第18回「芳香族化合物の反応 (1)」 有機化学Ⅱ 講義資料 第18回「芳香族化合物の反応 (1)」 今回と次回とで、芳香族化合物の重要な反応である芳香族求電子置換反応 aromatic electrophilic substitution について学ぶ。この名称から想像できるように、芳香族化合物 のπ電子に対して、求電子剤が攻撃する反応である。π電子と求電子剤の反応としては、 すでにアルケンに対する求電子付加反応について学んだ(有機化学1、第6∼8回)。 今回は、付加反応ではなく置換反応である。なぜそのような違いが現れるのだろうか。 また、具体的な反応としてはどのような例があるのだろうか。 1. ベンゼンは何とどのように反応するか 代表的な芳香族化合物として、ベンゼンの反応を取り上げよう。 そもそも、ベンゼンの「異常な安定性」に注目が集まった一つの要因が、この化合物 が臭素と反応しないことだった。 以前に学んだ通り、通常の二重結合を持つ化合物は、臭素と室温付近で容易に反応し て、付加生成物を与える。これがアルケンに対する求電子付加反応である。 このことから、芳香族化合物は普通のアルケンとは反応パターンが全く違うことがわ かる。 では、芳香族化合物の場合は、どんな反応が起きるのだろうか。ベンゼンと臭素を反 応させるために、いろいろな条件を試してみたところ、FeBr3 を加えると反応が進行す ることがわかった。ただし、得られるのは付加生成物ではなく、ベンゼン環の水素が1 つ臭素に置き換わった置換生成物である。 –1– 名城大学理工学部応用化学科 第18回「芳香族化合物の反応 (1)」 有機化学Ⅱ 講義資料 “cat.” は「触媒」 (catalysis) という意味です。 なぜこのような反応が起きるのだろうか。次のように、順序立てて考えてみることに する。 ・ この反応はどのように始まるのか? ・ どのような中間体を経由するのか? ・ 中間体からどのように生成物へと移行するのか? 2. ベンゼンは求電子攻撃を受ける ベンゼンは6個のπ電子を持っている。これらは、前回見たように大きく安定化を受 けているとはいえ、やはりπ電子であることには変わりはない。従って、アルケンのπ 電子と同じように、求電子剤が近づいて来るとそれに引きつけられる。 引き合う Br2 アルケンの臭素化の機構を思い出すと、Br2 が求電子剤として働く時は、π電子との 反発で Br–Br 結合のσ電子が押しやられて、一方の Br が正に分極するのだった(第8 回講義資料6ページ)。 δ– Br–Br δ+ σ電子が偏る (アルケンの π電子との反発) trans-2-ブテン π電子が Brに向かって ふくらむ ベンゼンと臭素の反応でも同様なのだが、ベンゼンの場合、π電子が芳香族性のため に安定化を受けているので、Br2 に対する「押し」が少し弱い。従って、Br2 の分極を –2– 名城大学理工学部応用化学科 第18回「芳香族化合物の反応 (1)」 有機化学Ⅱ 講義資料 助けるために、反対側から Br–Br 結合のσ電子を引っ張ってやる必要がある。触媒と して加えた FeBr3 が、この役割を果たす。 ローンペアが 流れ込む FeBr3 δ– σ電子が偏る Br2 δ+ Feの空軌道 Brのローンペア FeBr3 は、Fe 原子上に空軌道を持っており、これが Br のローンペアの一つから電子 を受け入れる。このように、空軌道を持ち、それを使って他の物質から電子を受け入れ ることができる物質をルイス酸 Lewis acid と呼ぶ。ルイス酸は、さまざまな有機化学 反応において、反応性を変化させる重要な役割を果たしている。本講義でも、このあと 何度かルイス酸が関与する反応に出会うことになる。 上の反応を巻き矢印を使って書くと、次のようになる。 ① Brのローンペアが ② Br–Brのσ電子 ③ベンゼン環のπ電子が +に分極したBrに向かう FeBr3に引っ張られる が偏る Br Br Fe Br Br Br 反応が進行して行くとどうなるだろうか。FeBr3 と Br の間にσ結合ができて、安定 なアニオン FeBr4–を生成する。Br–Br 結合のσ電子は、FeBr3 と結合する方の Br 原子 に偏り、ローンペアになる。そして、もう一つの Br 原子に向かってベンゼン環のπ電 子がふくらんで行き、C–Br 結合を作る。 ① Fe–Br結合が生成 ② Br上にローンペアが生成 ③ C–Br結合が生成 形式電荷を 忘れずに Br Br H Fe Br 形式電荷を 忘れずに Br Br –3– 名城大学理工学部応用化学科 第18回「芳香族化合物の反応 (1)」 有機化学Ⅱ 講義資料 最終的には、図の一番右に示したカルボカチオンが生成する。これがこの反応の中間 体である。 2. 中間体 ベンゼンの臭素化は、下のような中間体を通ることがわかった。この中間体について、 もう少し詳しく見てみよう。 H Br まず、カルボカチオンが二重結合の隣にあるため、非局在化による安定化が起きる。 巻き矢印で示すと、下のようになる。 H H H Br Br Br 三箇所に正電荷が分散している。正電荷を持つ炭素は1つおきに並ぶことに注意して おこう。この性質は、あとで「配向性」(置換基が環のどの位置に入るか)を考えるこ とに重要になる(次回に学ぶ)。 一方、出発物質であるベンゼンが持っていた芳香族性は、この中間体では失われてい る。前回に学んだ「芳香族化合物は、なるべく芳香族性を保つように反応する」という 原則から考えると、この中間体は好ましい状態ではない。従って、次の段階では、でき るだけ芳香族性を回復するように反応が進行しようとするだろう。 3. 中間体からの2つの経路:求核剤の付加か、プロトンの脱離か 中間体からどのような生成物ができるのだろうか。この時点で反応系中に存在してい るのは、触媒を除けば Br– である。そこで、中間体と Br– の反応を考えよう。 H Br + Br– ? 反応経路は二通り考えられる。一つは、Br– がカチオンに付加する反応、もう一つは、 Br– がカチオンから H+を引き抜く反応である。 –4– 名城大学理工学部応用化学科 第18回「芳香族化合物の反応 (1)」 有機化学Ⅱ 講義資料 H H Br + Br– + Br– H Br Br H Br Br + H Br どちらが優先するかはもうおわかりだろう。Br–が付加した生成物は、芳香族性を持 たないのに対して、H+が引き抜かれた生成物は、ベンゼン環が再生しており、芳香族 性を持つ。芳香族性を持つ生成物の方が圧倒的に安定なので、反応はほぼ完全にこの経 路で進む。 H H Br Br Br 芳香族性=安定、主生成物 非芳香族性=不安定 ポテンシャルエネルギー曲線で図示すると、次のようになる。 H Br + Br– H H Br Br + Br Br Br + H Br 出発物と生成物を比べると、水素原子が臭素原子に置換した構造になっている。この ため、この反応は置換反応に分類される。 –5– 名城大学理工学部応用化学科 第18回「芳香族化合物の反応 (1)」 有機化学Ⅱ 講義資料 Br2 FeBr3 (cat.) Br 芳香族に特有の反応であり、かつ求電子剤の攻撃によって反応が開始されるため、こ の反応を「芳香族求電子置換反応」 (aromatic electrophilic substitution) と呼ぶ。 4. 芳香族求電子置換反応の一般形 芳香族求電子置換反応は、芳香族化合物の最も重要で一般的な反応の一つである。非 常に多くの反応がこの形に分類される。一般形として反応式を書いておこう。E+は求電 子剤 (electrophile) を表す。 ② H ① + H E E+ H E E ③ E + H+ 反応は3つの段階から成る。 ① 芳香環のπ電子が求電子剤に向かって移動する。 ② C–E 結合が生成し、カルボカチオン中間体が得られる。この中間体は、芳香族性 を失っているが、共鳴による安定化を受けている。 ③ カルボカチオン中間体から H+が脱離して、置換生成物が得られる。生成物は、芳 香族性を取り戻す。 以下の芳香族求電子置換反応は、最もよく利用されるものである。これらは必ず記憶 しておこう。 名称 求電子剤 ニトロ化 Friedel–Crafts アルキル化 Friedel–Crafts アシル化 O N O R+ R C O R–X + ルイス酸 R C O X + ルイス酸 生成物 O N O R O C R –6– 名城大学理工学部応用化学科 第18回「芳香族化合物の反応 (1)」 有機化学Ⅱ 講義資料 ハロゲン化 X2 X+ + ルイス酸 X O S OH O O HO S O スルホン化 5. ニトロ化 ベンゼンを濃硫酸・濃硝酸の混合物で処理するとニトロベンゼン nitrobenzene が生 成する。この反応をニトロ化 nitration と呼ぶ。反応機構を考えてみよう。 HNO3 H2SO4 NO2 ニトロベンゼン 求電子剤は何だろうか。環に導入されるのはニトロ基 –NO2 なので、 “NO2+” が求電 子剤と予想される。これをニトロニウムイオン nitronium ion といい、二酸化炭素 CO2 の 炭素原子を窒素原子で置き換えた構造をしている。(電子配置も同じ。従って構造も同 じで、NO2+ は直線型の分子である。) O N O O ニトロニウムイオン C O 二酸化炭素 濃硫酸と濃硝酸の混合物中でどうしてニトロニウムイオンが生成するのだろうか。こ の溶液は強い酸性なので、すべてのローンペアがプロトン化され得る。特に、下のよう に硝酸の OH 基上にプロトン化が起きると、水が脱離して、ニトロニウムイオンが生成 する。 O HO + N O H H+ O O O N H O H O H + N O ニトロニウムイオンによる求電子置換反応の機構は、先に述べた一般式を当てはめて、 下のように書くことができる。 –7– 名城大学理工学部応用化学科 第18回「芳香族化合物の反応 (1)」 有機化学Ⅱ 講義資料 + H O N O O N O O N H O N O O H O N O + H+ 最初は直線状だった O–N–O が、N–C 結合が生成するにつれて折れ曲がって行くこ とに注意する。また、巻き矢印を正しく書くと、ニトロベンゼンのケクレ式も上のよう に自動的に正しく書けることになる。 7. Friedel–Crafts アルキル化反応 フリーデル・クラフツ アルキル化 Friedel–Crafts alkylation は、カルボカチオンが求 電子種として働く芳香族求電子置換反応である。生成物は、アルキルベンゼンである。 Friedel–Crafts アルキル化で用いるカルボカチオンは、上の式のように、ハロゲン化 アルキルに触媒としてルイス酸を加えることで発生させることが多い。反応機構は、下 のように書くことができる。 Cl Al Cl Cl + + CH3 Cl C H CH3 H3C C H H3C Cl Cl Cl Al Cl H3C + C H (カルボカチオンの 生成) H3C CH3 C H + CH3 + H H CH 3 C H CH3 カルボカチオンは、アルコールと酸触媒、あるいはアルケンと酸触媒を作用させても 生成させることができる(第14回、第6回講義資料参照)。これらを利用すれば、下 のような反応も可能である。これも Friedel–Crafts アルキル化と呼ぶ。 –8– 名城大学理工学部応用化学科 第18回「芳香族化合物の反応 (1)」 有機化学Ⅱ 講義資料 OH H3C C CH3 + H CH3 C H CH3 H+ H H3C C CH2 + + H2O CH3 C H CH3 H+ 7. Friedel–Crafts アシル化反応 フリーデル・クラフツ アシル化 Friedel–Crafts acylation は、アシルカチオン acyl cation が求電子種として働く芳香族求電子置換反応である。アシルカチオンとは、末端 にカルボニル基 C=O を持つカルボカチオンのことである。生成物は、芳香族カルボニ ル化合物(通常はケトン)である。 アシルカチオン acyl cation R C O アシルカチオンは、ハロゲン化アシル(普通は塩化アシル)にルイス酸を作用させて 発生させる。極めて反応性の高い求電子種なので、単離することはできない。 O R C Cl X + Cl Al + R C O Cl Cl Al Cl アシルカチオン ハロゲン化アシル (Xはハロゲン、 通常Clを使う) Cl Cl アシルカチオンとベンゼンとの反応は、下のように進行する。 H + O C R R C O O C – H+ R アシルカチオンは、カルボン酸無水物とルイス酸からも生成できる。 O O R C O C Cl R + Cl Al R C O + Cl アシルカチオン カルボン酸無水物 Cl Cl Al O R C Cl O –9– 名城大学理工学部応用化学科 第18回「芳香族化合物の反応 (1)」 有機化学Ⅱ 講義資料 8. ハロゲン化 臭素との反応はすでに学んだ。塩素、ヨウ素を使った反応も同様に進行するが、反応 性がハロゲンの種類によって大きく異なるため、反応条件を慎重に検討する必要がある。 + Cl2 + I2 Cl FeCl3 + HCl I HNO3 + HI 注:上の反応条件を記憶する必要はない。具体的な条件は、実際に合成を行う時に調べればよい。 なお、ヨウ素と硝酸を使ったヨウ素化では、HI が硝酸で酸化されて I2 になるため、I2 の当量は 半分でよい(参考:Dains and Brewster, Org. Synth. 1929, 9, 46)。 9. スルホン化 ベンゼンを発煙硫酸(濃硫酸と SO3 の混合物)で処理すると、ベンゼンスルホン酸 が得られる。 H2SO4 SO3 SO3H 求電子剤は、SO3 がプロトン化された HOSO2+である。反応経路は、ニトロ化の場合 とよく似ている。 O O HO S O + H+ OH O O H O H O H HO S O O S HO + H2O HO S HO S O O – H+ O S O OH ある種の芳香族求電子置換反応は、可逆反応である。スルホン化はその顕著な例であ る。ベンゼンスルホン酸を強い酸性条件で処理すると、スルホン酸基が H で置換され – 10 – 名城大学理工学部応用化学科 第18回「芳香族化合物の反応 (1)」 有機化学Ⅱ 講義資料 た生成物が得られる。 O S O + H H+ OH O O + S HO HO S O O 9. まとめ ・ ベンゼンは求電子剤と反応し、芳香族求電子置換反応を起こす。 ・ 求電子置換反応では、求電子剤が付加したカルボカチオンが反応中間体である。 このカルボカチオンは芳香族性を失っているが、共鳴によるカチオンの非局在化に よって安定化されている。 ・ 反応中間体から H+が脱離して、置換生成物が得られる。このとき、芳香族性が回 復する。 ・ ニトロ化は、ニトロニウムイオン NO2+ による芳香族求電子置換反応である。生 成物は、芳香族ニトロ化合物である。 ・ Friedel–Crafts アルキル化は、カルボカチオンによる芳香族求電子置換反応である。 生成物は、アルキルベンゼン誘導体である。カルボカチオンは、ハロゲン化アルキ ルとルイス酸から生成するか、またはアルコールやアルケンと酸から生成する。 ・ Friedel–Crafts アシル化は、アシルカチオン R–C+=O による芳香族求電子置換反 応である。生成物は、芳香族カルボニル化合物(通常はケトン)である。アシルカ チオンは、ハロゲン化アシルまたはカルボン酸無水物とルイス酸から生成する。 ・ ハロゲン化は、ハロゲン単体とルイス酸を使って X+を求電子剤とする芳香族求電 子置換反応である。生成物は、芳香族ハロゲン化物である。 ・ スルホン化は、硫酸・発煙硫酸の混合物中に存在する HOSO2+を求電子剤とする 芳香族求電子置換反応である。生成物は、芳香族スルホン酸である。スルホン化は 可逆反応である。 – 11 – 名城大学理工学部応用化学科
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