Title Author(s) Citation Issue Date Type バルフォア宣言と日本 丸山, 直起 一橋論叢, 90(1): 78-95 1983-07-01 Departmental Bulletin Paper Text Version publisher URL http://hdl.handle.net/10086/11421 Right Hitotsubashi University Repository 第一号 (78) 第九十巻 一橋諭叢 バ〃フォア宣言と日本 丸 山 直 起 めたのである。しかし、シオニストにとってバルフォア ^2︶ るベルの音であったと同時に、シオニストの最初の画期 ユダヤの対立に収れんしてゆく長い紛争の幕開けを告げ に賛成することをうたった書簡、いわゆるバルフォア宣 ^三 言を発出した。これは以後のバレスチナをめぐるアラブ、 政府はバレスチナにおけるユダヤ人の民族的郷土の建設 ルド卿︵■oaごo昌一老葦宵■oまmoブ旨︶あてに、英 才アの名においてライオネル・ウォルター・ロスチャイ 一九一七年十一月二日、イギリス政府は、外相バルフ につける必要性を感じていた。シオニストもこの辺の事 両国ともイギリスに対抗するために、シオニストを味方 イギリスのパレスチナにおける野心に警戒を強めており 的な感触をえていた。バルフォア宣言以後、仏伊両国は 七年三月以来仏伊両国を訪れ、シオニズムに対する好意 戦開始以来、ロンドンを根拠地に広く活動していたシオ かを引き出すことが、次の外交課題であった。すでに犬 支持か、あるいはイギリスと同様の宣言の発出のいずれ 固たるものにするには、他の列強からバルフォア宣言の 宣言はあくまでも英政府の約束にすぎず、この約東を確 的な外交的成果であった。シオニストはもちろんのこと、 情は承知しており、ソコロフは、まずフランスからシオ はじめに イギリス政府もバルフォア宣言の意義とユダヤ人問題に ニスト機構のソコロフ︵乞筈自昌ω鼻O−O峯︶は、一九一 対する政府の態度を対外的に説明すべく広く宣伝につと 浴 B ! i' 7 : T-7 j : '¥j ( 79 ) ニズムの大義を支持した一九一八年二月十四日付ピシ目 ン外相の書簡を入手し、続いてイタリアも同年五月九日 ^3︺ インペリアリ駐英大使がソコロフにイタリア政府のシオ ニスム支持を伝えたのであった。一方、アメリカの支持 “ ^4︺ 表明は、オスマン・トルコと交戦状態になかったこと・ 国務省内でランシング国務長官を中心に反対意見が強か ったことなどにより遅れていたが、米国内のシオニスト の圧カが高まる中でウィルソン大統領は一九一八年八月 三十一日﹁パルフォア宣言以来のアメリカおよぴ連合国 内のシオニスト運動の発展に満足している﹂と表明し、 パルフォア宣言への同意を述べた書簡を米シオニスト機 構のステファン・ワイズ︵ω註冨彗ω.峯ぎ︶に送った のである。この後一九二二年六月三十日米下院はバルフ ^5︺ ォア宣言をそっくり盛り込んだ上下両院の合同決議を満 場一致で採択、上院もまた九月二十一日採択し、ハーデ イ ン グ 大 統 領 が 同 決 議 に 署^ 名6 し︶ た。このほか、ギリシャ は外相が一九一八年三月十四日議会でシオニズム支持を 表明し、オランダ政府もオランダ・シオニスト連合の議 長に対しシオニズム支持を明らかにし、セルビアもまた ^7︶ 一九一七年十二月同様の表明を行った。 かくして、シオニスト外交の次なる照準は大国日本を 含むアジア三国にしぼられることになったのである。 二 上海シオニス。ト協会とシャム政府 げて以来、上海シオニスト協会︵望竃O司罫一S畠華>− 一九〇三年中国の上海にシオニスト運動がうぷ声をあ 器o9里ま。自︶は中国のみならず、広く東アジァのユダヤ ︵8︺ 人問題、シオニズムヘの関心の喚起につとめてきた。同 協会は早くも一九一七年十一月ロイド・ジヨージ英首相 にあてバルフォア宣言の発出を感謝する電報をうち、ロ ンドンのシオニスト機構と協カしながら、パンフレヅト ^9︶ の配布、講演などの広報活動を行った。同協会は、一九 一八年二月十五日にワイツマン︵O臣ぎ考Φ庁目竃目︶に あて電報をうっているが、この内容は、同協会名誉書記 エズラ︵峯邑昌■N、里市彗甘目ま向N量︶の八月二十日 付ソコロフ︵オ掌目昌ωoぎ一〇ミ︶あて書簡の文面からし て中国、臼本との交渉を開始することに関するものであ ったと思われる。しかし、後述する理由によって、中・ ^10︶ 日両政府の支持表明は遅れ、シャム︵タイ︶政府との交 渉が先に結実した。 第一号 (80) 第九十巻 上海シオニスト協会とシャム政府の非公式なチヤネル となったのは、イギリス陸軍省から中国に派遣されてい たディビヅド・サンデルソン︵U竃己■ω、コo、−、。目︶大 て接触をすすめたシヤム政府米人顧問のエルデン.ジェ ており﹂、フランス政府がシオニズムに対しどのような 市巴g庄畠︶を目ざす運動に同情を宣言するよう求められ ス臨時代理公使に対し﹁王国政府はバレスチナにおける ユダヤ人国家の樹立︵気冒蜜ま昌o、冒票印一盲岸竃 ムズ:ソヤム攻府米人顧間は、八月シャム駐在のフラン っ痩。上海シオニスト協会からアプローチされたジエー 要請した書簡を発出し、もう一通をジェームズ顧間に送 ユダヤ人の民族的郷土建設に関するシャム政府の支持を ォン︵∪①量峯昌o目器︶外相にあて、バレスチナにおける 旨oま︶会長は一九一八年七月十二日シャムのデーワウ 上海シオニスト協会のカドゥーリー︵望、向.ω.肉嘗. ^12︶ ームズ︵目匡o■射1−芭旨窃︶であった。 のバウエル︵﹄。︸勺o峯o昌︶編集長の二人が名前をあげ ー︵竃豪己、m射婁6ミ︶﹄︵後のO巨量オ。。竃︸庫。く一。峯︶ ω・■o巨目o冒一胃︶米法院判事と上海の﹃ミニフーズ.レビュ 樽それに上海のチャールズ・ロビンジヤー一9顯。一。蜆 橘論叢 ^14︺ ェームズ顧間に対し、﹁ユダヤ人の国家︵具凹け﹄自5﹂と 態度をとったか教えてほしいと語つた。代理公使は、ジ 聞いてぴっくりしたが、自分の信じるところでは、シオ ニストの願望はユダヤ人のための﹁民族的郷土︵z顯ま。. ;−宙o昌o︶﹂以上のものではないと述べた。同時にこの 書簡には他にも用語の解釈に不十分なところがあるし、 この小さな事件をピシ目ン外相に知らせる価値があると 次のように述べている。 ^正︶ ﹁このことはシオニスト運動が拡大していることを示 す十分な証拠であり、またシャムがこれにともなって 新たな義務を果している証拠である。しかし、多数の イスラム教徒を抱える国がシオニズムを支持してまで 国際的役割を果たすことはないであろう﹂ しかし・代理公使がピシ冒ン外相に公信を送って十日 後、予想に反してシヤム政府はシオニズム支持の書簡を カドゥーリー上海シオニスト協会会長にあて発出してし まったのである。代理公使は、﹁とりわけイスヲム教徒 に敵対する原因となる不利があるにも拘らず、大国、と くにイギリスのマネをしようとする気持を何よりも優先 させて、デーワウォン外相は上海シオニスト協会会長あ てに一通の書簡を書いてしまったLといささか失望気味 にビション外相に報 告 し て い る 。 ^16︺ すなわち、シャム政府は、一九一八年八月二十二日付 カドゥーリーあて外務大臣の書簡をもって次のような回 ウーリーあて書簡でロンドン駐在のシャム公使に対し、 ロツドンのシ才ニスト連合︵N︷。邑黒黒宗量まg︶に対 してシャムの承認を通告し、ユダヤ人の願望に対しいか なる適当な支持をも与えるよう訓令したのである。 ^19︶ 使に、またアメリカのシオニスト機構も十二月二十六日 ■。邑昌団自、。因自︶は十一月二十九日付書簡にてシャム公 ロンドンのシオニスト機構︵So邑半9σ目彗一竃まo貝 ﹁シャム王国政府は、パレスチナをユダヤ人のための 付ジャコブ.ド・ハース︵言8σま︸墨㎜︶の名で発出 答を与えたのである。 民族的郷土として建設することに関して、連合国によ された書簡の中で上海シオニスト協会に、それぞれ感謝 ロンドンの中国、日本公・大使館との接触をすでに開始 一八年八月二十日付書簡の中で、エズラはソコロフらが N.E.B.エズラがロンドンのソコロフにあてた一九 ずしも十分ではなかった点である。たとえぱ、上海の ひとつの理由は、上海とロンドンの間で意思の疎通が必 シャムにくらべ、中国それに日本の対応はやや遅れた。 三 中国の支持表明 なつた。 シャム政府の宣言は、非キリスト教国で最初の事例と の言旦葉を伝⊥疋た。 ^20︺ って行われた同情的立場に同意することを表明し、連 ,合国と協カして最大の努力を尽くしてこの目標の実現 を促進するものである。またバレスチナに現存する非 ユダヤ人社会の市民的・宗教的権利を損なうことは何 ^〃︺ もしないことが明確に了解される﹂ この回答に接した上海シ才ニスト協会では、九月十一 日会長カドゥーリー、名誉書記エズラならぴに英陸軍省 サンデルソン大尉の名で外相あてに書簡を発出、謝意を ^珊︶ 表明した。 そしてロンドンのナフム・ソコロフからの要請に基づ き、シャム政府のデーワウォン外相は十一月二日付カド 81 : B 7 :-'p=' '+, 7 ( 81 ) 第一号 (82〉 第九十巻 一橋論叢 したという情報を入手し、このため上海側で中・日両風 売︺ へのアプローチを再考するという事情があった。さらに、 中国内部の政情不安、たまたま夏期休暇に入ったなどの 理由が考えられる。だが、これらの理由はそれほど決定 的なものではない。 中国側のシオニズムヘの態度表明が遅延するにいたっ た最大の原因は、中国側とシオニストとの窓口をつとめ ることになっていた米公使の突然の帰国である。中国側 と上海シオニスト協会との問の仲介の役をつとめたのは、 北京駐在のラインシュ︵勺昌−ω.︷o巨、。ブ︶公使、上海 のチャールズ・ロビンジャー︵O巨邑窪ω、■oげぎo目一實︶米 法院判事それに北京の中華民国総統府政治顧問ジ冨1ー ジ・モリソン︵Ω8﹃oqo向■旨o胃げ昌︶の一一一名である。こ のうち、上海在住のロビンジャー判事はユダヤ人の問題 ^刎︶ およびシオニズムに極めて同情的であった。彼はヲイン シュ米公使とともに、バルフォア宣言と同様の宣言を中 国政府から発表させることに協カ的であった。 シオニストがまず接触を試みた中国側要人は中国海軍 の提督をつとめたことのある察廷幹︵H、、一−、、o司.︸印■︶ である。上海シオニスト協会の機関誌﹃イスラエルズ. メヅセンジャー﹄によれぱ、シオニストと察との接触は らゆる援助を惜しまないと約束したといわれ、またモリ 数回におよび、察はシオニズムに大いに関心を示し、あ するようすすめている。 ソンもエズラに対し察と中国側の宣言発表について会談 売︶ 一九一八年六月ロビンジャー判瑛はこの間題に関して ラインシュ公使と会談した。ところが、ラインシュ公使 は七月初旬アメリカヘ一時帰国し、この間マクマレイ ︵﹄・く・>・冨碧呂冒轟︸︶が臨時代理公使として職務を引 き継いだ。両者の事務引き継ぎはわずか一日というあわ ただしさであり、しかもマクマレイは状況に不慣れであ った。マクマレイは、一九一八年七月五日付ロビンジャ ー判事あて書簡の中で上海のシオニストと中国側との伸 介は職務権限上許容されない旨述べている。それによる と、マクマレイは、ラインシュからの引き継ぎ書類の中 に、あて先がロビンジャー判事となっている六月六日付 および十四日付の二通の書簡−これらの書簡はそれぞ れ上海シオニスト協会の六月六日付書簡を中国側に伝達 するものであった1をみつけた。しかしマクマレイは、 ^幽︶ 現行規程によれぱシオニストの中国外交総長あて書簡を 脇 適当と思われる訓令を送付させるために問題を国務省に 適当であり、そうすれぱ、同機構は在中国公使館に対し てはアメリカのシオニスト機構を介して取りあげた方が しこの事情を上海シオニスト協会に説明し、宣言にっい 取り継ぐことはできないと述べつつ、ロビンジャーに対 る。 、 中国政府が発出すべき次のような宣言案を送ったのであ 送るよう要請した。モリソンの書簡に接したエズラは、 え、シオニストに対し中国政府が発出する宣言の文案を にすべて取り決められたものと了解していたと述べたう とに驚きを示しながら、ロビンジャー判事の北京滞在中 題に関心を寄せることは全く当然であり、上海のシオニ を承認したことから、在中国のアメリカ人官憲がこの間 ウィルソン大統領がバレスチナに関するユダヤ人の願望 に対し、十一月一日、書簡を送り、他の列強とともに、 一方、ロビンジャー判事は、帰任したラインシュ公使 である﹂ 現するために講和会議において連合国と協カするもの ことはしない旨明確に了解される。またこの目的を実 享受されている権利および政治的地位を損なうような 的・宗教的権利あるいは他の諸国のユダヤ人によって するが、バレスチナに現存する非ユダヤ人社会の市民 郷土回復に関する大英帝国の提案に完全な同意を表明 ﹁中国政府は、バレスチナにおけるユダヤ人.の民族的 ^㎎︶ ^η︺ 持って行くであろうと、シオニスト側にサジェストして ほしいと要請している。この極めて官僚的な書簡に対し、 ^脂︺ 北京滞在のため上海を長期留守にしていたロビンジャー 判事は、エズラあて九月十一日付書簡のRsにおいて、 ︵マクマレイから送られてきた︶上海シオニスト協会の 中国外交総長あて六月の書簡をマクマレイに突き返した こと、ラインシュ公使が中国を離れる前、これらの書簡 の中国側への取り継ぎと、もし要望があれぱ他の連合国 代表と一緒にこの間題を取りあげることを約束したこと に注意を喚起したこと、および公使の帰任まで書簡をと どめておくよう求めたことを述べている。この結果、交 ^26︺ 渉はラインシュ公使が帰任するまで中断することにな る。 一方、モリソン中国総統府政治顧間は、九月十五日工 、スラに書簡を送り、申国政府から何の連絡もなかったこ 83 1 R 7 ; '+/ 7 ( 83 ) 第一号 (84〕 第九十巻 一橘論叢 ストも、公使が中国政府から好意的な声明を手に入れる のを希望していると書き送ってラインシュの行動を促し、 ^29︺ 私は、こんにち最も偉大な運動の一つであるこの運動 このためラインシュ公使は、判事に対し陳籔︵Ho幕温 十一月二十六日再度書簡で公使の決断を求めている。 名誉ある地位を占めるに値するあなた方のすばらしい歴 は、世界の文明に多大の貢献をし、諸民族の社会の中で をあなたにお伝えしたい。すべて民主主義を熱望する者 ︵注・シオニスト運動︶に対して私が同惜していること ■oヴ︶外交部次長の注意を向けるために必要な措置をと 史的な民族を復興せんとする運動に満腔の支持を与え、 ︵30︶ ったところ、次長は回答を約束し、ユダヤ人の民族的セ い。しかし彼が在京のフランス大使と接触し、フランス いたか、また誰と会見したかについて記録は残っていな カを重ねた。カドゥーリーが日本でどのように過、こして 本政府からシオニズム支持のための宣言を入手すべく努 の日本滞在は長期にわたった。この日本滞在中に彼は日 ︵η︶ 七月夏期休暇を過ごすため日本を訪れた。カドゥーリー ^36︶ 上海シオニスト協会のカドゥーリー会長は一九一八年 四 バルフォア宣言と日本の対応 し、シオニズムヘの深い敬意を表明したのであった。 ^㏄︶ 熱烈に歓迎しないではおれませんLと述べた書簡を送付 ^31︶ 、 ンターに対する願望に個人的同情を表明したことを伝え た。 最終的に一九一八年十二月十四日付陳籔外交部次長の カドゥーリー会長あて書簡が中国政府のバルフォア宣言 支持の公式文書であった。上海シオニスト協会が外交総 長にあてた六月六日付書簡に対する返書の形をとり、内 容は、﹁⋮⋮中国政府はシオニストの願望に関し英政府 と同一の態度をとったことを通告する﹂というものであ つ逗。 ナ 大使にシオニスト側の意向を日本政府に伝えてくれるよ 上海シオニスト協会は、ロンドンのナフム・ソコロフ に対し電報およぴ十二月二十日付書簡でこれを報告する ^鎚︺ とともに、カドゥーリー、エズラ両名の名前で次長に謝 辞を送つた。 海との連絡は密接に保った。カドゥーリーの滞在が長ぴ う要請したことは事実である。彼は日本にいながらも上 ^初︶ また孫文も、一九二〇年四月、エズラにあて、﹁⋮⋮ 脳 き、日本との交渉が遅れたのには、いくつかの理由が考 そして日本国内の政治的混乱である。すなわち、一九 ろ上海のエズラが、ロンドンのシオニスト機構において 閣が成立した。新外相には内田魔哉が起用された。この 内閣は九月二十一日総辞職し、同年九月二十九日原敬内 一八年八月のシベリア出兵にともなう米騒動のため寺内 在英日本、中国大・公使館との接触を開始したとの憎報 政変劇の陰で政治の方向を見守っていたカドゥーリーは えられる。ひとつは、すでに述べたように、八月申旬ご を入手したことである。第二に、カドゥーリーが東京で 九月二十四日仏犬使に対し、書簡を外相に伝達してくれ るよう依頼したのであった。彼がなぜ仏大使に書状の伝 ^39︺ 接触したフランス大使が突如帰国するというハプニング が生じたことである。一九一八年当時の駐日フランス 大使は一九二二年以来レニ冒ール︵向自oqま①■昌涼Ωo− を日本から入手するためには、イギリス以外の外交使節 同様、恐らくは、英政府のバルフォア宣言と同様の宣言 七日帰国し、後任に一九一一年以来セーヌ県知事の職に を介した方が正当であると判断したからであろう。いず 達を頼んだのか定かではない。シャム、中国のケースと あウたドラネイ︵昌胃8−軍竃唱討∪9彗自2︶が任命さ れにせよ、カドゥーリーは、アジアの大国として日本の oHo口塁射Φo目冨目5大使であったが、同大使は一八年七月 れ、一八年七月に来日した。カドゥーリー会長が接触し 支持表明を重視していた。そのことが彼を二力月以上も ^鎚︶ たのは、このドラネイ大使である。しかし十月にドヲネ 日本にとどまらせた最大の理由であろう。 海シオニスト協会に対し、イギリスのユダヤ・バレスチ 一九一八年十月に入り、ようやくドラネイ仏大使は上 イ夫人が死去したため同犬使は急拠十月二十三日に帰国 した。参事官ベガシュェール︵旨弩毛尉まぎ的紺ρ邑− ㌢Φ︶が代理大使に裁任するも、彼もまた病気のため十 二月十日帰国、後任の職務をモーグラス︵肉oo司雪睾彗− さて、シオニストの要講をうけた日本側はどのように ナ政策を支持する日本の宣言を求めたシオニスト側の書 ^望 簡を内田新外相に伝達した旨連絡してきた。 館の相つぐ人事の異動が同大使館の機能を低下させたこ 対応したであろうか。この点について日本側の記録は見 o﹁・塞︶二等書記官が引き継いだ。不幸にもフランス大使 とは容易に想像できよう。 肋 パルフォア宣言と日本 (85) 第一号 (86) 第九十巻 一橋論叢 側の回答はさらに遅れることになり、しぴれを切らした 詳紬について英側に照会したとみられる。このため日本 宣言に関する知識はほとんどなかったと思われるから、 リー会長の書簡をうけとった外務省当局は、バルフォア る隈り、ドラネイ大使から上海シオニスト協会カドゥー 答シタルモ⋮⋮Lと菱言している。この発言から判断す ナルホーム﹂の建設ノ希望二対シテハ別二異議ナキヲ回 政府ハ英国政府ノ意見ヲモ問合セタル上彼等の﹁ナシ目 イオニス㈹﹂ヨリ帝国政府二対シ會テ申出ノ次第アリ、 は、四月二十四日とくに発言を求め、﹁⋮⋮在上海﹁ザ かかわる連合国最高会議に出席した松井慶四郎駐仏大使 までイタリアのサン・レモで開催された対トルコ講和に は昨年十二月上海のシオニスト機構によって本件に関 同傭的関心をもって期待するものです﹄⋮−帝国政府 ま島︶、このような願望が提案どおりに実現するよう 心にとどめ︵㎝冨昌<$穴⑦目o富o︷艘①N−o邑撃蕩甘量、 めの民族的郷土を建設するシオニストの願望を喜んで られている。﹃日本政府はバレスチナにユダヤ人のた ﹁⋮⋮帝国政府の名に於て次の宣言を行う権限を与え のように日本政府の正式文書を通報したのである。 書を要講し、珍田捨己大使は一月六日付書簡をもって次 に駐英日本大使に対し、シオニスト機構あての正式の文 そこでロンドンのハイム・ワイツマンは一月三日直ち うとするシオニストの熱望を知って嬉しい。帝国政府 ^讐 はあなた方の願望の実現に同情を与えるものです﹂ ﹁⋮⋮バレスチナにユダヤ人の民族的郷土を嬢設しよ のように日本政府の回答を伝えている。 上海のエズラは、十一月に入り再度在京仏大使館に対し、 当らない。しかし、一九二〇年四月十八日から二十六日 内田外相にアプローチしてイギリスのバレスチナの宣言、 してなされた申し出に対しても同一の声明を行う機会 ^竺 をもったことをあわせお知らせする﹂ ^41︶ つまりバルフォア宣言について承認を獲得してくれるよ う依頼した書簡を送っている。 ︵42︺ 名でソコロフあてに打電するとともに、一月十六日付ソ. 上海シオニスト協会は、カドゥーリーおよびエズラの その結果は、駐日フランス大使館臨時代理大使ロジャ ー・モーグラスのカドゥーリーあて十二月二十七日付書 ^仙︺ 簡に結実することになる。同書簡の中でモーグラスは次 86 (87) パルフォァ宣言と同本 コロフあて書簡およぴワイツマンあて書簡をもって日本 ︵価︶ の支持をロンドンに通報した。 一方、ロンドンのシオニスト機構は、一月十日付エズ ラあて書簡で日本政府はバレスチナに関するイギリスの ^包 宣言の承認をワイツマンに発出した旨伝えた。同書簡中、 ﹁これですべての重要な連合国がこの件に関して合意に 達したのである﹂の表現にシオニスト外交がひとつの到 ^蝸︶ す﹂と結んだ書簡を送ったのである。 五 結 りわけ日本政府からの宣言をしきりに督促した理由は、 ロンドンのシオニスト機構がこれらアジアの三国、と 一九一九年一月十八日バリで講和会議が開催されること になっていたからで、ある。シオニストは、イギリスから けるユダヤ人のナシ目ナル・ホーム建設を列強に承認さ 始まり日本で。終る一連の外交を通じて、バレスチナにお れるのである。 一方、欧州列強のこの間趨に対する利害関心の高さは 的に物語られているといえようか。 う点に、日本政府のこの間題に対する関心の欠如が象徴 不明である。しかし、記録がほとんど見つからないとい てどの程度認識していたかは、記録がほとんど見当らず、 日本政府がシオニズムあるいはパレスチナの問趨に関し 南洋諸島問題で他の列強の支持を必要としていた。当時 強も同じような状況にあった。日本はとくに山東間題、 この点では多くの懸案を抱えながらバリに乗りこんだ列 列強の支持を背景に有利な地歩を占めようとしていた。 せ、その勢いをかってパリの講和会議にのぞみ、これら に立って高い地位を古めることになると確信いたしま い将来さらに偉大な国家へと発展し、世界の大国の先頭 私達は深い感謝の気持を送りたい﹂と述べ、﹁日本が近 ヤ人の目的と願望を支持させるにいたった寛大なおカに 十五日、内田外相にあて﹁日本帝国政府に世界中のユダ 上海シオニスト協会は、会長カドゥーリザの名で一月 を報じた。 ダヤ民族運動を支持する﹂と題し、それぞれ日本の支持 ﹃シャンハイ・タイムズ﹄は同年一月十六日、﹁日本、ユ 一九年一月二十五目、﹁ユダヤ民族運動﹂と題し、また 上海の英字紙﹃ノースチャイナ・ヘラルド﹄は、一九 達点に達したことでシオニストの満足した様子がよみと 誼 ロロ 第一号 (88) 第九十巻 一橘論叢 日本とくらべものにならなかった。トルコとの講和条約 とバレスチナ、イラクのイギリス委任統治、シリァ︵お になる一九二〇年四月のサン・レモ会議に、イギリスは よぴレバノン︶のフランス委任を最終的に決定すること ■ロイド.ジ冒ージ首相、カーゾン外相、フランスは、、、ル ラン首相、ベルトロー外相、イタリアはニツチ首相、シ ャローヤ外相をそれぞれ送り込んだが、日本は松井駐仏 大使を首席として派遣したにとどまった。しかも松井大 使とロンドン会議︵一九二〇年二−四月︶に参加した珍 田駐英大使との間で、サン・レモ出席をお互いに譲りあ ^ 4 9 ︶ う一幕皇り、あげくの果てに在英イタリア大諜ら準 備の都合上日本側の出欠を催促される始末であった。さ らに、松井大使はサン一レモ会議の報告の中で、帝国政 府はシオニストの﹁ナシ冒ナルホーム﹂建設の希望に異 議ない旨回答したが、﹁”バルフ才ア・氏ノ宣言自身二同 意シタルヤ否ハ正確二記憶セス此ノ旨ハ特二記録二止メ ^肌︶ 置カレタシト答へ置キタリ⋮﹂と特に菱言した旨記述し ている。 いずれにせよ、﹁バレスチナにおけるユダヤ人の民族 的郷土の建設﹂は、日本にとって他の懸案にくらべ重要 な意味をほとんどもたなかったことは明らかであり、松 井大使も合め政府当局者の間にことさら関心をもった人 物もほとんどいなかったといえよう。もっともこの点に 関しては、バルフォア宣言当時、英政府内においても関 係閣僚を除いては、中東関係者の間で関心は低かったと いわれる。 ^肥︺ それでもなお、上海のみならず金世界のシオニス↓に とって、これらアジアの三国からシオニズムヘのコ、、、ヅ トメントをえたことは重要な外交的成果として長く記録 にとどめられることになった。 上海シオニスト協会でこれらの交渉を終始責任をもっ て、遂行したのは、会長カドゥーリーと名誉書記のエズ ラであった。しかしカドゥーリーは夏期休暇を圧本で過 、こしていたため、ロンドン、シャム、中国、日本との連 絡にもっぱらあたったのは、エズラであった。エズラは、 上海のユダヤ人社会内部でこの種の重要間題に対し反対 する空気があったことをみとめ、このためにカドゥーリ ーとほとんど独断で処理したことが今回の成功の原因で あると、ロンドンのシオニスト機構のランドマンにあて た書簡の中で述べているように、エズラの功績はとくに ^肥︶ 馳 簡を送った。この中で、エズラは、一九一八年十二月の チした。一九二〇年四月二十七日エズラは内田外相に書 催された折、上海シオニスト協会は再び日本ヘアプロー この後、イタリアのサン・レモで連合国最高会議が開 大きかったといえよう。 か︶駐在の貴国大使に、一九二〇年サン・レモですべて 上申し上げた意味で、ジュノア︵注・ジュネーブの誤り 明されれぱ大変なご好意となりましょう。私は閣下が以 立に関連する限り、それらの承認をさらにまた公式に表 パレスチナ委任統治の諸条件がユダヤの民族的郷土の樹 ﹁⋮閣下の側でユダヤ人の大義への同情と関心を、また は、上海の船津辰一郎総領事にあて、﹁:⋮右会議︵注・ 関心とに関する公式表明を督促したもので、外相の回答 爺︺ を重ねて要請している。これらの書簡に接した内田外相 月十九日付書簡は内田外相のユダヤ人の大義への同情と が現在開会中の国際連盟によって最終的に署名されるよ ^肺︺ う訓令されることを心から希望いたします﹂と、また五 の連合国によって承認されたバルフォアの約東︵せ&o司o︶ 日本政府のシオニズムに対する支持にあらためて言及し、 サン.レモで連合国最高会議が開催されているこの機会 に、内田外相が﹁ユダヤ人の二千年の夢が実現する前夜 に、我々の機関誌︵注・﹃イスラエルズ・メヅセンジャ ^帥︶ 1﹄︶に掲載するため﹂に寄稿してくれるよう要請し、 五月十二[口内囲外相は﹁あなた方の二千年の悲願の実現 に対する私の心からの祝福をおうけ下さい。⋮−﹂と祝 電をうったのである。国際連盟理事会は一九二二年七 ︵∬︶ 連盟理事会︶二於テ本間題審議セラルル場合ニハ日本二 カェメヅト︵ユダヤ民族基金︶のゴールデン・ブヅクに 内田外相のシオニズムヘの貢献を高く評価し、ケレン・ この結果、上海シオニスト協会は、日本政府とりわけ 令し、船津総領事は、六月八日付書簡をもって内田外相 ^撃 の回答をエズラに伝えたのである。 ^58︶ 於テ好意的考量ヲ加フヘキ旨同氏二御伝達相成度﹂と訓 月二十四日委任統治協定を承認したが、これに先立ち同 年五月九日およぴ十九日の二度にわたってエズラは内田 外相に書簡を送った。五月九日付書簡は、﹁・⋮:国際連 盟のバレスチナ委任統治の承認の遅れは、バレスチナに おける再建を著しく阻害し、扇動者に対し日本を含むす ぺての連合国によって支持され承認されたバルフォア宣 言の廃棄を唱える機会を与えることになった﹂と述べ、 89 B; 7 :*'-' '-='=* 7 '+/ ( 89 ) 第一号 (90〕 第九十巻 一橘諭叢 内田康哉外相の名を記帳することに決定し、直ちに手続 ^60︺ をとった。こうして、内困外相は上海シオニスト協会の 手で日本人としては初めてゴールデン.ブヅクに名揃を ^6︺ 記帳され、長くその功綬をたたえられることになった。 このゴールデン・ブヅク記帳の証警の授与式が一九二三 轟︶ 年三月四日上海で船津総領事夫妻臨席の下に挙行された。 ︵1︶ バルフォア宣言について、たとえぱ次の文献がある。 旨o目富目o.峯岸o︸o目一岩g一内−昌o︸〇一−opドぎqs§§ss. ω試旨一■8目彗戸﹃ざbs害ミ、b迂ミき§一■go昌一く串− ミ富、Hざ①ミミ 、o蔓ミ︸ 亀s&§雨 宙亀膏ミ、b§§ミまos一 ■o目ρoヨ睾⑭ぎo己①巨曽目o易−8H岨9■宕ひo〇一﹃ユoo昌凹貝 −墨弐戸Hぎo§§§県、s雪ま§二〇ミー着−き射、き§. 旨§急−﹄§︸昂良Sぎ奮一■昌旨﹃勾⋮ま&胴。淳宍晶彗 吊彗‘−ミど前田慶穂﹁パルフォア宣言の成立をめぐっ て﹂英修道他監修﹃中東・アフリカの国際関係の推移﹂巌 南堂書店、昭和四十二年。拙稿﹁バレスチナをめぐる政治 カ挙﹂浦野起央他編﹃中東と国際関係﹄晃洋書房、一九七 九年。 ︵2︶ω至貝電−岨等−害o・ ︵3︶N§ぎミ喜§§ミ﹄司§ミ呉§ぎ餉一き. ミ札§、﹄§sミ葛着−ミ一向4冨o誌守o昌§軸昂雨、ミ淳呉 Nざs︸包Oos昧ミ竃一■o■ρo■一嘗o邑誓O﹃oq串邑琶まo戸−o∼■ §雨向き§ぎミ呉§雨き§︷包o式畠ミ窒註§ざ§雨Hs雨ミ昏 ︵4︶ きミ.一や①、.およぴ司・向・崔曽自自〇一、Hげo勺巴鶉弍旨o o.ま. わ冨邑昌ぎ岸誉竃冒o−o∋害き 岩ミー−竃o・= H︸雨 ︵5︶H彗§!含εP、旨二姜−、ニニ。蜆。冨︸O、Ω. ㌧oミ§“♀ミoき§串這oミ一ω唱ざ昌一︺雪;鶉・ 、§寒、o記&害一■Φ氏目o〇一〇目一q邑く.o︷内曾ヰ目o〆︸市﹃o器・ 冨o︸︵&.︶一ドぎH§§耐ミミ済、Hミ§§雨§ ミ募§、o 、辻凄ぎ§Z一k∴>旨胃−O嘗■SO己黒向昌胃O貫血■O︸OO目目. 老簑一吊宇ωslωg.なお、射雪一︺彗目目ぎ﹄§ミ札§ss“ 邑一S宝一〇?竃1S一やo.Nによれぱ、書簡の目付けは :オooo呂峯考−餉o目葭■ρ一げ耐宙包︷o自HU8ぎH臼庄op,Hざ 十月二十九目となっている。また■〇一︺o≠崖夢嘗己オ&一 旨姜ミgき“§雲冬ミ.冒8目ず①二萎・ ︵7︶ 目目〆弓o・卓ま1#ωoo・ ︵6︶ヨ許;やωα工ω二〇・ ︵8︶ 中国およぴ東アジアのシオニスト運動について、拙稿 ﹁中国のユダヤ人社会とシオニスト運動﹂﹃商挙討究﹄第三 十三巻、第二・三合併号、一九八二年十二月、を参照。 ︵9︶2﹄﹄﹄§ま旨巨目ぎ庁。一量ω臣温巨しo “︸ >自口q自岨戸 H0Ho〇一 N凸㌔−N①一 〇①冒弍9 Nざ冒尉“ >H0︸︸くo蜆・ 言昌竃−o目︵以下O・N・>・と略︶の中で引周されている。 ︵10︶ 向■量ざωoぎ−oきω筈品け串一8艘>品易戸岩冨・ た際、ロンドンのシオニストが中・目両国と接触したから N㌧ζ9ρド>、この中でエズラは、二月に電報をうっ 90 一言交渉を止めるよう連絡があれぱよかったと不満をもら 十七目付﹃バンコヅク・タイムズ﹄紙の切り抜きは、﹁シ いてシャム政府顧問エルデン・R・ジェームズ、チャール オニスト協会とシャム王国政府とのデリケートな交渉にお ︵彗=胃μ.㎜射薯ざ美︶﹄紙編築長のJ・B・パウエルが測り ズ・S・ロビンジャー判婁それに﹃ミヲーズ・レピュー ︵11︶ サンデルソン大尉が具体的にどのような任務をおぴて している。 いたか不明である。しかし、彼はシオニズムに深い理解を 知れない貢献を行った﹂と伝えており、シャム政府に対す 示しており、上海などでユダヤ人救済活動、募金活動など を行うかたわら、﹁ユダヤ民族運動﹂と題する講演を上海 ︵17︶ テキストは、N’、oω“oooさρN■>.およぴH寒§−、吻 るこれらの人物の働きかけを暗示している。 トヅクに派遣された。H寒§“、吻ミ雨竃§軸きOoざ一︺9ミ亭一 で催している。なお、同犬尉は一九一八年十月ウラジォス 献の度がうかがわれる。なお、当時カドゥーリーは日本で ︵18︶ サンデルソンの名があげられている点に彼の果した貢 ミ婁黒ミ軸ミー心N“︸09〇一Uo■一〇Ho〇一やHω1 中でジェームズの−名前をあげてサジェストしたことがよい ン大尉と協議して処理したものと恩われる。5§芝、︸ミ雨. 長期休暇を過していたから、エズラが恐らくはサンデルソ ︵”︶ ロピンジャー判事は、九月十一目付エズラあて書簡の H0Ho〇一 ざ黒墨一ω毫前目庁胃旨一岩崖一N㌔N9ρN.>. 岩Oくo目Fげo’ N㌧H“ひi〇一N1>1 ︵19︶ ]︺o毒幸昌oq・oざ目1ω‘内邑o胃一9団彗σ・ぎぎ∼■︷ 餉竃s恥ミ一∼N“サ09〇一︺昌一−o−ool 結果を生んだのであれぱ嬉しいと述ぺている。■o宣轟一異 ︵13︶ H寒§“、hミ雨竃§零さ≠oくo∋一︺昌︷書一H買o。. ︵^︶ O︸芭﹃o旦凧︷、>串凹尉om︷o 司﹃P目oo“O峯o目色血一]H ω叶o勺−o目 ︵21︶ 老−同.申向閏曇ざ2芭庁自旨ω艮o−oメ昌苧>自σ目鶉寸 ︵20︶ H寒§“、︸ミ寓竃秦き老oぎ冒一︺彗卓亭一−竃N1 宝go∼︸凹目o百斥o〆ご印o自一岩H00一オo−志一崔巨尉ま篶 ○鶉>饒顯オ鶉宰冨目器篶m一]︺オ8まo目ま叩>︸顯オ窃勺o葦旦冨m −旨o。一Nζミ90.N。・>.しかし、この問題は、ロンドンの goo目目胃9巴鶉一ω跨宥向ω−Nミ.oo■まg︸U印く巨く岸昌 シオニスト機構ランドマンが十一月エズラにあてた書簡に ohH色>く孝o邑 く 宰 巴 身 . ︵15︶ さミ おいて、中・目両政府の同様の宣言についてはエズラから 通知があるものと確信していると述ぺており、上海べース ︵16︶ Ω−胃oq凧o.>饒注冨蜆ざ里o︸oP冒串目oo〆oぎ墨呂ヌo昌− ○津oH 津 ωo99顯﹃く o︷ §o■涼計 OH伽凹ま岬凹弍oP ■o目ρo目 でコトが運ぱれることに決着がついたとみられる。 ωo〒 σ篶H彗o〇一老o.①山loo自斗鶉︸]︶顯く己く岸巴. 公使がビシ目ン外相に送った報告に添付されていた九月二 この約十目間に何が起ったか。バンコック駐在の仏代理 ω f B . , 7 t 7 = ' ( 91 ) 第一号 (92) 第九十巻 橋諭叢 ︵22︶ たとえぱ、彼は上海シオニスト協会機関誌﹃イスラエ >一 に送っている。向N量ざωoぎ5きω臣品︸凹一2oくo冒σ宵 からエズラに送られ、エズヲはさらに回ンドンのソコロフ H旨o〇一8勺︸ーこの書簡のコビーは十一月五目ロピンジャー ︵妙︶ H6げ−目阻oH “o カ乱自moす− ooプ葭自o目プ嘗一 ズoくo昌げ0H −眈サ ルズ・メッセンジャー﹄に一九一九年七月四日号はじめ多 ︵30︶ ]□〇一︺−自o官山o﹃ヰo肉o−目蜆o︸−老oくo目二︺oH∼⑦“−i −o−oo− ooI 壮“ブ 臼目ρ ㎞↓ブー −o−oo− N㌧HN①−︹ポ N1>1 ω自Ho嘗目“O目NHP 心o↓ヴ]ZOくo昌一︺o■ μo−ooiN㌧−“90.N− ︵23︶ 身ミ良、餉ミ葛亀秦ミ一老毫o昌げ雪︷↓戸宕暑に一八年 くの寄稿を行った。 ︵孤︶ ト皇、昌軸∼、餉 ミ雨︸−雨ミ昧亜さ 2oくoH目一︺o﹃ 壮ヰ︸− −0NN. 勺㌣iN㌧HNgO.N.>’ ︵羽︶ ]﹁O︸O目O胃H一〇巨一〇 向一ω. ■印qOOユ01幸串山o︸−凹O ︸目−吊01 る。 六月二十四圓付モリソンのエズラあて警簡が掲載されてい ︵酔︶ −く.>1峯芭o旨冒胃曽︸ざ■〇一︺ぎ阻雪一勺oξ昌oq一−o々 ︵33︶ H︵嘗ρoo﹃−o 雪目ρ 向NH嘗 ヰo z. ωo斥o−o考− ω巨里昌oqチ里一 岸−目o目一U血oo自己Uo﹃].企︷戸 H旧Hoo−oo勺さN之∼oωドO’N−>一 N0ヰ︸−︶oo雲自一︺o﹃−o−oo,NくHNgO1N1>. 一−o−o〇一N−、H,90.N、>。﹃ノースチャイナ・ヘラルド﹄ 北京訪間の際携行し、直接ラインシュ公使に中国外交総 ︵“︶ ㌧︸、亀帖−、餉ミ耐㎞︸冊き恥雨ご老oくo自−σo﹃企“︸− H000N. 紙によれぱ、シオニスト側の要請は、ロビンジャー自身が 長への伝達を託して手交したという。Hぎ暑ミ§−oぎ§ ︵珊︶ ω自■く頸“1蜆O自一〇老一]円−口. 向NH閏−.N串 >OH目− −ONOl ﹃国父全集﹄第五冊、中華民国六十二年六月出版、oや志ひ 串雨、邑“軋i −︺oo血−]目一︺0H 00o− H0−oo. ︵%︶ H︸軋軋− ︵%︶ 一九一八年八月一目付ソコロフあてエズラ書簡の中で 1竃Nに所収。 述ぺられている。向・冨εωo斤o−oき窪彗o肩−串一−卑>目■ ︵%︶ ]﹁〇一︺−自o司−0H ︷o ]円NH葭i ωoo片o昌一]o﹃ −ご 一〇一〇〇l NくHN①一 知ったことに関するもの。 ︵37︶ エズラは九月二十七日付ソコ回フあて書簡の中でカド 唄自m戸 ].o].oo−N㌧].“ひーO1N.>− 〇・N・>・なお、この書簡は、判事がシャム政府の宣言を ︵η︶ Ω.目.旨oHユ蜆o目片o向問H凹−勺o斥−目oq−H㎞︷ヴoo①o↑o員二︺o■ している。向N量εωo片o−oきω巨凹目o目︸凹一ミ片けω①弓︷o目− ゥーリーは未だ日本に滞在中で来月には帰るであろうと記 H0Hoo−oO勺さNく−NgO1N−>. ︵㎎︶ ■NH︸ 一〇 峯oHユ蜆o自、 ω︸凹■岬︸葭− 旧o“げ ωoo︷①昌げo﹃一 工.スラの書簡に同封された。向N曇8岩筆自冒ωoぎ−oき ︵38︶ ドラネイ大使任命にあたり、在支那持命金権公使林権 一︺^W’ −O−O01 N’㌔−Nα− 〇一 N一 >一 畠畠・8胃・これらの書簡のコビーは、九月二十七日付 ω−ρ自o口げ葭−i■0N↓げωΦO片①目−σ①■ 一〇一〇〇−Nく−Nひ、〇一N.>1 ㏄ ( 93 ) 十四日在支那特命全権公使男林権助発後藤新平外相あて公 実した、との情報を外相あて送っている。犬正七年五月二 日本と提携し、極東外交を刷新する目的が今回の人事に結 助は、仏外交年来の不振に顧みて第一流の人物を派遣し、 大使の名がω・O巨己Pとあるぺきところが、ドO巨邑凹 イプされたのではないかと考えられる。発僧者の珍田捨已 また同コビーは恐らく、ロンドンのシオニスト機構で再タ ビーしたものである。オリジナルはどちらにも見当らない。 田oぎoq暑顯戌o目邑︸o冒o置■o−o幸−争弔8亘oというもの ︵砧︶ 電文は、言弓竃向串屑o留竈O昌o胃﹃彗8勺当鶉ま冒 とミス・タイプされているからである。 ︵仏国之部︶﹂。 信機密第二ニハ号。外務省記録﹁在本邦各国大使任免雑件 ︵39︶ Hぎミミ§−Oぎミ畠葭ミsミ一−凹自自胃︸o〇一岩宕に記 ︵46︶ 内邑8ユo彗ρ■N冨8ω艮o−oき旨彗管鼻宗ま で、一月十四目上海発二十五日ロンドン着。 ω︸凹目oq︸里一 H0︷げ−與■自嘗﹃︸一−旧−oN︷︶NgO.N一>一 ﹄凹目自彗さ岩岩一肉顯oooユo串コρ 向N量まオoざ昌芭■p ︵40︶ 向曽凹“oωo岸o−o尋一ω︸寧自岬庁巴一−o︷︸09〇一︺胃一−oHoo 述。 たのは十月九目とされる。N之ミ9ρN・>・ ︵48︶ Hぎ≧ミ苧Oぎミs曽ミs§一盲⋮胃︸豊Lξo二寒§“.眈 Ho亭︸嘗自自彗さH睾pN㌧−豪一〇1N.>. ︵47︶ N︷o邑黒 O﹃oq閏邑蜆里まoP ■o目ρo目 田■篶芭■ 片o 向胃P に記述されている。なお、仏大使からの書簡が上海に屈い ︵41︶ 大正九年四月二十六目サンレモ松井大使発電信第十四 ︵42︶ 向N雪 8 ωoぎ−oき 旨彗oqげ讐一 宝旨 オoき邑︺貝 号、外務省記録﹁サンレモ最高会議﹂。 着、第五八六号︵松井発珍田大使あて第三二三号転電︶。 ︵49︶ 松井駐仏大使発内田外相あて電信、大正九年四月二日 ミ要竃素ミ一老oき目σ胃二戸H竃N. 内邑ooユ9Ho斥︸oしoミ急8冒げ篶H肖o〇一8勺さN㌧8竃一 松井発内田外相あて電信、犬正九年四月七日着、第六二七 ︵43︶ この書簡のオリジナルは仏語。弟ooqo﹃峯彗o目轟mざ −旨o。に述ぺられている。N‘㌔H暮b.N。>. 〇、N、>.英訳はHざ吻ぎ秦ぎ︷皇§葦 言目自胃︸ 崖一 号。外務省記録﹁サンレモ最高会議﹂。 ︵52︶望o貝■8墨邑一Hぎbs害ミ、bミミき§一電−蟹o 二十六目、﹁サンレモ最高会議﹂。 ︵皿︶ サンレモ松井犬使発大臣あて第十四号、大正九年四月 第三二五号。外務省記録﹁サンレモ最高会議﹂。 ︵50︶ 珍田大使発内田外相あて電信、大正九年四月十一日着、 一〇−〇一ド守砧﹂くo、§−oきoミs串雨、s、トー與目自ρ﹃くN■一〇Hoに ︵44︶ O−−自O凹↓o4く9N目曇]自一■o■oo自一ひ↓ブーp目一冨﹃︸H鵯HP ある。 8、さNもoS一〇N>一なお、この書簡のコビーはレホ されているが、それは、C.Z.A、所蔵のコビーを再コ ボト︵イスラエル︶のワイツマン・アーカイグスにも所蔵 鯛 第一号 (94) 第九十巻 一橋論叢 −まご望畠員ωヲ勾o自閏巨一〇ぎ§§3o葦一ドo目ooヨーくo﹃ ︵鴉︶ 向N量ざω.■彗o昌彗一ω︸葭目o盲︸阜心。全旨﹄竃量Hさ 2ざ−o−岬o目津峯巴8p岩ωN一甲soo. −oH0−N之HNg〇一“.>一 ︵帥︶向§ざ≦§冒︷;︸一貧穿彗σ・麦しNま言ユ一− ︵躬︶ do巨墨ざ目N墨・Ho−く9旨↓け旨里さ−竃o、﹁民族問 岩昌。外務省記録﹁民族問題関係雑件■猶太人問題﹂。 題関係薙件・猶太人 問 題 ﹂ 。 ︵“︶ 向N昌旨do巨註一〇亭旨雪ざ一〇s.外務省前提記録。 ︵醐︶ 向N量ざdo巨op;旨峯凹︸一岩竃。前掲記録。 ︵蝸︶ 内田大臣発在上海船津総領裏あて公信、犬正十一年五 月二十七日第八二号、前掲記録。 ︵59︶ oo冨己o彗胃巴良﹄岩竃“o向彗p 盲篶o。昏・ ︵60︶ ∪1︸−.>げ量夢目彗o向・墨一〇do巨夢一望彗o目霊一 s§、前掲記録。 帳することは上海シオニスト協会にとって至福であった。 トの大義に明確な形で支援の労をとった人々に限られるL ゴールデン・ブヅクヘの記帳は過去二十五年間にシオニス ︵61︶ ゴールデン・ブヅクに記帳された目本人はこれまでに と記述している。 哉︶一H竃N一ミま宝︵射晶ぎ昌オ01︶一ξ旨竃O員チ巴§昌卑 合計四名である。すなわち、ジk富巨く嘗ζ序巨凹︵内田康 宝一皇さざ二ξ乞印まO自凹一−血三争O暮冒−=目婁o司串H向麸“ >鶉9サ庄昌.ド肉旨巨HO籟拭;巨︵樋口季一郎︶一岩含・“。 旨向彗巨自・ω。オoユ巨8︸竃冨︵安江仙弘︶一岩ζ.N.宝一 ひ㌔革0N00−σ︸2顯まo目串一 −価宅房︸ Oo自■o自−昌 “︸o ﹃里H 向里叩“ 巨︸胃巨目■阜。岸膏oH鶉︸−昌顯︵手島郁郎︶一εs.o.s一 −ミ富ま一−ミso。〇二U︸〆−巨ぎ︸黒邑由葦。︵手島郁郎に 昌o庄■9弩竃−。なお、上海シオニスト協会は、シャムお ついては二度記帳されている︶oo冒ざ︷肉g彗−︵ξ耐. て、ジェームズ・シャム政府顧問、ロビンジャー判事、ラ よぴ中国からシオニズムヘの支持獲得に功繍があったとし ィンシュ米公使の名前をゴールデン・ブヅクに記帳する手 冨吉盲罵−竃N・前掲記録。上海シオニスト協会の機関 七目号で二員をさいて、﹁目本はあらためてユダヤ人のパ ■〇一︺昌oq5■ω巨彗o司臣−U8o昌げ胃二戸呈崖一内邑8ユo 続をとることに決定している。穴邑8ユo彗o■目量昏 誌﹃イスラエルズ・メソセンジャー﹄は、一九二二年七月 相の写真をのせ、功綬をたたえている。その中で﹁︵その レスチナヘの権利を支持すると約束した﹂と題し、内囲外 −津o〇一射9鶉oげざ内里oo昌−o芭昌︷向胃p巾o医目o司一∪8o目− 里■ρ向N量 ざ 射乱昆o戸 ω巨芭■岬ヴ具 8ま]U8o昌一uo■ 斥o−o妻一ωげ里目oq︸巴−No︷︸U而oo目一︺o﹃一−oH00一NくHNgO−N・ σ胃一塞ま一岩Ho〇一宍閏︷o冒−o讐冒ρ向目冨ざz嘗−自冒ωo・ 言動からみて︶外相閣下はご自身シオニストであり、ユダ は明らかである。従って閣下の御名をたたえることは正当 ヤ人のバレスチナに対する権利の有カな支持者であること であり、御名をユダヤ民族基金のゴールデン・ブヅクに記 脳 >・およぴ﹄塞軋.・き蓄冬︶皇亭5曽︸一−ξo. ︵62︶ 授与式について、船津総領事発内田大臣あて電信、大 正十二年二月六日着第三二号、内囲大臣発船津あて電侶、 正十二年二月二十目第ニハ九号およぴ船津発大臣あて公信、 犬正十二年二月七日発第二二号、船津発大臣あて公信、犬 事業計画の援助に基づく研究成果の一部である。 大正十二牢三月七目第二三二号。外務省前掲記録。 ’ ︿付記V本稿は一九八一年度日本挙術振興会特定国派遣 ︵国際大学教授︶ 鮎 ; ' j 7 t 7 : ( 95 )
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