長岡出身の不同舎の画家・田中(脇屋)本吉の生涯と作品 松矢 国憲 「郷土に残る小山正太郎と不同舎の画家たち」(以下 「不 平成二十七年(二○一五)一月四日から三月一日まで開催した常設展示の小企画 同舎展」) (註一の ) 開 催 に 当 た り、 県出身の不同舎の画家たちの新潟県内に現存する作品を調査した。その中で特に小山と同郷の長岡出身 の田中(脇屋)本吉(図一)について調査を進めることができたので、ここにまとめておくものである(以降、 氏名以外の旧字体は新字体、 変体仮名は現行の平仮名に改めて記す)。 一、生涯と年譜 田中本吉の生涯について語られているものは、数少ない。かつて当館 の 前 身・ 新 潟 県 美 術 博 物 館 で 昭 和 六 十 三 年(一 九 八 八)開 催 の「近 代 日 本洋画の夜明け展」 (註二に ) お い て 二 百 字 ほ ど の 略 歴 が 記 さ れ て い る (註 三) が、画家としての略歴を目にすることは少ない。 明治二十三年 (一八九〇) の第三回内国勧業博覧会出品作《遠村鶏鳴》が農商務大臣買上げの栄を 受けている(後述)が、この年、一身上の都合により帰郷してしまうため、 画家としての名声は轟いていないというところであろう。 作品のカラー図版については、 同展図録(A五判)を参照い (註一) ただきたい。 (註二) 「小 山正太郎と「仙台の桜」 近代日本洋画の夜明け展」昭和 六十三年(一九八八)十月一日―十一月六日 新潟県美術博 物館、 新潟日報社主催。前年度に小山の代表作《仙台の桜》 を収蔵したことによる展覧会。小山の油画をはじめ水彩、 素描が八十五点、 その他、 フォンタネージ、 川上冬崖、 高橋由 一、 浅井忠、 松岡寿など、 不同舎や明治美術会の画家たちの 作品が展示された。 掲載略歴「長岡市大積の脇屋家に生まれた。新潟学校小学 (註三) 師範科に学び、 1880年(明治 )卒業後小学校訓導とし 13 て県内各地へ赴任した。1886年(明治 )上京して同年 月不同舎に入り、 油彩の基本を学び、 1890年(明治 ) 19 しかし、郷里・渡沢村(現長岡)では、農業振興、地域振興のため村会議 員も務め、地域貢献した功により、生存中の大正九年(一九二〇)に頌徳 碑 が 建 立 さ れ、形 と な っ て 現在でも偲ぶことができ る。 そ の 石 碑 に つ い て 次 に図版(図二、三)および釈 文を記す (註四。 ) この碑文には本吉が師 事 し た 画 家 と し て 小 山、浅 井の二人の他に黒田の名 が五行目に挙げられてい る。 浅 井 に つ い て は、小 山 の 盟 友 で あ る し、不 同 舎 旧 社境内。 長岡市渡沢町(上越新幹線滝谷トンネル北側口脇)の二荒神 (註四) りしながら趣味として描き続けた。 」 帰省。その後は地域振興に尽力を重ね、 村会議員を勤めた なった。同年長岡市六日町の田中家へ養子縁組が決まり、 の内国勧業博覧会出品作「遠村の鶏鳴」が農商務省買上げと 23 図一 田中本吉遺影 図二 卓峰田中本吉君頌徳碑(表) 卓峰 田中 本吉 君頌 徳碑 君脇屋善四郎第六子也万延元年 生於三島郡大積村明治廿三年出 為田中新三郎嗣初学於新潟学校 師範学部従事教育六年後学洋画 於東京小山氏又師事浅井黒田諸 氏教図画於神奈川県師範校既而 帰郷専努農事振興又鞅掌公務為 賞勲局及農会総裁県知事所表彰 君資性温厚深信眞宗教義恭倹服 衆大谷派本山亦表彰之是以郷人 相謀欲勒其徳以顕後世乃応請叙 其略歴如此 南條文雄撰併書 48 (1) 11
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