史料紹介 「靖 軒中尾 先 生行状」 - 奈良県

『Regional』№10
史料紹介
「 靖軒 中 尾 先 生 行 状 」
和歌山県の被差別部落出身の漢学者である中尾靖軒に
奥
本
1
も十分に紹介されているわけではない。
武
裕
そこで、本稿では靖軒に関する基礎的な史料を提供す
中 村 諦 梁 は 式 下 郡 梅 戸 村 の浄 土 真 宗 本 願 寺 派 の 西 光 寺
るために、門人中村諦梁が著した靖軒の伝記である「靖
に生まれ、三業惑乱に関する著作が問題とされ、生家を
の検討を通じて、明治期の部落が有していた知的世界の
た。それは貧困で低位であるとともに、日本社会の近代
離れ、各地を転々としながらジャーナリストとして活躍
ついて、これまでその広範囲にわたる人脈や門弟の動向
化の過程で「文明化」から取り残されていくという旧来
した人物である。同時に、福井や熊本で同志を糾合し、
軒中尾先生 行 状」を 紹 介 する。
の部落史像に対して大きく修正を迫るものであると同時
三業派の復権をめざして活動を続け、特に熊本では彼の
広がりと深 まりを概括的にで はあるが明らかにしてき
輩 出 す るこ と 、 す な わ ち 部 落 改 善 運 動 の 歴 史 的 前 提 と し
指導を受けた僧俗によって法住教団が結成され、後に本
に、靖軒の門弟や知己の中から部落改善運 動の指導 者 が
て部落に築かれていた知的世界が存在することについて
願寺派から離脱 独立している。また、明治三十二年(
このように近代部落史上重要な位置を占める人物であ
改善運動にとっても重要な意味を持つ人物である。
体である大和同心会の会長をつとめるなど奈良県の部落
八九九)に奈良県ではじめて結成された部落改善運動団
0
も注目してきた。
りな がら 、 靖 軒について は 、こ れ ま で の部落史 研 究に お
2
いては、さほど注目されてきたわけではなく、関係史料
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い るが
奈良 県立同和問題関係史料セ ンター
さて、漢文体で著された本史料は、靖軒の伝記として
究紀要』第一三号、二〇〇七年)
、同「青年期の田部密と中
軒、そして大和同志会―」
(同和問題関係史料センター『研
尾靖軒―田部密探索〈2〉―」
(同和問題関係史料センター
は最も早い時期のもので、後の靖軒に関する伝記的記述
にも大きな影響を与えたものである。
辺昇と田部密・中尾靖軒―田部密探索〈3〉―」
(
『リージョ
『リージョナル』第七号、二〇〇七年)
、同「大阪府知事渡
ナル』第八号、二〇〇七年)
、同「もうひとつの森田節斎頌
、
句読 点
返 り 点 、 送 り が な は付 さ れ て い な い 。 ま た 、同 文 書 中 に
徳碑―中尾靖軒による建碑をめぐって―」
(
『リージョナル』
(同和問題関 係史料セ ンタ ー係長)
跡 ( 部落問題研究』第一一四輯、一九九一年)
九七三年)
、高橋槻子「全水青年同盟の活動家中村甚哉の軌
(4)甲斐のり子「ノート・Ⅰ 中村甚哉覚え書」
(私家版、一
村鑑三とその周辺―」
(
『研究紀要』第一五号、二〇〇九年)
。
「明治期被差別部落における知的人脈の境域―中村諦梁と内
長の辞職届」
(『リージョナル』第三号、二〇〇六年)
、拙稿
軒、そして大和同志会―」
(前掲注1)
、拙稿「大和同心会会
(3)拙稿「部落改善運動の水脈―十五日講、中村諦梁、中尾靖
」が
『あ
部る。
翁』
(靖軒・中尾純翁を検証する会、一九七八年)
落問題研究』第五六輯、一九七八年)
、同編著『靖軒中尾純
。中尾肇「部落解放運動の先駆者中尾靖軒 (
(2)先行研究)
に
二〇〇八年
圏―中尾靖軒の人脈をめぐって―」
(
『研究紀要』第一四号、
第九号、二〇〇八年)
、同「明治期被差別部落知識人の交流
は 、 諦 梁 の子 中 村 甚 哉 の 記 し た 本 史 料 の 読 み 下 し 文 も 残
されて い る。
中村甚哉は、諦梁の次男で、大正十一年(一九二二)
、地元で梅戸水平社を結成し
3
さらに全国水平社青年同盟の中心人物の一人として活躍
した人物として知られている。その甚哉による読み下し
文 の 存 在 は 、 甚 哉 の 思 想 と 活 動に つ い て 考 え る 上 で も 重
要 な 意 味を 持 つ と 考 え て い る 。
本 史 料 紹 介で は 、上 段 に 諦 梁 に よ る 漢 文 、 下 段 に 甚 哉
に よ る 読 み 下 し 文 を 配 し 、 後 者 に つ いて は 、 句 読 点 、 返
り点、送り仮名、甚哉の誤読も含めてすべて原史料のま
まと し た 。
、
(1)拙稿「部落改善運動の水脈―十五日講、中村諦梁、中尾靖
【注】
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『Regional』№10
【史料 2 】中 村甚 哉「 靖軒 先生行状 」
原 漢 文 、 甚 哉訳 読
靖 軒 先 生 行 状 ( 門 人 中村 諦梁 撰 )
先生姓は中尾諱は純字は公純通称純太郎、一に輔四郎と曰ひ靖軒と
号し別に桃源幽人とも号す。考は佐次兵衛君と曰ひ紀伊国那賀郡田
中 村 の 豪 農 也 、 真 宗 西 照 寺 了 円 の 女 を 娶 り 天 保 八年 丁酉 生 る 。 先 生
幼 に し て 考 順 夙 に 神 童 の 誉 有 り 、 十 歳 母 を 喪 ひ 哀 傷 已 ま ず 、十 一 歳
外 祖 父 了 円 に 就 き て 経書 の 句 読 を 学 び 、 已 に し て 大 塩 中 斎 の 門 人 某
を 贈 り 且 つ 誡 め て 曰 く 、 須 ら く農 事 を 励む べ し 、 暇 あ ら ば 読 書 可 な
こ と 一 年 病 み て 郷 里 に 帰 る 、 松嶹 遥か に書 を 寄 せ 、 妙 薬 真 珠 鶏 胆 丸
中 村 諦梁 撰 并 書
一巻
【 史 料 1 】 中 村 諦 梁 「 靖 軒 中 尾 先 生 行状 」
靖 軒 中尾 先 生 行 状
門人
の 村 医 中 井 氏 に 寓 す る に 従 ひ 、 経 子 史 集を 学 べ り 。 安 政 元 年 甲 寅 の
歳 十 八 、 京 師 に 遊 び て 梁 川 星 巌 ・ 貫 名 海 屋 ・ 田 辺 玄 々 の諸 先 生 を 訪
ひ 四年 十 月 帰 郷 、 翌 五 年 津 村 氏 を 娶 り て 配 と 為 す 、 此 歳 十 月 復 び 京
先生姓中尾諱純字公純通称純太郎一曰輔四郎
る も 徒 ら に 書 を 読 む は 学 者 の分 に 非 ず と 、 先 生 終 身 南 畝 を 事 と し 倦
に 遊 び 、 詩 を 家 里 松 嶹 に 文 を 巽 遜 斎 に 学 び 才 学 大い に 進 め り 。 居 る
号 靖 軒 別 号 桃 源 幽 人考 曰 佐 次兵衛 君紀伊 国 那
め ば 則 ち 詩 書 を 繙 くも の 、 蓋 し こ れ に 本 づ く 。 然 りと 雖 も 当 時 先 生
靖 軒中 尾 先 生 行 状
賀 郡 田中村 豪 農 也娶 真 宗西照 寺了 円女以天 保
猶ほ壮、海外の諸舶武を接して来り航し天下騒然たり、時に慷慨の
志 禁 ず る 能 は ず 、 病 愈 る の 後 三 た び 京 に 之 き 楠 本 正 隆 ・ 渡 辺昇 ・ 清
哀傷 不 已十 一歳 就外 祖 父了円学 経書 句読已而
従 大 塩 中 斎門 人 某 寓 于村 医中 井 氏 学 経子史 集
水寺観阿等に交りて議論を上下す。既にして文久三年志士某々輩と
八 年 丁 酉 生 先 生 幼 考 順 夙 有 神 童之 誉十 歳 喪 母
焉安 政 元年甲 寅歳 十八遊 京師梁 川星 巌貫 名海
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奈良 県立同和問題関係史料セ ンター
外 諸 舶接 武 来 航 天 下騒 然 時 慷 慨志 不能禁病 愈
也徒耽読書者非学 者分 矣先生終身事南畝倦則
妙薬 真 珠 鶏胆丸 且 誡曰 須 励農事或 暇則 読書可
遜斎才 学 大進 焉 居 一年 病帰郷里松嶹遥寄書贈
氏為 配 此歳十 月 復 遊 京学 詩于家 里松嶹文于巽
屋田 辺 玄々 諸先 生 四年 十月帰郷翌五年娶津村
密 か に 荒 見 村 の 簡 塾 に 通 ふ 、 又 毎 月 数 次 農 服 を 纏ひ 和 府 野 田 書 肆 に
兵衛 君 先 生 の 簡 冊 を 挟 む を 悦 ば ず厳 に 農 事 を 責 む 、 先 生 耕耘 して 夜
強識は輔四郎一人のみ、余子は碌々として語るに足らずと。考佐次
の 業 大い に 成 り 、 終 に 竜 門 の 神 髄 を 得 た り 。 節 斎 嘆 じ て 曰 く 、 頴 悟
の 国荒 見 村 に在 り 、 先 生 就き て 文 を 問 ふ 、 章 学文 範 孟 子 左 氏史 記 等
歳 松 嶹 害 に 遭 ふ 、 是 に 於 て か 慨 然 郷 に 帰 る 。 慶応 二 年 森 田 節 斎 紀 伊
国 事 を 議 し て 合 は ず 、 親 族 津村 氏 に 匿 れ て 家 信 を 絶 つ こ と 累 月 、 此
至りて書籍を購ひ、午時帰宅して家人と餐を共にす、其苦心察すべ
繙 詩書 者蓋本於 此 也雖然当 時先生年猶壮 方海
後三之 京 交楠 本正隆渡 辺昇 清水寺観阿等上 下
き 也。
鶴 梁 に 請 ひ 、 明 治 四 年 成 る 。 先 の 一と せ 、 先 生 河 内 に 遊 び 諸 生 を 集
議論 既而 文 久三年 与志士某々輩議国事不合匿
見村 先生就問文章 学文 範孟子左氏史記等 業大
めて 論孟 八 家 文 等 を 講 ず 、 五 年 又 大 和 に 遊 び 帷 を 下 し て 教 授 す 。 八
節 斎明 治 元 年 戊 辰 七 月 殁 す 、 先 生 善 く 寡 婦 無 絃 女 史 と 遺 孤 司 馬 太 郎
成終得竜 門神 髄焉 節斎嘆 曰頴悟強 識輔四郎一
年 官 府 地 税 を 改 正 す 、 先 生 県 令 神 山 郡 廉 に 建 白 す る も の 数々 な り 。
于親族津村氏絶家信累月此歳松嶹遭害於是乎
人而 已余子碌々 不足語 矣考 佐次兵衛君不悦先
九 年 配 津 村 氏 没 す 、年 三 十 八 、十 年 講 筵 を 開き 後進 を 誘 導 す 、十 五
を見ること猶節斎在世の時の如く也。此の歳女史に謀りて碑銘を林
生挟簡冊厳責農事先生昼耕耘而夜密通荒見村
年考佐次兵衛君逝く、喪除くや学黌を建てゝ 奚疑塾と号づけ食費を
先生 慨然 帰郷 慶応 二年 森 田節斎在于 紀伊 国荒
簡塾 又毎月数 次纏農服 至和 府野田書肆購書籍
恤 し 官 府 物 を 賜 ふて 之 を 賞 す 、 二 十 二 年 家 を 京 都 二 条 釜 座 大黒 街 に
徴 せ ず 、 遠 近 の 従 遊 す る 者 百 余 人 一 時盛 を 称 せ り 。 二 十 年 貧 民 を 救
移 す 、 弟 子 進 む 者 四 五 十 人翌 年 郷 に 帰 る 。 二 十 六 年 大 和 月 ヶ 瀬 に 遊
治元年 戊 辰 七 月 殁 先 生 善見寡婦 無絃 女史曁 遺
孤司 馬 太 郎猶 節 斎在 世時也此歳 謀女史請碑銘
ぶ 。 二 十 八 年 郡 会 議 員と な り 、 三 十 年 耕 地 を 整 理 し 、 三 十 二 年 養 蚕
午 時 帰 宅 与 家 人共 餐 矣其苦 心可察 也 節 斎以 明
於林 鶴梁明治 四年 成焉 先 一歳先 生遊河内 集諸
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『Regional』№10
生講論孟 八家文等五年 又遊大和 下帷教授八年
を 奨 励 し 皆 効 あ り 。 三 十 八 年 丹 後 に 遊 び 天橋 立 を 観 る 、 三 十 九 年 東
一
奥 に 遊 び 松 島 を 賞 す 、 此 歳 古 稀 寿 の 宴を 張 り 会 す る 者 四 五 十 家 、 海
二
官府 改正 地租 先 生 建 白于 県令神 山郡廉 者数矣
シテ
二
一
対
シカラ
レ
ツテ
人
在 リ川北 ニ、 晨 昏 指 点 ス幾 孱 顔 、
レ
内 の諸 名 家 を 率 る 也 。自 ら 述 べて 曰 く 「 紀 川 ハ出 デ自 ラ芳野 山 、様
一
九年配 津村氏没年三十 八十年開講筵誘導 後進
二
々
一
朝 ―宗 ス名 草 湾 、 幽 人 棲遅
十 五 年 考 佐 次 兵 衛 君逝 喪 除 建学黌 号 奚疑 塾 不
経 峰 ヲ西南聳 翠 色 、巽位 ノ竜 門 ハ最 モ岌嶷 、中 間 ノ沃野幾千頃、四
トシテ
徴食費遠近従 遊者百余 人一時称盛焉二十年救
レ
レ
ニ
面 ノ景 物 浄
ニ
タルヲ
一
レ
レ
二
一
レ
二
レ
育 チ饘 粥 足 ル、 不 凍
シハ
と 、 母 と は 後 の母 を 指 す 也 。 四 十 年 椿 花 集 成 り 四 十 四 年 伊 予 に 遊 び
レ
二
事 ヘ俯
デハ
更に山陽道に赴く。大正元年七月嗣準殁す、士則と字し紀川漁夫と
一
州出自 芳野山様々 朝宗名草湾幽人棲遅在 川北
号 し 、 博 学 能 文 、 名 声 籍 甚 、 世 歎 惜 せ ざ る はな し 。 此 歳 先 生 北 陸 江
二
晨昏指点幾孱顔経峰西南聳翠色巽位竜門最岌
州 に 遊 び 二 年 復 び 大和 に 遊 ん で 同 門 岡 村 閑 堂 を 胆 駒 に 訪 ひ 、 遂 に 京
レ
嶷 中 間 沃 野 幾 千 頃 四面 景物浄如拭 生平 奇 癖在
師 に 入 り て 諸 儒 を 歴 訪 、 詩 酒 徴 逐 す 。 三 年 丹 波 大阪 河 内 に 遊 び 四 年
レ
ジテ
興 時 ニ着 ル謝 公 ノ屐 、 登 頓 山 巓 ト与 水 涯 ト、 去 年 既 ニ賞 シ天
一
誇 ル、 乗
ト
二
恤貧民官府賜 物者賞之二十二年移家於京都二
橋 ノ雪 ヲ、 今歳 又 観 ル松 島 ノ月、 宇内勝 概 ネ粗 ニ探討、人間 ノ清福 又殊
レ
条 釜 座 大 黒 街 弟 子 進 者 四五 十 人翌 年 帰 郷二 十
、 蝿 頭 猶 閲 ル灯 檠 ノ前 ニ、古来応 稀
如 拭、生平奇癖在 煙霞 、勝具不 乏
六年遊 大和 月瀬二十 八年為郡会議員三十年整
絶 ス、且 ツ喜 ビ巌 電 ノ爛々 然
二
キコト
理 耕 地 三 十 二 年 奨 励 養 蚕 皆 有効 焉 三 十 八年 遊
此 ノ天 幸 、 有 母 有 孫 有 薄 田 、 仰
煙霞勝具不乏対人誇乗興時着謝公屐登頓山巓
四 月十 二 日 家 に 殁 す 、 享 年 八 十 田 中 村 下 井阪 宝 珠 山 に 葬 る 。 蓋 し 生
一
陰隲 ノ篇 ヲ」、
与 水 涯去 年 既 賞 天橋 雪 今歳 又観松 島 月宇内 勝
前椿樹の蓊鬱として紅白班を成し、山色亦滴らんと欲するを喜び帰
二
マン
概粗探討人間清福又殊絶且喜巌電爛々然蝿頭
レ
猶閲灯 檠 前古来応稀 此 天幸有母有孫有薄田仰
葬 の 地 を 卜 す る 也 。 先 に 配 津 村 氏 六 男 四 女 あ り 、 長 女 利 世子 は 浦 賀
一
丹 後 観 天 橋 立 三 十 九 年 遊 東奥賞 松島 此歳 張古
不 飢七十年、嗚呼、祖宗 ノ徳沢永 ク勿 レ墜、児曹熟 ニ読
事俯育饘 粥足不凍 不飢七十年嗚呼祖 宗徳沢永
某 に 嫁 し 、 七 男 準 一 郎 は 即 ち 士 則 也 、 九 男 佐 伝 、十 男 拡 字 は 充 夫 、
レ
稀 寿 宴 会 者 四 五 十 家 率 海 内諸 名 家 也 自述 曰 紀
勿墜 児 曹 熟読陰隲 篇母 者指後母 也四十年 椿花
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奈良 県立同和問題関係史料セ ンター
酒 徴 逐 三 年 遊丹 波 大阪 河 内四年 四 月十二 日殁
和訪同 門岡村閑堂於胆駒遂入京師歴訪諸儒詩
莫不歎惜焉此歳先生遊遊北陸江州二年復遊大
嗣 準 殁字 士則 号 紀 川 漁 夫博 学能 文名 声籍 甚世
集成 四十 四年遊伊予 更 赴山陽道大正 元年七 月
捨て、自ら一家の見地を開き未だ必ずしも拘泥せざる也。其子弟を
陽 明 の 良 知 、 清 人 の 考 証 、 取 る 可 べ き は則 ち 取 り 、 捨つ べ き は 則 ち
平易簡亮、務めて大旨を明にす。而して漢儒の訓詁、洛閩の理学、
先生経義は節斎に原ねて註疏に由らず、直ちに文理を以て解釈し、
著 三 巻 ・ 無 題 詩 文 稿 六巻 ・ 皆 家 に 蔵 す 。
東 北 遊 記 一 巻 ・ 三 景 記 遊 一巻 ・ 壬 戌 詩 稿 一 巻 ・ 和 歌 秀 吟 抄 一巻 ・ 雑
他 は 皆 夭 す 。著 す 所 武 陵 樵 歌 一巻 ・ 雞 肋 集 一 巻 ・ 尚 古 堂 存 稿 一 巻 ・
教ふるや直ちに文に就て文理血脈を弁へ、関節転捩を明かにし、篇
喜 椿 樹蓊 鬱 紅 白 成 班山 色亦蒼翠欲 滴予 卜帰 葬
地也先配 津村氏生六男四女長女利世子嫁浦賀
章字句の法抑揚起伏の勢、糸分ち縷析ち諄々として倦まず、而して
于 家 享 年 八十 葬 于 田中 村下 井阪 宝珠 山蓋 生前
某 七 男 準 一 郎則 士 則 也 九 男 佐伝 十 男 拡 字 充 夫
後 聴 者 を し て 豁 然 了 解 せ し む 。 弟 子 を 鍾 愛 す るこ と 猶 ほ 子 を 愛 す る
慕 ふ が 如 し 。 嗣 子 士 則 は 猶 孔 門 の 伯 魚 の如 し 、 先 生 に 先 だ ち て 而 し
他皆夭所著有 武陵樵歌一巻鶏肋集一巻尚古堂
一巻和歌 秀吟抄 一巻雑著三巻無 題詩文稿六巻
て 歿 す 、 尾 村 乕 太 郎 は 大 八 洲 猛 史 と 号 し 亦 願 淵 也 、 余 の 謭 劣 を 以て
が ご と く な る は 其 天 性 な り 、 是を 以 て 門 下 亦 先 生 を 慕 ふ こ と 考 姥 を
皆蔵于 家先生 経義 原于 節 斎不由註疏直以文理
猶且つ之を矜哀し、嘗て詩を賜ふて曰く「黄昏雨忽 チ霽 シ天雨蔚藍浄、
存稿一巻 東北 遊 記一巻三 景記遊 一巻 壬戌詩稿
解 釈 平 易 簡亮 務明 大旨 而 漢 儒訓 詁 洛 閩理 学陽
星斗両復三 ツ、東嶺擎 グ明鏡 ヲ、開
一
アラ ハ
二
奉
ニカ
レ
レ
一
レ
二
一
軒美 シ良夜 、不 覚 エ更 ニ漏移 ヲ、
二
ミ
二
一
レ
酒独 リ嘆 慨、恨 ム無
一
二
一
一
同賞 ノ心 、
キヲ
二
玉音 ヲ」と、惻々の韵余をして卒読に
ゼン
二
一
ツテ
灯滅 シ、牀前 皛 ス素輝 ヲ、白露溥 チ籬根 ニ、商気砭 ス肌骨 ニ、
イテ
キヨ シ
明 良 知 清 人 考 証 可 取則 取可 捨則 捨自 開一家 見
清颷吹
二
ヨミ
地 未必拘泥 也其 教子 弟直就文法弁 文理血脈明
寒蛩慰 メ我愁 ヲ、階下声喞々 、対
ケ ハシ
キテ
関 節 転 捩 篇 章 字 句 之 法 抑揚 起伏之 勢 糸分縷 析
佳人 阻 ク且遠 シ、何 ノ時
一
諄々 不倦 而 後使 聴 者豁然了解鍾 愛弟子猶愛子
堪 え ざ ら し む 。 平 生 載 籍 を 好 み 、 蔵 書 万 巻 、 借 覧 を 請 ふ 者あ ら ば 敢
二
者其 天 性 也是 以 門下 亦慕 先生如 慕考 姥 矣嗣子
へて慳吝せず、親疎と否とを論ぜざる也、散佚と否とを問はざる也。
フタ ツ
士則 猶孔 門伯魚 先々生而 歿尾村乕太郎号 大八
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『Regional』№10
籍 所 蔵書 万 巻 有 請 借覧 者則 不敢慳 吝不論親 疎
何 時 奉玉 音惻々 之 韵使余不堪卒読 矣平生好載
階下声喞々対酒独嘆慨恨無同賞心佳人阻且遠
牀 前 皛 素 輝 白 露 溥 籬 根 商 気砭肌骨 寒蛩慰 我愁
東嶺 擎 明 鏡 開 軒 美 良夜 不 覚更 漏 移 清颷吹 灯 滅
之嘗賜 詩 曰黄 昏雨忽 霽天 宇蔚藍浄星 斗両復三
洲猛史 亦願淵也短命而 死以余之 謭劣猶且矜 哀
耕 耘 は 其 本 業 也 、 先 生 泊 如 忡 澹 、聞 達 を 当 世 に 求 め ず 、 彼 の 南 畝 に
て 数ふ べ から ざ る 也 。
快 事 な ら ずや と 。 故 に 先 生 の 恵 に 因 り 、 古 人 の 門 墻 を 窺 ふ も の 勝 げ
応 ぜ ん と し 、而 し て 各 々 其 才 分 の 当 に 得 べ き 所 に 足 す 、 亦 学 者 の 大
自如、未だ曽て少損せず、将に遺し来るものを以て其の無窮の求に
く 、子 未 だ 大 蘇 の 李 氏 山 房 蔵 書 記 を 見 ざ る か 、 読 書 万 巻 な るも 書 固
余嘗て評点孟子の伝授を受け将に文庫に秘せんとす、先生晒つて曰
た る や 必 せ り 。 常 に 曰 く 、 我 の 農 事 を 励 む の 余 暇書 を 読 む は 松 嶹 先
従 ひ て 此 れ を 子 孫 に 留 む 。 田 を 整 へ 蚕 を 教 へ 、 倦 め ば則 ち 書 を 読 み
大快 事 乎 故 因先 生 恵窺 古 人門墻 者不可勝 数也
生 の 賜 也 と 、 其 師 教 に 従 順 な る 此 の如 し 、 宜 な り 一 生 の 行 実 敬 愛 を
与 否 也 不 問 散 佚 与否 也 余 嘗 受 評 点孟 子 伝 授 将
耕耘 者其 本業也先生泊如忡澹不求聞達於当世
以て終始せるや、此に於てか森田氏と先生を叙せざるべからず。
文 を作 り 詩 を 賦 す 、 字を 属 せ ば昂 然 葛 天 氏之 風 あ り 、 蓋 し 今 人 の 企
従 彼 南 畝 留此於子 孫整 田教蚕倦則 読書作 文賦
初 め 節 斎 の 歿 す る や 、 先 生 無 絃 女史 の 旨 を 奉 じ 書 を 林 鶴 梁 に 裁 し て
秘文 庫 先 生 晒 曰 子 未 見 大 蘇 之李 氏 山 房蔵書 記
詩 属 字 昂然 有 葛 天 民之 風蓋 非今人 所企 及 也 最
碑 銘 を 請 ふも の五 たび 、 同 門河 野 木 川 を 遣 は して 親 し く 請 ふ も の 一
及 する と こ ろ に 非ざ る 也 。
最も経済 に精しく家産 日に興り富貲 ら ず 、
精 于 経済 術 家 産 日興 富 不貲 吁 使先 生行其経 済
たび、偶々片山重範墓を展す、女史及び先生告ぐるに碑銘の事を以
乎哉 読書 万巻書 固 自 如 也未曽少 損将 以遺来者
於邦家則為富 国強兵良宰相 必矣常曰我之 励農
て し再 請 を 嘱 す 、 重 範諾 ふ 。 曷 ん ぞ 知 ら ん 彼作 文 の志あ り 、 女史
吁々先生をして其経済を邦家に行はしめば、即ち富国強兵の良宰相
事余 暇読書 者松嶹 先 生之賜也其従順師教如 此
の 命 に 反 して 約 を 変 じ 記 伝を 請 ふ 、 鶴 梁 怒 り て 書 を 先 生 に 致 し 撰 を
供 其 無 窮 之 求 而 各 足 其 才 分 之 所 当 得 亦不 学 者
宜矣乎 一生行 実以敬 愛終始也於 是乎不可不叙
辞 す 。 先 生 大い に 愕 き 六 た び 書 を 裁 し て 事 情 を 委 悉 し た る に 、 言 々
レ
森田氏 与 先生 也初 節斎之 歿也先 生奉無絃 女史
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奈良 県立同和問題関係史料セ ンター
書 委悉 事 情言々 剴 功有 赤 誠動人者 鶴梁感 嘆不
約請 記 伝 鶴梁 怒 致書 於 先 生 辞撰先 生 大愕 六裁
事嘱 再請 重範 諾焉 曷知 彼有作文 志反女史 命変
請 者 一 偶 片 山 重 範 展 墓焉 女史 及 先 生 告以碑 銘
旨 裁 書 於 林 鶴梁 請 碑 銘 者五遣 同 門河 野 木 川 親
等 の 節 斎 遺 稿 を 刊 す る や 、 女 史 常 に 撰 次 の 濫 を 歎 ず 、 先 生深 く 其 志
えず、女史歿して而して後已む。初め那珂通高・芝原和・片山重範
以て 匱 し か ら ざ る を 得 た り 。 母 子 の 山 形 に 移 る や 簡 を 折りて 慰 問絶
々として相依り墓を守ること二十年、先生常に斗米と書籍とを贈り
る も の 即 ち 大 和 五 條 栄 山 寺 畔 の碑 銘 也 。 且 つ 節 斎 の 歿 後 女史 母 子 煢
剴功赤誠人を動かすものあり、鶴梁感嘆已まず、筆を把りて起草す
為し、之を同門福永得三に諮る、得三曰く蠡測は先師の未定稿のみ、
を 悲 し み 、 遺 著 太 史 公 序 賛 蠡 測 を 刻 し 女史 を 慰 む る を 以 て 己 が 任 と
斗 米斗 書 籍 得 以 不匱母 子移 山形折簡慰問不絶
且 つ 其 一部 は 往 年 山 路 機 谷 、 其 の 上 木 の 史 記 を 掲 ぐ 、 今 に し て 之 を
斎歿後女史母子 煢々相依守墓二十 年先生常贈
女史 歿 而 後 已初 那 珂 通 高芝 原県 山重 範等刊 節
公 に す る は 復 た 重 複 な ら ず や と 、 乃 ち 止 む 。 明 治 四十 一 年 節 斎 従 四
已把筆起草者即大和五條栄山寺畔碑銘也且節
斎遺 稿也 女史 常歎撰 次之濫先生深悲 其志以刻
位 を 贈 ら る 、 則 ち 女 史 及 司 馬 太 郎 已 に 歿 し て 司 馬 太 郎 の寡 婦 の み 在
り 、 書 を 先 生 に 寄 せ て 報 ず 、 而 し て 後 先 生 の 喜 び 知 る べ き 也 。 詩を
遺著 太史 公序 賛蠡 測慰 女史為已任諮之于同門
福永得三々々 曰蠡 測先 師未定稿耳且其一部往
トシテ
レ
二
賦 し て 曰 く 「 勤 王 ノ気 節 浩
メ
如 天、潜 レ
徳 ヲ幽 メ光 ヲ四 十 年 、 遭
年山路 機 谷掲其上 木史 記 今而公之 不復重複 矣
レ
有志之れを聞きて感動し敢へて旧碑を易へず、而して新碑成れり。
一
書 於 寡 婦 曰荒 見 村 墓 碑 節 斎先 生 四字 出於先 師
先 生 大い に 悦 び 文 を 作 り て 節 斎 の 霊 に 告 げ て 曰 く 、 此 碑 先 生 の 墓 に
二
遇
、千秋 ノ恩露滴 ル黄泉 ニ」五條の有志将に節斎の
乎 乃 止 明 治 四十 一 年 節 斎贈 従 四位 則 女史 及 司
碑 を 建 て んと す る や 改 葬 の 議 有 り 、 先 生 謂 へら く 不 可 書 を 寡 婦 に 致
ハル
馬太郎已歿而司馬太郎寡婦在焉寄書於先生報
し て 曰 く 、 荒 見 村 の 墓 碑 、 節 斎 先 生 の 四 字 は 先 師 自 筆 に 出づ 、 而 し
一
焉 而 後先 生 喜 可 知 也 賦 詩曰勤王気 節浩如天 潜
に父子の字を併せて石に刻む、
則 ち 撤 去 は 豈 に故 人 の 志 な ら ん や と 。
て 之 墓 の二 字 は 司 馬 君 実 に 之 を 書 く 、 蓋 し 女 史 不 満 、 鶴 梁 の 撰 文 特
聖明 ニ名益 ニ顕
徳幽光 四十年 遭遇 聖明名益顕千秋恩露滴黄 泉
シテ
五條 有 志将 建節 斎碑 也有 改葬議 先生 謂不可 致
自 筆 而 之 墓二 字 司 馬 君 実 書 之 蓋 女史 不 満 鶴梁
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『Regional』№10
司閫 母 子 亦在 黄 泉 相 対 喜 極而泣可 知 矣又曰 夫
生首 邱之 志庶幾得 違其 喜可知矣不 独先生之喜
告節 斎霊 曰此碑 不 建於 先 生之墓而 建諸桑梓先
聞之感 動不敢 易旧碑而新碑成焉先生 大悦作文
撰 文 特 併 父 子 字 刻 石 則 撤 去豈故 人之 志 乎有 志
陵 遅 を 悲 し み 武 門 の 擅 横 を 憤 る 、 是 を 以て 諸 生 を 奨 引 し て 専 ら 士 気
其 の 慷 慨 の 大 節 、 所 謂 道理 心 肝を 貫 き 忠義 骨 髄 を 填 む 、 常 に 王 室 の
文 詩 書 を 以 て 経 と し 、 孟 馬 を 以て 緯 と し 淳 正 雄 建 文 名 一 世 に 高 し 、
亦 黄 泉 に あ り 相 対ふ て 泣 か ん は 知 る べ き な り と 。 又 曰 く 夫 れ 先 生 の
く其喜びや知るべきなり。独り先生の喜びのみならず、司閫の母子
建てずして諸れを桑梓に建つ、先生首邱の志達するを得たるに庶幾
傾 倒 推 奨 此 の如 し 、 宜 な る か な 一 代 の 行 実 師 恩 に 報 ゆ る を 以 て 終 始
を 振興 す る を 急 務 と せ り と 云 々 。
髄 矣 常 悲 王 室 之 陵遅 憤 武 門 之 檀横 是 以 奨 引 諸
す るや 。 性 嗜 好 多 く 声 音 を 解 し浄 瑠 璃 の 曲を 善 く し 、 将 棋 は 妙 手 あ
高 於 一世其 慷 慨 大 節所 謂道理貫心 肝忠義 填 骨
生専 以 振 興 士気 為 急 務 云々 傾倒 推 奨 如 此宜 哉
り 囲 碁 は 初 段 に 達 す 、 而 し て 最も 好 む も の は 読書 也 。 読 書 万 巻 悉 く
先生之文以詩書為経以孟馬為緯淳正雄建文名
一代行実以報 師恩終始也性多嗜好解 声音善浄
読破せざるはなし、之れを嗜むこと飴の如く、終日或は飲餐を忘れ、
游 鶩 殆 徧筭則 自 開 平 開 立迨于 暦 数 終至作略 暦
序 朱黄 勘 点繊屑促密無不到 天文地理医卜等書
夜擎灯 密 室至丙 丁 或達 旦矣経子史 集皆手自標
也蔵書 万 巻無 不悉 読破 嗜之如飴 終日或忘飲餐
く す 。 椿 樹 を 愛 し 梅 花 山 水 を 好 む の 癖 は 其 痼 疾 也 。 是 を 以て 足 跡 天
至 る 。 晩 年 書 道 に 志 し 薫 玄 宰 を 学 び 、 又 草 露 貫 珠 を 愛 して 草 書 を 善
鶩 殆ん ど 徧 く 、 算 は 即 ち 開 平 立 よ り 暦 数 に 迨 び 終 に 略 暦 表 を 作 る に
序 し 朱黄 勘 点 、 繊 屑 促 密 到 ら ざ る は 無 し 。 天 文 地 理 医 卜 等 の 書 、 游
夜 は 密 室 に 灯 を 擎 げ 丙 丁 に 至 り 或 は 旦 に 達 す 。 経子 史 集 皆 手 自 ら 標
サ ハリ
瑠璃 曲将 棋有 妙 手 囲碁達 初 段而 最所好者 読書
表晩年志書 道学薫玄宰又愛 草露貫珠善草書 愛
弄 以て 楽 め り 、 而 し て 読 書 の 楽 し み を 以 て 最 と な す や 論 無 し 。 平 生
下 に 遍 く 、 所在 の 奇勝 太 抵 探り 討 ぬ 。 奇 石を 好 み 古 硯 を 喜 び 磨 瑳 撫
愛 読 の 書 経 は則 ち 論 孟 詩 子 、 則 ち 老 荘 史 、 則 ち 左 伝 史 記 集 。則 陶 靖
椿樹好 梅 花 山 水癖 者其 痼疾 也是以足 跡遍于 天
楽焉 而 以 読書 楽 為 最 則 無 論也平 生愛 読書 経則
節 ・ 李 青 蓮 ・ 杜 工 部 ・ 蘇 東 坡 ・ 黄 山 谷 ・ 揚 誠 斎・ 陸 放 翁 ・ 文 々 山 ・
下所在 奇勝 太抵 探 討好 奇石喜古 硯磨瑳撫弄以
論孟 詩子則老荘史則左伝史記集則陶靖節李青
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奈良 県立同和問題関係史料セ ンター
方 正 学 ・ 文 昌 星 ・ 巍 三 子 、 仏 典 は 則 ち 維 摩 ・ 金 剛・ 楞 伽 経 。 就 中 最
二
レ
スレバ
テ
ニ
蓮社工 部 蘇 東坡 黄 山 谷揚 誠 斎陸放 翁 文々 山 方
一
一
も左氏と東坡とを好み而して東坡を特に甚しとす。嘗て門人に語り
二
正学文 昌 星巍三子 仏 典則 維摩金剛楞 伽経就中
レ
て 曰 く 、 宇 宙 第 一 の 文 字 は 此 を 措 きて 他 に 有 ら ざ る 也 と 。 詩 を 作 り
一
最好 左氏与東坡而 東坡為特甚矣嘗語門人曰宇
二
て 曰 く 「 少 小 嗜 ミ載 籍 ヲ、 頗 ル欲 師 古 人 、 堂 々 蘇 長 公 、 事 業 特
二
ソゾロ
ラム
生不
宙第一文字措 此不有他也作詩曰少小嗜載籍頗
二
レ
、但恨
絶 ス倫 ヲ、 嶺 海 極 メ風 流 ヲ、 玉 堂 推 ス経 倫 ヲ、 当 時 群 霎 ノ輩 、 誰 カ肯
二
レ
此金 山像 、容貌応 逼 真 、 坐 供
一
其 文 ヲ、 知 ル是 レ人 中 ノ麟
一
スル
二
二
ナルヲ
欲 師古 人堂々 蘇長 公事 業特絶 倫嶺 海極風流玉
レ
無 因 、写
グニ
後 塵 ヲ、 我 毎 ニ誦
、清 光仰
二
カラ
一
望
レ
マン
堂推経綸当時群霎 輩誰肯望後塵我毎誦其文知
早
一
スニ
是 人 中 麟 但 恨 生 不 早 清 光 仰 無 因写 此 金 山 像 容
一 弁 ノ香 、 晨 昏 稽 顙 頻
」 凡 そ 東 坡 の 詩 文 の 世 に 利 す る も の悉 く
貌応逼真 坐供一弁香 晨 昏稽 顙頻凡東坡詩文 于
蒐 集 す 、 足 ら ざ るを 恐 れ 、 重 複 を 厭 は ざ る 也 、 こ こ に 於 て か 東坡 の
綸 自 任 又以 教 導 後 進為 楽為 人沈毅 堅忍最悪 酒
平 生 所 作 委散 逸 而 不 復 顧 焉 終身孜 々 吃々 以 経
也雖然 詩文緒余耳 志在 経 世不欲以文詩著 於世
有 由 矣 詩 則 出 于 実 際 無 有 浮 辤彫 琢摹 絵 非 所好
しみとなす。人となり沈毅堅忍最も酒宴を悪み、身を奉じては倹素
る 也 。 終 身 孜 々 吃 々 、 経 綸 以 て 自 ら 任 じ 又 後 進 を 教 導 す る を 以て 楽
文 詩 を 以て 世に 著 る を 欲 せ ず 、平 生 の 所 作 散 逸 に 委 せ 復 た顧 みざ
と こ ろ に 非 ざ る 也 。 然 りと 雖 も 詩 文 は 緒 余 の み 、 志 は 経 世 に あ り 、
有るなり。詩は則ち実際に出で浮辤有ることなし、彫琢摹絵は好む
ナリ
世者悉蒐集焉恐不足不厭重複也於是乎東坡詩
詩 文 集 尚 且 つ 一 大書 庫を 作 す 。 先 生 の 文 簡 明 雅 潔 は 左 氏 に 類 し 、 雄
レ
文集尚且作一大書庫矣先生文簡明雅潔類左氏
健 暢 達 は 東 坡 に 似 、 神 情 躍々 は 之 れ を 節 斎 の 家 風 に 得 る も の 寔 に 由
宴 奉 身専 倹 素而 聞貧 困 患難 赴急恐 不及所交 皆
交 る 所 皆 当 の老 儒 、 岡村 閑 堂 ・ 西 村 白 巌 ・ 福 永 得 三 ・ 山 田 松堂 ・ 河
を専ぱらにし、而して貧困を聞きては患難急に赴き及ばざるを恐る。
一
雄健暢 達 似東坡神 情躍々 得之乎 節斎家風 者寔
当也老儒岡村閑堂西村白巌福永得三山田松堂
蘇岐 山渡 辺陶 庵 津村 雪谷上田樹徳和 久光徳喜
陶 庵・ 津 村 雪 谷 ・ 上 田 樹 徳 ・ 和 久 光 徳 ・ 喜 多 橘 園 ・ 藤 沢 南 岳 ・ 三 島
野 木 川 ・ 猪 木 熊 山 は 同 門 也 。 倉 田 袖 岡 ・ 山 田 永 年 ・ 木 蘇 岐 山・ 渡 辺
レ
河野 木川猪 木熊山同 門 也倉田袖 岡山田永年 木
多橘園 藤沢南岳三島中洲同道也或詩文応 酬或
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『Regional』№10
于袖岡則 心契身交五十 余年詩酒逐随逍遥与娯
巻看将 遍 高臥 南山七十 春倶可供先生像賛 矣至
岳則 云耕 読優游 養 我神 節翁風骨属斯人図書万
十保僊骸 一篇文章伝 師法如見当年老爺節斎南
杖履往来中洲嘗寄詩曰故友凋落 与世乖欽君七
諦 梁 少 時 よ り 学 を 先 生 に従 ひ 、其没 年 に 至 り て 屡々 講 筵 に 陪 し受 恩
逐 随 逍 遥 与 娯 」 と 、之 れ を 相 許 る す 深 く 知 る べ き 也 。
先生の像讃に供すべし。袖岡に至りては「心契身交五十余年、詩酒
節 翁 ノ風骨属 ス斯 人 ニ、 図 書 万 巻 看 将 遍 、 高臥 ス南山 ノ七十春」倶に
伝 師法 、如 見当年 ノ老節斎」南岳則ち云く「耕読優游養 我神 、
せて 曰く、「故友凋落
中洲は同道也。或は詩文応酬し、或は杖履往来す。中洲嘗て詩を寄
二
シテ
レ
レ
二
一
二
一
如 夢 幻 泡 影 、 如 露 亦 如 電 、 応 作 如 是 観 」 と 、 是を 以 て 絶 筆 と な し 、
一
与 世 乖 リ、 欽 君 七 十 保 僊 骸 、 一篇 文章
相許之深可知也諦梁自少時従学於先生至没年
レ
屡 陪講筵受 恩殊深 而先生厭世慟哭無及乃輯 録
殊 に 深 し 。 乃ち 平 生 聞 見 す る と こ ろ を 輯 録 し 、 此 状 を 草 す 。 嗟 乎 諦
筆旦日無 病而 逝蓋仙化 也先生居 常雖以言 論匡
且 は 病む こ とな く して 逝く 、 蓋 し仙化 也。 先生 居 常 言 論を以て 名分
一
平生所聞見草此状嗟乎諦梁 不才何能状先生且
梁 不才 何ぞ 能 く 先 生 を 状 せ ん 、
且 つ 未 だ知 ら ざ る も の 必 ず 多 か ら ん 、
名分 陶冶一世而腰不屈公侯足不踏 朱門晴耕雨
を 匱 し 、 一 世 を 陶 冶 すと 雖 も 、而 も 腰 公 侯 に 屈 せ ず 、 足 朱 門 を 踏 ま
二
未知 者 必 多 至詳 細 則 俟 孝子 充夫 君及 高足弟子
詳 細 に 至 り て は 則 孝 子 充 夫 君 及 び 高 足 の 弟 子 の述 ぶ る を 俟 つ 。 没 す
読任愜 意惟亦守 山陽節 斎衣鉢而已若夫至徳望
ず 、晴 耕 雨 読 愜 意 に 任 す 、 惟 ふ に 亦 山 陽 節 斎 の 衣 鉢 を 守 る の み 、 若
一
述焉没之前一日書円覚経偈示児孫曰一切有為
るの前、一日円覚経の偈を書して児孫に示して曰く「一切有為法、
圧 一 世則 世咸 知 之 固莫 待 諦 梁 輩之 言也大正 五
し 夫 れ 徳 望 一 世 を 圧 す る に 至 り て は 則 ち 世咸 な 之 れ を 知 る 、 固 よ り
二
法如 夢幻泡影如露 亦如 電応作如 是観以是為絶
年 丙 辰 蠟 月 門 人 大和 中 村 諦 梁 謹 状
諦 梁 輩 の 言 を 待 た ざ るな り 、 大 正 五 年 丙 辰 蠟 月 門 人 大 和 中 村 諦 梁 謹
状
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