権威主義体制(3)「エジプト」(テキスト第1章の解説)

2015/5/11
中東の地理と基本情報
中東の比較政治:権威主義体制(3)
エジプト
C OMPARATIVE P OLITICS IN THE
M IDDLE E AST
浜中
新吾
緑色で囲った国は産油国
(日産1,000バレル以上)
宗教はイスラームが支配的だ
が、キリスト教徒や他の信仰
を持つ人々も居る
人口の半分くらいが25歳以下
(山形大学)
長期政権の多い中東諸国
エジプト共和制・ナセル
(2010年末まで)
国名
就任日
現職指導者名(年数)
前職指導者名(年数)
アルジェリア
1999年4月
ブーテフリカ(12)
ゼルアール(5)
エジプト
1981年10月
ムバーラク(29.5)
サーダート(11)
シリア
2000年7月
バッシャール(10.5)
ハーフェズ(29.5)
チュニジア
1987年11月
ベンアリー(23.5)
ブーテフリカ(30)
イエメン
1990年5月
サーレハ(21)
イラン
1989年6月
ハーメネイ(21.5)
ホメイニー(9.5)
リビア
1969年9月
カッザーフィー(42)
イドリスI世(18)
ヨルダン
1999年2月
アブダッラー2世
(12)
フセイン(46.5)
モロッコ
1999年7月
ムハンマド5世(12)
ハサン2世(38.5)
オマーン
1970年7月
カーブース(41)
サイード(38)
バハレーン
1999年3月
ハマド(12)
イーサ(37.5)
エジプト共和制・サーダート
 第三次中東戦争(1967年)に
敗北したナセルの後継者
 複数政党制を復活させる
 国民民主党を設立
 第四次中東戦争(1973年)後
イスラエルと和平を結ぶ

1952年に自由将校団のクーデ
タによって共和制へ

政権の基盤はエジプト軍


革命評議会による権威主義体制
第二次中東戦争(1956年)

英・仏・イスラエルとの戦争

政治的勝利を果たす

外交的には親ソビエト

解放機構を組織し、政党政治
を否定
エジプト共和制・ムバーラク
 1981年にサーダートが暗殺され、
後継者になる
 基本的にサーダート路線を継承
 1990年代に経済危機への対応か
らIMFの構造調整政策を導入
→2005‐08年度の間、7%台の経
済成長を果たす
 国営企業の民営化と開放経済に
 外貨導入による門戸開放政
策を採用し、社会主義経済
から脱却を目指す
よって恩恵を受けた実業家・富
裕層が台頭する
 親ソ路線→親米路線に転換
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旧与党・国民民主党
大統領を支える勢力・軍部
サーダート大統領から
引き継いだ政権与党


大統領を支え、議会を
支配する巨大政党
歴代エジプト大統領は
全員軍人の出身


経済自由化が台頭する
実業家層が入党、議員
となる
政府との関係で利権集
団化している



憲法で議会に大統領候
補指名権が与えられて
いるので、与党が多数
派にならねばならない

反対派を押さえ込む警察

治安警察・秘密警察が
「社会秩序の維持」を
名目に反対派を弾圧

弾圧を合法化する緊急
事態法

後に反体制運動の象徴
となる
中東の「社会契約」



エジプトでは政府がパンや牛乳
といった基礎食糧品や灯油など
の燃料の価格を補助金で安価に
抑えていた
ナセル期には大学・高等教育機
関を卒業した人には公務員の職
を斡旋していたが、サーダート
期以降、この仕組みは事実上破
綻していた
公務員は給与が低いため、副業
しないと生活できない
ムバーラク政権の自由
化政策は軍の既得権を
侵食しかねないもの
だった
国際関係におけるエジプト
警察官に暴行され殺さ
れたハレド・サイード

建設業・不動産業・
旅行業・食品加工
業・家電メーカー等
を保有

キャンプ・デービッ
ド合意(1978年)

アメリカによる支援

中東和平の仲介

非民主政権であって
もアメリカ政府に支
持される

アメリカの開発援助
予算の半分がエジプ
ト一国に支払われて
いたこともあった
キファーヤ運動(2005年)

エジプトで発生した大統領
多選を批判する運動

当時78歳だったムバーラク
大統領の再選は「キファー
ヤ(もうたくさん)」と主張

運動を押さえ込むために複
数立候補制を利用し再選

2011年エジプト革命との直
接の繋がりはない
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2013年7月クーデタ
政権の対抗勢力:ムスリム同胞団

ムスリム同胞団

エジプト最大の政治勢力

慈善団体でもあり、学校や病院を
数多く設立している

イスラームは貧しい人への支援を
信者の義務としており、同胞団に
寄付すれば確実に貧者救済に使わ
れる

2011年エジプト革命後、自由公正
党を組織し、人民議会選挙と大統
領選挙に勝利する
2013年7月・カイロ
タハリール広場

6月30日にタマッルド(反乱)が呼びかけたタ
ハリール広場の集会に100万人もの人々が集
結した

2012年選挙で政権の座に着いたムルスィー大
統領の辞任を要求

国政運営の是非をめぐって野党、司法、軍と
対立

国民生活が悪化、資本逃避・外貨収入不足、
治安が悪化し、物価が急騰する
2013年7月
カイロ大学
2013年7月・カイロ
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