岡崎精郎教授の急逝を悼む

岡崎精郎教授の急逝を悼む
近 藤 治
の御悲嘆はいかぽかりかと推察されるが、追手門学院大
学にとっても、また学部や学科にとっても大きな衝撃で
あった。岡崎教授には大学創立初期からの在職者に適用
される古い定年規定が該当するため、七五歳の定年時ま
でまだまだ御活躍されるものと思っていたので、御逝去
によって大きな空洞が生じた感がする。
岡崎教授は、大阪大学の前身浪波高等学校を経て、一
休息されていたが、夕方家族の方が起こそうとされたと
去当日の午後、普段と変らぬように応接間で横になって
学が開学されると同時に文学部助教授として招聘され、
手に着任された。そして一九六六年四月、追手門学院大
年三月文部教官として大阪大学文学部東洋史研究室の助
官、同教育委員会事務局主事を歴任された後、一九五〇
九四二年京都大学文学部史学科東洋史学専攻を卒業され
きには、すでに冷くなっておられたということであった。
一九六九年四月に教授に昇任された。教授在職二十四年
岡崎精郎教授か一九九三年七月三日急逝された。令夫
苦しまれたような様子もなく、大往生であったという。
余で、追手門学院大学では最古参の教授であった。
た。第二次世界大戦中のことで、九月卒業であった。そ
随分以前から国立循環器病センターで心臓の治療を受け
この間に、所属学科名の東洋史学科から東洋文化学科
の後引き続き京都大学の大学院に籍をおいて、明代満蒙
ておられたが、その持病による急性心不全が死因であっ
への改称︵一九七〇年四月︶や、大学院の中国文化専攻設
人から訃報をいただいたときには、我が耳を疑ったほど
た。一九二〇年三月のお生れであるから、七三年と四ヵ
史料の編纂事業に従事され、戦後は一時大阪府地方事務
月の一期であった。今日の平均寿命からすれば、早すぎ
置二九七七年四月︶等のために尽力され、また一九八二
であった。御逝去の数日前まで、お元気なお姿を学内で
た長逝というべきであろう。
年十一月から八六年三月まで附属図書館長の要職を兼ね
見かけていたからである。令夫人のいわれるには、御逝
あまりにも突然に襲った永別であっただけに、御遺族
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られたほか、学校法人追手門学院の評議員も歴任された。
公刊された。この著書は、西夏国家成立以前の六世紀末
えられ、﹃タングート古代史研究﹄として一九七二年に
学の講義、演習を担当されて、学生たちの教育に力を注
から十一世紀前半におけるタングート族の発展史を中心
学位請求論文は京都大学の東洋史研究叢刊の一冊に加
がれた。さらに追手門学院大学での講義のほかに、京都
学部の授業では東洋史学を主担され、大学院では中国史
大学、大阪大学、大阪外国語大学、大阪教育大学、金沢
ニークな研究であり、学会でも注目されたものである。
また西方のウイグルとの関係についても詳しく論じたユ
史のほか朝鮮史、北アジア史等を講じられた。学会では、
また﹃騎馬民族史﹄︿正史北秋伝﹀︵平凡社東洋文庫︶第
的に扱ったものであって、隋、唐、五代、宋との関係や、
日本西蔵学会の幹事と、日本内陸アジア史学会の理事を
大学、愛知学院大学にも非常勤講師として出講し、東洋
長らく務められていた。
うな仕事はその後高麗刑法志訳注、両唐書党項伝訳注、
三巻では、新唐書沙陀伝の訳注を分担されたが、このよ
両五代史党項伝訳注へと続けられていった。
岡崎教授の研究領域は、その多年にわたる研究歴の広
がりとともに、多岐にわたっているが、最も得意とされ
飾ったものであった。そしてこの論文は訂補されて、教
理市の養徳社から刊行されるという輝かしいデビューを
の共著﹃東方史論叢﹄第一に収められて、一九四七年天
あるが、この論文は戦後、宮崎市定・田村実造両博士と
る党項の発展﹂は、学部の卒業論文を基とされたもので
学会で認められることになった最初の論文﹁唐代に於け
いわゆる塞外史の研究である。岡崎教授が研究者として
とめ上げられていくことができなくなったことは、返す
域へ研究の鍬を引き続き入れられて、ご自身で著書にま
もっておられたようである。こうしたさまざまな研究領
者の書簡や日記の紹介による諸事象の解明にも関心を
さらに東洋学史の研究へと及んでいた。近年では東洋学
の民族学的研究、遼史・ウイグル史研究、朝鮮史研究、
究領域はチュルク族・沙陀族史の研究、東アジア諸民族
および塞外諸民族伝の訳注作業のほかに、岡崎教授の研
右のような学位論文に集約されるタングート史の研究、
授が大阪大学に提出された文学博士の学位請求論文﹁タ
がえす残念でならない。
たところは、タングート︵党項︶族の活動を中心とした、
ングート古代史研究﹂の冒頭第一章に配されている。
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の印象を持っていたが、近年では頓に恬淡、淡白となら
や人事に関して人並みではない強い関心をお持ちの方と
えたりしてきた。はじめのころは、岡崎教授が学内行政
して同じ学科でいろいろ御鞭錯をいただいたり御教示を
なって以来二十三年間余、同じく東洋史学専攻の後薙と
私は一九七〇年に追手門学院大学に奉職するように
たりすることには頓首されない方であった。そういうと
問研究のためには多少の迷惑をかけたり、またかけられ
にこにこしながら借して下さった。ことほど左様に、学
かおるからちょっと待ってくれといわれ、二、三日後に
借覧を願い出たところ、大冊の本なので担いでくる必要
﹃石浜先生古稀記念東洋学論叢﹄をぜひ見たく、教授に
収︶ であった。またいつかの機会に、今度は私の方が
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れたように見受けられるようになった。もっと早くこう
ころに、古いタイプの学者の良き資質を見た思いがする。
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いう境地に立たれていたならば、あるいは心身への御負
昨一九九二年度、岡崎教授は長年の勤続が報われて京
内研修を大いに楽しまれ、楽をさせてちらったといって
担が一層軽減されていたかも知れない、と思ったりもす
お家から病上りのお声で研究室の私に電話があり、内藤
大変喜んでおられたとのことである。学科としては、教
都大学人文科学研究所での国内研修の機会をえられた。
湖南全集から﹃日本文化史研究﹄の一節の文章を確認さ
授を一年間国内研修に送り出し、満足していただけたこ
る。
れたことがあった。私かこの全集を研究室に置いていた
とがせめてもの心休めとなる。
教授の急逝後、御遺族がいわれるには、御本人はこの国
ことを知っておられて電話されたのだが、私はその時、
先生の安かな御永眠をお祈りする。
以前、循環器病センターから退院されて間もないころ、
ものごとを尋ねる際でも随分乱暴な頼み方をする人だな、
との感じを正直のところ持ったほどである。しかしご本
人の方はケロッとしたもので、後日、あのとき教えても
らった箇所を引用した論文だ、といって抜刷を下さった。
それが﹁大阪東洋学会より静安学社ヘー大阪学術史の
T﹂まとして﹂︵﹃森三樹三郎博士頌寿記念東洋学論集﹄所
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