②日本武尊とは

5/23/2015 9:58 AM
k.i
「日本武尊東征のみち古東海道を歩く」ガイド資料
おうすのみこと
(1)日本武尊(西征以前は小碓 命 )とは
やまと
倭は
国のまほろば
たたなづく
やまこも
*古事記での表記は倭建命
大和は国の中でもっとも秀でている所である。
青垣
山々が重なりあって青い垣根のようだ。
やまと
山籠れる
倭 しうるわし
山々に囲まれている大和の国はほんとうに美しい。
詠み人:日本武尊
き
き
(2)記紀の系譜
記紀とは:古事記(712)と日本書紀(720)の両方を指す。
[古事記(執筆:太安万侶)の系譜]
くしつぬわけのみこ
櫛角 別 王
おおうすのみこと
大碓 命
すいにんてんのう
けいこうてんのう
垂仁天皇
景行天皇
小碓命(おうすのみこと)
わかたけ き
び
つ
ひ
こ
いなびのおおいらつめ
若建吉備津日子
伊那毘大郎女
やまと ね こ の みこと
倭 根子 命
いなびのわかいらつめ
伊那毗若郎女
かみくしのみこ
神櫛王
[日本書紀(執筆:舎人親王ほか)の系譜]
大碓尊
垂仁天皇
景行天皇
小碓尊(おうすのみこと)
いなびのおおいらつひめ
稲日 大 郎 姫
やまと ね
こ おおじ
倭 根子皇子
けいこうてんのう
(3)記紀の共通点
⇒
第12代景行天皇の息子である
景行天皇は西暦71年から131年頃の在位と推察される。
ちゅうあいてんのう
(また、日本武尊は14代 仲 哀 天皇の父と伝わる)
おうすのみこと
系譜にあるように、古事記では小碓 命 と称し時代は西暦100年前後の時代。
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日本武尊(小碓命)という人物は、西は熊襲(くまそ)の征伐に赴き、東は蝦夷(えみし)
を征伐するという、
戦いの皇族将軍として描かれている。まさしく戦いで東奔西走する生涯である。
「日本書紀」によると、小碓命が熊襲征伐に出掛けるのは、年まだ若き16才の時としている。
ではなぜ、小碓尊が熊襲征伐に向かわなければならなかったか?
おお みけ
「古事記」によると、景行天皇が小碓命に「どうして、お前の兄である大碓命は、朝夕の大御食
(食事会)に出てこないのか? お前が引受けて教え申せ」と詔(みことのり)した。
しかし、5日たっても、やはり大碓命は参上しなかった。そこで天皇が小碓命に「なぜ、ま
だ出てこないのか? まだ教え諭していないのか?」と問うたところ、小碓命は「もう教えま
した」と申した。
不思議に思った天皇は、「どのように教えたのか?」と尋ねると、「兄が朝早く厠に入った時
に待っていて、つかみひしいて、手足を折り、弧もに包んで投げ捨ててしまいました」と答え
た。 それを聞いて天皇は小碓命の乱暴な心を恐れて、
「西の方に熊襲建という2人の兄弟が居
る。これが服従しない無礼な奴であるから、その無礼な奴どもを殺せ」と小碓命に命じたとい
うのである。
尊は年16才で西は九州の熊襲兄弟の征討に赴き、美少女に扮して兄弟を倒し、その後まも
なく年30才くらいで東の蝦夷の平定を終えて、その帰り道で波瀾の生涯をとじ、悲劇の英雄
として受け入れられてきた神秘の皇族将軍です。
(4)「たける(名前の建・武などは全て“たける”に通じる)号」とは
”
昔、“たける”の称号を名乗っているものはかなりある。
その中でも特徴的な三つのタイプがある。
先ず第一は、古代前期の地方首長で、“たける(建)”を称するものである。
第二は、日本武尊や雄略天皇のように皇族将軍または軍の総師としての天皇や太子で、
“たけ
る”を名乗るものである。
第三は、比較的新しく中央の政界に登場した蘇我氏や阿倍氏などのように、軍事について注
目すべき行動をとった氏族の始祖たちに名づけられているものである。
第一の地方首長やその祖先でこの称をもつものの代表例は吉備氏である。
わかたけひこ
稚 武 彦 (2世紀卑弥呼の時代)・吉備武彦(景行天皇紀)などの場合であり、
古代前期にあっては、ヤマトの勢力に対抗した事実もあった。
く ま そ
”
更に、熊襲や出雲の“たける”である。
”
く ま そ
や そ たけ る
かわかみたけ る
熊襲地方の首長を“たける”と呼んだことは、熊襲八十 梟 帥・川上梟帥が最も有名である。
くまそ たける
古事記では熊曽 建 と明確に記している。
第二の皇族将軍では、小碓命が“たける”であるが、21代雄略天皇も諡号(おくりな)の
やまと
中に持っている。特に小碓命が熊襲を平定する際、熊襲首長から服従のしるしとして、真の 倭
の勇者として「日本武尊」という“たたえ名”が奉上された。
第三の比較的に新しい中では、阿倍氏の祖先の中の建沼河分命や蘇我氏の祖先系譜で最も著
名な建内宿禰(たけしうちのすくね)である。
やがて建内宿禰の後裔とする氏族が奈良盆地に拠点を持ち、その中の蘇我氏が台頭して蘇我
えみし
いる か
蝦夷・蘇我入鹿のころは私設軍団を持つ天皇家を凌ぐ勢力に発展したが645年「乙巳(い
っし)の変」で制される。
これらの例のように、
“たける”の称号はすべてで軍事につながりがあった事になる。更には、
長い歴史の中では建部を称する神社や村、氏、戸は、古代の文献にかなりの数が見えている。
これらの記述は古事記や日本書紀には限らず、各地の風土記にも記述されているが、それは
古事記より前の記述もあるが、多くは古事記の後が多いようだ。
中でも古事記は日本最古の文章で、全てが漢字のみで記されており、長い年月が経つにつれ
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て解読不能となり、編さんから1050年も経った江戸時代中期に、本居宣長に解き明かさ
れるまで解読出来ずに一般的ではなかった。
(5)古事記と日本書紀との記述の比較
*wikipedia より写し
物語
『古事記』と『日本書紀』の説話は、大筋は同じだが、主人公の性格や説話の捉え方や
全体の雰囲気に大きな差がある。ここでは浪漫的要素が強く、主人公や父天皇の人間関
係から来る悲劇性が濃い『古事記』の説話を中心に述べる。概ね、『日本書紀』の方が
天皇賛美の傾向が強く、天皇に従属的である(『日本書紀』の説話は、『古事記』との
相違点のみを示す)。
a)西征(九州へ熊襲討伐)
斎王(さいおう)…それは、天皇に代わって伊勢神宮の天照大
神に仕えるために選ばれた、未婚の皇族女性のことである。
ヤマトタケル(月岡芳年画)
古事記
父の寵妃を奪った兄大碓命(おおうすのみこと)に対する
父天皇の命令の解釈の違いから、小碓命(おうすのみこと)
は素手で兄をつまみ殺してしまう。そのため小碓命は父に
恐れられ、疎まれて、九州の熊襲建(くまそたける)兄弟
の討伐を命じられる。わずかな従者しか与えられなかった
小碓命は、まず叔母の倭比売命(やまとひめのみこと)が
斎王を勤めた伊勢へ赴き女性の衣装を授けられる。このと
き彼は、いまだ少年の髪形を結う年頃であった。
日本書紀
兄殺しの話はなく、父天皇が平定した九州地方で再び叛乱
が起き、16 歳の小碓命を討伐に遣わしたとあり、倭姫の登
場もなく、従者も与えられている。
先代旧事本紀
(景行天皇)二十年(中略)冬十月 遣日本武尊 令擊熊襲 時
年十六
按日本紀 當作二十七年とあるのみ。
古事記
九州に入った小碓命は、熊襲建の新室の宴に美少女に変装して忍び込み、宴たけなわの
頃にまず兄建を斬り、続いて弟建に刃を突き立てた。誅伐された弟建は死に臨み、その
武勇を嘆賞し、自らをヤマトヲグナと名乗る小碓命に譲って倭建(ヤマトタケル)の号
を献じた。
日本書紀
熊襲の首長が川上梟帥〈タケル〉一人とされる点と、台詞が『古事記』のものよりも天
皇家に従属的な点を除けば、ほぼ同じ。ヤマトタケルノミコトは日本武尊と表記。
古事記
その後、倭建命(やまとたけるのみこと)は出雲に入り、出雲建(いずもたける)と親
交を結ぶ。しかし、ある日、出雲建の太刀を偽物と交換して太刀あわせを申し込み、殺
してしまう。
日本書紀
崇神天皇の条に出雲振根(いずものふるね)と弟の飯入根(いいのいりね)の物語とし
て、酷似した話があるが、日本武尊の話としては出雲は全く登場しない。熊襲討伐後は
吉備や難波の邪神を退治して、水陸の道を開き、天皇の賞賛と寵愛を受ける。
b)東征(蝦夷征伐)
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古事記
西方の蛮族の討伐から帰るとすぐに、景行天皇は重ねて東方の蛮族の討伐を命じる。倭
建命は再び倭比売命を訪ね、父天皇は自分に死ねと思っておられるのか、と嘆く。倭比
売命は日本武尊に伊勢神宮にあった神剣、草那芸剣(くさなぎのつるぎ)と袋とを与え、
「危急の時にはこれを開けなさい」と言う。
日本書紀
当初、東征の将軍に選ばれた大碓命は怖気づいて逃げてしまい、かわりに日本武尊が立
候補する。天皇は最大の賛辞と皇位継承の約束を与え、吉備氏や大伴部氏をつけて出発
させる。日本武尊は伊勢で倭姫命より草薙剣を賜る。
最も差異の大きい部分である。
『日本書紀』では兄大碓命は存命で、意気地のない兄に代
わって日本武尊が自発的に征討におもむく。天皇の期待を集めて出発する日本武尊像は
栄光に満ち、『古事記』の涙にくれて旅立つ日本武尊像とは、イメージが大きく異なる。
古事記
日本武尊はまず尾張国造家(おわりくにつくりけ)に入り、美夜受比売(みやずひめ=
宮簀媛)と婚約をして東国へ赴く。
日本書紀
対応する話はない。
ヤマトタケル(歌川国芳画)
古事記
あざむ
相模の国で、国造に荒ぶる神がいると 欺 かれた倭建命は、野
中で火攻めに遭う。そこで叔母から貰った袋を開けると火打石
が入っていたので、草那芸剣で草を刈り掃い、迎え火を点けて
逆に敵を焼き尽くす。それで、そこを焼遣(やきづ=焼津)と
いう。
日本書紀
駿河が舞台だが大筋はほぼ同じで、焼津の地名の起源を示す。
ただし、本文中では火打石で迎え火を付けるだけで、草薙剣で
草を掃う記述はない。注記で天叢雲剣が独りでに草を薙ぎ掃い、
草薙剣と名付けたと説明される。火打石を叔母に貰った記述は
ない。
古事記
相模から上総に渡る際、走水の海(横須賀市)の神が波を起こして日本武尊の船は進退
窮まった。そこで、后の弟橘比売(おとたちばなひめ)が自ら命(みこと)に替わって
入水すると、波は自ずから凪(な)いだ。入水の際に媛(ひめ)は火攻めに遭った時の
夫日本武尊の優しさを回想する歌を詠む。
原文: 佐泥佐斯 佐賀牟能袁怒邇 毛由流肥能 本那迦邇多知弖斗比斯岐美波母
読み下し: さねさし相模の小野に燃ゆる火の 火中に立ちて問ひし君はも
訳: 相模野の燃える火の中で、私を気遣って声をかけて下さったあなたよ……
弟橘比売は、日本武尊の思い出を胸に、幾重もの畳を波の上に引いて海に入るのである。
七日後、比売(ひめ)の櫛が対岸に流れ着いたので、御陵を造って、櫛を収めた。
日本書紀
「こんな小さな海など一跳びだ」と豪語した日本武尊が神の怒りをかったと記され、同
様に妾(めかけ)の弟橘媛の犠牲で難を免れたと記されるが、
和歌はない。
下の写真は「酒折宮(さかおりのみや)」に比定される可能性
のある現在の酒折宮(山梨県甲府市酒折)
古事記その後、日本武尊は、足柄坂(神奈川・静岡県境)の
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神を蒜(ひる=野生の葱・韮)で打ち殺し、東国を平定して、四阿嶺(あずまみね)に立ち、
そこから東国を望んで弟橘比売を思い出し、「吾妻はや」(わが妻よ……)と三度嘆いた。そこ
から東国をアヅマ(東・吾妻)と呼ぶようになったと言う。また甲斐国の酒折宮で連歌の発祥
とされる「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる」の歌を詠み、それに、「日々並べて(かがなべて)
夜には九夜 日には十日を」と下句を付けた火焚きの老人を東の国造に任じた。その後、科野(し
なの=長野県)を経て、日本武尊は尾張に入る。
日本書紀
ルートが大きく異なる。上総からさらに海路で北上し、北上川流域(宮城県)に至る。
陸奥平定後は『古事記』同様に、甲斐酒折宮へ入り、
「新治…」 を詠んだあと、武蔵(東
京都・埼玉県)、上野(群馬県)を巡って碓日坂(群馬・長野県境。現在の場所としては
碓氷峠説と鳥居峠説とがある)で、
「あづまは や……」と嘆く。ここで吉備武彦を越(北
陸方面)に遣わし、日本武尊自身は信濃(長野県)に入る。その信濃の坂の神を蒜で殺
し、越を周った吉備武彦と合流して、尾張に到る。
伊吹山頂の日本武尊像
古事記
尾張に入った日本武尊は、かねてより婚約していた美夜受
比売(みやずひめ)と歌を交わし、その際、媛が生理中な
のを知るが、そのまま結婚する。そして、伊勢の神剣、草
那芸剣を美夜受比売に預けたまま、伊吹山(岐阜・滋賀県
境)の神を素手で討ち取ろうと、出立する。
日本書紀
経血が詠まれた和歌はないが、宮簀媛(みやずひめ)との
結婚や、草薙剣を置いて、伊吹山の神を討ちに行くのは同様。
尾張国風土記
宮酢媛(みやずひめ)の屋敷の桑の木に、日本武命が剣を掛けたところ、剣が不思議に
光輝いて手にする事ができずに残して伊吹山に出掛けたとする。
古事記
素手で伊吹の神と対決しに行った日本武尊の前に、白い大猪が現れる。日本武尊はこれ
を神の使いだと無視をするが、実際は神の化身で、大氷雨を降らされ、命(みこと)は
失神する。山を降りた日本武尊は、居醒め(いざめ)の清水(山麓の関ケ原町また米原
市とも)で正気をやや取り戻すが、病の身となっていた。
弱った体で大和を目指して、当芸・杖衝坂(つえつきさか)
・尾津・三重村(岐阜南部か
ら三重北部)と進んで行く。地名起源説話を織り交ぜて、死に際の日本武尊の心情が描
かれる。そして、能煩野(のぼの:三重県亀山市〉に到った日本武尊は「倭(やまと)
は国のまほろば たたなづく青垣 山隠れる 倭し麗し」から、
「乙女の床のべに 我が
置きし 剣の大刀 その大刀はや」に至る 4 首の国偲び歌を詠って亡くなるのである。
日本書紀
日本武尊が伊吹の神の化身の大蛇をまたいで通ったため、神に氷を降らされ、意識が朦
朧としたまま下山する。居醒泉でようやく醒めた日本武尊だが、 病身となり、尾津から
能褒野(のぼの)へ到る。ここから伊勢神宮に蝦夷の捕虜を献上し、天皇には吉備武彦
を遣わして「自らの命は惜しくはありませんが、ただ御前に仕えられなくなる事のみが
無念です」と奏上し、自らは能褒野の地で亡くなった。時に 30 歳であったという。国
偲び歌はここでは登場せず、父の景行天皇が九州 平定の途中に日向で詠んだ歌とされ、
日本武尊の辞世とする古事記とほぼ同じ内容だが印象が異なる。
古事記
倭建命の死の知らせを聞いて、大和から訪れたのは后や御子たちであった。彼らは陵墓
を築いて周囲を這い回り、歌を詠った。すると日本武尊は八尋白智鳥(やひろしろちど
り)となって飛んでゆくので、后たちはなお 3 首の歌を詠い、その後を追った。これら
の歌は「大御葬歌(おおみはふりのうた)」(天皇の葬儀に歌われる歌)となった。
日本書紀
父天皇は寝食も進まず、百官に命じて日本武尊を能褒野陵に葬るが、日本武尊は白鳥と
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なって、大和を指して飛んだ。後には衣だけが残されたという。
古事記
白鳥は伊勢を出て、河内の国志幾(しき)に留まり、そこにも陵を造るが、やがて天に
翔り、行ってしまう。
日本書紀
白鳥の飛行ルートが能褒野→大和琴弾原(奈良県御所市)→河内古市(大阪府羽曳野市)
とされ、その 3 箇所に陵墓を作ったとする。こうして白鳥は天に昇った。その後天皇は、
武部(健部・建部)を日本武尊の御名代とした。
『古事記』と異なり、大和に飛来する点が注目される。
草薙剣(くさなぎのつるぎ)
記紀
日本武尊が帯びた剣は、草薙剣(草那芸剣)といわれる。出雲でスサノオ尊(みこと)がヤマ
タノオロチを倒した際にその尾から出てきたもので、天照大神に献上され、天孫降臨に伴い三
種の神器の一つとして、再び地上に戻ってきたものである。日本書紀の注記によると、元は天
叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)という名で、日本武尊が駿河で野火攻めに遭った時、この
剣が独りでに鞘から抜けて草を薙ぎ払い、難を逃れたことにより草薙剣と名付けられたとする。
ただし、これは挿入された 異伝であり、正式な伝承とは見なされていない。本文では一貫して
草薙剣と表記され、途中で名称が変わることはない。古事記でも草那芸剣(大刀)とのみ記さ
れる。
働き
草薙剣は、スサノオ尊の十拳剣(とつかのつるぎ)の刃が欠ける程の業物だったが、日本武尊
が武器として使った記述はなく、実用的な働きは草を薙ぎ払う事のみである。平家物語に おい
ては日本武尊が草を薙いだところ剣は草を三十余町(3km四方)も薙ぎ伏せたとされている。
また、草薙剣をミヤズヒメの元に残した日本武尊は、荒ぶる 神の影響で病を得、都に戻ること
なく亡くなってしまう。このことから倭姫命は、草薙剣を武器としてよりは、霊的な守護の力
を持った神器として、日本武尊に 渡したとも解される。
*十拳剣とは:
日本三霊剣の一本 すべての剣の祖とされる 天十束剣 凄まじい破壊力を秘め、使いこなせば一太刀で海を割
る事も出来る。折れる事や刃毀れする事も無い。尚、この刀は意思を持っており、自ら持ち主を選ぶ。
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k.i
(6)東征の道のり
図の如くに、古事記と日本書紀とではコースに違いがある。
古事記は房総から先は、せいぜい筑波付近と考えられているが、日本書紀で
は上総国から更に転じて、陸奥国に入った。その時、大きな鏡を舟に掛けて、
海路から葦浦に回り、玉浦を渡って蝦夷(えみし)の境にまで到着した。
帰りは武蔵・上野を転戦し、西にある碓日の坂(碓氷峠か)に至った。
そこで、東南を見ながら「吾が妻は・・」と三度つぶやいた。
この辺りの話は、古事記では「足柄峠でつぶやいた」とある。
何れも、関東のことを「吾妻」と呼ぶようになったことを表している。
うすい峠
いぶき山
あしがら
あつた
草薙の剣
のぼの
やまと
古事記
日本書紀(複数)
《注》古代、駿河から相模に至る道は「足柄峠」を経て、走水に至る道を
「古東海道」と称する。
箱根経由の江戸に至る「東海道」は江戸幕府が出来てからの道である。
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k.i
(参考図
参考図:西征
西征・東征
両コース
コース)
(7)日本武尊
(
日本武尊に
に関連の地名
地名
a)
)走水
走水の
の海を尊の
の船が渡ろうとした
ろうとした
ろうとした時、海
海の神が波
波を荒立て
て
きさき
(古事記表記では)
ひ
た。そのため
そのため尊
尊の船は前
前に進めない
めない。その
その時、 妃 の弟橘
弟橘比
め
売が身
身を投げて
げて海神をなだめ
をなだめ、無事
無事に進
進む事が出来
出来た。
ひ
め
すが
比売は菅
は の畳8
8枚、皮の
の畳8枚、
、絹の畳
畳8枚を波
波の上に引
引
くと、
、荒い海はおのずと
はおのずと安らかになった
はおのずと らかになった
らかになった。
それから
それから7日の
の後に比売
比売の櫛が海岸
海岸に流
流れ着き、
、尊はその
はその櫛
をひろい
をひろい、墓を
を造ってその
ってその中に埋
埋めた。
。
弟橘比売 入水に際して
弟橘比売が入水
して詠んだ歌
歌、
♬
お
さねさし
の
相模
相模の小野
に
(
(意味)
相模の野原
野原の中に
ほ
燃ゆる
ゆる火の
火の中にたちて
にたちて
問ひし
ひし君はも
火攻めの
めの火中で
わたしの
わたしの身を気づかって
づかって下さった
さった君を
(日本書紀
日本書紀では)
走水から
から房総への
への海を見
見て「これは
これは小さな
さな海だ」
」と云った
った
ため、
、海神の怒
怒りを買い
い尊の船はこの
はこの葉
葉のように
のように漂った。
。
みこと
めかけ
その時
時、 尊 の 妾 である弟橘媛が
である
が、
「このままでは
このままでは尊の船を
このままでは
を
助けるために
けるために、
、代わりに
わりに海に入りましょう
りましょう
りましょう」といって
といって入水
入水
した。
。
となっているが、古事記
となっているが 古事記では菅畳
菅畳・皮畳
皮畳・絹畳を
を
敷いて
て入水し、
、歌を詠んだとあるが
んだとあるが 畳や媛の歌
んだとあるが、畳
歌の話は書紀
書紀
にはない
にはない。
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太田公園
k.i
きみさらずタワー
又、媛が入水後、船は走るように安房に渡った
事から、この地を「走水の海」といったという
書紀の地名起源説は古事記にはない。
その代わりに、7日後に弟橘比売の櫛が流れ着
いたという後日談が古事記にある。
一口に言って「古事記」の方がより呪術的であ
り、日本書紀と同年代に記されたという「住吉
大社神代記」では、海の神が神武天皇のおじい
ほ お り の みこと
さんに当たる山幸彦(火遠理 命 )を迎えるにあたり、皮畳と
絹畳を8枚敷いた話があり、海神に関係する乗り物として呪
術的な性格を持っていた事が判る。
b)木更津
走水からは対岸の木更津に渡り着いた日本武尊は、そこを治
めていた「阿久留王」一族を征伐するが、この地では弟橘媛
を思い起こし、暫くこの地を去らなかった事から「君去らず」
と伝わり、後の地名「木更津」につながった。
市内の「きみさらずタワー」は木更津の名所です。
c)焼津
駿河を舞台に、野中で火攻めに遭う。そこで叔母から貰った
袋を開けると火打石が入っていたので、草薙剣で草を刈り掃
い、迎え火を点けて逆に敵を焼き尽くす。そこを焼遣(やき
づ=焼津)という。
しかし、古事記では焼津を相模と記し、尾張の次の地は相模
としていて、地図の上で混乱が見られる。
c)吾妻
東国を平定して、足柄峠の四阿嶺に立ち、そこから東国を望
あ ず ま みね
んで弟橘比売を思い出し、「吾妻はや」
(わが妻よ……)と三
度嘆いた。そこから東国をアヅマ(東・吾妻)と呼ぶように
なったと言う。(日本書紀では碓氷峠から東南を見て・・)
d)三重県
伊吹山で素手で挑んだ白い大猪(吹雪・氷雨)に敗れ、疲れ
果てて三重の村に着いた。近くの杖衝坂を、杖にすがり足が
三重によれて登ったが、ついに力尽きて亡くなり、白鳥にな
って飛び去った。
みこと
やまと
死の直前、 尊 は故郷である 倭 の都を偲んで、高らかに歌い
上げた歌の一首が冒頭の名高い「倭は国のまほろば・・・」
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k.i
である。
つえつきさか
そして、後に杖衝坂での足が三重によれた尊を偲び、三重県
の起源となった。
《注》日本武尊と走水の関係は、企画資料2「ガイド資料コース編」を参照。
*以上、資料参考は以下より:
吉川弘文館
日本武尊(上田正昭著)
週刊朝日「古事記を歩く」
木更津市HPなど
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