258F - 明治大学

つまり播磨の開墾恒承の背後にはそのような技術をもたらした人々と﹁交易﹂
があり、その﹁交易﹂とは国家と無関係には存在しないことを忘れてはならな
い。決して中央の視点では語らない﹃播磨国風土記﹄において、八戸控須御室
命という神が天より降った伝承を伝えるということは、古くから中央との関係
があったことを示しているのであり、それが播磨国でありながらも構内固に属
していた美嚢郡の風土であった。
開墾技術
、
デて
Jλ
阿国・君。阿国田甘のめ
O
O同
堂野前 彰子
口
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o冨 ﹀ 出 ﹀E]8
キーワード υ逃避ルlト
︻
目
次
︼
易
播磨への道│オケ・ヲケ皇子の逃避行│
問。ロ宮古田Rι 自白一
2
﹃ 58F⑦
同g当者寸丘℃
c
︻車色目︼
﹃幡磨国風土記﹄美嚢郡には、雄略天皇に父を殺害されたオケ・ヲケ皇子が
はじめに
ー﹃播磨国風土記﹄のヲケ・オケ皇子
身をやっし、再び王として中央に迎えられる伝承が語られている。士山深の﹁石
室﹂に龍ることによって王となるこの伝承は、まさに﹁王の再生謂﹂であり、
記紀のオケ・ヲケ皇子
2-
鉄
今までの研究ではそのような神話的な意味に焦点があてられてきた。
3播磨の開墾
4 ﹁鉄﹂をめぐる物語
実はこの伝承には同工異曲の物語が記紀にも残されており、その播磨までの
逃避ルlトがそれぞれの書物で異なっている。 ﹃播磨国風土記﹄は近江から矯
5美嚢の風土
むすび
磨まで逃れ来たとのみ記すのに対し、 ﹃古事記﹄では山代から淀川を下ったル
﹃日本費杷﹄では丹後を経由したルlトが語られていて、それら書物の
はじめに
相
せ
る
神
話
採
音
め
を
秘
る
-27-
水
系
的
な
﹃播磨国風土記﹄美嚢郡には、雄略天皇に父を殺害されたオケ・ヲケ皇子が
警
あがって見えてくる。今もなお有数の米どころである播州平野は豊な水に恵ま
を
身をやっし、再び王として中央に迎えられる伝承が語られている。志深の﹁石
屋
れているが、それだけでは豊穣な大地とはならない。それを沃土とするには濯
E
室﹂に籍ることによって王となるこの伝承は、まさに﹁王の再生謂﹂であり、
ことでもあった。
天
石
献など開墾技術が必要不可欠で、古代において開墾技術とは進んだ製鉄紫術の
に注目すると、近江から丹後を経て播磨へと繋がる﹁鉄﹂をめぐる道が浮かび
特徴を示しているといえる。その中で﹃日本書紀﹄のヲケ・オケ皇子の逃避行
ト
実はこの伝承と同工異曲の物語が記紀にも残されており、その播磨までの逃
避ル1トがそれぞれの書物で異なっている。事廃国風土記﹄では近江から逃
れ来たとのみ記すのに対し、﹃古事記﹄では山代から淀川を下ったルlト、﹃日
﹁鉄﹂をめぐ
本書紀﹄では丹俵を経由したルlトが語られていて、それら書物の特徴を示し
ているといえる。
そこでこの小論では、中でも﹃日本書紀﹄の逃避行に注目し、
る﹁交易﹂について考えることから、播磨国美麗の風土を明らかにしたいと思
吾は悔ひせむ。
又、詠めたまひき。其の酔にいへらく、
御足末 奴僕らま。
山投に坐一しし
車内垣
淡海は 水滞る園
章
一
円
垣
の
市濯の天皇が
とながめたまひき。即ち、諸人等、皆畏みて走り出でき。爾に、針聞の園
h 悌、相聞き相見て、語りて云ひしく、﹁此
の山門の領に遣されし山部連 込
のみ子の為に、汝が母、手白髭番、重は食さず、夜は寝ず、あるは生き、
等尾が新室の宴に因りて、二たりのみ子等に燭さしめ、伺りて、詠僻を奉
り、東西に迷ひ、何ち、志深の村の首、宮守尾の家に役はれたまひき。伊
等は、盤に焼き駿てて、即て経き死にき。爾に、二人のみ子等、彼此に隠
知りて、乗れる馬等は、其の軌を切り断ちて逐ひ放ち、亦、持てる物、按
逃れ来て、惟の村の石室に隠りましき。然る後、意美、自ら重き罪なるを
江の園の擁綿野に殺されましし時、日下(日+下のニ子)部連章夫を率て、
於異・意異の天皇等の此の土に坐しし所以は、汝が父、市遁の天皇命、近
﹃播磨国風土記﹄では、オケ・ヲケ皇子の伝承は次のように語られている。
偽って狩に誘い出したところを撃でたとする。これら二つの書物ではどちら
では安康天皇が市漫皇子に皇位一を継承させようとしたことを雄略天皇が恨み、
者の言葉に従って、雄略天皇が先手を打って殺害したように描き、﹃日本書紀﹄
﹃古事記﹄では朝早く僅呂に現れた市漫皇子に墾恵があるに違いないという従
天皇によって殺された。ここでは詳しく語られることのないその時の状況を、
オケ・ヲケ皇子の父市漫皇子は、近江国擢綿野で狩をしているところを雄略
りて、宮を此の土に造りて、坐ましき。(濯磨国風土亘美嚢郡)
主けたまひき。仇りて、相見相語ひ轡ひたまひき。此より以後、更還り下
啓すこと右の件の知し。即ち、歌び哀み泣きて、少楯を還し遣りて、召し
あるは死にて、泣き轡ひませるみ子等なり﹂といひき。伺りて、参上りて、
げしめき。爾に、兄弟各相識り、乃ち弟立ちて詠めたまひき。其の僻にい
もが正しく、皇位継承をめぐる争いから市温皇子は殺されたのであろう。その
に殺意、があったのかという点について違いがあるのだが、おそらくそのどちら
たらちし 吉 備 の 錨 の 狭 鍬 持 ち
ような争いがあったからか、市温皇子の御子たちは身の危険を感じ播磨へと逃
へらく
1E磨国風土甚のヲケ・オケ皇子
倭
は
回打つ如す手拍て子等
-28一
フ
。
亡する。はじめ美嚢郡志染の里の石室に隠れていたオケ・ヲケ息子は、その後
士山深の村の首箆一寸尾の家で火たきの童として仕え、新室の宴の際、市遁皇子の
T ら明かす。それを機に二人は中央に迎えられたものの、再
末商であることが 自
っ
た
。
2記紀のオケ・ヲケ皇一子
﹃古事記﹄清寧天皇のくだりにも、﹃播磨国風土記﹄の記述と同じような内
容が語られている。同工異曲のその物語が事磨国風土記﹄と大きく異なるの
び矯磨の地に戻り宮を建てたという。
ここで興味深いことは、あたかもこの二人の皇子が播磨から誕生した天皇で
は、雄略天皇の後を継いだ清摩天皇には皇子がいず、崩御後市謹皇子の妹であ
物部の、我が夫子の、取り侃ける、大刀の手上に、丹童会書け、その緒は、
あるかのように語られていることである。逃避行の行先でしかなかったはずの
実はこの伝承で二皇子の母となっている手白髪命は、播磨と深い関係があっ
赤幡を載り、立てし赤幡、見ればい隠る、山の三尾の、竹をかき苅り、末
る忍海郎女が政治を行っていたと諮ることと、新室の宴で二皇子、がうたう歌に、
た。手白髪命とはその時角刺宮において国政にあたっていた伯母盤豆皇女のこ
押し騨かすなす、八絃の琴を調ふる如、天の下治めたまひし、伊邪ヂ担気
播磨に、何故に宮は建てられたのか。二人が播磨へ逃れたのはなぜなのか。
とだとされており、別名忍海郎女、忍海部女王ともいい、その子代の部民が忍
の、天皇の御子、市遁の、押歯王の、奴末。(﹃古事記﹄清寧天皇条)
と、天下を治める天皇の末商であると述べることである。天皇がいかにして天
海部であった3。二皇子が仕えた震守尾は﹃日本書紀﹄では忍海童謡目とな
っており、そのような伯母の縁があって二皇子は播磨に逃れたのだろう。
ケ・ヲケ皇子がこの地に逃れきて石室に龍ったことによって再生を果たし、王
いて、中央の視点でオケ・ヲケ皇子の物語は語られていく。そのような主義を
ではさして意識されていなかった皇統というものがここでは強く意識されて
富磨国風土記﹄
になったという物語になっている。 ﹃播磨国風土記﹄においては、どのような
もっ﹃-古事記﹄であるからだろう。安康記で市遁皇子が殺された記述のすぐ後
下を治めたのか、その統治の様子を語る詳細な描写があり、
縁があって播磨に逃れたのかということは問題にはならず、アマテラスの天石
に、オケ・ヲケ皇子が大和から逃れていく道中が語られる。
しかしそのよw
?な忍海部との関係はここでは直接語られることはなく、オ
屋戸龍りを初練とさせる﹁龍り﹂に焦点はあてられ、神話的ストーリーにこそ
あ
2
と型
語存
はな
る在
ので
であ
あり
﹁我は山代の
猪甘ぞ。﹂といひき。故、玖須婆の河を逃げ渡りて、針間園に至り、その
然れども汝は誰人ぞも﹂とのりたまへば、答へて日ひしく、
ここに市遁王の王子等、意郡、家祁玉、仁この胤れを聞きて逃げ去りたま
る~
価値があった。そのような播磨の風土が重要なのであり、あくまでも播磨の風
京
事
ひき。故、山代の苅羽井に到りて、御粒食す時、商鯨ける老人来て、その
主事
土に根差した神話の語りを重視する書物が﹃播磨国風土記﹄ということになろ
のひ
憾の
棋を奪ひき。ここにその二はしらの王言りたまひしく、 ﹁棋は惜しまず。
品む
葬 E
うか。二皇子が身をやっしていた火たきの童というのも、最も下賎な仕事であ
播る
磨と
に聞
は時
そに
2水
音フ
と護
国
2
土 をZ
量
話
E誌
,
凸Hv
nL
園人、名は志自牟の家に入りて、身を隠したまひて、馬甘牛甘に役はえた
まひき。(﹃古事記﹄安康天皇条)
この記述によれば、オケ・ヲケ皇子は父が殺されたことを聞いて、山代の苅
出
一
雲
は 新墾、新墾の
十握稲を、浅彊に 醸める酒、美にを 飲喫ふ
るかわ。吾、が子等。脚日木の此の傍山に、牡鹿の角 挙げて 吾が傑す
れば、旨酒餌香の市に 直以て買はぬ。手掌も隈壬冗に 拍ち上げ賜ひっ、
(﹃日本書紀﹄顕宗天皇条)
と、餌脊の市がうたわれていることである。大和川の支流石川の下流左岸、大
吾が常世等。
都府城盟巾水主宮馬場にある式内機井神社周辺の宇治川沿いに比定されてお
阪府藤井寺市国府周辺にあったという餌香の市が、何故ここにうたわれるのだ
初井から玖須婆の河を経て播磨へと向かっている。この山代の苅羽井は今の京
り三、その{玄旧川は玖須婆(大阪府枚方市楠事で淀川と合流して瀬戸内海
ろう。﹃古事記﹄に同じく中央で編警cれた書物であれば中央を意識して語ら
主時
す議
では同じく中央で編纂された﹃日本書紀﹄においては、オケ・ヲケ伝承はど
うとする視点もあるよ・つだ。
語ろうとする﹃播磨国風土記﹄と、ヤマトと播屠を結ぶ水路に注目し古代街道
つまり、あくまでも在地の視点に立ち、在地の英雄としてオケ・ヲケ皇子を
顕宗紀によれば、二皇子は市謹皇子が殺害されたので、日下部建使主らとと
の発達を描こうとする﹃白古事記﹄にはどこに重心があるのかという違いがあっ
のように描かれているのだろうか。
もに丹波国余社から播磨に逃れ、丹波小子と名を改めて縮見屯倉首すなわち忍
て
、
﹃古事記﹄に同じく中央で編纂された﹃日本書紀﹄は、さらに古代筒埴を
海草厄細目に仕えたという(喜その後忍海草庖細目の新室の宴で二皇子が自ら
利用した交易の盛んなさまを描くことにおいて、より鮮明に律令国家の姿を浮
き彫りにしようとしているのであった。
要市
へと注ぎこんでいる。ここに瀬戸内海と山代を結ぶ宇治川・淀川水系が浮かび
卒京
コ
ζ
汚、
通
る
n一
、。
れるのは当然だとしても、酒の美味さをいうのに餌香の市でも買えないほどだ
差2
上がって見えてくるだろう。
Y
とするその価値基準は一体どこからくるのか。
は丈
おそらく当時はそのよ?な河川を利用した水路が発達していて、淀川から瀬
壊当
怪
戸内海へと抜け播屠へと向かう水路は古代の幹線路であった。ヤマトと播磨を
~も
衝であり、多くの物資が集まりにぎわっていた。美味い酒とは市で取引される
事芦
の身分を明かすことは、冨磨国風土記﹄や﹃古事記﹄に同じである。
ただここで不思議に思うことは、新室の古河ぎとしてその家の繁栄を願った次
に、宴でふるまわれた酒を誉める駄の中で、
-30一
2
晴
ば
h
代電坦を整備させたのだと想像する。中央の視座を持つ﹃古事記﹄であればこ
結ぶ道とはすなわち租税を運ぶ道でもあって、そのような律令国家の要請が古
笠智
ものであり、そのように発達した物流や経済がこの言葉の背景にはあるのだろ
控け
そ、幹線路を意識した逃避ルl卜を記したのであり、それは冨磨国風土記﹄
主持
う。どフやら﹃日本書紀﹄には、古代街道を利用して行われていた交易を描こ
知育
との大きな違いでもある。
の
中お
でそ
もら
ヤく
マこ
トこ
とに
大は
3播磨の開墾
で萩原といわれるようになり、少足命という神を把ったという。
井戸ははじめ土地を開墾するためにひらかれ大地を潤すものであったが、開
墾した固から多くの収穫を得たならば、ムユ度はその清らかな水を用いて酒が醸
新墾の
据稲を﹂と出雲という地名が登場する。ここでいう出雲とは隣国としての出雲
された。酒は豊な実りの象徴であり、それを神に篠げて大地の恵みを感謝する
﹁出雲は
を指すのではなく、﹃播屠国風土記﹄飾磨郡飾磨御宅条にあるように、応神天
5 米春女たちが従者に陰部を断たれたというのも、豊能を祝
祭記は始まった (可
ところで先に挙げた﹃日本金品﹄の歌の中に、
皇の御代朝廷の使いを水手として使った罪により出雲国造が命じられて開拓
豊鏡は約束され、酒船が傾くほど豊鰻な実りは再ひ大地の神に機げられた。
ってもたらされた開墾技術であった。播磨には多くの渡来人が移り住んだ出跡
そしてそのような豊能を可能にしたのは、緯清水とあるように、渡米人によ
揖保郡萩原の里では、神功皇后新経征伐の折立ち寄った村で一晩のうちに萩
がある。飾磨郡韓室の里は韓室首賓が韓室を造ったことから名付けられ、草上
は韓人山村の祖が田を開いた時に一叢の草の根、が臭かったことによる地名だ
おそらく韓半島の伽耶の地から人々が移り住んできたゆえの名であろう。新良
という。賀野の里という名も蚊屋を張ったことに因むとされてはいるけれど、
て聞かれた井戸、が見え、同郡石海の里にはその地に生えた百枝の稲を阿曇連百
訓にしても新羅から来朝した人々がその村に宿ったからである。揖保郡大田の
里は、呉の騰が緯国から紀伊、摂津国大田を経てこの地に移住してきたので名
付けられたとされ、揖保郡少宅の里にも漢人が渡来したことが伝えられている。
飾磨郡手苅圧では地名起源諦の具伝として﹁韓人等始めて来たりし時、鎌を用
ゐることを識らず。但、手以て稲を苅りき。﹂と、韓人が始めてここに来た時
ることを知らなかった韓人が素手で刈っていたと解されるのだが、おそらく
には鎌を用いず手で稲を刈っていたと語られる。 一般的にこの話は、鎌を用い
その伝承に日く、増の水が溢れた井を韓清水と名付け、その水は汲めども汲
の地の人々はまだ手で刈っていたと解すべきであって、韓人こそ、が鎌をこの地
﹁韓人等始めて来たりし時﹂というのは時を示す言葉であり、韓人が来た時そ
困、米春女が陰部を絶ったので陰絶固というようになった。萩が多く生えたの
みつくすことがなかったのでそこに酒殿を造り、酒を醸す酒船が傾いたので傾
続けて語られている。
神に捧げられた。そのような祭-組の様子が、萩原の里のくだりで国号起源請に
開墾されていったのであり、やがてその開墾地から収響。れた米は酒に醸され
に酒殿を造ったという。米どころとして今も名高い播州平野はこのようにして
れたとある。続く酒井野の伝承では、応神天皇の時に井を開いて開墾し、ここ
足が孝徳天皇に献上したところ、同族の太牟がその地を開墾するために派事c
4
0揖保型自生山にも応神天皇によっ
に掘られた井戸、が針間井の語源であった(
の針聞の﹁ハリ﹂とは萩のことではなく﹁懇﹂のことであって、開墾するため
が成長し、それ放そこに掘った井戸を針間井と名付けたと語られるのだが、そ
るに違いなく、﹃揺磨国風土記﹄には実に多くの開墾伝承が残されている。
ることができた。美味い酒を語る背後には、新しく開墾された回が存在してい
いさらなる恵みを予祝するための呪術なのだろう。神を祭把することで別立年の
十
した出雲回のことであって、そのようにして拓かれた田からは多くの実りを得
新
墾
。
。
にもたらしたのではなかったか。このように韓半島から新しい開墾の紫術を持
0日野川を琵琶湖の方へ下った平野
て農民、が借問したのがはじまりだという3
神社の﹁マミオカ﹂もまた﹁真水岡﹂の意で、岡から渉み出る真水を水神とし
にある式内菅田神社(蒲生郡)は、菅の生えていたところを開拓したので菅田
ち込んだ人々の姿を、富磨国風土記﹄のうちに見向だせるのである。
韓半島からもたらされた進んだ開墾技術、実はそれを端的に示している言葉
,-rル、
と名付けられ、その祭神は天目一箇神という鉄神であった(喜この湿地帯に記
f
、が富磨国風土記﹄のオケ・ヲケ伝承の中にもあった。新室の宴でヲケ皇子が
拘要
られる鉄神は、鉄製農具がその地を開墾し豊かな大地へと変えた何よりの証拠
?の
正 1
:
:
田打つ如す手拍て子等 吾は
たる
長5
磁で
kゑ
そ l
宅
もそ
そこ
要な製鉄材縞のことであった。
また、雄略紀で天皇に蚊屋野での狩猟を勧めた狭狭城山君韓袋とは、孝元記
に大彦王の末商として登場し、蒲生の山林と原野を管理する豪族であった。紫
績によって褒賞をうけ、配下に木工集団を保持していたらしい︻日可古代におい
香套呂周辺の山林火災に際して消火のため山林を伐採した人物であり、その功
このように考えてくると、オケ・ヲケ伝承とは﹁鉄﹂をめぐる物語であった
て山の管理とはすなわち薪の管理でもあって、必ずや製鉄と結びついているの
4﹁舎をめぐる物語
ことに気付かされる。父の市辺皇子が殺害された近江国擢綿野は、鉄を産する
であれば、ここにも暗号のように﹁鉄﹂は埋め込まれている。オケ・ヲケ伝承
野のことで、
の﹁ヤ﹂はアイヌ語の﹁ヤ﹂や東国方言の﹁ヤツ﹂
らく﹁カヤ﹂とは湿地のことをいうのであろう。その地にある式内綿向馬見岡
、おそ
﹁ヤチ﹂にあたり (7)
﹁イサ﹂とはむしろ細かいことの意に過者守、本来は砂鉄のことをい
うのではなかろうか。
しかし、
さらに興味深いことには、 ﹃日本書紀﹄において二皇子が逃れた与謝の地も
は、その物語のはじめから﹁鉄﹂の存在を通泰低音として奏でていたのである。
住
うたった﹁たらちし 吉備の繊の 狭鍬持ち
i事
主
傑ひせむ﹂という歌がそれである。何故ここで手拍子をうつことが田を打つこ
とに響えられ、﹁吉備の織の狭鍬﹂がうたわれたのか。それは進んだ開墾技術
て地
の﹁カヤ﹂という言葉自身、韓警島の伽耶を暗示しているのだろう。蒲生郡に
主?
里
子
z
合そ
主選
を象徴するもの、が鍬などの鉄製農具であったからに他ならない。渡来人によっ
将の
は百済人の古跡百済寺もある宅
来か
てもたらされた最新の開墾技術とは鉄製農具のことであり、その農具作成に必
んで
くから渡来人が多く住む地であり、近世では市がたつような交通の要爾で日野
は
古
また﹁鉄﹂と無関係ではなかった。与謝は丹後国のほぼ申上央に位置し、東部と
そ
の
日
野
と
商人が活躍していた3。あるいは記紀にいう蚊屋野とは滋賀県日野町鎌掛の荒
さ
れ
北部は若狭消に臨んでいる。与謝は古くは﹁ヨザ﹂といい﹁イサ(砂子)﹂か
比
定
﹁カヤ﹂という地名は鹿屋、賀野、賀夜、蚊屋、賀陽とも書き、
の
滋
賀
県
蒲
生
郡
日
野
町
西
明
寺
らの転で海湾を指したが、広及して陸地のことまで呼ぶようになったというロ可
ム
寸
-32一
では
いな
土地であった。
里
子
は
量
綿
備中園、大隅国、伯者園、但馬国、播磨固などに見えるらしい。 その ﹁
カ
ヤ
﹂
近
江
mv。まさに﹁カヤ﹂の地には進んだ鉄文化があったのであり、それを裏付ける
あって、その地に郡内の式内社は集中し、郡内唯一の勾金駅も比定されている
られ、全長一四五メートルにも及ぶ巨大古墳があるのは野田川流域の加悦町で
と関わっていたことを示している。与謝郡の中でも縄文や弥生の遺跡が多く見
例えば今もその地に残されている金屋や金山、勾金という地名は、そこが﹁鉄﹂
吹男受寸云温江峠ヲ吹尾越亦吹尾峠ト云又旧記ニ岩溜内有風気云々併調
考ルニ小田村ノ内字富久ト云地ノ神社是ナルベシ或書ニ布甲神社ハ天之
事疑ナシサレド寺ハ廃絶シハ円散セル時神社モ何地ヘカ遷セシナリ今之ヲ
普甲峠ノ中間一一普甲寺ノ跡ア ηノ夫ヨリ少シ隔リテ鳥居アリ普甲神社ナル
にも詳しく、﹁丹後式内神社考﹂からの引用として次のように述べている U。
また布甲神社に関しては、明治時代に編纂された﹃丹後国式内神社取調書﹄
風穴云々トアルヲ考フルニ吹尾峠ハ普甲峠ノ旧名ナルをフカウト呼ナラ
ような伝承が、式内布甲神社に残されているヨ
AK社定ならず又
J
ン布甲ト書ルナラン富久ノ地ニアル社士白来妙見宮ト称シテ太シキ古社
普甲山 延喜式神名帳に奥佐郡布甲神社と云を載たり
元亨釈書に普甲寺と云ふ伽一疫去何て慈雲と云ふ高僧の住けるよし此故に普
所在地不明とされていた布甲神社は、ここでは峠を下ったところにある小田
(﹃丹後国式内神社取調書﹄)
より南麓内宮村迄廿四里あり山陰道往来の大道なり夫より峯まで二里此
村字金山の富久能神社ではないかとされており、その金山にはかつて金鉱があ
甲山と呼ぶ:中略:・天橋記に此山を奥佐の大山といふ名所と記せり帝都
(﹃丹後旧事記﹄)
釈舎がいうには普甲寺がこの地にあったので普甲山と呼ばれるようになった。
布甲神社は延喜式内社であるが、どこにあったのかその所在地は不明、元亨
に風が﹁吹く﹂ことから名づけられたのだろう。そしてその風が何に役立つの
ノカミ)であれば普甲峠とはおそらく﹁吹尾峠﹂のことで、﹁フコウ﹂とは峠
ったと人々の聞に伝えられている宅神社の祭神、が天之吹男神(アメノフキオ
聞に二瀬川あり左の方に千丈ケ撤鬼の窟あり:・
その山とは大江山のことであり、その麓を山陰道が通っていて、山頂までの間
かといえば輔の風すなわち製鉄であり、﹁フク﹂とは鉄券}吹くことでもあった。
需
白
駅抗
告国
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:
n
:
;
々
出向
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人邑
:
L'
[
極主
主5
h響
観主
警官
郡加悦町)から丹後国府(宮津市) へと到る丹後支路、があったといヨ宅
1
9
推古天皇の時、当国河守荘三上ケ岳に英胡、迦楼夜叉、土熊という三鬼を
魁首として悪鬼多く集りて人民を害す、帝麻呂子親王に命じて之を征伐
せしむ、:・中略:・三鬼の内土熊鬼をば末世の証にとて岩窟に封じこめ玉
-33一
ナ
リ
に千丈ケ織という鬼の窟はあった。
し馬
﹁フク﹂とは峠に風が吹くという地形を指すとともに、製鉄に関わる言葉でも
てか
ここで古代山陰道について触れておくと、古代の山陰道は京都の大枝駅から
と但
あったのである。そしてその天之吹男神が鉄神であったからこそ、その後この
金亡
西に進み、野口駅(京都府船井郡園部町)、小野駅(兵庫県多紀郡多紀町)、
℃て
地に鬼伝承は生まれた。 ﹃宮津府志﹄収録の﹁医王山成願寺薬師縁起﹂に日く
従号
島町)、前波駅(京都府福知山市小田)を通り、与謝峠を越えて勾金駅(与謝
詞宅
長柄駅(同郡篠山町郡家)を経て星角駅(氷上郡氷上町)、佐治駅(同郡青垣
一町
方 )
且を
れた漢人の製鉄紫愈但の子孫であった。﹃続日本紀﹄養老六年(七二二)一二月
が仕えた志深の村の首宮守尾とは、まさに新羅の踊輔津より忍海に連れてこら
という。人民に害をなしていた三鬼は麻呂子親王によって征伐され、そのうち
七日条によれば、緯鍛冶の技術は伊賀、伊勢、近江、丹波、播磨、紀伊などに
(﹃宮津府志﹄)
の土熊を末世の証として岩窟に封じこめた(宅まさに﹃御伽草子﹄に伝わる大
広がっていたらしく、美嚢にも古くから製鉄技霊台集団が住んでいた。延暦八
ふ、これ今の鬼が窟なり。
江山の酒呑童子はこの伝承の変奏であり、この地には脈々と鬼伝承が伝えられ
このようにオケ・ヲケ皇子が逃れた美嚢もまた﹁鉄﹂と深く結びついていた。
年(七八九)十二月八日条を見ると、美嚢郡大領正六位下韓鍛首広富が稲六万
き。﹂とあるのも与、玖賀耳之御並という鬼、すなわち鉄文化を持った人々を
近江、丹後、播磨という﹁鉄﹂をめぐる一筋の道がオケ・ヲケ伝承には語られ
ていた。 ﹃古事記﹄崇神天皇条に、大毘古命を高志道に遣わして平定させたと
平定した物語なのかもしれない。いずれにせよ製鉄技術を持っていた人々が、
ていたのであり、その鉄の農具によって開墾されことが新室の宴にうたわれて
束を水児船瀬に献じて外従五位下を授けられている。
やがて鬼として描かれるようになったのであり、与謝もまた古来鉄を産すると
いたのである。
ある次に﹁日子坐王をば、旦波国に遣はして、玖賀耳之御笠を殺さしめたまひ
ころであったのである。
清寧紀に﹁明石郡の縮見首﹂とあるように、古く美嚢は明石の一部をなしてい
そしてその開墾の背後には、中央の支配があったことも忘れてはならない。
5美嚢の風土
たと思われる唱。とはいうものの美嚢は地理的にも考古学の遺物から考えて
あくまでも行政的に明石に含まれていたのであって、それは古代の政治権力の
も加古川流域に属しており、それにもかかわらず明石であったということは、
ここで再び播磨について見てみよう。播磨国美麗とはどのような土地であっ
たのか。
富磨国風土記﹄によれば、美嚢という名は履中天皇が訪れた際、川の流れ
崖(ナ、ギ)の意など様々にいわれているが 空おそらく滑らかなことが原義で
古代畿内と呼ばれる地域は﹃日本書紀﹄改新の詔に﹁およそ畿内とは、東は
ではどのような政治的な印公訟があって、美嚢は明石に属していたのだろう。
反映であった︻宅。
あって水量豊かな水辺を指すのだろう。その水辺は開墾されて農耕に適した沃
名墾の横河より以来、南は紀伊の兄山より以来、西は赤石の櫛淵より以来、北
が美しいと発した言葉によるという。﹁ミナギ﹂の誼凹源は水清の約、水辺の転、
土になったと想像する。志染の地名も﹁シチシ、、こからの転音で、清らかな(シ
は狭狭波の合坂山より以来を、構内固とす﹂とあるように、商は明石までであ
A
チシ)水(ミ)に恵まれた土地をいうのであれば空美嚢しろ志染にしろ、そ
った。つまり明石であるということは畿内であるということであって、大和朝
廷の管轄下に置かれていたことを意味している。美嚢は播磨国でありながら中
れは湿地を思わせる地名であった。
その水辺の開墾に不可欠なものが欽端であり波米の製鉄持術であり、二皇子
3
4ー
まい。それは天孫降臨に繋がるような神話の時聞を語っているのではないか。
﹁天より降る﹂は﹁神が天より降った時﹂室回議した表現であって、ここで重
﹁針聞の
園の山門の領に遣されし山部連少楯﹂によって奏上されていたではなかったか。
要なのは天より降った神申身ではなくそのょっな時間以目識であり、古くからそ
央に属していたのであり、そういえばオケ・ヲケ皇子発見の朗報は、
﹁張聞の闘の山門﹂とは播磨の大和朝廷の御料地であり、そこに遣わされた
の地が中央によって支配されていたことを示しているのだろう。決して中央の
でか
あな
る7.K
と l
こ
は忠
少楯はその御料地を統括していた。記紀では﹁播磨国司(国之宰)﹂という官
し叙
7
1
豊甲
府豊
支配は、冨磨国風土記﹄美嚢郡志染里三坂条に﹁三坂に坐す神は、八戸控須
つまり天皇による命名とは中央による支配の別名であって、そのような中央
背後にはそのような技術をもたらした人々の姿がある。それはまさに﹁交易﹂
た。古代において開墾扶術とは進んだ製鉄技術のことでもあって、開墾伝承の
は人の手が加わらなければならず、それには濯献などの開墾員術が必要とされ
伝承は二皇子が逃れて行った場所のみを語っている。近江、山代、淀川、播
御室命なり。大物主葦原志許、国堅めましし以後、天より一一一坂の本に下りまし
すなわち大物主のことで、大物主が鎮座する大和三輪山を御諸山ということか
磨、あるいは、近江、与謝、播磨など、物語おいて逃避行は点としてしか示さ
と呼ばれるものであった。
ら名付けられたという宅その国作りの神が天から三坂に降ってきたのであり、
れない。しかしその点は、点として存在しているのではなく結ぼれるべき点で
オケ・ヲケ皇子の逃避行を、
富磨国風土記﹄ ﹃古事記﹄ ﹃日本書紀﹄とい
ら面としての広がりを持ち始め、その土地の風土を濃厚に映し出してもいた。
しかもその神が三輪山の神と同神であるとすれば、ここには記紀神話に繋がる
﹃風土記﹄全体を見渡してもそう多く
あり、線となって一筋の道を浮き彫りにした。さらにその線は時に交差しなが
﹃播磨国風土記﹄では唯一、
世界観がある。
しかし、
はない﹁天降る神﹂の伝承は、天つ神の降臨そのものを語っているのではある
-35一
メ
、
視点では語らない﹃播磨国風土記﹄にあって中央の時間意識を語るということ
え 2
し
ど
、干
職名が明記されている小楯は山部建の先祖にあたり、二皇子発見の功によって
と預
は、播磨国あって畿内圏に属するということであり、そのような伝識が矯磨国
土:t?
連姓を賜った。山部連とは山林の管理や産物を貢納する山部を管掌し、山林の
沃な
美嚢郡にはあったのである。
しろ
水で
量あ
刀
ミ
k
産物を母フことから天皇の食事に関わるようになり、さらに天皇側近の警護に
メ
",
.
当たるようになって軍事的な性格をも有したという宅
元も
このように美嚢は古くから中央と近い関係にあった。それは美嚢という名が
l
こは
適
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天皇によって名付けられたことにもうかがえるだろう。二皇子が発見された志
染の地名もまた、飯箱にのぼってきたしじみ貝を見た履中天皇の言葉に因んで
のす
地播
を州
稲平
作聖子
いえ湿地帯のままであれば、それは沃土とは呼ばれない。それが沃土となるに
がた
こら
き。﹂とあることにも示されている。この八戸控須御室命とは大物主葦原志許
名付けられている。
f
警
とも
む
す
び
ま
れ豊
するばかりでなく、それら三つの特徴を兼ね合わせた播磨国美嚢の風土が見え
う三つの書物を視野に入れて考えてみると、それぞれの書物の特徴を明らかに
って美嚢の風土となったのではなかろうか。
ヲケ・オケ皇子の箆りにはアマテラスの天石屋戸籍りの幻想があり、それが翻
この書物の特色ではある。しかし古くから中央に属していた美嚢であればこそ、
︻
注
︼
(明治大学経営学部兼任講師・日本文学)
てくる。 ﹃日本書紀﹄のヲケ・オケ皇子逃避行に注目すると、近江から丹後を
経て矯磨へと繋がる﹁鉄﹂をめぐる道が見えてきた。その道は、縄文弥生の遺
ノが移動していく﹁交易﹂の道でもあった。勿論その地域間で直接モノの取引
(
1
)秋本士鼠校注﹃風土記﹄(日本古典文学大系・岩波書居、 一九五八年)の
跡や古墳の分布、渡来人の居住地とも重なっており、古くから人々が往来しモ
や技術の伝播があったとまではいわない。本州で最も海抜の低い分水嶺である
注による。また、手白髪命は記紀ではオケ皇子の皇女、豊皇女は紀では姉
(
2
)現在樺井神社は水主神社に合冊されている。
氷上郡の水別れは争、由良川水系と加古川水系の結節点であるけれど、そこに
甘口道として辿ることはできないからである。しかし、まさにそれはオケ・ヲケ
(
3
)ここでいう童とは年齢が若いこというのではなく、寺役所などの従僕や草
とされている。
皇子の逃避行路と重一なっているのであれば、古代人はそのよ?な日本海と瀬戸
刈りなど雑役に使われる子どものことで、火たきの童に同じく異形の力を
(
6
)豆江日野の歴星第一巻・日野町史編纂委員会、二OO五年
-36-
おいて日本海と瀬戸内海の水棲動物が行きかうという地形的な特徴を律令の
内海を繋ぐ水系の存在を知っていたのではなかろうか。時代は下るが貞観八年
(
4
)
(
1
)に同じ。
もつ者の意である。
住していることは、美嚢と近江の聞に交流があったことを示しているだろう。
(
5
)少足命とは系譜不明の神であるが、神功皇后を﹁大足(オオタラシ)﹂と
(八六六)四月に賀古・美嚢の夷伴長五人が定められた境界を越えて近江に来
ヲケ皇子の歌に餌香の市という市がうたわれているのは、それが﹁交易﹂の道
いうことに対する神名とする説
に同じて ﹁ヲダリ﹂と読んで﹁小
であった証である。ォヶ・ヲケ皇子の逃避行は、そのような日本海と瀬戸内海
場﹂の意だとする説があるように(井上通泰﹃播磨国風土記霊勾﹄臨川書
((1)
を繋ぐ水系に支えられた物語であったのである。
た。天より降ってきた八戸控須御室命の伝承は、古くから中央に属していたこ
神
で
あ
(
7
)﹃地名語源辞車東京堂出版、一九八一年
また﹁交易﹂の道を往来したのはモノや人のみならず、伝承や思想でもあっ
i
家
とを示していたと思われる。 喜磨国風土記﹄のヲケ・オケ皇子伝承には中央
皇
(
8
)志賀剛﹃式内社の研究﹄第七巻・雄山閣、 一九八四年
お
そ
との結びつきを語るようなものは希薄であり、撞磨で飽り再生した王、播磨が
年
(
9
)
(
8
)に同じ。
九
生み出した主として一一息子は拙かれている。在地に慢。した伝承を語ることが
庖
に同じ。
)(6)
(叩)吉田束伍﹃大日本地名辞書﹄富山一房、 一九五八年
(
日
(四)(叩)に閉じ。
(日)﹃古代地名辞些角川書府、一九九九年
(H)﹃式内社調査報告﹄国山陰道(皇皐館大皐出版部、一九八四年)からの引
(
沼
(
お
﹁美壷(ミツボ)﹂といったことから﹁美嚢(ミノワ)﹂
に同じ。また一説では、君が峰で神功皇后が休憩した時に査に入れた
)(7)
酒が献上され、
となったという。
に同じ。縮見と書くことから狭く縮んだよろな土地をいうとする説も
)(7)
ある。
(担
同じ。
用。因みに﹃丹後旧事記﹄とは、天明年間(一七八一 1八九)に其白堂が
(お) 守末市史﹄三杢巾役所、一九七O年
(釘
あることからミムロ(御諸)にかかるという。
)(1)
に同じ。ヤトカカスは多くの戸を掛けるとい フ
w 意で、構築する意でも
(部)(部)に同じ。
ω
)
)小松国康が手を加えたものである。
まとめたものに、文化七年(一八一 O
(日)路間謙二郎編﹃古代日本の交通路﹄ E・大明堂、一九七八年/奥谷高史﹃丹
波の十品﹄綜芸舎二九八O年/﹃宮津市芭通史編上巻・宮塗巾役所
二OO喝一年/﹃大江町誌﹄通史編上巻・大江町編-一九八三年
(却)日本列島を南北に縦断するように走る中央分水界は、太平洋側と日本海側
本州一低い氷上郡の分水嶺はわずか九四・四五 mしかなく、加古川水 治
T文
(国)(日)に同じ。また、国の{旦暗記である丹後支路とは別に、福知山市大江町の
があり、毛原金山聞は元普甲道と呼ばれていた。元普甲道は江戸時代に今
流の高谷川は水分かれで分岐して由良川水系を経て日本海へと注いでお
の境界でもあり、その境界線を隔てて気候や動植物の生態も異なっている。
普市道(宮津街道)が整備されるまで古代から中世における大江山越えの
り、太平洋側と日本海側の区別が明確ではないという。江戸期には加古川
河守、内宮、毛原、宮津市の辛皮、寺屋敷、金山を経て丹後国府へ到る道
主要電坦であったらしく、途中寺屋敷には北の高野山とも呼ばれた普同寺
水系と由良川水系とを運河で繋マ計画もあったらしく、この加古川と由良
︻参考文献︼
一九八九年
川を一結ぶ道は現在来上図版印と名づけられている。
があり、元普甲道はこの寺への参詣道も兼ねていたという。
(口)永一演宇平編﹃丹後史益事﹄玉・名著出版、一九二七年
(凶)﹃宮津府志・宮津奮記﹄世界聖典刊行協会、一九七九年
西側呼信綱﹃古事記注釈﹄第四巻・平凡社、
(国)﹃宮津市誌﹄通史編よ巻・宮塗巾役所、二OO二年
(却)書物によっては迦楼夜叉を軽足、土熊を土車とする。
谷川健一編﹃日本の神々﹄
志賀剛﹃式内社の研歪第四巻山陰道編・雄山閣、 一九八一年
(2・5 ・7巻)白水社、二OOO年
(剖)﹃丹後風土記残故﹄には地名由来語と結びついた日子坐王伝承が伝えられ
ている。
-37一
﹃式内社調査報告﹄沼山陽道・皇学館大拳出版部、一九八O年
﹃近江田野町車臨川書庖、一九二五年
﹃輿謝郡誌﹄名著出版、一九七一年
﹃古代地名大辞典﹄角川書居、一九九九年
-38一