19 高森町市田 惣兵衛堤防(大川除堤防) 江戸時代に飯田藩堀親長の命 を受け、石工の中村惣兵衛が老 骨に (むち)打って築いた。 当時 77 歳であった。堤防の長さ は百四十六メートル、平均の高さ四メートル。長めの石を三段に積 み上げ石垣とし壁面が凹凸で頑丈に出来ていた。寛延三(一七五〇) 年―宝暦二(一七五二)年の三年間で完成させた。 「安政六年(1859)、 旧堤に続いて下流へ延長六〇間の大川除接続堤防竣工。文久三年 (1863)、大川除接続堤防修復工事を実施。元治元年五月(1864)、大 川除堤・同接続堤防における天竜川洪水による欠潰修復工事(捨石の あらし込み)の開始。昭和 9 年 3 月(1934)、延長 100m の惣兵衛堤 防木工沈床入れ替え工事を竣工。昭和 36 年 6 月 29 日(1961)、午 後五時半に惣兵衛堤防 700m が決壊し、天竜川(惣兵衛川除)は 209 年間の幕を閉じた」 中国にも惣兵衛堤防のような例がある。成都郊外の世界遺産「都 江堰」は,秦の時代(紀元前 256 年)に始まった治水事業が成都・ 四川盆地の繁栄を支えた.紀元前 3 世紀、戦国時代の秦国の蜀郡の 太守李冰(りひょう)が,昭襄王から銀十万両を与えられ数万人を 動員して工事に着手した洪水に悩む人々を救うために紀元前 256 年から紀元前 251 年にかけて原形となる堰を築造した. 惣兵衛堤防の特徴は,堤防 の機能を越えている。長大な 水制工にある。この水制工が 天 対岸の堤防を破壊すること 竜 川 まで計算には入っていなか 惣 の 兵 流 ったであろう。惣兵衛堤防が 衛 心 堤 完成以来対岸の豊丘村伴野 防 は、洪水の度に川除が崩れ被 害が 1961 年 36 災害まで続 く。 参考文献 「下伊那川たんけんブック) pp.66. 「下市田邑堤 防之御銘」 (寛 田「語りつぐ天水田のおよそ 8 割 が没した。」
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