第 1 目 次 「まえがき」にかえて ─ ─ 公文書に残らない「伊東正義内閣」 大平死後の政治家・伊東正義 …… ……………………………………………… 会津の男 「ならぬことは、ならぬものです」 …………………… ─ …… ………………………………… 大平正芳との「絆」 大平が亡くなった日 存命中にサイン 大平正芳と伊東正義 10 「ならぬことは、ならぬものです」 素顔の伊東正義 最後の手紙 ─ 16 ─ 章│「老朋友」の仲に 継続された中国との対話 次 目 ix 34 1 21 29 22 2 39 2 3 1 2 3 4 26 1 章│伊東正義の生き様 第 2 章│首相臨時代理 第 3 第 江沢民総書記との対話 ─ 朱鎔基副首相との対話 鄧小平・最高実力者との七回の面会 ─ 鈴木善幸首相邸に夜討ち 外相辞任へ 辞表を提出 大平正芳の墓前に ソフトムードの日米首脳会談 48 ─ 79 ─ …… ………………………… 「昼めしでも……」と〝手打ち〟 鈴木首相と伊東外相 「衆寡敵せず」伊東辞任を決意 “どんでん返し”の閣議 ─ 鈴木首相がこだわった第二回首脳会談 「新たな軍事的意味はない」 「同盟関係」で統一見解 ─ ─ 共同声明に初めて「同盟関係」盛り込む 外務事務次官、楯突く 「ナンセンス」 伊東辞任をめぐって 「オフレコ」激白 62 。リリシズムです」 宮澤喜一「伊東辞任は鈴木首相に対する『つらあて』 伊東正義前外相の「告白」 95 86 7 8 9 12 11 10 87 91 64 40 60 54 45 1 2 3 4 5 6 73 77 2 3 1 章│総理に“アイクチ”をつきつける 4 97 53 x 第 ─ ─ 伊東外相「二元外交」に激怒 ─ 辞任への引き金に 「『花咲爺』にはなれない」………………… 次 感覚の麻痺 政治家とカネ 竹下登首相が退陣表明 ─ 107 101 四月二六日「ふざけるな。オレはなめられないぞ」伊東・激怒 五月七日、最大の実力者からの「御墨付」 163 「幹事長として、最後の最後のおつとめを」 安倍晋太郎 五月八日、 「本の表紙だけ変えても、中身が変わらなければダメだ」 五月九日、 179 178 政・官・財を巻き込んだリクルート疑獄 竹下首相、捨て身の作戦も「焼け石に水」 「後継首相、伊東正義」へ一斉になびく 政治家・伊東正義の素顔 竹下首相、退陣の日、ドキュメント 竹下首相を追い込んだのは「世論の力」 154 「竹下退陣」けじめには不十分 四月二五日、伊東正義「オレは糖尿病。女房も猛反対している」 9 14 13 12 11 10 目 xi 175 167 171 114 147 120 143 161 3 4 5 6 7 8 135 2 108 13 1 章│総理のイスを蹴飛ばした男 5 ─ ─ ─ 竹下 伊東会談 フランス料理店での対話 206 195 ─ 竹下首相、擁立断念へ 五月一二日、後継総裁断る 「オレに『花咲爺』になれといっても、いまさら無理さ」 188 vs. 「オレはピエロ」と伊東 「竹下・キングメーカー」の誕生 宇野「ダミー」政権 「僅か六八日間で総辞職」 ─ 付録│「ざっくばらん」に意見を交換 「結び」にかえて 主要参考文献 あ と が き 伊東正義 略年譜 224 219 228 225 185 … ……………… 199 会津の「頑固者」と出雲の「おしん」の根比べ 19 18 17 16 15 209 xii 第 章 1 伊東正義の生き様 「ならぬことは、ならぬものです」 1987 年 11 月 3 日,地元で餅つきをする伊東正義 (提供=伊東正義文庫) ─ 「ならぬことは、ならぬものです」 しん 会津の男 たちは幼い頃から、「ならぬことは、ならぬものです」という言葉を両親や先生から教えこまれた。 う。頭が良くて「級長」を務め、小さい頃から「伊東のマーチャ」の愛称で呼ばれた。会津の子ども の時には全会津陸上競技大会で短距離の五〇、一〇〇、二〇〇メートルの三種目に連続優勝したとい 伊東さんの小学生の頃は運動にもたけて、野球では投手として四年生からレギュラー。五、六年生 にある飯盛山では、一六〜一七歳の少年たちが「白虎隊」として戦って敗れ、二〇人が集団自刃した。 まで行われた新政府軍と旧幕府側との戦いでは、会津藩は幕府側で戦って敗北。なかでも、市内北東 祖父・健輔さんは会津藩士で戊辰戦争にも参加している。一八六八年(慶応四年・明治元年) から翌年 ぼ 兄はともに医者。伊東家の先祖は会津藩の御典医だったとも伝えられている。 ていた。二人とも正義さんが政治家になる前に亡くなっている。兄二人、姉二人、妹一人。長兄と次 父親の秀三郎さんは旧制会津中学(現・会津高校) の地理の教師。母親の秀さんは幼稚園の先生をし 会津藩二三万石(初代藩主・保科正之〈一六一一〜七二〉) の城下町である。 伊東正義さんは、一九一三年(大正二年) 一二月一五日、会津若松市日新町(旧・善久町) に生まれた。 1 2 か きん 初代藩主・正之が定めた「会津藩家訓」にある。相手と意見や考えが食い違ったとき、正しいと信じ たからには、ひるまず不退転の決意をもって挑むべきだ、という意味だ。 今も、会津若松市を訪れると、街角でこんな看板を目にする。 「あいづっこ宣言 人をいたわります ひきょう ありがとう、ごめんなさいを言います がまんをします 卑怯なふるまいをしません ほこ うやま 会津を誇り年上を敬います 夢に向かってがんばります やってはならぬ、やらねばならぬ、ならぬことは、ならぬものです」 他人になんと言われようと、己の信じる道を突き進んだ伊東さんにも、これらの会津独特の「家 訓」が幼い頃から血となり、肉となって染みこんで「会津の頑固者」になったといえよう。 一九二六年(大正一五年) 、伊東さんは名門校・会津中学に入学。野球をあきらめて学業に専念した。 旧制中学は五年制だったのだが、東京帝国大学を目指し、四年修了とともに、一九三〇年(昭和五年) 第 1 章│伊東正義の生き様 3 1 2 3 4 5 6 旧制浦和高校(現・埼玉大学) に入った。伊東さんは、会津中での四年間の思い出を、後年、 「私はそう した気風(質実剛健、信頼、誠実) が 身 に 染 み、 母 校 卒 業 後 も 私 の 信 念 信 条 に な っ て お り ま す 」 と 振 り 返 っている(『会津高校百年史』) 。 盟友・大平正芳との出会い 一九三三年(昭和八年) 、東京帝大に入学。一九三六年卒業と同時に農林省(現・農林水産省) に入った。 盟友・大平正芳さんも、同年、東京商科大学(現・一橋大学) を卒業して大蔵省に入った。二人の「出 会い」は、入省まもなくの農林、大蔵両省の若手官僚の野球試合。伊東さんは投手、大平さんは捕手 だった。試合後に繰り出した東京・銀座のおでん屋で痛飲した二人は、たちまち意気投合したという。 一九三七年、日中戦争が始まり、日本政府は、中国大陸に「興亜院」という名の行政機関を設置、 各省庁から若手官僚が出向、財務、農政、文化など大陸経営のための政策立案、実施にたずさわった。 伊東さんも、一九三九年から終戦まで興亜院勤務となり、上海、南京に暮らした。上海では赴任して きた大平さんと机を並べ、「オレ」「オマエ」の日々を過ごした。大平さんは、生前、その頃の思い出 として、伊東さんについて、「酔えば必ず『男いのちの純情……』を高吟し、時と場所を問わず寝て しまう奇癖の持ち主であった」と述懐していた。 伊東さんは、一九四四年、農林省に勤めていた三沢輝子さんと恋愛結婚したが、子宝には恵まれな かった。終戦の翌年、中国から引き揚げてきたが、東京・世田谷の私邸は戦災で丸焼けになっていた。 4 官舎もなく、住む家にも困り果てていた頃、大平さんから、 「オレの家に来いよ」と声がかかり、世 話になることにした。 その頃の大平邸は、東京・鶯谷にあった。敷地一二〇〇坪の屋敷。実は、大平夫人・志げ子さんの 実父・鈴木三樹之助さんが三木証券の経営者で“ムコ殿”のために提供したものだった。伊東さんは その離れ家を借りて、二年間、夫婦で暮らした。“居候の身”でありながら、伊東さんは、大平さん の子どもたちを、わが子のように可愛がり、風呂にも入れた。文字通り、二人の「マサヨシ」は、同 じ釜の飯を食いあって、絆を深めていった。 伊東さんは、一九四六年、農林省に復帰、農政局肥料課長となり、その後、会計課長、総務課長、 かね 食糧庁業務第一部長などを歴任。一九六一年、水産庁長官となり、翌年、役人としての頂点である農 林事務次官に就任した。 この間、伊東さんの「金に対するクリーンさ」を地でいく出来事があった。肥料課長の時に出くわ した「昭和電工事件」である。事件は芦田均内閣の時に起こった。食糧増産に欠かせない化学肥料の 大手メーカーである昭和電工が、当時の復興金融公庫から資金をかり出すために政府要人や官僚に贈 賄したという疑惑。まず、大蔵省主計局長の福田赳夫さん(後の首相) 、元自由党幹事長・大野伴睦さ ん、蔵相・栗栖赳夫さんらが逮捕され、次いで副総理・西尾末廣さん(後の民社党創始者) が逮捕される に 及 ん で 芦 田 内 閣 は 崩 壊 し た。 芦 田 首 相 自 身 も 総 辞 職 か ら 二 カ 月 後 に 別 件 の 収 賄 容 疑 で 逮 捕 さ れ た (この事件では、一四年後に栗栖さんの有罪が最高裁で確定したほかは、全員が無罪になった) 。 第 1 章│伊東正義の生き様 5 昭和電工の主管官庁が農林省肥料課だったため、同課も強制捜査され、周りの人はほとんど逮捕さ れたが、課長の伊東さんだけは無関係だった。後日、伊東さんは、 「オレはシロだとの確信はあった が、まわりの人間が次々にしょっ引かれるものだから、ぞっとした」と語っている。 一九五四年、食糧庁業務第一部長だった伊東さんは、政治家への道を歩むきっかけとなった政界の 実力者・河野一郎さん(河野洋平・元衆議院議長の父) に出会った。鳩山一郎内閣の農林大臣になった河 野さんは、コメの統制を外して自由化する構想をぶち上げた。これに対して、伊東さんは、「コメ不 足のときに、そんなことはできない。時期尚早だ」と強硬に反対した。 怒った河野さんは、伊東さんを東京営林局長に左遷、さらに半年後には名古屋営林局長に飛ばした。 ところが、一九五六年、経済企画庁審議官として霞が関にカムバックした伊東さんは、岸信介内閣の 経済企画庁長官として乗り込んできた河野さんと再び顔を合わせた。頑固で筋を曲げない姿勢が気に 入られたのか、同庁総合開発局長に起用された。河野さんが再び農林大臣になると、伊東さんはその 後ろ楯もあって水産庁長官、事務次官と一気に官僚の頂点まで駆け上った。 トタン屋根の家に暮らして 「政治家・伊東正義」の誕生は一九六三年(昭和三八年) 一一月に行われた第三〇回総選挙、福島県二 区から自民党公認で立候補、四九歳で初当選した。きっかけは、地元・会津若松市を中心とした「農 林事務次官の次は国政の場へ」との擁立運動。伊東さんは、すでに池田勇人内閣の外務大臣になって 6 いた大平正芳さんに相談、宏池会(自民党・池田派) から出馬することになった。このことを伝え聞い た河野さんは、春秋会(河野派) の領袖として、「オレのところに来い、大平なんて池田の子分で、将 来どうなるかわからんぞ」などといって口説いた。しかし、 「いつの日か、大平を総理の座に」と肝 に銘じた伊東さんは河野さんの誘いを断った。当時、大平さんは、まだ池田派に所属していたが、伊 東さんは、「オレは大平派」と公言、領袖の池田さんから、 「どこに大平派があるんだ!」と一喝され たこともあった。それでも、「大平を総理にするのがオレの務めだ」と言い続けた。 初出馬の際の新聞社アンケートには、「自分の長所は人の面倒を見ること。欠点は短気。好きな女 優は山田五十鈴。あてにしてなかった一万円が入ったら好きな本を買う。三日の休みがあれば山登り をしたい」などと答えた。 「政治家というより、田舎のおじさんタイプ」。伊東さんの秘書や後援会の人々の“伊東評”である。 いつも手ぬぐいを腰からぶらさげていた。「ポスト竹下」に擬せられた頃、東京・世田谷の伊東邸の 「赤茶けたサビだらけのトタン屋根」、JR会津若松駅にほど近い自宅・事務所の「トタンぶきの屋根、 風呂のない台所、八畳の居間、六畳の寝室があるだけ」が清貧の象徴として話題になった。 実際、伊東さんの衆院議員会館の東京事務所は、万年、貧乏世帯だったという。例えば、普通、秘 書の重要な役割は企業や団体を回って政治資金を集めることだが、伊東さんは、その種の指示を一切 出さなかった。「カネを集めることに腐心するより、政策といったやるべき仕事に打ち込め」が口ぐ せだった。官房長官、外相を務めたときも、政治資金集めのパーティーといったものは一切開かなか 第 1 章│伊東正義の生き様 7 った。「カネのかからない、かけない政治」を地でいった。 伊東さんは、かつて自らの経験を踏まえ、「ストライクばかりではよいピッチャーとはいえない」 「だが、オレは直球しか投げられない。変化球が投げられれば政界でも、もう少しうまく立ち回れる んだが……」と語ったことがある。 一九八七年一二月一五日夜、東京都内の中華料理屋で伊東さんの七四歳の誕生日を祝う会合があっ た。バースデーケーキを前に、「七〇歳で亡くなった大平より四年も長生きしたんだなあ」とつぶや いてローソクを吹き消した。続いて、あいさつで、「この際、遺言として言っておきたいことが二つ ある。私は死んでも叙位叙勲はもらわない。告別式も人の迷惑になるだけだからやらないでほしい」 と真顔で断言した(泉宣道・日本経済新聞政治部「補佐役に徹した男伊東正義」『日経ビジネス』一九八八年六 。 月六日) 。 その後、伊東さんは勲章を受ける話はすべて辞退、死後もいっさいうけとらないように言い残した。 この「遺言」は最後まで生かされた。 ─ だが、「告別式」については、そうはいかなかった 後藤田正晴さんの弔辞 伊東正義さんは一九九四年(平成六年) 五月二〇日午前五時過ぎ、肺炎のために亡くなった。享年八 〇。一年前に政界を引退した伊東さんは東京・世田谷の自宅で輝子夫人と静かに余生を送っていた。 8 最期を看取った最愛の夫人によると、「苦しむこともなく、眠るようにこの世を去りました」。 五月二三日、伊東さんの葬儀・告別式が東京・中野の宝仙寺で行われ、多くの人々が参列した。政 治改革のために共に汗を流した後藤田正晴・元副総理(当時、七九歳) が弔辞を読んだ。 一二月から始まる大平正芳内閣当時のことです。 一番思い出深いのは、昭和五三年(一九七八年) 第二次大平内閣(一九七九年一一月発足) は、半年後にまさかと思った内閣不信任案可決、そして衆 議院解散、総選挙、さらに選挙戦のさなかの大平さんの急死と、予期せぬことが続いただけに、 忘れられない日々でございます。 首相官邸の総理執務室に大平さんの遺影を飾って報告しながら、総理大臣臨時代理を務めてお られた当時のあなたの言葉、表情、一つ一つを思い出しております。思い出の二つ目は、リクル ート事件で国民の信を失った自民党を立て直すため、政治改革実現の戦いを進めたことでござい ます。 竹下登さん(首相) の後継自民党総裁に、あなたを推す声が党内で高まった時、あなたは「本の 表紙を変えても、中身が変わらんではだめだ」という有名なセリフをはいて、拒みました。 自民党の政治改革大綱を実行しなければならない段階になって、政治改革本部長にあなたをと いうことになりましたが、どうしても「うん」と言わない。私の説得に、あなたは、「党内に改 革をやろうという空気はないじゃないか」と反論されました。私は重ねてお願いをしました。 第 1 章│伊東正義の生き様 9 「ピエロで終わることもありうるだろう。が、それでも、むだとは思わんよ」と申しました。 「ピエロか、ピエロ」と二、 三回繰り返しながら考え込んでいた顔を、今も思い出しております。 「わかった」と言った後のあなたは、持ち前の誠実さと一途さを発揮されました。 あなたは、政治家の中では珍しく、愚直なまでの潔癖漢でもございました。自民党内には、そ ういうあなたを煙たがる空気もありましたが、この潔癖さこそが、いまの政治に最も大切なこと だと思います。 素顔の伊東正義 時の様子はといえば ─ 識がなかっただけに、文太さんは驚いたが、なにはともあれ、東京・霞が関の外務省を訪れた。その 「菅原君、ぜひお会いしたい。できれば大至急に来てほしい」 。それまで、伊東さんとはまったく面 に出演していた時、外相だった伊東さんから、突然、電話があった。 見知りの俳優・菅原文太さんに出会った。文太さんが一九八〇年、NHK大河ドラマ「獅子の時代」 告別式の前夜である五月二二日には、伊東さんの通夜が宝仙寺で行われた。そこで筆者(国正) は顔 菅原文太さん「ここにも侍がいた」 2 10
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