Regional Futures No.7 Jul.2005 【コミュニティ・ビジネス】 「笑い」を「絆」、中心市街地の活性化 ∼お年 寄 りが輝 いてみえる街 ∼ (鳥取県・米子市) 笑 い 通 り 協 議 会 地 域 交 流 セ ン タ ー 田 園 □ ﹁笑い﹂で中心市街地を活性化 ﹁毎日が本当に楽しくって、⋮﹂と田 中美保子さん。その人なつっこい笑顔が なんとも美しい。田中さんは米子市の中 心にある商店街﹁笑い通り﹂で、憩いの 場所﹁笑い庵﹂の世話をするボランティ アである。全国的に商店街の衰退が伝え られるなか、 ﹁笑い通り﹂ は見事な復活を 遂げた稀有の例として脚光を浴びている。 そして、 その復活のキーワードは ﹁笑い﹂ 。 米子の旧市内には﹁お地蔵さん﹂が多 い。聞くところによると市内を流れる加 「笑い地蔵」※三津野明氏のデザイン 茂川で亡くなった子どもたちを供養した のが始まり、という。この﹁お地蔵さん﹂ が現在、中心市街地の活性化の切り札と して一肌脱いでいる。 ﹁お地蔵さん﹂ には それぞれいわく因縁の名がつく。地蔵菩 薩のお告げにより加茂川より現れた﹁出 現地蔵﹂ 、 イボやポリープがとれるという ﹁みそなめ地蔵﹂ 、 泥棒よけに霊験がある ﹁瑜伽堂地蔵﹂ 、⋮⋮、そして商店街の名 の由来である﹁咲い︵わらい︶地蔵﹂ 。 ﹁咲 い﹂とは﹁笑い﹂の古語で﹁念ずれば花 ひらく﹂との思いが込められている。 想像しがたいが、数年前の﹁笑い通り ︵東、西倉吉町商店街︶ ﹂は人っ子ひとり 20 笑い通り商店街の位置 Regional Futures No.7 Jul.2005 21 通わない﹁シャッター通り﹂であった。 街角に鄙びた庵、軒札には﹁笑い庵﹂ 顔には﹁してやったり﹂の﹁笑顔﹂がの それが﹁笑い通り﹂と改名したとたんに と。 ﹁笑い庵﹂は憩いの場所、まちあるき ぞく。ヨットスクールから船を借り、ヘ しゃったーが開きだす。新しい店主は外 ドロと藻で汚れた川を自分達の手で清掃。 の休憩処として設けられた。ヨシズ張り からの若い人ら、有難いことに今ではシ に赤提灯。床は丸太敷き。すべて地元の 二〇〇三年四月に就航にこぎつけた。観 ャッターの降りた店はごくわずかである。 光船は加茂川と中海を四十分で巡り、料 人たちの手作り、 随所に工夫が見られる。 ﹁笑いがあるところに人が集まり街は元 思わず﹁のぞいてみたい﹂との衝動に駆 金は一人八〇〇円。 気に﹂ 。 商店街復活のポイントを住田済三 られる。 ﹁笑い庵﹂ではもともと﹁薬局﹂ 昨年の 十一月には 慈善団体 から新 型 郎・笑い通り協議会代表に聞いてみた。 が営まれていた。が、敢え無く閉店。荒 えみ 船﹁笑Ⅱ号﹂の寄贈を受けた。昨シーズ れるに任されていたのを協議会が借り受 け、風情ある庵に蘇らせた。 ン︵十六年四月∼十六年十一月︶は約千 二百人が 遊覧を楽 しんだ。 山陰観光 のホット なスポッ トとして 取上げら れる機会 も増え、 さらなる 展開を模 索中、と いう。 ◆ 街おこしの拠点「笑い庵」 ︱︱ □ ■ □ ︱︱ ﹁街に活気が戻るならこれはと 思う ことはどんどんやっていった﹂と住田さ ん。 ﹁笑い通り協議会﹂ は中心市街地の衰 退に危機感を覚えた商店主らで一九九九 年に結成された。約四十人の会員からな る。まず取り組んだのが近くを流れる加 茂川に観光船を浮かべること。当初は市 に観光船の運航を求めたが財政難という ことで断られた。 ﹁ならば自分達で﹂ と行 動を起こしたのである。 住田 さんの 名詞には ﹁加茂 川下 り船 長﹂の肩書きもある。住田さんを含め五 人が四級小型船舶操縦士の免許に挑戦し、 見事に合格。﹁六十歳を過ぎて船舶免許 を取るのは大変﹂と住田さん。が、その 加茂川を行く遊覧船 Regional Futures No.7 Jul.2005 ﹁笑い庵﹂をお守りするのが﹁出現地 蔵﹂ 。なんと鳥取県西部地震︵平成十二年 十月六日︶の際、傾いていた﹁笑い庵﹂ を地震の力で真っ直ぐに直された、 とか。 ということで商店街の建て直しにも格別 のご利益がある、という。 ﹁笑い庵﹂では地域の人のアイデアか ら生まれた﹁笑い﹂ブランドの数々が売 られている。掛け軸に、短冊、小物入れ、 そしてお菓子の﹁笑餡︵わらいあん︶ ﹂ 。 ﹁笑餡﹂は甘さを抑えた深みのある味、 住田済三郎 理事長 田中美保子さん (笑い庵にて) 土地の恵みがポイントになっている。包 み紙の﹁笑い地蔵﹂が愛らしい。 シックなお土産袋にも﹁笑い地蔵﹂が。 田中さんがひとつずつ判で押す。評判が 評判を呼び米子空港の売店でも、との声 も掛かった。が、 ﹁手作りの良さ﹂を売り 物にしているだけに大量にはさばけない。 丁重にお断りをした、という。 ﹁笑い庵﹂ 限定の菓子ということで、わざわざ足を 運んで買いに来る人もいる、 とか。 ﹁笑門 来福﹂とはよく言ったものである。 □ ﹁コミュニティづくり・田園﹂ ︱ ぼけても安心 ︱ 中心市街地・活性化の取り組みに強い 味方が現れた。 ﹁福祉&交流施設・田園﹂ の開設である。 ﹁笑い通り協議会﹂ 、社会福祉法人﹁地 域︵まち︶でくらす会﹂ 、 ﹁呆け老人をか かえる家族の会﹂など異業種のメンバー の出会いから生まれたのが﹁田園プロジ ェクト﹂ 。 ﹁田園﹂とはこの地域では名の 通った喫茶店。見合いやデートにとよく 利用され、お年寄りにとっては思い出深 い場所である。が、シャッターが下り空 き店舗に⋮⋮。それを地域の福祉と交流 の拠点に蘇らせようとするのが﹁田園プ ロジェクト﹂である。 ﹁田園﹂が誕生するまで、デイサービ スを受けようとするお年寄りは郊外の施 設に車で連れて行かれていた。そして送 迎用の車の乗り降りは決まってこの地域 の商店街である。 ﹁ここに施設があれば、 どれほどお年寄りが喜ばれるか﹂︵吉野 立・地域交流センター田園所長︶ 。商店街 を走り抜ける送迎車に、自身が母親の介 護経験の持つ吉野さんは歯軋りする思い であった、と振り返る。 同じ思いのメンバーが集まり、﹁田園 プロジェクト﹂が動き出す。空き店舗と なっていた﹁田園﹂ ︵二階建て、延べ床面 22 吉 野 立 地域交流センター田園所長 Regional Futures No.7 Jul.2005 積百八十平方㍍︶を建物所有者から好条 件で借り受けた。商工と福祉関連の補助 金︵一七五〇万円︶もついた。が、八七 〇万円ほど足りない。そこで市民に寄付 を募ったところ、不足分は瞬く間に埋ま った、という。市民の思いも同じだった のだ。二〇〇四年四月﹁福祉&交流施設・ 田園﹂は誕生。デイサービス田園︵認知 症対応小規模通所介護保健施設︶に訪れ るお年寄りは﹁思い出の地﹂ 、また﹁見な れた場所﹂ ということで心和らぐという。 デイサービスのほか﹁田園﹂では、介 護予防にもつながる﹁高齢者の交流と趣 味の教室﹂ 、障害のある人の仕事場﹁喫茶 田園﹂ ︵精神障害者小規模通所授産所 ﹁ま ちや﹂へ業務委託︶を開設している。趣 味の教室でお年寄りは折り紙や絵手紙、 太極拳などを楽しむ。会費は一回三百円 そのほとんどは材料代である。もちろん お茶は﹁喫茶田園﹂に注文。お年寄りの 活動が障害者の自立支援の一助になって いるのだ。人が集まりお金が廻る。福祉 が中心市街地の活性化の大きな動輪にな っている。 ﹁多機能コミュニティづくり﹂ を目指す﹁田園﹂の真骨頂というところ であろう。 中心市街地や商店街が衰退するのは、 きつい言い方になるがそこへ行かなくて も暮らしに困らないから。それだけに復 活には他所にない新しい価値を見つける ︱︱ □ ■ □ ︱︱ 八 十 % を 超え る 人 が 年 を と る こ と に 不安を感じている。その理由は、寝たき りや認知症で介護が必要になるから、 と。 誰しも﹁呆ける﹂ことへの不安は隠せな い。しかしその数が八十%を超している となると、社会の仕組みそのものに何か しらの問題があるのでは、と考え込まざ るを得ない。 ひょっとしてそれは、 ﹁得体 の知れない孤独感﹂なのかも⋮。 ﹁呆け﹂ に正面から取り組み、地域全体で問題を 共有、支えあおうとする﹁田園﹂の取り 組みは、高齢化が進む社会にあって一条 の光を与えてくれているようにみえる。 高齢者が輝いてこそ高齢社会、このこと をゆめゆめ忘れてはなるまい。 遊覧船に乗ってみた。山陰一の商都と して栄えた米子、川辺に往時の賑わいを しのばせる白壁が続く。その白壁を写す 川面を滑るように船は進む。下校途中の 女学生らであろう、手を振ってくる。船 頭さんとのやりとり、これがまた痛快。 呵呵大笑、抱腹絶倒。船は中海に。頭上 のトンビが描く円まで笑顔に見えてきた。 薫風やトンビに地蔵も笑い顔 笑子 23 、し 、も 、住 、み 、慣 、れ 、た 、自 、宅 、や 、地 、 必要がある。﹁誰 、で 、最 、後 、ま 、で 、暮 、ら 、し 、た 、い 、﹂ 域 、 極めて当たり 前のようだが現実はなかなかこういう訳 にはいかない。 ﹁笑い通り﹂ 、お年寄りが やけに輝いてみえる街である。 地域交流センター田園 パソコン教室での真剣な眼差し
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