のだから。 特に萎縮していないという事実そのものが、三人が只者ではない と如実に物語っていた。 ﹁お初にお目に掛かる。私がそなた達の身元保証人を務める、セロ フ・ケンドル・ベルリィニと申す。爵位は侯爵だ﹂ 優雅で流麗。そんな洗練され尽くした礼と共に自己紹介を受け、 太一は無礼にならないように深めに頭を下げて返礼した。 ﹁当面の活動方針についてはベルリィニ侯爵から聞くといい。無論、 出来ないことは出来ないと言え。出来ることだけやってくれればよ い﹂ 皇帝は組んでいた腕をほどき、執務机に肘をついて手を組んだ。 組んだ手の奥で光る瞳が、太一に向けられる。 ﹁さて、お前たちに依頼をするにあたり、ひとまず私が整えたのは 以上だ。遂行中に足りないものや、必要なものがあれば都度ベルリ ィニ侯爵を通して申せ。では、依頼の受諾について是か否か答えを 1578 もらおう﹂ 是か、否か。 考えるまでも無い。ここまでお膳立てしてもらっては、断ること などできはしない。 ﹁⋮⋮出来る範囲で、やらせてもらいます﹂ ﹁そうか。色よい返事を聞けて何よりだ﹂ 太一は頭を下げた。追従して奏とミューラもそれに倣う。 二人に特に相談をしなかったが、まあそれはそれだ。 肌で、己の直感で、この依頼は受けるべきだと太一は判断したの だ。 全ての交渉を太一に任せたのだから、二人も異論はないだろう。 後程契約書を作って持ってくるそうだ。それを読んだ上で問題が ないならサインをしろ、など、細々とした確認のやり取りを終える。 そして全ての確認が終わって退出の許可が出される。 座っていたソファから立ち上がると、太一はふと皇帝を見た。 相変わらず余裕の態度。終始全く揺らいだところが見えなかった。 それは彼の強さだろう。 彼の立場からすれば特に不思議ではない。 この立場に立ったから、そうなるよう成長せねばならなかったの か。 この立場に立とうと思ったから、それに相応しくなろうとしたの か。 鶏が先か卵が先か。 まあ、それは横に置いておくとして。 ﹁陛下と俺、似てますね﹂ 1579 太一は、思ったことを素直に口にした。 奏が、ミューラが振り返る。 メキルドラの目が、わずかに細められた。 ﹁ほう。予とお前が似ていると? 何を根拠にそう思う?﹂ ﹁うーん。根拠と言われると弱いんですけどね﹂ 顎に手を当てる太一。 ﹁強いて言うなら、お互いの立場、ですかね﹂ ﹁ほう?﹂ ﹁俺も陛下も、真の理解者を得にくい立場ですよね﹂ ﹁⋮⋮﹂ アルティアにおいて最大の規模を持つ国の皇帝。 人類において並ぶ者のない実力を誇る召喚術師。 持ち得た力のベクトルはまるで違えど、その力の大きさゆえに起 きることについては、似通った部分があった。手揉みをして擦り寄 ってくる輩。近くで甘い汁を吸おうとする輩。 損得なしに、共に泣き、共に笑う間柄というのが、どれだけ尊い か。 ﹁俺は、運良く三人、理解者を得ました。陛下はどうですか?﹂ ﹁⋮⋮予はこう見えて子供のように負けず嫌いでな。少ないがいる、 と答えておこう﹂ メキルドラの答えに、太一はちらりとメイドを、そしてベルリィ ニ侯爵を見た。 ﹁それなら良かった。俺は別に強くないですし。誰にも負けない力 1580 があっても、孤独だったらきっと折れてますから﹂ 太一は、感謝の念を込めて奏とミューラを見て、今は遠い空の下 にいる師の顔を思い浮かべる。 ﹁まあ、陛下は俺なんかよりも強いでしょうから、孤独でも負けた りしなさそうですけどね﹂ ﹁⋮⋮﹂ 皇帝は、太一の顔に、年齢相応のものを見た。年齢不相応のふて ぶてしさを発揮した先ほどの交渉から比べると、今の方がむしろ﹁ らしい﹂と思えた。 沈黙が流れる。その静寂が持つ意味は、何か。 ややあって、皇帝は口を開いた。 ﹁⋮⋮今度、飯でも食うか、少年。そうだな、あえて安っぽい飯と 酒がいい﹂ ﹁⋮⋮お互い、持つ者として、ですね?﹂ ﹁ふ、正直過ぎるな。もう少しオブラートに包め﹂ ﹁悪癖なんです⋮⋮けど、善処します﹂ ﹁そうしておけ﹂ 普通では持てないものを持つがゆえに、普通なら持てるものが圧 倒的に少ない二人。 それは戦闘力も権力もまるで違う二人に不思議な連帯感をもたら し、それが、互いが互いに向ける笑みとなって現れたのだった。 1581 帝国立魔術師養成学園の騎士候補生 二︵後書き︶ 学院なので、太一と奏が再び制服に袖を通します。ついでにミュー ラも制服を着ます。 太一と奏は日本ではブレザーですが、ミューラにはブレザーとセー ラーどっちが似合いそうですかね? 次の話はこれから書きます⋮⋮。 1582 エリステイン王城にて ところ変わって、エリステインの首都ウェネーフィクス。 王城のとある一室に招かれたレミーアは、王族が飲むにふさわし い格の紅茶を一口飲む。 芳醇な香りがゆっくりと鼻を通り抜け、心が落ち着いていく。 出されたハーブティーを目を閉じて味わう様は、麗人と称してい いレミーアにとても良く似合い、絵になっている。 並の高級店ではまず手に入らないであろう完成された風味を存分 に楽しみ、音を立てぬようカップを置いた。 ﹁非常にいい茶葉をお使いですね﹂ ﹁そうですか。お口に合って何よりです﹂ レミーアは掛け値ない賞賛を送った。 含みのない賛辞の言葉を受け、しかしそれを受け取った側は返答 をしながらも小さく苦笑した。 ﹁レミーア様。わたしに対しては、友人のように気安くしてくださ いと前回お願いしたではありませんか﹂ 少し意地悪げに笑い、﹁そうだったな﹂と言って纏っていた空気 を変えるレミーア。 ﹁いや失礼。とはいえ、王族の方が相手だからな。やはり殿下から 許可を得てからの方が、礼節という意味でも筋は通っているだろう ?﹂ ﹁そうかもしれませんが⋮⋮都度、このやり取りをなさるおつもり ですか?﹂ 1583 ﹁私はそのつもりだが。まあ、もっと友好が深まれば、この先態度 を改めるのもやぶさかではない﹂ 二人の視線が行き来する。 見つめ合うことしばし。先に音を上げたのは、気安い仲を望んだ 方だった。 ﹁⋮⋮そうですね。友として、これから親交を深めていく段階です ものね﹂ ﹁そういうことだ。それに、それをいうのなら殿下も口調を改める べきではないかな?﹂ ﹁⋮⋮これは長年の癖なのです。そう簡単には、﹂ と、ここまで言い掛けて、自分ばかりが相手に求めていると気付 いた。王族という境遇ゆえ、心を開ける友人をこれまで持てなかっ たための弊害である。 ﹁分かりました。今すぐには無理ですが、わたしも徐々に、口調を 改めるとします﹂ レミーアの対面に座るシャルロットは、そう言って微笑んだ。 レミーアも納得したようで頷き返す。 外の光が充分に差し込む部屋は明るい。そこは、壁の三方をガラ スに囲まれた一室である。 王族の、とりわけ親しい者のみが立ち入れるスペースに、レミー アは招かれていた。 この場にはレミーアとシャルロット。そしてシャルロットの背後 にティルメアが気配を薄くして立っているのみである。 ﹁して、私に何用かな? シャルロット殿下﹂ 1584 髪を耳にかけ、強い力を持つ目をシャルロットに向けるレミーア。 自らに持つ信ゆえに、王族相手でも揺らぐことのない瞳。ジルマ ールを前にしてもぶれなかったのがそれを良く示している。生半可 な気持ちでは、むしろ相手を呑んでしまう。 ﹁はい。本日は、レミーア様にお話ししたい事柄がございまして、 こうしてお招き致しました﹂ それを受けるシャルロットも平然としたものだ。やんごとない身 分の相手をするのが日常の彼女。海千山千の相手と話をするには、 視線ひとつで一々右往左往していられない。 ﹁ほう。話したいこと、と﹂ ﹁ええ﹂ シャルロットは白磁のテーブルにおかれたカップに手を伸ばして 一度喉を潤した。 ﹁タイチさん、カナデさんの御両名を召喚した理由です﹂ ﹁ふぅむ⋮⋮﹂ 椅子がわずかに軋む音がした。太一よりも頭半分ほど身長が高い レミーアが背もたれに体を預けたためだ。幾らスレンダーとはいえ 女性特有の柔らかさは持ち合わせているため、この世界に来てから 筋力量が増した太一に近いだけの体重があるのだ。 微かに軋むだけで済んだのは、腰掛けている椅子の作りがいいた めだ。 ﹁殿下、確認したいことがある﹂ 1585 少し黙考し、レミーアが腕を組んで問う。 ﹁何なりと。知りうる範囲になってしまいますが﹂ ﹁では。タイチ、カナデを召喚するよう殿下に命じたのは、ジルマ ール陛下ではないな?﹂ レミーアは、かつてジルマールが﹁予の命令で召喚させた﹂とい う意味の言葉を、謁見の間で口にしたのを思い出していた。 つまり、理由をジルマールが持っているはずだが、その推論には レミーアの脳が強い違和感を訴える。 仮にエリステインが何らかの意図をもって召喚をしたのなら、太 一を自由にしすぎではないだろうか。肉体的にもそうだし、精神的 にもだ。意図がある以上、有事の際には太一に言うことを聞いても らわねば困るはずだ。 何らかの枷は必要だ。有効そうな交換条件は、例えば﹁無事解決 したら元の世界に戻そう﹂と迫り契約を取り付ける、など。 太一を力で御すのは夢物語であるとレミーアも思うが、腑に落ち ないのはジルマールがそういった策を一つも取っていないように思 えることだ。非常勤の軍事参加は、拘束力として有用ではあるが絶 対的な枷かと聞かれるとイマイチだ。 よって、ジルマールの言葉は、あの場を繋ぐ方便だとレミーアは 結論付けた。 ﹁やはり、それには気付かれましたね⋮⋮﹂ シャルロットは一度目を伏せ、そして再度、レミーアの視線を正 面から受け止めた。 ﹁知らされていないのは詳細です。あの二人を召喚した理由は、概 1586 要しか教えて頂けませんでした﹂ ﹁ふむ。では、概要だけは存じておられるのだな﹂ ﹁ええ﹂ シャルロットが首肯する。 ﹁簡単に言えば、今後訪れる世界の危機に立ち向かって欲しい、と いうことです﹂ レミーアは眉をひそめた。 ﹁⋮⋮こう言ってはなんだが、信憑性に欠けるな﹂ 世界の危機と言われて、レミーアは過去に読んだ文献の数々を頭 の中で思い出した。レミーアは一流の魔術師であるが、同時に一流 の研究者でもある。魔術の習得及び研鑽、そして研究のために読ん だ文献の数は計り知れない。 その中には世界史の文献も数多くあったが、有史以来、世界の危 機と呼べるような歴史的出来事についての記述はなかったように思 う。 もっとも、発言と態度とは裏腹に、レミーアはシャルロットの言 葉をはなから切り捨てているわけではないのだが。 ﹁それは至極当然な感想です﹂ その意図に気付いているかは分からないが、自分の言葉を一蹴し たレミーアに対し、当然とばかりに頷くシャルロット。 ﹁わたしも王女としてこの国、そして世界の歴史を一通り学びまし たが、そのような記録は残されていないと記憶しています﹂ 1587 ﹁うむ﹂ とするならば、次に気になるのは情報源だ。口にしたのがシャル ロットだからセーフなだけで、普通なら世迷い言と一笑されてもお かしくない﹃世界の危機﹄という言葉を、何を根拠に説いているの か。 ﹁レミーア様は、﹃勇者と魔王﹄についてはどこまでご存知ですか ?﹂ ﹁⋮⋮何?﹂ 勇者が魔王を退治する英雄潭。 主に親が子に聞かせる冒険物語として語る話。 それらはこの世界において国を問わず共通に知られる物語であり、 一般的な認識である。 だが、高度な文献を読める立場にあり、事高名な研究者や勤勉な 王侯貴族という極一部の識者にとっては、﹃勇者と魔王﹄という言 葉が持つ意味はまるで違ってくる。 ﹁随分突拍子のないことを言うかと思えば、﹃勇者と魔王﹄と来た か﹂ レミーアは長いまつげを臥せて天を仰ぎ、そして視線をシャルロ ットに戻した。 ﹁納得だ。その名を聞いた以上、私は殿下の言葉を否定出来なくな った﹂ 先に述べたように、高度な文献を手に取れるような人物にとって、 ﹃勇者と魔王﹄という名詞が持つ意味は、名前から受ける印象とは 1588 全く異なる。 正義の英雄と悪の親玉。それは、広く伝わるおとぎ話としてなの だ。 ﹁つまり、殿下は﹃巫女﹄として選ばれたわけだ﹂ 言葉は要らないとばかりに、シャルロットは一度だけ、しかしは っきりと頷いた。肯定だった。 ﹁ふむ⋮⋮このことは、ジルマール陛下は?﹂ 言いつつ、シャルロットの背後に立つティルメアを一瞥するレミ ーア。その視線を正しく解釈したシャルロットが継いだ。 ﹁お伝えしてあります。というよりも、新たなお告げがありまして、 命令を受けたのです﹂ そのお告げの結果、これまで誰にも、父王にすら隠していたこの ことを、つい先日初めて明かしたのだと言う。 ジルマールが頭を抱える姿が目に浮かぶようだった。 ﹁他にはわたしと、その腹心のみに話してあります。エリステイン 国内では、わたしと陛下を含め、現在知るのは数人のみです﹂ そして、レミーアが数少ないその枠に今入ったというわけだ。事 態が水面下で動いていると、レミーアは気を引き締める。 シャルロットの影響力から考えて、それを徒に公にすれば何も知 らない民ですらパニックになる。その混乱は大きくなるのが容易に 予想され、乗じて良からぬことを企む輩が出て更に場をややこしく することも考えられた。 1589 ﹁他の国にも伝えてはいないのだな﹂ ﹁そうですね。まだ明かすなと告げられていますので﹂ ﹁本人たちが知らぬのも、その指示ゆえか?﹂ ﹁左様です﹂ ﹁⋮⋮この世界の危急と言いながら、悠長過ぎやしないか?﹂ ﹁わたしもそう思うのですが⋮⋮しかし、そう﹃お告げ﹄があった 以上、従わないわけにはいかないのです﹂ ﹁そうか、そうだな﹂ 現時点で知るのが極少数というのも、どうやら﹃勇者と魔王﹄の 意思。ならば、それに対してレミーアから言うことはない。 ﹁では、具体的に危機の内容はどの程度聞いている?﹂ ﹁これも、まだ大雑把にしか明かされていません。お告げのお言葉 をそのままお伝えすると、﹃セルティアの干渉により、アルティア の理に楔が打たれようとしている﹄とのことです﹂ ﹁理に楔⋮⋮? いや、それより、セルティアと言ったか?﹂ ﹁⋮⋮はい﹂ 苦々しい顔つきのシャルロット。レミーアも、目の前の姫君と同 じような顔をしているだろうと、己の表情筋の動きから感じ取る。 ﹁⋮⋮殿下﹂ ﹁何でしょう﹂ ﹁セルティアについて、どのように言われているか知っているか?﹂ ﹁人並みには。﹃創造力豊かな愚者の妄想﹄です。その通りだと、 思っていました﹂ ﹁そうだ。そして、私もそう思っていた。⋮⋮が、本当に存在する というのか﹂ 1590 ﹁皮肉なことに、お告げいわく、その愚者の妄想は遠からず当たっ ているそうです﹂ シャルロットは、その言葉を笑みと共に言った。 決して笑っていい場面ではない。シャルロットとしては笑うしか ない、という心境なのだ。 ﹁ふ、ふふ⋮⋮そうか、やっと合点がいったぞ﹂ そして、笑ったのはレミーアも同様だった。 含み笑うレミーアを見つめるシャルロット。 ﹁ずっと謎だった。何故タイチは、あのような次元の違う力を持っ て、この世界に現れたのかがな﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁なるほど、そうかそうか。今の話を聞けば、タイチには確かにあ の力が必要だ﹂ シャルロットは何も言わない。ただ、レミーアの言葉に心から同 意していた。召喚魔法陣の何たるかを知る彼女にとって、太一がこ の世界に来るのは必然だったのだ。 奏がこの世界に来たこと、そして妨害が入った結果、不覚にも二 人を野に放り出してしまったことについては反省しているが、過去 には戻れないのだから今となってはどうしようもない。 太一は順調に力をつけているし、奏も人類としては文句のつけよ うがない実力を得ている。このまま実力を伸ばしてくれれば、太一 はこの世界を救うに足る力を得るだろう。巻き込まれた奏にも活躍 の場は十分にあると思われる。 悔やまれるのは、自身の対応のまずさ故に浅くない溝が出来てし まったこと。 1591 その溝を埋めるには、シャルロット自身が気付かなければならな いと太一は言っていた。そしてその言葉はレミーアも聞いている。 彼らが欲しかった言葉は何か。これだけ考える時間があれば自分 なりの答えは導けた。今更ではあるが、それも伝えるつもりだ。し かしそれで今の微妙な関係が解消されるかは未知数。わだかまりが 解消されないとしても、シャルロットは太一らと旅をしなければな らない。 己の腹の内を素直に表に出せない立場のシャルロットは、その経 験を生かす。心苦しさゆえ、噛み潰した苦虫の味にも一切反応しな いポーカーフェイスを貫き、レミーアに伝えるべきことを伝えるこ とに注力する。 ﹁現時点において、わたしに課せられた使命は三つ﹂ 人差し指、中指、薬指を立てた手をレミーアに見せるシャルロッ ト。 ﹁一つ目、厳格な情報統制﹂ 言葉に合わせて、立てられた薬指が折られた。 ﹁二つ目、時空魔法による攻撃の洗練度向上﹂ 続いて折られる中指。 ﹁三つ目、タイチさんを﹃勇者と魔王﹄の元に案内する﹂ 最後に人さし指が折られて握りこぶしとなった。シャルロットは その手を膝の上に戻した。 話が続くと判断し、レミーアは視線で先を促す。 1592 ﹁以上の役目に関連し、二つ、レミーア様にお願いしたいことがご ざいます﹂ ﹁ふむ、何かな?﹂ ﹁一つは、わたしに魔力の扱い方について稽古をつけて頂きたいの です﹂ 時空魔法について教えてくれとは言わない。ユニークマジシャン の魔法は、当然ながらユニークマジシャンだけのものだ。四属性か らなる現代魔術の使い手とは、形態が全く異なる。 しかし、魔法も魔術も、魔力を糧に発動するというのは共通して いる。 シャルロットとて己の魔力操作については、先代の宮廷魔術師長 を始め、ベラやスミェーラ等優れた魔術師指導のもとかなりの修練 を積んできたが、目の前に座る世界屈指の魔女に比べれば稚拙もい いところだろう。 彼女の魔法は、どれもが目を見張るほど強力な代わりに、洒落に ならない燃費の悪さだ。 巫女として、太一を補佐するために戦場に立つことも今後確実に ある。その時に、数回撃って﹁魔力が切れました﹂では足手まとい。 いない方がまし。 魔法発動のために使う魔力の下限値は変えられない。ならば、使 う魔力を余すところなく魔法につぎ込めるよう、魔力操作能力の向 上は急務だ。 ﹁⋮⋮良かろう。稽古をつけよう。して、私は授業料として何を提 供して頂けるのかな?﹂ ﹁⋮⋮﹂ 無論、引く手あまたの﹃落葉の魔術師﹄に教えを乞い、ただで済 1593 むとは思っていない。王族の強権をもってすれば無償提供させるこ とも出来るだろうが、それは愚策である。よってシャルロットは、 今後彼女に更なる協力をお願いする時のために、破格の条件を提示 する。 ﹁⋮⋮対価として、時空魔法について、わたしが使える魔法の効果 と詠唱をお教えしましょう﹂ ﹁ほう?﹂ レミーアの目に興味の感情が彩られる。 光魔法、闇魔法、時空魔法、精霊魔法についての資料および文献 は、少ないながらも確かに存在する。希少なため一冊で豪邸が建て られる程に高価だが、レミーアも個人的に三冊保持している。最近 では、王立図書館に一〇日間一度も出ずに籠るという耐久マラソン のようなことをした際にまた数冊読破し、その知識は頭に叩き込ん である。 しかしやはりというべきか、文献だけでは痒いところに手が届か ない。実際の使用者から話を聞けるというのは、レミーアの琴線に 触れる最良の条件。 ﹁⋮⋮これは一本取られたな﹂ 楽しそうに、レミーアは笑う。シャルロットも微笑みを返した。 授業料としては、釣りを渡さねばならないほどの好条件。 文献が少ないのは、ただでさえ数が少ないユニークマジシャンが 情報を外に出さないためだ。 そこを狙って突いたシャルロットのファインプレーだ。 時空魔法の情報の希少価値、機密度を知るであろうティルメアが、 一瞬だが若干苦い顔を浮かべたのが端的にそれを表している。 1594 ﹁ふふ、恐れ入ります﹂ ﹁殿下。もうひとつは何だね?﹂ ﹁はい。万一、私がタイチさん、カナデさんと和解出来なかった場 合は、間を取り持って頂きたいのです﹂ ﹁タイチたちは、私が間に入るのを望まぬと思うが?﹂ あえてレミーアは突き放す。 ﹁存じております。情けないのは承知ですが、これについては実現 させねばないものですから﹂ 淀みなく言い切った口調と裏腹に、シャルロットは困ったように 微笑んでいる。 ﹁⋮⋮なるほど、巫女として、か﹂ ﹁巫女として、です﹂ シャルロットとしても、巫女であるという役目を除けば、太一と 奏、己が喚び出した二人とのわだかまりは自分で取り除きたかった。 何度失敗しても、対話を持ち掛ける。もしもそれで溝が埋まらな ければ、シャルロットは自らの器と向き合うという現実に直面する のだ。 だが、彼女は王族という身であり、そう易々と空き時間は作れな い。一度失敗すれば次の対話のチャンスはいつになるか分からない のだ。そこまで時間を掛けて良いものではない。 ﹁分かった。それも、引き受けよう﹂ ﹁ありがとうございます!﹂ ほっとした笑みを浮かべ、シャルロットは頭を下げる。レミーア 1595 は﹁うむ﹂と一つ頷いた。 ﹁話は他に何かあるかな?﹂ そうレミーアに問われ、顔を上げて話の終わりを告げるシャルロ ット。 ﹁そうか。では、私はこれで失礼させて貰おう。まだ纏めねばなら ない文献が幾つもあるのでな﹂ ﹁そうですか。また、図書館へ?﹂ ﹁ああ﹂ レミーアは紅茶をくいっとあおって飲み干すと、立ち上がりシャ ルロットへ優雅に一礼してから扉に向かう。 そして、ドアノブに手を触れたところでシャルロットへ振り返っ た。 ﹁そうだ、殿下﹂ ﹁何でしょう?﹂ ﹁あいつらは今ガルゲンにいる。戻るまでは今しばらく時を要する が、呼び戻す必要は?﹂ シャルロットは首を横に振る。 ﹁問題ございません。それについてはお告げを受けていまして。彼 の地でやって頂く事柄二つがございます﹂ ﹁ふむ?﹂ ﹁ひとつは、レージャ教について﹃知る﹄ということ﹂ ﹁もうひとつは?﹂ 1596 シャルロットは何とも言えない笑みを浮かべる。 ﹁新たな四大精霊と契約することです﹂ レミーアは一瞬固まる。 そして次の瞬間、笑い始めた。 ﹁くく⋮⋮ははは⋮⋮あいつめ、どこまで行くと言うのだ﹂ シャルロットは答えない。 その問いに答える者は、誰もいない。 1597 帝国立魔術師養成学園の騎士候補生 三 アクト・バスベルは普段通りに学園に登校し、普段通りに教室に 向かい、普段通りに自席に座り、教師の到着を待った。 いつも通りの一日の始まり。 しかしそこに、普段にはないうわついた空気を感じ、アクトは疑 問を覚えた。今日何かあっただろうか。だが、アクトには思い当た る節はない。 ﹁よお、アクト﹂ 解決出来ない疑問を持て余していると、背後から掛けられた声。 ﹁あ、おはようシェルトン﹂ 鈍い灰色の髪を丸刈りにした少年が、人懐っこい笑みを浮かべて いた。 シェルトンはそのままアクトの席に歩み寄り、その机にどかっと 腰を下ろした。 不躾そのものだが、行った方もされた方もまるで気にしていない。 いつものやり取りなのだ。 ﹁なあシェルトン。これ、どういうことなんだ?﹂ アクトは友人に問いかける。ざわめく教室の中で、アクトの声は シェルトンに届いた後、雑音にかき消された。 ﹁ああ、これな﹂ 1598 周囲を見渡し、シェルトンは頷く。情報通の彼はネタを仕入れて いた。無論、ネタは鮮度が命である。 ﹁何でも編入生がこのクラスに来るらしい﹂ ﹁編入生?﹂ アクトは新たに浮かんだ疑問に首を捻る。 ﹁この学校、編入なんて出来たんだ?﹂ 帝国立魔術師養成学園は、中途入学を認めていない。入学したけ れば、然るべき試験を受けて合格ラインを突破しなければならない。 その後年に一度の入学式に出席して初めて学園生として認められる のだ。 もちろんアクトもシェルトンも入学試験を突破した。 アクトとシェルトンは入学して三年目。少なくても過去二年、そ のような事例はなかったと記憶している。 ﹁それがよ﹂ ﹁これは殆どの奴は知らねえだろうがな﹂と前置きし、シェルト ンは声をややひそめた。 ﹁何?﹂ やはりこの情報通は何か掴んでいるらしい。シェルトンに合わせ てアクトの声もボリュームが下がる。 いずれ明かされるのでそこまで神経質になる必要はないのだろう が、それでも内緒話をする時はつい声が小さくなる。 1599 ﹁何でも留学生らしいんだよ﹂ ﹁留学生?﹂ ﹁ああ。で、留学元がエリステインって話だ﹂ ﹁うん﹂ ﹁でな。編入してくる連中ってのは、どうやらエリステインの宮廷 魔術師の弟子らしくてな。その宮廷魔術師の貴族が帝国に打診して 来たらしいんだよ﹂ ﹁へえ。相変わらず耳が早いな。流石だ﹂ ﹁ま、それほどでもあるけどな!﹂ ﹁図に乗るな﹂ ピシャリと言われ、胸を張る坊主頭が肩を竦めた。 エリステインの宮廷魔術師。その肩書きだけで、この世界では一 目置かれる程の卓越した魔術の使い手。更に貴族でもあるという。 隣の魔術大国との外交の結果ということなのだろう。 ここガルゲンでエリステインの宮廷魔術師並の力があれば将来は 安泰。高額な報酬で国に雇って貰えるはずだ。 余談だが、エリステインの宮廷魔術師よりも、年額で三割ほどガ ルゲンで支払われる報酬の方が高い。帝国で慢性的に優秀な魔術師 が不足しているための苦肉の策だが、﹃エリステインの宮廷魔術師﹄ という世界で通用する名誉と比べてどちらを取るかは難しいところ だ。 それはそれでいいとして。シェルトンの話を聞いて、アクトは引 っ掛かりを覚えた。 ﹁待った。連中、って言った?﹂ ﹁おう﹂ 満足げに頷くシェルトン。 1600 ﹁ってことは、編入生は複数なのか?﹂ ﹁その通り。人数は三人だ。で、こっからが大事だぞ﹂ その言葉に、アクトはより注意深く耳を傾けた。 ﹁実はな?﹂ ﹁実は?﹂ ﹁三人のうち、二人は美少女って話だ!﹂ 小声で叫ぶ、という器用な真似をしたシェルトン。 ﹁⋮⋮﹂ そんな彼を、変わらぬ表情で見詰めるアクト。 二人の間に訪れる沈黙。 ﹁⋮⋮で?﹂ 肩透かしを喰らったシェルトンは、ガクッとこけて見せた。いい リアクションである。 ﹁でっ、てお前⋮⋮とても大事なことだろうが。美少女だぞ、美少 女﹂ ﹁興味ないな﹂ ﹁⋮⋮お前相変わらず、ホントに女の子に見向きもしないのな﹂ アクトのあまりにあっさりとし過ぎた物言いに、シェルトンは呆 れを隠さない。 ﹁同じことまた聞くけどよ。お前、恋愛否定派?﹂ 1601 ﹁同じ答えを返すけどさ。誰が誰と付き合っても、別にとやかく言 う気はないよ。ただ、僕は興味ないってだけさ﹂ ﹁考えは変わってないってか﹂ ﹁そんな簡単に変わるなら、最初から考えたりしないよ﹂ しばしアクトを見ていたシェルトンだが、訂正の気配がないのを 感じ取り、やれやれと首を振った。 ﹁勿体ねえなあ。お前こんなに可愛いのに﹂ 言いつつ、わっしゃわっしゃとアクトの頭が乱雑に撫でられる。 誉められたはずのアクトは、むしろ冷え気味の半目をシェルトン に向けた。 ﹁⋮⋮それ、褒めてる?﹂ ﹁ったりめえだろ。お前みたいなやつはな、お姉さま方に人気が出 るってのが、俺の分析結果だぜ﹂ 自信たっぷりだが、何をどう分析したのだろうか、とアクトは思 う。 アクトの顔の造形は中々整っている方だ。やや小柄で中性的では あるが、心構えや引き締まった身体がそうさせるのか、精悍な印象 を相手に与える顔つきをしている。 そこにアクセントを加えるのが、男子にしては少し長い、肩で切 り揃えられたライトブラウンの髪に同じ色のふさふさ犬耳と尻尾。 この二つの要素が、アクトはお姉さまにモテる、としたシェルト ンの論拠だ。徹底して確認したわけではないが、個人的に懇意にし ている数名のお姉様方にそれとなくアクトを引き合わせ、感想を聞 いた結果からの予測である。 1602 ﹁はいはい。どうもありがとう﹂ ﹁⋮⋮ホント、勿体ねえなあ﹂ これ以上は無意味と感じたシェルトンは、アクトに聞こえないよ うに小さく呟いた。 女の子と深い仲になるのを夢見る少年としては、待っていても女 の子が寄ってくるだろうアクトの素質は羨ましい限りなのである。 ﹁それはそうと、シェルトン⋮⋮﹂ ﹁あん?﹂ そんな考えに没頭していたシェルトンは、アクトの言葉に現実に 戻ってきた。 ﹁その編入生たちには、あまり僕と関わらないよう言っておいてよ ?﹂ ﹁⋮⋮お前﹂ 自らの諦めたような物言いに、わずかに込められたシェルトンの 憤りを感じたアクトは、小さく苦笑した。 ﹁僕としては、いくら君でも、これだけ僕と絡んでて、立場が悪く ならないのが不思議なんだけどね﹂ ﹁⋮⋮﹂ それは、彼の人徳がなせる技ではあるが、もう一つの要素も大き く絡んでいる。座学の成績は振るわないものの頭が悪いわけでもな いシェルトンは、現状という結果の原因は冷静に分析出来ていた。 だからこそ、憤る。 こんな状況に置かれてもなお、真っ直ぐ目標に突き進む愚直な彼 1603 に、かける言葉のない自分に。 ﹁⋮⋮分かったよ﹂ 教室内の喧騒を遠く感じながら、渋々と、友人の言葉を受け入れ るしかなかった。 ﹁おーい、お前ら席につけー﹂ ガラリと扉を開ける音と共に入ってきたのは、この教室の担任で ある若い男だった。 噂話に花を咲かせていたクラスメイトたちが、慌ただしく席に 戻っていく。 しん、とこれまでの騒がしさが嘘のように教室が静まり返る。 学園に通うには、そこそこの資金が必要だ。よって、それなりに 裕福な家庭か、貴族が生徒の大半を占めている。内実はともかく、 表面上の規律はよく守られているのだ。 教壇に立った教師はぐるりと生徒たちを見渡すと、彼らの目に浮 かぶ期待の色を読み取り、苦笑を浮かべた。 ﹁おはよう﹂ ﹃おはようございます﹄ ﹁⋮⋮全く。人の口に戸は立てられないというが、お前ら耳が早い な﹂ 生徒たちは一切無駄口を叩かない。噂の編入生がこのクラスに来 るのは分かっている。教師の話を中断すればするほど、紹介が遅れ るのだ。 ﹁普段からそれくらい、一致団結してくれればいいのにな﹂ 1604 教師の本音であろうその言葉に、心当たりがある何人かの生徒は わずかに視線を泳がせた。 ﹁まあいい。時間も限られていることだし、早速入ってきてもらお うか。君たち、入りなさい﹂ 入室を促され、三人が教室に入ってきた。 途端に上がるどよめき。それは喜びと驚き。生徒の半数以上だ。 うち喜んでいるのは男子が殆ど。驚いているのが女子だ。 ﹁ほらほら。気持ちは分かるが落ち着け。まずは私から簡単に説明 するぞ﹂ 教師の一言で、ざわめきは瞬く間に収束した。 ﹁この度学園に編入してきた、エリステインからの留学生だ﹂ どうやらシェルトンの言った通り、留学生という情報は知られて いなかったのか、教室内がどよめいた。 ﹁まあ、何でエリステインからなのかってのは、どうやらお偉いさ んたちのご都合ってやつらしいから、私は詳しいことは知らん﹂ ぶっちゃけた教師に、生徒たちは苦笑いした。 ﹁すると、次は何故彼らなのか、って疑問に思うだろう。彼らはな、 何とエリステインの宮廷魔術師の直弟子だ﹂ エリステインの宮廷魔術師という名誉に、教室が驚きに包まれる。 1605 他国に轟くほど。金を幾ら積んでも得られない名誉ある肩書き。 そんな宮廷魔術師に見初められるとはどんな実力の持ち主なのか。 生徒たちの興味を煽るには十分すぎる肩書きだ。 ﹁さて。私の声は聞き慣れているからいいだろう。彼らに自己紹介 をしてもらおうか﹂ 教師は編入生三人に目配せする。それを受け、まずは少年が口を 開いた。 ◇ 先程はシェルトンにああ言ったものの、アクトとてその編入生と やらには興味はあった。 騒がしくなる教室。男女問わず生徒の大半が声を上げる理由は、 アクトにもとても良く分かった。 シェルトンの言う通りだったのだ。ピンク色の髪を頭の後ろで結 っている少女も、エメラルド色の髪を腰まで伸ばしている少女も、 そんじょそこらでは見られないレベルの美少女だった。 ピンク色の髪の少女は、一〇人に聞けば九人は美人、或いは可愛 いと答えると思われる。残り一人は好みの問題、誤差の範囲だ。エ メラルド色の髪の少女も似たようなものだろう。 それに対して、彼女らと共にいる少年。こう言ってはなんだが、 正直平凡な印象が拭えない。比較対象が悪いのだと思う。横に並ぶ 二人が非凡過ぎるのだ。 アクトは視線をさっとクラスメイトに向けた。 果たして、彼らの見た目に騙されていない者がどれだけいるのか を確認した。 1606 ︵半数⋮⋮いや、三割? 少ないな︶ 騒いでいるクラスメイトの数は多い。その殆どはただ騒いでいる だけだが、騒ぎながらも瞳に知性の色を残す者もちらほら。 分かりやすいのは、雰囲気だろう。 実力は見てみなければ実際のところは分からない。でも、この三 人組は間違いなく既に実地を経験している。 佇まいが、違う。 ︵何だろう⋮⋮貴族とは違う。貫禄、っていうのかな?︶ 貴族の子女は、人前に立つことに慣れている者も多い。しかし、 この学園に所属する貴族の生徒たちで、編入生三人組に匹敵する貫 禄をも備える者はそう多くはいない。 かくいうアクトも、経験値では圧倒的に劣るだろう。気になった。 話を聞いてみたくなった。彼らは、どんな経験をして来たのか。 教師からの簡単な紹介が終わり、それぞれの自己紹介がなされた。 少年はタイラー・ミラク。ピンク色の髪の髪の少女はリーリン・キ ャロール。エメラルド色の髪の女の子はミレーユ・エルディラと名 乗った。 ︵話して、みたいけど⋮⋮︶ 先程、シェルトンに釘を刺したばかりだ。そして、アクトはそれ を自分から違えるつもりはない。相手が何度も友好的に来るなら仲 良くなるのもやぶさかではないが。まさしくシェルトンとはそんな 感じで友人になったのだ。 ︵ま、僕は遠くから見てるだけで十分だな︶ 1607 アクトは目を閉じて黙考する。己の状況を鑑みて、そう結論付け た。 目を閉じていた彼に、編入してきた三人のうちの少年がアクトに 視線を向けていたが、ついに気付くことはなかった。 ◇ 帝国立魔術師養成学園は、帝都ガルゲニアの南東にある。 巨大な敷地、建物を持つ学園を中心に学生を対象とした店が立ち 並び放課後には市場も真っ青の賑わいを見せる区画だ。 学園は幾つかの学科に分かれている。 武術科、騎士科、文官科、魔術師科、総合科の五つだ。 武術科は武器を問わず接近戦と強化魔術を主に学び、騎士科は剣 術と中距離までの魔術を。魔術師科は生徒個々が持つ属性の魔術を 徹底的に。総合科は上記三つを満遍なく。 文官科は、卒業出来れば国に仕えることが決まる。最低限の護身 術以外は殆どが座学という、他四つとは毛色が違う学科だ。校舎も 文官科だけ別である。 生徒たちの間では、文官科は﹃内政﹄、武術科などは﹃戦闘﹄と 呼ばれて区別されている。どちらも国には必要なため、いがみ合い などはない。 どの学科も完全実力主義だ。学年末で合格ラインに達しなければ 進級出来ない。即退学とはならないが、在籍期間は最大で八年と決 められている。その期間内に四回合格ラインに届かなければ夢は潰 え、﹃内政﹄所属の者は商人など、﹃戦闘﹄の者は冒険者や自警団、 一般兵を目指すことになる。もっとも四年まで進級出来れば、卒業 出来ずとも世間からは﹁即戦力﹂として扱ってもらえる。卒業出来 れば、﹁即戦力﹂が﹁エリートの卵﹂に変わるのだ。 貴族屋敷の敷地面積にも匹敵する巨大な校舎。その中にある無数 の教室の内一つが、太一たちが編入した総合科。 1608 予想通り、話し掛けようとするクラスメイトで太一たちの席周辺 はごった返し、教室は一時騒然となった。特に、珍しい⋮⋮という より、この学園において特例中の特例である編入生となれば尚更で ある。 その教室は、現在は静寂に包まれていた。 ﹁⋮⋮このように、魔力を持つ、というのは、それだけである種特 別ということができます﹂ 柔和な笑みを浮かべた中年女性の教師は、そこで一旦言葉を区切 り、教室を見渡した。 ﹁では、魔力を持つ者と持たない者、その差分は何故生まれますか ? 答えて頂きましょう、シェルトン君﹂ ﹁うげっ!﹂ 指されないと思っていたのだろう、パスを取りこぼして漏れた呻 き声に、クスクスと笑い声。陰険なものではなく、クラスの雰囲気 は悪くない。 銀髪の少年は立ち上がり、﹁えーと⋮⋮﹂と考え込む。 答えられないということはない。もしそうなら、彼は進級は出来 ていない。ここは、そういう場所なのだ。 ﹁精霊に選ばれた者が魔力を持ちます。両親のどちらかでも魔術を 使える場合、精霊に選ばれる可能性は高くなります﹂ ﹁はい、正解です﹂ シェルトンはホッとため息をついて席についた。 今のは基礎中の基礎である。現に、この学園に入学して早々に学 ぶ魔術学の基礎なのだ。 1609 だが、油断はならない。進級して尚、唐突に過去習ったことが出 てくるのだ。それに答えられないと、自己研鑽を怠ったとして、進 級の査定に少なくないダメージが残る。 ﹁では、少し踏み込んでみましょう﹂ 生徒たちの目の色が変わる。ここからは点数稼ぎ。先の復習に誤 答すると減点されるが、踏み込んだ質問に正答すれば加点される。 一歩抜け出す、或いは巻き返しの場だ。 ﹁魔術とは、与えられた属性の精霊に魔力を捧げ、力を借りて発動 するものです﹂ 魔術師を本気で志すなら必ず知っておくべき事柄。誰も疑問は覚 えていないようだ。 ﹁ではここから質問です。詠唱が間違っていないのに、魔術を失敗 しました。失敗した魔術師は、魔術師と自称して恥ずかしくない程 度、つまりひとかどのレベルがあるものとします。では、原因が分 かる人は手を上げてください﹂ つまり、最初期の奏が躓いたイメージ不足や魔力の操作能力は含 まれないということだ。 さっと手が上がる。全員だ。クラスの全員が挙手をした。 教師がある男子生徒を指すと、立ち上がった少年は﹁術者の魔力 の枯渇が原因です﹂と答える。それでも、上がった手は全く下がら ない。次に教師が女生徒を指す。彼女は﹁マナ不足が原因です﹂と 回答した。 この時点で、八割強の生徒が悔しそうに手を下ろした。指されな かったのは教師の気まぐれ、運が悪かった。だが、運によって生き 1610 残ることもまた日常茶飯事のこの世界。この学舎は、運が悪かった、 という理不尽に慣れる場でもあるのだ。 残ったのは八人の生徒。太一、奏、ミューラは挙手したままだ。 残る五人は、明らかに高位貴族と分かる。幼い頃から高等教育を受 けてきたのだろう。 ここから先は授業では習っていないところ。予習のレベルが問わ れる。 ﹁それでは、エルザベートさん﹂ ﹁はい﹂ エルザベートと呼ばれた少女が優雅に立ち上がる。 ︵おお、あいつが指された︶ 太一は感動していた。 エルザベートが伯爵家令嬢だからではない。 豪奢な金髪に、キツ目の整った顔立ちに見とれたからではない。 ︵縦ロールキター!︶ そう、どのようにセットしているのか、腰まで伸ばされた彼女の 豪奢な金髪の毛先は、中心に空間を作るように渦を巻いているのだ。 少しカール、なんて生易しいものではない。一番太い根本では直 径三センチ、渦を巻きながら細くなって下に伸びている。物語の中 だけだと思った髪型に今、出会っているのだ。 エルザは優雅に﹁マナの飽和が原因ですわ﹂と答えた。正解であ る。何人か訝しげだったが、教師の﹁正解﹂の声に驚きに変わった。 また、幾つかの手が下がる。 1611 ﹁まさかそれをご存知とは。エルザさんはきちんと勉強なさってい て素晴らしいですね。そう、マナは枯渇していても、飽和していて もダメなのです。それでは⋮⋮おや? まだ手をあげている人が居 ますね﹂ そう、挙手しているのは太一、奏、ミューラの三人である。 ﹁編入生の皆さんですね。それでは、リーリンさんに答えて頂きま しょう﹂ そう柔らかな声で奏を名指しした女性教師。声と裏腹に、その目 がわずかに光る。 奏は立ち上がり、特に何か思うでもなく口を開いた。 同時に、太一とミューラも手を下ろす。 ﹁マナ同士が反発し合って、魔術が失敗することがあります。﹃相 克﹄という現象です﹂ 答え合わせを確認することなく、奏は席についた。確認するまで もない。驚きに染まる教師の顔を見れば結果は明らかだ。教室がざ わめいた。 ﹁よく、それをご存じでしたね⋮⋮? 一部の高位な学者しか名前 も知らないような現象なのですよ?﹂ ﹁私の師は優秀ですから﹂ そうにこりと微笑んで答える。その笑顔を見て、教室が別の意味 でざわめいた。 これでエリステインの株は上がっただろう。そんなことを考えな がら、奏は己の師であるレミーアを思い浮かべる。﹃相克﹄は彼女 1612 の研究題材の一つ。 あの魔術学の鬼であるレミーアが研究を続けている題材。それだ けで、その高度さは知れるというものだ。 ﹁さすが、エリステインの宮廷魔術師の弟子ですね。皆さんも、彼 女に負けじと研鑽してください。では、次の⋮⋮﹂ 奏が自分のレベルを見せつけたように、ミューラもまた、自身の 実力を知らしめる。 続いての授業は薬学。 本日は教室での授業だが、日によっては実習のため移動教室にも なるらしい。 ﹁と、ここまでが、回復、毒消し、麻痺消しの初級魔法薬の作り方 だ﹂ 三〇半ばの神経質そうな男性教師が、板書を終えて向き直った。 ﹁一ヶ月後、この三つからランダムで作ってもらう。もちろん、材 料集めからだ﹂ 教室が緊張に包まれた。蓋を開けるまでどれを作らされるか分か らない課題。クリアのためには、三つ全て習熟の必要があるという こと。しかし課題としては理にかなっている。冒険者や騎士も、遠 征中に手持ちの薬が切れた時、材料が揃えられるなら自分で作るこ とも稀にあるケースだ。 生徒たちの気が引き締まったのを見て満足げだった教師だが、ふ と教室の一角を見て頬をひくつかせた。 ﹁⋮⋮余所見とは余裕だな、ミレーユ・エルディラ﹂ 1613 窓際に座っていたミレーユことミューラが、ぼんやりと外を見て いたからだ。 ﹁⋮⋮ごめんなさい﹂ ついていた頬杖を解き、反省しているのかしていないのか分から ない声色で答える。本人としては上の空だったのを反省しているが、 運悪く伝わらなかった。 ﹁では、上級魔法回復薬の材料のうち三つ言ってみろ。答えられた なら不問とする﹂ ミューラはきょとんとしつつ立ち上がった。 上級魔法回復薬は高級品。魔法薬の完成品ですら滅多にお目にか かれないのに、製法を知ろうと思えばかなり苦労する。この学園の 図書館でも手に入らない。教師からすればミューラが困るところま で想定済みだ。 いくらエリステイン宮廷魔術師の弟子とはいえ、上級回復魔法薬 の材料までは知らない筈だ。特に秘匿されている訳ではないが、上 級を作れる薬師たちはあまり表に出したがらないため、浸透してい ないのだ。教師としては、それで反省を促すつもりだった。いっそ 叱りたいが、相手はエリステインの客員生徒。建前上は平等だが、 そう簡単にはいかないのが大人の事情である。 他の生徒たちからの視線を受けつつ。現実は、想定の予想斜め上 を行った。 ﹁えーと、リーサンの花の花粉、ヘイトベアの胆、ミハガの樹液⋮ ⋮でいいでしょうか?﹂ 1614 教師が目を白黒させた。 正解だった。 世界中の高級図書を収集しているレミーア宅に長く住んでいたエ ルフ。上級魔法薬といえど、その程度の情報は修行の片手間に得て いた。 ミューラがぼんやりしてしまったのは、あまりに初歩過ぎて聞く までも教わるまでもなく知っていたからだった。 ﹁⋮⋮﹂ 神経質そうな教師は、現在進行形で硬直していた。まさか答えら れるとは思っていなかったのだ。 そこに、ミューラが追い討ちをかける。 ﹁間違っていましたか? それでは、特級魔法薬の材料と作り方で 答え直します﹂ ﹁い、いや、いい。上級魔法薬の材料は正解だ﹂ ﹁そうですか﹂ その口ぶりからは、正しい答えを知っている、と伝わる。恐らく 材料さえあれば特級魔法薬も作れると教師は予測し、そしてそれは 当たっていた。 ならば、初級魔法薬など読書の片手間にでも作れるだろう。 それほどの技術を会得する者に、初級魔法薬の作り方の話を真面 目に聞けとはさすがの教師も口にしにくい。 ﹁退屈なのはよく分かった。しかし、授業は授業。聞いてもらわね ば困る。済まないが今しばらく辛抱してくれたまえ﹂ ﹁分かりました﹂ 1615 たったそれだけのお小言で済んでしまった。生徒たちにとって、 この男性教師に目をつけられると、理路整然と正論で長いお小言を もらうのが普通だった。 多少問題があっても、力があれば、実績があれば世の中から欲さ れる。ミューラの態度は授業を受ける態度としてはいささかふさわ しくなかったが、自身が持つ力によってお咎めなしとなった。 今の一幕は、間違いなく社会の縮図の一つだった。 肩書きは伊達ではないと片鱗を見せつけつつ、授業は進み、午前 中の授業終了を告げる鐘が響いた。 昼食を挟んで午後、グラウンドでの戦闘訓練の実習が始まる。 1616 帝国立魔術師養成学園の騎士候補生 三︵後書き︶ 太一﹁俺は?﹂ 作者﹁次の話で﹂ マナ=精霊という感じで解釈してもらえばOKです。 年内、もう一回投稿したい。 1617 帝国立魔術師養成学園の騎士候補生 四︵前書き︶ 遅くなりましたが、お年玉投稿。 1618 帝国立魔術師養成学園の騎士候補生 四 初老の男の前にある窓からは、広大な学内の敷地が一望出来る。 先に見える修練場には、生徒たちが出てきたところだ。ここからだ と人ひとりの大きさがゴマ粒ほどに見える。 学園の最奥部にある、最も高い尖塔。その最上階。 ﹁全く、陛下も無茶をなさる⋮⋮﹂ 窓からその様子を眺めていた彼は、ため息をついてクーフェをす すった。 芳醇な香りが鼻から抜け、心地よい苦味が喉をすり抜けて胃に流 れ落ちていった。 ﹁午後一は戦闘訓練の授業ですな﹂ 男に向かって投げられる中年男の言葉。主語が全く足りないが、 初老の男には彼が何を言っているのか良く分かった。 ﹁ふむ。中央からの情報によれば、この学園の生徒では相手になら ない、とのことだが⋮⋮﹂ 事前情報では、皇帝から預かった生徒︵名目上︶三人は、数か月 前にAランク冒険者への昇格の打診を受けているという。それも、 例の召喚術師の少年だけでなく、仲間の少女二人も。 この学園とてエリートの卵を数多く輩出してきた歴史と自負があ る。が、過去を紐解いても在学中にAランク冒険者の領域に達した 者は片手で数える程しかいない。 Bランクの水準まで辿り着けるのは一握り。Cランクでも学内を 1619 歩けばちやほやされるだろう。Dランクまで達せられれば十分もろ 手を挙げて歩ける成績である。 現時点で在籍している生徒の中で最高の成績を収める﹃戦闘﹄の 生徒は、冒険者ランクでB相当が二人。 それも、実地の叩き上げでランクアップした現役冒険者と比べれ ば、経験量が半分にも満たない生徒たちの方が一歩二歩と遅れを取 るだろう。 ﹁それは間違いないと思われます﹂ ﹁ほう?﹂ ﹁彼らのうち、カナデ・アズマ⋮⋮今はリーリン・キャロールと名 乗っているのでしたな。彼女は﹃相克﹄という現象を知っておりま した﹂ ﹁﹃相克﹄か⋮⋮﹂ ﹁はい。そしてミューラ⋮⋮ミレーユ・エルディラは、上級魔法薬 の材料の一部を淀みなく回答したそうです。それだけでなく、特級 魔法薬の材料と精製方法も知っている様子だったと報告が入ってお ります﹂ ﹁上級に特級だと?﹂ ﹁はい。薬学の講師が彼女の不真面目な態度を窘めるために出した 問いでしたが、さらりと答えられて返す言葉が無かったそうです﹂ ﹁うぅむ⋮⋮﹂ 今の話を聞くだけでも間違いなくこの学園で学ぶレベルを超越し ている。 流石は世界中の魔術師が権威と賞賛する﹃落葉の魔術師﹄の秘蔵 っ子たち、といったところか。 ﹁して、タイラー少年はどうだったのかね?﹂ 1620 今の話には、召喚術師の仲間の少女二人しか登場しなかった。初 老の男が一番気になる少年はどうなのだろうか。 ﹁いえ。彼は授業では特に目立つことは無かったようです﹂ ﹁そうか﹂ 中年の男は報告する。知識レベルの水準は学園内でもかなり高い 方だが、リーリンとミレーユに比べればどうも霞む、と。 それも事前情報として受け取った彼自身の言葉で分かっているこ とではある。彼は自分で﹁俺は頭脳担当じゃない﹂と言ったからだ。 ﹁なるほど﹂ ﹁彼の真価は、この学園にいるうちは場を整えない限りはなかなか 分かりずらいでしょうな﹂ ﹁やはりそうか﹂ 顎髭を撫でつけ、大分ぬるくなったクーフェのカップを執務机に 置いた。 ﹁では、場を整えよう。おあつらえ向きの催し物もあることだしな﹂ ﹁随意に﹂ ﹁少しで構わぬ、祭りの前に保守派と革新派の対立を煽っておけ﹂ ﹁承知致しました。⋮⋮荒療治ですな﹂ ﹁あまり時間を掛けるのも良くないだろう。残された時間は、そう 長くはない﹂ ﹁はい。では早速取り掛かります﹂ ﹁うむ。ゆけ﹂ 中年の男は一礼し、退室していった。 その気配が遠ざかり、やがて届かなくなった頃。初老の男は再び 1621 窓の向こうに顔を向けた。 ﹁さて。帝国に弓引く愚か者ども。我々は貴様らに膝はつかぬぞ。 努々、忘れぬことだ﹂ 誰に言った訳でも無い決意。帝国最高学府の長の言葉は、執務室 の空気に溶けていった。 ◇ 広い修練場。これでグラウンドの一角というから恐れ入る。 運動着に着替えた総合科三年の生徒たちは、そこに集合していた。 ﹁ジャージとか着るの久々だなぁ﹂ タイラーこと太一は、己の格好を見下ろしてそう呟いた。 上下エンジ色のジャージ。足の外側には、三本の白い線がある。 生地が違ったり色が違ったり線の数が違ったりしたが、このジャー ジは中学の頃着たものと似ているため、太一は違和感を感じずに袖 を通していたのだ。 実はこのジャージ、学園内での実戦形式の授業での制服である。 特殊な付与魔術が施されており、また裏地には攻撃が直撃した際に 発動する防御結界が仕込まれ、身体のどこに当たっても刃の直撃を 防ぐ仕組みになっている。見た目に反して防御力は折り紙付きなの だ。 授業開始時に都度貸与され、授業終了後着替えたら返却しなけれ ばならない。優秀なもののため持ち出せば結構な値段になりそうだ が、このジャージ、持ち出すとどれだけ成績優秀でも問答無用で留 年が決定する。しかも二度目となるとこれまた問答無用で退学。 余談だが、専門の業者が使用後のジャージを丁寧に洗濯している 1622 ので常に清潔らしい。 それはさておいて。 ﹁まさか、ブルマがあるなんて⋮⋮﹂ 奏が自身の下半身を見詰める。ジャージの長ズボンに隠れて見え ないが、その下はブルマである。 ﹁それも、まさかだよなぁ﹂ 太一と奏は日本の中学高校で、ブルマを見た記憶は無かった。男 女ともにサイズ違いのハーフパンツだったのだ。 ﹁まさか﹂ ちらりと太一が隣に視線を向ける。 ﹁まさか﹂ 奏が太一の視線を追う。 ﹁⋮⋮何?﹂ 視線の先には、ミューラ。 ﹁まさか、下はブルマのままとは﹂ ﹁大サービスだね﹂ 太一と奏が上下ジャージなのに対して、ミューラは上にジャージ を羽織ったのみで、下はブルマである。 1623 透き通るような白く長い足が惜しげもなく白日の下にさらされて いる。 当然かなり視線も集まっているのだが、注目を浴び慣れているミ ューラはどこ吹く風だ。 ﹁いいのよ。あたしはあまり着てると動きにくくて嫌なの﹂ まあ、戦闘時の彼女の格好も防具の類いは最低限のため筋は通っ ている。実際、上のジャージも袖すら通さず肩にかけているだけだ。 実際に動くとなればそれも脱ぎ、白い運動用のシャツにブルマに なるのだろう。 ﹁そもそも、ここで怪我とかしないでしょう?﹂ ﹁あんまり、舐めない方がいいと思うけどな﹂ ﹁舐めるつもりはないわ。だからこそ、動きやすい格好で臨むのだ から﹂ 彼女も人の子のため何もかも完璧とはいかないが、基本的に手を 抜く、という言葉とは無縁の少女だ。 もちろん相手が誰だろうと全力全開、という意味ではない。相手 に合わせつつ、その中で誠心誠意物事に尽くす。 ﹁それよりタイチ。貴方こそ、きちんと節度を持ってやるのよ?﹂ ﹁ああうん。ま、俺はその辺は大得意だけどな﹂ 太一の手加減はシンプルだ。強化の度合いをどの程度にするかで、 発揮する力を制御出来る。 レミーアの修行のたまものだ。 ﹁太一。アレは使うの?﹂ 1624 ﹁ああ、そのつもりだけど﹂ ﹁アレ﹂とは、シルフィの力のことだ。 力の使い方を制御すれば、常識の範囲内の風魔法を使う事も出来 る。 ﹁ふぅん。ま、今のタイチなら大丈夫かしらね﹂ ﹁ああ。下手な真似はしないよ。⋮⋮多分﹂ ﹁最期の一言が余計﹂ これまでの太一を見ていれば、彼の制御能力がどれほどのものか はすぐに分かる。 ミューラも特に心配をしている訳ではない。 そもそも自分より下のレベルの相手と戦う事が殆どだったのだか ら。 ︵んー。やっぱり、気になるよね︶ その横で二人のやり取りを見ていた奏は周囲を軽く一瞥した。 自分たちにちらちらと向けられる視線には、もちろん気付いてい た。特徴は太ももや胸元に向けられる劣情混じりの視線が比較的少 ないことか。 理由は分かる。太一とミューラの武器だろう。 自分達は宮廷魔術師の弟子としてここに来ている。 その三人のうち二人が、杖ではなく剣を持っていれば、否応なく 気になるというもの。 別に近接戦闘主体の者でも魔術を使うため、広義では魔術師とす るのも間違いではない。 ︵太一とミューラは剣だし︶ 1625 とはいえ、宮廷魔術師の弟子ならば、普通に考えれば奏のような 後衛タイプの魔術師であると予想されて不思議ではない。 それが蓋を開ければ二人が刃物なのだから、三人に対する期待の 他に、疑問の視線も当然といえた。 ︵ま。杖だけが型って訳じゃないからね︶ そう、奏は口の中で呟く。 接近戦主体の者を魔術師と呼ばないというなら、レミーアを見習 うべきだ。かつてマーウォルトの会戦で、魔術師を相手に接近戦を 仕掛けて勝負の流れを引き寄せたと聞いた。 奏とて、戦闘時に必要とあればあえて間合いを詰めることもある し、レミーアの戦闘を知った今は杖術も会得したいと考えている。 魔術師に近接戦闘技術は不要、という考えはやや凝り固まっている と、奏は感じざるを得ない。 ﹁よーし。揃ってるな﹂ 始業の鐘が鳴り、教師がグラウンドにやって来た。 細身の体躯を持つ、男勝りな笑みが似合う女性だ。身長は平均的。 身のこなしと佇まいが、ただ者ではないと物語る。左腰にくくりつ けられたレイピアと、その反対、右腰にたばさんであるショートス タッフ。彼女は接近戦も長距離戦もこなすオールラウンダーなのだ ろう。 ﹁時間が惜しい、早速始めよう。前回提出した自分の課題は覚えて いるな?﹂ 生徒たちが頷いたのを見て、女教師は満足げだ。 1626 ﹁いつもと同じ、二人一組で模擬戦をしてもらう。しばらく経った らペア変更だ。自分の課題を意識して模擬戦闘に臨むこと。すぐに 解決しろとは言わん。しかし、伸びようという意識がないのが一番 の害悪だ﹂ 女教師はぐるりと生徒たちを一瞥した。 ﹁今後つまらんことで死にたくなくば、死に物狂いで課題と向き合 うのが基本だ。何度も言うのは、基本とは簡単なことではなく大切 なことだ﹂ そう、基本は何よりも大事だ。基本を限界まで昇華した先に、一 年間に渡って挑んでくる世界中のトッププロを退け続け、頂点から の陥落を許さなかったスポーツ選手を奏は知っている。 ﹁それでは、ペアを組んだ者から始めろ。何かあれば聞きに来い﹂ 教師の言葉を最後に、生徒たちは次々とペアを組んでいく。 ﹁キャロールさん! 僕と組んでください!﹂ ﹁エルディラさん、良かったら私とやりません?﹂ 奏とミューラの元にも、男女問わず数人があっという間に集まり、 黒山の人だかりが出来上がった。 ﹁おっとと﹂ その輪から押し出された太一。﹁やっぱ野郎より美少女だよなー﹂ などと一人納得しつつ、誰かいないかと首を左右に振る。すると、 1627 ぽつんと一人、 所在なさげに立っている、ショートスピアを持つ少年が一人。太一 は彼に見覚えがあった。珍しい転校生に話し掛けてくるクラスメイ トのおかげで、ほぼ全員と会話をすることが出来た。その中で、た まに視線をくれるものの、ついに一言も話さなかった唯一の人物だ。 もう一度周囲を見渡す。他にあぶれている者はいないようだ。 ならば彼とやるしかあるまい。それに、話したことがないので自 己紹介にもちょうどいい。 太一はそんなことを考えながら、少年の元に向かった。 ◇ アクトはこちらに向かってくるタイラーを見て、ため息をついた。 転校生の太ももにテンションが上がっていたシェルトンと組もう と思っていたが、彼はいつの間にか別のクラスメイトと組んでいた。 気付いたら、アクトは既にあぶれていたのだ。 同じくペアがいない同士、転校生の彼が自分の元にやってくるの は、至極当然と言えた。 ﹁君もあぶれたんだな﹂ ﹁⋮⋮そうだね﹂ 転校生には関わらない、と決めたのに。 タイラーは自分の正面二メートルの位置にいる。 自分の後ろにいる誰かに話しかけている、というひどく無意味な 希望的観測をしつつ、最後尾にいたアクトの後ろには誰もいないと 分かっている。アクトは諦めて返事をした。 ﹁俺の名前は知ってるよな?﹂ ﹁⋮⋮うん。タイラー・ミラク君でしょ?﹂ 1628 ﹁そうそう。君は?﹂ ﹁僕はアクト。アクト・バスベルっていうんだ。アクトでいいよ﹂ ﹁そっか。俺もタイ、ラーでいいぞ﹂ タイラーが思わず偽名でなく本名を名乗りそうになったこと以外 は、おおむね普通の自己紹介だ。 ﹁あぶれちまってさ。俺と模擬戦やらないか?﹂ アクトはいまいち乗ってこない気持ちが悟られないように努めて 平静を装って頷いた。 ﹁いいよ、やろう﹂ ﹁よしきた﹂ タイラーはアクトから五歩離れ、そこでくるりと振り返って剣の 柄に軽く右手を添えた。柄や鞘の拵えから見るに、剣は武器屋なら 何処にでも置いている鋼の剣。簡単に手に入るが、扱いこなすには 相応の実力が必要な、駆け出し卒業の証でもある剣だった。 ﹁⋮⋮魔術師なのに、剣なんだね﹂ 腰を落とし、槍を石突きを背中側に、穂先を身体の右に、斜めに 流す。 対近接戦闘武器用の、迎撃の構えだ。 ﹁ん? 魔術師が剣を使っても変じゃないだろ?﹂ それもそうだ。 タイラーは言う。魔術を使えるなら、皆魔術師と呼ぶことも出来 1629 る、と。 そもそもアクトとて、メインウェポンこそショートランスだが、 戦闘では攻撃補助含めて魔術も使うのだ。自分だって魔術を使う者 ││魔術師と呼べなくもない。 ﹁なるほどね。先入観に囚われるのは良くないね﹂ ﹁そういうことだ。じゃあ、俺から行くぞ?﹂ ﹁いつでもいいよ﹂ さて。タイラーはどんな戦いをするのか。エリステインの宮廷魔 術師の弟子、という肩書きを持ちながら、剣を扱う少年。初手は魔 術か、それとも、剣か。 第一印象通り、タイラーからは隙と言うものが見当たらない。戦 闘における貫禄は、アクトが知る中でも五本の指に入るだろう。 ﹁!﹂ 軽い足取りでタイラーが走り出す。 ︵剣か!︶ ならば対応手は絞られる。正面か、右か、左か。はたまたフェイ ントか。 元々五メートルと離れていなかったのだ。接敵までは一瞬。相手 のいかなる手にも対応できるよう目を凝らす。指先の末端にまで神 経を巡らせる。 ﹁っ!﹂ 瞬きをした記憶はない。タイラーが、アクトの視界から消えた。 1630 警鐘を鳴らす本能に従って、アクトは身体を回転させて槍を真後 ろに向かって薙ぎ払った。 ﹁へえ。勘がいいな﹂ 鼓膜に響くタイラーの声と鋭い手応え。金属同士がぶつかり、火 花が散る。アクトの槍の穂先を、垂直に立てた剣で受け止めている タイラーの姿があった。剣の腹に腕が添えられ、衝撃が完全に塞き 止められている。 ﹁なん⋮⋮っ!?﹂ そして、その手のひらが開かれ、アクトの身体の中心、鳩尾の僅 か下を狙っているのを捉え⋮⋮ ﹁うあっ!﹂ 戦慄と、直後に衝撃が走る。 弾き飛ばされたアクトは、空中で一回転して着地。しかし勢いを 殺しきれずに地面を滑った。 ︵今のは風属性魔術! 僕と、同じ⋮⋮!︶ 鈍痛に眉をしかめつつ、タイラーに目を向ければ。網膜が認識し たのは、剣を袈裟懸けせんと振りかぶったタイラーの姿。 剣が届かないのは明らか。だが、そんな物理的な現実よりも、同 じく武器を取る者としての勘の方を信じた。 ﹃風の旋刃!﹄ 1631 腰の捻りのみで、アクトは短槍をタイラーに向けて突き出した。 鋭い風が一筋の錐となり、その周囲を渦巻く旋風をも刃とした、 貫通力に特化したアクトの魔術。 ﹃エアカッター﹄ タイラーが放ったのは、珍しくも何ともない、風属性魔術の一つ だった。 しかし、アクトは﹃風の旋刃﹄を放った瞬間に、身体を左に投げ 出して転がった。 破裂音が響き、自分の魔術が破壊され、今自分がいた場所を風の 刃が通過したのを転がりながら感じ取ったアクト。そのまま身体を 跳ね上げようと両手を地面について。 ﹁うっ!﹂ だん、と、目の前で激しく踏み込まれた足に身体が一瞬硬直する。 そして、ぴたりと添えられた剣の腹が、金属の冷たさを、無情に 伝えてきた。 ﹁ここまでかな?﹂ 平坦なタイラーの声。思わず顔を上げれば、不敵に笑うタイラー の姿。アクトは一瞬目を見開いて、その後微笑んだのだった。 1632 帝国立魔術師養成学園の騎士候補生 四︵後書き︶ 活動報告にも書きましたが、前話の誤りは修正しました。 1633 帝国立魔術師養成学園の騎士候補生 五 火、土、風。 これらは、仲間二人の領分である。 ︵じゃあ私は、水、かな︶ 自分と相対する男子生徒が構える両手剣を見据えながら、奏は考 えをまとめる。 じり、じり、と男子生徒のすり足の音が僅かに奏に届く。 ︵嘘は言ってないよね︶ 使用属性を聞かれても、水、と答える。後で他の属性を使用した 場合には聞かれるだろうが、その時は﹁水だけしか使えないとは言 っていない﹂と煙にまくつもりだ。 その言い逃れがややずるいといわれる可能性は否定しない。 ︵まあ、実戦でわざわざ自分の手札を明かす人はいないし︶ 初めて出会った相手と戦う場合、情報が全くないこともしばしば だ。 そういう時は、相手の情報を得ながらこちらを襲う攻撃に対応し、 更に攻撃もするという同時進行をせねばならない。 情報が無いと戦えないなら、戦闘の可能性がある仕事は諦めた方 がいい。 ︵さて、来ないなら私から行こうかな︶ 1634 先手を相手が譲ってくれたのかと考えた奏は、垂れ下がった右手 を振り上げた。 実際はエリステイン魔法王国の栄えある宮廷魔術師の弟子という 肩書に相手が勝手に慎重になっていたのだが、そんなことは奏には 関係ない。 直後、奏の背後一メートルの地点から、地面を突き破って水柱が 吹き上がる。 瞠目する生徒を見て、どちらに動くかの予測を立てる。そして、 攻撃の手順を構築。 ﹃水龍﹄ しぶきを巻き上げる水柱が龍を模って生徒を襲った。 ﹁くっ!﹂ 男子生徒が横っ飛びで回避する。想定済み。 水の龍が地面に激突して炸裂、水が周囲に飛び散った。水圧で押 し潰す魔術である。もっとも加減はきちんとしているため、直撃し たところで打撲程度で済む威力だ。 ﹃水弾﹄ ﹁ぶっ!?﹂ 高速で飛来する水の球が、転がった後立ち上がろうとした男子生 徒の顔面を直撃した。 水砕弾と違って破裂はしないただの水の塊。しかし、突如顔面に 大量の水を掛けられれば、視界はかなり奪われる。 足を止めた男子生徒は、もはや奏の的でしかなかった。 1635 ﹁ここまでだね﹂ ﹁⋮⋮ッ!﹂ 己の首筋にヒヤリとしたモノが当てられ、男子生徒は立ちすくん だ。 それは、水を圧縮して作り上げた剣。切れ味は鋼の鉄板すらも軽 く両断する。 ﹁参りました﹂ 男子生徒は肩を落として剣から手を放し、両手を上げた。 がらん、と剣が落ちる音がする。 ﹁そっ、そこまで!﹂ 審判役の生徒が慌てた様子で試合終了を告げる。あっという間の 決着に唖然としていたのだ。 ﹁ふう﹂ 奏はその場で一礼し、元いた場所に戻る。 今の戦闘を思い出す。例えば相手がミューラだった場合。﹃水龍﹄ なんて隙の多い魔術は使用出来ない。 水柱が立つ、龍を模る、相手に叩き付ける。これほどの手順を踏 まなければならないのだ。ミューラなら水柱が立った瞬間に動いて いる。こちらへ接近しながら、火球の一発でも撃ち込んでくるだろ う。 火球に対応しながら接近してくる剣士への対処を考え、かつ﹃水 龍﹄を操るなんて七面倒臭いことはやりたくない。まして相手はミ ューラだ。奏が少しでもまごつけばそれで勝負の趨勢は決まってし 1636 まう。 やるとしたら、最初から﹃水砕弾﹄の連射だ。ミューラが避ける だろうと思われる方向への偏差射撃を行うのは当然。更に、ミュー ラの移動速度から自動で炸裂する術式を、放った﹃水砕弾﹄それぞ れに組み込む。 それだけやっても、ミューラには全て迎撃される予想図しか描け ない。ミューラが﹃水砕弾﹄を捌いてからが勝負開始である。 これくらいやらないと、と、他の生徒たちの模擬戦闘を見学しな がら考える奏の思考は、当然だがここにいる生徒たちには逆立ちし ても実行不可能なものである。 奏は当たり前のように使える魔術だが、そもそも﹃水砕弾﹄が容 易い術式ではない。水属性の魔術でも中級に数えられる。それを連 射して、一つ一つに細かい差分を施すなど、この世界の常識からす ると人間業ではない。ごく一部の突出した人間にのみ可能な、神業 とも言える行為だ。 生徒たちの戦いを見た限り、半数近くはアレンに追いついていな い。基礎などは独学で学ぶしかないが、実戦で苦い思いもしながら 日々を生きる冒険者という選択肢も悪くはないのだろう。成長速度 や潜在能力は人それぞれ。良い悪いの話ではない。 試合開始前後、とある女子生徒に連れていかれたミューラはどこ だろうか。しばらく考え事をしていた奏は、仲間であるエルフの少 女がどこにいったのかを探した。 そして、それはすぐに見つかった。 少し離れたところで対峙する二人の少女。 ﹁あの子は⋮⋮確か、エルザベートさんだったかな﹂ 一方は良く見慣れた、しかし今は変装している元エルフの美少女。 もう一方は、太一が﹁縦ロール﹂と心の内で呼んでいる伯爵家令 嬢だった。 1637 ミューラは腰の剣を抜かずに自然体で立っており、一方のエルザ は華美な装飾を施されたレイピアを構えている。 ずいぶん派手な剣だなぁ⋮⋮と感想を抱く。 ﹁さあ! どこからでもかかっていらっしゃい!﹂ 不敵な笑みを浮かべ、エルザはそう自信たっぷりに告げた。 ﹁じゃあ、行くわよ?﹂ 一方のミューラは特に感情を浮かべることなく冷静だ。 そしてそのままおもむろに左手をエルザに向けると詠唱を始める。 それを余裕の表情で見詰めるエルザ。 ミューラはそのまま表情を全く動かさずに、 かんごく ﹃陥獄﹄ と平坦な声で魔術名を唱えた。 ﹁ぅえぇっ!?﹂ がこん、とエルザが立っていた地面が陥没し、そして膝までが埋 まった。 ﹁ちょっ、何!? 抜けませんわ!﹂ 伯爵令嬢で、一〇代半ばともなれば立派な淑女だ。素っ頓狂な声 を上げてしまえば普通は恥辱となる。しかし、エルザはそれどころ ではなかった。足が完全に埋まっていたからだ。 ただの土にしか見えないが、魔力で固定された土である。抜け出 1638 すには術者が込めた魔力以上の力が必要になる。 ﹃陥獄﹄。地属性の初級拘束魔術である。発動は速いが必要とす る魔力が多く使い勝手は意外と悪い。魔術を発動するための魔力以 外に拘束にも魔力が必要だからだ。潤沢な魔力があるミューラやレ ミーア、奏レベルの魔術師ならば実用も可能だが、中の中や中の上 のレベルだとやや厳しいだろう。 ﹁ふんぬー!﹂と淑女にあるまじき気合の入った声を出しつつ何 とか抜け出そうとするエルザ。しかし分が悪い。ミューラはエルザ の模擬戦闘を見て、彼女の魔力量や魔力強度をおおざっぱに予測、 どうあっても破られないであろうというマージンを踏まえた上で魔 術を使用したのだ。 ︵愉快な子ねぇ⋮⋮︶ ミューラの正直な感想だ。少しおバカにも見えるエルザ。貴族ら しく尊大なところがあり、英才教育の賜物か知識も実力もクラスで は間違いなく上位レベルだが、抜けている部分も多い。何となく憎 めない感じの女の子である。 ﹁なっ、何ですのこの魔術は!?﹂ ついに脱出を諦めたのか、エルザはミューラに鋭い目を向けた。 ﹁地属性の初級魔術よ。使う﹁だけ﹂なら別段難しいことは無いわ﹂ ﹁初級、ですって!?﹂ そう。少なくても、エルザは並の初級ならば軽くいなせるだけの 実力者だ。それはミューラも承知しているところである。彼女にと って不運だったのは、ミューラが使う初級魔術が並なわけがないと いうことだろうか。もっともそれをエルザに察しろというのはどだ 1639 い無理な話だが。 ﹁そうよ。地属性魔術の魔導書を読んでみれば、最初の方に記載さ れているわ﹂ ﹁くっ⋮⋮!﹂ 確かめたわけではないものの、ミューラの物言いにそれが本当だ と気付いたのだろう。エルザは悔しそうな顔をした。 ミューラは周囲には一切関心を向けていないが、この模擬戦闘を 見詰めている生徒たちは皆絶句していた。クラスでも上位であるエ ルザが、こうもあっさりと拘束されて身動きを封じられるなど、今 までは一切無かったことなのだ。 ﹁さて。その状態でも、あたしに向けて魔術を撃つチャンスはあっ たはず。それをしないってことは、されるがままと解釈していいの ね?﹂ ﹁へ? ⋮⋮あ﹂ ミューラが発言と当時に火球を一つ宙に生み出す。ようやく己の 失態に気付いたのか、エルザは口を真ん丸に開けて呆けている。 ﹁行くわよ﹂ ﹁お、お待ちになって?﹂ ﹁実戦じゃ、魔物は待ってくれないわ﹂ ﹁そうでしたわ! ぼ、防御けっきゃあああ!﹂ 火球が直撃。小規模な爆発が起こり、エルザが黒煙に包まれた。 ﹁そうでしたわ、じゃないわよもう⋮⋮﹂という、呆れと苦笑を浮 かべながら呟かれたミューラの言葉は、爆音にかき消された。いつ もならそんな間抜けな相手には冷たい視線を向けるところだが、ど 1640 うにもエルザが憎めずにミューラは苦笑してしまう。 この程度の破壊や魔術の直撃は模擬戦闘の授業では珍しくもなく、 別に誰かが何かを心配したりはしない。 今までと唯一違うのはその直撃を受けたのがエルザである、とい う点か。 ﹁どう? まだやる?﹂ ﹁⋮⋮けふっ﹂ 黒煙が晴れる。 泰然と立つミューラと、相変わらず膝まで地面に埋まったまま煤 だらけになったエルザの姿。 一つせき込むと、エルザの口からは黒い煙が上がった。 ﹃ファイアボール﹄を直撃させるにあたり、ミューラはもちろん 手加減をした。纏う衣服には攻撃が当たれば全身を守る付与術式が 仕込まれているとはいえ、それが完璧という保証はどこにもない。 ミューラは術式を組み換え、直撃しても火傷や爆発の衝撃は受け ず、黒煙の発生量を多めにして煤だらけになるようにしたのだ。見 る者が見れば、無駄に洗練された無駄のない無駄な高等術式でもっ て撃たれた﹃ファイアボール﹄だったと分かるだろう。 ﹁ま、参りましたわ⋮⋮﹂ ﹁そう?﹂ 降参の意志を聞いたミューラが、エルザを拘束から解放する。膝 から下は土まみれ、膝から上は煤だらけという、伯爵令嬢にあるま じき姿で﹁orz﹂の姿勢で落ち込むエルザであった。 ◇ 1641 やはり、宮廷魔術師の弟子、という肩書は伊達ではなかった。 初日にそういった評価をクラス中に与えた太一たちは、オレンジ 色に染まり始めた空の下を、夕日を背にして連れ立って歩いていた。 ﹁ふう。終わった終わった﹂ 太一たちは、学園から遠い位置にある、とある高級宿に向かって 歩いている。そのため、現在歩いている周囲に学園の生徒はいない。 もう一つ、学園内に寮が用意してあり、普段はそちらで寝泊まり をする。わざわざ寮があるのに学園の外に宿というのも不自然なの で、まあ当たり前と言えば当たり前だ。 では何故、授業が終わったのにわざわざ学園から遠い宿に向かっ ているか。ベルリィニ侯爵に会うためである。侯爵が人と会うのに 使う宿が普通では困るのは、彼の社会的地位を考えれば当然である。 ﹁久しぶりの学校だったね﹂ 奏は感慨深げに応じる。 そう、実に久しぶりである。これまでは朝学校に登校して夕方家 に帰るというサイクルが当たり前だったのに、この世界に来てから 冒険者として過ごすようになってかなりのなつかしさを覚えていた。 ﹁あたしにとっては不思議な感じね。でも、いい経験になるわ﹂ ミューラが授業について言っているのではないと、太一と奏は分 かっている。 彼女は物心ついた時からレミーアの元で学んでいる。その基準の 高い教えを受けたミューラにとって、学園の授業は退屈だろう。 しかし、たとえ授業が退屈でも、あの空間あの雰囲気で得られる 経験は得難いものだ。 1642 特に、同年代との交流が少なかったミューラには新鮮だろう。 ﹁依頼そのものは面倒だけど、受けてよかったかもな﹂ 太一の言葉に、奏もミューラも頷いた。 レージャ教の動向を探り、その企みを潰すという仕事は非常に面 倒である。 現状、手掛かりとなりそうな事柄は提示されているものの、どう やってそこに辿り着いていくか、それが手掛かりかどうかなど全て を自分たちで一つ一つつぶしていくしかないのだ。 流石に初日から事態を動かすようなことは出来ない。 今日はクラスの皆と交流する、その一点に主眼を置き、成功した と言えるだろう。 まあ、そういう難しい話を抜きにしてもだ。 ﹁タイチとカナデは、ずっとああいった場所で学んでたのね﹂ ﹁私たちにとってはずっと慣れ親しんだ空気だからね﹂ ﹁そうだな。もう何年も通ってないような感じもするけどな﹂ 異世界アルティアに来て早数ヶ月。 怒涛の日々を過ごしてきた。日本にいた頃は考えられないような 濃密な月日は、たった数ヶ月を数年にも感じさせる。 そんな、郷愁にも似た感覚に浸る太一と奏。 二人を見詰めるミューラ。彼女は、彼らとその感覚を共有出来な いのが少し残念に感じていた。 そんな感情は違う。すぐにそう思い直す。この世界に自分の意思 とは関係なく喚び出された二人にとって、今が幸せかどうかは分か らない。元の世界で生きていた方が幸せだったかもしれないのだ。 そして今、こうして共にいられるのは自分にとっては間違いなく 良いことで、幸せであると。太一と奏がこの世界で過ごす日々にど 1643 んな感情を持っているかは分からない。もしかしたら、負の感情を 抱えているのかもしれない。例えそうだとしても、二人と共にいて 幸せだと、ミューラは思わずにはいられないのだ。 ミューラは、自分が臆病であると思っている。今までは、人に﹁ どう考えているか﹂を問うことに何も感慨を感じなかった。 だが、今は問うのが怖い。太一と奏に、この世界にいて幸せか、 と問うのが怖いのだ。 ミューラ自身は気付いていない。それは、相手が大切だからこそ 抱く恐怖だと。嫌われたら怖い。本音を聞くのが怖い。人が当たり 前に持つ感情である。 ふと会話が無くなり、静かに歩くこと数分。 ﹁ん?﹂ 太一たちの進行方向に立っている少女が目に入った。 少女はこちらを向いて、何をするでもなくただ立っている。太一 らが近付いても、一向にその場をどく気配が無い。 避ける気はないのか。 それならこちらが避けるだけだ。 太一が右へ、奏とミューラが左へ避ける。 道に立っている少女を真ん中に通り過ぎた。その、直後。 ﹁キミが、召喚術師?﹂ 周囲には聞こえないような声量で。 太一たち三人には聞こえるような声量で。 召喚術師、と。 その少女は、確かにそう、言った。 ﹁⋮⋮っ!?﹂ 1644 太一は素早く奏とミューラを少女から庇うように立ち、剣の柄を 握った。 あっという間の早業。ふと後ろを見れば、奏とミューラも臨戦態 勢だった。 ふと見れば、周囲には一切人がいなかった。 何故だ。先程までは普通に人の大往来だったはず。 夕方、買い物に走る主婦や、仕事を終えて飲みに行こうと笑う男 たちの喧騒が耳を打っていたはずなのに。 ﹁ふふ。そんなに警戒しなくてもいいよぉ﹂ 少女はゆっくりと振り返った。 逆光でやや見にくい。 見にくいが。 ﹁⋮⋮﹂ 凄まじいまでの美貌だった。 夕焼けで分かりにくいが、少女は濃い茶色の髪がシャギーのよう になっている。 背は太一の胸辺りまでしかない。下手をすれば子供にも見える背 丈。 体躯からすれば少女にしか見えないのに、彼女の胸は大きく膨ら んでいる。胸だけでなく、くびれた腰や大きいお尻は大人の女性そ のもの。 背が低いがグラマーな体型の女性。トランジスターグラマーとい うんだっけ、と思考の片隅で感想を持った。 ﹁何だ、君は﹂ 1645 ﹁何だ君はって?﹂ 少女はにっこりと笑う。 無邪気な笑みだった。和むか、或いはその女性らしい身体に気付 けば赤面してしまうほどの魅力的な笑み。 ﹁教えてあげてもいいんだけどぉ。まだその時じゃないかなぁ﹂ ﹁⋮⋮﹂ 人を食ったような態度。 彼女自身はあくまでも今のスタンスを崩す気はないのか、ニコニ コしている。 ﹁大丈夫だってばぁ。ボクは君たちに危害を加えるために来たんじ ゃないよぉ?﹂ 少女は両手を広げた。合わせてプルンと胸が揺れる。 いつもの太一なら思わず目が行ってしまうだろう。だが、今はと てもじゃないがそんな気にはならない。 言葉では言い表せない。 敵意も害意も、少女が持っていないのは分かる。 もしも彼女が敵ならば、太一の相棒が黙ってはいないだろう。し かし彼女は黙ったままで、特に警告を発するなどはしていない。 人間とは別の次元の存在であるシルフィが危機を感じていない以 上、目の前のグラマーな美少女は敵ではないのだろう。 それでも太一が、構えた身体を弛緩させられないのは、ただ、彼 女から感じる、隠そうともしていないだろう圧倒的な存在感が原因 だ。 ﹁まあ、無理な注文だったねぇ。ごめんね?﹂ 1646 首を傾げ、少女はふと自分が纏う空気を緩めた。 瞬間、膝が折れそうになるのを、必死にこらえた。自分でも気付 かぬうちに凄まじく気を張っていた。 それは太一だけではない。後ろの奏とミューラも同じだった。 三人の様子を見て、少女がクスクスと笑う。 ﹁笑ってごめんねぇ? ボクのことは⋮⋮んーと、ミィって呼んで ?﹂ ミィと名乗った少女。その美貌と不釣り合いな身体つきが醸し出 すアンバランスな可愛らしさを表しているかのようだった。 ﹁⋮⋮じゃあ、ミィ。俺たちに、何か用か?﹂ ﹁んーと。ボクが用があるのはキミだけだよ。召喚術師の男の子ク ン?﹂ 本人にその気があるのかは分からないが、何となく小ばかにされ た気がする。 そう思うのに、それを取り上げて怒る気にはなれなかった。 つい先ほど、あれだけ圧倒されたばかりなのだから。 ﹁俺に用、か。じゃあ、用件を聞こうか﹂ ﹁ダメだよ﹂ ﹁ダメ? 用があるんだろ?﹂ 用があると言っておきながら、その用事を聞こうとすればダメ、 と帰って来る。その矛盾に、太一は内心首を傾げた。 ﹁うん。用があるのは確かなんだけど、今のキミじゃダメかなぁ﹂ 1647 ﹁今の俺じゃあダメ? どういうことだ?﹂ ﹁だって﹂ その声は、耳元から聞こえた。 ふと、気付く。 目の前で話していたはずの少女の姿が、見えなくなっていると。 ﹁ホラ。もう油断して、ボクにここまで入られてる﹂ つい、と、顎に指先が触れる感触。 伸ばされた指の元を目で辿れば、少女が太一の左肩に右手だけで 乗り、左手で顎に触れているではないか。 相変わらず邪気のない少女の様子。 太一は息が苦しいと気付いた。吸えない。吐けない。 緊張のあまり、呼吸が、出来ない。 ﹁ボクの審査はキビシイよぉ? あの子みたいに甘くないからねぇ ?﹂ ハッとして前を見る。 ミィは、先程まで立っていた場所にいた。 思わず左肩を見るも、もうそこに少女の姿は影も形も無い。 ﹁⋮⋮﹂ じんわりと背中に嫌な汗を感じる。 無意識のうちに止めていた呼吸が再開したのか、自分の浅く速い 呼吸音を遠くに聞いていた。 ﹁ふふふ。だぁいじょうぶ。きっと、キミはボクの目にかなうよぉ﹂ 1648 だから、と。 少女は人差し指をピッと立てて、左右に二度振った。 ﹁だから、もっと磨いてね?﹂ 最後に、ミィはもう一度にっこりと笑うと、すっと踵を返して歩 いて行った。 ﹁⋮⋮はっ⋮⋮。何なんだ、今のは⋮⋮﹂ 少女の後ろ姿が見えなくなってしばらくしてから、太一はそうご ちた。 冷や汗が一筋、彼の頬を流れ落ちる。 太一の言葉に、奏もミューラも答えることは無い。 ただ、周囲の喧騒が、いつの間にか戻ってきていた。 1649 帝国立魔術師養成学園の騎士候補生 五︵後書き︶ エルザさんは作者のお気に入りです。 ○お知らせ○ 読者様全員が活動報告をご覧になるわけではないと思うので、こち らに書きます。 WEB版の更新よりも書籍原稿の執筆を優先させていただきます。 そのため、書籍作業の進捗によっては更新が一、二ヶ月間が空くこ ともありますのでご了承ください。 よろしくお願いいたします。 1650 帝国立魔術師養成学園の騎士候補生 六 もう日が落ちてずいぶん時間が経った。 軋む扉を開けながら、アクトは立て付けが悪くなったな、と思う。 木造平屋、スラムと住宅街の境目にある、築年数も分からないほ ど古い家。アクトと母の寝室、それにダイニングがあるだけの、さ して広くもない家である。 玄関のドアも以前直してから暫く経っている。また調整が必要だ と考えつつ、玄関をくぐった。 ﹁ただいまー﹂ ﹁おかえり﹂ 即座に返る柔らかい声。 キッチンに立つ、アクトにとって唯一の家族である母が、振り返 って応じた。 いい匂いが空腹を刺激する。 ﹁お腹減ったでしょ。すぐご飯にするから着替えていらっしゃい﹂ ﹁うん、分かったよ、母さん﹂ この匂いをかがされては辛抱たまらないとばかりに、アクトはす ぐさま寝室に入って着替える。その背中を横目に追った母は、アク トの尻尾がふぁっさふぁっさと揺れる様をみて微笑む。 そんな母の視線など露知らず、ジャケット、ワイシャツと脱ぎ、 スラックスから足を引っこ抜く。 露になる肢体は起伏には乏しいものの、年頃の男子から比べれば 明らかに線が細く、柔らかさに溢れていた。 タンスから無造作に取り出した白のラフなシャツと、ライトピン 1651 クの膝丈スカートに身を包めば、アクトのオフ姿の完成だ。 ﹁母さん、ご飯は?﹂ ﹁もうすぐ出来るから。先に手を洗ってらっしゃい﹂ ﹁はぁーい﹂ へとへとの身体はエネルギーを欲している。 さっさと手を洗って食卓に戻れば、食事が配膳されているところ だった。 ﹁さあ、食べなさい﹂ ﹁いただきまーす!﹂ 今日のメニューはよく煮込まれた鳥肉のシチューと黒パン。特段 高級ではないものの、バスベル家ではご馳走だ。 早速それに手をつけながら、アクトはゆったりと食事をする母に 顔を向けた。 母は近所の定食屋で働いている。 今日は久々の休みだ。基本的には二週間に一度の休日。本当はも う少し休んでほしいが、給金などたかが知れている。 アクトを育てつつ学院にまで通わせてもらっているのだ。とやか く言ったところで、現実的にはアクトの願いは叶いそうもない。 それに、アクトの母、リシェルは幸運な方だろう。女手一つで子 供を育てていくには、この世界は過酷である。 例えば経緯はどうあれ夫と別れる羽目になり、場末の酒場でウェ イトレスという名目で、娼婦紛いのこともしなければ日銭すら稼げ ないシングルマザーの話だって、決して珍しいものではない。まし てやアクトの母の容姿は優れている方だ。職場が酒場なら、そうい った需要を満たすために駆り出されても不思議ではないだろう。そ して、その結末は決して人に優しくはない。 1652 だからこそ誓う。学院に通っている間に力を付け、冒険者となっ てお金を稼ぐ。そして、母には家で暇をもて余す毎日を過ごしても らうのだ。 そういう意味では、今日刃を交えた転校生。彼との時間はとても 有意義だった。 アクトとて生温い鍛え方はしていない自負があるが、彼はさらっ とその上を行った。 ﹁ボクと、どのくらい差があるんだろう﹂ 食事を終えてベッドに身を投げたアクトは、ぽつり呟いた。 自分の実力を、客観的な基準で正確に把握している訳ではない。 まあ、多少はやれると思っている。街中をうろつくチンピラの二、 三人なら、無手でも無力化に手間取ったりはしないだろう。 学園では冒険者ランク換算でEだと言われている。戦闘力がある だけでは評価されにくい冒険者ランクだ、妥当なところだろう。 それに、あくまで﹁換算﹂であり、﹁通用するだろう﹂という評 価にすぎない。実地の空気を肌で感じたことはないし、まだ本物の 殺気を受けたこともない。 ﹁まだ、全然ダメだ。もっと、もっと﹂ 刃の直撃を恐れずに済む学園生と、相手の刃がそのまま命に関わ る実地に生きる冒険者。 同じ実力の者同士だったとして。訓練なら学園生にも目はあるが、 命の奪い合いになれば冒険者には太刀打ちできないとアクトは考え る。 そしてそれは、間違っていないのだ。 例えば太一との訓練ではなかなかの動きを見せたアクト。しかし、 もしも命の奪い合いという戦いをしたとき、太一の知り合いである 1653 Eランク冒険者、アレンに勝てるかというと厳しいのだ。動きその ものはアクトの方が良いが、実戦の空気に当てられて動きは平素の 半分も出来るかどうか、さらに咄嗟の判断力も鈍る。最初から実地 で揉まれてきたアレンの方に、一日では埋められない長がある。 実戦経験を積むカリキュラムはもう少し先の話だ。失敗を取り戻 せなかった時に命を失する可能性があるという実技授業は、二度昇 級しないと受けられないため。さらに、実技経験で一定の成績を納 めねば冒険者としての登録も許されない。 アクトは三年生。 もうじき、その訓練をする機会が訪れる。 ﹁そのためには⋮⋮もっともっと、鍛練を積まないと⋮⋮﹂ 経験はこれからなのだ。今は積んできた下地をより洗練するしか ない。 ﹁ボクはあの時⋮⋮だから、ああして⋮⋮﹂ タイラーとの戦闘訓練を思い出し、何が悪かったのか、もっとい い手がなかったかと思い出す。 そう間をおかずに。 アクトの寝室からは、彼女の安らかな寝息が聞こえてきたのだっ た。 ◇ 太一の貴族に対する先入観を端的に言おう。傲慢。不遜。我儘。 自分の実家の権力を笠にきる。時には、思い通りにいかないことを 家の権力でねじ伏せる。 そんな身もふたもない印象が強い。その根源は、日本に溢れてい 1654 たエンターテイメントが原因だ。横柄な権力者という、主人公の敵 としては分かりやすい存在。 そういった相手をやり込めて勝利を収め、辛酸を飲ませるストー リーは国を問わず人気があった。 それゆえの、﹁貴族とは横暴である﹂という先入観だったのだが、 この世界に来てからは価値観が変わりつつある。 敵になる権力者がいる一方で主人公の味方をする権力者いたりと、 そんなダメな貴族ばかりではない、という描き方をされる創作物も あったが、まさにその通りだと太一は思うのだ。 貴族の子女にはやはり幾つかの種類があるらしい。 対面のソファに腰かける淑女を前に、太一はそんなことを考えて いた。赤みがかったウェーブのブロンドを腰まで伸ばした、見るか らにお嬢様然とした少女。ブロンドの下には見事に整ったかんばせ が。太一たちより二つ年上らしいが、この世界の人間の精神的成熟 は現代日本に比べて早い。たった二つの年の差なのに、たおやかな 佇まいは大人といって差し支えない。なお、彼女は肉体的な成熟も 凄まじい。グラマーさではレミーアに迫るのではなかろうか。 彼女の名はエルメリア・ケンドル・ベルリィニ。 太一らの面倒を見るベルリィニ家の長女である。 エルメリアーーメリアは学園に通う学生だ。帝国内での太一たち のフォローは皇帝が行い、ベルリィニ家は太一と皇帝の橋渡し役で ある。そして、メリアは学園内での太一たちとベルリィニ家のパイ プであると。 辿り着いた高級宿のスイートルーム。そこで待っていたのは侯爵 ではなく、その長女のメリアだった、というわけだ。 ﹁誠、申し訳ございません。父は火急の事案によって登城せねばな らなくなりました。よってわたくしが代役を勤めさせて頂きますわ﹂ とは、一通りの自己紹介が終わった直後のメリアの言葉である。 1655 此度の会談は、太一たちにメリアを紹介する、というのが一番の 目的だったようであり、彼女本人でも問題はなかったのだ。 ﹁ふぅん。つまり⋮⋮保守派は今アクトに目を付けている、という わけね﹂ これで一つ疑問は解決だ。何故アクトが教室で孤立気味だったの か。 アクトが保守派に目をつけられているというのは、学園内では公 然の秘密状態だからだというのだ。 ﹁ええ。その通りです﹂ メリアは少し苦い顔をして、ミューラの言葉に頷いた。 因みに、ミューラが侯爵令嬢に対して敬語を使っていないのは、 メリアがそう頼んだからだ。気安く接してもらった方が気が楽なの だそうだ。その辺も、貴族とは様々だと太一が実感した理由の一つ である。メリアが太一たちに対して敬語を使うのは、彼女のスタン スであり気にする必要はないようだ。 ﹁じゃあ、何でアクト君が狙われるようになったか、なんだけど⋮ ⋮﹂ ﹁アクトがベルリィニ家現当主の隠し子であることが、どこかから 保守派に漏れた﹂ 奏が呟き、太一が応じる。 ﹁今はまだ、保守派のごく一部、上層部しか握っていないようです が﹂ 1656 そう、保守派の連中がアクトを無視したりしている理由について は、彼らはまるで知らないのだ。これは、メリアが自身が持つパイ プを利用して得た確かな情報だという。 事実を隠し、ただ﹁上からの指示だから﹂という理由だけで派閥 の下っぱが動いている。 指示を出す立場の人間に影響力があるからこそであり、それはそ れで厄介と言えた。 ﹁でも、何でそれを明かしてないんだろうな?﹂ ﹁手札としてちらつかせるだけでも、効果十分、ってことよ﹂ ﹁えーと、つまり?﹂ ﹁太一。こんな例えはどう?﹂ 奏曰く。 大富豪をやっていて、相手が手札を誤ってぶちまけた。手の内が 見えたのだが、そのプレイヤーは革命を起こせる手札を持っていた。 今は順当に上がれる道筋が出来ているが、革命を起こされると勝 負の行方は分からなくなる。故に警戒せねばならず、場合によって は組み立てた道筋を崩す必要も出てくるだろう。 ーーと。 ﹁手の内をあえて使わない、という攻撃もあるわけだ﹂ ﹁そゆこと﹂ ﹁カナデの﹃大富豪﹄はよく分からないけれど、タイチが理解でき たならいいわ﹂ とんとんと状況を理解され、メリアは用意してきた説明用のスピ ーチをそっと頭の中で削除した。やはり必要なかったか、そんな思 いと共に。 彼らが聡明というのは父からの前情報で分かっていたことだ。だ 1657 が、それでも念のため、と用意してきたのだ。 ﹁ふむ。それで、ベルリィニ家としては、とりあえず学園内でのア クトの安全に気を配ってほしい、と﹂ 姿勢を正して太一らに向き直るメリア。 ﹁はい。理由と致しましては⋮⋮密かにつけていたアクトの護衛が、 先月死亡していたからです。遺体を検分した当家の密偵によれば、 明らかに他殺、とのことでした﹂ 聞けば、殺されたのはCランク冒険者レベルの密偵だったという。 その密偵の死体が、学園内で発見されたと。 アクト自身に危害が加えられた形跡はないため、これは警告の可 能性が高い。アクトに危害を加えるのはいつでもできる、という、 今はおぼろげでしかない敵からの。 ﹁⋮⋮学園内だけでいいの?﹂ そこまで聞いて、この疑問が出るのは当然であろう。アクトは寮 ではなく学園から少し離れた家に母親と二人暮らしだという。そこ で襲われる危険はないのだろうか。 そんな意味を含んだ奏の言葉に、メリアは無念そうに首を振った。 ﹁本音を言えば学園外でも護衛していただきたいのですが⋮⋮流石 にそこまですると不自然すぎます。当面は当家の精鋭で学園外のこ とは引き受けますので、皆さま方には学園内でアクトを気にかけて 頂ければ﹂ 太一たちとしても、四六時中アクトに張り付くのはあまりに不自 1658 然だと理解したため、この場は反論を飲み込んだ。 ﹁それで、方法は? 単に仲良くなればいいのか?﹂ 護衛といっても、学園内でアクトのそばに常に控えているのも変 である。しかも、アクトは周囲に対して何か壁のようなものを作っ ていると感じていた。 故の疑問だった。 ﹁それについては、皆様がアクトの味方である、という意識を学園 生に印象付ければとりあえずは良いかと考えています﹂ アクトは自分から他の生徒に絡むことはない一方、正義感が強い 一面も持っているという。理不尽な行いは許せないと考えるより身 体が動いてしまう、と。 そして、学園ではそういったいざこざは少なからず頻発するのだ と、メリアは残念そうに告げた。下手をすれば毎日起きる、とも。 つまり、いざこざに首を突っ込んだアクトの味方につけばいいら しい。 ﹁なるほどな。そういうことなら、不可能じゃない﹂ シルフィに頼み、何かあったら知らせてもらえばいい。いつどこ でそんな事態に遭遇するか分からない以上、必然を偶然として装う 必要があり、太一はそれを実行できるのだ。 ﹁それは⋮⋮素晴らしいです。やはり、精霊様のお力を?﹂ メリアの疑問には答えずに、太一は軽く笑って見せた。その通り だと、表情で語って。 1659 メリアは一度目を丸くし、その後ほっと安堵のため息をついた。 ﹁アクトの護衛については分かったわ。ところで、その件は、レー ジャ教と何か関係あるのかしら﹂ 話を聞いていたミューラが問い掛ける。 メキルドラから受けたそもそもの依頼内容は、帝国に突っ掛かる レージャ教の対応だ。 しかし、今までの話ではレージャ教にワンタッチすらしていない。 アクトの護衛をすることに異論はないが、レージャ教について調べ なくていいのか、と。 ﹁問題ございません。アクトの護衛任務は、レージャ教に遠いよう で結び付いている可能性があるのです﹂ ﹁へえ? そうなのね﹂ ﹁はい。ついこの間のことですが、保守派を動かしているのがレー ジャ教であるとの情報を掴みましたから﹂ 侯爵家ともなれば、それなりのネットワークや動かせる人員もあ る。その情報筋は信用できるものであり、信憑性は高いとのことだ。 ﹁レージャ教がアクトを狙うように仕向けているかまでは分かりま せん。しかし、全く関連がないわけではないとわたくしは考えてい るのです﹂ ﹁なるほどね。アクトの周囲が固くなると、相手がより動いてくる 可能性が出てくるんだ﹂ ﹁その通りです﹂ 納得した様子を見せる奏。太一とミューラも頷く。 1660 ﹁引き続き、わたくしが現場で先頭に立って情報収集を行います。 皆様に本格的に動いて頂くのは、お膳立てが済んでからとなるでし ょう﹂ ん? と太一は一瞬止まった。 今メリアは何と言った。 現場で、先頭に立つと言わなかったか。 太一のそんな疑問を表情から読み取ったのか、眼前のお嬢様は穏 やかに微笑んで見せた。 ﹁わたくし、こう見えて斥候や諜報の能力を磨いていますの。戦闘 においても、学園屈指と自負しておりますわ﹂ この学園の、現時点でのトップレベルの生徒は冒険者ランク換算 でBだったと記憶している。それが本当なら相当なものだ。 メリアの得物は双剣だという。双剣は手数で攻める苛烈な武器だ。 淑やかな見た目に反して、ずいぶんとアグレッシブである。 ﹁お転婆だな⋮⋮﹂ ﹁ふふ、褒め言葉として受け取っておきますわ﹂ ベルリィニ侯爵家は肉体派である。長女のメリアはもちろん、長 男は二二の若さながら実力で騎士団の副隊長の座を射止め、現当主 のセロフも昔は剣の達人として名を馳せ、今もその腕は衰えを知ら ぬという豪の一族である。 それでいて頭脳労働も苦にしないというのだから、二物を与えら れた者もいるものである。 1661 帝国立魔術師養成学園の騎士候補生 七︵前書き︶ 重版記念に久しぶりの投稿。 お待たせしましたー。 1662 帝国立魔術師養成学園の騎士候補生 七 この世界においても、ペットを飼う、という概念は存在する。 旅をした先で牧場を見ることはそれなりにあったし、牧羊犬で家 畜をコントロールしているところもあったのだ。 だから、奏の胸元から黒猫がぴょんと顔を出していても、特に違 和感はない。 ずっと宿にいるのは退屈だととうとうごね出したカリーナを宥め るために提示した折衝案は、﹁大人しいペットとしてならいいよ﹂ だった。 猫なのは見た目だけで、人間の人格を持っているカリーナにはい ささか失礼ではあったが、提示した奏の配慮を察したのか、二つ返 事で了承した。 一般的に考えて、仮にカリーナが﹁喋る猫である﹂というのが露 見すれば面倒なことになるのは避けられない。そんな面倒事は個人 的にもごめんであり、目立つなら目立つで、計画通りにしなければ ならない。 かくして、リーリンになついている猫、という体で行動を共にし ているのである。 そんなことを考えていたのだが、それは現状とはなんの関係もな い。言ってみれば、現実逃避していたからだ。まさかそんなことは ないだろう、と高をくくっていたはずが、今目の前で現実として起 きているために。 ﹁本当に翌日とは思わなかったなあ﹂ 太一はその先で広がる光景に呆れともつかないため息をついた。 ﹁同感だよ﹂ 1663 ﹁見てきたかのように言ってたものね﹂ ﹁にゃあ﹂ 太一の言葉に同意する奏とミューラ。カリーナもそうだと言わん ばかりに一鳴き。 二人も太一と同じく﹁まさか﹂という思いだった。 これでは、本当に毎日起きているということではないか。 あっち、と訴えるシルフィに従い来てみればこの結果である。 三人が立っているところから、距離にしておよそ一〇〇メートル 強。行き交う人波の間を縫うように、時折見える人垣。 人垣に遮られ、その中心に誰がいるのかは分からない。だが、強 化を施した聴力であれば、聞き取ることはそう難しくはない。 太一が聞いたところ、ざわめきの中、目的の人物の声が確かに聞 こえた。 聞き間違いかと奏、ミューラにも確認したが、二人も同じ声を聞 いたという。しかも、台詞の内容まで一致というおまけ付けだ。 目線でやり取り。介入するか否か、である。 ここで介入すれば、大きな注目を浴びる。それが、プラスに働く のか、はたまたその逆か。 答えは、すぐに出た。 ﹁これはチャンスね﹂ と言う、ミューラの一言によって。 彼女が何を言いたいのか、太一も奏も正確に理解していた。 介入決定である。 三人は、人だかりに向かって歩き出した。 1664 アクト=バスベルは、目の前でにやつく五人の生徒たちを睨み付 けた。 先程までこの生徒たちに囲まれていた少女を背中にかばい、アク トは強い姿勢を崩さない。少女の頬は赤く腫れ、制服に砂ぼこりが ついている。それが、アクトを退かせない大きな理由でもあった。 ﹁やれやれ、君か。噂は聞いているよ。いい加減、私たちの邪魔は 止めてくれないかな?﹂ 五人の真ん中、先頭に立つ金髪を撫で付けた青年が柔らかな物腰 で声を出す。 もっとも柔らかなのは物腰だけで、その眼は人を人と思わない、 見下したものだった。 ﹁邪魔だって? よってたかって一人の女の子を苛めておいて、そ れを見逃せっていうのか?﹂ 変なことを言ったつもりはない。苛めなど許せるものではないの だ。 だが。 ﹁見逃せ? 何故対等の物言いなのか理解に苦しむな﹂ ﹁⋮⋮何だって?﹂ ﹁慎んで受け入れる。それが当然だ。立場の違いを理解したまえ﹂ アクトは返す言葉をなくした。選民意識。排他主義。なんでもい いが、彼はそれが当たり前だと思っている。 ﹁君が、貴族だからか?﹂ ﹁当たり前すぎて答えるのもくだらないが、まあ、そういうことだ 1665 ね。彼女は私に対して罪がある。償わなくてはならないのだよ﹂ ﹁だからって暴力を振るう必要はないだろ!? 心を込めて謝罪さ れたら、それを受け取れば済む話じゃないか!﹂ ﹁分かっていないな﹂ 青年は首を振って笑った。アクトには、表情が歪んだようにしか 見えなかったが。 ﹁私は伯爵家の次期当主だよ? たかが平民が本来話すことも許さ れないのだよ。なのに彼女は、平民でありながら私の期待を裏切る という暴挙に出た。誠意を持ってその身を捧げ、奉仕することでし か償うことは出来ない﹂ 青年は次々と言葉を繋ぐ。彼の後ろにいる取り巻きたちはにやに やと笑いながら頷いている。 理解が、出来ない。 ﹁平民は、私たち高貴なる血によって生かされていることを理解し なければならないのだ。理解していない平民には、それを教育する のも、私たち高貴なる者が負う義務だよ﹂ 彼は、何を言っているのだろうか。 よってたかって、複数で一人を責め立てるのが、暴力を振るうの が貴族の義務だと、彼は本当にそう思っているのだろうか。 一度静かに、上がった熱を外に出すように息を吐く。 アクトが考えなければならないのは、この少女を無事に逃がすこ とだ。相容れない価値観に熱くなるのは本題から外れたこと。今は 必要ない。 どうにかして隙を作らなければ。 彼女が逃げやすいタイミングを模索する。 1666 ︵⋮⋮ん?︶ 必死に考えを巡らせていると、ふと、伯嫡男に歩み寄る取り巻き の一人。彼は青年の耳元でヒソヒソと幾つか言葉を流す。それを受 けた青年はふう、とため息をついた。 ﹁⋮⋮ふふ、まあ、いい。卑しい平民でありながらこの私の前に立 ちはだかった君の勇気に敬意を表して、今日のところは引くとしよ う﹂ ﹁⋮⋮え?﹂ アクトの思考が追い付かない。先程まで勢いが良かった彼は、捨 て台詞を吐いてこちらに背を向けようとしている。 あれだけ権威を振りかざしていたのだ、今さらアクト相手に怖じ 気づいたとは思えない。では、何故。 ﹁あれ、何だ。行っちまうのか﹂ ふと背後からかけられた声。 ぴくりと反応し、足を止める伯爵家嫡男。 バッと振り返ると。 そこには、エリステインから留学しに来た三人組。 人だかりが自然に割れていく。エリステイン宮廷魔術師の弟子と いう彼らの肩書き、そして、ここに編入してから見せつけた並々な らぬ実力の端々が、遮るものを無くさせていたのだ。 足を止めた伯爵家一行。その中心人物はくるりと振り返り、タイ ラーに向き直った。 ﹁君たちは例の編入生だね。話は既に私のところにも届いている。 1667 素晴らしい実力を持っていると聞いているよ﹂ ﹁それはどうも﹂ 掛けられた言葉に対して、返事は素っ気ないもの。反応するかと 思われたが、それはなかった。 ﹁君たちほどの力なら、是非欲しい。私が家を継いだ暁には、側近 として力を振るう気はないかな?﹂ ﹁生憎だけどさ。あんたの右腕って地位は、エリステインの宮廷魔 術師って肩書きと比べて、上回るもんなのか?﹂ ガルゲン帝国には、伯爵家は複数ある。実力ある者を登用してい る家はたくさんあるだろう。だがそれは、王家、公爵家、侯爵家の 順で収穫された畑の残り物である。タイラーたちの力をその目で見 たわけではないものの、優秀な子飼いの魔術師が喉から手が出るほ ど欲しい伯爵家としては、伝聞だけでも勧誘の価値があった。 対して、エリステイン魔法王国の宮廷魔術師。魔力量、魔力強度 で群を抜く才を要求される上、それはあくまでも最低条件という、 狭く、厳しい門だ。場合によっては貴族の爵位よりも価値があると 言われる王国宮廷魔術師。 その夢を蹴ってまで、ついていくだけの価値、カリスマを、お前 は示せるのか。 タイラーは言外にそう告げたのだ。 貴族という地位を歯牙にもかけないその態度。横にいる二人の少 女も、タイラーを咎めはしなかった。 明らかに面白くないだろうに、伯爵家の跡継ぎは﹁分かっていた﹂ と言わんばかりに薄く笑うだけだ。 ﹁ふむ。そう言われると流石に分が悪い。君たちの勧誘は難しそう だ﹂ 1668 ﹁わかってくれて嬉しいよ。他の貴族からも同じことを言われるん だけど、あんたのようにすぐに解ってくれる奴はホントに少なくて な﹂ ﹁君たちにとっては面倒だろうが、帝国貴族の端くれとしては、勧 誘を諦められない気持ちの方が分かる。断り続ければそのうち諦め るようになるだろう。下火になるまでは、耐えてくれたまえ﹂ 青年の言葉に肩をすくめるタイラー。 しばらく勧誘はなくならないと正直に認めるところには素直に好 感を覚える。 ﹁それとなく言っておいてくれよ。俺たちは誰かに仕える気はない、 ってさ﹂ ﹁良いだろう。機会があれば、な﹂ ﹁ああ、それでいいよ﹂ 機会があれば。実に便利な言葉だ。現状が改善しなくても機会を 理由にできる。 伯爵家嫡男とその取り巻きが去っていく。 その背中を見送ってから、タイラーはアクトに向き直った。 黒い髪をした少年の顔を見つめる。するりと現れて会話の主導権 を手にし、そのまま貴族を立ち去らせてしまった。 あのままバトルになだれ込む可能性も覚悟していたのに、終わり はあまりにも呆気なかった。 ﹁アクト?﹂ ﹁あ⋮⋮ああ、ゴメン。ボーッとしてた。⋮⋮ありがとう、助けて くれて﹂ ﹁ん? 俺たち何かしたか?﹂ ﹁⋮⋮ふふ、何も、してないかもね﹂ 1669 とぼけるタイラーに、アクトは思わず笑みをこぼす。 中性的なアクトだからこそ、男女を問わず魅力的に映る笑み。 タイラー⋮⋮もとい、太一達は介入が成功したことを実感した。 目立つため、というのも十分に達成しただろう。あれだけの衆目 がある中で貴族の一派と問答をした上に、囲まれていたアクトを助 けるという結果。 これで印象付ける⋮⋮とまではいかないものの、人々の記憶に残 すことは出来ただろう。タイラーたちエリステインからの留学生は、 騒動が起きた際アクト側に立つ、ということを。まだそういう疑惑 の範疇ではあるだろうが、数度と重なればその疑惑は確信に変わる はずである。 ﹁っと、そうだ。君、大丈夫?﹂ アクトの背後でアクトとタイラーを見比べていた女子生徒の前に しゃがみ、ハンカチを取り出すリーリン。 ﹁結構腫れてるね。それに、唇も切れてる﹂ ポーション ハンカチを水魔術で手早く湿らせると、魔法回復薬を数滴垂らし てから腫れた頬に優しく当てた。 ﹁つっ!﹂ ﹁あ、ごめんね﹂ ポーションは傷口に直接降りかけるとかなり染みる。さすがに呻 き声を上げる女子生徒。それに思わず謝ったリーリンだが、手当て をされているということから少女が動かなかったため、リーリンも 手を止めなかった。学院の生徒というだけあって、怪我、というか 1670 痛みに対しては一般人以上に理解があるようだ。 ﹁これで大丈夫。明日になれば完全に痛みと腫れは引くはずだよ﹂ ﹁あ、ありがとうございます⋮⋮﹂ 周囲を見れば、だいぶ人は減っていたが、それでも当初の三割ほ どの人が残っている。 目撃者が多いほどいい。この少女を治療したのがリーリンである という事実は重要だ。仮にまた貴族たちが彼女を狙おうとしたとこ ろで、怪我が治っていることに気付かない訳がない。 彼女は平民であるらしく、言ってしまえばあの程度の怪我ではポ ーションを使って治療を行うような余裕はない。一家に一本や二本、 日本で言う消毒液のような感覚で一般家庭にも常備されているのが ポーションだが、これは基本的には冒険者向けのもの。一般人が気 軽に使うには憚れる程度に値が張るのだ。 彼女の家の経済状況は分からないが、多少の傷にポーションを使 う余裕のない家庭であれば翌日以降も傷は残っているだろう。それ がたった一日で綺麗に治る。つまり誰かが治療したことになる。そ こで、治療したのがリーリンである、という風に、確実ではないが つながる可能性が出て来た。 彼らは帝国貴族である。いくら勧誘に断られたからと言って、他 国からの賓客扱いをされているリーリンたちの機嫌を損ねるのは体 面的にもまずいだろう。タイラーたちと言い争ったりしているとこ ろを見られるだけで、﹁他国からの賓客の機嫌を損ねる真似をする、 帝国貴族の面汚し﹂として別の貴族から見られてしまう。 わざわざ治療したのだ。もう一度傷つけるような真似をするなら、 毅然と抗議することも厭うつもりはない。その前に気が付き、手を 引くことを願っている。 もっとも、そんなことに気を使うのならば多少強引にでも保護し てしまうのがいいのだが、ここは学園で、彼女にも授業がある。一 1671 度の欠席が響く以上、出来ればその手段は取りたくはない。 まあ、そのためには彼女がどうしてああなったのか、を聞く必要 があるのだが。 ﹁⋮⋮﹂ タイラーやアクトを見て顔を伏せる少女。しばらく待ってみるも のの話すつもりはないらしい。 ﹁⋮⋮仕方ないわね。話す気がないなら無理には聞かないわ。でも、 困ったら一人で抱え込まない、それを忘れないこと。分かったかし ら?﹂ ミレーユの言葉に小さく頷くと、少女はたたっと立ち去った。 彼女にも思うところ、また事情があったのだろう。無理やり話さ せてもきっといいことはない。 少女が立ち去ってからしばらくして、周囲にいた見物人たちも少 しずつ散って行った。 ﹁ところで、アクト、お前は大丈夫なのか?﹂ ﹁え?﹂ 人だかりが完全にはけたところで、タイラーが声をかける。 その言葉に、そういえば囲まれていたのは自分もだったか、と思 い出したアクト。苦笑いをしてタイラーたちに向き直った。 ﹁ああ、僕は大丈夫だよ。いつものことだしね﹂ ﹁いつものこと?﹂ 事前に得ていた情報通りの回答。だが、それを表に出す訳にはい 1672 かない三人は、いかにも初耳だ、という顔で反芻した。 ﹁そうさ。ああやって理不尽に誰かが責められている場面に出くわ すと、ついね﹂ 悪癖なんだよね、と渇いた笑みを浮かべるアクト。それに合わせ て尻尾が垂れ下がっている。中々立派な正義感を持っている。それ そのものは好ましいのだが。 ﹁ちょっと、無鉄砲が過ぎる気がするわね﹂ ﹁そう思う?﹂ ﹁ええ﹂ ﹁やっぱりか∼⋮⋮。そうやって忠告してくれる友達がいるんだけ どさ。気がついたら身体が動いてるんだよ。その友達が一緒にいる 時は加勢してくれるんだけどさ、いつも一緒にいるわけでもないし ね﹂ 自分でもあまり良くはないと自覚しているうえでのことなのだか ら、考えての行動ではないようだ。 いつか手痛いしっぺ返しを受ける可能性がある。いや、これまで に全く痛い目を見なかった、ということはあるまい。 メリアからはアクトの味方でいてほしい、と言われている。 その身を守るのもそうだし、それが学園で秘密裏に行われている 抗争に一石を投じる結果になるから、と。 あくまでも任務、そう思っていたが、実際に話してみて気が変わ った三人。 アクトは、非常に危なっかしい。 放っておくことが出来ない。そこに確たる理由があるわけではな いのだが、そう思わせる何かを持っている。 タイラー達⋮⋮いや、太一達はアクトの味方をすることに決めた。 1673 それは任務であることももちろんだが、個人的な感情でもだ。 感情と実益が両立される選択肢である。 ﹁アクト﹂ ﹁ん? なんだい、タイラー﹂ ﹁俺たち、お前の味方をすることに決めたよ﹂ ﹁うん、ありがとう﹂ そう素直に返事をして、固まるアクト。 今言われた言葉を咀嚼して、その表情が驚愕に染まる。 ﹁え、ええ!?﹂ そんな展開は全く想定していなかった。そう思わせるアクトのリ アクション。慌てるアクトを見て、太一達は笑った。 そんな三人を物陰から窺う一人の男子生徒。彼はそっと姿を消す。 太一達に気付かれているとも、知らずに。 1674 PDF小説ネット発足にあたって http://ncode.syosetu.com/n7500bd/ 異世界チート魔術師(マジシャン) 2014年10月13日05時07分発行 ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。 たんのう 公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、 など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ 行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版 小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流 ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、 PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。 1675
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