高野切古今集の本文について ^、はじめに 徳原茂実 私は拙著﹃古今和歌集の誓邑 の中に、﹁元永本古今集の作者表記について﹂﹁元永本古今集の詞書について﹂﹁元永本古今 集の和歌本文につぃて﹂と題するΞ論考を収めた。これらは平{轟代に書写されて現代に残る﹃古<'完本として早くから 知られていた元永本﹃古今集﹄の本文に検討を加えて、平安時代における﹃古今集﹄烹又の様相を明らかにしようとしたもの である。 新出の雲任筆本﹃古<条﹄の全貌が平成七年畢界に紹介され、平'轟代に書写されたいま一っの﹃古△玉完本を升究 対象にできることとなったのは、まさに画期的な出来事であった。私は伝公任筆本の鼎貝作名表記、和歌本文についてひと とおり検副を加え、﹁伝公任一耒古今条糸描﹂と題する鯵ξ書き下ろして前掘国に収めた。条一壬一采の本文の性格を、元 永本等の古写本との比較を通じて明らかにしようとしたのである。 これら一連の考察にょって祭び上がってきたのは、平{轟代中・後期における﹃古<玉本文殴術性であり、それは当 時の自由闊達な﹃古厶条﹄烹又の器署反映したものではないかと私は判断した。これは、元永本等に見出され尋異な本文 を、一補段階の本文の残存ととらえる従来有力な考え方とは相容れない。なお、以上の研究のあらましを、﹃和歌をひらく 第二巻和歌が書かれるとき﹄所収の拙稿﹁断するテクスト﹂に、張した。 1 さて、平姦垈白写の﹃古今集﹄完本として現存することが碓腎れているのは上記二本であるが、一方、零本と断簡の形 で伝わる高野切は、歌数にして﹃古今集﹄全体の約三分の一が残存しており、平安時代の﹃古△条﹄本文の{tを抹る上で、 完本である三本に次ぐ豊富な資料であることは問違いなかろう。しかも、その一書の一人として源兼行が有力視されており、 するとその書写年代は十一世紀半ぱということになる。すなわち高野切は、元永三年(一三一0)書写の元永本を半世紀以上 さかのぽる、﹃古今集﹄伝本の中でもとびきり古い写本なのであって、零本、断簡とはいぇ、古一聿の名品としての価値はもと より、﹃古今集﹄の本文研究の上でも、完本にまさるとも劣らない価値を有するといぇよう。 本芋は、以上の見通しのもとに、高野切の本文に検削を加え、平安時代中期における﹃古△玉﹂邑の{益を反映してい ると判断される元永本や伝公任筆本などの古写本との間に共通点を有しているかどうか、確かめてみたいと思うその上で、 一畔切を貫条﹄の奏覧本の系統かと推定される久曾神昇氏の禦乢についても、卑見を竺てみたい。 なお、本準は﹃古今集﹄の歌番号は全て﹃新編国歌大観﹄のそれに従った。高野切の本文引用にあたっては、濁点、群{ を付し、おどり字をおこした。 ニ、高野 切 の 実 態 伝紀貫嘉青野切の概要については、﹃古一突需<﹄をはじめ、璽国に詳しく説明されているからここでは省略し、﹃古ーマ集﹄ の伝本研究のために必要なことがらについてのみ記述しておきたい。 これまでの研究にょって、高野切は三人の筆者にょる分担執筆であることが明らかにされ、その筆跡は第一種、第二種、第 元として分類されている。第一種は巻一(断簡)、巻九(断簡)、巻二十(完存)が伝来する。第二種は巻二(断簡)、巻三(断 簡)、巻五含尤存)、巻八発存)が伝来する。第三種は巻十八(断簡。ただし拓本にょり全容をうかかうことができる)、巻 2 十九(断簡)荏来する。 第元の"当は源兼行と推定されており、したがって先に竺たように、﹂御切は十一世紀中ごろの写本と考えられている0 なお久曾料昇氏は、第一種の一考ミ襟行餐第一種の一当を藤原八嘉と推定しておられる。 曾神氏は﹁.古今和歌集成立司倫資料編下,﹄に、氏がそれまでに調査された高野切の零本断簡を全て捌刻された。本高でと りあげる野切の本文は、もっぱらこ繋本資料にょらせていただいたが、小松一窒氏の﹃古筵子大成第一巻﹄に収録され ている、晟妾咽﹄刊行後に確認されとおぼしき断簡をも本文資料として追加した。 ﹃古今和歌集成立論﹄と﹃十呈学火成﹄にょって知りう粂畔切芋U人4一の各巻の残存歌の数は次の通りである0()内 は﹃古一本大成﹄にょって補うことができた歌の数である。たとえ焚ι一の場△口、﹃成山需﹄にょって三一首が知られ、而卓 (2) (1) (5) (3) 36 (7) .ノ゛、、ノノ、、ノノ、、、ーノ、、、ノノ、、、ノ'\ーノ、、、ノ'、、 '、ノノ、)ノ'、、ノ'、』ノ'、ノ.ノ'、、ノ、、、ノノ、、】ノ 68 68 16 41 65 34 66 68 学大成﹄にょって五首を補うことができ、合計三六首を当メ祭の対象とすることができる。なお参考までに、定家本(伊達家旧 7 34 栗)の 各 巻 の 歌 数 を 下 端 < > 内 に 示 し た 。 巻一春上 巻二春下 巻一女 巻五秋下 きトノー、司ラ ^九嬬旅 巻十金下 老t 、ーナイオ 41 66 12 40 68 3 巻二十雅 1 西) - 語> <> 認> ' 0二番歌)は下句のみ残存 歌合に﹂(二四番需書)のように、文末の﹁よめる﹂が省略されたもので、﹁よめる﹂は自明の文言と見て省略されたのであ 文の流動性を物語る事実であるといぇよう。省筆のほとんどは、﹁ふるとしに春の立ちける日﹂(一番歌詞当﹁寛平御時后宮 いう判断のもとに、書承の過程においてなされた省筆であろうと考えられる。これはまさに、平安時代における﹃古今集﹄本 があることを指摘した。これは他本にはあまり見出しえない現象であるが、型国は希事情を的硫に伝えさえすれぱ足りると 私は前掲﹁元永本古今集の詞書について﹂において、元永本では型白のうち必要不可欠な文言以外の文系省略される価向 三詞書の省筆について 筆大辞典﹄や﹃十口筆美成﹄はそのように推定している。 か(おそらくは仮名序)が存在したにもかかわらず、右の十一の巻と県、散逸したという推定も成り立つであろう実際﹃古 とされた。それは、陽明門院御本には序がなかったという露織﹄の記述にも合致する。しかし、高野切には両序のいずれ 昇氏は、高野切﹃古今ぎには真名、仮名の両序が付されていなかったと推定され、両序を持たないのが奏覧本の特徴の一つ 一方、巻四、六、七、十、十一、十二、十三、十四十五、十六、十七の計十一巻については、断簡も伝存しない。久曾袖 切に残存する歌は三一一'三首であって、四分の三に近叢が残存していることか気られる。 対象となる九巻に、定家本は四五八首を有しており、一野切も本来この程度の歌数を有していたものと推測されるが、高野 ※、つち 一首(巻三、 333 29 4 ろう。 4、大歌所の御歌(夫己二十) 0、 元永本の各巻毎の、省筆の例を数えてみると、春上器、春下W、夏玲、秋上巧、耿下32、冬松、賀6、離別W、旅心9、物 名1、恋一 1、恋二ー、恋三2、恋四2、恋五1、哀傷2、雑13、雑下3、短歌(、巻卜九) である。巻二十の県国は﹁おほなほびの歌﹂﹁ふるきやまとまひのうた﹂など、全て歌の種別をあらわす文言に限られ、﹁よめ る﹂などの文言がないから、省筆の例が存在しないのは当然である。物名に一例しか見られないのも、この巻の果日の特殊性 にょる。また恋部に省筆が少ないのは、﹁題知らず﹂尿が多くを占めている事実にょっ磊明できるだろう。 以上のように、元永本の場△口、特別な事情のあ粂﹂を除くと、県お省一表随所に見出されるのである。では、高野切の場 合はどうであろうか。巻証に見ていくと、詠﹂五秋下に九例、巻兪別に一例、巻十八雑上に一例とい、つ結果となる。 先にも示したように、巻五秋下は六六首が完存する。その中の詞書省第の例を全て列挙してみょう。引用にあたっては、濁 点、読点を付した。 いしやまへまうでけるとき、おとはやまのもみぢをみて(二五六) これさだのみこのいへのうたあはせに(二五七・二六三・二室<) 寛平のおほんときのきさいのみやのうたあはせに(二六四) 二条のきさきの東宮の女御ときこえけるとき、御屏唖Lにたつたがはにもみぢながれたるかたかけるをだいにて一、二九三) きたやまにもみぢをらむとてまかりけるときに(二九七) かみなびやまをこえすぎてたつたがはをわたりけるときに、もみぢのながれけるを 9.00) たつたがはのほとりにて分一0二) あきのはつるこころを、たつたがはをおもひやりて今三一) 5 おなじつごもりのひ分二三) 以上九例である。歌△口歌の場△口、他本が﹁・,・・・・歌△口の歌﹂の形をとっているケースもあるが、それを除けぱ<王て、他本の詞 書に存在する文末の﹁よめる﹂が省略された形となっている。これは先に元永本について述ベたのと同じ現象であるといって よかろう。元永本ではこの巻に、同様の省筆が三二箇所も見出され、それに比ベればタタくはないのであるが、.平安時代暑写 された﹃古今集﹄本文の特徴として、特に元永本に特徴的な詞書の省筆という現象が、高野切のこの巻にも顕著に観察される ことは特筆に価しよう。元永本よりも書写年代の古い高野切にも、すでに元永本と同誉現象が生じていたのである。 なお、これら九例について見ていくと、当然ながら元、条や筋切においても、同じ鼎国に省"表なされていることが夕夕く、 それは九例中八例に及ぶのである。一方、元永本や高野切以外の伝本にも、わずかながら同様の省筆は見出される。たとえば 二六四番歌の鼎国は、通常﹁・・・・・・歌△口の歌﹂であるが、元、永本と筋切は﹁・・・・・女口にょめる、一であって、省等はない。一方、 善海所伝本には高野切と同様﹁,・・・・・歌合に﹂とある。また三0二釆田歌県国は、通常﹁たつた川のほとりにてょめる﹂であるが、 高野切、元永本、筋切、雅俗山荘本、伝為相筆本において、文末の、﹁よめる﹂が省略されている。 ここで注目されるのは、善海所伝本、雅俗山荘本、伝為相筆本のいずれも、平安時代の書写ではないが、.平安期古写本のお もかげを残す伝本とされていることであって、平安時代に流布していた﹃古今集﹄写本の多くに、程度の差こそあれ、詞女 省筆という傾向が見られたことを、これらの事実は物語っているだろう。なお、前掲﹁伝公任筆本古今集素描﹂において述ベ たように、省誓二に、型白に加筆する傾向も一方には見られるのであって、平{壽代における自在な﹃古今集﹄書写の実 態を、これらの事実にか い ま 見 る こ と が で き る 。 さて、高野切の巻五秋下に見出される県白の省筆九例について見てきたのであるが、奇妙なことに、その他の巻には省筆の 例がきわめてまれなのである。それはわずかに巻兪別と巻十八雑下に各一箇所見出されるのみであって(歌番号三八五、 九 6 六六)、巻一、ニ、王、九、十九(残存歌計三九首。巻二十は特殊な詞券ため対象外)には、一例も見出すことができな のである。もちろん、失われた部分に存在した可能性はあるが、赤﹂一、エ、三、九、十九に本来存在したはずの歌数は約二 1i 五0首であり(定家本では二五二首)、うちW翠数の一二九首が残存しているのであるから、失われた部分に限って多くの省 筆がなされていた可能性 は 、 高 く は な い で あ ろ う 。 この事実から導き出されるのは、高野切は取り合わせ本であったのではないかとい、長測である。先にも記した通り、高野 切は三人の筆者にょる寄合書とされている。その三人に依頼主から書写すべき親本が提供されたのか、それとも、筆者に県国 式についての指示がなされただけで、Ξ人はそれぞれ手持ちの﹃占△玉を親本として書写したのか、明らかではない。仮に 後者であったとすると、もとより高野切は取り合わせ木であったということになるが、これについては今後の検討課題である。 話を﹁第二種﹂に限定して老えてみょう。巻五は、巻二、,、巻八含兀存)と同じ筆者の筆跡と鑑定されており、﹁第元﹂ と称されているのであるが、そのうち巻五に九例もの詞書省筆が見出され、他には巻八に一例しかそれが見出されないのは↓第 二種﹂の筆者が親本とした﹃古今集﹄が、巻五を他本にょって補った取り合わせ本であったからとは孝えられないだろうか。 (主W︺ 西'一氏は、﹁書渠の側では高切は同一人皐ではないとし、(中略)筆者はそれぞれ別であるとしてゐるが、木文の研 究では、これを同一に取り扱つてかまはないであらう﹂と共ておられるのであるが、再検討の余地があるように思うのであ る。 四作者表記について 高野切﹃古<至の作真Nついて、築とくらベ驫券鞭を有する三例を取り上げて、検討を加えておきたい。 7 ①ふむやのあさやす 巻五秋歌下の巻頭二首の高野切本文は、次のようである。 これさだのみこのいへのうたあはせにょめる ふむやのあさやす ふくからにあきのくさきのしをるればむべやまかぜをあらしてふらむ(二四九) くさもきもいろかはれどもわたつみのなみのはなにぞあきなかりける(二五0) 県凹末尾の﹁よめる﹂は省筆可能であり、しかも先に述ベたように、この巻五は県白の小亀が夕夕く見られる巻であるにもか かわらず、ここでは省筆されていない。平安時代の古写本に特徴的な、気ままな勇詫櫨のあらわれといぇよう。 さて作者表尋あるが、定家本の巻五巻頭では文屋康秀の作とされ、﹃百人一首﹄にも康秀作とし孫られて著名な一首が、 文屋朝康の作とされているのが注目されよう。この作と続く一首の作名は康秀なのであろうか、それとも朝康なのであろうか。 ﹃古今謬集の寮﹄所収)において、﹃古今集﹄穫本の検 あるいは康秀の年齢考証からは、両説のいずれかに決することはできず、両説共に整合性をもつて存在を主張しているこ 実は古来両説が存在するのであるが、私は﹁康秀と朝康﹂(W 寸、 とを確認した。詳細は拙稿を参照していただくこととして、ここでは簡単に事{夫を整理しておきたい。 作者を康秀としているのは、元永本(同筆の筋切、唐於凸子本も)、善海所伝本、伝寂蓮筆本、定家本などである。一方、 作者を朝康としているのは高野切、伝公任筆本、雅経本、清堕需本などである。なお、一償俊成は両説の問を揺れ動いてい (注Ⅱ︺ るようで、永暦本(三六一年)では作者を朝康として﹁康秀一本﹂と傍書し、そののち昭和切では作者を康秀として﹁一本 朝康﹂と傍書し、建久本(三九一年)では作者を康秀として傍きない。 8 このような諸本の状況を見ると、朝康説の方が有力なのではないかと考えるむきもあろうし、最近の﹃百人一首﹄入門冴 中には、﹁ふくからに::・・﹂は・美は朝康作、といった解説すら見られる。しかし拙稿にて述ベたよ、つに、いずれか聖夫である (主W︺ のか確定することはできないのであって、仮名序の六歌人評に後世つけ加えられた作例の中に、文屋康秀の作として﹁ふくか らに・・・・・・﹂が挙げられているのは、平{女時代中期において、康秀張有力な一雫あったことを証し立てている。雅経本が、 巻五秋下の巻翠は作者を朝康としながら、仮名序の六歌人幸は﹁ふくからに・・・・・・﹂を康秀の作とし系げているのも、両 説が並び立っていたこと を 物 語 っ て お り 、 飢 輪 休 い 。 このような状況の中で'野切の作者表記に﹁ふむやのあさやす﹂とあるのは、朝康襲十一世紀中ごろに存在したことを 証し立ててはいるが、仮名序六歌人、勇康耒乃のくだりに﹁ふくからに・・・・:﹂の一首が書き入れられたのもこのころであろ、つか ら、早くから両説が並存したことが知られる。そ、ついう意味で、古鮮切のこの作者零ルは冉<重であるといぇようが、高野切が 最古の﹃古今集﹄写本であるとはいっても、朝康説を有力視する根拠とはなしがたいのである。 ②きのともひら 巻五秋歌下、二七0番歌﹁つゆながらをりてか、ざさんきくのはなおいせぬあきのひさしかるべく﹂一の作者をご局野切は﹁き のともひら﹂としている。諸本の多くは紀友則の作としており、﹁ともひら﹂は印登等に由来する単純な習謹とも老えられる。 ただし注目すべきは、元永本においてもこの一首の作者が﹁きのともひら﹂とされており(筋切は﹁木友則﹂)、また伝公任筆 0 本においては﹁紀友平﹂とされているとい、承・軍ある。一邸切のみならず、平{両岱凹写の﹃古今集﹄完本として伝来する 両本にもこのようにあるのは、ただごととは思われない これら三本相互の、襄影糾関係は考えられないであろう。おそらく、平安時代に籍していた数多の﹃古今集﹄写本の 中には、﹁つゆながら・・・・・・﹂歌の作者を﹁きのともひら﹂あるいは﹁紀友平﹂とする本が少なからず存在し、たまたまこれら 9 Ξ本もその仲間であったということではないか。﹁紀ともひら﹂なる歌人の名は他に所見がないから、タタくの諸本にあるように、 正しくはこの一首の作者は紀友則であろう。しかし、﹁紀ともひら﹂なる架空の歌人が、﹃古今集﹄古写本の中には、﹁つゆな がら:::﹂歌の作者として確固として存在したのである。 先にも述ヘたように、そもそもこのよ、つな異伝が生じたきっかけは、単純な誤写であったかもしれない。ところが、それを 親本として夕夕くの子本や孫本が生み出されるといった事態が進行すると、いつしか﹁つゆながら・・・・・・﹂歌の作者を﹁紀ともひ ら﹂とする写本が少なからず存在する結果となろう。﹁紀ともひら﹂とは聞き慣れない名前だと疑問を抱くこともなく、むし ろ他本とは異なった記述を珍重するというのが、平安時代の﹃古今集系受の一面でもあったと思われる。それは前掲拙稿﹁伝 ふむやのありま 公任筆本古今集素描﹂において指摘した、同本倫異な作者表彫誤本文にも見て取れる特準ある。 ③ふ む や の あ り ま 高野切﹃古今集﹄巻十八﹁雑歌﹂の九九七番歌を引く。 貞観御時に互釜はいつばかりつくれるぞととはせたまひければよみてたてまつりける かみなつきしぐれふりおけるならのはのなにおふみやのふることぞこれ ﹁ありま、 きわめて凱ハ墜休い内容の果白と和歌であるが、ここでは作者表記﹁ふむやのありま﹂に注目したい。定家本には 7父屋あり (注玲) すゑ﹂とあり、﹁有禾十﹂の字が当てられるの高例である。諸木おおむね﹁ありすゑ﹂﹁有季﹂であるが'野切は と表記している。これについて久曾神昇氏は﹃古今和歌集成立論研究編﹄において、次のように竺られた。 - 10- この歌の作者は、諸本に、文室有季とあり、他に全く所見のない人名であるので、元永本には﹁可尋﹂七発し、志香須 賀木には﹁文室有秀﹂とあり、伝一俊{際築古今染切には、﹁文屋のありかた﹂とあり'川木の朱注にも﹁ありかた﹂と 1<については続日本後紀 あり、古今集目曾は﹁文室有材﹂とあり、﹁仔細不分明﹂と注がある。条俊本には﹁ふむやのありき﹂とあり、﹁やすひ で﹂とも存したやうである。伊一馨一氏も注響られたやうに、これはL釜喜<と考ヘられる。 の如き記哥手がある。(羅日本後紀、一﹃文徳実録、一﹃三代実録、一からの引用省略、ノ即ち有真は貞観時代に活躍した人で、 一﹁末L一に^凹1呉り、り丈名書とすれば、一﹁ありす恵﹂となり、漢字に直せ.ば一﹁有季Ξ﹂となり、一﹁有ヲ今L 古今集の界と一致するのである。さて﹁ありま﹂の﹁ま﹂を﹁き﹂と見誤り一撃をあてれぱ、古今集目録の如く﹁有材﹂ 吏名一﹁まL一を漢才t (注Ⅱ) はその誤写であり、﹁康秀﹂は県中の名ある作者である。また﹁ありま﹂の﹁ま﹂が﹁万﹂の草体であつたものを、速十﹁方﹂ と聾訟して、仮名書とすれぱ、﹁ありかた﹂となる。 このように、一首の作名は国史にその名が散見する﹁文屋喜どであり、したがって高野切の作者表記が正しく、他に所見 と見てはどうであろうか﹂と、L御切 (.n) 本ず森と位雰ける氏の成一需ミWとすることなしには成り立ちがたいように思 のない、﹁文屋有季﹂は誤りと論じられたのである。しかし、一畔切のみに正しい作者名が伝わり、他本は全阪りとする久曾 神氏説はあまりにも性急で'御切を欝 うのである。早くに西下経一氏が﹁﹁ありま﹂は﹁有末﹂で、やはりアリスヱ(有禾t の誤写を示唆しておられるのが妥当なところではなかろうか。 ところで、﹁文屋喜どの名は﹁ありま﹂ではなく﹁ありざね﹂ではないのだろうか。一{辰道牙名﹁みちざね﹂がすぐに (庄扮︺ 1<は 思い浮かぶところであって、﹁1どが﹁ありざね﹂であった可能佳かなりNのではなかろうか。森田悌氏が﹃続日本m絡 全現黛訳﹄において、文屋復の名を﹁ありざね﹂と訓んでおられるのは参考になる。 ﹁有真﹂(ありざね)と﹃古△条﹄作者﹁有季﹂(ありす邑とは、名前綴似からして兄弟であったのではないか。 -11- 学問倫進して出世し、承和七年八月二二日に従五位下を授けられ、出羽守に任じられたのを皮切りに、たびたび国史にその 名が記される一方、有季は漢学にはさほど習琴ず、かえって和歌に心を用い、そのた怜覇天皇から﹃万葉集﹄について下 問を受けることにもなり、その折の歌が﹃古今集﹄に記しとどめられた。このように想像してみることはできないであろうか。 五和歌の本文について 高野切と他本との共通異文については、、西下氏が前掘白において調査しておられるのであるが、あらためて和歌本文につい て、平安時代書写の元永本(筋切も)や伝公任筆本との共通異文を中心に検討を加えてみると、次のような例を拾うことがで きる。なお、元永本を﹁元﹂、筋切を﹁筋﹂、灰任筆本を﹁公﹂と略称する。 のこりなくちるぞめでたきさくらばなあきてょのなかはてのうけれぱノ 七こ 第四句が元、筋、為相本と共通。普通は﹁ありてょのなか、 ひとひみしきみもやくるとさくらばなけふはまちみてちらばちらなむ(七八) 初句が元、筋と 共 通 。 普 通 は ﹁ ひ と め み し ﹂ あきのつゆいろことごとにおけぱこそやまのこのはもちぐさなるらめ(三五九) 第二句が元、筋、公、{慧本と益。普通は﹁いろいろことに﹂ ふくかぜのちぐさのいろにみぇつるはあきのこのはのちればなりけり(二九0) 第二句が元、筋、公と共通。普通は﹁いろのちぐさに﹂ しものたてつゆのぬきこそもろからしやまのにしきのおれどかつちる(二九こ - 12- 第三句が元、筋、寸松庵色紙と共通。普通は﹁よはからし﹂。なお、第五句は古野切独自本文で、普通は﹁をればか つちる﹂。 もみぢばはそでにこきれてもてでなんあきをかぎりとみむひとのため(三0九) 第二句が公、焚栞と、第而が元、筋、公と、第四句が公と共通。普通は﹁そでにこきいれてもていでなむあきは かぎりと^。 あきぎりのともにたちでてわかれなぱはれぬおもひにこひやわたらん(三八上ご 第二句が元と共通。普通は﹁ともにたちいでて﹂ つくぱねのこのもかのもにたちぞよるはるのみやまのかげをこひつつ(九六六) 第二句が元と 共 通 。 普 通 は ﹁ こ の も と ご と に ﹂ あすかがはふちにもあらぬわがやどはせにかはりゆくものにざりける(九九0) 第五句が元と共通。普通は﹁ものにぞありける﹂ なげきをばこりのみつめてあしひきのやまのかひなくなりぬべらなり(一 0五七) 笆句が元、公と共通。普通は﹁こりのみつみて﹂ 0七八) しはつやまうちでてみればかさゆひのしまこぎかくるたななしをぶね(一0七三) 第二句が元、公と共通。普通は﹁うちいでてみれぱ﹂ みちのくのあだたのまゆみわがひかぱすゑさへよりこしのびしのびに(一 第二句が元、関戸本と仕、匝普通は﹁あだちのまゆみ﹂ このように、一平安時代に秒ナされた元永本や伝公任"米などとの共通本文が多く見出されるのであって、これら二本より書 - 13- 写年代が半世紀以上古い一卿切も、すでにして平安期器布本の特徴をおびていることが、誤本文の上からも明らかなので ある。 0 7つちでてみれぱ﹂は、いずれも﹁こきいれ﹂﹁もていで﹂︹たちいで﹂﹁うちいで﹂の﹁い﹂字が省かれて、 ところで、三0九番歌の第二句﹁そでにこきれて﹂、第三句﹁もてでなむ﹂、三八六番歌の第三句﹁ともにたちでて﹂、- 七三番滂第二句 、柔りが解消されている。小さな異同であるが、ここには流布の過程における本文変化のメカ三ズムの一端があらわれている つのである。つまり、Ξ辻口写にあたって、親本の本文をⅡ詮密に亘辻臼き写すよりも、より合王里的なノ とみ女ら力ゞ判断する、ノ本 文を希求するという傾向が、元永本においては特に顕茗なのであるが、高野切においても、たとえぱこれら四例のように、語 義を損なわずに字余りを解消するという作為が加えられたのであろうと推測される。 次に、一野切と寸松庵色紙との共通本文に注月してみょう。右にあげた二九一番歌に、同色紙との共通本文を指摘したが、 次に挙げるのも、高野切と寸松庵色紙(﹁寸﹂と略称)に共通する本文異同である。 はなみつつひとまつときのしろたへのそでかとのみぞあやまたれける(二七四) 第二句が寸とのみ共通。普通は﹁ひとまつときは﹂ わがきつるみちもしられずくらぶやまきぎのこのはのちるとまがふに(二九五) 第二句が寸、公と共通。普通は﹁かたもしられず﹂。なお、第四句の﹁このは﹂は、元等は﹁もみち﹂、寸のみ﹁こす ゑ﹂である。 (注Ⅱ) このような寸松庵色紙との共通異文は、十一世紀半ばの晝芋とされる同色紙と高野切との、同時代における本文現象として 理竺きよう。なお、これら三例(二七四、二九一、二九五)がいずれも巻五秋下に集中しているという事実は、先に竺た - 14- 高野切における巻五の特異性とかかわりがあるのではないだろうか。 一島切の和歌の独痢本文としては、次のようなものがある。歌の後に示したのは、謠本の本文である。 そでひちてむすびしみづのこほれるをはるかたけふのかぜやとくらむ(二) 語句﹁はるたつけふの﹂ としをへてはなのかがみとなるみづはちりかかるをやくもといふらむ(四四) 第五句﹁くもるといふらむ﹂ ちりぬともかをだにのこせはるのはなこひしきときのおもひいでにせむ(四八) 第三句﹁むめのはな﹂ をりとらばをしげにもあるかさくらばないざやどかりてはるまではみむ(六五) 第五句﹁ちるまではみむL (よ﹂S︺ さつきこぱなきてふりなむほととぎすまだしきほどのこ之をきかばや(一三八) 第二句﹁なきもふりなむ﹂ ふくからにあきのくさきのしをるればむべやまかぜをあらしてふらむ(二四九) 第五句﹁あらしといふらむ﹂ かぜふけばおつるもみぢぱみづきよみちらぬかげさへそらにみぇつっ(三0四) 第五句﹁そこにみぇつつ﹂ かへるやまなぞはありてのあるかひはきてもとまらぬなにこそありけれ(三八二) ー]5- 第二句﹁なにぞはありて﹂。公﹁なぞやありての﹂ むすぶてのしづくににごるやまのゐのあかでもひとをわかれぬるかな(四0四) 第四句﹁あかでもひとに﹂ ゆふづくよおぼつかなきにたまくしげふたみのうらをあけてこそみめ(四一七) 第四句﹁ふたみのうらは﹂ おもひやるこしのしらねのしらねどもひとよもゆめのこえぬよぞなき(九八0) 第四句﹁ひとよもゆめに﹂ 9 八) 0一六) たがみそぎゆふつけとりかからごろもたつたのやまををりはへてなく(九九五) 第四句﹁たつたのやまに﹂ あきののになまめきたてるをみなへしあなかしがましはなはひととき全 第五句﹁はなもひととき﹂ あきぎりのはれてくもればをみなへしはなのすがたもみぇかくれする(一 第四句﹁はなのすがたの﹂ 0五四) 0七五) 0六九) よそながらわがみをいとのくるといはばただいつはりにすくばかりなり(一 第二句﹁わがみにいとの﹂ あたらしきとしのはじめにかくしこそちとせをかねてたのしよをつめ(一 第五句﹁たのしきをつめ﹂ しもやたびおけどもかれぬさきはのたちさかゆべきかみのきねかも(一 第二句﹁おけどかれせぬ﹂。なお、第三句﹁か﹂字脱は単純な勇テ。 - 16- もがみがはのぽれぱくだるいなふねのいなにてあらずこのつきばかり全 第四句﹁いなにはあらず﹂ 0九二) こよろぎのいそたちならしいそなつむあさしぬらすなおきにをれなみ(一 0九四) 第四句﹁めざしぬらすな﹂ 単契魚写かと判断されるものもいとわず掲げた。六五番歌、三0四番歌、九八0番歌、は、おそらくそうであろ、つ。 0六九番歌、- 0九四番歌など 一方、四四番歌は、もともとは﹁る﹂・字の書き落としという、単純六魚りであったであろうが、﹁くもといふらむ一の本文 でも、水面に散ったおびただしい花びらを雲にたとえた表現として受容されなくもなく、またそれにょってこの句四¥余りが 觧消されるから、意外と継承される可能陛をもっていたかもしれない。字<永りの雛網といぇば、也本との共通翌<文の例こお、 、ここでは二四九扉卜形{もそれに言ウ湫当するだろう。ところ力ゞ四八、釆田司欠の第五句一﹁おもひいでにせ.むL一は、一﹁おもひ でにせむ﹂とすれば字余りを解消できるし、雅経本など﹁おもひでにせん﹂の本文をもつ伝本も存在するのであるがご局野切 はそうなっていない。元永本などに少なからず見出される、工疋の方針に徹底しないというこの時代に顕著な当与形慢が、こ 、つしたところにも感じられるのである。 ところで、二番滂第四句﹁はるたつけふの﹂脊野切には﹁はるかたけふの﹂とあり、西下経一氏の前塑白には﹁誤写の 例﹂として取り上げられている。もっとな判断ともいぇようが、これほどの著名歌を、しかも巻一の池号を始めて早々の緊張 感の中で、土傑不明の本文に沓き誤るということが、はたして起こりうるであろうか。奇矯な、元再ととられることを承Πの上 で言えぱ、この一喜学﹁杣ひちてむすびし水のこほれるを遥か基の風やとくらむ﹂と陰変えて楽しんだと考えてみては どうか。催馬楽﹁道の口﹂に皐旭のU命の国府に我はありと、親に申したべ、こころあひの風や、さきむだちや﹂とある、 - 17ー その﹁こころあひの風﹂が、今頃は氷を溶かしているだろうと思いやった歌として、たった二文字を入れ扶日えるだけで作り変 える二豆業のマジツクは、人々を驚かせ、楽しませたであろう。あくまでお遊びであるから、﹁武生﹂という地名を和歌に詞み こむ破格も許されるし、第四句が本来﹁はるたつけふの﹂であることは周知の事美から、﹁はるかたけふの﹂と書いておい ても、特に支障はないと判断したのではないか。 私がこのようなことを思いついたのは、伝公任筆本に次のような例があるからである。巻一春歌上の一七番歌を、同本は﹁か すがのは今日はなやきそ鷲のつまもこもれり我もこもれり﹂としている。﹁牟ルの﹂は同本の独自異文であるが、前掲﹁伝公任 一条古今集素描﹂において述ベたように、これは避与ではなく、第Ξ句が﹁わかくさの﹂であることは承知の上で、﹁姥の﹂ 七泳み李えて楽しんだのではないか。茗名歌であれぱ一部分を詠み変えても、誰もが元の形を思い一牙ベることができるので あるから、むしう詠み変えた方の本文を書き付け磊者に示そうとしたのではないだろうか。現在、諸本の中にこのような例 を夕夕く見出すことができないのは、書承の過程において、そのような本文は﹁誤り﹂であるとして、﹁正しい﹂本文に戻され てしまった結果ではないかと思うのである。 一ヘ巻二十の巻名をめぐる諸問題 高野切の巻二十巻頭には﹁古今和歌集巻第二十/雅/袖歌/おほなほびのうた/あたらしき(以下略)﹂とある(/は改行 を示す)。久曾袖昇氏は、﹁雅﹂は欝 本巻二十の巻名として、﹃古今集﹄曾の最終段階で付け加えられた表示であったとし ておられるのであるが(﹃古今和歌集成立論研究編﹄ほか)、以下、この問題について改めて考えてみたい。 (注聖 ﹃古今集﹄巻二十の端作りを﹁大歌所御歌﹂とする伝本が多いが、これを巻二十全体黒名とする説と、冒頭の五首のみに かかるとする説とに分れている。岩田久美加氏は﹁﹁大歌所御歌﹂についてーうたの教習と奏楽・披露という観占小から1﹂に -18- おいて、﹁﹁大歌所御歌﹂のもとにまとめられた五首は、﹁大歌所﹂の人々にょってうたわれ、楽三入されてきた﹂のに対して、﹁﹁袖 あそびの歌﹂﹁東歌﹂を誇しているのは﹁大歌所﹂ではない﹂ことを諸資料にょって確かめられ、﹁従って、﹁大歌所御歌一 を巻二十全体の部立名とすることはできない﹂と述ベておられる。従うべき見解であろう。 ところで高切では、冒頭勢独自本文︹雅﹂は、この巻黒名とされているように観察される。すなわち、﹁雅﹂に暁く﹁神 歌﹂は、﹁雅﹂よりエチ分下げ再かれ、続く﹁おほなほびのうた﹂は、さらに一字分下げ再かれている。したがって、﹁雅﹂ をこ鴛羅名と位四けようとする高緊旦1に存したことは明らかである。しかし、これを峯条の形態と考える根処 はなく、一畔切に至る書承過程において生じた現象であったと考えておいていいと思うのである。 ﹃古今和歌集Π録﹄の各巻目録においては、巻二十について﹁第廿雑袖歌川二首﹂と表示されている。久曾神氏はこれにつ いて、﹁雅﹂と﹁袖歌﹂とを混同し、かつ﹁雅﹂を亙と書き弓たものと推定しておられるのであるが、器様逆であって、 りし、^二十に一﹁占今、和歌夬^己第村.九隹蔀{L 仏神哥欠﹂一から一﹁堺t神哥欠L一︽;さらに一﹁牙隹/ノ杣ーヲ{﹂、ノ\と変化した示吉牙を力ゞ高里予切の^己豆頁岳そ一^トではないかと考 えられるのである。 ム任第オ丈においては、^﹂十九に﹁﹁古,今和歌集巻第十九条隹勘{L一と立舟竹t と端作りしている。基俊本に冬十九に﹁雑休上﹂、き卜には﹁雑体下﹂と聖が表示されていたようである(璽需資 料延﹃校本﹄)。真田本に至っては、巻十七に﹁耕区、巻十八に屈ご、竺十に﹁誓﹂と表示されているようである(巻 十九は﹁竺﹂であろうが、﹃校木﹄では酷脚できない)。このような、いくつかの古写本におけ会二十の亙表示から類 推すると、﹃古今誤集県﹄の﹁雑袖歌﹂は、*畔存在したある伝本の表示を正しく転記したものであり、﹁雅神歌﹂の誤写 ではなかったと考えられるのである。 高野切の^雅/神歌、一表示が生じたいきさつは、次のように説明できるのではないだろうか。高野切の祖本においては、﹃占 今和歌集目録﹄が依拠した伝本と同様、赤﹂二十の赤﹂頭に﹁雑袖歌﹂と太耶されていたであろう。ところが、その妾の地国承過呈 -19- においてある当子者が、﹁雑﹂を字体綴似する﹁雅﹂と弓喜写してしまい、さらにその後、﹁雅﹂をこの巻黒名と判断 し釜謝写者が、﹁雅﹂と﹁神歌﹂とを分離し、高野切に見られるような形となったのではないか。﹁雅﹂を総名と判断したのが、 高野切の書写者であったか、親本やそれに先行する本の鴛テ者であったかはわからない。 ﹁雅﹂を券総名と判断するにあたっては、何らかの歌学知染介在したことであろう。たとえば﹃古今条﹄仮名序の﹁歌 のさま六っ﹂の条の﹁ただごと歌﹂についての古注に、﹁これはことのととのほりただしきをいふなり﹂(元永本)とあるが、 これが﹁ただごとうた﹂ミ奪の六義の﹁雅﹂にあてはめた上で安曽であることを知ってぃれぱ、まさに﹁ことのととのほ り正し﹂かるべき﹁神歌﹂や﹁神*議﹂などの総名として﹁雅﹂はふさわしいと判断されたとしても不國叢はない。仮名庁i 注も高野切も、十一二初中期という、ほぼ同時代の所産である。野切一古今集﹄巻二十巻冴﹁雅﹂表示は拙者たちの 与り知らぬ部立名であっ た と 考 え ら れ る の で あ る 。 七、結び 一昇切﹃古<条﹄の本文が、元永本や伝公任一栗といった平{轟岱白写の古一条と共通した性格を有しており、まさに平安 時代の自在な(ルーズな、ともいぇようが)本文豊与の実態を反映した本文であることを論じてきた。それか元永本よりも半 世紀以上も遡る時代の産物であることからは、﹃古今集﹄成立の後、かなり早くからおびただし叢の写本か作られ、そ馨 承の過程において異文か次々と発件したことか推測されよう。 久舟1升氏は﹃古今和歌集成立論研究編﹄等の系白において、予U<玉の諸伝本はその成立過程に由来するものである との画期的な仮説を諾日された。まず諸本を初撰本とR本とに大別され(ただし﹃継色紙集﹄声県本とされる根拠は弱い)、 再撰本を私稿本と公稿本とに分け、公稿本を第一次本から第五次本に八祐され、高野切を夫壷本系統と位置づけられたのであ -20- る。 稿本が成立するたびに、その一条が撰者たちの手元から流出したというおぢぇであろうが、そのような事一祭はたして現実 0 高野切のみを鬻兄本ψ謡と位竺けるのではなく、一野切をも含め、全ての﹃古△条﹄伝木が、延喜十、二年以後に成った に起こりうるであろうか。そ倫集が天下の耳目を集めることになる後似の勅撰集と﹃古今集﹄とを同一視することはできな し と推測される増補本に由来すると考える所から出発したいと思うのである。 注 (1)徳原一古今和歌染窪条﹄(平成一七年四打和泉1匡第下軍﹁平安時代の古今染一婁﹂所収。 (2)﹁元永本古今集の作女記について﹂の初出は﹃武那川女子大学紀要﹄第三十染(昭W八年二")、﹁元永木十Π今集の詞きついて﹂ の初出は﹃武庫川女子太霜要﹄第三十一架(昭和五九午一.月)。﹁元条古今条の和繁文について﹂は当下ろし。なお、前二者は伝 公任一条﹃古金'出現以前の堕,であるので、拙茗に収めるにあたって、伝公任第本のデータを付け加えた。 (3)小松茂美一賃徐公任笵古今和歌架﹄(平成七午旺文社) (4)西下経一一古今集の伝本の研究﹂(昭和二九年三月明治心雌やアH今染校木﹄(平成一九年三打新装ワイド版笠県院)頭 注にも一補説は散見するが、久曽判男氏の成立倫に、特にそれは顧著である。 (5)浅田徹他編﹃和歌をひらく第言和歌が書かれるとき﹄(平成一七年三月岩波古店)第畢コ兀永本古今集を読む﹂所収。 (6)春名好重編茗妥災就台(昭和西年漢X社)二畔切﹂の頂。 18、) 1ーを参昭。 (旦久曾神昇﹃亨誤染成需"雫、(耕三五年三一打倫') (9)小松茂三古第矣成第一巻﹄(平成元年一河蝕笠 -21- (W)﹃古今集の伝本の研究﹄三八三ページ。 (Ⅱ)﹃古今集校本﹄頭注には俊成本の作者表記に関して﹁思うに俊成は初め新院御本に従って﹁あさやす﹂とし、康秀を一説とし、昭では これを逆にしたのであろう。康秀は基俊本の深﹂とある。妥当な見解と思われる。ただし、基俊本康秀説であったかどうかは誓ルで きな し 0月風県邑一七七、一七八ページ。 (]2)六歌人評に各人の和歌を掲げない伝本も少なくない。たとえぱ善海所伝本、基俊本、邪俗山荘本、前田家本(校合轡き入れあり)など。 (玲)久曾神昇﹃古今和 歌 集 成 立 論 研 九 金 ( 昭 和 三 六 年 一 (H)引用文中﹁伊券一氏も馨荏られたやうに﹂とあるのは、同氏の論文﹁平安朝時代に於ける古今誤条の写木について﹂(﹃国禽文﹄ 昭和九年十月号)をさす。 (巧)﹃古今集の伝本の研究﹄三八五ページ。 (玲)森田悌﹃続日本後紀全現代語訳﹄上・下璽註字術文庫) (W)小松一窒氏の(注9)当一五四ページなど。 (W)﹃古今集校本﹄が高野切の木文を﹁なきもふりなむ﹂とし、﹁も一字の傍に﹁工と異文江張あるとしているのは野。 (玲)久五お会編﹃貫ソ和歌集﹄巻二十1新と論考1﹄(新典社股二三年五打)般論文。 (とくはら・しげみ本学教授) -22-
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