学校教材資料集第3号(平成19年栃木県立文書館

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学校教材史料集第3号
一授業に使うとちぎの史料−
4
籾摺り騒動一宇都宮藩明和元年の百姓一揆−
I 史料
-
-
臼井 清太夫︵印︶
小林三郎兵衛︵言
富永 弥藤治︵印︶
世古 徳兵衛︵印︶
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引高合計は,田方当引十aヨ方永引十畑方当引
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弘化21嘉永2
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14 19 元延寛宝9明6安8天寛6n叉6n支7
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天保n−弘化元
天保6ー犯
文致13−天保5
文政8112
叉致3−7
文化12︲文致2
文化7−n
文化216
寛戦犯︱−入化元
安・水9ー天明4
寛政71n
寛致2−6
天明5−寛致元
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一
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申渡之覚
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︵読み下し︶
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一、納米六合摺り出米の事
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一、納米一石につき米四合ずつ、目米納の事
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右米摺出米願いにより五合摺に直し、ならびに目米納
当秋より残らず御免候事
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一、右につき村々田方免を相増しならびに前々より出し候
用捨引これを減じ候て六合摺の出米は指し免ずる者なり
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︵意訳︶
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一、納める米は六合摺にて出すこと。
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一、納める米一石に付米四合ずつ、目米を納めること。
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右の米摺りと目米については、農民からの願いによって五合摺に直し、
ならびに、目米をこの秋から全て免除する。
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第2次戸田氏時代→
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一 右のようにするので村々の田にかける税率を上げ、ならびに前々より
・松平氏時代・
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…
出していた用捨引は減らして、六合摺にて出すことは免除する。
←第1次戸田氏時代→
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(グラフ)下岡本村における引高の推移
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申渡之覚
御田長島村
庄屋
組頭
惣百姓中
宝暦三年酉十月
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︻史料1﹂
︵釈文︶
申渡之覚
納米六合摺出米之事
納米一石二付米四合宛、目米納之事
右米摺出米依願五合摺二直井目米納、当秋右
不残御免候事
右二付村々田方免を相増井前々右出之候
用捨引減之候而六合摺之出米ハ指免者也
-
(1)義民物語「籾摺騒動」は虚像
宇都宮藩で起きた籾摺騒動については、これまで義民物語化されたものが歴史的事実である
かのように見なされてきました。宝暦3年(1753)に百姓一揆が起こり、一揆を代表して年貢
の納め方を「6合摺」から「5合摺」(*)にさせて減税を実現した名主が処刑されたとする
ものです。しかしその後の研究で、上の根拠とされてきた宝暦3年の「申渡之覚」は減税どこ
ろか増税を意味するものであり、さらには藩が農民に願い出させるという工作をした上で出さ
れたものであることが明らかになってきました。また、一揆が起きた年も宝暦3年ではなく明
和元年(1764)であることがわかってきました。
(2)「籾摺騒動」の実像
寛延2年(1749)、宇都宮藩の戸田氏は長崎に移り、替わって長崎にいた松平氏が宇都宮に移っ
てきました。しかしその際の費用(7万両弱)や宇都宮に来てからの「物入り」で松平氏の財
政は悪化しました。また翌年には日光で家光の百回忌法要があり、松平氏の財政をさらに苦し
くしました。
この苦境に松平氏は倹約と増税で対応しました。着任後まもなく用捨引(引方=現在の控除)
時代の6合摺からは減税で、出来轟1増税になりますがごくわずかでした。引方の削減と免の引
︻史料2︼
の削減と免(税率)の引き上げ、5今摺未納と出米の負荷とを行っています。5今摺は戸田氏
︵釈文︶
松平主殿頭様御代差上申候
覚 今泉筋
大曽筋
︵中略︶
右奉願候通、御先代之通、六合摺二被成下候と成とも御引方之儀も右中上候通御引被下置、
北上御慈悲を以、村々共二弱百姓、立百姓井惣作地者相助り大小之百姓共相続仕候様二乍
恐奉願上候、以上
明和元年中八月
︵中略︶
右願書之儀、宇都宮御役所様より岡本村、石井村、ふざかし村、阿久津村、氏家村、白沢
村、平出村、上岡本村、今泉村、大曽村、塙田村、戸祭村右拾弐ケ村庄屋共御召出し、被
仰付二付、無是非御願書江印形仕候
一μ7・-
︵読み下し︶
き上げにより、総体的に増税となったわけです。
右願い奉り候とおり、御先代のとおり、六合摺になし下され候となるとも、御引方の儀も
右申し上げ候とおり御引き下し置かれ、此の上御慈悲を以て、村々共に弱百姓、立百姓な
らびに惣作地は相助かり、大小の百姓とも相続き仕り候ように、恐れながら願い上げ奉り
候。以上。
︵中略︶
右願書の儀、宇都宮御役所様より岡本村・石井村、ふざかし村、阿久津村、氏家村、白沢
村、平出村、上岡本村、今泉村、大曽村、塙田村、戸祭村、右十二ケ村庄屋共御召し出し、
仰せ付けらるるにつき、是非なく御願書へ印形仕り候。
︵意訳︶
右に願いましたとおり、御先代と同じく六合摺になされても、御引き方のことも願いのと
おりに引いてくださり、さらにお慈悲をいただいてどの村も弱い百姓や独り立ちできる百
姓ならびに村が耕作する田地が助かり、大小の百姓が統けられますよう恐れながらお願い
︵中略︶
申し上げます。以上
右の願書のことは、宇都宮藩の御役所から、岡本村・石井村、ふざかし村、阿久津村、氏
家村、白沢村、平出村、上岡本村、今泉村、大曽村、塙田村、戸祭村十二の村の庄屋を召
し出して仰せ付けになったので、仕方なく願書に印を押しました。
2 解説
覚
農民が藩に納めるべき年貢はまず米の量で示され、それが籾の量に換算されました。この
ときの換算率は常に「5合摺」で、納めるべき年貢が5合ならば籾1升と換算されました。
その籾量からまた米の量に換算して米納される場合が多く、戸田氏時代には、籾量から米
の量には「6合摺」で換算されていました。基準の年貢量が米5合である場合にはその籾
は1升、しかし「6合摺」ですから1升の籾から6合の米が摺り出されることとし、農民
は6合の米を納めていたのです。基準の年貢量が米5合だったのに、納める量が米6合と
はおかしな話しですが、戸田氏時代には引方も多かったため、まかり通っていました。
特に増税に強く影響される貧困な農民には深刻な事態で、藩に対する不満が高まりました。
そこで藩は、宝暦3年に税改正の願いを名主たちから出させ、これに応える形で税改正の申し
渡しを行いました。藩側から案文を示して村役人たちに捺印させ、提出させたのです。そして
その後宝暦13年(1763)までは引高のない安定した年貢納入量が確保されました。しかし農民
にとっては引方なしで規定通りに年貢が徴収されたのであり、不満が解消するはずもなく、加
えて宝暦5年の凶作と同7年の水害もあって、不満は高まっていきました。
明和元年(1764)、藩は農民の不満解消と、さらなる増税とを目論んで、戸田氏時代の制度に
戻すことにしました。免を引き下げ、「5合摺」を「6合摺」に戻して増税する一方で、引方
は戸田氏時代の大幅なものには戻しませんでした。しかも藩は、このことに関する朝令暮改と
いう批判を恐れ、改正を再び農民側から願い出させることで松平氏の面目を保とうとしました。
そして各村の名主たちが再び呼ばれて説得工作を受けたのです。
このことに憤ったのが村の貧困な農民たちです。増税を見抜き、さらに藩が名主たちから願
い出させようとしたことがきっかけとなり、ついに明和え年9丹12冊にヤ揆が発生しました。
さらに翌13日から14日1こかけて打ち壊じに発展し、藩の舞用達であった豪商石塚文右衛門家が
打ち壊され、多くの酒屋では若者が乱入し、騒ぎを起しました。藩は兵を出してこの騒動を鎮
圧し、その際の収拾策として、「何事も従前通りにする」ことを約束しました。「何事」の中
には5合摺のまま現状維持ということも含まれており、農民たちは了解して一揆を解散しまし
た。
翌明和2年(1765)秋、何人かの名主が処刑されました。この理由には諸説ありますが、彼
らがいわゆる義民であったからではなく、農民たちを押さえきれなかったかどで処刑されたの
であり、農民たちへの見せしめ的な意味があったとも言われています。
3 教材化の視点
従来の義民物語的「籾摺騒動」像では、この騒動は代表越訴型一揆でした。しかし実像は惣
百姓一揆たるもので、騒動の底辺を支えていたものは変質しつつあった農村に形成されてきた
貧農層でした。また彼ら貧農層を含む農民たちが庄屋などの村役人層と必ずしもよい関係にな
かったことが、騒動のきっかけにもなっています。このことは農村の変質という学習内容の一
端を示しています。
18−
-
レ
*「5合摺」とは「1升の籾から5合の米が摺り出されることにする」.という意味です。
乙
また藩が税制の改定に当たって、2度とも農民からの願いを提出させ、これに応える形を取っ
ていることは、藩の農民支配の実態を伺わせるものであり、「一方的に支配され収奪される農
民」像に修正を迫るものでしょう。農民の要求が藩の政策に一定以上の影響力をもっていたこ
とを効果的に理解させられる教材でもあります。
4 授業展開例
まず、戸田氏と松平氏の領知交替と、その結果として松平珍の財政悪化を説明します。その
上で、
●「あなたが藩主松平氏だったら、苦しくなった財政をどのように立て直しますか?」
と問います。倹約、専売などいくりかの回答が予想されますが、増税は容易に引き出せること
でしょう。
その上で宝暦3年の史料1を示し、増税の方法を読み取らせます。ここに害かれた一つ一つ
について、増税減税どちらになるのかを検討します。特に(1)は「籾摺騒動」の事件名にも
なる内容なので。仕組みをしっかりおさえておきたいところです。
(1)6合摺を5合摺に【減税】
(2)目米を免じる【減税】
(3)免を増す【増税】
(4)用捨引きを減じる【増税】
そして総体として増税であったことを確認し、
●「増税は農民にとって受け入れがたいものです。しかしこの「申渡覚」をよく見ると、農民
が受け入れざるを得ないようなものであったことがわかります。わずか2文字の表現なので
すが、どの部分でしょうか?」
上の答えは「依願」(願いにより)です。
●「この願いとは、誰の願いですか?」
と尋ね、藩が農民からの願いを受けて税改正を行ったという形にしたことに気づかせます。
●「しかし、農民が自ら増税を願い出るでしょうか。実際にはどのような手続がとられたか、
予想してみましょう」
と問いかけ、実は藩から案文が示され、これに村役人が捺印する形で願いが提出されたことを
理解させます。その結果、宝暦13年(1763)まで凶作や水害を受けつつも引高が低く押さえ込
まれていた期間であることを16頁のグラフから読み取らせます。そして、
●「この期間は、領主、農民のそれぞれの立場にとってどのような期間だったといえるでしょ
うか?」
と発問し、領主にとっては安定した税収の時期、農民にとっては凶作や水害にも引き高がな
く厳しく税を取り立てられた時期であったことに気づかせます。
次に明和元年の税制改正に進みます。宝暦年間の税制においても財政立て直しははかどらず、
再び税制の改正によって打開しようとしたことを指摘します。そして史料2を提示して、発問
します。
●「2度目の税制改正を、藩はどのような形、順序で行おうとしたでしょうか?」
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「是は御先代格と被仰付」からは戸田氏時代の税制に戻すこと、「無是悲御願吉江印形仕候」
からは、農民が願゛い出る形に藩からの根回しがなされ、藩からの強い説得工作に村役人たちが
折れたことを読み取らせます。
しかしその後、藩の目論見は見抜かれ、村役人を説得して増税を図ろうとしたやり方に農民
たちの不満が爆発して一揆が起きてしまったことを話します。その様子として、藩兵が出て鎮
圧したほどの激しいものだったことなどを話せば、農民たちの不満がどれほど大きかったかを
印象づけるものとなります。そして一揆の結果、2度目の税制改正は撤回されたことを話して
終了します。
また、授業の最後に次のような発問をして藩と農民との関係を考えさせてもよいでしょう。
●「税制の改正に当たって、藩はなぜ、2度とも農民からの願いを受けるという形を取ったの
でしょうか?」
容易に答えの定まる周題ではありませんので、子どもたち一人一人の個性ある答えを引き出
せればそれでよく、オープンエンドで終了しても、さらに討論に発展させてもよいでしょう。
5 出典
・【史料1】
「栃木県史」通史編5近世2 鈴木正一家蔵
・(グラフ)
『栃木県史」通史編5近世2
・【史料2】
『氏家町史」上巻
6 参考文献
・栃木の歴史研究会編著 「史跡と人物でつづる栃木県の歴史』昭和59年(1984) 栃木県連合
教育会
・「うつのみやの歴史」同年 宇都宮市
・「宇都宮市史」近世通史編 昭和57年(1982) 宇都宮市
・松本一夫「日本史へのいざない」平成18年(2006) 岩田書院
20−