造形基礎論ノート(4) 実際の見えと線遠近法

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Title
造形基礎論ノート(4) 実際の見えと線遠近法
Author(s)
織田, 芳人
Citation
長崎大学教育学部人文科学研究報告, 53, pp.35-49; 1996
Issue Date
1996-06-28
URL
http://hdl.handle.net/10069/33376
Right
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長崎大学教育学部人文科学研究報告第53号35∼50(1996)
35
造形基礎論ノート(4)
実際の見えと線遠近法
織田芳人*
The note of Fundamentals for Artistic Work(4)
Actual View and the Linear Perspective
Michito ODA
1一はじめに
私たちが日常において見るものは三次元の空間である。そのような空間を私たちが立体
感あるいは遠近感をもって知覚する要因には,生理学的なものと心理学的なものとがあっ
た。1)そのなかの心理学的要因は逆に,空間を立体感・遠近感をもたせて描く方法と見る
こともできる。なかでも「線遠近法」は,空間を再現的に描く方法としてよく知られてい
る。
しかし,線遠近法で描かれた空間は,ほんとうに私たちの眼に見えるとおりなのだろう
か? そこで本論においては,実際の見えと線遠近法に係わる問題を考察してみよう。
2一視線
(1)視線の移動
線遠近法では,私たちの眼に見える広がりのなかで,その中心となる視線,すなわち視
軸を固定しなければならない。ところが実際はそうではない。私たちが造形に係わるとき,
ほとんどの場合,制作しつつある物体をていねいに見ていくだろう。ていねいに見ていく
ということは,視線がゆっくりと,しかも細かく移動していくことである。2)そして,そ
のことは,線遠近法にいう視軸が固定されず移動することを意味している。
たとえば,エルンスト・マッハが『感覚の分析』3)のなかで示した「左眼に映る映像」
(図1)を見てみよう。左眼全体としては,確かにこのように映るように思える。しかし,
私たちは一度に,すなわち,ある一瞬にこのように見ているだろうか? そうではないと
私は考える。仮に私がこうした図を描いてみるとすれば,私は,左眼の視野に入るすべて
に視線を向けていかなければならない。そうしなければ,何一つ確かな形を描くことはで
きないからである。漠然と見るのではないかぎり,私たちは視線を動かしながら見ている
のである。
*長崎大学教育学部美術科教室
織 田 芳 人
36
」
図1 E.マッハによる
左眼に映る映像
図2 ギブスンによる左の眼窩の瞬時的視野
J.J.ギブスンもエルンスト・マッハと同じような図(図2)を示して,次のように
述べている。
ここに図示されているのは,頭は固定したままで眼が動かせる場合の左眼の静止した
視野であり,……。この絵の場合には,描いている人は視野の周辺の細部を,はっき
りと見るために眼をあちこちに動かさなければならない。4)
ギブスンが述べるとおり,何かを描こうとするとき,そして何かをつくろうとするとき
にも,視線の移動はさけられないはずである。
(2)眼球の構造
いま見てきたように視線が動き回るということは,人間の眼の構造からも必然的なこと
であるらしい。池田光男によれば,人間の眼では網膜の中心の機能が最も優れているため,
その中心を活用しようとして,視線の向きを絶えず変えるのだという。
網膜の中心窩は,視力,色覚の抜群に優れた機能をもっていて,人間の眼は徹底し
て網膜中心重点主義である……。すると当然のことながら,その場所を集中的に活用
するということになる。すなわち,見たいと思う外界の対象物の像が,ちょうど中心
窩に結像するように視線をそちらに向けるのである。見たいと思うところは数多くあ
るはずだから,視線は絶えず向きを変える。……。いいかえれば,眼球運動というの
は,網膜中心重点主義の必然の結果である。5)
このように,私たちが対象を精確に見ようとすれば,じっと見る,すなわち凝視するこ
とになる。しかし,凝視すると,眼には対象のなかの一点とそのごく近辺のほかは見えな
くなる。対象全体を同時に精確に見ることはできないのである。したがって,私たちが対
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象全体を精確に見るには,対象を構成しているさまざまな細部へ視線を移動させていかな
ければならないだろう。
3一線遠近法
(1)周辺部のゆがみ
線遠近法においては,視軸を中心として頂角60度の直円錐を仮想し,これを有効視野とす
る。この有効視野に収まる物体と眼のあいだに,視軸に直角をなす透明な平面を設定して,
物体へ向けられた視線がその透明な平面を通り抜ける点を求めていく(図3)。そのような
点を無数にとっていけば,平面上には,ほぼ人間の眼がとらえるような物体の形や物体相
互の位置関係が描かれることになるという。6> ここで「ほぼ人間の眼がとらえるように」
というのは,人間の眼とまったく同じに描かれるわけではないからである。いわゆる,線
遠近法における「周辺部のゆがみ」であり,別にいえば,線遠近法の作図結果と実際的な
見えとのずれである。
イタリア・ルネサンス期のピエロ・デッラ・フランチェスカやレオナルド・ダ・ヴィン
チは, 「正面向きの列柱広間,あるいはそれと似たような,客観的に等しい構成要素が列
をなしている建造物を,精密遠近法的に作図すると,各部分の太さが周辺にゆくに従って
増してゆく」7)ことを図解で説明していたという(図4)。
画面
対象物
有効視野
600
視軸
人一
’ 、、
図3 線遠近法
0
図4 レオナルドによる「周辺のゆがみ」の説明
α=γ<β,しかしAB=EF>CD
織 田 芳 人
38
C
E
J
F
a
a
H
α
β
B
D
S A
b
b
図5 線遠近法(左)と「角度の遠近法」 (右)の比較
線遠近法では,見かけの大きさ(HSとJS)は距離(ABとAD)に反比例する。しかし,
「角度の遠近法」では,見かけの大きさ(βとα+β)は距離(2bとb)に反比例しない。
美術史家パノフスキーは, 「周辺部のゆがみ」の要因として,いま述べたような線遠近
法(パノフスキーによれば平面遠近法)の作図から生じる必然的な結果だけでなく,視野
の球面性も指摘した。すなわち「われわれが固定した一つの眼で見るのではなく,つねに
動いている二つの眼で見ており,そのため『視野』が球面状になる」8)という。さらにパ
ノフスキーは,私たちの眼の恒常性や網膜の凹面性も「周辺部のゆがみ」の要因と見なし
た。9)そして,それらの影響によって「われわれの視覚器官は直線を(像の中心から見れ
ば凸面に轡冠した)曲線として知覚する」10)のだと主張した。そうした曲面的な知覚の図
式を,パノフスキーは,直線を直線として投影する線遠近法に対して「角度の遠近法」と
よんでいる(図5)。11)
(2)角度の遠近法
パノフスキーのいう「角度の遠近法」によれば,私たちの眼がとらえる物体や物体相互
の位置関係はどのように描かれるのだろうか?
そのまえに,線遠近法と実際の見えとのずれを具体的な例で考えてみよう。たとえば垂
直に立つ円柱を見るとする。さて,視線が円柱に水平に向かうとき,いいかえれば視線が
円柱に直角にあたるとき,線遠近法に基づいてその円柱を描けば,図6「画面p」のよう
円柱
P
画面P
図6 線遠近法による円柱の全体図
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円柱
画面a
画面b
画面。
図7 線遠近法による円柱の部分図
になるだろう。
しかし,円柱の上部を描こうとするときには,先に述べたように,じつは視線はその上
部へ向けられているはずである。仮に,視線が円柱上部の点Aへ向かっているとき,線遠
近法を適用すれば,点Aの近辺は図7「画面a」のように描かれることになる。次に,視線
が円柱中央部の点Bへ向かっているときには,線遠近法に基づけば,点Bの近辺は図7「画
面b」のように描かれるはずである。同じことが,視線が円柱下部の点Cへ向かっている
ときにもいえて,点Cの近辺は線遠近法によれば,図7「画面。」のように描かれるだろう。
いま,円柱に向けられた三つの視線について考えてみた。そのとき,線遠近法の適用範
囲を,視線が向かう点の近辺としたのは, 「周辺部のゆがみ」をできるだけ少なくするた
めだった。とはいえ,範囲をあまりに狭くすると,全体が見えてこないことにもなる。
さて,固定された眼から円柱に向けられる視線は無数にある。そこで,円柱に向けられ
た視線について線遠近法を適用するとき,視線の軸(視軸)を多くとれば,それだけ「周
辺のゆがみ」を減少させることになり,また全体も見えてくるだろう。それは,実際の見
’
」
図8 グイド・ハウクによる「主観的遠近法」(左)と線遠近法(右)の比較
織 田 芳 人
40
えに近づくことを意味している。したがって視軸を無限にとると「周辺のゆがみ」は消失
して,実際の見えとなるはずである。これがパノフスキーのいう「角度の遠近法」である。
垂直に立っている円柱の場合には,図7から容易に推測されるように,中央部が太く湾曲し
たものとして見えているはずなのである。
これまで見てきた垂直に立つ円柱の例では,視線が上下に動くときの実際の見えを考え
ているが,視線が左右に動くときにも同じように考えられる。すなわち,水平に眼の高さ
に置かれた円柱を見るとき,視線が左右に動くことになり,やはり中央部が太く湾曲した
ものとして見えることになる。
パノフスキーも,直線を曲線として知覚することを考慮して描かれたグイド・ハウクの
’、平面図
‡箋蓼ひ
、
、
、
、
、
ヘ へ
、、 、、
、、 、、
、 “
二・
,r2φ
遠近法図
/ 側面図
図9 パノフスキーが示した「角度の遠近法」
による「四角い部屋」
1鋤
図10 篠田和義が訂正した「角度の遠近法」
による「四角い部屋」
戸11窓を通して見た中庭の合成写真
(P.グリーン=アーミティジ)
造形基礎論ノート(4)実際の見えと線遠近法
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スケッチ(図8)を示しながら, 「正確に言うなら,垂直線もまた軽く反らされねばならな
いことになろう」12)と述べている。ところが,パノフスキーが「角度の遠近法」の例とし
て示した「四角い部屋」 (4枚の仕切板がある) (図9)には,曲線は存在していない。そ
の作図自体が誤りだったのである。黒田正巳はこの誤りを指摘し,篠田和義による訂正図
(図10)を示した。13) ゴンブリッチが『イメージと目』14)のなかで,実際の見えの例とし
て提示した「窓を通して見た中庭の合成写真」 (図11)も「角度の遠近法」的表現である。
4一人間の眼とカメラ・オブスクーラ
(1)類似性
線遠近法によれば,三次元の空間に存在するさまざまな物体が一つの平面上に投影され
ることになり,その投影された像は,私たちの眼に映る像と同じとされる。それは,よく
カメラ・オブスクーラにたとえられる。吉積健は,映像芸術を論じるにあたって,次のよ
うに記している。
このカメラ・オブスクーラによって生じる反映像は,外界の事物の視覚的側面を線
遠近法的に再現する。それはわれわれの眼球の網膜上に映じる反映像と,原理的には
同じであるので,それは眼球の簡単な模型ということになる。……。ところで,写真
機や映画カメラ,さらに今日のビデオ・カメラは,いずれもこのカメラ・オブスクー
ラの技術的発展であり,同様にそれらはまた,われわれの眼球の,より洗練された機
械的モデルということになる。15)
『オックスフォード西洋美術事典』によれば,カメラ・オブスクーラとはラテン語で「暗
い部屋」という意味であり,
これは密閉された箱あるいは部屋からなり,一方の側に開けられた小さな穴を通して
外の明るく照らし出された情景が穴の反対側の面に逆転した映像として映し出される。
つまり原理的には写真機と変わるところがない。16)
と説明されている(図12)。さて,私たちの眼がカメラ・オブスクーラにたとえられると
,撫四二摩
一
一
w
図12 日食観測用カメラ・オブスクーラ
(ブリシウス,1545年)
織田芳人
42
線遠近法による
投影像
眼球
対象物
網膜面
X
u
a
網膜像
α
y
b
V
γ
C
W
図13 カメラ・オブスクーラにたとえられる眼球
Z
図14 パノフスキーによる
「周辺のゆがみ」の説明
すれば,図13のように表わすことができるだろう。これによれば,人間の眼に映る像と線遠
近法による投影像とは,前者が倒立像,後者が正立像という違いはあるものの,確かに同
じといえそうである。
ところで網膜は,生面ではなく曲面である。したがって,網膜に映る像も曲面であるは
ずである。17)だが,そのような網膜像を,私たちは平面的に知覚しているのか,それとも
曲面的に知覚しているのかという問題がある。
パノフスキーは,先に述べたように,線遠近法における「周辺部のゆがみ」の要因とし
て,その一つに網膜の凹面性をあげている。彼は図14を示しながら,次のように説明する。
…… 「またとえば一つの線分が二点で区分され,その三つの部分abcが同じ視角で
見られるとすると,客観的には不等なこれら三つの部分は,凹面に平曲した面上には
一したがって,網膜上には一だいたい等しい長さで投影される[U=V=W]が,
それに反して平面上にはそのもともとの不等な長さで投影される[y<x=z]。な
によりも写真撮影の際にわれわれ誰しもが気づくいわゆる「周辺部のゆがみ」が生ず
るのもこのためであり,そしてこれによってこそ平面遠近法によって作図された画像
が網膜像と違ったものになるのでもある。18)
しかし,佐藤康邦は「遠近法の虚構と真実」のなかで, 「われわれの視知覚像,すなわ
ち脳中枢が受け取る像が網膜像と異なっている」19)ことの一つの例として, 「網膜は凹形
の球面をなしているのにわれわれは平面に映ったものとして対象を処理する」2。)ことをあ
げている。さらに佐藤は,そのことについて下記のような註もつけている。
パノフスキーもゴンブリッチも,網膜が凹形であるにもかかわらず,画面が平面であ
ることがそもそも遠近法の妥当性に対する疑問であるとしているが,それはさして重
造形基礎論ノート(4)実際の見えと線遠近法
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要なことと思えない。人間の視知覚では,凹形の面に映った像を平面に映った像のよ
うに修正する作業が行われるようになっていると考えられるから。21)
しかし,はたして「人間の視知覚では,凹形の面に映った像を平面に映った像のように
修正する作業が行われるようになっている」といえるのか否か,ここでは留保しておきた
い。
(2)カメラ・モデルの知覚観
本論における考察の範囲に限れば,さしあたり,人間の眼をカメラにたとえることで矛
盾が生じることはないだろう。けれども網膜に映った像から,なぜ私たちは空間を知覚す
ることができるのかという問題に一歩踏みこむと,単純に人間の眼をカメラにたとえるこ
とはできなくなってしまう。たとえば種村完司は,知覚をめぐる問題を論じるなかで, 「知
覚のしくみを単純にわかりやすく説明しようとして,唯物論はともするとカメラ・モデル
の知覚観に陥りやすいことにも注意する必要がある」22)と記している。カメラ・モデルの
知覚観とは何か? 種村がカメラ・モデルの知覚観を批判する人物の一人としてあげた哲
学者,廣松渉によれば,
知覚的認識の場合,対象物が先方にあり,認識主体がこちら側にあって,事物から
発生した刺激が主体に到着し,主体内部の神経生理的過程を通じて知覚心像が形成さ
れる,という具合に考えられるのが普通である。
こけに カメラ
知覚についてのこの通念的な観血を著者は椰冷して「写真機モデルの知覚観」と呼
ぶことにしている。23)
もう少しわかりやすくいえば,「人間の知覚は,外的な対象からのなんらかの刺激を感
覚器官が積極的に受けいれて身体内部(とくに受容器,神経伝導路など)に知覚像を形成
し,その像を大脳中枢が再認する結果として成立している」24)と考える,そのような知覚
観である。
さて,このカメラ・モデルの知覚観には二つの説がある。廣松渉によれば,
知覚心像は認識する主体の内部に存在するとされる。が,今読んでいる本は,身体外
ば ら
部の机の上に知覚されるし,薔薇は庭先に知覚される。 「主体の内部」に在るはずの
“本の知覚像”や“薔薇の知覚像”が主体の外部に知覚されるのである。この体験的
事実を説明しようとして, 「知覚像投射説」と「先験的内在説」の二つの理論が登場
した。25)
そして,これら二つの説に対して,それぞれに批判がなされているという。種村は次の
ように説明している。
機械論的な生理学の立場から提出されるこの種の主張が重大な難点をもっているこ
とは,少し反省してみれば容易に知られよう。一つは,感覚受容器や神経伝導路の途
織田 芳 人
44
中で生じた知覚像を脳中枢が再び見る,ということが前提されるわけだが,肉眼とい
う視覚装置をもたない脳中枢がそもそも対象的に像を見るということなど不可能であ
ろう。あくまでこの考えを固執すれば,結局それは,J. J.ギブソンが批判した,
脳の中に坐って生理学的な像を見ている小人を想定するという,かの荒唐無稽な「脳
の中の小人」理論に行きついてしまう (『生態学的視覚論』参照)。
二つに,知覚像が過程の最終結果として大脳内部に成立したと考える場合でも,身
体内部にある知覚像をもって,身体の外に存在する知覚対象と同一であるとどうして
いえるか。両者を一致させるために,改めて内部の知覚像を遠くはなれた外部の対象
の位置にまで投影しなければならなくなる。事物を知覚するとは,その時々に知覚像
を事物の形や大きさそっくりに特定の位置へと投影しているというわけだ。26)
このように,人間の眼をカメラにたとえることができるのは網膜像までであって,その
先にある「どのようにして網膜像を知覚するのか」ということは,まだ明らかにされてい
ないようである。27)
5一実際の見え
(1)視線の到達点
先に「角度の遠近法」について述べたとき, 「固定された眼から円柱に向けられる視線
は無数にある」といった。しかし,それは視線の方向について記述しているのであって,
視線がとどく先,つまり到達点については何も記述していない。そこで,その視線の到達
点について見ていこう。
視線が到達する点,いいかえれば私たちの眼が焦点を合わせる点は,当然,奥行き方向
にも変化する。それは,私たちが日常に経験することである。生理学的にいえば,私たち
の眼は水晶体の厚みを変化させることで,焦点距離を調節している。
ここまでは単眼についての,というよりも私たちの眼を単眼と見なしての考察だった。
さて彫刻家ヒルデブラントは,見る対象が遠いときときわめて近いときとでは,そのとら
え方が異なると考えた。
見る人の立つ位置が対象から遠ければ,その人の両目は角度をなさず,平行にもの
を見る。このとき,見る人は,一つの全体像を受けとっているが,この全体像は,そ
れがどれほど立体的な効果を与えるとしても,それ自体は,純粋に二次元的だ。……。
一方,見る人が対象に近づいて,それを見るためには目の位置を変えたり視力を調
整しなくてはならないほどになれば,全体の姿は,もう一目ではとらえきれない。
…… Bここでは,全体の姿が目に現われるのではなく,複数の異なった姿が別個に現
われ,それらが目を動かすことで結合される。見る人が,対象に近づけば,目にはそ
れだけ多くの動きが要求され,もとの全体の姿はそれだけ多くの個々の姿,つまり別々
の像に分割されていく。28)
ヒルデブラントによれば,眼の位置を変える,あるいは視力を調整することで,奥行き
を知ることができる。ここでいう視力の調整とは,水晶体の厚みの調節だけを意味しては
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いない。 「対象から遠ければ,その人の両目は角度をなさず」との言葉からもわかるよう
に,生理学上,両眼輻較とよばれているものだろう。29) また,眼の位置を変えるというこ
とは,そうすることによって視力を調節しなおすことと考えられる。したがって,眼の位
置を変えることと視力を調整することとは,機能的には同じことを意味している。すなわ
ちヒルデブラントの説は,生理学的に見れば,私たちの眼がもつ両眼輻鞍という機能に基
づいて立てられたものといえる。
確かに,対象が遠くなれば,両眼輻較による距離の差の把握はしだいに困難になる。奥
行き感を失ってくれば, 「純粋に二次元的」という表現もできるだろう。そのとき「立体
的な効果を与える」とヒルデブラントがいう「効果」とは, 「重なり」 「線遠近法的眺め」
「きめの勾配」といった空間知覚の心理学的要因のことと考えられる。
一方,対象が近くなると,両眼平磯によって,対象のもつ奥行きが把握できるようにな
る。ところが,たとえば対象における最も手前の部分と最も奥の部分へ,同時に視線を到
達させることはできない。その結果として,そうした部分像を別々に得たのち,それらを
結合しなければならないのである。ヒルデブラントによれば,見る対象がごく近くにある
ときには,
最終的には,見る人は,……,いつもそのつどひとつの点だけに鋭く焦点を合わせる
ようになる。そのため,そうしたさまざまの点どうしの空間的関係は,目を動かすと
いう行為のかたちで体験されるのである。こうなれば,見つめることは,実際に触れ
て確かめること,つまり,運動というひとつの行為に変貌する。30)
という。 「実際に触れて確かめる」といえば,すぐさま手などの触覚を思い起こすが,こ
こでは,あくまでも眼についてのことである。そのことは,ヒルデブラントが「手によっ
て,あるいは,目によって触れて確かめるところを考えてみよう。何かに触れていくこと
で,わたしたちは,形に対応した運動を実行する」31) と述べていることからも明らかであ
る。
眼という感覚器官も,その発生をはるかな過去までたどれば,じつは皮膚の一部だった
らしい。たとえばM.デュフレンヌは,眼は距離をおいた触覚器官であるという。
アナロジ 視覚の場合も,……,触覚との類推が成り立つ。……,視覚の起源は,光の振動に対
する生体の皮膚感覚にあり,次いで,光を受けた物体によって送り返される光の反射
に対する生体の皮膚感覚にある。これらの物体は,接触によって皮膚に作用するのと
同様に,それらが送り返す光によって眼に作用する。……。そして眼は,指によって
展開される活動のコピーにほかならぬ中心窩を働かせることによって,世界を探索す
るのである。だから,視覚は触覚のコピーである。32)
このことを考え合わせれば,ヒルデブラントのいう「目によって触れて確かめる」とい
うこともひとまず理解される。
織田芳人
46
(2)球面的な視野
私は別の論文で「再現的に描く」ことに係わって「線遠近法」に言及し,そのなかで,
身体の移動がないことを前提として,次のように記した。
日常において,私たちは見ようと思う対象に単純に視線を向けるだけであって,線遠
近法にいう視軸や視野を意識しているわけではない。いいかえれば,私たちは身体の
周りに視軸を無数に設定して,いわば球形の透明な画面を通して,日常の世界を見て
いるようなものである。33)
これが実際の見えだろう。私たちの眼は一般に双眼であり,そのとき当然,左右の視野
は広がる。しかも,私たちは何かを見ようとすると,頭を動かすし,必要であれば身体も
移動させる。そうしたことを含めて,「私たちは身体の周りに視軸を無数に設定して」い
ると記したのである。
さて,このような見えは,単眼だけに限っていえば,パノフスキーの「角度の遠近法」
における視線の動きと同じである。けれども,そうした見えを平面にどのように描けばよ
いのかということは,また別の問題である。黒田正巳は,線遠近法と空気(色)遠近法と
を合わせて人工遠近法とよび, 「人工遠近法とは,……視錐を平面で切断してできる平面
上の切断図形を描く方法である」34)として,実際の見えを平面に描くさまざまな方法を詳
しく検討している。
しかし,その一歩手前に,なぜ平面に描こうとするのかという素朴な問いもある。実際
の見えは球面的であるから,それを平面に描くこと自体が無理だともいえるのである。単
純に考えれば,実際の見えのように描くには,凹面に描くことが最適だろう。ゴンブリッ
チも,実際の見えの例として「合成写真」 (図11)を示したあとに続けて, 「これらの眺め
は平面よりは球体の内面に表して初めて十分に示せる」35)と述べている。
とはいえ現実には,凹面のキャンヴァスをつくること自体が,平面のキャンヴァスに比
べてきわめて困難な作業である。このことが,凹面の絵画作品がほとんど存在していない
最大の要因ともいえそうである。
(3)固定されない眼
線遠近法では,単眼で見ることと,視線が動かないようにその単眼を固定することとい
う二つの大前提があった。しかし実際には,私たちの眼は一般には双眼であるし,その視
線は頭とともに,さらには身体とともに動き回る。日常においては,とても線遠近法のよ
うには周囲を見ていないのである。上野直樹によれば,こうしたことはマクロのレヴェル
での眼球の動きであるが,ミクロのレヴェルでも同じようなことがいえるという。
ふつう私たちが,眼球を固定させて見ているつもりであっても,実は常に微細に振動
しているのである。そして,たとえばプリチャード(Pritchard,1961)が示したよ
うに,特殊なコンタクト・レンズを用い,眼球の振動にあわせて対象も振動させ,結
果として眼球運動を相殺してしまうと,……,このような静止網膜像は崩壊してしま
うのである。ごくミクロのレベルでは,このように眼球が微細に運動しているからこ
造形基礎論ノート(4)実際の見えと線遠近法
47
そ,あるいは網膜像がプレをおこしているからこそ見えるのである。36)
すなわち,マクロのレヴェルにおいてもミクロのレヴェルにおいても, 「私たちは,変
化を見る中で,対象がどのようなものかを特定してゆく」37)と上野はいう。 「変化」ある
いは「プレ」というと,連続的に流れる像と思われそうである。カメラでいえば,ピント
の合っていない写真である。
しかし,上野のいう「変化」や「プレ」はそうした連続的に流れる像ではないだろう。
視線はジャンプするように動く,つまり,およそ300ミリ陰間の固視とおよそ30ミリ秒間の
跳躍を繰り返すといわれる。38)その跳躍のあいだにも,網膜には外界の像が結ばれている
はずだが,私たちはジャンプするような急速に流れる像を経験していない。池田光男によ
れば,「私たちの視覚系は,流れ像をそのまま大脳で知覚しないようなメカニズムを備え
つけている」39)のである。
眼の跳躍は一秒間に三回くらい起きているのであるから,言ってみれば私だちの視覚
系は,一秒間に三回シャッターが閉じて,不都合な流れ像をシャットアウトしている
のである。40)
私たちは日常,眼球と大脳を別々に意識しながら生きているわけではない。しかし詳し
く見れば,私たちの眼球は動き続けながら,網膜に連続的に変化する像を映していく。と
ころが大脳は,およそ300ミリ丁令の固視による網膜像を,1秒間に3回くらい間欠的に受
け取っている。そうした結果として,私たちは外界像を組み立てているといえる。むろん,
先の「カメラ・モデルの知覚観」で触れたように,その外界像はどこにあるのかというこ
とはまだ明らかにされていない。
註
1)織田芳人「造形基礎論ノート(1)見ることと再現的に描くこと」 『長崎大学教育学部人文科
学研究報告』第50号(1995年)49−58ページ。
2)同上,50−53ページを参照。
3)エルンスト・マッハ(須藤吾之助・廣松生生) 『感覚の分析』 (法政大学出版局,1971年)
4)J.J.ギブソン(古崎敬・他訳) 『生態学的視覚論一ヒトの知覚世界を探る』 (サイエ
ンス社,1985年)123ページより引用。
5)池田光男『眼はなにを見ているか一視一系の情報処理』 (平凡社,1988年)30ページより
引用。池田は,人間の眼の視力と色覚について,下記のようにより詳しく述べている。
そこ[中心窩]からほんの少しでもはずれると,私たちの視力は急激に低下する。
……。視力の本当に良いのは,網膜中心のごく狭い範囲だけなのである。網膜はきわめ
て不均一である。 (同書14−15ページより引用, []は織田が補った)
視力の場合と同じように,色が色として一番良く見えるのは,それをまともに見た場
合,つまり網膜中心窩を使って見たときだけであり,そこから離れると,鮮やかさがど
んどん減少していく。だんだんと白っぽくなっていくのである。そしてついに,網膜の
端の方になると,色みはまったく姿を消し,白だけが知覚される。 (同書19−20ページ
より引用)
織 田 芳 人
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6)織田芳人「造形基礎論ノート(1)見ることと再現的に描くこと」 『長崎大学教育学部人文科
学研究報告』第50号(1995年) (49−58)53−55ページを参照。
7)E.パノフスキー(木田元・他訳) 『〈象徴形式〉としての遠近法』 (哲学書房,1993年)
81−82ページより引用。
8)同上,13ページより引用。
9)同上,13−14ページを参照。
10)同上,15ページより引用。
11)黒田正巳は, 「平面遠近法」 「角度の遠近法」をそれぞれ「平面透視図」 「視角透視図」と
訳している。黒田正巳『空間を描く遠近法』 (彰国社,1992年)224ページを参照。
12)E.パノフスキー(木田元・他訳) 『〈象徴形式〉としての遠近法』 (哲学書房,1993年)
15ページより引用。
13)黒田正巳『空間を描く遠近法』 (彰国社,1992年)224−226ページを参照。
14)E.H.ゴンブリッチ(白石和也訳) 『イメージと目』 (玉川大学出版部,1991年)
15)吉積健『メディア時代の芸術一芸術と日常のはざま』 (勤草書房,1992年)150−151ペー
ジより引用。
16) 『オックスフォード西洋美術事典』 (講談社,1989年)279ページより引用。
17)織田芳人「造形基礎論ノート(2) 空間を知覚すること」 『長崎大学教育学部人文科学研究
報告』第51号(1995年) (17−25)で,私は「私たちの眼に映る外界は網膜上では平面的であ
るはずだが,私たちは外界の物体に対して立体感をいだき,また物体の相互関係に対して遠近
感をいだく」 (17ページ)と記した。外界のさまざまな物体における相互の空間的な位置関係
も,網膜に映った状態では平面的になる,という意味でそのように記したのだが,正確には網
二二は曲面である。
18)E.パノフスキー(木田元・旧訳) 『〈象徴形式〉としての遠近法』 (哲学書房,1993年)
14−15ページより引用, [ ]は織田が;補った。
19)佐藤康邦「遠近法の虚構と真実」市川浩・他編『技術と遊び(現代哲学の冒険11)』 (岩
波書店,1990年) (279−353)330ページより引用。
20)同上,330ページより引用。
21)同上,350ページより引用。
22)種村完司『知覚のリアリズム』 (勤草書房,1994年)197ページより引用。
23)廣松渉『哲学入門一歩手前一モノからコトへ』 (講談社,1988年)59ページより引用。
24)種村完司『知覚のリアリズム』 (勤草書房,1994年)197−198ページより引用。
25)廣松渉『新哲学入門』 (岩波書店,1988年)21ページより,著者が要約した。
26)種村完司『知覚のリアリズム』 (襟開書房,1994年)197−198ページより引用。ただし脚註
は省略した。
27)同上,199−200ページを参照。
28)A.ヒルデブラント(加藤哲弘訳) 『造形芸術における形の問題』 (中央公論美術出版,1993
年)13−14ページより引用。
29)視力を調整するというときに,水晶体の厚みの調節も考えられるが,奥行きを知覚する有力
な情報ではないといわれている。織田芳人「造形基礎論ノート(2)空間を知覚すること」 『長
崎大学教育学部人文科学研究報告』第51号(1995年) (17−25)17−18ページを参照。
30)A.ヒルデブラント(加藤哲弘訳) 『造形芸術における形の問題』 (中央公論美術出版,1993
年)14ページより引用。
31)同上,14ページより引用。
32)M.デュフレンヌ(桟優訳)『眼と耳一見えるものと聞こえるものの現象学』 (みすず書
造形基礎論ノート(4)実際の見えと線遠近法 4g
房,1995年)18−19ページより引用。
33)織田芳人「造形基礎論ノート(1)見ることと再現的に描くこと」 『長崎大学教育学部人文科
学研究報告』第50号(1995年) (49−58),54ページより引用。
34)黒田正巳『空間を描く遠近法』 (彰国社,1992年)15ページより引用。
35)E.H.ゴンブリッチ(白石和也訳)『イメージと目』 (玉川大学出版部,1991年)237ペー
ジより引用。
36)上野直樹「1.視点のしくみ」宮崎清孝・上野直樹著『視点』 (東京大学出版会,1985年)
4−5ページより引用。森政弘『超常識一平凡のなかの非凡のすすめ』 (ダイヤモンド社,1977
年)17ページには,私たちの眼球は1秒間に50∼100回振動するとある。
37)同上,9ページより引用。
38)池田光男『眼はなにを見ているか一視覚系の情報処理』 (平凡社,1988年)38−40ページ
を参照。
39)同上,42ページより引用。
40)同上,42ページより引用。
図版出典
図1 エルンスト・マッハ(須藤吾之助・廣松渉訳) 『感覚の分析』 (法政大学出版局,1971年)
16ページ(複写)
図2 J.」.ギブソン(古崎敬・他訳) 『生態学的視覚論 ヒトの知覚世界を探る』 (サイ
エンス社,1985年)123ページ(複写)
図3 著者作成
図4 E.パノフスキー(木田元・他訳) 『〈象徴形式〉としての遠近法』 (哲学書房,1993年)
82ページ(複写)
図5 E.パノフスキー(木田元・他訳) 『〈象徴形式〉としての遠近法』 (哲学書房,1993年)
19ページ(複写)
図6 著者作成
図7 著者作成
図8 E.パノフスキー(木田元・他訳) 『〈象徴形式〉としての遠近法』 (哲学書房,1993年)
16ページ(複写)
図9 E.パノフスキー(木田元・他訳) 『〈象徴形式〉としての遠近法』 (哲学書房,1993年)
25ページ(複写)
図10 黒田正巳『空間を描く遠近法』 (彰国社,1992年)225ページ(複写)
図11 E.H.ゴンブリッチ(白石和也訳) 『イメージと目』 (玉川大学出版部,1991年)図217
(複写)
図12 黒田正巳『空間を描く遠近法』 (彰国社,1992年)69ページ(複写)
図13 著者作成
図14 E.パノフスキー(木田元・他訳) 『〈象徴形式〉としての遠近法』 (哲学書房,1993年)
14ページ(複写)