韓國傳統醫學文獻と 日中韓の相互傳播 韓國韓醫學研究院 2003年11月20日 真柳 誠(茨城大學、 北里研究所東洋醫學總合研究醫医史學研究部) 「不通朝鮮醫學、 不可以説日本及中國醫學」 故・三木榮氏は『朝鮮醫學史及疾病史』を 完成させた1948年、自序にこの一文をあえ て漢文で記した。 漢字が3國の歷史的通用文字で、醫學も一 體不可分だからである。 これを例證する史實は多い。 本日は『醫方類聚』を擧例し、韓國傳統醫學文 獻の日韓中の相互傳播を説明したい。 『醫方類聚』の成立 本書266卷は金礼蒙らが命をうけ て1443年より編纂を開始、1477年 に30組が印刷されただけだった。 これが李氏朝鮮期ただ1回の出版 で、いま日本の宮内庁書陵部にの み、1組が現存。それには左の ごと く、毎册首に「醫學圖書」「躋壽殿書 籍記」「多紀氏藏書印」「大學東校 典籍局之印」「淺草文庫」「帝國博 物館圖書」「宮内省圖書印」がある。 つまりもと多紀氏江戸醫學館の藏 書で、明治維新後より大學東校→ 淺草文庫→上野の帝室博物館→ 宮内省に移管され、現在に至って いるのが解る。 『醫方類聚』の傳承 それでは多紀家にはどう伝えられたのだろうか。多 紀元堅の『時還讀我書』巻下は次のように記す。 『醫方類聚』は朝鮮國の醫書である。かつて仙臺の 醫者、工藤平助の家に所藏され、加藤清正が朝鮮 より掠歸したと傳えられる。それを父の多紀元簡が 大金で購入、寶藏した。 なお吉田篁燉の書簡集では、奈須玄眞宅で工藤平 助より本書の所藏を聞き、多紀元簡への譲渡を仲 介したと記す。 つまり豐臣秀吉の朝鮮侵略(1592~96)で加藤清 正軍の略奪した本書が、工藤家の所藏を介して多 紀家に傳えられたのである。 『醫方類聚』の價値 左圖に『千金方』と記すように、 本書は中國醫書の引用文を 類集する。153種以上のこれ ら引用書は唐・宋・元・明初に またがり、うち40種ほどはす でに現存しない。 また現存書でも、本書の所引 底本は散佚した古版本の場 合が多い。 それゆえ散佚書の復原、古醫 籍の校勘に有用で、江戸末期 の考證學者は本書を十分に 利用・研究した。 喜多村直寛の『醫方類聚』復刊 1 江戸時代末期に多紀氏江戸醫學 館に奉職した醫官の喜多村直寛 (1804~76)は、本書の復刊に多 大な貢獻を成し遂げた。 出版には相当な資金が必要だった。 直寛の復刊決意を知った同志がこ ぞって醵金したことは、多紀元堅の 醫方類聚序に記されている。 さらに直寛は1852年に徳川將軍か ら100兩を借金し、翌年から毎年10 兩を返濟していた。 1852年、本書の木活字出版が開 始された。左圖はその扉で、直寛の 書室「學訓堂」と活字版の中國式雅 稱「聚珍版」が記されている。 喜多村直寛の『医方類聚』復刊 2 多紀氏蔵の朝鮮版は、全体で 計12卷が缺けていた。 そこで直寛は澁江抽齋(1805 ~58)に請い、諸書を參考に 缺落部分を補足してもらったこ とが、元堅の序に記されている。 そして10年後の文久元年 (1861)、左木記のように復刊 が完結した。 朝鮮の初版から約400年、直 寛の盡力で第二版が日本に誕 生した。ただし直寛版も、日本・ 中國・韓國に約十組しか現存 しない。 直寛版の回歸 1 明治九年 (1876)、日 本と朝鮮 政府の修 好條約が 締結された。 直寛は外 務理事官 の宮本小 一に託し、 最適の禮 品として 『醫方類 聚』を朝鮮 政府へ贈 呈した。 直寛版の回歸 2 自國に久しく失 われた『醫方 類聚』に再會し た朝鮮の醫官 らは、直寛の 義擧を大いに 贊えたという。 しかし贈呈手 續書と朝鮮政 府謝辭の寫し が下賜された のは、直寛が 同年十二月に 卒した後だった。 直寛版による韓國・中國の復刻 1 この直寛贈呈本をもとに、韓國では日本支配 下でも出版が二回計劃されたが、朝鮮戰争 で斷念した。 戦後の1965年、韓國の東洋醫科大學、いま の慶煕大學は總計4893名を動員して直寛版 を模寫。これを影印出版したので、本書は やっと自國で廣く利用されるようになった。 當影印本は臺灣からも再影印出版されてい る 直寛版による韓國・中國の復刻 2 北京の人民衛生出版社も直寛版に基づく活 字本を1982年に出した。しかし、その1~4冊 は内容の一部を荒唐無稽との判斷で削除。 しかも全册にわたり各書の引用語句を通行 本で改惡するなど、著しく面目を失なっている。 2002年には北京の九州出版社が直寛版を 直接影印出版している。 中國・韓國・日本の文獻傳播 このように、本書は朝鮮→日本→韓國→臺 灣、また日本→中國という經由で世界に普及 している。 同様の例には鍼灸書の『神應經』など少なく ないが、今回は割愛する。 謝謝!
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