Title Author(s) 北相公本業平集の資料となった伊勢物語 青木, 賜鶴子 Editor(s) Citation Issue Date URL 百舌鳥国文. 3, p.1-16 1983-06 http://hdl.handle.net/10466/13939 Rights http://repository.osakafu-u.ac.jp/dspace/ 木 賜鶴f 長の過程については、さまざまな方法によって‘さまざまな仮説 は、現在、大半の研究者が認めるところである。しかし、その成 古今集成立以前に既に存在し、その撰集資料にも九ゆったものを第 という考え方に立って、伊現物語の成立段階を便宣上三次に分目、 したものを第二次、それ以降のものを第三次、と比定したもので さて、本稿で問題にしたいのは、自陵部蔵御所本業平集の末尾 ︾ 命古 V 今集所収の業平歌のうち、他に比してあまりにも長大な飼 に{他本﹂として付加されている北相公本である。これは、北相 ある。 ︽注1 自を持つ和歌は、最も原初形態の伊現物館から採録されたの みを補ったものであるから、北相公本の全容を確実に把握ずるの 公本によって、雅平本とそれに続く三条三位入道本にない和歌の ②在中将集と、苗陵部蔵御所本業平集中の雄平本は、勅探集や ではないか されたものであるが、それは、 いわゆる伊現物語三段階成長論は、片桐洋一先生によって提唱 一次、古今集以降、在中将集・雅平本業平集編纂の頃までに成立 小規模だったからではないか、 二集が編纂された頃の伊掛物語が、現存のものよりもかなり 伊興物語から採録された和歌が全体の半数にも講たないのは、 伊興物語などから業平関係の和歌を撰び出したものであるが、 北相公本業平集の資料となった伊勢物語 ﹃伊興物語﹄は、一時に成立した作品ではなく、不断の成長増 t~ が立てられている。 益を繰り返して現存の形態に至ったものであろう、という考え方 t ' J 八 0 2 8 2 7 ω ・雅平本 {MV と重出する。 ③ ※ ※⑤掘河本は業平ロ 3 ※⑧頼歌、六帖32950 出品@掘河本・承保三年奥宮本は業平。 ※③前歌業平。畏殊院本は業平。 ※②前歌集平。元永本・聞紙巻子本・寛親本は業平 e ※⑦類従本制・在中将集 き ことがわかる smは拾遺集七二八の業平歌なので問題以ないが、 探録された ①初引おおの四首と初却の贈答、あわせて六首は、勅撲集から さて、右の表から、 臣帖 3 自 在 大 農 @ ※f 平 T 臣ー 0 八 九 古 後 後 後 主 河 鳳 ま 。 議 忠 七 鍾 拾 四 一 一 四 四 一 一 の き ゆ ら し へ l え ま び き お な さ を 月 る ﹁他本﹂の部分の前半十八首が、ほほ在中将集の配 他 吉 は難しいが、 の 号 6 0 0 典 そ て 列の傾に並んでおり、在中将集にあって一他本・一の部分にない和 ① ※ 2 9 歌でも、既に存在する雄平本や三条三位入道本に左合点が付され 集 知 ② 平 ※ 九 ー 、 . . 代 平k 業 九 能 宣 l 一 3 0 か ている場合が多いことから、在中将集と相似た形態のものであろ 伊 3 1 うと推測されている。︽注2︾ 雪 わ す しかし、続く十三首は、例外二目を除いて︽注3︾、在中将集 J ¥ . 出 をはじめ、他のどの業平集にも見えないものである包その出典を 古 四 七 郵 八 五 七 五 一 七 拾 拾 七 表にすると次のようになる。 2 5 2 3 2 1 2 0 1 9 4 2 2 2 、 力 い 《 公 i 本 相 t . る よ お も ι 、 -注 4 さ あ ι ー わ ひ ら 拡 の る な 志 し 占 ね、 初》 へ べ な み も ど び ほ り で も み ぬ 旬 -2- それ以外は、いずれも業平とは無関係の和歌である。しかし、引 仁和のみかど、嵯峨の御時の例にて、せり河に御幸した (イ無 ﹂とし、雲州本拡このこ首の頗序を逆にして、 V O七六 ﹁おきな であるが、掘河本は﹁おきなさび﹂の歌の作者を一在原業平朝臣 行幸の又の日なん致仕の表たてまつりける。 (一 おきなさび人なとがめそ狩去日ふばかりとぞたづもなくなる たをぬひてかきつりたり吋る おなじ目、たかがひにて、かりさぬのたもとにつるのか 2 0七五﹀ 嵯峨の山みゆきたえにしせり河の千世のふるみちあとは有り 在原行平朝臣 まひける日 v-aA古今六一九v-mA古今九Oニ﹀は、出典 ︿拾遺七二九 の勅摂集で雪ぐ前に業平歌が位置しており、おは古今集元永本・ 唐紙巻子本・寛親本、おは古今集畏殊院本に作者名がなく、前歌 m m叫︿後撰 -O八一 に続いて業平作ということになる。また、 -O八二}は、掘河本・志保三年奥富本には河原左大臣と業平と v。おそらく、北相公本が資料に用いた勅鰐集にも業 の贈答とされている(ただし、作者名の横に﹁行イ﹂という異本 宮入がある 平作とあり、それをそのまま採録したのであろうと考えられる。 AV や 、 申 ②勅撰集と伊勢物詩に重出している和歌肱叩却引の三首である。 さび﹂の歌の問自を、 仁和の帝、せりがはに行幸し給りるひ、たかずひにてかりぎ ﹂のうち、北相公本初の和敬、 仁和のみかどのせりがはの行幸に、たもとにつるのかた ぬのたもとにつるのかたをすりてかきつけて侍付・る で、震州本のような飼曹を持ち、既に作者を業平としている後撰 伊現物語伝本の大半は﹁つるのかたを﹂云々の記述を持たないの とする{傍線部分は天福本にも朱簡による異本歯入れがある)。 をえりてかきつく おきなさびひとなとがめそかりごろもけふばかりとぞかりも 、 は、伊努物語一一四段と、後撰集雑て一 O七六に重出する。後 集伝本から採録したとも考えられるが、伊現物語伝本のうちでも hup/ hupAV 撰集の普通の形は、 -3一 り り 塗簡・本には﹁つるのかたをつくりてかきつり、る﹂という記述が た。その鈎却の贈答は、 自本では河原左大臣と業平との贈答とされていることは既に述べ 月あかき夜、かはらの左大臣のいへにまかりて、かへり 見えるので、伊勢物語から採録した可能性も全く否定することは できない。また、和歌の第五旬﹁かりもなくなる﹂は、後探集・ なむと思へる肘しさをみてのたまふ てる月をまさのきのつなによりつけてあかでわかる、ひとを 伊努物語の大半の伝本に﹁たづもなくなる﹂とあるが、伊現物路 皇太后宮越後本は﹁かりもなくなる﹂とする。したがって、 つながむ かぎりなさおもひのつなのなくはこそまさきのかつらよりも かへし 性があると思う。もしそうだとすると、北相公本が資料に用いた 家に行平朝臣まうできたりりるに、月のおもしろかりけるに O八一飼曾}︽注5 ︾ 一 ( とある。月夜に融邸で宴があり、退出する頃になっても別れか拍 さげらなどたうべて、まかりたたむとしりるほどに 段の彫留であろう。この段は、後損集にある行平の和歌を利用し ている、というのである。後摂集掴河本・承保三年奥由本がこれ また、北相公本初却に採られた、後撰集雑て -O八-・一 O りの自邸に親王たちを招いて宴を催し、人々がその屋数の素晴ら 伊勢物語八一段に、左大臣源融が、賀茂河のほとり、六条わた を業平との贈答とするのも、伊郵物路の彫留ではないだろうか。 八二の、河原左大臣源融と行平との贈答も、掘河本・事保三年奥 って、業平作と雪る後慣集伝本が生まれたと思うのである。 後摂集掘河本がこの和歌を業平作とするのは、伊興物語-一四 というものである e後撰集にも、 なやまめ あったということになる。 く一致はしないものの、存在したと考えることも可能な一伝本で 伝本は、後撰集にせよ、伊興物語にせよ、現存本のいずれとも全 伝本も存在し、北相公本はそのような形の伝本から採録した可能 るのかたを﹂云々の記述を持ち、かつ﹁かりもなくなる﹂とする つ て物語化したものと考えられるが、逆にその伊現物語の彫留によ 。 -4ー 一段の世界を背慣に、右の贈答を触と業平との贈答として読む後 融と業平とのつながりを想起させるに十分である。このような八 いつか来にりむ:::﹂の歌を跡んだという話がある。この段は、 された後に、そこに漏れている勅擬集の業平歌を増補する、とい 関わりのある北相公本も同様であっただろう。しかし、-度編集 品開などから業平関係の和歌を集めたものである。在中将集と深い 現存する業平集はすべて、古今集・償提集・伊興物語・大和物 ろうか巴 撰集の事受が生まれたと思われる。あるいは、右の贈答を取り込 う作業も、当然行なわれ得ると思う。それは私家集に-般的に見 しさをほめる和歌を部んだ時、最後に主人公の翁も﹁しほがまに んだ伊組問物館伝本が存在したとしても不思蹴ではないと思う。し られる編集方針だからである。 ﹁乍入選集漏家集﹂として古今集J新続古今集の錦恒歌 するものである。間集は、片桐洋一先生によれば︽注6︾、古今 本系小町集の場合は、そのような︿断わり畠き Vをしないで掴補 集・是則集などの末尾にも、同様の増補が見られる。また、流布 が増補されているし、 ﹃続国歌大観﹄に収められた忠ヰ集・仲文 尾には たとえば、内閣文庫本前恒集{﹃私家集大成1﹄弱恒EV の末 たがって、北相公本は、既に作者を業平としている後撰集伝本か ら採録したとも考えられるし、この贈答を含みこんだ形の、今は ない伊努物語の異本から採録したとも考えられるのである。 ﹂のように、北相公本が勅撰集から採録したと考えられる和歌 それ以外は業平とは無関係の和歌である。しかし、それは北相公 集・後援集の小町関係の和歌を中心とする第二郎、小町作とも否 mm却の七首であるが、業平の真作は初-首だけで、 本が資料に用いた勅撰集の鼠りに従っただりであると考えられる。 は初れおお mm却の三首は、今は存在していない伊興物商 ﹁又、他 そして、このうち ﹁他本﹂によって補った第四部、 とも判定しがたい和歌中心の第二郎、小町作でないこと明らかな 和歌を載せる第三部、 本﹂による第五郎、という五部構成をとるが、その第二郎と第五 部の末尾部分に、古今集・後撰集の小町歌が増補されている g勅 -5ー の異本から採録した可能性も全くないわけではない、と思うので ある。 ところで、北相公本のそのような作業は、いつ行なわれたのだ 。 また、引の和敬、 身のうれへ侍て、あづまのかたへまかりて、ともだちの -6ー 撰集にまだ小町の歌があるのに気ついて補ったのである gしたが って、北相公本も もとへいひをくり侍 一度形をなした後に、勅探集から増補された 可能性があると考えられる。 わするなよほどはくもゐになりぬともそらゆく月のめぐりあ の場合も、拾遺集雑上、四七O ︿拾遺抄雑下、五二八}と伊艶物 ふまで の場合怯どうだろうか巴"の和歌、 語一一段に重出するが、拾遺集や拾遺抄には﹁たちばなのただも と﹂が﹁人のむずめ﹂ (拾遺抄﹁人のめ﹂}に贈った歌となって おり、これも伊勢物荷からの採録たることは明らかである。 また、 unuは、現存文献による限り、伊組問物語だ付に採られてい ③ る和歌 であり、伊現物語八段・五七段ニニ四段に見えるものである。 つまり、北相公本は、他の柴平集と共通する章段以外に、八・ }一・三四・五七・七四の五事段、もしくは前述した一一四段を 採録した理由は何だろうか。右の草段の性格を分析しつつ考えて いはねふみかさなる山にあらねどもあはぬ日おほくこひわ から探録したことを示している。万葉集や拾遺集の別人の和歌を みたい。 含めて六章段から採録しているのであるが、北相公本がこれらを わざわざ業平集に採るはずはないから、当然のことであろう。 たる哉︽注8v むかし、をとこ、女をいたううらみて、 載せられているが︽註7︾、北相公本の詞自は、伊努物商七四段、 とあり、拾遺集恋五、九六九にも﹁暗唱しらず 思上郎女﹂として は、万葉集巻十一、二四ここに、 τ 干 ド 毛 同 Vパ克己7fFコcqfLWη 毛 f パ 下 さξη 作THF Z 石 根 踏 重 成 山ハ マ強 不 有 不 相 回 数 恋 度 鴨 ( 作 者 不 明 } るかな い拡ねふみかさなる山拡へだてねどあ拡ぬ日おほくこむわた いといたううらめしき人に さて、勅摸集と伊努物語に重出している和歌のうち、残る叩引 。 ー ー 八段は J1 ィ ,a むかし、をとこ有りげり。京やすみうかりけん、あづまの方 4111Illi--lBElli-ロBIlli---l ハ にゆきてすみ所もとむとて、ともとする人ひとりふたりして ゆきけり。 と書き出されるが、それは九騒の、 むかし、をとこありげり eそのをとこ、身をえうなき物に思 U t 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 に、在中将集・雅平本に採られている草段が位置している、とい ひなして、﹁京に臥あらじ。あづまの方にすむべきくにもと ていきけり。 うように、古今集以前の第-次伊興物語を中骸として、前後に草 ﹁八橋﹂ めに一とて、ゆきけり。もとより友と司る人ひとりふたりし A と対応している。主人公の県下りについて、その原因{イ}、目 を説明するのである。しかし、 v , ・ a 、雄と行ったのか{ハ v 的{口 ﹁武蔵 中将集・雅平本に採られている九段の﹁富士﹂の場面や、 七段では、 むかし、をとこありけり。京にありわびて、あづまにいきけ られている九・一 O段の和歌のほかに、八段と一一段だけを採録 八・九段の設定を前提にしているからこそ、このような簡略な説 と、原因のみが記されるにすぎない。七段は、既に存在していた るに、 している。これは偶然ではないように私には思われる。この二事 ところで、北相公本は、七段J 一五段のうち、在中将集にも探 益されていったと考えられるのである。 国﹂の一 O段が増益され、さらにその前後に第三次成立草段が泊 の場面と﹁隅田河﹂の場面とに分かれていた)を中肢として、在 マと雪る七段J 一五段を例にとれば、第一次成立の九段 段が増益されてゆく過程は明らかである c主人公の東下りをテ│ 後に頼従本業平集に採られている草段が位置し、さらにその前後 によれば、古今集以前に既に存在していたと考えられる章段の前 冒頭で述べた、片桐洋一.先生の伊努物語の成長についての御説 ー 、 . . . 明だけで事足りたのではないだろうか。 また、七段の和歌、 -7ー ~、 段は、前後の草段より早い時期に成立したと考えられるからであ る なみかな いとずしくすぎゆくかたのこひしさにうらやましくもかへる い頃の伊努物語を資料にした、と考えられる。 でこの物語に取り込まれ、北相公本は、七段がまだ成立していな 次に、一一段は、 昔、をとこ、あづまへゆきけるに、友だちどもに、みちより、 は、後撰集開旅、二ニ五二に、 あづまへまかりけるに、すぎぬる方こひしくおぼえりるほど いひおこせける。 わするなよほどは雲ゐになりぬともそらゆく月のめぐりあ に、河をわたりけるになみのたち防るを見て という問自のもとに載せられた業平の和歌であるが、七段で陪、 ふまで として、その﹁道より﹂ ﹁友だちども﹂に和歌をよこした、とい という段である。主人公が﹁あづま-に下ったことは周知の事実 ﹁伊興・尾強のあはひの梅づらをゆく﹂時の作と践定している。 なぜ﹁伊鈎・尾強﹂と眼定するのだろうか。和歌を読む限り、そ して、後撰集の問自を読む限り、 うのである。 一あづま一へ行く途中ならどこ に設定してもよいし、いっそ﹁あづま﹂に省いてしまってからの てゆく主人公を物館るのに、八段よりも東の場所には当然践定で 定の影響ではないだろうか。つまり、京から﹁あづま﹂へと下つ と限定しているのは、次の八段の一信濃国浅間獄﹂という場面践 が﹁人のむずめ﹂を盗九で﹁武蔵野﹂まで連れてゆく話、二二段 因むものであろう。そして、一一段をはさんで-二段は、主人公 の最後の場面、 どひ歩﹂いた主人公がその国の女と契る話であるが、これは九段 ﹁武蔵国﹄まで﹁ま きないし、また、後撰集詞書の﹁あづまへまかり付るに﹂という も﹁武蔵なる男﹂と京の女との話である。このように同じ武蔵国 その前に位置する第二次成立の一 O段は、 ﹁あづま﹂に着いてしまったとも受げ 作としても不自然ではないと思う。にもかかわらず﹁伊努・尾張﹂ ような漢然とした書き方、 の話でありながら、二了二二段が一 O段のすぐ次に位置してい ないのは何放だろうロまた、続く一四・一五騒は、主人公がさら ﹁武蔵固と下総固との中﹂にある隅田河の場面に とれる書き方でも困ったからだと思うのである。 したがって、七隈は、九・十段の次に八段が成立した後の段階 -8ー り上げたい 文庫本・大島本などにはない。また泉州本でも-一七段の次 一一四段からこ九段までは、阿波国文庫本・谷菰本・神宮 については、片桐洋-先生が a このあたり、一 O八段、 t一二四段の和歌はすべて、 に﹁みちのく﹂まで出かける結である。 在中将集にも雅平本にも操録されておらず、いわゆる第三次成立 ﹁あづま一へ行く途中で 和歌を詠んだというのなら、その一-段は、武蔵国関係草段の前 草段と考えられるが、このうち一一二段から一二四段までの成立 e か後、つまり一 O段の前か一三段の後に位置していてもよいので Uないか この現象は、--段の成立が二一・二ニ隠の成立よりも古いこ とを物語っているように思う。惟喬親王との主従の愛を猫く八 からの段序が甚だしく乱れている。ここであえて措定を鼠み れば、先の﹁死 -八三段、長岡の問との親子の震を描く八四段などの第一次成立 草段の次に、再び惟喬親王との交流をテーマにする第二次成立の -一一 0 ・一一一に続くのは臨終辞世の駄の一二五隠で協な ︾ と述べておられるように、現存本の状況や草段のテーマから考え てくるのである。︽注9 二四段をまとめてその前に付加したのではないかと考えられ たように臨終の段の後では落ちつかぬゆえに、-一二段J 一 かったのか、本来ならば最末尾に付加するものが、先に述べ ﹁短き命﹂をテーマにした一 O五・一 O九 八五段が位園しているように、九段に続いて一 O段が成立し、そ sつまり、北相 の後、二了一一二段が成立した時には既に一-段が存在していた ために、このような配列になったと思うのである 公本は、まだ二一・一三段が成立していない頃の伊興物語を資料 にした、ということになる。 ﹂のように、北相公本が新たに採録している八段・一一段は、 て、後の付加である可能性が大きい。 その中で、一一四段だけが特に古いと即断することはできない が、しかし次の点U注意してよいのではないか。 それは大島本の配列である。大島本は、一一五段J一一七段を -9- 現存本の草段配列や内容から見て、前後の章段よりも早い時期に 成立したと考えられるのである。 次に、伊努物語からの採録かもしれないと考えた-一四段を取 。 さて、北相公本が新たに採録している草段のうち、残る三四・ 五七・七四の三車段は、これまで述べてきた草段とは遣って、第 ﹁つれな -10ー 持たず、一-八・一一九段には﹁或本有之﹂と註記するが、一一 四段は、一二四段と一二五段との聞に置いている。一二四段は、 むかし、をとこ、いかなりける事を思ひけるをりにか、よめ 二次までに成立していた事段鮮と遊離して存在しており、現存本 ﹁つれなかりける人のもとに﹂ {三四段)、 の配列と関連させて成立時期の古さを窺うことはできない。 しかし、 ﹁女をいたううらみて﹂ (七四段} 第一次伊現物語の主人公が、二条后や斎宮などの恋してはなら き人のもとに﹂ {五七段}、 段とご-五段との間に一一四段をはさむのは、一一四段の方が先 ない人に対しても、みずからの烈しい情熱のために一途に突き進 という段である。思っていることはそのまま口に出さずにやめて に付加されたからではないだろうか。片綱先生の言われるように んでゆくタイプの人物として描かれ、第二次伊興物語でも、恋死 というように、この三車段のテl マは、いずれもつれない女に対 ﹁臨終の段の後では港ちつかぬゆえ﹂に、 一二五段の前に一一四 をするまでに女を愛する︿四O段}など、その業平像が受日継が しまう{死んでしまう}方がよい、自分と同じように心が通じる 段、さらにその前に一二四段、という具合に付加されていったの れているが、第三次伊努物語になると、 する恋の嘆きであり、女につれなくされながらもなお一一途にその ではないか。もしそうであれば、一-四段はやはり古い時期に成 で﹁りじめ見せぬ心﹂を見せる会ハ三段﹀というように、色好み 人などいないのだから、というこの和歌は、やはり臨終の一二五 立した、ということになり、また、大島本は、現存本のような配 業平、プレlポlイ業平として描かれるものが多いことは、既に 女を思い続ける主人公の獲を描いている点で共通している。 列に整えられる以前の伊努物語の形態を留めている、ということ 片桐先生が櫛指摘のところである。︽注叩︾ ﹁つくも髪﹂の老女にま になる。 段の直前に置かれるのがふさわしい。それなのに、大島本がこの りれば おもふこといはでぞたずにやみぬべき我とひとしき人しな る そのような観点からこの三草段を見るとき、これらに共通する おあきらめずにその愛を貫こうと言る主人公の蜜は、少なくとも のがあると思う。思っても思っても、立はつれない。しかし、な た伊興物語の形態を反映しているのではないか、という推論を試 段しか採録していないことに注目し、それは北相公本が資料にし 以上、北相公本が、いわゆる第三次成立草段のうちの一部の章 {問問H } ︿色好み業平﹀に変貌してしまう以前のものだと思うのである。 みたロこれとは追って、北相公本の編纂者が何らかの基準で︿選 一途な主人公の姿は、第二次までの伊勢物簡の業平像と通じるも 71マが共通しているの このように見てくれば、この三章程の- んで採った﹀とする考え方も、一方では成り立ち得るだろう。し び採られたのか、私にはわからないのである。 ︿選んで採った﹀とすれば、いったいどのような基準で選 eこれらの草段は、ある も、偶然ではないように私には思われる 時期、まとめてどこかに加えられたのではないだろうか。そして 現存本に至る過程で、同一テーマであることを気にして分徹され であることを確かめられない、むしろ別人の作か、何らかの伝意 ここで注意すべきは、これらの草段の和歌が、いずれも業平作 結ぼれている草段群は、伝流の過程で分散されることもなかった 歌であると思われる事実である。 八段は、主人公が東下りの途中で﹁信漉国浅間搬﹂を望んで和 以上述べてきたように、北相公本に新たに採録された帝段は、 東海道を下る、いわば︿正伝﹀のほかに、信欄国を経て東に下る を経て-あづま﹂に向かう東海道からは﹁浅間獄﹂は見えない。 歌を鯨むものであるが、九段のごとくご二河国八幡﹂や﹁富士﹂ いわゆる第三次成立車段のうちでも、比較的古い時期に成立した ︿異伝﹀もあったというポ ixで、この物語に取り込まれたので ものであると考えられる。そして、それはそのまま、ある時期の あろうか。さて、八段の和歌、 可能性も考えてよいのではないだろうか。 ために、現存本に歪る過程において分散して配置された、という が、この三章段の場合は、逆にテーマがあまりにも似すぎていた たと考えてはどうか。東下り章段のように大きな一つのテーマで し 伊勢物語の形態であったと思うのである。 -1 1ー か 遺集の形は、その敬語り的性絡を物語っている sさらに、 ﹃古来 どちらか一方が他方を改変した可能性も勿論あるが、本来は同じ -12- しなのなるあさまのたけにたつ煙をちこち人の見やはとがめ 風体抄﹄が、この歌の作者を大江為基としていることから見て、 ﹁ただもと﹂を﹁ためもと﹂と誤写した可能性と同時に、作者を 為基とする別の伝承が存在した可能性を考えることができる。 葉集の作者不明歌であるが、拾遺集に坂上郎女の作として収めら 七四段の﹁いはねふみ﹂の歌も、既に述べたように、もと以万 いっとてかわがこひやまむちはやぶるあさまのたけの付ぶり れている。和歌が既に有名になっていて、それを坂上郎女の作と する伝承もあったのだろう。そして、伊努物語はその伝承敬を利 (題しらず に見られるように、当時の一般的なとらえ方の一つであった。折 いへばえにいはねばむねにさわがれて心ひとつになげくころ 次に、三四段の和歌、 用したと考えられる。 であったのかもしれない。たとえそうでなくとも、東下りの︿正 伝﹀から外れるものであることは否めないだろう。 いへばえにいはねばくるしょのなかをなげさてのみもつくす は、類歌とおぼしいものが古今六帖に見える。 たちばなのただもとが人のむすめにしのびて物いひ侍りげる ︿一一三九五0 ・作者名無} べきかな という拘留のもとに、橘忠基の作として収められているが、和歌 一つの和歌であったものが、伝承されていくうちにさまざまな異 偶然似たといえはそれまでだが、もし両者に関係ありとすれば、 の作者を作者名表記として宙かず、飼留の主語として提示する拾 はしける ころ、とほき所にまかり侍りとて、この女のもとにいひっか 、 次に、一一段の﹁わするなよ﹂の歌は、拾遺集雑上、四七Oに 哉 い。︽注刊︾一と述べられたように、八段の和歌は、本来伝承歌 口信夫博士が﹁業平と思えば不合理だが、信州の民紹ととればよ たゆとも よみ人しらず﹀ は、拾遺集恋一、六五六、 間獄の煙にみずからの(この場合おそらく恋の}思いを託雪こと は、現存文献による限り伊興物語だりに見えるものであるが、浅 ぬ 文を生み出したと考えることもできる また、五七段の和歌、 2 ﹂ひわびぬあまのかるもにやどるてふ我から身をもくださっ のである。もし、北相公本の編纂者が、現存本のような形態の伊 興物持を資料に用い、その中からいくつかの車段を︿選んで採っ た﹀のならば、なぜこのような車段ばかりを選び採ったのだろう は、現存の資料では伊凱刃物語以外に出典はないが、新勅撰集恋二、 ほどの人物が、当時必須の教養とされていたであろう勅撰集の知 の作とすぐにわかる和歌を用いている e家集を編纂しようとする か。特に、一一・七四・一-四の三車段は、勅撰集を見れば他人 よみ人しらず﹂として収められている。新 努物語の和歌は、業平作でないことが確・諒される場合を除いては、 古今集や新勅撰集をはじめとする錨倉時代以降の勅撰集では、伊 結に含まれる和歌のすべてを、業平の歌と見なして、あるいは柴 編纂者は、これらの和歌を︿選んで採った﹀のではなく、伊鈎物 識を全く持っていなかったとは思えない 七二 Oに﹁題しらず 原則的に業平の和歌として入集させているのだが、この和歌が柴 平の歌とする伝承を容服する姿勢で採録したのだが、資料として aとなれば、北相公本の 平作とされていないの以何畝だろう。探者定家は、しかるべき樋 用いた伊現物語の形態が現存本より小さいものであったために、 すなわち、北相公本の資料となった伊勢物語は、いわゆる第一 拠を持っていたのではなかろうか。つまり、業平作でないことを さらに、伊努拘語からの採録かもしれないと考えた一一四段の 次伊勢物語以降、さらに成長をとげた、ある段階の伊現物語であ このような結果になったと考えるのが躍も自然で拘ろう。 {おきなさび﹂の歌も、後撰集に行平作として収められたもので ったということなのである。伊努物語の成長過程を、便宜上、三 示す伺らかの資料が存在した可能性が考えられるのである。 あることM既に述べた。 第二次成立の草段の中でも、類従本に探られている草段の方が在 段階成立という形で説明なさっている片桐先生も、たとえば同じ ﹂のように、北相公本に新たに採録された草段は、いずれも、 中将集や雅平本に採られている車段よりも古い成立であろう、と 。 業平以外の人物の作か、伝示歌とおぼしい和歌を利用した草段な -13- る 哉 述べておられるように、正確には不断の成長を続けていたと考え 承もあった万葉歌の異伝(七四段)を取り込み、そして、もし- 為基の作とも伝える伝承歌 一一段)や、段上部女の作とする伝 るべきであることを断っておられるが、以上述べてきたことによ 一四段も増補されていたとすると、兄の行平の和歌さえも業平の ところで、現存の伊現物語には、確認できる範囲に限っても、 かつ多彩なものにしたと考えられる。その意味で、北相公本が編 た増補の方法ではあったが、以後の伊勢物語の成長をさらに自由 素晴らしい伊勢物語の世界に、そしてその主人公業平に憧れ、そ - 14- A って、それを改めて確認することができたわけである。 事跡として取り込む、というように、業平作とは思えない和歌を 万葉集や古今集・後撰集などに見える別人の、あるいはよみ人し 箇罰された頃の伊興物語のあり方は、伊現物語成長史において、ま 意図的に用いて草段化する。それは、はなはだ強引な、思い切っ らずの和歌を利用して一段に仕立てた草段が数多く含まれている a さしく大きな転挽期であったと一品問えよう い cこのような草段は、第一次の、古今集の絹纂資料にもなった 物語と呼ぶにふさわしい物語世界と、その物語世界を受け継ぎ、 の世界を少しでも拡げたい、という数多くの人々の熱意であると 伊興物語の成長を支えてきたものは向か 業平がみずから語っているかのごとき姿努を随所に見せながら、 2 る事実、伊興物館自体が、明らかに別人の和歌を用いてまでその 業平集が、業平作らしい和歌を少しでも多く集めようとしてい その契機となったものは、北相公本が編纂された頃の伊現物商 世界を舷げようとしている事案、そして何よりも、勅撰集の本文 g ではなかったか。東下りの︿正伝﹀からは外れるにもかかわらず v でさえも伊鈍物語の影響によって改変されることがあるという事 ﹁浅間獄一を望む和歌を取り込み(八段 、橘忠基の作とも大江 前提にしてはじめて、伊現物簡に取り込まれ得たのであろう 私は思う・ ような、業平真作の和歌だげで構成されていた、まさしく業平の 。 第一次伊凱刃物語の世界をさらに拡げた第二次伊勢物語の世界とを eそれは一一百℃言えば、 ことは周知の事実である。いわゆる第三次成立草段にはそれが多 E 実は、人々が如何に伊興物語の世界を大切にしていたかを物語つ ︽注6 ︾﹃小野小町追跡﹄ (笠間選書﹀ く一かさなる山はへだてねど﹂とするものが多い a ︽注8 ︾定家の天福本以外は、第二・第三旬を、北相公本と同じ 日かずを(異本﹁ひかげも﹂}こひやわたらん﹂ ﹁かさなる山はなりれどもあはぬ ︽註7 ︾ただし、第二旬以下、 c そのような人々の ている。人々川崎、伊興物相を、そして業平を、愛し、慈しみ、そ のイメージを次から次へと膨らませていった 愛情、そのような事受の世界こそ、伊興物語の成長を支えるもの であったと思うのである。 ︽注叩︾︽注1 ︾に同じ。 ︽注9 ︾︽注1 ︾に同じ。 (二五五 J二五六頁} し、北相公本に捕われているわずかな草段から、その一端を垣間 ︽注刊︾﹃折口信夫全集﹄ノl卜篇、第十三巻伊興物語。 伊現物傾の成長過程は、や怯り大きな謎に包まれている aしか 見ることができたように思う。 ︽注3 ︾表のMの和歌である。雅平本にも本来日に存在したもの ︽注2 ︾︽注1 ︾に周じ。 ての研究﹄本文篇・補遺篇︿塗飽本・皇太后宮越後本﹀・ *伊興物語:::池田亀鑑博士・大津有一博士﹃伊組問物語に就き *北相公本業平集:::﹃私家集大成1 ﹄業平E ︽古附刷+爪胤 T ︾ であるが、現存本は飼富のみで和歌を欠いているロ北相公 明治宙院刊﹃校註古典躍由﹄︿上記以外﹀ ︽註1 ︾﹃伊興物館の研究︹研究篇)﹄ 本掴補の段階で既にこの和歌が欠落していたためにここに *後撰集:::大阪女子大学﹃後撰和歌集総索引﹄︿掘河本﹀・ 小松茂美氏﹃後撰和萄集校本と研究・校本篇﹄︿承保三年 補ったのであろう。 ︽注4 ︾﹁他本﹂の部分の和歌を12:::と数える。以下同じ。 奥歯本﹀・未刊国文資料﹃後撰和歌集(雲州本)と研究﹄ ︿震州本﹀・﹃新編国歌大観﹄︿上記以外﹀ ︽注5 ︾﹁行平朝臣﹂、掘河本では﹁在原業平一、承保三年奥富 本では﹁在原柴平朝臣一とヲる。 -15- 歌番号は﹃新編国歌大観﹄による *古今集・拾遺集・新勅撰集:::﹃新縮図歌大観﹄ 歌番号も同習による} *万葉集:::﹃校本万葉集﹄底本の寛永版本 *古今和歌六帖:::﹃図富寮叢刊 h本 文 儲 ※引用の際、私に濁点を施した。 -16-
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