台日異文化比較研究 オリエンタリズム 導入 討論 【課題】 世界の国・地域に対してどんなイメージを持っているのか、どこ でもいいので3個所を決め、それらの国・地域のイメージをそれ ぞれできるだけたくさん列挙してください。 いいイメージも悪いイメージも両方挙げてください。そのとき、 そのイメージがどこから来たのかもあわせて書いてください。 (例)日本のイメージ ○清潔(テレビ、雑誌、自分の目で見た) ○時間観念が厳格(日本人の友人を見てそう思った) ●性倫理が厳しくない(インターネット) ↓ 【できるだけたくさん】 課題論文 エドワード・W・サイード/板垣雄三、杉田 英明監修・今沢紀子訳(1978=1993)「序 説」『オリエンタリズム〈上〉』平凡社 著者紹介 エドワード・W・サイード( إدوارد سعيدEdward Wadie Said, 1935年11月1日 - 2003年9月25 日) パレスチナ系アメリカ人、文学研究者、文学 批評家。 『オリエンタリズム』論構成 序説 第一章 オリエンタリズムの領域 一 東洋人を知る 二 心象地理とその諸表象――オリエントのオリエント化 三 プロジェクト 四 危機 第二章 オリエンタリズムの構成と再構成 一 再設定された境界線・再定義された問題・世俗化された宗教 二 シルヴェストル・ド・サシとエルナスト・ルナン ――合理主義的人類学と文献学的実証主義 三 オリエント在住とオリエントに関する学識――語彙記述と想像力とが必要とするもの 四 巡礼者と巡礼行――イギリス人とフランス人 第三章 今日のオリエンタリズム 一 潜在的オリエンタリズムと顕在的オリエンタリズム 二 様式、専門知識、ヴィジョン――オリエンタリズムの世俗性 三 現代英仏オリエンタリズムの最盛期 四 最新の局面 オリエンタリズム再考 参考(『オリエンタリズム』の評価①) ■ [杉田英明(1986=1993)「『オリエンタリズム』と私たち」エドワード・W・ サイード/板垣雄三、杉田英明監修・今沢紀子訳(1978=1993)「序説」『オリエ ンタリズム〈上〉』平凡社、p.346-7] 「サイードによれば、オリエンタリズムの根底にあるのは、「東 洋」と「西洋」とのあいだに本質的な差異があるとする、存在論 的・認識論的区分に基づく見方であるという。アイスキュロスや ダンテの時代から、「西洋」の人間にとって「東洋」とは、自分 たちの住まう空間とは全く異質な空間であり、曖昧性・敵対性・ 遠隔性の象徴であった。人間精神は、こうした異質で曖昧で未知 の実体を、一定のイメージや図式・語彙などによって表象するこ とで馴化し、自己に把握可能なものにしようとする傾向を持つ (心象地理)。これらの表象は、ヨーロッパの伝統のなかで次第 に強化され、オリエントに関する特定のイメージや決まり文句、 語彙、形象、観念、ドグマなどの総体を形成するようになる。や がてそれらは、西洋人がオリエントを眺めるさいのレンズの役割 を果たす一方、近代的文献学や比較言語学の発達に伴う専門用語 や職業的慣習・組織の確立とも相俟って、学術的なディシプリン (規律=訓練)を課され、制度化されて、オリエントに関するあ らゆる陳述を支配する画一的な権威(ないしは真理)へと育って いった。」 ■ [杉田英明(1986=1993)「『オリエンタリズム』と私たち」エド ワード・W・サイード/板垣雄三、杉田英明監修・今沢紀子訳 (1978=1993)「序説」『オリエンタリズム〈上〉』平凡社、p.3467] 「オリエントについてものを書く人間は、すでに書かれた テクストを引用することで、ますますこの権威を強化した。 また、実際にオリエントを旅し、オリエントに居住する西 洋人は、彼らがいかに想像力に富み、いかに個性的でいか に共感的であろうと、やはりこの権威から自由ではありえ ず、現地で自分の眼で見たものよりも、これらの権威の方 を信じたのだった。これは、オリエントが特定の権威のも とに表象され、再構成され、「生み出される」過程――オリ エントのオリエント化――であると言ってよい。そして、そ の過程の裏にはつねに、「彼らは、自分で自分を代表する ことができず、誰かに代表してもらわなければならない」 (マルクスの言葉)というドグマが潜んでいた。」 参考(『オリエンタリズム』の評価②) ■ [仲正昌樹・清家竜介・藤本一勇・北田暁大・毛 利嘉孝(2007)『現代思想入門』PHPエディター ズ・グループ、p.219―220] 「ところで、『オリエンタリズム』が画期的だっ た点は、それまで西洋の中で発展してきた構造主 義、ポスト構造主義、とりわけミシェル・フー コーの権力と言説の理論を、具体的に分析に用い て、西洋の知識がいかに非西洋――『オリエンタリ ズム』の議論では、中東のアラブ・イスラムの地 域――の支配と共犯関係にあったかを明らかにした ことである。」 ■ [仲正昌樹・清家竜介・藤本一勇・北田暁大・毛利嘉孝 (2007)『現代思想入門』PHPエディターズ・グループ、 p.219―220] 「よく知られる通り、フーコーは、『知の考古学』や『監 獄の誕生』において、伝統的な権力概念、国家を中心とし た抑圧や強制によって特徴づけられる権力以外の「権力」 の概念に注目して、独自の権力の理論を作り上げた。彼の 言う権力とは、暴力的な抑圧や強制によってではなく、身 体的な規律訓練(ディシプリン)、近代的主体の形成と積極的 で自発的な服従、そしてそうした実践を可能にするさまざ まなレベルの言説を通じて機能するものである。/ここで いう言説は、単に書かれた記述でもなく、伝統的なマルク ス主義がしばしば虚偽意識として描き出したイデオロギー でもない。それは、政治的実践を具体的にはらんでいる存 在であり、政治的な実践を配分すると同時に、それによっ て配分された巨大な組織的規律=訓練の装置である。」 ■ [仲正昌樹・清家竜介・藤本一勇・北田暁大・毛利嘉 孝(2007)『現代思想入門』PHPエディターズ・グルー プ、p.219―220] 「サイードは、この言説の理論を用いて、彼がオリエン タリズムと呼ぶ、「オリエント(東洋)」をめぐる言説 を分析しようとしたのだった。オリエントとは、西洋の 中にある「心象風景」である。それは、オリエントを西 洋の外部にあるものとして捉え、現実の世界に存在する さまざまな差異や葛藤を、オリエントの名の下に単純化 し、ステレオタイプ化し、その過程を通じてオリエント を理解し、支配しようとする。しかし、それは単にオリ エントを外部化するだけではなく、同時にオリエントを いわば鏡としながらそれと異なるものとして、普遍的で、 純粋で、無垢な「西洋」を構築するのである。」 ■ [仲正昌樹・清家竜介・藤本一勇・北田暁大・毛利嘉孝(2007) 『現代思想入門』PHPエディターズ・グループ、p.219―220] 「サイードにとってオリエンタリズムは、西洋がオリエン トに対して優位性を示し、支配し、管理し、西洋とオリエ ントの不均衡を維持するために生産された言説の網である。 あからさまに差別的で異国趣味としてのオリエンタリズム だけでなく、小説や旅行記、さらには、一般的な科学的な、 つまりは中立的な知として信じられているオリエントをめ ぐる地域研究、美学、経済学、社会学、歴史学、文献学が いかに、オリエントをめぐる地政学の権力を配分してきた のかを描き出そうとしたのだった。/この徹底的な検証は、 何かを対象として研究するという人文学や社会科学の欲望 が、そもそも西洋的な知の主体の形成としっかりと結びつ いてきたことも明らかにした。そして、このために、比較 文学や東洋学だけではなく、広く人文学やほかの地域研究、 比較文化研究に大きな影響を与えることになった。」 参考(『オリエンタリズム』の評価③) ■ [柄谷行人(1993)『言葉と悲劇』講談社、 p.360] 「西洋は、自らの外部に自らを超えるものを投 射する。それが、たとえば「東洋」であって、 そのような他者の表象において、自己批判が可 能となるのです。「東洋」とは、理性でないも の、言語でないもの、つまり西洋や近代でない ものすべてを含意します。それは実在するので はなく、自己反省の装置としてあるだけです。 逆にいえば、この装置は、他者、すなわち現に あるところの他者に直面することから人を保護 するのです。」 「序説」論構成 ○オリエント(東洋)=「ヨーロッパ人の頭のなかで つくり出されたもの」(p.17) 「其処として示すことのできるような単なる場所で はない。」(p.24) ※「「東洋(オリエント)」と「西洋(オクシデント)」 といった局所、地域、また地理的区分は、人間に よってつくられたもの」 =「一個の観念」(p.24) ↑ 【引用】ヴィーコ「人間は自分自身の歴史をつく る」、「人間が認識しうるのはみずからのつくった ものだけである」(p.24) 《「オリエンタリズム」の複数の意味》 ①「オリエンタリストのなす行為」 (p.20) →「オリエントの特殊な、または一般的な側 面について、教授したり、執筆したり、研究 したりする人物…その人物が人類学者、社会 学者、歴史学者、または文献学者のいずれで あっても」(p.19-20) 《「オリエンタリズム」の複数の意味》 ②「「東洋(オリエント)」と(しばしば)「西 洋(オクシデント)」とされるものとのあいだに 設けられた存在論的・認識論的区別にもとづく 思考様式」(p.20) →「詩人、小説家、哲学者、政治学者、経済学 者、帝国官僚を含むおびただしい数の著作家た ちが、オリエントとその住民、その風習、その 「精神」、その運命等々に関する精緻な理論、 叙事詩、小説、社会詩、政治記事を書きしるす さいの原点として、東と西とを分かつこの基底 的な区分を受け入れてきた」(p.20) 《「オリエンタリズム」の複数の意味》 ③「オリエントについて何かを述べたり、オリ エントに関する見解を権威づけたり、オリエン トを描写したり、教授したり、またそこに植民 したり、統治したりするための―同業組合的制 度」=「オリエントを支配し再構成し威圧する ための西洋の様式(スタイル)」 ↑十八世紀末=出発点(十九世紀初頭から第二 次大戦までは、イギリスとフランスがオリエン トとオリエンタリズムを支配、第二次大戦以降 はアメリカ合衆国が支配) ミシェル・フーコーの「言説(ディスクール)」 概念の援用 ミシェル・フーコー (Michel Foucault、1926―1984) KEYWORDS ■言説 ○「言説とは、陳述のシステム、それも、そのなかにおいて、 またそれをとおして世界を認知できる陳述のシステムであ る。フーコーのいう言説とは、伝統的な意味での「発話(ス ピーチ)」を指すのではなく、社会的知の堅固な領域を意味 している。フーコーにとって世界は、ただたんに「そこ」 にあって話題となるものではなく、むしろ言説そのもので あり、その言説の内部で世界は生み出される。またそのよ うな言説のなかで、話し手も聞き手も、作者も読者も、自 分自身について、自分と他者との関係について、世界にお ける自分の位置について理解できるようになる(主体性の 構築)。記号や諸実践から構成され、社会存在や社会的再 生産を組織化するこの言説という複合体が、経験とアイデ ンティティーのカテゴリー分けを決定する。」[ビル・ア シュクロフト+パル・アルワリア/大橋洋一訳 (2001=2005)『エドワード・サイード』青土社、p.3233] ○「フーコーが言説を論じるとき、そこでは制約や限 定に焦点があてられる。つまり、私たちは潜在的に は無限に多様な文章を言表することができるのだが、 驚くべきことに、事実上はきわめて狭く閉じこめら れた限界のなかで語ることを選択している、こう フーコーは考えている。言説的実践を特徴づけてい るのは「諸対象の切り取りであり、認識主体にとっ ての正当なパースペクティヴであり、諸々の概念や 学説を形成するための諸規範の正当化である」 (「知への意思―コレージュ・ド・フランス一九七〇 ―一九七一年度講義要旨」『集成4』邦訳一五八 頁)。」[Mills, Sara(2003)MICHEL FOUCAULT, Routledge.(酒井隆史訳(2006)『ミシェル・フー コー』青土社)p.97] 《「言説(ディスクール)」としてのオリエンタ リズムの検討》 「オリエンタリズムとは、「オリエント」なる 独特の存在が問題となる場合はいつでも、不可 避的にそこに照準が合わせられる(したがって またつねにそれに組み込まれることとなる)関 心の網の目(ネットワーク)の総体なのである。 本書は、このことがいかにして起こるのかを明 らかにしようとするものである。さらに本書で は、ヨーロッパ文化が、一種の代理物であり隠 された自己でさえあるオリエントからみずから を疎外することによって、みずからの力とアイ デンティティーを獲得したということも明らか にされるであろう。」(p.22) 《限定条件》 ■第一の限定条件 「オリエントが本質的に符合する現実をもたない観 念、あるいはつくられた想念であった、などと断定 してはならない。」(p.25) 「私が研究対象とするオリエンタリズムという事象 に主として関係しているのは、オリエンタリズムと オリエントとの符号・対応なのではない。「現実 の」オリエントと何らかの符号が存在しているか、 いないかなどということに関わりなく、つまりそれ らを超越したところで、オリエンタリズムに内在的 な論理整合性およびオリエント(生涯の仕事として の東洋)に関する諸観念が問題とされるのだ。」 (p.26) うーん、すばらしい絵ですね! 何これ? ただの落書きでしょ。 (這是什麼?) (只不過是塗鴨而已啦) どちらの感想が正しいのでしょうか? 25 わたしたちは「事実」を直接見ることができない (見ているのは、「解釈された事実」) 言語 意見の違いが生まれる 身体的差異 (性別・身長・体重) どちらかが正しい見方をしているわけではなく 習慣 文化 解釈 両方とも誤った見方をしている イデオロギー(主義) 言語 思想 身体的差異 趣味 先入観 ステレオタイプ 事実 (性別・身長・体重) 解釈 習慣 文化 イデオロギー(主義) 思想 趣味 先入観 ステレオタイプ 26 《限定条件》 ■第二の限定条件 「観念や文化や歴史をまともに理解したり研究した りしようとするならば、必ずそれらの強制力――より 正確に言えばそれらの力の編成形態(コンフィギュ レーション)――をもあわせて研究しなければならな い。」(p.26) 「オリエントがオリエント化されたのは、十九世紀 の平均的ヨーロッパ人から見て、オリエントがあら ゆる常識に照らして「オリエント的」だと認知され たからだけではなく、オリエントがオリエント的な ものに仕立て上げられることが可能だった――つまり オリエントはそうなることを甘受した――からでもあ る。しかしそこには、ほとんど合意というものが見 出されない。」(p.27) 《限定条件》 ■第三の限定条件 「オリエンタリズムは虚偽と神話からできあがったものにすぎず、 もしこの真実が語られるならば、虚偽と神話は一挙に吹き飛んで しまうなどと、絶対に考えてはならないことである。」(p.28) 「我々は、オリエンタリズムの言説の緊密にまとめあげられた力 や、強力な社会=経済的・政治的諸制度とそれとのきわめて密接 な結び付き、そしてその恐るべき持続力を軽んずることなく理解 しようと努めなければならない。」(p.28) ↑ オリエンタリズムに「持続力」と「力」を賦与するもの=「文化 的ヘゲモニーの作用の結果」(グラムシの概念) 「文化のような浸透性のあるヘゲモニー的システムの耐久力と持 続性とをよりよく理解するためには、このシステム内部の統制力 が、ただ抑止的なだけではなく生産的でもあるということを認識 しなければならない」(p.45) KEYWORDS ■ヘゲモニー 「ヘゲモニーは、もともと、同盟国間で、特定の一国家が他の国家を支 配することを意味する用語だったが、いまでは「合意による支配」を意 味すると一般に理解されている。この広い意味のほうは、一九三〇年代 にイタリアのマルクス主義者アントニオ・グラムシによって考案され一 般化したものだが、グラムシは、なぜ支配階級が社会においてみずから の利益を成功裡に伸張させるのかという問題を追求していた。グラムシ にとってヘゲモニーの起源は、支配階級にとって利益になることは、万 人にとって利益になることだと、支配階級が他の階級を言いくるめてし まう、その力のなかにあった。したがって、ヘゲモニーによる支配は、 力によるのではなく、また必ずしも積極的な説得にもよらず、ただ 経 済をとおして、また教育やメディアという国家装置をとおして、巧妙な、 また包み込むような力によってなされるのであり、これによって支配階 級の利益は、共通の利益として提示され、そのため当然視されるように なる。ヘゲモニーは帝国主義においても重要である。なぜなら植民地化 された人びとの思考は、植民地化された地域における帝国権力のきわめ て巧妙な操作によって変えられてしまうからだ。「帝国」は、中心をな す強国によって、強制的に支配された従属国家の集合体ではなく、中心 をなす強国の文化的ヘゲモニーが効率的に機能することによって達成さ れた統一体なのである。」[ビル・アシュクロフト+パル・アルワリア /大橋洋一訳(2001=2005)『エドワード・サイード』青土社、 p.83] 「東洋人(オリエンタル)の後進性に対する ヨーロッパ人の優越を繰り返し主張」 (p.30) 「オリエンタリズムは、依拠すべき戦略とし て、融通無碍に優越的位置を制することを常 道としていた。そのため西洋人(ウエスタ ナー)は東洋(オリエント)とのありとあらゆる 可能な関係系列のなかで、常に相手に対する 優位を保持することができた。」(p.30) 《方法論的障害》 ①「あまりにも教条的な一般性」による「不正確 さ」 「まったく問題にするにも値しないほどの過度に一 般的な記述レヴェルをめぐって、お粗末な論争に加 担することを余儀なくされる」こと(p.33) ②「あまりにも実証主義的に偏った個別的焦点」に よる「不正確さ」 「このオリエンタリズムの分野を特徴づけこの分野 に固有の論理を与える総体的輪郭をばいっさい見失 わせるほど、過度に詳細で微視的な分析に陥没する ことを余儀なくされる」こと(p.33) 《サイードの方法論が直面する現実の三局 面》(障害を取り除く方法) 1.「純粋な知識と政治的な知識との相違」 (p.34) 2.「方法論上の問題」(p.47) 3.「個人的次元」(p.67) 《サイードの方法論が直面する現実の三局 面》(障害を取り除く方法) 1.「純粋な知識と政治的な知識との相違」 (p.34) 「知識そのものは、…知識を生産する個人よりも、ど ちらかといえば党派性が薄いとは言える。しかしだ からといって、この知識がそのままただちに非政治 的だということにはならない。」(p.35-36) 「「真の」知識が基本的に非政治的であるとする (逆にあからさまに政治的な知識は「真の」知識で はないとする)一般的でリベラルな多数意見という ものは、知識の生みだされる時点でその環境として ある、たとい目には見えずとも高度に組織化された 政治的諸条件を、いかにして覆い隠すものとなって いるのか。」(p.36) 「人文科学におけるいかなる知識の生産であれ、その著 者が人間的主体として周囲の環境に巻き込まれているこ とをおよそ無視したり否定したりはできないということ が事実だとすれば、オリエントを研究対象とするヨー ロッパ人ないしアメリカ人が、彼らにとっての現実の主 要な環境条件を否定できないということもまた事実であ るに違いない」(p.38) ↑ 「ヨーロッパ人またはアメリカ人は、まず最初にヨー ロッパ人またはアメリカ人としてオリエントと直面し、 しかる後に一個人としてそれと直面する」(p.38) 「ヨーロッパ人、ついでアメリカ人がオリエントに抱い た関心は、すでに述べた明白な歴史的評価の若干によっ て判断する限り政治的なものであった」(p.39) ○「オリエンタリズム」の再定義 「オリエンタリズム」≠「文化、学問、制度 に外側から映し出された単なる政治的な研究 主題または研究分野」(p.40) ≠「オリエント関係の厖大なテクストのとり とめのない集合」(p.40) ≠「「オリエント的な」世界を抑圧しようと する「西洋の(ウエスタン)」なんらかの悪辣 な帝国主義的陰謀を表象したり、表現したり しているもの」(p.40) ○「オリエンタリズム」の再定義 「オリエンタリズム」=「地政学的知識を、美学的、学 術的、経済学的、社会学的、歴史的、文献学的テクスト に配分すること」(p.40) =「(世界を東洋(オリエント)と西洋(オクシデント)とい う不均等な二つから成るものに仕立て上げる)地理的な 基本区分であるだけではなく、一連の「関心」、すなわ ち学問的発見、文献学的再構成、心理学的分析、地誌や 社会誌の記述などを媒介としてつくり出され、また維持 されているような「関心」を精緻なものにすること」 (p.40) =「我々の世界と異なっていることが一目瞭然であるよ うな(あるいは我々の世界にかわりうる新しい)世界を 理解し、場合によっては支配し、操縦し、統合しようと さえする一定の意志または目的意識――を表現するものと いうよりはむしろ――そのもの」(p.40) オリエンタリズム=「言説(ディスクール)」 「言説(ディスクール)」=「生の政治権力と直 接の対応関係にはなく、むしろ多種多様な権力 との不均衡な交換過程のなかで生産され、また その過程のうちに存在する」(p.40-41) 「実は私が本当に言いたいことは、オリエンタ リズムが、政治的であることによって知的な、 知的であることによって政治的な現代の文化の 重要な次元のひとつを表現するばかりか、実は その次元そのものであって、オリエントにより はむしろ「我々の」世界のほうにより深い関係 を有するものだということなのである。」 (p.41) 参考 「言説としての学。それは知がすなわち行為で あるということである。しかしわれわれはつい、 認識論的観察者としてみずからを出来事から外 在化させる。行為としての知、それはとりもな おさず「真理のゲームのなかで自己自身を変化 させる試練」[Foucault1984:15]」である。」 [園田浩之(2001)「行為としてのフーコー― 構築主義/言説分析/オートポイエーシス―」 馬場靖雄編『反=理論のアクチュアリティー』 ナカニシヤ出版、第五章、p.191] 《サイードの方法論が直面する現実の三局 面》(障害を取り除く方法) 2.「方法論上の問題」(p.47) 「私が習得し紹介しようとした教訓の要点は、 単なる所与の出発点、つまり簡単に手に入れる ことのできる出発点といったものが存在しない ということ、すなわち端緒は、端緒に続くもの の存在を可能にするようなやり方で、研究計画 のひとつひとつに対してつくり出されなければ ならないということであった。……端緒という 観念、いや端を開くという行為は、限界を設定 するという行為を必然的に含んでいる。」 (p.47) 「テクスト研究者がもっているこうした導入 に関わる限定についての概念のひとつは、ル イ・アルチュセール〔フランスのマルクス主 義哲学者、一九一八―九〇〕のいう問題設定 という考え方である。それは分析から生じる ところのものであって、単一のテクストまた はテクスト群に対して特定的に範囲の限定さ れた統一を与えることである。」(p.48) 「ただしオリエンタリズムの場合には(…)、出発点 つまり問題設定(プロブレマテイク)を発見するという 課題だけではなく、研究にもっとも適したテクスト と著者と時代とを選択し確定するという問題をも解 決しなければならない。」(p.48) ↓ 「依然として残されたままの課題は、非常に肥大し た文書館の文献量を取り扱いやすい分量にまで切り 詰めるということであり、また必ずしも年代という 秩序に不用意に従うことなくテクスト群の内部にあ る知的秩序の性格に輪郭を与えるというさらに重要 な仕事である。」(p.49) 【テクストと著者の限定】 →イギリス・フランスの文献に焦点を絞ること →アメリカ合衆国の文献に焦点をしぼること 理由①「イギリスとフランスとがオリエントお よびオリエント研究において先駆的役割を果た しただけでなく、先駆者としての両国の地位が 二十世紀以前の両国の二大植民地網によって保 たれていたことが、厳然たる事実であると思わ れたから」(p.51) 理由②「私が近代オリエンタリズムと呼んだも のの興隆を背後で支えた聖書学に関して、最近 かなり重要な研究がなされたということ」 (p.52) 課題 「私は…ドイツ・オリエンタリズムの発展に ついては、何らかの機会にたまたま言及する ことはあっても、徹底的に議論するというこ とをしていない」(p.53) 【権威】 ○イギリス・フランス・ドイツ・アメリカの オリエンタリズムが共有したもの →「オリエントに対する西洋文化の内側での 一種の知的権威」 ↓ 「権威を扱うにあたって、…採用した方法論 上の主要な概念装置」 ①「戦略的位置選定」 =「著作家が題材として取りあげたオリエント的素材に対して彼 自身がテクストのなかでいかなる位置を占めているかを記述す るという手法」(p.56) オリエントを扱う著作家は、オリエントに対峙するような位置に自分 自身を位置づける ↓ 位置選定には、著者が採用する語り口の種類、著者が構築する構成の 類型(タイプ)、テクストのなかに繰り返し現われるイメージやテーマ やモティーフの類が包含されている ↓ これらすべたが合体することによって、オリエントを表象する―つま りそれに代わって語る―巧妙な方法となる ②「戦略的編成」 =「テクストのグループ、テクストのタイプ、 さらにテクストのジャンルが初めはテクスト 群自体のなかで、後には文化全体のなかで、 量と密度と参照能力(レファレンシャル・パ ワー)を増していくという過程と、テクスト の本体との間の関係を分析する手法」 (p.56) ○オリエントを扱う著作家は、オリエントについての何らかの 先例や予備知識の存在を想定して、それらを参照しそれらに 依拠する ○オリエントを題材とする作品は、他の作品・読者・制度・オ リエントそれ自体に帰属する ↓ 「作品」「読者」「オリエントのある特定の側面」との三者 間関係の集合が、ひとつの分析可能な編成を構成する (例)文献学的研究からなる編成 (例)オリエント文学の詞華集からなる編成 (例)旅行記からなる編成 (例)オリエント風の空想物語からなる編成 ↓ この編成は、適切な時機に言説(ディスクール)と制度(学校、 図書館、外交機関)のなかに現れることによって力と権威と を獲得する 【テクストの外在性の分析】 「権威を扱うにあたり、私が、オリエンタリ ズムのテクストに隠されているものの分析で はなく、むしろテクストの表層すなわちテク ストの記述に付随する外在性を分析しようと していることは明らかであろう。」(p.5758) 「外在性こそがオリエンタリズムの前提条件」(p.58) 「私は、オリエンタリズムのテクストを分析するにあたっ て、オリエントの「あるがままの」描写としての表象(レプ レゼンテーション)ではなく、代替〔レプレゼンテーショ ン〕としての表象(レプレゼンテーション)のけっして不可視 的ではない形跡に力点を置いている。」(p.58) 「表象の外在性をつねに支配しているのは、陳腐な決まり 文句、すなわち、「もしオリエントがみずから表象できる ものなら実際にそうしていることだろう。オリエントには それができないからこそ、表象という仕事が、西洋のため に、またやむをえず哀れな東洋(オリエント)のためになされ るのだ」という決まり文句の何らかの言い換えなのであ る。」(p.59) 「私が外在性を強調するもうひとつの理由は、文化的言説 (ディスクール)と文化的交換とに関連して、それらが文化の 内部に流通させているものはたいていの場合「真実」では なく表象なのだ、という事実が明らかにされなければなら ぬと考えていることにある。」(p.59) KEYWORDS ■表象 「問題の核心は、これらのオリエント表象が実在す るオリエントの現実を誤って表象しているというこ とではない。同時代の脱構築批評家が主張していた ように、表象は、現実との厳密な対応性を問題とす るならば全て誤表象である。むしろ重要なのは、オ リエンタリストが先行テクストの引用によって実在 するオリエントを排除しつつ(誤)表象を繰り返す ことによって、オリエンタリズムという「想像上の 博物館」が築き上げられていくプロセス、すなわち オリエントが「オリエント化」されるプロセスその ものに注目することなのである。」[大橋洋一編 (2006)『現代批評理論のすべて』新書館。P.79] 【フーコーとの差異】 「私は、私がその著作に多くを負っているミ シェル・フーコーとは違って、オリエンタリズ ムのごとき言説的編成を構成する、本来は著者 名を帯びていないテクスト集合体の上にも、 個々の著作家を特徴づける刻印が押されている と考えている。私の分析対象である巨大なテク ストの総体としての統一性は、テクスト同士が しばしば相互に参照しあっているという事実に 一部起因している。オリエンタリズムとは、結 局、著作と著者を引用するシステムなのであ る。」(p.63) 参考 「他の言説たち、そして他の言説たちを規則立てているエピス テーメーを対象として措定し、他者の言説たちを分析対象に自ら を繰り広げる〈私の言説〉において語っている者は誰か。〈言 説〉こそ、私の言語活動に〈私〉という発話の場所を支え、 〈私〉を〈主体〉として語らせている次元であるのだが、その 〈私〉によって、私の言説は、名前をもたない無数のことばたち の非人称なざわめきの匿名性から隔てられている。この言説の 〈私〉とは、心理的、伝記的、人格的実在としての人称的な代名 詞なのではなく、〈言説の機能=関数fonction du discours〉、他 の言説と同じレヴェルにおいて、それらの戯れのなかに置かれて いる言説の対話原理の指標なのだ。そのような〈言説の機能〉は、 間―言説性の関係性の場のなかに〈私〉を位置づけており、その ただ中から〈私〉は諸々の言説についてのメタ言説を繰り広げて いくことになる――」[石田英敬(2001)「フーコー、もうひと つのディスクール理論」山中桂一・石田英敬編『シリーズ言語態 1 言語態の問い』東京大学出版会] 【想定されたそれぞれの読者に対する「オリ エンタリズム」の意義】 ①「文学者と批評家」に対して ②「大学教授から政策立案者に到るまで現 代のオリエント研究者」に対して ③「一般の読者」に対して ④「第三世界の読者」に対して 《サイードの方法論が直面する現実の三局 面》(障害を取り除く方法) 3.「個人的次元」(p.67) 研究の個人的動機→「二つのイギリス植民地で少年時代 を過ごした人間としての私の「東洋人(オリエンタル)」意 識」 ↓ 「私はできるかぎり厳しく、また理性的に、みずからの 批評精神を失わないように努めてきた。私は、単に自分 の受けた教育が幸運にも私に授けてくれた歴史的・人文 科学的・文化的な研究手法や研究手段を利用しようとし ただけではなかったのである。しかも、その教育の過程 においてさえ、「東洋人(オリエンタル)」であるという文 化的現実とともに、「東洋人(オリエンタル)」としての歴 史的割り当てに自分自身が巻き込まれていることを一瞬 たりとも忘れたことはなかった。」(p.68) 来週の課題 課題 「ナショナリズム」に対する自分の考えを自 由に述べてください。(3分程度)
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