洞村 移転 考序論 - 奈良県

『 研究 紀要 』第 10号
研究史と論点の整理
洞村移転考序論
はじめに
吉
田
栄
治
郎
に交叉する、古木を使うことが多かったようだが新建の
家 屋 が 建ち 並 ぶ 「 ニ ュ ー タ ウ ン」 に 生 ま れ 替 っ た 。
-
-
の傾斜地にあった被差別部落(以下部落と表記する)だ
は大正 時代中 期まで 畝傍山東北 方の山腹から麓 にかけて
れて 採択されたり、昭和二十二年(一九四七)には旧水
四回 大会で は 洞水平社 から移 転 反 対 の緊 急 動議 が 提 出 さ
大正十 四年 (一九二五 )三 月に 開かれ た奈良 県水平社 第
た 部 落 改 善 事 業 の 代 表 的 事 例 と し て 喧 伝 さ れ た が 、一 方 、
(三 )
そ のため、奈良 県や 高市郡役所・ 白橿村 から は成功 し
が 、 畝傍 山 周 辺整 備事 業 の た め 大正 七 年 ( 一九 一 八 ) は
平社の活 動家らが宮内省に旧地返還運動を起こすなど 、
高市郡白橿村 大字 洞(以下小論で は洞村と 表 記する)
じめごろ から数年をかけて 寺・神社を含む全戸が立ち 退
(一 )
き、その多くが旧地から八〇〇メートルほど北東の他大
必 ず しも 平 穏に 実 行 さ れ た移 転で はな か っ たこ と を 窺わ
かかるシチュエーショ ンを持つ洞村 の移 転が部落問題
( 五)
字領 域に移 住して 大字 四條 大字 大久保と 称 する 白橿村 の
せて いる。
研究の好個の素材と して 注目されること は必然で あり、
(四)
新大字を作った。
移 転先集落 は奈良 県技師たち による周到な 都 市設計 の
同 和 対 策 審 議 会 答 申 が 出さ れ 、 立 法 措 置 が 喫 緊 の課 題 に
( 二)
地を 造成 し、そ の間を 三メ ート ル 弱幅 の直 線 道路が縦 横
もと、二二坪から一〇〇坪まで 一一区画に区画された宅
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奈良 県立 同和 問題 関係 史料 センタ ー
鈴木良氏の論
な って い たこ ろ 、 移 転 に 関 す る 研究 が 始 ま って い る 。
. 天皇 制に よ る 強 制移 転 論
-
-
洞村移 転を 部 落 問 題 研 究 の関 心 に 沿 って 初 めて 取 りあ
ただ、鈴 木論文は発表の場が研究誌で はな か ったこと
や 、 氏 が 編 纂 委 員 と して 参 画 して い た 『 奈 良 県 同 和 事 業
祝 典事 業を 国 家権 力 に よ る イ デオ ロ ギー 攻勢と 捉 え 、そ
を 発表 し 、同年 に政府 の主導で 実 施 された明治百年 記念
二 二 六 号 に 「 天 皇 制と 部 落 差 別 」( 以 下 鈴 木 論 文 と す る )
鈴 木氏 は 昭和 四十三年( 一九 六 八)二 月 の『部落』 第
『 奈 良 県 水 平 運 動 史 』第 一 章「「 解 放 令 」と 改 善 運 動 の 出
筆者として加わる、昭和四十七年(一九七二)刊行の
動」 の第三節の「二
かる『奈良県同和事業史』第三章「部落改善運 動と 米騒
の が あ る が 、「 基 本 的 な 分 析 視 角 」 は 鈴 木 氏 の 執 筆 に か
実証を行え ば如何な る結論を 得るに至る のか興味深いも
拠史 料 の 明 示 や 実 証 は 行 って い な い 。 鈴 木 氏 が 今 改 め て
史 』編 纂 の 過 程で 収 集 さ れ た史 料 に 依 拠 し た た め か、 典
れに抗すべく、洞村移 転を 天皇 制権力による部落の強制
げたのは鈴木良氏である。
移 転と 位置づ け た。そ して 、部落差 別 の再生産 システ ム
発 」 の三 「 洞 部 落 移 転問 題」 に 継 承 さ れ 、 実 証 と 典 拠史
(九)
転 問 題」 に よ って 「 天皇 制 に よ る 部 落 の 強 制移 転」 の 図
(八)
洞 部 落 移 転 問 題」 や 、 鈴 木氏 が 執
の 根 源を 近 代 天 皇 制 に 求 め 、天皇 制に よ る 差 別 と 抑 圧 の
料を明示することで 鈴 木論文を 補填する両書「洞部落移
(六 )
シ ンボ ルと して 洞村 移 転 を 部 落 問 題 のな か に 装 置 した の
である。
なく奈良県近代史および日本近代史 研究における有意義
認識と「天皇 制に よる部落の強制移 転」論とが相互補完
しかし、昭和三〇~四〇年代に定説化された部落問題
式 が 完 成 し たと い え よう 。
な 発見」となり、以後の洞村移 転問題研究の「基 本的な
的 で あ っ た こ と や 、 移 転 に 関 す る 新 たな 史 料 の 発 見 が そ
鈴 木氏 の作 業は「部落問 題 の歴史 的 研究の分野 だけで
分析視角を提示するも の」 にな ったと評価される。おそ
の 後な か ったこ と な ど が 相 俟 って か 、こ の問 題 は 教 育 ・
(一 〇)
ら く 正 鵠 を射 たも ので あ り 、 天 皇 制と 部 落 問 題 研 究 に 一
啓 発 の側 か ら 寄 せ ら れ 続 け た 強い 関 心と は裏 腹 に 、 部 落
( 七)
つ の シェ ー マ を 明 確 に 定 立 さ せる こ と に 成 功 し た 論 文 と
問題研究者のさしたる注目を集めることはな かった。 洞
(一一 )
評することに大方の異論はない だろう。
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『 研究 紀要 』第 10号
る の は 昭 和 五 十 年 代 後 半 に な って の こ と で あ り 、 鈴 木 論
村 移 転が 研究 の 対象 と して 再 び 取りあ げ ら れ る よ う にな
の子 孫 の一 人と して 、父 祖 たち が直 面 し た全戸 移 転と い
づらい場面も見られるが、しか し、旧洞村 の伝統的住民
た 手 法 を 採 る こ と も あ って か 、論 旨 の 展 開 に や や 理 解 し
辻本三論文及び辻本書 は歴史学の方法論から多少離れ
(一二)
的な 論 点も 質 的 転換を果 たしつつあ るころ だ った。
文 から ほ ぼ 一五 年 を 経 過 し 、部落 問 題 認 識 の 潮 流 に 適 合
辻 本正 教 氏 の論
-
-
う難事業の経緯 の復元のため入手可能な史料に悉 皆的に
.自主的献納論
当 た って 精 力 的 に 取り まと め たも ので あ り 、到 達 し た自
まれたまぎれもな く本源的な疑義となった。
主的献納論は鈴 木論文 の「基 本的な分 析視角」 に差 し挟
昭和五十年代後半 、洞村移 転問題に再び光を当て たの
は辻本正教氏である。
辻本氏は奈良県部落解放 研究所研究紀要『奈良県部落
辻本氏三論文 による鈴木論文への疑義は「基 本的な分
事実関係について は後に詳述するためここで は割愛す
析 視 角 」 と 事 実 関 係 の 二 点 に 対 して 行 わ れ た 。
(第 五 号、昭 和 五 十
る が 、「 基 本 的 な 分 析 視 角 」 に つ い て 辻 本 氏 は 、「 天 皇 制
相」歴史篇(第二号、昭和五十五年 〈一九八〇〉、以下
解 放 研 究 』に「「 天 皇 ( 制 )」に よ る 洞 部 落 強 制 移 転 の 実
辻 本 論 文 歴 史 編 と す る )、 移 転 編
と す る )、
による強制移 転」 の枠組みは堅持 しながらも 、史料解 釈
八 年 〈 一 九 八 三 〉 、同 じ く 辻 本 論 文 移 転 編
移 転編 Ⅱ ( 第 六 号 、 昭和六十 三 年 〈 一九 八 八 〉 、同 じ く
の差異には解消できない認識の違いを鈴木論文と の間に
発見 し、そ の差 異のよ って き たる所以を追究するな か か
ら、天皇 制を外在するも のと捉えるか否かに起因すると
-
-
い ずれ に せよ 、 天皇 制を 民 衆 の外にあ る 異物と して し
いう理解に逢着したようで ある。
は『洞村の強制移転
か 描き切 るこ と ので き な い 史 観は 、 徹 底 して 改 めら れ
』( 以 下 辻 本
書 と する ) を 上 梓 し 、自 主 的 献納 論と い う 新 たな 分 析 視
なければならない。自らの内に巣くう天皇制を徹底し
天皇制と部落差別
問題認識の修正も 行いながら、平成二年 (一九九〇)に
ま た 、そ の 後 の新知 見と 時代 相 の 変 貌 をふ ま え た 部 落
る場合は辻本三論文と する)を 発表した。
辻本論文移転編Ⅱとする。また三論文をあわせて 表記す
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角を洞村移 転 研究 の場に持ち込 んだので あ る 。
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奈良 県立 同和 問題 関係 史料 センタ ー
て え ぐり出し、完膚なき まで に破砕して 初 めて 、 人間
皇 制と 部落差 別 に関 する基 準的論文と して の価 値を 保 っ
「 現 在 も な お 近 代 天皇 制と 神 武 陵・ 橿 原 神 宮 の問 題 、 天
・ 鈴 木 論 文 を 含 む 研 究史 整 理 と 辻 本三 論 文 の 論点確 認
そして 、
ている」との評価を与えた。
の解 放 をかち と るこ と が可 能とな って い く 。
近代一〇〇年 の、部落差別と のたたかい のほんとう の
と の論 (辻 本書 一九 五 P )と 、
敵は、地主と ブルジョワの支配 の仕組み、つ まり天皇
・ 移 転 の 全 過 程 の復 元と 作 業上 の 留 意 点へ の 言 及
とその批判
と の 論( 鈴 木 論 文 六 〇 P )の 違 い に 象 徴 さ れ る も の だ が 、
・移 転と 水平運動と のかかわ りと戦後の返還運 動の概
制で あ り ま し た 。
両 者 の思想 の 本源に 由 来 す る 差 異と 見な け れ ばな ら な い 。
括的紹介
の三 点を課題にした作 業を行 った。
高宮論文の丁寧な作業には学ぶところが多く、先にも
-
-
五三四・五三五号に「虚構 の「自主的」献納論と 水平運
高宮氏は平成三年(一九九一)四・五月の『部落』第
鈴 木 論 文 へ の疑 義 に 批 判 的 な 作 業 を 行 っ た 高 宮 論 文 も ま
と お りで あ る 。そ の 意 味で 鈴 木論 文 の 成果 を 引き 継 ぎ 、
後 の 研 究 に 基 本 的な 分 析 視 角 を 提 示 」 し たこ と も 指 摘 の
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小 論で 論 じる 準 備 はな い も の の 実 に興 味深 い 違いで あ
り 、 鈴 木・ 辻 本 両 氏 の 間 に 部 落 問 題 認 識 の 決 定 的 な 異同
を生む所以でもあろうか。
触 れた よ う に 、 洞村 移 転問題を 部 落 問 題 研 究 の 対象と し
高宮尚彦氏の論
て 最初 に 取りあげ た鈴 木論文が「有 意義な 発見」を し た
.自主的献納論批判
辻 本書 刊 行 の翌 年 、 辻 本氏 の自 主 的 献納 論 を 厳 しく 批
動 史 の 忘 却 ( 一 )( 二 ) 」( 以 下 高 宮 論 文 と す る ) を 発 表
た洞村移 転研究史上に大きな 地歩を 占めるも のと 評価 し
と の 評 価 は 正 鵠 を 射 たも の だ し 、 良 か れ 悪 しか れ 「 そ の
し、鈴木論文 について 「部落問題の歴史的研究の分野だ
さて 、そ のように評価で きる高宮論文が「移 転論をめ
なければならない。
意 義 な 発 見 」「 そ の 後 の 研 究 に 基 本 的 な 分 析 視 角 を 提 示 」
けでなく奈良県近代史および日本近代史研究における有
判する論考を発表したのが高宮尚彦氏で ある。
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『 研究 紀要 』第 10号
あ るこ と が確 か めら れ る が 、 先 に見 た鈴 木氏と 辻 本氏 の
思想 の本源的な差 異に源を持つも の のようで あ る ため小
ぐ る 諸 論 点」 と して 取 り まと め よう と し た 論 点 は 、
a移転問題の起源
論で はや はり 立ち 入 って 論 じるこ と は しな い 。
ば、吉岡宗十 郎=吉岡亀太郎同 一人物説は正しく、吉岡
cは後に詳しく検証するが、ここで 簡単に触れておけ
b移転問題の本質
c吉 岡 宗十 郎 =吉 岡 亀 太 郎同 一 人 物 論
d(洞村 の面 積・移 転地面 積・ 下賜 金総 額 の)基 礎 的
つ 間 違 って い る 。と い う の は 、移 転 時 の洞村 に は 吉 岡 亀
亀太郎移 転反 対 者説、賛成者 説はい ずれも 正しい し、か
e移転反対者の実像
太郎が二 人存在したためで ある。一人は借地・借家層住
数値
f移 転問題と 水平運 動
民 で 戸 主 の亀 太 郎 、 も う 一 人 は 区 政 の 中 心 人 物 の 一 人 吉
を 進 め た 結果 の 混 乱で あ り 、 い ず れ も 成 立 しな い 論で あ
三 論文 へ の 高宮 氏 の批 判 はこ のこ と に 気 づ かな い まま 論
勤 め た亀 太 郎で あ る 。鈴 木 論文 へ の辻 本氏 の批 判 、 辻本
岡宗十郎の子息で 、亀太郎名で楠原宗七のあと の区長を
g 戦 後 の 洞領 返 還 運 動
の 七 点 に 集 約 さ れ る が 、 以 下 そ れぞ れ に つ い て 簡単 に 言
及 して おく 。
aについて は後に詳しく触れるため、また、f・gは
小 論 の課 題 か ら 離 れ る ためそ れぞ れ 言 及 しな い 。
転で あ り 、住 民 側 の自 発 的 献納 によ る 形 式で 進 めら れ た
強 く 批 判 し 、「 移 転 の 本 質 が 政 府 ・ 県 当 局 に よ る 強 制 移
で の 「 天 皇 制 のも と で の 強 制 移 転 」 だ と す る 辻 本 論 文 を
に尽きるも のだが、高宮氏は自発的献納こそが真の意味
と 位 置づ け るこ と は 難 しい だろう 。 ま た 、子 息 の亀 太 郎
が ら 、 移 転先で は宅 地を 入 手 して い る ので 単 純 に 反 対 者
か はわ か ら ない 。 た だ 、 旧 地で は 借 地・ 借 家 層で あ りな
一 切 存 在 せ ず 、 し た が って こ の亀 太 郎 が移 転反 対 か 賛 成
結論を先にいえば、戸主の吉岡亀 太郎に関する史料 は
る。
こ と は、辻 本 氏 の紹 介 し た 史 料 に よ って も 明 ら か 」 だと
は 大正 十 四年 半 ば ごろ の 大字 区長 退 任 まで は移 転 賛成 者
bは先に見た鈴 木・辻本両氏 の天皇 制への視点の比 較
いう。ここから高宮・辻本両氏間の認識に大きな ズレ の
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議 員 候 補者 間 題で 移 転 推 進 者 の楠 原 宗 七 と 対 立 し 、 結果
だ っ たが 、退 任 に 先 立 って 教 宗 寺後住 問 題や 白 橿 村 村 会
転 補 償 が 成 さ れて い る 。 神 武 天皇 陵 地 を 除 い て 計 算 す れ
武 天 皇 陵 地を 除 い て 四万 坪 ( 一 三町 歩 ) 余 り に 対 して 移
宮 氏 の 「 単 純な ミ ス」 説を 生 ん だ よ うで あ る 。残 さ れ た
ば 差 し 引 き 六 町 歩 はど の 差 が生 じ る が 、 こ れ が こ の問 題
次 い で d の 基 礎 的 数 値 の 問 題 だ が 、田 畑・宅 地・溜 池 ・
史 料 か ら 読 み 取 る か ぎ り 三 万 坪 説も 四 万 坪 説も と も に 正
に発言したすべて の論者を混乱させ、辻本氏の批判と 高
墓 地 の面 積や 補 償 金に関 して は辻 本氏 が 取 りまと め た 数
し く 、と も に 誤 まって い た ので あ り 、 洞村 移 転を め ぐ る
うした事実の整理を行う。
字で ほぼ 尽きて おり 、 多 少 の計 算 ミ スはあ るも の の全 体
最大のミステリーがこの点に潜んでいた。
と して 反 対 の 立 場 に 立 つ こ と に な って い る 。 小 論 で は こ
の 論 旨 に 影 響を 及 ぼ すも ので はな い 。 た だ 、 一 見 矛 盾 す
な お、最後の移 転反 対者の実像について はcの吉岡亀
竹末勤氏の論
太 郎 二 人説と 関 連 す る ので そ の 場面で 言 及 す る こ と と し
たい。
.史料 紹介と 鈴 木論文 の再評価
-
-
六 四 頁 )」な の だ と 処 理 し て い る が 、 そ れ は 明 ら か に 高
四三 輯に 発表 され た「 日 本近 代史 研究におけ る 洞部落移
一つは平成十年(一九九八)に「部落問題研究』第一
-
奈良県高市郡白橿村 洞部落に関する史料
-
-
」( 以 下
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るようだが、鈴木論文がいう「洞村旧領面積三万坪」 説
も ま た正しい 指 摘な ので あ る 。
高宮氏は「鈴木良氏は旧洞領面積をなぜ三万坪と した
の だろ う か 。 おそ ら く そ れ は 、 辻 本 氏 が 大 日 本同 胞融 和
高宮 氏 の批 判 に 対 す る 辻本氏 の反 論 がな い ま ま 、竹 末
宮氏の誤認に基づ く処理で あり、鈴木論文の「洞村旧領
転問題の位置
」( 以 下 竹 末 論 文 a と す る ) で あ り 、 も う 一 つ は
翌 平 成十 一 年 ( 一 九 九 九 ) の同 誌 第 一 四 九 号 の 「 近 代 天
紹介
武天皇陵地を 含めて 三万坪(一〇町歩)余りしかな か っ
皇制と陵墓問題
神武陵の拡張と洞部落移転
たのだが、辻本氏が確かめ、高宮氏も了解 したように神
後に詳しく検討するが、移転直前の洞村領は実際に神
面 積 三 万 坪 」説 は あ る 意 味で 正 し い 数 字 だ っ た ので あ る 。
八 三 頁 )と 間 違 え た の と 同 じ く「 単 純 な ミ ス 」」(『 洞 村 』、 勤 氏 か ら 相 次 い で 二 本 の 論 文 が 発 表 さ れ て い る 。
会 の 設 立 年 を 「 一 九 五 〇 ( 明 治 三 十 八 ) 年 」( 『 洞 村 』、
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『 研究 紀要 』第 10号
意 味づ け よ う と す る 研 究 視 点の到 達 」 と 評 価 し た上で 、
づ け 、「 神 武 陵 ・ 橿 原 神 宮 ・ 洞 部 落 移 転 を 日 本 近 代 史 に
そ れ を 「 鈴 木 研 究 主 張 の 骨 格 」( 竹 末 論 文 a ) だ と 位 置
竹末論文aは「洞部落移転問題の全過程を復元しよう
「したが って 、以 後の研究はこ れら の鈴 木研究から 出 発
竹 末 論 文 bと す る )で あ る 。
作 業 」 と 自 身で 位 置 づ け たも ので あ り 、 基 本 的 に は 「 二
す る こ と を 求 め ら れ たので あ る 」
( 同 じ く 竹 末 論 文 a )と
と する報 告について 、今後これを書 継いで い く過程の一
〇世紀初頭における神武陵・橿原神宮拡張に関する断片
竹 末 論 文 a は 続いて 辻 本書 と 高宮 論 文とを 取 り あ げ 、
する。
に関する奈良県行政文書『御料地一件』のごく一部を紹
辻 本書 の 「 主 張と 成 り 立ち と 特 徴 、 そ の自 己 崩 壊 的 な 矛
的な史料と 一九一七年五 月期にはじまる洞部落移 転事 業
介」することを目的にし、あわ せて 鈴木論文以下 の論点
し、高宮論文 の辻本三論文及び辻本書批判の論点整理の
盾」を 高宮論文が批判 し尽くして いると 紹介する。しか
竹 末 論 文 a は ま ず 鈴 木論 文 を 取 りあ げ 、 忠 実 に ト レ ー
際に触れたように、高宮論文の辻本氏批判はいくつかの
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整 理 を 試 みたも ので あ る 。
ス し た上で 、 鈴 木 氏 の 「 歴 史 研 究 に と って の聞 き 取 り の
次 に 竹 末 論 文 b だ が 、こ れ は 「 宮 内 省 陵 墓 専 管 体 系 の
誤認が 確 か めら れ る ので 、改 めて 竹 末 氏 が 辻 本三 論文 及
成 立 経 緯 」 と 「 神 武 陵 拡 張整 備 事 業 の展 開」 の 部 分 が 多
方 法 」( 『 オ ー ラ ル ・ ヒ ス ト リ ー と 体 験 史 』 所 収 、 昭 和
転させられたのは、国家神 道と いう近代天皇制イデオ ロ
くを 占め、大正期の洞村移 転問 題に触れた部分 は 微少で
び辻本書 批判を開陳すべきで はなかっただろ うか。
ギーの形成における一つの恥部を隠し通すためであった
六 十 三 年 、 大 月書 店 ) から 「 一 九 一 七 年 に 部 落 が 強 制移
と い え よ う 」 と の 箇 所 を 引 き 、 鈴 木 氏 の鈴 木 論 文 以 後 の
あり、わ ずかに「神武陵拡張整 備事業の展開」において
析 して い る 。
.部落問題特化論の克服
高木博志氏の論
明 治 三 十 一年 ( 一 八九 八 ) の 兆 域拡 大 の 経 過を 丁 寧 に 分
洞村移 転問 題への関 心のあ りかを 紹介して いる。
また、
「近 代日 本文 化 財 問 題 研究 の課 題に つ い て 」
(『 歴
史 評 論 』 第 五 七 三 号 、 平 成 十 年 )か ら「 陵 墓 研 究 の 中 心
は近代 の問 題で あ る」と する鈴 木氏 の主張を 取り 出し、
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奈良 県立 同和 問題 関係 史料 センタ ー
た移 転論と そ の計 画案」と 紹介されて い る 高 木博志氏 の
竹 末 論 文 aで 「 一 九 一 七 年 以 前 に お け る 最 も ま と ま っ
に紀元二六〇〇年記念事業のため「畝傍・久米・大久保
張のため民家六戸が移転したと いう事実を紹介し、さら
-
-
第五 七 三 号 、 以 下 高 木 論 文 aと す る ) は 、 洞村 移 転 の 前
わせて 二 四〇戸が神 武「聖蹟」 の景観づ くりのなかで 移
「近代神 苑論 伊勢神宮から橿原神宮へ 」
(『 歴 史 評 論 』 の 一般 村 の 民 家 一 九 四 戸 お よ び 拡 張 区 域 外 の 四 六 戸 、 あ
後 者 は よ く 知 ら れて い る 事 実 だ が 、 洞村 移 転問 題 の 文
転させられた」ことを指摘する。
(一九八八)の神 武天皇 陵拡張と 橿原神宮 形成の動きが
脈に改めて 投げ入れ、論じたのは高木論文bが最初で あ
提に、日清戦争の勝利を 記念 して 行わ れ た明治三十一年
あ り 、「 神 苑 形 成 と い う 文 脈 の な か で 洞 部 落 が 移 転 さ せ
り 、 こ れ に よ って 鈴 木 論 文 以 来 辻 本 ・ 高 宮 ・ 竹 末 各 氏 に
ら かに し たも ので あ り 、 洞村 移 転を 部 落 問 題 の み に特 化
点 在 す る 白 橿 村 の 数 カ 大 字 の移 転 計 画 が あ っ た こ と を明
想とそ の実現のための具体的事 業、ここで はたとえば橿
を解放すること に成功した高木氏も 、近代国家の統治構
ただ、部落問 題への特化と いう 呪縛から 洞村移 転問 題
難にな ったようで ある。
引 き 継 が れ た 「 部 落で あ る が ゆえ の移 転」 論 の 維 持 が 困
ら れ た」 と す るも ので あ る 。
具体的には、大正七年以前、明治三〇年代前半に橿原
で きな い ので はな い かと の新 たな 提案 を 行 っ た。鈴 木論
原神宮神苑造成計画や紀元二六〇〇年 記念事業などを 指
神 宮 神 苑づ く り の た め 洞村 を 含 む 畝 傍 山 東麓 か ら 東北 に
文 の「基 本的な 分 析 視角」 に差 し挟まれ た二番 目 の疑義
弊 か ら は 自 由で はな か っ た よ う で あ る 。
して い る が 、そ う し た「 大きな 物 語」 に 特化 す ると い う
ま た 、そ の 後 発表 さ れ た 「 近 代 に おけ る神 話 的 古 代 の
である。
-
遂 行 に つ いて 国 や 府 県 、 市 町 村 と い う 公 的 機 関 の 強 固 な
高 木 氏 は む しろ 、 何 ら か の 公 的 事 業 計 画 が あ り 、 そ の
蹟 」」
( 『 文 化 財 と 近 代 日 本 』、山 川 出 版 社 、平 成 十 四 年 、
実 現 意志 が 働 け ば 、ど の 時 代 に お い て も 、 い か な る 形で
畝 傍 山・ 神 武 陵・ 橿 原 神 宮 、 三位 一 体 の神 武 「 聖
以 下 高木 論 文 bと す る ) に お いて は 、 明 治 三 十 四年 ( 一
あ れそ れ は 実 行 に移 され 、 実現 す る可 能性 が 高いとい う
創造
九〇一)に神 武天皇 陵東辺の白橿村 大字 大久保で 兆域拡
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『 研究 紀要 』第 10号
「権力 意志」 一般 に シフ ト す ること に よ り 洞村 移 転問 題
を 天皇 制へ の特 化 か ら 解 放 さ せな け れ ばな ら な か っ た の
も ので はなかろ う か 。
後 に 取 りあ げ る が 、 おそ ら く 、差 別 的 言 辞 に 満ち あ ふ
事 業 の際 、 元 治 元 年 (一 八 六 四 ) に 高 市 郡 吉 田村 の 安 寧
そうで な い か ぎ り 、 畝 傍 山周 辺で は すで に 幕 末 の修 陵
応 しな か ったに 違いな い 。そ のこと を疑う気は毛頭な い
れ ば 高 市 郡 役 所 の役 人たち まで は差別 的 に し か洞村 に 対
橿村 大字 大久保や 山本・ 久米など の住民 たち 、場合によ
れた建白書を宮内大臣に提出した森 川葆や 洞村 周辺の白
天皇陵周辺において「御陵御兆域内居宅之分」九戸が
が、しかし、奈良県庁・ 内 務省・宮内省の首脳 たち が部
で はな かろ う か 。
「 御 陵 御 普 請 御 役 所 」か ら「 引 払 被 仰 渡 」、 移 転 し た と い
落 差 別 意 識と いう 個 人 の恣 意 に よ って 政 策 を 決 定 す る こ
(一三 )
の安寧天皇 陵整備にともなう吉田村住人の移 転は、洞村
う こ と はい かな る 意 味で あ って も 強 制以 外 に は あ り え な
から 新 しい環 境に、個人と して で はな く全戸が移 ると い
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う 事 実 の 説明 が 困 難 に な る ので あ る 。
純 な 集 積で あ る は ず が な い と 思 う が 、 古 今 東 西 を 問 わ ず
差別は個人の恣意の範疇に止まり続けるとするならば、
と はな か ったは ずで あ る 。 国 家 の意思 は 個 人 の恣 意 の単
い が 、住 み 慣 れ た 場 所と 建 物の放 棄で あ り 、 望 ん だ 結果
洞村移 転 はそ う し た差 別 の問 題と して 一 切 の「 大きな 物
こ の、元治元年 の安 寧天皇 陵 の兆域拡 張による吉 田村
のことで な か ったこと だけは確 かで あろ う 。そ して 、そ
語」 から解放 されな け ればならない はずで あ る。
の住 家 の移 転 は 、移 転 者 の 心 情 はも はや 確 か め よ う はな
の 時 点で すで に 近 代 天皇 制を 美装 す る た め の周到な 都 市
計 画 が 用 意 さ れて い たわ け で は な く 、 単 に 安 寧 天 皇 陵 の
洞村 移 転が 強 制か否 かと 問わ れ れ ば 、住 み慣れ た土 地
移 転 に 半 世 紀 以 上 も 先 行 す る 、 こ れ まで ま っ た く 取 り あ
困難にな ったための移 転だとすればそれは当然「自然に
地震や洪 水など の自 然 災 害 に よって 住 み 続け ること が
い は ずで ある 。
る た め 民 衆 の 犠 牲 を 厭 う も ので は な い と い う 事 実 を 示 す
力 か否かを 問わ ず 、 一切 の政 治権 力 はそ の意志 を 貫 徹 す
げられること のな かった集落移転だが、それが天皇制権
.小論の課題
兆 域 確 保 の 障 碍 にな っ た だ け のこ と で あろ う 。 元 治 元 年
6
奈良 県立 同和 問題 関係 史料 センタ ー
めら れ た場 合 、 たと え 今以上 の恵 ま れ た生活 環 境 が 保 障
よ る 強 制」 に な る だろ う し 、 公 共事 業 に よ って 移 転 が 求
題の本質について 若干のことに言及する。な お、作業の
人物論を 検討し、あわ せて a移 転問 題の起源と b移 転問
数値をめぐって
一 、( 洞 村 の 面 積 ・ 移 転 地 面 積 ・ 下 賜 金 総 額 の ) 基 礎 的
こと を 断 って おき たい 。
過 程で は a c d と 関 連 して 他 の 問 題 に 触 れ る 場 面 も あ る
そ の 意 味で は 洞 村 移 転 は 強制 以 外 の何 者で も な く、 そ
されると して もそ れは強制であろ う 。
れが神 武 天皇 陵周 辺整備 の ため だと すれ ば「 天皇 制 のも
とで の強制移転」となるだろうし、橿原神宮があり、神
武・ 綏 靖 ・ 安 寧・懿 徳 の 始 源 の 四 天皇 陵が 比 定 され た 畝
傍山山麓整備事業のためだとすれば、高木論文bのタイ
洞村 の旧 地及 び移 転先 の面 積 、下賜金総 額と そ の分 配
小 論で 取 り 立て て 論 じな け ればな ら な い 課 題 はほ と んど
に 関 す る基 礎 的 数 字 の 検 出 は 辻 本三 論 文 で 尽 き て お り 、
し た が って 、 ま ずな さね ばならな い こ と は 移 転 に 関 す
な く 、「 は じ め に 」 で 触 れ た よ う に 、 移 転 直 前 の 洞 村 の
強 制移 転」 と い う こ と に な る だろ う 。
る 事 実 関 係 の 、 一 切 の 予 断を 排 し た 正 確 な 確 定 作 業で あ
面積をめぐる問題
を行い、一定の結
目及び面積
積
宅 地
2町 9反 6畝27歩
溜 池
5反 8畝25歩
墓 地
1 畝29歩
神 地
3町 3反 1畝12歩
計
16町 8反 9畝13歩
- 10 -
ト ル を 借 りて 表 現 し た 場 合 「 神 話 的 古 代 の 創 造 の た め の
り 、 強 制 か 否 か 、そ れ が天皇 制 のも と で のこ と か否 か の
がわ ずかに未解 決
るだけで ある。ま
のまま残 されて い
論 議 は し か る 後 に 行 う べ き こ と な ので あ る 。
小論はかかる認識のもと 、洞村移転に関する事実関係
の確定作業を課題とする。
議 論 に 対 立があ る 、 高宮 論 文 に 示され た「移 転論を め ぐ
論 を 得て お き た い 。
ずこ の問 題の挽証
る 諸 論 点」 のう ち 、 d ( 洞村 の面 積 ・ 移 転 地 面 積 ・ 下 賜
表①は移転時の
9 反 4畝29歩
畑
5畝11歩
9町
田
面
種 目
具 体 的 に は 、鈴 木・ 高宮 ・ 竹 末 三 氏 と 辻 本 氏 と の 間で
金総額 の)基礎 的 数値 、 c吉岡 宗十 郎 =吉 岡 亀 太 郎同 一
表① 大正7年の洞村土地種
『 研究 紀要 』第 10号
洞 村 の 田 畑・宅 地・溜 池・墓 地及 び 神 地( 神 武 天 皇 陵 地 )、 か ら 両 村 の 数 字 を 取 り 出 せ ば 表 ② の よ う に な る 。 ま た 、
177円99銭 1厘
両村あわせて 二 〇町 四反九 畝一三歩にな る土地の内訳を、
(一四)
7119円64銭 4 厘
つ ま り 全土 地 の面 積を 示 し たも ので あ る 。あわ せて 一 六
92円72銭 5厘
同じ簿冊にある同 じ表題の史料「高市郡合併町村区域及
3厘
れ、移 転補償 対象 にな らない神 武天皇 陵地(神 地)三町
3709円
町 八反九 畝一三歩とな るが、すで に宮内省に買い上げら
三 反 一 畝 一二 歩 を 差 し引け ば 一三 町 五 反 八 畝 一歩と な り 、
8畝19歩
こ れ が 移 転 補 償 の 対象 にな っ た 洞村 の 全 土 地面 積で あ る 。
1 反 9畝14歩
6畝 1 歩
1反 4畝20歩
8 反 5畝 2 歩
野
しかし、以下の作業のように田畑・屋敷等の数字をい
1町
林
原
かに検討して も大正七年 の洞村 の全土地は一三町五反八
明 治 十 八年 ( 一 八 八五 ) 十 一 月十 八 日 に 大阪 府 か ら 内
- 11 -
畝 一 歩 に な る は ず が な い ので あ る 。
(一 五)
務省に提出され た山本・ 洞両村 領域の取り扱いに関 する
伺いがあるが、洞村 は「元穢多ト称シ村名アリテ土地ナ
キ ノ 部 落 」、 い わ ゆ る 「 無 地 村 」 で あ る た め 、 洞 村 を 山
本村 に 合併 す る か 山 本村 の 土 地 を 分 割 す る か二 論 が あ る
1町 9反 1畝28歩
山
2町 3反 2畝16歩
18歩 1町 7 反 1畝28歩
計
村
4畝16歩
4 反 6畝 2 歩 1町 4 反 5畝26歩
畑
内務省は大阪府案を認め、これにより山本村と 洞村は土
洞
20町 4 反 9畝12歩
洞
村
本
山
といい、協議 の上洞村を存続させる案が選ばれたとする。
85円26銭 6厘
9町 9 反 3畝21歩
租
地
価
地
別
反
5畝22歩
8町 5反 7畝28歩 6町 4 反 7畝24歩 15町
田
地 の分 割を 行 って 完 全 に 別 村 にな っ たので あ る 。
明治21年の山本・洞両村の反別内訳
表③
両 村 の 土 地分 割 に 関 す る 直 接 の 史 料 は 今 のと こ ろ 見 つ
(一六 )
3410円64銭 1 厘
計
10町 5反 5畝21歩 9町 9 反 3畝21歩 20町 4反 9畝12歩
計
か ら な い ので 、 明 治 二 十 一 年 (一 八 八 八 ) の町 村 合併 時
に県に提出された資産表「高市郡合併町村 区域及資力 調」
山本村 10町 5 反 5畝21歩
村
6反
地
宅
明治21年の山本・洞両村反別・地価・地租
表②
奈良 県立 同和 問題 関係 史料 センタ ー
ことが明らかになる。.
山 本村 五 一・ 五 % 、 洞村 四 八・ 五 % の比 率で 分 割 され た
村 と も に表 ② の 反 別 と 表 ③ の 合計 反 別 が 一 致 して お り 、
資力 調」 から 取 り 出せ ば表③ のよう にな る 。 山 本・ 洞両
で計算すれば同じく一九町四
六 畝二 九 歩 と な り 、 四 合 一 勺
ば山本村領面積は一六町二反
る。仮に四合九勺で計算すれ
が 得 た全土 地面横 は九町 九 反三 畝二 一歩で あること が確
山 本村 領 面 積 二 〇町 歩 は 神 武
こ の作 業により、分割前の
反四畝一三歩となる。
か め ら れ たが 、 次に解 決 しな け れ ばな らな い こ と は 、分
天皇 陵比定以前の面積とほぼ
以 下 に よ り 、 明 治 十 九 年 の 山 本 ・ 洞 両 村 の 分 割で 洞 村
割に際 して 神 武天皇 陵 地がど のように処理 され た のかで
り 、明 治十 年 の 一 九 町 一 反 四
同 じで あ るこ と が 明 ら か にな
明治十年(一八七七)の「大和国第四大区弐小区町村
畝二一歩、明治二十一年 の二
分割前の山本村領に神 武天
- 12 -
ある。
里 程 表」で は 山 本村 の総 面 積は 一 九 町 一 反 四 畝二 一 歩と
〇 町 四 反 九 畝 一 二 歩 は そ れぞ
(一 七)
な って い る ので 、明 治 十 九 年 の 数 字 と 多 少 の 違 い は あ る
皇 陵 地 が 含 ま れて い たこ と は
346石 7斗 6升 2合 6勺
4合 9勺
9町 3反 7 畝12歩
129石 1斗 7升 1合 1勺
4合 6勺
中
れ神 武天皇 陵 地を 内に含ん だ
こ のな かに 、つ まり二 〇町 歩 前後の分 割前の山本村 土
23町 4反 9 畝10歩
田
が 、宅 地・田 畑 面 積 にかぎればほと んど差 はな く 、分 割 前
地に神 武天皇 陵が 含まれて いるかどうかだが、神 武天皇
こ のように確かめること がで
陵地が分割後には山本村に入っ
一歩あたりの高
和田出屋敷
高
歩
名
畝
村
の 山 本 村 総 面 積 を 二 〇 町 歩 前 後 と 見 て お け ば よい だろ う 。 面 積 だ と い う こ と に な ろ う 。
陵 が 山 本 村 領 内 に 比 定 さ れ る 以 前 の 文 化 九 年( 一 八 一 二 )
き たが 、 次に問 題にな る のは
④ に 示し た よ う に 山 本村 に 近 接す る 田 中 ・ 和 田 出 屋 敷・
た のか 、 洞村な のか 、 あ る い
(一 八)
の 山 本村 の村 高 は 二 三 九 石 一 斗 六升 六 合 七 勺で あ り 、 表
鳥 屋・ 石 川村で は 一歩 当 たり四合一勺 から 四 合九 勺と な
山本村と周辺村々の一歩あたりの石高
表④
鳥
屋
42町 6 反 4畝 7 歩
527石 7斗 6升
4合 1勺
石
川
29町 1 反 6畝 9 歩
393石 9斗 3升
4合 5勺
『 研究 紀要 』第 10号
は両村 に またが って い たか のい ずれ か の確 定で あ る。
二 点 目 は 、比 定 さ れ た 当 時 の神 武天皇 陵 敷 地 の 大 部 分
が 洞村住民 の所有 地で あ り 、本来 の所有関 係をふ まえ た
持 主と して 、 洞村 住 民と と も に 山 本村 ・ 大 久 保村 ・ 慈 明
(一 九)
神武天皇陵地の面積は、明治十八年(一八八五)の
(一八五九)九 月の「御陵筆記」 には神 武天皇 陵敷地の
分割が行われたという理解である。しかし、安政六年
畝 三 歩 と な っ て い る 。 ま た 、『 御 陵 墓 ニ 関 ス ル 地 種 変 換
寺 村 ・ 四 条 村 ・ 今 井町 の 住 民 の 名 が 多 数 あ げら れ て い る
( 二一)
一二 歩 、 大 久保 村 領で 七 反五 畝二 一 歩 、あ わ せて 四町 二
「管内御陵墓反別録」 によれば山本村領で三町二反六畝
一件』中の「御陵地所坪数明細帳」で は一二一四三 坪と
ので こ の可 能性 はま っ たくな い 。
と すれ ば 、三番目と して 山 本村 が神 武天皇 陵 地を 洞村
( 二〇 )
なり、反別に直せば四町四畝二三歩である。多少の違い
が両帳であるが、山本村領に限れば三町二反六畝一二歩
( 一 八 六三 ) に 陵 地と して すで に買い 上 げ ら れて い る の
に押し付けたという理解以外になくなるが、文久三年
だ か ら村 領 域 に 陵 地 が あ って も 明 治 十 九 年 時 点 の村 政運
と すれば、大正七年 の洞村 全土地の書き上げで は「神
地」 と して 三 町 三 反 一 畝 一二歩 が 記 さ れて い る ので 、旧
営 上そ れ ほ ど の 支 障 はな いと 思 わ れ る た め 、こ の見方も
が 神 武 天 皇 陵 敷 地と して 収 公 さ れ たと 見 て よ い だ ろ う 。
山 本村 領 内 の神 武 天 皇 陵 地は す べて 分 割 後 の 洞村 に組 み
それほど 説得力を持つものにはならない。
し た が って 、神 武 天皇 陵 地 が 明 治 十 九 年 の 山本・ 洞 両
入れられたと 考えて よい。
神 武 天 皇 陵 敷 地 の す べて が 洞 村 領 に 編 入 さ れ た 理 由 は
村 の分 割に際 して 洞村 領 に入 った理 由は正確 に はわ から
そ のな か に 神 武 天 皇 陵 敷 地 が 含 ま れ たと い う 理 解 が 一 つ
地が 洞村領域に入 っただけ だと 考えて おけ ば よい のだろ
分割した結果、山本村領東北部に位置する神 武天皇 陵敷
村 も 関 係 者 す べて が 了 解 す る 公 的 な 洞 村 の村 領 域 が あ り 、 な い こ と に な る 。 当 面 は 山 本 村 領 域 を 単 純 に 東 西 二 つ に
わ か ら な い が 、 江戸 時 代 の 山 本村 に は 領 主も 他 村 も 山 本
で あ る 。 しか し 、先 に 引い た明 治十 八年 の大阪 府 伺い に
う。
い ずれ に して も 、 山 本村と 分割し た 洞村 領 は表② のよ
は「元穢多ト称 シ村 名アリテ 土地ナキノ 部落」とあ る の
で それ はほ と んど 可 能 性 が ない解 釈で あ る 。
- 13 -
奈良 県立 同和 問題 関係 史料 センタ ー
一歩となり、そ のな かに三町二~三反歩 の神 武天皇 陵地
う に 田 畑・宅 地・ 山林・ 原 野 を あわ せて 九 町 九 反 三 畝二
正 七 年 五 月 に 買 い 上 げ 土 地 と して 一 筆 限 り の 調 査 が な さ
象 は洞村領域に限られて いることが一つ 、もう 一つ は大
償 対象 と な っ た 面 積 は 神 武 天皇 陵 地三 町 三 反 一 畝 一 二 歩
転 時 の 洞村 に はあ る は ず が な い の に 、し か し移 転 時 に 補
になる。本来これだけの土地しか分割以後の、つまり移
領 域から差 し引い た六町 六反二 畝九歩 しかなか ったこと
き る 洞 村 の 土 地 は 、 神 武 天 皇 陵三 町 三 反 一 畝 一二 歩 を 村
明治十九年 の分 割時に 洞村領 内で 何ら か の用益が期待で
町九反五畝二二歩ということになる。
村 領 に限られ ること にな るわ け だから 、い よい よ 幻 の六
領 と 見 る 以 外 にな い 。と す れ ば 、 対 象 の 土 地 が す べ て 洞
イノ シリ は宅 地だけな ので 、下ノ 久保も含めすべて 洞村
大 久 保 で 確 認 できないし 、出 口 に は 溜 池 があり 、イ ヌ イ・
す べて 洞 村 領 域で 確 認で き 、 四 字 も 周 辺 の 山 本・ 四 條 ・
出口 、 イ ヌ イ・ イノ シリ・下ノ 久保 の 四つ の字 を除 いて
が 含 ま れ て い た こ と が 明 ら か に な る ので あ る 。と す れ ば 、 れ た 土 地 の 二 二 の 小 字 、 そ れ を 表 ⑤ に 示 し た が 、 そ の 内
を除いて一三町五反八畝一歩となり、そ の間に六町九反
く 指 摘 さ れ ず 、 し た が って 放 置 さ れ た ま ま に な って い る
こ の誤差 はこ れ まで の洞村移 転研究史 に おいて ま った
の記録はない。しかし、明らかに全体の面積の嵩上げが
困難だし、そう した操作が行わ れたことを 跡づける一切
く 、移 転 時 の史 料 か ら そ んな 時 間 的 余 裕 を 見 出 すこと は
一 筆 ごと に 平 等 に 嵩 上 げ す るこ と は 容 易 い 作 業で はな
問 題で あ る 。ど う 考える べ き か だが 、 六町 歩を 上 まわ る
かめられるため、増加分六町九反五 畝二二歩は土地買い
行 わ れ 、 本 来 の 六町 六 反 二 畝 九 歩 のほ ぼ 倍 増 の 数 字 が 確
五畝二二歩という差が生じる。
のな かで 増加 したとは到底考えられない。分 割された一
上 げ に 当 た って 何 ら か の 数 字 の 操 作 が 行 わ れ た 結 果 と 見
土 地 が 明 治 二 十 一年 か ら 大 正 七 年 まで の三 〇年 間 に 洞村
〇 町 歩 に は 山林・原 野 も 含 ま れ る の で 今 さ ら「 新 田 開 発 」
こ れ まで 、 大 正 四 年 か ら 橿 原 神 宮 境 内 拡 張 に と も な っ
る 以 外 に はな い 。
ま た、他村 領 域にあ る 洞村 住民の所有 地が カウ ント さ
て 白橿村 大久保・ 畝傍・ 久米の三 大字 の田畑・ 家屋が移
による増加があろうはずはない。
れていると の見方も 成立しない 。な ぜなら、移 転補償対
- 14 -
『 研究 紀要 』第 10号
転して い る。そ の補償金額と の比較して 洞村 が著しく不
円 が 計 画 さ れ 、 五 円 が 支 払 わ れて い る 。
五 〇 〇 円案に納 ま って い る 。同 じく宅 地 は 一 坪五 円 ~七
一反歩
三九三円~
八五 〇 円 ~ 一 二 〇 〇 円
は、
こ れ に 対 し 、 大 正 四 年 か ら 始 ま る 橿 原 神 宮 境 内 拡 張で
( 二 二)
利で あ ったと の理 解 が あ る が 、右 の仮 説が 正 しいと す れ
ば 、逆 に 洞 村 は 全 体と して 際 だ っ た 優 遇 を 受 け たこと に
田
一反歩
なる。二つ の移 転に関する数字を比較して みよう。
ま ず 、 洞 村 移 転 に 際 して は 、 田 一 反 歩 八 〇 〇 円 ~ 一 〇
畑
八五〇円
〇〇円が立案 され、結果と して 八〇〇円が支払わ れて い
一〇円
く 対応をひ そ か に 行 って い たと見て も よ さそ うで あ る 。
を進捗させる ためだったと はいえ、洞村住民に有利に働
制したと の批判を受け続ける宮内省・奈良県当局も移 転
求 め ら れ る が 、鈴 木 論 文 以 来 強 圧 的 ・ 差別 的 に 移 転を 強
移転補償については今後より正確な事実関係 の確定が
さ れ たと 結 論 づ け な けれ ばな ら な い ので あ る。
に 一 〇 円 前 後 の 補 償 が な さ れ た こ と に な り 、 極 めて 優 遇
一反歩に一五〇〇円、畑一反歩に一〇〇〇円、宅地一坪
て 補 償が 行わ れて い る 洞村 の場 合 、 結果 的 に は 実際 の田
だろ う 。と す れ ば 、 実 際 の 面 積 のほ ぼ 倍 増 の 数 字 に 対 し
的な差 はなく、ほぼ 同 程 度 の 補 償が行わ れ たと 見て よい
と な って い る 。多 少 洞村 の 方が 低い が宅 地を 除いて 決 定
( 二三 )
一坪
新
木
生
俵
白 土 花
上 ノ 久 保
ツホネカサ
北 ノ 辻
ソ
ワ
ツユマタケ
ウ ル メ
ツ
ユ
ブ タ イ
洞
谷
川
端
東 ツ ユ
出
口
垣 ノ 内
西 ノ 谷
イ ヌ イ
ア ラ タ
ツ ユ 東
イ ノ シ リ
下 ノ 久 保
計
- 15 -
宅地
小字名
田
10
8
14
4
0
6
14
6
18
8
8
18
8
6
2
0
12
0
13
5
0
1
161
畑
0
2
0
3
8
0
1
1
4
0
0
4
2
3
1
0
3
0
0
1
0
0
33
宅地 溜池 墓地 合計
2
0
0
12
11
0
0
21
3
0
0
17
0
0
0
7
0
0
0
8
33
10
0
49
0
0
0
15
5
0
0
12
9
2
0
33
2
0
0
10
0
0
0
8
65
1
0
88
7
0
0
17
0
0
0
9
1
4
0
8
1
0
1
2
7
2
0
24
12
0
0
12
8
1
0
22
3
0
0
9
3
0
0
3
0
0
0
1
172
20
1
387
る。また、畑一反歩で は五〇〇円~六〇〇円が立案され
大正 7年買 上地 の小 字別 地種筆 数
表⑤
奈良 県立 同和 問題 関係 史料 センタ ー
二、吉岡 亀太郎移転反対者説をめぐ って
残 るも う 一つ の問 題 、吉 岡 亀 太 郎移 転 反 対 者 説を 次に
で 述 べたよう に吉岡亀 太郎は二 人存在 し、吉岡亀 太郎は
二人ともに移 転当初 からの反対者はなく、内一 人が大正
の人が 強く 反 対 したそ うで す」と い い 、吉 岡亀 太郎を 移
き 取 り に よ り 、「 吉 岡 亀 太 郎 と い う 青 年 を 中 心 に 、 少 数
鈴 木氏 は 洞 水 平 社 の活動 家 だ っ た吉 岡 喜 代 松 から の聞
太郎を戸 主と する一戸 の存在が確 かめられる(こ の亀 太
の家 族名が書きあげられて いるが、これによれば吉岡亀
九 二 二 ) に 作 成 さ れ た 「 追 加 御 下 賜 金 分 配 表」 に は 各 戸
最 初 に 吉 岡 亀 太 郎二 人説を 立 証 す る 。 大 正 十 一年 ( 一
して 移 転 反 対 の 立 場 に 立 つこ と に な っ た ので あ る 。
十 四年 に 移 転事 業を 推 進 し た楠 原 宗 七 と 対 立 し 、 結果 と
転反対の先頭に立った人物と特定する。高宮氏も「はじ
して 妻とおぼ しき 女性が一人、息子と思わ れる男性が二
郎 を 以 下 戸 主 亀 太 郎 と す る )。 こ の 亀 太 郎 家 に は 家 族 と
検証 して い く 。
め に 」 で 紹介 し た よ う に 、 亀 太 郎 が楠 原 宗 七 の 後 任 区 長
と する 一 戸 が あ り 、 家 族 は子 息 に 亀 太 郎と も う 一 人の 男
人、娘が二人の都合六人いる。一方、吉岡宗十郎を戸主
( 二四 )
に就任したことを 区政刷新運 動の結果と 考え 、吉岡亀 太
郎移 転反 対者説の立場を崩そうと は しな い。
一 方、 辻 本 氏 は 吉 岡 喜 代 松 の 聞 き 取 り 内 容 は 否 定 しな
つまり楠原宗七の後任区長 就任後の吉岡亀太郎の動向か
に は戸 主亀 太郎と子 息 亀 太郎 の二 人が同 時に存在 し たこ
息 亀 太 郎 と す る )。 こ れ に よ っ て 、 大 正 十 一 年 時 点 の 洞
い も の の 、し か し な が ら 史 料 に 現 れ る よ う に な っ た 後 の 、 子 、 娘 と お ぼ し き 女 性 が 二 人 い た ( こ の 亀 太 郎 を 以 下 子
ら亀太郎を移 転反対者と位置づけることもで きないまま
とが明らかになる。
と 宗十 郎 は同一 人 物で はな い かと い う言葉 に 導 か れ 、亀
は 安 政 六 年 ( 一 八 五 九 ) 十 月 八 日生 ま れ と な って い る の
宗十 郎は大正七年 の「大字 洞ニ於ケル土地所有 者」で
( 二 五)
苦 慮 を 重 ね る 。そ して 、父 七 郎氏 のア ドバ イ ス 、亀 太 郎
太 郎を 条 件付 賛 成派と 評 価 を 替え、自 主 的 献納 論 に 発展
で 、 大正十 一 年 に は 六 三 歳 に な って お り 、 息 子 亀 太 郎 の
年齢は記されていないが、単純に考えれば三 〇歳台後半
させてい ったので あ る 。
しかし 、三 氏と も に 誤 って いた ので あ り 、
「はじめに」
- 16 -
『 研究 紀要 』第 10号
に はな って い る だろ う 。 宗十 郎 は現在で こ そ そ れ ほ ど の
これは買い上げ地一覧では中村浅七所有地で一九坪となっ
に よ れ ば 、吉 岡 亀 太 郎 の 元 の 居 住 番 地 は 一 八 六 番 で あ り 、
太 郎 は 三 〇 坪 地で あ る 。 ま た 、
『生 業扶助金支出命令綴』
( 二七)
高齢と は言えないが、大正時代後半で は相当の高齢者と
て い る ので 借 地 だ ろ う 。 一 方 、 宗 十 郎 家 は 一 六 四番 及 び
一 二 九 ノ 二 に 宅 地 を 所有 して おり 、 一 六 四 番 地は 一 一 一
主亀 太 郎 は 土 地 所有 者で はな い た め 先 の 「 大字 洞ニ 於 ケ
ル 土 地 所 有 者」 に 現 れな い ので 年 齢 は 特 定で きな い が 、
坪 、 一 二 九 ノ 二 番 地は 一 九 坪な ので 、 一 六 四番 地 に 居 住
見られて い たと 考えて 差 し支え はない だろう 。一方、戸
妻 帯 して い る し 、子 供も 四 人い る ので そ れほど の 若年と
して い た のだろ う。
る 「 御 受 書 」 だ が 、「 区 長 及 評 議 員 并 ニ 部 民 一 同 連 署 」
認できる亀太郎だが、宗十郎は大正六年九月十九日の移
と こ ろで 、 大 正 十 一年 に は 吉岡 宗十 郎 家 内 人と して 確
存したことが明らかになる。
る 吉 岡 亀 太郎と 吉 岡 宗 十 郎 の 子 息 の吉 岡 亀 太 郎 が 二 人併
以 上 の 作 業 に よ って も 、 移 転 時 期 の 洞村 に は 戸 主で あ
は 考 え ら れ な い 。おそ ら く 三 〇歳 代な かば は す ぎて い た
ので はない だろう か。
ま た 、 右 の二 点 の 史 料 と は 別 に 、 吉 岡 亀 太 郎 が 同 時 に
現れる史料がある。大正十一年 の御下賜金の保管に関す
と の肩書 き を 付 けて 最初 に楠 原 宗 七 が 署 名 捺 印 し 、次い
転「同意書」と九月二十二日の「御願」には楠原宗七に
( 二六 )
で 天川松太郎、吉岡亀 太郎、井上喜八郎、辻本七郎平と
次いで そ の名を現わ すように、おそらく評議員と して 洞
(二九 )
続 き 、 総 員 一 九 四名 が 署 名 捺 印 して い る が 、そ のな か の
村を代表する立場にあ ったのだろう。しかし、翌 大正七
(二八 )
最初 から 数えて 一二五番 目 に吉 岡亀 太郎が署名捺印 して
年 六 月 十 八 日 の「北 海 道 植 民 地 視 察 ニ 関 ス ル 願 出ノ 件 ニ
(三 一 )
い る 。三 番 目 の吉 岡 亀 太 郎を 評 議 員 、 一二 五 番 目 の吉 岡
付 照 会」、 同 年 七 月 の 「 規 約 書 」、九 月 の 「 北 海 道移 転 願
(三 〇)
亀太郎は一般の村民と 考えて よいと思うが、ここでも二
い」 に は総代と して の署名 捺 印 者から 宗十 郎 の名 前が 消
こ の亀 太 郎 を ど う 見 る か だ が 、 高宮 氏 が 想 定 す る 「青
え亀太郎が登場する。
(三 二)
人 の亀 太 郎が 存 在 し たこ と が 確 かめら れ る 。
ま た 、移 転 地で は吉 岡 宗十 郎と吉 岡 亀 太 郎 がと も に 宅
地の割り当て を受けて いるが、宗十 郎は一〇〇坪地、亀
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は「青年 層の立ちあがり」によって 区長 に就任したと 高
原 宗七 の公 金横 領 問 題を め ぐ る村 取 刷新運 動が 表 面 化 す
年層の立ちあがり」による区政民主化の実現、つ まり楠
複雑な模様の印影と は明らかに異な る。おそらく当初の
用 し た 印 影 は ( 吉 岡 ) で あ って 、 他 の 署 名 者 が 使 用 す る
宗七らと 並んで 村 総 代 の一 人と して 登 場す る亀 太郎 の使
こうした見方を裏付ける根拠もある。大正七年に楠原
亀 太 郎 は 独 立 し た 戸 主で は な く 、 そ の た め 自 身 の 実 印 を
る のは大正十 一年 のことで あり、したが って こ の亀太郎
宮氏が推定する戸主亀太郎で はあり得ず、子息亀 太郎と
持 たな か ったと いうこと だろ う が 、大正十二年十 月六日
に 「 教 宗 寺 移 転 下 賜 金 願 書 」 に 区 長 と して 登 場 し た 亀 太
(三 四 )
見る以外にないだろう。
とすれば、子息亀太郎は大正七年六月十八日の北海道
郎 は 堂 々 と し た実 印 を 使 用 す る よ う にな って い る 。 宗 十
(三 三 )
視察願書で 「右自分等居住スル大字地域全部ヲ 今般宮内
郎 に 代 って 戸 主 に な っ たと い う こ と だ ろ う 。
(三 五)
さて 、 子 息 亀 太 郎 は 大 正 十 二 年 (一九 二 三 ) 十 月六 日
省へ献納御採納相成候ニ付、此機ニ当リ大字住民ノ一部
植 民 地 へ移 住 ノ 義 奨 励 致 居 候 処 」と い い 署 名 捺 印 して い
補 問 題で 楠 原 宗 七 と 対立す る まで はむ しろ 積極 的な 移 転
子息亀太郎は、後に見る教宗寺後住問題や白橿村会立候
九 月 二 十 日 に は 大 字 の共 同 経 費 確 保 の た め 御料 地 に 編 入
教 宗 寺 の 移 築 に 力 を 注 ぎ 、ま た 、大 正 十 三 年 ( 一 九 二 四 )
十 四年 初 め ご ろ まで 区長 を 勤 めて い る が 、 就 任 当 初 か ら
る が 、移 転 に 反 対 し て い る 様 子 は ま っ た く 窺 え な い ので 、 の 教 宗 寺 移 転 下 賜 金 願 書 に 区長 と し て 登 場 し 、 以 来 大正
賛 成 派 だ っ たと 見 な さな け れ ば な ら な い ので あ る 。
移 転 の 後 始末 にも 積 極 的で あ っ たが 、 大正 十 四年 四 月 ご
され た旧 洞村領 の一部 払い下げを 奈良 県に願い 出るなど 、
れ な く な る が 、移 転 補 償 の 支 払い 対象 と して は 常 に 登 場
ろ には区長を辞任し、再び区長に就任した楠原宗七と 対
な お、大正七年 以来、宗十 郎は洞村 の公的文書 には現
す る 。 大正 七年 に 宗十 郎 は 六 一歳 にな って い る た め 、こ
立するようになる。
新堂幸治郎から 奈良 県知 事 に当て た報 告書 に は 、水平社
(三 六 )
吉 岡 亀 太 郎 のこ う し た 態 度 の 変化 に つ い て 、 高 市 郡 長
うした事実から想定できることは、還暦を迎えた宗十郎
が 村 の公役 は子 息 亀 太 郎 に 譲 りな が ら も 、 戸 主で あ る 立
場 は譲 ら な か っ たと い う こ と だ ろ う か 。
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『 研究 紀要 』第 10号
「大正十年八月十七日大字 洞天川松太郎外拾名ニ下賜セ
員吉岡喜代松及び鴨公村 飛騨 の水平社員宗川勘四郎から
と見る以外にな さそうだ。と すれば、借家・借地住民 の
木氏 の聞 き取 り はこ の時 点で の吉岡亀 太 郎 の 動き だ っ た
宅 地 の 所有 が 実 現 される 立 場と して む しろ 移 転賛 成 者で
戸 主亀 太 郎を 取 り 立て て 反 対者と 考え る 必 要 は ま ったく
ら れ た が 、「 目 下 平 穏 ニ 帰 シ ツ ヽ ア ル 該 大 字 ニ 於 イ テ 前
あ っ た ろ う し 、特 に 区 政 に 発 言 権 を 持 っ た と も 思 え な い 。
なくな り 、戸主亀 太郎は借地・ 借家層と して 移 転による
述 ノ 如 キ 事 由 ヲ 申 出候有 力 ナ ル 原 因」 と して 、 教 宗 寺 後
何 よ り も 、 大 正 十 四 年 ご ろ の 対 立 に 関 して は 史 料 が 残 る
地畦 畔 代 金 ニ 関 ス ル 件 」 の二 点 に つ い て 疑 義 が 申 し 立て
住 問 題 を め ぐ って楠 原 宗 七 と 吉 岡 亀 太 郎・ 吉 岡 喜 代 松と
が 、 大正七 年 時点で 吉 岡 亀 太 郎 が 移 転に 反 対 して い るこ
ラ レ タ ル 慰 労 金 五 百 五 拾 円 ノ 処 分 ニ 関 ス ル 件 」「 献 納 土
の 間 に 意 見 の 対立が あ り 、 結 局楠 原 宗七 側 の 推 薦 者 が 住
とを窺わ せる史料は一切見つからない。
ニ 風 波 ヲ 起 コ ス モ ノ 」 と 断 じ て い る 。「 目 睫 ニ 迫 リ ツ ヽ
シ テ 、楠 原 宗七 ヲ 排 斥 セ ムト ス ル 私 情 ノ 発 露 ニ シテ 平 地
裏付ける材料もない。先にも見たように、子息亀太郎は
材 料 はな い も の の 、 子 息 亀 太 郎 が 反 対 者で あ っ たこと を
なかに借地・ 借家層の戸主亀太郎がいたことを否定する
以 上 を 取り ま と め れ ば 、 移 転 問 題勃 発 当 初 の 反 対 者 の
職 に 就 任 し た た め の「 感 情 上 ノ 問 題 ト 」、「 目 睫 ニ 迫 リ ツ
ア ル村 会議 員選 挙 」 と は大正 十 四年五 月十 九 日 の白 橿村
はや くも 大正七年な かばには洞村を代表する一人と して
ヽアル村会議員選挙問題等ニ纏ル幾多感情上ノ疎隔ヨリ
会議 員選挙 だが 、吉岡宗十 郎が一人旧 洞村 から 当選 して
区政に参加 して おり、大正十二年 に 区長 に就任して から
楠 原 宗七 はそれ まで 村 会 議 員を勤 めて お り 、 当 時 ま だ 四
村 会議 員選挙を め ぐ って のこ とであ り 、そ れ は 大正十 三
子息亀太郎が楠原宗七と 対立するのは教 宗寺後住問題と
こ の 選 挙 を め ぐ る「 感 情 上 ノ 疎 隔 」の 内 容 は 不 明 だ が 、 も 特 に 楠 原 宗 七 と 対 立 し て い る 様 子 は な い 。繰 り 返 す が 、
(三 七)
いる。
八 歳 で 自 身も な お 立 候 補 を 希 望 して い た の だ ろ う か 、 吉
年 後半あ たりから 表面化 したも ので あ る 。 したが って 、
鈴 木氏 の 聞 き 取 り は 、 そ の 内 容 を 正 し く 伝 え 、 話 者も 事
岡宗十郎(亀 太郎)の立候補に反対したのだろう。
こ う し た 対 立 のな かで の吉 岡亀 太 郎 の 動きで あ り 、鈴
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奈良 県立 同和 問題 関係 史料 センタ ー
実 を 伝 え て い る と 仮 に 考 え ら れて も 、 そ の 時 期 が 違 って
い たと 見る 以外 にな い ので あ る。
し た が って 、 吉 岡 亀 太 郎や 楠 原 辰 次 郎 は 区 政 刷 新 運 動
の な か か ら 民 主 化 の 輿 望 を 担 って 区 政 の 枢 要 部 に 登 場 し
移 転費用をめぐる区長・役員に対する疑惑が住民に不
こ れ ら のこ と か ら 、 洞 部 落で は 一 九 二 二 年 に 入 ると
たとは考えら れず、
七年には楠原辰 次郎らととともに評議員と して 区政
平 不 満を 呼 び おこ し、青 年 層 の 立ち あ が り によ って 区
・子 息 亀 太 郎 は 当 初 か ら の移 転 反 対 者で はな く 、大正
ここまで の作 業を 取りまと めれ ば、
に か かわ り 、 移 転 にと も な う 住 民 の北 海 道移住 事 業
た楠原区長は暴力によってこれを封じ込めようとし
民 大会な ど 大衆的な 運 動へと 発展 し た。危 機感 を 強め
た。傷害事件の発生によって 、事 態は 区長 の引責・役
を 推 進 して い る 。
・ ま た 、同 十 二年 に 区長 に 就 任 して から 退 任 す る 大 正
員改選など区政刷新へ動き 、吉岡亀 太郎・楠原辰次郎
など かつて の移 転反 対派 が 区政 に進 出し、そ れ まで の
り組んでいる。
・ 借 地・ 借 家 層 住 民 の戸 主 亀 太 郎 が 大 正 七 年 な か ば ご
有 力 者 支 配 に 一 定 の 動 揺 が 生 ま れ た と 理 解 で き る ので
十 四年な かばまで は移 転に関 する事務に 積極的 に取
ろ 移 転に 反 対 して い た かどう かを 判 断で き る材 料 は
はなかろうか。
と の高宮氏の見通し(高宮論文六〇~六一P)は再考が
ないが、戸主亀太郎は移転先で 屋敷・家屋の所有を
実 現 さ せて い る た め おそ ら く 賛 成 の 側 に あ った可 能
求 めら れ るも のであ る 。
最後に、宗十郎=亀太郎説に対する高宮論文の批判箇
性が高い。
・子息亀太郎が移 転に反対するのは教宗寺後住問題と
所、
また、宗十郎(後の亀 太郎)と 言う が、一九二五年
村 会議 員 立 候補 者問 題で 楠 原 宗七と 対立す る よう に
な って から のこ と 、 す な わ ち 、 早くと も 大 正 十 三 年
五 月 一 九 日 付 『 大 阪 朝 日 新 聞 』( 大 和 版 ) は 、 白 橿
村 会議 員選 挙 の当選 者一 八名を報 じて おり 、吉 岡 宗
末ころ、おそら く同十 四年 になって のことで あ る 。
ということになろうか。
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『 研究 紀要 』第 10号
から 、同 一 人 物と す れ ば 青年 亀 太 郎 が 六 六歳 の 宗十
にある村会議員選挙 のことで 、洞の吉岡宗十 郎と 考
十 郎」 の名が みえ る 。こ の選 挙 は辻 本③ 論文五 一頁
との屋号を持つ有力な家であったことは辻本論文移転編
も ので あ れ ば な お さ ら で あ ろ う 。宗 十 郎 家 が「 下 の 万 屋 」
を 子 息 が 継 承 す る 、 し か も そ の名 が 共 同 体 内で 伝統 的 な
と の述 懐 は子 息 亀 太 郎 の 宗十 郎 改名 説 だ が 、 老父 の名 前
Ⅱで 明 ら か に されて おり 、襲 名 はむ しろ 自 然 のこ と と 考
えて よい 。同 じ史 料 に 「 前 区長 吉 岡 亀 太 郎」と あ る
郎 に 改 名 し たこ と に な る 。 あ ま り に 不 自 然 で はな か
えて よい ので はな いだろ う か 。
氏 の苦 慮 は取り 払わ れ る は ずで あ る。
は 正 鵠 を 射 て い た よ う で あ り 、 以 上 の作 業 に よ って 辻 本
辻 本氏 の亡父七 郎氏 が 語 っ たと い う 宗十郎 =亀 太郎 説
ろうか。
について 若干 の言及を して おく。
引 用 部 の 「 同 じ史 料 」 が 何 を 指 して い る の か わ から な
した吉岡宗十 郎と 前区長吉岡亀 太郎が同 時に現れるのな
三、移転の経緯をめぐって
- 21 -
い 。『 大 阪 朝 日 新 聞 』( 大 和 版 )の 紙 面 に 村 会 議 員 に 当 選
ら こ の問 題 は 瞬 時 に 解 決 す る た め 、そ う で は な く 、
「同じ
史 料 」 と は 『 大 阪 朝 日 新 聞 』( 大 和 版 ) を 指 す と は 考 え
られない。高宮氏は「辻本③論文五一頁にある村会議員
こ こ で は 高宮 論 文 が 「移 転 論 を め ぐ る 諸 論 点」 と して
. 移 転 問 題 の 起 源 に つ いて
選 挙 」 を 確 か め さ せ る史 料 名 を あ げ る べ き だっ たろ う 。
は 、 すで に 二十 世紀 初 頭 か ら 始 ま って い た」 と 主 張 す る
高宮 氏 は 、辻 本書 のな かで 「 洞村 の移 転に関 する 胎 動
あげた一つ、①移転問題の起源を取りあげる。
か 」と い う が 、な ぜ 不 自 然 な の か が わ か ら ず 、む し ろ ま っ
そ して 、 鈴 木 氏 が 昭 和 五 十 九 年 ( 一 九 八 四 ) 一 月 の 奈
良氏であるという。
こ と を 取 り上 げ 、 し か し そ れ を 最初 に 指 摘 し た の は 鈴 木
す「 亀 太 郎 って い う の は 、宗十 郎 か ら か わ っ た 名 前 や な 」
辻 本論文移 転編 Ⅱで 辻 本氏 が 父七 郎 氏 から 聞 い たと 記
た く 自 然 な こ と だ っ た ので は な い だ ろ う か 。
郎に改名したこと にな る。あ まりに不自然で はな かろう
ま た 、「 同 一 人 物 と す れ ば 青 年 亀 太 郎 が 六 六 歳 の 宗 十
1
奈良 県立 同和 問題 関係 史料 センタ ー
良県近代史研究会において「神武陵考・補遺」と題する
洞村の人口が年々 増加するため「耕地の欠乏を訴へ最近
は 、 同 書 第 二 巻 第 九 号 の「 緑 雲 子 に 答 え 所 感 を 述 ぶ 」で 、
こ れ に 対 して 大 和 同 志 会 初 代 幹 事 長 を 務 め た 楠 原 宗 七
(三 八)
報 告を 行い 、岡 本弥 の「北畠 治房訪問 記」や 「 洞村 につ
に於て 此 の増殖 に応 ずる殖民 政 策を 講 ぜ ざる可 から ざる
場 合 」 と な り 、「 現 在 山 本 領 内 に 於 い て 洞 大 字 民 の 所 有
(三 九)
考えら れると述 べ たこと を紹介 しな がら 、移 転計画そ の
い て 」 を 引 き 、 岡 本 を 洞 村 移 転 の 口 火 を 切 っ た 人 物と も
も の に つ い て は「 い つ・誰 が・ど の よ う に 立 案 し た の か 」
字と 合併 し領 域を拡 大」 しようと す る試みで あ って 、新
す る 地 所 へ移 住 家 屋を 新 築 し 日 韓 合 邦 の顰 に倣ひ 山 本 大
高 宮 氏 は 明 治 三 十 四 年 ( 一 九 〇 一 ) 十 月十 五 日 付 『 奈
大 字 名 は 決 ま って い な い が 、 山 本 村 を 称 す る こ と が 「 本
はわ からな いと してい る 。
良新聞』の記事を 引き、これが移 転にかかわ る最初 の関
つ ま り、 山 本村 領 内 へ の 一 部移 転論 だが 、そ れ は 集落
る」という。
洞 村 移 転 に 直 接 つ な が る も ので は な い 。 む ろ ん 、 高 木 論
本 体 の 移 転 で は な く 、「 殖 民 政 策 」 だ と 考 え ら れ て い た
村 へ 復 旧 する 正 当 の 順序で あ ると 云ふ こ と に 一 致 して 居
文 bが明 ら か に し たよう に、 畝傍 山神 苑 会構 想 のなかで
ようで あ り、決して 後 の全 集落 の移 転案で はな かったよ
白橿村 大久保 の人家六戸 の移 転に関 するも ので あ って 、
すで に 洞村 移 転が 議 論 されて い た ので 、二 十 世紀初 頭 に
う に 思 わ れ る 。 し た が って 、 洞村 内 部で 神 武天皇 陵と 対
係 史 料 で はな い か と 推 測 して い る が 、 し か し そ の 記 事 は
は 洞 村 の 外 部 で す で に 具 体 的 な 論 議 が 始 ま って い た と 見
題 だと 考え 、 大正 六 年 以 前 に 全 集 落 移 転のこ と が 何 ら か
面する場所に位置するという立地条件の改変が急務の課
の ス ケ ジュ ール に 登 って い たこ と を 認め るこ と はで き な
一 方 、 洞 村 内 部で も 明 治 時 代 末 に は 移 転計 画 が 持 ち あ
ても差し支えはないだろう。
が って い た。大和 同 志 会 の初 代理 事 長小 川 幸三 郎 は『明
いようである。
九 一二 ) に 洞 村 の 立 地 に つ いて 極 め て 差 別 的 な 筆 致で 非
次いで 周 辺 地 域社 会に おけ る 動き だ が 、 大正 元年 (一
治 之 光 』 第二 巻 五 号 のな かで 洞村 の 村 名 を 換え て 山 本 村
に し ようと す る 考え を 持 つ 人 が 洞 に い ると 厳 し く 批 判 す
る。
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『 研究 紀要 』第 10号
られられないが、宮内大臣あて の建白書 に捏造計画が記
(四 〇)
難 す る 建 白書 を 宮 内 大臣 に 提 出 した森 川 葆 は 白 橿 村 大字
されるとも 思 えない ので 、こ れまで 明ら かにな って いな
と すれ ば 、小 牧知 事 から 「 該部落民ノ 措 置ニ 関スル取
鳥 屋 の住民で あ り 、 郡 役 所 にもか かわ る有 力 な 知 識 人で
調 」 の 指 示 が あ っ たと い う こ と は 当 然 集 落 移 転 を 含 ん だ
地ニ 編 入 」 を 否 定 す る こ と はで き な い 。
ろう。周辺地域社会の洞村を忌避する姿勢は先に見た明
と 考え る 以外 にない ので 、明 治二 十 五 年 のこ の 動き を 洞
いものの明治二十五年 の「御陵附近ノ土地ヲ 山陵並御料
治二十 一年 (一八八八)の町村 合併 の際にも明らかに表
村移 転への明らかな 始動と 見ることも可 能だと の指摘を
あ ったこ と か ら 、 彼 の 背 後 には 周 辺 地 域 の 住 民 、 少な く
面化 して おり 、自大字領 域 へ の移 転を 望まず、ど こ か遠
して お き たい 。 森 川 は 「 感 奮 且 驚 喜 シ テ 詳 細 ナ ル報 告書
とも 上 層部 の一定 の暗 黙 の支持 があ ったと 考えて よい だ
方 へ の 移 転 の こ と は ひ そ か に 願 望 と して 囁 か れ て い た 可
ヲ 奉呈」したが、
「不幸遂ニ其実施ノ恩典ヲ拝スルニ至」
らな かったと いう 。文脈から実施されな かったのは「該
能性 は 高く、森 川 の建白書 の背 景をそこ に 発見 して も よ
ま た 、森 川 はこ の 建 白書 のな かで 、明 治 二 十 五 年 ( 一
部落民ノ措 置」と 読み取れるが、あるいは「御陵附近ノ
いだろう。
八九二)に神武天皇陵周辺の土地の買収、陵地及び御料
な お 、森 川 のこ の建白書 のこと は 高 木論文bで 引 用す
土 地ヲ 山 陵 並 御料 地ニ 編入」 す るこ と が 実 行 さ れな か っ
る 宮 内 庁 書 陵 部 所 蔵 の 「 陵 墓 沿 革 伝 説 調書 」 に 現 れ る 。
地への編入が行わ れたと言い 、そ の際に「不肖葆ハ其御
寺 ノ 所 在 等 ニ 就 キ 取 調 ヲ 内 命 」が あ っ た と い う 。
「内命」
事小牧昌業子 ハ特ニ 該部落民ノ措 置ニ関 スル取調並国源
「大正元年十一月二十八日奈良県知事宛白橿村大字鳥屋
た と い う こ と な の か も し れ な い 。 今 後 の 課 題で あ る 。
のこと はもとより確 認 のしようもな いし、こ れ まで のと
森 川 葆 、 若林 賚 蔵 ヨ リ 建 白 書 提 出」 と の 箇 所 だ が 、 間 違
買 収 上 ニ 関 ス ル 諸 般 ノ事 務ニ 従 事 シ 、 其 際 時ノ 奈 良 県 知
こ ろ 「 明 治二十 五 年 御 陵附 近 ノ 土地ヲ 山 陵 並 御 料 地ニ編
いな く先 の建白書が宮内大臣に届いて い たこと が確 かめ
られる。
入 セ ラ ル ヽ 」と い う 事 実 を 確 か め る こ と が で き て い な い 。
高 木論 文 a ・ b 、 竹 末 論 文 bで も こ の 問 題 は 取 り 上 げ
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奈良 県立 同和 問題 関係 史料 センタ ー
徐ニ之ヲ慫慂シ始メタリ
と の文言により移 転構想 は同年五 月ごろ から 始まったと
こ の部分を高木氏は、若林賚蔵は奈良 県知事在 任中で
あ る ため矛 盾 が あ ると しつ つも 、森 川と 若林 知 事 の両 名
具 体 的 に は 竹 末 論 文 a が 詳 し く 、大正 十 年( 一 九 二 一 )
見られて き た。
六 月 二 十 九 日 付 金森 輝 夫 高 市 郡 長 か ら 木 田 川 奎彦 奈 良 県
く 誤 読 だ ろ う 。 こ の 部 分 の解 釈 は 、 十 一 月 二 十 三 日 付 の
が 建白書 を 提 出 し たと 読 み 取って い る が 、そ れ は おそ ら
渡 辺 宮 内 大 臣 宛 の 建 白書 を 同 月二 十 六 日 に 原 内 務 大 臣 に
大正六年五月十三日石原宮内次官畝火に出張、こ の
知 事 に あ て た 書 簡 のな か に 、
いと の願書が十一月二十 八日に森川から若林知事に出さ
際 洞部落 視察に付 他之随行員を退けて独り不肖のみ
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も 提 出 し た ので 、 奈良 県知 事と して 相応 に 詮議 して ほ し
れているが、それを受けて 若林知事が何らかのアク ショ
しむるものとせは其方法等を大略卑見を陳述
し 、「 部 落 改 善 を 表 面 之 理 由 と し 数 十 度 講 話 に 依 り て 彼
御供申上、詳細に御説明之後当時之地価其他移転せ
しな けれ ばな らな い ほ ど 差 し迫 っ た 状況 に はな い 。森川
等 の意思を 確 か め」 たと 述べて い るこ と を 取 り上 げ、五
洞村 の移転を含む処置を行うため宮内省に建白書を提出
が 求 め る 詮 議 の 意 味 は 定 かで は な い が 、 副 申 的 な 文書 を
月 十 三 日 の 石 原 次 官 の 洞村 視 察 を 宮 内 省 の 最 終 判 断 が 行
ンを起こ したということだろう。当該期に奈良県知事が
知 事 から 内 務 大臣 に 提 出して は しいと い う こ と と理 解 す
われた時とする。
課長にあてられた木田川知事在職中の各課主管事項等の
一 方 、 大 正 十 一年十 一 月三 日 に 知 事 官 房 から 県 庁 内 各
るべきで はない だろうか。
.移転の具体的な経緯について
そうした動きを持ちながらも 、洞村 の移転のことが具
調 査 依 頼 を 受け て 知 事 官 房で 取 り まと め た 「 木 田 川 前 知
木田川長官区内大臣ヲ訪ヒ右献納ノ願意御採納ノ上
(四 二)
体 化 し た の は 大 正 六 年( 一 九 一 七 )一 月 の こ と で あ っ た 。
(四一 )
大 正 六 年 五 月 ノ 交 、同 部 落 ヲ 他 ニ 移 転 セ シ メ ン ト シ 、
事に、
事在職中ニ於ケル事蹟ノ一班」では、大正六年一月の記
中の
鈴木論文以下従来の研究では大正九年の「洞部落移転」
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『 研究 紀要 』第 10号
ルヲ以テ、予テ同地域ヲ御料地ニ編入致度トノ希望
内 省 ニ 於テ モ 洞ノ 隣 接地 ハ 皇 室ニ 関 係 深 キ 伝 説 地 ナ
相 当 補 償 金御 下 賜 相 成 度 旨 ノ 内 意ヲ 伺 ヒ タ ル ニ 、 宮
任直 後 か ら す で に 具 体 化 して い た 可 能 性 を 否 定で き な い
たとえば大正四年 (一九一五)七月の木田川奎彦知事 着
従 来 説 よ り も 半 年 早 い 大 正 六 年 一 月 、あ る い は そ れ 以 前 、
不明 の事項を書 き 入れること は考えら れ ず 、移 転事 業は
ので はな く、大正四年 ( 一九 一五 )から始まる橿原神宮
と すれ ば 、 洞村 移 転は単 独 の事 業と して 計 画され たも
ので あ る 。
ナリ シヲ 以テ愈々 実現セ シムヘク
と あ る 。 すで に 大 正 六年 一 月 に は 木 田 川 奈 良 県知 事 か ら
宮 内 省 に 洞村 移 転に関 す る 内 意が 伺い 出ら れ、宮 内 省で
も 同 意 して い たとい う こ と で あ る 。
ト 日 光 ヲ 遮 リ 、 加 之 地 勢 傾 斜 甚 シク シ テ 地 域 狭 隘 ナ
西南ニ 畝傍御料林ヲ負ヘルヲ以テ秋冬ノ 季節ハ殆ン
現 実 的な も の に な って く る 。こ の 問 題も 実 証 作 業を 含む
整 備 構 想 のな か に 洞村 移 転を 位 置づ け ると い う 見 通 し が
bが 示す、橿原神宮・神 武天皇 陵を含む 畝傍 山東山麓 の
の拡張事業と連動した動きということになり、高木論文
ルニ依リ、家屋密集セ ルヲ以テ之ヲ他ニ移 転こセ シ
今 後の 課 題で あ る 。
ま た 、 洞村 住 民に 対 して は内 意 伺 い 以前に 、
メ 、其ノ 地 域ヲ 宮 内 省ニ 献納 シ相 当 補 償 金ノ 御下 賜
さて 、移 転事 業は 形式的に は 大正 六年 九 月十 九 日の洞
村 住 民 九 五 名 に よ る 移 転同 意 書 へ の 捺 印 に よ って 始 ま っ
ヲ 得テ 根 本的 改善ヲ 為 ス必要
の あ る こ と を 伝 え 、 洞村 住 民 も 「 移 転 ノ 希 望ナ キ ニ ア ラ
ニ 対 シテ 代 償金下 附 価 格 査 定ノ 為 メ 調査セ ラ ル ヽコ
区長及評議員ヨリ願書提出ノ件及ヒ右ニ付土地家屋
ている。同意内容は
は 大 正 六 年 九 月十 九 日 の「 御 願 」、二 十 二 日 の「 同 意 書 」
サリシ」ことが確かめられたという。とすれば、洞村で
提 出以 前 に 移 転 に 同 意 して い たこ と にな る 。
と い うも ので あ り 、査 定価 格が住民 の見 積も りと 大きな
ト
良 県 庁各 課 の 知 事 在 職 中 の 主 管事 項 を 知 事 官 房で 取 り ま
違いがあ って 「総 員参分ノ弐以上ノ モノ カ承認出来難キ
こ の「 木田川前知事在職中ニ 於ケル事 蹟ノ 一班」 は奈
と めて 編 集 し たも ので あ る ため 、 ま っ た く の 虚 偽 や 真 偽
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奈良 県立 同和 問題 関係 史料 センタ ー
を移 転反対の中心人物と 位置づけるが、これはそのまま
の名があ がり、鈴 木論文 はこれに し たが って 吉岡亀太郎
き だ が 、こ れ まで 見て き た よ う に反 対 者や 煽 動 者 の 特 定
そ して 、 三 日 後 の 同 月 二 十 二 日 に は 「 区 長 及 評 議 員」
場 合 ハ 此 同 意 ヲ 取 消 」 こ と を 付 帯条 件 と す る も ので あ っ
一二 名 から 木田 川 奎彦 奈 良県知 事 あて に 「 地 域仝部 落ヲ
には受け取れないことはすで に のべたと おりである。先
はで き ない 。 吉 岡 喜 代 松 か ら の聞 き 取 り か ら 吉 岡 亀 太 郎
御 料 地 若 ク ハ 神 苑 地 ニ 献 納 致 度 希 望 」 を 伝 え 、「 相 当 御
に 吉 岡 亀 太 郎 二 人 説の箇 所で 検証 し た よ う に移 転問 題 が
た。
下賜金ヲ得テ献納致度事ニ協議相纏」ったためよろしく
顕 在 化 し た 当 時 の「 移 転 反 対 者 、 仝 反 対煽 動 者」 は 高 市
郡 役 所 や 白 橿 村 か ら 説 得 さ れ 、 ま た 、「 部 落 内 ノ 実 状 ニ
取 り 計 ら って ほ しい と の 願 書 の 提 出 が あ っ た 。
移 転の具 体的な作 業は大正九年 (一九二 〇)にまと め
対運 動には発展 しな か ったと いうことで はな かろ う か。
顧 ミ 御下賜 金生 業 扶助 金 一万 円 増額」 に よ って 大きな 反
次いで二 カ 所 の移 転先予 定 地の反 対で あ る 。 記事 内 容
ら れ た「 洞部落 献納 ニ 関 ス ル沿 革」に よ れ ば 、 大正 六年
月 に は建物 移 転 調 査 が 着 手 され 、 十 二 月に は 住 民 負 債状
から推 して 大正七年 四 月以前に作 成 され たと 思わ れる移
十月から奈良県土木技師による土地調査に入り、翌十一
況 や 職 業 調査 が 完 了 して いる 。そ して 、翌 大 正 七 年 一 月
転に関 する「郡長ノ 意見」で は「 大部分ノ住民 ハ大字 山
(四三)
には補償費について甲乙丙 の三案が作成され、二月には
本地内ニ新部落ヲ設ケントスルノ内意ナリ」といい、同
任意他郷ニ移住スルモノヲ除キ其他ハ全部大字山本
(四四)
移 転先と して 白 橿村 大字 山 本を 第 一 に 、 大字久 米を 第二
じ く 「 大 字 区 長 等ノ 希 望 及 意 見 」 で も
かな り 素 早い 動きで あ り 、作 業予 定 が先行 して 立て ら
とする候補地が選定された。
部 落 ノ 東北 方面 ニ 新 部 落 ヲ 作 リ タ キ 考ナ リ
と あ る ので 、 洞村 住 民 の 意 志 はあく まで 大字 山 本領 内 の
れて い たと いう可 能性も否 定で きないが 、作 業がこ のあ
たりに差 し掛か ったころ から 難問が 次々 に噴出するよう
山 本 集落 の 東 北 方に 移 転 す る こと を 希 望 して い た ので あ
る。
になる。
一つは洞村内部の「移転反対者、仝反対煽動者」の動
- 26 -
『 研究 紀要 』第 10号
「 前 記 移 転地ノ 協議 調 フ 」 こ と にな っ た ので あ る 。
山本・久米が拒絶 した洞村 の移転をなぜ四條・ 大久保
先 の「 郡長ノ 意見」で も 、
御陵北方大字 四條 地内ノ 八尺巾道路ヲ 少シク 取拡
が 最 終 的 に 了 承 し た か は 今 のと こ ろ 謎 と し か 言 い よう が
ないが、二つの大字にまたがることに何らかの意味があっ
メ 、且 桜 川ニ 架 橋 シ尚 新 部 落内ニ 通 ゼ シメ ント ス
と さ れ て い る よ う に 、 郡 役 所 段 階 で は 神 武 天 皇 陵北 側 の
た の かも し れな い し 、山 本 へ の移 転 は神 武 陵 に従 来 の 場
所 よ り 近 接す る ので む しろ 宮 内 省 側 が 嫌 が ったと い う 経
大字四條領への移転が想定されていた。
し か し 、「 洞 部 落 献 納 ニ 関 ス ル 沿 革 」 に は 、 大 正 七 年
緯 が あ っ た ので はな い かと 推 測 して おきたい 。 おそ ら く
大字 四條・ 大 久保 に 対 して は表に現れな い 何 ら か の代 替
五月には、
新 移 転 地 第 一 、 第 二 ト モ 故 障 ア リ 、 大字 四 條 及 大 久
条件が用意されたと思うが、今のところ はそれが何かは
で き 、 ま た 新 たな 事 実 が 検 出 さ れ た 。 改めて 簡 単 に 取 り
て き た。こ の作 業に よ りい くつ か の点で 従来 説 の修 正 が
ここまでながながと移転に関する事実関係の整序を行っ
まとめにかえて
わからない。
保地内ニ於イテ洞区長ヲシテ買収ニ着手セシム
と あ る ので 、 早 く に 大 字 山 本 ・ 久 米 か ら 断 ら れ て い た こ
と が明ら か にな る 。 次 の 候 補地と して あ げら れ た 大字四
條 及び 大 久 保 に つ いて も 、翌 六 月 に は
大字 四條 及 大久保 ヨリ 洞部落民ノ移 転雑 居ヲ忌 ミ郡
役所苦情申込アリテ頓挫ス
こ こ に 至 り 高 市郡役 所 ・ 奈 良 県で は 白 橿村 を 移 転 協 議
と あ る よ う に 激 しい 拒 否 に 遭 遇 し て い た ので あ る 。
協力 のも と移 転 交渉 に 当 たら せ 、同 年 七 月 に は 「 大字 四
時の総面積は神武天皇陵域地を除いて 六町六反二畝
a 移 転 に 際 し 、 洞 村 の 田 畑 ・ 宅 地・ 溜 池 ・ 墓 地 等 の 当
まと めて おけば、
條 及 大久保 ノ 境 界ニ 地ヲ 相 シテ新 移 転 地ヲ 内 定 シ 、右両
九 歩 し かな か っ た が 、移 転 補償に 際 して は 一 三 町 五
に加え 、村 会から五名 の委員を選んで村長・ 郡役 所と の
大字区長 等ト 協議ヲ 開 始」 し、翌 八 月にな って ようや く
- 27 -
奈良 県立 同和 問題 関係 史料 センタ ー
支 払わ れて い る こ と
反 八 畝 一 歩と して 計 算 さ れ 、そ れに 対 して 補 償費 が
な ら な いと 考えて い る 。
に 取 り 組 み、鈴 木 論 文 の 成果 を 引き 継いで い かな け れ ば
った吉岡亀太郎は吉岡宗十郎の子息であり、当初か
b 吉 岡 亀 太 郎 は 二 人 存 在 し 、楠 原 宗七 の 後 任 区 長 にな
(
【註】
) 大 正七 年 ( 一九一 八 ) に作 成 さ れ た「 高 市 郡白橿村 大 字
ら の 移 転 反 対 派 で は な く 、 む し ろ 楠 原 に 協 力 して 移
転事業を推進したが、大正十三年ごろ から村会議員
立候補問題と 教宗寺後住問題で 楠原と 対立するよう
になったこと
同 させてい ること
c鈴 木論文は② の対立と 当初 の移 転反 対の動きと を 混
d洞村移 転の直 接的な 始まりは従来から言われて いる
よ うに 大正 六年 五 月で はなく 、 少な くと も 大正 六年
一月に遡り、場合によれば木田川奎彦知事着任時の
大正 四年 ごろ 、橿原神宮拡 張事 業に連 動して 起こ っ
た可能性があること
となろうか。
鈴 木 論 文 の 部落 史 研 究 史 上 に 輝 く 有 意義 な 発 見 を 受 け
て 洞村 移 転研究 が 進 捗 して き た が 、 今な お 未解 明 な こ と
が多い。今後においても必要なこと は事実関係の確定作
業であ り 、 改めて 残 され た史料 から 事 実関 係 の確 定作 業
題 関 係 史 料 セ ン タ ー 所 蔵 、 大 正 七 年 『 洞 移 転 一 件 書 類 』)
洞 土 地 家 屋 御 買 上 ニ 関 ス ル 調 査 ノ 経 過 概 要 」( 県 立 同 和 問
に は「 洞 ノ 土 地 全 部 ヲ 御 料 地 ニ 献 納 」す る こ と に な っ た と
し 、こ の 御 料 地 と は 同 年 の「 高 市 郡 白 橿 村 大 字 洞 移 転 経 過
『 洞 移 転 一 件 書 類 』)に は「 畝 傍 山 御 料 地 」と な っ て い る の
概 要 」( 県 立 同 和 問 題 関 係 史 料 セ ン タ ー 所 蔵 、 大 正 七 年
『帝 室 林 野局 五十 年 史』
( 帝 室 林 野 局 、昭 和 十 四 年 )に よ っ
で、献納地は畝傍山御料地に編入されたことがわかる。
め ら れ る の で 、 移 転 が 神 武 天 皇 陵 兆 域 拡 大 の た めで な か っ
て も 大 字洞の旧 地は畝 傍山 御料 地 に編 入さ れ た こと が 確 か
たこ とが 明ら か にな るた め この よ う に 表記 し た 。
要 」に は「 建 築 ニ 関 シ テ ハ 道 路 宅 地 等 ノ 区 画 、 家 屋 ノ 設 計
( 二 )【 註 】( 一 ) に 引 い た 「 高 市 郡 白 橿 村 大 字 洞 移 転 経 過 概
図 等 種 々 標 準 ヲ 示 シ 、可 成 其 標 準 ニ 依 ラ シ メ 理 想 的 建 築 ニ
努 メ 」 た と あ り 、 当 初 案 を 示 す 「 設 計 説 明 書 」( 県 立 奈 良
書 類 』)で は 二 町 二 反 三 畝 一 六 歩 、 六 七 〇 六 坪 の 水 田 を 地
図 書 館 所 蔵 、大 正 七 年『 白 橿 村 大 字 洞 新 部 落 敷 地 ニ 関 ス ル
- 28 -
一
『 研究 紀要 』第 10号
底 巾 四 尺( 一 メ ー ト ル 三 二 セ ン チ )の 水 路 を 付 け る 予 定 に
(四) 大 正十 四年 ( 一九 二 五)四月十 五 日付 『水 平新聞』 奈 良
や 郡 役 所 か ら 注 目 さ れて い た こ とが 確 か め ら れ る 。
吉 岡 喜 代 松 君 慷 慨 的 口 調 を 以て 先 年 問 題 と な り し 同 村 移
洞移転問題に関す る件(洞水平社提出)
緊急動議
県 附 録第九 号。 全文 は 次 の と おりで あ る 。
均 し 、 九 尺 巾( 三 メ ー ト ル 弱 )の 道 路 、 用 水 ・ 排 水 の た め
な っ て い た こ と が わ か る が 、相 当 丁 寧 な 都 市 計 画 が 立 案 さ
れて い た よ うで あ る 。
市 郡長 に宛て 、 部 落改善 事業 報告 (県 立 奈良図 書 館所 蔵、
し 本 県 水 平 社 よ り は 充 分 応 援 す る こ とゝ な り 即 決 可 決 、
転 問 題 に 関 して 縷 々 説 明 す る と こ ろ が あ つ た 。 こ れ に 対
( 三 ) 大 正九 年 ( 一 九二 〇) 十二 月二 十 四日 付 白 橿村 長 か ら 高
大 正 九 年 ~ 仝 十 一 年 『 部 落 改 善 ニ 関 ス ル 書 類 』)が 行 わ れ
畝 傍 町 四條 大 久 保 三百 五十 戸の 千 八 百 の 大 字 民が 大 正 七
畝 傍で 返還 運 動 起る
洞領を吾々に返せ
聞 』。 全 文 は 次 の と お り で あ る 。
(五)昭 和二十 二年 ( 一九 四七) 三月二十 一日付 『奈 良日日新
吉岡 氏満 足の 笑み をもら す。
て い る が 、「 大 正 七 年 中 旧 所 在 地 大 字 洞 ノ 地 域 全 部 ヲ 御 料
地 ニ 献 納 シ 、大 字 大 久 保・大 字 四 條 ノ 一 部 ニ 移 転 シ タ ル ヲ
以 テ 、各 家 屋 改 善 ヲ 行 ヒ 現 住 戸 数 百 九 十 戸 中 二・三 戸 ヲ 除
ク 外 全 部 瓦 葺 家 屋 ニ シ テ 、移 転 ニ 際 シ 御 下 賜 ノ 配 当 ヲ 受 ケ
タ ルヲ 基礎 ト シ住 民殆ン ド 全 部土 地家屋ヲ 所有 」 と述 べ 、
成 果 を 誇 って い る 。 ま た 、 大 正 十 一 年( 一 九 二 二 )に 作 成
領をわ れわれに返せといま返還促進運動を起こしてい
年まで 二千数百年間住みなれた「民族の故郷」洞( ほら)
「全部 瓦葺 家屋 」
「 住 民 殆 ン ド 全 部 土 地 家 屋 ヲ 所 有 」と そ の
大 正 十 一 年 『 大 和 同 志 会 書 類 』)に も 「 移 転 地 ハ 市 街 地 設
字 の 中 間 約 三 町 歩 の 土 地 を 函 形 に 区 切 ら れて 四條 大 久 保
る 、 四 條 大 久 保 大 字 民 が 現 在 の 地 、畝 傍 町 四條 大 久 保 大
さ れ た 「 奈 良 県 社 会 事 業 成 績 一 班 」( 県 立 奈 良 図 書 館 所 蔵 、
テ 改 築 シ 、東 南 隅 ニ神 社 ヲ 、西 北 隅 ニ寺 院 ヲ 建 築 シ 、全 ク
と い う 中 途半 端 な 区 名 と 共 に移 転 を 強 い ら れた のは 大 正
計 ヲ ナ シ 、道 路 ハ 殆 ト 碁 盤 ノ 如 ク 、家 屋 ハ 孰 レ モ 軒 ヲ 並 へ
面 目ヲ 革 メ 民 心 又 一 新 セ リ 」と 賞 賛 し て い る 。な お 、大 正
そ に二 百 戸約 千名 の住 民が 丸山 古 墳を背 にして 二 千 数百
年 聚 落 を な し 綿 々 と 生 活 して 来 た の だ つ た そ れ が 大 正 七
七 年で そ れ まで は 現 在 の 神 武 天 皇 御陵 西南 の 畝 傍 山 の す
年 の 橿 原 神 宮 第 一 期 拡 張 工 事で 同 村 が 特 殊 部 落 民 だ か ら
)
(県立奈良図書館所蔵、『白橿村洞新部落敷地ニ関スル書類』
に よ れ ば 、 明 治 三 十 年( 一 八 九 七 )に 淀 川 改 修 の た め 全 戸
七 年( 一 九 一 八 )に 作 成 さ れ た「 洞 部 落 献 納 ニ 関 ス ル 沿 革 」
移 転 し た 大 阪 府 西成 郡 光 立 寺村 が こ の 事業 の 先 例 と し て 県
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奈良 県立 同和 問題 関係 史料 センタ ー
と の 封 建 的階級 思 想 の た め に 神 武 御 陵 を 汚 す も の と し て
張 の 過 程 を 紹 介 し つ つ 、「 こ う い っ た 背 景 の も と で 、 橿 原
(六)鈴木氏は 、幕末の神武天皇陵 比定 事業とその後 の整備 拡
神 宮 神 域 拡 大 、神 武 陵 拡 張 が 行 わ れ 、洞 部 落 の 移 転 が 強 制
父 祖 伝 来 の 畝 傍山 腹 十 八 町 歩 の 土 地を 宮 内 省 へ 献 納 の 美
名下 に取上げ られ二十五万円の 縁切れ金で 現在の四條大
必 要 ば か りで な く 、植 民 地 支 配 に も 、天 皇 制 思 想 が お し つ
さ れ る 」と し た が 、「 こ う い っ た 背 景 」と は 、「 国 内 支 配 の
け ら れ て ゆ く の で す 。天 皇 の 権 威 は い っ そ う 高 い も の に さ
久 保 へ 全 村 移 転 した の で あ る 、 同 村 は 現在 耕 地は 一 片 も
と な し 挙 村 純 配 給 生 活で 食 糧 難 の あ ら し に い ま ほ ん ろ う
も に、 神宮や 天皇 陵 に 対す る 不敬 行 為の 処罰 が 定 め ら れま
れ 、一 九 〇 七 年 の 刑 法 に は 、天 皇・皇 后 な ど へ の 不 敬 と と
な く 三 町歩の 区 域 に住 家は 密 集 し 全 民 靴 、 麻 裏 草 履 を 業
時われ ら 等に 返せ と叫 ぶの が 部 落 民 切実 の 声で あ る、 こ
さ れ る に つ け 思 い出 さ れ る 伝来 の 地 洞 大 字 十 八 町 歩を 即
強制 移転 」として 部落 問題 研究 史に登場した瞬間で あ る。
す 」 と す る 点 に 尽 き るが 、洞 村 移 転 が 「 天 皇 制 の も とで の
( 七 ) 高 宮 尚 彦 氏「 虚 構 の 「 自 主 的」 献 納 論 と 水 平 運 動 史 の 忘
一郎 区長 、吉岡 喜代松、岡本善 次、吉 岡実、河合音次郎、
中村 峰 春 等二 十 余 氏が 就き 近 く 第 一 回区 民 大 会 を 催 す 外
研 究 に 基 本 的 な 分 析 視 角 を 提 示」した論文として いる。
却( 一)」(『部落』 第五三四号、平成 三年 )に「そ の後の
の旧 住 地 返還 運 動 は今年 一 月頃 か ら 始 ま り委 員 に楠 原 平
二 十 一 日 来 県 の 松 本 治 一 郎 氏 に 素 志 貫 徹 を 訴 え ると と も
『 奈 良 県 同 和 事 業 史 』で は「 強 制 移 転 が 天 皇 制 の 尊 厳 を 強
四 P )、「 天 皇 権 力 に よ る 部 落 移 転 」( 同 五 五 P )と す る が 、
( 九 ) 鈴 木 論 文 で は 「 洞 部 落 の 移 転 が 強 制 さ れ る 」( 同 論 文 五
れて い る。
( 八 ) 水 平 運 動 史 研 究 会 が 編 纂 し 、部 落 問 題 研 究 所 か ら 発 行 さ
に 近 く 委 員 が 上 京 宮 内 省 に 要 求 す る 事 に な つて い る 、 委
員 の一 人吉岡 喜 代 松氏は 話 る
封 建 制 の 強 圧 で 祖 先来 十 八 町 歩 の 洞 ( ほ ら ) の 土 地 を
奪わ れた わ れわ れは い ま 三町歩 の区 域で 何 一つ 耕 作 出
を 開 墾 して 御 陵 の 役 人 等 は 麦 、 甘 藷 等 を 収 穫 して い る
来 ず 仮 住 居 の 憂 目 を 見て い る ので す 、 わ れ わ れ の 旧 地
史 』 で は「 当 部 落 の 強 制 移 転 」( 同 書 八 〇 P )、「 強 制 的 に
化する為に行われた」
( 同 書 一 一 一 P )、『 奈 良 県 水 平 運 動
移転」
( 同 八 二 P )と な っ て い る よ う に 、
「天皇制のもとで
のを見るにつけ返還運 動必遂の念が 固まるばかりで
も あ る が 伝 統 的な 守 人 の 職 を ナ ゼ わ れわ れか ら 奪い そ
れたこ とが 確か められ る。
の部落の 強制移転」とい うシェー マが鈴木氏によって作 ら
す 、わ れ わ れ の 先祖 は 御陵 の 守 人 で あ つ た 事が 史 実 に
打 破 に 断固 戦 う 決 意で す
れまで 無 関 係な もので 陵 守を独 占す るのか この 封建 制
- 30 -
『 研究 紀要 』第 10号
る「差 別の 真 の敵 をブ ルジ ョア ・ 地主 的 天皇 制 政 治の 中に
( 一 〇 ) た と え ば『 奈 良 県 水 平 運 動 史 』の「 刊 行 の こ と ば 」に あ
発 見 」 し 、そ れと 闘 うた め 「 労 働 者 ・ 農 民 運 動 と の 結 合 」
を 求 め る と い う こ と に 尽 き るだ ろ う 。 こ う した 認 識は 必 然
的に部落総体 を貧困・低位 に位置づけることになり、また 、
部 落 外 の 貧 困 ・ 低 位 な 「 労 働 者 ・ 農 民運 動 と の 結 合 」 を 求
る こ と に な る 。 部 落 差 別 と の 闘 い の 一 点 で 共 闘で き る は ず
め る 一 方 、 部 落 内 の ブ ル ジ ョア ・ 地 主 層と は 敵 対 関 係 を作
部 落 差 別 撤 廃 に 向 か う 結 合 は 如 何 な る 契 機 を 経て 実 現 に 至
の部 落内 ブル ジョア・地主層と 貧困 ・低 位な 部落住 民との
る の か 、あ る い は つ い に 至 ら な い の か 、 興 味 深 い と こ ろで
ある。
同和 教育 におけ る洞移転 問題学習を指 して い る。
(一一) おもに橿原市 内の小 中学校 を中心 に取り組ま れて きた
乍恐 書 付ヲ 以奉 申 上候
い な い 。『 橿 原 市 史 』 か ら 以 下 全 文 を 引 い て お く 。
御 陵 御 兆 域 内 居 宅 之 分 引 払 被 仰 渡候 処 、 右 入 用 奉 申 上
一当村方
弥 兵衛 居 宅
取払
村方持家
但壱人 ニ付 四匁 五分 ツヽ
候 様 被 仰 渡候 ニ 付 、 左 ニ奉 申 候 、
一人数 五拾 八人
桁行五間
此賃銀弐百六拾壱匁
借家人
一長家
弐間
伊助
甚右衛門
此 工数 三拾 人
大工手 間
村方持家
但壱 人 ニ 付 六 匁 五 分 ツヽ
源助
借家人
桁行四間半
此 賃銀 弐百 三拾 四匁
弐間 半
一長家
此 工数 三拾 弐人
容 が あ り 、 近 世 史で は 農 民 像 の 変貌 が あ っ た 。 また 、 他 方
( 一 二 ) たと え ば 網 野善 彦 氏 に代 表 さ れ る日 本 中 世 史 研 究 の 変
直 面す る外的環 境の 変化、あ るいは 内 外の 較 差 是 正によ る
で は 高 度 経 済 成長 に 伴 う 社 会 構 造 の 変 化 によ る 部 落 問 題 が
取払
忠 次郎 貸 家
但 壱人 ニ付六 匁 五 分 ツヽ
たか
此 貸銀 弐百八 匁
大工手 間
部 落 問題 認 識 の 転 換を 想 定 して い る 。
費言上書」
(『 橿 原 市 史 』 史 料 第 三 巻 所 収 )。 文 書 名 は 「 乍
(一 三) 元治元年 (一八 六 四)七 月「 御陵修理 ニ付居宅 等引 払
恐 書 付 ヲ 以 奉 申 上 候 」、 吉 田 村 か ら の 御 陵 御 普 請 役 所 に 宛
て た も の だ が 、小 論 作 成 の 過 程 で は 原 史 料 の 確 認 は で き て
- 31 -
奈良 県立 同和 問題 関係 史料 センタ ー
桁行五間
弐間
桁行弐間
一稲 家壱ケ所
桁行弐間
一土蔵壱ケ所
一長家壱ケ所
桁行三間
但惣瓦
同断
清兵衛
譲リ主
嘉 兵衛
買主
但壱人 ニ付六匁五分ツヽ
弐間
弐間
弐間
一長家壱ケ所
此工数三人
一本家壱ケ所
一土蔵壱ケ所
一 別座 敷 壱 ケ 所
桁 行 六間
弐間
弐間
桁行三間
弐間
桁行六間
すゑ家引料
但惣瓦
但惣 瓦
但惣瓦
此貸銀六百八拾匁
右 三ケ所引 料 請負
右者 弐ツ割三百四拾匁 ツヽ
忠八
是 迄忠 次郎 貸 家ニ借 家罷 在候
すゑ
清兵衛
右之者すゑ居宅仕切致引越住居仕候、
清 兵衛
是 迄忠 次郎 貸 家ニ借 家罷 在候
合銀壱貫七百六拾 弐匁五分
上
子七 月日
元治元年
「土地分裂所属替之義ニ付伺」
同断
藤 兵衛
嘉 兵衛
(一五)県立奈 良図書館所蔵、明治十九年『閣省指令』所収の
転一件書 類』
( 一四)県 立 同和 問 題 関 係史料 セ ン ター 所 蔵 、 大正七年 『洞移
年寄
吉田村
和州高市郡
神保山 城守 地行 所
右 之通 リ 聊 以相違無 御座候 、此段 御尋ニ付奉申上候 、 以
右 之 者 忠 次 郎 取 払 家 引 請 、自 分 普 請 仕 住 居 仕 候 、
,
( 一 六 ) 県立 奈 良図書館 所蔵、
『町村制実施 ニ関スル件( Ⅱ )』
- 32 -
,
, ,
右四ケ所取払
此人数八拾人
此 貸銀 拾 九 匁 五分
但壱 人 ニ付 四匁 五分 ツヽ
,
右 者 弐 ツ割 壱 人 前 百 八 拾 匁 ツヽ 相 渡 ス、
此貸銀三百六拾匁
,
『 研究 紀要 』第 10号
( 一 七 ) 県 立 奈 良 図 書 館 所 蔵 、『 大 和 国 里 程 表 』
( 一 八 ) 文 化 九 年( 一 八 一 二 )
「申 年 御 物 成 目 録」
(『 橿 原 市 史 』
史料第三巻)
(一九)独立行政法人奈 良文化財研究所所蔵、明治十九年『御
陵墓 ニ関 スル地種変換一件』
(二 〇)独立行政法人 奈 良文化財研究所所蔵
円
銭
吉岡宗十郎
亀太郎
ツネ
ハツコ
米造
5
吉岡宗十郎
宗十郎 家の家族で あったことが明らか になろ。
と な る 。 吉 岡 亀 太 郎 が 同 時 に 二 人 存 在 し た こ と 、内 一 人 は
(二七)県立奈 良図書館 所蔵
洞 新 部 落 敷 地 ニ 関 ス ル書 類』
( 二 五 )( 二 六 ) 県 立 奈 良 図 書 館 所 蔵 、 大 正 七 年 『 白 橿 村 大 字
(二 一)京都大学附 属 図書館 所 蔵橋本 家文書 、
「 律 令 雑 記 」六 二
員
吉岡亀太郎
御下賜金
受領者氏名
( 四 二 )( 四 三 )( 四 四 )『 洞 移 転 一 件 書 類 』 所 収
( 四 一 )『 白 橿 村 大 字 洞 新 部 落 敷 地 ニ 関 ス ル 書 類 』
( 四 〇 )『 洞 移 転 一 件 書 類 』 所 収
( 三 九 ) 昭 和 十 五 年( 一 九 四 〇 )十 月『 融 和 事 業 研 究 』第 五 七 輯
( 二 八 ) ~ ( 三 六 )『 洞 移 転 一 件 書 類 』 所 収
人
( 三 七 ) 大 正十 四年 五 月十 九 日 付 『 大坂 朝 日 新 聞』 大 和 版
族
十 四 年 『 洞 部 落 移 転 一 件 書 類 』。 表 紙 は 「 追 加 御 下 賜 金 五
家
6
( 三 八 )『 明 治 之 光 』 第 七 巻 新 年 号 所 収
(二 四)県立同和問題関係史料センター 所蔵、自大正七年 至仝
(二三)県立奈良図書館所蔵、
大正七年『土地購入家屋移転一件』
転 一 件書類』 所 収の「移 転 予算書 」
(二 二 ) 県立 同 和 問 題関 係 史料セ ン タ ー 所 蔵 、 大 正七 年 『洞 移
50
万 円 中 生 業 扶 助 金 五 千 七 百 四 拾 八 円 也 、右 分 配 宛 先 別 紙 ノ
額
ヒサエ
吉岡亀太郎
由太郎
義雄
テル子
コスミ
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25
通リ」 となって い る。該 当個所を抜 き出 せば 、
金
円
29