- 81 - 図Ⅰ 富田溪仙《御室の桜》(左隻・部分)昭和 8 年(1933) 現・福岡

図Ⅰ 富田溪仙《御室の桜》(左隻・部分)昭和 8 年(1933)
現・福岡市美術館蔵(図版は遺作展時の状況)
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図Ⅱ『朝香宮妃殿下御薨去号外』
(部分)この頁、全図版資料は筆者蔵
『東京朝日新聞』
、一九三三年十一月三日号外
図Ⅲ《朝香宮殿下肖像写真》
一九二五年、パリの写真館にて撮影
図Ⅳ 冨田溪仙《桜》
木版 一九三四年
図Ⅴ 冨田溪仙画
『朝日グラフ別冊・美術の秋』
表紙 一九三三年十月
図Ⅵ 冨田溪仙画
『中央美術』第三〇号表紙
一九三六年一月
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亡き妃殿下のための麗しき屏風
―朝香宮と冨田溪仙作《御室の桜》
目次
一、はじめに―朝香宮旧蔵コレクション研究の現在
二、冨田溪仙の《御室の桜》
三、朝香宮妃殿下御薨去
四、屏風急送
五、冨田溪仙と桜
六、結語―昭和の王朝文化
岡
部
昌
幸
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一、はじめに―朝香宮旧蔵コレクション研究の現在
現・東京都庭園美術館(一九八四年開館)の建築として有名になった旧朝香宮邸は数奇な歴史を持っている。
)
フランス以外では極めて珍しく現存する典型的なアール・デコ建築として知られ、国際的にも広く紹介されて
(
いる。その美しさは多くが称賛する。
この宮邸の主は、めまぐるしく変わっていった。一九四七年(昭和二二年)に朝香宮が皇籍離脱され熱海に転
居されてから、いっそう、歴史の表舞台に登場することになったのは皮肉である。吉田茂が外務大臣のときにそ
の公邸として使われ、のちに吉田が首相になってもそのまま公邸として使われることになった。そして一九六〇
年代には赤坂の迎賓館が改築される間の十年以上、正式の迎賓館として国賓を受けいれた。戦前は宮邸建築のな
かで異色の海外の現代様式による建築であったことに始まり、戦後は外相・首相を務めた吉田茂の公邸、迎賓館、
そしてプリンス・ホテルの結婚式場として使用され、保存運動の末に東京都経済局が敷地ごと購入するにいたっ
)
た。美術館として開館され三〇年近くをへて、建築の美しさが繰り返し紹介され、歴史的価値のほかに、その建
(
築的・美術的価値が近年とみに評価されているのは周知のことである。
(
)
3
たとえば、妃殿下に絵画のご進講をされ、宮邸(次女、居間)引き戸装飾画も委嘱された西澤笛畝(一八八九
れるが、その実態調査は不十分なままといわざるをえないのが現状である。
ルバムには、いくつかの絵画を確認することができ、また朝香宮家が絵画作品を所蔵していたことが十分想定さ
しかし、元来、この建築の内部は美術で満たされていた事実が注目されたことはない。竣工当時を記録したア
2
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1
―一九六五)の装飾画や、殿下と親交のあった吉田初三郎(一八八四 ―一九五五)の作品など日本画家との交流。
いっぽう洋画家のなかでは、一九三三年(昭和八年)三月に画家が日本帰国後間もなく購入されたと思われる野
(
)
口弥太郎(一八九九 ―一九九三)の油彩小品、戦地での殿下を描いた鹿子木孟郎(一八七四 ―一九四一)など
が上げられるが、今までそれらへの言及はほとんどなされたことがない。
そのなかで、例外的に著名な作品として上げられるのが、田中保(一八八六 ―一九四一)の油彩による半裸
の女性像《裸婦》(現・埼玉県立近代美術館所蔵)で、宮邸二階ホールの中央に掲げられていたことが知られて
いる。この事実は、当時の室内を写した写真によって証明される。この作品は今日、田中保の代表作と位置付け
られており、旧朝香宮家コレクションのなかでも秀逸なものといえる。田中保は、日本では長らく忘れられてい
た巨匠で、埼玉・岩槻で生れ、最初アメリカ・シアトルで絵画を学び、次いでフランスに渡って以降、「裸婦の
)
タナカ」として有名になったが、日本の開戦直前の一九四一年(昭和一六年)にパリで客死するまで日本に帰国
(
せずフランスに留まった。そのため、日本では忘れられた存在になってしまった画家である。
といえる。このような刺激的な作品が宮邸の中心にあったのは驚きである。
(
)
ール・デコの時代特有のあだっぽいエロティシズムの雰囲気を濃厚に示す、時代性と国際関係をよく表した作品
ぱいに広げて見せている。ヨーロッパにおける十九世紀以降の日本趣味(ジャポニスム)の残り香を漂わせ、ア
した肌を露出した女性が立ち、下半身を半透明に隠すピンク色のレース(おそらく絹)を裸婦が両手で画面いっ
《裸婦》は、異色の作品である。絵柄は、金箔の地に赤い椿の樹を配した豪華な屏風の前に、黒髪に赤く上気
5
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4
しかし、この一九二四年制作の田中保の作品《裸婦》は、本稿で紹介する旧朝香宮コレクションの名画である
6
もう一点、一九三三年制作の日本画家・冨田溪仙(一八七九-一九三六)の代表作品の二曲二双屏風《御室の
桜》を対極に置いたときに、その意味が大きく浮かび上がると思われる。
油彩の洋画の裸婦と花を描いた日本画の屏風。技法も東西特有、テーマ・モチーフなど題材もそれぞれ西洋的
発表し購入された時期が、朝香宮殿下・妃殿下がフランスに滞在された一九二四・二五年(大正十三・十
と日本的の極みにある好対照といえる二点の作品。一見、その差は大きいが、いくつかの点で共通する。
①
四年)から朝香宮邸が竣工となった一九三三年(昭和八年)までであること。
作品中に、花を装飾的に表現した部分があること。(《裸婦》には背景に椿の金屏風が大きく描かれ、《御
作品の主調となっている色彩が、明るいピンクまたは桜色であること。
②
③
大きな画面であるか、展覧会出品作であること。
室の桜》は全面が桜の華麗な装飾となっている。)
④
以上の点から以下が推察できるのではないか。
朝香宮殿下・妃殿下の両殿下は、この特定の時期、つまり西洋に在住し、新宮邸の構想を練っていた時期に、
宮邸を飾る装飾的な大画面を、フランス現地、そして帰国後は日本の主要展覧会のなかに探していたのではない
か、と。
西洋の最新の様式アール・デコを取り入れ、日本の伝統とも融合させる自らの美学を代表する宮邸を建築する
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ために、内装のほか、室内に掛ける絵画も、それらに合う作品を求めていたのではないか。そのようにも思える。
それを示す証左が、冨田溪仙の《御室の桜》への所望と所有であったと位置づけられると私は考える。
以下、本稿では当時の資料を辿りながら、その詳細を述べていきたい。
註
(1)パリ国立装飾美術館に長らく務められた元館長・イヴォンヌ・ブリュナメール女史は、一九九〇年代初
めに旧朝香宮邸の建築について、「フランス国外に残る邸宅建築では、純粋なアール・デコの様式を残し
ている建築は、インドにあるマハラジャの邸宅のほかには、この朝香宮邸以外にはない。」と語られてい
た。また、その著作にも、旧朝香宮邸を取り上げ、大きな図版とともに、詳細に記述、評価されている。
(2)二〇〇一年、東京都の重要文化財に指定された。
(3)近年、朝香宮殿下の側近が記録した一九二〇年以降の日誌が発見され、現在東京都庭園美術館の所蔵と
なっているが、その詳細が公開されるのは今後のことである。
(4)大正から昭和期にかけて独自の鳥瞰図の様式を完成させ、商業美術界で大きな功績を残した「大正の広
重」と称賛された画家・吉田初三郎が朝香宮鳩彦王殿下に献呈された絵巻物が近年発見された。
(5)田中保は、『故国に甦る幻の巨匠 一八八六―一九四一 田中保展』(毎日新聞社、一九八一年)に続き、
郷里の埼玉県立近代美術館の開館の草創期に、その全貌を回顧する展覧会が『一九二〇~三〇年代ラプ
ソディー・イン・パリ田中保をめぐる画家たち』(一九八八年)が開かれている。またサトエ記念二一世
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紀美術館でも展覧会が開催された。
(6)この《裸婦》のモデルについては、画家田中保の周辺の人物である可能性も高いが、滞仏中であった朝
香宮殿下および妃殿下との関係も考慮されてよい。作品を購入する前に画家と両殿下の交遊があったと
すれば、その内容と構図、題材に両殿下特に妃殿下の意向が反映されたことも考えられる。いずれにせ
よ、旧朝香宮邸の中心にあったこの絵画への両殿下の思い入れは相当に大きかったはずに違いなく、そ
の主題や内容についてより考察されるべきものと考える。この作品については別稿で発表の予定である。
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図 1 富田溪仙《御室の桜》(右隻一、二扇)
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図2 冨田溪仙《御室の桜》(右隻三、四扇)
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図3 冨田溪仙《御室の桜》(左隻一、二扇)
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図4 冨田溪仙《御室の桜》(左隻三、四扇)
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二、冨田溪仙の《御室の桜》
冨田溪仙の《御室の桜》は一九三三年(昭和八年)九月に開催された日本美術院展覧会(院展)に出品された。
(図Ⅰ、1~4)
溪仙が自作について語っている。
「お室の桜
御室桜―
桜の花を描きたい念願は以前からでしたが、何分日本に古人が先手を打つてゐますので手も足も出ないこと
実に数年。くやしがつてゐたやうだ。桜を描いたもので狩野や光悦派には立派なものがある。前者には桃山屏
風、後者には扇面など小品ながら逸品をちょい〳〵見受ける。山桜や重弁、さう云ふものをこの派が描いてゐ
るが、私はもう少し突き込んでこんどの仕事をして見たいと思つた。八重桜はそれ〴〵人の顔が違ふ如く違ふ。
私はそれを解剖的に描いてみた。
桜を正面から見て、普通の描写の振舞で画いたところで、自分も観者も普通の刺戟しか興らない。こゝが普
通の苦痛以上を感ずる訳で、古人の画と実物の桜と自分とは三角関係で始終苦しんでゐるので古画も実物の桜
もいゝものであるに違ひないから苦しむことになる。
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麗人は男が見て悪い筈がない。その悪くもないものに苦しむのが恋愛人と絵かきばかりのやうにもたまには
思ふ時がある。終にはもう厚かましくなつて自分の貌の量分も忘れて麗人の手を握るやうに桜を画く気になつ
たのがこんどの御室の桜なんだが、桜の国日本人が桜を画くことは恥じでもないあが、但だ絵になる以上大和
魂の精神力描法に何かを吹き込むことの出来ないことが恥だと追ふだけだ。
こんどのものは私は、こゝ数年前から何遍か手をつけてみた。最初は爛漫と咲き開いてゐるのをみて茫然漠
然として手をつけやうがなかつた。
或る冬、私は枯木ばかりをぢつと見た。枯木の配列、桜の咲くべき枝、交叉それに依つて平素見えぬ何もの
かゞ見えて来た。私はそれによつて来た。私はそれによつて楽に花をつけることが出来たのである。
一つには自分は強情だ。桜の如き美しく、軟らかい花を描き自分の修養にとも心懸けた次第である。
昔人の描かれた桜は山桜の一重と八重桜と単に概念的に二種に描かれてゐるものが多く、唯歴史ある御室桜
が、培養法乃至種類の多いこと丁度麗人といつても種々感じの違った特質を持つてゐる如く桜も美しい中にそ
れぞれ先天の姿を現せたいために桜樹のあたりに九珠の桜名を金泥で書きつけた。いわく灌頂、妹背、有明桜、
(1)
芝山、大御室、御衣黄、富士山桜、八重桜、車返し。……と。」(冨田溪仙『無用の用』、一九三五年一〇月、
人文書院、一三〇-三四頁。)(引用文中、漢字のみ現行漢字に変換。引用文、以下同じ。)
溪仙の《御室の桜》は発表当時から絶賛された。横山大観の信任の厚い溪仙は再興日本美術院(院展)同人の
中にあって、最有力な関西在住画家であり、院展の中での地位は高かった。『朝日グラフ』の特集(図Ⅴ)の表
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続いて図版ページとなり、15、
図5 《若き日の朝香宮鳩彦王殿下》1910年ころ 絵葉書 筆者蔵
- 96 -
紙を溪仙が飾ったことで分かるように一九三三年は、溪仙の絶頂の時期にあたっていた。その中で、溪仙の画業
でもっとも華やかな作品《御室の桜》屏風が発表され、会場内では溪仙絶濽の声が上がったのである。
称賛のいっぽうで、この作品が溪仙の本来の作風とは違う傾向があることを示唆する批評もあった。壮麗で装
飾的な屏風の構図、惜しみなくふんだん使用された金箔、金泥、わかりやすい桜の写実などは、それまでの溪仙
の文人画の作風の追及とは一線を画す、あえていえば正反対の表現である。溪仙はこの屏風の成功で画壇の頂点
に立ったように思えるが、いささか展覧会会場での効果を狙った「会場芸術」の傾向を志向していると見えなく
もなく、これより始まる没年までの四年余りの晩年は、その絢爛たる作風の傾向を極めていった期間と考えられ
る。そうであれば、《御室の桜》屏風は、その新しい傾向の出発点の作と位置づけられるに違いない。
その溪仙の新しい作風は、朝香宮両殿下(図Ⅱ、Ⅲ、5)との趣向の繋がりも考慮すると「近代王朝風」とも
呼べるものである、そして溪仙の所属した院展(日本美術院)の昭和初期の作風、特に速水御舟の《名樹散椿》、
《翠苔緑芝》の琳派の再来とも思われる装飾的な大画面に近代的表現を加味した作風の流れに置くことができる
であろう。こうした新しい作風の登場には、宮廷や華族文化の需要、さらに院展の領袖たる横山大観の華族社会
(3)
との接近が、その背景にあると考えられる。
速水御舟の《名樹散椿》、《翠苔緑芝》以降に行われたヨーロッパ滞在後、御舟の作品は、当時の一九二〇年代
のヨーロッパに澎湃として起きていた、キュビスム(立体主義)の流行に影響を受け、帰国後の晩年の御舟に新
しい造形的表現が試みられたと考えられている。
私は、冨田溪仙の《御室の桜》屏風もまた、そうしたヨーロッパのキュビスムの新しい作風を画家が感じなが
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ら描いたものではないかと考える。
装飾的な画面と思われる画面は、実は丈の低い御室の桜ならではの、空間に縦横に伸びる極めて造形的な空間
表現となっているのではないだろうか。溪仙はこの作品で、縦長に屈曲して重層する文人画の空間ではなく、よ
り広い西洋画的な空間のなかに、キュビスムの刺戟を受けながら、屈曲する桜の枝によって独自の空間表現を試
みたのではないかと考えたい。
註
(1)冨田溪仙『無用の用』、一九三五年一〇月、人文書院、一三〇 ― 三五頁。原典は、美術雑誌『美術』の
発表されたものである。
(2)速水御舟の《名樹散椿》、《翠苔緑芝》(山種美術館蔵)は昭和期の美術作品としては、最初に重要文化財
に指定されたことでわかるように、画家の代表作であり、時代を代表する作品である。
(3)横山大観の後援者の代表が貴族院議員で侯爵の細川護立であった。
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三、朝香宮妃殿下薨去
~
)
一九三三年(昭和八年)十一月三日未明、午前一時十五分に薨去された朝香宮妃殿下を、号外を含め、各紙は
大きく報じた。詳しく妃殿下の経歴や人となり、趣味までもが報じられた。(関連紙面、図Ⅱ、
そのなかで、美術との関連が具体的に示されている貴重な文献が『東京日日新聞』である。
「隠れた御仁慈
ゴルフは殊に御堪能
殿下を初め若宮姫宮方の御見回りも夫々御指図遊ばされ一昨年第一王女紀久子女王殿下が鍋島侯嗣子現式
フに御堪能であらせられた、極めて御快活な御気質で御日常も質素、近衛師団長に在し御多忙の御宮の宮
、、、、、、氏に御学びになり殊にゴル
は御看護のかたはら仏語とピアノをホンナール女史に、水彩画をノランショナ
渡仏ありて御看護に努めさせられ十四年十二月御全快の御脊の宮とお揃ひで御帰朝遊ばされた、御滞仏中
大正十二年御在仏の脊の宮殿下御奇禍に接せらるるや妃殿下には一方ならず御心痛あらせ給ひ、はる〴〵 御
25
(1)
部朝宮直孝氏に御降嫁あらせられて以来は、(以下略)(文中傍点、引用者)」(『東京日日新聞』一九三三年
(昭和八年)十一月三日(金)朝刊、二面)
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6
、、、、、、氏」の言及である。つまり、朝香
と報じられている。ここで注目すべきは水彩画を学んだという「ノランショナ
宮妃殿下は、フランスで専門の画家から、西洋画を学んでいたことが、ここに判明する。
さらに、御喪儀を翌日に控えた十一月十一日、『東京朝日新聞』のラジオ面に以下に記事が掲載されている。
このラジオ演奏については、当時聞いた人々は多く、その記憶が語られているが、新聞記事によるとその詳細は
)
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次のようである。
「明日の御喪儀を前に
葬送行進曲を独奏
後九時、小倉末女史がピアノで
明十二日は朝香宮妃殿下の御喪儀が行はれるので、哀悼の意を表して、我女流ピアニストの先輩小倉末女
史が特にショパンの葬送行進曲とヴァーグナーのジークフリードの葬送行進曲を謹んで独奏する事になつ
(2)
(図
た。小倉女史は上野の東京音楽学校教授で、葵会を主さいしてゐる」(『東京朝日新聞』一九三三年(昭和
八年)十一月十一日(土)朝刊十四面)
同記事の続きにある楽曲の紹介によると、ショパンの葬送行進曲とヴァーグナーのジークフリードの葬送行進
25
曲の間に、ヴァーグナーの歌劇「タンホイザー」第二幕からの「夕星の歌」のリストによるピアノ編曲版が奏さ
れることになっている。
上海事変・満州事変は起きていたが、戦争は比較的まだ大きく拡大されていなかった昭和のモダンな世相の最
期にあって、明治天皇の子(第八皇女)で、まだ四十三歳の若さで急逝した妃殿下へは、ジャーナリズムが大き
く報じ、大衆の哀悼の感情も大きかった。
妃殿下薨去が大きく扱われたのには、妃殿下の芸術の嗜みと好みがその背景にあったと考えられる。そこで、音
楽の追悼とともに、次節でふれる屏風など、美術の分野における話題が大きく扱われることになったと思われる。
こうした、戦争に向かう時代の流れのなかに、芸術作品が浮かんでいる。
《御室の桜》は、フランスで新しい造形感覚を満喫し、その感覚に浸っていた妃殿下自身の美的感覚・美学に
合致するものであったに違いない。新しい邸宅の美的な空間にマッチする作品を、妃殿下はそこに見たのであろ
う。昭和初期の日本画壇にあった新しい王朝風の美意識もぴったりであった。
まさに、亡き妃殿下のための屏風といってよい作品であった。
註
(1)『東京日日新聞』一九三三年(昭和八年)十一月三日(金)朝刊、二面
(2)『東京朝日新聞』一九三三年(昭和八年)十一月十一日(土)朝刊、十四面
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27 を各 1 ページ、
図6 『報知新聞』1933年11月3日(2日夕刊)
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図7 『東京日日新聞』
1933年11月3日夕刊
図8 『読売新聞』1933年11月2日朝刊
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2
図9 『国民新聞』1933年11月3日朝刊
図10 『報知新聞』1933年11月3日朝刊
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図11 『報知新聞』1933年11月4日(3日夕刊)
図12 『東京日日新聞』1933年11月3日夕刊
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図13 『東京日日新聞』1933年11月5日朝刊
図14 『東京日日新聞』1933年11月4日夕刊
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46 は 1 ページ
図15 旧朝香宮邸での葬儀
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図16 礼服姿の朝香宮殿下
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図17 葬儀に参列する各国貴顕
図18 葬儀の日の朝香宮邸正門
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図19 朝香宮邸に行幸される昭和天皇御料車(『東京朝日新聞』)
図20 朝香宮邸の弔問(正門にて)
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図21 『読売新聞』1933年11月13日夕刊
図22 『国民新聞』1933年11月13日夕刊
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図23 『東京朝日新聞』1933年11月4日朝刊
図24 『東京朝日新聞』1933年11月13日夕刊
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図25 『東京朝日新聞』1933年11月朝刊
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16、
図26 『東京朝日新聞』1933年11月9日より
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四、屏風急送
朝香宮妃殿下薨去を報じた新聞各紙のなか、妃殿下と《御室の桜》について報じた記事がある。『東京日日新
聞』、『東京朝日新聞』、『読売新聞』、『時事新報』、『報知新聞』、『都新聞』、『国民新聞』、『都新聞』、『中外商業新
報』など主要新聞を調査したところ、この件を報道した新聞はともに九日朝刊付けで『東京朝日新聞』と『国民
新聞』のみである。
二紙あり、おおむね内容が重なるところから、どちらか一紙の特ダネではなかったことがわかる。以下に転載
する。
「今は亡き妃殿下のお側に咲く「御室の桜」
院展で御目に留まる
京都から急送
光栄の「御室の桜」と冨田溪仙画伯
(ママ)
、、、、、「御室の桜」は場内の白眉といはれ当時
今秋の院展に京都の冨田溪仙画伯が出品した二曲二双のびやうぶ
、、おかざる近来の傑作と称賛されてゐ田も のだが、去る九月十五日の午前上野美術館に
満都好事家の垂ぜん
、、、、に御目を止めさせら
脊の宮殿下と御道台臨遊ばされた故朝香宮妃允子内親王殿下にもたま〳〵このびやうぶ
れいたく御感嘆の御様子と拝された其後傑作「御室の桜」は十月四日院展終了日まで上野の会場を飾り名
- 115 -
古屋に一週間陳列されて京都の作者の手許まで返送されたが、この間内親王殿下の御病にはかに革まり御
、、、、に対する
痛ましき薨去の報が全国民の胸を打つた、然し故妃殿下のびやうぶ
御愛着は畏くも御臨終まで折にふれて御口に上つたと伝えられ御生前のこの御様子を知らせ給ふ朝香宮殿
下には妃殿下を失はさられた御悲嘆につけても「御室の桜」が悲しき御思出の種となり遂に先頃御出入の
、、、、を御所望あらせられた畏き思召を体して画伯は早速京都の冨田
横山大観画伯を介して冨田画伯のびやうぶ
氏まで電話でこの旨を通じたので冨田氏も光栄に感激して名古屋の陳列場から送られていまだ荷造りも解
かなかつた「御室の桜」を急ぎ東京に転送、八日正午横山氏の手許に届いた、宮家では十日正寝移柩の御
儀を執り行はせる御予定となつてゐるが、それに先立つて何とか故妃殿下の御儀を
、、、、の到着を待ち構へてゐたが同日午後三時横山家からこれが届けられたので深
慰め奉りたいものとびやうぶ
き悲しみの内にも早速奥間の恩棺側にこれを御飾り申上げた、右につき宮家折田事務官は謹んで語る
あのびやうぶは非常に妃殿下の御気に入つた御様子でしたが、これを御承知の宮殿下が妃殿下はおなくな
りになつたが是非飾つてあげたいとの畏しき思召しからもしまだ売却されてゐなければ買ひ取りたいと
の御話でございました、全く殿下の御優しい御心持ちが拝察されて恐れ多いことです、幸ひ依頼した横
山氏も非常に心配して早く話を運んで下さつたことは感謝に堪えません
まことに光栄
冨田画伯夫人談
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【京都電話】右につき「御室の桜」の作者京都の冨田溪仙氏を訪へば近郊写生に出かけて不在中であつた
が夫人が代つて語る
私の方へは日本美術院の横山大観さんを通じてお話を承りましたので光栄に存じまして早速七日にお送り
しました、八日の午前十一時頃院の方へ着いて居るはずです、あの絵は今年の院展に出品しました二曲
四枚のびやうぶでかね〴〵主人が描きたいといつて居た御室の桜を三四年間も構想に練つて居たものでし
た、御室仁和寺の名桜を描きまして一々名称をつけてあります、あれが畏くも宮様の御意に召しました
」
)
- 117 -
と承りまして主人と共に喜んで居る次第でございます
(1)
(『東京朝日新聞』昭和八年十一月九日朝刊、十一面。) (図
御所望の絵画を……
脊の宮様」
次いで、『国民新聞』によると、妃殿下と屏風との関係がいっそう詳しく記載されている
「うるはしき御夫婦愛
なき妃宮の御霊へ
冨田溪仙画伯の大作「御室の桜」を飾られ
26
図27 『国民新聞』1933年11月9日朝刊
- 118 -
……………………………………………………………………………………………………………………………
去る三日薨去遊ばされた朝香宮妃允子内親王殿下には脊の宮鳩彦王殿下との御仲殊のほか御睦まじくあら
せられたとも承はるが、鳩彦王殿下には今はなき妃殿下の御霊を慰めらるべく、御生前頻りに御所望遊
ばされた屏風一曲をお買上げになり八日親しく御霊前にお飾になつた側近の人々も今更ながら両殿下の
御麗はしき御愛情に感激させられたと云ふ御うるはしき物語
……………………………………………………………………………………………………………………………
美術御鑑賞に殊のほか御眼識を持たせられた故妃殿下には御自らも彩管の道にいそしませられるほどで、
絵画には
○…一段と御造詣深く去る九月十五日両殿下お揃ひにて第二十回日本美術院展覧会にお成りになり其の
際故妃殿下には同院同人冨田溪仙画伯の霊筆になる非売品「御室の桜」六曲屏風の大作の前に暫し佇ま
れ其の線と色彩の配合のみごとさが御気に召して傍らの脊の宮殿下を顧みられ御所望の御模様であつた
が其の儘御帰邸に相成つた、此の一日を最後として御病床に親しまれ悲愁の中に去る三日薨去遊ばされ
たが、幾度か脊の宮殿下始め側近奉仕の方々に其の事を御興深くお話なされた由で、故妃殿下の御心を
お察し遊ばされ
○…脊の宮殿下には若し入手し得るものなれば御柩の前に飾りせめてもの御霊を慰め度き御愛情深き御
内命あつたので、宮家では数日前日本美術院同人横山大観画伯に此の旨通じたところ此の聞くだに音麗
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しき脊の宮殿下の御心に痛く感激した同画伯はこれを冨田画伯一個人の光栄である許りでなく日本美術
院の名誉であると直ちに此の旨京都在住の冨田溪仙画伯に通じたところ此の無常の栄誉に同画伯もまた
感激し故妃殿下御生前非常の御愛着を持たれた六曲屏風「御室の桜」に金一萬円で御買上げと決定し此
の光栄に光り輝きながら八日午後
○…京都から宮家に送られ直ちに奥御棺に安置された御部屋に飾られ故妃殿下の御霊を慰め奉つた
○
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右に就き朝香宮家折田事務官は謹んで語る
その絵については美術院の横山大観画伯に御内命を伝へましたところ同画伯も痛く感激して御買上げに
つき奔走して下さいまして殿下の御希望もかなひ本日(八日)京都から到着致しました直ちにお部屋に
お飾り致し十日の正寝移柩の儀迄は現在の儘にして置く事に決定致しました、殿下の此の麗しい御心に
は唯々恐懼致すのみで御座居ます
【京都発】京都市嵐山の畔の同画伯邸を訪えば画伯は写生に出かけて折悪しく不在であつたが留守居の夫
人は語る
)
」
その話は先日横山大観氏から伺ひましたので早速手続きを取りました、作品は荷造りしまして京都に送
り返しそのまゝ東京に送りました、主人を初め家族一同感激して居ります
(2)
(『国民新聞』昭和八年十一月九日、七面。) (図
26
内容の詳細を検討すると、『国民新聞』のほうが、取材がより詳しく記述されている。
いずれにせよ、主要な新聞二紙によって、御喪儀の前に、朝香宮妃殿下と美術の関係が広く知られることにな
った。
亡き妃殿下の追悼は、戦争に向かって暗くなっていく世情のなかで、輝かしき時代の名残りを照らす、残照で
あったのかも知れない。「亡き妃殿下のための」麗しき屏風は、昭和モダンの追憶を反映している。
朝香宮妃殿下がヨーロッパで習得した新しい美意識・美学を麗しき屏風に見ることができる。
註
(1)『東京朝日新聞』昭和八年十一月九日朝刊、十一面。
(2)『国民新聞』昭和八年十一月九日、七面。
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図28 冨田溪仙《御室の桜 習作》
(以下『日本工藝』特輯号第22集「溪仙の素描」1958年1月、芸艸堂、より掲載
図29 冨田溪仙《御室の桜 習作》
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図30 冨田溪仙《御室の桜 習作》
図31 冨田溪仙《御室の桜 習作》
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図32 冨田溪仙《御室の桜 習作》
図33 冨田溪仙《御室の桜 習作》
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75(上)と 76(下)で
図34 冨田溪仙《御室の桜 習作》
図35 冨田溪仙《御室の桜 習作》
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77(上)と 78(下)で上下合わせて 1 ページ、
図36 冨田溪仙挿画『無用の用』、1935年10月、135頁
図37 冨田溪仙肖像写真(追悼号より)
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五、冨田溪仙と桜
冨田溪仙は、南画・文人画の作風で知られる。中国の古典や想像にもとづくいわば幻想的で、恬淡とした画風
は、明治末・大正・昭和初期に画壇のなかで特筆すべき存在であった。特に、丸山・四条派の影響を強く受け、
写実を基礎とした竹内栖鳳や山本春挙の二大巨頭を頂点とする京都画壇では孤高の存在で、その孤高性が逆に存
在と評価を高めていた。その背景には、溪仙と合い通じる東京の巨匠・横山大観とその率いる院展を軸とする東
京画壇があり、その存在と重みを際立たせていたともいえよう。
したがって、溪仙の代表的作風は、写実とは距離を置く文人画的な、空想性であったに違いない。そこから、
いかに、《御室の桜》が晩年の代表的作品であり、世評を大いに沸かせた作品であるにもかかわらず、今日にお
いても、溪仙の代表作というには、一言付言しておかなければならない評者が多い。現状では詳細にして最新の
研究というべき生誕一三〇年の記念回顧展の作品解説においても、福岡市美術館の山本香瑞子氏は、「桜の肖像
画」のようだとし、
「溪仙らしい誇張が少ない分、代表作としての評価は分かれるところだが、」
として、鏑木清方の言を引用して、「通俗ではない」が、「溪仙の独自性の出し方が弱いという見方があると思わ
れる」という意見を支持されている。
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~
)
しかし、桜の写生を振り返ってみると、写実を基とした桜の描写、写生は大正期からすでにあり、《御室の
桜》については、その習作と思われるスケッチが多数残されている。(図Ⅳ、Ⅵ、
冨田溪仙(図
) にとって、桜の主題が生涯のテーマであり、その晩年に《御室の桜》が出来上がり、それ
以下に、《御室の桜》を頂点とする、この溪仙の桜の系譜を辿る作品群を一五点掲載したい。
る。
日本近代絵画のなかでも、写実と装飾を融合した独特な装飾画面に成功した例と位置づけられるというべきであ
桜》には、二曲二双という大きな空間を駆使した全体の空間構成と、華麗に描かれたその細部の表現において、
その空間構成の画期的で追随を許さない独創性が感じられる作品こそが、《御室の桜》であり、この《御室の
あることがわかる。尺八や二尺幅の縦長の画面においては、近景にある桜の樹枝と遠景の対比に迫力がある。
面構成においては、花々を枝に付け、空間を力強く伸びていく桜の樹枝と全体の空間の絶妙なバランスが特色で
独特な表現で、桜の樹・花の細部を見ればすぐに溪仙の作風と察せるように様式化されている。そして、その画
それらについて気づくことは、輪郭など描写は写実性が強い。しかし、着彩における絵具の使用、塗り方は、
36
響が見られると思われる。そして、その桜の作品の系譜を辿ると一九二一年(大正一〇年)アメリカ展に出品さ
れ、その後、横山大観の所蔵となった冨田溪仙の夜桜の作品に行き着く。
《御室の桜》は横山大観蔵の《祇園の夜桜》を反転したような作品であり、ここに溪仙の桜作品の追及の原点
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28
第二章で述べたように、《御室の桜》には、欧米の最新の美術思潮であったキュビスムと新しい造形表現の影
を頂点として、多くの桜作品が描かれていたのである。
37
があったとも考えられる。
註
(1)山本香瑞子『生誕一三〇年記念冨田溪仙展図録』作品解説、二〇〇九年、福岡市美術館。
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図版38 《祇園の桜》
図版39 《聖地の華》1930年
図41 《日本八景の内 吉野》
図40 《西行桜》1922年
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図42 《嵐峡雨罷》
図43 《万葉の花》
図44 《吉野春風》
1936年
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図46 《華頂之春》
図45 《陽春三花》
図48 《八重山桜》
図47 《嵐峡の春》
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図49 《花籠》
図50 《春園》
図52 《祇園夜桜》1921年
図51 《広沢彩霞》
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六、結語―昭和の王朝文化
溪仙は、一九二一年(大正一〇年)から一九二七年(昭和二年)まで駐日フランス大使を務め、日仏会館、関
西日仏学館の設立に尽力した詩人・劇作家ポール・クローデル(一八六八-一九五五)と親しく交流した。そし
て共作で、『聖ジュヌヴィエーヴ』、『四風帖』、『雉橋帖』、『百扇帖』などを作成した。作品《神倉》は、リュク
サンブール美術館(現ポンピドゥー・センター蔵)に所蔵され、フランスとの関係が深い。
そのいっぽうで、描く作品世界は、日本の伝統を意識し、受け継ぐものであった。クローデルはまた、フラン
スの伝統のカトリシズムの現代の代表的文学者であった。それぞれが自国の文化の伝統を意識しながら、世界を
広く捉え、異文化との接触を好み、その異文化体験が作品世界の深いとこころで結実している。
そうした、日仏関係、東西美術・文化の出会いと融合は、朝香宮邸を手がけた朝香宮殿下・妃殿下と大きく重
なっている。
その雅な世界は、今は亡き妃殿下の趣向と意志が引き寄せた麗しき《御室の桜》を得て、まさに現代の王朝文
化として花開いていたといえる。
たおやかな桜の香りに包まれ、亡き妃殿下とともに良き時代も弔われることになったのである。
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