白瀧幾之助

白
瀧
幾之助
1873(M6)~1960(S35)
明治6年3月17日、生野町口銀谷の生まれで、父は浜沖
之助、母は美代、兄に寅太郎がいた。父の沖之助は鉱山
師であり、家族を残して仙台に移ってしまったため、残され
た母と子一家は奥銀谷の酒造家白瀧重右エ門氏(現白瀧
彰氏の先々代の頃)の庇護を受け、後美代は自瀧家の養
女となり、幾之助も自瀧姓を名乗るようになった。
17才の頃、鉱山技師を目指して上京、初め工手学校
に通ったが、 たまたま下宿先に同宿していた同郷の和田正造(和田三造の兄)に誘わ
れて洋画家山本芳翠の画塾を訪ねたのが動機となって絵を志し、芳翠の画塾で学ん
だ。後この画塾が黒田清輝に譲られてからはそのまま黒田一門に入って勉強し、明治
29年、東京美術学校(現東京芸大)に西洋画科が設けられた時にはいきなり第3学部に
編入が許された。その卒業制作の「稽古」(現東京芸大所蔵、重美選定の噂あり)は第2
回の白馬会展に出品、好評を博し、明治33年のパリ万国博にも出品され入賞した。
明治38年にはアメリカに渡り、アカデミー・オブ・アートに学び、明治40年には英国に
渡って彫刻を学び、同年農商務省の海外練習生として渡仏、ラファエル・ コロンに師
事した。帰国後は文展画壇で活躍し、第12回文展以後は推薦無鑑査となり、 大正9年
の第2回帝展には審査員に推され、 以後9年間審査員として活躍した。昭和27年には
我が国美術界に尽くした功積により芸術院恩寵賞を受賞し、昭和35年87才で逝去、勲
4等瑞宝章を受けた。
氏の作品は黒田清輝から学んだ明るい外光派の色彩に加え、優れた描写力で風景
や静物を好んで描き、深い、観察力と奇をてらうことのない素直なタッチにより風格のあ
る画風を築きあげた。