足 尾 銅 山 の 産 業 遺 産 ︵5 ︶

仲太郎作、古河機械金 属 脚 所蔵︶ には
活況とは程遠 い情景 で、紅葉 が鮮や かに
描 かれ ている。
こ の年、草倉銅 山貧 ② より、新進気鋭
古河市兵衛 の甥︶が越前
の木村長兵衛 ︵
坑夫 の 一党 を率 いて坑長と して赴任す
る。 この時期、まず鉱脈を掘 り当 てるこ
とが最優先 の課題 であ った。
後
一人人 一年 ︵
明治 十四年︶鷹 の巣坑 ︵
に下稼人斉藤 八郎 より権利移譲︶にお い
て直利 に突き当 たり、表 に見ら れるよう
に産銅量が倍増 している。翌十五年、更
に、十六年 にも増産が続き、銅 の製錬 は
これま で の規模 では賄 い切れず、暫時洋
式技術 を取 り入れ て行く のであ る。
まず、これま では焼鉱が大 きなネ ック
であ つた。前 号“
江戸期 の製 錬 ” で述 ベ
たよう に、これま で の土竃や 野焼き では
十四日
容 量 は少 な く、焼 鉱 に は長 期 間 ︵
以上 ︶を要 し て いた。銅 鉱 石が増 産 さ れ
るに伴 い、明治 十 五年 に洋式 焼 鉱 炉 が 必
要 に迫 ら れ て導 入 さ れ る。 回 、 ” これ
は反射 炉式 のも ので、翌 年 に は焼 鉱 量 を
大
増 や す ︵一昼夜 で九 百貫︶と 同時
き
く
一座 十
に焼 鉱 時 間 ︵一座 人 区、 人時 間 、
二区 、 十 二時 間 ︶ も大 幅 に短 縮 さ れ た 。
二
翌 明 治 十 六 年 に は 選 鉱 過 程 で手 選 鉱
に加 え 、機 械 選鉱 が導 入さ れ る。 ロ
明治 十 七年 ︶本 国坑 にお
一人 人 四年 ︵
いて横 間歩 樋大 直 利 に突 き当 た る。加 え
自然 通
て、本 国坑道 と 二番坑道 の貫通 ︵
気 ︶ によ り、先 の二 つの障 害 も改 善 さ れ
た こと も重 な って、前 年度 の約 四倍 の産
銅 高 を記録 し て いる。 こ の年 本 山吹 所 に
加 え 、直 利 橋製 錬 所 が稼 働 す る。左 の絵
(二 )
直利橋製錬所(明 治 20年 )
矢印上は ドコー ビル 矢印下は直利橋
のガ イ ド を養 成 し て、色 々な 活動 を し
て いる。
一.講 演会 活動 は月 二 ∼ 四 回程 度 。
二. チ ラ シ配布 は ハッピを着 て街 頭 、
駅 な ど でパネ ルを 置 いて解 説 す る。
三 . スタデ イ 。バ スツ アー では 日本 で
動 いて いる製 糸 工場 を 巡 る。
四 .各 種体 験 イ ベ ント では繭 や 生 糸 に
触 れ る催 し、 学 校 キ ャラ バ ンな ど。
これ ま で県 が リーダ ー シ ツプ を 取 り
な が ら、 民間 と上 手く連 携 し て こ こま
で良 くや ってき た と思 って いる。
に掘 り つくさ れ、鉱 脈 は尽き たと いう の
が 世評 であ った。 0
一人七 七年 ︵
明治 一〇年 ︶ 足尾銅 山 は
紆 余 屈曲 の末 、古 河市 兵衛 が引 き継 ぐ こ
と とな った。
銅 鉱 石 の採 鉱 に は幾 つか の障 害 が あ
った。
一. 通気 掘 り進 む に つれ、酸 欠 の為 、
長 い時 間 労働 できな い。
二. 出水 坑 内 から 出水 の為 、作業 中 断、
更 に は採 掘 放 棄 に至 る こと も あ る。
三 . 照 明 酸 欠 で火 が灯 ら な い。
其 の他 、運搬 も 山奥 から 人力 で運 ぶ し か
な か った。
講演 に続 き当会 の理事 でもあ る星 野
更 に、 経 営 の面 では“下 稼 人 ” の存
一仁 氏 ︵
足尾銅 山関係 のミ ニチ ュアを
在 も大 き な問 題 であ った。
何 点 も作 成 し て いる。︶ に よ る“
鉱都 ”
江 戸期 から稼 業 の習 わ しと し て、間 歩
と いう 足尾 の今 音 を D V Dに収 め た も
前号
︵
坑道 ︶ の管 理、鋼 製 錬 は下稼 人 ︵
のを解 説 入 り で鑑賞 した。
江戸期 では銅 山師︶ が実行支 配 し、
坑 主 は荒 銅 を 買 い取 るだ け と い
う仕組 みにな っていた。 ロ
“シリ ー ズ
こ の様 な 経 営 で は鉱 脈 の開撃 や
”
5︶ 間歩 の普 請 は個 人 で請 け負 う こ
足尾銅 山 の産業遺 産 ︵
と にな り、先 の三 つの障害 を考え
∼足尾銅山 の銅製錬 の歴史∼
ると、十分な手立 ては施 しにくく、
“
その 一
明治期近代化 の曙
足 ︲
”
尾
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の覇綿恰躙相当脈で構 成
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ることが多ぐ、出較的掘
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明治期 に入 ってもしばらく の間、足尾
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銅 山 の稼 業 は明 るさ を 見 いだ せな か つ
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尾銅 山 の江戸 後 期 から 続 く衰 退 の
要因ともな つていた。 0
一人人〇年 ︵
明治 二 ︶当時 の
十
年
安藤
様 子が覗え る本 山出澤 の洋画 ︵
た。僅 かな産銅量と丹攀ε ① 製造 で凌 ぐ、
廃 山同然 であ った。
明治 九 年 当 時 の坑 主 副 田欣 一から 古
河市 兵衛 に足尾銅 山 の買 山話 が持 ち か
けら れたが、同年上半期 の借区坑業 明細
書 によれば、六千 二百円超え る損失 であ
つた。当時 足尾銅 山は慶長年間より堀続
江戸期約十五万ト ン︶ で、す で
き の山 ︵
矢印左 は煙 が立 ち昇 る野焼儀 鉱 )
矢印右 は吹所 (製 錬所 )吹 大工 2人 が掃 かれ てい る
本 山出澤 の絵
5号
第
31日
1月
26年
平成
会報
足尾銅 山 の世界遺産登録 を推進 す る会