日本登山史 山崎安冶著

日本登山史
山崎安冶著より
1 山の発見
火の山日本
地球の歴史は二十億年におよぶ
日本列島の歴史は二億年前に起こった地殻変動で地中から
姿を現した。
一万年前にようやく列島の骨組みが出来上がった。
列島はいたるところ火の山であった。富士山もその頃出現し
たといわれている。
2 原始宗教における山岳崇拝
大自然の現象が、人々に人知を超越 した畏怖の念を抱かせ、
静かだった山々が噴火や地震などで一朝にしてすさまじい形
に変わるのを眺め、人間の力を超えた神の姿を見た。
日本の原始宗教、山岳崇拝が起った。
中世の登山
1 修験の始まり
日本の山岳信仰の中心であった、吉野山と大峰山、
文献上からは吉野山に入った最初の人「日本書紀」
に古人大兄皇子で、天知天皇の皇弟、大海人皇子
が壬申の乱の前年、身の危険を感じ吉野に入った
記録がある。
大峰山は持統天皇朱雀元年(686年)役小角によって
開かれたとつたと伝えられている。
六世紀の末ごろに、優れた験者が葛木山におり、伊
豆に流されたが、小角の流れを継いだ一群の修験者
たちが、日本全国の聖山、霊山を中心に修業を重ね、
山岳信仰は盛んになった。
中世の登山
2 信仰登山の発達
七世紀の奈良時代に始まった日本の山岳宗教は、
平安時代になるとさらに盛んになり、最澄が(785年)比叡山に
延暦寺を建て、空海は(816年)高野山に金剛峰寺を建て、
それぞれ天台、真言の宗派を開いた。
中世における高山への信仰登山
一般庶民の神社・仏閣への参詣登山とともに修験道が発達
するにつれて、各地の高山への登山も行われる様になった。
平安末期の「本朝世紀」藤原道憲が編んだ久安五年(1149)
四月十六日の条に、「駿河国の一上人が、富士上人と称して、
富士山に攀登すること数百度に及ぶとある。
近世の登山
1 戦略上の登山
応仁の乱(1467年)から織田信長が十五代将軍足利義昭を奉じて
上洛した永禄十一年(1568年)の群雄割拠の動乱期には、戦略上
の必要からその舞台に登場する。
信州の大門峠、飛騨の安房峠、越中のザラ峠は特に有名である。
2 諸藩の山林巡視
徳川時代には、日本全国が徳川幕府の支配下になったが、幕府は
諸藩に領地を与えたので、各藩とも山林の管理保護に力を注いだ。
3 諸国採薬登山
徳川時代には、本草学者によって各地の山岳に薬草を探るための
登山が頻繁に行われた。
4 北辺の探検と測量
十八世紀末から十九世紀初め、ロシアの南下に刺激され北辺探検
の気運が盛り上がった。最上徳内、間宮林蔵、近藤重蔵、松浦武四郎
など多数の探検家が現れ、千島、樺太、さらに遠く沿海州まで足を
伸ばし成果をあげた。
5 播隆の槍ヶ岳開山
中世からの信仰登山は、江戸時代になって一般庶民の間にも
広まっていった。
山上に大日如来、薬師、観音、などの仏像を安置している山の
多くは、江戸時代に開かれたものと見られている。
文政十一年(1828年)槍ヶ岳が播隆和尚によって開山された。
播隆はただ槍の穂に登っただけでなく、槍ヶ岳から西鎌尾根を
伝い双六池から抜戸岳を経て笠が岳までの縦走も記録している。
6 宗教登山の普及・・・講中登山の発生
江戸時代になり交通が発達し、民間信仰の特別の風習として神道
的な信仰による各地の神社、参詣する団体的な組織が見られる様
になった。伊勢講、金比羅講、稲荷講、富士講、大山講、月山講等。
7 文人、墨客の登山
徳川時代になると、古来からの宗教的なものばかりでなく、植物の
採集、山林巡視、測量。探検など多方面に広がりを見せてきた。
そうした登山とは別に、山登りを楽しむ風潮が一部の文人、医師、
画家などにうかがわれるようになった。
近代登山の芽生え
明治維新前後・・・外国人の富士登山
明治という新しい時代を迎え、さまざまな方面から大きな
盛り上がりを見せてきた。
ヨーロッパアルプスに生まれた近代登山の精神と通じる
山登りもいくつか行われはじめた。
近代登山は特別の功績、科学的目的から完全に離れて、
山登り自体のために企てられるものをいう。
地理学者志賀重昴が『日本風景論』を書き、気候、海流の
変化や、火山岩が多く、流水による浸食作用の激しい山が
多数あることで、人々に山登りを盛んに行うことをいた。
ウエストンは日本の高山の開拓者であり、探求者であった。
日本に宣教師として派遣され(明治20年~明治28年)7年
後ロンドンに帰国後『日本アルプスの登山と探検』を出版した。
日本山岳会の設立
日本山岳会の設立に大きな役割をはたしたのは烏水・小島久太であった。
これに博物同志会の武田久吉、高野鷹蔵、河田黙、梅沢親光が加わり、
さらに年配の弁護士城数馬が後見役となり、越後の地主高頭仁兵衛の援
助で、明治三十八年(1905年)十月十四日、東洋における最初の山岳団
体として山岳会は発足した。
日本人のアルプスへの進出
日本人で最初にヨーロッパ・アルプスに足を踏み入れたのは栗本鋤雲で
あった。『改定増補日本博物学年表』の慶応三年(1867年)の項に『八月、
栗本鋤雲、スイスに滞在中、アルプス山に登り、植物を採集す』と出ている。
日本アルプスの探検登山
明治三十八年、山岳会の結成と前後して若い登山者達は、飛騨山脈を
はじめ、赤石山脈、木曽山脈など、日本列島の屋根とも言うべき中部日本
の山岳地帯に進出した。完全な地図はもとより、案内書も無く、登山道や
山小屋などの登山設備は皆無であり、山そのものの位置、標高、名称も
明確に知られていない時代で、その登山はまさに探検の名にふさわしい
ものであった。
アルピ二ズムの勃興
1 槙有恒のアイガー東山稜登攀(1921年9月10日初登攀)
2 日本におけるアルピ二ズムの誕生
アルピ二ズムと言う言葉は、1900年代になってヨーロッパ
の登山界で使われるようになった。
言葉の意味はただたんに登る山と言う意味ですが、それは
雪線を持つ岩と雪と氷に閉された世界における登山行為の
ことを言う。
3 各地の山々の積雪期登山
大正末期から昭和初期にかけ日本アルプスだけでなく
各地の山々も積雪期に登られ、登山史に残る業績を
とどめている。
4 登山の高度化と大衆化