常龍山の 権現さま

唐丹の民話・7 話「片川地区」
常龍山の
権現さま
平成19年12月
唐丹・愛ちゃんネットパソコンクラブ
目 次
―常龍山の権現さま―
唐丹民話の再話著作にあたって・・・・・・・・・・・・・・・・・・2
1.発祥の地は、片岸の「沼の脇」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3
2.大津波にさらわれて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3
3.岬の夜に輝く不思議な光・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4
4.
「的場」の人に拾われて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4
5.悪魔祓いに三頭のそろい舞・・・・・・・・・・・・・・・・・・4~8
6.お里帰りは、霜月の15日(参考)
・・・・・・・・・・・・・・・・・9
(1)御神楽舞(みかぐらまい)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・9
(2)地の森舞(ちのもりまい)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・9
(3)座倶利舞(ねまりくりまい)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・9
(4)立倶利舞(たちくりまい)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・10
(5)矢倉獅子舞(やぐらししまい)
・・・・・・・・・・・・・・・・10
7.天照御祖神社(参考)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・11
(1)御社号・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・11
(2)御神徳・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・11
(3)御由緒・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・11
(4)常龍山の由来・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・12
(5)常龍山大権現の発祥は岩沢権現・・・・・・・・・・・・・・・13
8.明治29年の大津波(参考)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・13
(1)三陸沿岸の村々をのみ込んだ史上最大の大津波・・・・・・・・13
(2)節句の祝いが一転地獄絵・・・・・・・・・・・・・・・・・・14
(3)唐丹村の最大波高は、小白浜の16.7m・・・・・・・・・・14
(4)唐丹村の被害も甚大なり・・・・・・・・・・・・・・・・・・14
1
唐丹民話の再話著作にあたって
唐丹公民館の自主パソコンクラブ(設立:平成17年 6 月/名称:唐丹・愛
ちゃんネットクラブ)では、パソコンによる文章作成を習得した証と民話を伝
承する狙いを含めて民話の再話著作活動を実施しました。
文章作成の教材、釜石民話の会(平成2年発足)の機会紙「釜石民話」を活
用させていただきました。
この釜石民話の中から、唐丹に関り、かつ再話できるものを選び。その根底
にあるものを変えないことを基本に「見やすく」、「読みやすく」、「分かりやす
く」するために小見出しを付け、写真や絵図などを挿入。できるだけ、関連す
る歴史や実話を織り込みながら作成しました。
いつの日か、この冊子が誰かの目に留まり、唐丹にもこんな話があったのか
と唐丹の「いにしえ」に想いをはせる一助になれば幸いと思います。
おわりに、この活用させていただいている民話は、釜石民話の会会員でありま
した唐丹町片岸の加藤ムツさんが採録(聴き取り)したものであり、第1集か
ら第6集に掲載の民話の数は92編を数えます。
加藤ムツさんの民話を伝承したいという、この熱意と努力に敬意を表するとと
もに、故人となられました加藤ムツさんのご冥福をお祈り申しあげます。
なお、この物語の「常龍山の権現さま」は、釜石民話第4集「権現さまの話」
を再話著作したもので、その釜石民話第4集「権現さまの話」の原文は次のと
おりです。
天照御祖神社には権現様は3頭おります。一つは荒川の熊野神社のものと、
片岸の岩沢氏先祖の喜助と云う人が健康を願って上げたものと、また、小白浜
の小野良介氏と木村子子松氏の寄進によるものです。
明治29年に大津波があり3頭の中の1頭が波に攫われて、村民総出で浜中
探しましたが中々見つからず困っておりました。大石の金島と云う小さい島で
夜になると煌煌と輝くものがあり、はて何だろうと皆不思議に思い船を出して
行ってみると流された観音様の目が光っていたのでした。それを拾って届けて
くれた家が大石の屋号的場と云う家なのです。
唐丹はもともと伊達藩に属しており4年目毎の大名行列の大祭があります。
其の時は必ず大祭の始まる前に的場さんにお礼参りしてから出立すると云うこ
とです。
権現様の舞踊りは大船渡の地の森師匠2名を招き夜も昼も習い本郷までお踊
って行くのです。笛太鼓でお囃子と賑々しく評判がよろしいと云うことです。
岩沢清司氏の話 92歳
2
常龍山の権現さま
1.発祥の地は、片岸の「沼の脇」
昔々、平安時代(寛治5年)片岸の沼の脇(屋号=岩沢家)に、岩沢権現が
開山され、赤の獅子頭を祀り、大津波や凶作、悪疫が流行るときには、「権
現さま」を舞おどり危難払いをしていました。
その後の桃山時代(元和 4 年)に、この「権現様」が常龍山天照御祖神社
にうつされ奉られました。
沼の脇周辺
↓
(沼の脇・片岸の遠景/昭和9年3月)
2.大津波にさらわれて
今、常龍山天照御祖神社に、
みかしら
三頭祀られている権現さま
の一頭は、荒川の熊野神社
から移されたもの。もう一
頭は、片岸の岩沢家先祖の
喜助さんという人が、健康
を願ってあげた(寄進)も
の。三頭目は、小白浜 の小
ね ね
野寺良介さんと、木村子子
松さんが、あげたものです。
(常龍山権現御神楽)
この三頭のうちの一頭が、
明治29年の端午節句におし
よせた大津波。その波にさら
われてしまいました。
(明治29年津波の図)
3
3.岬の夜に輝く不思議な光り
村の人達が総出で、何回となく浜中をくまなく捜しましたが、みつから
ないので困ってしまいました。
しばらくして、大石の金島
こうこう
あたりで、夜になると煌々と
輝くものがあるという噂が、
どこからともなく人々の間に
広がりました。
みんなが、「なんだろう」、
←金島
「なんだろう」と言い合って
不思議がっていましたが、噂
をするだけでした。
(金島・松島・蒜島の近景手前より)
4.
「的場」の人に拾われて
ある日の夜、大石の「的
場」・(屋号)の人が、船を
漕ぎ出し不思議な光り出る
金島の方に行って見て、び
っくりしました。
なんとそれは、波にさら
われた権現さまが金島に
流れつき、その目が光っ
ていたからです‥‥。
(金島の遠景)
「的場」の人は、早速、その権現さまを拾い上げ、洗い清めて神社に届
けました。
それで、今でも権現さまが三頭、津波前のように揃っているということ
です。
5.悪魔祓いに三頭そろい舞
みたましろ
ほうせん
天照御祖神社には、3年に一度、御霊代を御神輿に奉遷(神体などを他の
場所に移すこと)して氏子の生活や家々を視察するため、本郷の御旅所まで
ごじゅんこう と ぎょ
御巡幸渡御(神が方々を巡りあるくこと)する式年大祭があります。
4
(御輿渡御のハイライト・ギレ回る神輿)
権現様も、この大祭に参列して、神々の守護役として舞い踊ります。
その時は、大祭が始まる前に、必ず「的場」さんに、お礼の挨拶をしてか
ら出立します。
(常龍山御神楽)
(本郷:御徒・杖供・杖引組)
唐丹は、もともと伊達藩に属していて、当時、本郷の番所に駐屯してい
た藩士より、参勤交代の大名行列形式を竹刀や
棒切れや竹竿などを利用して、教えられていま
した。
大祭の時には、神々の警固のため藩士より教
えられた、10石の格式の大名行列で、本郷は
おかち
じょうとも
つえひき
御徒組・ 杖 供組・杖引組・御鷹匠。
(本郷:御鷹匠)
5
小白浜の御道具組。山谷の鉄砲組。荒川の御並槍組。大石の御弓組が侍
の姿でお供します。
(小白浜:御道具組)
(山谷:鉄砲組)
(荒川:御槍組)
(大石:御弓組)
神々を楽しませるための手踊り、道々の悪魔払いのため小白浜の大神楽、
本郷の伊勢神楽、小白浜や大石の虎舞、熊野権現や常龍山御神楽も三頭で
舞い踊りながらお供します。
(小白浜:手踊り)
(小白浜:太神楽)
6
(本郷:伊勢神楽)
(荒川:熊野権現御神楽)
(本郷:桜舞太鼓)
(本郷:手踊り)
(花露辺:手踊り)
(花露辺:荒神太鼓)
(大石:虎舞)
(小白浜:虎舞)
7
これらの格式ある大名行列と笛や太鼓で舞踊る神楽や虎舞や手おどりの
賬やかさは、「釜石さくら祭り」として、「本郷の桜並木」と共にこの地方
の名物として有名です。
(本郷の桜並木・平成18年4月)
物語は、おしまい
8
6.お里帰りは、霜月の15日(参考)
例年霜月の15日には、天照御祖神社の祭日で、
「お塩取り」といい、片
岸海岸に行き海の神に神楽を奉納、権現さま発祥の地岩沢家にお里帰りし
て朝食をとり、社殿にかえります。
また、例年小正月の15日は、「権現まわし」といい、厄除けの
ため神楽は家々をまわり「門打ち」します。
その神楽舞の型は、つぎのようなものがあります。
(1)御神楽舞(みかぐらまい)
御神楽は、祭典では御輿の前に列
なり、常に神々が出ずるところに守
護役として、権現舞があり寵愛され
ています。
また、人間もこれを愛重しなけれ
ばならないものと信じており、道々
の悪魔払いを表したものです。
(2)地の守舞(ちのもりまい)
御神楽の力強い姿は、どんな悪魔
も降伏せずには、おられないという
神の威容を示した姿を舞にしたも
のです。
(3)座倶利舞(ねまりくりまい)
神の守護役のひととき、小春日
和に遊び戯れあう御獅子の姿を舞
いの型にしたもので、激しく鳴る
太鼓の響きに立ち上がり、勇壮な
舞いは山野に生息する獅子の如く
に表したものです。
9
(4)立倶利舞(たちくりまい)
三頭の御獅子が右に左に向きを
変えながら、人々の迷える夢を振
り払い、子々孫々に至るまで強く、
野山を駆けめぐる獅子の如く、生
きる姿を舞いに表したものです。
(5)矢倉獅子舞(やぐらししまい)
五穀豊穣、大漁祈願の神が、社殿入
りの道々を御獅子が悪魔を退散させ、
生きる力を与えてくれる生活をなぞら
えて、その姿を舞いに表したものです。
6の(参考)の項
10
おしまい
7.天照御祖神社
(1)御社号
(参考)
じょうりゅうのやまおおかみのみや
常 龍 山 大 神 宮 天照御祖神社といい、祭神の主神は天照大御神で
天津神地津祇八百萬神々が合祀されています。
あ ま つ か み く に つ か み やおよろずのかみがみ
(常龍山大神宮天照御祖神社)
(2)御神徳
天照大御神は、天地万物を照らし天地万物は、その神威により生を授ら
せいせい
れ、国土国民一切生業の守護神として、地上のあらゆるものの生々(おい
かいく
立ち育ってゆくさま)化育(天地自然が万物を生じ育てること)発展充実を、理
とく
想へと導かせたまう徳(身についた品性など)をそなえられています。
(3)御由緒
ちんご
天照御祖神社は、古くからこの地方の開発、鎮護(乱をしずめて外敵・災
難からまもること)の総守護神としてあが
(一の鳥居)
められています。
天照御祖神社が鎮座する聖なる丘常龍
山は、太古より神々の鎮まり座す丘、御
山と尊ばれ、山上の古大木跡は神々の
ひょうい
ひもろぎ
憑依(のりうつる)する神籬(神霊が降臨
かんじょうぼく
する聖城)
、神霊のやどるしるし 勧 請 木
(神の来臨を願う)で、その周辺も含め
まつりにわ
特別な祈願を籠めた 祭 場 でありました。
11
いわくら
したがって、太古には、神殿がなく、神籬としての大木と磐座に神々を
古代の祀りをする形の信仰でした。
ゆにわ
みたらしがわ
古代祭祀の斎庭の、この御山を参拝する者は、お手洗川(現片岸川は、む
けっさい
かしは大鳥居のすぐ前を流れていた)にて潔斎し、手を洗い登ったのです。
(4)常龍山の由来
常龍山碑(天文学者葛西昌丕書)によるとそれは、いまから約1170余
せいい
年以前(大同2年・平安時代前期)、征夷(東方の未開人討伐)大将軍坂上田村
え ぞ
麻呂が蝦夷(関東以北に住んでいた先住族)軍の総
た も の きみ
師大蟇王をほろぼし、その残党である常龍鬼(鬼
とは、大和軍が敵対する強い大将に名付けた言葉で、常
龍鬼とは、真の蝦夷の大将であった)を唐丹のむらで
討ちたおしたのでした。
ところが、この霊は、
怨 霊 (うらみをはらそうと)
として、あらびたため、霊
を慰めしずめることを祈っ
て、山上の一角に小さなお
おんりょう
堂を建て、十一面観音像を
祀りました。
(常龍山碑)
そして、天照大御神をはじめ天津神地津祇と共に
あわせ祀り、山号を常龍山としました。
しゅうごう
この堂を建たことにより、神仏 習 合 (宗教の教え
の内容のいいところを取り合わせる)の信仰となり、神
社に付属する当寺として常龍山光学寺の成り立ちも
後にありました。が、
(福壽庵・十一面観音)
せいそう
その後いく星霜(年月・星は一年で天を回り、霜は年ごとに降るから)を経て寺
は荒廃(荒れて廃れ)しました。
こんこう
明治2年、政府は神仏混淆(入り混じること)を禁じたために、十一面観
ふくじゅあん
音像は本郷の福壽庵に移し祀ることにしました。
じゅんしんとう
そして、修験を廃して純 神 道 となり、社号を天照御祖神社として明治5
年村社となりました。
12
(5)常龍山大権現の発祥は岩沢権現
そのなかで、現別当河東家世代書によれば、片岸生、岩沢権現別当開山
岩本坊、沼の脇にて院跡住職之方、寛治(平安時代)5年より始まる。6
年より別当住職仕、保安(平安時代)4年7月19日死。とあり、かなり
太古からつづいています。
元和4年(桃山時代)に
は、この山の下の片岸部
落、沼の脇(屋号=岩沢家)
で祀っていた岩沢権現の
獅子頭が常龍山に移管奉
納されました。
この獅子頭を山の上に
移し安置して、常龍山大
権現と尊ばれ権現神楽が
舞われるようになりまし
た。
(寛文12年は沼の脇から移管44年後となり、現在、最古の常龍山権現二頭)
以上の(参考)の項は、天照御祖神社社務所発行文書及び釜石市誌唐丹
小史・天照御祖神社と祭典並びに第18回釜石市郷土芸能・常龍山御神楽
/片川町内会編より一部抜枠編集しました。
8.明治29年の大津波(参考)
(1)―三陸沿岸の村々をのみ込んだ史上最大の大津波―
6 月15日午後 7 時32分、三陸沖200kmの地点を震源とするマグ
ニチュード7.6の地震が発生したが、距離が遠かったことから三陸沿岸
はじめとして、それほど揺れも感じず、地震の被害もなった。
ところが地震から約 40 分後、北海道から宮城県牡鹿半島にかけての海
岸に津波が襲来。とりわけ三陸沿岸一帯には、突如轟音とともに猛烈な津
波が押し寄せ、日本では史上最大の津波被害をひきおこした。
波高は2mから24m以上に達し、岩手・宮城・青森の3県の死者は 2
万余りにのぼり、1 万戸もの家屋が倒壊または流失した。
この津波は、小笠原諸島やハワイなどにも到達したと記録されている。
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(2)―節句の祝いがー転地獄絵図に―
この日は、旧暦の端午の節句にあたり、春からの豊漁つづきもあって、多
だんらん
くの家庭では祝いの団欒の最中であった。
さらに前の年に終わった日清戦
がいせん
争から帰還した兵士の凱旋祝いを
していた家もあったという。
そこに突如襲った山のような津
波は、そうした団欒を一瞬のうち
に地獄絵図に変え、人々は逃れる
暇もなく、住家もろとも闇夜の海
にのみ込まれてしまったのである。
(明治29年津波被害の図)
(3)―唐丹村の最大被害は、小白浜の16.7m―
本郷14.0、花露辺13.8、荒川13.0、大石12.5mとかなり
の波の高さである。
(4)―唐丹村の被害も甚大なり―
項 目→
部落名↓
流失戸数
現在戸数
34
32
2
205
63
郷
165
164
1
726
79
小 白 浜
113
102
11
460
164
片岸川目
24
15
9
81
55
山
谷
15
0
15
0
?
荒
川
30
17
13
122
45
大
石
50
1
49
1
?
430
332
98
花 呂 辺
本
計
総 戸 数
全人口
2807
死亡数
1585
現在人口
?
以上(5)の(参考)は「本郷津波検証の集い」より
7の(参考)の項
おしまい
全ておしまい
14
◎釜石の民話・第4集:権現様の話
○話 し 手:岩沢清司さん/片岸(平成2年頃・92歳)
○聴 き 手:加藤ムツさん/片岸
●再 話 著 者:中山志恵/小白浜地区(唐丹・愛ちゃんネットパソコンクラブ)
●写真撮影者:新沼裕・中山志恵(切り絵含む)
●校正指導者:新沼 裕/本 郷地区(唐丹・愛ちゃんネットパソコンクラブ)
●再 話 完 成:平成19年12月
15