登録文化財の詳細説明 小西朝陽館について ○名称及び建築年代 こ に し ちょうようかん 小西 朝 陽館 ご てん 御殿:明治45年(1912) しんごてん 新御殿:昭和7年(1932) からもん わき べい 唐門及び脇塀:大正3年(1914) げんかん 玄関:明治45年(1912)頃 つ き み だい 月見台:昭和7年(1932) もん ご し ょ べい 門及び御所塀:大正3年(1914) 以上6件 ○所在地 大阪市阿倍野区橋本町 13-2 他 ○登録基準 基準(一) 国土の歴史的景観に寄与しているもの: 門及び御所塀 基準(二) 造形の規範となっているもの: 御殿、玄関、新御殿、月見台、唐門及び脇塀 ○建造物の説明 阿倍野晴明通北側にある小西朝陽館は、道修町で薬種業を営んでいた3代目小西久 兵衛によって明治 40 年(1907)より建設の進められた別荘です。個人の別荘としてだ けでなく、皇族や政府要人などの来阪時の宿泊所としても用いられました。建物は日 本の伝統的な建築様式を近代的なスケールで使用し、華やかにまとめていることが特 徴です。このたび御殿、玄関、新御殿など6件が登録されることになりました。 御殿は最も主要な建物で、広間の天井を格式ある折上格天井とし、アールヌーボー の影響のうかがえるシャンデリアが灯ります。御殿へのアプローチとなる玄関は床面 が敷瓦で覆われ、禅宗寺院風の趣をもっています。新御殿は広間を皇族の謁見室とし て絨毯敷きの椅子座としたため、天井高が高くつくられています。月見台は御殿と新 御殿をつなぐ廊下から張り出した四畳半の茶室で、唐門は京都山科の毘沙門堂中門の 写しとされる華麗なものです。御所塀は切石積の基礎の上につくられ、屋敷地を堅固 に画しています。 以上のように小西朝陽館は、近代における皇族や政府要人の地方での滞在施設のよ うすを知ることのできる建物であり、当時の財界人の文化の高さを示す重要なもので あるとして、登録基準(一) (二)に該当すると評価されました。 ※アールヌーボー:19 世紀末から 20 世紀初頭にかけてヨーロッパを中心に開花した国際的な美術運動。花や 植物などのモチーフや自由曲線を用いた装飾が特徴。 日本民家集落博物館について ○名称及び建築年代 に ほ ん み ん か しゅうらくはくぶつかん 日本民家 集 落 博物館 か わち ふ せ ながやもん 河内布施の長屋門:江戸末期/昭和 34 年(1959)移築 どうじま こめぐら 堂島の米蔵:江戸末期/昭和 25 年(1950)改修、昭和 35 年(1960)移築 きたかわち ちゃしつ 北河内の茶室:嘉永4年(1851)/昭和 20 年代、平成 17 年(2005)移築 以上3件 ○所在地 豊中市服部緑地1—2 ○登録基準 基準(二) 造形の規範となっているもの ○建造物の説明 日本民家集落博物館は、豊中市に所在する大阪府営服部緑地内に所在する野外博物 館で、日本各地の民家が移築復元されており、多くが文化財指定されています。この たび館内の長屋門など3件が登録されることになりました。 河内布施の長屋門は、博物館の門として来館者を迎えています。桁行 15m、切妻 造、本瓦葺の大規模なもので、東大阪市の旧家に江戸末期に建てられたものを移築し た格式を伝える建物です。堂島の米蔵は、切妻造本瓦葺、妻入の土蔵で、曲がり材の 梁を使った小屋組が特徴的です。かつて堂島の蔵屋敷に江戸末期に建てられたもので、 天下の台所と呼ばれた当時を偲ぶ貴重な遺構です。北河内の茶室は切妻造茅葺で簡素 で落ち着いた意匠の茶室と機能的な勝手・水屋をまとめた質の高い建物です。創建は 嘉永4年(1851)で、北河内を代表する豪農屋敷に建てられました。昭和 20 年代に 近隣の屋敷地に移築され、平成 17 年に博物館が寄贈を受けたことで再度移築されま した。 以上のように日本民家集落博物館内の、長屋門、米蔵、茶室は、近世大阪の発展を 物語る重要な歴史的建造物であり、登録基準(二)造形の規範となっているものに該当 すると評価されました。 ※堂島の蔵屋敷:江戸時代堂島には米会所が設けられ、周辺には諸大名の蔵屋敷や商人による諸施設が集まって いたが、明治維新後、近代化の波によってその姿を消した。 要家住宅について ○名称及び建築年代 かなめけじゅうたく 要家 住 宅 おもてしょいん 表 書 院 :江戸中期/平成 16 年(2004)改修 うちぐら 内蔵:江戸中期 はな しょいん 離れ書院:元文3年(1738) かねのとぐら 唐戸蔵:江戸末期 みちぐら 道蔵:江戸後期/平成8年(1996)改修 どうぐぐら 道具蔵:江戸末期/平成5年(1993)改修 おもて な が や も ん 表 長屋門:江戸後期 なかもん 中門:江戸後期 うちながやもん 内長屋門:江戸末期 にわもん へい 庭門及び塀:江戸末期 ど べい 土塀:江戸末期 以上 11 件 ○所在地 貝塚市畠中2丁目 310 他 ○登録基準 基準(一) 国土の歴史的景観に寄与しているもの:内蔵、唐戸蔵、道蔵、道具蔵、中門、 庭門及び塀、土塀 基準(二) 造形の規範となっているもの:表書院、離れ書院、表長屋門、内長屋門 ○建造物の説明 要家は貝塚市に所在する岸和田藩七人庄屋を務めた旧家です。このたび屋敷地に残 る歴史的建造物 11 件が登録されることになりました。 表書院は要人を迎える公用の座敷です。格式ある構えですが、藩主が倹約を旨とし ていたことから簡素な意匠としています。離れ書院は私的な書院であり、釘隠、引手 金具、欄間など細部意匠を凝らし華やかに飾ります。離れ書院の東にある内蔵は、敷 地内で最も古い蔵です。敷地東側には唐戸蔵、道蔵、道具蔵がコの字に配置されてい ます。敷地南側の通りに面して建つ表長屋門は、長大なもので七人庄屋の格式を今に 伝えています。内長屋門は表長屋門に直行して建ち、表書院前と主屋との間の空間を 明瞭に区画するもので、類例がほとんどなく貴重です。中門や庭門及び塀は、屋敷地 内の景観を整える構成要素です。土塀は広大な屋敷地を囲む塀で、優美な曲面を描き 庄屋の豪壮な屋敷構えを構成し歴史的景観に寄与しています。 以上のことから要家住宅は登録基準(一) (二)に該当すると評価されました。 ※岸和田藩七人庄屋:江戸時代岸和田藩主の岡部氏は村々の支配を円滑に進めるため、領地内の庄屋のうち経済 的・政治的に力のある七人を選び出し、村々への触れの伝達や訴えを取りまとめるなどの調整係や行政的な 役割を与えた。 金剛寺について ○名称及び建築年代 こんごうじ 金剛寺 ほ ん ぼ う じ ぶつどう 本坊持仏堂:江戸中期 ほんぼうだいげんかん 本坊大玄関:明治 44 年(1911) ほんぼうわたりろうか 本坊渡廊下:大正期 ほんぼうおもてもん 本坊 表 門 :明治後期 あま の が わ とうがんきゅうしいん つ い じ べい 天野川東岸旧子院築地塀:江戸中期 きゅうしん ぷくいんおもてもん 旧 真福院 表 門 :江戸中期 だいこうどうしょくどう 大講堂 食 堂 :昭和 17 年(1942) ほんぼうきゃくでん 本 坊 客 殿:江戸中期/平成3年(1991)改修 ほんぼうおくでん 本坊奥殿:大正2年(1913) ほんぼうちゃしつ 本坊茶室:明治 44 年(1911) むりょうじゅいん こもりどう 無量寿院・籠 堂 :明治中期 きゅうりしゅいんおもてもん 旧理趣院 表 門 :江戸中期 だいこうどう 大講堂:昭和 17 年(1942) ちんじゅばし 鎮守橋:昭和 16 年(1941) 以上 14 件 ○所在地 河内長野市天野町 996 他 ○登録基準 基準(一) 国土の歴史的景観に寄与しているもの:客殿、大玄関、奥殿、渡廊下、表門、 無量寿院・籠堂、築地塀、旧理趣院 表門、旧真福院表門 基準(二) 造形の規範となっているもの:持仏堂、茶室、講堂、大講堂食堂、鎮守橋 ○建造物の説明 金剛寺は河内長野市に所在する南河内の名刹です。重要文化財が多数所在していま すが、このたび境内江戸期に建てられた旧子院の建物、明治期に子院を統合した際に 格式を整えるために整備された建物、昭和前期に楠木正成を顕彰するために建てられ た大規模講堂など、まとめて 14 件が登録されることになりました。 持仏堂、客殿、築地塀、旧理趣院表門、旧真福院表門は多くの子院が建ち並んだ江 戸時代の境内景観を今に伝えるものです。大玄関、奥殿、渡廊下、茶室、表門は明治 に入って以降整備されたもので、旧子院群が本坊に統合されたのちに格式を整えたも のです。無量寿院・籠堂も明治以降の建物と考えられますが、一部は旧子院の建物を 継承している可能性があります。また大講堂,大講堂食堂,鎮守橋は昭和期に入って 建てられたものです。 以上のように金剛寺境内には複数の時代の歴史的建物が数多く残っていることか ら、登録基準(一) (二)に該当すると評価されました。 ※子院:本寺の境内にあり、本寺に付属する小寺院をさす。 写 真 写真1 写真2 小西朝陽館 御殿(左)と月見台 日本民家集落博物館 北河内の茶室 写真3 要家住宅 写真4 金剛寺 表書院 本坊奥殿
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