果樹試験場 [PDFファイル/1.04MB] - 熊本県

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果樹試験場
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柑橘試験地
昭 和 5 年 頃 か ら 県 下 柑 橘 地 帯 の 飽 託 、玉 名 、
八代、宇土郡において、柑橘に関する試験研
究機関の設置についての誘致運動が盛んとな
り、昭和 6 年、県議会において熊本県立農事
試験場柑橘試験地創設を決定し、場所を飽託
郡 河 内 村 (現 熊 本 市 )に 定 め た 。
昭 和 7 年 8 月 13 日 に 地 鎮 祭 、11 月 30 日 に
落 成 式 を 挙 行 (用 地 、建 物 、 開 畑 な ど ほ と ん ど
が 地 元 河 内 村 の 寄 付 及 び 負 担 に よ る ) し 、 12
月 1 日 よ り 事 務 を 開 始 し た 。主 任 技 師 1 名 、 技
柑橘試験地(河内試験場)
手 2 名 の 3 名 体 制 で あ っ た 。建 物 敷 地 25a、圃 場 面 積 199a、総 面 積 224a で 、全 村 民 あ げ て 献
身的な努力が払われ、設立の年に建築及びほ場整備が終了した。
柑橘試験地時代は、研究ととともに指導機関としての
役割も大きかった。試験研究に関する事項としては、品
種、苗木及び台木、病害虫、肥料、整枝剪定、間作物及
び緑肥、農用薬剤、貯蔵加工法、荷造輸送販売方法等で
あった。指導奨励に関する事項としては、苗木の養成配
布、練習生の養成、講習講話会の開催、印刷物の配布等
であった。
戦 時 色 が 強 ま る な か 、 昭 和 16 年 に は 熊 本 県 令 第 91 号
農地作付統制令により現状以上の作付けが禁止され、翌
17 年 に は 苗 木 養 成 配 布 が 中 止 さ れ た 。戦 争 激 化 と と も に
食 糧 増 産 急 務 の 声 が 高 ま り 、 18 年 に は 園 周 囲 に 沖 縄 100
ガスくん蒸
号 (甘 藷 )を 栽 倍 し て 供 出 し た 。 こ の よ う な 戦 時 下 に お い
て も 、昭 和 19 年 に は 、果 樹 栽 培 者 養 成 の た め 練 習 生
を募集して教育を行い、労力および生産資材が窮迫
し県下柑橘園の荒廃が甚だしい状況であったにもか
かわらず、圃場試験樹は健全に管理されていた。
病害虫防除
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果樹試験場
昭 和 22 年 4 月 、 農 事 試 験 場 柑 橘 試 験 地 か ら 分 離 独 立 し 、 熊 本 県 立 果 樹 試 験 場 と な っ た 。
当時は終戦によりアメリカ軍政部GHQの支配を受け、日本国内には農業関係の試験場が
多すぎるため整理統合すべきとGHQから日本政府へ通達されたが、当時、九州の果樹試
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験場は柑橘試験地のみが地図上に残されていたという。もちろん、終戦による食糧不足か
ら立ち上がるためには生産者の努力、指導者の苦心は並大抵ではなく、果樹の増産意欲が
全県下に広がり、県においても果樹産業の重要性が認められ、果樹専門の試験場とすべき
という機運が盛り上がり、果樹試験場設置が認められた。
翌 23 年 3 月 に は 天 草 分 場 の 設 置 と と も に 、研 究 体 制 の 整 備 が 行 わ れ 本 格 的 な 研 究 が 再 開
された。柑橘試験地時代の 1 試験地 4 名体制から、庶務会計、常緑果樹部、落葉果樹部、
( 繁 殖 及 び ) 育 種 部 、 菌 虫 部 、 天 草 分 場 、 菊 池 落 葉 試 験 園 の 場 長 以 下 18 名 体 制 と な っ た 。
研究内容も多様化してきたが、県内の果樹技術者は少なく、依然、現地における技術指導
も並行して行われていた。
昭 和 25 年 に 菊 池 分 場 、昭 和 27 年 に 芦 北 分 場 、昭 和 29 年 に 玉 名 分 場 と 、組 織 の 充 実 強 化
が 図 ら れ る と と も に 、昭 和 28 年 に は 熊 本 県 果 樹 試 験 場 と 改 称 し 、研 究 内 容 が 専 門 的 と な る
よう陣容も強化されていった。
この頃の主な研究には、温州ミカンの優良系統選抜試験、交配による新品種育成試験、
柑橘の接ぎ木に関する試験、ミカンバエの集団防除
に関する試験などがあり、戦後の果樹復興に大きく
貢献した。
昭 和 30 年 代 は 高 度 経 済 成 長 期 に 入 り 、 昭 和 36 年
には果樹農業振興特別措置法、農業基本法、農業近
代化資金助成法が制定され、全国的なミカン増殖ブ
ームとなった。このため、県下でも園地造成が進め
ら れ 、穂 木 供 給 を 担 う 機 関 と し て 昭 和 37 年 に 宇 土 母
樹園が設置された。
航空防除
こ の 時 期 の 主 な 研 究 に は 、「 青 島 温 州 」「 興 津 早 生 」
の導入など柑橘の品種育成選抜、温州ミカンの摘果剤試験、ミカンナガタマムシの生態と
防除に関する試験、航空防除に関する試験、温州ミカン異常落葉に関する試験等がある。
な お 、 昭 和 37 年 に は 皇 太 子 御 夫 妻 が 行 幸 の 折 、 果 樹 試 験 場 に 来 場 さ れ て い る 。
昭 和 30 年 代 末 頃 か ら 、時 代 に 即 応 し た 研 究 推 進
の た め 試 験 ほ 場 の 拡 大 が 検 討 さ れ 始 め た 。昭 和 39
年 の 第 10 回 熊 本 県 果 樹 研 究 大 会 に お い て 果 樹 試
験 場 充 実 が 決 議 さ れ 、昭 和 40 年 、県 議 会 農 政 委 員
会 で 同 様 の 決 議 が 行 わ れ 、昭 和 45 年 県 議 会 に お い
て 新 試 験 場 用 地 を 現 在 地( 当 時 の 下 益 城 郡 松 橋 町 )
に 決 定 、 昭 和 47 年 11 月 1 日 か ら 新 試 験 場 で の 業
務を開始し、同時に従来の河内本場は試験地とな
果樹試験場造成工事
っ た 。翌 48 年 7 月 18 日 、機 構 改 革 に よ り 総 務 課 、
常 緑 果 樹 部 、落 葉 果 樹 部( 菊 池 分 場 を 統 廃 合 改 称 )、
育 種 部 ( 宇 土 母 樹 園 を 改 称 )、 化 学 部 、 病 虫 部 、 河 内 試 験 地 ( 昭 和 51 年 5 月 1 日 廃 止 ) と
なり、芦北・玉名果樹指導所を閉所し試験場に統合した。
昭 和 40 年 代 以 降 は 、国 の 助 成 を 受 け た 中 核 研 究 、総 合 助 成 試 験 、地 域 重 要 研 究 と い っ た
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研 究 が 盛 ん に 行 わ れ た 。内 訳 は 、昭 和 44 年 か ら 実 施 し た「 温 暖 多 雨 地 帯 に お け る 温 州 ミ カ
ンの品質向上に関する研究」を始め中核研究 4 課題、総合助成試験、中核総合助成研究及
び地域重要研究各 1 課題であった。
また、県単独試験として、カンキツでは温州ミカンの珠心胚実生育種試験(後のオリジ
ナル品種育成の開始)やバンペイユの人工授粉に関する試験、カンキツの結実安定、完熟
栽培技術や貯蔵方法に関する試験などであった。落葉果樹では、4 倍体ブドウの結実安定
に関する試験、クリ・ナシ・モモの枝梢管理法や簡易被覆栽培法に関する試験などであっ
た。病害虫関係では黒点病や温州萎縮病防除に関する試験、ミカンハダニ防除と合成ピレ
スロイド抵抗性獲得に関する試験やクリタマバチの生態と防除に関する試験などであった。
土壌・肥料関係ではミカン園における施肥改善や有機物施用の効果、果樹の栄養診断基準
策定に関する試験、果樹園における微生物の有効利用法に関する試験などであった。
( 菊 池 分 場 : 昭 和 25 年 ~ 48 年 、 菊 池 市 袈 裟 尾 300 番 地 )
終 戦 後 の 食 料 危 機 が や や 好 転 し 始 め た 昭 和 23 年 に 、
菊池郡内町村長が中心となった試験研究機関設置の要
望 が 高 ま り 、 同 年 10 月 県 議 会 で 可 決 、 昭 和 25 年 3 月
に果樹試験場菊池分場として発足した。その後、昭和
48 年 7 月 に は 閉 所 し 、果 樹 試 験 場 に 統 合 さ れ た 。主 な
業務は落葉果樹に関する試験研究であったが、特にク
リに重点を置き、ナシ、ブドウ、カキ、モモ等につい
て、主に品種比較試験、整枝法比較試験、土壌管理比
較試験、植栽時期試験、施肥時期試験、経営調査等を
実施していた。
菊池分場
( 宇 土 母 樹 園 : 昭 和 37 年 ~ 、 宇 土 市 栗 崎 町 1,285 番 地 )
県民所得増大を目指す県計画の下、果樹の振興方向としてミカンに重点を置き、クリを
その次とし、地域毎に重点品目を定めて特産化する計画が立てられた。
果樹は永年性作物であり、急速な増殖対応のためには、常時次代の優良品種を準備し、
健全穂木の供給を行い、県計画に基づく増殖計画を推進することと併せて次代の新品種育
成 が 最 も 重 要 で あ っ た こ と か ら 、昭 和 37 年 に 母 樹
園を宇土市に設置し、目標達成を図ることとなっ
た 。そ の 後 、昭 和 48 年 7 月 に は 果 樹 試 験 場 育 種 部
と改称した。主な業務は、果樹の原種の育成及び
優良な純正穂木の生産と配布、カンキツの優良系
統選抜試験などの育種に関する試験研究であった。
宇土母樹園
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( 天 草 分 場 : 昭 和 23 年 ~ 38 年 、 本 渡 市 中 山 口 )
戦中戦後の主要食糧増産運動展開に伴って、
衰退の一途にあった天草の果樹農業の復興と発
展を期し、併せて天草地方の気候風土を活かし
た晩生カンキツ栽培に関する試験研究の充実を
図 る た め 、地 元 の 要 望 を 受 け 、昭 和 22 年 県 議 会
で熊本県立果樹試験場天草分場創設案が採択さ
れ 、 翌 23 年 3 月 よ り 業 務 を 開 始 し た 。 昭 和 30
年 5 月には、県の機構改革に伴い天草果樹指導
天草分場
所 へ 改 組 、昭 和 38 年 8 月 、本 渡 市 丸 尾 ケ 丘 に 新 築 移 転 し た 。主 な 業 務 は 、地 域 の 特 殊 性 を
活かすための亜熱帯カンキツ類の品種並びに系統比較に関する試験、ポンカン剪定整枝比
較試験等に重点を置き、併せて肥料及び土壌管理法、生産費調査等の試験研究を行った。
なお、要請により管内関係技術者及び栽培農家への指導助言を行った。
( 芦 北 分 場 : 昭 和 27 年 ~ 48 年 、 芦 北 郡 津 奈 木 町 福 浜 犬 瀬 67-2)
芦 北 地 方 に お い て は 、昭 和 23 年 頃 か ら の 柑 橘 産 業 の 急 速 な 復 興 と 進 展 に 伴 い 、柑 橘 専 門
指 導 機 関 設 置 の 機 運 が 高 ま り 、 な か で も 津 奈 木 村 議 会 は 昭 和 25 年 11 月 に 柑 橘 指 導 園 設 置
を決議し、他の関係市町村とともに誘致運動を重ねた。県においては、時代の要請と県南
部 地 域 に お け る 地 域 振 興 の 一 環 と し て 昭 和 25 年 に 指 導 園 と し て 事 業 費 を 採 択 。ま た 、津 奈
木 村 は 昭 和 26 年 4 月 事 務 所 を 新 築 、同 年 6 月 に 県 に 対 し 、ほ 場 、建 物 、敷 地 一 切 を 寄 付 し
た た め 、正 式 に 県 の 津 奈 木 柑 橘 指 導 園 と な り 、翌 27 年 4 月 に 所 属 替 え に よ り 果 樹 試 験 場 芦
北 分 場 と し て 発 足 し た 。 昭 和 30 年 5 月 に は 芦 北 果 樹 指 導 所 に 改 組 さ れ 、 そ の 後 、 昭 和 48
年 7 月に閉所、果樹試験場に統合された。主な
業務は、本県の高温多雨地帯における小規模農
業経営に適応する柑橘の試験研究を実施すると
ともに、増殖啓発、技術指導の拠点として運営
がなされた。試験調査については、増殖奨励と
生産改善に最も必要な幼木を主体とした早期成
園 化 栽 培 法 並 び に 草 生 栽 培 法 の 確 立 、そ う か 病 、
かいよう病の防除に関する研究が重点的に行わ
芦北分場
れた。
( 玉 名 分 場 : 昭 和 30 年 ~ 48 年 、 玉 名 市 築 地
49-1596)
昭 和 20 年 代 末 期 、果 樹 栽 培 が 急 速 に 進 展 し つ つ
あるなか、地元有志により研究機関誘致の機運が
高まり、玉名市では、敷地、建物等を寄付するこ
とを条件に誘致運動が展開された。県はこれに対
応 し 昭 和 29 年 3 月 県 議 会 で 果 樹 試 験 場 玉 名 分 場 設
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玉名分場
置 を 決 議 し 、翌 30 年 1 月 、玉 名 市 と 用 地 等 の 貸 借 契 約 を 締 結 し 正 式 に 発 足 し た が 、同 年 5
月の県の機構改革により熊本県玉名果樹指導所として再出発することとなった。その後、
昭 和 48 年 7 月 に 閉 所 し 果 樹 試 験 場 に 統 合 さ れ た 。 用 地 決 定 後 、 昭 和 30 年 1 月 に モ モ 、 ナ
シを植栽し、品種比較試験を開始するとともに、玉名地域における果樹栽培の技術指導に
も力を入れた。
( 果 樹 園 芸 講 習 所 : 昭 和 23 年 ~ 54 年 )
昭和 7 年、農事試験場柑橘試験地の設立に伴い、併設の農業技術員養成所で練習生教育
を 行 っ た 。 昭 和 22 年 、 柑 橘 試 験 地 が 独 立 し 熊 本 県 立 果 樹 試 験 場 と な り 、 翌 23 年 に は 高 卒
2 ヶ 年 課 程 で 熊 本 県 果 樹 園 芸 講 習 所 を 併 設 し 、翌 24 年 に は 練 習 生( 中 卒 者 1 ヶ 年 )課 程 を
設 置 し た 。昭 和 46 年 に は 県 議 会 に お い て 果 樹 試 験 場 、研 修 施 設 の 拡 充 整 備 が 決 議 さ れ た こ
と に 伴 い 、 果 樹 講 習 所 の 規 則 改 正 に よ り 、 本 科 生 ( 高 卒 2 ヶ 年 )、 専 科 生 ( 高 卒 1 ヶ 年 )、
練 習 生( 中 卒 1 ヶ 年 )と な っ た 。昭 和 52 年 県 立 農 業 大 学 校 設 置 条 例 に 基 づ き 統 廃 合 が 決 定
さ れ 、 昭 和 54 年 3 月 30 日 付 け を も っ て 果 樹 園 芸 講 習 所 を 閉 所 、 熊 本 県 立 農 業 大 学 校 に 統
合 さ れ た 。 卒 業 生 は 柑 橘 試 験 地 時 代 に 41 名 、 果 樹 試 験 場 時 代 に 本 科 生 334 名 、 専 科 生 40
名 、 練 習 生 544 名 で あ っ た 。
果樹園芸講習所
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