ふるさととの出会い、 ときめきへの旅。 郷土文化資料館 第 48 号 2016 年(平成 年) 月発行 初公開写真 現墨田区向島2丁目から水戸街道を望む(昭和21年頃・江畠 和一氏提供) 東京大空襲から戦後復興へ 会期:2016年2月20日 (土)~5月8日 (日) 戦 後 7 0 年 の 節 目 の 年にあたる や 資 料 を 通して 明らか にします 。展 復 興 計 画 の 理 念 の も と で 、現 実 の 2 0 1 5 年( 平 成 2 7 )2 月 か ら 翌 年 度 示 で は 、近 年 、飛 躍 的 に 研 究 が 進 ん 復 興 が い か なる過 程を経 て 進 ん で に か け て 、資 料 館 で は 東 京 大 空 襲 で い る 空 襲 前 後 の 空 撮 写 真・地 上 いった の かという問 題 につ い て 、と に 関 わ る 3 本 の 企 画 展 を 計 画しま 写 真 や 米 軍 作 成 の 被 災 地 図 、当 館 くに 当 館と東 京 大 空 襲・戦 災 資 料 セ し た 。本 展 示 は そ の 第 三 弾 に 当 た 所蔵の当時の町並み地図や絵画な ンタ ー が 共 同 研 究 を 積 み 重 ね てき り、今 回 は 昭 和 2 0 年 代 の 墨 田 区 域 ど の 関 連 資 料 を 比 較 検 討 し 、空 襲 た 空 襲 犠 牲 者 の 仮 埋 葬・改 葬・慰 霊 を 中 心に、空 襲 被 害とそこからの 復 前 後 の 町 の 変 化 につ い て 微 細 な 復 事 業 にス ポットを 当 て 、そ の 成 果 を 興 過 程 に つ い て 、新 た な 研 究 成 果 原 を 試 み ま す 。ま た 国 や 都 の 戦 災 詳しく展 示・紹 介して い きます 。 前回までの空襲関連企画展で 開しま す 。 は 、近 年 発 見 さ れ た「 都 内 戦 災 殉 ■向島区の仮埋葬地 難者霊名簿」 ( 東 京 大 空 襲・戦 災 資 「 調 書 」に よ れ ば 、向 島 区 内 で 発 料 セ ン タ ー 蔵 。以 下「 霊 名 簿 」)の 生した 空 襲 犠 牲 者 の 仮 埋 葬 地 と そ 研 究 成 果 の う ち 、空 襲 当 日 の 火 災 の 埋 葬 遺 体 数 は 、原 公 園 3 6 4 人 、 延 焼 過 程 と 避 難 の 実 態( 第 1 回 )と 吾 嬬 西 公 園 2 5 0 人 、法 泉 寺 1 3 6 人 ともに 、 「 霊 名 簿 」に 記 さ れ た 個 人 の 合 計 7 5 0 人 と な っ て い ま す 。ま と そ の 家 族 の 物 語( 第 2 回 )を 紹 た 、こ の 7 5 0 人 は 、 「 調 書 」で は す 介 し ま し た 。今 回 は 展 示 の 1 コ ー 写真2 隅田公園の仮埋葬 (東京大空襲・戦災資料センター提供) ナ ー で 、本 資 料 から 空 襲 後 の 仮 埋 9 2 % 以 上 が 身 元 不 詳 の た め 、ほ と の 総 数 と 記 さ れ て い ま す 。そ こ で 葬 に つ い て 新 た に 検 討した 研 究 成 んどの 遺 族 は未だに遺 骨を引き取 「 霊 名 簿 」で 死 亡 場 所 が 向 島 区 内 果 を 公 開しま す 。そ こで 本 号 で は 、 れ ず 、ま た 家 族 が ど こ に 仮 埋 葬 さ の 町とさ れ て いる人 た ち の 仮 埋 そ の 成 果 の 一 部 を 紹 介した い と 思 れ て い た の か すら 知 ること が で き 葬 地を確 かめて みます 。 「霊名簿」 います 。 な い まま 今 日 に 至って い ま す 。 上 、仮 埋 葬 地 を 記 載し 死 亡 場 所 が そ こ で 今 回 、私 た ち は 、約 3 万 人 向 島 区 内 の 人 は 、合 わ せ て 3 7 人 分 の 犠 牲 者 の 情 報 を 記 録し た「 霊 ( 全 体 の 約 5 % )で 、寺 島 町 4 人 、 名 簿 」に 、一 部 、 「遭難地」 (以下、 吾 嬬 町 西 2 4 人 、吾 嬬 町 東 9 人 に と 死 亡 場 所 )と 仮 埋 葬 地 が 併 記 さ れ ど まり ま す 。こ の う ち 寺 島 町 の 犠 て い る 箇 所 が あ ることに 注 目し 、 牲 者 全 員 が 法 泉 寺 、吾 嬬 町 西・吾 写真1 都内戦災殉難者霊名簿 (東京大空襲・戦災資料センター提供) 死 亡 場 所と仮 埋 葬 地 の 相 関 関 係 嬬 町 東 の 合 計 3 3 人 の う ち 、3 1 人 の 統 計 的 分 析 を 試 み まし た 。そ の ( 9 4 % )が 原 公 園 に 、錦 糸 公 園 と ■ 仮 埋 葬と戦 災 復 興 結 果 、空 襲 後 の 遺 体 収 容 が 町 別 に 吾 嬬 西 公 園 に 各 1 人( 3 % )が そ れ 3 月 1 0 日 の 大 空 襲 で は 、一 夜 ど の ような エリア に 分 け て 実 施 さ ぞ れ 仮 埋 葬 さ れ て い ま す 。隅 田 町 で 10 万 人 以 上という膨 大 な 数 の れ 、ど こ で 収 容 さ れ た 犠 牲 者 の 遺 の デ ー タ が な く 、ま た 全 体 の 件 数 人 々 が 犠 牲 に な った た め 、都 区 で 体 が どこに 仮 埋 葬 さ れ た の か と い がきわめて少ないため明 言はでき は 、遺 体 を 火 葬 に 付 し て 遺 族 に 引 う 問 題 に つ い て 、そ の 全 体 的 傾 向 ま せ ん が 、寺 島 町 な ど 向 島 区 北 部 き 渡 す こ と が 困 難 に な り 、や む を を 把 握 で きるように なりました 。以 で 収 容 さ れ た 遺 体 の 多くは 法 泉 寺 得 ず 、公 園・寺 院 境 内・学 校 な ど に 下 、現 墨 田 区 域 を 対 象 に 試 み た 犠 に 、ま た 吾 嬬 町( 西・東 )な ど 向 島 犠 牲 者 を 一 時 的 に 土 葬( 仮 埋 葬 ) 牲 者 の 死 亡 場 所と仮 埋 葬 地 の 相 区南部で収容された遺体は原公 す る こ と に な り まし た 。東 京 の 戦 関性についての分析結果の一端 園 に 合 葬 さ れ た こと が 推 定 さ れ 、 災 復 興 は 、破 壊 さ れ た 町 の 再 建 と を 提 示 し ま す 。た だし 仮 埋 葬 人 数 「 調 書 」が 指 摘 す る よ う に 収 容 さ と も に 、戦 災 を 受 け た 人 々 の 精 神 を 記 録し た「 戦 災 殉 難 者 仮 埋 葬 地 れ た 犠 牲 者 の 多 く は 、上 記 の 3 箇 的 な 回 復 が 必 要 で あ り 、そ の た め 調書」 (『 戦 災 殃 死 者 改 葬 事 業 始 末 所 に 分 け 仮 埋 葬 さ れ た と 考 えら れ にこ れら 仮 埋 葬 さ れ た 犠 牲 者 の 遺 記 』東 京 都 慰 霊 協 会 、1 9 8 5 年 。以 ます 。 体 を 掘 り 起 こし 、そ の 慰 霊 体 制 を 下「 調 書 」)に み える 仮 埋 葬 者 総 数 構 築 す る と と も に 、遺 骨 を 遺 族 に は 、個 別 埋 葬( 氏 名 判 明 遺 体 で 個 引き渡す改葬事業が不可欠の課 別 に 埋 葬 )7 9 7 5 人 、合 葬( 氏 名 不 題 で し た 。そ こ で 都 は 、1 9 4 8( 昭 詳 の 遺 体 で 合 同 埋 葬 )7 0 6 4 3 人 の 和 2 3 )年 度 か ら 3 か 年 か け て 仮 埋 合 計 7 8 6 1 8 人 に 及 び ま す が( 実 際 葬者の改葬及び仮埋葬地の再整 に は そ れ 以 上 とさ れ る )、そ のうち 備 事 業 を 実 施 し 、1 9 5 1 年( 昭 和 「 霊 名 簿 」で 仮 埋 葬 地 が 判 明 す る 2 6 )3 月 、関 東 大 震 災 の 犠 牲 者 を 人 数 は 全 体 で 6 5 3 8 人( 8 . 3 % )に 慰 霊 す る 施 設 で あった 震 災 記 念 留 まり ま す 。し た が っ て 正 確 な 実 堂( 墨 田 区 横 網 )に 掘 り 起 こし 火 数 に 基 づ く 検 討 は で き ず 、区 ご と ■本所区の仮埋葬地 葬 し た 犠 牲 者 の 遺 骨 を 納 め 、9 月 に ば ら つ き も あ りま す が 、全 体 の 「 調 書 」に よ れ ば 、本 所 区 内 の 1 日 、震 災 記 念 堂 を 東 京 都 慰 霊 堂 統 計 的 な 傾 向 を 把 握 す るに は 有 意 仮 埋 葬 地 の 埋 葬 人 数 は 、隅 田 公 と 改 称 し まし た 。し か し 犠 牲 者 の な 件 数 と 考 え 、そ の 検 討 結 果 を 公 園( 本 所 側 )3 6 8 2 人 、錦 糸 公 園 べ て 向 島 区 内 で 発 生した 死 亡 者 絵1 向島区・原公園の仮埋葬(土田 宏 画) 1 2 8 9 5 人 、菊 川 公 園 及 び 菊 川 国 民 学 校 校 庭 4 5 1 5 人 、中 和 公 園 3 8 5 0 人 、江 東 公 園 5 0 人 、緑 町 公 園 3 2 0 人の合計25312人です。 「 調 書 」に は 、本 所 区 内 で 発 生 し た 死 亡 者 は す べ て 上 記 の 仮 埋 葬 地 に 埋 めら れ た と 記 さ れ て い ま す 。しかし「 霊 名 簿 」を 検 討 す る と 、 「 調 書 」と は 異 なる遺体収容過程の実態が見え て きま す 。 ま ず「 霊 名 簿 」か ら 本 所 地 区 で 収容され仮埋葬地に運ばれた遺 体 数 が 10 人 以 上 の 町と橋に対 象 を 絞 り 、そ の 件 数 を カ ウ ント す る と 、東 駒 形 6 8 人 、平 川 橋 1 9 人 、 橋 1 3 人 、横 川 橋 2 4 人 、石 原 町 1 7 0 人 、亀 沢 町 8 2 人 、緑 町 3 8 人 、江 東 橋 11 人 、竪 川 7 4 人 、菊 川 11 4 人 、 柳 原 町 2 1 人 と な り ま す 。次 に 、こ の 人 々 の デ ー タ を 基 準 に 、各 町 で 絵3 本所区・緑町公園の仮埋葬(田熊 貞三 画) 死 亡 し た 人 が ど こ に ど れ くら い 埋 南 、亀 沢 町( 1. 2 % ) ・緑 町( 5 . 3 % ) す 。ま た 大 横 川 に 架 か る 橋 に お い 葬 さ れ た の か 、仮 埋 葬 地 の 埋 葬 比 は石 原 町と竪 川に挟まれた本 所 て も 同 じ 傾 向 が 確 認 で き 、町 と 同 率 を 試 算 し て み ま す 。ま ず 石 原 町 南 部 に 位 置 し て い ま す 。つ まり 隅 名 の 平 川 橋・横 川 橋・江 東 橋 の 3 橋 犠 牲 者 の 5 8 . 2 % 、東 駒 形 犠 牲 者 の 田 公 園 に は 、例 外 は あ る も の の 、 では犠 牲 者 の 7 0∼10 0 % の 人々 4 1. 2 % 、 橋 犠 牲 者 の 2 3 . 0 % が 隅 お も に 東 側 を 大 横 川 、南 側 を 亀 沢 が 錦 糸 公 園 に 仮 埋 葬 さ れ まし た 。 田 公 園 に 仮 埋 葬 さ れ て い ま す 。そ 町 北 辺 付 近 で 区 切られ た 地 区 の これら の 橋 の 死 亡 者 で 隅 田 公 園 れ に 対 し て 、緑 町 、菊 川 、亀 沢 町 、 内側の町々で収容された遺体が に搬送された人は、 「 霊 名 簿 」で は 平 川 橋 、横 川 橋 、江 東 橋 、竪 川 、柳 運 ば れ 、とくに 石 原 町 で 死 亡 し た 一 人 も 確 認 で き ま せ ん 。し か し 一 原 町 犠 牲 者 のうち 隅 田 公 園 仮 埋 人 々 が 多 かった 事 実 が 推 定 で き 方 、同 じく隅 田 公 園 で の 埋 葬 数 が 葬 者 の 占める割 合 は0 ∼ 5 . 3 %に ま す 。し か し そ れ で も 、隅 田 公 園 少 な かった 竪 川 以 南=竪 川・菊 川・ す ぎ ず 、そ の ほ と ん ど が 隅 田 公 園 仮 埋 葬 者 は 、石 原 町 死 亡 者 全 体 の 柳原町や竪川北側の緑町死亡者 以 外 の 仮 埋 葬 地に搬 送されていま 約 6 割 、東 駒 形 死 亡 者 の 約 4 割 、 で は 、錦 糸 公 園 に 仮 埋 葬 さ れ た の す 。こ の 点 は 、各 町 と 隅 田 公 園 と 橋 死 亡 者 の 約 2 割 を 占 めるにす ぎ は 竪 川 5 4 . 1 % 、菊 川 5 3 . 5 % 、緑 町 の 立 地 関 係 か ら 説 明 で き る でしょ ず 、残 り の 遺 体 の 多 くは 本 所 区 内 5 2 . 6 % 、柳 原 町 1 4 . 3 % に 留 まり 、 う 。隅 田 公 園 仮 埋 葬 0 % の 犠 牲 者 最 大 の 仮 埋 葬 地 と なって い た 錦 糸 こ れら の 町 で 収 容 さ れ た 遺 体 は 、 の 死 亡 場 所=平 川 橋・横 川 橋・江 東 公 園 に 運 ば れ たと 考 えら れ ま す 。 本 所 区 菊 川 公 園と菊 川 国 民 学 校 橋 は 大 横 川 以 東 で 、0 ∼ 1. 8 % の 竪 錦糸公園に仮埋葬された犠牲 校 庭 の ほ か 、そ の 多 くが 深 川 区 猿 川・菊 川・柳 原 町 は 竪 川( 河 川 )以 者の収容地は、 「 霊 名 簿 」か ら 本 江 公 園 を 中 心 に 東 陽 公 園・森 下 公 所区内のほぼ全域に及んでいた 園 と い っ た 他 区 に 分 散・埋 葬 さ れ こ と が 分 か りま す が 、そ れ で も 死 まし た 。大 横 川 南 部 の 菊 川 橋 の 場 亡 地 別 に 微 細 に 見 て い くと 、特 徴 合 、犠 牲 者 の 6 9 % は 猿 江 公 園 に 運 的 な 傾 向 が 認 めら れ ま す 。ま ず 隅 ば れ 、残 り の 死 亡 者 の う ち 、2 1 % 田公園の仮埋葬数が少ない大横 の人たちの遺体が錦糸公園に仮 川 以 東 の 町=平 川 橋・横 川 橋・江 東 埋 葬されて います 。 橋 の 死 亡 者 は 、そ の 8 2 ∼ 1 0 0 % と こうし た 死 亡 場 所 と 仮 埋 葬 地 の いう圧 倒 的 多 数 が 錦 糸 公 園 に 運 特 徴 的 な 相 関 関 係 から 、軍 や 警 察 ば れ 仮 埋 葬 さ れ た こと が 判 明しま の 遺 体 収 容・搬 送 作 業 が 、大 横 川 絵2 仮埋葬前の中和公園で遺体を燃やす軍人 (金田 昌子 画) と亀 沢 町 北 辺 付 近 を 結 ぶ ラインを 境 界とする行 動 範 囲 に規 定 さ れ つ つ 行 わ れ た 可 能 性 を 指 摘 で きる か もし れ ま せ ん 。そ し て 以 上 の 事 実 か ら 、本 所 区 の 仮 埋 葬 地 に は 本 所 区 内 で 発 生した 3 月 1 0 日 の 犠 牲 者 が 埋 めら れ たと いう「 調 書 」の 記 述 は 、必 ず し も 実 態 を 正 確 に 表 し た も の で は な い こ と が 分 か りま す 。 絵4 猿江公園に並べられた仮埋葬前の遺体 (中村 俊子 画) とくに 亀 沢 町 以 南 の 本 所 区 南 部 の 仮埋葬されたのは、 橋犠牲者の 町 や 橋 で 亡 くなった 犠 牲 者 の 多 く 3 8 % 、言 問 橋 犠 牲 者 の 3 5 % に 留 は 、深 川 区 猿 江 公 園 を 中 心 に 深 川 まり 、蔵 前 橋 犠 牲 者 に 至 っ て は わ 区・城 東 区 な ど 隣 接 区 の 公 園・寺 社 ず か 8 % に す ぎ ま せ ん で し た 。実 境 内 地 に 搬 送 さ れ 、仮 埋 葬 さ れ た はこれら の 橋 で の 犠 牲 者 の 多く の で す 。菊 川 2 丁 目 に 暮 らし て い は 、下 谷 区 の 上 野 公 園 と 錦 糸 公 園 た 中 村 俊 子 さ ん は 、3 月 1 0 日 の 空 に 運 ば れ て い まし た 。上 野 公 園 に きる の で す 。 襲 で 父 と 弟 を 亡 くしました が 、翌 4 は 、実 に 蔵 前 橋 犠 牲 者 の 9 2 % 、言 言 問 橋 で 家 族 4 人 を 亡 くし た 狩 月 2 8 日 頃 、猿 江 公 園 で 父 と 弟 の 遺 問橋犠牲者の61%、 橋犠牲者の 野 光 男 さ ん は 、空 襲 直 後 に 上 野 公 体 を 発 見 し まし た 。遺 体 の 顔 に は 2 9 % が 仮 埋 葬されて います 。 橋 園 の 一 角 に あ る 両 大 師 に 行 き 、そ 土 が か け ら れ て い まし た が 、衣 服 犠 牲 者 は 錦 糸 公 園 が 3 3 % と 、上 野 こで 膨 大 な 数 の 遺 体 が 並 べら れ た と持 ち 物 から父と弟と分 かりました 公 園 よりも や や 多 くな っ て い ま す 光 景 を 目 撃 し まし た( 絵 5 )。遺 体 ( 絵 4 )。中 村 さ ん の 絵 は 、菊 川 付 が 、蔵 前 橋・言 問 橋 の 収 容 遺 体 の は 溺 死 や 凍 死した 犠 牲 者 が 多 かっ 近 で 亡 くなった 人 た ち の 多 くが 猿 多数は上野公園に仮埋葬された た た め か 、国 民 服 の 名 札 か ら 身 元 江 公 園 に 仮 埋 葬 さ れ た と す る「 霊 と い え る でしょう。ち な み に「 霊 名 を 特 定 で き そうな 人 た ち が 大 勢 い 名 簿 」の 記 載 を 裏 付 け る 、重 要 な 簿 」に 仮 埋 葬 地 を「 隅 田 川 」と 記し たとい い ま す 。後 日 、狩 野 さ ん もこ 証 言 となって い ま す 。 て いる犠 牲 者 は1 7 5 人 確 認 できま こに 父 親 の 遺 体 が あった 事 実 を 確 ■ 隅 田 川 の 橋 で 亡くなった 人 々 す が 、そ の う ち 5 0 % が 隅 田 公 園 、 認 し まし た 。狩 野 さ ん の 絵 と 証 言 隅田公園際に立地する言問橋 4 7 % が 上 野 公 園 に 搬 送 さ れ 、そ の は 、上 野 公 園 を 隅 田 川 や 言 問 橋 で の ほ か 、隅 田 川 の 橋 に お け る 犠 牲 他の仮埋葬地に運ばれた犠牲者 亡くなった 犠 牲 者 多 数 の 仮 埋 葬 地 者 は 、川 沿 い の 隅 田 公 園 に 仮 埋 葬 は わ ず か 3 % に す ぎ ま せ ん 。隅 田 とみる上 記 の 検 討 結 果を裏 付 け、 されたのではないかと考えがち 川 と そ こに 架 か る 橋 で 収 容 さ れ た そ の 実 態 を 明ら か に す る 上 で 貴 重 で す 。し か し「 霊 名 簿 」の 分 析 結 犠 牲 者 の 遺 体 は 、一 部 の 例 外 を 除 な 手 が かりとなって い ま す 。 果 は 、そ れ と は 異 な る 実 態 を 明 ら く多 数 が 隅 田 公 園 と 上 野 公 園 に 分 か にし て い ま す 。実 は 隅 田 公 園 に け て 運 ば れ 、埋 め ら れ た と 推 定 で 隅田川・言問橋 隅田川・ 橋 グラフ 隅田川の各橋で亡くなった人々の仮埋葬地 絵5 上野両大師・遺体置き場 (狩野 光男 画) て る お (専門員 田中禎昭) 隅田川・蔵前橋
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