Ⅶ 結びのことば - 名古屋大学

〈170〉 Ⅶ 結びのことば(ポラキウィッチ[石井、福田]
)
Ⅶ 結びのことば
ヨルク・ポラキウィッチ
*
親愛なるみなさん、まず今回のシンポジウムが、わたしたち欧州評議
会、公証人評議会、パリ第 13 大学(パリ・ソルボンヌ・シテ拠点大学)
およびその取引法研究所、そしてとくに名古屋大学およびそのアジア法
整備センターの CALE(法政国際教育協力研究センター)の見事な組織
によってなされたことをお祝いしたいと思います。
「私にとりまして
この会議の最後の
コメントを
述べることは
大変光栄です。」
[上記「 」内の原文は日本語]
わたしは欧州評議会を代表してこのシンポジウムに参加させていただ
きました。欧州評議会はヨーロッパ 47 国からなる機関で、人権保障は
その中心にあります。日本は 1996 年 11 月以来、この機関のオブザーバー
の地位にあり、わたしたちの政府間活動のいくつかに積極的に参画して
います。
本シンポジウムの結びといいましても、最初に申し上げておかねばな
りませんが、全体を網羅しようと考えてもいませんし、ましてやそのよ
うに主張するものではありません。実際、数分で今回の報告や議論に出
されたいくつもの考察や提案をすべて反映させることはたやすくはない
でしょう。したがいまして、その点、みなさまのご海容をお願いする次
第です。
今回のシンポジウムでは人権宣言の
「フランスにおける起源:ことば、
*
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欧州評議会 人権政策推進部部長
法政論集 248 号(2013)
シンポジウム報告 〈171〉
考え、イメージ」からスタートしました。それは 1789 年に出された人
および市民の権利の宣言の註釈ということであるのですが、このテクス
トはフランス憲法院の判例によってとくに裁判規範として適用されてい
て、現在も生きている基礎的なものであるのです。
この点を、ピエール・ボナン教授と石井三記教授が歴史学、言語学そ
して図像学的アプローチで分析されました。わたしとしては、とりわけ
「法律がよいものであればあるほど、自由は幸福である」との引用に惹
かれました。実際、人権は立法を通じて発展させられているのであり、
その立法の質が実効ある保障にとって基本的なものなのであります。
続いて、人権の「アジアとヨーロッパにおける制度の側面」が取り扱
われました。市橋克哉教授と小畑郁教授がアジア地域と比較行政法レベ
ルでの人権の影響如何について見事に説明されました。
アジア太平洋地域の経済的重要性は疑うべきもないことでして、世界
で最大の生産地域でまもなく消費市場ともなるこの地域は、人権の領域
では地域的保障手段を欠いているという点でのずれが見られるのです。
名古屋大学はその法政国際教育協力研究センターを通して、この地域
の一連の国々に対して制度改革や立法などのアジア法整備支援を推し進
めていることにわたしは大変感心しています。
ひとつの国の法的考え方を他の国に単に移すことはそう容易なことで
はありません。常に当該国の歴史的社会的コンテクストを考慮しなけれ
ばならないからです。ひとつの国家でうまく機能していることも他では
ひどい結果になりうるからです。ヨーロッパでのわたしたちの経験から
一例をあげてみましょう。裁判官の公選制はスイスでは何の問題もなく
正当とされていますが、ボスニア・ヘルツェゴビナでそれを提案するな
ら明らかに災いをもたらすでしょう。そこでは同朋が殺しあう独立戦争
の結果、民族間の亀裂がまだ大きいものであるからです。立法および制
度改革領域での協力の問題は、ヨーロッパとアジアの経験を交換してい
くことが実りある結果に結びつきうる問題領域といえます。
次に、「アジアとヨーロッパにおける人権の保障」が取り扱われまし
た。エルフテリア・ネフラミ教授は欧州連合における人権の保障と欧州
人権裁判所が確立してきた基本権保障システムとの関係について話して
くださいました。欧州連合と欧州評議会レベルでの人権カタログの共存
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はヨーロッパに特殊なことでありまして、法律実務家に以下の問題を生
じさせることになります。
‐ 基本権憲章が加盟国の行為に対して適用される領域はどのようなも
のなのか。
‐ どのような手段でその規格は欧州人権裁判所を超えていくのか。
つまり、憲章と欧州人権裁判所との調和はもっとも重要なことなので
す。といいますのも、欧州連合の法的作動において、27 の加盟国はこ
のふたつの法的に強制力のある文書にしたがうからです。基本権憲章の
テクストのなかで、欧州人権裁判所は明白に憲章解釈および適用におけ
る最低限の基準として認められており、欧州人権裁判所の判例の解釈の
権威は、これまた、明白に繰り返されているからです。
以上のことを踏まえたうえで申し上げたいのは、欧州連合が欧州人権
裁判所に同意していることのみが、基本権のような重大領域において法
的一貫性と法的保障とを危うくさせないようにしているということなの
です。
この同意への最後の障害もここ数か月のうちに乗り越えられるでしょ
うし、この同意が人権の領域でのヨーロッパ基準の一貫性を保障するこ
とになると確信しています。それは欧州連合への信頼からくるものなの
です。つまり、もし欧州連合が、商取引の関係をもつ第 3 国による人権
尊重を要求するなら、欧州連合自身がその全加盟国も当事者たる統制メ
カニズムに服しなければならないというわけです。
横溝大教授とローランス・ユズニエ教授は国際私法における人権の影
響、とくに国際的な子の奪取の民事上の側面に関する 1980 年 10 月 25 日
のハーグ条約の機能についてすばらしい報告をしていただきました。
子の奪取の問題については、ノイリンガー対スイス事件判決[2010
年 7 月 6 日欧州人権裁判所大法廷判決]以来、ストラスブールのこの欧
州人権裁判所に提訴される「家族生活尊重の権利」の指標となる訴訟の
ひとつになっています。欧州人権裁判所にたいしては、常に「子の最善
の利益」を守るという口実で、子を連れ去った親の側に傾きすぎている
と非難されることもあれば、逆に奪取された被害者の親の側に有利にな
りすぎていると非難されることもあるわけです。
家族法は多極関係のよい例となっています。すなわち、子の利益を考
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シンポジウム報告 〈173〉
慮に入れなくてはならないだけでなく、両親の利害も関係してきますか
ら、問題となっている事案の司法手続きについては微妙にバランスをと
りながら衡平さの尊重が求められるのです。
ノイリンガー事件の決定がハーグ条約によって定められた制度の合理
性を否定すると考えるのは行き過ぎであるというのが現在の一般的見解
のように思われます。欧州人権裁判所が主張したのは、単にハーグ条約
の適用に際して人権を考慮しなければならないということだけだったか
らです。
ユズニエ教授は国際私法における人権の影響の増大、さらには影響の
混乱についても話されましたし、学説はそのことをしばしば真の正面衝
突と考えていることにも言及されました。
しかし和解しがたいというほどではありません。人権と国際私法の和
解が可能であるのはユズニエ教授がまた強調された通りであります。考
慮すべきは、外国法の適用に際して人権を考慮すべき点であります。人
権は公的秩序に規範を与えることができるからです。
そのことを強調しても十分すぎるということはないでしょう。司法の
当局は人権の番人なのです。ですから、外国の司法が人権に反する決定
をした場合に、その決定を執行するような国内の司法当局はみずから人
権侵犯の共犯者になっているのです。
ハーグ条約に戻れば、日本政府が人権に適合するような解釈を提案し
て批准の方針を決めたのは、
したがって賞賛すべきでしょう。すなわち、
子を返還することが、とくに家族内あるいは夫婦間の暴力につながり、
子を身体的または精神的に危険な状態にさらすのであれば、子の返還は
回避されるというものです。
本シンポジウムのすべての発表に触れることはできないのですが、唯
一「死刑」の問題にだけは例外的に言及することをお許しください。と
いいますのも、それは欧州評議会にとって最重要課題になっているから
です。
実際、欧州評議会の活動により、欧州の 47 か国は死刑執行のない地
域になっているからです。1983 年に採択されました欧州人権条約第 6 議
定書は、その後 2002 年に出された第 13 議定書に補完されまして、ヴィ
クトール・ユーゴーの悲願であった「純然たる、無条件の、断固たる死
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刑廃止」を実現したのです。
この歩みは以後、逆戻りできないものになりました。すなわち、死刑
廃止はもっとも基本的なヨーロッパの価値原理の共通基盤の不可欠な一
部をなしているのです。
しかしながら、そのことは死刑廃止のための闘いが達成されたという
ことではありません。福田真希氏が強調されたように、まだなすべき多
くのことが、とくに世界レベルで、日本においてさえ、残されているか
らです。
* * *
わたしのこの結びをまとめるに際し、安易な表現ではあるかもしれま
せんが、お許しいただければ、本シンポジウムの来賓あいさつでフラン
ソワ・ジムレー(François ZIMERAY)人権担当大使が強調されたように、
人権は普遍的かつ不可分であるという事実を強調してしすぎることはな
いでしょう。
この人権の普遍的次元こそが、あらゆる女性、あらゆる男性に、あら
ゆる場所において、あらゆる脅威、たとえそれが彼らの国家そのものか
らの脅威であっても、そのような脅威にたいして人権を援用することを
可能にするのです。
さらには、次の日本国憲法前文の箇所が参照できるでしょう。
「われ
らは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはな
らないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則
に従ふことは……各国の責務であると信ずる。
」
さらに勇気づけられることに、日本の最高裁判所も人権に関する国際
的文書を参照しだしています。わたしが申し上げているのは、2008 年 6
月 4 日の最高裁判決です。事案は婚外子の国籍の差別的取扱いについて
のものですが、判決では市民的及び政治的権利に関する国際規約と児童
の権利に関する条約も参照されていました。
実際のところ、もし人権の普遍的次元が否定されるようなことになれ
ば、いったいどのような価値の名のもとに、これこれの少数派の人に対
して、または世界のこれこれの部分に対して人権侵害がなされたとき、
世界の良心を動員できるというのでしょうか。そのとき、わたしたちは
国や人種のエゴイズムに分断細分化された世界にいることになるでしょ
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シンポジウム報告 〈175〉
う。ヨーロッパが真の意味で人権の重要さに気づいたのは第二次世界大
戦の後になってからのことでしかないことをけっして忘れてはなりませ
ん。
この点について、ロベール・バダンテール元法相がフランス人権宣言
公布 200 周年の年の 1989 年 4 月 19 日にストラスブールで行った演説を
引用させてください。
「人権のことがらに関しては、その要求の内容や強度を測るのは、痛
めつけられている女性や男性の顔つき、あるいは、ひもじい思いをした
り、虐待にあったりしている子どもたちの顔つきなのです。そうです、
人権の本当の相貌はそこにあるのです。……演説やシンポジウムより
いっそうわれわれが必要としているのは、人権のことがらに関しては、
行動であり献身的行為です。哲学者、法律家、大臣よりなおいっそう必
要なのは闘士なのです」
最後に、もう一度、このシンポジウムを見事に組織された主催者およ
び貴重な報告をされた報告者のみなさんに感謝したいと思います。
このシンポジウムのポスターにある満開のさくらのもとでわたしたち
は集まりました。日本の人々にとって、
「サクラ」は常にはかない美の
象徴でありました。
わたしたちのシンポジウムもまた美しく、そして残念ながら短すぎま
した。ここで提起された問題のすべてを網羅的に論じることはできませ
んでした。
いずれにしろ、わたしは確信しています。わたしたちが近いうちに再
会するであろうことを。たぶんストラスブールで、ということかもしれ
ませんね。
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