たまには昔の話をしようか - タテ書き小説ネット

たまには昔の話をしようか
世界の子羊
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︻小説タイトル︼
たまには昔の話をしようか
︻Nコード︼
N4376BV
︻作者名︼
世界の子羊
︻あらすじ︼
たまには昔の話でもしようと思う。
今まで生きてきて一番楽しかった時期はいつだった。そんな事を考
えるようになった年齢の時には、昔のように無邪気にもなれずバカ
になることも出来ずに、社会のルールが染み込む過ぎていた。
みんなに訊いてみたい。
﹃毎日、笑えた日々はいつだったか﹄
1
心の底から理屈や常識、基準抜きで、自然に笑えた時期を考えてみ
て欲しい。
僕は、今でもその答えを見つけている。
2
旧友︵前書き︶
これを読み終わったら昔の友達にでも連絡してください。
そして、思い出で笑ってみましょう。
3
旧友
前に二度だけ聞かれたことがある。
学生だった時と会社に就職して六年経ったときに。
一人は他校の生徒で、もう一人も学生だった。
二人とも環境は違ったけれど、同じような質問だった。
﹁そんなにバカやって楽しい? 何でくだらないことやるの? 将
来の事考えた方がいいよ﹂
その質問は今でも分からない。
君なら何と答えるだろうか。
中学校の同級生の時は、当時僕も高校生だったために﹁楽しいか
ら﹂としか答えれなかった。
何故、バカやってるかなんて本人には分からない。
もし、違う高校を選んで真面目に勉強して友達と競って恋人と思
い出を作る。一般的な世間が思う有意義な高校生活を送っていたら
今の自分はいない。当たり前のことだ。 それでも、考えたりもす
る。
あそこでこうしていたらもっと良かったんじゃないかと。もっと
コミュニケーションを取っていれば大きな輪が出来ていたかも。あ
んなことしなければ失わずに済んだ。別の部活をしていれば違う出
会い方をしてあの人と恋人になれたんじゃないかと。別の高校を選
んでいれば。他の企業があったはず。就職せずに進学していれば。
自分のやりたいことって何だ。
考え始めたらキリがない。
でも、最後に思うのは高校時代は楽しかったという事だけ。
どんなに後悔しても、それだけは変わらない。変えられない事実。
そんな質問を投げかけて来た彼は同じ地域には住んでいたけれど、
遠く離れた県外の有名な進学校に進学していた。中学校を卒業する
までは、人数が少なかった影響でクラス替えもなく義務教育期間は
4
同じクラスだった。だから、僕の進学した高校の事も噂程度に知っ
ていた。
頭は良かったし多くの人に好かれ慕われていた。
そんな彼は僕の進学した高校を見下していた。
昔は家も近所だったためか、仲も良かったしキャンプなんかも一
緒の行っていた。
一年半ぶりに出会ったとき彼と高校の話をしている時に言われた。
その時はあまり気にしていなかったが、就職して六年は経った頃
に出会った大学生の女の子に訊かれた。彼女は二年生になったと言
っていた。人並みには遊んではいるとは言ってはいたが、派手に遊
ぶというより控えめな感じが彼女からはした。
この時は、アルコールが回っていても答えることは出来なかった。
この時、あぁこれが二回目だな、と思って前も答えられなかったと
思い出して勝手に笑った。結局、この時は話をずらしてあやふやの
ままにした。
その後も忘れた頃に訊いてきた。
その度にあやふやにした。
まだ答えが見つかっていなかった。
つい先日も聞かれたが、口を噤んでしまった。
それからというもの、その言葉が頭のどこかに引っ掛かっていた。
よく男は馬鹿な生き物だと言われることが多い。それは、主に女
性の意見であっても世間もそういう風に思うことがあるらしい。
僕が思うに男は馬鹿ではなくバカなのだ。
漢字かカタカナかという違いではなく、表現的にはそれが一番合
っている。
女性の中には男がやっているバカな行動が子供っぽくみえるかも
しれない。もしかしたら、女性だけではなく男性の中にはバカやっ
た事がないかもしれない。
小説やドラマにでも描いたような青春こそが勝ち組に見えている
かもしれない。男だけでバカやって、恋人がいないなんてことが考
5
えられないと思っている人も少なからずいるはずだ。
何がバカで、何が高校生らしい行動なのかは分からない。
結局のところ僕は未だにその質問に対して答えを持っていなかっ
た。
ちらほらと落ちてくる白い結晶の一つが手の平に乗る。
ひんやりと伝わってくる冷たさが何故か心地よく感じる。
触れてすぐに融けて行く。まるで、心にしみ込んでいるかのよう
に。
手の平で融けた結晶を握る潰すように、強く閉じて視線を空へと
向ける。
どんよりとした今にも落ちてきそうな灰を水彩絵の具の黒と一緒
に水に溶かしたような雲から無数の結晶が降ってくる。
白い息に混じってため息が漏れる。
今年も最高気温を更新して猛暑日の連日続いた夏も終わり、足早
と冬が訪れた。大勢の熱中症患者を出した夏とはまるで真逆のよう
にコートやダウンジャケットを手放せない。
ダウンジャケットの袖を少しだけ捲り、銀色に輝く傷の増えた腕
時計で時刻を確認する。
既に七時を回っていて、指定された集合時間から十分ほど過ぎて
いた。
ポケットの中でバイブレーションが震えていることに気付き、最
近新しく購入した通信端末を取り出す。見慣れたアドレスのメール
を開き、いつものと変わらない機嫌を損ねず、事務的にもならない
ように返信する。
これを何回繰り返しただろう。
本当にいろんな意味を持った疲れたため息を吐き出す。
返信したはずの画面が明るくなって、メッセージを表示した。送
6
り主には懐かしい名前があった。
何故か少しだけ笑みが浮かんだ。
もうすぐ着く、とだけ入力して送信する。
日も落ちて真っ暗なはずの空もこの街の光でどこか明るかった。
昼よりも明るく感じるのは、居酒屋の前にぶら下がった提灯が赤く
光り、そこらかしこで輝くネオン管の派手な色せいだろう。
初めて来たときは、本当に﹃眠らない街﹄という印象を持ってい
たが、もう数え切れないほど見たその街の夜の顔はいつからか寂し
いという表情をしているように見えた。
チラシを持った体格の良い大柄なオジサンが自分の店は﹁飲み放
題﹂と言いながら客を集め、反対側では、白いスーツとワックスで
ビシッと決めたまだ二十代前半であろう青年が二人組の女性を必死
に笑顔を崩さず勧誘している。
そんな声を横に目的の場所へと向かう。
途中、制服を着た女子高生が中年男性とホテル街へ入っていくの
を見たが、これさえも見慣れてしまった。こっちに来た事なら犯罪
現場で犯人が知り合いで鉢合わせた時のような気まずさを勝手に持
っていた。
︵なんか、いろいろと染まった︶
でも、待ち合わせの場所に戻ればきっと少しぐらいは﹃あの頃﹄
に戻れる気がした。
駅から十分ほど歩いたところにある外見は古びているが中に入っ
てみると、まだ新しく木の匂いが微かに漂っている。最近、改装を
したらしい。
ここ最近は、あまり来る機会が少なくなっていて最後に来たのは
夏草の瑞々しい香りが漂い始めた頃だったと思う。
若い看板娘に案内された個室の襖を開けると、そこには懐かしい
顔触れが揃っていた。
今年のお盆は帰省していないため、会うのは初夏以来なる旧友た
ち。
7
﹁おお、やっと来た﹂
﹁遅いよ﹂
﹁いやいや、いつも通りだろ﹂
ダウンジャケットをハンガーで掛け、空いている所に座る。
﹁何飲む?﹂
そう尋ねて来たのは、髪をブラウンに染め耳たぶにピアスを付け
た小池海斗。
﹁とりあえず、ビールで良いよ。それと酢蛸があるなら頼んで﹂
﹁オーケー﹂
湯気だったもつ鍋の中身をお玉杓子で掬う。
一口食べてみるけれど、熱く勢いで飲み込んでしまった。胸やけ
が襲ってきた。近くにあった氷の入った水を一気に飲む。
空気を吸い込み、吐き出して呼吸を整える。
﹁ハッハハ。相変わらずの猫舌だな﹂
水の入ったグラスを笑いながら差し出す。
宵宮雄一。去年にあったときは黒だった髪が銀色に変わっていっ
た。銀髪にしたと聞いていたけれど、実際に見ると似合ってないな
と思ってしまう。
﹁ありがとう。久し振りだな﹂
﹁一年ぶりか? 去年会って以来だな﹂
﹁そうだな。いつ銀にしたんだ﹂
﹁去年の会社の新年会で罰ゲームでな﹂
﹁銀髪似合ってないな﹂
つい思っていたことが出てしまった。
うるせぇ、と笑った。
案内してくれた店員からビールジョッキを受け取り、一気に半分
くらいまで飲む。
春夏秋冬、冷えたビールは美味しい。
﹁すいません、ビール追加で﹂
﹁あっ、俺も﹂
8
雄一と海斗が襖を閉めようとした看板娘に言った。
﹁鳥澤は何か飲む﹂
﹁カシスオレンジ﹂
グラスに残ったサワーを飲み干し、グラスを看板娘に渡しながら
お洒落な眼鏡を掛けた鳥澤優弥は答える。
いくつかメニューを追加して、繰り返される注文を適当に聞き襖
が閉まるの待ってから尋ねた。
﹁いつからビール飲めるようになったんだ。前にあったときは、ま
だ苦いとか言ってたくせに﹂
﹁最近だよ、最近﹂
﹁俺は前から飲めてたぞ。去年くらいにむーさんと飲んだ時に飲ん
でみたら意外においしくって﹂
去年か。仕事が立て込まずに急な出張も入っていなければ、きっ
とその場に居ただろう。
﹁なあ、ビール美味しいだろ。鳥澤も飲んでみろよ﹂
半分くらいになったビールジョッキを勧めてみるけれど、いいよ、
と言って断られた。
ビールと一緒に来た酢蛸を食べていると、ちょうど看板娘が先程
注文したビール二つとカシスオレンジを持ってきた。
﹁じゃ一度乾杯すっか﹂
ジョッキを片手に持ち上げ降矢は言った。
﹁いや、良いわ﹂
﹁酢蛸おいしいな﹂
﹁あの娘可愛いな﹂
それぞれが海斗の言ったことを意図的に別の言葉を発することで
スルーする。
あくまでスルーしていて無視しているわけではない。
﹁マジなにー﹂
ビールを一口飲んでそんなことを言った。
それに、思わず笑ってしまった。
9
多分、海斗以外は少し懐かしく感じたかもしれない。その言葉は、
高校時代によく口にしていたからだ。
﹁最近どう?﹂
仕事か、恋愛か、家庭か、人間関係か、健康か、趣味か、将来か。
人によってそれぞれ捉え方が違う。
いろんな意味が込められた問いかけだった。
﹁この前、係長が変わってからやり難くなったよ﹂
でも、この中では仕事で一致していた。
男が飲みの席で最初に話すことと言ったら、やっぱり仕事関係に
なると思う。
﹁何か人がやってくることに文句付けてくるんだよ。なんか、仕事
が面倒になって来たんだよな﹂
そう切り出したのは、意外にも鳥澤だった。
プライベートが順調にいっていたのはSNSなどで知っていて、
たまに飲んだりもしていたがそんなことを言うのは初めてだった。
﹁分かるよ、それ。俺も地元にかえろうか、なんて考え始めた﹂
雄一も何か疲れように言う。
﹁最初は、給料が良いとかボーナスが周りよりも一番高い、なんて
言われて入ったけど、結局そんなことはなかった。なんで選んだん
だろう。騙されたよな﹂
それは、会うとまたに愚痴を零すけれど、入社当時から言ってい
たことだった。
初めのうちは、まだまだ役に立ててないから低い、もっと頑張ら
なければ、と言っていたけれど、だんだんと分かってきたように愚
痴を零すようになった。
当時のクラスメイトが聞いたら、ほとんどが納得するかもしれな
い。
騙されたと。
﹁だね。仕事は慣れたけれど、なんかやっぱり違うなと思う﹂
鳥澤はボイル︵豚もつ︶をお玉杓子で掬い皿に入れ箸に持ち替え
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て口に入れる。息を深く吐き出し、カシスオレンジを飲んだ。
﹁十年働いてるし、今やめないともう就職とか無理だよな﹂
いきなり話が重いな、と感じ始めた。
この時間帯に真新しい居酒屋でするには、あまりにも場の雰囲気
が違う気がしたが口にはしなかった。
襖越しに聞けてくる中年男性やその部下であろう若い青年たちの
声。複数のカップルやサークルの飲み会でテンションが上がってい
るのか、大学生と思わしき男女の声が混じっている。
﹁降矢は会社どう?﹂
通信端末をいじっていた海斗に雄一が尋ねた。
﹁うん、楽しいよ﹂
通信端末を後ろに置き、何もないように答える。
﹁最近、後輩連れて久しぶりにダーツに行ったけど、やっぱり楽し
い﹂
二人とは打って変わって、降矢は疲れた様子もなく言った。
﹁まあ、降矢はどこに行っても苦に感じないだろ﹂
そう言うと、
﹁あっそれ分かる﹂
﹁なんか無駄に適応力高いよな﹂
疲れた表情をした二人が言った。
﹁そんなないよ﹂
否定する海斗。
彼は自分が周りへの適応力高いことを自覚していないのかもしれ
ない。
﹁いやいや、高い﹂
﹁そう言えば高校の時、復讐ノート書いてるって言われてたよな﹂
鳥澤が思い出したように言った。
﹁あった、あった﹂
﹁あれでだろ。学校では言わないけど、された事を書いてそいつの
悪口を書くというやつ。裏の海斗﹂
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﹁それそれ﹂
﹁あったね。それで本当に書いてた?﹂
笑いながら雄一が尋ねる。
﹁やってない、やってない。マジでやってない﹂
手を振って否定しながらジョッキを傾ける。
ゴックン、と喉を鳴らし。
﹁本当に書いてないよ。てか、書くことないじゃん?﹂
﹁あるだろ﹂
﹁あるな﹂
﹁普通にある﹂
きっぱりと全員に否定される。
﹁ないって。ただ遊んでただけじゃん﹂
﹁世間から見たらあれは遊びじゃなけどな﹂
﹁まあね﹂
思い出したら、思わず笑ってしまう。
幼稚なんて言われもしたが、やってる本人たちは至って真面目で
楽しそうで幸せそうだった。
そんな話をしていると自然と楽しくなってきた。
さっきまで、重かった空気をなくなり、周りと何も変わらない真
新しい居酒屋にあった賑やかな雰囲気に変わった。
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イス回し
寒かった冬も過ぎ日照時間も長くなってきた。気温も温かくなり
日向でも昼寝が気持ちよくなる季節は、誰しもがふわふわとした浮
ついた気分になる。
無事に進級出来た生徒たちは二年生となり、必然的に先輩となる。
入学してから一年も経つと、さすがに慣れて緊張が解けてくる。
無駄に解けた緊張に加えて、先日入学して来た新入生が気になり
︵特に女子に︶、どこか地に足が着いていないようだった。
﹁足浮立っていないか、もう先輩なんだぞ﹂
その言葉を何回聞いたことだろう。
一日一回はどこかで必ず耳にする。聞き飽きたを通り越して、耳
に胼胝でも出来そうだ。
春に浮ついた気分になるのは当然のことかもしれない。寒く長か
った冬が終わり、土の中で眠っていた草花が芽を出し、動物たちが
穴から顔を覗かせ、子供たちが無邪気に駆け回る季節なのだ。
生命の本能、自然の摂理と言っても良いかもしれない。
ついでに付け加えるなら、変質者が増えるのもこの時期である。
温かくなったから浮かれているだけではない。
出会いの季節と呼ばれるこの時期は、裏を返せば少し前まで多く
の別れと終わりが散っていく花弁のように宙に舞っていた。
悲しみを乗り越え、それでも失った空間を無理やりにでも埋めよ
うと出会いを求め、出会いを喜ぶ。
それを無意識下で行っているだけかもしれない。
と言ったものの、結局は一部に過ぎない。
浮ついているというのは本当である。
どんな子が入学したのか知りたくて、特に用事もないのに商業棟
へと近づく。廊下で特に意味もなく、短い手すりに凭れてただ話し
ながら一年生が通るのを待つ。一か月くらいはそれが続く。
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たまには無駄に商業棟に入り、用事で歩いているように見せかけ
て廊下を歩きながら教室を覗く生徒もいる。
入学したばかりの新入生は、慣れていないのかあまり教室から出
てこない。まあ、廊下に上級生︵男子ばかり︶が居れば、その前を
通りたくはないあだろう。通ったとしても少し歩くのが速い。通る
生徒は本当に用事があるか、自意識過剰な女子生徒ぐらいなものだ
ろう。
廊下に意味もなく集まっていると生徒指導部の教師がやって来て、
注意をされる。普段なら見て見ぬふりをしているのだが、新学期の
この時期は一応は注意をする。
あまり悪い印象を持たせないと思っての行動かもしれない。
学期の初めに行われる課題テストが終わるころには、廊下にたむ
ろする生徒も少なくなってくる。
興味が無くなったという訳ではなくて、少し飽きてきたという単
純な事だ。わざわざ見に行くのが面倒になっただけで、見る機会が
あればチェックはする。
だが、それも少しずつ飽きて自然にどうでもよくなるだろう。
学校で全体で変わったのはそれくらいだろう。
上が居なくなって、下が入って来た。毎年のように、どこにでも
あるありきたりの変化。
クラス替えがあるわけでもなく、去年と同じメンバーで同じ担任。
若干、居なくなった奴もいるが二、三人では何も変わらない。
無くても歯車は回り続ける。
新しく教科が増え、担当が入れ替わった事くらいが、変化したと
感じるだろう。
それと、この窓から眺める風景が少しだけ変わった。
変わらずに教壇に立つ担任の口癖も今日も安定のめんどくささ。
四月ももうすぐ終わる最後の週の月曜日だった。
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その日は、午後に行われる体育祭の結団式に良い日とは言えない
雨が朝から降っていた。四時限目のサッカーを楽しみにしていたク
ラスメイトは、内容が体育館での組体操に変わったことに不満を漏
らしていた。サッカーが変更になった事への不満ではなく、組体操
をすることに対して納得が出来ないのかもしれない。
雨のせいで高くなった湿度と誰かの吐き捨てた愚痴が漂った廊下
を進み階段を登った先のコンピュータ室にぼく等は集められていた。
真ん中を広々と使うためか、両側に二列が向かい合うように全部
で四列のパデスクトップのパソコンが設置され、左端から出席番号
順に座った。
二つの部屋の壁を失くして繋げたその部屋のホワイトボードには、
プロジェクターで投影された文字が浮かんでいた。そこには、﹃F
A∼小型自動システム工場の基礎∼﹄と映し出されていた。
でも、そんな文字を読んでいる生徒はいない。
中央に空いたスペースで高校生とは思えない落ち着きの無さの行
動を取っていた。
コンピューター室にはよく備え付けられている回転式の椅子の上
に立って回す。その時間が一番長いかを競っている。
考える遊びが高校生とは思えないと、きっと常識を翳した周りの
大人が見たら思うかもしれない。もっと大人になれと言われるだろ
うが、これが高校生のとる行動なのだ。
大人だけじゃなくて、真面目に勉強したり良い生徒を演じている
生徒でも思うはずだ。もしかしたら、女子生徒も思うかもしれない。
前にも一度商業科の女子に﹁どうしてあのクラスは子供なんですか
?﹂と言われたと担任が溢していたことがある。
ゆっくりと回っている椅子の上でうまくバランスを取ろうと両手
を必死に動かし体を左右に捻っている。
﹁回せ﹂
﹁キモイ﹂
その動きがあまりにも変なためか、みんな笑っている。
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椅子の上に立っている本人は本気でやってるだけだが、それが返
って面白い。
回転スピードが上がったとき、バランスを崩して椅子と共に派手
に転倒した。
体が床に付く瞬間、普通なら悲鳴が上がったりざわめきが起きる
はずだがこの部屋には残念ながら女子はいない。この部屋と言うよ
りクラスに女子がいない。だから︱︱。
﹁ふっはっははははは﹂
﹁ふっふふふふっふ﹂
﹁ウッホン﹂
﹁ゴッホン、ゴッホン。あはっはははあああ﹂
手が、体が床に付くのが引き金になった。待ち構えていたように
爆笑の渦で満たされ、どの顔を見てを笑っていた。
その中に注意するものはいない。
楽しそうに笑っていた。
笑いすぎて咳が出たり、顎が外れそうになっている者もいる。
﹁バカだな﹂
笑いながら誰かがそんなことを言った。
こんなことで笑うのは大人になり切れていないからかもしれない。
﹁あぁああ。痛い。痛ってええ﹂
落ちた柊珀は両肘を抱えて奇声とも取れる声で叫んだ。
これは、教室の外まで聞こえたと誰もが分かった。
まぁ分かっているが誰もそれを注意したりはしない。いつものこ
とで、笑っているために誰もが注意する言葉が喉を通らない。
柊はこのクラスの代表と言っても過言ではない。もちろん、頭が
良い意味でも、リーダー的な意味でもない。
バカ筆頭という意味だ。
何かバカを始める時には必ずと柊が混ざっている。バカだな、と
思えることをどこからか持ってきてアレンジして始める。誰も思い
つかないような遊びはエジソンでもびっくりするだろう。
16
と言っても頭は良くない。寧ろ悪い方だ。
これだけは彼のために言って置かなければならない。一応は常識
を知っている。
そんな彼は叫ぶことを止めて近くに居た小池海斗に言う。
﹁マジで難しいぞ。一回やれ﹂
回転式椅子に立って回ることを振った。
振ったというよりほとんど強制的に立たせて、椅子の横に指を立
てるようにして正座していた須田紀杜は﹁待ってました﹂と言いそ
うな勢いで回した。
さっきよりも速い回転に誰もが落ちると思った。
﹁早すぎだろ﹂
﹁それはあんまぞ﹂
だが、バランス感覚が優れているのか、海斗は落ちることはない。
妙にバランスを取って落ちようとしない。
﹁海斗、スゲー﹂
﹁バランス感覚良いな﹂
﹁早く落ちろよ﹂
回しつかれた紀杜は腕を奥に回して今まで以上に力を入れ回して
手を離し少しだけ体を倒した。
その横でなかなか落ちないことに飽き始めた︵というより自分が
落ちて海斗が落ちないことに飽きた︶柊は片足を少しだけ浮かして
引いた。
何の合図も、掛け声も、相談することなく二人は椅子を蹴った。
速い回転で回っている椅子は海斗とともに宙に浮き、一メートル
くらい飛んで床に落ちた。
椅子が床と当たり鈍い音を出した。
回っていた当の本人は、空中でうまいこと体を半回転させて背中
から落ちることを回避した。それでは終わらずに、手よりも体より
も先に足を地面に付き、勢い余って後ろのホワイトボードまで走っ
た。
17
﹁ハッハッハ﹂
﹁ふふふっふうふ﹂
﹁ははっはぁ、海斗スゲー﹂
﹁身体能力高すぎだろ﹂
笑いと海斗を褒める言葉が飛んだ。
﹁落ちろよ﹂
﹁くずめ﹂
二人の妬みとも取れる文句を真顔で﹁やばいばい﹂と言って返し
た。
その言葉にまた爆笑が起きた。
海斗の名言と言っても過言ではない。
﹁俺だって﹂と言って柊はまた椅子に乗った。
紀杜に回すように促して、また回った。﹁紀杜、もっと早く﹂と
さらに回転数を上げていく。海斗のスピードを明らかに越したとき。
﹁よっしゃー。見たか﹂
みんなに指を指しながら言った。回っているので、どこを指して
いるのかははっきりしていなかった。
歓喜が漏れたが、誰もが期待しているのはその後。
回転数を越えることは誰にでも予測は出来た。でも、超えること
はどうでもいい。
喜びのあまりバランスを取るのを忘れて、後ろに倒れる。頭から
床に激突した。床はカーペットが引いてあるが、その下はコンクリ
ートである。そこに頭から落ちたのだ。 頭を抱え、体を丸めて一
度だけ叫ぶと静かになった。
﹁おいおい、ふっふっふ、大丈夫か﹂
﹁ははははははは、はっははははは﹂
﹁はっはは、いつか怪我するぞ﹂
心配はするが誰もが笑っている。
掛けている言葉が軽く感じる。
そう。
18
誰もが待っていた事こそが、これなのだ。
調子に乗って倒れる。それを見たかったのだ。
まぁ、いつもの事で誰もが慣れてしまった。
テレビで見るような芸人がみんなの期待に応えるために危険だと
分かっていてもワザとやっていることを、彼は本気で真面目にやっ
てしまう。
彼は、いや、彼らはバカげたことでも思いつけばやる。
﹁ははっはははは﹂
丸まっていた柊は体を起こすと椅子の上で胡座をかきスマートフ
ォンを持ちながら見下ろして笑う泰霧日向の足首を掴み、何笑っと
るんや、と言って引っ張る。
椅子にはキャスターが付いていた事が不運になった。
日向が前に行くと椅子は、何にも逆らわずに力の加わるままに後
ろへと下がった。全体重を掛けていたことも重なり胡座のまま固い
床にお尻から落ちた。
今日はよく落ちる日だ。誰かがそんなことを心の中で呟いた。
お尻を抑えながら床に転がりもがき、座っていた椅子に掴み立ち
上がろうとすると誰かがその椅子を蹴った。当然のようにほとんど
の神経がお尻に集中していて手も塞がっている。前に手を着くこと
が反射でさえなかった。
先程と同じように重力に従って頭から床に激突する。
痛々しい音が聴こえた。
声を出すことも忘れて蛹のように丸くなり物音ひとつ立てずに時
間が止まったように停止した。
﹁今のは痛い﹂
﹁音が鈍い﹂
﹁痛ってぇ、あぁあああ﹂
頭を抑えながら顔を上げた日向。
﹁大丈夫や﹂
そんな事を近くの誰かが言ったが、その心配も笑い声で消えた。
19
痛がっているのは顔を見れば分かる。しかし、その顔が変顔にし
か見えない。
豚のように鼻をヒクヒクさせ、右側だけが上に引き攣る。
そんな顔を見せられれば、笑いしか出てこない。
本人はその事に気付いてい無いようだった。
引き攣った顔で頭を擦っている日向に、それを引き起こした張本
人である柊は笑いながら何もなかったように言った。
﹁とりあえず椅子に立とう﹂
肩に手を置いてはにかんで見せた。
えっ、というような顔をして擦っていた手が止まった。
﹁鬼畜だな﹂
机を挟んで反対側に向かい合うように座っていた鳥澤優弥は笑い
声に混ざりながら呟いた。
本当にそうである。
そこで断わるのが普通で、断っても誰も文句などは言わないはず。
一般的な常識があるのならば。
敢えてノリに乗っているのか、友達としての機嫌を損ねず弄られ
たくないからなのか、それとただのMなのか。どちらにしろ、馬鹿
ということには変わりはない。
海斗を椅子から退かして、その椅子に頭を抑えながら背もたれを
掴んで立つ。
さすがに椅子に立つだけでは、滑って落ちるなんてことにはなら
なかった。
少しづつ回転数が上がっていくが、動きが気持ち悪い。
バランスを取ろうとしているのは見れば分かるが、クネクネとさ
せている体は無駄に激しく、だからといってキレがある訳でもない。
無意味にも思える動きも混ざっている。顔も変顔ではというような
表情をしている。
奇妙な動きでバランスを取っている日向に、
﹁動きがうるさい﹂
20
と村崎透は言った。
﹁動きがキモイ﹂ではなく﹁動きが五月蠅い﹂である。比喩や上
手い例えを言ったつもりは本人にはないだろう。
そう感じ取れたから、何も考えず思った言葉を口に居たのだろう。
それがツボにでも入ったのか、その隣に居た鳥澤が噴き出すよう
に笑った。
うるさいとは確かに意味は間違っているかもしれないないが、目
の前の光景では上手い表現かもしれない。
言葉に表現できない動きはキモイよりもうるさいという表現も間
違っていない。
噴き出して笑った鳥澤に釣られて周りに拡散していく。
十分な回転数が上がったところで、またしても二人が蹴りを入れ
ようと足を引いた。でも蹴りを入れるよりも前にバランスを崩した
椅子が傾き、回っていた日向も空中に投げ出された。
えっ、というような顔をした二人はお互いの顔を見た。
まだ、蹴ってはいない。
何もせずに勝手に倒れようとしている日向に二人のほうが驚いた。
倒れていく体制が良かったのか、海斗同様に先に床に足を付けた。
勢いを全て殺しきれんかったために少しだけ前に進んだ。海斗ほど
は勢いがなかったため、途中で止まることは出来るスピードだった。
二メートルほど進んだところで、あと二、三歩もすれば止まると
言うところで床とは別の物にぶつかった。
前を見る見る余裕がなかったことで避けることが出来なかった。
目の前の椅子に気づいた時には既に体制を崩して床へと視界が一
気に近づいていた。
物音も大きくなく見た目も激しくなかった。普通にぶつかって誰
も想像できるように倒れた。
ただ、椅子と共に落ちていたらそれなりにしか笑えなかったかも
しれない。その前に三回は見ているのだから。大爆笑とまでは行か
なくても落ちたことに対しては笑い声も少しは漏れたかもしれない。
21
動きと顔に対する笑いは誰も予想できなくて笑ってしまうが、落
ちることには慣れてくる。
でも、落ちた後に自分の座っていた椅子に当たるとは思っていな
くて、不意打ち貰いカウンターを喰らったように爆笑が起きた。
変顔に、うるさい動きに、椅子に当たるという変化球には誰も我
慢することは出来なかった。
カーブでタイミングをずらされたようだった。
椅子に覆いかぶさるようになっている日向は手の平を肩のすぐ下
の床について顔を体を起こそうとした。
そこで、コンピューター室に繋がる唯一のドアが音を立てて開い
た。
声の大きさを気にせずに笑っていた笑い声が小さくなり始めてい
たが少しだけ大きくなった。
ドアを滑らせて入って来たのは、ガタイの良い三十後半の男性だ
った。その男性は、部屋全体を見るのではなく、椅子に覆いかぶさ
っている日向に目を向けた。
そこで笑いがほとんど聞こえなくなった︵笑っている生徒はまだ
いるし、笑いを堪えて声を出さないようほとんどの生徒がしている︶
。
ドアの前に立つ立つ男性はこのクラスの担任である吉井だった。
日向の前まで歩いて行き、見下ろした。
﹁どうした?﹂
目がそんなことを言っているようにも見えた。
後ろに集まって見ていた生徒は誰も関わろうとせずに椅子で滑っ
て自分の席に戻ったり、立ち上がりながら操作していた通信端末を
見つからないようにポケットに戻している。
﹁とりあえず、立って椅子を起こせ﹂
そう静かに吉井は言った。
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頭を抑えながら俯く日向の向かいで、﹁なんで俺まで﹂と柊が零
した。
椅子とじゃれあう様な格好で覆いかぶさっていた日向はもちろん
ながら椅子に座ることはなく、その場で正座となり拳骨が落ちた。
それを笑いを堪えながら見ていた柊に、不意打ちが襲った。
﹁誰が他にやった﹂という吉井の問いに、口にはしなかったが目線
が明らかに柊のほうを向いていた。視線を辿った吉井は、手招きを
して呼んだ。
﹁はぁ﹂
まさか、自分に目線を向けるとは思っていなかった柊は驚きと裏
切った疑問が混ざった声を上げた。
一応は反論するかと思ったが、裏切りは裏切りを呼んだ。悪循環
が発生したんだ。
﹁海斗が最初に始めました﹂
自分だけ裏切られては納得いかなかったのか、海斗を巻き込むよ
うに言った。すでに正座をして拳骨を喰らってはいたが、頭を抑え
る代わりに海斗のほうに指をしていた。
最低だな、と思うかもしれないがこれは万引きなどの一人でも出
来るようなものではない。少なくと二人いなければ出来ない。﹁自
分一人です﹂と言ったところで信じてらえないし押し通すことも出
来ない。だったらもう一人巻き込んだところで変わりはない。
それに自分も売られたわけだし、別の奴を売ったほうがその場が
盛り上がることもあると考えたのかもしれない。
まぁそんな事を考えてるはずがないが。
結果的には、教室の中は笑いが起きた。
これも恒例行事と言ってもいい。
﹁えっ! ちょっと待って﹂
語尾だけゆっくりとしていた。
椅子から立とうともしない海斗を﹁早く来い﹂と吉井が促した。
﹁何で﹂
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疑問を零して立ち上がった海斗のお尻を平手で、紀杜は叩いた。
﹁文句言わんで早く行け。やったんだろ﹂
そんな紀杜素で爆弾を投下させた。
﹁はぁ、紀杜だってやっただろ﹂
本人は暴露するつもりも悪気もなかったはず。ただ反論しようと
しただけに過ぎなかった。
﹁やってないわ﹂
咄嗟に否定したが、目線で吉井に呼ばれた。
ある意味で悪循環は終わっていなかった。
早く行けって、と周りが笑いながら囃し立てるために紀杜に文句
言いたげのまま吉井の元へ向かった。何も言われることなく、正座
をそっと目を閉じると同時に全身に衝撃が走った。声を上げそうに
なったがグッと堪えて無言で頭を抑え目を開けた。
紀杜は言葉を一言たりとも発すことなく獲物を狩る前の捕食者が
息を潜めるように静かになり気配を消した。
囃し立てる周りのおかげで、吉井の視線を紛らすことが出来た。
紀杜だけが難を逃れることが出来た。
というのが事の顛末である。
そして、今は三人を席に戻した吉井は部屋の奥へと進みホワイト
ボードの前に立って生徒の顔を見渡した。
﹁お前らもう二年生ぞ。下級生がいるんだから少しは落ち着け。馬
鹿も休み休みやれ﹂
このセリフを二年生になって、いや、同じようなことを入学して
以来彼の口から何度聞いただろうか。耳に胼胝とが出来ると言って
もいい。その言葉がどのタイミングでいうかも何となく分かるくら
いになっていた。
﹁同じ言葉も休み休み言え﹂
﹁聞き飽きたわ﹂
後方から誰かが呟いた言葉が掠れて無くなりそうになりながら聞
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こえた。
みんな考えていることは同じで、いくら同じ言葉を言われてもク
ラスには響いていない。
また、繰り返すと分かっている。
﹁じゃ授業を始める前にまずは紹介します。こちらへどうぞ﹂
吉井と一緒に入って来たこの教科の担当の眼鏡を掛け痩せ形の小
倉は言った。
後ろに目線を移すと、中央を通って五十代くらいの男性がホワイ
トボードの前に立った。
半分くらい黒髪に混じった白髪が目立った男性は会釈をした。
﹁この方は大学で教授をされている岡村教授です。この教科では教
授に特別に授業を行っていただきます﹂
簡単な説明をが終わると、小倉からマイクを受け取った。
﹁岡村です。大学では、電子情報通信工学を主に教えています。高
校生に授業をするのは初めてなので不慣れながらもよろしく﹂
落ち着いた口調はマイクを通じてでも伝わって来た。
よろしくお願いします、と小倉は言って持っていた資料の半分を
吉井に渡すと二人で資料となる紙とファイルを配っていく。
その様子を見ながら資料が行き渡ったことを確認して、キーボー
ドのENTERキーを押して、ホワイトボードに映し出されたポワ
ーポイントのスライドショーを次のスライドに変わった。
﹁ではこれかれ半年ほどかけて、みんなにやってもらう⋮⋮﹂
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いつも光景
人の大半は何かに熱く盛り上がり膨張した熱気を残したまま気球の
ように風に身を任せて流れるままにどこまでも流れる。
目的を失くした︵こういう場合は達成した、もしくは通り過ぎた
と言うべきか︶生徒たち何をやっても抜け殻のように身が入らない。
逆に、途絶えることなく目指す方向を指し示すとそのまま状態で向
かってくる。
だが、その中間になると面倒なことになる。
微妙な間が空くと、抜けきることも膨張し続けることも出来ない
空気は行き場に迷い、
それでも留まる続けることを嫌い夜の街で集う少年たちように不器
用になる。
何も出来ない訳ではなく、何かをしたいと思っているが全て空回
りしてしまう。
本当、中途半端は何に対しても良くないものだ。
だからといって、完全燃焼させた後にその温もりがなくなるまで
何もさせずにいると歩くことは出来てもふらふらで走り方を忘れて
しまう。絶えることなく燃やし過ぎると周りを動かすどころか目的
を忘れて道を外れる。もしも、目的を忘れず道も外れることも、走
り方を忘れずにしっかりと歩めても、休みを知らず急激なアップダ
ウンで、きっと必ずと言ってもいいほどに体が悲鳴を上げているこ
とに気づかず、二度と立ち上がれなくなるだろう。
そんな事に気付いている指導者がこの国には何人いるだろうか。
体育祭を過ぎた生徒たちは未だに燃え続けているか、完全燃焼の
後が長すぎたのか。どちらかと言うとどちらにも当てはまらない。
この場に居る生徒たちはその答えに限る。
二年生約百八十人は体育館に集められた生徒たちはそう感じてい
る。
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この話はあくまで完全燃焼するという前提。完全燃焼しなければ
意味を持たなず、燃え上がらせなければ何も始まらない。
学校組織というものは、社会同様に上級生は自然と高い権力を持
ち、下級生は無理にでもいう事を聞かせられる。勝手に上下関係と
いうものは年齢によって決められてしまう。上級生がよっぽどの出
来た人間か上下関係に興味がなければ、この限りではない。
上下関係は基本はピラミッドの形になっている。これは、三学年
しかいない学校でも成り立って、もちろんその一番上には三年生が
居る。学校行事は三年生にとっては、基本最後の思い出に大きなイ
ベントである︵最後にならないこともあるが︶。
先日、行われた体育祭だってそうだ。
思い出になるために優勝しようと各科団は力を合わせて一生懸命
になる。砂煙を舞い上げ走り喉が潰れるほど声を出して応援する。
良い思い出にするために。
ただ、勘違いしてはいけないのは盛り上がっているのは、あくま
で三年の生徒であって、下級生は教師や上級生の圧力で仕方なく盛
り上げているだけで楽しんでもいないし、良い思い出にもなってい
ない。
面白いことに、学年別に分かれない体育祭は上下関係とは反比例
をする。盛り上がっている数は上級生が多くなり、下の学年に行け
ば少なくなる。
普通の授業よりはマシかなと思っている者も少なくない。
そして、体育館に集まっている二年生の多くは面倒なことを避け
るために表面だけ盛り上がって様に見せて、水面下では三年生の思
い出より自分たちがどうやったら楽しくなるかを考えていた。
燃え上がることもないため、抜け殻のようにもならない。
﹁来週はインターシップがあります﹂
気怠そうにしている生徒たちに向けてステージ前に立つ女性教師
︱︱生徒指導部部長の名嘉山がマイク伝えに言った。
最後の方が力強く、強調しているようだったが、聞き流している
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生徒たちに気付いてい無いようだ。
全体を見渡して頷きマイクを口元へとやる。
何故頷く。
﹁インターシップがどういうのか分かってるね。今の二年生は落ち
着きが足りないとよく耳にします。今も、私が前に立って自然に正
座した人が少なかったです。さっきも廊下を走り回って遊んでいた
でしょ﹂
体育館の屋根に当たる雨粒の音が響き、絶えることなく太鼓を叩
いているようだ。雨音は、周りの音をかき消して、悪戯でもしてい
るのかと思えてくる。
前に立つ生徒指導部部長の菜山の声は、語尾だけ無駄に雨の音の
中でも聞こえる。
﹁二年生にもなって落ち着きがない。あなたたちは何年生ですか。
小学生ですか。高校生にもなって﹂
マイクの音量が大きいのか、単に声量が大きすぎるのか、音が割
れて時折ハウリングする。
手にしていたマイクとステージの横に設置された二つのスピーカ
ーを見て、勝手に頷きマイクのスイッチを切った。
﹁最近、地域の人から生徒の態度が良くなったとか真面目に頑張っ
てると言ってもらえるようになってきました。昨日も生徒が大きな
声であいさつしてくれて嬉しかったと言ってもらえました。先生は
本当に嬉しいです﹂
どこからが本当でどこまでが事実なのか分からない地域の声を思
いつく限り並べる名嘉山の言葉など生徒たちの中には真面目に聞い
ているはずがない。
響かない不確かな評価が雨音に消される。
生徒が良くなってることよりも地域からの評価が良くなってるこ
とが嬉しいのである。学校生活を送っている生徒の評価は、生徒た
ちと接して決めるのではなく地域からの評価を生徒たちの評価にな
っている。
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周りからの目だけを気にしている教師が生徒指導部部長なのだ。
﹁みんなの行動が学校の評判を上げることも下げることも出来ます。
でも、今のままでは不安だらけで⋮⋮﹂
よくもそんな言葉が次から次へ浮かんでくるもんだ。
インターシップに対する姿勢からどんな行動がしなければいけな
いかとさまざまな言葉が生徒たちに向けられるが、その中にアドバ
イスはない。全てが学校の評価を落とさないための注意事項と言う
べきか、それとも警告と取るべきなのかは受け取る本人たちで違う
が励まされているとは誰一人として考えないだろう。
それよりも先にほとんどの話を右から左に聞き流している。それ
か寝ている。
膝を抱えるように体育座りをして下着が見えないようにスカート
で隠してはいるようだが見えそうになっていることに気付かず寝て
いる女子生徒やあからさまに胡座をかいた膝に肘を付く頬杖で寝て
いる男子生徒までいる。何度も両サイドでは何度も起こされている
がまたすぐに寝ることを繰り返す様子も伺えた。
顔を上げていても瞼が閉じかけていたり、睡魔と必死に格闘して
いる生徒が半数を超えている。
睡魔さえ来ていない生徒は、慣れているのか他の事を考えている
かのどちらか。きっと後者の方だろう。
起きている生徒から早く終われと言う雰囲気が湿度のように漂っ
ている。
一か月前からこんな話をされて、序盤から聞き飽きている。
雨音に混じって外から声と濡れた道を通る時の足音が微かに聞こ
える。
カラオケ行こうと堂々と言ってる女子生徒の声に、数人の男女が
答える。それ以外にも、﹁一緒に乗せて行って﹂﹁テスト勉強しよ
う﹂﹁泊まり行っていい?﹂とさまざまな声が聞こえてくる。
太陽は出ていないが今は正午を少し回ったところだ。
そして、金曜日。
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それらにタイミングよく重なってテスト期間の初日︵二年生はイ
ンターシップの関係でテスト最終日︶。半日でテストは終わり、昼
からテスト勉強しろという学校の意向で下校するわけだ。
テスト期間中は原則としてカラオケやゲームセンターなどは出入
り禁止されているが、土日は例外のはずだが生徒指導部がどう解釈
しているのかテスト期間は土日関係なく禁止しゲームセンターに関
しては期間外でも見回りをする。
お前らは暇人か、と言われて仕方ないほど期間中は入り口前で見
かけるとたまに耳にする。
そんな中で、よくも堂々と言えるなとある意味関心してしまう。
ちなみに友達との外泊は禁止されている。
早く帰りたい。周りの空気に鈍感な人でも感じ取れるくらいそん
な雰囲気で満たされていく。
生徒一人ひとりにくっつく様に纏わり付いていた感情も体から離
れて、浮遊飛行を楽しむかように流されるままに舞っている。
生徒の顔を見れば、誰も聞いていないことなど分かるはずなのに、
盛りに盛った話を続ける。単に気づいていないだけなのか、気づい
ていてわざとやってるか。後者だったら質が悪いだけで効率も時間
も無駄だ。
多分、生徒の顔など見てもいないんだろう。
何のために集まったかもそろそろ忘れてしまう。
目的から外れた話を聞くより雨の音を聴いている方が人生に役立
ちそうだ。
湿度が高いせいか陰鬱さはさらに増した。
無駄に長った話が終わり教室に戻るころには、雨も上がり雲の隙
間から太陽が顔を出していた。エンジェルカートが田舎の風景には
妙に絵になり、どこかの有名画家が描いたに似ていた。
十三時を過ぎているこの時間は学校中が静まっていた。
30
﹁あいつの話、なげーよ﹂
﹁ホント無駄﹂
﹁早く帰りたいのに﹂
教室に入って来た生徒たちは口々に愚痴を吐き捨てる。
ずっと座っていたためか腰の痛みを和らげるために上半身を左右
に捻ったり背中を擦っている。寝ていた生徒はまだ覚醒していない
のか重たい瞼を何とか押し上げ欠伸をしながら自分の席に座る。
何度も経験して慣れてはいるが、愚痴は決まって言う。彼女が前
に立った時は必ず話を長くなり時間を押してと分かっている。それ
自体には聞き流すことで慣れてきているが、その後の教室では愚痴
を言ってしまう。言わないことはない。
﹁愚痴を吐かないとやっていけない﹂
そんな言葉をドラマや現実でも大人がよく口にする言葉。それは
大人だけではなくて高校生も同じなのだ。もうこの年齢のときには
変な習慣が身に付いている。
子供は大人の背中を見て育つ。
教師や親が愚痴を吐いているのを見て、聞いて、体験しているか
らやり場のない気持ちの失くし方を自然と学んだ。
吐き捨てた愚痴も毎回同じ内容で、決まった人物が言う。
一通り愚痴を吐き捨てると、合図にしたわけでも何かのきっかけ
があったわけでもなく自然と別の話へと移る。
午後からの行動と土日の予定。
彼らの頭の中には来週がインターシップという事は隅の方にでも
追いやって、三日後の予定より目先の休みの方が遥かに大切だと思
ってる。
いつもより早く帰ることの出来ることもあり、当然のように泊り
という選択肢が出てくる。
外泊は基本的に禁止になっているが、世のの学生にその程度の規
則を守る意志などない。ポイ捨てをするなと言われても平気で捨て
るのと同じ気持ちで、悪気も罪悪感も存在していない。
31
仲のいい友達同士なら泊まることぐらい親だって、気持ちよく迎
え入れる。
﹁じゃ何する?﹂
場の流れで外泊は決まったが、問題は何をするかだ。
カラオケでも行くか、それともゲームセンターではしゃぐか。
どちらもリスクを伴う。
今がテスト期間中で暇な生徒指導部が見回りをしていることぐら
い彼らも知っている。別のところに行くにも、こんな田舎には近く
にゲームセンターもカラオケも選ぶほどの数はない。町の方に行け
ば確かに数は増えてくるだろうが、一人ひとりの距離が遠くなる。
電車がないためバスで行くであろう。そのバスも1時間に一本だっ
たり遠回りな乗り換えをしなければならない。移動だけで時間が潰
れてしまう。
﹁じゃ適当に野球でもやる?﹂
﹁だったらサッカーでも良くない?﹂
﹁人集まるや?﹂
﹁どうにかなるでしょ﹂
まあ無難にスポーツでもするという選択肢が提案されるわけで、
面倒と言うものはその輪にはいなかった。
遊べる店は周りに少ないが、スポーツを出来る土地は無駄にある。
ある程度の広さがあればスポーツは出来るし、場所に困ったら小中
学校に行けばいい。田舎だけあって勝手に使っていてもあまり注意
されることもなく、卒業生と言えば﹁整備はしていってね﹂と言わ
れるだけだ。
﹁どこでする﹂
﹁あのグラウンドいいんじゃね﹂
﹁誰も居なけば使えるな﹂
野球とサッカーをどちらもするという方向で決まりそうになった
とき、村崎徹はそれを撃沈する。
﹁水たまりあるでしょ﹂
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その言葉に口を開けて気付いたようだ。
さっきまで、雨が体育館に打ち付けている音を聴いていなのだ。
分からないはずがない。
気持ちだけが先走ってしまって現状を確認することを忘れていた。
膨らんだ風船から空気が漏れていくように高まっていた気持ちも
萎んでしまった。
﹁面倒臭いな、それ﹂
﹁うぜぇー﹂
﹁だったら何する?﹂
また、振り出しに戻ってしまった。
選択肢が一つずつ消えていくと、夜まで適当にどこかで時間を潰
すか素直に家に帰って土日ゆっくりと過ごすかになる。
どちらにしても暇を持て余している事には変わりない。
それとも、リスクを負ってゲームセンターなどに行く。それも選
択肢の一つに過ぎない。
リスクを負うか負わないかの選択でしかない。
何やる、と考えていないとすぐに分かるような口調で誰ともなく
何度も尋ねる。返ってくる言葉は無言がほとんどだった。考えろよ、
と言っても考える気が無さそうにケータイを取り出しいじり始める。
さぁ何をするか。
素直に部屋の中でゲームでもやってみるという一般的でありふれ
た暇潰しになろうとしていた時、柊は常識外れなことを言った。
﹁川行く?﹂
田舎ならこれもありふれていて何の変哲もなく時期的も差ほど早
くもなく体育の授業で水泳も始まっている。晴れていれば気持ちい
いしれない。
﹁はぁ﹂
呆れた顔を浮かべたものが大半だった。
﹁いやいや、寒いでしょ﹂
﹁可笑しいぞ﹂
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一般的な意見を誰かが言った。
意見というより常識だ。
田舎では川に行くことは可笑しいことではない。でも、流れから
して可笑しいのだ。再度確認しておくが先程まで雨が降っていたの
だ。今は、雲も流れスカイブルーの青空も広がり太陽の光が濡れた
地面を照らしガラスを散りまいたように輝いているけれども、雨が
降っていた事には変わりない。
それでグラウンドが使えないと話していたというのに。
﹁行くしかないでしょ﹂
何を考えているか分からない紀杜は悪乗りで言った。
﹁いつ行くんや? 友達と思い出を作ることは大事だろ。今しか出
来ないんぞ﹂
﹁そうぞ。どうせ暇だろ。ゴム栓ぞ! 行きたくないんや﹂
無駄に熱くなっている。話を途中から聞いた人はきっと良いこと
を熱弁しているように聞こえて好感を持てる。それほど、言ってい
る事はいい。どこかの青春ドラマや映画にでもありそうだ。
何故だか分からないが、バカな事をする時に堂々と熱弁されると
良いことを言っているように聞こえる。本当に不思議だ。
﹁増水してるぞ﹂
﹁さすがに今日は危ないぞ﹂
雨が降った後なのだから、川の水が増していることくらい高校生
なら必ず分かる。柊も紀杜もそれが分からないほど頭は悪くないし
馬鹿でもない。
それを分かっていて二人は言っているのだ。
﹁そこがまた面白いんだろ。増水した状態でゴム栓滑ったら楽しい
ぞ﹂
確かにスピードは増してスリルが味わえて楽しいかもしれないが、
それ以前に滑ることが出来るのか疑問である。
会話の途中で出てくるゴム栓という言葉に聞き覚えがないかもし
れないが、これはゴム堰と呼ばれるものでラバーバムと言われるこ
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ともある。正式名称はゴム引布製起伏堰。ゴム製の堰止めで川や用
水路に使われ、レクレーションに使用されることもある。分からな
かったらググってほしい。
それをゴムで栓している考えたのか、いつの間にかそう呼ぶよう
になった。ちなみにほとんどが一般的な呼び方を知らない。
その上を走ったり飛び跳ねたりすると弾力があって意外に楽しく、
意外に十代以下に人気があることはあまり知られていない。
﹁雄一行こう。スリルがあるぞ﹂
正面の机の上に座っていた雄一に投げかけた。
苦笑いしながら、
﹁いや、でも今日は前より危ないからな﹂
﹁だからさ﹂
﹁でもなー﹂
﹁前よりは楽しめる﹂
前よりはというのは、以前にもゴム栓に行ったことがある。もち
ろん去年とかではなく二年生になってから。
つい一か月間の事だった。その時は、六月初めの初夏だったが、
異常気象で一週間ほど暑さが続きTシャツで過ごしていて少し歩く
だけで汗を掻いていた。それに耐えかねた柊がみんなを誘うとひと
つ返事で決まった。翌日の放課後すぐに行ったが、夕方だったため
か気温も下がり始めていたことと暑くても初夏の川は予想以上に冷
たいことが重なり、入って五分も経たずに帰宅した。
その時の事があり、まだ寒いと思っているのだろう。
﹁寒いし水かさが﹂
どんなにスリルが味わえるといえ、安全防具もなしに増水した川
に行くのは悪乗り出来ても気が引ける。
田舎で育ったからこそ、その危険さは分かっている。
一度空気を吐き捨てて柊は横目で日向を確認した。
﹁海斗は行く﹂
自分の席で座ってケータイをいじっている海斗に視線が集まった。
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彼らがどんな会話をしているか聞いているはずもなく、自分に向
けられた悪意の視線に気づいていない。
暢気な海斗に悪意を纏った柊と紀杜が向かっていく。その後ろを
双子の実の兄の絵士もついて行く。
机に肘立てて目線と同じ高さで操作しているガラケーの上部を百
人一首の札を払うような動作で打った。大した強度も持たないガラ
ゲーは、結合部を中心に円を描くように閉じ海斗の指を挟んだ。
﹁なにー﹂
目を大きく開き口をムンクの叫びそっくりの形で言った。
人を馬鹿にしてるように見える。というより、そうとしか捉える
ことが出来ない表情に悪意はない。悪意や人を見下していると感情
は彼にはない。素直な反応をしたらたまたまその表情が出ただけ。
驚いた時に出る定番の顔だった。
そうと知っていても彼らは言う。
﹁お前馬鹿にしてんのか、その顔﹂
柊が胸倉を掴む。
海斗に柊や紀杜を馬鹿にしている訳ではないことは、このクラス
メイトなら誰でも知っている。人を馬鹿にするような性格ではない
ことも接していれば分かる。
まあ、悪乗りというやつだろう。
﹁なんだその顔﹂
その横から左頬に紀杜がビンタを入れる。
パチン、と良い音が響く。
それを止める生徒はいない。寧ろ笑っている。また始まった、と
でも思って見て楽しんでいるのだろう。
何度も繰り返されて来たから慣れている。もっというなら、クラ
スに馴染んだ時から一般的な感覚や常識は薄れ麻痺している。
﹁ちょっと待って∼。何もしてないんじゃん﹂
自分が何故こんなことされているか分かっておらず、胸倉を掴ん
だ柊の手首を片手で握り、もう片方で左頬を抑える。
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﹁シカトしていて﹂
握る手に力を入れ柊は言う。
﹁よく言うわ﹂
腹部に軽く殴りながら紀杜顔を見ずに言った。
何やってんだよ、と周りから笑い声が聞こえてくる。
本当に高校生が何やってんだろう。
﹁それがシカトした奴の態度や﹂
﹁そうだ。良い身分だな﹂
﹁だから何の話? ケータイしていただけじゃん﹂
﹁今から何する話してただろ﹂
﹁話聞いとけっていつも言われるだろ﹂
﹁いきなり言われも⋮⋮ずっとすわってたじゃん﹂
まだ、状況が把握し切れていないようだ。
さっきまで居ただろ。笑いながら弥市遊田は教壇を指差しながら
言う。
こういう事は日常茶飯事で海斗も慣れている。彼は単純な被害者
で、巻き込まれただけに過ぎない。
﹁嘘を吐くな﹂
﹁お前っ﹂
﹁ちょっと待って﹂
コントにも見えないこともない彼らの行動を初めて見る外部の人
間の目にはどのように移るだろう。無邪気にじゃれ合う少年に見え
るのだろうか、元気で活発な生徒たちに見えるのだろうか。それと
も、高校生らしくない行動に口を開けてモノを言えないのだろうか。
元気が一番だ、と学校を訪問するようなお堅い人種の人間はその
場面を見て思うことはない。
一部の変わり者ならきっと彼らの行動を理解してくれるかもしれ
ない。
そんな先生がいるはずがない、少なくとこの学校には。
それぞれが仲の良い友達でいろんな話をしていた他の生徒も、笑
37
って三人の茶番劇を見ている。
傍から見たらいじめに見えるが、周りの生徒だけではなくて三人
も笑っている。
何だろう。今見ている光景が嫌がらせや悪意ある暴力には見えな
い。慣れたというのもあるかしれないが、いじめが分からないほど
慣れて麻痺しているわけではない。
海斗の反応が面白いし紀杜の絶妙な言葉が面白い。
三人が笑っているからいじめには見えないと思う。巻き込まれた
海斗でさえどこか楽しんでいる。
世間が抱く理想の高校生らしい行動からはかなり離れているが、
不快な思いにはならない。寧ろ、自然と笑みが零れて楽しませてく
れる。
﹁何もないだろ﹂
顔面を近くに寄せる。
﹁あるって言ってるじゃん﹂
顔を遠ざけようと両手で胸の辺りを押すが力が違いすぎて離れな
い。
﹁用事と俺とどっちが大事や?﹂
そっちの気があるかの? 誤解を招く言い方だ。
﹁そういうことではないよ﹂
﹁どういう事?﹂
﹁部活じゃん。もうすぐ総体だから練習があるから行けないって言
ってる﹂
﹁はあ?﹂
その会話に疲れたのか、紀杜はみんなの所に戻り教壇の段差に腰
を下ろして少しだけ乱れた呼吸を気にすることなく携帯を取り出し
てソーシャルゲームをしている。
周りで囃し立てていた生徒も少しずつ別の事をやり始める。
帰るためにスクールバッグを次の日の教科書を詰めたり二、三で
また話を始めたりと。最初から話の流れを知っていた弥市や紀杜た
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ちも時々見る程度になり、人気のソーシャルゲームの攻略方法など
を離している。
クラスのほとんどが見なくなってもその二人は続いている。芸人
でも笑われなくなったら止めるのに。ふざけてやってるわけではな
いため、誰かが止めないと終わらない。
二人のやり取りも脱線して別の事を言い合っている。
﹁弥市、そのカードをトレードに出して﹂
﹁何くれる?﹂
﹁こいつやるよ﹂
﹁ヤバいよ。弱いから嫌だ﹂
﹁欲しいって言ってただろ? 貰えよ﹂
﹁日向は黙って。弱い奴とか要らんわ。紀杜が得するだろ﹂
﹁意地張んなって。ホントは欲しいだろ﹂
﹁素直になれよ﹂
﹁どういう事? どこを見たらそう見えるん﹂
﹁欲しいんだろ。照れんなって﹂
﹁意地張っても可愛くないぞ﹂
﹁あぁ∼ヤバいぞ、お前ら﹂
﹁どこのツンデレや﹂
﹁鳥澤、今のはヤバいぞ﹂
﹁ホントは嬉しんだろ? まったく﹂
﹁志田うぜー﹂
こちらも、人気のソーシャルゲームから弥市いじりへと発展して
いた。周りに居るみんなが揃ってツンデレ扱いにしている。対応次
第ですぐにツンデレと言われるために、無闇に否定できない。
キャラクターが欲しかったただけの紀杜のちょっとしたボケがま
ったく別の方向へと進んでいく。
さっきもそうだったが、ひとりをいじると話が進まないどころか、
脱線して別の線路へと乗り上げてしまう。
止まりかけ元の線路へと戻ろうとしていた会話の中に、的外れで
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場違いで話の流れを掴めていない無防備な日向の発言で、戻りかけ
ていたものが弥市から日向へと移った。さっきまで、腹いせのよう
に弥市が止まることなく罵声を浴びせる。
それに笑って便乗して志田がいじり始める。
担任のモノマネをアレンジして馬鹿にする。
頭を掻き、あ∼やばいと口に出して繰り返し弥市の肩を日向が打
つ。
それをもろともせずに、日向の発言を何度も口にして﹁どういう
事? ねぇ、どういう事?﹂と質問攻めにする。間違いを否定する
まもなく飛び出す言葉に反論できずに、ただただ髪をグシャグシャ
するしか日向にはなかった。
笑いすぎて腹筋が壊れそうになった頃にようやく弥市の質問攻め
は終わった。内臓が全て捩れた様に腹を抱えて笑っている宵宮も、
笑いすぎて出た涙を手で拭き取って起き上がる。
ストレスを発散できたようで弥市はケータイを取り出して、ソー
シャルゲームの続きを始める。
﹁それで弥市そのカード頂戴。これやるから﹂
話が脱線していて忘れられていた紀杜が今度はふざけずにまとも
なカードを表示された画面を見せる。
﹁まあ、そのくらいならいいよ。別にこいつ使わないし﹂
﹁はぁ、だったらタダでやれよ﹂
このソーシャルソーシャルゲームには、お互いのカードを交換す
るトレード機能以外にもプレゼントを使えば相手に無償でカードを
贈ることが出来るのだが、よっぽどの事が無い限りほとんどのプレ
ーヤーは使わない。ちなみに、使うときは運営側が行うイベントで
特典が付くときくらいで、アイテムさえもトレードで交換される。
紀杜はプレゼントの事を言っているのだろう。
﹁それは違う。使わないと言っても、こいつは結構強いからな。合
成したらポイント高いからな﹂
﹁どうせ使わないんだろ﹂
40
﹁使えないからね。それでも、タダではやらん﹂
﹁はっ! ヤバッ﹂
丁寧にポケットに仕舞ってから弥市の肩甲骨を打つ。
ゴン。
重い音がなる。
﹁痛っ! 強いだろ﹂
ツッコミ程度のパンチかと思ったが、予想以上に力を入れた拳の
当たったところを抑えている。
対抗するように、弥市も手を振りかざす。下ろす前に紀杜に掴ま
れ代わりにお腹に一発喰らった。軽く打ったために痛がることなく
余ったもう片方で紀杜の背中に仕返しをする。
そんなじゃれ合いが少しの間続いた。
何故か、隙とでも思った日向が弥市の髪をぐしゃぐしゃとかき乱
し、逃げるように机に戻ろうとして捕まり、握った拳で頭に拳骨お
返しされた。
本当に高校生なのだろうか。疑問を持ってしまう行動だ。
頭の悪いと言ったらそうだし、高校生らしくない言動であるのも
確かだが、日常的な平和とはこういう事を言うのだろう。
﹁絵士は何やってんの?﹂
気づいたの様に弥市の肩に肘をついて体重を半分ほど乗せた状態
で志田が誰に言うわけでもなく言った。
﹁さあ?﹂
﹁意味が分からない行動だな﹂
﹁まだ、何かやってんの?﹂
﹁あいつ馬鹿だよな﹂
﹁幼稚っていうよりいまいち理解で行動だな﹂
誰も絵士の取っている行動が理解できていない。
海斗の机に乗っているシャーペンやボールペンなどの手に取りじ
ゃれ合っている柊と海斗に向かって投げている。腰を少しだけ落と
し足を広げて胸の前で手裏剣でも放つかのように手首のスナップだ
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け投げる。
弓のような曲線を描き海斗の顔に当たる。中には柊に当たるペン
がありその度に﹁ごめん﹂と誤っている。
大したダメージにもならないのに投げ続け、海斗の机からペンが
無くなると弥市の机に行き数少ないペンやノートを投げる。宙を舞
うノートは海斗に当たる前にパージが開き速度を失ったノートが落
ちる。落ちると分かっていても机の中からノートや教科書を取り出
す。
絵士ヤバいぞ、お前後で拾えよ。可笑しな投げ方をする絵士に弥
市は言う。
柊と紀杜が無視をした海斗に文句を言うために行ったときに後ろ
から一緒に行っていたのだが、今の今まで誰にも気にされることな
く、その行動を弄られるわけでもなかった。
みんなが止めても彼だけは止めずに投げ続けた。
﹁海斗、あれどういう事?﹂
﹁いや、分からん﹂
﹁どう思う? 弟して﹂
﹁気持ち悪い﹂
﹁はははっ、頭悪いよな﹂
﹁何がしたいんかな﹂
じゃれ合っていた二人も絵士の行動に理解できずに小さな声で何
をやっているのか話している。
さすがに弟に馬鹿にされると、﹁やばいぞ﹂と言って何故かペン
と現代文の教科書を後ろに居る弥市たちに目掛けて投げる。
後ろを見らずに体を半回転させながら投げたために、弥市たちと
は違う方向へ飛んだ。曲線を描くことなく真っ直ぐと向かう先には、
可燃物、不燃物、ビン・ペットボトルと張り紙のされた三つのゴミ
箱があった。
現代文の教科書は迷いなく不燃物のゴミ箱へと縁当たらずに綺麗
に入った。一緒に投げたペンはゴミ箱の横のドアに当たりゴミ箱と
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壁の間の隙間に落ちた。
﹁お前ヤバいぞ﹂
﹁上手い﹂
﹁綺麗に入ったな﹂
弥市が声を上げて言って、志田と宵宮が笑って褒めた。
でも、絵士は両手を頭に乗せて声を出さずに口をパクパクさせる。
その口は﹁ヤバいぞ。やばいぞ﹂と動いているような気がした。
ドアが横へとスライドして開く。
それぞれの場所に居たクラスメイト達は自分の席に戻っている。
戻る途中で絵士に向かって笑みを見せる。絵士も恐るおそる自分
の席に座る。
開いたドアからガタイの良い? 男性教師が教室の中を見渡す。
一通り見るとゆっくりと歩いて教卓まで移動すると椅子に静かに座
った。両手を顎の下で組んで肘をつき、じっと一点だけを見る。
何も言われることなく絵士は口をパクパクさせて教卓に向かう。
誰かが机に伏せて笑いを堪えているのが分かった。
43
旧友2
﹁悪い、遅れた﹂
襖を開けて入って来たパーマをかけて茶髪に染めた紀杜だった。
柄にもなくスーツを着ていた。
﹁何ていうか似合ってないな﹂
﹁違うな﹂
﹁うるせーよ。仕事だから仕方ないだろ﹂
ジャケットをハンゲーに掛け一番手前の席に座る。
﹁俺だってスーツなんか着たくなよ。謝りになんか二度と行かねー﹂
﹁内容も合ってないな﹂
﹁紀杜が謝りに行くって、おもしろいな﹂
﹁一度見てみたいな。申し訳ございませんって言ってる紀杜﹂
﹁想像すると笑う﹂
想像があまりにも可笑しかったのか、自然とにやけている。アル
コールが入っていることもあり、無理やり作っている様子はなかっ
た。
﹁似合わねー﹂
横でにやけた顔を向ける海斗の顔を平手でビンタする。
﹁痛っ。何でヤバいよ﹂
﹁懐かしい﹂
﹁海斗に笑われるとウザい﹂
﹁ウザいはないよ。それより何飲む?﹂
笑顔で返すが、それ以上の反応は見せずそのままメニューを渡す。
ドリンクの表示されたページを一通り見ると、別のページに移った。
﹁何も飲まない?﹂
﹁何でもいいよ。海斗のセンスに任せる﹂
﹁ならビール二つとから揚げをください﹂
最初に案内してくれたこの店の可愛い看板娘が﹁はい﹂と笑顔を
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見せる。
すでに注文した料理もなくなり、タレだけが残った皿や出汁だけ
を残して具の無くなった鍋がテーブッルの上に無造作に置かれてい
た。グラスを置くスペースさえ残っていない。
それでも、まだ足りない海斗が紀杜が捲るページを横目で見なが
ら勝手に追加していく。
看板娘が空になった皿を起用に手に乗せ襖を閉める。
追加で注文したメニューの半数以上を海斗が選んでいた。
﹁あんなに頼んで食べれる?﹂
氷が融けてぬるくなった水を飲みながら尋ねる。
メニューの半分くらいを頼んだんではないかと疑ってしまう。
﹁大丈夫んでしょ。食える時に食わないと﹂
これから冬眠でもするかのような口調だった。
﹁お前いつでも大量に食べるよな﹂
﹁確かに。この前もひとりで結構な量食べてたな﹂
﹁そうそう。会計の半分を海斗が食べた﹂
先日の事を言っているのだろう。
一週間前まで出張だったために行けなかった。地元から来ていた
数人の友達
と一緒に飲んだらしい。
﹁相変わらず頭ワリーな﹂
﹁大して変わらないだろ﹂
皿に残った枝豆をつまみ口に入れる。
﹁はあ? 何てや﹂
顔を殴ると思わせ、フェイントで空いた横腹を殴る。枝豆を手に
取ると弾き飛ばして海斗の顔に当てる。残った皮を無理やり海斗の
口へと押し込む。
もがきながら何とか手を退かして、皮を取り出す。
﹁止めよう﹂
冷静に口の中に入った枝豆の皮を取り出しさらに置く。
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グラスに残った最後を一口を飲み干す。
小さくなった氷を舌で転がしながら言う。
﹁そろそろ止めよう? このノリする高校が最初で最後だよ﹂
クラスメイトが聞いたら誰もが驚愕して、開いた口が塞がらない。
今もまさにその状態になっている。
そこだけ時が止まったように音が無くなる。
氷がグラス当たる透き通った音が広がり、それを消すように襖の
外から聞こえてくる陽気な声が個室を満たして消える。
柊が居たらきっと発狂して叫びながら、眠らない街を一晩中駆け
回り真面目な人間になって帰ってきそうだ。
﹁変わったな。海斗変わったな﹂
﹁変わったね﹂
﹁いつのまに﹂
残念そうな表情を浮かべながら口々に言う。
﹁変わってないじゃん﹂
﹁いや変わったね。前ならもっと面白い反応してくれたのに﹂
﹁前にあったときは変わってなかったよね? 本当は前からウザい
と思ってたのか﹂
﹁こんな真面目な事は言わない﹂
﹁今度からは海斗に遠慮してあまり誘わないようにするか﹂
﹁そうだな。大人になれって言われたしね﹂
﹁子供は子供で遊ぼう。大人はこういうの嫌いらしいね﹂
海斗の表情を伺うようにちらちらと見る。
﹁そんな事ないじゃん。今度からも遊ぶ時は誘ってよ。行けるとき
は行くから﹂
﹁でもねー、子供とか言われたらね﹂
﹁子供とか言ってないじゃん。高校の時のノリがキツイって言って
るだけ﹂
﹁それが楽しいんだよ﹂
﹁このノリが無くなって海斗が変わったら遊ぼうとは思わない﹂
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﹁確かに。ただ、同級生になるね﹂
﹁何かもうザ・普通って感じ﹂
﹁いつから変わったんや?﹂
﹁変わってないって。高校の時から何も変わってないよ。ずっと現
状維持﹂
紀杜の問いに必死に否定しようと声が大きくなる。
﹁本当は高校の時からウザいとか思ってたんだろ?﹂
﹁思ってない﹂
﹁マジかよ﹂
天を仰ぐように生気の抜けたような声で宵宮が呟いた。
﹁マジで思ってない、マジで﹂
﹁もういいって、それ。どうせ、今もウザいと思ってるんでしょ﹂
﹁今度から誘うの躊躇うな﹂
﹁確かに﹂
﹁マジで思ってない。誘って。ねぇもっと俺を誘って﹂
熱血講師が講義の時のようなに手のジェスチャーを交えて否定し
ている。
否定していたのは始めの方だけであとは何を言っているのか分か
らなかった。アルコールで舌が回らなくなっているのもあるが、こ
ういうところは変わっていない。
﹁もっと誘って。俺からも誘うから。このあと⋮⋮﹂
そこでちょうど、
﹁ドリンクとから揚げをお持ちしました﹂
グラスを乗ったお盆とから揚げを両手で持った看板娘が襖を開け
て笑顔を見せた。
話の始まりを知らない看板娘は少し困惑していた。
﹁あ、あの⋮⋮﹂
﹁違う、違う。今のはその﹂
誰も声を出さずに吹き出しそうになっている。
﹁ドリンクです﹂
47
そう言い残してドリンクだけを置いて襖を閉めた。
﹁ちょっと待って﹂
襖を開けよとしたところで足早に奥に引っ込んでいく音が聴こえ
た。無言でみんなの顔をみる。
ダムが決壊したように誰もが吹き出して笑った。口の中に何も入
れていなくて良かった。もしも、入っていたなら悲惨なことになっ
ていた。
﹁マジで止めろ﹂
﹁今のは卑怯だぞ﹂
ドリンクを配りながらため息を吐く。
﹁何でこうなるかな﹂
﹁タイミング良すぎる﹂
﹁やっぱりそっち系なのか?﹂
﹁いや違う﹂
グラスを傾けカクテルを一口だけ飲んで、﹁ただ、誘って、って
言っただけじゃん﹂と落ち込んでいるのが分かる。
﹁そんな事で落ち込むなんて海斗じゃないぞ﹂
﹁もとからそういうキャラだろ? 気にするな﹂
フォローしているつもりかもしれないがフォローになっていない。
キャラではないはあっているが。
﹁すみません。から揚げ忘れていました﹂
控えめな姿勢で襖の間から顔を出した。
みんなの表情を伺っているようだったが、海斗にだけは目線が行
かなかった。
﹁大丈夫です﹂
皿を受け取り、変わりに空となった皿を渡す。
ありがとうございます、と受け取っているが、他にも何か言いた
そうだった。
それを感じ取って。
﹁さっきの気にしないでください﹂
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﹁いえ、えっと⋮⋮﹂
言いたいことはあるようだが、上手く言葉に出来ずに喉を通って
いない様子だった。
﹁そうですよ。気にしないでください。誘ってとかは違う意味です
から﹂
何を思ったのか、海斗はさっきの出来事が間違っているよに自分
をフォローした。
誤解を招いた本人が何を弁解しても誤解されるだけで、また違う
誤解をされたようで襖を閉めて足早に去って行った。
﹁あー誤解されたな﹂
紀杜は笑って肩に手を乗せた。
49
バーベキュー
﹁誰が肉買いに行く?﹂
柱に凭れて部屋の中にいるクラスメイトへ弥市は尋ねる。
無線のコントローラーを握って忙しく指を動かす渡と日向は二人
そろって、﹁お前が行って来い﹂と画面から目線を外すこともなく
言う。今は、肉よりもゲームを操作することのほうが二人とっては
大事なことだ。
ベッドに乗って本棚から抜き取った漫画を読むことに集中してい
る如月は完全に無視である。
それを見かねた弥市はため息を吐き諦めたように話を進める。
﹁種類は適当でいい?﹂
﹁別に何でもいいよ﹂
次の巻を取るために本棚に手を伸ばしている如月が答える。
﹁何か食べたいのあるなら今言って。後で言われるのも面倒だから﹂
相手の問いには特にないと答えても後から何故買ってこないと言
われることがしばしあった。だから、ここで言って置かないとこの
クラスメイトは五月蠅い。
﹁じゃホタテと手羽先は買ってきて﹂
﹁手羽先好きだな﹂
劣性気味の日向が言う。指しか使わないはずなのに体が左右に揺
れている。キャラクターの動きに連動しているようだ。
動きがキモイな。横目で見ながら如月は心の中で呟く。
﹁プーさんのセンスに任せる﹂
﹁だな﹂
日向と渡は考えることすらしない。一応聞いてはいるようだ。
プーさんとは弥市の事で何故そんなあだ名で呼ばれているかは分
からない。気づいた時にはすでにクラス定着していた。
﹁そう。文句は言うなよ﹂
50
それは分からない、と考えることもしない無責任な日向が呟く。
ポケットに財布が入っていることを確認すると、バイクのカギを
取り玄関へ向かう。いってらっしゃーい、と無感情な声で見送る。
コントーロールを操作する音が休むことなくなり、それに合わせ
て画面のBGMも変わっていく。
﹁わっ! ちょっと﹂
﹁そこ待って。違うって、そっちじゃない﹂
﹁今のどうやってやった?﹂
﹁勝ったら教えるよ﹂
﹁もう一回やろう﹂
テレビから聞こえる音以外は二人のキャッチボールにもなってい
ない会話だけしか聞こえない。漫画のページを捲る音が聴こえない
あたり、時々二人しかいないのかと思わせる。
外から聞こえてくるバイクの排気音が止まり、玄関が開く音がす
る。
﹁飲み物いる?﹂
弥市ではなく宵宮の声が聞こえた。
﹁雄一来たんだ﹂
先程聞こえた排気音は宵宮が乗って来たバイクの音だった。
人の家なのによく叫べるな。
﹁リンが買ってくるはず﹂
ページを捲る手を止めて何も気にせず答える。
﹁オーケー﹂
先程よりも大きな声で返ってくる。
二つの排気音が遠ざかっていく。
今更ながら思うが、たまに家の住人がいないの平気で部屋にいる
よ。この部屋は弥市の部屋で、ここは弥市家である。
こんなことを特に気にしないあたり信頼はしているのだろう。
これが正しい友達関係は分からない。
﹁そう言えば、あいつら金あるのかな﹂
51
思い出したように指を止めて渡は呟く。
﹁言われたらやればいいよ﹂
少しだけ悪意のある如月が答える。
分かっていて見送ったんだろう。
彼らが聞いたら面倒な文句を並べられそうだ。
昼に止んだ雨も夕方にはまた降り始めた。傘を差すほどの勢いは
ない霧雨のような雨は遠く山の影から漏れる夕日に照らされて赤い
カーテンが広がっているように見える。いつもよりはっきりと虹が
出ている。
初夏を過ぎ夏が始まるこの時期は午後七時半を過ぎてもまだまだ
辺りは明るい。
雨のせいで湿度が高く普通に生活していても不快感を覚える。
午前中がテストで半日授業になった高校生は河原に集まっていた。
霧雨でも雨は降っていることには変わりないため、道路と道路を繋
ぐために川に掛かる橋の下に居た。
雨宿りをするスペースは見つければ田舎だろうとどこにでもある
が、自由に使えて広い場所は中々ない。
バーベーキューコンロを囲み炭に火が移るのを眺めている。
着火剤に点けた火はピラミッドに積み上げられた炭の真ん中で空
前の灯火のように弱弱しく揺らめていた。
﹁ぷーさん、早く点けて﹂
少し離れた弥市の原付に座りスマートフォンを操作する日向は手
伝う意志もなく、急かす。
﹁お前手伝えよ﹂
火ばさみで指しながら返す。
﹁まだ火も点かないんや﹂
原付のフロントポケットにスマートフォンを入れ駆け足で輪の中
に混ざる。
52
貸してみろ、と無理やり弥市から火バサミを奪うと、箱から無造
作に炭を取り出しコンロの中に入れる。何を考えて入れたのか分か
らないが、コンロの幅とほぼ同じ大きさの炭だった。それを支えき
れなくなったピラミッドは崩れ︵というより置いた瞬間から崩れた︶
、着火剤の空前の灯火のように弱弱しかった火は一瞬にして消えた。
炭の端で薄らと見えた赤色もすぐに消えていく。
誰もが不満と驚きを隠しきれずに顔に表れていた。
開いた口が塞がらないとはまさにこのことだ。
﹁お前何やってんの?﹂
﹁本気でヤバいぞ、今のは﹂
﹁火が弱いんだよ﹂
弥市が髪をぐちゃぐちゃ崩し言葉で攻める。
コンロの幅と変わらない炭を置けばピラミッドが崩れることなど
考えなくても分かるもんだろう。バーベキューが初めてというなら
まだ許されるが、自宅で何回もやっている。これには悪意さえも感
じ取れる。
頭が悪いだけなのか天然なのかはこの際どうでもいい。何度もや
っても分からないのは、単純に記憶力に乏しいとしか言えない。
弥市が馬鹿にするように責め立て、それに応戦しようと日向が言
い返すがまたその言葉で馬鹿にされる。筋の通っていない言い訳な
らまだ馬鹿で済ませるが、的外れな言葉は油に火を注ぐかの如く余
計にヒートアップさせる。横で見ている渡と柊はただその光景を見
て笑い囃し立てる。止めようとはしない。
日向への言葉攻めは本日二回目だが、今回はいつもに増して長い。
まだ終わりそうにないと思った雄一はバイクに座り、ハンドルに
肘を置くようにしてスマートフォンを操作する。
﹁今何やってんの?﹂
後ろから声が聴こえ振り返ると、ラフな格好で草をかき分け轍を
歩く亮の姿があった。初夏を過ぎた季節とはいえ、草をかき分けて
辿りつくような場所に来る格好ではない。
53
﹁見ての通り﹂
画面からコロンを囲む輪に目を向ける。
﹁日向がまた何かやってぷーさんを怒らせたのか﹂
﹁ぷーさんだけじゃなくてみんな。火を起こそうとして火を完全に
消した﹂
﹁あいつらしいな﹂
期待通りと言ったらそうなる。
日向の座っていた弥市のバイクに座り、﹁楽しそうだな﹂と呟く。
隣でカメラのシャッター音が聞こえた。つられてフロントポケット
から取り出したスマートフォンのカメラを起動させ二人の顔が収ま
るまでズームインしてからシャッターを切る。もう一枚撮ると、ピ
クチャーを開きロック画面とホーム画面の壁紙を変更する。
﹁これ観て﹂
画面をブラックアウトさせて渡す。
﹁普通に点ければいい? あはははは、ははっ。面白いな、これ﹂
﹁ロック解いて﹂
﹁あははははっ、ふっふふ、いいねこれ﹂
自分のスマートフォンを落としそうになりながら笑う。
﹁センスあるね﹂
﹁だろ﹂
ロック画面には顔の半分しか写っていない渡、ホーム画面にはア
ップで撮影された日向と弥市が設定されていた。じゃれ合う二人の
顔をバックに画面を横にスクロールしてアプリを探すとうまいこと
に二人の口にアプリのアイコンが重なりモザイクのようになってい
る。ある意味では危ない。
ドヤ顔の亮を横にまたスマートフォンをいじる。
新しい固体の着火剤を取り出して、もう一度炭を組み上げる。渡
からライターを借りて着火剤に火を点ける。指に火が触れないよう
に恐るおそる組み上げた炭の中に入れる。
洞窟でランタンに火を灯したような淡く温かい光が広がる。
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離れた街灯に明かりが灯りだしていた。周りに建物がないからか、
等間隔で並んで街灯の光さえ見える。
温かい光が民家に灯る。
時刻は八時を過ぎて、もうすぐ長針が半回転しようとしていた。
星が黒と群青に混ぜった空に散りばめられていた。
﹁火点いた?﹂
トイレから戻って来た枡川喜一と鳥澤優弥はコンロを囲んだ輪に
入り、炭の火加減を確かめる。
﹁全然じゃん。何やってた?﹂
何も事情を知らない喜一は弥市に問いかける。﹁こいつが調子乗
って消した﹂と横に居た日向を指差して言い返す。
﹁ヤバいよ日向﹂
鳥澤がそう言っただけで他に責めることはなかった。
日向の寝起きのような髪を見て察したのだろう。
渡の握っていた団扇を奪うとピラミッドに組み上げられた炭に向
かって風を送る。少し煽いでも消えないと分かったのか、腕に力を
入れて一気に振り下ろす。コンロを過ぎた辺りで止めて軌跡を辿る
ように振り上げる。それを何度も繰り返す。コンロの下に溜まって
いた僅かな埃と崩れて砕けた小さな炭︵日向の粋がった行動の残骸︶
が強風によって舞い上がる。
埃や炭の乗った風が顔に直撃したのか、手で顔の辺りを掃いなが
ら咳き込む。
﹁ちょっと考えろ﹂
少し後ろ避難して風から逃れる弥市が唾を吐きながら言う。
﹁ワリーワリー﹂
悪気の全くない喜一は笑いながら謝る。
﹁日向は何で倒れる?﹂
スマートフォンを取り出して、自然な流れで写真を撮る。カメラ
のフラッシュが尻もちをついた日向を明るく照らす。
﹁いや、その﹂
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自分が倒れた理由も分かっていない。
喜一の起こした風は日向の顔に直撃した。ここまでは弥市と何も
変わらない。この後に咽たり煙くて非難するのが普通の反応だ。弥
市も一般的な反応を見せた。だが、日向は違った。ここはさすがと
言うべきかもしれない。この反応は日向にしか恐らく出来ないだろ
う。
炭の破片や塵を舞い上げた風は顔を襲った。それに驚き後退りし
たのだが、何故かは分からないが尻もちをついてしまった。アニメ
のように空き缶で転んだわけでもなく、石や道具が転がっていて躓
いたわけでもない。地面はコンクリートでぬかるんでいるはずもな
い。
単に驚いて転んだのだ。
これを世間では天然と言ったりするかもしれないが、彼のクラス
メイトはそれは違うときっぱり言い切るだろう。
﹁さすが。期待に応えるね﹂
亮はそう言いながら、少しも期待などしていなかった。躓くとい
う予想さえも考えていなかった。
﹁あれっ! スマホ、スマホ﹂
薄暗い中を左右に首を振って探す。
誰かが指示することも、日向がお願いすることもなく、自然とス
マホやケータイを取り出してライトを点けた。
明るく照らされた中で後方に青く四角い物が転がっていた。
﹁あった﹂
拾い上げながら不快な顔をする。
手触りでそれが汚れている事が分かった。
もう一度照らしてもらうと裏側に泥がついて、画面が汚れている
のが分かった。
﹁あーヤバい﹂
近くに居た弥市の服で迷いなく焦りながら画面を拭く。
ふざけんな、と服に擦り付けているスマートフォンを地面に投げ
56
る。
地面に落ちた時にパキッと軽い音が聴こえた。
駆け寄って大事そうにスマートフォンを手に取り、隈なく見る。
﹁カバー割れてる﹂
幸いにも画面ではなくてカバーが割れていたらしい。
﹁良かったな、替える口実が出来て﹂
上から見下したように返す。
手で泥を落とし輪の中に戻る。
汚れた手を弥市が愛用しているタオルで拭いたことで拳を頭に押
しつけて回転させて擦る動き︱︱いわゆるグリグリされたことは余
談である。
日向が痛みもがいている間にコンロの炭に火が行き渡り、夜に火
山の航空写真を撮影した時ように赤々なっていた。
網を乗せて少しの間、網を焼く。
﹁ねぇ何で網って焼くの?﹂
集まってから唯一何もしていない亮は、バイクから降りてコンロ
に近寄りながら尋ねる。
﹁何となくじゃない。気分だな﹂
如月はレジャー用の椅子に座り、箱の中の大きな炭を半分にして
いる。
﹁ちげぇよ。網を焼かないと肉が引っ付くからだよ﹂
タオルを首に掛けた︱︱周りから見るとおっさんにしか見えない
︱︱弥市が答える。タオルの先は泥が少しだけついていた。
網が十分に熱したところで、豚バラを半分ほどまとめて乗せる。
割り箸で豚バラを網に隙間が出来るよう並べ直す。
ジューと肉を焼いた時の食欲をそそる音がなり、表面から肉汁が
染み出ている。
紙皿を配りたれを回す。
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﹁熱い﹂
﹁早く返せよ、ぷーさん﹂
肉を裏返そうとするが、コンロの火が熱すぎて手を出すことが出
来ない。何もしないと裏返す前に片方だけ悲惨なことになる。
肉を挟むことは出来ても、肉から落ちた油が火を燃え上がらせ反
射で手を引いてしまう。
中心部はミニキャンプファイアのようになっていた。
如月と渡が網を持ち上げて火から一時的に離し、弥市が炭をコン
ロに万遍なく広げる。
その間に、喜一が肉を裏返す。そしてまた網をコンロにセットする。
小さなキャンプファイアは治まり、噴火したあとの溶岩がまだ固
まっていないかのようになった。
それでも、三枚ほどはすでに遅く黒くなっていた。それと何があ
ったかは分からないが、薄暗い地面の上に数枚の赤みの残った肉が
落ちていた。
折りたたまれた椅子を展開して座り、皿にたれを入れて網の上で
香ばしい匂いを漂わせる肉を取り雄一は食べる。
﹁うまい。やっぱり炭で焼くと良いね﹂
﹁お前、何もしてないだろ﹂
中心部分が赤くなった網の上に激辛ウィンナーを乗せる。転がり
落ちそうになったところを鳥澤が器用に箸で掴む。キャベツを手で
好みの大きさに千切って他の野菜と一緒に空いているスペースに置
いて行く。
やっとバーベキューらしくなってきた。
先程の炎で一部が黒く炭になった肉を弥市がよそ見しているうち
の皿の中に入れる。雄一があからさまに生焼けの肉を平気で入れる。
日向が落ちた野菜を入れようと皿に手を伸ばしたとき、運悪く肉
を取りタレを付けようとして気付かれる。引き攣った顔をして頭を
掻き、日向の顔を見てニヤリと不気味な笑みを零すと伸ばしていた
腕に焼きたてての肉を落とす。
58
﹁あぁぁぁぁぁぁっつい﹂
思わず握っていた肉と割り箸を空中に投げ出す。
熱さでじっとしていられなくなって立ち上がりこけそうになりな
がら川の方へ走っていく。
少し先で姿が見えなくなる。
暗い闇の中で変な声だけが聴こえる。
﹁わっ! ちょっと待って﹂
﹁川どこ?﹂
﹁痛っ﹂
最後の方には、声と共に水が弾ける音が聞こえた。
その声を聞きながらみんなで笑う。姿が見えない分、面白い。
普通なら夜の川であんな声が聞こえたら溺れたりしているのかと
思うもんだが、そんなことは誰も考えていない。
姿が見えていたら腹筋が筋肉痛になるほど笑って、呼吸が出来な
くなっていたかもしれない。
石同士が擦り合う音が近づいてくる。
それは途中で方向が変わり、土手の方へ行くのが分かった。
辺りはほとんど暗くなり橋の上で橋の上から漏れる街灯の光が帰
って来た日向を照らす。
十メートルほど先に見える姿だが、すぐその現状がに分かった。
服が濡れている。
水の弾ける音は滑ったか躓いたかして川の浅瀬に尻もちをついた
のだろう。
さっきは泥で服が汚れ、今度は川で濡れる。
それも誰に何かされたわけでもなく。
﹁大丈夫や?﹂
渡が土手を登る日向に声を掛ける。
﹁ちょっと水で洗ってくる﹂
肘を向けながら返す。
何も分からないが、擦り剥いて血でも出ているのだろう。
59
﹁あいつ何かやると、必ず怪我するな﹂
暢気に肉を頬張りながら雄一は言う。
﹁何ていうか、ある意味天才だな﹂
濡れた日向を撮影したのか、亮の手にはスマートフォンが握られ
ていた。
期待通り。
今回は誰もがこの結果を分かっていた。
だから、気にもしない。
コンロの上で何も手を加えていないウィンナーに縦に亀裂が入り、
その間から肉汁が垂れる。
塩コショウを一本のウィンナーに無駄多くにかけて雄一はドヤ顔
で言う。
﹁これ、じゃんけんで負けた奴が食おう﹂
﹁これはきついぞ﹂
﹁本当に馬鹿だな。ヤバいぞ、これは﹂
口々に言いながら、コンロの上に拳を伸ばす。
掛け声で、三択の内の一つを出す。一回では決まらずにもう一度
声を掛ける。
笑いとため息が聞こえる。
﹁マジか﹂
グー一人に対して他全員がパーを出した。
それで食べるのは、弥市に決まった。
﹁さぁ食べよう﹂
嬉しそうに雄一はウィンナーを皿に入れる。
﹁早く食べて﹂
﹁男だろ﹂
亮と喜一は囃し立て、如月がスマートフォンのカメラのアプリを
起動させて構える。鳥澤は微笑みながら、さらにウィンナーに塩コ
ショウを掛ける。
﹁マジで馬鹿だな、これ﹂
60
たれに少しだけ浸かるウィンナーを弥市は一度見る。
塩コショウのかかったウィンナーはバーベキューに関わらず普通
である。誰でも一度くらいは食べたことがあると思う。
しかし、これはただの一般的なウィンナーではない。
激辛ウィンナーである。
袋に如何にも辛そうな真っ赤な唐辛子と青々とした獅子唐辛子が
プリントアウトされている。これは辛い。見ただけでも分かる。
裂けた部分から出る肉汁の隙間から見える中身は赤く見える。
食べてもいないのに体の体温が上昇した気がした。あくまで気が
しただけで実際にはしていない。レモンを見たら唾液が自然と出て
くるの同じ現象だ。
﹁頑張れ﹂
悪意の籠った如月の言葉を受け流して摘まむ。
砂山が崩れるように塩コショウもまたタレのため池に落ちる。
覚悟を決めて半分くらいを食いちぎる。
﹁行ったね﹂﹁さすが﹂﹁やっぱ、違うな﹂とそれぞれから賞賛の
声が聞こえる。これは皮肉で言っているわけではない。彼らも貶し
たり皮肉を言ったり、囃し立てて笑うけれども褒めることは忘れな
い。
一部を除けば悪意はない。
平気そうな顔を浮かべる弥市にどこか不満そうな顔を向ける。
そこまで辛くないのか。
街灯を背にしているせいか、影になって顔を表情が分からない。
﹁光無くて肉が焼けた分からないから、誰が照らして﹂
雄一が少しがっかりした声で言う。
喜一がポケットからケータイを取り出してライトを点ける。コン
ロが照らされ、こんがりと焼けたウィンナーや肉が見える。隅の方
ではキャベツが焦げている。
﹁あれ? 顔赤くない?﹂
亮が覗き込んで言った。
61
全員の顔が一斉に弥市に向く。遅れてライトが照らされる。
逆立ちをして、あるいは息を長い間止めたかのように弥市の顔は
赤く染まっていた。
口が閉じた状態で慌てふためくように動いている。激辛ウィンナ
ーを噛み、千切り小さくして飲み込む。喉仏がごくんと音を出した。
それと同時に顔を、体を素早く回れ右して草むらに向かう。
暗闇の生い茂る草むらに吐き出す。
﹁辛っ! やばい、やばい﹂
唇が少し腫れている。口を開けてパクパクさせながら痛く熱い口
の中を冷やそうと空気を取り入れる。
本当に辛かったようで行動に焦りが見え、慌ただしい。
何かを探してビニール袋に手を入れ、ひっくり返して中身を出す。
紙コップや紙皿、割り箸、着火剤などが散らばる。
﹁お前片付けろよ﹂
喜一が呆れたように笑って注意する。
雄一が腹を抱えて膝を何度も叩いて声を上げて笑い、渡と亮が口
の中身が出ないように押さえて肩を震わせて笑いを堪えている。今
にも吹き出して来そうだ。笑いがらもその行動を動画に収めようと
頑張る。手が震えていてボケていそうだ。激辛ウィンナーを一口食
べてみた鳥澤が﹁辛っ﹂とびっくりしている。
辺りを何度も見渡す。
薄暗い中で探している物が見つからない弥市はみんなに声を掛け
る。
﹁飲み物ってどこある?﹂
袋をひっくり返しても探していたのは飲み物だった。
辛くて口の中が痛くて喉も乾くから飲みたかったのだろう。誰で
も辛い物を食べるときは水だったりが必要なはずだ。
﹁飲み物は誰が買ってくるんだっけ?﹂
ビニール袋の中にライトを当てて、喜一が言う。
未だに雄一は笑って弥市の顔に光を照らす。
62
﹁リンが買って来るはず﹂
ちょうど良い具合に焼けた肉をキャベツで包んで如月は暢気に食
べる。
リンとは嘉良松琳太郎の事で、バーベキューに飲み物を買って来
ることになっていた。急に決まったとは言え、肉も炭も用意できて
いるのだから飲み物なんてコンビニでも買える。
そう思って頼んだのだが、当の本人はまだ来ていない。
﹁はっ! ヤバッ﹂
﹁えっ何で来てない?﹂
﹁何でも遅いだろ﹂
弥市、雄一、鳥澤の順に気づいて言った。
六時に弥市の家に集合と伝えてある。集合時間に遅れた鳥澤と喜
一も六時半くらいに来た。喜一が鳥澤を迎えに行っていたのでまだ
許せる。でも、連絡なしにこの時間は遅い。
﹁誰か連絡来てない?﹂
喜一が尋ねるが誰も来ていないらしい。それを見て如月が電話を
掛ける。コールが何度か続き、留守番機能に変わったために切った。
﹁出ない﹂
﹁あいつヤバいな﹂
﹁飲み物が無いのはきついぞ﹂
﹁辛くて喉痛いのにどうしてくれる﹂
﹁もっと喰っている﹂
﹁鳥澤、それは違うぞ。どこの鬼畜や﹂
﹁ホントは欲しいんだろ? 分かってるって﹂
﹁そうかそうか﹂
雄一と鳥澤はさらに塩コショウがふんだんに乗った激辛ウィンナ
ーを作ろうとしているところを弥市が止める。
﹁リン、来ないとかないよね﹂
﹁来なかったらヤバい﹂
﹁一人五千円くらい払わせる﹂
63
﹁口開けさせて、商業棟の三階から一階まで走らせよう﹂
﹁それいいね。最後に告らせよう﹂
﹁ゆーちゃん、好きだーって叫んでもらおう﹂
ツイッターだからな﹂
﹁でも滑舌悪くて何て言ってるか伝わらないぞ﹂
﹁あいつリアル
罰ゲームと言うよりはある意味公開処刑を考える。
子供みたいな考えなんて言われるかもしれないが、子供でも無駄
に知識があり悪意を織り交ぜた考えは本当にバカとしか言えないも
のだ。
大事な飲み物はどこかに行ってしまったように、琳太郎の公開処
刑について口々に言う。
飲み物はどうでもよくなったのか、肉や野菜を網の上に乗せてい
く。塩コショウを適当に振りかけて焼けるのを待つ。キャンプファ
イアの様に燃え上がっていた炭も今は落ち着き、丁度良い火加減に
なっている。
特に気にせず、食べる。というより焼け加減を見て判断できなか
った。食べてから生焼けだということに気付く。薄暗い中ではまと
もに見えない。橋の上の街灯も洩れている程度で当てにならない。
スマホやケータイのライトを最初は照らしていたが、手が疲れて電
池が持たないという事で消した。
﹁暗くて見えないんだけど。ぷーさんどうにかして﹂
﹁自分でやれよ。それより日向、ウィンナー食ってないよね?﹂
﹁食べてないよ。帰ってきたらなかったもんね﹂
﹁じゃ食べていいよ﹂
はい、と弥市の代わりに鳥澤が日向の皿に入れる。
薄暗い程度だから誰がどこにいるかくらいは分かる。
﹁何もしてないよね?﹂
疑い深そうに尋ねる日向に対して、何もしていない、と答える。
﹁それ以外に美味しいよ﹂
フォローする雄一。
64
間違ったことは言っていない、激辛なだけで。
弥市が食べた後にみんなも一様に食べたが辛かった。でも、その
時はまだ日向はトイレから戻って来ていなかった。戻って来たのは
琳太郎をどうするかと話している時だった。
﹁何もしてないよね?﹂
﹁大丈夫、きっと﹂
疑いながらも一本残ったウィンナーを食べる。
普段通りに二口程続けて食べる。きっと疑いながらも食べるとい
うことは案外みんなを信じているのだろう。
何気ない顔をしていたが、顔が赤くなり顰める。変顔とも取れる
その表情に笑いを堪えることに精一杯だった。画像として残したい
くらいだ。クラスメイトに見せたら大爆笑しそうだ。
変顔も次第に酷くなり目を閉じて口をパクパクし始めた。陸に上
がった魚のようなに。美味しいとは聞いていたが辛いとは聞いてい
ない。予想外のことに慌てて、でも辛くてどうすればいいか分から
ない日向は思わず飲み込んだ。
辛い物を小さく噛み砕かずに飲み込むとどうなるか、試したこと
がある人なら分かるかも知れない。小さくなくても同じだが。
喉が焼けるような痛みに襲われる。
﹁あっ、ヤバい。あっ、あっ﹂
ウィンナーの辛さに耐えれなくなって弥市と同じことを言う。
﹁水。水、ちょうだい﹂
涙を流すほど辛かったのか、歩き回りながら水を求める。
堪えていた笑いを吹き出す。何も口に含んでなくて良かった、と
誰もが飲み物が無くて良かった思った。
日向の求める水は当然無く、どうしようもない。
﹁無いよ﹂
雄一が答えると、﹁何で?﹂と聞き返してくる。
琳太郎が来てないからない。そんな事は日向も知っている。それ
でも、水を欲している。辛くさに負けて思考が上手く働かせること
65
が出来ないでいた。
歩き回ることで辛さを紛らわしていた日向にたまたま持っていた
飲み物を喜一が渡す。すぐに飲み干してもまだ足り無いようだった。
先程話していた内容を理解していなかった日向はようやく分かっ
た。
少しは落ち着いたようだが、まだ唇が赤い。
﹁あいつ、ヤバいな。ホント叫ばせよう﹂
琳太郎が来たのはそれから十分ほど経った後だった。もうすぐ金
曜ロードショーが始まろうとしている頃だ。
短パンにTシャツの上に半袖のパーカーを着て、片手に大きく膨
らんだビニール袋をぶら下げてのこのこやって来た。服が似合って
いないことに彼は気づいているのだろうか。
バイクのエンジンを掛けてライトを照らしてコンロを囲んでいた
ために、琳太郎が来たことに気付いていなかった。 ミックスサイ
コロステーキを焼くか、牛タン・牛カルビを焼くかで話していた。
スマートフォンの携帯充電器をバイクのシートに取りに行った渡が
気づいた。渡は歓迎するかのように迎えたが、声に反応した雄一と
弥市が、﹁おい、リン。お前ふざけんなよ﹂と近寄ってビンタを一
発ずつした。何故、ビンタをされたのか分かっていない琳太郎が少
し困惑してから、﹁何で?﹂と尋ねた。
﹁何でじゃねーよ﹂
﹁時間を考えろよ。野生の猿の方がまだ頭良いぞ﹂
回答の代わりに罵倒が帰って来た。
もう一度ビンタを喰らった。髪をぐちゃぐちゃと掻きまわされて
ヘッドロックで締め付けられる。
渡が飲み物の事を気にして、琳太郎のビニール袋を手から奪って、
みんなの所へと持っていく。中身は、二リットルのコーラが三本と
お茶と紅茶、ミルクティーがそれぞれ一本ずつあった。
66
﹁コーラってセンスないな﹂
﹁頭悪いだけだろ﹂
今日集まった中に好んでコーラを飲むのは琳太郎ぐらいで他はあ
まり飲まない。差し出されたら飲む程度で五百ミリリットルで十分
だ。サイダーやファンタをコーラと一緒に買うのが一般的だと思う。
半分ほど融けた氷を袋を開けずに拳やコンクリートに叩きつけて
割る。中途半端な大きさの氷はコップに収まらなかった。如月、亮、
鳥澤は氷をナイフの尖った先端で割って小さくする。コップに紅茶
を注いで一気に飲み干す。
﹁やっと飲めた﹂
コップに紅茶を再び注ぎながら如月が呟いた。
﹁さすがに何も飲まないのはキツイな﹂
﹁これ三本じゃ足りないよ﹂
コーラは本数から外されている。
﹁買って来る? 俺行くよ﹂
バイクで来ている渡が訊いた。
﹁いいよ。無くなったリンに買わせに行かせれば﹂
さらっと鳥澤が返した。その意見にみんな頷く。
琳太郎をさんざん弄った二人が戻って来て椅子に座り、喜一がと
紅茶の入ったコップを差し出す。乾いた喉に流し込む。缶ビールを
一気飲みするおっさんに弥市が見えたのか、如月と亮が笑った。
いくつかの肉を皿に入れて飲み物をコップに注ぐと、日向とと渡
はコンクリートの土手に移動した。入れ替わってパーカーの砂を叩
いて落としながら椅子に座った。
﹁何食べる?﹂
そう尋ねがら割り箸と皿を雄一が渡す。
﹁これ何?﹂
皿の中のウィンナーを指差す。
ウィンナー、と解りきっている事を答える。
﹁それは知ってる。何でウィンナー?﹂
67
﹁食ってみて﹂
﹁何かしてるんだろ?﹂
日向と同じように疑う。
﹁何もしてない。みんな食ったって﹂
輪から外れてコンクリートの土手に所から日向の声が聞こえる。
最後に︵笑︶と入っているような口調だった。
疑い深く割り箸で突く。
来て早々に激しいいじりを受けたばかりなのだから疑うのも分か
る。
慎重に一口食べる。
すぐに顔に現れた。口を大きく開けたまま斜め上を向いて何か言
いたそうな目を向ける。辛っ、と言いながら何かを求めるように手
を動かす。きっと辛くて口の中が焼ける思いになっているから水を
求めているのだろう。でも、誰も渡さない。みんなと同じ境遇を味
あわせようとしている。
フラッシュが一瞬だけ明るく照らした。その面白可笑しい顔を撮
った亮が楽しそうにクラスメイトにメールする。
﹁水、頂戴﹂
ビニール袋を掴むがその中には肉や野菜が入っていた。
さりげなく日向が飲み物の入った袋を遠ざける。
まぁ落ち着け、と無理やり椅子に座らせる。
﹁何もしてなかったよね?﹂
﹁いやいや辛いじゃん﹂
﹁だって激辛ウィンナーだからね﹂
激辛ウィンナーとプリントされた袋を見せる。
﹁みんな食ったから大丈夫﹂
﹁それはどうでもいいから飲み物頂戴﹂
空のコップを差し出しながら言う。
みんな無くて困ったんぞ、と言った後に日向がビンタをした。
68
それから何も変化のないバーベキューをした。
本当に何もなかったかというとそうでもない。ハチャメチャなと
ころもある。サイコロステーキを焼いたら生焼けが多かった。最後
の締めにと焼きそばを焼いたのだが、油が無いから豚バラを焼いて
それから出た油使ったり水もないとお茶を使ったりした。
男子高校生だけのバーベキューは何というかいろいろと大雑把の
所が多かった。
今度からはもう少し準備をしよう。
後日談になるのだが、如月が撮影したコンクリートの土手に座っ
ていた渡と日向を教室で見た時、日向の口から何か出ていた。本人
は気づいていなくて汚れだと言っていたが、みんなに引かれていた。
69
夏休みの不満
夏休みが始まり、蝉の声と共に気温も上がった。
宿題さえ無ければ満喫できると最後の日までまともに終わらせる
気もない学生が愚痴を廊下で吐く。部活に来ているのか、服装が制
服とは違いスポーツウエアだった。その服装からでは部活を特定出
来そうになかった。
﹁宿題なんて休み入る前に半分くらいは終わってるだろ。宿題無く
ても満喫できない奴は出来ないんだよ﹂
廊下から聞こえて来た声に対抗するかのように喜一が独りでに言
う。
エアコンで涼しく快適な空間に中にいる彼はその状況を少なくと
も満足はしていなかった。
﹁対抗するなら聞こえるように言えよ﹂
背伸びした亮の背骨からボキボキと骨のなる音が聞こえた。
﹁なら言うぞ﹂
何も迷わずに廊下に向かおうする喜一を鳥澤が腕を引いて止めた。
﹁また、面倒になるって﹂
﹁そうだな﹂
近くの椅子を二つほど引いて足を伸ばし座る。
﹁それにしてもすることないな﹂
マウスを意味もなく動かしながら亮は暇そうに画面を見る。
四十台ほどのパーソナルコンピューターと画面が向かい合うよう
にして二列に並べられた部屋は教室を二つ組み合わせて出来ていた。
どこの学校にもある普通のコンピューター室には五人の少年がバラ
バラに座っていた。ほとんどがパソコンかスマホを弄っていた。学
校であることを気にしていないようだった。もちろん教師はいない。
﹁することならあるだろ﹂
鳥澤は目線を向けることも手を止めることもなく返す。
70
﹁一週間もやってたら気が狂うよ﹂
﹁まだ一週間だろ﹂
﹁まだって、一日六時間ほどやってるんだぞ﹂
﹁確かにな。でも、あと一週間だろ﹂
﹁でも飽きたわ﹂
二人だけの会話だけが流れる。他はキーボードをたまに打つ音と
マウスのクリック音だけだった。
隣の校舎︵と言っても渡り廊下通った反対側︶の一番東側の最上
階にある音楽室から聞こえる音楽。ギターよりもボーカルよりもド
ラムが常に目立つコピーバンドは聴いてて作業のBGMにもならな
い。ただ叩いているようにしか聴こえない。ボーカルで言うなら音
程が変わらずに叫んでいるようだ。
正直、今は不愉快に思える。いつもなら、真面目にやれよと思う
だけなのだが、退屈で行き詰ったこの状況では応援する気になれな
い。
この不協和音は学校のどこに居ても聞こえるのだろう。
﹁如月、どこ行った?﹂
天井を無意味に眺める。
﹁コンビニか工場でしょ。多分、工場だと思うよ﹂
工場は、校舎とは別にある実習棟のことで旋盤から放電装置、M
Cまで揃っている。
﹁見てみれば﹂
パソコンで時間を潰している大場義人を横目に工場側の窓へと近
づく。ブラインドの隙間から下を眺める。
清々しいくらいに青い空に、加減というものを知らない日光に眩
しさを感じる。外を見るだけで外がどれだけ暑いのか感じ取れる。
よくこの暑さの中をチャリで来たなと暑さに負けずに夏休みの学校
に来た事を自画自賛する。暑さや寒さ関係なく雨が降っていなけれ
ばみんな春夏秋冬通っているはずだ。
ブラインドの隙間から工場を見渡す。二階ほどしかない高さしか
71
ない建物の中の様子を見ることは出来なかった。しかし、人が居る
のは分かる。もっと正確に言うなら、通路をたった今走って行くオ
レンジのTシャツに作業着のズボンを穿いた生徒、その後ろを追い
かける全身青のつなぎを着たぽっちゃりとした生徒が目に入った。
追いかける生徒の手にはスリッパを握っていた。
見知った顔だとすぐに分かり、にやけてしまった。
﹁あいつら楽しそうだな﹂
夏休みに学校に来てるのは部活だろう。暑い中よく走れるもんだ。
旋盤のある棟を三周ほど追いかけ回って疲れたのか、握手をして
和解でもしたようだ。電子電気関係の実習を行う建物の真ん中に開
けた場所に二人で移動する。部活の仲間の輪に混ざって白い大きな
塊を削り始める。
﹁如月居た?﹂
眼鏡を外し目薬を打つと立ち上がり、亮の横に移動する鳥澤。同
じようにブラインドの隙間から外を見る。
﹁眩しい﹂
部屋の中は照明と数台のパソコンが点いていても外は眩しいよう
だ。
工場を見下ろしながら同じようににやけて、﹁楽しそうだな﹂と
呟く。
﹁平和だな﹂
蝉の鳴き声に混ざりグラウンドからホイッスルが聞こえる。
田舎なのに無断から交通量の多い県道が、夏休みに入ったこの時
期は無駄に混んでいる。
でも、建物は少なく遠くに大型スーパーが遠くに見える。そんな
に高くもない山が前方で緑に染まっている。
夏の田舎の風景は長閑で平和だ。朝から毎日のようにやっている
事件や捩れた日本政情が嘘みたいだ。
﹁如月居ないな﹂
どこを見てもその姿は見当たらない。
72
いつもなら、工場で部活の連中と真面目に活動せずに遊ぶか駄弁
っているから見つかるはずだった。
今日って何曜日だっけ? と誰に向けたわけではないが亮は訊い
た。
﹁月曜日でしょ﹂
隣に居た鳥澤が当然のように答える。
﹁月曜か。そうか、うん。⋮⋮コンビニか﹂
月曜日と言えば、学生の多くが一度は読んだであろう漫画雑誌の
発売日。如月は毎週欠かさず読んでいる。
ただし︱︱
﹁立ち読みだな﹂
買うことはしない。いつも帰り道のコンビニか書店で読んでいる。
本人もそう言っていたし、クラスメイトにも幾度となく目撃されて
いる。
スマートフォンを取り出し亮は連絡先から如月を見つけ電話を掛
ける。
何度かコールした後に電話に出たが、無言だった。
﹁なんか言えよ﹂
あっワリー、と間抜けな声が聞こえる。反省などしていないだろ
う。
﹁飲み物買ってきて。出来れば炭酸が良い。それとお菓子もお願い。
アイスもね﹂
作業がまともに進んでいないのに遅刻ているうえに立ち読みまで
しているのだから、それくらい当然だと思う。
そんなことを思っている亮たちも学校に来てから何もやっていな
い。パソコンやスマートフォンをいじるだけで手を付けていない。
一人はすでに寝ている。唯一、鳥澤が一人でやっているだけだ。
﹁ジャンプも買って来いよ﹂
もっとも亮は雑誌が一番欲しいのだ。
﹁はぁ、何で? おいおいマジで言っての? ⋮⋮分かった。早く
73
来いよ﹂
はぁとため息を吐きながらスマートフォンをポケットに入れる。
﹁どうした? やっぱりコンビニだった?﹂
﹁いやコンビニじゃなかった﹂
﹁なら、どこ?﹂
﹁書店だって﹂
﹁学校に来てすらいないのか﹂
学校に来ていないのだから工場を見渡しても見つかるはずがない。
そもそも、学校には一度来ていると思っていた。それから、工場
かコンビニで暇でも潰して昼前にのこのこと来ると予想していた。
工場に居なかったからコンビニだと思って、ジュースやお菓子を注
文したのだ。
それがまさかの書店と予想外だった。これは寝坊なんて言い訳は
通じない。明らかに悪意を感じる。
如月が利用する書店は学校からも距離があったはずだ。
﹁あいつ昼くらいに来そうだな﹂
時計を見ながら呆れた声で言った。
もう慣れたけどね、と鳥澤が返す。
如月が来たのは時計の針が一時半を回った時だった。学期中なら
昼休みの終わりを告げる予鈴が生徒のいない廊下に響いていた。
急いで来たのか、汗をかいていた。汗を拭いながらペットボトル
を傾けて喉を鳴らした。着崩した制服を生徒部の長ったらしい説教
が入りそうだ。
真ん中辺りの椅子に座り背凭れに上半身の体重を預ける。
﹁あつっっい
溶けてしまいそうな声を出す。
﹁来るのおせーよ。何やってたんだよ?﹂
パソコンで無料の漫画を読んでいた亮が椅子を半回転させる。
74
﹁親に頼まれて親戚の家に行ってて、そのついでに書店に寄っただ
け﹂
﹁寄らずに来いよ﹂
本当の所は時間ギリギリに起きて、面倒だなと思いながら着替え
て少し朝ごはんを食べていつものように家を出た。長く急な坂を建
ち漕ぎで昇っていると、ふと思った。先週一週間で何も進まなかっ
たのに早く行って意味ないな、と。どうせ、ほとんどメンバーが何
もしないで遊んでるんだ。そんなことを考えていると暑い夏休みに
朝から学校に行くのが馬鹿馬鹿しくなり、通学路から外れた道に進
み書店で時間を潰していた。というのが遅れてきた理由だった。
都合が出来たとか、そんなの全くの嘘で面倒なだけだった。
﹁まあ気にするなよ﹂
﹁みんな朝から来てたんだぞ﹂
何もやっていなかったが。
﹁どうせ、パソコンかスマホやってたんだろ。作業なんて進んでな
いだろ、エコ電カーと同じで﹂
見透かされていた。
それも部活と同じと言われて。
﹁部活はお前らが遊んでるからだろ、時間はあるのに﹂
﹁大してここと変わんねーよ。時間はあっても知識と技術が足りな
いだけだよ﹂
﹁嘘付け。やる気ないだろ﹂
﹁やる気はあるよ、きっと﹂
何を根拠に自信満々に言えるのだろう。
ドヤ顔で言われても困る。
﹁さっき、楽しそうに走り回ってたぞ﹂
窓のブラインドの隙間から見えた光景を伝える。
﹁それはあれだな。ストレスが溜まってるんだ、きっと。こんな作
業やるより部活やってる方が鬱になりそうだからな﹂
一人で手を動かしている鳥沢を指差しながら返す。
75
部活で今やっている作業はやった者にしか分からない辛さがある。
周りから見れば単調で楽な作業にしか見えない。これに文句を言う
彼は軟弱だと見下すかもしれない。だが、ただ単調なだけではない。
変化がない。
楽で単調な変化の少ない作業ほど辛いものはない。そのことは部
活でも先日行ったインターシップでも思い知らされた。
確かに、時間もなく初めて間もない今の作業を辛いと言ったらそ
うだが、部活ほどではないと如月は考えていた。むしろ、こっちは
楽しいとも思っている。
﹁教える顧問があれだぞ。分かるだろ?﹂
﹁確かに分かるよ。でも、こっちもあれだからな﹂
二人でため息を吐く。それに続いて、鳥沢と喜一からもため息が
聞こえた。同じ事を思っていたのだろう。
何でこの学科には教え方の下手な教師ばかりいるのだろうか。今
に始まったことではないが、去年の秋くらいからはクラスメイトが
思っていることだった。
Robot
Olympiad
の略で自律型ロボ
そもそも、今行っている作業だって三週間前に言われたばかりだ。
WRO。
World
ットによる国際的なロボットコンテスト。世界中の子どもたちが各
々ロボットを製作し、プログラムにより自動制御する技術を競う。
市販に販売されている一般的なキッドを使用することで誰でも簡単
に参加すること出来るようになっている。
それの地区予選に出場しろと言われたのが、約三週間前だ。その
時はメンバーに、如月と鳥沢と良は選ばれていなかった。だが、初
期のメンバーが一週間前に参加できなくなり、急遽三人が選ばれた
のが一週間前。終業式の日だった。
そして、地区大会が今週の土曜日と知らされたのが、先週の木曜
日だった。
時間が足りない。誰もが分かっている事だが、みんな作業しよう
76
とはしない。
追加メンバーの三人が終業式の後にコンピューター室で現状を知
ったときは唖然とした。
二週間はあったはずなのに、何も進んでいなかった。
プログラムどころか、ロボット本体さえも出来ていなかった。
如月は、部活の連中方がもっとマシだと本気で思った。手を動か
すよりも口を動かすことが多い部活は、何もせずに駄弁っているだ
けと言われることが多いがやる時はやるし、しっかりとした考えは
持っている。部活でこの作業をやったら、プログラムは兎も角、本
体は二つや三つは出来る。
リモコンを使わない自立型ロボットのため、本体の他にプログラ
ムも組まなければならない。
夏休みに入ってから朝から夕方まで時間があった。最初はみんな
やっていたが、だんだんパソコンやスマホばかり見るようになった。
別にプログラムを組んでいるわけでもない。それが夏休み三日目の
ことだ。今では、主に鳥沢と如月だけが作業をやっていて、たまに
亮が手伝っている。
これが今の現状。
時間がないことはみんな分かっている。しようというやる気や焦
りさえ見えない。
三人居れば作業は出来る。一人でも出来るが、一応チームという
ことになっているから仕方ない。
正直、一人でやったほうが早い。自分が思うままの機体を作って、
それに沿ったプログラムを組む。誰かに伝えるよりも、確実で現実
にし易い。他の連中は要らない。そのことは、鳥沢も同じ事を思っ
ている。
何もしない亮以外の三人には、片づけくらいはやって欲しい。最
低でもそのくらいやってもらわないと困る。もっと望むなら、機体
の事は考えていなくてもいいから、授業で作ったお手本のロボット
を使って少しでもプログラムの模索でもして欲しい。誰もが初めて
77
なのだから、それくらいはやってもしかった。
やれよという視線を向けるも、画面と睨めっこを続けている。
あいつらに手伝ってももらかな、と誰にも聞こえないくらいの声
で呟き、鳥沢の作業に加わる。亮も連れるように二人の作業を手伝
う。
外から元気な運動部の声が聞こえる。それに混じって工場から楽
しそうな笑い声が聞こえた。
忙しく鳴く蝉はまだまだ止まない。
78
夏の走馬灯
太陽に照らされる水面は割れたガラスをばら撒いたように反射し
ていた。
日が経つごとに蝉が煩わしくなる。
毎年のように平均気温が上昇し、今年も最高気温を記録したと朝
刊の一面を飾っていた。国会議員の問題発言より大きく取り上げら
れていることに、不覚にも吹き出してしまった。国民は議員よりも
気温のほうがよっぽど大事で興味があるらしい。
今週中にもまた最高気温を記録するだろう。
暑い夏休みはエアコンの効いた部屋で友達と楽しくゲームでもす
る。それも良いけど、毎日やってるとどんなにゲームが好きでも飽
きてくる。どこかに出かけようとしても、こんな田舎には遊ぶ場所
も限られている。それのいくつかは暇な教師が見回りでもやってい
ることだろう。車やバイクで少し先の市街地に行けば、選択肢も多
彩に広がるだろう。だけれど、高校生は法的に自動車の運転は出来
ないし、バイクは持っている奴が限られてくる。自転車で行くとい
う選択肢もないこともないが、真夏日にだらだらと汗を流しながら
二時間以上も漕ぎたくはない。同じような理由で海にも行けない。
だったら、どうするか。
﹃川にでも行こう﹄
田舎では当たり前の選択肢を選ぶ。
近くの川で泳ぐことになる。
一ヶ月ほど前に刈られたであろう草はもう足首まで伸びていた。
土手を転げないようにゆっくりと降りていく。ドラマやアニメみた
いにスムーズに滑り降りることは出来ないらしい。
着ていたTシャツを脱ぎ、その下にペットボトル隠す。
弥一が水の温度を調べようと水面に手を伸ばす。
﹁そんなに冷たくはな⋮⋮﹂
79
言葉を言い切る前に顔から水の中へとダイブする。
水しぶきが上がり、波紋が広がっていく。
慌てて顔を出して呼吸を整えようとする。
コンクリートの淵で弥一を指差しながら、ケラケラと笑う日向に
流れてきた短い木の棒を投げつける。お腹に当たった。
日向は足で弥一の背中を蹴って落した。川では誰かがすることに
なるお決まりだ。
﹁まだシャツ脱いでないだろ﹂
陸に上がりながら日向に言う。
弥一は水温を調べようとしていただけで、まだTシャツを脱いで
すらいなかった。それどころか、水分補給ように買っておいたペッ
トボトルも中身をほとんど消費することなく流れていく。
﹁お決まりだろ﹂
﹁少しは考えろ﹂
﹁そこにいるから悪い﹂
日向の両肩をしっかりと掴むと、暴れるのを抑えて川に向かって
薙ぎ払う。バランスを崩し体を横にしたまま高い水しぶきを上げた。
そこに笑いながら、晋介は飛び込む。ドロップキックでもするか
のような体制は、派手に水しぶきを上げることなく槍が水中に刺さ
ったときのように空気のトンネルが出来た。
泡だけ上がってきて二人とも一向に顔を出さない。
沈んだかと呑気に思いながら気にすることなくそれぞれ服を脱い
だり、水温を確かめたりしている。
二分ほど経つと、二人は一緒に顔を出した。コンクリートの陸か
ら約十メートルくらい離れた水面に。
三つある堰のうちの真ん中に上がった。手前だけは起伏式の鉄の
堰で、残りの奥二つはゴムで出来たラバーバムのことだ。彼らに言
わせるならゴム栓である。ちなみに、今いる場所は以前に柊が行こ
うといっていた場所とは違う。
ラバーバムの軽快なステップで走って向こう岸へ行った。
80
早く来いよと手を振っている。
続くように川へ飛び込み向こう岸まで泳いだり、途中でラバーバ
ムに上がって走る。
﹁弥一、先行くぞ﹂
如月は服を絞っている弥一に声を掛ける。
﹁ちょっと待って﹂
ライブでタオルを回す様に、服を頭の上で回転させる。服が伸び
るぞと思いながら口に出さずに待つ。
太い縄のように捩れた服を広げるとしわを伸ばす。几帳面にも畳
んで置こうとする。
﹁そこに置いたら汚れるぞ﹂
地面に何も敷かずに置こうとした弥一は確かにと言う様な顔をす
る。体を起こして土手を登る。姿が見なくなったと思ったらすぐに
下りてきた。バイクに置いてきたのだろう。
よし行こうと先に水の中に入る。
﹁思った以上に冷たくないな﹂
水を体に当てて水温に慣らす。
その光景を向こう岸で見ている日向たちは、指を指して笑ってい
る。声は聞こえないが言っていることは何となく予想できる。熊が
水遊びをしていると笑っているはずだ。
カメラに撮ろうと、一度陸に上がり服の下からスマートフォン取
り出して、その様子を撮影する。今度、クラスメイトに見せてやろ
う。もう一枚写真を撮り、十秒ほど動画も撮影しておく。
川に飛び込み弥一の後ろを付いて行く。
ゆっくりと泳いで中間までは行こうとした。
何度も泳いで渡ったのだ。今回だって同じはず。
でも、行けなかった。
そこまで大きい川というわけではなく、向こう岸までせいぜい五
十メートル弱くらいだろう。高校生なら簡単に渡れる。
いつもなら手前の堰は上がっているが、その日は少し下がってい
81
た。そのせいで川の流れは手前だけ速くなっていることに気づいて
いなかった。
ゆっくりと渡ろうとして泳ぐスピードが流れに負けていた。逆ら
おう水をかぐスピードは上がるが進まない。
学校でも水泳の得意な弥一が本気とも言える表情で泳いでいるの
に前に一向に進まない。流される感じた弥一は百パーセント以上の
力で泳ぐ。その泳ぎを学校のプールで計測したらその辺の水泳部に
も負けてはいないと思う。それでもほんの僅かしか進んでいない。
少しでも力を緩めれば流されただろう。
そのくらい川の流れは速かった。
水泳の得意な弥一でこれなのだから、苦手な如月が足掻いても流
されていく。弥一との距離もどんどん開いていく。
早々に諦めた如月は身のままに流される。
どんどん流される如月を遠くで見ている彼らは笑っているが何が
起きているのかは分かっていない。分かっていても、きっと、助け
に行こうとはしないだろう。
だって、彼らは如月のクラスメイトでもなければ、同じ学校に通
っているわけでもない。小中学校の同級生というわけでもない。厳
密には日向と弥一だけがクラスメイトで、それ以外のメンバーは如
月と接点がない。
では、どうして一緒に川に来ているのか。
それは、晋介たちが日向や弥一の中学時代の同級生だからだ。
七人で川に来ているが、如月を除いた六人は同じ中学校に三年間
通っていたことになる。先ほど接点がないと言ったが訂正しよう。
正確には、日向と弥一という歯車を介すことで接点を生み出してい
る。
彼らとは以前にも数回会ったことがあり野球やサッカーなどはし
た。けれど、あまり会話もしていないし、連絡先を知っているとい
うわけでもない。中には名前は聞いていたが、今日初めて会う奴も
いる。
82
だから、あまり気にしていない。
川に来ているから泳げると思っている。流されても死ぬことはな
いと心のどこかで思っているのだろう。
泳ぐの止めた如月の姿が堰柱の影へと消えていく。
このとき初めて、やばくない、という会話があった。
少しだけ危機感を覚えたが、もう無理でしょと誰もが思った。
彼らが何もせず如月の姿が堰柱の影に隠れそうになっている時、
弥一は助けようと奮闘していた。
一度は流れから脱出したが、流されている如月のことを考えて助
けようと堰柱に掴みながら助けに行くタイミングを見計らっていた。
堰柱が顔を掠めそうになる。
もう終わりが近づいてきていることは前を向かなくても分かる。
コンクリートの堰柱に手を伸ばしたところで届かないだろう。何
度か見たことのあるそれはいつもより高く感じる。
目に水が入って痛い。ぼやける視界の中に弥一が映っていない。
きっと流れから逃れることが出来たんだろう。
何だか流れが遅くなってないか。そんな錯覚に囚われる。でも、
残念なことに流れる速度は何も変わっていない。当然のように淡々
流れる水に悪意はない。坂になっているから流れるだけ。
映画みたいに上から手が差し伸べられて助かることもないことは、
高校生にでもなれば分かる。
前を向くと本当にすぐそこまで迫っていた。
この先がどうなっているかは飛び込む前に見たから分かる。落ち
ればきっと無事では済まない。死ぬ確立も高いだろう。死ななくて
も骨折以上の怪我を負う事は免れない。
堰の先は希望が持てるものではない。
83
大量の水が三メートルの高さを真っ逆さまに落ちてコンクリート
の地面に叩きつける。連続して落ちる水は叩き続ける。それでは終
わらない。落ちた後は、斜めになったコンクリートの上を勢い良く
流れ、途中にある流れを抑えるために突起物に当たり激しく水しぶ
きを上げる。そして、流れを多少失いながらも下流へ再び流れ始め
る。
もう終わったな。みんなと同じようなことを考える。
この後、どうなるんだろうな。川で大怪我したり死んでしまった
ら川に行くことが禁止になるのかな。その前に、弥一たちは起こら
れて停学でも喰らうのかな。それは悪いな。あの漫画の続きが気に
なるな。
死ぬと分かると人の思考はそれまで以上に加速して、世界一のス
ーパーコンピューターよりも早い処理速度になるのだろうか。
一秒立つ間に信じられないほど考えることが出来る。
加速した脳は、今までの思い出を次から次へと呼び起こして頭の
中を巡る。
走馬灯。
死ぬ前に見ると言われるものは本当に現実にあった。
あまり覚えていない小学校から懐かしい中学校のどうでもいい日
の記憶。これまでの短い人生で一番楽しいと思える高校生活。子供
のように笑うクラスメイト。意味の分からない設定でコントをする
部活の仲間。
楽しいことだけではなくて、苦しいことも悲しいこともある。理
不尽な大人の言葉も聞こえる気がした。
今では懐かしい。
自分が意識して思い出そうとしても浮かばない光景まで見える。
見飽きる見てきたノリが今では懐かしく恋しく思う。
もう少し生きたかった。出来れば高校は卒業したかった。
ドキュメンタリー映画でも見ているようなその映像が途切れると、
堰は目と鼻の先にあった。
84
ゆっくりと近づいてくる。現実は変わらない流れも、この時は全
てがスロー再生しているかのように見えた。
何故かは分からないが笑みが零れる。
全てを受け入れるように体を正面に向ける。
覚悟を決めた。
少しだけ前に出していた足の指先が鉄製の堰に触れる。コケでぬ
るっとした感触が伝わる。
そして︱︱。
弥一はタイミングを窺っていたが、如月の姿を確認しようと顔を
出せば水圧で流されてしまう。
どうにかしないと。
普段なら笑って馬鹿にするだろう。でも、それは命に危険が及ん
でいないから。さっきだってここに来る途中に、上半身裸に半キャ
ップのヘルメットと黒のサングラスをしてバイクに乗っていた。首
にマントのようにして巻いたバスタオルが風で靡く。それをバイク
に乗りながら片手でスマートフォンを持ち如月が撮影していた。見
つかれば免許取り消しにもなる違法行為を笑い合っていた。自分は
可笑しな格好をしているだけ通常通りに運転は出来たし、如月も片
手にスマートフォンを持っていても運転できると信じていたから。
バイクならいいが、水の中だと違う。潜ることなら如月のほうが
出来ても、水泳に関しては苦手ということを知っている。
自分が流されないようにするので精一杯だったのに、如月が戻っ
て来られるはずないと。
それに、堰の向こう側を知っている。
無傷では絶対に済まない。
だから、彼を助けに行こうとしている。
弥一なら堰柱の上に手が届く。如月のところまで行って、コンク
リートの淵を掴んで流されないようにすればいい。そうしていれば、
85
きっと、みんなが来て引き上げる。
意を決して流れに向かう。すぐには流されないように、斜め前へ
とコンクリートを蹴ってジャンプする。
策度を殺すためにクロールをしながら、ゆっくりと近づいていく
つもりだった。
少しだけ後ろを確認する。もう少しで堰の向こうに流されようと
している姿が見えた。
助けようと思っていて自分の意思で流れに飛び込んだはずなのに、
不思議と流れから脱出しようとしている。
防衛本能だろうか。それとも、助けに行ったら死ぬかもしれない
恐怖からだろうか。
恐怖とは人の意思とは関係なく、体を支配するものだ。
恐怖から逃れることが出来るのなら、その選択を体は意思とは関
係なく選んでしまう。
何も無いような晴天霹靂の空。
眺めていれば平和と思える。
流れの来ない安全な堰柱の近くまで移動しようとする弥一の視覚
が一瞬だけ横切っていく影を捉えた。
その時、如月の思考はどのコンピュータよりも加速した処理能力
を持っていただろうか。
一瞬のうちに全ての行動がシュミレーションを完了し、行動して
いた。
落ちると思ったとき︱︱指先が鉄製の堰に触れた瞬間にほとんど
感覚的に助かると分かった。
堰に足裏を付けると力を入れて体を浮き上がらせる。手を伸ばせ
ば堰に届いた。右足と両腕に力の入れて体を引き上げる。左足を淵
に引っ掛けて一気に登る。
ほとんど無駄のない動きだった。
86
走馬灯まで見えた絶望の中で一筋の光が迷い込んだようだった。
立ち上がり呼吸をするのと同時に走り出す。
視界の端に弥一の姿を捉えた。
堰柱からラバーバムへと乗り移り落ちないように走る。弾力のあ
るせいで、ダサいスキップしているみたいだ。
止まることなく走り、みんなの元へと駆け寄る。
﹁死んだかと思った﹂
最初に晋介がそんな言葉を掛けた。
﹁俺も死んだと思った﹂
﹁良く上がれたな。本当に死んだらどうしようかなと思ったぞ﹂
日向は本当に驚いている。珍しく的外れなことを言わなかった。
﹁走馬灯が本当に見えた﹂
﹁ホントにあるんだ、走馬灯﹂
﹁あるある。いろんな記憶が流れた﹂
詳しくは話さなかった。話しても興味は持たないだろうと思って。
みんなは堰柱の影に隠れたとき、もうダメかと思ったと口々に聞
いた。
どうやって助かったかのだけを話した。
もう一度やれと言われても無理だろう。
火事場の馬鹿力に似たものだと思う。
﹁弥一、どうする﹂
指を指されたほうを見る。軽く忘れていた。
少し考え込み、どうにかなるでしょ、と晋介言うとみんな頷いた。
87
プールの出来事
夏休みが明けると肌が焼けているクラスメイトが多かった。ほと
んどが部活の練習だろう。中には文化系の部活のはずなのに、顔だ
けが以上に焼けているものいた。
九月の半ばに差し掛かろうとしているはずなのに、蝉が一向に鳴
りやまない。ラストスパートだと言わんばかりの大合唱は集中力を
散漫させる。
残暑は季節の移り変わりというものを知らないように、未だに居
座っている。
暑い。誰もがそう思っている。
夏休みが終わり、二学期が始まって一学期の成績を挽回したいと
ころだが、この暑さでは融けてしまいそうで身に入らない。暑さの
せいか、まだ夏休み気分が漂っている。 少しは気温が下がり早朝
が冷えて来たと言っても、それは山の麓くらいだ。早朝も四時から
五時くらいで、健全な学生ならまだまだ夢の中に居る。
この暑い日には川にでも入りたくなる。
﹁モアイ、Tシャツは脱げって﹂
﹁プールで泳ぐのに何でTシャツ?﹂
﹁見学? えっ、泳ぐのにその格好?﹂
学校指定の水着に着替えた男子生徒は、タオルを肩に掛けたりフ
ラダンスの様な格好でグラウンドを横切りプールへ向かう。
暑さに負けない声がグラウンドを駆ける。
﹁着てないって。分かるだろ?﹂
﹁モアイ、何の冗談にもなってないぞ﹂
﹁見て分かるだろ﹂
﹁早く脱げって﹂
﹁痛っ、引っ張るな﹂
88
﹁モアイ、早く脱いだ方がいいよ﹂
﹁翔まで言う﹂
モアイとあだ名で呼ばれる生徒の本名は佐藤英秀。あだ名のモア
イとは全然関係ない。何かをもじったわけではなく、顔がイースタ
ー島のモアイ像に似ていることからそう呼ばれることがある。ごく
一部だけだが。
同じ部活で、同じ中学の翔にまでいじられる。
プールに行くのに体育服を着ることは、男子では珍しいかもしれ
ないが可笑しくはない。
でも、英秀は服など来ていない。
来ているのは、水着だけだ。
だが、遠くから見れば服を着ているように見える。
小麦色よりも焼けえた肌は、焼けていない素肌との境がはっきり
と分かるほど焼けていた。マスキングテープでも使って肌を覆って
ペンキで塗ったようなだった。
Tシャツの形に日焼けしていない姿は、本当にTシャツを着てい
ると思わせる。しようと思って出来るものでもない。
脱がそうとするクラスメイトをあしらう。
水着を着ているわけだし上半身裸はあまり気にしないが、Tシャ
ツを着ているといじられるならとタオルでマントように羽織り、プ
ールへと急ぐ。
プールサイドで整列して座る。
﹁何やら可笑しな格好の奴もいるみたいだけど、今日もいつも通り
泳ごうか﹂
眼鏡を掛けた長身の体育教師の才川は英秀を見ながら笑って言っ
た。
黙れとクラスメイトに言うノリでツッコミを入れようとして、喉
から出ていく前に口を噤んだ。もう少しで、暴言扱いされるところ
だった。まあ、前に立つ教師はそのくらいでは暴言扱いにしないこ
とは皆知っていた。
89
後ろから亮が横腹を指で突く。ニヤニヤしているのが分かる。
お前だなと言わんばかりにクラスメイトの視線が集まる。反対側
のプールサイドから変な視線︵本人は物珍しさだと思っている︶が
突き刺さる。
月曜日から気分悪いな。
﹁シャワー浴びたら水慣れして、いつも通りクロールと平泳ぎを二
十五メートル二本ずつと往復二本しようか﹂
生徒の出席を確認しながら授業内容を簡単に説明する。説明が終
わると何か指示されたわけでもなく、バラバラに立ち上がりシャワ
ー室に向かう。前は使われていたであろう腰洗い用の消毒槽に一度
降りて、すぐに登る。もちろん消毒槽には何も入っておらず、入学
してから何で満たしているところを見たことがない。
左右にあるシャワー室に分かれて入る。半分に分かれても全員が
入り切れるほどの広さもないため入口付近で待つしかない。
プールの水に慣れる前に、それよりも冷たい水が体から体温を奪
う。
いつも思うが、何故にシャワーの水はこんなに冷たいのだろう。
いきなりプールに入ると心臓に悪いと毎年のように聞かされるが、
プールよりもシャワーのほうが明らかに心臓に悪い。
冷たいとはしゃぐ声がシャワー室の外まで響く。
そんな声に紛れて誰かが静かに言った。
﹁待って、ドア開いてる﹂
声が聞こえたシャワー室だけ静かになる。
外で待つ生徒と反対側ではしゃぐ生徒には聞こえていない。
声を殺し紀杜は指を指す。
その先には開いたままになっているドアが一つあった。
誰かが息を飲む。
﹁誰も開けてないよね﹂
弾もうとする声を抑えようとして、変な声になった志田が尋ねる。
﹁誰も開けてない。ずっと開いてた﹂
90
ドアが開いていることに気付いた紀杜ではなく絵士が答える。
なるべく音を立てないような歩きで近づく。シャワーの冷水がコ
ンクリートの床に当たって足音をかき消す。
早く出ろよー、と後ろから声が聞こえるが無視する。
体育の授業時間よりも大切なものがあると彼らは考える。今では
決して見ることのない景色があることを。
紀杜はドアの曇りガラスに手を付いて中を確認する。
何か見たのか、振り返り微笑む。
﹁マジだった﹂
﹁マジで?﹂
自分もとシャワー室の中にいた生徒が集まる。中身を見ようと押
しやりドアの向こう側を覗く。
そこは、十二畳ほどの広さの部屋と扉のない正方形のボックスロ
ッカーが縦に五列・横に八列だった。籠の数少なかった。籠とロッ
カーには脱ぎ捨てられた制服やタオル、通信端末が散らかっていた。
だが、そこは問題ではない。なぜならこの部屋はプールに隣接す
るどこにでもある更衣室なのだから。服が散らかっていても何も問
題ではない。そういう部屋なのだから。
それが男子更衣室なら。
確かにドアの上には、﹃男子更衣室﹄と書かれたプレートが見え
るが、飾られているだけにしか過ぎない。
男女それぞれにあるプール隣接の更衣室を二クラスで使うことは
広さ的に出来るわけがない。そのために、大抵の学校は体育館もし
くは教室で男子が着替えることになっている。女子は更衣室になっ
ている。
そう、今みんなが覗いている部屋は男子更衣室でありながら女子
が着替えている。そのため、散らかっている服は女子の制服である。
プールは水着に着替える。そのため、散らかっているのは制服だ
けではない。
下着も例外はない。
91
服の一番下で隠している女子生徒もいるが、何もせずに見られる
ことを気にしていない生徒もいる。女子しかいないのだから当たり
前なのかもしれない。
﹁無用心過ぎるだろ﹂
温泉来ているかのように脱いでいる。
男子に観られないという前提条件で、実際に見ることが出来ない
ことが分かっているからこそ適当に脱ぎ散らかしているのだろう。
﹁これ意味ないよな﹂
雄一がドアを揺らしながら指摘する。
﹁確かに﹂
﹁覗いてくださいって言ってるようなもんだもんな﹂
﹁何かのアピールかよ﹂
﹁発情期なんだろ﹂
シャワー室の中だけで聞こえる声で笑う。
覗き・盗撮禁止と言われているけれど、そんなことを言う前にド
アを閉めることぐらいは心掛ける以前に常識だと思う。男子でも閉
める。
鍵を閉めていないことはあるかも知れないが、男子も使うシャワ
ー室に直接繋がるドアは必ず閉めて欲しい。思春期の男子の目の前
に女子更衣室のドアが開いていて誰も居なかったら覗きたくなるだ
ろう。温泉に入っていて男湯と女湯を区切る仕切りが透明だったり
無かったりしたら誰でも見てしまう。見るなと言う方が無理である。
それと同じことである。
女性が男性の更衣室を覗いた場合はどうなるか分からないけど、
男性が女子更衣室を覗いたら弁解なしに犯罪者と一生変態扱いを喰
らうだろう。
でも、こいういう場合は許してやりた。
彼らに悪意なんてない。
その先にあるものを知りたいという人間の欲求心・探求心に従っ
ただけなのだから。
92
覗いたことは他のクラスの女子に蔑まれるだろうが、そもそも開
いていることが悪いのだ。男子もシャワー室を使う事は最初から分
かっていた事なのだ。見られたくなければ閉めるのが道理である。
黒板にテストの答えが書いてあれば誰でも見るのと同じことだ。
空き巣に入りたくなければ戸締りをしっかりとすることが当たり
前だ。
原因となりうることを自らが作らないことがもっとも大事なこと
だ。
早くしろー、とシャワー音に混じりながら才川の声がする。
反対側のシャワー室にすでに誰も残っていなかった。
﹁戻るか﹂
﹁何だかんだ言って、ここに居ると寒いもんね﹂
﹁さっきからシャワーが右側にだけに当たって麻痺してきた﹂
シャワーを止めて、寒さに体が震える。
階段を下りてまた登る
﹁人が居たら面白かったけどね﹂
﹁それはさすがにまずいぞ﹂
志田の言ったことに紀杜が真剣な顔で答える。
笑いながらみんなに合流するけれど、女子のほうを見ることが出
来なかった。
律儀にドアを閉めて。
﹁先生、そろそろ自由時間あってもいいと思います﹂
泳ぎ着かれたのか、単純に飽きたのか、調子の良い声で宇佐美知
宏が才川に言う。
その態度にも怒ることなく、笑みを浮かべたまま、もう少し泳い
だらね、と返す。
﹁今週で水泳も終わるからいいじゃないですか﹂
﹁次は考えるとくよ﹂
93
目を逸らしたことが次もないと周りで聞いていた生徒も分かった。
高校に入ってから水泳で自由時間と言うものはほとんどなかった。
いつも、クロールと平泳ぎを二十五メートル二本ずつと往復一本ず
つ泳いで他に何かやれば、終わる。
普通ならもっと押すか粘るかするが、今回は簡単に諦めた。
彼らも学んだのだ。
才川の目線が自分たちではなかったことを。そこから、察した。
厄介なものがいるということを。
楽しそうな高い声の聞こえる方を見て誰かがため息を吐いた。正
確には、その中のある人物を見て。
皆川久。才川と同じ体育教師で、二クラス合同でやっている体育
の女子を担当である。
商業と工業を併設したこの学校は、大きく分けて商業科と工業科
に部類される。柊たちは工業科で、彼らと一緒になるクラスは商業
科に分類される。大きく分けた二つの科はあくまで生徒や教師がそ
う呼んでいるだけであって正式なものではない。三つ以上の科が存
在する学校ならあるあるのことだが。
大きく分けただけでなんとなく分かると思うが、工業科には女子
はいない。もちろん、柊たちも例にならっている。だからと言って、
商業科に男子がいないわけではなく、少数だがいる。
そんな女子たちと駄弁りながら戯れている皆川を呪うような眼で
見る。彼女らの担任は、もちろん皆川だ。
彼らが呪うような眼で見ているのは嫉妬からではない。嫉みや妬
みという感情を彼らは、皆川には抱いていない。少しぐらいはある
かも知れないが、眼の奥に宿る炎は別の事で燃え、その視線から感
じ取ることは出来ない。
女子と楽しそうに笑い、優しく教え、無理強いさせたりしない指
導は、賞賛を貰っても可笑しくはない。良い指導者である。
一般的に見れば。
﹁終わりまでには、自由時間を取るよ﹂
94
何も変わらないけれど、ありきたりな言葉で宥める。
彼らもまた一歩引いて、それを受け入れる。
解りきっている夢は持つものではない。
気を取り直して現状を楽しくしようと、列ごとにレーンに並ぶ。
二十五メートルを泳ぎ切るとプールサイドに上がり、プールの横
で整列して並んでいたが、往復になるとスタート地点に戻ってくる
ため、前の人が行ったら合図なしに各自勝手にスタートする。
最前列に並ぶ生徒たちが水の中に入り、笛の合図で泳ぎ始める。
それに続いて後ろに並んでいた生徒がプールへと入る。水飛沫をあ
まり上げないようにゆっくり入る生徒もいるが、それは商業系のク
ラス。回転式の椅子の上に立って回るような小学生みたいな行動を
するバカなクラスの中には、ワザと背中から飛び込んで水をまき散
らしたり、プールの中から差し出した手を掴むと無理やり引っ張り
誰かが後ろから蹴るとそのまま顔から水面にダイブしたりする。も
うほとんどお決まりみたいなものだ。
その度に、鋭い視線を感じる。本人たちは気にしていないようだ
が。
﹁柊、静かに入れー﹂
プールから上がるために設置してある手すりに手を付いて体重を
掛けている才川が注意する。
笑っている顔は、ふざけていることに関して咎める様子はなかっ
た。むしろ、楽しんでいる。教師と言う立場上、一応は注意したと
いうところだろう。
あのまま落ちないかなあ、と考えている。
プールに落ちたのは日向で、手を差し伸べたの柊、蹴ったのは弥
市だ。このようなことは、大抵が日向か海斗の役割になっている。
ゴーグルをする暇もなく落ちた日向は、顔を手で拭きながら焦っ
ていた。何に焦っているのかは分からないが。コースを区切るため
の浮を潜り、自分が泳ぐはずだったレーンに移動する。
﹁準備良いか?﹂
95
歯で挟んだ笛を手に取り尋ねる。
﹁オッケーです﹂
右を上げて柊が答える。
笑いながらもぶれた笛の音を鳴らす。
合図なしにスムーズにスタートするはずだったが、今ので仕切り
直しというわけだろう。
最初にスタートしたのは柊で、それを見ていた海斗が追うように
壁を蹴る。日向以外がバラバラに泳ぎ始める。日向はというと、首
に下げたゴーグルを装着している所で笛がなった。柊が答えた時に
は、まだ何の準備もしていなかった。それを分かっていて才川も笛
を鳴らしている。
慌ててゴーグルを着け壁を蹴る。
五メートル進んだところで、日向は水中に潜り何かを始めた。別
に潜水をしているわけではない。一人だけ遅れているのに、ここで
潜水を始めたら変な目で見られるだけだ。それは分かっている。
それでも、潜らなければいけない理由があった。
水中で溺れるような動きをする。亮の言葉を借りるなら、行動が
うるさい。その動きは変な目で見られても可笑しくはない。
その場に立つと最後の確認を済ませて泳ぎ始める。
壁を蹴ってスタートした時に、水圧に負けて水着が脱げかけた。
それを直すために水中で変な動きをしていた。プールの中であって
も水が透明なのは変わらないのだから、みんなには見えている。
それと、水着が緩くて脱げたかけたと日向は思っているが、実際
は、壁を蹴った瞬間に紀杜が後ろから手を伸ばして水着の無理やり
脱がそうとしていた。
そんな事には、気づくことなく泳ぎ続ける。
﹁須田、あまり虐めるなよ。女子もいるからな﹂
注意する気などさらさら無いことが声色から伝わってくる。
明らかに、差がありすぎて追いつくことは出来ない。
固く結んだはずなのに半ケツ状態になっている。
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﹁あいつ、何がしたかったんだ﹂
﹁あんな変な動きまでした意味ねえーな﹂
それを知らせることもせずにケラケラと笑っている。
前を見て誰もいないのは日向も分かっているので、特にスピード
を上げて泳ごうとはしていないが自然と速くなる。一人で泳いでい
るのも恥ずかしくなっている。一人で泳ぐよりも、半ケツ状態で泳
いでいる方が恥ずかしいと思うが。
Uターンする時に、息を整えるついでに周りを見渡すと、すでに
次のグループは泳ぎだしていた。
少し焦ったが記録も取ってないし大丈夫だろうと考え、スピード
を変えずに泳ぐ。
後ろの人と当たらないように右側を泳ぐ。通常は一人しか泳がな
いことを前提に幅を取っているレーンの右側は浮きに手が当たりそ
うになる。平泳ぎならすれ違うときに当たるだろう。
折り返して半分ほどまで来たが、日向は誰ともすれ違わない。
あれくらいで終わるはずがない。先程はほんの遊びでしかない。
彼らの本気の悪戯はこれから始まる。
距離を確かめるために顔を上げる。上下する波の間に不気味な笑
みを浮かべた見知った顔があった。こちらを見据えたまま口角が上
がっている。
止まって底に足を着こうとする。
でも、すでに遅い。
柊はゆっくりと近づきながら沈んでいく。左から誰かに腕を掴ま
れ水中に引き込まれる。
﹁ちょっと、待って﹂
横をみると海斗が居た。
掴むことの出来ない水を掴もうともがく。口の中に水が入ってく
る。吐き出すことを忘れてでも、水を掴もうと必死になる。足裏が
底に着いたのが分かり力を入れて立ち上がろうとする。が、不自然
に体が前のめりになり脚に力が入らなくなる。力を向けるものが無
97
くなった脚をバタバタさせる。足首を掴まれているのが分かる。抑
え込もうとする誰かの手を無理やり振りほどこうと、さらにばたつ
かせる。
紀杜は足首を掴み引っ張る。上下に動く足を無理やりにでも止め
ようと力を入れる。必死になっている人間の力は普段よりも強い。
火事場の馬鹿力というものだろう。
周りから見れば、プールの中で虐めているようにしか見えない。
少しずつ近づき目の前に立った柊は体を水面下に沈める。底を蹴
って距離を縮める。懐に入ると日向の水着を掴むと一気に下ろそう
とする。もともと半ケツ状態だった水着は簡単に脱げる。見えては
いけないブツが出そうになる前に、自由に動く左手で上に上げる。
ブツこそ出なかったものの、お尻は全て出た。
﹁おい、マジで、止めろ﹂
口から空気を吐き出し、新しい酸素を取り入れる。
必死に抵抗するが、三人がかりの水中では無駄なあがき程度にし
かならない。動けば動くほど体力が削られて、酸素が体から失われ
ていく。振りほどくより酸素を確保することに必死になってくる。
本当に虐めているようにしか見えない。それも命に関わる様な行
動で、訴えられても可笑しくはない。それを止めない教師もまた悪
い。
それが、本当に虐めならすでに問題になっているはずだ。教師も
プールサイドで笑っていたりしない。彼らも虐めるなら公開処刑の
ような真似はしない。多くの目に留まるような場所なのは分かって
いる。
彼らの悪ふざけは必ずしも一方通行とは限らない。
息を吸って潜った柊はそこで停止した。急いで顔を出すと、周り
を見渡して誰にも︵クラスメイトより女子に︶見られていない事を
確認してから水着を上げ紐を固く縛る。後ろで日向の脚を握ってい
た紀杜も同じように水着が脱がされそうになった。紐を固く結んで
いて下ろせずにいた。
98
紀杜は出なかったものの、柊はブツが完全に露出した。女子に観
られた変態扱いは間違えない。いや、変態という称号と一緒に副賞
で停学も貰えそうだ。才川はそれを見て笑っているが、女子たちに
教えている皆川に見られたらその場で生徒指導部へ連行される。今、
こんな悪戯をやっているだけでも見られたら何を言われるか分から
ない。
幸いにも、女子も皆川も見てはいなかった。
柊の水着は知宏が、紀杜は匠平が下ろした。
因果応報ということだろうか。少し違うが、そんな感じだと思う。
自分がしていたことが、そのままの形で帰って来る。ブーメランと
はまた違うが、どんな行いも稀に自分に返って来ることがある。
こういう場合は、連鎖と言うべきか。
不意を突かれたことに、露骨に悔しがる。
別に日向と二人が手を組んでいたわけではない。助けを求めた訳
でもない。仕返しの合図を送ってもいない。どんな関係もない。二
人は、柊たちと同じことを考えていて先を越されただけ。先を越さ
れたものの、実行できるタイミングが目の前に転がり込んできた。
偶然転がって来た野球ボールを拾い上げるように、実行に移した。
まさか、同じことを自分たちにされるとは考えもしなかったはず
だ。大勢の生徒の前で怒られることよりも恥ずかしさを覚えた。同
じ悪戯に引っ掛かったことと、ブツを露出してしまったことの二重
で。
日向は、拘束が解けたことが分かると振り払い、近くに居た海斗
の水着を下ろした。彼なりの仕返しだったのだろう。顔が抵抗して
いる時よりも、必死だった。
﹁お前ら早く上がれー﹂
いつまでも遊んでいる六人に促す。このままでは、授業を忘れて
時間まで遊びそうな雰囲気が漂っていた。
プールから出ようとする生徒を引っ張ったり押したり水の中へと
戻す。少しは戯れながら上がる。
99
プールから出るだけでも無駄に時間を食ってしまう。
腕時計で時間を確認している間に整列する。グラウンドの向こう
側の校舎に掛けられた普通よりも大きい丸い時計は、遠くて長針と
短針が分からない。数字はぼやけて形さえ捉えることが出来ない。
何かある程度には分かる。
何かを考えながら、今度は教師用手帳を開き眺める。
早くして欲しい。生徒たちの心はそんな事を考えていた。まだま
だ夏の残暑が続いているとは、濡れた体では寒さを感じる。ぶるっ
と体が震えて鳥肌が立つ。太陽は出ているが、時折、吹く風が肌を
滑り体温を奪っていく。服を着ていれば、心地よい風に思えて快適
な昼寝が出来る。
何故、一番暑い時に水泳しないで、中途半端に寒さを感じるとき
にするのだろうか。初夏は、まだまだプールに入るには寒い。九月
は風が濡れた肌を震わせる。どちらも、入っている時の方が寒さを
感じない。本当に、疑問である。
﹁寒いから早くしてくれないか﹂
体を震わせながら誰かがぼやく。
その声に反応にして、教師用手帳からもう一度確かめるように腕
時計を見る。周りを見渡す。
時間的に少ししか経っていないが、寒さのせいで長く感じてしま
う。
少しだけニヤけて言った。
﹁自由時間にするか?﹂
寒さで早く終わってほしいと思っていた生徒たちの顔に笑みが戻
る。諦めていたから予想外だったのだろう。
震えていた体が、そわそわし始めた。
﹁時間まで好きにして良いぞ﹂
その言葉が言い切る同時に、歓声にも似た声が上がった。
よっぽど嬉しかったのだろうか、授業中という事を忘れて叫んで
いる。
100
水を与えた魚のように、プールの中へと入る。喜びのあまり無駄
に綺麗な飛び込みを絵士がした。水飛沫を派手に上げず静かに入水
して端まで浮き上がることなく進んだ。それを真似して紀杜と柊も
飛び込む。綺麗とは言えないが、形になっていて腹から着水するこ
とをなかった。後を追うように飛び込む日向であったが、みんなが
みんな上手く出来るわけではない。特にこのクラスでは奇跡のよう
なことも起こる。
空中での姿勢は綺麗だった。そのままの形で水に入れば絵士のよ
うに教科書通りのお手本になる飛び込みが出来た。でも、ある意味
で奇跡を起こしてくれる日向は、みんなの想像を超えるものを見せ
てくれた。
誰もが腹から着水して、痛みに悶える日向を期待していた。空中
での綺麗な姿勢を見て才川は、上手いけど面白くないな。腹から行
ってほしかったな、と思っていた。教師でさえ失敗することを楽し
んでいた。
指先が水面に触れようとした時、固く凸凹した何かに触れたよう
な気がした。気がした直後、顔を押し潰れるような痛みを感じた。
美顔ローラーのローラーだけをボコボコの溶岩に交換したような痛
みだ。本当に顔が変形しそうになる。
コースを区切るための浮は、顔の次は胸板を転がり足先までとて
も痛いマッサージを喰らった。
綺麗な形で指先から入る予定だった飛び込みも、顔からの着水と
なった。
前方に水飛沫を上げた日向は、素早い速さで底から浮き上がって
来た。
﹁痛っ、イタイ。あーマジでヤバい﹂
顔を抑えて叫ぶ。
鼻血こそ出ていないものの、顔は赤くなっている。鼻血でプール
が赤く染まっていたなら、感染症などを恐れてすぐに中止になった
だろう。そうなると、楽しみにしていたプールの自由時間は当然無
101
くなり、子供からおもちゃを取り上げたような罵声を浴びた事だろ
う。鼻血ではなく血祭りになってもおかしくない。
浮きに激突するというアクシデントを起こした日向だが、それは
誰かが予想していても可笑しくはない。プールサイドで笑っている
クラスメイトの中にいるはずだ。起きる期待をしていた生徒が。
如月や雄一は何となく予想していたと思う。
でも。
﹁マジで痛い﹂
﹁そんな事はどうでもいいと思うよ﹂
絵士はどこか引いた声で言う。
﹁どうでもは良くない。マジで痛い。壊れそうになるくらい痛い。
もう上がろう﹂
﹁上がるのは止めた方が良いよ﹂
冷静にアドバイスをする。
何で? と訳の分からない日向は訊き返す。何が起きたか理解で
きない。
言いにくそうに、目で教える。
近くで笑っていた柊や紀杜の笑い声が消えている。プールサイド
に腰を下ろした弥市や亮の抑えた今にも吹き出しそうになっている
笑い声が聴き取れた。真ん中から向こうで遊んでいるクラスメイト
の楽しそうな水の音が聞こえる。
追った目線の先に水面を漂う群青色のパンツ。波に揺れる水着を
気まずそうに、けれど、面白いと言いたげな笑みを絵士は浮かべる。
それが何かはすぐに理解できたが、何が起きたのかは理解できな
かった。けれど、すぐに現状が理解できた。
プールから上がるために縁に手を掛けて少し持ち上げていたこと
に気付いて、手の力を抜いて水の中に戻る。顔だけを出して周りを
見渡し誰にも見られていないか確かめる。女子はすでに授業が終っ
たらしく姿が見えなかった。
﹁ちょっと取って﹂
102
恥ずかしそうに絵士に頼む。
﹁そうね? うーん﹂
素直に従うわけもなく、ワザとらしく考える。
その横を悪意に満ちた笑みを浮かべた柊が通り過ぎる。まずいと
感じた日向は股間を隠しながら水着に手を伸ばしながら近づく。
﹁ただの露出狂だな﹂
﹁女子がいないのが、惜しかった。出来れば皆川が居ても良かった
のに﹂
﹁確実に停学だな﹂
﹁二か月はこのネタでいじれた﹂
楽しそうに弥市と亮がワザと聞こえる大きさで話す。
そんな事を気にしていられない日向は水の抵抗に苦戦しながら漂
い少しずつ遠ざかっていく水着に近づく。焦りと羞恥心の混ざった
顔は面白い。必死な日向を周りで見ているクラスメイトは笑ってい
る。
もうすぐ届くというところで、柊に先を越されてしまった。
﹁ちょっと待って。マジでお願い﹂
そう頼んでも素直に返って来ないことくらい分かっている。
﹁はい、紀杜﹂
後ろにいる紀杜に投げ渡す。
﹁おう﹂
受け取ると、丸めてボールのようにする。キャッチボールでもす
るかのようにプールサイドに向けて投げる。水分を含んだ水着のボ
ールは放射線を描く。頂点を過ぎる前に広がり空気抵抗によってス
ピードが落ちる。ひらひろと空中を泳ぎプールサイドを囲むフェン
スに当たる。
﹁そこは違う。マジでヤバい﹂
フェンスに当たったのを見て、弥市と亮が静かにプールに入り遠
くに泳ぐ。
﹁ねえ、取って﹂
103
二人に頼むが、耳に入ることはない。
今は女子がいないと言っても、いつ現れるか分からない。遠くか
ら見てるかもしれない。もとより、温泉ならともかく学校のプール
で裸のまま歩きたくはない。皆川にでも見られた日には次の日から
教室に居ることはない。
どうやって取ろうか考える。
きっと、誰に頼んでも面白がって取ろうとはせずに裸のまま行け
よと言われそうだ。才川は、笑って濁しそうだ。自分で取ろうにも
裸では何もできない。このままでは、教室に戻ることも出来ない。
恥覚悟で取りに行くしかないな。
﹁日向、俺が取り行こうか?﹂
柊が唐突に言った。
予想していなかったから藁にでもすがる思いで頼みそうになった
が、眼が笑っていなかった。何か悪事を考えている時の顔だ。
﹁取って来て﹂
遠慮がちに頼む。悪意だろが、善意だろうが、どっちにしても誰
かに頼まなければならない。少しくらいの条件は飲める。恥をかい
て露出狂のレッテルを張られるよりはマシだ。停学にならないだけ
でも良い。
入学してもうすぐ一年と半年くらいになる。クラス替えもなかっ
たのだからクラスメイトの正確は少しくらいは把握しているはずだ。
柊が自ら始めたことにただの善意を向けるはずがないことを。
日向はただでさえ何も考えていない馬鹿だと弥市に普段から言わ
れているのに、少し考えたくらいでわかるはずもない。
ジュースを奢れという簡単な条件を出されると考えているが、そ
んな甘いことは考えていない。面白いおもちゃが目の前にあるのだ、
いじるネタを一つや二つは作って置きたい。
﹁これが出来たら良いよ﹂
水の中に潜り、段差を登ると体を丸めた。
何をするのだろう、と考えていると答えにたどり着く前に水面か
104
らイルカがジャンプした時のように何かが飛び出した。三メートル
ほどの高さまで舞い上がった柊は月の様に円を描き後ろに一回転す
る。
落下は綺麗とは言えないが、見事なジャンプではあった。
﹁どう? 出来たら取って来るよ﹂
いじめっ子がいじめを止めてほしければ自分を殴ってみろよと言
うかのような口調で日向を尋ねる。
誰でも一回はやった事があるから分かるかも知れないが、これは
土台となる人間との相性も大事になる。起き上がるタイミングと飛
び跳ねるタイミングが同時でなければ成功しない。どちらかが早け
ればバランスを崩す。慎重にやると土台になっている人間の息が持
たない。
出来ると思う、と根拠もない返事をする。
だからと言って飛ぶ人間の技量が要らないわけではない。
絵士は息を吸い込み潜る。その肩に日向が乗り、バランスを確認
すると頭を叩いて合図を送る。肩に乗ったことを合図で確認して絵
士はプール底を力の限り踏み込んでて垂直に立つ。映画で怪獣の海
の中から出て登場した時のように水を四方に飛ばす。絵士の膝が真
っ直ぐになるのとほぼ同時に肩を蹴って空中に真っ直ぐ飛ぶ。柊と
同じくらいかそれ以上に舞い上がった日向。そして、重力に逆らう
力を失い自由落下を始める。派手に水飛沫を上げて絵士のすぐ目の
前に落下した。
﹁危なっ!﹂
目を丸くする絵士の代わりに柊が声を上げた。
﹁今の危ない。気を付けろよ﹂
プールとシャワー室を繋ぐ階段に腰を下ろし教師用手帳に何か書
き込んでいる才川が怪我はするなよと注意を促す。
水中から顔を出した日向に見ていた生徒が、一斉に注意や罵声を
浴びせる。声が重なり言葉が織り交じる。何を言っているのか聞き
取れない。この声の中では、聖徳太子も聞くことを諦めるだろう。
105
注意されているのは分かるが、その声よりも罵声の方がはっきりと
聞こえる。
飛んだ姿には褒めることも悪いところを指摘することもしない。
触れようともしない。触れないようにしているとも言える。
﹁もう一回やろう﹂
罵声を気にせず絵士に頼む。
心優しい絵士はたった今、危険な目にあったのに頼みを受け入れ
る。心優しいと言うか頼まれたら断れないのかもしれない。
﹁おーい、そろそろ時間だからな﹂
そろそろ上がってシャワーでも浴びろと言いたげな才川の声が聞
こえる。
校舎に掛けられた丸い大きな時計の長針は薄らと9の数字がある
場所を指していた。
シャワー室と更衣室の向こうから元気な女子の話し声や笑い声が
聞こえる。着替え終わって教室に戻るのだろう。まばらに数人の女
子が太陽に照らされたグラウンドを横断している。
自分たちの思うように遊んでいた生徒達も少しずつ上がり始めて
いる。
息を肺に入れて潜る。
身長も高く身体能力の高い絵士が土台なら少し失敗しても高く飛
ぶことは出来る。
今度は出来ると信じる日向は、肩に手を掛けて飛び乗る。水に押
されながら頭を叩き飛ぶ合図を送る。合図を受け取った絵士は少し
浮かんでいた体から脚を伸ばして立ち上がる。
相性が良くて息が合い高く飛べたとしても空中で回ることが出来
なければ、飛ぶことは出来ない。飛び上がる時は真っ直ぐ上に上が
るのではなくて、体を少し斜めにして足を振り上げるなければなら
ない。
先程と同じ高さまで上がり、体を丸めることなく足を広げて回っ
た。ミュージックCDのジャケットや何かのポスターなどによく使
106
われているような格好。太陽の光の中に映るシルエットだけなら格
好良く見える。
おお、という小さな歓声が上がった。
落下を始めた直後に才川の名前を呼ぶ女子の声が周りで見ていた
生徒の耳に入る。真上を見上げていた絵士が声のする方を見る。
面白がって笑っている如月と亮が声が漏れないように抑えている。
知宏が何か言おうとして口を噤んだ。悪意に満ちた柊の表情が面白
いものを見たというような笑みに変わった。
頭が下に向いたときに日向は落下し始めると感じた。ほんの僅か
な時間だけ︱︱実際には感じることは出来ない。そう脳が錯覚して
いるだけ︱︱無重力を味わったような気がした。
現状を何も知ることなく、ゆっくりと回りながら落下していく。
才川と話していた女子生徒は周りの小さな歓声を聞いて、みんな
の観てる方を見上げる。つられて才川も振り返る。
足を広げて高く宙に舞った日向の姿が目に映った。回転している
日向を凄いと感じた。少しだけ格好良いとも思ってしまった。
でも、すぐにその全ての割れたガラスのように崩れる。
ほとんどのクラスメイトからは太陽で黒いシルエットに見えてい
る姿も、太陽を背にした女子生徒と才川には別の姿が見えた。
宙に舞う表情さえもはっきりと見える程に。
一瞬、何を見ているのだろうという表情を浮かべて固まった。す
ぐに自分の見たものが何かを理解して、女子生徒は困惑する。ドラ
マなんかだと、視線を外して見ないようにするのだが、現実はそう
はいかない。落下する日向を落ち終わるまで見ていた。もともと、
落下時間もそんなに長くない。飛んで落ちるまでは一分も満たない。
その一分も満たない間に、ある意味では奇跡が起きた。
日向がその姿でCDジャケットのように足を広げて回ったこと。
授業が終わり着替えて教室に戻っているはずの女子生徒が来たこ
と。
漫画でもこの二つのことが同時に同じ場所で起きているところを
107
なかなか見ない。
一回転することが出来た日向はお尻から水面に当たり派手に水飛
沫を上げ、周りにいたみんなに飛び散った。
水の弾けた音を聴いて女子生徒は我に返った。
ありがとうございますと早口で告げると、その場を足早に立ち去
った。
女子生徒の後ろ姿がグランドに見える。プールから離れたのに、
まだ走っている。
立ち去る姿を見て、誰もが顔を見合って笑った。これから、面白
くなると。顔を出した日向は、笑い声は自分が成功したから起きた
ことだと勝手に思い込んでいた。
もしも、太陽に目を眩ませて見ることが出来なかった。もしも、
プールを上がったばかりでコンタクトを外したままにしていて視界
がぼやけていたら。女子生徒が走って立ち去ることもなく、クラス
メイトが声を出して笑わなかった。いじるネタにならなかったかも
しれない。
けれど、何が来たかは今の日向が知っているはずもなかった。
﹁成功したから取って来て﹂
近くて笑っている柊に言う。
手を差し出して、待ってとジェスチャーで送る。
咳き込むほど笑った柊は笑いすぎて外れそうになっている顎を確
かめる。
﹁分かった分かった。取りに行くよ﹂
素直に約束を守る。この時ばかりは笑って素直になる。
たった今、面白いものを見たのでこれ以上弄っても可哀想だ。全
裸でプールの中に居ただけでもネタになる。それに加えて、本人は
気づいていないけれど、一生のうちでこれ程までに恥ずかしい姿を
見られている。
ただ一回転してくれれば、それだけで醜態をさらせることが出来
ると考えていた。出来ることなら背泳ぎもやってもらおうとは少し
108
考えていた。
でも、予想していた以上の事が起きた。
もう十分だ。これ以上は可哀想に見える。
スタート時の飛び台のある方から上がっていく生徒の流れを横断
して、群青色の水着が引っ掛かったフェンスに近づく。手すりを使
って水から上がりフェンスに手を伸ばす。
それぞれ勝手にシャワーを浴びて柊が戻るのを待つ。
日向だけがプールの中に入って静かにしている。宙に舞って女子
生徒に見られたのだから気にすることないのに、と思っているみん
なはまだ気づいていない。彼がまだ何も知らないことを。
少し触ることを嫌がる素振り見せる。
風が生徒の間を通り抜け、素面を撫でる。
フェンスに当たり引っ掛かったままの水着は風に揺れ、向こう側
へと舞う。手を伸ばしても届かない程に。
﹁嘘でしょう﹂
109
休み時間の延長
窓から吹き込む昼過ぎの風が睡魔を誘う。
日陰に居ても汗を掻いた夏も終わり朝が少しずつ肌寒くなってき
た。それでも、昼間は暑く吹き抜ける風は気持ちいい。今日のよう
な雲ひとつない快晴の時は、日向ぼっこしながら昼寝をするのと疲
れが取れる。
けれど、学校では叶わない。
﹁うわーマジで萎える﹂
教壇に座り教卓に凭れ日向は根をあげる。
スマートフォンの液晶を滑る指は動きが悪く、たまにミスして望
んでもないブラウザを開く。
﹁あんまり気にするなって﹂
亮は見向きもせずに感情なく慰める。
﹁いやー、でも、あれじゃん﹂
何か言いたそうだが、言葉になっていない。
﹁でも、あれは面白かったな﹂
﹁盛大に舞ったね。写メ欲しかったなー﹂
鳥澤が悔しげに言う。
﹁気付かないってのも馬鹿だよな。変態っていうより露出狂だもん
な﹂
﹁犯罪者でしょ。罪状は公然わいせつ罪?﹂
﹁強姦でもいいんじゃない﹂
亮と弥市と如月が面白おかしく犯罪者扱いする。
ケラケラと笑いお腹を抱える。
﹁お前ら他人事だと思って﹂
﹁現に他人事じゃん﹂
﹁でも、あれは傑作だよな。その辺の変質者よりも質が悪いよな﹂
﹁突然出すとかじゃなくて、出したまま宙に舞うという真似できな
110
いことだからね﹂
﹁才川じゃなかったら危なかったな﹂
﹁皆吉なら確実に連行だな﹂
﹁あいつ女子には優しいけど、男子には筋の通ってないことしか言
わないもんな﹂
﹁優しいって言うより、エロいだけだろ。あいつの目、エロいし﹂
﹁何て言うか、女子更衣室にカメラとか仕掛けてそうよね﹂
﹁あはっははは、それはわかるけど、さすがにそこまではしないだ
ろ﹂
﹁それは分からんぞ?﹂
日頃から溜まった不満が、勝手な想像とし膨らんでいく。
全く持って、彼らの言っていることは的外れな事ばかり。教師が
そんなことを繰り返していたら犯罪なんてものでは済まない。無駄
な時だけ結束力と活動力のある暇を弄んでいる大人たちの口から罵
声と批判が制御の効かない印刷機のように吐き出すだろう。 目が
エロいことは否定できるか分からないが。
﹁そう言えば、女子の乳首見えてたぞ﹂
まだ、昼休みまで一時間はあるのだが弁当を食べている柊が口の
中に具を詰め込み過ぎて吐き出しそうになっている。
汚いから喋るなと周りから注意を受ける。
突然、投げ込まれた曖昧な情報は火に油を注ぐかの如く一気に広
がる。飢えた動物みたいな食いつく。男子高校生なら誰もが食い付
きそうなネタだ。
﹁えっ! 嘘だろ、柊。マジで﹂
手作りのおにぎりを食べていた絵士が一番に食い付きテンション
が上がる。言葉を口にする度に米粒が乱射される。正面にいた志田
の顔面に直撃する。飛んでくる唾液塗れの米粒を防ごうと両腕をク
ロスさせる。スマートフォンを持っていたけれど、咄嗟の事に机に
置くのも忘れていた。スマートフォンの画面を米粒が唾液のおまけ
付きでベタベタに濡らす。
111
﹁うわっ。マジで止めろ。汚い汚い。ていうか臭い﹂
冗談抜きの本音が零れる。
目にはまだ入っていないけど、口の中にはいくつか飛び込んでい
る。吐き出すように唾と共に吐き出す。
﹁マジで止めろって﹂
ひとつ後ろの席の机にあった教科書で頭を叩く。
それに声を上げて周りが笑う。
そんなに続くかと思うほど長かった無差別攻撃がやっと終わった。
﹁ホント汚い。ヤバい⋮⋮臭い。あー臭い﹂
そう言いながら後ろの席の横に掛けられたスクールバッグからタ
オルを引っ張りだして、汚れた顔を拭く。
べっとりと付いた唾液は拭けば拭くほど不愉快になる。肌をナメ
クジのように滑る米粒が今にも殴りたいと思う。この先、二度とこ
の感触を味わいたいとは思わない。
﹁これ臭って﹂
翔と駄弁っている英秀に押し付ける形で嗅がせる。
突然、顔に押し付けられたタオルから距離を取るために顔を遠ざ
ける。それでも、嗅がせようとする志田から無理やり奪い取る。
﹁臭い﹂
普段からはっきりと言い切る英秀が、これでもかと大きな声で言
う。
﹁牛乳を吸った雑巾の匂いみたいな臭いがする﹂
臭いの例えを聞いたクラスメイトたちが笑い転げる。
余程臭かったのか、顔を引き攣らせている。
異物を持つように親指と人差し指の先で持つ。顔から遠ざけたタ
オルに窓から流れ込んだ風が臭いを乗せて教室を巡回する。
﹁くっっさっ﹂
﹁は! マジで、何﹂
﹁これ、臭い﹂
﹁うえ﹂
112
風に乗った臭いが鼻を刺激する。風の通り道にいた生徒は立ち上
がったり服で鼻を塞いだりしている。近くにいた翔が嗚咽する。
それを見かねた英秀は立ち上がり黒板近くのドアの前に置かれた
ゴミ箱に近づく。途中でワザと弥市の目の前を通す。文句を言おう
といた弥市は咳き込み変な声を上げる。
﹁ちょっと待って﹂
琳太郎の声が笑い声の中に揉み消される。
腕を伸ばし閉じていた指を開いて、タオルは落下する。分別が基
本のはずのゴミ箱に一寸の狂いもなく静かに落ちる。
何食わぬ顔で自分の席に戻る。
﹁秀夫、何やってんの?﹂
琳太郎が慌ててゴミ箱に近づき、少し躊躇してゴミ箱に手を入れ
る。それを掴んで持ち上げ、付いたゴミを掃う。色んな物が詰まっ
た本当に未知の場所に落下したタオルは奇跡的にも汚れてはいなか
った。
最低限の分別するために三つのゴミ箱が設置されているが、ペッ
トボトルと缶と燃えるゴミしかないため大抵は燃えるゴミに捨てて
いる。不燃物がないことから燃えるごみは食べカスだろうが捨てる
生徒もいる。
もしも、タオルが濡れていたりして重かったら拾うのも躊躇うく
らいに汚れていただろう。拾おうという気持ちも消え失せたかもし
れない。
﹁汚い。秀夫、マジで⋮⋮﹂
途中から何を言っているのか分からない。
英秀は笑って捨てたことを流す。
もう一度だけ払う。
琳太郎は気づいていないが、ゴミ箱に落ちていなくても汚いし臭
い。未知の未知のゴミ箱よりも身近の友達の臭い唾液と米粒が付い
ている。ゴミを掃うよりも一度水道で洗った方が賢明である。手で
払えば、手に臭いが付くことに気付いたほうが良い。
113
その事を笑っている誰もが教えない。
﹁志田、まだ顔に付いてるよ﹂
もう取れたと思って笑っていた志田に雄一が教える。
﹁えっ、マジで? うわっ、汚ねー﹂
自分の顔を触った手に嫌な液体が付く。
汚い汚い、と言っているが自分の顔に付いているから自虐にしか
聴こえない。
﹁拭くやつないかなー﹂
そんな暢気な声を出しながら後ろの席の横に掛かったカバンを漁
る。
後ろの席︱︱それは、琳太郎の席でつい先ほどタオルを勝手に拝
借して拭いたところだ。ついでに英秀によってゴミ箱に捨てられた。
﹁無いな。⋮⋮これでいいか﹂
汚れが見当たらない真っ白なシャツを取り出す。明らかに一度も
使っていないであろう臭いがする。封を開けたばかりにしか見えな
い。
真っ白な体育服の背中の部分で顔を拭く。二度、三度と拭き、汚
れが残っていないことを確認する。白かった体育服に付いた汚れは
シミのようになっていた。
﹁取れた?﹂
目の前にいる、吹き出した本人に確認する。
﹁取れたよ。臭いは取れたか分からんけど﹂
﹁それは仕方ない﹂
そう言っているが、結構気にはしているだろう。
無駄にプライドが高いから、表面的な汚れが取れても吐き気を催
すほどの臭いが顔に付いていることは認めたくないはず。笑ってい
るが、あとでこっそりと顔を洗ったりするだろう。
﹁それにしても臭いよ、これ﹂
体育服を前に差し出す。
﹁いや、臭いから目の前に出すな﹂
114
﹁臭いって、お前の臭いぞ﹂
﹁志田、臭いって﹂
﹁ふざけんな。喰らえ﹂
差し出した手を一度引いて肘だけの力で投げつける。スピードの
ない服はふわりと舞って、絵士の顔面に着地する。
﹁臭っ﹂
顔をから剥ぎ取り、地面に叩きつける。
﹁おい、待てよ﹂
タオルを握った琳太郎が駆け寄る。
床にくしゃくしゃになった服を拾い上げて、誇りを叩き落とす。
払い落としながらしわを伸ばす。
﹁馬鹿でしょ。誰のか考えろよ﹂
少しキレているようで声が普段よりも荒げている。
﹁はっきり喋って﹂
二度に渡って自分で拭いた志田と投げ捨てた二人に怒って声を荒
げているけれど、滑舌はいつもと変わらずに通常運行している。荒
げた声の分だけ口の中で籠って、普段よりも聞き取れなくなってい
る。
﹁考えろ﹂
同じことを繰り返し言うが、またも聞き取れない。
周りで見ているクラスメイトたちも聞き取ることが出来なかった
ようで、﹁えっ﹂という声が聞こえる。この教室の中で今の言葉が
分かった生徒はいないだろう。独り言よりも質が悪い。
滑舌が悪いのに加えて声が籠るから余計に聞こえなくなっている。
嫌がりながらももう一度言うと如月から、﹁ツイッターじゃない
んだから呟くな﹂と関係ないのに言われる。それを聞いたみんなが
笑い、渡が﹁今の上手い﹂と褒める。
いつもいじりだが慣れることはない。
﹁考えろって言った﹂
口を大きく開けて自分なりにはっきりと言った。
115
﹁さっき言ったこと聞こえた? はっきり話せって﹂
今度は聞こえているはずの柊が声を上げて言う。
志田に言ったのに、関係のない柊から何故か怒られなければなら
ないのか不満を感じながら、諦めて自分の席に座る。
もう一度言えよという周りの声を無視して自分の机に散らかった
米粒や唾をポケットティッシュで拭き取り始める。
﹁ちょっと顔洗って来る﹂
やはり気になったのか、残り少ない時間を利用して志田が顔を洗
いに行くために教室を出ていく。
﹁それで、柊﹂
何かを思い出したのか、弁当箱を片付けている柊の名前を紀杜が
呼ぶ。
﹁ん?﹂
何かあったっけ? とでも言いたそうな目をする。
お腹が膨れたのか、目が虚ろになっている。
﹁女子の乳首が見えてたって本当?﹂
臭さでうやむやになっていて、このままチャイムが鳴れば誰もが
忘れていた。絵士の噴き出しも柊のこの発言から来ている。
﹁見えたの?﹂ 今度は噴き出すことなく、その代わりくちゃくちゃと音を立てる
絵士が食い付く。
﹁見えたよ﹂
溜めることなく、簡単に即答する。
マジで! と今までいくつかのグループに分かれてそれぞれ好き
勝手に話したり、臭いの件を見ていたクラスメイト達がその言葉で
一気に興味を示す。どんなに興味がない素振りをしても結局は思春
期の高校生なのだ。
ある意味では、これが健全な男子高校生とも言える。
﹁とりあえず、スク水の越しに乳首の部分が見えた﹂
歓声にも似た声が上がり、マジで、誰の? と興味津々に口々に
116
言う。見えたことそのものよりも、誰のが見えたかが大事らしい。
三人ほどの名前を挙げる。歓声とブーイングの両方が飛び交う。
プールから上がる時に谷間から生も見えたよ、と火に油を注ぐ。
知宏も一緒に見たようで、どんな感じで見たのかは再現し始めた。
廊下を通り過ぎる同学年の男子から笑われる。男子しかいない工業
棟だから出来る行動で、女子が居たら引かれるか、バカにされて鼻
で笑われる。
勝手な想像で一発芸にも近いモノマネをし始める。
授業の開始を知らせるチャイムが聞こえないほどに教室が笑い声
で満ちる。
﹁何やってる? お前ら﹂
ドアから入って来たのは、数学担当の松井だった。
変な行動をしている知宏と柊を見るけれど、笑みを浮かべるだけ
で軽蔑の目を向けることはない。これにも慣れてきたのだろう。
何の話をしていたのか、紀杜が説明する。
プールで起きたこと、柊が女子の乳首を見たことを曖昧な表現で
教える。時折、周りが補足を入れる。説明している紀杜が話しなが
ら笑う。
﹁それは誘ってる﹂
大体、聞き終えると教師とは思えない発言をした。
女子がいないから出来ることだろう。セクハラと言われても仕方
無い。
﹁気づいてない訳がない。本当に気づいてなかったら根っこからの
痴女だな、それは﹂
男しかいないと教師も生徒も、大人も子供も関係なく、場を気に
せずに思ったことを発言するようだ。
口うるさい保護者にでも聞かれたら面倒なことになりそうだ。
気づいていて何もしてないことの方がよっぽど痴女だと思うが。
﹁周りも気づいてるよな?﹂
亮が柊に尋ねる。
117
﹁気づいてるでしょ。あんなマジかで見てて分からないって﹂
﹁じゃ気づいてて教えてないだけ?﹂
口元を拭う絵士が弁当箱を片付けて話の中に入る。
﹁それはそれで性格悪いぞ。ちなみに聞くけど﹂
一度区切り、誰だったと尋ねる。
それはさすがに訊くなよ、と二、三人が口には出さずに心の中だ
けでツッコミを入れる。
教師が生徒の名前を尋ねることは可笑しいことではないが、こう
いう場合は知らない方が得だと思う。その生徒に会った時に、もし
かしたら意識してしまうかもしれないからだ。
まあ、松井はそんな事ないだろう。既婚者でもあるし、女子高生
に興味ないと言っていたし。
﹁それはさすがに⋮⋮ね?﹂
﹁まあね﹂
クラス中に簡単に言いふらしたくせに、教師には躊躇う。
きっと関係が気まずくなるとは考えてない。見ていたことが、女
子に言われるかもしれない事を危惧しているのだろう。
﹁言わないなら言わなくて良いけど﹂
簡単に言うと思っていたらしく、面白くなさそうな顔をしている。
﹁見過ぎると勘付かれるぞ。ほどほどにしろよ﹂
彼らのためにも注意を促す。一応は教師としても役目を少しだけ
果たす。
露骨に見ていると変態と引かれる恐れもある。というか、乳首が
浮かんで見えていることが気付かれたら、恥じらいの後に心に傷を
負うだろう。そして、その原因を作ったのは男子だと矛先を向けら
れ、周りの女子はここぞとばかりに団結する。事実が有りもしない
尾びれを付けて一人歩きする。
生徒たちよりも長く生きた教師だからそれを知っている。
女子によく相談されているから知っていたのだろう。
だから、注意した。
118
教師の少しばかりの優しさ。
まあ、二人しか見てないから気づかれることはなかったのだろう。
﹁先生ならどうしかすか? 女子更衣室の扉が開いていたから﹂
いつの間にか戻っていていた志田が顔を拭きながら尋ねる。
鍵が掛かっていなかったのではない。扉そのものが開いていた場
合にどうすか。鍵程度なら中を見ることが出来ることに気付かない
だろう。仮に取手を回して確認したとしても、開けることには抵抗
があるし周りを気にしてしまうだろう。
﹁そんなことあるか?﹂
﹁あるんですよ。扉に目を向けただけで部屋の中が見えるんですよ﹂
﹁あー、それなら見るな﹂
教師には有るまじき発言である。そこは嘘でも見ないというべき
ではないだろうか。
﹁開いていたってことは、見てくださいと言ってるようなもの。文
句は言えないな。男なら仕方ない﹂
それは罪ではないと言い切る。
男子が使うと分かっているのだからしっかりと閉めなかった女子
が悪いと受け取ることが出来る。
どっちが悪いとは一概に言えないのは確かである。
法に触れると分かっていて見る方も、不用心に鍵もドアも閉めな
い見られる方もどちらも悪い。
世間からしたら、見た方が悪いと一方的に言われる。
それが現実で、どうしようもない壁だったりする。
ご苦労に、部屋の中の状態や脱いだTシャツの柄を丁寧に記憶を
探りながら説明している。どんな下着が脱ぎ捨てあったかも楽しそ
うに話している。それに対して注意する訳でもなく一緒に笑って、
﹁趣味悪いなー﹂とか﹁幼いなー﹂とか一緒になって松井も話を聞
いている。
﹁誰のか気になるー﹂
教室の外にも聞こえそうな声を上げる。少し大きくて大人ぽかっ
119
たブラジャーを誰が着けていたのか気になっている。﹁あの子は違
う﹂、﹁あいつはそんなイメージない﹂、﹁奴は見た目的に胸無い
ぞ﹂と好き放題に言う。”誰が“というより”どんな女子が“とい
う方が彼らには大事ようだ。
妄想が次第に現実から離れていく。
女優や理想の女子を浮かべて、こういう人が着けていて欲しいと
口論のように言い合っている。
すでに授業の始まりを知らせるチャイムは鳴り時間も刻々過ぎて
いる。
自分の席にも座らず、教壇や適当な机の上に腰を下ろし思うまま
の体勢で過ごしている。話を聞くことに飽きた生徒は机の下でスマ
ホや漫画を読んだり、顔を伏せて寝ている。それでも、三分の二以
上がプールの話で盛り上がっている。
時々、思う事がある。
こんな授業で風景で大丈夫なのだろうか。来年は就職・進学試験
が待っている。本人たちはあまり気にしていないようだが。そもそ
も進級するまでに範囲が終わるかが、疑問でしかない。
松井が言うには、他のクラスより進んでいるから少しくらいなら
大丈夫らしい。一週間に一回以上はこんな授業が少しくらいで済む
のだろうか。
授業内容から少しくらい脱線することはよくあることで、堅苦し
い授業よりは少しくらい息を抜く方が効率が良かったりするが、初
めから脱線していることはそう多くもない。そもそも、線路にすら
乗っていない。
息抜きどころの話ではない。脳をまともに使っていない。今も休
み時間も延長のようなものでしかない。
会話の内容もいつの間にかプールから恋愛相談のようなものに変
わっている。
数学の授業に恋愛相談という公式や問題があるのだろうか。もし
かしたら存在するかも知れないが、工業科の生徒が解ける問題では
120
ないと思う。
恋愛相談が始まると今まで寝ていた生徒が体を起こし、生き生き
と会話に混ざる。
﹁あまり詳しくは言えないけど﹂
前ふりどこに行ってしまったのかと言いたくなる松井の話は、こ
のクラスに居たらあまり知ることないものだった。誰が誰をどう思
っているのか、意外にこういう性格だったりするとか、こんなこと
を言っていたとか。相談を受けているから話すことが出来る生々し
く新鮮だった。
﹁お前から言って聞かせたほうが良いぞ﹂
﹁言っても聞くか分かりませんよ?﹂
﹁聞いてくれる﹂
渡の付き合う彼女が松井の担当するクラスだと分かったことから
話が始まった。授業中ずっと寝たり保健室でサボったりしているこ
とから言い聞かせてほしいらしい。
﹁彼氏の言うことなら聞くぞ。あいつ、針原の話ばかりしてるから
な﹂
教師として松井も幾度は注意を促したらしいが、生半可な返事を
するだけで聞いている様子はなかったという。相談には乗ってもら
うが、注意は聞かない。虫のいい話だが、それが思春期の学生かも
しれな。
都合が悪いことからは目を背ける。大人でも子供でも同じこと。
﹁言ってみますが、聞くか分からないですよ﹂
﹁まあ聞いてくれなかったら、留年になるけどな﹂
他人事のような口調だった。
そこで、授業の終わりを知らせるチャイムの音が廊下を駆けて学
校中に響き渡る。他の教室からあいさつの声が聞こえる。
教科書に少し触れることなく黒板も使用せずにチョークの粉が舞
わずに授業は終わった。
﹁今日のプリントは明日まとめてやるか忘れるなー﹂
121
そう言い残して松井は教室を出ていく。
休む時間の延長は再び休み時間へと戻る。
122
人間も蟻と同じ
快晴とは言い難いが、雲が少ない今日は三階からでも遠くの山が
見える。あと一時間もすれば、あの山も夕焼けの影で黒くなり背を
向けている山が茜色に染まる。紅葉に染められたような山よりも鮮
やかに、けれど、寂しそうに染まるのはこの時期の夕暮れのひと時
だけである。
夏が過ぎ秋が窓を叩いて訪れを知らせたけれど、それを感じさせ
ないほど気温が高かった。いつまで残暑は頑張っているんだと言い
たくなるほどに、駄々をこねる子供みたいに居座った。
それでも、夕暮れから朝にかけて一気に冷え込むようになった。
朝が肌寒くなったけれど、長袖を着るほど寒くはなかった。
﹁これって、あと二週間で完成すると思う?﹂
パソコンと片手に持った専門書を交互に見比べながら、空いた手
でレゴブロックで組み立てられたもの指差す。無造作にパソコンや
カーペットの上に置かれたそれらは、子供が作るようなお伽噺に出
てくる建造物でも乗り物でもなかった。大人が見ても何を作ってい
るのかは分からない。
作った本人たちにしか分からない。もしかしたら、彼らでさえ何
を作っているのか理解していないのかもしれない。
﹁さぁーね。誰も残ってないしね﹂
琳太郎は如月の問いに素っ気ない答える。
紙の束を一ページ見ては、すぐに捲る。そこに書かれているのは
英数字と記号、少しの日本語だけ。何かの規則よって並べられ組み
立てられた簡単な文章が数十列あった。行も段も纏まっていない。
参考書や専門書などの説明する日本語も存在しない。たまにその行
が何を示しているかを簡単に見分けれるように緑の文字で書かれた
日本語だけを理解することが出来る。一般の人は。
プログラム。
123
琳太郎の見ているディスプレイに表示されているもの。正確には
プログラム言語で組み立てられたもの。
﹁多分、無理よね﹂
心配はしているけれど、焦る気持ちはない。多分と言いながらほ
とんど無理だと思っている。
授業中に与えられた時間では絶対に終わらない。それ以外の時間
を使っても完成するかは分からない。少数人数で取り掛かれば終わ
らないこともない。
﹁まぁ、俺らは終わったけどね﹂
胸を張って自慢してくる。
﹁お前、何もやってないだろ﹂
消しカスを丸めて飛ばす。
慣れない文を専門書を見比べながら片手でキーボード入力してい
るせいか、頻繁に打ち間違えてエラーを知らせる音がなる。
﹁やったよ。片付けとか整理とか﹂
﹁誰にでも出来ることだろ。むしろ、やらなくてもあまり困らない
けどな﹂
﹁英秀が困るだろ﹂
﹁英秀が困っても、俺は困らないぞ﹂
﹁そうでもないくせ。みんなで組み立てたんだから﹂
﹁みんなっていうか、三人だけどな。それにあれの完成形は俺の頭
にしかなかったぞ。俺が分かれば、一人でも完成するぞ﹂
﹁⋮⋮そうだけど﹂
広い間隔でキーボードを押す音が聞こえたと思ったら、向かい側
でエラーを示す音が部屋に鳴る。
﹁打ち間違えてるぞ﹂
慌てて文字を消したせいか、あーという声が漏れる。明らかに消
し過ぎたのが、連打音で分かった。
﹁如月の頭にあったのは認めるけどさ、何もやってない訳でもない
ぞ﹂
124
﹁整理と片付けならもう聞いたぞ﹂
﹁知ってる。それとは、別の﹂
向かいのパソコンの横から顔を出すと胸を張って言う。
﹁レポート書いただろ﹂
班で作ったものに関するレポートを兼ねた説明書を製作したのは
確かに琳太郎と福井忠則の二人だ。
展示するの無くても口頭で説明できるが、一人ひとり説明できる
ほど人数がいるわけでもない。それは建前で本音は説明をするのが
面倒なだけ。
﹁書いたのは知ってる。暇だったからだろ?﹂
五人で組まれた彼らの班は、英秀と如月、亀沢泰の三人が出され
た課題のものを作り上げた。琳太郎と忠則は、遊んでいたという二
人が不真面目に聞こえるが仕方ない。何もやっていなかった事は変
えられない事実なのだから。
付け入る隙がない二人を見かねた教師は全体が完成してから製作
するはずだったレポートを兼ねた説明書を書くように指示した。
﹁暇っていうな﹂
どうしても暇だった認めたくないらしい。
﹁暇じゃなかったのは分かったけど、説明文も半分くらいは泰が考
えていたじゃん?﹂
﹁まあそうだけど、半分は自分で書いたしレイアウトも考えた﹂
二人がいなくてもレポートを兼ねた説明書も三人で終わらせるこ
とは出来た。むしろ、三人でやってもすぐに今よりも時間が掛かる
ことはなかった。なぜなら、何を目的として、どのような用途のも
のを作ろうとしたのか分かっているから。誰かに聞かなくても、答
えを探さなくても頭の中で組み立てることが出来た。
﹁作業が減ったんだし良いじゃん﹂
作業は減ったのは確かである。そこは素直に感謝する。面倒なこ
とをやらなくて済んだから。
﹁そうね、枯れ木も山の賑わいってやつだな﹂
125
使い方が少しおかしいが、彼らは慣用句の意味など気にしていな
い。正しい意味を知らないということもあるが。
﹁それで暇になったけどね﹂
﹁これから暇だな﹂
他の班よりも早く終わってしまったせいで、授業中は何をすれば
いいか困ってしまう。適当に遊んで時間を潰すことになるだろうけ
ど。
何台かのパソコンのファンの音が静かな部屋で普段よりも大きく
聞こえる。
ブラインドの隙間から漏れる夕焼けの茜色が天井に幾何学的な模
様を作る。
キーボードを叩く指が疲れると伸ばしたり強く握りしめたりする。
その度にポキポキと骨の音が鳴る。ページをゆっくり捲っているか
と思うと、何十ページも前に戻るために激しく捲る。
命令式を書き加えてデバックする。
エラー音と共にデバックの実行は強制的に終了して、下の方に異
常な命令式や関数があることを知らせる。テキストを見比べながら
どこが違うのか見つけていく。単純な入力ミスなら簡単に見つけら
れるが、行の全体が可笑しいと解決策を見つけるのに手間取る。O
と0の違いが一番分かりにくい。テキストはゼロのつもりで、そう
見えることが少ない。どちらも試して、正解を見つける。
地味な作業を繰り返す。
時間が経つに連れてキーボードを叩く音は大きくなり、異常を知
らせるエラー音は鳴る数を増していく。
﹁あぁああああああ、分かんねぇ﹂
集中力が完全に切れた琳太郎は廊下にも聞こえそうな声を上げる。
片手に持った参考資料のプリンタの束を机に放り投げる。ホッチキ
スの針で止められた部分から数枚が千切れる音がした。
椅子に座ったままゆっくりと回る。伸ばした足が椅子や机に当た
りそうになる。
126
﹁どうした? 行き詰った?﹂
﹁行き詰った。実行出来ないって意味が分からない﹂
先に進まない作業に飽きている。
﹁何が違うのか分からない。エラーしか出ない﹂
﹁さっきからエラー音しか出てないもんな。スペルとか間違ってな
い? Oと0ならよく間違えて入力することあるよ﹂
﹁両方試してみたけど、無理だった。スペル間違えはないと思うけ
ど﹂
わかんないと匙を投げる。
スペル間違えがない事は、エラーの箇所を見れば分かる。違って
いれば、”正しくない関数が存在します“と表示されるか、別のプ
ログラムを実行したりする。参考資料をそのまま入力したなら命令
文が間違っているということはない信じたい。それを製作した人が
間違った知識で読み取れない命令文をかいていない限り。
専門書の間にペンを挟んで机に置き、如月は琳太郎の座っている
向かい側に回る。近くの椅子に適当に座りディスプレイを覗き込む。
察した琳太郎は、椅子ごと場所を譲って後ろから眺める。
千切れた紙が散らばらないように一枚ずつ手に取り、間違えがな
いか確認する。気を抜くと自分がどこを追っていたか、分からなく
なる。
﹁スペルは間違ってないな﹂
紙の束の上下左右を綺麗に整える。
﹁そのままパクったから間違えは多分ないよ﹂
背もたれを抱えるように腕を回して顎を突き、ただ眺める。
もう一度デバックを開始してどこが読み取れないのか確認する。
途中までは上手くいくけれど、エラーが出ると強制的に保存して
終了する。
﹁どこかが可笑しいのは分かるけど﹂
途中で終了するからバグがあるのは分かる。
﹁でも、それがどこだか分かんないんだよな﹂
127
代弁するように琳太郎が暢気に言う。
如月の横に置いた参考資料の束を取って、一枚ずつページを捲る。
二人がどれだけ眺めていても分からないものは分からない。ディ
スプレイ表示された文字列も、参考資料の解説も、完璧に解説する
ことは出来ない。参考資料を読むためのテキストを見なければ、何
が書かれているか少ししか分からない。見たところで分かるわけで
もないけれど、何も無いよりはマシである。
マウスを適当に操作して、ポインタを無意味に動かす。
いくつかの単語を別のものに変換してみるけど、思い通りのプロ
グラムが実行されることはない。
設定が変更されていないか、オプションを開いて確認する。
﹁何も変わってはない﹂
初期設定のままで特に変更されていない。
ファイルを保存してウィンドを閉じる。そして、もう一度プログ
ラム製作ソフトを立ち上げる。何も書かれていない真っ白なウィン
ドに簡単なプログラムを書いて実行する。背景が黒一色の別の小さ
なウィンドが表示されて、不可解な規則によって並んだ文字列が数
行だけスクロールすると止まり、中央部分に白色で”hello“
と表示される。
﹁普通に出来んだな﹂
まだかなーと待ち草臥れた琳太郎が気の抜けた声で言う。
﹁やっぱり、これが間違ってるとか﹂
参考資料の束を指差して如月が言う。
﹁それだったら、あいつが悪いけどね﹂
保存したファイルをもう一度立ち上げる。
今度は一行ずつ消しては、また書き足す。
その地道な作業を時間掛けてやっていく。
﹁あれ?﹂
半分くらいに差し掛かった時に、何かに気付いたのか如月が気抜
けな声を上げる。
128
﹁ここか﹂
文字列の書かれた後ろにカーソルを動かす。
普通なら何も書かれていないから最後の文字の後は次の行に移動
するけれど、この行は移動しない。何も書かれていないエリアでカ
ーソルが点滅を繰り返す。
﹁スペースキー押したままになってる。ここ消さないと誤作動起こ
すことあるよ﹂
バックスペースキーで無意味な空白を消す。
念のために他の行も確認する。意外に空白が多かった。
﹁多分これでなるよ﹂
横に移動して場所を譲る。
﹁ホントだ。ありがとう﹂
小さなウィンドには、正方形の四十九の画像が縦に七つと横に七
つに配置されている。小さな画像が大きな正方形を作り意味のある
絵を表示している。
﹁空白には気を付けたほうが良いよ﹂
﹁そうね﹂
紙の束を渡して、自分の使っていたパソコンの前に戻る。
﹁誰も来ないな﹂
﹁明日は来ると思うよ﹂
﹁流石にね﹂
校内は慌ただしく、いつにも増して忙しいという雰囲気が漂って
いた。
夏休みが終わり九月も過ぎ去り、秋が冬の手を引いて訪れる。長
期休みで足浮立っていた生徒達が気温の下がりに伴って地に足を着
いた。けれど、十月が始まり早くも半分が過去となる頃には、また、
足浮立っていた。
イベントの少ない一学期とは違い、二学期はいろんな行事が行わ
129
れる。やりたくない行事も人によってはあるけれど、大抵の生徒が
文句を吐きながら楽しんでいる。浮足立つのも仕方ない。
時にも息抜きが必要だと思う。
このクラスの場合はいつでも息抜きをしているようなものだけれ
ど。じゃれ合いの息抜きが勉強みたいになっている。
﹁そっち出来たー?﹂
喜一はクラスメイトたちの飛び交う声に掻き消されないように一
際大きな声で尋ねる。
﹁もう一回言って﹂
弥市は聞き取れなかった。
何か言っているのは分かったけど、言葉が途中で揉み消されたせ
いで何も届かなかった。
﹁出来たー?﹂
さっきよりも大きい声は確かに聞こえた。
﹁まだ出来てない﹂
申し訳なさそうな声は周りの音に乗せられて別の場所に運ばれて、
喜一の元には届かなかった。それでも、雰囲気とジェスチャーで伝
えたいことを読み取った。
分かったー、と一応声に出すけどきっと届いてないと思う。
弥市は喜一の表情から意味を読み取り、自分の作業に戻る。
クラス全体で作る工場の最初を任された弥市の班は、ベルトコン
ベヤを製作することになっている。なっていると思いたいが、実際
はそれ以外に作れそうなものが浮かばない。本当はもう少し複雑な
ものを作りたいと弥市は思っていたが、ベルトコンベヤが限界とい
うことを分かっている。
時間的問題でもないことも知っている。いくら時間が与えられて
も、作れるものは何も変わらない。
﹁人選が可笑しいだろ﹂
誰にも聞こえないように小さな声で呟く。
そんなときに限って無駄に聞こえている奴がいる。
130
﹁は? 何て?﹂
一メートルは離れている志田が呟いた言葉に反応した。
﹁今、何か言った?﹂
﹁何も言ってない﹂
聞かれたくないから小さくつぶやいたのに、そのまま言ったらま
た意味の解らないいじりが始まる。時間がないのだから、邪魔に入
られるのは困る。
﹁何か言っただろ? 正直に言えよ。ホントは俺の力が必要なんだ
ろ﹂
少年漫画で脇役の少年が言いそうなセリフを自慢げに恥ずかしが
ることもなく言う。
正直にキモイと言いたい。けど、言ったら面倒なじゃれ合いが始
まることが簡単に予想できる。
作れるものも限られていて、ただでさえ時間もないのに意味の読
めない絡みは避けたい。
﹁喜一と話していただけだよ﹂
﹁それだけか? あとから分かっても知らないぞ﹂
その答えで一応は納得してくれるらしい。それでも、まだ何か疑
っている。本当に無意味なところで地獄耳だ。
作業しろよ。今度は声に出さずに心の中で吐き捨てる。
限定されたものしか作れない原因が班を構成しているメンバーで
あることも理解している。
五、六人の班構成の振り分け方を知りたい。どんな人選の仕方を
取ったら極わずかな限定的なものしか作れない班が出来るのだろう
か。今後のためにも知って置きたい。
働かないメンバーを集めて何を作ればいいのか迷うことも出来な
い。
﹁これで成績低かったら、呪おう﹂
班の中で自分がまともに作業をしているから、きっと、ある程度
の成績は貰えると信じている。
131
キットに存在する小さな歯車と一番大きな歯車を組み合わせる。
前に何かの授業で歯車の減速比をやっていたけど、何の授業だっ
たかな。担任が黒板に下手な歯車を描いて得意げに話していた記憶
がある。まぁ、減速比の公式なんかは忘れてしまったから、思い出
しても意味はない。
小さい歯車に駆動装置となるサーボモーターから伸びた棒を差し
込み、ベルトコンベヤの骨組みとなる部分に取り付けた大きな歯車
にかみ合うように設置する。
作っているもののノウハウがほとんどないが致命的で、どうやれ
ばいいのか分からない。
制御ディバイスをパソコンに繋ぎ立ち上がっているソフトで、最
初に習った単純なプログラムを組む。
プログラミング言語を使用しないこのソフトは、命令文や関数な
どをアイコンとして使うため、各アイコンがどんな動きをもたらす
か分かっていれば、言語を知らなくてもプログラムを組むことが出
来る。あと、数値を入力するだけで簡単な動きは再現できる。
パレットから必要な動きを指定するアイコンをドラッグして数値
だけ入力する。制御ディバイスへデータを送信する。送信完了と表
示されるとUSBケーブルを外し、サーボモーターから伸びたコネ
クタを接続する。制御ディバイスに存在するプログラムファイルの
中から使用したファイルを選び、スタートボタンを押す。
サーボモーターが周り始め取り付けた小さな歯車が回転する。回
転方向を気にていなかったせいか、逆回転している。
﹁間違えたけどいいか。テストだし﹂
自分に言い聞かせるように呟く。
小さな歯車は組み合わせた大きな歯車に力を伝達する。ゆっくり
と回り始めた歯車は回転こそ逆だけど、順調に回っている。
息を吐いて少し安堵する。
まだまだ初期段階だが、これが出来なかったらこの先ずっと進歩
するっことなく時間だけが過ぎていく自信があった。
132
終わるための条件を書き込んでいないため、歯車は制御ディバイ
スの電池残量がゼロになるまで回り続ける。
﹁次何作るんだっけ?﹂
この先に作らなければいけないものが分からない。
パソコンの前に置いた緑色のファイルを手探りで取り、簡単な設
計図が描かれているはずのページを開く。A4の印刷用紙には何度
か消した後は残っているけど、設計図らしいものは描かれていない。
ページを間違えたと思い用紙を捲るけど、設計図らしいものは見当
たらない。簡単なラフスケッチすらもなかった。その代わりに、班
員が描いた落書きならたくさん見つかった。
何を作るか考えている時に描いたことは覚えている。
それが無いと、どんな形になるのか分からない。
キーボードの下や椅子の下に挟まっていないか持ち上げて確認す
る。ディスプレイの後ろの隙間に落ちていないか、身を乗り上げて
机と机の間を覗き込む。薄暗くて光が届いておらず、ケーブル以外
に確認することが出来ない。手を伸ばしてケーブルの下を見てみよ
うか迷ったけれど、止めておいた。賢明な判断を弥市はした。掃除
が行き届いていない隙間に無闇に手を入れるものではない。
﹁無いな﹂
無くても何とかなるけれど、手元にあった方が作業が捗る。一か
ら考えるのが難しい。
時間はないけど、見つけないと後でいろいろと困りそうだから探
す。
他の班に紛れていないか、見て回る。回るついでに、他の班がど
んなものを作っているか見物する。
何かのヒントを得られたらいいと思う気持ちもあった。
一人で黙々と作業しているとどうしても行き詰ったり思い通りに
上手くいかなかったりと、壁に当たることが多い。スタートした時
からずっと当たりっ放しで前に少しも進んでいない。
参考書に載っている写真を見よう見真似で苦戦しながら組み立て
133
て、授業で習ったことの応用をいくつか組み合わせているもの。形
はさまざまで動きもバラバラ。こんなもので一つの作品を作ること
が出来るのか、不安になって来る。
苦労しながらも話し合い楽しく作っている印象は持っている。
簡単な設計図の書かれた用紙を見つけていたはずなのに、探すこ
とを忘れて展覧会にでも来ているような気分で見て回っていた。
最後の班は何をやっているのかわからないけど、インターネット
を開いていたり、教材で遊んでいたりして暇を潰している。
この班は見ても参考にならない。
遊んでいるから参考にならないのではなくて、課題をあまりにも
簡略化しすぎる程に理解していると言う意味で参考にならない。全
ての班の課題を理解して、自分たちがどんなものを作れば楽できる
か知っている。他の班の課題に被るところは、アドバイスと言って
押し付けている。
だから、完成したものを見ても参考に出来ない。
見て回っても用紙は発見できなかった。
各班の課題内容な知っているけど、実際に作ろうとしているもの
は知らなかった。
﹁ねぇ、ここにあったプリント知ってる?﹂
何もやらずに、カーペットの上に胡坐をかいて駄弁っている紀杜
に訊いてみる。
﹁いや、知らないけど? 教室に置いてきてない?﹂
﹁それはないと思う。さっきまであったから﹂
﹁だったら、その辺に転がってるよ﹂
﹁見つけたら教えて﹂
一通り見て回ったから、落ちていることはないと思う。
班員に呼ばれた紀杜は、教師に呼ばれたかのように素早く立ち上
がり軽い足取りで、下を見ながら駆けていく。
近くに座っていたから見かけてないかと思ったけど、知らなかっ
た。
134
他に知っていると言えば、班のメンバーだけだ。同じ班だから、
もしかしたら持っているかもしれない。
﹁でも、話しかけたくないな﹂
心の声が出てしまった。
時間が無いからこちらから話しかけることはあまり気が進まない。
無駄な絡みが始まったら、大切な時間を無駄にしてしまう。普段な
ら、一緒に乗ってじゃれ合いふざけ合うのも良いが、今週だけは遠
慮したい。
それでも、当てがないために話しかけるしかない。
﹁志田、ここにあったプリント知らない?﹂
﹁プリント? 知らないけど、どうかした?﹂
﹁無いからどこかに紛れてないかなと思って﹂
﹁見てないけど。それって必要?﹂
﹁あった方がいい﹂
﹁無くても出来るんなら、見つけなくて良いじゃん﹂
﹁無くても出来るけど、手元にあった方がいろいろと便利﹂
簡単に言ってくれるけど、あれを描いたのは弥市だ。志田は何も
やっていない。他の班員だって何も手伝ってくれずに、鳥澤にアド
バイスを貰って描いた。自分で描いたものだから、簡単に無くなっ
てしまっては悲しくなる。
それに、いろいろ書き込んでいるからレポートを兼ねた説明書を
書くときに楽することが出来る。
早く作業しろよと言いたげな目を向けてくる。
ため息を飲み込み、死ねと睨む。
﹁作業終わった? 早くして﹂
暢気な声が聞こえてくる。
﹁はあ?﹂
近くに居たら殴っていたかもしれない。
肘を突いて手の平に頭を乗せ横になって寛いでいる日向がいた。
体で陰を作って弄っているスマートフォンを後ろ見られないように
135
隠している。蹴り飛ばしてやろうかなと思った。
﹁早くやってよ﹂
手伝う気は無いのか、間抜けな欠伸をしている。
﹁だったら手伝えよ﹂
﹁何したらいい?﹂
﹁とりあえず、土台作って﹂
﹁分かった。あとでやる﹂
右から左に流しているのが分かる。
人を挑発しているのか、素なのかは分からないけど、スマートフ
ォンごと手を踏み潰したくなる。
﹁それで終わった。残りたくなよ﹂
﹁ふざけんな。スマホ弄ってないで、何かやれよ﹂
﹁だから、あとでやるって﹂
何を言っても無駄だ。
三日前になっても終わっていない未来が予知能力を持っていて見
える。
どうせ、やらないだろ。そんな言葉さえ呆れて声に出ない。この
時は心の底から死んでくれと願った。
プリントを探す気にもなれず、椅子に腰を下ろして考える。
簡単な歯車の組み合わせは出来たから、あとはどのくらいの長さ
を作ったらいいのだろう。長すぎても意味はないし、短すぎると面
白くもない。適切な長さが分からない。作りながら考えれば、丁度
いい長さが分かるかも知れない。
考えて答えは出ないから、作ってみる。
何故、自分だけが作業しているんだろう。
手を手を動かしながら、その事が頭の中を巡る。
横でダラダラ寝そべって、どうでもいい話に盛り上がっている班
員が視界に入る度に、笑い声を聞く度に、全てを投げ出したくなる。
ほとんど惰性で作業を続けているようなものだった。
136
十月の終わりの週は太陽が山の向こう側に隠れた頃には長袖のシ
ャツを着なければ風邪を引いてしまいそうなほど、寒かった。
七時を過ぎると、辺り一面が闇に包まれた。
街灯が少なく車のライトだけが進む道を照らしていた。校舎から
見た風景はどこも黒色に染められ、明かりの集合する場所と先の見
えない闇の部分を明確に分けていた。左と右では、見える風景が違
った。まるで、暖かな幸せと冷え切った希望との境目みたいだった。
横に伸びる山も静かに座り、それが怖く感じる。一部だけライトア
ップされた巨大な細長い岩はに不気味にしか見えない。
彼らは狭い電気と電子関係の実習を行う実習棟に集まっていた。
階段を登った先にあるエントランスで、苛立ちを募らせ愚痴を飲み
込んで終わるのをただ待っていた。
亮は休憩のために設けられている椅子に座り机に肘を突いて重い
瞼が落ちないように耐えている。椅子は十本の指で数えるほどしか
なく、その内の三つは教師が占領していた。残りは、座りたい生徒
が勝手に座った。あとは壁に凭れるか地面に座っていた。
細めた目の視界は普段の半分しか見えておらず、所どころぼやけ
ていた。
﹁眠いなー﹂
近くの誰かには聞こえるくらいの小さな声で呟いた。
さっきまでは早く帰りたいと思っていたけど、最初の欠伸が出た
頃から睡魔が雪崩のように襲ってきた。
気を少しでも抜いたら夢へ旅立つ。見ているだけで何もしていな
いと、いつ旅立っても可笑しくはない。別の事を考えて現実に繋ぎ
とめる。時々、思考が停止してどこか遠くに一瞬だけ飛んで行こう
と羽を広げる。その度に、顔を左右に振って頬を軽くビンタする。
それぞれが作ったものを組み合わせて一つのものにしようと、目
線の先で数人の生徒が動いている。それを囲むように集まっている。
たまに通る他のクラスの生徒が邪魔だよと視線で見渡して行く。
137
邪魔だという事は分かっている。けれど、これは仕方ない。設置
する場所がここしかないのだから。文句は先生にでも言ってほしい。
出来ることなら、コンピューター室から動かしたくはなかった。
こんな陰湿な所に誰か見に来るのだろうかと場所を教えられたと
きはクラス中が思っっていた。
静かな空間でそれが動く音は大きく煩わしい。
サーボモーターが回転し擦れてテレビのノイズみたいな音。歯車
が上手くかみ合わず外れ時の音。骨組み同士が接触して動作範囲を
超えて動こうとする今にでも折れて壊れそうな音。
何度も聞いて苦労を積み重ねた音は、残りの余生で望んで聞くこ
とはない。
向かいに座る鳥澤は寝ているようで、眼鏡を外している。寝ない
努力すら放棄している。ここまで堂々と寝ていると、ある意味清々
しい。
﹁この暗さが余計ね﹂
隣に座っていた如月も気怠そうに腕を組んで猫背になって見てい
た。
エントランスを照らす蛍光灯の光は弱く隅まで届かない。廊下の
二つと中央を照らす四つの十二本しか点いていなかった。亮たちの
座る休憩のための四つの机までほとんど光が届かずに薄暗かった。
﹁何か暇だよな?﹂
﹁見てるだけってのは退屈だもんな﹂
﹁帰っていいかな? 時間の無駄にしか思えない﹂
﹁みんな居ても意味はないな﹂
ほとんどの生徒がエントランスに集合していて、退屈そうにして
いた。時計の針が時を刻む。今日という日が少しずつ終わっていく。
二十人以上が集まっていても作業しているのは五人だけで、それ
以外は疲れと退屈さのせいで睡魔と戦っていた。帰っても良かった
が、雰囲気的に帰ることが出来ない生徒がほとんどだった。クラス
メイトの目よりも教師の事を気にして残っている。あとから担任に
138
グチグチ言われるのも嫌で残っている。
早く帰って海外ドラマを見たいと柊は愚痴っていた。
トイレくらいなら自由に行けるけど、息抜きにと外には行き難い。
﹁そう言えば、弥市居ないな﹂
半分しか見えていない眠たげな眼で部屋を見渡す。弥市の大柄な
姿は見当たらない。狭い空間にクラスメイトが集まっていても、特
徴のある癖毛の髪と大きい体を見つけられないはずがない。
﹁あいつなら帰ったよ﹂
﹁何で? サボり?﹂
﹁サボり。面倒になったって﹂
﹁ついにぐれたな﹂
﹁前から少しぐれてたけどな﹂
本当は家庭の事情というやつで先に帰宅した。遅くまで居残りを
するときに限って、家庭の事情が入って帰る。一度くらいならみん
な信じるが、何度も重なるとサボってるという噂だけが一人歩きし
ている。冗談だという事は分かっている。
同じ作業を繰り返しているようにしか見えないクラスメイトの動
きは慌てていて空回りしてる様子だった。
どうしたら不具合が直るのか分からなようだ。
﹁でも、分かるな。弥市が嫌になるのも﹂
ノートパソコンのディスプレイの光が如月の顔を照らす。薄暗い
中で見ていて、眩しくないのか疑問に感じる。
﹁まぁね。一人で作ってたらどうでもよくなるよな﹂
﹁あいつ、文句は言うけど、無駄なところだけ責任感が強いもんな﹂
﹁似合わねーよな﹂
﹁まぁ、弥市が居てもあまり意味はなかったけどね。というか、こ
こにいるほとんどが意味ないと思うけどね﹂
﹁役に立たないしね﹂
﹁だね﹂
キーボードを叩く指が忙しく動く。こちらも上手く行ってい無い
139
ようで画面中央に長方形の小さなウィンドが表示されたり、バック
スペースを何度も連打したりしている。時折、専門書を開いてはペ
ージを捲っている。
中央で作業しているクラスメイトには見向きもしない。
﹁如月は手伝わないのか?﹂
手を止めてノートパソコンの陰でスマートフォンを操作する如月
に尋ねてみる。
﹁何で?﹂
質問に驚いて訊き返された。質問された事よりも質問の意味に驚
いているようで、ワザとはないらしい。
﹁如月の班が作ったものも少しくらいは、調整が必要だろ﹂
﹁リンとか英秀がやってくれるから問題ないよ﹂
誰でも簡単に調整できるように作ったんだから、同じ班ではない
クラスメイトが調整することも出来る。わざわざ、作った本人たち
でないと調整出来ないシステムにすると展示中に問題が起きた時に、
一回一回呼びに来られても困る。メンバーを見つけるのも大変だ。
﹁お前が手伝ったらもっと早く帰れると思うけど﹂
﹁そうかもしれないけど、早く終わってもこっちやらないといけな
いから﹂
専門書のタイトルを指差す。
﹁確かに﹂
﹁手伝ってもいいけど、それじゃ何のために簡略化して授業中に早
く終わらせたか、分からなくなるだろ﹂
あとから調整に苦労するなら最初から簡単な作りにしてしまえば
いい。評価のために複雑にするから大変な作業が増えてしまうのだ
それに、と続ける。
﹁どうせみんな作業まともにやってないんだからいいじゃん﹂
少し距離があるからクラスメイトには聞こえていないけど、もし
聞かれていたら反感を買っただろう。
﹁それは言うなよ﹂
140
﹁亮こそ手伝ってやれよ。苦労してるぞ﹂
ノートパソコン越しに照明の照らす中央を見ている。
﹁別に何もしなくて誰かがやってくれるよ、喜一とかが﹂
﹁人任せだな﹂
何だかんだ言って二人とも手伝う気はない。
慣れないクラスメイトの作業を見て笑っている。
起動しているプログラム製作ソフトに書かれたプログラムを下か
ら上へとスクロールさせる。右往左往を繰り返す二つの目が瞬きを
忘れている。三分の二を過ぎた所で一度スクロールを止めて、目頭
を親指と人差し指で押す。十数回ほど連続で瞬きをして、目を擦る。
照明が届かない環境でのパソコンの光は目を痛くなるらしい。椅子
の横に置いた鞄から目薬を取り出し、瞼を無理やり開いて右と左に
二滴ずつ落とす。強く目を瞑り、もう一度目頭を押す。少しだけ潤
うとノートパソコンに向き合い、スクロールを再開する。
薄暗い中でよく目薬が差せるな、と亮は横目で見ながら思う。
人の通りが途絶えて外からの声を少しずつ聞こえなくなってくれ
ると、このクラスだけ無人の孤島に残されたみたいな感覚になる。
実習棟の間を吹き抜ける風が砂浜に打ち寄せるさざ波のように聞こ
える。
﹁何か出そうね﹂
目を擦り眼鏡を掛ける鳥澤がそう呟く。
結構、長い時間ねていたような気がする。五時過ぎにここに来た
から二時間以上寝ていたことになる。机で寝ていて体が痛くないの
だろうか。腰の辺りが痛くなったりしそうだけど。
﹁おはよう﹂
定番の挨拶で返す。
﹁ここも学校だし、何か出ても可笑しくはないね﹂
笑みを浮かべ、何かを期待している目を如月は見せる。
学校の七不思議はオカルト的な話ではもっとも定番で誰でも聞い
たことがある。ホラー映画も廃屋か学校か病院が舞台となることが
141
多い。
年頃の高校生でも少しくらいは何か出ることは期待している。普
通は何も起きない事を願うが、怖いと思っていてもそれに遭遇した
ことが無いため、逆に期待してしまう。好奇心というやつかもしれ
ない。
こういう好奇心が女子から子供っぽいと言われる原因なのかもし
れない。
﹁例えば?﹂
﹁元総理大臣の銅像が夜の校舎を回ってるとか。夜間俳諧老人? 徘徊銅像? そろそろ捜索願?﹂
怖い七不思議というより馬鹿にしている話にしか聞こえない。
図書室前に設置されている銅像のことを言っているのだろう。こ
の学校が統合し名前が変わる前に卒業し総理大臣となった人物を讃
えて作られたらしい。銅像は上半身のみで大理石の土台に乗ってい
る。以前、亮はその銅像を叩いて鼻に指を突っ込んでいた。敬意を
持つわけもなく馬鹿にして遊んでいた。叩いた時の音があまりにも
軽かったために中が空洞である誰にでも分かった。銅像と土台のお
金の掛け方が可笑しいとその時は思った。
﹁それ、怖い話じゃないだろ。馬鹿にしてるし﹂
﹁徘徊っていうよりテケテケに近いよ。もうテケテケでいいよ﹂
﹁でも面白いだろ?﹂
﹁他には?﹂
睡魔から解放されて覚醒した鳥澤が促す。
そうね、と面白い話を探すように如月はエントランスを見渡す。
慌ただしさと活気のある準備とはほど遠い。夜と朝は長袖のシャツ
が必要になり衣替えを感じさせているほど肌寒くなってきたけれど、
エントランスだけは先に冬を招き入れたように冷え切っていた。梅
雨の時期よりもどんより陰鬱な雰囲気が漂う。この空間に活気があ
ると思える人間はいないはずだ。
廊下側の窓ガラスの外は真っ暗で車のライトだけが通り過ぎてい
142
くのが分かる。外側が黒く内側が明るいせいか、鏡ように室内の生
徒たちを移している。マジックミラーと同じ原理で映る姿は色が少
なく黒の比率が多い。雰囲気をそのまま映し出している。
クラスメイトたちの顔を一遍するけど、何もヒントになるものが
見つからない。
早く、と小声で亮が急かす。スマートフォンを机の下で操作して
いるけど、画面の光で顔が照らされていることに気付いていない。
鳥澤は教えることなく、声が出ないように抑えて笑う。
机を突く指が止まり、閃いたようで微かに笑みを浮かべる。
﹁何かあった?﹂
﹁うん﹂
﹁話して﹂
ワザとらしく咳払いをする。亮が鼻で笑った。
﹁えっと、あれは七月くらいだったかな? 七月の初めごろ? い
や、七月の終わりだったと思う。夏休みに入る前だったと思う。学
校が終わって、いつものようにグダグダな部活やってたんだ。その
日は珍しく遅くまで残ってたんだよ﹂
それはいつもの事だろ、と亮がツッコミを入れる。まあね、と認
める。何かのホラー小説の語り口調を真似したのだろう。変な話し
方を今、弄ろうか、それとも、日を置いて弥市と雄一も混ぜようか。
他の話は、と急かしとして鳥澤はそんなことを考えていた。聞き流
す程度に耳を傾ける。
その日は珍しく朝から雨が降っていた。
梅雨が明けて二週間、カーテンを開けて差し込む陽射しが体を照
らした時のように気温も日に日に高くなっていった。肌寒かった朝
も、暑さで寝苦しくて日の出と同じ時間に起きるようになり、睡眠
時間がごっそりと削られる。
梅雨と初夏の香りを乗せた風は、湿度だけを置き忘れて世界へ旅
立った。
もうすぐ夏休みが始まるということで何故か学校全体に活気があ
143
った。水を得た魚のように生徒たちは生き生きとしていた。
朝から降り続く雨と夕方を気にしない気温のせいでジメジメとし
ていた。
全ての授業が終わり終礼を終えて、それぞれの部活に向かったり
車で帰るために親に電話を掛けてたりしていた。
当然のように如月も自分の所属する部活へ向かった。更衣室に入
り、先に来ていた部活のメンバーと扇風機を点けて鞄を枕にコンク
リートの床に寝転んだ。寝るわけでもなく、ただ、仰向けになって
スマホを弄ってどうでもいい話をする。
湿気が肌に触れて、不快な気持ちになる。
1時間ちょっと何もせずに時間だけが過ぎていった。グダグダと
過ごし、雨が屋根に打ち付ける音が同じリズムを刻む。
駐輪場を行き交う生徒たちの声が途切れた頃、重い腰を上げ着替
えて部活を始めた。下級生も経った今来たようで、部活を行う準備
も何もされていなかった。
各々が与えられたことを始める。
如月は同級生たちと、部活が始まっても話しながら進める。
教室の半分もない部屋で床や椅子、机に座って手よりも口が多く
動く。愚痴や笑い声が雨音に負けじと響く。
そろそろ真面目に部活やろうか、と言い始めた時だった。狭い部
屋の一角に積まれた机が突然崩れた。派手に大きな音を立てて、三
つの机が床に転がった。衝撃で床が少し凹んだ。
その時は、積み方が悪かったとありきたりな理由で気にはしなか
った。普段と変わらずのんびりと行動する。
それ以降も、不思議な物音がなったり物が落ちたりした。
けれど、適当に片付けていたし物も古かったから次は崩れないよ
うに部活を中断して、倉庫や身の回りの整理を行った。そんな無駄
な事をやっていたせいで本格的に部活を行う時間が遅くなってしま
った。特に早く帰る理由もなかった彼らは、珍しく遅くまで残るこ
とを決めた。
144
﹁それでさ俺、CAD室に忘れ物していたことに気が付いて、取り
に行った訳よ﹂
あそこって意外に不気味なんだよ、と付け加える。
聞いていた二人は、廊下の方へ目を向ける。
CAD室はこの実習棟の二階にある。製図室の隣にあって、エア
コン完備で設定を自由に変更できることから生徒たちは手書きの製
図をCAD室で密かにやっている。夏や冬に製図室での手書きは集
中力が十分と持たない。冬は手が悴み、夏は暑さに溶けそうになる。
﹁九時過ぎるとさ、あいつらの声しか聞こえなくて、聴いてると面
白くて一人で笑ってしまうんだよな﹂
うんうん、と亮が首を縦に振って賛成する。
﹁部活にすんなり戻るのも嫌だったから、時間潰しつもりでゆっく
り歩いていたんだよね。窓の外とか見ながら十分くらい掛かったか
な﹂
﹁それは遅すぎるぞ﹂
﹁歩く時間より止まってる時間の方が多いだろ﹂
それぞれにツッコミを入れられる。それを受け流して、話を続け
る。
﹁CAD室の内窓から光が漏れていたから、月明りか実習棟の光か
とその時は思ったけど、今考えると、その雨降ってたしCAD室と
コンピューター室はいつもブラインドで光がはいらないようにして
るから、どちらも有りえないよな﹂
﹁廊下の電気くらい点けろよ﹂
﹁面倒だったし、普通に歩けるから問題ないかなって﹂
﹁それでも明かり点けないと、たまに警備員さんに鍵閉められるぞ。
あれは意外にショックだぞ﹂
鳥澤は過去の経験を思い出して苦笑する。
﹁経験済みかよ﹂
﹁どうやって出た?﹂
﹁普通に鍵開けて、また閉めた﹂
145
﹁警報と鳴らなかった?﹂
﹁いや、鳴ってないと思うよ。誰も来なかったし。それより、話進
めて﹂
脱線しかけた話を戻す。
﹁そうね。えっと、それで、あまり気にしなかったんだ。どうせ、
何も起きないと思っていたし。だから、鍵を開けて中に何気なく入
っけど、校舎側の一番奥のパソコンが点いていたんだよ。誰かの付
け忘れかと思って少し近づいたら、人影が見えたんだ﹂
亮の口角少しだけ上がる。
﹁さすがに立ち止まって、ヤバいかもって思ったんだ﹂
夜の鍵が掛かったCAD室に一瞬でも人に見えたら、何もないと
分かっていても立ち止まってしまう。
﹁目を凝らして見たら、髪が肩よりも少し長い女子が居たんだ。い
や、そう見えただけかもしれないけど。でも、その女子の姿がね﹂
一度言葉を切って、息を吸い込み吐き出す。
頭の中で何をいうか、確かめる。
﹁裸だった?﹂
如月が口を開こうとする前に鳥澤がそう言った。ここぞと言うよ
うな表情を見せる。
裸という単語を聞いたとき、笑いを堪えていた亮は吹き出し、続
きを言おうとしていた如月は咳き込む。
﹁はははっ、ちょっと待って﹂
﹁何で裸なんだよ?﹂
﹁そういう展開でしょ﹂
﹁いやいや、違うでしょ﹂
﹁夜の学校で裸の女子が居たら、ただの変態だよ﹂
﹁ていうか、CAD室の女子が居るかよ﹂
今の工業科に女子は一人もいない。オネェっぽい奴なら数人は居
るけど。商業科の女子が誰もいない夜の実習棟に来るはずがない。
商業棟の一番離れた建物なんだから。
146
﹁居るかもしれない。いや、居てくれた方が嬉しい﹂
﹁引くよ﹂
﹁亮はそのまま食べるだろ﹂
﹁食べねぇよ﹂
オチが完全に裸の少女が居たという方向になっている。
﹁もちろん、猫耳着けているよね?﹂
学校の怪談が、鳥澤の欲望になっている。
机を叩き声を出して笑う。
どんよりとしたエントランスの中で、この三人だけ台風の目のよ
うに晴れている。明かりが少ししか届いていないけど、スポットラ
イトで照らされているみたいだ。
声を上げたせいか、みんなの視線が集まる。
近くに居て聞こえていたのか、琳太郎も口を押えて笑っている。
刺さる視線で声が大きかったことを感じ腕で声が漏れないように
する。
﹁お前ら楽しそうだな。みんなが作業してるのに﹂
大量の水を被せるような声で吉井が水を刺す。
﹁暢気に笑い話か? 何かおもしろう事であったのか?﹂
﹁いえ、特に﹂
﹁何もないわけないだろ。何かあったから笑ったんだろ? みんな
帰らずに残って完成を静かに待ってるのに、お前らは何もせずに喋
って笑うんだ﹂
帰らずに残っているわけではない。帰れないからここにいるのだ。
誰も好きでこんな所に遅くまで残っているわけじゃない。誰だって
終礼が終わったらすぐに帰るか、部活か、遊びに行く。帰っても咎
められないなら、残らない。
確かに残れとは言われていない。帰りたい奴は帰っていいと吉井
は言った。でも、素直に受け入れて、﹁はい、そうですか。帰りま
す﹂と言った生徒はいなかった。クラス全員が、課題を終わらせな
ければいけないという責任感を持って自ら意志で残ったものはほと
147
んどいない。面白い暇潰しのつもりか嫌々ながら残った生徒のどち
らかでしかない。どちらかというと後者のほうが多い。
残る雰囲気が生徒たちの間にあったわけでもない。
最初の一時間くらいは、教師が来る前に帰ろうという打ち合わせ
をみんなしていた。けど、思いのほか早く来てしまったせいで、帰
るタイミングを失った。教師の前で、特に担任である吉井の前で、
用事もなく帰りますと言えない。
吉井の性格を知っているから、面倒なことは避けたいと思っての
行動だ。
今も静かにしているのは遊んだり話したりしていると、いろいろ
と言われるからだ。遊ぶなら帰れ、と言われて帰るとそのことをい
つまでも引っ張って面倒だからだ。
﹁手伝おうともせずに、人任せにして暢気に遊んでるんだな。自分
たちはなにもしなくても、誰かがやってくれってことか。なあ、如
月。自分たちの班が早く終わったら、それで終わりか。協力はしな
いのか? 村崎、人任せで就職してもやっていけるか?﹂
何の話をしているのかが、分からない。
亮は言い返そうとして、言葉を飲み込んだ。
きっと何を言っても無駄だし、何も伝わらない。火に油を注ぐだ
けだ。
﹁いえ。やってけいません﹂
本当は、﹁ここは会社ではなくて学校です﹂と言いたかった。で
も、言わなかったのは賢明な判断だ。
別に遊んでいたわけではない。授業中から班員と話し合って課題
を完成させようと頑張った。夏だって、意味も分からずにさせられ
て何のアドバイスもなければ、文句や批判を言われるだけだった。
亮は自分で如月や鳥澤のような発想や得意な専門分野がないことは
分かっている。だから、夏は二人の、授業中は班員のサポートを頑
張ったつもりだ。
遊んでいたのは、今作業しているクラスメイトだ。彼ら三人は真
148
面目にやっていたほうだ。
言い返したいが、如月が黙っているから何も言えない。
確かにどうでもいい話をしていたのか間違いないけれど、如月は
喋りながらも手は動かしていた、エントランスの中央に設置された
台の上で組み立てられた小型自動化工場はクラスの取り組んでいる
課題で、如月は別の授業で出された課題も一緒にやっていた。これ
は宿題ではなく選択科目で出された課題だ。この課題も、小型自動
化工場とともに展示される。琳太郎も同じ作業を今もやっている。
記憶が正しければ、その課題も三人くらいの班でだったと思う。
各班の手伝いもやっていたつもりだ。
中央で作業しているクラスメイトは、授業中に遊んで人任せにし
ていたはじだ。だから、作業をする当たり前だ。因果応報だ。なの
に、何故、彼らが正しく言われなければいけないのか分からない。
遊んでいたんだから、当然の報いだ。それに、クラス全員が残った
のもお前がウザいからだろ。
正しいことをどんなに必死に言っても、いい訳か屁理屈と言われ
てお終いだろう。相手の意見を聞こうとはしない。それを分かって
いるから如月が口を開かない。だから、亮も自分達が全て悪いとい
うことにする。
今も何か言っているけど、もう聞く気はない。適当に相槌を打っ
て生半可な返事をする。右から左にさえ流していない。耳に入れよ
うとせずに、後ろへと消えていく。
ノートパソコンの光に照らされた如月の顔を伺う。虚ろな目は何
を考えているか分からない。何を言われても動じない。表情は読み
取れないけど、諦めていることは分かった。
﹁社会は理不尽な事とばかりだぞ。何かあったらすぐに逃げるんだ
ろ﹂
何度も聞いた決まり文句。
同じことしか口にしていない。その言葉以外に知らないのかと思
ってしまう。覚えての言葉を連発する子供と同じだ。
149
社会が理不尽で溢れていることは、高校生にだって分かる。子供
みたいなお前らには分からないと大人は言う。けれど、子供だって
知っているも知っているのだ。その理不尽を学校に持ち込んで生徒
に押し付ける教師がいるんだから。学校で学んだ理不尽が常識とな
り、社会に出て理不尽を受け入れそれを次の代に振りかざす。最初
は可笑しいと思うけれど、学校で身に付いた理不尽を今さら正すこ
とは出来ない。染みついた色は何度も脱ぎ捨てても無くならない。
どんなに洗い流そうとしても落ちることはない。
社会に出て初めて可笑しな常識や理不尽に触れたなら、他の色と
混ざる前に疑問を抱いて、元に戻すことが出来るかもしれない。し
かし、いろんな影響を受け常に色が変かし続ける年代で触れれば、
これからの混ざり合う色の一部となりベースになってしまう。順応
性の高い子供たちは、疑問を抱く前に異色が混じっていることに慣
れてしまう。
世の中は理不尽だと分かっているのに、大人たちはそれを正そう
ともせずに子供に押し付ける。
理不尽の悪循環は、社会の常識として未来永劫に受け継がれてい
く。
そして、彼らも必ずはそこに沈んでいく。
早く終われよ。同じことを繰り返す、この時間が一番勿体ないと
いうことを吉井は自覚していないのだろう。
弥市いいな。俺も帰ればよかった。
呆れて文句も思いつかず、別の事へと思考が切り替わる。吉井の
言葉が他人事のようにしか聞こえない。
吉井の説教が終わるのを待たずに、如月の指がキーボードの上を
滑る。
車の通る音さえ聞こえなくなった。
夜は一層深まり、静けさが辺りを包む。
150
長かった説教が終わったのは、約三十分くらい前だった。勢いの
ない死んだような雨が降り始めた頃だった。霧雨のせいでライトア
ップされた山に聳える立つ強大な岩を眺めることは出来なかった。
視界は悪く、さらに街灯の光を乱反射してぼんやりとぼやけている。
鍵の閉められた教室の壁に掛けられた時計の短針が?を少し過ぎ
ていた。
﹁ここの時計ってさ、ほとんど使うことないのに無駄に凝ってるよ
な﹂
大きな窓のガラス越しに亮は教室を覗く。
廊下の照明が影と綺麗な境目を作って、ベルトのように横切って
教室を照らす。
奥で微かに光沢を放つアルミ製の流し台がうっすらと見える。
﹁使うときは使うよ﹂
相変わらず滑舌の悪い琳太郎が答える。
﹁言うほど、そんなに使わないでしょ。入学してからここで実習や
った記憶あまりないけどね﹂
﹁そうね。電気の実習でも使わないもんね﹂
答えてくれるのは嬉しいが、もう少しはっきりと喋ってほしい。
滑舌が良くない上に、声が籠っていて聞き取り難い。
エントランスの奥からピーと音が聞こえる。
﹁エラー出てるぞ﹂
亮が冷かすようにいうと、知ってると笑い声とともに返って来た。
﹁というか、この時計、個人的に欲しいな﹂
ドア側に掛けられた時計を覗き込もうと、窓ガラスに頬を押し付
ける。左目だけしか見えない。廊下の奥の闇を右目が映し、左目が
ガラスの断面と左側が影で薄れた時計を半々に映す。三つ映像が脳
の中で重なり、見たいはずの時計を上手く捉えることが出来ない。
﹁誰も使ってないなら、貰えないかな﹂
無理やり覗き込もうとすると、ギシギシとガラスの悲鳴のような
音が鳴る。押し付けた頬を伝ってガラスの冷たさを感じる。
151
﹁学校に予備の備品ぐらいはあるだろうし﹂
﹁時計の備品って、聞いたことないぞ﹂
窓に鍵が掛かっているか確認しながら、如月は廊下の奥から戻っ
て来た。
﹁あるだろ。動かなくなった時のために﹂
﹁動かなかったら電池交換するだけ﹂
頭を掻きながらページを捲る琳太郎が籠った声で言った。
﹁もしかしたら、電池が無くて時計があるかもしれないぞ﹂
﹁それこそないだろ、どんな学校だよ﹂
琳太郎が紙束を落として笑う。
学校に電池の予備が無い所などあるのだろうか。電池が無くて時
計はあるというのもおかしな話だ。電池よりも時計の需要がある学
校は、どんな事があった気になる。
﹁この学校だぞ。少し頭の可笑しい教師ばっかりいるだろ﹂
亮は吉田の顔を思い出して、冷めかけていた熱が戻って来る。
人生のためにならない話と自虐のつもりの自慢を繰り返し聞かさ
れた。同じ話を少しだけ変えて話すけれども、聞いている方は何も
面白くなくすぐに飽きる。普段と同じ話を聞いていると、他に話す
ネタが無いのかと憐れんでしまう。本や映画のセリフでも引用して
くれた方が少しは聞く耳を持ったかもしれない。
無能な教師だと知っていて、それの機嫌を取り嫌でも受け入れな
くてはいけない自分が不甲斐なく思う。生徒程度の意見では担任を
変えることも出来ないことをすでに理解している。歯向かっても自
分のためにはならない。何かを変える力と知恵はあるけれど、干渉
する範囲があまりにも狭すぎる。だから、小さな抵抗はするけれど、
何かを変えるほどの行動は起こさない。
﹁生徒のことを一番に考える教師は居ても少ないし、影響力があま
りないんよな﹂
如月は琳太郎の横の椅子を引いて座る。閉じられた黒色のノート
パソコンを開く。
152
﹁そうだよな。公務員ってやっぱり上の人間の評判で決まるんだな﹂
琳太郎は紙束の文字とディスプレイに表示されたエラーを見比べ
る。 ノートパソコンは一昔の型で、厚さがあり見た目からも重さは伝
わってくる。如月は電源ボタンを押して、起動を開始したことを確
認してから立ち上がる。スマートフォンを充電器のコネクタに接続
して亮のいる方へ移動する。
﹁上の人間の評価で決まるのは、公務員に限らないでしょ。普通の
企業もそうだと思うよ。出世ばかりは下の人間には決められないか
らな﹂
﹁だったら、二年からでいいから生徒たちに担任を選ばせてほしい
な。教え方の悪い教師が居ても、生徒には利益なんて少しもない﹂
そもそもどんな基準で教師を雇っているのか知りたいと亮は思っ
ていた。子供に教育出来るだけの能力がないと、採用を決める段階
で分からないのだろうか。たった、十七年かしか生きていないが、
教育期間にいる教師の六割から七割は無能でクズでどうしようもな
いと分かる。生徒の為にも、転職してくれた方が有り難い。
﹁一応は学期末に教師の評価を生徒に訊くための用紙は配られるけ
どね﹂
ディスプレイと睨めっこしている琳太郎に亮は、﹁リンはどうし
てる﹂と尋ねる。
﹁大抵はオール五で出してる。評価ポイントはほとんど読まないけ
どね。それと、吉井は一にしている﹂
前回は一と二を交互に選んだけどね、と付け加える。
﹁如月はもちろん一だよな﹂
﹁いや、一じゃないよ﹂
予想外の否定に二人とも驚く。クラスで何が遭っても必ず一にし
ていると思っていただけに、嘘を付いていると疑ってしまう。
﹁あの用紙なら一年の最初に出して、それから一度も吉井のは出し
たことないよ﹂
153
如月は評価すらしていなかった。評価をするに値しないほど無能
な教師だと思っているのだ。彼に点数を与えることが勿体ない。全
て一を選んでも総合評価は十となる。評価項目が十項目あるため、
総合は必ず二桁の数字になる。もしも、一の前にゼロが存在してい
たら、迷うことなくゼロを選ぶ地震がある。一かゼロかの二択なら、
クラスの過半数がゼロを選ぶ。
たかが点数を付けるだけのことだが、それくらい吉井の事を無能
な教師だと思っている。
﹁これからも出さない?﹂
﹁多分ね。今さら出してもと思うよ﹂
﹁俺も出さないでいようかな﹂
﹁それが良いよ﹂
生徒が評価を付けても、まともに見ていると思えない。枚数確認
ついでにチラッと覗く程度でしかない。何も改善されていないのが、
何よりの証拠だ。
﹁でも、あれって吉井が回収してなかった? どうやって出さなか
ったの?﹂
琳太郎は手を止めて教室の前にいるであろう姿の見えない如月に
問いかける。
﹁確かに。どうやって?﹂
﹁あぁ、それは簡単だよ。弥市の紙と一緒に差し出すから無くても
気づかれない﹂
﹁それだけで気づかれないって、あいつ本当に無能だな﹂
﹁それくらいは気づけよ﹂
自分で集めていながら目の前で生徒が提出していないことに気付
かないほど、関心がなく改善する意思がないらしい。
形だけの評価を生徒たちに決めさせても意味はない。一応こんな
ことをやってますと表向きのアピールにしか過ぎない。
それに、と如月は続ける。
﹁匿名という名目だけど、席順に集めたら誰がどんな評価を付けた
154
か分かるんだよね。吉井がそれを分かってやってるのか知らないけ
ど﹂
その気にならなくても、自分の担当のクラスだから席順は自然と
頭の中に入っている。特に一番初めと最後は記憶を探らなくても分
かる。だから、最初に目に入った用紙から順に見ていけば、考えな
くても誰が評価したかは分かってしまう。
﹁匿名の意味がないな﹂
﹁あいつならきっとこれは誰の評価だって探ってるよ﹂
﹁そういうとこはネチネチ言ってくるもんな﹂
﹁その評価も失くして良いと思うけどね﹂
﹁書いても何にもならないしね﹂
﹁変えようとする努力も伺えない﹂
﹁最後は俺たちが終わりたいになるし﹂
﹁俺たちが変わっても、教師が変わらないから結局はまた同じ場所
に帰ってくるんだよな。だから、俺たちも変わろうとしないのに﹂
﹁地域の人がどう思ってるかが、あいつらにとっては大事だからな﹂
﹁生徒なんか見てないもんな﹂
地域の大人たちに﹃良い学校﹄と思われれば、入学してくる生徒
数も増えて自分たちの評価も上がると素敵な勘違いをしている。こ
の学校の噂はあまり良いものではない。悪い噂が多いのも事実で、
ほとんどが真実でもある。過去に起きたことがいつまでも引きずら
れて、柄が悪いという風に今も思われている。昔が悪かったことは、
今の生徒たちは知らないけど否定はしない。
地域との関係性は大事だけど、それで生徒数が変わるわけではな
い。悪いイメージを持たれれば親が子供に入学させたくない思うけ
れど、どんなに大人に良く思われても選ぶのは子供でしかない。大
人の評判が良くても、子供が良いと思わなければ意味はない。
周りの中学生には、柄が悪くイジメも多そうという印象がまだま
だ残っている。実際はそんなことない。親がいくらあの学校は良く
なったと言っても子供の持つ印象は変わらないし、半信半疑でしか
155
ない。
大人の言葉よりも一つ二つしか離れていない先輩たちの言葉の方
が説得力はある。
その事を分かっていない教師は生徒よりも、それを取り囲むもの
しか見ていない。
﹁俺たちが後輩に、クズみたいな教師が多いから来ない方が良いぞ
って言ったら、来なくなるよな﹂
﹁まぁね。先輩に言われたら行きたくないよな﹂
﹁あまり言う事ではないけど、事実だしね。ここのパンフレット見
たことある?﹂
琳太郎はノートパソコンの後ろにある正門から撮影された校舎が
表紙を飾っているパンフレットを手に取る。教室を覗いていた二人
は、エントランスに戻り、琳太郎の差し出すパンフレットに目を通
す。
グラウンドの一角から撮影した校舎を背景に、校長が微笑む。そ
の横にあるコメントよりも校長の頭にどうしても目が行っていまう。
フサフサとは言えないが、禿散らかしているとも言えない。中途半
端な頭の校長の微笑は、どうも親しみを持てない。
隣りには学校の教訓のようなものが書かれていた。
ページを捲ると、各科の説明が書かれている。どの科も他の学校
とあまり変わらない内容で、在学中に取得することが出来る資格も
高校生が手を伸ばせば掴むことが出来る。
最後の方は、学校行事や部活、地域での活動が写真付きで掲載さ
れている。変な噂が後ろを付きまとう学校でも、評価されるであろ
う写真だった。一生懸命頑張り、学校生活を楽しんでいると思わせ
る。進路先は、全国だけではなくて世界でも知られているような企
業が大々的に肩を並べている。
﹁これ、一種の詐欺だな﹂
パンフレットを眺めながら如月は言う。
﹁ここまで、堂々としていると清々しいな﹂
156
﹁初めて見たけど、素直に頷けないな﹂
事実を書いてあることには間違えはない。さすがの教師も不特定
多数の人が見るパンフレットには嘘みたいなことは書いていない。
﹁言葉が足りないな﹂
﹁あぁ確かに﹂
﹁そうなんだ。このパンフレット、嘘は言ってないけど、言葉が少
し足りないんだよね﹂
二人の方を向いて琳太郎はドヤ顔で言う。あえてそのドヤ顔には
触れないで置こうと亮は心に決める。写真には残して置きたかった
と悔やみながら。
﹁これ、本当かよ﹂
亮は笑顔で映る先輩の写真を指差す。
﹁﹃先生は教え方も良くて優しい方ばかりです﹄だって。悪徳業者
の広告にありそうな決まり文句だな﹂
呆れた口調で如月が言う。
﹁エロサイトへの誘導にも出てくるよ﹂
琳太郎の言葉に亮が、﹁覗いたんだ﹂と軽蔑と好奇の目を向ける。
否定はしないけど、言葉を濁した。
在校生の言葉も教科書を真似たような型にはまったコメントを残
している。あまりにもお手本になり過ぎていて、逆に不信感を抱か
せてしまう。素直に取られるほど純粋な時期ではない中学生を誘う
には、もう少し捻るなりした方が受け入れやすいと思う。
﹁こればっかりは嘘だな﹂
﹁だね﹂
﹁優しい先生って誰のことだろうな? 俺は⋮⋮思いつかないな﹂
﹁パッとは出てこない。少し時間がほしい﹂
﹁いざ思い出そうとすると、意外に名前が分からない。名簿見なが
らチェックしていきたい﹂
﹁ははっ確かに。あまり名前が浮かんで来ないな﹂
﹁それだけ、必要じゃないってことだろ。クズみたいな教師の名前
157
が出てくるほど、思入れもないし﹂
顔を見れば名前はでてくるだろうが、ただ名前だけを浮かべてど
んな印象だったか考えようとすると、肝心の名前が出てこない。別
にどこかに引っかかって、少し揺らせば落ちてくるような違和感も
ない。思い出せないならそれでいい。次、会った時に誰か判断でき
れば問題はない。
クラスメイトくらいなら人数もそんなに多くなくて毎日顔を合わ
せているから出席番号順に言えるけど、教師となると考える時間が
必要になってくる。各教科の担当者と科の教師なら比較的顔を合わ
せるから分かる。それ以外は、ほとんど分からなかったりする。こ
の事は同学年の同級生にも入れることで、科が違ったら分からない。
商業系に関しては教師も生徒も未だに知らない奴がいて、気づいた
ときに少し驚く。
接する機会がないと、嘘さ程度で名前は知っていても人物像は分
からない。
出来れば担任のことを忘れたいと亮は思っていた。
﹁教え方が上手い教師がいるなら紹介してほしいね﹂
﹁ホントだよ。授業するより教科書を読んだ方が分かるときあるも
んな﹂
教科書に書かれていることを読んで黒板に複写するだけなら学校
に来てまで学ばなくてもいい。家で読書代わりに教科書でも黙読し
ていた方が時間を有効的に使える。
﹁教科書を読んでも分からないから学校に来てるのに。あいつらよ
り喜一に教えてもらった方が分かることが多い﹂
﹁喜一は頭良いから的確にポイントだけ教えてくれるから楽なんだ
よな﹂
﹁そうそう﹂
彼らの理解力が乏しいから教科の複写だけの黒板をノートに写し
ても、教科書をノートに写したのとあまり変わらない。
喜一のように理解した人が教えてくれると、ただの教科書の複写
158
にならないから理解力なくて飲み込みやすくなる。食欲が無くて喉
を通らない時に水で流し込んだり大きさを小さくしたりするのと同
じで、知識もそのまま飲み込もうとすると自分が一度の許容できる
量を越えてしまう。だから、砕いたり別のものと関連性を付けたり
する。語録合わせもその一つの例になる。
﹁吉井は絶対に理解できてないよ﹂
﹁偉そうに、﹃これも分からないのか? 常識だぞ﹄と言ってるけ
ど、自分はただ単語を知ってるだけで中身は理解してないな﹂
﹁上っ面でけ常識とか言うなよな、ホント﹂
﹁あいつの授業の時は喜一か如月か弥市をフィルターとして挟みた
いな﹂
﹁確かに。理解が早くなりそうだ﹂
二人の提案に如月は否定する。
﹁止めろよ、そんな面倒なこと。別に俺は授業で理解してるんじゃ
なくて、元から知ってるから理解できてるだけだぞ。授業なんて大
抵は三割も聞いてないぞ﹂
フィルターに使うな、と付け加える。
クラスの中で密かに謎になっているのが、授業中に喋ってばかり
の如月の成績が良いのか、というものだ。教師の評価が周りとかけ
離れるぐらい好評だから好成績というわけではなくて、純粋にテス
トの成績も良い。
カンニングでもしていると亮は以前から考えていたけど、テスト
中に如月の周りには、彼よりも点数の取れるクラスメイトは居なく
て出来ないことに、一学期の期末テストで気づいた。
きっと卒業するまで分からないと亮は考えるのを止めた。
﹁お前が授業やればいいじゃん?﹂
亮の提案に吐く息と飲み込んだ唾が重なり思わず咳き込みそうに
なった。
﹁嫌だよ。それあまり変わってないじゃん。結局、俺が教えてるし﹂
﹁そんなこと言うなよ。みんなのために力になると思ったら出来る
159
だろ? 少しは世の中に貢献できるだぞ﹂
﹁意味が分かんねぇよ。だったらリンがやればいいだろ﹂
﹁俺、バカだから人に教えれるほどの知識はない﹂
琳太郎の言葉に、知ってると二人が頷く。
冗談交じりで言ったつもりの琳太郎は少しだけ凹む。声を合わせ
て疑いもなく言わなくてもいいのに。
﹁今やってる専門教科なんて基礎の基礎で簡単だろ﹂
﹁そうだね。あれくらいなら俺でも理解は出来るよ。他の奴がバカ
すぎるだけで﹂
言うね、と亮が琳太郎を煽る。
﹁ていうか、亮とはコースが違うだろ。琳太郎なら同じだからどこ
やってるか知ってるけど、そっちの授業受けた事ないから喜一にで
も聞けよ﹂
琳太郎と如月はハードウェアコースで、亮が情報応用コースに分
かれている。情報応用コースの授業内容は二人とも知らないけど、
ハードウェアコースの授業は悲惨だと思っている。
一年の時に習ったはずのことをすでに忘れているし、二学期が始
まったのに未だに教科書の初めの方をやっていて進級するまでに半
分も行かない気がする。一か月の間、同じ場所をずっとやっていた
こともある。コースの平均成績を出したらその差は火を見るよりも
明らかだ。
それに、ハードウェアコースと言って置きながら、何故かプログ
ラミングなどの授業を行っている。ちぐはぐしていて、生徒たちに
身に付いていない。その事を弥市は﹃実験台﹄と言っていた。
﹁そこは大丈夫﹂
何が大丈夫なのか分からない。
どこかに根拠でもあるのか自信満々の声で続ける。
﹁やっているところは、如月が資格試験で受けた所だから。きっと
分かると思うよ。試験だって受かったんだし﹂
﹁何でだよ。受かっても覚えてないし教えることは出来ない﹂
160
付け焼刃の知識でギリギリ受かったが、もう一度受けろと言われ
れば、絶対に落ちる自信が如月にはあった。その程度では人に教え
ることは出来ない。
﹁何とかなるって。問題解いてみれば案外思い出すかもしれないし﹂
気楽な口調で亮は言う。
﹁同じところなら喜一に訊けよ。俺が持ってる資格ならあいつも大
体持ってるよ。どうせネットワーク系だろ? そこならあっちの方
が出来ると思うけど、試験の点数も良かったし﹂
﹁そうでもないよ﹂
﹁そうでもあるだろ。あいつに分からないことが俺に分かると思う
?﹂
欠伸をしている琳太郎に尋ねる。
涙を流しながら暢気に答える。
﹁分かると思うよ。だって、こっちの授業なら如月が分からないか
らとテストには出ないよ。それに無駄な知識多いし﹂
﹁こっちの授業は綺麗にバカがばっかり集まったからな。テストの
基準は俺だけじゃなくてお前もだろ、琳太郎﹂
﹁そうね。そうっだった﹂
とぼけるように言う。
﹁それで結局如月に訊けば良いよね?﹂
このまま行くと話が脱線すると思った亮は、答えがあやふやにな
る前に線路に戻す。
飽きれた口調で返す。
﹁だから、喜一に訊けって﹂
﹁良いだろ?﹂
﹁もう諦めて教えろよ﹂
﹁嫌だよ。面倒﹂
﹁ブール代数は喜一分からないって﹂
﹁ブール代数!﹂
聞きなれない言葉に琳太郎は首を傾げる。
161
﹁あぁ∼あれね。確かに喜一は苦手だな﹂
﹁だろ? だから、教えて﹂
﹁まぁブール代数ぐらいなら良いよ﹂
﹁マジで! あれってどうやったら分かる?﹂
﹁解るっていうか、数学みたいなもんだし、とりあえず、ブール代
数の式を覚えない解けないから﹂
﹁また、変なの覚えるの?﹂
﹁いや、簡単だから楽だよ。足し算、引き算、かけ算、割り算みた
いなもんだから。分からなかったら、回路図書いてみればいいよ﹂
亮は数学得意だからすぐに理解できる、と付け加える。
式から解までの流れが掴めれば、ブール代数はそんなに難しくは
ない。要領は数学と似ていて、結局は数字がほとんど出てこないア
ルファベットだけの式でしかない。数学で言うならアルファベット
だけで書かれた公式と変わらない。ちょっと厄介なものもあるけど、
亮ぐらい数学が出来るなら慣れるまでにそう時間はかからない。
それに、ブール代数は回路図を式にしたものだ。簡単なものは、
AかBのどちらかのポートに1を入力した時に、回路の最後で出力
は1か0のどちらになるか求めたものがある。
回路を追わなくても出力が簡単に出せるようにしたものが、ブー
ル代数だ。
だから、回路を追うことが出来るならブール代数を理解して解く
ことは容易に出来る。
﹁そんなこと言うけど、結構難しいんだぞ﹂
立ち上がって、廊下の窓の前まで移動する。窓ガラスに付着した
水滴を利用して、記憶に残っている式を書いてみる。
︵A+B︶・︵A・B︶と書いて、上に長い一本線を書き足す。
﹁掛ける代わりの点はいいよ、まだ。ベーシク言語で習ったからま
だ分かる。でもさ、この上の線、何?﹂
自分で書き足した線を丸で囲んで主張する。折角書いた式が丸の
線と垂れた水滴で原型を留めていない。
162
﹁この点は分かるよ、一般的だからね。でも、これは何?﹂
大事なことだから二回言いました。
ケラケラと琳太郎と如月が笑う。
﹁逆でしょ﹂
涙を流すほど面白かったのか、腹を抱えて二人が笑う。如月は一
応はすでに資格試験の範囲で勉強したから、その線の役割を知って
いる。
﹁それは知ってるけど、どうしてプラスと掛けるも変わるのかが、
分からない﹂
どうやら、その線のせいで亮はブール代数が理解できないらしい。
﹁回路図でいうNOT回路と同じものだよ﹂
同じように窓に描くけど、水滴は軌跡を描いて滑り落ちていく。
何本もの線画が窓ガラスに描かれて、変な模様になっている。
何を描いているか、本人たちも分からなくなっている。下手な絵
を見て、また笑う。夜の誰も居ない実習棟に笑い声が響く。近所の
人が聞いていたら不気味に思われるか、迷惑がられるだろう。そん
なことはお構いなしに、どうでもいい事で笑っている。手が止まり、
その代わりに口が動く。さっきまでやっていた作業は少しも進まず
に、ノートパソコンの画面が暗くブラックアウトしている。
吉井への怒りはグラウンドの砂みたい風でどこかに吹き飛ばされ、
形さえ分からなくなっている。
雨が降っていることもあり少し寒く湿度の高い空気が周りの暗さ
を際立たせて、悲しさを襲って来る。そんな夜だけれで、幾つかの
蛍光灯で照らされた三人の空間は、不愉快さを感じさせる湿った空
気が無くてどこか季節違いに思わせる。
他の窓ガラスにも文字や絵、意味のない線を描いていく。
﹁これは何の絵でしょ?﹂
絵心ない同士、下手な絵を描いて何の絵を描いている当てるゲー
ムを始めている。
お世辞にも上手いとは言えない下手なを見ては笑う。小学生の方
163
がまだ心籠った絵を描ける。特徴さえ捉えていない絵を言い当てる
のは、声だけで人物を言い当てるよりも遥かに難しい。
窓ガラスの数は限られているので、すぐに描ける窓はなくなって
しまった。水滴が垂れて、窓枠に水が溜り壁を伝って廊下に落ちて
いく。
結露したしていた窓はすっかり水を掛けられて濡れただけのガラ
スになっている。外の様子が見えるようになったけど、辺りは暗く
たまに通る車のライトと数少ない街灯の光が見えるだけだ。
夜も大分深くなってきて、そろそろ高校生が普通に出歩くには厳
しい時間になってきた。法律や条例よりは、安全的な問題のほうが
ネックなっている。学校近くならある程度は店も街灯もあり夜でも
それなりの交通量はあるけれど、少し外れるとほとんど何も見えな
いくらいだ。月明りだけが道を照らす光になっている。それも、こ
の雨の中では期待できない。
暗がりと表現するより闇と言った方が似合っている。
﹁そろそろ帰る?﹂
笑い疲れて、もう何かする原動力は残っていない。
﹁明日でも良いよね﹂
尋ねながら如月はノートパソコンの電源をさり気なく落とす。
﹁大丈夫でしょ。どうせ続けても大したこと出来ないし﹂
﹁そうね。今日やっても明日やっても変わらないもんな。無駄なこ
とやってエラー出たりファイルが壊れたりするのが一番困るな﹂
﹁帰るか﹂
開いていたいくつかのフォルダを閉じ、ノートパソコンをシャッ
トダウンする。古い型のパソコンは処理速度が遅くて苛立つけれど、
落ちることさえも遅いと正直殴りたくなる。
一応、何かあったらいけないので電源も元から切り離して置く。
濡れた窓を開けて、雨の具合を確認する。
﹁あっ、止んでる﹂
眠気から覚めたような変な声を亮が出す。
164
﹁止んだ? だったら自転車で帰れるな﹂
﹁良かった、親呼ばなくて﹂
﹁呼ぶ気無かっただろ﹂
﹁さぁ﹂
何故か琳太郎は答えをはぐらかす。
﹁まさか、すでに呼んでるとか言うなよ﹂
﹁それはない。さっき呼ぼうとしたけど﹂
したんかい、と如月に突っ込まれる。
老人のような勢いのない雨は止み、屋根に当たって刻んでいたリ
ズムも聞こえなくなっている。雨は止んだけれど、ここぞとばかり
に霧が出始めている。街灯や車のライトを乱反射させて、視界を悪
くしている。山の輪郭さえ見えなくなっている。
風が冷たい霧を運んで、廊下に入って来る。
シャツを風が撫でると、小さく丸い粒が光に当たって光る。
帰りは濡れそうだなと考えながら窓を閉め鍵を掛ける。
気のせいであってほしいが、廊下の奥に微かな光が見えた。さっ
きは奥の壁も見えなかった。乱反射した光が迷い込んだと思い込ん
む。
一番手前の教室の前に立って中を覗き込む。
部屋に似つかわしくない時計の短針は?を過ぎてXIに近づいて、
長針が真上を通過しようとしていた。
今の時間を知ってしまうとため息しか出ない。
明日が休みだったら、テンションは上がっていたかもしれない。
理不尽な説教がなければ、もう少しだけ作業をするモチベーション
が上がっていた。
もうすぐやって来る明日もまた今日と変わらないことをやって、
何も手伝わない奴は遊んで、一部の人間がせっせと働く。休憩して
いるところを担任に見られて、今日のことも交えながらネチネチと
文句を言う。
想像できる明日が、遠慮することなく土足で踏み込む。
165
十代とは思えないため息が零れる。
﹁何も忘れ物ない?﹂
琳太郎が廊下に響く声で言う。
﹁何もないよ﹂
確認してないであろう如月の暢気な声が聞こえる。
﹁多分何も、あっいや﹂
言いかけて言葉を止める。
﹁あの時計忘れてる﹂
少し本気で言ってみた。
﹁今日は無理でしょ。鍵掛かってるし﹂
珍しく琳太郎が冷静に答える。
﹁誰に言ったらくれるかな。どうせ使ってないだろうし﹂
教室の奥の窓に警備員が持つライトの光が当たる。
﹁おじいちゃんに訊いてみれば。その教室はおじいちゃんが使って
いるから﹂
七十近い実習講師の先生をみんなはおじいちゃんと呼んでいる。
自分たちの祖父母とあまり変わらないことから、いつの間にか定着
した。
優しくて教え方は上手く、分からないところは分かるまで教えて
くれる。筋の通らない教師の発言を生徒には聞かなくていいと常に
言っている。自分のやりたいことをやって、人生を楽しんでいる。
その為か、評判は良くて人気があり多くの生徒や一部の教師から尊
敬されている。成功者とはきっとおじいちゃんみたいな人生を送っ
た人の事を言うんだと、亮は学んだ。目指すならおじいちゃんみた
いな人生を送りたい。
﹁おじいちゃん、意外にお洒落だな﹂
飾っている姿を想像して笑みが零れる。
自分で買うかと諦めて、教室から離れて外に出る。
166
じゃあ、またな。
﹁結局さあ﹂
半分ほど入ったカクテルのグラスを傾かせ残りを飲む。
﹁高校の時が一番楽しかったよな﹂
空になったグラスを揺らし氷を鳴らす。
アルコールで呂律が回っていない紀杜がそんなことを言った。
﹁だね。就職してからは、何か弾けれないよね﹂
鍋に残った具を掬う。冷めて温くなった汁は、お酒で温まってい
た体には沁みる。どこか寂しさがある。
﹁分かる。入社した頃は、地元に帰れば少しは羽を伸ばせたけど、
今はもう⋮⋮﹂
その先はにしなくても伝わってきた。
入社当時は給料日よりも帰省することが出来る長期休みの方が待
ち遠しかった。近くなればなるほど、SNSのクラスのコミュニテ
ィグループは盛り上がっていた。ボーナスを貰ってもそれほど会話
もなかった。誰かが、ボーナス貰った、と書き込んでも二、三人が
金額を尋ねる程度ですぐに途切れていた。だけれど、今度帰るー、
と書き込まれると地元やその周辺の旧友たちは餌を与えられた肉食
獣のように反応する。夜遅くまで書き込んでいたものだ。
物足りない。それが言いたかったのだろう。
十年は経とうとしている今でもお金や家族、恋人の話より帰省し
た時の話で盛り上がる。地元に残った旧友も、県外に出た旧友も、
帰省すれば今でもみんなで集まって朝まで飲み明かし語り合う。
﹁地元に帰って遊んで飲む。これは、同期と飲みに行くより楽しん
だよな﹂
紀杜はビールの残っている海斗のジョッキを手に取り、喉に流す。
﹁ははっ。何となく分かる。同期と飲むと会社の話か金の話しかし
167
ないんだよね﹂
﹁いろんな部署の話聞けるのはいいけど、愚痴は結構止めてほしい。
相手が仕事で接することがある時は結構気まずい﹂
﹁そうそう、この人確かって考える。金の話されても同期だから大
体分かるから面白味無い。如何にも自分が多く貰ってるみたいに。
実際、残業してるだけだろって言いたくなる﹂
﹁やっぱり、同期ってそんなもんよね?﹂
﹁そんなもんっていうと?﹂
﹁飲みに行ったり、たまに遊んだりはするけど、笑える事があまり
ないっていうこと﹂
ビールを飲み干すと、壁に凭れて寝ている海斗の頬を無意味にビ
ンタをした。ピクッと動いたが起きる様子はなかった。
﹁止めろよ﹂
一応止めるが笑っている。
﹁そういう事ね。確かにそうね。高校みたいなノリはほとんどしな
いな。しても反応薄いしね﹂
﹁やっぱり、地元の友達だな﹂
﹁だね﹂
居酒屋をはしごした後に、ほとんどノリでカラオケボックスに入
った。最初は酔いに任せて、気持ちよく歌っていた。スピーカーが
弾け飛ぶんじゃないかと思わせるくらい紀杜は叫び、海斗が無意味
に奇声を上げた。上手いとか、雰囲気にあっているとか関係ない。
歌いたい歌を気のままに歌う。鳥澤が似合わないアイドルの歌を歌
い、雄一がバラードを可笑しなテンションで歌った。
学生時代に戻ったかのように、はしゃいだ。
数件の店を回って普段より多い量の酒を飲んで変なテンションで
歌ったのに、誰一人として吐かなかったのが奇跡に近い。
途中までは、水を得た魚のようなだったけれど、時間が経つにつ
れて力尽きたように夢の世界に旅立った。夢の中でも楽しいのか、
笑みを浮かべている時々、声を出して笑う海斗にびっくりする。
168
紀杜と如月は不思議と落ちなかった。
﹁紀杜が意外に起きてることにびっくりしている﹂
﹁そうか。前からだけど﹂
﹁高校の時は、寝るの早かったぞ。夜中でもテンション高いのに、
気づいたら寝てたし﹂
その時の光景が脳に蘇り、笑える。
﹁日向ほどではなかったぞ﹂
﹁あいつは早かったね﹂
﹁気づいたらっていうか、寝ないとか言いながらいつも一番最初に
寝てるもんな﹂
﹁そうそう。人の場所取ってな﹂
﹁それで起きるのも遅いよな。起きたらみんな居ないってことも普
通だったな﹂
﹁あった、あった。起こしたのに起きない。今でも、たまにあるけ
どな﹂
あいつ元気かな、と紀杜が懐かしむように呟く。
どうだろう。前回、帰省した時は相変わらず気の抜けていて天然
なのか馬鹿なのか分からない。的外れなことを言って弥市に言葉攻
めにあっていたのは覚えている。その時は、元気そうにやっていた。
紀杜はずっと会ってないのか、SNSでも絡むことが少なくなっ
ている。確かに帰省しても紀杜とは会わない。地元よりもこちらで
会って飲むことのほうが多い。
﹁みんな意外に会社辞めなかったね﹂
﹁そうね。もっと辞めると思ったけど﹂
高校卒業したときは、担任に半分くらいは五年以内に辞めるなん
て言われたけれど、十年経った今でも最初の会社に勤めている方が
多い。こればかりは担任を否定することは出来なかったことを覚え
ている。みんなもそれなりに辞めると思っていたから。
﹁次を探すのが面倒っていうのもあるけど、慣れてしまったこと多
きよな﹂
169
﹁慣れって怖いな﹂
スピーカーランキングや最新曲が流れている。
高校生の頃に流行った曲の点数と全国ランキングが画面に表示さ
れっぱなしになっている。一時間前を最後に誰も曲を入れていない。
フルタイムでまだまだ行けるかと考えていたけど、どうやら無理
らしい。もう若くないって事なのか。それは何だか悲しい。会社の
先輩に聞かれたら、﹁若いくせに何を言ってる﹂と笑いながら言わ
れそうだ。十代と二十代では違うとは前から同期に訊いていたけれ
ど、本当みたいだ。精神的問題かもしれないが、高校卒業したばか
りの頃よりは無茶が出来なくなっている。
こういう時に、時間が流れているのを感じる。
余韻に浸る暇さえ与えられずに、過去の思い出となってしまう。
氷がぶつかり合う音が耳障りな曲の中から聞こえる。
目を向けると、机に肘を突いた状態で寝ていた。
グラスから零れたカクテルが机に広がっている。
そして、時間もゆっくりと流れて行く。
ビルの合間から漏れた微かな朝日が体に浸みる。
肌を刺す乾いた冷たい風が服の間を通り抜けていく。
少し火照っていた体が急激に冷えて、酔いが醒める。変な体勢を
長時間続けていたせいか、体中が痛い。右に左に体を捻って、骨の
鳴る音を聞く。空気を肺いっぱいに吸い込む。体の芯から冷えるの
が分かり、生きていると感じる。
白い息を少しずつ吐きながら、上を見上げる。
ビルと幹線道路の間からどこまでも青い空が見える。長い間、そ
ればかり見ていると空に吸い込まれそうになる。空に落ちる感覚が
体を震わせる。
ダウンジャケットのポケットに手を入れて歩道を歩く。
朝が早いせいか、冬で寒いせいか、人気が少なく活気がない。
170
フルタイムの最後の一時間くらいは起きたメンバーで、寝起きと
は思えない声量で歌った。音程もリズムも掴めなくて、ただ叫んで
いるようになっていた。
カラオケボックスを出た時、眠気と疲労で空元気のまま別れた。
﹁同窓会行く?﹂
別れ際に紀杜は思い出したように尋ねた。
来月行われる高校の初めての同窓会。卒業して一度も会っていな
い旧友にも会えるかもしれない。みんなで集まるのは、成人式以来
だと思う。
﹁行く。めっちゃ楽しみにしてる。面白そうだし﹂
まだ寝ぼけているのか、海斗は質問をあまり理解してない。
﹁俺は行くよ﹂
﹁俺も。休み貰えたから﹂
雄一と鳥澤も行くらしい。
﹁お前は行く?﹂
﹁多分、行く﹂
みんな行きたいけれど、思いもよらない用事や仕事が入れば、そ
ちらの対応をしなければいけない。当然、同窓会は地元で行うから、
日帰りするのが大変になる。
﹁じゃあ、またその時な﹂
笑って手を振りよろけながら去って行った。その後を海斗がフラ
フラと追いかけて、雄一が支えて歩く。
鳥澤は自転車に乗って、朝陽に背を向けて遠ざかっていく。
路上に止まっていた車が動き出して、音もなく横を通り過ぎる。
風が首筋を撫でて、震える。
久しぶりに会ったけど、楽しかった。
忘れかけていた感覚がまた戻って来た。少しずつ掠れていく記憶
を補修してセピア色からカラーに戻った。
二度とあの頃には戻れないけれど、こうして会う事が出来る。
ポケットの中の多機能通信端末が震える。
171
きっと今なら答えられるかもしれない。 ずっと探し続けていた事の一つの答えが、少しだけど掴めた気が
する。
相手を確認して電話に出る。
172
じゃあ、またな。︵後書き︶
また、どこかで思い出して笑いましょう、昔話で。
173
PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n4376bv/
たまには昔の話をしようか
2014年4月18日03時13分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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