日 航 ジ ャ ン ボ 機墜 落 事 故 から 30 年 例によって門田隆将氏の「風にそよぐ墓標 父と息子の日航機墜落事故」を 読 ん だ 。 2010 年 に 刊 行 さ れ て い る 。 日 航 ジ ャ ン ボ 機 と い え ば 、 史 上 最 大 の 被 害 者 を だ し た 「 人 災 」 で あ る 。 524 人 中 4 人 が 救 出 さ れ た 。 な か で も 川 上 慶 子 さ ん が 、自 衛 隊 員 に 抱 か れ て ヘ リ コ プ タ ーに収容される画像は、今もって脳裏に焼きついている。ご両親も妹もなくされ た。この子の中学生のお兄ちゃんが、健気にも「高校へ行くのを諦めて働く」と 言った。 この川上慶子さんを抱き上げて救ったのが、自衛隊の中でも エリート集団であ る習志野空挺部隊のとびきりのエース、作間優一さんである。 歯を食いしばって の救出に、日本中のみならず世界中の感動を呼んだ。いわば、悲劇の中のほとん ど唯一といっていいほどの希望の象徴であった。 「習志野空挺部隊をなぜもっと早く投入しなかったのか」 「夜明けとともに出動させていたら、生存者はさらに増えていただろう」との 声が今もってある。 ( 生 存 者 の 証 言 で 、あ と 何 人 か は 助 か っ て い た 可 能 性 が あ る 。) 後述するが、上層部の判断力のなさによる、と言われている。しかし、生存者 がみつかりました、という報に「まさか」と空挺部隊の面々が声を発したくらい だ か ら( そ れ ほ ど 現 場 は 悲 惨 な 状 況 だ っ た )、ま さ か 上 層 部 も 生 存 者 が い る と は 思 わなかったのだろう。やむを得ない面もある。まして、災害救助に習志野空挺部 隊が投入されることは、余程の事故でないとあり得ない。 事故で亡くなった方々の話とその息子さんたちとの交情を著したものであるが、 ボクは、冒頭の作間さんの話に圧倒されてしまった。 (以前に、遺体捜索をしていた人々の本を読んだとき、事故発生後数日して何人 かで昼食に食堂に入ったら、死体の匂いがする、とその場にいた人々が逃げ出し た逸話がある。特に前方に座席のあった人の状態は、書くのもいやになるほどひ ど い 状 態 だ っ た 。 生 存 者 は 、 後 部 座 席 の 人 ば か り で あ る 。) 作間優一さんの話を以下に引用させてもらう。作間さんの人生観を一変させた ほどのものである。 「クマさん、頼 む!」クマさんとは、作 間 さんの愛 称 だ。上 官 の岡 部 二 尉 はそう叫 ぶと川 上 慶 子 さんの命 を作 間 さんに託 した。この時 、岡 部 二 尉 も作 間 さんも川 上 慶 子 さんを男 の子 だと思 い込 んでいた。髪 の毛 も短 く、短 パン姿 で、顔 も汚 れて黒 くなっていたからだ。 「子 どもは、抱 いて上 がってください!」看 護 婦 の要 請 で、 作 間 さんはぐっと抱 き上 げ、足 で下 半 身 を固 定 した。鼓 膜 を突 き破 るようなヘリの爆 音 の中 で、作 間 さんと慶 子 さんの身 体 は浮 き上 がっていった。 その場所に門田さんが作間さんを連れて行った。 「てっきり(慶 子 さんを)男 の子 だと思 っていました。地 上 から身 体 が浮 いた時 、ミルクの 匂 いというか、母 乳 の匂 いがしたんですよ。その時 、なぜか急 に涙 がこみ上 げてきまして ね。あの時 、私 の子 どもは上 が小 学 校 3 年 生 で、下 が 3 つでした。上 は男 で下 が女 の子 です。子 どもって赤 ちゃんの時 に母 乳 というか、そういう匂 いがするじゃないですか。それを 感 じたんです。涙 を止 めるのに必 死 で、歯 を食 いしばりました。 絶 対 に命 に代 えてもこの 子 を助 ける、という思 いでした。」 最 初 に見 た凄 惨 な遺 体 と自 分 が抱 いている生 存 者 の匂 い。作 間 さんは、極 限 の場 面 で 人 間 の生 というものに対 する感 動 を覚 えたのかもしれない。 作 間 さんは、父 親 として慶 子 さんを抱 きかかえていたのだ。(中 略 ) 作 間 さんは、意 外 な話 をしてくれた。 「(略 );作 間 さんは夜 までに現 場 に戻 れず、ヘリコプターの横 で一 夜 を明 かした。・・・・・い ろいろなことを考 えました。」夜 、一 番 考 えたのは、 自 分 が抱 えたあの子 は、これからどう やって生 きていくのか、ということです。あの状 況 では家 族 は助 かっていないだろうし、きっ とこれから一 人 で生 きていかなければいけないだろう、と思 いました。私 は、あの子 にもし 身 寄 りがないんだったら、うちで養 子 にしよう、と考 えていました。それを女 房 に何 て言 おう か、女 房 は納 得 してくれるだろうか、と思 いながらあの夜 を過 ごしました。」 なぜ作間さんはそんなことを考えたのだろうか。 「私 たちが行 って救 助 したのは事 故 から 10 何 時 間 後 ですよね。私 は、彼 女 を上 げなが ら、この子 はまともな人 生 というか、人 を怨 まずに人 生 を送 れるのかということを考 えたん です。だから自 分 が面 倒 を見 なければいけないのではないか、と思 ったんです。 でも、あの 後 、入 院 した川 上 さんが、お世 話 になった看 護 婦 さんに感 謝 の手 紙 を書 いたじゃないです か。報 道 でそれを知 った時 に、ほっとしたんです。人 を怨 まない、感 謝 する気 持 ちを忘 れな いでこの子 はいてくれたんだな、と思 いました。その時 に、ヘンな言 い方 ですけど、ああ心 配 しないでいいんだ、これで自 分 との縁 は切 れたなあ、と思 ったんですよ。あの子 が、感 謝 するという気 持 ちを持 っていたことに、私 は安 心 しました。」 自 分 が吊 り上 げていった人 間 を作 間 さんはそこまで気 にとめていたのである。 川上慶子さんについては、さすがに厚顔無恥な連中も追跡することなく、市井 に埋没していってくれた。 こ の 日 航 ジ ャ ン ボ 機 の 事 故 が 1985 年 8 月 12 日 。そ の 10 年 後 に 阪 神 淡 路 大 震 災 。 川上さんは、看護婦になって尼崎かどこかで働いていて、ボランティア活動で活 躍 し た 、と い う 。・・・・こ の と き 、何 と い う 数 奇 な 運 命 に 生 ま れ た 子 だ ろ う 、と 書いたことがある。今なら、いいお母さんになっているだろう。 気 持 ち の 整 理 が つ い た ら 、作 間 さ ん に 会 わ せ て あ げ た い 。最 後 に 、作 間 さ ん は 「今 度 は一 人 で個 々に来 て泊 まり、ここで眠 る方 々と一 晩 、話 をしなければ・・・・」と呟 いた。 どこやらの小児科の連中に教えてやりたい。 習志野空挺部隊の投入が遅れた、といいながら、阪神淡路大震災に際して自衛 隊 の 投 入 が 遅 れ た た め 、助 か る 生 命 も 数 多 く 失 わ れ た 。と き の 総 理 村 山 ト ン 吉 は 、 「 な に せ 初 め て の こ と で も あ り 、・・・・」と 釈 明 し て い た 。ま っ た く 学 習 し て い ない。この年にはサリン事件もあった。 そ れ か ら 10 年 、 今 度 は JR 福 知 山 線 の 脱 線 事 故 で あ る 。 も う 10 年 に な る 。 し か し 、人 災 は 、い つ ど こ で 起 こ っ て も お か し く は な い し 、天 災 も 2011 年 の 東 日 本 大 地 震 、2014 年 に は 広 島 の 土 砂 崩 れ 、御 嶽 山 の 爆 発 。毎 年 の よ う に 発 生 し て いる。 ど う も 、こ の 20~ 30 年 来 、日 本 列 島 の み な ら ず 、世 界 中 が 地 殻 変 動 の 時 期 に な っ て き て い る の で は な い か 。・ ・ ・ ・ 今 は ネ パ ー ル の 大 地 震 で 被 害 が 甚 大 だ し 。 僕らが学生時代から信用している木村政昭先生によれば、今、日本列島の中央 部の火山活動が活発になってきているという。木村先生は、奥尻島沖地震も東日 本 の 大 地 震 も 予 測 し て お ら れ た し 、昨 年 の 御 嶽 山 の 爆 発 も 、2013 年 ±4 年 で 的 中 。 今年あたり、富士山も考慮しなければならないのかもしれない。富士山について は 、 2017 年 ±5 年 、 浅 間 山 は 、 2012 年 ±4 年 と い う 。 浅 間 山 は 、 す で に 活 動 が 活 発 化 し て い る と も 言 え る 、と い う 。富 士 山 も 、も う い つ 爆 発 し て も お か し く な い 。 木村先生の話は改めてまとめるつもり。 2015.05.01.
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