9 遠江・駿河・伊豆三国の郡と郷 ~古代地方行政制度の変遷~ たいほう たいほうりつりょう 701(大宝元)年に大宝律 令 が完成し、律令制度による政治のしくみがほぼ整った。地方組織 き ない しちどう こく ぐん り としては、全国が畿内・七道に分けられ、さらにその下に国・郡・里が置かれた。なお里は50戸 ごう からなり、のちに郷と改称されている。 1 評から郡へ ぐんぴょう に ほんしょ き みことのり しんぴょうせい かつて「郡 評 論争」といわれる『日本書紀』に記された大化改新の 詔 の信 憑 性をめぐる論 ぐん ひょう (文武三年〔 )五カ〕 〈史料1〉 (己) 〔五カ〕 〔佗カ〕 ふじ わら きょう ふじ わら たのかで争われたものである。1967(昭和42)年に藤 原 京 の宮城である藤 原 きゅう かず さ あ わ まつ もっ かん 宮 跡から「己亥年十月上捄国阿波評松里」と記された木簡が出土した。己亥 もん む 年とは文武天皇3年(699)にあたり、「郡」字の使用は大宝令に始まることで この論争は決着した。一般的には701(大宝元)年以降、国郡制の施行によって、 い ば ま ろ 評から郡へ移行したと考えられている。〈史料1〉の浜松市の伊場遺跡から出 ふち たけ だ わかやまとべのむらじ 土した木簡にも「己亥年□月十九日渕評竹田里人若 倭 マ 連 □末呂上為×」と ふ ち 記され、同じ己亥年に遠江国に渕評が置かれていたことがわかり、のちの敷智 あらたま (狭カ) 郡の前身にあたる。藤原宮跡出土の木簡にも、遠江国の「荒玉評赤 □ 里」、駿 (珠流カ) 〔老カ〕 (『静岡県史』資料編4古代 ・已亥年□月十九日渕評竹田里人若倭マ連□末呂上為× ・持物者馬□□□人□□ 史□評史川前連□× 争があった。改新の詔中の「郡」の文字が、本来は「評」であったのかなかっ 河国の「 かしわ はら 河評 柏 原里」と記されたものがあり、以上の3点が静岡県内に 存在した確実な評の例である。 こう とく たい か 評は孝徳天皇の649(大化5)年全国一斉に設置されたとも、皇室領から段 階的に設定されていったともする両説がある。また、伊場遺跡出土の木簡には 頁) 952 うま 「駅評」と記されたものがあることから、評は郡の前身だけでなく、のちの駅 や かわ づ 家や川津にあたる交通施設も含まれることがわかってきた。 ようろう 措置にもうなずける。次いで、〈史料3〉(養老6年2月16日条) やま な に山名郡が置かれている。 -22- 69 61 頁) や 頁) さ によれば、722(養老6)年に遠江国佐益郡の8郷をさいて新た 一 る説に従えば、行政上支障をきたすことから、実情に応じたこの 二 浜松市南東部から袋井市南部にまで至る広大な地域に及んだとす 〈史料2〉 ながのしも 遠江国長田郡、地界広遠、民居遥隔、往還不 レ便、辛 ながのかみ 709(和銅2)年長 上・長下の2郡に分割されている。長田郡は 一 合、領域が広範囲にわたって往来に不便であることを理由として、 (『静岡県史』資料編4古代 なが た (『静岡県史』資料編4古代 わ どう がわかる。〈史料2〉(和銅2年2月20日条)の遠江国長田郡の場 苦極多、於 レ是分為 二二郡 一焉、 しょく に ほん ぎ 続き、『 続 日本紀』の記事から静岡県内でも郡が再編されたこと 8世紀初頭に郡は成立したが、その後しばらく郡制には変動が 〈史料3〉 二 割 遠江国佐益郡八郷 、始置 山名郡 、 2 郡制の変動 〈史料4〉 東海道 ハマ ナ 〔中略〕 イハ タ フ チ カ チ イナ サ ス アラタマ ヘ ナカカミ キカフ 4 平安時代の郡と郷 383 頁) がカツオであったことがわかるなど興味深い。 ア た荷札が多く、当時の静岡県の特産物の一つ ト へもたらされた調など租税の物品に付けられ ウ 記されている。これらの木簡は、地方から都 遠江国上 管 浜名 敷智 引佐 麁玉 長上 長下 磐田 山香 周智 山名 佐野 城飼 み しま ハイハラ も マシ ツ か 蓁原 ふるいえ 国駿河郡古家郷」、「伊豆国賀茂郡三嶋郷」と タ カタ ものがある。例えば「遠江国山名郡」、「駿河 イホハラ (『静岡県史』資料編4古代 河・伊豆三国に存在した郡名や郷名を記した 駿河国上 管 志太 益頭 有度 安倍 廬原 富士 駿河 から出土した木簡には、奈良時代の遠江・駿 伊豆国下 管 田方 那賀 賀茂 へい じょう きゅう 甲斐国上 管 〔中略〕 へい じょう きょう そのほか平 城 京 の宮城である平 城 宮 跡 右為 二中国 一、 〔後略〕 3 木簡記載の郡と郷 えんちょう えん ぎ しき 平安時代の諸国の郡名は、927(延 長 5)年に完成した『延喜式』によって知ることができる はま な ふ ち いな さ あら たま ながのかみ ながのしも いわ た やま か す ち やま な さ や 〈史料4〉。遠江国は浜名・敷智・引佐・麁玉・長上・長下・磐田・山香・周智・山名・佐野・ き こう はい ばら し だ まし づ う ど あ べ いお はら ふ じ する が た 城 飼・蓁 原 の13郡、駿河国は志 太・益 頭・有 度・安 倍・廬 原・富 士・駿 河 の7郡、伊豆国は田 がた な か か も じょうへい 方・那賀・賀茂の3郡からなっていた。 承 平年間(931 ~ 938)に成立し、当時の百科辞典であっ わ みょうるいじゅうしょう た『倭 名 類 聚 抄 』(『静岡県史』資料編4古代 414頁)には、さらに郡の下の郷名まで載って いる。伝本によって 〈図1〉 遠・駿・豆三国の郡 異同はあるが、大東 急記念文庫本によれ ば、遠江国は14郡96 郷、駿河国は7郡59 郷、伊豆国は3郡21 郷であった。 律令制度に伴う郡 名や郷名は、時代が 下るとともに変更さ れたり消滅したりし てしまったものも多 い。なかには現代ま で残り、現存する地 名に今もってその名 『静岡県史』通史編1原始古代492頁より 注)河川は現在の河道を示す をとどめているものもある。ところが平成の大合併により、引佐郡や磐田郡といった千年以上使 われてきた伝統ある郡名がなくなってしまった。地名という貴重な文化遺産を失ったことになる。 〈参考文献〉 『静岡県史』通史編1原始・古代 第2編第3章第1節 他 -23-
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