30年で世界は変わる ■新編集講座 ウェブ版 第35号 初めて編集者になった頃 2015/9/1 毎日新聞社 技術本部長(元・大阪本社編集制作センター室長) 三宅 直人 ちょうど 30 年前の 1985 年 9 月 1 日、私は初任地の宇都宮支局を離れ、 東京本社整理本部(現・情報編成総センター)に転勤。仕事の内容も、 外勤記者から紙面編集者に変わりました。「十年一昔」と言いますから、 「三昔」前です。世の中も、編集の方法も、今とはかなり違っていました。 ■ 護国神社のポケベル ㊤㊧ 85 年 8 月 16 日 栃木版 85 年 8 月 15 日の終戦記念日。私は、宇都宮市の栃木県護国神社で 行われた戦没者追悼式(栃木県遺族会など主催)を取材していました。 列席した渡辺文雄知事(当時)は神式の作法で参拝。私は、他社の 記者ともども、「私人ですか、公人ですか」と尋ねました=右欄参照。 その日、中曽根康弘首相(当時)が靖国神社を公式参拝したこともあ り、知事の対応が注目されていたからです=右欄参照。 その時のこと。胸ポケットに入れたポケットベル=右欄参照=が突然 ピー、ピーと鳴り出しました。慌てて公衆電話を探し、支局に電話を 入れると、支局長が「すぐ支局に上がって来い」と言うのです。 「デスク(日々の取材のまとめ役)じゃなく、支局長(労務管理や対外 ㊨ 85 年 8 月 15 日 夕刊1面 折衝を担当)から呼び出しとは」 。不審に思いながら支局に駆け付ける と、支局長がいきなり「三宅君。異動が決まったぞ。9 月から東京本 社の整理本部に行ってくれ」と言います。突然の異動通告に仰天し、 言葉も出ませんでした。 ■ まさか日航機事故の直後に 実はこの時は、ジャンボ機が群馬県御巣鷹山に墜落し 520 人が死亡 ポケットベル(通称ポケベル、写真㊧㊤)は、電話 した、あの日航機事故(85 年 8 月 12 日、右欄参照)の直後でした。宇 を使った呼び出し装置です。電電公社の運営でし 都宮からも隣県群馬に応援を出したため、支局に残った私は、同僚の たが、この取材の4カ月ほど前の85年4月に民営 持ち場も含めて県内を走り回り、栃木版に山のような原稿を出してい 化されNTTに変わりました=写真㊨㊤は公社旗 ました。この時期に転勤とは、想像もしていませんでした。 の降納。ポケベルも、電電公社も、死語ですね。 当時私は 28 歳。支局 5 年生の行政取材キャップです。県庁や県政 界にそれなりのパイプも出来て、仕事が面白い盛りでした。まだまだ 書きたいテーマがあったし、庁内に気になる人もいました。それだけ に突然の異動通告はショックで、県庁記者クラブに戻った私に、読売 新聞のN君が「三宅さん、顔色が悪いよ。ひょっとして異動?」と聞 いてきたほどでした(こういう勘のいい人は記者向けです)。 とはいえ転勤まで 2 週間しかありません。感傷に浸る間もなく、引 き継ぎとあいさつ回り、引っ越し準備を猛烈な勢いで進めました。 ㊧ 85 年 8 月 13 日 朝 刊 1 面 ■ 最終版エリアに住め ■ 8 月 30 日(金曜日でした)の夜、思い出深い初任地・宇都宮を後に 早版と最終版 右図は81年10月1日の しました。着任時は国鉄(死語、現JR)の在来線特急利用でしたが、 最終版の朝刊1面です。 在任 4 年半の間に東北新幹線が開業しており、新幹線での離任でした。 88年の五輪開催地がソウ 異動に際して、整理本部の部長から、 「可能なら最終版(朝刊 14 版、 ルに決まったニュースがト 夕刊 4 版)エリアに住むように」と言われました。最終版で紙面がガ ップですが、決定は日本時 ラッと変わることがある、自宅が早版だと、出勤してからまた朝刊を 間9月30日深夜で、宇都宮 読み直す必要が生じる、ということでした。 に配達される早版には間に合いませんでした。 宇都宮が早版地区だったので、早版と最終版の差は実感しています =右欄参照。迷わず都内(最終版地区)に住むことにしました。 私は大阪生まれで、学生時代も京都に暮らしていたので、東京に土 実はその30日、銀行員が部下の女子行員を殺 す事件が県内であり、取材に当たりました。深夜 に警察から支局に戻ると、「ソウル五輪決定」のテ 地勘がありません。そこで支局長の知人の不動産業者に紹介を頼み、 レビニュースが流れていて印象に残っています。 営団地下鉄(死語、現東京メトロ=右欄参照)小竹向原駅近くの板橋区内 ㊧営団地下鉄のロゴマ に居を構えました。近くには私鉄の東武東上線も通っていましたが、 ーク。Subway(地下鉄) 当時は通勤電車に混じって貨物列車も走っていて驚いたものです。そ の頭文字「S」が由来。 の東上線の貨物列車も、姿を消して久しくなりました=右欄参照。 ㊧㊦東上線貨物列車を 引っ張っていた電気機 ■ 「呪文の森」の巨匠たち 関車は東武博物館(東 週末をはさみ、9 月 2 日(月曜日)の朝、私は整理本部へ初出勤しま 京都墨田区)に保 した。配属は「硬派」 (政治面や国際面など「硬い」ニュースを編集する部 存されています。 門。ちなみに「軟派」は社会面やスポーツ面担当)とのことです。 当時も今も、整理部の新入部員にはベテランの「先生」が付きます。 ㊦原稿の削りや直 1カ月ほど同じローテーションで過ごしながら、見出しの付け方や紙 しの際に使う編集 面レイアウトの極意など編集技術を学んだり、出稿部門のデスクの癖 者用の書式の例。 など非公式な情報を伝授してもらったりするのです。 早速、原稿に手を入れる際の記号の意味=右欄参照=とか、見出しの 文字数の決まり=右欄参照=とか、整理の基本をたたき込まれました。 編集のイロハも知らない私は、連日、「ゴーサン、サンダン」や「見 出しを抱えて四つにオッツケ」など、呪文のような言葉を聞かされ目 を白黒させるばかり。ゼロから紙面を作り上げる先輩諸氏が手品師に も巨匠にも見えました。この「ゴーサン、サンダン」とか「オッツケ」 については、また別の機会にお話しすることにします。 もう一つ。当時の東京本社は電子組み版の導入前。鉛活字の全盛期 でした。整理部員は、字面が左右逆になった鉛活字=右欄参照=を素早 く読む能力が求められていたのです。やってみると、漢字は案外易し 別 の 機 会 に 説 明 し ま す 。 る マ ニ ュ ア ル 。 詳 し い 意 味 は ㊧ 見 出 し の 文 字 数 を 決 め ら 右 へ 読 み ま す = 左 図 参 照 。 転 し て い る だ け で な く 、 左 か ㊨ 鉛 活 字 の 見 出 し 。 文 字 が 反 く、「さ」と「ち」を取り違えるなど、ひらがなが難題でした。この 鉛活字の新聞制作についても、いずれ項を改めて紹介しましょう。 ◇ 「ポケベル」は携帯電話に取って代わられ、 「電電公社」や「国鉄」 「営団地下鉄」は民営化されました。何より、今ではコンピューター 組み版は当たり前です。30 年経てば世の中変わるのだなあと、アンシ ャン・レジーム(旧体制)のおじさんは、しみじみ思うのでした。
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