岩手大学教育学部研究年報第38巻(1978) 近世尾張方言研究の資料と方法 彦坂佳宜* (1978年7月6日受理) 近世後期尾張方言の資料の大概と,その言語資料としての性格を概観し,あわせて尾張方言研究の方法 について考える。 研究史一瞥 資料のこと 研究の観点と方法 資料の様相概観 再び観点と方法 研究史一瞥 近世の尾張を中心におこなわれたと想定される言語を尾張方言と仮称する。この尾張方言に ついての研究は少ないながらも既に概略的にはなされている。まず,この点から述べてみる。 (1)吉沢義則氏の資料紹介 まず,大正15年1月「−書物礼讃」に載せられた吉沢義則氏の資料紹介がある。(「尾張名古屋 方言で書かれた洒落本と中本とを紹介して」後に『国語国文の研究』昭和2年に所収)「江戸に於ける口 語文学の隆盛に刺戟せられて諸国に於てもそれぞれ自分達の話している方言を以て文学を綴ら うとした」その一つとして,尾張方言の資料を酒落本9種.中本4種にわたり,作者・成立時 期・その他を紹介している1)。しかし言語についての具体的な論及はなされていない。また, 後の研究もこの資料を使って研究を展開したものが見当らないことが惜しまれる。 ㊥)青木辰治氏の論文 青木辰治氏には,「尾張言葉に関する文献」(「国語と国文学」昭和8年1月)がある。まず, 東国語が京都語に影響を与えたことがあるとし,信長.秀吉の時代に尾張地方の言葉が京阪語 に著しい影響を与えたという松永貞徳の言や新井白石の記録を引く。さらに,「今様二十四 考」の記事をもとに,名古屋の中流社会や武家の言葉が上品であり,「口上律」が当時の武家 方・上町方の口上をうつしたものとし,諸国の武士がこれを倣つたとしている。また,馬琴の 「品放漫録」に記載された尾張言葉を引き,下唐の語を引いたものとしている。その他,吉沢 義則氏の紹介した資料を中心にいくつかの資料を紹介する。最後に,「物頽称呼」「尾張国地 名考」国語調査委員会の報告を引いて,尾張言葉が言語的に重要な位置にあることを述べ,そ の研究を擾唱している。なお,そこには標準語制定のためという考えが示唆してある。 この論で,尾張方言が武家を中心とした上町言葉と,馬琴が「㌫旅漫録」に記録した「やや *岩手大学教育学部 1)この内,三本の所在は見出していない。その他は後の資料一覧に加えてある。 彦 坂 佳 宜 下品な庶民のことば▲Jとの位相上の異なりが認められることを指摘したことほ注意される。ま た,尾張方言が東西二大言語の中に占める位置についての配慮もなされている。 (3)尾崎久禰氏の研究 尾崎氏ほ名古屋に住んだ近世文学研究家であった。尾張方言についてのまとまった考察は 『近世庶民文学論考』(昭和48年6月,ただしこれは,昭和25年の同氏の還暦記念の同名の著を中村幸彦 氏が編集がえしたもの)によることができる。同氏は近世文学一般の仕事の一つとして,近世に 「郷土作者が自分の郷士をみづから描いた……地方色の濃厚な作品」(同著5頁)を「▼郷土本」 とし,こ′∼しを博捜し,特色を説いている。この内でも尾張のものについて述べる部分が多く, 洒落本・滑稽本を中心に白身の収集にかかる稿本・版本を主として,資料紹介・内容の特色・ 郷土作家についての研究,さらにほ方言資料としての価値を詳しく検討している。この方言と しての研究ほ,著しく語彙(伴言)にかたよってほいるが,初めて具体的にその特色を摘記し たことに意義があろう。また,とくに以下に述べる尾張方言の資料は,同氏の収集によるとこ ろが多く,その功績ほ忘れることができない1)。なお,先の著に収められた詩論文は,発表年 月日が記載されていないため年代が明らかでほないが,雑誌「方言」「国学院雑誌」等に載っ た「郷土本」についての論からみて,この方面について少なくとも昭和初年にほ活発な活動を 展開していたと考えられる。 (4)芥子川律治氏の研究 芥子川氏に『名古屋方言の研究什…江戸時代籍−』(昭和46年6月)がある。「あとがき」によ れば,昭和40年に公にした「江戸時代の名古屋方言」を構想を新たに書き改めたものという。 なお,同氏ほ現代篇の記述も計画中とのことである。この著は,尾張方言についての網羅的な もので600頁を超す。資料の残存する近世後期を中心にするが,「名古屋方言」の成立史・階 層的な言葉の成立とその性格を述べ,音韻 ・語法・語史・語彙概観等にわたっている(その 際の資料のほとんどは尾崎久禰氏の報告や翻刻したものであると思われる2))。 特にその中でも,階層による言語のちがい(位相)が,武家の言葉・上町の商家の言葉・下 町の言葉・遊里の言葉に分れるとし,その差異を現代の名古屋方言や名古屋の都市としての成 立過程を援用しつつ説くところは,青木辰治氏の位相についての指摘を具体的に展開したもの であり,尾張方言の多様なあり方を指摘・記述したものとして注目される。 ただ,研究の方法として,現今の「名古屋吉敷」へ江戸時代のそれがどのように変化・定着 して釆たかという観点がとられているようである。このような観点も,もちろん重要でほある が,同氏の場合,論のほしばしに現代のいわゆる「名古屋言葉」をいわば典型と考え,この完成 像に向って過去の言語がどう流れ込んで来るかといった視点が伏在しているように思われる。 そのために,記述が規範的,一面的になるきらいがあり,せっかくの位相面の指摘も,尾張方 言の全体的な,しかも多様な面を含んだ記述となりえていないように思う。例えば,現今の名 古屋言葉にない,ある語形なり語法なりが上方あるいほ江戸に認められれば,その地のもの, ないしはその影響によるものとする。それほ妥当であるとしても,重要なのは,当の尾張方言 において,それがどの程度まで定着していたのか,後に消滅したのほどのような理由によるの か,つまりほその中央語からの影響が尾張方言の体系とどのように競合し,取捨選択されてい ったのかという視点が欠けているように思われる。この点に関連して,島田勇雄氏による同著 1)同氏の死後,これらのものは名古屋の蓬左文庫に寄贈された。 2)名古屋市教委『名古屋叢書』「文化財叢書」等にある。 (2) (3) 近世尾張方言研究の資料と方法 の書評(「言語生活」昭和47年1月)にも「中央語からの影響と簡単に決めこむきらいがある」 との指摘がある。また資料の扱い方,記述のしかたにもやや悪意的な点がある。例えば,名古 屋・熱田が舞台である資料と名古屋から近郊への道中記のもの(従ってそこには近郊の人々の会話 がある)とを尾張方言の資料として同じ重さで扱う。道中記の体裁を持つ資料ほ,近郊の人々 の言葉を記載していても,それが写実的なものか否かは即断を許さない。またその近郊の人々 と話を交わす名古屋人の言葉も,時に上方や江戸といった中央の言葉をわざと使いがちであ る。この点からすれば,資料の信憑性についての配慮が今後の研究にとってまず何を措いても 重要なものであろう(これにほ吉沢氏の紹介にかかる資料を加えた考察が今後期待される)。また細部 にわたカ1ば,記述に厳密さを欠く点もみられる。 しかし,芥子川床の研究ほ,今までの諸氏の仕事の上に立ち,初めて尾張方言について語学 的な観点からなされたまとまったものといえ,一画期をなすものである。われわれほこの仕事 をしるべとして,なお多くの面から尾張方言の性格の解明を企図しなければならない。 さて,以上の研究史1)の一瞥からどのような点が考えられようか。まず研究のための基礎的 な資料の定位が必要であろう。尾張方言の資料として諸氏の報告されたものほ,方言語彙集や 当時の方言に関する記録を除桝ヂ,そのほとんどが近世後期の酒落木・滑梧本の類である。こ れには,江戸の文学活動の影響が著しい。例えば尾崎久禰氏の説くように2)滑絵本つまり<膝 栗毛>系のものほ,十返舎一九の「東海道中膝栗毛」の模倣追随である。近似した場面ややり とりなどもいくつか指摘できる。また一九自身の序文を仰いだものも多い。 酒落本系のものについても同様であり,尾張における戯作者の一人石橋庵真酔による「南浜 野国王子」ほ,同じく一九の酒落木「野郎玉子」の題名を転用したものという。このような傾 向は他の作品にも内在している。それだ桝こ,地方の文学作品による地方語の研究には,資料 の文献学的検討が必須である。 次に今まで諸氏によって報告された資料の大概を列挙しながら,この点にも触れてみよう。 その他の方法論については後に述べる。 資料のこと 今までに報告された尾張方言についての資料は,とりまぜて30本近くにのばるa)。しかしま だこれを全体的に概観し定位したものはほとどんない。この中にほ,江戸の影響を強く受けた ものから,全て尾張方言によると思われるものまでさまざまであり,また,舞台である土地も 名古屋・熱田をほじめ,近郊への道中記夙のものと多様である。ここでほ,以上の点をふまえ て,ひとまず概略的に資料の分類・定位を試みることにしよう4)。これが,どのように言語資 料としての質的な面と関連するかは,後に触れることにする。 分類は,まず遊里関係のものとそれ以外のものに大別する。これをさらに,舞台となった土 地別に分けて示した5)。 1)なお,奥村三雄氏「サ行イ音便の消長」(「国語国文」昭43.1)に『名古屋叢書』に翻刻された資料の様相について ふれた箇所がある。 2)以下尾崎氏の引用は『近世庶民文学論集』による。 3)本稿「研究史一瞥」にのる諸氏のものが中心である。 4)芥子川氏前掲責には,尾崎久弼氏の紹介されたものを中心にした解説がある。個々の資料の性格についても述べら れているが,全体の位置付けとしては不十分なものである。 5)個々の資料については,書名,成立(刊行)年代,作者,ジャンル別,写本か刊本かの順で示す。 彦 坂 佳 宣 〔甲〕遊里関係のもの ㈱熱田(官)を舞台とするもの ①軽世界四十八手(寛政12 有雅亭光他 酒写) ②指南車(享和2 石棒庵真酔 酒写) 卓)駅客娼穿(文化元 模釈舎 洒写) ④廓早引 うかれ烏(F)(文化2 菊亭香織 酒写) ⑤南浜野圃玉子(文化2 石棒庵其酔 酒写) ⑥浮雀遊戯鳴(文化3 悟鳳舎潤嶺 洒写) (D南駅夜光珠(文化4 免斎主人1)洒写) ⑧南楼丸一之巻(文化11カ 胴楽散人 酒写) ⑨夢中角奄戯言(文政2 雲照庵宝lU 酒写) ㊥)名古屋を舞台とするもの ⑲座敷茶番三狂人(文化13 紫の綾成 酒写) 〔乙〕一般庶民関係のもの2) 掬名古屋・熱田(宮)を舞台とするもの ⑪春秋左子(酒子)伝(寛政5 椒芽田楽 酒写) ⑫困多好義(寛政12 墓乎翁斎 酒写) ⑯女菜巻(寛政12カ 料理蝶斎 酒写) ⑭新織イ舞意砂(寛政13 椒芽田楽 酒写) ⑱狂言雑訪笑ひ草(文化3 千卓斎 酒写) ⑯名古屋見物四編之綴足(前篇文化12 後篇文化13 東花元成 滑刊) ㊥通妓酒見穿(文化10 南瓜蔓人 酒写¶転写本) ⑯熱田参り 股摺毛(文化頃力 自惣主人 滑写) ⑩財宝宮神戸導阿法談(文化頃力 不詳 酒写) ⑲名古屋見物る)(文化13カ 玉駄 滑写) ㈱名古屋からの道中記物 ㊥独案内(文化4 桃亭鷲渓 滑写 甚目寺まで) ㊥家内道中足九時季(文化6 田舎川津 滑写 竜泉寺まで) ⑲浮島土産(文化11石橋庵真酔 滑刊 甚目寺まで) ㊧浮島土産後篇滑籍舐園守(文化13 石橋庵真酔 滑刊 甚目寺一津島) ㊨能知事折助噺(文化5 高力種信 滑写一転写 甚目寺まで) ㊨折助咄後篇高田山開帳参案内図会(文政9 高力種信 滑写 甚目寺まで) ㊥栗毛の尻馬(文政10 近松玉暗堂芝好 滑写 大須一束掛所まで) ㊥栗毛の人真似(天保11石亭山猿 滑写 三河赤坂まで) ㊨郷中知多栗毛(天保14 南瓜末成 滑写 知多大野まで) ⑲七変人(弘化4 南窓山人 滑写 枇杷島まで) 1)彙斎主人は石橋庵真酔(増井)と同一人物,なお,この資料一覧に載せた作品の作者は,確実なもの推定によるも のを含め,ほとんと名古屋人であると考えられる。くわしくは尾崎久爾氏の著等を参照のこと。 2)⑩⑯⑩の成立年代は尾崎久爾氏の推定による。⑯については私は原本未見。㊥の成立年代は芥子川氏前掲著書から のものであるが,その根拠を知らない。 3)市橋鐸氏「未刊名古屋本膝栗毛覚書」(愛知県立女子大学「説林」昭38.1)にこの紹介がある。 (4) 近世尾張方言研究の資料と方法 (5) ㊨当世奇遊伝(嘉永2 紅葉軒障山 滑写 起まで) その他 。二世契約唾鉄抱(寛政12 餞屋顧宗 黄表紙 写) 0一九道記(十返舎一九1)) 0秋葉諸道の記 以上の資料からみた特色を述べてみる。時期としては近世後期のものであるが,まず第一 iこ,尾張においても,〔甲」遊里関係のもの,〔乙〕一般庶民のもの,の二類が認められるこ とである。そして時期的に早いものは酒落本,やや遅れて滑梧本系のものが優って来る。この 滑梧本ほ,とくに〔乙〕−一価)の名古屋から近郊への道中記物が多い。第二は,以上の点から も分るように,江戸の文学活動の波を強く受けていることである。尾崎久禰氏はこれを,「寛 政から享和・文政に及ぶ酒落木系郷土本は,江戸の本格的な酒落木の終末期と雁行し,この奪 胎とみられること,膝栗毛系郷土本ほ,近郊の神社や仏閣への参詣,あるいは旅行記で,十返 舎一九の膝栗毛を模したものであり,年代としては文化の頃からである】としている2)第三も 既に尾崎氏の説くように,刊本類ほきわめて少なく写本類がほとんどを占めることである。尾 崎氏はこれを特に「稿本」と呼ぶ。その多くは,公開を前授として書かれたものというよりほ, 個人的な筆のすさみという著作動機が強かったものと推測されるからである。 資料のこのような状況から次の点が指摘できる。まず第一の点では,芥子川氏が例証したよ うに,尾張方言の位相的な把握が可能である。尾張には公的な遊里は,この期には既に存在し なかったとされるが,繁撃な門前町・宿場町であった熱田(宮)の茶屋や宿屋の女郎を中心と した世界における言語の様相が,一般庶民層のそれと並行して記述できよう。 ただし,以上のことは注意深い資料批判の上になされなければならない。先述の第二の特色 からすれば,地方の常として江戸の影響ほ作品の体裁・筋立てから言語に至るまで広く及んで いると考えられるからである。それだ桝こ,江戸文学の影響下にあったものと尾張独自の方言 によるものとを吟味する過程が必須のものとなる。 例えば,滑積木にはやほり十返舎一九の影響が著しい。まず〔乙〕−㈱の資料は,多く二人の 旅行者の見聞記という「膝栗毛」にならった体裁である。㊥独案内・㊥足九時季の作品等ほ, この二人に江戸言葉的な方言を使わせている。さらに,尾張方言的な物言いの部分も,それが たしかに尾張近郊の人々の物言いの写実なのか,あるいは,名古屋・熱田の中心地の言葉の準 用によるものか,今の段階でほ不明である。板芽田発と共に代表的な戯作者であった石橋庵真 酔の⑳津島土産・㊧滑稽祀固守にしても,二人の旅行者は尾張人の仕立てではあるが,詳しく調 べると名古屋を離れるにつれて江戸言葉的な物言いも混入して来る。近郊の人々に対して都会 人としての優越心がこのような言葉遣いをとらせたものと考えられるが,それを一九の「禰次 ・北」にならう意識もうかがえるのである。㊨能知事折助噺・㊥高田山開帳参案内図会も真酔の ものと共に,すく小れた方言資料と考えられるが,概して〔乙〕山㈱のものは,以上の意味から 二次的資料と言わざるを得ない。このような状況は〔乙〕一㈱のものにもみられる。例えば市 橋鐸氏蔵の⑲名古屋見物ほその最も著しいものである。青木辰治氏が前掲論文中で「名古屋言 葉研究史上とりわけ肝要なもの」とされた⑯四編之綴足でも(この作者は序文によれば江戸生まれで長 く名古屋に住んだ老とある。また市橋氏によれほ一九の膝栗毛が名古屋を通らずに桑名に渡ったため別人が補いの意味で 1)古沢義則氏前掲書によれば,これは仮托という。 2)『近世庶民文学論集』P49から要約。 彦 坂 佳 宣 名古屋を描いたその→つという)二人の旅行者ほ一九にならう「瀾次・北」で相変らず江戸言葉であ る。ただしこれに登場する土地人の言葉はある程度資料的価値があると考えられる。 その点,酒落本系のものは,よく尾張方言を写したものと考えられる。序文にも,しばしば 写実を旨としたことを断わってあるものが多い。江戸の影響は,例えば⑤野囲玉子が一九の 「野郎玉子」を模すとほいっても,筋立てないし題名にかかわるもので,この中に用いられて いる言葉ほかなり尾張方言を写実的に表わしたものと考えられる。私は江戸の酒落本に暗く今 後この点からの考究も必要であるが,〔甲〕〔乙〕共に尾張方言資料として先の滑梧本類に優 るものと考えられる。 しかしながら,なお江戸の影響が払拭しきれてはいない。例えば,⑤野圃玉子では酒落た客 を装う場面では江戸言葉に転換する。②指南車の一部にもこうした点が指摘できる。このよう に,遊里の客として登場する人物は,しばしば江戸吉葉的な物言いをする場面が認められる。 こういったものが,当時の遊里に出入りする客達の実状であったのか,あるいほ戯作としての 書き方の問題であるかほ即断できない。資料相互の注意深い検討が是非とも必要になる一例と いえよう。さらに,酒落本類ほ,上方語の要素が濃いといわれるが,この点尾張でも同様と思 われ,やほり検討が必要となる。 この点,かなり信憑性が置けるのほ〔乙〕−㈱の名古屋を主とした一般庶民を描いた酒落本 類であろう。多くほ〔甲〕のような,女郎・通人・半可通などは登場せず,郷土文学としても っとも実地にみられる世界を扱ったものと考えられるからである。このような性格のものは⑯ 笑ひ草・㊥通妓酒見穿・⑲財宝宮神戸導阿法談を除くものがその代表である。 ところで,第三の特色は,ある意味でほ尾張方言の研究にとって好都合である。それほ第一 に,多くほ作者の自筆稿本であり異本群が少ないこと,さらに公開を前提としないために,い わば生の方言資料としての性格が窺われるのでほないかということである。 以上のことから,尾張方言資料としては,やはり酒落本質が中心となろう。とくに〔乙〕− ㈱のものはかなり信顔の置けるものと考えられる。次に〔甲〕のものであるが,遊里関係のも のだ桝こ資料相互の対照によることが肝要である。 以上の二つによって,庶民と遊里層についての位相的把握が期待されよう。なお,庶民のも のでも,名古屋における上町と下町の差異,名古屋と熱田のちがいも語彙的な面を中心に認め られそうである。例えば,芥子川律冶氏が上町ことばの現われる資料とする,⑫囲多貯留,ま た私見でほ⑪春秋左子伝,さらに下町ことばあるいは熱田のものとして⑭傍意砂などがある。 そして以上の資料の補ないとし,〔乙〕−㈱の滑梧本,さらに〔乙〕−(B)の資料がその周辺的 なものとして位置することになろう。 これに当時の方言書類「官靴言葉の掃溜」「 ̄浪越方言集ノⅥj「尾張方言j」や現代方言の状況 を援用すれば,近世後期尾張方言の様相はかなり把握されよう。 研究の闇点と方法 資料の様相に入る前に,ここでほ尾張方言の研究上の観点と方法について略述したい。 すぐに思いっくことは,古くから想定される東西二大言語がどのあたりで画されるのか,換言 すれば,尾張方言ほ近世後期の時点でほ東西両方言のどのような要素をどのように備えた言 語であったかという興味であろう。しかし,ただそれだけでほ,尾張方言ほ,東西二大言語の (6) (7) 近世尾張方言研究の資料と方法 要素の集合体としてしか把握されないことをこなる。尾張方言という,まとまりのある言語の存 在が想定され,加えて先述のような再構の手だてとなるいくらかの資料がある限り,われわれ は,さらに尾張方言独自のありかたを考究しなければならない。 このように考えるとき,地方言語としての尾張方言の研究という観点が見出されよう。 従来の文献を主とする過去の言語についての研究は,ほとんど中央語についてのものであっ た。そこでほ,一つの言語状態ほ,もっぱらその言語内部の自律的変化の結果としてあり, 次への変化も同様に考えられた。まれに二段活用の一段化,開合の区別の消滅等が他の地方語 (東国語)の影響ではないかと推測されたとしても,せいぜい,この自律的変化を促した程度の 役割でしかない。 これに対し,尾張方言は,地方言語としてたえず中央語の影響下にあって自己の言語せ形成 して来た。とりわけ地理的にも二大言語に挟まれ,しかも近隣に位置することを忘れることが できない。そこにほ,尾張方言の体系に内在する自律的変化の方向と,中央語からの他律的変 化要困との葛藤・相剋の結果としての言語状態,およびその変遷の稼が想定されるのである。 地方言語としての尾張方言の考究とは,このような自律的変化と他律的変化との絡み合いの具 体的な検証を通してなされなければならない。 さらに,これにもとづいて地方言語一般としての言語的な性格が明らかにできないかという ことも大切な観点であろう。これには,現代方言一般の研究を通しての近づきが最も有効な方 法であろう。資料の乏しい過去の言語研究にこのような観点を求めても,はたしてどの程度の 成果が期待できるか疑問である。しかしまた一面,近世なら近世という時空での地方言語とし てのあり方も,その存在が想定されてよいだろう。研究の方向付けとして,以上の観点を持つ ことほ,成果はともあれ重要なことであるに相違ない。 このようにみると,尾張方言の研究には,中央語からの「借用」r▲伝播」という見方が重要 になってくる。加えて,体系内の位相的な面からの考察も重要であろう。 言語地理学では,しらみつぶし調査による個々人のレベルにまでつきつめた伝播の様相を追 求する段階にまで至っている。文献による研究でほ,このようなパP・…ルとしての言語の伝播の さままでほとうてい及ばないにしても,中央語からどのように語彙なり語法なりが波及し,方 言の体系内にどう定着するか(あるいぼ取り込まれずに終ってしまうか),ごく大まかに把握することほ 可能であろう。このような場合,その伝播の受け手としてどのような位相がこれにいち早くか かわるかといった意味でも,位相的把捉は大切なものとなる。 ところで,一方では,北条忠雄氏や金田一春彦氏の説く【対照方言学」ないしl比較方言学_」 的な方法も心にとめておく必要があろう。尾張方言がそれ独自の言語体系を備えるとすれば, 本来これに基づく自律的変化としてのありかたが期待されることは当然である。 このようにして,自律的な面と他律的な要因を明らめつつ,さらに位相的な面をも顧慮し て,尾張方言の再構とその性格の解明を企図したい。 それにしても重要なのは,資料の性格に即した研究の方法であろう。以下このための手がか りとして,先述した資料群の中から,いくつかを選んでその様相をみてみることにする。 資料の様相概観 資料の様相を検討することほ,尾張方言研究の資料としてどの程度使えるか,あるいはその 彦 坂 佳 宣 際に,資料相互の様相にどの程度の差があるかという問題を考えることに他ならない。従っ て,ここでとりあげるものは,先述の〔甲〕,〔乙〕−一㈱のものが中心になる。この内から次 の八つの資料を対象とする1)。 〔甲〕指南車 駅客娼穿 野国宝子 浮雀遊戯場 夢中角奄戯言 〔乙〕困多貯留 イ舞意砂 女楽巻 いずれも,かなり尾張方言の資料として使えるものである。この内とくに,「夢中角奄戯 言」「便意砂」ほ,先の資料一覧に載せた【−「南駅夜光珠」「春秋左子伝」「 ̄軽世界四十八手」 と共に菅沢義則氏の紹介にかかるものであるが,今まで具体的な研究がほとんどなされていな いものである。なお,〔乙〕群の資料年代が〔甲〕群のものに比べて早く,この点比較の上で 問題になるが,結果的にほこの年代差はあまり影響がないと考えている。 さてこの間題を考えるにほ,尾張方言の置かれた状況からみて,いわゆる言語上の東西対立 的要素を中心として検討するのが簡便である。そこで次の項目についてみることにする。 (1)否定辞 (2)形容詞の音便化 (3)断定辞 (4)ハ行四段活用動詞の音便 (5)サ行イ音便 (6)推量辞 (1)∼(4)は東西言語の対立に関するものである。(5)ほ中世から近世初期にかけての時期に東西 の対立的状況にあったと推測されるもので,近世後期の尾張において特徴の一つであったも の,(6)ほ国語史の上でやや古めかしいものであり,やはり尾張における一特徴でもあるもので ある。 以上の各項目について,部類ごと,資料ごとにその様相を考察する。 (1)否定辞 表示するまでもなく,これは全ての資料でー ̄ソ」叉ほ「 ̄■ヌ」であり「ナイ」は認められない。 この内でも「ン」が圧倒的に多く,「ヌ」はやや古めかしい言い方として稀に現われるだけで ある。rヌ_」の勢力は上方・江戸ほども多くはない。どちらかといえば〔甲〕群によく現われ るが,資料ごとの差は少数のためよく分らない。 (2)形容詞の音便化 形容詞の音便化は第一表のようである。いずれもり音便形が圧倒的に多い。しかし〔甲〕群 にほ非音便形が散見される。さらにり音便の短呼形2)は〔乙〕群に平均して多い(平均約3りパーセ ンりが,〔甲〕群では少なく(同12パーセンりしかも散発的である。以上の様相が両群の差異を きわだたせている。 ところで,非音便形は女郎の用例はなく,いずれも遊里を訪ねる客のもので,しかもり音便 形に交えて少数用いられている。そこには何らかの意図や表現効果をねらう意識が窺われるも 1)以下資料名は〔〕内に頭二字で示す。 なお,〔夢中〕〔イ舞意〕は京都大学図書館蔵のもの,その他は尾崎久禰氏の翻刻にかかる『名古屋叢書』「文化財叢 書」のものを利用した。 原本との対象によれば,この翻刻は送り仮名を除きかなり信頼できる。 2)形容詞ウ音便等の短呼現象については芥子州民前掲書を参照。 (8) 近世尾張方言研究の資料と方法 (9) のが多い。 第一表 形容詞音便化 例えば〔指南〕〔野圃〕〔浮雀〕のものは, ︶ 6 ︶ 4 0 ︶ 2 ︵ 8 ︵ ︵ ーノ ︵ 7 \−ノ RU 4 7 2 江戸の威光を借りた表現であることを示してい ︵ 9 4 ことは,非音便形ほ,遊里に出入りする客の, 8 3 甲 る。その他のものほ,怒ったセリフに使われて ウ音便(短呼形) 南客圃雀小 ︶指駅野 浮 夢 の場面があってもやはりり音便形である。この ′し いる。〔乙〕群では,このような怒ったセリフ いずれも江戸言葉をまねる部分に現われてい る。〔甲〕群の資料には共通してこのような意 識が窺えるのである 。 一方,短呼形ほ r】ヌル(温)なる】「ァコ(赤) なる」「ナガ(艮)なった′j等,連用修飾用法に 】il】75 (22) よく現われ,「‥・て」ト・た】等が後接する場 () *短呼形とは「シ′ロ(白)ナ/レ」等のものをいう。 短呼形もり音便の数として入れてある。 合には現われにくい。短呼化にこのような懐向 性があり,また〔乙〕資料群に等しくこれが多 いことは,かなり写実性の高い資料だといえよう。これに対して〔甲〕資料群の短呼形の発現 率にはかなりばらつきがあり,結果として資料としての均質性が低いことが示唆されている。 その結果として資料の信頼度は相対的に低いものとなる。特に〔浮雀〕の様相は,用例の少な さだけでなく,資料自体のこのような性格を反映するものだろう。 (3)断定辞 断定辞の様相を第二表に示した。ここでも〔甲〕と〔乙〕群ほかなり鮮明に分れる。両群と も「デヤ」が優勢ではあるが,〔乙〕群にわずかに「ジャ」「ダ」が混じる程度なのに対し, 〔甲〕群ほ「ジャ」「ダ」ともにかなり認めら 第二表 断 定 辞 れ,さらに内部で「ジャ」の優勢なものと「ダ」 ジャ ダ 4 9 l 1 7 8 6 7 1 ︻− 0 1 3 3 5 6 7 9 3 9 4 nU 12 l *終止形のみの数である。 0 6 ︵︼U 】 191 2 ﹂− 1 7 多意楽 乙 ︵ ︶囲僻女 計 の優勢なものとに分かれる。 まず〔乙〕群については,〔′舞意〕の「ジャ」 ︻/ 0 8 甲 南客圃雀中 ︶指駅野浮夢 し デヤ は,おどりの振付師「容止」(注記にいきな男とある) の例がほとんど,他は「デヤ」を通常使用する 老が断片的に用いたものである。〔女楽〕は,口 人足で職をさがす女達を描いたものであるが, 「一デヤ_」が主に使われるのに対し,「ジャ」はその 一部の女達(その中の→人には,わるずれ女の注記あり) が使っている。〔困多〕の〔ダ」ほ八百屋の 男,囲われ女に忍んで来る男の例である。なお この男も[一ブヤ」を主として使う。 このようにみると,「ジャ▲」「ダ」ほ少数の 上に特定の理由を見出せるものが多く,〔乙〕 資料はこの点かなり一定の様相を持つ資料群といえよう。 〔甲〕群について具体的にみよう。まず「ダ」の多いものに〔指南〕〔浮雀〕がある。〔指 南〕で〔ダ〕を使うのほ,よく江戸言葉を混ぜる客「片古」が大部分で,他の老は客・女郎群 彦 坂 佳 宜 10 (10) を含め「デセ」である。一方,〔浮雀〕ほ膝栗毛的趣向であり,その二人の主人公「万八」と 「於伍六」がほとんど「ダ」を使う。それに対して女郎は「ジャ」,さらに年配の土地の女三 人が「デヤ」の使用主である。このようにみると,同じ「ダ」の優る資料とほいえ,その意味 するところは異なる。筋立ての方法・登場人物等にかかわる使用意図の吟味が必要なことが分 る。 「ジャ」が多いものは〔駅客〕〔夢中〕である。〔駅客〕の場合,「デヤ肝」は客の一部,女 郎群,下女等と広い。「ジャ」は女郎群を中心とし,一部の客にもこれを使う者がある。なお 女郎群の場合,作品において中心的な女郎群は「ジャ」,それ以外は「デヤ」を使う傾向にあ り(両者の間に格付け上の差を示す注記はみあたらない),「デヤ」を使う女郎が時に「ジャ_」を用いるこ とほあっても(多くは客との改まった会話の際),「ジャ」を主に使う者が「デヤ」を使うことはない。 このような使い分けの傾向は,やはり登場人物の性格付けを意図したことにかかわるものだろ う。〔夢中〕では,ほとんどきれいに客「デヤ」,女郎・仲居等「ジャ」と使い分けられてい る。〔野圃〕では,「デヤ【Jは客が中心,「ジャ」は女郎がおも,「ダ」は二人の中心的な客 (これも膝栗毛風の遊里などの見聞記)が江戸言葉をまねして得意がる部分に集中して現われる。 以上の様相を登場人物を軸にしてみると,遊里の客は「デヤ」を主とし「ジャ」にも及ぷ。 そして気取った場面になると時に「ダ」となる(この時も.膝栗毛的趣向による〔浮雀〕〔野間〕のように, 積極的にこの手法を借用するものと,江戸の威光を反映させるに留まるだけのものとがある)。女郎は「デヤ】1と 「 ̄ジャ」を使い,〔指南〕のように「デヤ」中心のものから〔駅客〕のように,話の中心的な 老とそれ以外の老とで「ジャ」l ̄デヤ」に分担傾向のあるもの,さらにほ,その他の資料のよ うに「ジャ」が主なものまでの巾を持つ。 以上から,[甲〕の資料群ほ用例の出現のさまがまちまちであることが明らかである。特に (2)形容詞の音便化の項でも指摘したように,〔浮雀〕ほ,この断定辞についても方言資料とし てあまりあてにならない。一方,各層の様相が多様な形で現われるものが〔駅客〕である。 他のものほ,この中間的な様相を呈する。このような点から見ても,〔甲〕の資料からの立言 にほ,相互比較による検討,さらにほ,個々の資料の表現意図にまでたち返った考察が必要な ことが分る。 (4)ハ行四段活用動詞の音便 ハ行四段活用動詞の音便について第三表として示す。ここでも促音便が優勢でほあっても, り音便がかなりまじるもの(〔甲〕)とはとんどないもの(〔乙〕)とがきれいに分れる。〔乙〕の〔イ舞 意〕のり音便使用者は,一いきな男客止」である。この人物は,先にも F ̄ジャ」使用に特色が あった。〔囲多〕の場合,り音便使用の理由を特に見出せない。〔甲〕群ほ,ここでもばらつ きがある。まず〔浮雀〕ほ,ほとんど主人公の二人の会話に出るものだが,「於伍六」はり音 便,「万八」は促音便のみで,対照的な使い分けがある。しかし,そこに特別な作者の意図は 見出せないから,この様相ほ方言資料としてほ信憑性に乏しいと言わざるを得ない。〔指南〕 の用例も,ほとんど遊里の客三人の会話の例である。いずれも促音便・り音便を両用し,この 使い分けの意図も認めがたい。ト書きに「言ふて▲」等の文章語的表現が多いところから,ある いほこの混入による可能性もあるが,セリフはかなり会話調であるところからすれば,これも 考えられない。 〔野圃〕〔夢中〕等では,促音便が優勢で,客・女郎等の広い層に使われている。女郎はり 音便も使うものの,例えば〔夢中〕でほ促音便15例に対しり音便5例と,促音便が通常の使用 近世尾張方言研究の資料と方法 (11) 11 である。しかし,両者にきわだった表現上の差異は見 第三表 ウ音便 4 2 8 1 1 1 1 3 以上の〔甲〕群に対し,〔乙〕群はここでもか なり 一致した様相を望している。 (5)サ行イ音便 この事項ほ,かつて中世を中心に上方でさかんだったものである。奥村三雄氏1)によれば, これが関東に波及したことほあっても,ほとんど定着しなかったものと推定される。この項目 を通しての焦点ほ,この要素が尾張方言資料にどの程度どのように現われているかである。 ところで奥村氏によれば,サ行四段活用であっても,音節数,アクセントの類によりイ音便 化しがたい優向のものもある。動詞に後接する使役辞等もこのようなものである。その意味か ら,厳密にほこれらの類ごとに考察する必要が 第四表 サ行イ 音便 あるが,今ほサ行イ音便を通して資料の性格を 7 3 0 6 0 9 1 4 1 8 6 ワー ・4 1 7 3 6 1 2 0 6 4 31.3(均) t∴) 囲 多 イ舞 意 女 楽 5 12 7 1 ∠墾 1 は一括して示した。それが第四表である。 1 1 1 0 言【 21 明らかにすることが主要な目的のため,ここで 2 ︹YU 3 甲 南客圃雀中 ︵ ︶指駅野浮夢 】音便 非音灰 音便% 83.3 75.0 87.5 ただ一回の調査で見落しをおそれるが,〔乙〕 群はここでも一定した数値を示す。しかもその 率は高い。これに対して〔甲〕資料群は,かな りばらつきがあり,率も低いものが多い。この 中には,先に触れた,もともとイ音便化しにく いものもあるが,それは〔乙〕資料でも同様で Jノ \′ のノb。 〔乙〕でほ,〔囲多〕の隠居の囲われ女・そ − ..・. と広い層にわたって音便化が認められ,これを使わないことが顕著なのほ,わずかに振付師 「容止」(「ジャ」「ハ行四段動詞り音便」等使用)だけである。 〔甲〕群でほ,使用率の低いものが[指南〕〔野圃〕〔夢中〕,やや高いものが〔駅客〕〔浮雀〕 である。 〔指南〕は,地元の肴崖と女郎のうち二人の例が計3例であるだけで,あとは音便化を認め 1)「サ行イ音便の消長」(「国語国文」昭娼.1) 7 ︻/ な様相を呈するのは,ここでも〔駅客〕である。 7 2 5 多意楽 様な傾向ほ〔野田〕〔夢中〕にもあろうか。特に多彩 つJ 3 2 以上によっても,〔浮雀〕ほ特異であり,内部徴証 4 1 7 女郎「っま」は,促音便3例,り音便20例である。 から見て安易な述作態度が窺われるものといえる。同 5 6 甲 概してり音便がかなり優勢である。例えば,中心的な l促音便 南客 間 ∵ 雀 中 して女郎を中心とする層ほ両形を使い,同一人による 混用もあるが(同→セリフに同時に雨形が存在する例もある), ︶指駅 野 浮 夢 ︵ 出せない。 これに対し〔駅客〕ほ,客層ほほとんど促音便,対 ハ行四段動詞音便 彦 坂 佳 宣 12 (12) がたい。とくに客の例で音便形の期待されるものが8例あるものの,全く音便化していない。 〔野圃〕ほ,一人の客の3例のうち1例が音便形であるだけで,相棒のもう一人の客・女郎等 は非音便形である。〔夢中〕では,やはり客の一人が音便形1例,非音便形1例である(この非 音便形も奥村氏の分類からみると音便化が期待されるもの)。あとの客・女郎・芸者等はいずれも非音便形 である。 →方の音便率がやや高い資料をみよう。 [駅客〕でほ,客・女郎・宿の亭主・おかみ等いずれも音便形と非音便形を混用する。この 間の使い分けほ鮮明でない。また掛、ていえば,音便形が女郎群に多い傾向がある。〔浮雀〕 ほ,やほり二人の主人公の例が多いが,これも両用であり,その間には差異が認めがたい。ま た例えば,「話して」等,他資料には多く音便形で出るものがそうではなく,対して「割らか いた】等,奥村氏が最も音便化しにくいとした<他動詞+使後辞>に準ずる形のものが音便化 していたりするのである。 このようにみると,やはり〔甲〕資料群の不安定さが問題となる。この項目に関してほ登場 人物の層ごとにみてもその特色は一定でない。作品の趣向・登場人物間の関係のありかた・筆 者の筆くせや言語意識等複雑な要因がからみ合っているようである。 (6)推量辞 この項目ほ,かつて中世に多用されていたト・=・(ウ)ズ」が尾張に多く残存すると思われる ところから設けたものである。東西対立の要素からみるのではなく,国語史的にみて古い要素 がどの程度使われているかの問題である。 第五表に示したように,〔乙〕資料群に多く使われ(平均28パ【センり,〔甲〕群には少ない(同 9・Ⅰパーセント)。また「】ゥ【j「ヨウ」の短呼化現象も〔乙〕に平均して多い。〔甲〕資料群相互 にゆれのあるのも今までと同様である。 第五表 推 量 辞 ところで「……(ウ)ズ」の用法にほ一定の傾 向がある。「ウ」「ヨウ」の場合,疑問の「カ」 ウ,ヨウ(短呼形) (カズ 3 ︶ ︶ ること,さらには独り言など,相手に向って働 〔駅客〕〔野園〕は,女郎・客ともに少数なが らこれを用い,独り言的なセリフに認められ 囲 多 す舞 意 女 楽 計 ト 59 (22) 3 1 れを用いている。一方〔甲〕群は,使用の認め られる資料がわずかに三つである。このうち 〔喜J 130 0 1 さて〔乙〕群では各資料とも多様な人物がこ 計 2 7 である。 ヽノ 1 に文末に位置する。すなわち終止用法が主であ きかけるような用法が少ないこと,これが特徴 ︶ 3 「ナンシ」をまれに後接するものほあっても疑 問の助詞類を後接するのはほとんどなく,単独 ハリ OO ハリ 5 ハり /′.\ ︵ ︵ ︵ ︵ 4 (ウ)ズ」ほ ︶ 2 9 3 4 接した表現が多いのに対し,「…… 2 「カイナ」「カナンシ」や文末詞「ナ」等を後 数に入れた。 る。 〔野圃〕ほ,これをやや下層の髪結い・肴屋等が用いているが,客・女郎の例はない。 「…… (ウ)ズ」の例が少ないこともあろうが,この用いられ方も,〔野圃〕と〔駅客〕とに 微妙な差異があることになろう。 23 *「ツラ」「ラ」】、マイ」等の形は除く。推量と意志の 雨用法をまとめて示した。短呼形も「ウ,ヨウ」の 近世尾張方言研究の資料と方法 (13) 以上 いくつかの要素別に資料を検討してきた。これを通じて次のことが認められよう。1) 1遊里関係の資料〔甲〕と庶民関係の資料〔乙〕とでほその様相が異なること。 2 〔甲〕資料群が相互に異なる状況を呈しやすいのに対し,[乙〕資料群ほ常にほぼ一 定の傾向を呈すること。 3 従って,〔乙〕資料群は,庶民層の言語状況をかなり反映するものと考えられること2)。 これに対して[甲〕資料群に基づく,遊里ないしそれに準ずる位相の解明には,資料 相互の比較,さらには作品構成のありかた,作家の筆くせにまで検討を加える必要も あること。 以上に関連して私の概括的調査によれば,先に示した[甲〕資料群にほおしなべてこのよう な不安定な傾向が認められる。同時に,[乙〕資料群にも注意深い扱いが必要なものもある。 例えば,⑯笑ひ草・㊥通妓酒見穿・⑲財宝宮神戸導阿法談・@名古屋見物は種々の点からこの ような部類に入る。一方,⑪春秋左子伝は,ここに扱わなかったが,かなり写実性に富み,今 までみてきた〔乙〕のものと似た様相を呈するものである。 こうして,結局ほ個々の資料,個々の言語要素ごとに事情を異にし,それなりの,資料の性 格にもとづいた扱いが必要とされるのであるが,ここに概括的に定位のこころみをすれば,近 世後期尾張方言研究の資料として,信板性の高い順にまず〔乙〕−㈱資料群のもの,次に〔甲〕 資料群のもの,これらの参考として〔乙〕−(B贋料群が位置付けられる。 再び観点と方法 再び観点と方法 について以Fの二点を以上の考察に即して述べてみたい。 (1)言語の位相的観点 以上の資料の位置付け,および(1)∼(6)の言語要素の状況をみると,やはり尾張方言の研究に とっても位相的観点的からの記述・説明がどうしても必要であり,また有効でもあろう。 共時態が,本来ゆるやかなものであり,流動的なのも,一つにほこのような多様な位相の集 合体としてのあり方を備えるからに他ならないからであろう。その意味で,中央語の影響下に ある尾張方言において,これこれの要素が一般的であったという平面的な説明ではなく,それ ぞれの多様な要素が現われるとすれば,どの位相にとってはどれが根幹的なものであり,どれ が表層的なものか,その広さと深さを位相的な観点から立体的に記述する必要があろう。ただ し,以上の資料からこの位相を捉えることのできるのは,現代語研究とちがって,せいぜい一 般庶民層と遊里関係の商売人・客・女郎群などの二面にすぎないものでほあるとしても。 先に,東西対立的要素の(1)∼(4)までのものを調べた。既に明らかなように,庶民層を扱う 〔乙〕資料にあってほ,いずれもその内のどれか一つの形を専用する傾向にあり,混用される ことほほとんどなかった。その意味で,これらの層の人々にとってほ,これがいずれも根幹的 なものであり,かなりの規制力を持つものだったはずである。それに対して,遊里関係の〔甲〕 資料群のものは,(1)から(4)にいくにつれて,次第に混用が増加し,その使い分けも鮮明ではな くなった。このことほ,これらの位相においては,(1)の要素から(4)にいくにつれて,根幹的な 1)以 ̄Fのことは,先の調査項目だけでなく,かなり一般的性格であると考えられる。たとえば,原因・理由の言い方 でも同様にみとめられた。(拙稿「近世尾張方言の原因・理由表現一地方言語としての性格にふれて一」「文芸研究」 第89集) 2)これは,いまはいちいち述べないが,現代の名古屋地方を中心とする方言の様相からも十分な根拠が得られる。 13 彦 坂 佳 宜 14 (14) 要素から非根幹的な要素へとその規制力が減退することを示すものである。つまり,(1)に使わ れる形式がきわめて規制力を持つ,深く根付いたものであるのに対し,(4)に移るにつれ自由な 選択にゆだねられるものであることを意味している(ただし,資料にゆれ・混用があるからといって,それ が直ちに当時の実態であるとみなすことは,既にみてきた状況からすれば短絡のそしりを免かれない。あくまでいったん は個々の資料にたち返った評価が必要なことは言うまてもない)。そして,このような諸要素の使用状況の差 違が,この二つの位相の各々の性格そのものをも示唆している。このようにして,各位相と言 語要素間の関係のあり方が把握されることになる。さらに,こうした要素が,国語史一般の上 から新しいものかどうか,また東西いずれに備わるものなのか等の吟味によって,これに対す る位相ごとの言語意識の反映もみてとれよう。 このように立体的にとらえた時に,ほじめて,例えば(1)∼(4)による検討ほ,東西対立的要素 という個々の問題の集合(しかもこの扱いは中央語からの観点による分折という立場に立つ)としてでほなく, 尾張方言としての独自の言語のあり方が把握されることになる。 (勿地方言語としての観点 以上のような東西対立的要素の状況からは,地方言語としての尾張方言のどのようなあり方 が見出せようか。 一つには,東西いずれの要素が色濃いのかということだろうが,これだけにとどまらず,(1) で想定される立体的な構造にてらして,どのような位相にどのような中央語の要素が入りこ み,それはどのような意識に基づくものであるかが記述されなければならないだろう。 例えば庶民層に対し,女郎層は「ジャ」等の上方的要素を使う傾向にあり1)(これはウ音便でも同 様であろう),しかも「サ行イ音便」ト…・・(ウ)ズ..」等古い要素を避ける憤向にある。これに対し て遊里の客などは,膝栗毛的な作品展開の方法によらないものも,しばしば意識的に「ダ」 を,また「促音便」を使うのは,江戸の威光を借りる意識の現われであろう(ちなみに,江戸におい ては遊里の客がり音便をある程度使うことはないか。そうだとすれほ威光の娘拠も土地ごとに異なりをみせよ う)。 これほ酒落本の常套手段といってしまえばそれまでのことであるが,このような使いざまを 選択する作者自身の言語意識の反映でもあるし,それも当時の意識を表わすものに他ならな い。 これに対し庶民層でほ,「サ行イ音便」「……(ウ)ズ」等のやや古い形式をかなり使用する。 こうして,中央語の要素を取りいれようとする方向と,一方で従来の要素を保持する方向の競 合の中で,ゆるやかな共時態が形成されているものと想定される。そこに,先述したような, 東西両言語に挟まれた地方言語「▼尾張方言」の独自のあり方が認められよう。 その他にも,これに関していくつかの問題が提起されるだろう。例えば,近代語への過程で よく認められる分析的傾向についても,中央語との比較から尾張方言が記述される可能性もあ る。 原因・理由表現について,この傾向が未発達であったことを述べたことがあった2)。尾張で ほ,「カラ」「ニヨツテ」等江戸・上方の借用語形が,やはり遊里の客や女郎を中心に認めら れたが,一般庶民は「デ」「ニ」等,国語史の上からは古い要素を用い,しかも論理性よりも 情意性に優った表現が行なわれていた。準体法の消滅に伴なう問題もこのような視点から説明 1)これは敬語辞においても認められた。拙稿「近世尾張方言におけるラ行下二段敬語辞の一段化」(「文芸研究」第83 集 昭51.9)参照 2)「近世尾張方言の原因・理由表現一地方言語としての性格にふれて【」(「文芸研究」第89集) 近世尾張方言研究の資料と方法 (15) される可能性もある。 以上の問題ほ,多様な人々の集まる都市化の過程と密接する問題と考えられる。言語をとり まく言語外的な条件を加味した解明の方法も,こうした観点にほ重要なものとなろう。 以上,いくつかの章にわたって,尾張方言の資料とその様相,および研究の観点と方法 について考えてきた。時間の制約のために考察が不十分であり,方法論も貧弱でほある が,ひとまず覚え書きとして,ここに提出する。ここに述べた項目をもとにした位相的 な様相についての報告ほ,いずれ稿を改めて述べるつもりである。 15
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