「松源寺通信第5号 永松だより」が刊行されました

(1)
承
松源寺本堂建立八〇年を迎えて
そうじょう
相
平成二十七年松源寺研修旅行ご案内
じょう さいだい し けいざんじょうきんぜん じ
建立八〇周年記念年
と来年は松源寺本堂
マとして様々な行持が
を受け伝えること)をテー
承 (弟子が師から法や学問
回大遠忌」の本年、相
たばかりの北陸新幹線に乗って能登半島の旅を満喫
団の基を築かれました。その功績を顕彰し、開通し
峨山禅師は二十五哲と呼ばれる優れた弟子を育て、
現在全国一万五千余ケ寺の一宗派では最大数の大教
つのお寺を朝のお勤めの中に往来しました。
祖峨山 韶 碩禅師六五〇 離は山道で一三里(約五一キロメートル)。この二
ようこう じ
大師瑩山 紹 瑾禅師様によって
永平寺 松は松源寺)そして、三十五世智
總持寺は太祖 常
堂泰典師へと引き継がれ現在を迎えて 能登の門前に開かれ、後に峨山禅師が受け継ぎまし
になります。
行われていますが、松
したいと企画致しました。どうぞご友人の方もお誘
は くい し
年、来年平成二十八年(二〇一六)は
ここにその時の上
棟式の写真をご披露
源寺においてもこのよ
い合わせいただき、楽しい旅にしたいと存じます。
が さんじょうせきぜん じ
います。曹洞宗では「大本山總持寺二 た。また羽咋市の永光寺も兼務されました。その距
今年は本堂建設が計画されてから八〇
今年は大本山總持寺二祖峨山韶碩禅師六五〇回大
※
会が組織され、後にそれが「永松会」と 遠忌の年になります。その足跡を訪ね能登半島への
松源寺の現本堂は昭和十一年
(一九三六)十一月に建立されました。 なり今日まで継承されています。(※永は 旅行を企画致しました。
みなさまのお知恵とお力を合わ
せていただき この佳きめぐり
あわせを寿ぎましょう
永松だより
本堂落慶から八〇年を迎えます。今年
します。
うにして法灯が力強く
はい ぶつ き しゃく
仏毀 釈 の
明治の廃
為荒れ果てていた松
源寺を、三十一世智
永光寺
繋がってまいりました。 期日 平成二十七年六月二十三~二十五日(二泊三日)
◉お問い合わせは松源寺まで。
七尾市
宗禅孝師が引き受け、
峨山道
建築物は時が来れば
建て替
のと里山空港
三十三世智山良孝師
輪島市
の時に現在の本堂が建立されました。こ え る こ と と な り ま す
總持寺祖院
能登有料道路
51 km
の当時のお檀家の皆様の菩提寺を興隆 が、泰典師は仙台空襲
させたいと願う熱気が感じられる写真 も逃れ、先の宮城県沖
です。その時の役員の皆様や檀信徒の 地震にも、この度の東
方々が松源寺を支える礎を作ってくだ 日本大震災に耐えた本
く り
さいました。三十四世智貫孝善師の代 堂を、永く大切にした
には庫裏会館建設の時に建設実行委員 いと思っています。
峨山往来要図
第 5 号 平成 27 年(2015 年)皐月
松源寺通信
(2)
対談
松 源寺と地域防災
古山健造 氏 仙台市青葉区青葉土樋町内会会長
松源寺ご住職三十五世東海泰典師は、いつも「地域の為に役立つ松源寺でありたい」と思っています。
特に東日本大震災以後は、三月に『三・一一を忘れない 祈りの集い』を主宰し、九月に文化人を招いて講
るところが気がかりです。避難訓練への参加も、もう少し
欲しいところです。防災と言いますと、地震による被害も
そうですが、最近は火災や防犯を切り口に取り組むことに
しています。
泰典 都市型とでもいうのでしょうか。しかし自然災害は
多様ですから油断はできません。町内会の防災対策は、思
援活動を活発に行ったという話も多く聞きます。寺院は一
平洋側三県の曹洞宗寺院では避難所の役割を担ったり、支
でしょうが、人は避難するときに馴染みのある所へ避難す
会を開催しています。原発事故の時のような強制避難は別
れない 祈りの集い』
、九月に文化人を招いて講演会や演奏
わぬ形での災害にも備えていることになっているのだと思
般家庭に比べ敷地も広いし、公共性の高い施設だと思いま
る傾向があるそうです。常日頃から親しんでもらうことが
演会や演奏会を開催し、地域に開かれた文化活動を通じて震災復興に尽力してきました。さらに地域防災
す。緊急の時にはお役に立ちたい
大切です。その為の公開イベントでもあるのです。
います。松源寺は公共の場所として、地域の皆様に認識し
と思っています。
古山 ご案内があれば町内会にも紹介しますし、参加でき
るでしょう。
の為に、活動の場を広げていきたいと思っています。そこでこのたび青葉土樋町内会長の古山健造氏をお
古山 平常時や災害発生時の連携
を、東北学院大学と五橋地区連合
ていただきたいとの思いもあって、三月に『三・一一を忘
布しております。町内会主催の防災訓練は二十二年三月六
町 内 会 レ ベ ル で 考 え て い ま す が、
泰典 今年は戦後七〇年で、仙台空襲七〇年でもあります
が、その語り継ぎのような催しをやりたいと思っていまし
招きし て 、 地 域 防 災 に つ い て 語 り 合 い ま し た 。
日に土樋緑地公園で行いました。二十三年度からは五橋地
具体的にはこれからです。和尚さ
松源寺を「がんばる避難所」として登録
区連合町内会が五橋公園で行う訓練に参加しています。平
んのお話は地域にとっても魅力的
参加し、同年九月二十八日に行われた荒町小学校区総合防
九月二十日の五橋中学校総合防災訓練に当町内から二五名
立、地域版マニュアルも作成しております。平成二十六年
橋地区連合町内会が中核となり平成二十五年度十一月に設
ら、五橋中学校に避難所運営委員会の設立要請があり、五
五橋中学校避難所委員会に登録しておくと物資などのサ
難 所 」 も 自 主 運 営 が 原 則 で す が、
難 所 」 が あ り ま す。「 が ん ば る 避
地域の集会所などの「がんばる避
セ ン タ ー な ど の「 補 助 避 難 所 」、
学 校 な ど の「 指 定 避 難 所 」、 市 民
松源寺さんは防災への積極的なよりよい環境を生むように
古山 様々な資機材を用意してありますが、それを使って
練習することも大切です。町内会にはかってみましょう。
が避難所運営する練習の一端として、町内会イベントとし
災訓練に当町内会から一一名が参加しました。今年度の訓
ポートを受けることもできます。
は青葉土樋防災マニュアル・組織図・防災マップを全戸配
古山 青葉土樋町内会の地域防災組織は、町内会役員・班
長・防災ボランティアなどで構成され、平成二十一年度に
泰典 町内会での地域防災はどのような様子でしょうか。
成二十四年度には荒町小学校区避難所運営委員会が設立さ
なお話です。避難所には小中高等
た。今の古山さんのお話を伺って思ったのですが、松源寺
れ防災訓練に三〇名程度が参加しました。また、仙台市か
練日程も決まっています。五橋中学校総合防災訓練は八月
泰 典 三・一 一 の 時、 私 は 不 在 で 出 来 な か っ た の で す が、
東北学院大学では炊き出しをやったと聞きました。これは
古山 この地域はお祭りなどが少なく、盛り上がりに欠け
七月十日に、松源寺境内炊き出し防災訓練
*話‌題は多岐にわたり充実していましたが、紙面の関係上多く
を割愛せざるを得ませんでした(編集子)
泰典 いろいろと貴重なお話をありがとうございました。
なってもらえればありがたいと思います。
努力している姿勢が見えます。是非「がんばる避難所」に
うなことができれば良いと思います。
から『語り継ぎ』と炊き出し訓練のコラボレーションのよ
て境内を使った炊き出しはどうでしょうか。七月十日夕方
二十九日(土)
、荒町小学校区総合防災訓練は九月二十七
松源寺でもできることだと思いました。現に東北の特に太
日(日)です。それぞれ九時からの予定です。
泰典 お檀家の役員会にはかり、登録するように進めたい
と思います。
対談風景
(3)
りょう そ き
両 祖忌
さが たず
探し訪ねて
もんしげつぐ
えんどうゆう ご ろうときしげ
え
遠藤勇五郎時習
ひらつかもみ
松源寺の御縁
じょうきょう
伊達綱村公の時代、 貞 享 元年(一六八四)平塚籾右衛門重次が仙台藩の弓術指南役と
源寺の近く現在の宮城県工業高校のあたりに在りました。以後、仙台藩雪荷派は継承され、
ときなか
藩政時代の最後を迎えようとするころに、遠藤勇五郎時習が弓術指南役になります。時習
はや け
二十四歳の折、父時中に死別しますが、指南役であった父の跡を継いだのは山内三保吉英
雄でした。このころの時習は「早気」で、家業を継げる腕前ではありませんでした。早気
とは、発射の機が熟さないのに射てしまう悪い癖です。この時習を立て直したのは母天厳
院でした。「このままでは亡き夫に申し訳が立たないから、
二人とも死ぬことにしましょう。
お前はこの母をお前の弓で射殺して、その後に自害しなさい」と説得します。的前に立ち
弓をキリキリと引き絞るその矢面には母が立っています。さすがに矢を放つことはできま
せん。時習がこれまでと観念した時に、時雪の射形が入神の妙技に変じます。その時「善
(参考 『弓聖阿波研造』池沢幹彦[東北大学出版会]) 五十五歳で没しました。そのお墓が松源寺にあります。
新記録を作って江戸一の名声を博し宿願を遂げたのでした。時習は嘉永四年五月に、行年
習に山内英雄は射芸指南役を譲りました。その後時習は、江戸深川の堂において通し矢の
行動によって、時習は「早気」を克服し雪荷派の極意に達しました。そして、成長した時
曹洞宗のお寺では、この九月二十九日には、道元禅師様と瑩山禅師様の両祖の
(曹洞禅ネット)
し、その呼吸を忘れるでない!」と言い放ち母はスッと矢面を離れます。母の命を賭した
での九月二十九日を、両祖大師のご命日として、「両祖忌」と定めました。以来、
うけて、明治十年十二月二十日に制定された「祖師忌改正条例」では、太陽暦
両祖大師の示寂された両日を、近代に入り太陽暦に換算したところ、まこと
に不思議なことに、年こそ違え、いずれも九月二十九日となりました。これを
月十五日に、石川県羽咋市の永光寺にて、五八歳で示寂されました。
大本山總持寺を開かれた太祖常 大師瑩山禅師様は、正中二年(一三二五)八
大本山永平寺を開かれた高祖承陽大師道元禅師様は、建長五年(一二五三) 八月二十八日に、京都高辻西洞院覚念邸で、五四歳で示寂されました。また、 なることにより、雪荷派の射芸がもたらされることになりました。その堂形稽古所は、松
第5回
御遺徳を偲び、報恩感謝の法要を営んでおります。
道元禅師
三尊仏
瑩山禅師
:
ど う
道
*
も と
本
息をつめて復旧へ力を合わせた日々のテ
レホン法話をまとめた『まっすぐに た
だまっすぐに 三・一一その先へ』
(金港
え ん
円
堂)が出版されて大きな話題となりました。
『一歩先へ 二歩先へ 柴山光由さん づ う
通 *
文芸の風 読者の皆様からの投稿作品を紹介します
飾ればたちまち あなたは主役
花を手折て テーブルに
短
歌 佐々原洋子 (仙台市泉区)
道端の
が真情にあふれ、皆様の心のよすがとなる一冊です。
* 禅 の 小 窓
堀下さんの歌と電子ピア
ノ、明珍さんのチェロがハー
東日本大震災の傷跡生々しいさなか、
二話。会場はざわつくこともなく、集中した朗読のなせる
、寒気は残るもの
命日の丁度一か月前の二月二十日(金)
の前日までの不安定な気候とは一転して青空が広がりまし
モニーを紡ぎだします。こと
ます。
業に魅せられました。
た。その穏やかな光の中、松源寺三十四世再重興智貫孝善
ばが声となり、リズムを刻み
けて今年で 1,000 話を迎えようとしてい
松源寺三十四世再重興智貫孝善大和尚一周忌法要
大和尚の一周忌法要が執り行われました。導師は峰仙寺大
メロディーを奏でます。声の
くさんのはがきが映し出されました(第 938 話)
。「鐘は一里鳴っ
方丈千葉省三老師(気仙沼市津谷)
。五〇名に迫る僧侶が集
なんとなく 微笑み返し 擦れ違う
春のような 和らかき人
開している「はがき一文字写経」運動に呼応し、全国から届いたた
魅力。二時四六分の黙とうを
映し出されました。一心本尊の御姿と、徳泉寺を復興するために展
い、出班焼香(御位牌に向かい導師を中心に両班の八名が
も放送されました。除夜の鐘が響く中、ライトアップされた本堂が
挟 ん で 歌 い 切 る こ と の 強 さ。
大晦日、NHK テレビ「ゆく年くる年」の中で、徳本寺からの中継
横一列に並びご焼香を行う)で最
くような気がします。除夜の鐘を撞きながら、或いは聴きながら、
俳
句 桃野サチコ (仙台市青葉区)
るというのではなく、響き渡るという点です。どこまでも祈りが届
ぬく
と言ったのは、永六輔さんです。梵鐘のいいところは、単に音が鳴
ら
て 二里響き 三里わたる その響いてわたる間に祈るのである」
こ
心本尊」と名付けられ、徳本寺に仮安置されています。2013 年の
そして手拍子、手拍子、手拍
人々の支えになろうとする一心で踏み止まったものと信じて、「一
高位の敬意を表する法要が営まれ
1717 で聞くことができます)を発信し続
つま
が、御本尊様が奇跡的に見つかりました。どんな災難に遭っても、
子
「グッバイ・レイニーデイ」。
師 は、 テ レ ホ ン 法 話( 電 話 0223-38-
な ぐ さ め の 此 の 逝 き 方 と の ぞ む 声
早坂師が住職を兼務する徳泉寺は津波にすべてを流されました
ました。松源寺通信をご覧になり
早坂文明(宮城県山元町徳本寺住職)
夫 に 似 て 子 等 の 手 温 し 冬 の 虹
噴き出してきた被災地を背景に綴られたその続編です。
5
「来年もやります」とご住職
早坂文明(蕃山房)
。価格 1,000(税込)
十数名の参列者がありました。
『一歩先へ 二歩先へ 三・一一その先へ』
は力強く閉会の言葉を述べま
した。
第3回
最後に、現住智堂泰典和尚が宗
門とお檀家のために松源寺をさら
復興の一日も早からんことを祈りましょう(第 936 話)。一話一話
に充足させてゆきたい思いを述べ
ました。脇にはご子息の大輝師が
し っ か り と 寄 り 添 っ て い ま し た。
ご縁を大切に繋ぎ、多くの人たち
を忘れない 祈りの集い
でそのご遺徳を偲ぶご法要となり
発行所 蕃山房 〒 989-3126 仙台市青葉区落合一丁目 4-8 電話・FAX 022-778-8679
松源寺通信第 5 号 ─ 永松だより
ました。
第二回
が文字の世界を立ちあがらせて迫ってくる。一話三〇分が
みます。
『慟哭の記録』が文字の力であるならば、声の力
行いました。柴山さんの朗読が聴衆を四年前に引きずり込
んだ後、場所を「永松閣」に移し、朗読会とコンサートを
松源寺本堂において東海泰典和尚が導師となり、法要を営
の 方。
『 慟 哭 の 記 録 』 編 著 者 金 菱 清 先 生 も ご 参 加 さ れ た。
さんは相馬のご出身。チェリストの明珍幸希さんも福島県
ように十分気を付けました」と柴山光由さん。堀下さゆり
早朝にはうっすらと雪景色でしたが、昼にはすっかり日
差しが蘇えりました。
「今年はインフルエンザにならない
3.11
堀下さゆりさん
三・一一その先へ』
(蕃山房)は、復興への歩みが孕む混沌の芽が
http://shougenji.jp/
(4)
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