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キャンバスのらくがき☆Picture1☆
森野かのん
一枚の風景画をもらいました。ドイツあたりの片田舎。丘には一面のタ
ンポポが咲きほこり、その向こうには白い小さな教会。眺めているとあま
りの心地よさに魂が抜けてしまいそうになり・・・こんなお話が生まれま
した。絵を巡る3つのお話の1つめは・・・。
歩美は小学5年生。今日、病院から2ヶ月ぶりに自宅へ帰ってきた。2度目の退院。
キッチンの椅子に腰掛けて、ぼんやりと久しぶりの家の空気を吸う。ほっとしたいのに、
歩美の頭の中は、さっき聞いたセリフがぐるぐると何度も繰り返している。
「あ、そこにおじいちゃんが歩美の快気祝いにくれた包みがあるわ。開けてみて」
午後からまた仕事に出かける母が、洗濯機に歩美のパジャマを放り込みながら言った。
テーブルの上にリボンがかかった平らな包みがある。開けてみると、水彩絵の具で描か
れた一枚の絵だった。「あら、なかなかうまいじゃない」いつのまにか、歩美の背後か
らのぞいていた母が、感心したように言った。「おじいちゃんが描いたのよ。ほら」
右下にサインらしきものがある。「せっかくだから、歩美の部屋に飾っておきなさい」
母はそれから、留守中のいくつかの注意を告げると、忙しそうにコートをはおって出か
けてしまった。歩美はおじいちゃんの絵を持って、部屋に入った。衣装ダンスの上がちょ
うどいい。ここならベッドからもよく見える。そういえば…。歩美はタンスの引き出し
を開けると奥からお菓子の空き箱を取り出し、ふたを開けた。
箱の中に並んだ、リリアン編みの幾つもの飾り。お気に入りで使えなかった香りつき
の色紙が、歩美の鼻をくすぐった。…混じってかすかに、病院の暗くて長い廊下の匂い
がする。1度目の入院は、長かった。家に帰って友達と遊ぶ夢を何度も見た。母は仕事
を休めず、1週間に一度見舞いに来るのがやっとだった。退院の日をどんなに指折り数
えたことか。でも、手術すれば歩美の脚は治ると言われた。リハビリすれば、歩けるよ
うにだってなった。石膏のギプスも、車椅子も歩行器も、歩美にとっては貴重な経験だ
よ、誰もができることじゃないんだから、と母が言った。「神様の贈り物なの」…そう
かもしれない、と歩美は思い始めていた。今朝までは。あのセリフを聞くまでは。
箱の底から、プラスチックのネックレスが出てきた。ところどころにキティの顔がつ
いている。茉莉の大好きだったキティ。それから、小さくたたんだ手紙。
『おねえちゃん、おてがみちょうだいね』歩美の目に涙があふれた。
「だって、みんな治るって思ってたもの。入院すれば誰でも治るって…」見えない誰か
に言い訳するかのように、歩美は泣きながら繰り返した。
今朝、退院の手続きをすませている母を待っていたら、廊下で歩美は声を掛けられた。
1度目の入院で出会った女の子だった。歩美より2つほど年上の彼女は、少しニキビの
できた顔で、懐かしそうに笑った。彼女は、まだ時々通院してると言い、相変わらず相
づちをうつ隙もくれずに、小児科病棟の噂話をまくしたてた。
「そういえば、知ってる?茉莉ちゃん、死んじゃったんだよ」
歩美は、すぐに声が出なかった。
「…嘘だよ…だって、もうすぐ治るって、言ってたじゃない…」「本当だよ。だって、
その時私まだいたもん。茉莉ちゃんのお母さんが泣いてたの、見たんだから」
茉莉は、2歳年下で目鼻立ちの可愛らしい子だった。隣の病室で、いつもお母さんが
付き添っていた。リリアンを教えてとせがんだ茉莉は、素直でとてもできのいい生徒だっ
た。歩美は、ずっと欲しかった妹ができたようで、歩行器を使ってはせっせと通った。
茉莉の母親は、いつも深々と歩美に頭を下げ「本当にありがとう」と言ってくれるので、
少々照れくさかった。「治ったら、お姉ちゃんの家に遊びに行ってもいい?」茉莉は、
キラキラと目を輝かせて言った。そして、退院する歩美に、茉莉はこの手紙をくれた・・・。
歩美は、恥ずかしかった。茉莉との約束を何ひとつ果たさなかった自分が。茉莉のお
見舞いに行くことも、手紙を出すこともできなかった。神様はこんな薄情な自分を治し
てくれたのに、どうして小さな茉莉ちゃんを助けてくれなかったの…?歩美は、今となっ
ては何もできない自分が悔しくて、許せなかった。
泣き疲れて眠ってしまったらしく、いつのまにか部屋は薄暗くなっていた。ひんやり
とした空気の中で、おじいちゃんの絵が白く光った。…そうだ、手紙を書こう。歩美は
便せんに向かった。ごめんね、ごめんなさいの文字ばかりの、悲しい手紙だった。
「私に贈り物をくれた神様なら、どうか茉莉ちゃんにこのお手紙を届けてください」
歩美は、生まれて初めて神様にお祈りをした。
翌朝、歩美は教会の鐘の音で目が覚めた。教会なんて、家の近くにはないのに…。首
をかしげながら起きた歩美の目が、ふとおじいちゃんの絵に止まった。絵のちょうど真
下に、昨日はなかったはずの白い封筒が置かれていた。(また留守番の注意が書いてあ
るんだろうな。お母さんは、いつまでたっても私のこと信用してくれないんだから)封
筒を開けると、子どもの字が並んでいた。最後にもらった手紙よりも、幾分力強くはっ
きりとした字だ。歩美は手紙を握りしめ、「ありがとうございます!」とお辞儀をした。
遠い街だった。初めて乗る電車にドキドキしたけれど、駅員さんも交番のおまわりさ
んも親切に道を教えてくれた。1週間は出歩いちゃだめだよ、とそういえばお医者さん
が言っていた。でも、きっと大丈夫。私には神様がついているんだから。脚はちゃんと
動いてくれる。果たせなかった約束の代わりに、なんて素敵な旅をくれたんだろう。歩
美の足取りは自然と軽くなった。
1年が過ぎただけだったが、茉莉の母親はずいぶんとやせて、疲れているように見え
た。それでも、歩美が訪ねたことを笑顔で喜んでくれた。「ありがとう。遠かったでしょ
う。茉莉に会いに来てくれたのね。」歩美の心がズキンとなった。
「あの、これ、今朝届いたんです」白い封筒を差し出す。茉莉の母親が信じてくれるよ
うに、歩美あての手紙も入れたままだ。母親はいぶかしげに封筒を受け取って、目を通
し始めた。2,3行読んだところで、母親はじっと歩美を見て言った。「歩美ちゃん。
あのね、気持ちはうれしいけれど、こういうことはして欲しくないの」「おばさん、本
当なんです。だって、それ、茉莉ちゃんの字です。私が真似したんじゃないんです。お
願いだから、最後までちゃんと読んでください」歩美は真っ赤になりながらも、絶対ひ
きさがるもんか、と思った。茉莉が隣でぎゅっと手をつないでくれてる気がした。茉莉
の母親は、歩美の勢いに押され、もう一度手紙を読み始めた。やがてその目元にうっす
らと涙が浮かんだ。
「ちょっと、待っててね」母親は2階の部屋に上がり、しばらくして戻ってきた。目を
真っ赤にしながら、手に花模様の缶を持って…。
「…私の指輪。茉莉が、黙って持っててごめんなさいって…」
クローゼットの3段目の引き出し。お花模様の缶の中。そこはまぎれもなく、茉莉し
か知らない、秘密の隠し場所だった。
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