エトルリアの臓卜師

エトルリアの
エトルリアの臓卜師
トスカーナ地方やエミリア=ロマーニャ地方などのエトルリアの本拠地がローマ化され
ると、エトルリア人達のローマ化は急速に進み、紀元後 1 世紀頃までには日常の場面でエ
トルリア語が話されることは極めて稀になりました。エトルリア語は、せいぜい自分の系
譜に誇りを持つエトルリア人が稀に墓碑に刻む程度となりました。紀元後 410 年、ゲルマ
ン人で西ゴート族の王であったアラリック一世がウクライナから西進し、ギリシャ一帯や
ユーゴスラビア地方を荒らしまわった後にイタリア半島に侵入、有史以来一度も攻略され
たことのなかった永遠の都ローマを陥落させ、三日間に渡って略奪を働くという未曾有の
事件が起きました。この事件の際、エトルリア人の神官達が、敵の退散を念じた祈祷をエ
トルリア語で挙げたいと希望し、皇帝に許されたというのが公式記録に残る最後のエトル
リア語が発音された機会だとされています。
一般に使われなくなったエトルリア語が、神官達の間にはかなり後まで伝わっていたと
いう点が意味深です。というのは、以下のような事情があるからです。ローマの勃興期こ
そエトルリア人は高い文明を誇り、土木技術、軍事技術、政治体制などでローマを凌ぎま
したが、紀元前 4 世紀頃から急激に勃興してきたローマの前に敵すべくもなく、表面上は
同盟者という肩書きを手には入れたものの紀元前後までには二等市民の地位に転落し、そ
の後のローマ人は、もはやエトルリア人からは何も習うことはないといった勢いでした。
そんな中で、唯一エトルリア人が重宝されたのが占術・宗教儀式の分野だったからです。
そういう経緯もあり、紀元前後にエトルリア語が一般には使われなくなったあとも、宗教
関係者の間でしばらくエトルリア語が生き残っていたのでしょう。では、そのように重宝
されたエトルリアの占術・宗教儀式とはどのようなものだったのでしょうか。
1. Disciplina Etrusca
エトルリアの宗教について詳しいことは分かっていませんが、エトルリア人の強みとし
て挙げられる特徴に、エトルリアの宗教が経典を持っていたことがあります。古代ギリシ
ャやローマは多神教で、様々な神々が信じられ、それぞれの神の神殿では様々な宗教行事
が執り行われましたが、これといって人々が拠り所とするような文章となった経典を持ち
ませんでした。書物の形で経典を持つ宗教が非常に大きなアドヴァンテージを持つことは、
後のキリスト教やイスラム教の興隆を見れば明らかです。
エトルリアには、
”人間の手にならず神によって書かれた”とされる経典が三冊あり、そ
れぞれ「雷電の書」「臓卜の書」「儀礼の書」と題されていました。複雑なエトルリア宗教
の数々の儀式や占いなどは、ローマ人から"disciplina etrusca"と呼ばれ、ギリシャやローマ
の記録にも、エトルリア人は非常に宗教的な民族であったとの記述が残っています。雷電
の書の内容は、雷光の方向や形、落雷場所などから占いを立てる雷卜法(これは主に、ロ
ーマ神話の Jupiter に相当するエトルリアの主神 tinia およびエトルリア神界に属する八柱
の神の神意を読み取る術)
、臓卜の書の内容は生贄となる動物の肝臓の色や形、病巣などか
ら吉兆や未来を読み取る臓卜法、そして儀礼の書には様々な宗教儀礼の方法が書かれてい
たほか、前の二書に載っていない占術(鳥の飛翔する方向などから占いを立てる鳥卜法、
飢饉や洪水などの天変地異、彗星、地震、畸形動物の誕生などから吉兆を読み取る術)な
ども含まれていました。
当時のローマには、エトルリア経典のような"由緒正しい神から授けられた啓典"が欠けて
いただけでなく、鳥の飛び立つ方向で Yes/No を占う単純な鳥卜法などしか知られていなか
ったため、Yes/No で答えられるような内容に関してしか神意を伺うことが出来ず、もっと
具体的で詳細なアドバイスを提供できるエトルリアの占術は、政治や戦争に関する決定を
下すのに不可欠だったのです。さらに言えば、ローマの占術では既に起こってしまった天
変地異などから神々の怒りを知ることは出来ても、予め神々の怒りを知り、怒りを鎮める
ために手当てを施すことが出来ませんでした。
エトルリアの占術師は、ローマ勃興の頃から重宝がられており、伝説の建国者ロムヌス
がローマに都を立てたとき、既にエトルリア神官達によって建都の儀礼が執り行われたこ
とが記録に残っています。エトルリアの建都の儀式では、pomerium と呼ばれる境界線を市
域と域外の間に引くことが重要で、これには都市を外部から分離するという観念的な意味
合いが込められていたと考えられます。境界線は簡単な溝であったり、簡単な塀であった
りしましたが、いずれも実際に堀や城壁として外敵の侵入を防ぐような規模のものではな
く、あくまで宗教的な意味を帯びた目印に過ぎないようです。(エトルリアの古都ペルージ
ャにも、現在でも使われているエトルリア門から北西へ坂を下っていくと、エトルリアの
壁と呼ばれる遺構が残っていますが、とても都市防衛機能を持った塀ではなく、小さな石
積みのようなものです。あるいは境界線として築かれたものかも知れません。)
ローマ人は、自分達に宗教的儀式を行うノウハウが欠けていることは自覚しており、最
初期から正直にエトルリア人に助力を乞いました。
紀元前 396 年にエトルリア都市の中では最もローマに近かったウェイイが陥落し、その
後次々とローマ人にエトルリア諸都市は侵略されていきますが、仇敵に対する通常の態度
とは違って、ローマ人はエトルリア人の神官を直ちに重要な祭儀官の役職に抜擢していま
す。エトルリアの征服が終わると、前二世紀中頃にはローマの元老院は「六十人臓卜師団」
と呼ばれる臓卜師からなるグループを結成しました。最終的には、十三の都市で類似の臓
卜師団が形成されました。初のアフリカ出身皇帝で、ローマの内戦を勝ち抜き、強権的な
政治を行ったセプティミウス・セウェルス(Lucius Septimius Severus)は、ローマの軍団と
ともに従軍して臓卜を行う従軍臓卜師団をも創設しました。
また、トスカーナ地方のエトルリア貴族の各家に、臓卜師を大増員するべく、子弟に臓
卜師としての修行を積ませるようにとの指示が出されたことがキケロの記録などに残って
います。もともと臓卜師はエトルリアにおいても上流貴族の子弟向けの職業で、こうした
貴族階級が秘術と教典を独占していました。複雑な儀式や文字の読み書きを必要とする神
官には、高度な教育を受けた貴族の子弟しかなるチャンスは無かったのでしょう。エトル
リア社会における臓卜師の高い地位を考えれば当然のことでもあり、彼らは独特のベレー
帽や短い上衣を着るなど、他の職業と区別できる独特の身なりをしていました。臓卜師の
姿は、エトルリアの墳墓内に書かれた壁画にも数多く見られます。
トスカーナ貴族に臓卜師の増員を求めるのと同時に、ローマ貴族の間でも子弟をエトル
リアの臓卜師のもとに留学させることが流行しました。ローマにおいて、臓卜師がいかに
政治や軍事の重要な場面で必要とされる職業であったということです。こうしたローマの
留学生によって、エトルリアの経典や臓卜法などは一部がラテン語に翻訳され、またラテ
ン語の記録が残っているため、今日の私たちがエトルリアの臓卜術について知ることが出
来るわけです。
貴族の子弟からなる公式な臓卜師のほかに、素性の怪しい個人の臓卜師もおり、村々を
回って卜占を立てていました。初代皇帝アウグストゥス(在位:紀元前 27 年-紀元 14 年)
も若い時分、アフリカのカルタゴで巡回していた私営臓卜師に臓卜を立ててもらい、将来
皇帝になるという託宣を得たという話が伝わっています。もっとも、こういった私営臓卜
師は迷信深い民衆をたぶらかすというので一部では問題視されており、例えば大カトーは
自分の使用人に臓卜師のもとに出入りするのを禁止しましたし、皇帝アウグストゥスは、
臓卜師が「死の予言」を立てることを禁止しています。一方で、皇帝や上流貴族の中には、
公設の臓卜師団とは別に、自分専用の私設臓卜師を雇い入れる者も多く、シーザーお抱え
の臓卜師スプリンナは、
「3 月 15 日にお気をつけ下さい」という有名な予言によってその暗
殺を警告しました。(シーザーは元老院へ行く途中でスプリンナに遭い、「何も起きなかっ
た」と言いましたが、スプリンナな「3 月 15 日はまだ終わっておりません」と答えました。
その直後、シーザーは元老院の開院前に随行していたブルータスらに暗殺されたのです。
)
同盟市戦争やミトリダテス戦争を勝ち抜いた豪腕な執政官スッラや、ポエニ戦争で荒廃し
たローマの改革で名を挙げたグラックス兄弟をはじめ、その後の歴代皇帝の多くも私設臓
卜師を囲っており、エトルリアの臓卜師達は支配者達の進退や政策・軍略に少なくない影
響を与えました。
2. 臓卜
臓卜とはあまり耳慣れない占い法ですが、通常は生贄となる動物の肝臓を使い、その色
や形、病巣、腐敗箇所などから、人智の及ぶ限りの吉兆・神意を読み取ろうという術です。
古くはメソポタミア、アッシリア、ヒッタイト、バビロニアなどでも行われていたようで
あり、ギリシャ人の間でも行われていました。プラトンやアリストテレスは、肝臓を感情
を司る神秘の臓器であると記述しており、肝臓には何か霊的な力が宿ると信じられていた
ことが窺えます。もし臓卜がエトルリア独自のものではなく、東方から伝来した秘術であ
るとすると(そしてその可能性は高いのですが)
、いつ、どこで、どのようにしてエトルリ
ア人が臓卜を学んだかという点が問題になります。この話題になると、エトルリア人はリ
ュディアからの移民であるという東方起源説の支持者がまた活気付いてしまうでしょうが、
本稿では臓卜がどこからエトルリアに伝えられたのかは議論しないことにしましょう。こ
れに関しては何を議論しようとも、確たる証拠が何一つなく、推測の域を出ないからです。
現在、臓卜に関する資料で最も重要なもの(これはエトルリア語の言語資料としても一
級品です)は、1877 年にピアツェンツァで発見された青銅製の羊の肝臓の模型です。
ピアツェンツァで
ピアツェンツァで発見された
発見された肝臓模型
された肝臓模型
(上面(
上面(左上図)
左上図)と下面(
下面(左下図)
左下図)。右図は
右図は上面の
上面の文字)
文字)
この有名な肝臓模型は紀元前 2 世紀頃に制作されたと考えられていますが、上面は 5 つ
のブロックと 40 の小区分に分けられ、Cautha, Fuflus, Hercle, Mae, Maris, Nethuns,
Satres, Selvans, Tin, Uni, Vetisi, Ani などの神の名前が見えます。これらの神々は、ロー
マやギリシャの神々と対応するものもあれば、エトルリア独自の神の名もあります。肝臓
は葉間切痕と呼ばれる筋によって幾つかの肝葉に別れますが、こうした肝葉をそれぞれ区
分し、天空の区分と対応させ、それぞれ天空の区画を支配する神と対応させているのです。
特に、肝葉のうちの一つは「頭」と呼ばれて重視され、頭が欠けたり腐敗している肝臓は
非常な凶兆であるとされました。こうした肝臓の模型はテラコッタ製のものなども発見さ
れており、臓卜の勉強用の教材だったと考えられています。
肝臓を
肝臓を調べる臓卜師
べる臓卜師をあしらった
臓卜師をあしらった鏡
をあしらった鏡
3. エトルリア宗教
エトルリア宗教の
宗教の没落
このように初期のローマ帝国では非常に重宝されたエトルリアの臓卜術ですが、紀元後 4
世紀頃から衰退します。大きな理由は、キリスト教が勃興してきたことです。エトルリア
の宗教は神々の手になる教典を持つという点で、様々な異教の中では、聖書を使って急速
に勢力を拡大してきたキリスト教に唯一対抗できる勢力ではありました。例えば皇帝アウ
グストゥスは、ローマ人がユダヤ人によって中東で生まれたキリスト教を信じる必要はな
くイタリアにはエトルリア宗教がある、と考え、伝統宗教の復活と保護に力を入れました。
ディオクレティアヌス帝が紀元後 303 年にキリスト教禁止令を出し、キリスト教史上有名
な「大迫害」を行った背景には、エトルリア臓卜師達の進言があったともいいます。
しかし、キリスト教が倫理観や信仰の力、死後の安寧など、人生に関する様々な価値観
を説く宗教であったのに対し、エトルリアの宗教は基本的には占い術の寄せ集めに過ぎず、
道徳や魂の救済といった問題に対して何ら方向性を示すことができないという根本的な問
題がありました。民衆を惹き付ける力において、エトルリア宗教はキリスト教に比べて圧
倒的に劣っていたのです。また、数多くいた臓卜師は、宣教師ではなく単なる占い師であ
り、組織的に宗教を広めるという力において、エトルリアの宗教はキリスト教に大きく水
をあけられていました。さらには、数々の権力者に重用された臓卜師達ではありましたが、
中国の宦官のように権力を奪取することまでは行わず、権力者の顧問という立場以上にな
ることは一度もありませんでした。
(ちなみに、コンスタンティヌス帝の頃からローマの宮
廷にも宦官がはびこるようになりました。)こうして、人心を統べ、広い帝国内を統治する
には、体系的に整ったキリスト教のほうが有利であるとの考えが為政者の間にも徐々に浸
透し、ディオクレティアヌス帝の大迫害直後の 311 年には早くも、自身も元は迫害者であ
ったガレリウス帝がキリスト教寛容令を発布、東西ローマの正帝・コンスタンティヌス帝
とリキニウス帝は 313 年にミラノ勅令を出してキリスト教を保護しました。
ここに至って、
それまで信仰を隠していたキリスト教徒達は大手を振って歩けるようになり、それ以前の
状況が逆転しました。コンスタンティヌス帝は自らもキリスト教徒でしたが、一説には、
教義そのものよりも、キリスト教教会の持つ組織力を統治に利用しようとしたのだとも言
われています。そして、テオドシウス帝(在位:379 - 395)が過激な一連の布令によって
キリスト教を国教とすると、エトルリア宗教も、ミトラ教などの他の宗教とともに禁止さ
れることになるのです。テオドシウス帝の勅令は、異教寺院を通ることや異教の神像を見
ることさえ禁ずるもので、
「多神教の死刑判決」とも呼ばれています。そういった事情を考
えると、本稿の冒頭で紹介したエピソード、アラリック一世率いる蛮族がローマを取り囲
む中でエトルリア神官達が挙げた祈祷は、いかに非常事態下で藁にもすがる思いだったと
はいえ、皇帝の許可した国家行事としての宗教儀式としては例外的なものであり(皇帝ホ
ノレウスはテオドシウスの次男)
、まさに瀕死のエトルリア宗教が咲かせた最後の徒花だっ
たと言えるでしょう。