伊藤和明 著 日本の地震災害 第3章 戦争に消された大震災 3051-6027 松本由真 方向性 終戦前後の5年間は→社会的混乱の時代 →日本列島の大地そのものも激動の時代 1943年 鳥取地震 1944年 東南海地震 1945年 三河地震 1000人規模の死者をだす 大地震が相次いだ 1946年 南海地震 1948年 福井地震 戦時下の、それも戦局が厳しさを増すなかでの震災だっただけ に、被害の実態はほとんど国民に知らされることはなかった。 →戦争によって、真実が消し去られた 震災だった 1.東南海地震 発生日時:1944(昭和19)年 12月7日 震源地:遠州灘から紀伊半島沖にかけての南海トラフ マグニチュード:7.9 特に、静岡・愛知・三重県下の被害が 大きかった。 死者・行方不明:1223人 住家の全壊:17,599戸 津波による流失:312戸 愛知・静岡の被害 軍需工場での被害 伊勢湾の北部、名古屋市から半田市にかけての港湾 地帯に立地していた軍需工場で多数の死者がでた。 なかでも悲惨だったのは… 戦時下の勤労動員で働かされていた中学生が数多く死傷し たこと ?なぜ多くの死傷者が出たのか? →航空機生産のために柱を何本も抜いて しまうなど、耐震への配慮がまったくなさ れていなかったため、激震によりたちまち 崩壊し、多くの人命を奪った 日本勧業銀行半田支店(銀座本町) 愛知・静岡の被害 静岡県下での被害 地盤の軟弱な大田川や菊川の流域(袋井、掛川など)に被害 が集中 今井村 336戸のうち322戸が全壊(全壊率95.8%) 山梨町 626戸のうち244戸が全壊(全壊率39.0%) 袋井 保育所が倒壊し、保母1人と園児21人が死亡 他にも学校や病院など公共の建物にも大きな被害がでた 『昭和19年東南海地震の記録』 袋井西小学校4年生 筒井千鶴子 手記によると先生は、空襲の爆風と思ったらしい。学校で は当時、空襲に備えた避難訓練しか行っていなかった。 「・・・ガラスの破片が体にささり、亡くなった人がいました。・ ・・頭の上には天井がおおいかぶさるようになっていました。 廊下に出た人達は、ひさしの大きなはりを直接、体に受け、 死亡したり怪我をしたりしました。・・・」 東南海地震による鉄道被害 (東海道本線袋井~磐田間での脱線) 諏訪市の”飛び地的”被害 長野県諏訪市:東南海地震の震源域から200km以上離れて いる にもかかわらず・・・諏訪湖の沿岸に発達している諏訪市は、 地盤が軟弱なため、震度6に相当する揺 れに見舞われた。 この日の諏訪警察署長の市民への布告 「本日・・・諏訪市を震源とする地震発生。 ・・・。」 市民に名古屋方面の大震災について 知る機会を与えない意図があったため。 →市民は戦後の長い間、この地震 を”諏訪地震”と呼んでいた。 諏訪市 震源域 諏訪市の”飛び地的”被害 諏訪市民が“諏訪地震”を東南海地震だと知るのは・・・ 地震後40年を経た1984年 東南海地震と知るまでの経緯 1984年 長野西部地震(M6.8)発生 大規模な土砂災害の被害 ↓ 1944年の“諏訪地震”への関心が高まり、有志が真相究明開始 ↓ “諏訪地震”が東南海地震であったと発覚 東南海地震による被害の実態が明らかになった →2002年 諏訪市を含む周辺6市町村が東海 地震に備えるための「地震防災対策強化地域」に 新たに編入された 熊野灘沿岸に大津波 東南海地震は海溝型の巨大地震だったため、熊野 灘沿岸には大津波が襲来 各地の津波の波高 尾鷲町 8~10m 錦町 7m 吉津村 6m前後 尾鷲町の被害 流失・倒壊家屋 548戸 死者・行方不明者 96人 錦町の被害 『錦町昭和大海嘯記録』 「・・・大津波が襲来・・・怒涛となって押し寄せ、・・・ 海岸沿いの大半の民家はたちまち将棋倒し・・・。 古材の上に乗って救いを求める者、・・・船が転覆 して溺死する者などがあったが、如何ともする術が なく、人びとは地団駄を踏んで泣き叫んだ・・・。」 尾鷲市の電柱に記された東南海地 震の津波の記録。家の2階の高さに 近い。 戦局悪化のなかで 多大なる震害と津波災害をもたらした1944年の東南海地震 →厳しい報道管制が布かれていたため、国民にはほとんど 知らされなかった 日本の戦局の変化 1941年12月 太平洋戦争開始 はじめの半年間は日本側の勝利の連続 1942年 劣勢に転じた 1943年10月 学徒出陣 1944年 勤労動員 1944年11月 初めての東京空襲 →いよいよ本土が空襲をうけるという危機感が広がり始める 1944年12月7日 東南海地震が発生 隠された大震災 軍部は戦局の劣勢をひたかくしにしていたうえに、 赫々たる戦果のみを強調 →国民はそのおかしさにうすうす気付いていた 軍部は、そのような空気のなかで日本の中枢が大震災に見舞 われたと公表すると国民の戦意喪失につながるのではと考えた 地震翌日(12月8日)の新聞の1面はすべて軍服姿の昭和 天皇の写真→「大詔奉戴日」だったため マスメディアは真実を伝えることさえ出来なかった ※皮肉にもアメリカは地震波の感知により、日本の中枢 部での大地震を知っていた。 2.三河地震 発生日時:1945(昭和20)年 1月13日未明、3時38分 マグニチュード:6.8 断層:地表に、延長約9km、上下のずれ最大2mの逆 断層 特徴:深溝断層の活動による内陸直下地震 被害:渥美湾沿岸の幡豆郡での被害がとくに大きく、死 者は2306人、住家の全壊は7221戸に及んだ。 住民のほとんどが就寝中だったため、瞬時に倒壊 した家屋の下敷きになり、圧死した人が多い。 海溝型の地震「東南海地震(M7.9)」に比べると、地震のエネル ギーは40分の1。しかし、犠牲者は2倍。 →内陸直下の地震が、いかに激甚な災害を招くかを物語っている 。 直下地震による惨状 『わすれじの記-三河地震による形原の被災記録』 「・・・上へ放り上げて、下へ叩きつけるような、それが凄い速さの連続だった。・・・ あたりは一瞬にして阿鼻叫喚の巷と化していた。・・・。」(小久保君江・19歳) 「・・・死亡された方の数が多いため火葬場で火葬することが出来ず、・・・集めて火 葬する・・・が、・・・空襲警報が発令させると急いで・・・火を消し、・・・解除になると 火をつけて火葬・・・空襲の発令、消火と、これを何度もくりかえして・・・。」(市川武 子・24歳) 深溝断層 疎開学童の悲劇 三河地震では、東京や名古屋から集団疎開してい た多くの学童が犠牲になった。彼らは寺に分宿してい た。 →寺院は、本堂の壁が少ない上に瓦屋根が重く、 耐震性が低い構造であったため 2300人の死者がでたにもかかわらず、三河地 震についての報道は希薄だった。真相はまったく 知らされなかった。 →疎開学童に多くの死者が出た現場では、駆けつ けた警察官が、生き残った子供たちに対して、「お 前たち、ここで見たことはなかったことにしろ」と命 令したほどだった。 制約された地震調査 東南海地震も三河地震も、当時の地震学者や中央気象台 関係者が、現地調査を行っている。それらの報告書は、各種 震害の状況や津波の波高、津波被害などのついての報告 が載せられており、貴重なものだった。 →それらはいずれも極秘扱いの報告書としてまとめ られたため、長らく一般の人の目には触れることは なかった。 調査に当たった学者たちもひとかたならぬ苦労をした •調査機器の不足 •写真撮影に当たって、憲兵隊や警察の許可が必要だった まとめ ・東南海地震での勤労動員の中学生の死や、三河地震 の疎開児童の悲劇など、災害における「戦争によって生 み出された犠牲者」が多くいた。 ・空襲警報によって形原では火葬さえろくに行えなかっ た。 →戦争さえなければ・・・という犠牲者があまりにも多くい る。 ・東南海地震・三河地震の記録が長らく人目につかなか った。 ・地震調査が制限されてしまった。 →戦争によって、日本の地震学、防災学の発展が阻害 された 感想 ただでさえ忌み嫌われる戦争の、災害をより悪化さ せる力というものを知って驚いた。違う視点から改め て、戦争の不当性というものが浮き彫りになった気が する。 参考 ・気象庁 http://www.jma.go.jp/jma/index.html ・http://www.hp1039.jishin.go.jp/eqchr/f6-12.htm ・尾張旭市 防災ホームページ https://www.city.owariasahi.aichi.jp/sosiki/gyosei/bousai/index.ht ml ・中京テレビ 防災ページ http://plus1.ctv.co.jp/emg/ ・幸田町 http://www.town.kota.aichi.jp/index.html
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