神の歴史−25 「神、共にいます生」 創世記39:7−20

 神の歴史−25 「神、共にいます生」 2016.1.3
創世記 39:7-20、マタイ 18:15-20、ロマ 8:31-39
77 これらのことの後で、主人の妻はヨセフに目を注ぎながら言った。
「わたしの床に
入�りなさい。」 88 しかし、ヨセフは拒んで、主人の妻に言った。「ご存じのように、ご
主人はわたしを側に置き、家の中のことには一切気をお遣いになりません。財産もす
べてわたしの手にゆだねてくださいました。 99 この家では、わたしの上に立つ者はい
ませんから、わたしの意のままにならないものもありません。ただ、あなたは別です。
あなたは御主人の妻ですから。わたしは、どうしてそのような大きな悪を働いて、神
に罪を犯すことができましょうか。」 1100 彼女は毎日ヨセフに言い寄ったが、ヨセフは耳を貸さず、彼女の傍らに寝ること
も、共にいることもしなかった。 1111 こうして、ある日、ヨセフが仕事をしようと家に入�ると、家の者が一人も家の中
にいなかったので、 1122 彼女はヨセフの着物をつかんで言った。「わたしの床に入�りな
さい。」ヨセフは着物を彼女の手に残し、逃げて外へ出た。 1133 着物を彼女の残したま
ま、ヨセフが外へ逃げたのを見ると、 1144 彼女は家の者たちを呼び寄せて言った。「見
てごらん。ヘブライ人などをわたしたちの所に連れて来たから、わたしたちはいたず
らされる。彼がわたしの所に来て、わたしと寝ようとしたから、大声で叫びました。
1155 わたしが大声をあげて叫んだのを聞いて、わたしの傍らに着物を残したまま外へ逃
げて行きました。」 1166 彼女は、主人が家に帰って来るまで、その着物を傍らに置いていた。 1177 そして、
主人に同じことを語った。
「あなたがわたしたちの所に連れて来た、あのヘブライ人の
奴隷はわたしの所に来て、いたずらをしようとしたのです。1188 わたしが大声をあげて
叫んだものですから、着物をわたしの傍らに残したまま、外へ逃げて行きました。」1199
「あなたの奴隷がわたしにこんなことをしたのです」と訴える妻の言葉を聞いて、主
人は怒り、2200 ヨセフを捕らえて、王の囚人をつなぐ監獄に入�れた。ヨセフはこうして、
監獄にいた。 Ⅰ.キリストの香り 2016年、新しい年の光の中で、共に裁きの座 (十字架のキリスト) を見上げ、心を高く上げて聞きたい御
言は、創世記39章です。ここには、エジプトに奴隷として売られたヨセフが、ファラオの宮廷に仕える役
人ポティファルの家つき奴隷となり、次第に頭角を現し、主人の寵愛と信頼をかち得て、ついに家の管理い
っさいを委ねられる執事にまで上り詰めた後、ある事件をきっかけに、囚人の世話をするという最低辺の生
活にまで落ちる、波乱万丈の人生が描かれています。
語り手はここで、ヨセフの人柄をできるだけ鮮明に描き出していると言った人がいます。ヨセフは聡明で、
人に好かれ、慎み深く、有能で、しかも眉目秀麗な若者であるだけではなく、これが最も重要なのですが、
「主がヨセフと共におられる」と。こうして語り手はヨセフを、最高の教育と躾を身に付け、信心深くまた
世の中のことにたけた青年男子として描いたのです。
ところで、ヨセフの人物像について語られたこの解説を読みつつ、私の心にある人物が浮かびました。そ
れは、戦後70年を記念して製作された映画、唐沢寿明演じる杉浦千畝です。彼は1900年1月1日に生
1
まれ、1924年に外務省に奉職、そして満州、フィンランド、ドイツ、チェコ、東プロイセン、ルーマニ
アの日本領事館に勤務し、1940年夏、リトアニア共和国の日本領事館領事代理時代に、ナチスドイツの
迫害を逃れようとするユダヤ人にピザを発給し、約6000人の人命を救ったのです。この杉浦千畝もまた、
ヨセフのように、聡明で、人に好かれ、慎み深く、有能で、最高の教育と躾を身に付けた人ではなかったの
か。
しかしヨセフは、国を代表する外交官としてエジプトに遣わされたのではなく、奴隷として売られて来
た!のです。そのヨセフの人柄を語り手は、最高の教育と躾を身に付けた、信心深くまた世の中のことにた
けた青年男子として描いたのです。そして、そのヨセフ像の最も重要な要素を「神が共におられる」ことで
あるとしたのです。しかも神がヨセフと共におられることで、ヨセフが生活する周辺全体に祝福を放射した
と。「主はヨセフのゆえにそのエジプト人の家を祝福された。主の祝福は、家の中にも農地にも、すべての
財産に及んだ」(5)。
ヨセフを通して神の祝福が周囲に放射する! それはアブラハムについても (19:29)、またヤコブについ
ても (30:27) 語られています。それが「祝福の源」として召された者の使命なのです。そしてその使命はイ
スラエル、さらには教会へと引き継がれたのです。パウロはそれを第二コリントで「キリストの香り」とし
て、次のように語りました。「神は、…�…�わたしたちを通じて至るところで、キリストを知るという知識の
香りを漂わせてくださいます。救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたした
ちはキリストによって神に献げられる良い香りです。滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われ
る者には命から命に至らせる香りです」(2:14−16)。
それにしてもキリストの香りを放つ教会とは、どのような教会でしょうか。どのような教会が神の祝福を
周囲に放射できるのでしょうか。フォーサイスは言います。「もしキリスト教が、まじめな生活、立派な生
き方、価値のある親切、誉れある事業、熱心な慈善、公共の正義などを意味するならば、それは充分真理で
あろう。しかし、これらすべての素晴らしく価値ある事柄は、神との人格的交わりの欠如と関連しているの
である」と。同情的イエスではキリストの香りにならないのです。十字架のキリストを信じる教会がキリス
トの香りなのです! その意味で、今日、キリストの香りは教会から消えつつあります。「神を信じないさまざまな教会が……
倫理会という名称で世界に普及しつつある」
(W.ジェームズ)からです。
「キリスト者の神」は必ずしも常に「十
字架につけられた神」ではないし、むしろそうであるのは極めてまれであるからです(モルトマン)。私たちは
キリストの香りを取り戻せるでしょうか。神の祝福を周囲に放射したヨセフから、それを学びたいと思いま
す。 Ⅱ. 救済の恵み
語り手は、ヨセフの人柄を描き出した1節から6節の提示部の最後に、39章の物語全体を決定する、
「ヨ
セフは顔も美�しく、体つきも優れていた」を記します。「それはおそらく母親譲りであったにちがいない」
という人もいます。ヨセフの母「ラケルは顔も美�しく、容姿も優れていた」(29:17) のです。しかし、ここで
はそれ以上のことが語られているように思います。フォン・ラートは「救済の恵みもまた美を持つ」と言い
ます。つまり、語り手がヨセフの美しさで表現したのは、「主が共におられる」ということではないのか。
神と語ったモーセの「顔の肌が光をはなった」(出 3344:3300) ように、ヨセフの美しさは、神が共にいることの
しるしではないでしょうかな。同じしるしを、私たちはイスラエル初代の王サウルにも (Ⅰサムエル 9:2)、ま
たダビデにも (Ⅰサムエル 16:12) 見るのです。 2
しかし、と人は言うかもしれません。1〜6節、および21節以下に繰り返される「主がヨセフと共にい
る」という表現は、7節以下には一切語られていないと。語り手は、
「神、共にいます」人生とは、上り坂、
すなわち出世にあるとしたのでしょうか。「神、共にいます」人生に、下り坂はないとしたのでしょうか。
そうでないことは創世記39章の文書構成から明らかです。語り手は、ポティファルの家での立身出世と、
監獄で囚人たちの世話をするヨセフを「神、共にいます」と語ることで、ポティファル夫人の誘惑物語を囲
い込んだのです。つまり、「神、共にいます」ヨセフの人生の真価は、ポティファル夫人との関係において
完全に表現されるのです。然り、ポティファル夫人との関係において神の祝福は、ヨセフを通して最大限に
放射するのです。ここに「神、共にいます」救済の恵み、ヨセフから輝き出る美しさがあるのです。 それは次のように始まります。
「これらのことの後で、主人の妻はヨセフに目を注ぎながら言った。
『わた
しの床に入�りなさい。』」こうして始まる誘惑物語は、次第に高揚する二つの幕からなっています。第一幕の
クライマックスは8節以下のヨセフの言葉、そして第二幕のクライマックスは11節以下、破局へと導く一
つの行為です。 第一幕のクライマックスは、有名なヨセフの言葉(演説!)です。ヨセフは、
「わたしの床に入�りなさい」
というポティファル夫人にこう答えたのです。「ご存じのように、ご主人はわたしを側に置き、家の中のこ
とには一切気をお遣いになりません。財産もすべてわたしの手にゆだねてくださいました。この家では、わ
たしの上に立つ者はいませんから、わたしの意のままにならないものもありません。ただ、あなたは別です。
あなたは御主人の妻ですから。わたしは、どうしてそのような大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができ
ましょうか。」
ヨセフはここで、人に対する不正は神に対する罪であると語ります。しかもヨセフはそれを、自分を誘惑
するポティファル夫人の罪として糾弾したのではなく、自分の罪!として語ったのです。「わたしは、どう
してそのような大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょうか」と! このヨセフにあるのは神へ
の畏れです。ヨセフは神への畏れの中で日常を生きていたのです。私たちが神を畏れる者であるかどうかは、
私たちの日常生活を見ればわかるのです。
これとの関連で注目したいのは、シモーヌ・ヴェイユが信仰生活の価値について語った言葉です。彼女は
言います。「ある信仰生活の価値、あるいはさらに広く、ある霊的生活の価値は、この世のものの上にどれ
だけの明るさが投じられたかによって評価される。肉的なものが、霊的なものをはかる基準となる。……霊
的なものだけに価値がある。だが、肉的なものだけが、確かめうる存在を持っている。従って、霊的なもの
の価値は、ただ肉的なものの上に投じられた明るさとしてだけ、確かめうる。」
「わたしは、どうしてそのような大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょうか。」ヨセフがポ
ティファル夫人の誘惑を退けたこの言葉こそ、ヨセフを通して放射する神の祝福、「神、共にいます」救済
の恵み、すなわち輝き出る美しさなのです。
Ⅲ. 神、共にいます生
ところで、第二幕でヨセフが放つ神の祝福は、第一幕の祝福をさらに越えます。語り手は、誘惑物語の第
一幕と第二幕の間に、ポティファル夫人のヨセフに対する執拗な求めを置きます。「彼女は毎日ヨセフに言
い寄った…�…�」と。そしてついに、夫人が自分の欲望を満たす絶好のチャンスが訪れたのです。「ある日、
ヨセフが仕事をしようと家に入�ると、家の者が一人も家の中にいなかったので、彼女はヨセフの着物をつか
んで言った。
『わたしの床に入�りなさい。』
(ところが、)ヨセフは着物を彼女の手に残し、逃げて外へ出た。」
ヨセフが女の手に残していくことを余儀なくされた着物は肌着、すなわち腰の所で帯を締める長めのシャ
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ツです。つまりヨセフは素っ裸で_ぶざまに、しかし同時に誇りをもって_逃げたのです。
この文字通り決定的な出来事を描く語り手の手法は、人間の心理に精通しています。女の立場は、ヨセフ
の拒絶と逃亡によって切羽詰まったのです。彼女はとっさに、残された着物を、ヨセフを陥れる証拠として
用いたのです。そして、家の奉公人たちを証人に仕立て上げることによって、自分を守ろうとしたのです。
彼女は奉公人たちの前でも、また帰宅した夫の前でも、自分がでっち上げたヨセフへの告発を繰り返します。
_改めて言うまでもなく、人は自分の都合の良いことしか語りません。時には、ありもしない作り話まです
るのです。
しかし、注意深い読者ならすぐに気づきます。ポティファル夫人の言葉には、真相が透けて見えるのです。
夫人は14節と17節で二度、「いたずら」と言っています。彼女にとってヨセフとのことは戯れ、なぐさ
みでしかなかったのです。わたしたちは、男女の恋には、小説家の想像力を掻き立てる道ならぬ恋、その行
き着く先は破滅である、身を焦がす恋があることを知っています。しかしポティファル夫人は違うのです。
夫人は何もかも捨てて、ヨセフへの愛に生きようとしたのではないのです。それは「いたずら」、つまり欲
望のはけ口だったのです。そこからは決して真実の愛の関係は生まれません。
ポティファル夫人の言葉から透けて見えてくる、もう一つの、より本質的な真相があります。夫人は夫に、
「あなたがわたしたちの所に連れて来た、あのヘブライ人」と言っています。ここには、取って食べてはな
らない木の実を取って食べたことを糾弾されたアダムが、罪をエバに転嫁し、さらに究極の責任を神に負わ
せようとしたのと同じ心の動きが見られます。しかも罪を夫に転嫁する夫人の言葉には、ヨセフへの蔑みが
にじみ出ているのです。夫人はヨセフを「あのヘブライ人」と言ったのです。 旧約聖書におけるこの語の用法で極めて特徴的なのは、この語が意表を突くような形で集中して現れるの
は、物語文学という広大な領域において、奇妙なことにわずか三つの孤立した部分にすぎないことだと言わ
れます。その一つがヨセフ物語であり、第二は出エジプト記の最初の10章 (ヘブライ人とエジプト人)、そして
第三はサムエル上の前半 (ヘブライ人とペリシテ人) です。 実は、この問題に新しい光を与えたのは発掘された史料です。粘土板に記された書簡やその他の文書から、
単にパレスチナだけではなく、バビロニアやアッシリアやヒッタイトにも、それどころかエジプトにも、
「ヘ
ブライ人」がいたことが明らかになったのです。どういうことかと言えば、「ヘブライ人」とは、社会の中
で流動的な下層階級、つまり、既成階級からはみ出した下層民の総称なのです。 ヨセフは「ヘブライ人」である。ここに、語り手が鮮明に描いたヨセフの人柄があるのです。語り手は、
「ヘブライ人」ヨセフに、神、共にいます人柄を見たのです。それにしても「ヘブライ人」ヨセフを「神、
共にいます」と語ることで、語り手はいかなる信仰の神秘を描いたのでしょうか。私たちにとって興味深い
のは、これを書いたのはダビデ・ソロモン王の時代を生きていた思想家であるということです。千年の後も
「栄華を極めた」と言われた時代です。その時代にこの人は、ポティファル夫人の口を通して、われわれは
「ヘブライ人」であるとしたのです。社会の中で最下層を生きる者であるとしたのです。
実は、神の民イスラエルは自らの出自の卑しさを記憶し続けたのです。エジプトを脱出する記事の中に、
「多くの入�り混じった群衆」(12:38) という言葉が出てきます。学者たちはここにイスラエルの原像がある
と言っています。また、申命記には、「あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった」(7:7) と出てきます。
そして極めつけはエゼキエルです。「お前の出身、お前の生まれはカナン人の地。父はアモリ人、母はヘト
人である。誕生について言えば、お前の生まれた日に、お前のへその緒を切ってくれる者も、塩でこすり、
布にくるんでくれる者はいなかった。お前が生まれた日、お前は嫌われて野に捨てられ…�…�自分の血の中で
もがいて」(16:3−6) いたと。 4
神はこの「愛するに値しない者」を愛して、主の聖なる民、ご自分の宝の民とされたのです。そして、こ
の神の愛は、ホセア書、申命記、エレミヤ書、第二イザヤを経て、新約に至るのです。この愛について語る
テキストの一つが、マタイ福音書18章の記事です。私はここに、キリストの香りを放つ教会の秘儀がある
と考えています。 主イエスはここで、罪を犯した兄弟への対応について次のように語ります。「兄弟があなたに対して罪を
犯したら、行って二人だけのところで忠告しなさい。…�…�聞き入�れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連
れて行きなさい。…�…�それでも聞き入�れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入�れないな
ら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい!」と。 罪を認めず、悔い改めない兄弟を「異邦人か徴税人と同様に見なす」とは、当時の人々の確信によれば、
救いを得ることは絶望的であるということです。彼らの肩には二重の重荷がかかっているのです。社会では
人間の側から軽蔑を受け、他方いつか神のもとで救いを得るという望みも絶たれていたのです。ここには愛
するに値しない者がいるのです。 主イエスはその人々の救いのために心を一つにして祈れと言われたのです。「はっきり言っておく。あな
たがたが地上でつなぐことは、天上でも繋がれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、
はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、
わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わた
しもその中にいるのである。」 「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」というこ
とは、主イエスが共にいる二人または三人の者とは、「ヘブライ人」ヨセフであると言うことです。私はこ
こに、キリストを記念する主の晩餐の秘儀があると考えています。十字架のキリストが今、ここでのことと
して現在化する聖晩餐を共に守る集いに、「神、共にいます」のです。聖晩餐を共に守る集い、それは「ヘ
ブライ人」ヨセフであるときに、キリストの香りを放つのです。 キリストの香り、主の晩餐を守る集いとは、救いを得る望みが絶たれている罪人が「ただキリスト・イエ
スによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされ」た者たちの集いです。「わたしは、どうして
そのような大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょうか」と、神への畏れの中で日常を生きる者
たちの集いなのです。 結びに、「神、共にいます生」の至福について語られたパウロの言葉を聞いて終わりたいと思います。パ
ウロは言います。「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方で
あるならば(=神がわたしたちと共にあるならば)、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべ
てのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らな
いはずがありましょうか。…�…�だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難
か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。『わたしたちは、あなたのために一日中死にわたさ
れ、屠られる羊のように見られている』と書いてあるとおりです(この時のヨセフがまさに「屠られる羊の
よう」なのです)。しかし、これらすべてにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によっ
て輝かしい勝利を納めています!」ここに、神、共にある生があるのです。神の祝福を世界にもたらす教会
でありたいと願います。
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