籠の鳥になりたい - タテ書き小説ネット

籠の鳥になりたい
夢一夜
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︻小説タイトル︼
籠の鳥になりたい
︻Nコード︼
N1656D
︻作者名︼
夢一夜
︻あらすじ︼
怪しげな倶楽部でバイトを始めた圭。そこに客として現れた瑛。
圭はその日のうちに苦しい恋に落ちた。瑛&圭名義︵﹃瑛﹄著︶の
﹁いつか翼を﹂の圭視点バージョン。
1
第1話︵前書き︶
いきなりSMテイストな展開となっております。苦手な方はこの先
を開かれませんよう、お願いいたします。後でご気分を害されても、
私には如何しようも御座いません。
2
第1話
僕の存在の全てで、貴方に出会ったと信じたい⋮⋮。
﹃奇跡﹄だなんて、言葉にしたら安っぽくなってしまうけれど。貴
方に出会えた事は、僕にとっては間違いなく奇跡だった。
僕の名は⋮⋮﹃圭﹄
これは戸籍に載っている本名ではないけれど、いつの間にか本当
の名より僕にしっくりと馴染んでしまった名前。 僕が彼と出逢ったのは、21歳の春。景色を淡い桃色に埋め尽く
した桜が散った頃の事。
2年遅れで入学した音楽大学での二度目の春、僕の家は突然の破
産に見舞われた。
僕の父親はとても小さな会社を友人と共同経営していたのだが、多
額の負債を抱え続け、友人には姿をくらまされて、その負債を一人
で背負い込んで、どうにもならなくなったのが、この春。音楽とい
うのはお金が掛かる。医学部や理系の次くらいに授業料が高い。
その支払いが危うくなった時、僕は効率の良さそうなバイトを見
つけ出した。
それは、秘密の会員制倶楽部のホストだった。
秘密の会員制という辺りで十分にいかがわしい雰囲気があり、実
際、そこでのホストとしての仕事もいかがわしいものだったが、何
も知らない身ではないし、という事で僕はその店との契約書にサイ
ンをした。
3
初出勤の日、僕は緊張していた。
着慣れないスーツを身に着け、髪も丁寧に整えて店に出ると、既
に一人のお客様が見えていた。見た感じ、三十代の半ばくらいの男
性で、すらりと背の高い、低くて響きの良い声で話す、落ち着いた
雰囲気を持った人だった。
﹁君は?﹂
緊張のあまり強張った礼を向けた僕に、その人は問いかけた。
﹁お初にお目に掛かります。圭と申します。宜しくお見知りおき下
さいませ﹂
深く腰を折って頭を下げたまま、僕は震える声で答えた。彼が何
をしている人なのかは知るよしもなかったが、この店の会員をして
いるという事は、それなりの社会的地位を持ち、庶民の考えも及ば
ないような収入を得ている人という事である。常日頃、人を従える
ことが当たり前な人の持つ、威圧感と言っても良い雰囲気に、僕は
すっかり気圧されていた。
﹁ああ、君に今夜の相手を頼もう﹂
まだ右も左もわからない僕は、いきなり指名されてパニックにな
りかかった。けれど、早くご案内しろというように促され、まだ店
の中の配置すらわからないのに、僕は彼を案内して個室になってい
るプレイルームへと向かった。
﹁こちらでございます﹂
扉を開き、押さえながらもう一度深く頭を下げる。彼は先に室内
に入り、周囲を見回し始めた。僕は後から入り、扉を閉め。
﹁今宵一夜、宜しくお願い申し上げます﹂
﹁服を脱いでもらおうか?﹂
改めて、膝を折って一礼した僕に、彼は簡潔な命令を下した。こ
こが﹃そういう所﹄だと知ってはいたけれど、まさか初出勤の日か
ら指名されるとは思っていなかった僕は、ただ困惑するばかりで。
けれど、逃げ出す訳にも行かないことは判っており、僕は震える指
4
先で服のボタンを外し始めた。
これから自分がどうなるのか、今頃になって僕は不安に囚われ始
めていた。
﹁ところで圭、蝋について何か知っているか?﹂
緊張に指を震わせながら服を脱ぎ始めた僕に、彼は面白そうにそ
う問いかけた。
蝋⋮⋮パラフィンは有機化合物か。化学式は⋮⋮高校で化学を学
んでいたのは二年前だ。しかもパラフィンなんて受験では必要なさ
そうなものの化学式など、もう忘れてしまっていた。
﹁蝋、でございますか? 私はあまり化学は得意ではありませんの
で、良くは存じません﹂
実際は高校では理系を選択しており、化学も2まで学んでいたの
ようや
だけれど。そんな事を今此処で説明して、忘れたというほどの事で
もないと思い、僕はそう答えて誤魔化し、漸くにして脱ぎ終えた服
まと
を見苦しくない程度にまとめ、指示された拘束台の上に上がった。
睡眠が目的ではない台は硬く、冷たく、身に纏う物を全て失った僕
は、ゾクリと身を震わせていた。
何も、蝋が燃える原理を説明しろと言っている訳じゃない、と彼
は笑いながら、僕に手を出すよう促した。僕はおずおずと両手を揃
えて差し出した。その両手首は、彼の手で、台の側に置かれていた
革ベルトで拘束され、僕は突き飛ばされるように、台に倒された。
驚きのあまり、小さな悲鳴が迸った。
台に転がされた僕の手は、革ベルトで拘束されたまま、更に頭上
で台に固定される。
﹁日本では木蝋が使われているらしいが⋮⋮いわゆる和蝋燭という
物だろうな。こういうプレイに使用されるのは融点の低いものが通
常だが、ここには高温のものも置いてある﹂
彼は楽しそうに、棚から取り上げた蝋燭を僕に見せた。
﹁それは、どちらのものなのですか?﹂
彼はククッと喉の奥で笑いながら、投げ出されていた僕の足首を
5
掴み、膝が僕の頭の両脇に来るほどに身体を二つ折りにさせて、そ
の姿勢を保つようにまたベルトで固定した。僕の腰は僅かに浮き上
がり、その隙間に彼がクッションを押し込んだ。これで、僕の身体
はしっかりと拘束台に張り付けられてしまった。恥ずかしい部分を
余すところ無く彼の目の前に晒している僕は、その息苦しいほどの
羞恥に顔を火照らせた。
﹁さあ、どちらだろうな。熱いと感じるにも個人差はあるし、使い
方でどうにでもなる。当然溶けたばかりの蝋は熱いし、高い場所か
ら落ちてくる蝋は、その間に温度が下がる。そうだろう?﹂
彼は面白そうに眉を上げて僕を見た。僕は拘束された両脚の間か
ら、彼のする事を見詰めていた。あの蝋燭にもうじき火を点され、
炎に溶かされた蝋が僕の身体に降り注ぐのだろうか。
﹁温度が70℃以上になれば、触れている時間が1秒ほど。60℃
でも5分ほどで低温火傷になるらしい﹂
彼はもう一カ所忘れていた、と笑いながらテグスを取り出し、緊
張と恐怖に萎んでいた僕自身を摘みあげ、括れの部分に巻きつけ、
少々きつめに結んだ。敏感な部分に感じる鈍い痛みに、僕は更に身
を竦めた。
﹁暴れると千切れるぞ﹂
そう言いながら、彼は僕自身に結びつけたテグスを伸ばし、天井
から釣り下がっていたフックにもう一方の糸端を結びつけた。こう
して僕自身は引き起こされ、天井を向いた形で拘束された。
﹁火ぶくれになって、醜い痕の残るような火傷はさせないつもりで
いるから、安心しろ﹂
淡々とプレイの開始を宣言した彼は、僕の両手の間に一本の蝋燭
をねじ込むと、しっかり支えていろと命令し、火を点けた。蝋の燃
える匂いが微かに漂い始めた。
ろうるい
頭上で拘束された両手の間にねじ込まれた蝋燭は、ゆっくりとそ
の炎を大きくして行った。僕はそれを不用意に揺らして蝋涙を零し
てしまわぬよう、しっかりと両手を合わせる様にして支えていた。
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﹁火傷によってズルリと剥けた皮膚など、想像したくもない。まあ、
少々熱いのは我慢するんだな﹂
彼は口角だけで微笑むと、新たに火を点けた赤色の蝋燭を僕の上
向きに晒された右膝裏の上にかざし、傾けた。溶けた熱い蝋涙が、
容赦なく僕の肌の上に落ち、僕は堪えきれずに悲鳴を迸らせながら、
反射的に身を捩った。途端、手の間にあった蝋燭が揺れ、その柔ら
かな縁を壊して蝋涙が僕の手に零れ、またテグスで戒められた僕自
身が嫌な角度で引っ張られ、僕はまた悲鳴を上げていた。落とされ
た蝋が肌の上で固まる前に、火の点いたままの蝋燭が押し付けられ、
そこに立てられる。
﹁ほら、動くなと言っただろう? 今度は此方だ﹂
そう言われていても、頭は身体を揺らしてはならないと判ってい
ても、溶けた蝋を滴らされる激しい苦痛に、僕は悶えていた。そん
な僕の左膝裏に、新たな蝋涙が落とされ同じように火の点いたまま
の蝋燭が立てられた。僕は新たな苦痛に悶え、今度は手のみならず、
両の膝裏に零れる蝋涙に焼かれる激痛に、また身を捩る繰り返しを
始めた。
更に両胸にも蝋涙が落とされ、同じように火の点いた赤い蝋燭が
まなじり
立てられて行く。僕はその度に悲鳴を迸らせ、もがき、新たな蝋涙
を肌の上に更に零し悶え続けていた。
﹁どうだ、気持ちよいだろう?﹂
彼は殊更に優しい微笑を僕に向けた。
﹁き⋮⋮気持ち⋮⋮良いです⋮⋮﹂
身体を震わせるたびに零れる蝋涙の熱に肌を灼かれ、僕の眦から
は涙が零れ始めた。
﹁個人的には紅い色は好きではないが、君の肌には良く映える﹂
彼は僕に唇を寄せると、眦から零れた涙を舌先で掬うように舐め
くすぐ
取ってくれた。その舌先の穏やかな温かさが、今僕を責めている人
と同じ人とは思えないほどに優しくて、僕はその擽ったさに幾度か
瞬きを繰り返した。
7
﹁次は⋮⋮ここだ﹂
彼が手にしたのは新たな蝋燭ではなく、潤滑剤のオイルの壜だっ
た。無造作にその蓋を取ると、彼は壜をゆっくりと傾けた。冷たい
オイルがねっとりと僕の後孔へと滴り落ちてくる。僕は次に起こる
であろう事に恐怖し、蝋涙が零れるのも忘れて身もがいた。その度
に自身に食い込んだテグスに引っ張られ、皮膚を裂かれるような嫌
な痛みも走り、僕の涙は止まること無く眦から零れ続けた。閉じる
ことの出来なくなった唇からは、断続的に悲鳴が迸り続けた。
彼の指が僕の後孔に触れ、たっぷりと滴らされたオイルを馴染ま
せるように塗りこまれ、やがてその指先は僕の体内へと挿し入れら
れた。僕の身体は怯える僕の意思を裏切るように、挿し入れられた
その指先に貪欲に絡み、締め付け始めた。指先は僕の後孔を慣らす
様に蠢かされ、また抜き差しされた。
﹁暴れて痛い思いをするのは勝手だが、流血沙汰はごめんだからな﹂
僕の後孔から指を抜いた彼は、新たな蝋燭を取り上げて火を点し。
その炎が揺らぐのを陶酔したように見詰めていた。僕もまたその揺
れる炎を見詰めながら、次に訪れるであろう苦痛を予想して、身を
震わせていた。
8
第1話︵後書き︶
瑛と圭、お気に召しましたら幸いです。
9
第2話︵前書き︶
瑛と圭の出会いの夜のお話後編です。蝋燭プレイの続きになります。
苦手な方はこの先を開かれませんよう、お願いいたします。
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第2話
﹁とても素敵な表情だ﹂
頷きながら微笑んだ彼は、手にしていた蝋燭を二つに折られた僕
の上で傾けた。
﹁ヒッ⋮﹂
もろ
熱く溶けた蝋涙は、過たず、オイルで滑る僕の後孔へと滴らされ
た。脆い粘膜を灼かれる苦痛と恐怖に、僕は喉奥で引きつった悲鳴
を上げていた。堪えきれなかった涙が一気に溢れ、僕は縋るような
視線を、僕を苛んでいる彼に向けた。
﹁辛いか?﹂
そういう彼の瞳は、言葉とは裏腹に陶酔の色を浮かべていた。そ
の毒を含んだ甘さに、僕はゾクリと背を震わせていた。力を抜け、
と命じた彼は、先ほどの蝋涙で灼かれる苦痛で竦んだ僕の後孔に、
ゆっくりとではあったけれど、容赦なく蝋燭を捻じ込んだ。其処は
苦痛に竦みながらも、オイルの助けを借りて徐々に蝋燭を呑み込ん
でいった。
﹁いい子だな。最後の仕上げだ﹂
そう呟いた彼は、再びオイルの壜を取り上げると、テグスで拘束
された僕自身の先端に、トロリとその中身を落とした。僕は其処に
蝋を落とされる恐怖に、逃げられるはずも無い身体を捩った。すっ
かり炎の大きくなった蝋燭から大量の蝋涙が零れ落ち、その痛みに
また悶え、新たな蝋が肌に散った。
彼はバースディ・ケーキに立てるような、細い、けれど長さはか
なりある蝋燭を取り上げ、火を点けた。それを、オイルを滴らされ
たばかりの僕自身の先端に押し当て、ゆっくりとテグスに触れない
ように角度を調整しながら、挿し入れた。弱い粘膜が擦られ、激痛
が走り、僕は幾度も身を捩ってもがいた。その度に肌に散る蝋の熱
による痛みも、既に僕には何が何だか分からなくなりつつあった。
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一度は﹃完成﹄と呟いて、満足そうに人間燭台になった僕を眺め
た彼だったけれど、突然思い出したように、最後に残された白い蝋
燭を取り上げ、火を点した。
﹁何だか解るな?﹂
新たな炎が僕の目の前で振られる。
﹁パラフィン製の蝋燭⋮⋮でございますか?﹂
彼はYESともNOとも答えず、その代わりに手にした蝋燭の炎
を、僕の身体に立てられた蝋燭に近づけた。その熱で蝋燭の溶ける
速度が上がり、熱い蝋が僕の肌の上を流れた。僕は混乱したまま、
幾度も身悶え、更に状況を悪化させていった。とにかく後孔と自身
の先端を灼かれる苦痛が辛くて、怖くて、僕は狂ったように身もが
き続けた。
﹁火を消して欲しいか⋮⋮?﹂
﹁お願いです⋮⋮火を⋮消してください⋮⋮﹂
僕は彼の問いに即答していた。苦痛と恐怖で、僕の涙は零れ続け
だった。
﹁素直で結構﹂
彼はフッと笑うと、手にしていた火の点いたパラフィン製の蝋燭
を高く掲げた。
彼は頭上高く掲げた手の中のパラフィン製の蝋燭を傾け、そこか
ら滴り落ちる蝋涙で、僕の身体に立てられた赤い蝋燭の炎を消そう
としているようだった。
﹁ああ、外れた⋮⋮今度は⋮⋮また失敗。意外に難しいものだな﹂
楽しそうに呟きながら滴らされる蝋は、狙いが外れるたびに僕の
肌の上に散った。落ちるまでの距離の分、幾分冷やされているとは
言え、刺されるような痛みを伴った熱い蝋が僕の肌を灼いた。所構
わず降り注ぐ蝋に、僕はもがき、自らの身体に立てられたままの蝋
燭から大量の蝋涙を散らし、その苦痛にまた呻きながら悶えた。苦
しくて呼吸もままならず、涙が零れ続けていた。
どれだけの時間が掛かったのだろう。漸く全ての炎が消え、僕の
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肌に立てられた蝋燭は剥がされ、床に落とされた。僕は呆けたよう
に折られたままの身体で天井を見上げ、浅い呼吸を繰り返していた。
﹁辛かったか?﹂
そう問う彼の声は、今まで僕を苛んでいたのと同一人物のものと
は思えないほど優しく、甘く、僕の耳に響いた。僕はまだぼんやり
したまま、僅かに頷いたと思う。
﹁良く辛抱した褒美だ﹂
彼の右手は僕の後孔に突き立てられたままの蝋燭を掴み、ゆっく
りとした抜き差しを始めた。同時に、これに気をつけろ、と僕自身
とろ
を戒めたままのテグスを弾いて僕の意識をそちらに向け、左手の指
を僕自身に絡めた。与えられる刺激に蕩けそうになった刹那、自身
を戒めているテグスがきつく食い込んだ痛みに、僕は掠れた悲鳴を
迸らせていた。
テグスは僕を切断してしまうのではないかと思うほどに、きつく
肉を食み、その激痛は恐怖と隣りあわせで。僕は涙を零しながら、
赦してください、と幾度も繰り返していた。
﹁仕方がない。じっとして、絶対に動くなよ﹂
彼は上着のポケットから小さなピンを取り出すと、僕自身を戒め
はさみ
ているテグスの一本をその先端に引っ掛けるようにして掬い上げ、
僅かに出来た隙間に小さな鋏を差し入れて、細い糸を切ってくれた。
絡んだ糸はゆっくりと解れ、僕自身から外れた。安堵の吐息が、薄
く開かれたままの唇から零れ落ちた。
﹁ありがとう⋮⋮ございます⋮⋮﹂
乱れた呼吸で途切れ途切れにお礼を口にする僕の声は、彼の耳に
届いたのだろうか。
﹁血の匂いも、色も、粘つくような感触も⋮⋮何もかも好きになれ
ない﹂
独り言のように言葉を吐き出した彼は、まだ細い蝋燭が先端に突
き立てられた僕自身を捉え、今度は遠慮なく悶えられるだろう、と
低い声で囁いた。僕は曖昧な刺激がもどかしく、自らも腰を揺らめ
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かせて快を得ようとして喘いでいた。漸く開放され、快を与えられ
た僕自身は、歓喜に身を震わせていた。
﹁赤は好きか?﹂
蝋燭の刺さった先端の周囲を指の腹で擦り、後孔の蝋燭を抜き差
しして内壁を刺激しながら、突然彼が呟いた。彼の表情は消されて
いて、その言葉の真意が分からなかったが、僕は反射的に好きだと
答えていた。その間にも休み無く与えられる刺激に、僕は身体の奥
で燻る熱を開放する事が出来ないもどかしさに、拘束されたままの
身体を捩り、ベルトを軋ませていた。
達したくて、達したくて、その苦しさに全身が悲鳴を上げている
ようだった。
﹁イきたいか?﹂
拭うことの出来ない涙で濡れた顔を覗き込まれ、僕は本能のまま
に幾度も頷いていた。
そんな僕を見下ろしていた彼は、不意に僕自身に絡めていた手を
止め、頭上で拘束されていた僕の両手を解放してくれた。
﹁では、自分でしてみろ﹂
そう言い放つと、彼は台から数歩下がり、じっと僕を見詰めた。
僕は解放されたい思いに急かされるように、僕自身の先端に突き刺
さったままの細い蝋燭を引き抜こうとした。細くて脆いそれは、僕
が軽く握っただけで砕けるように幾つにも折れ、僕は一度それから
手を離し、幾度か手を握ったり開いたりして感覚を取り戻してから、
もう一度、今度は慎重に引き抜いた。もどかしいほどに右手を自身
に絡め、左手で探るように後孔に突き立てられたままの蝋燭を探り、
そちらもゆっくりと引き抜いた。
散々煽られた僕の身体は簡単に上り詰め。僕はうわごとのように
達する許しを請うていた。
﹁構わない。一時、私の存在など忘れるが良い﹂
彼の穏やかな頷きに促され、僕は自身に絡めた指の動きを激しく
した。
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﹁⋮⋮はぁ⋮ッ⋮⋮﹂
直ぐに僕は小さな悲鳴を上げながら達した。未だ二つ折りにされ
たままの僕の身体に、僕が今放ったものが飛び散り、肌の上を緩く
流れるのを感じながら、僕は幾度も痙攣し、徐々に弛緩していった。
彼はそんな僕の姿を暫し眺め、束の間、目を閉じ。目を開くと再
び台の傍らに来て、僕の手には届きそうも無い足首の拘束を外して
くれた。漸く二つ折りの身体が伸ばせた事に僕は安堵し、弛緩した
ままの身体を台の上にくたりと投げ出していた。
﹁後は自分で出来るだろう?﹂
そういい残すと、彼は背を向けて部屋の出口へと歩き出した。
﹁あの⋮⋮ご満足とはゆかずとも、多少なりともお楽しみ頂けまし
たでしょうか﹂
僕はおずおずと彼の背に問いかけた。
﹁そういう君はどうだったんだ?﹂
歩みを止めた彼は肩越しに振り返り、僕の答えを促すように一つ
瞬いた。
﹁とても⋮⋮気持ちよくしていただいて、有難うございました﹂
僕は台の上に身を起こすと、深々と去ってゆく彼の背に頭を下げ
た。
﹁その言葉だけで私は満足だ﹂
﹁あの⋮⋮お名前を⋮⋮﹂
からかう様に、クッと肩を震わせて笑った彼に、僕は最後に名を
問うた。
﹁﹃瑛﹄⋮⋮ここではそう呼んでもらおう﹂
﹁またのお越しを心よりお待ちいたしております﹂
部屋を出て行く彼の背に、僕はもう一度深く頭を下げた。
瑛様⋮⋮。
僕は彼の名乗った名を、一人そっと繰り返した。
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今別れたばかりなのに、もう、またお目に掛かりたいと願ってい
た。
長いようで短かった夜も、そろそろ明けようとしている。
この日、僕は苦しい恋に落ちた。
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第2話︵後書き︶
瑛と圭の、きっと長くなるであろうお話の、出会いの一夜でした。
もしお気に召しましたれば、今後とも二人を宜しくお願いいたしま
す。
17
第3話︵前書き︶
怪しげな会員制の倶楽部で出逢った瑛と圭。その日のうちに恋に
落ちた圭のお話です。
18
第3話
瑛様と初めて過ごした夜も明け、僕はコットンシャツとジーンズ
に着替え、学校へと行った。
授業に出ていても、思うのは瑛様の事ばかりで、何が話されてい
たかの記憶は全く無い。ただ、また瑛様にお目にかかりたい思いば
かりが一杯だった。
﹁ねえ、圭︵この名は僕の本名ではないが、混乱を避けるためにプ
ライベートでの呼び名も﹃圭﹄で統一する︶。何、ぼーっとしてい
るの? 誰か可愛い子でも見つけた?﹂
休憩時間に同じクラスの女の子にからかわれても、僕は無言で頬
を染めるだけだった。
﹁やだ、マジ? 誰? 誰? 新入生? ピアノ科の子?﹂
矢継ぎ早に質問されても、僕には何も答えようが無かった。見つ
けたのは可愛い女の子でも、この学校の学生でもなく⋮⋮僕よりか
なり年上の男性だなんて⋮⋮この場所での知り合いには知られたく
ない事だから。
﹁違うよ。バイト先で⋮⋮﹂
﹁え∼、それじゃ、高校生? それともまさか⋮⋮年上の熟女?﹂
僕は曖昧に笑んで、編曲を終えた楽譜のコピーをしてきたいから、
めまい
と言って逃げるようにその場を立ち去った。昼間の明るい光の差す
日常の中では、僕のこの想いは異質なようで、眩暈を覚えるほどに
息苦しかった。
結局、その日一日をどう夜まで過ごしたか覚えていない。
昨夜の疲労も残っていたし、見ただけではそれ程酷い痕にもなら
19
ず、少し皮膚が赤くなっている程度で、火傷は引きつるように痛ん
でいたけれど、僕はもしかしたらまた瑛様にお目にかかれるのでは
ないか、という淡い期待を胸にバイトに出た。
客待ちをする部屋には他の店員もいて、他愛の無い雑談をしてい
ても、僕はエントランスの状況だけが気になっていた。その扉が開
かれて、瑛様がいらっしゃるのではないか、と一秒ごとに期待して
待ち続けていた。
けれど、午前3時を迎える頃になっても彼が現れることは無く、
僕は諦めて上がろうとしたその時。静かに扉が開いて瑛様がお見え
になった。
僕は高鳴る胸を押さえつつ、彼の側へと歩み寄り、深々と一礼し
た。
﹁ああ、圭。今夜も仕事か? 熱心だな﹂
瑛様が穏やかに微笑まれた。僕はそれだけで更に胸がドキドキし
て、照れたように頷くしか出来なかった。仕事熱心なのではなく、
ただ、瑛様にまたお目に掛かりたい一心で、ずっと此処で待ってい
たのだから。
﹁顔色があまり良くないぞ。帰るところじゃなかったのか?﹂
そう言いながら、室内にあるバーカウンターに向かった瑛様は、
スツールに腰を下ろした。
﹁お飲み物はいかが致しましょう﹂
かしず
﹁カイピリーニャを﹂
傍らに傅くように立った僕に、彼はカクテルの名を告げた。それ
は僕には初めて聞く名で、ただ同じ言葉をカウンターの中に向けて
繰り返すしか出来なかった。雇われバーテンダーは冷蔵庫からライ
ムを取り出し、刻んで砂糖を振り掛けて馴染ませ、ビンガというス
ピリッツとクラッシュドアイスと共にグラスに入れ、良くステアし
てカウンターの上にそれを置いた。お酒の割合や何かは良く分から
ないけれど、何となく強そうなお酒だと思う。
僕はそのグラスを取り上げ、瑛様の前に置いた。ドキドキが指先
20
に伝わって、グラスが小刻みに震えていた。
﹁仕事の帰りに寄ったんだ﹂
瑛様は僕に話し掛けるというより、グラスのお酒を揺らしながら
独り言のように呟いた。僕はその横顔を見詰めていた。
額に僅かに乱れて落ちた髪、鋭角的でありながら高すぎない鼻梁、
薄く綺麗に引き締まった口元⋮⋮。僕はただじっと、その横顔を見
詰め続けた。胸が苦しいほどに高鳴る。
﹁こんなに遅くまでお仕事ですか? お疲れでございましょう﹂
時計を見れば既に3時20分になろうとしている。一体何時間働
いたのだろうと、僕は頭の中で計算していた。
﹁疲れているのは君の方だろう。一杯飲んだら帰るから、その間だ
け付き合え﹂
瑛様は直ぐ隣のスツールを引き、僕に座れと視線で合図した。僕
は失礼します、とそのスツールに座る。直ぐ側に瑛様がいる、ただ
それだけの事で嬉しかった。
瑛様がお酒を飲む間、取り留めの無い会話をしていた。そんな中
で、僕がピアノを弾くという話をした。
﹁君はピアノを弾くのか?﹂
﹁ほんの少し、お耳汚し程度です﹂
意外そうに聞き返してきた瑛様に、僕はそう答えた。専門で弾い
ているのだから、その辺のピアノのお稽古よりは上手いだろうとは
思うけれど⋮⋮決して一流にはなれないであろう僕の力量。専門に
学び始めたからこそ見えてくる限界は沢山あった。その多くは先天
的に持っている能力に依存するものであり、トレーニングである程
度はカヴァーできても、生まれつきの﹃天才﹄には敵わない。
﹁指や手を痛めると困るのだろう?﹂
瑛様は昨夜の火傷の痕を確かめようと、僕の手首を取った。直接
感じる瑛様の体温⋮⋮。捉えられた僕の手は、恥ずかしいほどに指
先が震えていた。
﹁お気遣い、ありがとうございます。私なら大丈夫でございます⋮
21
⋮﹂
手首を取られ、引っぱられた掌の皮膚が痛み、僕は反射的に手を
軽く握っていた。
瑛様は溜息と共に僕の手を放した。僕の手首には瑛様の体温と指
の感触が残される。
お酒を飲み終えた瑛様は立ち上がり、僕もまたお見送りをするた
めにスツールから下りた。
﹁瑛様、どうかご自愛下さいませ﹂
僕は心からこの言葉を告げた。こんな遅くまで仕事だなんて⋮⋮
身体を壊されませんように、と願っていた。
﹁気遣い、感謝する﹂
また寄らせてもらうと言い残してドアに向かい掛けた瑛さまは、
ふと立ち止まり、僕の方を振り返った。そうして、上着のポケット
を探り、何かとても小さなものを取り出した。
﹁君にあげよう。試作したものだから、片方しかないが⋮⋮。気に
入らなければ、処分してくれ﹂
しょうしゃ
掌に乗せて差し出されたものは、キラキラと透明な輝きを放つ紅
い宝石を嵌めこんだ、瀟洒なデザインのピアスだった。僕には宝石
の値段など想像もつかないけれど、この部屋の薄暗い照明にすらこ
んなに綺麗に輝く石は、決して安い物では無いだろうと思った。瑛
様の下さるもの⋮⋮欲しくない訳はないけれど、あまりに高価そう
で、僕は受け取りかねていた。
﹁私が頂いてしまって宜しいのでしょうか﹂
﹁同じことを二度言わせるな。いらなければ処分しろ﹂
僕の手の中に握らせるようにピアスが押し付けられる。僕は反射
的にそれをしっかりと受け取っていた。
﹁恩に着せるつもりも無いし、申し訳ないが宝石も大したものじゃ
ない。デザインの為の試作なんでね﹂
﹁それでは、ありがたく頂戴いたします。大切にさせていただきま
す﹂
22
宝石が大したものじゃないと仰るけれど、多分庶民にはかなり高
価なものなのだろう。けれど、仄かに瑛様の体温を残して僕の手の
中に入れられたピアスが嬉しくて、僕は落とさないようにしっかり
と握り締めて、深く一礼してそれを頂いた。
﹁では、おやすみ﹂
僕の行動が大げさだと笑い、右手をひらりと振って、今度こそ瑛
様はドアの方へと歩いて行かれた。僕はその背を見送って、深く頭
を下げていた。今宵再会して、他愛の無いおしゃべりをしただけで、
僕の心は更に瑛様に恋焦がれている事に、自分でも驚いていた。
あの腕に抱かれたら、どんな気持ちがするのだろう⋮⋮暖かな腕
で⋮⋮。
お別れした途端、もう瑛様にお目に掛かりたい思いが押し寄せて、
僕はひっそりと熱い吐息を零していた。
23
第4話
瑛様から頂いたピアス。
僕の耳朶にはまだピアス穴が無かった為、直ぐに着ける事も出来
なかった。けれど、肌身離さず持っていたくて、部屋を探したら出
て来た、友人の旅行土産で貰った小さな鈴の入っていたボール箱に
ティッシュを詰め、その上にそっとピアスを乗せて蓋をし、その状
態でポケットに入れて持ち歩くようになった。
同級生の、既にピアス穴を開けている女の子達に、何処で開けて
きたのか聞いたら、アクセサリー店に安っぽいステープラーのよう
な形の、ピアス穴を開ける道具があると言うけれど。素人がそんな
物を使って開けるのは怖くて、試してみる気にはなれなかった。素
人が無茶な事をして、もし化膿したりしたら、と思うと、それだけ
は絶対に避けたかった。
からか
折角、瑛様が下さったピアスなのだ。僕はそれを身に着けるとし
たら、絶対に外したくないと思っていたのだ。
女の子達には、何故そんな質問をするのかと、揶揄うように聞か
れたけれど、僕はこの時も曖昧に笑んで誤魔化した。ありがとう、
と言ってその場を逃げ出した僕の背に、彼女にピアスをプレゼント
するのかと、更に問う声が聞こえたけれど。僕は足を止め、一度だ
け振り返って、そうじゃないよと手を振って、今度こそ逃げ出した。
そんな訳で、ポケットに小さな箱を入れていたある日。また瑛様
との再会が叶った。
お店にいらした瑛様が、その夜の相手に誰を選ぶのか、僕はドキ
ドキしているしか出来ない。選ぶのは常にお客様であって、僕達に
はその権利は無いのだから。
僕が選ばれますように、と祈るような時間は長く感じられた。瑛
24
様が僕の名を呼び、手を差し出してくれて、安堵と嬉しさが入り混
じった僕は、そっとその手を取った。暖かな瑛様の体温が指先に伝
わり、それだけで僕の鼓動は駆け出して行くようだった。
瑛様を案内してプレイルームへ。
扉を開いて頭を下げた僕の前を、瑛様が先に部屋へと入って行く。
僕はその後に続いて入室して、静かに扉を閉めた。
﹁ああ、ソファに掛けていろ﹂
この夜、初めての瑛様の命令。僕は失礼しますと答えて、そっと
ソファに腰を下ろした。瑛様は室内のミニ・バーに置かれた冷蔵庫
へと歩み寄り、扉を開いて中を眺め始めた。僕はその背をずっと見
詰めていた。
瑛様は冷蔵庫からミネラル・ウォーターのボトルを取り出すと、
ついでにゴブレットも手に取って、僕の方へと歩き始めた。
﹁ピアスはどうした?﹂
﹁此処に持っておりますが、未だ耳朶に穴を開けに行く時間も無く。
申し訳ございませんが、このようなままになっております﹂
何気なく問いかけた瑛様に、僕はスーツのポケットから小さなボ
とが
ール箱を取り出し、蓋を開いて中を見せた。まだ着けていない事を
咎められたような気がして、僕は身を竦める。プレイルームの薄暗
い光の中で、紅い石がキラリと美しく光った。
瑛様は僕の方へと歩いてくる途中、ふと思い出したように棚の前
に立ち、其処に置かれた小さな抽斗から、何かとても小さなものを
摘み上げた。視力が弱い、メガネを掛けていない今の僕には、それ
が何かは見て取ることが出来なかった。
﹁ミルクティーのボトルもあったが、温めるのは面倒だからな﹂
ほの
瑛様は静かに笑みながら、僕の隣に腰を下ろした。服越しに、瑛
様の仄かな体温が伝わってきて、僕の心臓はまた大きな鼓動を刻み
始めた。
﹁私のことなど⋮⋮お気遣いは不要でございます﹂
そう答えた僕の声は、不自然に上ずり、震えていた。その事が恥
25
ずかしくて、頬が火照り始め、僕は俯いてその頬を隠そうとした。
瑛様は僕が手にしていた、ピアスの入った小箱を一瞥して笑い。
﹁君のものだ。持っていようと、はたまた捨てようと、好きにする
と良い﹂
そう言いながら、持ってきたゴブレットに、ボトルのミネラルウ
ォーターをたっぷりと注ぎいれた。ノンガスだから飲み易いだろう、
と差し出されたゴブレットを、僕は恭しく受け取った。その水の中
に、瑛様は手にしていた小さなパッケージからカプセルを取り出す
と、それを指先で捻るようにして半分に割り、中に入っていた白い
顆粒を僕の手にしていたゴブレットに落とした。冷たく冷やされた
水が薄白く濁った。
﹁飲め﹂
瑛様の命令は簡潔だった。拒否する気は無いけれど、此処にいる
僕には拒否権は無い。僕はいただきますと一礼して、手にしたゴブ
レットに口をつけ、目を閉じるようにして流し込んだ。冷たい感覚
が喉から胃へと滑り落ちて行った。一気に飲み干すには多すぎる量
の水を、少しだけ時間をかけて全て嚥下すると、僕は手にしていた
ゴブレットをテーブルに置いた。苦しさに、ひっそりと息を吐いた。
瑛様はテーブルに置かれた空のゴブレットに、再びボトルの水を
満たし、滑らせるようにそれを僕の前に置いた。
﹁まだまだあるぞ。遠慮せずに飲め﹂
優しげに微笑んだ瑛様の唇が、残酷な言葉を告げた。僕は諦めて
ゴブレットを取り上げ、なみなみと満たされたその中身を、ゆっく
りと喉に流し込んでいった。先刻以上に時間をかけて、漸く全てを
飲み干した僕は、ともすれば戻してしまいそうなほどの胃の張りに
喘ぎながら、空になったゴブレットをテーブルに戻した。
﹁先ほどのカプセルの中身が気にならないか?﹂
瑛様は意味ありげに微笑みながら、まだかなりの量を残している、
ミネラルウォーターのボトルを僕の目の前で揺らした。この場所で
飲まされる薬といえば、大体の想像はついたけれど、僕はそれを出
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来る限り意識から遠ざけようとしていた。
二杯の水は僕の身体を冷やし、エアコンで温度調節をされた室内
では汗になることも無く⋮⋮徐々に下腹に嫌な緊張感を覚えさせ始
めていたのだから。
﹁そんなに喉が渇いていたか? さあ、どうぞ?﹂
瑛様は愉しげにまたミネラルウォーターをゴブレットに注ぐと、
僕の前に置いた。僕は水で急激に胃を膨らまされて、呼吸もままな
らないままに浅く喘いでいた。僕は苦しさに涙を滲ませながら、ま
たそのゴブレットに口をつけ⋮⋮胃の中から全ての水が吹き上がっ
てしまいそうな苦しさを堪えながら、それでもどうにか全てを流し
込んだ。空になったゴブレットをテーブルに戻し、僅かばかりも俯
くことの出来ないほどの苦しさに浅い呼吸を繰り返しながら、、僕
はソファの背凭れに身を預けた。
﹁利尿剤だそうだ。即効性ではないだろうが、これを飲み終える頃
には効いてくるだろう﹂
瑛様は微笑みながら、またゴブレットをボトルの水で満たした。
﹁飲め﹂
﹁頂き⋮⋮ます⋮⋮﹂
僕は密かに絶望の吐息を零しながらゴブレットを取り上げ、いよ
いよ戻してしまいそうな苦しさに眉を寄せながら、必死にその水を
嚥下していった。下腹部の緊張感は徐々に高まりつつある。
﹁通常、大人の胃の容量は1.8リットルだと言われているが⋮⋮
個人差もあるだろうしな。気分はどうだ?﹂
気分は、と訊かれるまでも無く、僕の胃は今にも弾けそうなほど
に張りつめて苦しく、その緊張感が徐々に下腹部へと移動していた。
我知らず、もそりと腰が揺らめいてしまう。
その会話の間にもゴブレットには新たな水が注がれ、飲めと命じ
られ、僕は必死の思いでそれを限界まで引き伸ばされた胃の中へと、
少しずつ流し込んでいた。徐々に⋮⋮胃のみならず、下腹部の緊張
もまた限界に達しようとしていた。再び、もそりと腰が揺れてしま
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う。
﹁どうした? 何か落ち着かない訳でもあるのか? 腹でも痛いの
か?﹂
瑛様の手が、いきなり僕の下腹を強く圧迫した。反射的に押し出
されそうになったものを、僕は腿を強く合わせるようにして堪えた。
今の刺激で僕の身体は排泄欲に満たされてしまっていた。
﹁失礼ながら⋮⋮お手洗いに行かせていただきたく存じます⋮⋮﹂
今にも迸ってしまいそうな下腹部の緊張を堪え、僕は震える声で
哀願した。
﹁私が、﹃ああ、いいよ。行っておいで﹄と言うとでも?
瑛様が優しく微笑んで、残酷な宣告をした。
まぶた
僕は腿を擦り合わせ、腰を揺らめかせながら、ひたすらにその排
泄慾を堪えた。唇を噛み締め、きつく瞼を閉じる。頬が生温かいの
は、きっと涙が零れているせいだった。
﹁立ってごらん﹂
瑛様が苦しむ僕に声を掛けた。僕は今にも粗相してしまいそうな
ほどの尿意を堪え、膝を震わせながら立ち上がった。苦しくて、目
の前が薄っすらと暗くなる。
﹁圭⋮⋮辛いか?﹂
瑛様は小さな子供にするように、僕のズボンのボタンを外し、前
立てを緩め、下着ごと引き下ろした。脱いでいいぞ、と⋮⋮つまり
わだかま
は脱いでしまえと瑛様に命令され、僕は全身を震わせながら、足元
に蟠ったズボンと下着から両足を抜いた。
もう、限界はそれほど遠くないはずだった。
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第5話︵前書き︶
前回のお話を読んでくださった方にはご想像がつくかと思いますが、
今回の展開は排泄系となります。そういうお話しの苦手な方は、こ
の先を開かれませんよう、お願いいたします。
29
第5話
こんがん
﹁辛い⋮⋮です。も⋮う⋮⋮助けて下さい﹂
すが
僕は涙を流して懇願していた。既に自分で立っている事は出来ず、
瑛様の胸に縋るように、僅かに体重を預け、ただ身を震わせていた。
瑛様はそんな僕の濡れた頬に手を伸ばし、ゆっくりと撫でた。その
動きは、現在の残酷な状況とは裏腹に、甘いほどに優しく、僕は更
に切なくなって涙を零した。
ささや
﹁そんなに可愛らしい顔で頼まれたら、聞いてやるしかないな﹂
瑛様は僕の耳元で囁いて身を離し、また何かを取りに歩いていっ
た。戻ってきた彼の手には金属のバケツが提げられており、僕は絶
望に崩れ落ちそうになった。
﹁さあ、トイレに行かせてやる﹂
瑛様は僕を再びソファに座らせると、脚までも持ち上げ、座面に
上げさせた。膝が大きく割られ、身体を折り曲げられたことで下腹
部への圧迫が増し、僕の尿意は限界に達していた。ひたすらに唇を
噛み締め、きつく握った掌に自らの爪を食い込ませ、必死に堪えた。
バケツは僕の正面の床に置かれ、瑛様は少し離したテーブルに腰
を下ろし、優雅に脚を組んだ。その表情は、涙に濡れてぐちゃぐち
ゃの僕とは対照的に、何か穏やかな題材で描かれた絵画を眺めてい
るようで、その妙な現実感の希薄さが、僕の意識に焼きつく。
﹁あまり我慢すると痛んでくるだろう。そこまで行くと、今度は出
難くなる﹂
瑛様は苦しさに悶える僕を、冷静に分析していた。女性と違って、
学校や駅などのトイレでは、個々に扉も無く、排泄中の姿が見えて
しまう事はあるけれど⋮⋮このように、その姿を楽しむように見ら
れるという事が⋮⋮それも、恋しくて堪らない人に見られるという
事が、こんなにも恥ずかしくて辛いことだとは思わなかった。僕の
下腹部は、こうしている間にも、どんどんと張り詰め⋮⋮。
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﹁で⋮⋮出ちゃう⋮ッ! も⋮ぅ⋮⋮ダメ⋮⋮ッ!﹂
きつく握り締めていた拳は何時しか上げられ、錯乱したように髪
を掴んでいた。発狂したかのように頭を強く振り、その度に乱れた
髪が汗で濡れた額に張り付く。悲鳴のように叫んだ後、僅かな水分
が自身から滲むのを感じた刹那。新たな涙がドッと溢れ、同時に腹
部を圧迫して満たしていた尿が、一気に迸り出た。
﹁赦してあげよう⋮⋮﹂
瑛様は穏やかに微笑んで頷き、見ていてやるから出して良いぞ、
とまた言葉で僕の羞恥を煽った。
迸り出たものは目の前に置かれたバケツに音を立てて叩きつけら
れた。その音が恥ずかしくて、僕はまた頭を振り乱した。
﹁嫌ぁ⋮⋮ッ! 見⋮⋮見ないで⋮下さい⋮﹂
僕は子供のように泣きじゃくりながら、哀願していた。こんな風
にみっともなく泣く事より、排泄している姿を瑛様に見られる事の
方が、僕にとっては遥かに恥ずかしかった。
﹁私の目をしっかり見ろ﹂
瑛様が強い口調で命令した。
僕はその声に鞭打たれたように、ビクッと身を竦ませ、おずおず
すく
と涙で濡れたままの目を瑛様に向けた。その間も、まだバケツの水
音は終わらなかった。
﹁一体、いつ終わるんだ?﹂
瑛様が呆れたように言う。僕は身を竦ませ、消え入りそうな声で、
もう少しと答えた。漸くバケツを叩く水音は弱まり始め、僕は未だ
泣きじゃくりながら、早く終わって欲しいと祈るような思いでいた。
瑛様は掛けていたテーブルから立ち上がると、部屋の隅に設えら
れた浴室へと向かった。中で水音が響き、洗面器とタオルを手にし
た瑛様が現れた。
﹁終わったか?﹂
﹁はい⋮⋮終わりました⋮⋮﹂
僕は激しい羞恥と、緊張の解けた安堵とで、少し意識を飛ばした
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まま答えた。瑛様は僕の前の床に洗面器を置くと、その中に満たさ
れた湯でタオルを絞り、僕を清めてくれた。肌触りの良い、暖かな
タオルが心地良く、不思議な安心感にも似た感覚に満たされながら、
僕はされるがままになっていた。
﹁今日はここまでだ﹂
瑛様は床に放置されたままの僕の下着とズボンを拾い上げ、差し
出した。僕はすっかり脱力していた身体を起こし、ソファの座面に
上げられていた脚を床に下ろして、それを受け取った。
﹁有難うございました。瑛⋮様⋮⋮﹂
僕は多分未だに羞恥に染まったままであろう頬を隠すように、深
々と一礼した。
﹁君は⋮⋮なかなかに面白い﹂
下げていた僕の頭に瑛様の手が伸ばされ、髪をくしゃっと掴むよ
うに撫でられ、今日はご満足いただけたのだろうかと、少しほっと
した。また会おう、と言い残して部屋を出て行かれる瑛様をそのま
まの姿勢で見送る。
﹁またお目に掛かれます事を、心待ちに致しております﹂
また会おう、というのは社交辞令かもしれないけれど。僕はその
一言に縋るように、頭を下げ続けた。またお目に掛かれます事を、
という僕の言葉だって、恐らく瑛様には社交辞令としか届いていな
いのだろう。こうした店の店員なら、誰でもそう言って客を見送る
はずなのだから。
けれど⋮⋮部屋の扉が閉じられて、廊下を去って行く瑛様の気配
が消えてしまった途端、また瑛様に会いたくて切なくなっている僕
がいた。
瑛様に頂いたピアスを着けるため、穴を開けに行こうと心に決め
た。
片時も離さず⋮⋮瑛様と繋がる物を身に着けていたいと心から思
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っていた。
瑛様の目の前で恥ずかしい姿を晒した翌々日。僕は意を決してピ
アス穴を開けに行った。
身体に針を刺す事だし、女の子達が﹃凄く痛かった﹄とか、﹃片
方が終わった時に、痛くてもう止めたくなった﹄などと言っていた
ので、少しばかりの恐怖感はあったのは事実。けれど、僕が頂いた
ピアスは片方分だけで、それ故にピアス穴も片方だけで十分だった。
何より瑛様に頂いたピアスを常に身に着けていたいと心から願って
いたから、多少の事は大丈夫だという自信もあった。
片方だけのピアス穴を、どちら側にするか悩んだけれど。ピアス
のデザインを見ていて、直感的に右側にする事にした。注射針とい
みみたぶ
っても普通の静脈注射や筋肉注射用のものより一回り太い採血用の
針で、冷やして感覚を鈍らせてあるとは言え耳朶を貫くのであるか
あなが
ら、確かに痛い。片方を開け終えたところで止めたくなった、とい
う話も強ち大げさではないと思った。
そんな苦痛も、処置が終わって、頂いたピアスを装着したら、何
とはない愛おしさすら覚えている自分に気付いた。指で触れてみる
と、冷たい筈の金属は僅かに温もっていて、それは僕自身の体温な
のだけれど、瑛様の手から直接受け取った時のあの温もりを思い出
して、幸せな気分になった。
この日から、無意識にピアスに触れるのが僕の癖になった。
頂いたピアスを着けた事を早く瑛様に報告したくて、それからの
毎日を彼の来訪を心待ちにして過ごした。考えてみれば、ピアスを
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下さったのだって、瑛様の気まぐれで⋮⋮僕がどうのという事では
なかったのだろうけれど。でも、僕は頂けた事がとても嬉しかった
のだ、という事を告げたかった。
勿論、高価なルビーのピアスだからというのではなくて、瑛様か
らのプレゼントをいただけた事が嬉しかった、と⋮⋮。例えこれが
ルビーではなく、ただのガラス球だったとしても、瑛様が下さった
ものだから、こんなに嬉しいのだという事を伝えたかった。
34
第6話
瑛様のご来訪は、それから二日後の事だった。
気軽な口調で、付き合え、と言って僕を連れ出した瑛様は、僕の
服を脱がそうとして、ピアスに気付かれた。
﹁あんな目に遭わされたのに、捨ててやろうとは思わないのか?﹂
と僕の服の襟に手を掛けたまま微笑んだ瑛様は、とても優しい表
情で⋮⋮。僕は反射的に、とんでもない事でございます、と激しく
首を振っていた。
けれど⋮⋮あれだけ伝えたいと思っていた嬉しい気持ちは、その
夜は告げることなく過ぎてしまった。
その思いを告げてしまったら、僕の瑛様への想いまで告げてしま
いそうで⋮⋮。告げたところで、瑛様とは身分の違う僕。決して叶
う事のない恋で⋮⋮。
それより、告げてしまって、瑛様に身分を考えろと嫌われてしま
うことが怖かった。
僕は今のままの立場でも、瑛様の側にいられる事を望んだのだっ
た。
ピアスを着けてから10日程も経った、世間はゴールデンウィー
クに入る頃のある日。
お店にいらした瑛様は数人の店員を集め、ちょっとした提案をし
た。それは、互いに相手を指定して問題を出し合い、答えられなか
ったら罰ゲーム、という単純なルールのクイズ大会だった。
お客様の入りの悪かったこの日、指名も無く暇をもてあましてい
た店員は、すぐにその話に乗った。勿論、瑛様の側にいたいと願っ
ていた、この僕もである。
この提案と選択が、後の僕達の運命を大きく変えるきっかけにな
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るなんて、瑛様にも僕にも予測できるはずも無かった。
瑛様が僕に出した問題たるや⋮⋮コンサート用フルサイズの、グ
ランドピアノのサイズだった。僕はピアノ科の学生で、つまりは弾
き手なのだ。自分専用のピアノを常に専門の業者に運ばせ、僕個人
の調律師が毎回調律してくれるような、そんなトップクラスのピア
ニストのような事は出来るはずも無い。当然、テストだろうが校内
演奏会だろうが、練習用でもフルサイズでも、其処に用意されたも
のを弾くのが当たり前なのだ。
つまりは、グランドピアノのサイズなんて、知るはずも無く、簡
単に負けた。
罰ゲームは瑛様の提案で、怪しげな催淫剤を飲む事で。冷たい水
でそのカプセルを飲み込み、暫くすると僕の身体は妙な熱を帯び、
たわむ
僅かに触れられただけでもゾクリと全身がざわめくほどに敏感にな
ってしまった。
その後のゲームの記憶は殆ど無い。ただ、瑛様の隣で、時折、戯
れに肩を抱かれたりしながら、体内の熱を少しでも冷まそうとする
かのように、喘いでいたのだと思う。
どれほどの時間が経ったのか。いつの間にかゲームの参加者は増
えて行き、僕達の周囲が賑やかになって⋮⋮遂に瑛様もゲームに負
けた。催淫剤を飲まされた瑛様が、苦しげに歯を食いしばり、僕を
借りると宣言したのも何処か遠い世界のことのようだった。
あお
薬に煽られ、脚をもつれさせながら、僕を引き摺るようにして瑛
様が向かったのは、隣接するホテルだった。
瑛様はフロントで何かを告げると、真っ直ぐに小さな温水プール
のある地下へと降りた。他人が見たら、泥酔しているような二人を、
拒否することなく受け入れてくれたという事は、このホテルでも瑛
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様は顔がきくらしいと、ぼんやりとした頭で考えていた。
プールサイドまで辿り着くと、瑛様は僕の上着を乱暴に脱がせ、
シャツを引きちぎらんばかりの勢いで剥ぎ取り、僕を水の中へと突
き落とした。プールの営業時間は終わっているのか、温水プールと
聞いていたが、水は冷たく、不自然に火照った肌には心地良かった。
﹁自分でズボンを脱げ﹂
苦しげに命じた瑛様は、自らもまたもどかしげに服を脱ぎ落とし、
僕の直ぐ側に飛び込んできた。僕は水の中で更に自由を奪われなが
ら、どうにかズボンと下着を取り去り⋮⋮。そして、瑛様に乱暴に
引き寄せられた。
﹁自分で言い出しておきながら⋮⋮こんな目に遭うのは⋮⋮っ!﹂
瑛様は苦しさと悔しさに奥歯を噛み締めながら言葉を吐き出すと、
僕の片脚を抱え上げ、一気に僕の身体を貫いた。慣らされぬままに
大きな熱を捩じ込まれる苦痛と、心の通わない交わりの切なさと、
それでも愛しい人を受け入れる幸せとの狭間で、僕は喘ぎ、何時し
か涙を零していた。
激しく突き上げられる度、僕の背はプールの縁に擦られたが、痛
みなど全然感じなかった。ただ、体内に受け入れた熱が嬉しくて、
ひたすらにそれを締め付けていた。幸せが全身を満たして、このま
ま時が止ってしまえば良いと、祈るように願っていた。
身体の奥に感じた熱に、僕もまた全身を深い快と幸せに満たされ
たまま、熱い精を水の中に放っていた。好きで堪らない人を受け入
れていると言うだけで、僕は心の中まで深く満たされていた。
しかん
ずっと催淫剤による熱を帯びた快を堪え続けた僕の身体は、達し
たことにより、糸が切れたように弛緩して浮かび上がりそうになっ
た。その身体を、瑛様は押さえ込むように抱き締めて、更に激しく
突き上げた。呼吸を整える間も与えられず、再び追い上げられ始め
た僕は、苦しい快を唇を噛んで堪えていた。
突き上げられる度に僕の背は快に震え、内壁は大きな熱を放すま
いと必死に締め付けていた。腕の中に囚われたまま、僕もまたその
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広い背に腕を回し、力一杯抱き締めたい衝動を覚えていた。僕の想
いの限りを込めて、両腕でしっかりと、互いの肌がぴったり密着す
るほどに抱きつく事が出来たなら⋮⋮。
けれど、僕にはその勇気が無かった。高級倶楽部に会員登録する
ほどの、地位もお金も持った瑛様と、その倶楽部で身体を売ってい
る僕。あまりにも、身分が違いすぎた。恋しい想いが強いほど、そ
の身分の壁が僕の前に大きく立ちふさがっている気がした。
幸せで、苦しいほどに気持ちが良くて⋮⋮そして悲しくて。きつ
く唇を噛んだ僕は、プツンという感触で其処を噛み切ってしまった
ことに気付いた。反射的に触れた指先が赤く染まっていた。
容赦ない激しさで突き上げられながら、僕の身体は再び熱を帯び
ていた。
﹁圭⋮⋮﹂
瑛様が苦しげに呻きながら、僕の名を呼んだ。
僕は目を開けて、うっとりと瑛様を見上げた。僕が瑛様にこんな
切ない表情をさせているなんて、それだけで嬉しくて達してしまい
そうだった。体重を掛けるように、と言っても浮力でさほど重さは
感じなかったのだけれど、きつく抱き締められ、浮き上がってしま
いそうな僕の身体を安定させるためだけに、瑛様に縋って⋮⋮。
﹁瑛様⋮⋮﹂
僕もまた瑛様の名を呼び返し。この夜の記憶を少しでも身体に残
したいと、ひたすらに埋め込まれた瑛様の熱を締め付けていた。
そうして、僕の身体の中で瑛様が二度目の熱を吐き出し。ほぼ同
時に僕もまた二度目の精を放っていた。
﹁お前も⋮⋮容赦無い奴だ⋮⋮﹂
全身を震わせている僕を抱き、耳元で瑛様が囁いた。耳朶に触れ
た熱い吐息と、その甘く低い声に、僕の背には新たな震えが走り抜
けた。
﹁こんなに早く、お前を抱くつもりではなかったんだが⋮⋮﹂
瞳に熱を宿したままの瑛様が僕を見詰めていた。まだ呼吸も整わ
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ない僕の心臓は、この視線だけでまた苦しいほどの鼓動を刻みそう
になる。
先にプールサイドに上がった瑛様が、疲労で水に足を取られ、ゆ
らゆらと揺らめいている僕を引き上げてくれた。さっさと拭け、と
備え付けのタオルを切れた唇に押し付けられ、僕は濡れていた顔を
拭ってから広げ、身体に巻きつけた。
瑛様は皺になったシャツとズボンを身に着けてから、僕のシャツ
はボタンが飛んでしまっているし、ズボンと下着はプールの中で水
浸しになっている事に気付いた。プールサイドから離れた水の中で
揺れている服を見遣って困っている僕に、瑛様は自分の上着を拾い
上げて着せ掛けてくれた。上着は微かに瑛様の香りがして⋮⋮まる
で瑛様の腕の中に抱かれているようで。
僕は上着の前をしっかり掻き合わせて、身体に巻きつけた。
瑛様は何事も無かったかのように、プールを出て行った。僕は上
着をしっかりと掻き合わせたまま、その後姿を見送った。
上着を着せてもらったものの、これからどうやって帰ろうと途方
にくれていた僕に、瑛様が手配してくれたらしく、バスローブが届
けられ、シングルの一部屋に案内された。
僕はベッドに潜り込んで、この夢のように過ぎた一夜を思い返し
た。
幸せすぎて切なくて、涙が零れてならなかった。
でも⋮⋮。
﹃こんなに早く、お前を抱くつもりではなかった﹄って⋮⋮?
どういう意味だったのだろう。
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第7話
深夜と言うよりは夜明け近くの時間に、プールの中で瑛様に抱か
れた。その後、瑛様の手配でホテルの一室を使わせてもらい、朝ま
での短い時間を、僕は浅い眠りの中で過ごした。
疲れているはずなのに、眠ってしまうことが惜しいほどに幸せで
はんすう
⋮⋮。暖かな布団に包まれたまま、僕はあの夢のような時間を幾度
も反芻していた。
朝の日差しが部屋に満ちて、ベッドから抜け出した僕は、お借り
にじ
していた瑛様の上着を見て心臓が跳ね上がりそうになった。
その滑らかな裏地には、僕の傷ついた背中から滲んだ血が、淡い
染みになっていたのだ。脱いだ時に気付かなかったのは、それを着
せ掛けられた時僕の身体が濡れていたため、その水分ごと裏地に付
いた血は薄かったのだろう。けれど、時間が経って乾いてみると、
確かに水が染みて滲んだだけではない、淡い褐色が混ざっていた。
僕は慌てて部屋を飛び出そうとして、自分の服がない事に気付い
た。ホテルで貸してくれたバスローブを身に着けて、細くドアを開
き、その隙間から廊下を覗いてみた。瑛様の手配は細やかで、ドア
のノブにはあの水の中から引き上げられ、乾燥させてきちんと折り
目をつけたズボンと、弾け飛んだボタンをまた丁寧につけられたシ
ャツと、プールの床に放り出されたままの上着がハンガーに吊るさ
れて掛けられていた。床を見ると、何処に置いて来てしまったのか
記憶の無い靴が揃えられ、その上に新しい下着と靴下まで置かれて
いた。
僕はそれらを室内に取り込んで、急いで身に着けた。そうして瑛
様の上着をしっかりと抱え、エレヴェーターで一階へと降りた。
フロントで昨夜の無理にお礼を言って、宿泊料は⋮⋮と言い掛け
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ると、それは既に支払われているとの事。すっかり瑛様に面倒を掛
けてしまったと、申し訳ない思いで一杯になった。けれど、店に出
るための服には財布もクレジットカードも入っておらず、ここで直
ぐに支払いの出来なかった僕は、無銭宿泊の疑いを掛けられずに済
んだことに、安堵を覚えてもいた。
朝食を、と言ってくれたフロント係の人に、それは断って僕はホ
テルを後にした。頭の中はこの近所のクリーニング店が何処にあっ
たか、で一杯だったのだ。
夜のバイトに来るだけの街は、そんな日常的なお店の場所も分か
らず、仕方なく僕は学校の最寄り駅のデパートにある、クリーニン
グのチェーン店に行く事にした。
カウンターに瑛様の上着を置き、広げて、染みがある事と、その
染み抜きをして欲しい旨を告げると、店員さんはどう見ても僕のも
のではない、僕には大きすぎる上着を何も問う事無く見遣った。染
みの種類は、と聞かれ、少し戸惑いながら血液だと思うと答える。
そんな不自然な場所に付いた血液に対しても無関心のように、依頼
票を書き込みながら、上質の上着のようなので、ワンランク上のク
リーニングにしますかとだけ問うた。
僕は勿論それで頼むと答えた。
﹃乾いてしまった血液は落ちにくいんですが、出来る限りはやらせ
ていただきます﹄、という店員さんに宜しくお願いしますと言いな
がら預かり票を受け取って、僕は店を出た。
このまま登校しようかとも思ったけれど、身体の奥に薬の名残の
熱が燻っているようでだるく、中途半端な浅い眠りは更に眠気を誘
うようで。この日は実技科目の授業もないし、化学やら社会学やら、
音楽とは関係のない教養科目ばかりだし⋮⋮と思ってしまったら、
面倒になってしまった。
僕は自主休校を決め込んで、そのまま帰宅する事にした。
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自分の部屋に戻った僕は、今度こそ睡魔に負けて、朝食も摂らな
いままにベッドに倒れこみ、そのまま夕方まで気を失ったように眠
り続けた。
幸せな夢を見たかどうか、その記憶も無いくらい深い眠りだった。
それからの僕は、今まで以上に瑛様の事で頭が一杯になったまま
だった。
しず
夜、ベッドに入って思い出すのは、僕を激しく突き上げていた瑛
様の、あの熱っぽい瞳だった。
媚薬によって暴走した身体を鎮めるためならば、誰でも良かった
のかもしれない。けれど、あの晩、瑛様を受け入れていたのは僕の
身体で⋮⋮瑛様にあんなにも熱っぽい瞳で見詰められていたのは僕
で⋮⋮。それだけで、幸せだった。
数日後、僕が汚してしまった上着のクリーニングが出来たと連絡
があり、僕は学校の帰りに受け取りに行った。
預かり票を出しながら、連絡の礼を述べていると、奥に出来上が
ったものを取りに行っていた店員さんが、申し訳無さそうにカウン
ターへと歩いてきた。染み抜きをしたのだけれど、一度乾いてしま
った血の痕は落ちにくいのだと⋮⋮そして、上質のシルクの裏地は
弱く、あまり強い染み抜きは生地そのものを傷めてしまいそうで、
これ以上は無理だという事だった。また、幾度かクリーニングを繰
り返すうちに、徐々に消えてゆくだろう、とも。
僕は代金を支払って上着を受け取り、瑛様にどう言って謝罪しよ
うかと悩んでしまった。
例えば弁償するにしても、決して安くは無い僕のバイトの給料で
42
も、何か月分が必要だろう⋮⋮。勿論、それで赦されるものならば、
それはそれで有難いのかもしれないけれど。けれど、何となく、瑛
様はそういう形の弁償を望まないような気もしていた。
瑛様が久しぶりにお店にいらしたのは、あのゲームから10日も
経った、ゴールデンウィーク後のある夜だった。
僕が夜中過ぎに出勤すると、瑛様はバーのカウンターに一人座っ
てバーテンダーと静かに話をしているようだった。手にしたグラス
は、瑛様お気に入りのカイピリーニャだろうか。中では刻んだライ
ムが揺れていた。
僕は一度店員の控え室に戻り、ここ数日保管していたあの上着を
持って来た。
この間のプールでの出来事が一気に思い出され、恥ずかしさと嬉
しさとで頬を染めながら、僕は瑛様の側へと歩み寄った。
﹁いらっしゃいませ、瑛様﹂
カウンターのスツールに掛けてお酒を飲んでいる瑛様の傍らに立
ち、僕は深く頭を下げた。
﹁おや、こんな時間にまだ仕事か?﹂
とろ
この間は済まなかったな、と笑みながら僕の方を振り向いた瑛様
ちゅうちょ
の瞳は、アルコールのせいか僅かに蕩けており、僕は苦しいほどに
胸が高鳴り始めた。僕は、はい、と頷き暫く躊躇して、けれど何時
までこうして黙っている訳にも行かないと、一つこっそり深呼吸し
て、言葉を紡ぎ始めた。
﹁あの⋮⋮誠に申し訳ないのですが⋮⋮。先日お借りした上着なの
ですが、裏地に私の血が付いていたのに気づかず、朝まで放置して
しまったので⋮⋮クリーニングに出して、染み抜きも頼んだのです
ほこりよ
が、放置して乾かしてしまったのが悪く、どうしても落ちきりませ
んでした。申し訳ございません⋮⋮﹂
僕はおずおずと、手にしていた、簡単な埃避けのようなケースに
43
入れておいた上着を差し出し、謝罪の意を込めて、もう一度深く頭
を下げた。
﹁ああ⋮⋮私の責任だからな。気にしなくて良い﹂
瑛様は大した事ではないと言う様に答えると、グラスの中のライ
ム片を摘み上げて齧った。瑛様はお客様の相手をする僕達のような
店員ではなく、雑用のために待機している店のスタッフに合図をし
て呼ぶと、僕が手渡した上着を何気なく受け取り、染みの状況も確
認せずに、それを車に運んでおいて欲しいとキーと共に渡した。
44
第8話
店のスタッフが、瑛様の上着と車のキーを預かり、部屋を出て行
った後。
僕は瑛様の側に静かに立ち。⋮⋮それだけで幸せだった。
広い背中、知的な横顔⋮⋮今、それを見詰めているのは僕だけ⋮
⋮。そんなささやかな事が嬉しくて、僕は瑛様の側に居続けた。
﹁あの⋮⋮もし宜しければ、汚してしまった上着の罪滅ぼしにもな
りませんが、お背中でもマッサージいたしましょうか?﹂
僕は不意の思い付きを口にした。瑛様は僕を振り返って、一瞬ポ
のぞ
カンとした表情を浮かべ、直ぐに笑い出した。
﹁一度、君の頭の中を覗いてみたいものだな。上着のことは気にし
おか
なくて良いといっただろう。特別な思い入れがある物じゃない﹂
余程僕の言った事が可笑しかったのだろう。肩も声も笑いで震わ
せながら瑛様が答え、漸く笑いを収めた。僕は大笑いされたことが
恥ずかしくもあり、また、瑛様の伸びやかな笑い声が耳に心地よく
もあり。肩を竦めて頬を染めた。
﹁でも⋮⋮他人の血の染みのある上着など、ご気分が悪いでしょう
から。もうお召しにはならないのではないかと思うと、本当に申し
訳なくて﹂
﹁では、君が着るか?﹂
尚も身を竦めて頭を下げた僕に、瑛様は僕の目を覗き込んで、そ
う言った。僕は瑛様の真っ直ぐな視線に射抜かれて落ち着きをなく
し、バーテンダーに救いを求めるように瞳を揺らめかせた。けれど、
当然の事ながら、お客様と店員の会話に入ってくるような無礼な振
る舞いはせず、僕は一人で困惑した。
﹁私には⋮かなり大きゅうございますから﹂
﹁冗談だ。折角染み抜きまでして貰ったのだから、そのまま着させ
て貰う。確かに血は嫌いだが⋮⋮それほど病的ではないつもりだが
45
な﹂
本気で焦りまくる僕に、瑛様はフッと笑った。最後に僕の同意を
求めるように、僅かに首を傾げて眉を上げられたが⋮⋮残念ながら
僕はまだそれほど深く、瑛様の事を知ってはいなかった。
ただ、この場限りの言葉かもしれなかったのだけれど、このまま
着て貰えると言ってもらえて、全身の緊張が抜けてゆくようだった。
﹁あの生臭さや、何とも言えない色⋮⋮粘りつく感触⋮⋮。まあ、
血が嫌いなせいで、怪我をしないようにと用心深くはなったな⋮⋮。
仕事でも、出来ればルビーやロードライトは扱いたくない。ルビー
を使ったデザインを頼まれて、期日を守れた例がない﹂
僕から視線を外した瑛様は、独り言のように呟いた。その瞳は⋮
⋮何となく、この場にある何かではなくて、彼の記憶の中の何かを
見ているように思えた。言葉を紡ぐほどに現実へと戻ってきたのか、
最後は何時も通り、本気とも冗談とも付かない口調になって終わっ
た。
﹁でも、先日頂いたピアスは、確かルビーと仰ってましたよね?﹂
僕は自分では見ることの出来ない、耳朶のピアスを確かめるよう
に指で触れた。
いし
﹁ああ、君が赤が好きだと言ったからだ。⋮⋮それの本物は未だ出
来ない。良い宝石が見つからないのと、デザインが今ひとつ気に入
らない﹂
え? と僕は自分の耳を疑った。確か、これは試作品だと⋮⋮。
片方しかない試作品だから僕にくれたのだと⋮⋮そう信じていた。
瑛様の指がピアスの飾られた僕の耳朶に伸ばされ、僕はビクンと
みみたぶ
肩を震わせながら、混乱して立ち尽くしていた。
僕の耳朶に着けられたピアスに伸ばされた瑛様の指先は、僕の薄
い肉ごとピアスの前後を挟み込んだ。
﹁これをこのまま、力任せに下に引いたら、耳朶が切れるだろうな。
そして、出血する⋮⋮。君にとっても、私にとっても、有り難くな
い状態になるわけだ﹂
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瑛様は冗談とも本気とも付かない顔で、ニヤリと笑って、指先を
僅かに下に引いた。僕は未だ完治してはいない小さなピアスホール
を無理に引かれ、耳朶に走った痛みと、ピアスごと引きちぎられる
恐怖に、思わず目を閉じ、歯を噛み締めていた。
﹁時々、こうして酷く凶暴な気分になる。自分の嗜好に背いてでも
⋮⋮﹂
僕は耳朶を引っ張られる動きのまま、そこを引き千切られたくな
ささや
い恐怖から身を折り曲げていた。その耳元に瑛様が唇を寄せ、そう
こぼ
囁いた後、ピアスに掛けていた指を離した。僕はゆらりと身を起こ
し、密やかな安堵の吐息を零していた。
﹁安心しろ。今のところ、まだ理性の方が優勢だ﹂
恐らく血の気の引いた表情をしていたであろう僕を見て、瑛様は
今度こそ明らかに悪戯っぽい表情で笑った。
﹁そのように凶暴な気分になられた時⋮⋮私でも宜しければ、何時
でも御奉仕させていただきます﹂
僕はまだ緊張と恐怖の余韻に身を震わせながらも、我知らずそう
答えていた。
その言葉、忘れないでおくとしようと言いながら、瑛様はスツー
ルから立ち上がった。
﹁今夜はこれで失礼する。御機嫌よう、圭﹂
瑛様は優雅に笑むと、そのまま僕に背を向けるようにして、部屋
を出て行った。
ゆる
僕はこの夜も瑛様の背を見送りながら、上着を汚してしまったこ
とを赦された安堵も重なって、床にへたり込みそうになっていた。
瑛様との時間を過ごすほどに、僕は苦しいほどに瑛様に惹かれて
行った。
絶対に叶う筈の無い恋だけれど⋮⋮諦めなければと自分に言い聞
かせてみるけれど⋮⋮けれど、それ以上に瑛様が恋しくて堪らなか
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った。
48
第9話
僕の背についた、プールの縁で擦られた傷も日が経つにつれて薄
れてきた。
その事によって、瑛様に抱き締められた事も夢の中の出来事にな
ってゆくようで、僕は一抹の寂しさを覚えながら過ごしていた。
何時でも全てを語らない瑛様が残した言葉は、僕の中に積み重な
っている。﹃こんなに早く抱くつもりではなかった﹄﹃︵僕のピア
スがルビーなのは︶君が赤が好きだと言っていたからだ﹄⋮⋮等。
前者に関しては、あんな風に媚薬の熱に惑わされなかったとして
も、何時か僕を抱いてくださるつもりだったのだろうかと。後者は、
僕のピアスが試作品で、石も大した物では無いから下さったという
ふく
のは、もしかして言い訳だったのだろうか、なんて⋮⋮。都合の良
い期待が僕の中で膨らみ、そんな期待をしてはいけないと、自分で
その思考を打ち消す、そんな毎日だった。
実際にお目に掛かれたからといって、僕の疑問をぶつける事など
出来よう筈もないけれど。暫く瑛様はお店に見えなかった。
僕は毎夜、お店のバーカウンターに凭れ、扉が開いて瑛様が現れ
ることを待ち続けた。
瑛様が現れたのは、僕が血の染みが残ってしまった上着をお返し
してから、一週間も後だった。
何時ものように静かに扉を開き、店内に入って来られたのを見て、
僕はカウンターから身を起こして、深く一礼した。自分では見えな
いけれど、きっと僕は嬉しそうに笑んでいたのだろうと思う。
瑛様は室内を見回してから、僕を指名して、直ぐに興味を失った
とでも言うように背を向け、プレイルームの並ぶ廊下へと歩き始め
た。僕は小走りにその背を追いながら、お目に掛かれた嬉しさに胸
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をときめかせていた。
どんなに自分で抑え込もうとしても、僕は苦しいほどに瑛様に恋
焦がれていた。
瑛様は今夜の遊びのために選んだ扉を示し、追いついた僕がそれ
いわゆる
を開いた。
其処は所謂VIPルームで、開いた扉の内側は、内装も、備品も、
全てが一般のプレイルームより豪華だった。瑛様は先日のゲームの
後、この部屋の使用権を手にしたとか⋮⋮。僕はその部屋の内部に
圧倒され、思わず腰が引けていた。
﹁さすがにVIPルームの事だけあるな﹂
瑛様は室内を見回して、満足したように呟いた。
﹁圭はここへは?﹂
過去にも来た事があるのか? というように視線が僕の方へと向
けられた。
ごうしゃ
﹁初めてでございます﹂
豪奢な室内に圧倒されていた僕は、掠れた声で答えた⋮⋮と思う。
そのくらい、僕は緊張していた。
﹁とにかく座ろう。何か飲むものを⋮⋮。いや、自分で用意する﹂
瑛様は室内に作り付けのバーコーナーへと歩を進め、並べられた
壜を見回すと、スコッチをロックグラスにたっぷりと注いだ。
﹁圭は? ミルクティーか?﹂
緊張したまま立ちすくむ僕に、瑛様はカウンター越しに笑みかけ
てくれた。僕は胸に詰めていた息をゆっくりと吐き出し、頷いた。
﹁出来ましたら、ブランディーは抜きで⋮⋮﹂
こんな仕事をしているけれど、僕はアルコールに弱かった。それ
に、一応音楽科の学生で、声楽の授業もあるので、出来る限りは喉
を荒らしたくないという思いもあった。それで、今までも赦される
限りはミルクティーを、と答えていたのだった。けれど、瑛様はそ
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んな僕の思いを知ってか知らずか、悪戯っぽく笑うと僕のカップに
大量のブランディーを注ぎ込んだりした事もあった。だから、この
夜も、もしかしたら逆効果かもしれないと思いつつ、出来ましたら、
とアルコールを抜いて貰える様に頼んだのだった。
﹁かしこまりました、お姫様﹂
瑛様はカウンターの向こう側で、まるで自分の方が店員であるか
のように、胸に手を当てて一礼して、ペットボトルの物とは言え、
冷たいミルクティーをカップに注ぎ、自分用のグラスと共に手にし
て僕の方へと戻ってきた。﹃お姫様﹄と呼ばれた僕は、その言葉だ
けでまたドキドキしてきて、頬が熱を帯び始めるのを止めることが
出来なかった。
﹁お座り下さい﹂
尚も瑛様はふざけて店員のように振る舞い、テーブルにグラスと
カップを並べて置くと、ソファを指し示した。僕は失礼します、と
深く一礼して、示された場所に腰を下ろした。
目の前に置かれたグラスに不安げな視線を投げている僕に、瑛様
は﹃それは私の分だ﹄と笑った。
僕は勧められるままに、カップのミルクティーに口をつけた。出
来合いの、ペットボトル入りの紅茶だったが、舌の上をまろやかに
滑る甘みに、僕は安堵していた。
何を会話していたのか、もう思い出せないが、瑛様の隣に座り、
その穏やかな体温を服越しに感じているだけで嬉しかった。
恐らく、それほど長い時間ではなかったのだろう。瑛様がグラス
一杯のお酒を飲み終え、ソファから立ち上がった。そのままゆっく
りと、部屋の中央へと歩いて行く。僕はその後姿を見詰めていた。
瑛様は静かに立ち止まると、緩やかに振り向き、笑みながら僕を
手招いた。僕は最後の紅茶を飲み干して立ち上がり、緊張で僅かに
身を震わせながら、瑛様の前へと向かった。
﹁後ろを向いて、両腕を後へ回せ﹂
今までの他愛の無い会話と同じ穏やかさで、瑛様が命じた。僕は
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仰せのままにと答えて、言われるままに瑛様に背を向けて、両腕を
背後に回して差し出した。
僕の両手首には拘束用のベルトが掛けられ、締め付けられた。そ
のままの状態で誘われ、天上から吊られた鎖にそのベルトを固定さ
れた。鎖が引かれ、僕は後ろ手のまま吊り上げられ、肩を捻り上げ
られるような苦痛に呻き、身を前かがみに折った。
﹁人間の身体は不思議なもので、例えば痛みを我慢しようとすると
手足に力が入ったり、痛い部分を押さえたり⋮⋮どうしても身体を
丸めようとするものだ。君も、経験上良く知っているだろう?﹂
瑛様は僕の答えを期待する風でもなく、独り言のように呟いた。
そのまま室内の壁面に設えられた、数々の﹃道具﹄を並べた棚に向
かい、中には既に透明の液体の詰められた、筒状の硝子器具を手に
して、僕の前へと戻ってきた。
﹁身体を大の字にしたままや、そんな風に不安定な状態で苦痛を我
慢する、というのは至難の業だな?﹂
それでなくとも僕より長身の瑛様は、身を折って堪えている僕の
前に屈み込んで、顔を覗き込んできた。僕は瑛様の手にしたものに
恐怖し、緊張に脚が震え出すのを抑え切れなかった。
﹁これが何だか良く解っているようだな﹂
伸ばされた瑛様の掌が、そそけ立った僕の頬を撫でた。仄かな体
温が、冷たくなった僕の頬に残される。
僕は目の前に差し出されたままの物を、目を伏せる事で無理やり視
界から消し、思考からも消そうと無駄な足掻きをしていた。
﹁グリセリン溶液、200cc⋮⋮薬に弱い君には、充分な量だろ
う﹂
そんな僕のささやかな抵抗を嘲笑うかのように、瑛様はその液体
の名を口にした。僕は固く目を閉じたまま、身を震わせる事しか出
来なかった。
﹁グリセリン⋮⋮以前は歯の知覚過敏の処置に使っていたそうです
が⋮⋮?﹂
52
口から出た言葉は、往生際の悪い僕の、最後の悪足掻きだった。
もしかしたら、自分自身の現実逃避だったのかも知れない。一つ言
えるのは、考えてから口にした言葉では無いという事だ。
﹁妙な事を知っているな﹂
瑛様は僕のそんな無駄な抵抗を、フッと笑って却下して、僕のズ
わだかま
ボンの前を緩めた。支えを失ったズボンはそれ自体の重みで足元へ
と落ちて、足首の周りに蟠った。その布の小山の上に、下着を引き
下ろされる。僕は奥歯を噛み締め、硬く目を瞑って、少しでも意識
を逸らそうとしていた。
瑛様は僕の背後に回り、手首を吊られる苦痛から逃れようとして
突き出された双丘を片手で押し広げた。さらされた部分に、シリン
ダーの先端から伸びる導入管が宛がわれる。
﹁ひっ⋮⋮﹂
その硬質ゴムの硬く冷たい感触に、僕は喉奥で悲鳴を零した。
導入管がゆっくりと僕の中へと差し込まれる。僕は身を震わせ、
唇を噛み締めて、その嫌な感触に耐えていた。必死にその部分を締
め付けても、細い管は容赦なく僕の体内へと入ってきた。
﹁ひッ⋮⋮あぁぁぁぁぁ⋮⋮﹂
やがて⋮⋮ゆっくりと冷たい液体が僕の中に注がれた。僕は後手
に吊られ、腰を突き出した惨めな姿勢のまま、悲鳴を迸らせていた。
瑛様はシリンダー内の溶液を僕の体内に注ぎ終えると、無造作に
管を引き抜いた。必死に後孔を締め付け、注がれたものを零すまい
とする僕に、どこまで耐えられるか、と言葉を落として、瑛様はも
う一度お酒を取りに、バーカウンターへと歩いていった。
管を引き抜かれた直後から、僕の下腹はゴロゴロと嫌な音を立て、
重たい疼きから始まった腹痛は、直ぐに激しい苦痛へと変わって行
った。
僕達はお店に出る前に、お腹の中を綺麗にして入るけれど⋮⋮。
お店に出てから時間も経っており、全くの空とは言えず。さほど酷
い状況を引き起こすことは無いだろうと思っていても、恋焦がれた
53
人の目の前で排泄させられるというのは、あまりに辛い事だった。
僕は回避出来る筈も無いこれから先の事を思い、また現実的に耐
え難いほどに下腹を満たす苦痛もあって、唇をきつく噛み締めたま
ま、知らず、涙を零していた。
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第10話︵前書き︶
今回の話の中に、前回のグリセリンの結果として、排泄に関わる部
分があります。苦手な方にはお勧めできません。今回、今後の話に
関わる重要な出来事があるのですが、それは11話の前書きに書き
ますので、ご自身の判断で読むか読まないかを決めてくださいませ。
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第10話
﹁具合はどうだ?﹂
よじ
新たなグラスに酒を満たして戻ってきた瑛様が、押し寄せてくる
排泄感を、唇を噛み締め、身を捩り、必死の思いで後孔を締めて堪
えている僕に問いかけた。
﹁苦しゅう⋮⋮御座い⋮⋮ます⋮﹂
ようや
言葉は直ぐに出てこなかった。下腹部を駆け巡る苦痛は限界に達
うなず
しており、その苦痛が幾分和らいだ時に、僕は漸く言葉を紡ぎ出し
た。
せもた
僕の必死の返事に、瑛様はそうだろうなとあっさり頷き、ソファ
に腰を下ろした。ゆったりと優雅に足を組み、背凭れに寄り掛かり、
僕の苦痛は別世界の出来事をTVの画面ででも見ているような風情
にじ
で、手にしてきたグラスに口をつけ。そうして、ただ一言、我慢し
ろ、とだけ言った。
僕は額に大量の脂汗を滲ませ、苦しさに身を捩るたびに乱れ落ち
る前髪を貼り付かせながら、唇をきつく噛み締めた。
﹁なあ、圭⋮⋮君はどうして、ここで働いている? そこそこ稼ぐ
なら、別にこういう場所でなくとも良いだろうに﹂
まと
瑛様は僅かに首を傾げて、僕に視線を投げた。僕の思考は、下腹
の痛みを堪えることで一杯で、纏めることは出来なかった。
﹁淫乱な⋮⋮マゾ⋮⋮ですから⋮⋮﹂
この後、確実に僕に訪れる事を思うと、自虐的な言葉しか出てこ
なかった。恥ずかしくて、情けなくて、涙が止らない。
﹁淫乱、というよりは⋮⋮マヌケな、というべきだな。それでも、
何かきっかけがあったのだろう? 例え天性の性癖だとしても、そ
の事に気付く何かが⋮⋮﹂
僕の切迫した状況とは全く別の時間が流れているかのように、瑛
様は穏やかな声で問いかけた。けれど、僕にはもう、何かを考える
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余裕すらなかった。
﹁もう覚えては⋮⋮おりません⋮⋮﹂
苦しさに身を捩り、頭を激しく打ち振りながら答えた。
﹁今の状況では、考えるのも辛いか⋮⋮。我慢出来ないか⋮⋮?﹂
瑛様はグラスを置くと静かに立ち上がり、僕に近づいて、グリセ
リン溶液で僅かに膨らんだ僕の下腹部を、掌で撫でた。それだけの
刺激でも、僕の苦しさは更に増し、噛み締めた奥歯が音を立てた。
すが
﹁苦しゅう⋮御座います⋮⋮﹂
僕は縋るように、瑛様を見上げた。
﹁出して構わないぞ﹂
瑛様は簡単に許可をくれたけれど、拘束を外してくれようはずも
なく。テーブルに戻り、グラスを取り上げると、またのんびりと酒
を飲み始めた。
出して構わないと言われても、このままでは周囲を汚してしまう
のは必至で。けれども、瑛様の﹃出して構わない﹄という一言は、
残酷なまでに僕の下腹部を苛んで⋮⋮。
﹁お許し下さい⋮⋮瑛⋮様⋮⋮﹂
限界に達していた僕は、最後の哀願を口にした。けれど、表情を
消した瑛様は、僕を見詰めたまま、黙ってゆっくりと首を横に振っ
た。
﹁それでは⋮⋮何か、汚しても良いような⋮⋮バケツか何かを⋮⋮﹂
下さい、という言葉まで発することは出来なかった。
必要ない、という拒否の言葉で、僕は絶望のあまり、喉奥で引き
つった悲鳴を迸らせた。僕の後孔は内部からの圧力に幾度も抵抗し
てきたが、遂に耐え切れず、一瞬盛り上がった後、その口を開き、
汚れた液体を零した。一度綻んだ蕾は閉じる事無く、直後、一気に
異臭を放つ濁った液体を、破裂音と共に噴出した。
﹁いやぁぁぁぁぁぁぁっ!﹂
僕はその音と、異臭と、それを恋しい人に見られる羞恥に、激し
く頭を振り乱しながら、絶叫していた。
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こうこつ
瑛様はその異臭で満たされた空気を大きく吸い込んだ後、あぁ、
と小さな声を上げて吐き出した。その視線は恍惚としているようで、
こぼ
その先にいる僕は、未だ薬剤に掻き回された体内の物の名残を蕾か
ら零しながら、死んでしまいたいほどの羞恥に泣きじゃくっていた。
瑛様はまるで祈っているかのように両手を組み合わせ、そんな僕の
みっともない顔を見詰め続けていた。
﹁申し訳⋮⋮ございません⋮でした⋮⋮﹂
恐らくは小さな子供のように、声を上げ、無防備に泣きじゃくり
ながら、僕は言葉を紡いでいた。
﹁何を謝っている⋮⋮?﹂
瑛様は足元の汚れも気にせず僕に近づき、後手の拘束を外してく
れた。それが外れた途端、その場にへたり込みそうになった僕の手
を取り、室内にある浴室へと導いてくれた。VIPルームだけあっ
て、大きな浴槽には既になみなみと薔薇の香りの湯が張られており、
瑛様はその側に未だ泣きじゃくっている僕を立たせた。備え付けの
洗面器にその温かく香りの良い湯を掬うと、僕の下肢に掛け、汚れ
を洗い流してくれた。
﹁圭は可愛い﹂
瑛様が呟いた。その声には全く抑揚が無く、大根役者の棒読み台
詞のようで、僕の心に冷たく響いた。
﹁お手が汚れます。自分で⋮出来ます⋮⋮﹂
その声の冷たさに、僕は正気に引き戻され、瑛様の手から洗面器
を奪おうとした。その手の先から洗面器を遠ざけられる。
﹁僕は⋮⋮可愛い、ですか⋮⋮?﹂
先刻の瑛様の言葉が、その冷たさにもかかわらず気になって、僕
もまた独り言のように尋ね返していた。
﹁マヌケな圭⋮⋮ああ、とても可愛い﹂
表情を取り戻した瑛様が、涙でぐちゃぐちゃの僕を見て、クス、
と小さな笑声を上げた。
﹁マヌケ⋮⋮、で御座いますか?﹂
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僕は今まで幼児のように泣きじゃくっていたのも忘れて、脱力し
かかりながらも、思わず聞き返さぬほうが良い問いを口にしてしま
った。
﹁そう。ま・ぬ・け﹂
瑛様はその単語を強調するように、一音ずつ区切って発音した。
わず
みみたぶ
そうして僕の耳に着けられていたピアスに手を伸ばし、外してポケ
ットに入れた。僅かに耳朶が軽くなって寂しくなった僕に、その時
に入れ替わりに出したのだろうか、新しいピアスが装着された。
﹁可愛い顔を見せてくれたお礼だ。以前のは返してもらうぞ。⋮⋮
どうだ?﹂
瑛様は壁に掛けられた鏡に、僕を向かわせた。
鏡の中の、真っ赤な目をした僕の耳朶には、極上の薔薇色をした
石の飾られた、滑らかな曲線で構成された優美なピアスが着けられ
ていた。
もともとの注文主が着けるより、ずっと似合うという瑛様の言葉
に僕は驚き、こんなに上等な、しかも依頼人のある品物を頂く訳に
は行かないと、それを外そうとした。
﹁やっと気に入ったデザインに仕上がったんだ。着けておけ﹂
そんな僕の手を押し留めながら、瑛様は言うと、クルリと背を向
け、御機嫌ようと軽く手を振って出て行った。
取り残された僕は、鏡を見詰めたまま、瑛様の真意が判らず、混
乱したまま立ち尽くしていた。
59
第10話︵後書き︶
今回の話は何処まで書き込んで良いものやら、かなり悩みました。
書き手としてはOKでも、読み手は不快になるかも知れず、幾度も
削除しては書き足し、また削除しての繰り返しでした。ご意見等伺
えましたら幸いです。宜しくお願いいたします。
60
第11話︵前書き︶
前回のあらすじ:グリセリンを使われ、瑛の目の前で強制排泄させ
られた圭。彼を見詰めていた瑛は﹃可愛い﹄と呟き、﹃もともとの
注文主より似合う。やっと気に入ったデザインが出来たのだから、
着けておけ﹄と、以前のものより遥かに上等なルビーの嵌ったピア
スを圭の耳朶に着けた。
61
第11話
翌朝。
着替えを済ませ、髪を整えるために鏡を覗き込んだ僕の目に、昨
夜着けられたピアスが飛び込んできた。
改めて朝の光の中で見ても、その宝石は、緩やかに渦を巻くよう
な繊細な金の波型の中心で、深い薔薇色の、透明な光を放っていた。
それは、宝石に関しては素人の僕でも、思わず見惚れてしまうほど
に美しく、恐らくは⋮⋮僕には分不相応の品だった。
こんなに高価な品を頂いてしまって良いものなのだろうか。僕は
悩んだけれど、以前頂いた品を瑛様が持っていってしまった為、今
着けているこのピアスしか瑛様に繋がるものは無く、これを外して
しまうという事は、瑛様に繋がる物を断ち切ってしまう事のような
気がして、結局外すことは出来なかった。
学校に行くと、僕のピアスは直ぐに一人の女子学生に見つかって
しまった。
﹁圭、このピアス、ルビー?﹂
彼女は手を伸ばして僕の耳朶ごとピアスを摘み、自分の見易いよ
うに引っ張りながら、溜息のように言葉を吐き出した。
﹁うん。⋮⋮多分﹂
僕はこれについて追求されるのが嫌で、曖昧に答え、引っ張られ
た耳朶が痛いというように振舞った。
﹁これ⋮⋮凄い色。こんな綺麗な石、なかなか見られないと思う﹂
ぜいたく
そう言って、彼女は深い溜息を吐いた。外食産業の社長令嬢であ
る彼女は、同年代の女の子達よりは贅沢な物を持っている。それは
自宅の練習用ピアノがコンサート用フルサイズのグランドピアノで
あるとか、何気なく着けているようなアクセサリー類も、それなり
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に上質のものであったりという事で。それは彼女にとって、自慢で
もなんでもなく、当たり前の物なのだ。
そんな、上質のものを見慣れた目で見て、凄いというのであれば、
やはり僕のピアスのルビーは相当な品なのだろう。
﹁ねえ、どうしたの? 買ったの? 対になっている筈のもう一方
は?﹂
矢継ぎ早に問われて、僕は困り果てて立ち尽くしてしまった。
﹁これ、最初から片方だけで。貰ったんだ﹂
﹁貰ったって⋮⋮誰に? もしかして、その人と片方ずつで、ペア
?﹂
⋮⋮自分で墓穴を掘っているような気になってきた。彼女は持ち
前の好奇心で、更に僕を質問攻めにする。
﹁あの⋮ちょっとした知り合いが⋮⋮。ほら、昨日まで着けていた
ピアスを作った人⋮⋮これもその人が作って⋮⋮、それで僕に、っ
て。その人とペアじゃないよ。最初から片方だけ、なのかも知れな
い﹂
﹁あのね、昨日までのは普通のルビーだけど。これはそんな物とは
大違いの、最上級のルビーよ。買うとかそういう話じゃなくて、な
かざ
かなかお目に掛かれないレベルの品だと思う。それをくれるって、
どんな人よ﹂
まだ僕の耳朶を摘んだまま捻り回し、ピアスを光に翳しながら、
彼女はまくし立てた。
﹁だから⋮⋮ちょっとした知り合い﹂
僕の苦しい言い訳に、そんな訳ないって、と苦笑した彼女は、漸
く僕の耳朶を放した。あちらこちらに引っ張られたためか、ジンと
した痺れが残っている。
ちゃんとお礼をしなくちゃダメよ、と彼女は言い置いて、仲の良
い女友達の方へと行ってしまった。気が移りやすいというより、あ
まり物事に執着せず、相手が避けたがっている感情を敏感に察して、
あっさりと話題を打ち切ってくれる気性の彼女は、かなり付き合い
63
やすい同級生の一人だった。⋮⋮2歳年上の僕を、子ども扱いする
事以外は、だけれど⋮⋮。
授業が終わると、僕はいつもの様に店へと向かう。
ただ、瑛様にお目に掛かりたい一心で、だ。
勿論、この日お見えになるという約束がある訳ではない。ただ、
もしいらっしゃったら、一目でも良いからお目に掛かりたいという
思いしかなかった。お目に掛かれたら、まず真っ先にピアスのお礼
を言いたかった。
もしかしたら、お礼より何より、お返しした方が良いのかもしれ
ない、という思いもまた拭い去れないままに僕の中にあった。
そんな日を繰り返して、漸く瑛様がいらしたのは、ピアスを頂い
てから数日後の事だった。
僕は嬉しくて、瑛様の傍へ行き。瑛様も僕に微笑みかけてはくれ
たのだけれど⋮⋮。
瑛様がその日指名したのは、僕ではない店員だった。
﹃今夜の客が付かなかったら後から来い﹄、と僕に言い置いて出て
うらや
行く瑛様の背を、僕は寂しく見送った。苦しいほどに切なくて、瑛
様に寄り添って出て行く店員が羨ましくて⋮⋮。二人が出て行った
後閉じられた扉は、滲んできた涙でぼやけて見えた。
﹁今宵はお前には興味が無い。行きたそうな顔をしている⋮⋮行け
⋮⋮﹂
出て行きがけの瑛様の言葉が聞こえていたのだろう。僕も付いて
いた他のお客様に、あっさりと切捨てられた。失礼いたします、と
表情を隠して立ち上がり、ゆっくりと個室の並ぶ通路への扉へと向
かい、もう一度室内に一礼して出た。
扉を静かに閉めた途端、瑛様への想いが募り、歩く足が速まった。
部屋を出る時に知らされていた、瑛様の向かった個室へと小走り
に向かい、防音が施され、ノックしても恐らく室内には聞こえない
64
であろう扉を開き、姿を見せてから改めてのように軽くノックをし
て、室内に声を掛ける。
﹁失礼して宜しいでしょうか﹂
いしゅく
瑛様は部屋の奥にあるソファの傍らに立ち、そこに座らされ、す
っかり萎縮した新人店員を見下ろしていた。
﹁ああ、入って来い﹂
瑛様は僕の方を振り向き、視線で入室を促した。僕は一礼して静
かに室内へと身を滑り込ませ、そっと扉を閉めた。新人店員が僕に
不安と不審の入り混じった視線を投げてくる。
﹁ここへ来て座れ﹂
扉を閉めたままその場に立つ僕に、瑛様が命じる。僕は静かに歩
を進め、瑛様の傍のソファへと向かった。
﹁失礼致します﹂
先刻よりも深く頭を下げた僕は、瑛様に示された場所に腰を下ろ
した。瑛様は先に指名されていた新人店員の、状況が飲み込めない
という顔には、店員を何人指名しようが客の勝手だと答え、僕には
見事にあぶれたかと言って笑った。
﹁瑛様が出て行かれた直後、お前には興味がないと、はっきり宣告
されました﹂
﹁たまには私以外の客に可愛がってもらえるように、折角気を利か
せてやったのに﹂
僕の返事に瑛様はそう言って苦笑した。苦しかった。僕は他の誰
でもない、瑛様のお側にいたいのに⋮⋮。その気持ちをここで伝え
る事など出来る訳も無く、ただすぐ側に立っている瑛様との距離が、
果てしなく遠いものに思えて切なかった。
﹁圭。彼にバイブレーターを入れてやれ﹂
突然思いついたように瑛様は僕に命じ、リモコンのを、と付け足
すと、バーコーナーへと歩いて行き、好みの酒を物色し始めた。僕
は命じられたままに道具類の並ぶ棚へと歩み寄った。そこにはバイ
ブレーターといえども、色々なサイズ・形状の物が並べられていた。
65
﹁サイズは如何致しましょう﹂
僕は棚の前で振り返り、バーコーナーにいる瑛様に問いかけた。
視界の隅で、一人取り残された形の新人店員が、思わずソファから
立ち上がってしまったという体で、その場に立ち尽くしているのが
見えた。
﹁後の経験は?﹂
瑛様は僕の問いに振り向き、立ち尽くしている彼に、今日の昼食
は何だったかと訊く様な、なんでもない事を尋ねるように問うた。
﹁無い訳では⋮⋮ありません﹂
緊張でぎくしゃくとする彼は、一月半ほど前の僕の姿かも知れな
い。
﹁経験が無いわけではないそうだ﹂
彼の返事を要約するように、改めて瑛様が僕に答えた。傷つけな
いように、と更に付け足した瑛様に、それではノーマルサイズのも
ので、と僕が確認を取り、OKが出た。
おずおずと僕の方へと歩いてきて、自分で脱ぐのかと不安そうに
問う彼に、自分で脱いで、と僕は答えた。何時でも他の店員が一緒
に居る訳ではない。ナイフで服を切り裂きたいなど、特殊な嗜好を
持つ客相手以外は、自分で脱ぐのが当たり前だ。
僕は棚からバイブレーターを取り上げ、彼が脱ぐのを待った。
66
第12話
﹁全部脱がなくちゃ駄目⋮⋮?﹂
見ている者がもどかしくなるほどゆっくりと上着を脱ぎ終えた彼
あ
が、僕に不安そうに問いかけてきた。
﹁まだ上は良いみたいだから、取り敢えず下だけね﹂
僕は僅かに苛立ってはいたけれど、お客様の前でもあり、表面的
には穏やかに微笑んで、早く作業を済ませるように促す。この場は、
とにかく彼が動かない限り、先へは進めないのだ。
﹁そういえば、圭。この部屋は随分綺麗だな?﹂
うろた
道具を手にしたまま、僅かな時間ぼんやりとしてしまった僕に、
突然瑛様から声が掛けられた。あまりに狼狽えて、手にしたものを
落としそうになりながら、僕はおそるおそる瑛様へと視線を向けた。
この部屋は先日瑛様にグリセリンで責められた部屋だったのだが、
ゆる
僕は気付かない振りを通そうとしていたのだった。
せもた
けれど、そんな僕のとぼけを赦してくれるはずもない瑛様は、意
味深に笑いながらソファに腰を下ろして脚を組み、ゆったりと背凭
れに身体を預けていた。
みみたぶ
﹁この店の清掃係は、かなり優秀なのでしょう﹂
ようや
僕は頬どころか耳朶までも熱くなるのを感じながら、どうにか答
えた。そんな僕の視界の端に、漸く下を脱ぎ終えた彼の姿が入った。
妙にきっちりとカッターシャツのみを身に着けた彼の姿は、ある意
味滑稽でもあったけれど、そんな事を気にしてはいられない。
﹁膝をついて、腰を僕の方に向けて﹂
先刻の瑛様の命令は、僕が彼にバイブレーターを入れろという事
で、それを瑛様にも見せろという訳ではなかった。だからさっさと
済ませてしまおうと、僕は彼に先を促した。彼は僕に背を向けると、
のろのろと床に四つんばいになった。
﹁君は酒は飲めるのか?﹂
67
瑛様が彼に問いかけた。主語が省かれているけれど、既に僕がお
酒に弱いという事を瑛様は良くご存知である以上、この問いは彼に
向けられたものだ。僕は、答えて、と小声で彼を促し、棚に手を伸
ばしてローションを取り、蓋を開けてその中身を滴るほどに僕自身
の指に零した。その滑る手で、彼の後孔に触れた。
﹁お酒ですか⋮⋮さほど強くは⋮ッ﹂
答えかけたところで僕の滑る指が触れたため、彼の言葉が途切れ
た。僕は指先を彼の中へと突き入れ、時間が無いから、と言い訳し
て性急に其処を慣らして行った。僕の指を締め付けるきつさから、
恐らく苦痛を覚えているのだろうとは思ったけれど、既に服を脱ぐ
というだけでかなりの時間を費やしてしまったため、ゆっくりと彼
の身体が慣れるのを待つ訳には行かない。
﹁じゃあ、入れるよ?﹂
まだ解れきっていない後孔に、僕はバイブレーターの先を宛がい、
返事を待たずにゆっくりと捻じ込んで行った。瑛様は先刻の彼の答
が不満だったか、ふん、と鼻を鳴らして立ち上がると、グラスを手
にしたまま僕達の方へと歩み寄ってきた。
瑛様はグラスの中の酒を口に含むと、彼の顔を上げさせ、表面は
穏やかに微笑むと、有無を言わさずその唇に口付け、40度のスピ
リッツを流し込んだ。
﹁美味いだろう?﹂
水割り二杯ほど、と答えようとして、強い酒にむせた彼に、瑛様
はそう言って微笑んだ。
僕は彼の呼吸のリズムを計りながら、一気にバイブレーターを奥
深くまで突き入れる。彼の悲鳴が室内に響いた。僕はバイブレータ
ーのリモコンスイッチを、瑛様に差し出した。
﹁圭の服を全部脱がせて、あそこへ固定させろ。⋮⋮いや、上半身
だけで良い﹂
まだバイブレーターを突き入れられた衝撃に喘いでいた彼を引き
起こし、立ち上がらせ、丸太状の拘束台を示す。彼は立ち上がらさ
68
れたものの、一人で立つことはできず、僕の上着にしがみついた。
その重みで上着が変に引き下ろされ、拘束されたように不自由にな
った手で、僕はボタンを外し始めた。強く引っ張られた上着はボタ
ンを外すのも大変で、最後の一つをどうにか外し終えた途端、一気
に肩から滑り落ちた上着に、彼はバランスを崩して床に膝をつきそ
うになった。
まと
僕は彼を支えることより、服を脱ぐことを優先させた。
タイを外し、シャツを脱ぎ、纏めて道具棚の側に置かれた籠に放
り込む。その僕の背に、彼は﹃どうすれば⋮⋮﹄と不安そうに声を
掛けてきた。
﹁それに僕を括り付ければ良いだけだよ﹂
簡潔に、瑛様が示したと同じ拘束台を示して答えた。
瑛様はリモコンを一時ポケットにしまうと、自ら道具棚の前に立
ち、並べられた鞭の一つを取り上げた。ヒュッと空気を切る音を響
かせて振ると、長めのその鞭はピシリと重い音を立てて床を打った。
その音に、これでは重過ぎる、と瑛様が独り言を呟いた。
僕の身体はその丸太状の拘束台を両腕で抱きかかえる形で固定さ
れて行く。瑛様は僕達をそのままに、鞭を選び続けていた。
肌に伝わる拘束台の冷たさが、切なかった。
﹁圭も飲むか? 今夜はバーボンだ﹂
鞭を手に戻ってきた瑛様が、僕を見下ろして笑んだ。
﹁お酒は⋮⋮お許し下さいませ﹂
僕は唯一自由になる、と言っても過言でない首を巡らせて、瑛様
を見上げた。
ささや
その時、ゴトリと音がして、彼が体内に呑み込んでいたバイブレ
ーターが床に落ちた。
﹁もっと太いのが欲しかったか?﹂
瑛様が彼の耳を引っ張り上げて、低い声で囁いた。切れ切れに謝
罪の言葉を紡ぐ彼を無視して、落ちたバイブレーターを拾い上げ、
遠慮会釈無く一気に最奥まで捩じ込んだ。
69
﹁圭を打て﹂
僕を拘束するために床に座り込んでいた彼を立ち上がらせ、手に
していた鞭を無理やりその手に握らせた。彼は後孔のバイブレータ
ーを気にしながら、よろめくように鞭を振り下ろした。さほど強い
打撃ではなかったが、僕の背にはかなりの痛みが弾けた。悲鳴は堪
えたものの、全身が痙攣するようにビクッと跳ねて、僕を拘束して
いるベルトが軋んだ音を立てた。
﹁言っておくが、首から上は狙うなよ。それと、流血も御免だ。そ
の程度の鞭でも、力一杯打てば皮膚が裂ける﹂
背後から物憂げな瑛様の声が響く。僕は背に広がる痛みに身を震
わせながら喘いでいた。
僕自身の荒い呼吸音の合間に、くぐもった断続的な機械音が微か
に響いていた。それは、僕を鞭打っている彼の体内に呑み込まされ
たバイブレーターのスイッチが、気まぐれにON・OFFされる音。
僕の背には、幾度も灼けつくような痛みが弾け、意識の全てがそ
の苦痛で埋め尽くされてゆくようだった。僕を拘束している革ベル
トの軋む音が、妙に非現実的に遠く聞こえていた。
﹁圭、どうだ⋮⋮?﹂
グラスを手にした瑛様が僕の前に膝をつき、僕の目を覗き込んだ。
﹁気持ち⋮良い⋮⋮です﹂
会話の間にも振り下ろされた鞭の苦痛に、既に呼吸も乱れている
僕の言葉は滞る。
﹁どんな風に?﹂
胸が痛くなるほどの穏やかな微笑を浮かべた瑛様が、更に僕に問
いかける。
﹁⋮⋮鞭が来る、という予感に緊張する一瞬が⋮⋮至福、でござい
ます﹂
既に身体を支える事が出来なくなった僕は、拘束台を抱き締めた
まま、それにくたりと凭れ掛かっていた。
僕の背後でくぐもった機械音が響いた刹那、僕の傍らに鞭が音を
70
立てて落ち、それを今まで振るっていた彼の身体が崩れ、僕の背を
上から下へと擦るように凭れてきた。ざらりとした感触のスーツの
上着で傷ついた皮膚を思い切り擦られた激痛に、僕は堪え切れなか
った悲鳴を迸らせていた。
71
第13話
にじ
﹁圭と交代するか?﹂
か
不機嫌の気配を滲ませた瑛様の声が響いた。体内を無機質な機械
に掻き回され、強制的に快を煽られている彼の謝罪の言葉が、僕の
もた
背中から途切れ途切れに聞こえた。
突如、僕の背が軽くなる。僕に凭れていた彼の身体が、強制的に
脇に排除されたのだった。
瑛様は床に放り出されていた鞭を拾い上げると、それを無造作に
僕の身体に振り下ろした。空気を切り裂く音を立てて振り下ろされ
る鞭は、無茶な力を入れられていたわけではないけれど、手首を利
は
きし
かせて打たれる苦痛に、僕は堪え切れなかった悲鳴を迸らせ、身体
を撥ねさせて、拘束具を軋ませた。
鞭は容赦なく僕の背から腰、尻、腿の裏側を幾度となく打った。
意識は呼吸も出来ないほどの苦痛に埋め尽くされていたけれど、そ
あいまい
れが瑛様の与えてくれる痛みというだけで、僕にとっては至福だっ
た。
限界を超えた苦痛に、僕の意識は曖昧になって行く。
どこ
﹁私はこういった肉体労働は苦手なんだ。だから君に頼んだ。それ
を放棄したのは何処の誰だ。もう良いから、圭をイかせてやれ⋮⋮
君のモノでな﹂
瑛様が彼に命じた直後、背後から何か熱いものが僕の後孔へと宛
がわれ、一気に突き入れられ、それに内壁を擦り上げられながら、
幾度も突き上げられた。幾度も﹃私を見ろ﹄という言葉が掛けられ、
その度に僕のぼやけた視界に映ったのは、正面から僕を見据えなが
さ
らも、穏やかな微笑を刻んだ瑛様で⋮⋮。
いたずら
喘ぐ口元に挿し入れられたのは瑛様の指。僕はそれを愛おしむよ
うに舌を絡ませ、吸っていた。悪戯な指は僕の口腔内をかき回し、
舌を挟み込んでは引っ張り⋮⋮。僕はその動きを追うように、無心
72
で舌を絡め続けていた。
僕を突き上げていた熱が更に大きさを増し、僕の中で弾けた。そ
の刺激で僕自身もまた達して、直ぐ目の前にあった瑛様の微笑を最
後に瞳に焼き付けて、意識を手放していた。
しつら
気がついた時には、僕は店の中に設えられた医務室のベッドの中
に、うつ伏せに寝かされていた。
僕は自分で歩いてここまで来たらしいのだけれど、全く記憶がな
かった。
抗生物質を背の傷に塗り込まれ、経口でも抗生物質と鎮痛剤を投
与された僕は、ぼんやりとした意識の中、じくじくと痛み続ける背
に愛しさを覚えていた。
瑛様のくれた痛み⋮⋮瑛様のくれた傷⋮⋮。全てが嬉しくて、ま
た幸せだった。
うつ伏せたまま硬い枕を抱き、浅い夢と現実の狭間を漂いながら、
僕はその幸せに浸っていた。
背の鞭傷の治療のため、僕は何日か店を休む破目になった。
ちゆ
そろそろ気温も湿度も高くなってくる時季ではあったけれど、幸
い傷は化膿する事もなく、ゆっくりと治癒へと向かった。
傷が治るにつれて消えてゆく痛みに、瑛様と過ごした時間すら遠
くなってゆくような思いに、寂しくもあったけれど。傷が治ればま
た店にも出られるし、そうすればまた瑛様に逢えるかもしれない事
が嬉しくもあった。
そんな相反する思いに揺れながら、僕は日々を過ごし、そうして
また店に復帰した。
73
久しぶりにスーツを着て店に出て、既に顔なじみになっている他
の店員と挨拶を交わしていた時、初めて見る人物が、陽気に鼻歌な
ど歌いながら扉を開けて入ってきた。その方向からして、彼は新し
い店員なのだと解った。
長い黒髪を首の後ろで一つに束ね、右眼と左目それぞれに、ブラ
ウンとグレイのカラーコンタクトを入れた印象的な容貌の彼は、僕
が名乗るとRENだと名乗り返した。
ひとなつ
どちらかといえば、こんな仕事はしていても人見知りな僕と違い、
RENは人懐っこい笑みを浮かべ、初対面の僕に対しても、既に長
い付き合いの友人ででもあるかのように接してきた。普段ならそう
わ
いう馴れ馴れしい相手を敬遠してしまう僕なのだが、何故かREN
にはそういう不快な感情は湧かず、気付けば彼のペースに巻き込ま
れていた。
一晩、それも、それ程長くもない時間を一緒に過ごしただけで、
僕はRENが好きになっていた。何の理屈も無い。ただ、側にいる
だけで気持ちが穏やかになれて、心地良かったのだ。勿論、REN
への﹃好き﹄は友達としての﹃好き﹄であり、瑛様に感じるような
切ない恋情とは別物だったけれど。
ぐち
その頃の僕は色々と仕事上の悩みも抱えており、お客様の居ない
うっとう
夜はRENに愚痴を零したりするようになった。本当なら他人の愚
なぐさ
痴など鬱陶しいだけだろうに、彼は何時でも僕の話を聞いてくれて、
気にするなと笑って僕の身体をそっと抱き、慰めてくれた。けれど
⋮⋮本当に一番苦しい想い⋮⋮瑛様への想いを相談する事など出来
る筈もなく、切なさを抱えたままRENの優しさに甘える日が続い
た。
よ
いっそ、RENに恋したら楽になるかも知れない。時折そんなず
るい思いが過ぎったりもしたけれど、僕はやはり瑛様への熱い想い
を捨てることが出来なかった。RENが優しければ優しいほど、僕
74
の苦しさは増した。
RENは僕より五歳程も年上で、だから僕にはとても頼りがいが
あって。その上、その年齢差を感じさせないほどに気さくな性格で。
瑛様への想いとは質が違っていたものの、本当に大好きだった。
彼は僕の事を子ども扱いするように﹃ちゃん﹄付けで呼んだ。普
通、子供扱いされるのはあまり気分の良い事ではないけれど、彼に
ある
﹃圭ちゃん﹄と呼ばれるのは何故か心地良かった。そのくらい僕は
彼に甘えていたのだろう。
﹁圭ちゃ∼ん。舞台に上がらない∼?﹂
時折、客の少ない夜に、RENはそう言って僕を誘った。
店の中には小さな舞台が設えてあり、その上で店員同士、或いは
客も巻き込んでのショウが出来るようになっていた。そこでショウ
をしないか、という誘いだった。
﹁OK∼﹂
僕も気軽に応じて舞台に上がる。
舞台で演じられるのは、店員同士の場合は大怪我を負わせない程
度のショウである。多少の鞭傷や何かは仕方なくても、それ以上の
怪我は負わせないというのが、暗黙の了解事項だ。
そんな日々の中、僕はRENに怪我を負わせてしまった。
客の命令で投げたナイフがRENの腿に﹃運悪く﹄刺さってしま
ったのだった。
それほど幅広の刃では無かったし、筋肉に刺さっただけで動脈等
は傷つけていなかったので、出血も思ったほど酷くならなかったけ
れど。まさかそんな簡単に、投げたナイフが刺さってしまうなんて
75
思っても見なかった僕は、もしかしたらREN以上のショックを受
けたのかも知れない。
その日から後、ずっとRENに謝りたいと思っていたのに、彼は
怪我を口実にサボっているのか、全く会えない日が続いた。気にな
ってはいたけれど、またRENが仕事に復帰すれば会えるだろうと、
僕は楽観視していた。
76
第14話
その日も僕は瑛様にお目に掛かれることを期待して、店に出てい
た。
週末に比べれば、どうしてもウィークディは客の入りが悪く、指
名にあぶれた店員同士で雑談を交わしている時、その人物が店に入
って来た。
体格の良いその中年男性は﹃いらっしゃいませ﹄と頭を下げる僕
達の方へと歩いてきて、人間ではなく、物を品定めするような目で
見回した。その視線にある種の狂気を見たような気がして、背筋が
たむろ
ゾクリとざわめいた。
彼はその場に屯していた店員を挑発するような発言を繰り返し、
結局、上手く逃げ切れないで捕まってしまったのは僕だった。何と
なく嫌な感じはしたけれど、さすがに殺されることは無いだろうし
⋮⋮それに、瑛様への想いが募るほど、絶対にその想いが叶う事が
無いという事実が辛くなってきていた僕は、少し自暴自棄になって
いたのかも知れず、指名を受けてしまった。
あいまい
その夜の事は記憶が曖昧になっている。極限を超えた苦痛や恐怖
に出会うと、脳が記憶する事を拒む、そんな事だったのかもしれな
い。
ゆる
僕に加えられた彼の責めは過酷で、肉体を破壊されてゆく激痛と
恐怖に喉が張り裂けてしまいそうなほど悲鳴を上げても赦される事
は無く⋮⋮。なすすべも無く壊されてゆく中、僕は心の中でREN
に助けを求め続けていた。何の根拠も無かったのだけれど、何時も
ささや
優しいRENなら、きっと僕を助け出してくれる⋮⋮正気を失った
僕の精神はそう信じていたのだ。
僕をそっと抱いて、﹃大丈夫∼、元気出して∼﹄って囁いて、僕
77
が落ち着くまで背を撫でてくれて⋮⋮。
けれど⋮⋮その夜、RENは僕を助けに来てはくれなかった。最
初から出勤していなかったし、もし出勤していたとしても、既に個
じんだい
室に入ってしまったのに、指名されてもいない店員が勝手に乱入す
る事も無理な事。
結局彼の責めが終わった時、僕は内臓にまで甚大な損傷を受け、
半分死んだように意識を失っていたらしい。僕を助け出してくれた
のは、その客が帰りがけに僕が死に掛かっていると告げた、REN
ほどではないけれど仲の良い店員の一人だった。僕は彼に抱き上げ
られ、付き添われて病院へと運ばれたらしい。
記憶など全く無かった。
の
僕が意識を取り戻したのは、それから何日か経ってだった。
状況を呑み込めない僕が独り言のように呟いた﹃此処は⋮⋮?﹄
という声は、まるで踏み潰された蛙のように耳障りな声で⋮⋮。僕
は自分の声に取り乱して、悲鳴を上げていた。
潰された蛙の断末魔のような、軋んだ叫びが集中治療室に響いた。
錯乱した僕は取り押さえられ、鎮静剤を打たれてまた深い眠りの
中へと引きずり込まれた。
眠っている間に少し落ち着いた僕は、次に目覚めた時にはもう錯
乱はしなかったけれど、深い悲しみに捉えられて、天井を見詰めて
しばら
泣き続けた。
暫くは瑛様に逢えないと考えただけで、忘れられてしまうことへ
の恐怖が全身を包み、あの優しい笑顔を見られない事が身を切られ
るほどに寂しくて堪らなかった。時が経つほどに、こんな大怪我を
負ってしまった自分の軽率さが情けなくて、更に涙は止らなくなっ
た。
78
それから何日かして、僕は漸く危機的状態も脱し、もう錯乱して
暴れたりしないという信用も得て、一般の病室へと移された。幸い、
仕事上の怪我ということで、僕の入院費は全額店の方から支払われ
ており、しかも少しばかり上等の部屋にも入れてもらっていた。少
人数で静かな病室で、僕は瑛様の事を想い続けながら、時折、怪我
をさせたまま謝ることも出来ないまま、連絡を取れなくなってしま
ったRENの事が気になっていた。
僕の怪我は家族にも連絡されず、僕もまた連絡しなかったので、
少し起き上がれるようになってからは、暇な時間を瑛様とRENの
事を考えて過ごすようになっていた。そんな中、僕は一歳年下の従
弟にだけ、連絡を取った。
﹁圭、どうしたの。急に入院したって﹂
連絡をした翌日、従弟の大和は僕の病室へと来てくれた。
﹁うん⋮⋮バイトでしくじっちゃった﹂
しこう
僕はそう答えただけだった。僕が大和に連絡を取ったのは、彼が
僕と同じ嗜好の持ち主であり、僕のバイトの事も知っている、よく
言えば理解者であり、悪く言えば⋮⋮互いの弱点を握り合った仲な
のだ。だから、こう答えただけで大和は大体のことを理解してくれ
た。
﹁瑛さんが無茶をしたの?﹂
彼は僕が恋焦がれている人の名も知っている。僕が何かの折に口
を滑らせてしまったのだ。彼は瑛様本人には何の面識も無いので、
さん付けで呼んでいるのだった。
﹁違う。瑛様がいらっしゃらない日に、他のお客さんに無茶された
んだ﹂
﹁そうなの? お客さんより、圭が無茶しないでよね﹂
79
しゅんじゅん
その度に見舞いに来るのは面倒だから、と明らかに冗談だとわか
る口調で言って、大和は笑った。
僕もつられて笑いながら、大和にある事を頼もうかと逡巡してい
つて
た。何度か言いあぐねて、けれども現在僕がこの病室以外の場所や
人に繋がる伝は彼しかないと、意を決して口を開いた。
﹁大和。お願いがあるんだ﹂
何? というように首を傾げて、大和は僕を覗き込んだ。
﹁お酒を買って、ある人に届けて欲しいんだ。欲しいのは、ヴァン
パイア・スパイシー、ドラキュラズ・ブラッド、フランケンシュタ
インズ・メンテの3本。それを僕がバイトしていたお店の店員の、
﹃REN﹄に届けて欲しいんだ﹂
僕は記憶を辿るようにお酒の名前を挙げながら、メモを探した。
そんな僕に大和は愛用のシステム手帳をショルダーバッグから出し、
空きページを開いて渡してくれた。僕は表紙のペンホルダーからボ
ールペンを抜いて、その3本のお酒の名を書いた。
﹁変な名前のお酒。本当にこんなのがあるの?﹂
﹁あると思う。通販で扱っている所ないかな。入手不能ならしかた
ないけれど、探してみて﹂
僕はもう一ページを費やして、﹃怪我をさせてごめんね﹄という
RENへのメッセージも書きつけた。僕が書き終えるのを待って、
面倒くさいと言いながら、大和は手帳を閉じてバッグにしまい込ん
だ。
﹁じゃ、また気が向いたら来るから﹂
大和は時計を見て立ち上がり、さっさと手を振りながら病室を出
て行った。
残された僕は、ひとまずRENへの謝罪が済んだような気になり、
にじ
ずっと持ち続けていた荷物を降ろしたようにほっとした。そうした
ら、無性に瑛様が恋しくて堪らなくなって涙が滲んできて。そんな
顔を同室の人たちにも見られたくなくて、慌てて上掛けの中へと潜
り込んだ。
80
第15話
気が向いたら、などと言っていた大和が次に僕の病室を訪れたの
は、数日後だった。
僕の具合を尋ねながら、提げて来た紙袋を僕のベッドへと置いて、
確認しろと言うように指差した。
﹁ねえ、圭。本当にこれを届けるの?﹂
示された袋を覗き込むと、中にはまるでB級ホラー映画のポスタ
うなず
ーのようなイラストのラベルを貼られた酒瓶が、3本並んでいた。
僕は宜しくと言って頷いた。
﹁でも、よりによって、なんでこのお酒なの?﹂
側から一緒に袋の中を覗き込み、改めてそのラベルを見た大和は
大きな溜息を吐いた。
﹁何となく﹂
﹁何となく、って⋮⋮﹂
僕の返事に大和が呆れかえる。
けれど、僕自身にも論理的な説明など出来ない。本当に何となく
なのだ。
まだこんな怪我をする前のある日。元々あまりお酒の飲めない僕
は、店でもお客様のオーダーが解らず、ただバーカウンターに行っ
てマスターにそれを復唱するだけの、使いっ走りのようなものだっ
た。それで、一念発起と言うと聞こえは良いが、せめて瑛様のお気
に入りのお酒だけでも覚えようと、インターネットで調べていた時
の事だった。スピリッツのクールなイメージのラベルの並ぶ中に、
たった一つだけ派手でインパクトの強い、ヴァンパイアの絵を見つ
けたのだった。
その時、何となくRENのイメージが重なった。
81
明るくて優しくて、冗談とお酒が大好きなREN。お酒が好みに
合わなくても、このラベルの絵だけでも面白がって飾ってくれるの
ではないかと思った。
今、それをRENに届けるのは、僕の存在をせめて彼には覚えて
いて欲しかったからだった。そんなに長期にわたる入院ではないに
しろ、僕は暫くは店には出られない。その間に、きっと新しい店員
も入ってくるだろうし、店に出てこない僕など忘れられてしまうに
違いないと、不安で一杯だった。
だから、こうしてRENとだけでも何かしらの繋がりを持ってい
たかった。
﹁圭、カードを買って来たんだけど、メッセージを書き直す? こ
の間のも取ってあるけれど、ノートの切れ端みたいなものより、カ
ードの方が良いんじゃないかな﹂
そう言いながら大和は封筒とセットになった、白いカードを取り
出した。僕はそれを受け取って、改めてRENへのメッセージをし
たためた。
﹃REN、この間は怪我をさせてごめんね。ささやかだけど、お見
舞いを贈るから受け取って。このお酒、3つを同量ずつ混ぜると、
コフィン︵棺︶ってカクテルになるんだって﹄
僕がペンを走らせているのを見ていた大和は、カクテルの名前で
また大きな溜息にも似た苦笑を零していた。僕は書き終えたカード
を揃いの封筒に入れ、大和に手渡す。
つか
﹁それじゃ、お店は何となく入りにくい雰囲気かも知れないけど⋮
⋮宜しくね。誰か裏方のフロアスタッフの人を捉まえて、僕からR
ENにって言えば預かってくれると思うから﹂
再び紙袋を取り上げた大和の手を、僕はきつく握り締めて頼んだ。
82
きつくと言ったって体力が落ちている今、そんなに強い力が出る訳
ではないけれど、僕の必死の思いは大和にも伝わったようだった。
解った、と言って頷くと、大和はまた軽く手を振りながら病室を
出て行った。
一人になると、また僕の頭の中は瑛様の事で一杯になって行った。
瑛様は僕のことなど忘れてしまうだろうか。誰か他の店員を気に
入って、もう僕を指名してくれなくなるかも知れない⋮⋮。
こんな風に身体が弱っているときの思考は、どんどんと悪い方へ
と傾き、僕は苦しさと切なさで息が詰まりそうだった。
僕が常に空調の効いた病室のベッドの上で過ごす内、外の世界は
一番暑い季節を迎えていた。
大和は気まぐれに訪れては、他愛の無い話をして帰るという繰り
返しだったが、そろそろ体調も戻りつつある僕はすっかり暇を持て
余しており、彼が来るのを心待ちにするようになっていた。
﹁圭、声はまだ治らないんだね﹂
今日は物凄く暑いから涼みに来たと笑いながら入ってきた大和は、
見舞いだと言って持ってきたプリンを自らも食べながら眉を曇らせ
た。苦痛と恐怖に叫び続けた僕の喉は限界を超えて潰れ、軋んだよ
うな掠れ声しか出せなくなっていた。夏休みが明ければ前期の試験
が始まり、そうなれば当然声楽の実技もある訳で⋮⋮。元々不得意
あんたん
な声楽なのに、この声では及第点は更に遥か彼方という気がして、
暗澹たる思いになった。
﹁のど飴なんて気休めにしかならないかもしれないけど、置いて行
くね﹂
大和はコンビニエンスストアのロゴ入りレジ袋から、のど飴を幾
袋か取り出すと枕元に積み上げるように置いた。一種類じゃ味が飽
83
きるだろうからと、フルーツやらミルクやら全部違うものだった。
ありがとうと僕が言い終わるより前に、味見させてねと勝手に袋の
端を引き千切って、それぞれ2∼3個ずつ取り出してポケットに入
れた大和は、また来るねと言って病室を出て行った。
僕はその後姿を見送って、同室の人たちにのど飴を少しずつお裾
とろ
分けして、ベッドに横になった。身体が回復した分薬が効きすぎる
ようになったのか、運動不足のせいか、何となくだるくて蕩けるよ
うな眠気があった。
た
旧のお盆の送り火を焚く頃。
ドクターにそろそろピアノの練習も再開したいので退院したいと
言うと、無茶をしない事と、暫くは通院する事を条件に、その許可
をくれた。
身体を起こせるようになってからは、ベッドの上に座って、上掛
けを掛けた腿の上を鍵盤に見立てて指を動かすことはしていたけれ
ど、実際の鍵盤にはもう一月ほども触れておらず、その間の練習不
足を取り戻すにはかなりの時間が必要だった。元に戻すには、休ん
だ時間の数倍も掛かるというのが定説である。
そして、ピアノの練習も勿論だったけれど、それ以上に瑛様に逢
いたくてたまらなかった。逢えない時間が長くなるほどに、僕の想
いは募る一方だった。店に出たからと言って、瑛様が来るとは限ら
ないのだけれど、一日も早く店に復帰したかった。
退院許可が出てから3日後。僕は久しぶりに自分の部屋へと戻っ
た。
一月ぶりに戻った部屋は酷く蒸していたけれど、大和がゴミや洗
濯物、冷蔵庫に残っていた食料などを片付けておいてくれたお陰で、
思ったほどの惨状ではなかった。窓を大きく開け放って、店に出る
84
ために夏物のスーツを買わないとと思いながらクローゼットから麻
の入ったブレザーを取り出したら、これでもそんなに見苦しくない
かと思われた。
店に行きたいと思った。
瑛様に逢いたいという想いで僕は一杯になっていた。
85
第16話
ブルーのストライプのスタンドカラーのシャツに、ベージュのコ
ットンパンツ、それに取り出した紺のブレザーを合わせてみると、
それほど見苦しく無さそうに思えた。
ひと
店に出るのにスーツを着用しなければならないという規定は無く、
そろ
清潔でだらしなく見えなければそれで良かった。僕は取り出した一
揃いを大振りのバッグに詰め、Tシャツとジーンズというラフなス
タイルで部屋を出た。夕暮れとは言え、外の空気は十分に日中の熱
気を残しており、直ぐに僕は汗まみれになった。
長い入院生活で体力も落ちていた僕は、少し歩いただけでも息を
乱しながら駅へと向かい、電車に乗り込んだ。学生や社会人の帰宅
とは逆に、より大きな街へと向かう電車は空いていて、車内はエア
コンで寒いほどに冷えていた。汗ばんだ服や肌が冷たく冷えて行く
のが気持ち悪かった。
幾駅かを過ぎて、下車駅に着く。久しぶりに降りた場所は、ほん
の何ヶ月しか通っていなかった場所なのに、何とはない懐かしさを
覚えた。改札を抜け、何時もそうしていたように店への道を歩き出
す。通りは立ち並ぶ店から排出されるエアコンの熱で、酷く蒸し暑
かった。また新たな汗が滲んだ。
店に着いて、シャワーを浴び、持参した服に着替える。本当なら
ば身体の中を綺麗にしておかなければならないのだが、まだバック
を使う事は出来ないので、今夜はその手順を省いたままで済ませた。
店員用の控え室を出て店のスペースへと移動する。裏方仕事のフ
ロアスタッフに声を掛けられ、怪我の具合を尋ねられて、まだ無理
は出来ないことを申告し、少しずつ仕事に復帰したいと告げた。
店の、店員からは客待ちを、客からは今日の相手をさせる店員選
びをする部屋の扉を開いた。中に入ると片隅のバーコーナーから、
マスターが久しぶりと声を掛けてくれた。まだ店が盛況になるには
86
もた
早い時間帯で、ここにはマスターと僕しかおらず、僕はバーカウン
ターへと歩いて行き、軽く凭れるようにして立った。
﹁圭君、怪我をしたんだって? もう大丈夫なのか?﹂
マスターが時間を持て余したようにグラスを磨きながら、そんな
僕に話し掛けて来た。
﹁はい。ちょっと無茶しちゃて、暫く入院していました﹂
﹁そうだってな。RENがお酒を貰ったって言って、﹃お見舞いっ
て⋮⋮お見舞いが必要なのは圭ちゃんの方なのにね﹄って、心配し
ていたよ﹂
あんなお調子者の心配をしている場合じゃないだろう、とマスタ
ーが笑う。RENは何時もここでタダ酒を飲みたがってはマスター
に怒られてばかりなので、どうもイメージが良くないらしい。でも、
お酒がちゃんと彼に届いたと解って、嬉しかった。
﹁確かに僕の方が重傷だったかも知れませんね﹂
何だか急に笑いの発作が起きて、僕は軋んだ笑声を上げた。途端、
マスターの眉が曇った。
﹁圭君、喉痛めちゃったんだね。ちゃんと治るまで無理するなよ﹂
喉を潤した方が良いと、ミルクティーを手早くいれて、マスター
は僕に出してくれた。ミルクたっぷりのそれは甘く蕩けるように、
僕の口内に広がった。
僕がその暖かなミルクティーを飲んでいる間、マスターはグラス
を磨く手は止めないまま、思いつくままに僕が入院して仕事を休ん
でいた間の話をしてくれた。けれど、マスターの話は店での出来事
と、他の店員の事ばかりで、僕が一番気になっている瑛様の話題は
全く出なかった。
僕は喉元まで出掛かる﹃瑛様は?﹄という一言を、冷めてしまっ
たミルクティーと共に、呑み込み続けた。
空になったカップをマスターに返す頃には、そろそろ出勤してき
た店員達で、店内はざわめき始めていた。見回せば、見た事の無い
顔もあり、僕が休んでいる間に入ってきたのだろうと思う。
87
そんな事を考えながら、いまだカウンターに凭れたままでいる僕
の方へ、すらりと背の高い青年が歩み寄ってきた。彼は見た事の無
い顔の一人で、僕と同じくらいの年齢に見えた。
﹁マスター、水もらえるかな。⋮⋮初めまして?﹂
彼はカウンター越しにマスターに声を掛けると、水を待つ間僕の
方を見て問いかけるように声を掛けてきた。
﹁初めまして。僕は﹃圭﹄。宜しく﹂
﹁圭、ね。覚える名前が多すぎて、なかなか覚えきれないよ。俺は
﹃藍﹄。宜しく﹂
あい、と口の中で繰り返しながら、僕は差し出された手を握り、
離した。
﹁圭君、藍君、お客様だ﹂
マスターがカウンターの中から囁いた。僕は凭れていたカウンタ
ーから身を離し、藍は飲みかけの水のグラスを置いて、開かれた扉
の方に向かって姿勢を正した。スタッフに案内され、入ってきたの
は瑛様だった。
僕の心臓の鼓動が高まった。頬が急に熱を帯び始める。
﹁いらっしゃいませ﹂
深く腰を折って一礼する僕達の方へ、瑛様が歩いて来る。
﹁やあ、圭。久しぶりだな。どうしていたんだ?﹂
懐かしい瑛様の声と微笑。僕はそれだけで、胸が一杯になってい
だみん
た。
﹁惰眠を⋮⋮むさぼっておりました﹂
怪我をして入院していた、などとは言えなかった。だから、曖昧
にそう答えた。
﹁その声は、どうしたんだ? 酷い風邪でも引いたか? それにし
ては長かったな﹂
瑛様の指が僕の頬に伸ばされ、僅かに伏せていた顔を上げさせら
れる。
﹁少しばかり、喉を痛めてしまいました﹂
88
触れられた頬が熱くて、胸が苦しくて、僕にはそう答えるのがや
っとだった。
す
﹁それでは、身体は大丈夫なのか?﹂
瑛様の問いに、僕は直ぐに答える事が出来なかった。絶対に無理
はしないという約束で、退院の許可を貰ったのだ。まだ僕の身体は
完全ではない。
﹁あまり⋮⋮無理をしてはいけないと、ドクターに言われておりま
す﹂
嘘は吐けなかった。ここで無理をしてまた病院に戻され、瑛様と
逢えない日々を過ごすのだけは絶対に嫌だった。
﹁そうか。それならば⋮⋮﹂
瑛様は何かを考えるように言葉を切り、カウンター越しにジンを
オーダーした。マスターはグラスにジンを注ぎ、カウンターの上に
置く。瑛様はグラスを取り上げ、一口ジンを含んでから、漸く次の
言葉を紡ぐために口を開いた。
﹁それならば、今夜は圭がその彼を責めろ。私は酒を飲みながら、
観客をさせてもらう﹂
瑛様は僕の側にいた藍を指差し、次に舞台へ上がるようにとそち
らを指し示した。
舞台でのショウも、お客様の意向が第一である。俺はS嗜好なの
にと小さな声で呟く藍を促して、僕達は舞台へと向かった。瑛様は
ジンのグラスを手に、舞台が良く見えるソファへと移動し、腰を下
ろした。
僕は藍に服を脱いでおくように告げて、舞台に上がる前に、室内
に設えられた道具棚へと向かった。小さなワゴンにトレイを乗せて、
その中に必要と思われる品を入れてゆく。ローション、色々なサイ
ズのバイブレーター、拘束具も幾つか、それに華奢な乗馬鞭。
こんな物で良いかと呟きながら、僕はワゴンを押して、今度こそ
舞台へと向かった。
藍は既に服を脱ぎ終えており、僕は麻の上着だけを脱いで、手に
89
した乗馬鞭をまるでタクトのように軽く揺らしながら舞台中央へと
出て、ゆっくりと深く腰を折るようにして一礼した。舞台を見上げ
ている瑛様の視線に、僕はじわりと身体が火照り始めるのを感じて
いた。
90
第17話
﹁手、拘束させてもらうよ﹂
僕は既に全裸になり、緊張した面持ちでいた藍に告げると、その
両手首に革の拘束具を巻きつけ、締め付けた。その手錠のような拘
束具の中央、両手首を繋ぐ短い鎖を、天井から下げられたフックに
引っ掛ける。舞台袖を一瞥すると、それを合図と取ったフロアスタ
ッフの一人が、フックの位置を上げるスイッチを入れてくれた。
モーター音に鎖の軋む音が重なり、藍は両手首を頭上に吊られ、
足元は爪先立ちしている、無防備な体勢になった。
僕は彼の下肢の中心で揺れている、まだ何も反応していない彼自
びょう
身に手を伸ばし、革製のペニスサックを巻きつけ、きつく留めつけ
さいな
た。この拘束具の内側にはピラミッド型の金属の鋲が無数に打たれ
ており、彼が僅かでも反応すれば、その尖った先端が彼自身を苛む
ような設計になっていた。
チクショウ! と彼が小声で悪態を吐くのを頭上に聞きながら、
僕は最後に残ったバイブレーターの一つを取り上げた。さほど大き
なサイズの物ではないそれは、カチッと音を立ててスイッチを入れ
ると、微かなモーター音と共に、手首から先が痺れを感じるほどの
震動が起こる。僕はそれを藍の目の前で見せ付けるように揺らした。
ね
ヒクッと藍が息を呑み込む音がする。
﹁大丈夫。いきなり捻じ込んだりしないよ﹂
僕はそう囁いて、藍の足元に膝をついた。実を言うと、体力がま
だ戻っておらず、僕は長時間立ち続ける事が苦痛でもあった。
へそ
膝をついた事で僅かにだるさを覚えていた身体が楽になり、安定
した僕は手にしていたバイブレーターを藍の臍の辺りに軽く触れさ
せた。ヒクッと腹部が緊張で震える。
僕はバイブレーターを肌に軽く触れさせたまま、ゆっくりと腹部
から腰へ、左腿の外側を撫で下ろすようにしてから膝の上辺りで内
91
側へと滑らせて、脚の付け根へと撫で上げ。拘束された部分は外し
て腹部へと戻し、今度は右脚へと同じ動きを繰り返した。バイブレ
ーターが脚の付け根に向かう度、藍の腹部がうねるように震える。
﹁クッ!﹂
くすぐ
堪え切れなかった藍の呻きが頭上から零れ落ちてきた。焦らされ
ながら擽ったい震動を与えられた彼の身体は、僅かずつ反応を始め、
拘束された彼自身に鋲が食い込む苦痛が始まったようだった。僕は
その呻き声を聞きながら、更にバイブレーターを彼の肌の上で遊ば
せ続けた。
拘束された彼自身は苦痛に悶えるように揺れながら、快の証であ
る蜜を僅かに滲ませ始める。
﹁畜生!﹂
藍がまた小さく悪態を吐いた。元々S気質らしい彼は自分が責め
を受ける事には慣れていないようで、曖昧な刺激に焦らされ、また
感じれば感じるほどに自身が苦痛を覚える辛さを堪えることに、そ
ろそろ限界のようだった。
僕だって慣れない責め手をしている訳だけれど、今僕が感じてい
るのは慣れない事への戸惑いと、このショウを命じた瑛様に少しで
も満足していただけるだろうかという不安で、僕自身のプライド等
は少しも傷ついたりはしていない。けれど、普段は責める側にある
ふさ
藍は、自分の現状にプライドを傷つけられたと感じているように見
えた。
そろそろ頃合いかと、僕は客席からの視界を塞がない位置までワ
ゴンを引き寄せ、残っていたバイブレーターとローションを取り上
げた。ゆっくりと立ち上がり、藍の目の前で手に取ったばかりの、
細身のバイブレーターにローションをたっぷりと滴らせた。
藍の瞳が僅かに不安そうな色を帯びたが、僕はあっさりとそれを
無視した。
﹁入れるよ。落とさないように頑張ってね﹂
僕は藍に告げると、彼の背後に回った。バイブレーターのスイッ
92
チを弱に入れると、小刻みな震動が始まった。僕はその先端を彼の
後孔に触れさせ、ローションを周囲に馴染ませるように、小さく揺
らしてから、ゆっくりと力を掛けて藍の中へと押し込んだ。
﹁ヒッ!﹂
藍が噛み締めた唇の隙間から引きつった悲鳴を零した。僕は彼の
力一杯の抵抗をはねのける様に、ゆっくりと、けれど確実に震動す
る機械を藍の中へと納めた。手を離すとバイブレーターが押し戻さ
れてくるのに、今度は容赦なく押し込んだ。
﹁落とさないでね﹂
一言命じると、先ほどまで肌の上で遊ばせていたバイブレーター
を再び手に取り、蜜を浮かべている藍自身の先端に軽く触れさせた。
﹁やめろ⋮⋮ッ!﹂
苦しげに呻きながら、藍が吐き捨てたが、勿論そう言われたから
といって、止める訳には行かない。
視界の端に映った、再び排出されてくる後孔のバイブレーターを
びょう
押し込みながら、もう一方のバイブレーターを彼自身の先端に強く
押し付けた。
﹁ヒィッ!﹂
与えられた直接的な刺激に反応してしまった彼自身に、鋲がきつ
くすぶ
く食い込んだのだろう。藍がプライドをかなぐり捨てたような悲鳴
を迸らせた。
﹁もう⋮⋮止めてくれ⋮⋮﹂
藍が自らのプライドを捨てて、全身を燻らせている快と苦痛の前
に屈した。
﹁お願いならば、僕ではなくて瑛様に、ね﹂
苦しげに身を起こしている藍自身の先端に左手に持ったバイブレ
ーターを押し付け、後孔からゆっくりと排出されてくるもう一方を
右手で掴み、押し戻しながら内壁をこね回すように揺らす。藍は内
と外から直接的に快の中枢を刺激され、それに反応して身を起こす
自身を鋲の付いたペニスサックで容赦なく締め付けられ、身を捩っ
93
てその二つの相反する感覚を堪えていた。
全身にうっすらと汗が滲み、足元に膝をついて見上げている僕の
角度からは、それがキラキラと淡い光を反射して見えた。
﹁瑛⋮⋮さま⋮⋮。もう⋮お許し⋮⋮ください﹂
藍は遂に許しを請う言葉を、歯を食いしばりながら唇に乗せた。
僕はその返事を確認するため、瑛様の方へと視線を向ける。
殆ど空になったジンのグラスを手にした瑛様は、僕の視線に気付
いて小さく頷いた。
﹁藍、後のを落とさないように、しっかりと締め付けていてね﹂
僕が命じると、藍は掠れた声で﹃ああ﹄と答えた。僕は彼の先端
に押し当てていたバイブレーターをワゴンのトレイに戻し、後孔の
方はもう一度深く突き上げるように押し込んで手を離し、彼自身を
きつく戒めているサックのベルトへと手を伸ばした。
装着する際、まだ反応していない彼にきつく留めつけた革の拘束
具は、彼が反応したことによって更にきつく締まっており、固定し
ているベルトを外そうとしてもなかなか上手く行かなかった。僕が
ベルトを引くたびに、藍が引きつった悲鳴を零す。
漸くそれを外すと、彼自身には幾つもの鋲が食い込んだ痕が、痛
々しく残されていた。
﹁後だけでイッて見せてね﹂
僕は藍に囁くと、また後孔から抜けかけていたバイブレーターを
掴みなおし、内壁をかき回すようにそれを動かしながら奥を突き上
げ、また引き抜いた。ある一点を過ぎるたびに藍の身体が反応する
場所が、前立腺のある辺りなのだろう。
僕は幾度かの抜き差しの後、その一番反応の激しい場所に、グリ、
けいれん
と震動する先端を押し付けるように突いた。
﹁うぁぁ⋮⋮ッ!﹂
藍は全身を硬直させながら呻くと、痙攣を起こしたように身を震
わせながら、漸く開放を赦された熱い精を迸らせていた。
良く出来ました、と声を掛けた僕に、覚えていろよ、と力なく悪
94
態を吐いて、藍は意識を飛ばしたようだった。天井から下がる鎖が
軋み、ぐったりとした藍がそれに体重を預けていた。
再び舞台袖に視線を向けると、フロアスタッフが鎖を降ろすスイ
ッチを入れたところだった。藍の身体がゆっくりと床に降ろされ、
僕の身体を気遣ったスタッフが、彼の鎖を外すために出てきてくれ
た。
後の事はスタッフに任せ、僕はゆっくりと立ち上がり、一礼して
舞台を降りた。
この頃には瑛様以外のお客様も観客に加わっており、その一人一
人に会釈しつつ、僕は瑛様の側へと歩いて行った。瑛様は既にソフ
ァから立ち上がり、帰ろうとされているのを、僕は呼び止めるよう
に声を掛けた。
﹁瑛様。⋮⋮お気に召しましたでしょうか﹂
僕には、それが一番の気がかりだった。
﹁ああ。何時になく勇ましい圭クンが見られて、存分に楽しませて
もらったよ﹂
瑛様は僕に微笑みかけてくれた。安堵で全身の力が抜けそうにな
る。
﹁それでは、今夜はこの辺で失礼させて頂く﹂
瑛様は軽く手を振り、出口へと向かって歩き出した。僕は深く頭
を下げたまま、その後姿を見送った。
この日を境に、何故か僕への責め手指名が増える事になる。
95
第18話
瑛様に命じられて藍を責めてからというもの、僕には責め手とし
ての指名が増えた。
ある
あの日、瑛様以外にもショウをごらんになっていたお客様があり、
噂のように伝わったのか。或いは、舞台でのショウは録画されてお
り、店内のモニターで流されていたりするので、そこで知られたの
か⋮⋮。お店に見えるM嗜好のお客様からの指名が増えてしまった
のだ。
仕事だし、僕自身がまだ無理の出来ない身体でもあったので、そ
の指名も受けていたのだが、そうすると当然瑛様に逢えない日が続
くことになった。
この頃、瑛様に逢えないのは、僕が責め手として指名されてしま
うせいだと、思い込んでいた。
﹁圭ちゃ∼ん。怪我して入院していたんだって? 退院できたの∼
?﹂
そんな日々の中で、久しぶりに逢ったRENは、良かったね∼、
と言いながら僕を抱き締めてくれた。
﹁REN。怪我させてごめんね。傷、大丈夫だった?﹂
﹁何言ってるの∼。俺の怪我なんて、ちょっと包帯巻いておけば良
い程度∼。それより、一ヶ月近くも入院する怪我した圭ちゃんの方
ひそ
が、ずっと大変だったでしょ∼。それより、その声、どうしたの∼﹂
RENは僕の声に、眉を顰めた。
﹁怪我した時に叫びすぎて、喉を傷めちゃった﹂
答える僕の声は、相変わらず掠れ、軋んだままだ。
﹁嫌∼。早く元の声に戻って∼。早く治して∼﹂
RENは駄々をこねる子供のように身を捩り、泣き真似をした。
96
僕は頷いて、RENに緩く抱きついた。そんな甘えた僕を受け止め
てくれた、暖かで優しいRENの体温が嬉しかった。
いっそこの温もりにすっかり甘えてしまったら、僕は楽になれる
のかもしれないけれど。けれど、そんな卑怯な形の恋は、大好きな
RENにも失礼だし⋮⋮やはり、誰よりも僕が恋焦がれているのは
瑛様だった。
僕は暖かなRENの腕の中で、切なさに身を震わせた。
僕のそんな心の動きに気付いてか、RENは腕を解いて僕の顔を
覗き込むように身を屈めた。
﹁そうそう、お酒、ご馳走様∼。美味しかった∼﹂
こつん、と額が軽くぶつかる。けれど、それだけ。キスには至ら
びん
ないまま、RENは離れて行った。
﹁本当? あの壜のラベルをみたら、RENを思い出したの。気に
入ってもらえて良かった﹂
﹁何であの絵で俺を思い出すの∼﹂
僕の言葉に、不服そうにRENは口を尖らせるけれど。僕にはち
ゃんとした説明など出来なかった。ただ何となく⋮⋮強いて言うな
らば、芝居じみた黒ずくめだったり、思い切りのフォーマルだった
り、そんな衣装を着てくるRENが、何となくヴァンパイアのイメ
ージだったのかとも思ったけれど、それは口には出さなかった。
わず
そうして、瑛様に漸くお目に掛かれたのは、8月も残り僅かにな
った頃だった。
その日も、何の予告も無しに瑛様は現れた。
僕の胸は痛いほどに高鳴った。
久しぶりの瑛様⋮⋮ご一緒させて頂きたいけれど、それを選ぶの
は僕ではない。僕はただ、瑛様が僕を呼んでくださるのを待つだけ
97
だった。
﹁圭、今夜の相手を願えるか?﹂
瑛様は穏やかに笑んで、僕を呼んでくれた。更に心臓の鼓動が跳
ね上がった。
﹁仰せのままに⋮⋮﹂
僕はゆるりと腰を深く折って一礼し、個室へと案内するために先
に立って歩き出した。知らず、頬が火照ってくる。
いつもの通り、個室への廊下を抜け、一つの扉の前で立ち止まり、
静かに開いて待つ。扉を押さえたまま頭を下げている僕の前を、瑛
様が通り抜けて室内へと入るのを確認して、僕もまた室内へと身を
滑り込ませ、静かに扉を閉める。防音が施されている部屋は、扉を
ひざまず
閉めた途端、ふつりと何かが途切れるような静寂に包まれた。
僕はソファに掛けられた瑛様の傍らへと行き、その場に跪く。
﹁あのなぁ、圭。今度からそういう態度を取ったらぶん殴るぞ。私
が何も言わなければ、座れ﹂
瑛様は自分の向かいのソファを指し示した。僕はゆるりと立ち上
がると、失礼致しますと一礼して、示された場所に腰を下ろした。
﹁まるでゼリービーンズのようだな﹂
瑛様は部屋に備え付けのガラス製のピルケースを開き、中の物を
覗き込みながら同意を求めるように僕の方を見た。中に入っている
のは色とりどりのカプセルに詰められた媚薬だった。
﹁君のお好みは?﹂
好きなものを選べ、とガラスのケースごと僕の方へと差し出され
た。
﹁それでは⋮⋮これを⋮⋮﹂
どうせ飲まされるのならば、と僕は即効性のカプセルを摘みあげ
た。そんな僕を一瞥して、瑛様は傍らに置かれたクリスタルのウォ
ーターピッチャーから、グラスに水を注ぎ、それも僕の前へと滑ら
せるようにして置いた。
僕はそのカプセルを口の中に放り込み、差し出されたグラスの水
98
で嚥下した。冷たい感覚が喉元を通り過ぎてゆく。
﹁きっと、何もしないのが一番の責めなのだろうな⋮⋮﹂
瑛様が呟き、それでは此方が面白くないと僅かに眉を寄せた。
やがて⋮⋮さほどの時間も経たぬうちに、僕の胃の辺りからじわ
まと
りとした熱のようなものが広がり始めた。同時に、僕の肌が酷く敏
くすぐ
感になり、身に纏った服が僅かに擦れるだけで、痺れるような甘く
擽ったい感覚が広がる。
その感覚は直ぐに、焦燥感にも似た感覚へと変化した。身体が火
照り、全身の皮膚が苦しいほどに敏感になって行くのを感じながら、
僕は一人喘ぎ始めていた。
﹁もう感じてきたのか? 圭⋮⋮君の本名は?﹂
瑛様が僕に問う。
僕がこの店で名乗っている﹃圭﹄という名は戸籍上の名前ではな
い。けれど、軽々しく本名を名乗ることは禁じられていた。それに、
とろ
僕自身、ここにいる僕と、音楽科の学生である僕と、どこかで線を
引きたいと思っている部分もあった。
﹁ぁ⋮⋮﹂
つぐ
けれど、そんな理性的な部分も媚薬で蕩かされ、本名の一文字目
を口にしてしまった僕は、慌てて口を噤んだ。焦燥感にも似た熱感
は全身を満たし、僕は両腕で自分の身体を抱き締め、唇をきつく噛
み締めて、その苦しさを堪えていた。
﹁あ? さすがの圭も、そこまで間抜けではなかったか﹂
瑛様はクスと小さな笑いを漏らして立ち上がり、自分の飲み物を
用意するために、バーコーナーへと向かった。
僕は爆発的に全身を焦して行く嫌な熱に、指先が白くなるほどに
自分の腕を握り締めるようにして、その感覚に耐えていた。全身が
ガタガタと小刻みに震え出し、汗がじっとりと噴き出して来た。
バーコーナーでブランデーグラスにコニャックを注いで、瑛様は
良い香りだと目を細めていた。僕の方を振り返り、飲むか? と笑
む。
99
﹁お酒は⋮⋮どうか⋮⋮お赦し下さい⋮⋮﹂
僕は肩を震わせて喘ぎながら、どうにか答えた。
瑛様はグラスを手にソファに戻る途中、棚から何かを取り上げる。
僕は濁ってゆく意識の中で、ぼんやりとその動きを眺めていた。
﹁もう一度聞く。君の本名は?﹂
瑛様は僕の向かいに腰を下ろしながら、もう一度同じ問いを発し
た。
﹁それも⋮⋮お赦し下さいませ﹂
僕は汗でしっとりとした髪を乱すほどに、幾度も頭を振った。そ
んな僕を冷ややかな瞳で見詰めながら、瑛様は手にした何かを弄ん
でいる。
﹁これが何だか解るか?﹂
瑛様は手にしていた携帯電話ほどの大きさの何かを、僕の目の前
に差し出した。天辺に二つの短い電極が突き出たそれは⋮⋮。思考
力を奪われた僕の頭では、そのものの名前が出てこなかった。
﹁スタンガンだ﹂
瑛様は簡潔に言うと、ぐったりとソファの背に身を預けた僕の隣
に移動してきた。僅かに体温を感じるほど近くに腰を下ろし、ズボ
ンを脱げと一言だけ僕に命じた。
僕は壊れた人形か何かのようにカクンと頷くと、命じられるまま
にベルトに指を掛けた。全身の震えは指先にまで伝わり、ベルトを
外すのも何もかもなかなか上手く行かなかったが、僕はどうにかズ
かたわ
ボンを脱ぎ落とすことが出来た。それを見苦しくないように纏めて、
ソファの傍ら、瑛様の視線からは死角になるであろう場所に落とし
た。
﹁君の名前は?﹂
同じ質問が繰り返され、身体の中心で薬に煽られ震えている僕自
身に、スタンガンが押し付けられた。その冷たい金属の感触に、僕
の身体はビクッと跳ねた。
﹁本名は⋮⋮ぁ⋮⋮あ⋮⋮﹂
100
僕は思考力を奪われた頭で、それでも必死に考えて、﹃あ﹄で始
まる名前の、たとえ読んだ事は無くとも、恐らく誰もが名前を知っ
ているであろう流行作家の名を告げた。途端、僕の身体は突き飛ば
されるように、瑛様の手にしていたスタンガンと共にソファに放り
出された。
﹁随分と良い根性をしているな⋮⋮意外だったよ。おやすみ、圭﹂
﹁申し訳⋮⋮御座いませんでした⋮⋮﹂
﹁嘘を吐くなら、もう少しマシな嘘を吐け﹂
瑛様はソファから立ち上がり、謝罪を口にした僕を一度も振り返
る事無く扉へと向かい、そのまま部屋を出て行ってしまった。
一人取り残された僕は、瑛様を不機嫌にさせてしまった事に自己
嫌悪に陥り、もしかしたら、もう二度と指名してもらえないのでは
ないかと言う不安に苛まれ、涙が溢れた。身体に残る媚薬は狂おし
く、それ以上に瑛様に嫌われたのではないかという事が苦しく。
僕は半狂乱になって、傷めた喉が軋むように痛むのも構わず、泣
き叫んでいた。
101
第19話
ゆる
それからの毎日、僕は不安の中で過ごした。
もう二度と瑛様は僕を赦してくれないのではないか⋮⋮二度と瑛
様と過ごす事は出来ないのではないか⋮⋮。もうお目に掛かること
も無くなってしまうのではないか。
考えただけで苦しかった。
僕の本当の名前など、大した物ではないのに。何故、あの時、名
乗ることを拒んでしまったのだろう。本名を軽々しく名乗るのは禁
止とはいえ、絶対に名乗ってはいけないという事でもなかったのに
⋮⋮。
もう逢えないのかも知れないと思った途端、今まで以上に瑛様が
みみたぶ
恋しくてたまらなかった。
耳朶にまだルビーのピアスがある事だけが、僕の心の拠り所だっ
た。
瑛様が店を訪れたのは、それから何日も経ってからだった。
既に他のお客様や店員がいたメインルームに、フロアスタッフに
案内されていつものように静かに入ってきた瑛様の姿に、僕は胸が
痛くなった。
僕はその時話し相手を務めていたお客様の許可を得て、瑛様の側
へと、おずおずと歩み寄って行った。もしかしたら、僕の言葉など
聞いてももらえないかも知れないけれど、先日の謝罪がしたかった。
﹁瑛様、過日は見え透いた嘘を吐き、大変失礼を申し上げました﹂
僕の気持ちの全てを込めるように、瑛様の前で深く頭を下げる。
瑛様は僕の言葉には返事をせず、ただ先客達に僕を連れ出して良
いかと尋ね、許可を得ると、個室へ、と僕を促した。
僕は緊張と不安を抱いたまま一礼し、瑛様を案内するために個室
102
の並ぶ通路へと続く扉を開いた。瑛様が先に通路へ出るのを待って、
他のお客様たちに失礼を詫びて扉を閉め、歩き出していた瑛様の後
を追った。
個室の扉を開くと、瑛様はジンを、と言いながら室内へと入って
いった。
僕は扉を閉めると、畏まりましたと一礼してバーコーナーへと向
かい、綺麗に磨き上げられたグラスに氷を落とし、上からジンを注
いでトレイに乗せ、瑛様の元へと戻った。床に膝をつき、瑛様が腰
を下ろしたソファの前のテーブルに、そのグラスを置く。
﹁言いたいことがあるんだろう?﹂
瑛様はグラスを手に取り、満たされた液体の三分の一程を一気に
流し込み、それから、座れと向かいのソファを示した。僕は立ち上
がり、示されたソファに腰を下ろした。胸が苦しくて、視線を合わ
せることも出来ない。
﹁先ほど申し上げましたとおり⋮⋮先日は見え透いた嘘で瑛様をご
不快にさせ、申し訳ありませんでした﹂
つ
僕は瑛様に赦して頂きたい一心で、額が膝につくほどに身体を折
り、頭を下げた。
﹁謝るくらいなら、最初から嘘など吐かないことだ﹂
瑛様は無表情で言い放つと、再びグラスを口に運んだ。
﹁はい。どうかお赦し下さいませ﹂
僕は頭を下げたまま、次の言葉を紡ぎ出した。
﹁私の目を見て話せ。何故、あんな嘘を吐いた?﹂
静かな、感情の無い声で瑛様は僕に尋ねた。僕は顔を上げ、一つ
大きく息を吐いて覚悟を決め、僕自身のことを話し始めた。
あいまい
﹁﹃家﹄のことは、どうしても申し上げたくない事でしたので﹂
曖昧な言い方で言葉をぼかしながら、僕は自分の思いを告げた。
﹁﹃家﹄とは君のプライベートということか? それならば、何故
そう言わなかった﹂
訳の分からない事を、と言うように、瑛様は首を捻った。
103
つくば
いと
﹁多分⋮⋮私にとっての、唯一の弱点なので御座います。プライド
など簡単に捨て去り、お客様の足元に這い蹲ることも厭わぬ身では
御座いますが⋮⋮。どうしても﹃家﹄に対しては後ろめたさを拭う
ことが叶わずにおります﹂
徐々に、曖昧ではありながら僕の本心が僕の口から零れ始めた。
﹁答えになっていないぞ、圭。プライベートは言いたくない、と言
わずに、直ぐにばれる嘘を吐いたのは何故だと聞いている﹂
もう
瑛様は僕の心の乱れなど意に介さないように、更に僕を追い詰め
た。グラス越しに見詰められる、その視線が痛かった。
ろう
﹁﹃家﹄のことを口にするのも辛う御座いました。それに、薬で朦
朧としてもおりましたので。そんな頭の考えたことが、どうせ吐く
なら、今すぐにばれる嘘を、と⋮⋮﹂
ばれない嘘では意味が無かったのだと、今は思えた。それが僕の
本名だと、あの時、一時だけでも信じられてしまうのが心苦しかっ
た。だから、誰でも名前くらいは知っている流行作家の名前を名乗
ったのだった。
﹁もう一度聞く⋮⋮君の名前は?﹂
また同じ質問が繰り返された。
﹁どうしても申さねば、お赦しいただけませんか?﹂
僕は困惑し、瞳を見詰め続けることができなくて、視線を外した。
しゅんじゅん
﹁私の態度で答えを言うか言うまいか決めるのか? 自分で決めろ﹂
瑛様は僕のそんな逡巡を一瞬で切り捨てた。
僕は⋮⋮もう一度息を吐いてから、小さな声で本名を告げた。
﹁何か、君の中で変わったか?﹂
僕の顎が瑛様の手に捕らえられ、逃がしていた視線を元に戻され
る。
﹁今は⋮⋮四百年続いてきた﹃家﹄の名に、申し訳ない気持ちで一
杯で⋮⋮﹂
答えながら、涙が零れた。一度零れ始めた涙は、次から次へと頬
へ溢れた。
104
﹁﹃家﹄の名? くだらん。どう飾っても、どう偽っても、君は君
ぎまん
もた
でしかない。﹃圭﹄を名乗っている時の君が、本名の君と別人だな
どと考えているのならば⋮⋮それは欺瞞だ﹂
瑛様は言い終えると、僕の顎を放し、ゆったりとソファの背に凭
れた。
﹁くだらなくとも⋮⋮たとえ、愚かな自己欺瞞であったとしても、
此処にいる僕は、あの﹃家﹄の人間ではありたくなかった!﹂
僕は土地の旧家の、しかも沢山の分家を従えた、本家の一人息子
に生まれた。何をするにも﹃あの家の子供﹄と言われ、何時でも監
いたずら
視されているような状況下で、何時でも優秀な子供でいなければな
らなかった。ちょっとした、子供らしい悪戯だったとしても、﹃あ
の家の子供のくせに、こんな事をして﹄と言われるのが辛くて⋮⋮
どうして同じ年頃の他の子たちと同じ事をしても、こんな事を言わ
れるのか理不尽で⋮⋮。
けれど、結局は周囲の大人たちの意識の中の﹃良い子﹄を演じて
いる自分がいたのだった。
﹁ならば、此処になど勤めなければ良い﹂
僕の内心の葛藤など、瑛様には全く興味が無いようだった。確か
に瑛様の言われることは正論だとは思うけれど⋮⋮。僕には僕の事
情があって⋮⋮。
﹁それでも、学校に行きたかった。学校に行って、ピアノを練習し
て、それを中心にした生活をして、その合間の時間で学資の稼げる
仕事なんて⋮⋮。そんなに甘い物ではないと思っております。私に
きゅうくつ
とって、ピアノを弾くことは、自分自身より重いことなのです﹂
そう⋮⋮そんな窮屈な生き方をしてきた僕が、唯一、僕自身の感
情や気持ちを素直に表現できる場が、ピアノの前だった。時には心
105
の苦しさをぶつけるように激しく、また時には嬉しい思いを溢れさ
せて、それを自分の音楽表現にしてきたのだった。
﹁脱いで、台に上がれ﹂
瑛様は立ち上がり、僕の腕を掴んで引き上げると、視線で拘束台
を示した。
僕は今までの会話と、今発せられた言葉の距離に戸惑いながら、
それでも立ち上がって拘束台へと向かった。
106
第20話
ワゴンを引き寄せ、その上に脱いだ服を手早く畳んで置いて行く。
最後の一枚まで脱ぎ落とすと、僕は命じられたとおりに、拘束台に
上がった。
﹁君はピアノを弾くという目的のために⋮⋮自分自身よりも重いと
言い切れる目的のために、ここで働いているのだろう? 他人に強
いられているのでは無いのだろう? それなら胸を張るべきだ。目
的のためには手段を選ばない、何を恥じることがある?﹂
ろうそく
瑛様は僕の方を見ることも無く、ただそう語りながら道具棚に向
ひじ
かば
かい、蝋燭を手にして拘束台へと近づいてきた。
﹁肘から先は庇っておけよ﹂
手にした蝋燭に、ポケットから取り出した銀色のライターで火を
点けながら、瑛様はそう命じた。
﹁有難う存じます﹂
僕は深く一礼すると、両腕を背後に回し、組むようにして指を庇
った。
﹁後に手をついていろ﹂
僕が背後で腕を組むという不安定な体勢なのを見て、瑛様はもう
一度簡潔に言った。僕は組んでいた腕を解き、掌を背後につきなお
して、身体を支えた。途端、僕の胸元に高温の蝋涙が落とされた。
﹁あぁッ!﹂
その焼け付くような痛みに、僕は堪え切れなかった悲鳴を迸らせ、
身を捩った。そんな僕の苦しみなど斟酌する事なく、瑛様は次々と
熱で溶けた蝋を僕の胸元から腹部に掛けて落とした。
﹁ヒッ⋮⋮クッ⋮⋮﹂
新たな蝋が肌に落ちる度、僕は噛み殺しきれない悲鳴を上げ、身
体を震わせ続けていた。今感じている苦痛が現実であるのと同じよ
うに、その苦痛を与えているのが瑛様である事を確認する為に、僕
107
はその秀麗な横顔を涙でぼやけた瞳で見詰め続けていた。
﹁膝を立てて脚を開け﹂
新たに命じられ、僕はこの先にあるであろう苦痛を予感し、恐怖
に身を震わせながらも、ゆるゆると膝を立て、脚を開いていった。
開かれた脚の間で身を竦め、怯えて震えている僕自身を目指すよう
もたら
に、更に新たな蝋が滴らされ、僕はその苦痛と恐怖に身を捩ってい
た。
けれども⋮⋮。予想していた激痛が僕自身に齎される事は無く、
蝋は腹部から腿、膝に痕を残しながら、足首まで滴らされ、そこで
瑛様は手にしていた蝋燭を強く振って、火を消し、無造作に床に落
とした。
﹁圭﹂
﹁瑛様ッ!﹂
名を呼ばれ、何だろうと思う間もなく、身を竦めていた僕自身は
瑛様の口腔に捕らわれていた。僕は自身を包み込む暖かな感触に、
ゾクリと背を駆け上った痺れに身を震わせながら、瑛様の名を悲鳴
のように叫んだ。
僕を口腔に捕らえている瑛様は、僕の悲鳴に、何だというような
視線を向けた。けれど、その舌の動きは止められる事無はなかった。
困惑と狼狽に、思わず閉じそうになる僕の膝を両手で押さえた瑛様
たかぶ
は、捕らえた僕の敏感な部分を狙うように舌を這わせた。
はら
快の中心を刺激されている僕は、呆気なく昂って張り詰めて行っ
た。下腹部は熱を孕み、重苦しく疼き、今にも弾けてしまいそうな
ほどに脈打っていた。
しつよう
﹁ぁ⋮⋮ゃ⋮⋮あぁ⋮⋮ッ! お赦しを⋮⋮瑛様を汚してしまいま
す!﹂
限界まで張り詰めた僕自身は、更に執拗に舐め上げられ、吸い上
げられて、その苦しいほどの快に弾けてしまうのは時間の問題だっ
こんがん
た。僕は喘ぎ、大きく開かされた脚をも震わせて快を堪え、髪が額
に乱れるほどに頭を振り、懇願した。
108
瑛様の口中を、僕の放った精で汚してしまうのだけは、絶対に嫌
だった。
ゆる
﹁こんな事で汚れるような、ヤワな人間じゃないぞ、私は﹂
赦しを乞う僕の言葉に、一旦僕から口を離した瑛様はそう答えて、
もう一度僕自身を口腔で捉えた。
﹁それでも⋮⋮ッ! 私が申し訳なく⋮⋮ッ!﹂
容赦なく煽られ、限界を超えた快を与えられた僕は、喉元を仰け
こどもだま
反らせて喘ぎ、全身が震えるほどに緊張させて、その快を堪えてい
た。
﹁私に子供騙しの嘘を吐いた罰だ﹂
瑛様は僕の更なる懇願を切り捨て、更に僕を追い詰めるために、
開かれた脚の間に手を差し入れ、後孔を探り、指を突き入れて来た。
僕は内側からも敏感な部分を刺激された衝撃に、背をビクンと震わ
せた。その痺れるような快を、唇を噛んで堪える。
﹁そうでは⋮⋮御座いません。元より、騙すつもりなど、御座いま
せんでした。本気で騙すつもりなら⋮⋮あんな⋮⋮ベストセラー作
家の⋮名など⋮⋮申しません⋮⋮ッ⋮⋮あ、ぁあ⋮⋮!﹂
僕は最後に残された理性を掻き集めて、どうしても告げておきた
かった事を言葉にした。もう、この後幾つもの快の波を堪えること
は、恐らく不可能だった。
﹁あいにくだったな、圭。私はあの作家が嫌いなんだ﹂
﹁私も⋮⋮です⋮⋮。他の、僕の大好きな作家の名前を申し上げた
かったのですが⋮⋮瑛様がご存知でいらっしゃらねば、意味のない
事でしたので⋮⋮ッ! ぁ⋮⋮ゃ⋮⋮もぅ⋮⋮くっ、ふ⋮﹂
僕は必死に最後の弁解を試みた。けれど、赦されるはずも無く。
僕自身の敏感な先端に舌先をこじ入れるように突かれ、内側の粘膜
を擦られる快に、僕はもう言葉を紡ぐことが出来なくなっていた。
全身を激しく震わせる僕に、瑛様は口内に捕らえた僕自身の先端
に歯を立て、吸い上げ、更に挿しいれた指で内壁を掻き回し、内外
から容赦なく快を引きずり出した。僕は下腹部を震わせ、喉奥で引
109
きつった悲鳴を上げた瞬間、瑛様の口の中で達していた。
全身が蕩けるような甘い痺れに包まれ、幾度も痙攣するように震
えながら、僕は力を失い、拘束台に崩れ落ちそうになっていた。
瑛様は僕の吐き出した熱をゆっくりと嚥下し、僕自身を清めるよ
うに、もう一度舐め上げて身を起こした。僕は瑛様の喉元が動いた
のを目にして、激しい羞恥に頬が熱くなるのを感じていた。瑛様は
拘束台に崩れ落ちそうになるのを、どうにか肘で支えて喘いでいる
僕に手を伸ばし、汗で額に貼りついた前髪を指先で掻き上げ、言い
たくない事を無理に言わせて申し訳なかったな、と微笑んだ。
﹁私も子供じみた意地を張っていたのかもしれません。確かに瑛様
の仰るとおり、どんな名で呼ばれようと、私は私でしかないので御
座いましょう⋮⋮﹂
僕は視線を合わせるのが恥ずかしくて俯いたまま、小さな声で答
えた。確かに、何をしていようと、僕は僕でしかなく、僕以外のも
のになど、なれる筈もなかった。ただ、本名とは違う名を名乗って、
僕でありながら僕ではない何かを演じたつもりになって、僕自身を
騙そうとしていただけだったのだろう。
﹁素直なところも、やっぱりマヌケな圭だな﹂
瑛様は微笑んで背を向け、さようなら、というように肩の辺りで
ひらりと手を振りながら扉へと歩み、僕を振り返ることも無く出て
行った。
僕は残された部屋の中で、今までの出来事を信じられない思いで
思い返しながら、赦されたのだろうかと、考えていた。
110
第21話
残暑の厳しい日々、僕はまた学校に通いながら店でバイトをする
生活に戻っていた。
なま
徐々に体力は戻ってきていたけれど、やはり一月近くの入院生活
で鈍った指は、なかなか思い通りの音を出してはくれなかった。そ
んな訳で僕自身も店に出る日数を減らし、指の機能を取り戻す為の
毎日だったのだけれど⋮⋮。
ふと気付くと、瑛様がお店に見える回数も減っているようだった。
ふく
瑛様に逢いたい⋮⋮せめて一目でも、その優しい笑顔を見たいと
いう想いが僕の中で膨らんで、苦しくなったある日の事。店に、僕
ふうろう
宛に瑛様からのメッセージが届けられていた。
フロアスタッフから、封蝋に装飾的なAの文字が押された上品な
封筒を受け取り、僕は直ぐにそれを開封した。中には封筒と揃いの
カードが入れられており、それには9月のある日を指定して、その
日店に行こうと思うのだけれど、僕の都合はどうかという事と、そ
の返事の連絡先として、一つのメールアドレスが書き込まれていた。
僕は何度もその短い文章を読み返し、文字を視線でなぞった。
﹁圭ちゃん、何を一所懸命に読んでいるの∼?﹂
﹁REN⋮⋮﹂
僕は自分で思っていた以上に長い時間、一心にそのカードを見詰
めていたのだろう。声を掛けられたことに驚いて顔を上げると、R
ENの笑顔と目が合った。
﹁お客様からの予約のメッセージだった﹂
のぞ
﹁ふぅ∼ん。余程難しい漢字でも書いてあったの∼? 随分一所懸
命に見ていたけれど﹂
RENが僕より高い位置から、手の中にあるカードを覗き込もう
111
とした。僕は別に隠す必要も無いのだけれど、何となくそれをRE
Nの視線から隠すようにして、封筒に戻した。
とが
﹁圭ちゃんのケチ∼﹂
RENが唇を尖らせるけれど、僕は手にした封筒を上着のポケッ
トに入れてしまった。
僕の頭の中には、指定された日付が焼きついており、その日は何
たま
としてでも店に出ようと決めていた。一分、一秒でも早く、お返事
を差し上げたくて堪らなかった。
僕はその夜、指名されなかったのを良い事に、早めに切り上げて
帰宅した。直ぐにパソコンの電源を入れ、立ち上がるのを待つ間に、
Tシャツとジーンズに着替えた。
パソコンが立ち上がり、セキュリティがウィルスチェックを始め
たのを確認して、僕はメールボックスを開いた。大切に持ち帰った
封筒からカードを取り出し、記されていたアドレスを打ち込んで、
その日は必ず出勤する事と、ご来店を心待ちにしているという、言
わば店員の社交辞令のような、僕にとっては本当の気持ちを認めて、
送信ボタンを押す。
瑛様に逢える。僕はそれだけで心臓が高鳴って、苦しかった。
瑛様からのメッセージを頂いてからは、それに記されていた日を
ほ
指折り数えるようにして過ごした。
褒められたことではないのだけれど、他のお客様との時も想うの
は瑛様の事ばかりで、逢えるまでの時間を数える僕だった。
瑛様に指定された日の前日。
僕はいつものように店に出た。
112
店内を見回すと、隅にあるバーカウンターでは、マスターとRE
Nが何か話しているようだった。恐らくはいつものように、高い酒
をねだるRENと、それを拒否しているマスターなのだろうと、僕
はそちらへ歩み寄って行った。
﹁こんばんは﹂
﹁圭∼∼∼﹂
カウンター越しに話していた二人に挨拶した僕に、RENは突然
抱きついてきた。髪が乱れるほどに頬ずりされて、僕は首を竦めな
がら抱きつき返した。じゃれている二人に冷たい視線を投げてきた
マスターに、RENは﹃俺たち仲良しなんだも∼ん﹄と胸を張って
言い返した。
RENは尚も呆れ顔のマスターを無視して、いきなり僕を抱き上
げた。
﹁何、REN!﹂
突然の事に悲鳴を上げた僕を、RENは抱き上げたまま舞台へと
運び、その縁に腰掛けるように降ろした。
﹁もう体調は万全なの∼?﹂
RENは僕の顔を覗き込んで訊ねてくる。
いま
かす
﹁うん。お陰さまで、このところ涼しくて、ちゃんと食事と睡眠を
取っているから、もう大丈夫。ありがとう﹂
ニコニコと笑うRENにつられるように笑った僕の声は、未だ掠
れていた。
﹁なんだ、まだ声がヘンじゃない。ひょっとして、ハスキーボイス
が定着しちゃってるんじゃあ?﹂
このままで良いの? と言うようにRENは僕の目を覗き込んだ。
﹁最近、お酒を飲んでいるから、治りが遅いのかな。まあ、これだ
けは時間を掛けないとね。それに、ハスキーな声もそんなに悪くは
きし
無いかな、って思えるようになったから良いの﹂
ほとん
時折、軋むような喉に、軽い咳を零しながら答えた。
﹁圭ちゃんがお酒? 確か、殆ど飲めなかったよねぇ? 失恋でも
113
した? でも、その声、顔に似合わない∼﹂
失恋、というRENの何気ない一言に、僕はビクッとなった。僕
の恋は、恐らく一生叶わないもの。いくら瑛様に恋焦がれても、瑛
よじ
様にとって僕は馴染みの店員でしかなく、身分が違い⋮⋮。決して
恋愛対象にはなりえない存在だと解っている。
うつむ
いた
僕のハスキーな声が嫌だと、駄々をこねるように身を捩るREN
の前で、僕は肩を落として俯いてしまった。
﹁お酒⋮⋮飲めなかったんじゃなくて、喉を傷めたくないから飲ま
ないようにしていただけ。声楽、苦手だから。それに⋮⋮失恋は⋮
⋮していないよ﹂
失恋とは、実った恋が壊れる事。僕の片恋は実らないままに消え
るだろう。失恋のしようがない。
﹁そうだ、久々に遊ぶ?﹂
突然RENは話題を変え、僕の意思を問うように、改めて瞳を覗
きこんできた。
﹁遊ぼう﹂
明日は予約の日だけれど、RENはそんなに酷いことはしないだ
ろうと信じて、僕は舞台でショウをしようという意味の誘いにOK
した。
114
第22話
﹁あ、でも圭ちゃん。明日の夜、予約が入っていたでしょ? あん
まり遅くならないようにしないと﹂
道具棚に向かっていたRENが、ふと足を止めて僕を振り返った。
やはり、あのカードを覗き込んだときに見ていたようだ。
﹁うん﹂
うなず
僕は明日瑛様に逢えるという嬉しさを押し隠して、何という程の
まず
事でもないように頷いた。この僕の想いは誰にも気付かれたくなか
った。
﹁何がいいかなぁ⋮⋮鞭傷なんかつけると拙い?﹂
﹁傷がついているのは多分大丈夫。こんな場所だから、傷がつくの
は当然のリスクだし⋮⋮。ただ、出血が止らないほど酷い傷にはし
ないでね。血がお嫌いな方だから﹂
RENの問いに、僕は飽くまでも店員が明日の客について説明す
る、という風を装って答えた。そんな僕の返事を聞きながら、RE
Nは棚から取り上げた鞭を軽く振って試していた。
﹁今日つけた傷が明日まで出血するようだと、命が危ないかも?﹂
いたずら
棚から他の道具を幾つか選び、ワゴンに乗せながらRENは僕を
振り返って、悪戯っぽく笑った。
舞台で待つ僕の側に寄せられたワゴンを覗き込んでみた。その中
に細い真紅の縄を見つけて、僕は取り上げてみる。綿ロープのよう
で、それほど肌を傷つけそうなものでは無さそうだった。
﹁縛るの、あんまり上手じゃないんだけどね∼。きっと綺麗だよ、
この色﹂
RENは僕の手からロープを取り上げ、うっとりとした表情で見
詰めた。
﹁Mのお客様を縛る練習台に使ってくれて良いからね∼。で、服、
脱ごうか?﹂
115
僅かにSの血が騒ぎ出したようなRENは、何とはない不安を覚
えつつ尋ねた僕を、脱いで脱いで、と急かせながら縄を解いた。僕
は未だバイト気分のままに覚悟が出来ていないのかもしれないけれ
つね
ど、正面を向いて服を脱ぐという事が苦手で、後を向いてスーツを
脱ぎ始めた。
からか
﹁圭ちゃん、最近Sに目覚めちゃってるんだって∼?﹂
服を脱ぐ僕を待ちながら、RENが揶揄うように僕の頬を軽く抓
った。痛いと抗議する僕に、手を後に回して、と最初の指示が出さ
れた。
背後に回した僕の手は、肘を曲げられ、組み合わせるようにして、
あの真紅の縄で拘束され始めた。想像した通り、荒縄とは違って肌
を擦られるような痛みは無かった。
﹁痛かったら言って∼。緩める気は無いけど∼﹂
楽しげにいい加減な鼻歌を歌いながら、RENは僕の身体に縄を
掛けていった。腕を拘束し、胴へと固定して、余った部分の縄で膝
を折り曲げさせられた後の、両足首を縛り付けられた。一気に窮屈
さが増す。さて、と独り言のような呟きを漏らしたRENに床に転
がされ、肩を打ちつけた僕は小さく呻いていた。
﹁ショウの始まり⋮⋮﹂
恐らく客席には聞こえないであろう小さな声で、自分の中で一つ
区切りをつけるかのように、RENが呟いた。僕は無造作に身体の
向きを変えるように転がされ、その窮屈さにもう一度呻いた。
﹁フォアハンド﹂
や
RENは低い声で言い放ち、手にしていた鞭を振り下ろした。左
肩から右の腰に掛けて灼けつくような痛みが弾け、僕は噛み殺しき
れなかった悲鳴を零した。
﹁バックハンド﹂
拘束された身体のまま床に転がされ、苦痛に身を震わせている僕
わず
すきま
の胸に、先ほどの傷に交差させるように、また鞭が振り下ろされた。
奥歯を噛み締めても、その僅かな隙間から引きつった悲鳴が零れた。
116
にじ
とろ
肌が裂かれるような苦痛に呻きながら、それでも僕は背骨が蕩け
るような快を覚えていた。涙で滲んだ目に映る、僕の身体に振り下
ろされてくる鞭。それが来るという予測を裏切らない、苦痛。
更にフォア、バック、と振り下ろされた鞭に、僕は涙を滲ませな
がら喘いだ。
﹁やっぱり圭も感じるんだ⋮⋮﹂
唇の端を僅かに歪めながら、RENは更に鞭を振り下ろした。
﹁うぁ⋮⋮ハッ⋮⋮アァッ⋮⋮ヒゥ⋮⋮ッ﹂
僕の肌に刻まれてゆく蚯蚓腫れに重なるように振り下ろされる鞭
はら
に、リズムを合わせるように僕は悲鳴を上げ続けていた。じわりと
下腹が熱を孕み始める。
﹁痛くて気持ちがイイ?﹂
RENは鞭を振り上げた状態で一度手を止め、瞳を蕩かせながら
僕に問いかけてきた。
﹁気持ち⋮⋮いい⋮⋮﹂
止められた鞭の合間に、乱れた呼吸を取り戻すように喘ぎながら、
僕は答えた。肌が裂け血が滲み始めているのに、下腹部は熱を孕ん
で脈打っている。
﹁ヒッ⋮⋮グッ⋮⋮ッ!﹂
しび
呼吸が整う間もなく振り下ろされ始めた鞭に、僕はまた引きつっ
た悲鳴を零して身を捩った。痛みが胸で弾けるほどに、脳が痺れる
ような快が背筋を駆け上っていた。
﹁鞭打たれて勃つなんて、俺には信じられない∼﹂
RENは鞭打つ行為を止め、僕の拘束されている両脚の間にしゃ
がみ込んだ。手を伸ばして引き寄せたワゴンをさぐり、幾つかの道
したた
具を取り上げた。その中の一つ、細身のバイブレーターに、たっぷ
りとローションを滴らせるのが見えた。
﹁ぁ⋮⋮ッ﹂
あいまい
勃ち上がり、快の途中で放り出されたままの僕自身を、RENの
手にしたバイブレーターでつつかれ、その曖昧な刺激に小さく身体
117
が跳ねた。RENはそのままバイブレーターの先端を滑らせるよう
にして、僕の後孔へと押し当て、スイッチの入れられないままのそ
はず
れで、そこを強く圧迫した。僕のその部分は刺激され、強請るよう
に淫らな収縮を始める。
﹁それじゃあ、きっとコレも気持ちいい筈﹂
RENはフロアスタッフを呼び、何か耳打ちをする。スタッフは
カウンターへと行き、何かをマスターに告げ。お酒の注がれたグラ
スを手に戻ってきて、RENに手渡した。
﹁前に、お客様もすっごく喜んで下さったよ﹂
RENは受け取ったグラスを僕の胸の傷の上で傾けた。中身がぽ
たぽたと僕の傷に落ちる。
﹁ヒッ! ぅあぁぁぁぁぁッ!﹂
鞭傷に滴る酒は、相当にアルコール度数の高い物だったのだろう。
こら
ほとばし
傷口に火を点けられたかのような激痛に、僕は全身を硬直させて、
堪え切れなかった悲鳴を迸らせていた。
﹁どう? 良いでしょう?﹂
RENは立ち上がると、そんな苦痛を与えられても尚、身を起こ
とうつう
したままの僕自身を靴裏全体を使って踏みつけた。僕は息が止りそ
うなその疼痛に喘ぎ、その圧迫から逃れようと身を捩った。
片足で僕自身を圧迫したままRENはまた屈み込んで、ローショ
ンに塗れたバイブレーターを僕の後孔に、今度は一気に突き入れた。
慣らされていない場所に突き入れられた硬い異物に、僕はまた新た
な悲鳴を迸らせた。
118
第23話
うごめ
僕の内壁は突然突き込まれた異物を一度は拒否しようと蠢いたけ
れど、直ぐに歓喜したようにその玩具を咥え込み、放すまいと締め
付けていた。下腹は熱く疼き、脈打って蜜を零した。
﹁ヒッ⋮⋮!﹂
まだ先刻突き入れられたバイブレーターの衝撃が残る身体に、R
ENは2本目のバイブレーターを捻じ込んできた。体内の圧迫感が
増し、呼吸が乱れる。
﹁圭ちゃん、悪い子﹂
クスクスと笑いながら、ワゴンから何かを取り上げたRENは、
びょう
それを張り詰めた僕自身に巻きつけて、きつく締め上げるようにし
て留めた。
けいれん
それは以前僕が藍に対して使ったことのある、内側に鋲の打たれ
たペニスサックだった。
にじ
下腹部に重苦しい疼痛が湧き上がり、僕はビクビクと身体を痙攣
させる。嫌な汗が額に滲み、流れ落ちた。
﹁圭ちゃん、まだ入りそう﹂
したた
3本目のバイブレーターを取り上げたRENは、それにタップリ
とローションを滴らせ、既に埋め込まれている2本の玩具に添える
の
ようにして、無理に押し込んだ。それらは全て細身のバイブレータ
ーとはいえ、3本も呑み込まされれば蕾も限界まで押し開かれ、体
内の圧迫感もかなりのものになる。
僕は陸に打ち上げられた魚のように喘ぎながら、自由を奪われた
全身を震わせた。
きし
﹁アァァァァッ!﹂
軋んだ悲鳴が喉を切り裂くように迸った。体内に埋め込まれたバ
イブレーターのスイッチを、次々とRENが入れたのだった。それ
ぞれが僕の中で勝手に身をくねらせるように動き、容赦なく内壁を
119
掻き回す。内側から敏感な場所を刺激されて僕自身が反応するほど
に、自身に巻きつけられたサックの鋲が食い込んで、激痛を与えら
れる。
﹁気持ち良いでしょ?﹂
RENは僕の返事も待たず、また鞭を振り下ろし始めた。既に傷
を負った肌に、新たな傷が生まれ、血を滲ませて行く。幾度も振り
下ろされる鞭に、僕は完全に余裕を失い、悲鳴を上げ続けた。
﹁ヒッ! や、ぁあ⋮⋮﹂
突然、戒められている自身の先端に、激しい震動を感じて全身が
跳ねた。4本目のバイブレーターを取り上げたRENが、スイッチ
を入れたそれを僕の先端に押し当てたのだった。苦しいほどの快を
与えられるほどに、僕自身には尖った鋲が食い込み、苦痛をも与え
られ、その両極を目指す感覚の間で喘ぎ、悲鳴を零すしか術は無か
った。
そんな僕の身体が、ゴロンと返された。客席から末端部を打つよ
うにとリクエストがあったのだ。その声に、僕は反射的に指を守る
ように、きつく手を握り締めた。
﹁大丈夫。腕と手は勘弁してあげるよ﹂
客席には聞こえないような小声で、RENが囁いた。
﹁ありがとう⋮⋮REN⋮﹂
僕も小さな声で答えて、握り締めた手を解いた。
﹁ヒァァァッ!﹂
安堵したのも束の間、足裏に鞭の一撃が飛ぶ。土踏まずの柔らか
な皮膚に弾けた激痛に、僕は全身を震わせた。
﹁店員同士のプレイで病院送りは拙いよね∼﹂
RENは鼻歌でも歌うように呟きながら、更に僕の足裏に鞭を振
り下ろし続けた。あっという間に傷だらけになって行く足裏は、焼
けた鉄板の上を歩いているかのように痛んで、僕は床に転がされた
まま悶えていた。この苦痛の中でも、僕に埋め込まれた3本のバイ
ブレーターは震動して、否応のない快を煽っている。
120
﹁もう限界?﹂
縄で拘束されたままの僕を起こし、耳元でRENが囁いた。僕は
幾度も頷きながら喘いでいた。
﹁おっけー﹂
場違いに陽気な声でRENは頷き、もう一度はち切れそうになっ
たままサックに拘束されている僕自身の先端に、先ほどの強い酒が
滴らされた。弱い粘膜を純度100%に近いアルコールが灼き、そ
の激痛に僕はまた身を震わせながら悲鳴を上げていた。
﹁や⋮⋮REN⋮⋮ぁ、ダメ⋮もう⋮⋮ッ!﹂
そこ
RENはゆっくりと僕自身に絡み付いていたペニスサックを外し、
鋲の痕を残したまま快と苦痛の狭間で震えている其処を、いきなり
口腔で包み込んだ。
﹁圭ちゃんの、飲ませてよ﹂
RENはお酒の絡んだままの僕自身に舌を絡ませ、そのアルコー
ルで痛む粘膜を洗い清めるように舌先で舐めた。僕はその直接的な
刺激に身を震わせながら、直ぐにも達してしまいそうな快を堪えて
唇を噛み締めていた。
﹁頑固者∼﹂
達しそうになったまま快を堪える僕に、RENは焦れたように、
これならどうだと埋め込まれていたバイブレーターを一気に全て抜
き、代わりに自分の指を突き入れた。内壁を探り、敏感な箇所を見
つけ出して指先で突き上げながら、更に僕自身を舐め上げ、舌先で
突き、きつく吸い上げる。
身体が窮屈に折り曲げられたまま、容赦の無い快を与えられた僕
は、全身を痙攣させ⋮⋮。
﹁ハッ、アァァ︱︱︱ッ!﹂
一際大きな震えが背筋を駆け上がった刹那、僕は悲鳴を上げなが
らRENの口中で達していた。限界を超えた快が全身を巡り、意識
が薄れ、僕はゆっくりと床に力なく転がった。
﹁大丈夫かな∼?﹂
121
今までの無茶が嘘のように、RENは僕の拘束を解き、そっと抱
き起こしてくれた。同じ姿勢を取らされていた筋肉が、ギシリと軋
み、僕は小さく呻いた。
﹁おっし、帰るぞ∼﹂
一度、客席に向かって深々と一礼したRENは、フロアスタッフ
に僕の着ていた服を示すと、いきなり僕を抱き上げた。
﹁え? 何? REN?﹂
突然抱き上げられ、僕はうろたえてもがく。
にら
﹁暴れたら落としちゃうでしょーが!﹂
静かにしていなさい、と僕を睨んだRENはゆっくりと舞台を下
り、店員控え室へと続く扉へと向かった。僕の服を持ったスタッフ
が開けてくれた扉を出る頃には、僕の意識は完全に失われていた。
意識を失う瞬間、今日のRENの行動は何だったのだろうという
思いが脳裏を過ぎったけれど。答えは出なかった。
122
第24話
その夜、店の中にある医務室で眠り込んでしまった僕は、翌朝軽
い頭痛と全身の苦痛で目覚めた。
RENにつけられた鞭傷は既に手当をされており、化膿する気配
は無かったけれど、まだ僅かに血を滲ませていた。熱を測ってみる
と微熱があった。
起き上がると乾きかけた傷が引きつり、折角出血が治まった部分
がまた切れるような痛みがあった。今日は実技科目が無いので、さ
っさと休校を決めたが、今宵の瑛様との約束だけはどうしても果た
したくて、痛む身体にそっと服を着て、一旦店を出た。
タクシーを拾い、部屋へと戻る途中。車の震動に揺られながら、
微熱でぼんやりする頭で、昨夜のRENの行動を思い出す。REN
まと
あいまい
は⋮⋮僕には翌日予約が入っているのを知っていて、何故あんな行
動に出たのだろうと思うけれど、思考を纏める前に意識が曖昧にな
ってしまった。
大まかに告げた駅に近づく頃、僕は運転手さんに声を掛けられて
目を覚ました。今僕が住んでいる場所への道筋を告げ、駅を通り越
してその近くまで運んでもらい、タクシーを降りた。重たいようで
いて、何か不安定に柔らかなものの上を歩いているような足を踏み
しめて、部屋へと戻る。まだ時間的にはTVで朝のワイドショーを
やっている頃だった。
服を脱ぐのももどかしくベッドに倒れ込んだ僕は、直ぐにまた眠
りに落ちた。
空腹を覚えて目覚めたのは、夕方だった。
熟睡したことで少し気分が良くなっていた僕は、とにかくシャワ
ーを浴びた。
123
石鹸を使おうにも傷がまだ乾ききってはおらず、温い湯を浴びた
だけで酷く染みて、薄赤い水が流れて排水溝に吸いこまれて行く状
態で。仕方なく、ゆっくりと時間を掛けて湯を浴びて、それで済ま
せることにした。
浴室を出て、さて今夜は何を着ようかと悩んでしまった。
傷が痛んでスーツは着られそうに無い。いくら見苦しくなければ
といっても、瑛様をお迎えするのにあまりにもラフな服は着たくな
い。
悩む僕の目に入ったのは、昨年の学祭のイベントで着せられた、
ダークグリーンのアオザイだった。柔らかな生地で作られた、上質
のパジャマのようなデザインのそれならば、それほど傷に負担が掛
かりそうもなかったし、これで街中を歩いたら目立つだろうけれど、
店の中だけならばそれほど突飛にも見えないだろうし。
確かこれに合わせて渡された、ラメ入りの白いミュールも側に一
緒にしまってあり、これならば普通の革靴を履くよりは楽かも知れ
ないと、箱ごと取り出した。
それらをバッグに入れ、柔らかなコットンシャツとパンツを身に
着け、ちょっと近所のコンビニにでも行くようなサンダル履きで、
僕は部屋を出た。足の指先に力を入れるようにして丸めると、鞭打
たれた土踏まずが少し持ち上がり、楽だった。
近くのファーストフード店で軽い食事をして、店へと向かう。
店でもう一度シャワーを浴び、身体の中をも綺麗にして、持って
きたアオザイを身に着けた。長めのチャイナドレスのような、サイ
は
ドにスリットの入った上着の裾がふわりと揺れる。同色のパジャマ
のようなズボンを穿いて、ミュールに足を入れてみると、これなら
ばどうにか大丈夫そうだった。
ゆっくりと歩いて待合部屋の扉を開く。フロアスタッフが少し驚
いたように僕を見た。
124
バーカウンターに行きマスターに挨拶する。今宵は瑛様に逢える
と思うと、それだけで胸がときめいた。
﹁圭ちゃん、お見えになったようだよ﹂
マスターがエントランスを映している小さなモニターを僕に示し
た。そこにはフロアスタッフに会釈している瑛様の姿があった。
﹁行っておいで﹂
マスターは今夜の予約のことを知っていたようで、僕を促した。
﹁行ってきます﹂
僕はカウンターを離れると、エントランスへと続く扉へと向かっ
た。
胸が高鳴って、苦しかった。
エントランスホールの扉を開くと、その音に気付いた瑛様が僕の
方へと視線を向けた。
かば
一瞬僕の姿に驚いたように眉を上げた瑛様は、すぐに穏やかに微
笑んでくれた。僕は少し安堵し、足裏の傷を庇いながら、ゆっくり
と瑛様の元へと向かった。
﹁ようこそいらっしゃいませ、瑛様。お待ち申し上げておりました﹂
からか
﹁その格好はどうしたんだ?﹂
緩やかに一礼した僕を揶揄うように、瑛様が軽い笑声を上げた。
﹁少々怪我をしてしまいまして、それで⋮⋮﹂
僕の返事に瑛様の眉が寄せられる。僕は心の中でRENの無茶を
恨みながら、こちらへどうぞ、と瑛様をプレイルームの並ぶ通路へ
と誘った。
並んだ扉の一つを開いて支え、瑛様が入られるのを待ち、後に続
く。
﹁この部屋は偽名事件以来か?﹂
室内を見回して、瑛様が僕を振り返った。
﹁ええ。あの、嘘の名を名乗った時の部屋、でございますね﹂
125
僕は辛くて泣いたあの夜のことを思い出し、肩を落とした。その
後、瑛様に謝罪したのは別の部屋だったので、この部屋はあの事件
以来となる。
﹁別に怒っている訳じゃない。大体、あの時だって、本気で怒って
いた訳ではないんだが⋮⋮﹂
申し訳なさを思い出して身を小さくした僕に、瑛様は軽やかに笑
い出し、ソファに腰を下ろした。僕にも座れと、向かいのソファを
示す。
﹁あの後、かなり後悔をいたしましたので﹂
﹁後悔をするようなことを、後先考えずにするのが、﹃マヌケ﹄と
言われる所以だ﹂
背凭れに身体を預け、ゆったりと脚を組んだ瑛様の向かい、示さ
れた場所に座ろうとしてふと思いつき、飲み物は、と伺うとバーボ
ンをという答えが返ってきた。僕は座る前に部屋の隅のバーカウン
ターへと向かう。背後から、ついでに水も持ってきてくれ、という
瑛様の声が掛けられた。
﹁何分、O型人間なもので、考えるより行動が先、という脳みそ構
造ゆえ⋮⋮。失敗ばかりしております﹂
バーカウンターでグラスにバーボンを満たし、ゴブレットにミネ
ラルウォーターを注ぎながら、僕は何気なく答えた。
﹁血液型のせいならば、私も同じという事だな?﹂
そんな僕に掛けられた瑛様の言葉に、思わず手にしていたミネラ
ルウォーターのボトルをおとしそうになった。そんな真剣に考えた
訳ではないけれど、何となく瑛様はO型ではないと思っていたから
だった。
﹁瑛様、O型でいらしたのですか?﹂
僕はトレイに乗せたグラスとゴブレットを揺らしながら、瑛様の
掛けているソファへと戻り、テーブルにそれらを並べ、先ほど示さ
れた向かい側に腰を下ろしながら聞いてみた。
﹁そういう台詞が出てくるということは、君は私の血液型をO型以
126
外のものだと認識していた事になるな? 何だと思っていた?﹂
﹁はぁ⋮⋮A型だとばかり思っておりました﹂
更に突っ込まれてしどろもどろになりながら、僕は思いついた血
液型を口にしてみた。
﹁ほう。で、A型はどういう性格だと? そう思うからには、それ
なりの理由があるのだろう?﹂
瑛様は面白がって、更に容赦なく問うて来た。
﹁それは⋮⋮私とは反対に、頭で物事を考え、整理してから行動を
起こすタイプだと思っておりましたので⋮⋮﹂
更に墓穴を掘り続ける僕。我ながら情けなくて、小さな溜息が零
れた。
﹁それで、私がそういうタイプだと思っていたのか?﹂
瑛様は明らかに面白がって、僕を問い詰める。
﹁はい⋮⋮。とても物静かで落ち着いた方とお見受けしておりまし
たので﹂
ひ
この言葉に嘘はない。何時でも物静かで、上品で、知的で⋮⋮。
そして気まぐれに優しくて⋮⋮。そんな所に僕は惹かれたのだ。
﹁この歳になれば、どんなに騒がしい人間でも、少しは静かになる
ものじゃないか? それに⋮⋮此処にいる私が﹃造られた﹄人格で
はないと言い切れないだろうが。少なくとも私は、君の言うように、
よく考えてから動くタイプではないな。どちらかと言えば行き当た
りばったりの方だ。ものぐさなので、そうは見えないのかもしれな
い﹂
瑛様はバーボンのグラスを口に運びながら、笑った。僕の知らな
い瑛様の一面。何となく意外ではあったけれど、また新しい瑛様を
知ったようで、僕は嬉しくなった。
127
第25話
﹁そうなので御座いますか?﹂
ものぐさ、と自身を評価するのが意外な気がして、僕は失礼では
ない程度に瑛様を見詰めた。
﹁私の場合、何処にいる自分が本当の自分なのか、私自身にも分か
らなくなってきました﹂
瑛様の返事を待たず、僕は更に言葉を続けた。多分、人は、他人
の間で生きている限り、多少なりとも自分のキャラクターを演じて
いるのだと思う。好きな人には少しでも良い自分を見せたいし、近
所づきあいする人達には善良な市民であると思われたい。そして、
実家に戻っている時には、少しは本家の跡取り息子らしく、落ち着
きのある人間であると⋮⋮。
﹁何処にいようが、君は君だ。﹃創られた﹄とはいえ、それもまた
君であり、私でもある﹂
瑛様はそう言いながら、ポケットに手を入れ、小さなピルケース
を取り出し、僕に差し出した。
﹁確かに、その人格を創り、演じているのは私自身なのですしね⋮
⋮﹂
僕は目を伏せるように頷いて、差し出されたピルケースを受け取
った。
﹁あるハーブから抽出した、催淫成分から作らせた。そのまま他の
店員に静脈注射をしてみた時は、効き目が強すぎて気に入らなかっ
たんでね。即効性なのは良かったんだが、効き目が急激過ぎて面白
くない﹂
瑛様は手を伸ばして僕の掌の中のピルケースを開き、中のカプセ
ルを一つ摘み上げた。それを改めて僕に差し出し、掌に落として、
代わりにピルケースを取り上げた。僕は小さく息を吐く間に覚悟を
決めて、それを一気に飲み下した。
128
﹁このカプセルは、もっと穏やかに作用するように調整させてみた
んだが⋮⋮最終的に行き着く所は同じだ。それに加えて、効き目の
たわむ
持続時間も長い﹂
瑛様は戯れに手を伸ばし、僕の胸元を撫で上げるように触れて、
直ぐに手を離した。それだけでゾクリとした痺れにも似た感覚が全
身を走り抜け、僕は息を呑んで身体を跳ね上げた。
﹁その服を切り裂くのは止めておこうか。時間もあることだし、今
のうちに脱いでおけ﹂
僕は熱を孕み始めた吐息を零しながら、肩口の飾りボタンに手を
にじ
掛けた。胃の辺りから嫌な熱っぽさが広がり、肌がざわめき始め、
うっすらと汗が滲み始めていた。
震える指で飾りボタンを外し、チャイナドレスにも似た作りの上
着をたくし上げ、頭を抜いた。胸元には昨夜RENがつけた鞭傷が、
X字型に幾重にも重なっていた。
﹁それは⋮⋮鞭の痕か?﹂
みとが
まだ生々しい傷痕に、瑛様の眉が寄せられた。
﹁はい⋮⋮﹂
胸の鞭傷を見咎められて、僕は肩を落として頷いた。
うつむ
﹁まだ新しい傷のようだが⋮⋮客の希望か?﹂
問い詰められて、僕は肩を落として俯いたまま、小さく首を振っ
た。
﹁客の希望ではなく⋮⋮?﹂
﹁はい、申し訳御座いません。⋮⋮っ、は⋮⋮ぁ⋮⋮!﹂
小さな声で謝罪の言葉を紡いだ刹那、身体の芯が一気に熱を持っ
たような感覚が押し寄せてきて、僕は身を折って喘いでいた。
﹁私がそういう傷をあまり好まないのを承知の上での事なんだろう
な﹂
立ち上がった瑛様に腕を掴まれ、引き上げられて、僕は無理やり
に立たされていた。ゆらりと揺らめいた身体に、踏ん張ろうとした
足裏が、焼けた鉄板を踏みつけたかのように痛んだ。堪え切れなか
129
った呻きが、謝罪の言葉を紡ごうとしていた唇から零れた。
﹁来い﹂
かば
僕は腕を掴まれ、拘束台へと引き摺られるように連れて行かれた。
無理に歩かされ、足裏の傷を庇うこともできず、僕は悲鳴を零し続
けていた。突き飛ばされるように台の上に押し倒された。両手を拘
束され、下肢を覆っていた薄物のズボンを下着ごと引きむしられて、
足首もまた同様に拘束され、僕は身体の自由を失った。
﹁⋮⋮ッ⋮﹂
瑛様の指先が僕の胸の傷に触れ、ゆっくりとなぞる様に辿り始め
た。乾いた指先に触れられた痛みに、小さな呻きが零れた。
﹁あぁッ⋮⋮クッ⋮⋮!﹂
徐々に傷に触れている指先に力が込められ、きちんと整えられた
爪が立てられる。まだ完全に塞がってはいない傷からは、新たな血
液が滲み始めた。僕は引きつった悲鳴を零し、身を捩ることしか出
来なかった。媚薬を使われた身体はそんな刺激でも快にすり替え、
反応を始めた。
瑛様は全ての傷口を開こうとでもするかのように、僕の胸に爪を
立て続けた。その指先が僕の血で汚れ始めるのも気にならないよう
だった。
最後に乱暴な仕草で僕の傷を抉った瑛様は、漸く指先が汚れてい
るのに気づいたかのようにじっと眺め、唐突に大きな溜息を吐いた。
きびす
ポケットからつまみ出したハンカチで指先の汚れを拭うと、そのま
ま踵を返し、無言でソファへと歩き去った。
﹁瑛⋮⋮様⋮⋮?﹂
身動きのならないまま取り残された僕は、その後姿におずおずと
声を掛けた。
﹁暫くそうしていろ﹂
瑛様は冷たく言い放ち、ドサリとソファに腰を降ろすと背凭れに
身体を預け、静かに目を閉じた。
僕の身体は苦痛から解放された事で、すっかり媚薬に支配された。
130
背筋をじんわりと熱で焙られ、全身が快を追い始め⋮⋮。全く刺激
を与えてもらえない僕自身は、それでも何時しか熱を孕んで身を起
こし、蜜を滲ませては零すようになって行った。
131
第26話
わず
僕の身体は火照り、その全ての熱が中心に集まって行くようだっ
た。全身の皮膚感覚が鋭敏になってしまったようで、僅かな空気の
揺らぎにすら、ゾクリとした快が生まれ、苦しさに僕は身悶えるば
かりだった。
そんな僕を、離れたソファから眺めていた瑛様は立ち上がり、ゆ
っくりと拘束台へと歩み寄ってきた。
﹁どうだ、そろそろ限界か⋮⋮? ああ、結構辛そうだな﹂
瑛様はそう呟きながら僕の胸元に顔を伏せ、先刻爪で引っかいて
開いた傷口へと唇を寄せた。微かな吐息が掛かっただけで、僕の全
身の皮膚が快でざわめくようだった。
﹁ヒッ!﹂
未だ薄っすらと血を滲ませる傷口を舌先で辿られ、触れられたこ
ゆる
とと唾液による痛みで、僕は小さな悲鳴を上げて拘束具を軋ませた。
﹁もう⋮⋮お赦し下さい⋮⋮﹂
舌で触れられる痛みすら、媚薬のせいで直ぐに快へとすり替わる。
核心に触れてはもらえない、曖昧な快は更に僕の身体を燻らせ、呼
吸を乱れさせていた。
﹁赦す⋮⋮? 何を赦せと⋮⋮?﹂
瑛様は僕の胸元から顔を上げ、僕の方を見たけれど⋮⋮その瞳の
焦点は僕には合わされていないようで⋮⋮。何だかとても寂しくな
った。
﹁今宵、このような見苦しい傷を付けて来た事を⋮⋮﹂
今更取り返しのつかない事とは言え、僕は昨夜の事を悔やんでい
た。RENに誘われたのは嬉しかったけれど、肌に傷を残すような
事は断るべきだった。
﹁謝る必要など無い。わざと鞭傷をつけて、私の反応を見たかった
か?﹂
132
﹁滅相も御座いません。私の不注意、それだけで御座います﹂
僕は唯一自由になる首を、幾度も振って瑛様の言葉を否定した。
自分の浅薄さが情けなくて、目頭が熱くなってくる。
﹁今夜のことを忘れていた、という訳か﹂
﹁忘れては⋮⋮おりませんでした⋮⋮﹂
僕の言葉は曖昧に消えてゆく。そんな僕を見下ろしながら、瑛様
は拘束具を一つずつ外して行った。
﹁さあ、自由にしてやったぞ。好きなようにしろ﹂
きがかん
けれど、瑛様がしてくれたのはそこまでだった。身体を自由にさ
れた上で放り出された僕は、灼けつくような飢餓感に耐えかねて、
ゆっくりと指先を口元へと近づけた。そろりと舌を這わせ、唾液を
絡ませてゆく。
﹁鞭打たれれば、傷痕が残ることは解っていた筈だな。それから、
どうする⋮⋮﹂
瑛様は相変わらず僕を見下ろしているだけで。僕は情けない思い
を抱き締めたまま、唾液に濡れた指先を後孔に触れさせた。
なだ
ビクンと背筋が震え、蕾もまたヒクリと収縮した。その反射的な
動きを宥めるように、僕はゆっくりと息を吐きながら、濡れた指先
を蕾へと埋めて行った。同じ身体の指先なのに、歓喜して絡み付い
てくる内壁が、更に僕の情けなさを煽った。
﹁どうだ?﹂
大きく脚を開き、自らの指を後孔に呑み込んでいる僕を見下ろし
ている瑛様が、表情を全く動かさないままに問う。
﹁中、とても熱いです⋮⋮﹂
僕は全身を焦がす熱に喘ぎながら、そろそろと挿し入れた指の抽
送を始めた。その僅かな刺激が更に熱を煽るようで、自身は重苦し
く張り詰めて蜜を零した。少しの刺激は熱を帯びた身体を飢えさせ
るだけで、僕は指を増やして内壁を擦りあげながら、空いた左手で
自身を握り締めた。
その直接的な刺激に自身は脈打ち、新たな蜜を吹き零した。
133
﹁自分でするのと、他人にされるのと⋮⋮きみはどちらが良い?﹂
瑛様は屈み込み、そう囁きながら僕の耳朶に軽く歯を立てた。ジ
ンとした甘い痺れが僕の全身を走り抜け、左手の中の熱が脈を打っ
た。僕は後孔に突き入れた指先で幾度も内壁を擦りあげつつ、達し
てしまわないように張り詰めた自身を握り締めた左手に、更に力を
込めていた。
﹁それは⋮⋮他人にされる方、で御座います⋮⋮﹂
僕は喘ぐ吐息に乗せるように、言葉を紡いだ。瑛様はそのまま僕
つ
の首筋へと唇を滑らせながら、少しずつ血が乾き始めた胸元の傷を
探るように撫でた。折角塞がりかけた傷口が、その刺激で引き攣れ
て痛んだ。
﹁⋮⋮そうでなければ、此処では勤められないだろうな﹂
瑛様は僕の答えに僅かな笑いを零しながら、更に舌先で首筋から
鎖骨までを辿った。擽ったいような曖昧な快が、僕の熱を中途半端
に煽った。
﹁あぁ⋮⋮っ、は⋮⋮ぁ⋮⋮﹂
後孔で飲み込んでいた指は動きを止め、ただ左手だけが震えなが
らも自身が達するのを戒めて、強く握り締められていた。
喘ぎ、身悶えている僕から身を離し、瑛様は僕の足元へと歩いて
いった。その視線は僕の指を呑み込んでいる部分に注がれる。みっ
ともない姿を見詰められた僕は、更に全身を羞恥で火照らせていた。
さ
﹁どうした⋮⋮手が止っているぞ。続けろ。但し、まだイくなよ﹂
うっけつ
瑛様は僕に命じながら再び身を屈め、僕が指を挿し入れている場
所の直ぐ側の内腿に唇を寄せ、鬱血の痕が鮮やかに残るほどに吸い
上げた。僕はそれだけで達してしまいそうになった自身を握り締め
たまま、背を跳ね上げて震えた。
僕は左手で自身をきつく握り締めたまま、体内に差し入れた指を
ゆっくりと動かした。媚薬で火照る身体は僅かな刺激で達してしま
いそうで、僕は全身に汗を滲ませて喘ぎ続けていた。
﹁君の身体のことは君が一番知っているだろうに、なぜ他人から受
134
ける刺激の方が良いのだろうな⋮⋮?﹂
くぼ
瑛様の舌は内腿から脚の付け根の危うい部分を過ぎ、骨盤の窪み
まで滑らされた。直接触れられなかった自身は、僕の手の中で大き
く跳ねて蜜を溢れさせた。
﹁自分では⋮⋮自分の望む苦痛を与えきる事が出来ないから、なの
でしょう⋮⋮﹂
僕は殆ど残されていない思考力を掻き集めて、どうにか言葉を紡
いだ。身体を焦がす熱に、頭までぼんやりして、ただ達したい、満
たされたいという想いだけが一杯になっているようだった。
﹁君には優しい愛撫よりも、痛みが快楽か⋮⋮﹂
言葉が終わるか終わらないうちに、瑛様の手は僕の胸元の傷を掴
み、爪で切り裂くように引っ掻いた。僕の胸には痛みが走り抜け、
喉からは軋んだ悲鳴が迸った。足首を拘束している革ベルトが引っ
張られ、ギシギシと音を立てた。爪を立てられた傷口はまた開かれ
て、新たな血液の粒を盛り上がらせる。
﹁肉食獣は獲物の血に陶酔感を得るのだろうか⋮⋮﹂
瑛様の瞳は既に僕を見ていなかった。独り言のように呟くと、開
いた傷口に更に爪を立てた。
﹁ヒッ! うぁぁぁぁぁッ!﹂
傷口を強引に開かれ、更に爪を立てられた痛みに、僕はまだ完治
していない喉を気遣う余裕も無く、悲鳴を上げ続けた。つい緩んで
しまった左手は自ら零した蜜で滑り、その刺激で達してしまいそう
になって、僕は慌てて力を込めた。
﹁この色は嫌いだ⋮⋮この匂いも⋮⋮嫌いだ﹂
瑛様は散々僕の傷口を爪で抉った後、その血で汚れた指先を僕の
唇に擦り付けた。乾きかけた血液の匂いが鼻腔を掠め、舌先に鉄錆
臭い味が広がる。僕は舌先を差し出して、そんな瑛様の指先を、爪
と皮膚の間までも舐め清めた。
﹁この痛みと匂いに陶酔感を感じられるなら⋮⋮イッて良いぞ⋮⋮﹂
瑛様の赦しに、僕は安堵の吐息を零し、自身をきつく戒めていた
135
左手の力を抜いた。あまりに力を入れ続けていた指は、握り締めた
形のまま、痺れたようになっている。
﹁ぁ⋮⋮はっ⋮⋮アァァァッ!﹂
後はほんの少しだけ、後孔に差し入れていた指を抜き差しして、
内側から刺激してやるだけで十分だった。僕はビクンと身体を跳ね
けいれん
上げた刹那、自身は大きく脈打ち、弾けるように熱い精を迸らせた。
焦らされて、漸く達することが出来た僕の身体は、小刻みな痙攣を
繰り返しながら、ゆっくりと弛緩して行く。
瑛様は僕の姿を見下ろしながら、苦しそうに呼吸し、自らの身体
を両腕で抱き締めていた。
﹁圭⋮⋮済まない、今夜はどうかしている﹂
ポケットから出した白いハンカチで手を拭った瑛様は、それをそ
っと広げると、汚れていない部分で僕の胸の傷口を押さえ、足首を
拘束しているベルトを外してくれた。僕は身を起こし、自分でも何
も考えないうちに瑛様の手を取り、もう一度舌先を爪と皮膚の間に
差し入れるようにして、汚れを清めていた。
そんな突飛な行動を起こした僕に手を預けたまま、こんなプレイ
は不本意だ、と瑛様は小さな声で吐き捨てた。
﹁もし、ご満足いただけなかったのでしたら、お詫びはまた後日に
⋮⋮﹂
昨夜の僕の軽率な行動で、瑛様が不快になられたのなら、と思う
と不安で一杯だった。
﹁いや⋮⋮もう良い。お相手頂けるなら、今日とは関係なく願いた
いな﹂
瑛様は僕の口元から手を離すと、代わりに身を屈めて口付けてく
れた。
﹁ぁ⋮⋮﹂
柔らかな温もりが一瞬だけ僕の唇を掠めた事に、僕は驚いて、小
さな喘ぎを零していた。
﹁私も、もう少し修行をしてこよう﹂
136
瑛様は片方の口角だけで笑むと、片手を上げて扉へと向かい、そ
のまま部屋を出て行った。
取り残された僕は、唇に残された感触が夢のようで、ぼんやりと
瑛様が出て行った扉を見詰め続けていた。
137
第27話
ふとした時に吹き過ぎる風に、秋の気配が感じられるようになっ
てきた。
僕は相変わらず学校と店と、という生活を続けていた。入院をす
るほどの怪我のせいで傷めた喉は、少しずつ回復しているとはいえ、
やはり軋んだような声で。思ったとおり、声楽は追試となった。
それは、RENのつけた鞭傷を瑛様が爪で抉ったあの夜から、か
なり経った日の事。
その夜の僕は指名もされず、そろそろ帰ろうかと思っていた所に、
瑛様が来られたのだった。胸が苦しいほどに高鳴った。
実のところ、瑛様にお目に掛かるのはあの夜以来だったのだ。
最近の僕は責め手としての指名が多く、割と早く個室へと移動し
てしまう事が多かった。その上⋮⋮瑛様が店に現れる日が、かなり
減っているように思えた。
そんな訳で、かなり長い間、僕は瑛様と過ごす事が出来なかった
のだった。
僕は胸をときめかせながら、瑛様のお出迎えにとエントランスへ
走った。
﹁瑛様、ようこそいらっしゃいませ﹂
僕はドキドキと鼓動する心臓を抑えるように、胸元に手を当て、
深く腰を折って一礼した。
﹁圭、久しぶりだな﹂
瑛様の声は穏やかに僕の耳に響いた。
﹁また、酒を一杯飲む間、付き合ってもらえるか?﹂
138
﹁喜んで﹂
たとえグラス一杯のお酒を飲むだけの、ささやかな時間であろう
と、瑛様と過ごせるのは僕にとっては嬉しかった。本当に久しぶり
の、瑛様と共に過ごす時間だったのだ。
個室ではなくて良いという瑛様を、舞台とバーカウンターのある
部屋へとご案内した。今日は何も演じられていない舞台から少し離
れたソファに腰を下ろし、ジンをロックで、と命じた。
僕は一礼してカウンターへと行き、マスターにそのオーダーを告
げた。直ぐにグラスにマスターが手早くアイスピックで砕いて作っ
た球体の氷が入れられ、その上からなみなみと透明のお酒が注がれ
た。僕はグラスを受け取り、小さなトレイに載せて瑛様の待つソフ
ァへと戻った。
﹁お待たせいたしました﹂
ソファの前のテーブルにグラスを置くと、いつもと同じように瑛
様は自分の隣に座るようにと、僕を促した。僕は命じられるままに、
ソファへと腰を下ろした。
﹁今夜は静かだな﹂
瑛様はグラスを口に運び、強いお酒を一気に流し込んで、独り言
のように呟いた。
﹁今宵は週の半ばで、常連のお客様方もお忙しいのでしょう﹂
からか
﹁それでは、こうして酒を飲んでいる私は、暇人か⋮⋮﹂
瑛様は僕を一瞥して、揶揄うように笑った。
﹁そんな⋮⋮とんでもない事でございます。失礼致しました﹂
焦る僕に、そんなに離れて座らず、もっとこっちへ来いと、瑛様
は腕を伸ばした。身体を引き寄せられて、近くに感じる瑛様の体温
に、僕はどうして良いか解らないほどに、ドキドキしていた。
﹁そういえば、最近はドジを踏まなくなったのか?﹂
瑛様は笑いながら僕に問いかけた。微かにジンが香る。
﹁なるべく失敗しないように、気をつけております﹂
僕にはそう答えるしかなかった。何しろ、小さな失敗は良くある
139
つまず
ことで、カーペットの毛足に躓いて、高級なクリスタルのグラスを
放り投げる形になって割ったなどというような事は、日常茶飯事だ
ったりする。その度にオーナーからは冗談のように、失敗を続ける
ようなら四肢切断して海外の変態オヤジに売りつける、と言われて
いたのだった。
﹁四肢切断されないように、気をつけろ﹂
更に笑いながら、瑛様は言葉を続けた。きっと、このネタは瑛様
が相手にした他の店員から伝わったのだろう。少し情けなくなって、
僕は肩を落として俯いてしまった。
﹁それから、もし四肢切断される事になったら、真っ先に私に連絡
をくれるよう、オーナーには伝えてくれ。居間の面白い飾り物くら
いにはなるだろう?﹂
僕だけではなく、フロアスタッフにも聞こえるように告げて、瑛
様はグラスに残っていたジンを飲み干した。おかわりを、とグラス
を受け取ろうとした僕を制して、瑛様は側にいたフロアスタッフに
空のグラスを渡した。
僕は今の瑛様の言葉の真意を量りかねて、瑛様を見上げた。四肢
切断された僕を⋮⋮買い取って下さるという事なのだろうか、と言
葉の続きを待ったけれど、瑛様は面白そうに僕を見ているだけだっ
た。
まさか、今のお言葉は本気ですかとも訊けず、僕は混乱していた。
瑛様に買い取られる⋮⋮たとえ四肢を失って、もう二度とピアノが
弾けなくなったとしても⋮⋮僕が今まで生きてきた全てを捨てても
良いとさえ思えた。
おかわりのジンを運んできたフロアスタッフは、静かに瑛様の前
にグラスを置いて、少し離れた場所に戻った。瑛様はテーブルのグ
ラスを取る訳でもなく⋮⋮僕は近くに感じる体温に身体が火照り、
微かに香るジンに酔っているようだった。
不意に、肩に暖かな重みを覚えて僕はそちらに視線を向けた。頬
には擽ったい感触がある。
140
くすぐ
瑛様は僕の肩に寄り掛かるようにして、眠っていた。頬に髪が当
たり、それで擽ったかったのだ。
僕は困惑しつつも、こんな体勢で眠ってしまったら、目が覚めた
時に身体が辛くなるのではないかと思った。どうしようかと考えて、
僕の肩に預けられた上半身を支え、ソファの上にそっと横たえた。
僕の行動に気付いたフロアスタッフが、当たりが和らぐようにと持
ってきてくれたバスタオルを、畳んだまま頭の下になる肘掛部分に
きゅうくつ
置いて、枕代わりにする。
ひじかけ
靴を履いたままでは窮屈かも知れないけれど、その辺は勘弁して
いただこうと、脚を支えてソファに上げ、反対側の肘掛部分に乗せ
た。
そうして、僕はただ側に侍るように、瑛様の頭の方の床へと膝を
ついた。
141
第28話
わず
ひざまず
目元に僅かに疲労の影を落として、瑛様は静かに眠っていた。僕
はただ側に跪いて、その寝顔を見詰め続けた。
フロアスタッフがいるとはいえ、彼らは少し離れた位置にいる。
だから、今ここにいるのは瑛様と僕の二人きり、という錯覚を起
こしそうだった。
眠り続ける瑛様を見詰めながら、僕は何故彼にこんなにも恋して
しまったのだろうと、自分に問い掛けてみる。
勿論、その外見が僕の好みというのもあったかもしれない。けれ
ど、外見だけでこんなに好きになれる訳でもない。
ふとした時の上品な物腰も、会話の端々に滲む知性も好きだ。そ
れに⋮⋮何て言うか⋮⋮そのプレイスタイルも、僕の求める快を与
えてくれる類の物だった。
けれども、そんな頭で考えるような﹃好き﹄の理由などより、上
手く言えないけれど、初めて出会った時に、とにかく僕の魂が震え
たのだ。理屈など無い。直感的に、﹃この人だ﹄と気付いた、そん
ようや
な感覚だった。
漸く出会えた、と思った。
まぶた
30分ほども、そうして瑛様を見詰め続けていただろうか。
小さく呻いて、瑛様が身じろいだ。閉じられていた瞼がピクンと
動いて、ゆっくりと開かれる。僕は慌てて覗き込んでいた身を引い
た。
﹁圭⋮⋮私は眠ってしまったのか⋮⋮﹂
壁に掛けられた時計を一瞥して、瑛様は僕に問い掛け、ゆっくり
142
と身を起こした。
﹁お疲れだったので御座いましょう。30分ほどお休みになられま
した﹂
﹁そうか⋮⋮。これは君が?﹂
ソファに横たえたのは僕がやったのか、と言うように瑛様は肘掛
しわ
の上に伸ばされていた足を指差した。
﹁お召し物が皺になってしまうかとも思いましたが、お疲れのよう
でしたので。変な姿勢で眠られてしまうより、お身体を伸ばされた
方が楽かと⋮⋮﹂
﹁ああ。済まなかったな﹂
瑛様は僕の返事に穏やかに微笑んで、肘掛の上から足を下ろし、
ソファにきちんと座りなおした。テーブルに置かれたグラスの氷は
溶けて小さくなって、強いお酒はすっかり薄まっており、一度は手
を伸ばそうとした瑛様だが、直ぐにそれは止めて手を引いた。
﹁申し訳ないが、今夜は失礼する。酔っ払いの面倒を見させて済ま
なかったな﹂
乱れた服を直しながら立ち上がると、瑛様は肩口でひらりと手を
振り、エントランスへと続く扉へと歩いていった。
﹁とんでもない事でございます。どうか、ご無理はなさいませんよ
うに⋮⋮。またのご来店を心よりお待ち申し上げております﹂
僕も床から立ち上がり、深く一礼して瑛様の後姿を見送った。
瑛様の寝顔を見ながら、ゆっくりと時間が流れてゆくのを感じた、
幸せな一夜だった。
季節はゆっくりと移ろって行き、街路樹が少しずつ色づき始める
頃となった。
143
相変わらず僕への責め手としての指名は減らず、それなりに仕事
をこなす日々が続いた。
瑛様の寝顔を見詰め続けた幸せな夜以来、瑛様にお目に掛かる機
会は無く、僕は不安で一杯だった。このまま、もうお目に掛かれな
くなってしまうのではないかという、息苦しいほどの不安を支えて
くれているのは、あの夜、僕が四肢切断されたら真っ先に声を掛け
てくれ、と冗談のようにスタッフに告げた、瑛様の一言だった。
そんな不確かな言葉に縋るように、僕は店に出続け、瑛様を待ち
続けた。
もた
その夜も、僕は瑛様を待ち続けるように、店に出ていた。週中の
店内は、やはり週末に比べれば静かで、僕はカウンターに凭れてぼ
んやりとしていた。
そんな時、店員の控え室の方から続く扉が開き、RENが鼻歌を
歌いながら入ってきた。
何かの為に手っ取り早くお金を稼ぐ、と公言していたRENは、
目標額を達成したのか、最近は以前ほど店に出なくなっており、そ
れも僕にとっては寂しい事の一つだった。
﹁圭ちゃ∼ん、お久しぶり∼﹂
RENは僕に気付くと、軽く手を振り、カウンターへと向かって
歩いてきた。
﹁REN、久しぶり。元気だった?﹂
﹁俺は何時でも元気∼。マスター、あのお酒ちょうだ∼い﹂
僕の言葉に答えながら酒瓶の並ぶ棚を物色していたRENは、そ
の中の一本のボトルを指差した。
﹁ふざけるな。いくらする酒だと思っているんだ﹂
RENが高い酒をねだるのは何時もの事なので、マスターも慣れ
たもので、冷たく一蹴した。
﹁ケチ∼、ちょっとくらい飲ませてくれても良いのに∼﹂
144
拗ねたように身を捩るRENを一瞥したマスターは、何も聞かな
かったかのように自分の仕事に戻り、グラスを磨︵みがき始めた。
﹁REN、なかなか逢えなくて、寂しかったよ﹂
﹁俺も∼﹂
RENの腕が僕を抱き寄せた。それは恋人同士の抱擁ではなく、
どことなく子供がじゃれあっているような、そんな触れ合いだった。
それでも、RENの体温は優しく暖かで、不安な僕の心をも暖めて
くれるようだった。
﹁圭ちゃん。逢えない間、何か面白いことでもあった?﹂
僕を緩く抱いた腕を解いて、RENが尋ねてきた。
﹁う∼ん⋮⋮大した話は無いかな。強いて言えば、僕がまたドジ踏
んで、四肢切断される事があったらって、今から買い手が付いちゃ
った事かな﹂
﹁何、それ∼。でも、圭ちゃん、何か嬉しそう∼。そんなに四肢切
断されたいの∼?﹂
RENは大笑いしながら僕の顔を覗き込んだ。実際、僕の気持ち
はRENが言った通りで、四肢切断されたとしても、瑛様の側で過
ごしたかった。図星を指されて火照る頬を隠すように、僕は幾度も
首を振って、そんな訳無いじゃないかと否定した。
﹁だって、海外に売り飛ばされたら、僕は日本語オンリーだから、
言葉で困るでしょう? 一応国内で買い手が付けば、言語の心配は
無いから。その方がましかな、って思ってさ﹂
﹁もう∼、圭ちゃんったら∼。何言っているの∼。四肢切断された
ら、もう二度とピアノが弾けなくなっちゃうでしょ∼。それでも良
いの∼?﹂
呆れたように、RENは大仰な溜息を吐いた。
RENに指摘されるまでも無く、僕は既にその事に気付いていた。
そして⋮⋮もう二度とピアノが弾けなくても、瑛様の側にいたいと
思っていたのだった。
﹁圭ちゃん、どうしたの∼? 疲れているんじゃないの∼?﹂
145
RENが身を屈めて、僕の顔を覗き込んできた。
つ
﹁え? 疲れていないよ。どうして?﹂
﹁だって、溜息なんか吐いているから﹂
どうやら僕は自分でも気付かないうちに、深い溜息を吐いていた
ようだ。RENは僕の顔を覗き込んだまま、無理しちゃダメ∼、と
笑った。その穏やかな笑顔に、僕の切なさで一杯だった心は癒され
るようだった。
﹁ありがとう、REN。気をつけるよ﹂
僕は彼の笑顔につられたように、笑み返した。
﹁まったく、無茶して心配させてばかりなんだから∼﹂
RENは僕を少し乱暴に抱き寄せると、折角整えた髪がくしゃく
しゃになるほど、掌で頭を撫で回した。暖かくて、優しいREN。
その温もりに包まれた僕は、また切なくなって涙が滲んできそうで、
抱かれたまま幾度も頷くだけだった。
﹁ほら、何時までも二人でじゃれているんじゃない。お客様だよ﹂
マスターに言われて僕たちは慌てて身を離し、カウンターの中に
設置されたエントランスが映し出されているモニターを覗いた。そ
こには、どうやらRENを気に入っているらしい、M気質のお客様
の姿があった。
﹁お出迎えに行ってくる∼﹂
ひらひらと手を振りながらエントランスに向かうRENに、行っ
てらっしゃいと手を振り返して見送った。
この後、他のお客様が見えることも無く、また瑛様にお目に掛か
れず終いだった僕は、落胆したまま帰路についた。
瑛様に逢いたくて堪らなかった。
けれど、その後も⋮⋮風が冷たさを増すようになっても、瑛様に
は逢えなかった。
146
そうして、逢えない時間の分、僕の中には切なさと不安が積もっ
て行くようだった。
147
第29話
街には気の早いクリスマスソングが流れるようになった。
僕は相変わらず学校へ行っては店に出る、という毎日だった。
﹁⋮⋮最後、静かに音が闇に消えて行く感じで⋮⋮そう⋮⋮音が消
えるのを待って⋮⋮﹂
ピアノを演奏する僕の横から、曲想に関する指示が飛ぶ。慎重に
キーを押し込むように叩き、ペダルをも使って最後の残響音を響か
せた後、ゆっくりと指を上げた。
﹁悪くは無いんだけど⋮⋮割とテンポ・ルバート︵わざとテンポを
保たずに演奏する事。一小節の最初の部分を少しゆっくり目に、そ
の分後半を少し畳み掛けるようにしたりする︶で演奏される事が多
こだわ
いこの曲を、敢えてインテンポ︵きっちりとテンポを保って演奏す
る事︶で弾くって、何か拘りがあるの?﹂
斜めに此方を向いた担当教授が、首を傾げるように僕の目を覗き
込んだ。
﹁何となく⋮⋮なんですけど、インテンポで弾いた方が、変な甘さ
が消えて、静寂感が出るような気がして⋮⋮﹂
上手くは説明できなかった。ただ、以前プロのピアニストがTV
で演奏したときに、同じようにインテンポの弾き方をして、それが
凄くクールな感じで格好良かったのだ。真似と言われてしまうとそ
れまでなのだが、あんな風に弾いてみたいと思ったのは事実だった。
﹁まあ、全くインテンポで弾くことが無いという訳ではないし、こ
の弾き方をしたいのなら構わないけれど。それならば、全体をもっ
と重く静かな感じで、完璧にテンポを保って。そうしたら、もっと
完成度が上がると思う。それじゃ、もう一度最初から弾いてみて﹂
慣れた手つきで楽譜のページが戻され、曲の最初の部分を示され
148
る。
僕は何時もの儀式のように、ゆっくりと息を吸い込み、吐き出し
ながら指を最初のポジションに置いた。フッと一瞬息を止めて、指
を重く押し込むように最初の音を紡いだ。
﹁⋮⋮もっと主旋律を出して⋮⋮そう、直ぐにデクレッシェンド⋮
⋮もっと鬱々︵うつうつ︶とした感じに⋮⋮静かな静かな⋮⋮そう
⋮⋮﹂
また細かく演奏の指示が出る。その観念的な言葉を僕の持つイメ
ージに変換して、そのイメージ通りの音を紡ぐために指を動かす。
﹁⋮⋮溜息が静かに消えて⋮⋮一瞬だけ感情が昂って、また直ぐに
元通りの静けさに⋮⋮﹂
音を紡ごうとした刹那、瑛様の穏やかな微笑が脳裏に広がった。
もつ
切なさに背が震えて、情けなくも指が止ってしまった。
﹁ん? どうしたの?﹂
﹁すみません。一瞬、頭の中でイメージが縺れてしまって﹂
いちべつ
﹁まあ良いわ。今の感じで全曲を通して練習して。⋮⋮それじゃ、
次!﹂
時計を一瞥した教授が、僕の持ち時間の終了を告げた。立ち上が
り、ありがとうございました、と一礼して次の順番の女子学生に席
を譲る。
自分の持ち時間が終わったからと言って、他人の演奏を聴くのも
勉強のうちという事で、レッスン室を出る訳にも行かない。既に自
分の持ち時間を終了した者と、これからのレッスンを待つ者が座る
為の椅子が並べられた壁際へと行き、空いている一つに腰を下ろし
た。頭の中にはまだ、あの穏やかな瑛様の微笑が残っていた。
そういえば、もう暫く瑛様にはお目に掛かっていなかった。
一目で良いから⋮⋮僕を指名してくれなくても良いから⋮⋮瑛様
に逢いたかった。
149
授業が終わると、途中で夕食を済ませ、店に向かった。
ピアノのレッスン中に脳裏を過ぎった、瑛様の微笑。その妄想に
心がざわめき、逢いたい一心で店に飛び込んだのは、開店まで余裕
のある時刻だった。
何時も通りに身体の中まで綺麗に洗浄し、シャワーを浴びて身体
を温もらせ、仕事用の衣装に着替え、店に出た。そして、それから
の長い時間、他の客に指名されることの無かった僕は、ただひたす
らに瑛様を待ち続けた。
けれど⋮⋮この夜も瑛様は現れなかった。
失意のままに服を着替えて、僕は冷たく冷えた街に出た。
駅へと向かう途中、まだ店を開けているバーが目に入った。僕は
お酒は飲めない質だけれど、何だか酷く人恋しくて、ふらふらと灯
りに誘われる羽虫のようにその店の扉を開いた。
そこは小さなカウンターに10席にも満たないスツールが並んだ
だけの、こぢんまりした店だった。見るからに温厚そうな中年のマ
スターが、いらっしゃいませ、と僕に声を掛けながら、中へと促す
ように上向けた掌を滑らかに流した。
薄暗い店内に静かに流れるジャズピアノの音を耳で追いながら、
僕は身体を斜にするようにして中へと入り、どちらかといえば入り
口よりの席に腰を下ろした。
﹁ご注文はいかが致しましょう﹂
問われても、僕にはカクテルの名前もあまり分からなくて答えに
困り、助けを求めるように周囲を見回すだけだった。
みつくろ
﹁甘いのか辛いのか、強いのか弱いのか、ベースになる酒の好みが
あればそれも言えば、このマスターなら適当に見繕って作ってくれ
る﹂
そう声を掛けて、僕とマスターを交互に見ているのは、奥の方の
席に掛けていた20代後半の、サラリーマンらしい男性だった。
﹁あの⋮⋮それじゃ、甘くて、弱いのを⋮⋮﹂
僕に助け舟を出してくれた男性に一礼して、マスターにオーダー
150
する。
﹁それでは、エンジェル・ティップは如何でしょう。カカオリキュ
ールとクリームの甘いカクテルです﹂
﹁ありがとうございます。それをお願いします﹂
僕はオーダーを済ませ、もう一度お礼を言おうとして、奥の席の
先客に視線を移した。
﹁そんな離れた所に座っていないで、もっとこっちへ来ないか? 俺も一人じゃ寂しい﹂
促されて、僕は彼の側に席を移した。
﹁初めて見る顔だな﹂
﹁ええ、今夜が初めてです。何だか引き寄せられるように入ってき
てしまって﹂
そう答えた僕に、グラスに注いだウィンナー・コーヒーのような
カクテルを差し出しながら、今後ともご贔屓に、とマスターが微笑
んだ。グラスを受け取って口をつけ、ほんの僅かに流し込む。甘い
香りと濃厚なクリームが口腔に広がった。美味しい、と微笑んだ僕
に、それは良かったとマスターが笑み返してくれた。
151
第29話︵後書き︶
Angel’s Tip
クレーム・ド・カカオ 3/4
生クリーム 1/4
レッド・チェリー 1個
グラスにクレーム・ド・カカオを注ぎ、生クリームをフロートし
て、チェリーを飾ったカクテル。
今回圭が作ってもらったものは、レシピより生クリームが多目。
152
第30話
甘いお酒と、気だるいジャズに、僕は気持ち良くなっていた。
﹁こんな時間に、お互い一人なんて、寂しい人生だな﹂
ひとなつ
既にお酒の回っている先客の彼が、僕に同意を求めるように笑っ
た。人懐こい笑みに、僕はつられたように笑み返して頷いた。
﹁何か悩みでもあるのか? そんな暗い顔をして飲んだら、悪酔い
するぞ﹂
﹁あ⋮⋮﹂
彼に指摘されて、僕はまだ頭の片隅で、長い事逢えないでいる瑛
様の事を考えていた事に気付いた。
﹁この所ずっと⋮⋮逢いたいと思い続けている人に、全然逢えなく
て⋮⋮﹂
初対面で、彼は僕の仕事の事も、僕自身の事も知らないという気
楽さで、僕は抱えている苦しさを彼に吐き出してしまった。じわり
と目頭が熱を帯びたように感じたのは、涙が滲んだせいだった。
﹁恋人か?﹂
端的な一言に、僕はゆるりと首を振った。
﹁どうせ身分が違うから、叶う恋ではないのだけれど。でも、好き
でたまらない人なんです。好きで好きで⋮⋮ただ、側で過ごせるだ
けでも良いからって。それが最近は全然逢えなくて、側で過ごす事
も出来なくて⋮⋮切なくて⋮⋮﹂
﹁泣き上戸か⋮⋮。おい、良い歳をして泣くな﹂
話している内にまた切なさが募って、堪えていた涙がぽとりと落
ちたのを見て、彼が笑った。暖かな掌が励ますように幾度も僕の背
を叩き、その力強さが更に僕の切なさを煽るようだった。
﹁さて、俺はそろそろ帰るとするか。別に、お前が泣いたから、こ
こにいるのが嫌になった訳じゃないぞ。帰って少し寝ないと、今日
の仕事に差し支えるからな。⋮⋮俺は大宮拓。暇な時はこの店で飲
153
んでいるから、また見かけたら声を掛けてくれ﹂
彼は立ち上がるとカウンターの上に代金を置いて、僕の後ろを通
り抜けると店を出て行った。
残された僕は、それでも胸の中の苦しさを少し吐き出したことで、
気持ちが少し落ち着いたのを感じていた。
マスターは僕達の会話が聞こえていた筈だけれど、その事には触
れず、そろそろ寒くなってきましたね、というような当たり障りの
無い事を話し掛けてくれた。僕もまた、冬物のコートを出さないと、
などと返事をしながら、もう暫くの時間をこの店で過ごした。
﹁それじゃ、僕もそろそろ帰って寝ないと。マスター、お酒、ご馳
走様。とても美味しかった﹂
ゆっくりと立ち上がり、代金を支払い、足元が揺らめかないのを
確認して、僕は店を出た。扉を開いたと同時に、またどうぞ、とマ
スターが声を掛けてくれた。
これが、僕と拓との出会いだった。
そして、この日から、僕は瑛様に逢えないままに、仕事を少し早
めに切り上げた日には、時々そのバーに寄るようになった。
確かに、毎回という訳には行かなかったけれど、拓とは良く顔を
合わせた。その度に彼は人懐こい笑みを浮かべて僕に話し掛けてく
れ、僕は彼の聞き上手な優しさに甘えるように、胸の内に抱えた苦
しさを零すようになっていった。
﹁こんばんは﹂
夜風が身に染みて、この日もまた、僕はあのバーに立ち寄った。
扉を開けながらマスターに挨拶し、奥を見ると、既に何杯目かのグ
154
ラスを空けている途中らしい拓が、カウンターに凭れながら僕にひ
らりと手を振った。
﹁拓さん、何杯目ですか? 飲み過ぎには気をつけてくださいね﹂
僕は振られた手に誘われるように、何時ものように拓の側へと入
っていった。
﹁大丈夫。このマスターは、直ぐに﹃今夜はもう終わりにしましょ
うね﹄って言って、次の酒を作ってくれなくなる﹂
そうだよな、と同意を求めるのが半分、もう半分は恨めしげな目
つきでマスターを見上げた拓の視線の先で、当のマスターは穏やか
に微笑んでいた。
私の店のお客様には、お酒で身体を壊して欲しくないんです、と
とろ
微笑み続けるマスターに、僕はまたエンジェル・ティップを頼んだ。
あまり強くなく、甘く蕩けるようなお酒はすっかり僕のお気に入り
となり、来る度にオーダーするようになっていた。
﹁今夜も待ち人来たらずか?﹂
﹁ええ。今夜もふられてしまいました﹂
拓は僕の仕事の内容を、それほど詳しくは知らない。僕はただ、
ある店で働いている、としか言っていないからだ。そして、その店
に来る客の一人に恋してしまった事、その人とは最近全然逢えなく
なっている事、を最近話したばかりだった。
﹁仕事でも忙しいんだろう。そろそろ12月になるしな﹂
拓は気にするなと言うように、僕の肩を何度も軽く叩いた。
にじ
仕事が忙しい⋮⋮そう信じたいのだけれど、心の奥がざわめいて、
不安が大きくなるばかりで⋮⋮。俯いたまま頷きながら、滲みそう
になる涙を僕は堪えていた。
それからまた、何日かが過ぎた。
色鮮やかな無数の豆電球と、赤と緑と金の装飾が街中を飾ってい
た。
155
街を行く人々の気分が、何となく華やいでしまうこの時季になっ
ても、僕は瑛様に逢えない日が続いていた。きっとお仕事が忙しい
ぐち
のだろうと思い込もうとしても、漠然とした不安だけが満ちて、僕
なぐさ
は胸苦しさに押し潰されそうだった。
僕にとっての唯一の慰めは、何時でも愚痴を聞いてくれて、大し
たことじゃないだろうと言ってくれる、拓の存在だった。その言葉
には何の根拠も無かったけれど、それでも、大丈夫だと力強く言い
切ってもらえると、ほんの少しだけ胸の中に溜まった苦しさが和ら
ぐようだったのだ。
僕の心は拓にすっかり凭れ掛かるようになっていた。
逢えなくなり始めた頃と違い、最近では、どうせ逢えないのだろ
うけれど、と諦めた気持ちで店に出るようになっていた。だから、
お客様の予約メッセージを貼り付けているボードも、殆ど斜めに眺
めるだけで済ませていた。
﹁え⋮⋮?﹂
だから、そのメッセージを目にした時、僕は一瞬何が起こったの
か理解できなかったのだ。
かっちりとした、万年筆のインクの跡も鮮やかな文字の綴られた、
白いメッセージカード。並べられた文字は、過日の予約の時と同じ
だった。
﹃28日、パートナーと訪館したい。ついては、その日の予約を願
いたく﹄
⋮⋮パートナーって? と、その一言が僕の頭の中をグルグルと
回った。その言葉の意味が理解できず、ただ眩暈のような気分の悪
さに、僕はそのボードとは反対側の壁に寄り掛かった。
この店の店員も客である会員も、全て男性である。パートナーと
いっても、瑛様の奥様である筈はない。つまりは⋮⋮男性の、特別
な関係にある人という事、なのだろう。
156
勿論、僕は瑛様の﹃恋人﹄になる事など、絶対にありえないと諦
めていた。けれど⋮⋮実際に瑛様の恋人の存在を知って、目の前が
暗くなって行くのを感じていた。
157
第31話
それから予約の28日までの毎日を、僕は逡巡の中で過ごした。
瑛様に逢いたかった。けれど、彼のパートナーになど、逢いたく
なかった。そんな人物に逢ってしまった時、自分が冷静さを保つ自
信など、まるで無かったからである。
す
瑛様の恋人というのであれば、間違いなく上流階級に住む人間だ
ろう。怪しげな店の男娼である僕と、上流階級に棲む恋人⋮⋮。明
らかに住む世界が違うと⋮⋮僕が卑しい人間だと、見せ付けられて
辛くない訳が無い。
それでも⋮⋮瑛様に逢いたいという想いは募るばかりだった。
心が乱れて、ピアノの演奏まで乱れっぱなしで、なかなか練習中
のソナタは完成しそうになかった。
心乱れたままのクリスマスが終わり、予約当日になった。
瑛様に逢いたい思いと、彼の恋人になど逢いたくない思いとの狭
間で、僕は揺れ続けていた。前夜から眠れず、寝不足の頭で時計を
見ては、狂おしく逡巡し⋮⋮出勤時刻を迎えた。
どうするんだよ、と呟いて、最後に勝ったのは、やはり瑛様に逢
いたいという思いだった。服を着替えて、コートを羽織り、ちゃん
と喉を守るためにマフラーを巻いて、僕は部屋を出た。
部屋の扉に施錠し、歩き出してしまえば、後は瑛様に逢いたい一
心で、店へ向かう足は速まった。
店に着いて、いつもの手順で内と外から身体を清める。お腹の中
を空にして、熱いシャワーをゆっくりと浴びて⋮⋮仕事用のスーツ
に着替え、髪を整えて、店に出た。
店には既に何人かの店員が出ており、僕はフロアスタッフと知り
合いの店員とに挨拶しながら、客待ちをする定位置のようになって
158
しまった、バーカウンターへと向かった。
﹁こんばんは、マスター﹂
カウンターの中で、いつもの様に黙々と自分の仕事をこなしてい
るマスターに、僕もまたいつもの様に挨拶した。
﹁圭君は、正月どうするの?﹂
﹁別に⋮⋮大した予定も無いし、普段通りにピアノの練習して、バ
イトして、余った時間はTVの駅伝中継でも見て⋮⋮、かな﹂
僕の答えに、マスターは寂しい正月だね、と言って笑った。寂し
みそぎ
いね、と僕も笑い返しながら、言葉にしたら更に寂しさが募るよう
な思いに捉われていた。
﹁何が寂しいんだって?﹂
僕たちの話を聞きつけた、S嗜好の店員の禊がカウンターに歩み
寄ってきた。
﹁こんばんは、禊。寂しいのは僕のお正月。普段と全然変わらない
生活だって言ったら、マスターに笑われた﹂
﹁俺も普段どおりだけどな。今更、お年玉をくれるような人もいな
いし、下手に新年の挨拶に行けば、逆にお年玉を出さなくちゃなら
ないし。それなら普段通り、此処で仕事していた方がいい﹂
お互い寂しいね、と笑いあったものの、実際、禊にはすっかり馴
染みのお客様がついていて、多分その方と新年早々にも逢う約束が
出来ているのだろう。僕の寂しさとは、えらい違いだった。
﹁お客様だよ﹂
マスターがエントランスを映し出した小さなモニターを覗き込ん
で、僕たちに出迎えを促した。
けれど、僕の足はその場に根を生やしてしまったように動かず、助
けを求めるように禊を見上げたら、それじゃ俺が行って来るよ、と
軽く手を振ってエントランスへと出て行ってくれた。
めまい
それから禊が戻るまでの時間、僕の心は乱れたままで、軽い貧血
を起こしたような眩暈を覚え、カウンターに縋るように立ち続けて
いた。マスターが僕の状態に気付いて、大丈夫かと声を掛けてくれ
159
たけれど、僕には頷くだけで精一杯だった。
数分後、体格の良い禊が、まるでボディーガードが先導するよう
に、瑛様達を案内して戻ってきた。
﹁瑛様、ようこそいらっしゃいませ﹂
僕は凭れていたカウンターから身を起こし、深く腰を折って一礼
した。それだけの事にバランスが大きく崩れて、ゆらりとよろけた。
﹁圭、久し振りだな。何時以来か? それより、どこか具合でも悪
いのか?﹂
僕に問いかける声は何時ものままの瑛様だったけれど⋮⋮その傍
らで、彼の腕をしっかり取って甘えるように寄り添った青年に、僕
は戸惑っていた。
真っ赤なスーツに身を包んだ彼は、僕が想像していたのとは正反
対の⋮⋮およそ、上流階級に属する人間には見えない青年だった。
﹁貴方が圭?﹂
瑛様の腕をしっかりと抱き、僅かにその長身の影に隠れるように
して、僕を睨みつけて、その青年は呟いた。それは、単に僕の名を
確かめる為ではなく、僕が僕である事を確認した上で、憎しみを吐
き出した、というような響きを持っていた。
﹁お初にお目に掛かります。圭、と申します。宜しくお見知りおき
の程を⋮⋮﹂
今度は彼に向かって腰を折り、深く頭を下げながら、僕は情けな
さと惨めさで、出勤して来た事を後悔していた。僕の大好きな人の
側にいて、それだけでは飽き足らず、僕が僕であると言うだけで憎
しみをぶつけて来て⋮⋮。僕はただ、何時だって瑛様が気分の良い
時間を過ごせるようにと、頑張ってきただけなのに⋮⋮。
﹁今宵は如何されますか?﹂
傍らで僕の挨拶が済むのを待っていた禊が、今夜の趣向を問うた。
時刻もそろそろ日付が変わる頃となり、この部屋は指名待ちの店員
160
と、予約なしの客とでゴタゴタし始めており、プレイルームへ移動
するのならば、早い所移動してしまった方が良い、という促しでも
あっただろう。
﹁そうだな⋮⋮今夜は私の見ている前で、彼を責めてもらおうか﹂
瑛様はそう言って、片時も身を離そうとしないパートナーに、誰
に責められたいかと尋ね、微笑んだ。
問われた青年が答えを出せないままに過ぎて行く時間の中、僕は
指名されないことを祈り続けていた。これ以上、彼らを見続ける事
に、僕は耐えられそうに無かった。
161
第32話
うつむ
﹁それならば⋮⋮圭、今夜のお相手をお願い出来るか? 彼は自分
では選べないらしいからな﹂
残酷な瑛様⋮⋮。視線を合わせる事も出来ず、俯いているだけの
僕を呼ぶ声は、何時もと変わらず穏やかで、耳にやさしく響いた。
﹁お望みのままに⋮⋮。どのような責めをご所望でしょうか﹂
僕は俯いたまま更に深く頭を下げ、震えを誤魔化した為に感情を
失くした様な声で問うてみた。
﹁そうだな。血を見るようなプレイはご遠慮願いたい。それ以外で
あれば、何でも。君に任せる﹂
瑛様の言葉は、僕を信じてくれての物だろうけれど。今までのよ
うに、二人で過ごす時間の事であれば、きっと嬉しさに頬を染めた
り、少し擽った気に肩を竦めて笑み返したかも知れない。けれど、
彼の恋人を責めるという事で指名され、信用されても⋮⋮僕の心は
冷たく凍り付いて行くばかりだった。
何時ものように、個室になっているプレイルームへと案内をする。
かす
ただ、何時もと違っているのは、先に立って歩く僕の後ろに聞こ
える微かな足音が、複数である事だった。大きなストライドで歩く
瑛様の足音に、それより僅かにテンポの速い足音が絡むように従っ
ていた。
空き室の一つの扉を開き、しっかりと寄り添ったままの二人を室
内へと促し、最後に僕が入った。防音設計の扉が閉まると、室内の
静けさが更に僕の孤独感を煽るようだった。
それから後の、その日のプレイのことは良く覚えていない。きっ
162
と、僕は機械的に動いて彼を責めたのだろう。
ソファに座らされて、バイブレーターやローターで責められ、苦
痛のような快を堪える彼。そして、彼の震える身体を背後からしっ
かり抱き締めている瑛様⋮⋮。僕はそんな幸せそうな二人を見てい
るのが辛くて、ずっと俯いたまま涙を堪えるばかりだった。
﹁圭、どうした? 顔を上げろ﹂
幾度も瑛様に声を掛けられたけれど、僕は顔を上げることなど出
来なかった。顔を上げてしまったら、滲んでしまった涙を見られて
しまうだろう。それだけは嫌だった。
そして、遂に、決定的な台詞を瑛様が放ったのだった。
世間話のように僕の失敗を尋ねた瑛様は、僕の返事を聞いて笑い、
何時ものように、そんなドジばかり踏んでいると四肢切断されるの
ではないかと言った。それは、何時もと変わらない冗談だったけれ
ど⋮⋮。
﹁四肢切断されたら、買い取って頂けるのですか?﹂
それはいつかの、冗談のような約束。けれど、僕はその言葉に縋
っていたかったのだ。
﹁ふん、そうなったら、君を鞭打った店員にでも買って貰えば良い
だろう?﹂
呆れたように言った瑛様の一言に、僕は目の前が真っ暗になった。
僕は揶揄われていただけだったのか⋮⋮。ただひたすらに、その言
葉を信じていたのに⋮⋮。
やがて⋮⋮。頑なに俯き続けていた僕に、漸く赦され、達した彼
の精が飛び散った。それがこの夜のプレイの終了になった。
﹁圭、今夜の君はどうしたんだ?﹂
瑛様に問われても、僕は相変わらず俯いたまま、ゆるりと首を振
るだけだった。
﹁変な奴だな﹂
163
そんな僕の態度に、呆れたように笑った瑛様は、恋人が服を着る
いたわ
のを手伝い、何時ものように御機嫌ようと手を振った。疲れた恋人
を労わるように出て行く瑛様の背に、僕は思わず声を掛けたけれど
⋮⋮重たい音を立てて閉まった防音扉が、僕の声を消してしまった。
僕は⋮⋮いっその事、瑛様にこの両目を潰して欲しかった。幸せ
そうな二人の姿など、見たくなかった。だから⋮⋮せめて最後の我
侭に、あの冷たくて優しい笑みを浮かべた瑛様をこの目に焼き付け
て、そのまま全てを見えなくして欲しかった。
もう二度と⋮⋮瑛様には逢うまいと思った。
僕も愛してくださいなんて、縋る事は出来る筈も無い。それ以上
に、恋人に向けられる瑛様の視線など見たくなかった。
一人取り残された僕は、暫くその場で、漸く流せた涙に身を震わ
せていた。
新年を迎えても、僕の気持ちは沈んだままで。店に出るのも辛く、
一度はそちらへと向かいかけたものの、途中で回れ右をして、あの
バーへ向かった。
﹁明けましておめでとう御座います﹂
新年早々で、まだ店を開けていないかとも思ったけれど、店の扉
には﹃Open﹄の札が掛けられており、僕は静かに扉を開きなが
らマスターに挨拶して、中へと入った。
﹁おめでとう御座います。本年も宜しくお願いしますね﹂
いつも通り、カウンターの中から穏やかに微笑んだマスターが迎
えてくれた。その微笑で、少しだけ冷えていた心が温もったような
気がした。
﹁よぅ。新年早々酒を飲みに来るようじゃ、相当寂しい正月を過ご
164
しているな?﹂
僕がエンジェル・ティップを注文するのを待って、いつものよう
にカウンターの奥の方で、既に一人で酒を飲んでいた拓が声を掛け
てくれた。
﹁お⋮⋮おい、何を泣いているんだよ﹂
こぼ
拓がスツールから転げ落ちんばかりに、あたふたとしているのを
見て、僕は自分が涙を零していたことに気付いた。
﹁とにかく⋮⋮こっちへ来て座れ﹂
拓に促されてスツールに掛け、マスターの作ってくれたエンジェ
ル・ティップを一口含み、漸く僕も少し落ち着いた。
﹁何があったんだ? 正月早々一人で酒を飲みに来るくらいだから、
寂しいのは解るが。いきなり泣くっていうのは、普通じゃないだろ
う﹂
拓がカウンターに片肘で凭れるように、身体を僕の方へと向けて、
呆れたように苦笑しながら言った。彼が飲んでいるウィスキーの香
りが、その吐息に混ざっていた。
﹁叶う筈の無い恋だったけれど⋮⋮その人と逢えるのが楽しみで⋮
⋮。でも、彼には恋人がいるから、僕はもう二度と逢うまいって決
めて⋮⋮でも、寂しくて堪らなくて⋮⋮﹂
感情が乱れて、僕の言葉は子供のように、たどたどしくなってい
た。
﹁で? 諦めるのか?﹂
残酷な問い⋮⋮。改めて突きつけられた現実に、僕は小さく頷い
ていた。
165
第33話
﹁本当に諦め切れるのか?﹂
もたら
更に続けられた問いは僕の胸を突き刺し、激しい痛みを齎し⋮⋮。
その痛みを振り払うように、僕は激しく頭を振っていた。
﹁無理⋮⋮。諦めるなんて、出来ない⋮⋮﹂
﹁そうだろうな。そういう顔をしている。こんな時にはどんな慰め
も無駄だな。気が済むまで泣くと良い⋮⋮﹂
言葉では突き放しても、拓の手はカウンターに伏せて泣いている
僕の背で、そっと撫でるように、また、ぐずる子供をあやす時に軽
くぽんぽんと叩くように、動き続けていた。その手の優しい温もり
が切なくて、僕の涙はなかなか止りそうに無かった。
﹁俺はその相手を知らないから、大した事は言えないが⋮⋮。多分、
選択肢は二つだろうな。辛くてもこのまま別れるか、9割方はフラ
れると解っていても、告白してみるか⋮⋮。どうするんだ?﹂
確かに、そのどちらかしか無いのだろう。けれど⋮⋮。
﹁諦めきれないけれど、告白しても、身分が違いすぎて、叶う訳が
無いから﹂
﹁身分? 今時それは死語だろう﹂
カウンターに伏せたまま、独り言のように呟いた僕に、拓は溜息
を吐きながら苦笑した。確かに普通に出会ったのならば、僕の家だ
ってそんなに卑下する程ではないだろうけれど。あの店で客と男娼
として出会ってしまっては、対等な付き合いなど考えられなかった。
だから⋮⋮居間の飾り物でも良いから⋮⋮四肢を失っても良いか
ら、瑛様の側にいたかったのに。最後の最後にそれすら拒まれた僕
は、もうどうしようもなかった。
僕はただ、背を撫でてくれる拓の手の優しさに甘え、涙を零すだ
けだった。
166
ななくさがゆ
それから数日後。
門松を片付け、七草粥を食べる頃になり、世間はそろそろ正月気
分から、通常モードに戻ってきていた。僕も何時までもグズグズと
店をサボり、また出勤しても早々に上がってしまうような訳にも行
かなくなっていた。
仕事用のスーツに着替えて店に出ようとして、予約などが貼り付
けられている掲示板を、条件反射のように一瞥すると、そこには見
慣れたデザインのカードが留めつけられていた。数日後、店員二人
の予約を、と簡潔に、懐かしい文字が並んでいた。
その、瑛様の文字を見詰めながら、もうお目に掛かるまいと改め
て決意した。
これ以上惨めにはなりたくなかった。
予約当日。
僕は店には行かなかった。
拓に指摘されるまでも無く、僕はまだ瑛様に恋焦がれており、諦
めきれる筈も無かったのだけれど、恋人を腕に抱いて楽しそうな瑛
様も、あの暖かな腕に包まれて幸せそうに笑む彼の恋人も、見てい
るだけで苦痛だった。
ただ、一人で過ごすのも辛く、当ても無く街をふらつき、デパー
トに入ってどうでも良いステーショナリーや、書籍、CD、衣料な
どを、殊更熱心に眺めるふりをした。けれど、心はそんな商品には
向かず、ただ、今夜店を訪れる筈の二人の事ばかりを考えていた。
デパートの終業のアナウンスを聞いて外へ出た僕は、まだ帰宅す
る気にもなれず、更に遅い時刻まで開けている店を探してうろつい
た。そうして、更に無駄にドラッグストアに入ってみたり、深夜ま
で営業しているスーパーマーケットで、どうでも良い日常の消耗品
167
を買い足したり、とにかく人の気配だけを求めて、僕は歩き回った。
疲れを覚えて見回すと、24時間営業のファーストフード店が目
に入り、全く空腹感など無かったけれど、店内の人の気配も恋しく
て中に入った。ハンバーガーのセットでホットコーヒーを注文し、
支払いを済ませ、それらが揃うのを待ちながらぼんやりと店内を眺
めた。塾帰りらしい小学生くらいの少年と、その母親らしき女性が
楽しげにセットメニューを食べていたり、仕事の書類を狭いテーブ
ルに出したまま、無言でバーガーにかぶりついているスーツ姿の男
性がいたりと、そのそれぞれの姿に物語を感じた。
﹁お待たせいたしました。ハンバーガーにホットのセットのお客様﹂
こんな遅い時間だというのに、疲れた顔も見せずに営業用スマイ
ルを浮かべた店員が僕を呼んだ。僕はそれを注文したのは自分だと、
軽く手を上げてカウンターに歩み寄り、トレイを受け取って、外の
かす
見える空席へと向かった。
店内の微かなざわめきと無関係に、外を通りすぎて行く人たちを、
ぼんやりと眺めながらハンバーガーの包みを開き、口に運んだ。僕
の視界の右から左へ、また左から右へ、色々な人々が通り過ぎる。
世の中には、この小さな島国の、この街にすら、こんなに人が溢れ
ているのに、何故、その中の誰でもなく、瑛様にこんなに深く恋し
てしまったのだろう⋮⋮。
他の誰でもない、瑛様だけが、苦しいほどに恋しかった。
のんびりと時間を掛けて、バーガーセットを食べ終わり、携帯の
時計を確認すると、もう日付が替わっていた。包み紙や紙コップの
載ったトレイを手にして立ち上がり、足元に置いてあった日用雑貨
の入ったスーパーのレジ袋を拾い上げ、出口へと向かった。大きな
ダストボックスにトレイの上の紙屑を落とし、既に積み上げられた
空きトレイの上に僕のトレイも積んで、店を出た。
もうこれ以上行く場所も無く、僕は自分の暮らしている部屋へ戻
ろうと、歩き始めた。
新年を迎えたばかりの時季の夜は、空気が澄み切って冷たく凍り
168
付いているようで、一人でいるだけで寒さが厳しく感じられた。
誰もいる筈の無い暗い部屋の扉を開き、中へと入って扉を閉めた。
我知らず深い溜息が零れ落ちた。
のろのろと靴を脱ぎ、室内の照明を点けながら浴室へと向かい、
浴槽に湯を張った。ある程度湯が溜まるのを待ちながら、暖房のス
イッチを入れ、コートを脱ぐ。レジ袋の中の洗剤やゴミ出し用ポリ
袋を、そういう物をストックしている棚に詰め込み終わる頃には、
少し部屋が温もり始めていた。
入浴を済ませる頃にはもっと温まっているだろうと、僕は身を震
わせながら服を脱ぎ、暖かな湯が溜まりつつある浴槽に身を沈めた。
無駄に街を歩き続けた身体は冷え切っていて、湯は暖かだったけれ
ど、皮膚と身体の芯との間に冷たく冷えた層でもあるかのように、
なかなか温まらなかった。
ゆっくりと温まり、身体を洗って浴室を出るまで、かなりの時間
を費やしてしまった。濡れた身体と髪をバスタオルで拭い、パジャ
マに着替えて戻ると、室内もまたすっかり暖まっていた。
掛け時計を見ると、午前1時半。今頃瑛様は、恋人とあの店で⋮
⋮。
僕は自分の想像を振り払うように、強く頭を振った。髪の先に残
った拭いきれなかった水滴が、冷たく飛び散って、パジャマを湿ら
せた。
169
第34話
眠れぬ一夜を明かした僕は、ぼんやりした頭を抱えたまま授業に
出た。
半分眠ったままの頭の中を、講義の声が子守唄のように通り抜け
てゆく中、僕は瑛様の事ばかり考えていた。半年と少しの、しかも
その中の何日しかない、二人だけの時間を振り返ると、思い出すの
は瑛様の穏やかな笑みと、暖かな腕だけしか思い出せなかった。
けれど、今、瑛様の腕の中にいるのはあの青年で⋮⋮。
彼の、僕が僕であるが故に向けられた、憎悪にも似た視線が辛か
った。
﹁圭、どうしたの? 具合でも悪いの?﹂
いつの間にか授業は終了して、僕は何も書きこまれなかったノー
トを前に、ぼんやりとしていたらしい。肩を軽く叩かれて、僕は我
に帰った。
﹁何でもないよ。ちょっと⋮⋮遅くまで本を読んでいて、寝不足な
だけ﹂
﹁そう? でも顔色が悪いわよ。風邪の引き始めかもしれないから、
早く帰って寝なさい﹂
既に纏めた荷物を手に、じゃあね、と空いた手を振って教室を出
て行く同級生の背を視線で追って、僕も帰り支度を始めた。風邪を
引いた訳ではないと思うけれど、心の辛さは身体にも影響を及ぼし
ているようで、楽譜やノート、筆記用具を詰めたバッグを肩に掛け
ると、バランスが崩れてよろけた。
バイトに行く気力もなく、僕はそのまま帰路についた。
170
部屋に戻り、肩に重かった荷物を放り出して暖房のスイッチを入
れ、着替えるのも面倒で、コートだけ脱ぐと、そのままベッドに転
がった。こんな時、一人きりの部屋は寒々しくて、更に切なさが増
すようだ。
徐々に部屋が暖まってくるのを感じながら、僕は昨夜の寝不足も
あって、眠ってしまった。目覚めたのはそれから2時間半ほども経
ってからで、こんな時にも空腹を覚えている自分に、妙に客観的に
驚きながら起き上がり、夕食の支度をした。
支度といっても、鍋に水を張り、塩を入れて火に掛け、パスタを
茹で。出来合いの﹃混ぜるだけ﹄というパスタソースを絡めただけ
のメインディッシュと、簡単な温野菜サラダ。それに、お湯を注ぐ
だけのインスタント・スープ。
そんな粗末な夕食を済ませるのに、それほどの時間は掛からなか
った。
夜は未だ長く、読みかけていた文庫本を開いても内容など頭に入
らず、TVのスイッチを入れても、ただ騒々しいだけで⋮⋮。ゆっ
くりと過ぎて行く時間が、今の僕にとっては苦痛に思えた。
一秒ずつ数えるように時間を潰しているうちに、ついウトウトと
眠ってしまったようだった。目を開けて枕元の目覚まし時計を見遣
ると既に深夜になっており、僕は慌てて転がっていたベッドから起
き上がり、PCのスイッチを入れて着替えを始めた。
パジャマに着替え、歯磨きと洗顔を済ませてPCの前に戻ると、
画面ではセキュリティが立ち上がってウィルスのチェックを始めて
いた。それを確認して、メールボックスを開く。
表示された新着メールは、このメールボックスを借りているサイ
トのお知らせやら、PCメーカーの新製品案内やらで、大して重要
な物も無いようなので、全て纏めてゴミ箱に移動する。最後にもう
一度、作業中にメールが来ていないか確認するように送受信ボタン
を押した僕は、新たに増えた一通のメールに心臓が止まりそうにな
った。
171
そのメールの件名は、﹃瑛 拝﹄となっていた。
圭様
この度、倶楽部を退会いたしました。
ご挨拶、お会いして直接出来なかったこと、とても残念に思いま
す。
圭様にとって、初めての顧客であった由、大変光栄に存じている
次第。
先日、体調が思わしくないご様子であったにもかかわらずお相手
頂き、
何かやりにくそうであった圭様のお姿が最後となったことも、
私に不都合が有ったのだろうと忸怩たるものがあります。
短い期間でしたが、お付き合い有難う御座いました。
深く感謝いたしております。
最後になりましたが、圭様のご多幸を心よりお祈りしつつ。
瑛様が店の会員であることを辞めた?
既に、もう二度とお目に掛かるまいと決めていたのに、こうして
瑛様からの別れの言葉を送られて、僕は目の前が真っ暗になった。
更に、会員ではなくなったという理由からだろうけれど、僕を対
等に扱い、丁寧な言葉で綴られたメールは、何だか他人行儀で切な
172
かった。
僕は 瑛様からの短いメールを何度も読み返した。
社交辞令のような、結びの一文⋮⋮。﹃最後になりましたが、圭
様のご多幸を心よりお祈りしつつ﹄⋮⋮僕の望んだ幸せは、ただ瑛
様の側にある事だったのに⋮⋮。
暫くして、僕は漸く返信用の画面を開いた。
一番最初に﹃瑛様﹄と打ち込んで、これが最後のメールなのだと
思うと、手が止まってしまう。少し打ち込んでは削除し、また少し
打ち込んでは手を止めるという事を繰り返して、漸く最後まで辿り
着いた。
瑛様
頂いたメールを拝見して驚いております。
何があったのかは存じませんが、私も直接お目に掛かれなかった
事、とても残念に思っております。
瑛様にはいつも優しく接していただき、心より御礼申し上げます。
僕はきっと、仄かな恋をしていたのだと思います。
ただ、僕自身、そういう感情には不慣れなのと、倶楽部のルール
とで、何時でも笑って感情を消していたような気がします。
昨年末の件に関しましては、私こそ、ふやけたような頭にてお相
手申し上げたこと、申し訳なく思っております。
気分が良くなかったのであれば、無理をせずにいた方が良かった
のだろうかと、あの後ずっと悔やんでおりました。
本当に申し訳御座いませんでした。
もっとコンディションの良い時に、きちんとお相手申し上げたか
ったと、とても残念です。
173
これでお別れかと思うと、寂しさを禁じえません。
また何処かで僕達の時が重なる事が御座いましたら、宜しくお願
いいたしますと申し上げましょう。
瑛様のご多幸、私も心よりお祈り申し上げます。
今まで頂いた全てに感謝と⋮⋮今だから言える、愛を、込めて⋮
⋮。
書き上げたメールを読み返してみた。
こんな時にまで見栄を張った僕。
仄かな恋心なんてものじゃない。身も心も焼き尽くすほどの、狂
おしい恋心だった。
年末にお目に掛かった時も、具合が悪かった訳じゃない。ただ、
切なくて、心が苦しくて、瑛様の目が見られなくて⋮⋮ずっと俯い
て涙を堪えていたのだ。
本当はお別れなんてしたくない。泣いて縋りついて、それで少し
でも側に置いてもらえるというのなら、僕のちっぽけなプライドな
ど踏みつけてみせる。
でも⋮⋮。
瑛様の心を捉えているのは、あの日僕を睨みつけた彼で⋮⋮もう、
瑛様の目には僕は映っていないのだ。
これ以上惨めになるのは嫌だった。だから、最後のお別れメール
まで、意地を張った。
最後に送信ボタンを押す。
何秒も掛からず、画面は送信終了のメッセージに変わった。
174
その無機質な画面を眺めながら、僕は声を上げて泣いていた。
望んだ物は、その人の腕の中の、暖かで小さな空間だけだった。
その腕の中に囚われて、彼のためだけに歌う鳥でいたかった。
さようなら
心から愛したたった一人の人⋮⋮。
175
第34話︵後書き︶
ここまでお読み下さった皆様、そして、コメントをお寄せ下さった
皆様、本当に有難う御座いました。お陰さまで、漸く一つの区切り
をつける事が出来ました。二人のお話はまだ続き、 http:/
/novel18.syosetu.com/n3938e/ に
て展開中です。お気が向かれましたら、そちらも宜しくお願いいた
します。
176
PDF小説ネット発足にあたって
http://novel18.syosetu.com/n1656d/
籠の鳥になりたい
2012年11月9日01時05分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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