量子力学 I 講義補足 5 TA 中郷孝祐 今回の講義ポイント 1 1.1 ヒルベルト空間と状態ベクトル 今回の講義では、状態を複素ヒルベルト空間のベクトルとして考える、量子力学の数学的な 定式化を説明します。まずはじめに、有限次元の量子系を行列を用いて定式化します 1 。講義 補足1も参照してください。この定式化では、量子力学的な状態を複素ヒルベルト空間 H 上の ベクトルと対応させて定義します。複素ヒルベルト空間の数学的な定義は後述の補足にて説明 していますが、まずここでは複素数の成分を持つ列ベクトルの集合であると考えてください。 ベクトル空間のベクトルの表記方法は色々ありますが、量子力学においては、ψ で指定され る状態を記述するベクトルを |ψ⟩ と表すことが多いです。この |·⟩ で表される列ベクトルのこと をケットと呼び、後ほどでてくる行ベクトルのことを ⟨·| のことをブラと呼びます。ケットとブ ラを用いてベクトルを表す方法は Dirac により考案されました。物理量を表すオブザーバブル はエルミート演算子として与えられ、これは複素数の成分を持つ正方行列で表されます。さら に、時間発展を表す演算子は、時刻 t0 での状態 |ψ(t = t0 )⟩ から時刻 t1 での状態 |ψ(t = t1 )⟩ へ の写像として与えられ、これも複素数の成分を持つ正方行列で表されます。 複素ヒルベルト空間の二つのベクトルの組 (|a⟩, |b⟩) が与えられた場合に、数(複素数)を生 成する操作が内積であり、⟨a|b⟩ のように表します。複素数の成分を持つ列ベクトルで表される |a⟩ に対して、⟨a| は、|a⟩ の各成分の複素共役をとってから列を行に変換して得られる行ベクト ルであると考えることができます。そうすると、内積は行ベクトル ⟨a| と列ベクトル |a⟩ の行列 の積で表すことができます。後述の補足にあるように、内積の操作は、対称性、線形性、半正 定値性を持ちます。 √ 同じベクトルの組 (|a⟩, |a⟩) に対する内積を用いると、|| |a⟩ || := ⟨a|a⟩ として |a⟩ のノルム を定義することができます。ノルムとはベクトルの“ 長さ ”の概念を一般化したもので、これ を用いるとベクトル間の距離の概念を定義することができます。 量子力学の公理1 量子力学的な状態は、複素ヒルベルト空間のノルムが 1 のベクトルとして 表すことができる。 複素ヒルベルト空間 H が d 次元のとき 正規直交基底を {|φ1 ⟩, |φ2 ⟩, · · · , |φd ⟩} とします。正規直交性は、 “ 規格化条件 ” ⟨φi |φj ⟩ = δij 1 (1) これまで扱ってきた位置演算子 x ˆ、運動量演算子 pˆ、波動関数 ψ(x) などは無限次元系 (連続変数系) です。 1 として表され、基底である ⇔ ベクトルの組が完全系をなしている、ということは“ 完全性条件 ” d ∑ |φi ⟩⟨φi | = Iˆ (2) i=1 として表されます。ここで、Iˆ は d 次元の恒等演算子 (後述) です。この完全性条件を使うと |ψ⟩ は ˆ |ψ⟩ = I|ψ⟩ = d ∑ |φi ⟩⟨φi |ψ⟩ = i=1 d ∑ αi |φi ⟩ αi := ⟨φi |ψ⟩ ∈ C (3) i=1 というように、正規直交基底をもちいた線形和で表すことができます。また、係数 αi を用いる とケットは列ベクトルを使って表すことができ、 α1 α2 ( |ψ⟩= ˙ . = α1 .. α2 )T ··· (4) αd αd となります (T は転置を表す)。= ˙ は J.J. Sakurai の参考書で用いられている記号で、ある基 底を指定した際には「=」で結べる関係が決まるということを表すための記号です。ここで、 {|φ1 ⟩, |φ2 ⟩, · · · , |φd ⟩} は 1 0 0 0 1 0 |φ1 ⟩= ˙ . , |φ2 ⟩= ˙ . , · · · , |φd ⟩= ˙ . . . . . .. 0 0 (5) 1 です。同様にしてブラベクトル ⟨ψ| は以下のように展開できます。 ⟨ψ| = ⟨ψ|Iˆ = d d d ∑ ∑ ∑ ∗ ⟨ψ|φi ⟩⟨φi | = (⟨φi |ψ⟩) ⟨φi | = αi∗ ⟨φi | i=1 i=1 (6) i=1 行ベクトルを用いれば ( ⟨ψ|= ˙ α1∗ α2∗ ··· αd∗ ) (7) となります。 内積と外積 2つのケット β1 β2 |ψ ′ ⟩= ˙ . .. α1 α2 |ψ⟩= ˙ . , .. βd αd 2 (8) に対して内積 ⟨ψ|ψ ′ ⟩ および外積 |ψ⟩⟨ψ ′ | は、 ( ⟨ψ|ψ ′ ⟩= ˙ α1∗ α2∗ ··· β1 d ) β2 ∑ ∗ αi∗ βi αd . = .. (9) i=1 βd α1 α2 ( |ψ⟩⟨ψ ′ |= ˙ . β1∗ .. β2∗ βd∗ ··· ) α1 β1∗ = ... ··· .. . ··· αd β1∗ αd α1 βd∗ .. . (10) αd βd∗ となります。 ・線形演算子 Aˆ ˆ のようにケット ベクトル |v⟩ からベクトル |v ′ ⟩ に変化させる写像です。式で表すと |v ′ ⟩ = A|v⟩ の左側に演算子を作用させることによって変換が記述されます。Aˆ は基底 {|φi ⟩} を用いれば A11 ··· A1d ∑ .. .. Aˆ = Aij |φi ⟩⟨φj |= ˙ ... (11) . . ij Ad1 ··· Add ˆ j ⟩ です。Aˆ は線形なので、A(α|a⟩ ˆ と d × d 行列によって展開されます。ここで、Aij := ⟨φi |A|φ + ˆ ˆ ˆ ˆ β|b⟩) = αA|a⟩+β A|b⟩ が成り立ちます。恒等演算子 I は特別な例で、任意の |v⟩ に対して |v⟩ = I|v⟩ となる線形演算子です。 ・Aˆ のエルミート共役な演算子 Aˆ† Aˆ† は、すべての i, j = 1, · · · , d にたいして ˆ i ⟩)∗ ⟨φi |Aˆ† |φj ⟩ = (⟨φj |A|φ を満たす演算子として定義されます。行列を用いて表すと ∗ A11 ··· A1d A11 . . † . .. .. ←→ Aˆ = Aˆ= ˙ .. ˙ ... Ad1 Add A∗1d ˆ |v ′ ⟩ = A|v⟩ ←→ ⟨v ′ | = ⟨v|Aˆ† ··· (12) ··· .. . ··· A∗d1 .. . (13) A∗dd (14) という対応があります。エルミート共役 † をとる操作は、転置 + 複素共役を行う操作に対応し ます (Aˆ† = AˆT ∗ )。 ˆ ・ユニタリ (unitary) 演算子 U ˆ が任意の状態 |ψ⟩ を他の状態 |ψ ′ ⟩ に移す演算子であるためには、|ψ ′ ⟩ のノルムが 1 で 演算子 U ある必要があります。すなわち、ノルムが 1 である任意の |ψ⟩ に対して ⟨ψ ′ |ψ ′ ⟩ = ⟨ψ|Uˆ † Uˆ |ψ⟩ = 1 (15) ˆ † Uˆ = Iˆ の時のみ成り立ちます。一般に、 が成り立ちます。これは、U Uˆ † Uˆ = Uˆ Uˆ † = Iˆ 3 (16) ˆ をユニタリ演算子と呼びます。一般に異なる2つの基底 {|φi ⟩}, {|φ′i ⟩} の間に を満たす演算子 U ˆ |φi ⟩ ∀i という関係があります。 は |φ′i ⟩ = U ・エルミート演算子 † ˆ A = Aˆ となる演算子をエルミート演算子とよびます。エルミート演算子 Aˆ は、常に対角化す ることが可能で固有値がすべて実数となります。つまり、Aˆ の固有値の集合を {ai }、対応する 固有ベクトルの集合を {|ai ⟩} とすると実数の ai に対して ˆ i ⟩ = ai |ai ⟩ A|a (17) ∑d と書くことができます。固有ベクトルを用いると演算子は Aˆ = i=1 ai |ai ⟩⟨ai | と展開すること ができます。 ˆ で表すことができる。O ˆ をオブザーバブル 量子力学の公理2 物理量はエルミート演算子 O と呼ぶ。 ˆ もエルミート演算子で表されます。 系のハミルトニアン H 無限次元系の場合 状態 |ψ⟩:無限次元の複素ヒルベルト空間 H のノルムが 1 のベクトル オブザーバブル Aˆ:連続な固有値 (連続スペクトル)a と対応する固有状態 |a⟩ をもつ。 |a⟩ の大きさは規格化条件として ⟨a|a′ ⟩ = δ(a − a′ ) (18) を満たすようにとることにします。また、完全性条件は ∫ da|a⟩⟨a| = Iˆ (19) で表されます 2 。これを用いて状態 |ψ⟩ を {|a⟩} で展開すると ∫ ∫ |ψ⟩ = da|a⟩⟨a|ψ⟩ = da ψ(a)|a⟩ ψ(a) := ⟨a|ψ⟩ (20) と書けます。 無限次元の自由度をもつ具体例としては、一次元座標の自由度を持つ粒子があります。この 粒子の位置・運動量を表すオブザーバブルを x ˆ, pˆ とすると、固有値方程式 xˆ|x⟩ = x|x⟩, pˆ|p⟩ = p|p⟩ (21) から、x と p に関する固有ベクトル |x⟩, |p⟩ を考えることが出来ます。これらの固有ベクトルに 対して規格化条件は ⟨x|x′ ⟩ = δ(x − x′ ), ⟨p|p′ ⟩ = δ(p − p′ ) (22) ∫ Notation によっては、c を定数として規格化条件を ⟨a|a′ ⟩ = cδ(a − a′ )、完全性条件を 1c da|a⟩⟨a| = Iˆ とす る場合もあります。c の大きさは固有ベクトルの大きさのとり方の自由度から決まるもので、任意に選ぶことがで きます。 2 4 完全性条件は ∫ ∫ ˆ dx|x⟩⟨x| = I, dp|p⟩⟨p| = Iˆ (23) と書けます。波動関数は、状態 |ψ⟩ の x および p 基底による展開 ˜ := ⟨p|ψ⟩ ψ(p) ψ(x) := ⟨x|ψ⟩, (24) として定義されます。すなわち、 ∫ |ψ⟩ = ∫ dxψ(x)|x⟩ = ˜ dpψ(p)|p⟩ (25) です。また、 xˆψ(x) = ⟨x|ˆ x|ψ⟩ = xψ(x), ˜ xˆψ(p) = ⟨p|ˆ x|ψ⟩ = iℏ pˆψ(x) = ⟨x|ˆ p|ψ⟩ = −iℏ ˜ ∂ ψ(p) , ∂p ∂ψ(x) , ∂x ˜ ˜ pˆψ(p) = ⟨p|ˆ p|ψ⟩ = pψ(p) (26) (27) です。 1.2 補足:ヒルベルト空間の数学的定義 複素ヒルベルト空間とは、I. 複素内積空間のうち II. 完備性をそなえた空間として定義されま す。以下にその定義を詳しく説明します。 I. 複素内積空間 内積が定義された複素ベクトル空間です。内積とは、2つのベクトル |a⟩ と |b⟩ から複素数を作 り出す操作のことで数学的には (|a⟩, |b⟩) などと書かれますが、ブラ・ケット記法では ⟨a|b⟩ と表 記します。内積の定義は (前述したように) 1. 対称性:⟨a|b⟩∗ = ⟨b|a⟩ 2. 線形性:⟨a|(α|b⟩ + β|c⟩) = α⟨a|b⟩ + β⟨a|c⟩ 3. 正定値性:⟨a|a⟩ ≥ 0、かつ等号成立は |x⟩ = 0 のときのみ 3 。 √ を満たすものです 4 。内積空間では、|| |a⟩ || := ⟨a|a⟩ として |a⟩ のノルムを定義することがで きます。ノルムが定義されると、以下の完備性という性質を考えることができます。 II. 完備性 内積空間 H において、すべてのコーシー列が収束するとき、H は完備であるといいます。つま 5 り、どんなコーシー列 {|ψn ⟩}∞ n=1 に対しても 、あるベクトル |ψ⟩ が存在して limn→∞ |ψn ⟩ = |ψ⟩ が成立するということです。 ここでの 0 は H の零ベクトルを表す。 数学的には、ブラベクトル ⟨·| はケットベクトルから複素数を作り出す線形汎関数として定義されます。ブラ ベクトルは複素ヒルベルト空間 H の双対空間 H∗ 上のベクトルとなります。 5 {|ψn ⟩}∞ n=1 がコーシー列 ⇔ ∀ϵ > 0, ∃n0 s.t. || |ψn ⟩ − |ψm ⟩ || < ϵ ∀n, m > n0 . 3 4 5 まとめ エルミート共役な関係 (←→ はエルミート共役をとる操作に対応) c ←→ c∗ c∈C α1 ( .. |ψ⟩= ˙ . ←→ ⟨ψ|= ˙ α1∗ ··· A11 .. ˆ A= ˙ . Ad1 ··· .. . ··· αd A1d .. . A∗11 ←→ Aˆ† = ˙ ... Add A∗1d ˆ A|v⟩ ←→ ⟨v|Aˆ† ··· .. . ··· (28) αd∗ ) (29) A∗d1 .. . (30) A∗dd ∗ ⟨a|b⟩ ←→ ⟨a|b⟩ = ⟨b|a⟩ ˆ ←→ (AˆB) ˆ †=B ˆ † Aˆ† AˆB (31) (32) (33) 量子力学での状態、物理量を表すオブザーバブル、状態の変換を表す演算子 状態 |ψ(t)⟩ ノルム 1 のベクトル ˆ オブザーバブル O ˆ (特にハミルトニアン H) ˆ† = O ˆ エルミート演算子:O ˆ 状態変換の演算子 U (特に時間発展演算子) ˆ † Uˆ = Uˆ Uˆ † = Iˆ ユニタリ演算子:U コメント 今回はブラ・ケットを用いる量子力学の数学的な定式化を学びました。ブラ・ケットを用いる ことによって、式の記述を扱いやすくすることができます。またこの定式化を導入すると、簡 潔な形で量子力学の公理化をすることができます。 ˜ というのは、状態 |ψ⟩ ブラ・ケット記法を学ぶと、いままで使っていた波動関数 ψ(x)、ψ(p) をある特定の基底で表したものである事がわかると思います。今回の講義で説明した定式化の もとでは、x と p の基底の関係は交換関係 [ˆ x, pˆ] = iℏ のみから定まるものである、ということ を期末レポートとして出題しました。 複素ヒルベルト空間のベクトルと演算子を用いた量子力学の定式化の教科書として有名なも のは • 『現代の量子力学』、J.J. Sakurai、吉岡書店 (1989) • 『量子力学』、ディラック、岩波書店 (第四版:1968) などがあります。また院生レベルの内容となりますが、より一般的、抽象的な設定でヒルベル ト空間やそこでの演算子の振る舞いを数学的に厳密に勉強したい方には • 『量子力学の数学的構造 I・II』、新井朝雄・江沢洋、朝倉書店 (1999) を紹介しておきます。 6
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