8月4日 なんという空しさ、すべては空しい 今週の記事の見出しは、旧約聖書の『コヘレト(大先生)の言葉』の 1 章 2 節です。聖書の同じ意味の箇所はかなり多い(イザヤ 40.6-7 51.12 1 ペト ロ 1.24 など参照)のですが、仏教の参考書にも、たとえばマハヤナの『般若波 羅密多心経』に次のように書いてあります。 「あらゆる存在について、それを構 成するものとして五つの要素、すなわち、色(しき) ・受(じゅ) ・想(そう) ・ 行(ぎょう) ・識(しき)の五蘊(ごうん)が立てられているのを観察し、それ らの五蘊はいずれもそれ自体として空しいものである 五蘊はいずれもそれ自体として空しいものであることを知った」と。 五蘊はいずれもそれ自体として空しいものである 確かに、信仰のない人なら、「人生が空しい」と感じるのは当然でしょうが、 信仰に恵まれているキリスト者の場合はどうでしょうか。その課題にふれる今 週の朗読(コヘレト 1.2、 2.21- 3.1- 12.13- 21) (コヘレト 1.2 、2.21 -23 コロサイ 3.1 -5,9-11 ルカ 12.13 -21 ) からその答えを求めましょう。 第 1 の朗読から始めます。 の朗読 著者はユダヤ教の大先生(コ ヘレト)です。正しく人間を 裁かれる唯一の神を信じます。 人間を御自分に似せて造られ た神を知っていますが、死ん だ人間の将来について詳しい 知識を持っていません。人は みなシェオル(陰府)に生き、 陰のような存在、人間にふさ わしくない生き方を送っていると考えます。実は著者は、人間の「息(霊魂) 」 が動物のそれと違うかどうか、を疑っている印象を与えます(コヘレトの言葉 3.18-21 参照) 。旧約時代の人ですから、コヘレトが、三位一体である神が正し く人類を「あの世」で裁かれる啓示を知っていません。イエスの誕生によって 神の啓示が完全に露わにされていない時代のコヘレトです。その体験はこの世 に限りますが、場合により、神の政治がこの世に明白に見えないので、彼の「人 生の空しさ」は徹底したものとなります。 第 2 の朗読の著者は聖パウロです。彼は「あの世」の事実を認め、 「永遠の命」 の朗読 の幸せを確信している人です。キリストと共にいつまでも生きること、それこ そ永遠の命です(フィリピ 1.21-24 2 コリント 5.6-10 参照) 。このように考 えるパウロにとっては、 人生は空し いどころか、 イエスとの 「永遠の命」 の出会いの前触れです。 「あなた方 の命は、 キリストと共に神の内に隠 されているのです。 …貪欲を捨て去 りなさい。 貪欲は偶像礼拝にほかな らない」と、パウロはキリスト者に 教えます。その通りです。過ぎ去る この世のものの虜となった人生は、 いかにも空しいが、 イエスのお望み に心を合わせて生きている人だけが、既に希望で「永遠の命」に入っていると も言えるでしょう。 最後に今週の福音 福音を解説します。 「先生、私にも遺産を分けてくれるように兄 福音 弟に言ってください」と、ある人に頼まれたイエスは、 「だれが私をあなた方の 裁判官や調停人に任命したのか」と答えられたのです。なるほど、自由な者と して人間を造られた神は、社会の習慣や経済と政治などは人間の常識に任せま す。人間一人一人が限られた者ですから、彼らの自由な常識から多くの習慣が 生まれるはずです。ただし、富士山への道が多いように、その多様性は貪欲か ら生まれることなく、社会の善を求めるべきです。最も適した方法を定めるの には、神は人間の常識に委ねら れます。 主が「金持ちのたとえ」で明 白にされたように、徹底的に人 生を空しくするのは貪欲そのも のです。 「貪欲」と言うと、私た ちは「お金」と「財産」を自然 に考えますが、過ぎ去るものは 余すところなくこの貪欲に含ま れています。パウロが主張した ように、 「貪欲は偶像礼拝にほか ならない」からです。
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