吉村 昭 発生日時 1923(大正12)年 9月1日 午前11時58分 震源地 相模湾北部 最大震度 7 マグニチュード 7.9 備考 昼食時であったため、家屋の倒壊によって134ヶ所から出 火。9月3日午後2時、鎮火。 また、当時は第一次世界大戦直後という不安定な国内情 勢の中、各地の自警団による朝鮮人虐殺、政府による社会 主義者弾圧など深刻な社会的問題も引き起こした。 群発地震 大正4年11月12日午前3時21分32秒、地震が発生し、その揺れは25分 間継続した。 その後もかすかな地震が続けて起こり、4時間半ほどの間に東京帝国大 学地震学教室内の地震計の針が21回揺れる。 翌日は、1日間だけで計35回の地震が記録された。 耐震性、耐火性に優れた建物が少なかった 特に、洋館や外国人に人気の高級ホテルなどは石造りであったため耐 震性がなく、最初の共振で崩壊した。 最大の発火原因となった薬品の管理が徹底されていなかっ た 十分な消火設備が広場に備わっていなかった 江戸時代に防火のため作られ、日除原と称された広場や広 い道路が無駄な場所と考えられ、民家で埋められてしまって いた 浅草観音付近 一人の鳶頭とそれに率いられた8名の組手が一般人を指導し、池の畔か ら2列縦隊に並べた避難民にバケツリレーをさせて社務所などに水を浴 びせ、観音堂への延焼を防ぐことができた。 和泉町、佐久間町 耐火構造建築物や道路を隔てた先のレンガ造りの建物など、防火壁の役 割を果たす物に周囲を囲まれている環境条件に恵まれた地域であるとと もに、住民が一致団結し自ら消火活動にあたった。 結果、消防署からの出動はなかったにも関わらず一般住民の力のみで町 が焼き払われるのを防ぐことができた。
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